ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察 : 2楽章制ピアノソナタの比較から
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(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第60巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.60,No.1. 平成21年8月 August,2009. ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察 −2楽章制ピアノソナタの比較から−. 深 井 尚 子 北海道教育大学岩見沢聴 音楽ピアノ研究室. DieInterpretationenzuBeethoven’sSpatwerk −GegentiberstellungvonBeethovenszweisatzlgenKlaviersonatenOp.111undOp.78,Op.90−. FUKAI Shoko. DepertmentofMusic,Piano.IwamizawaCampus,HokkaidoUnversityofEducation. 概 要 本論文は,ベートーヴェンの最後のピアノソナタ作品111が2楽章制で作曲されたことに焦点をあて,ベー トーヴェンが最後のピアノソナタに2楽章制を採用した意義を検証したものである。作品111が2楽章制で 作曲されたことについては,多くの音楽学者や演奏家が賛否を述べている。しかし,そのことは作品111の みの検証では不十分であり,作曲年代をさかのぼって,他の2楽章制ソナタを分析した。その結果,それら の2楽章制ピアノソナタには,明確に類似性が認められ,作品111が2楽章制で作曲された意義を見出すこ とができた。ベートーヴェンの後期作品群には,新しい様式といわれるさまざまな特徴があらわれ,そのこ とが晩年のベートーヴェンの音楽を形成しており,その内容は,ロマン派の音楽家に大きな影響を与えた。. それらの特徴の萌芽が,すでに1809年ころから現われていることも発見された。これらの分析と検証によっ て難解といわれるベートーヴェンの後期作品群の演奏解釈の一つの可能性を示した。. 序 論 本論は,ベートーヴェン(LudwigvanBeeth−. うものである。 ベートーヴェンの最後のピアノソナタ作品111 については,今まで,多くの音楽学者やピアニス. 0Ven1770∼1827)の最晩年に善かれた最後のピ. ト(註1)によって,2楽章制の意味について研究. アノソナタ作品111が,非常にシンプルな2楽章. が進められてきた。その中で,20世紀初頭までの. 制で作曲されたことに焦点をあて,ベートーヴェ. 何人かの音楽学者は,このソナタが2楽章制であ. ンの後期作品群の特徴を他の2楽章制のピアノソ. ることへの疑問を碇示し,一方,多くのピアニス. ナタとの比較,検証によって明らかにしようとい. トたちが演奏実践による分析から,2楽章制の正.
(3) 深 井 尚 子. 当性を主張してきたという経緯がある。筆者は,. があるためである。. 演奏家の立場から,演奏実践を通して作品111の 研究を進めてきたが,ベートーヴェンがこの作品 以前に2楽章制で書いた楽曲を再検証すること で,最終的に晩年の作曲技法が凝縮されているピ アノソナタ作品111に至った理由を明らかにする ことができた。. ベートーヴェンのピアノソナタは,ボン時代の. 第1幸 作晶111(柑22年作曲)から見たベー トーヴェンの後期作品群の特徴の考察 この章では,ベートーヴェンの後期作品群の特 徴を提示し,ピアノソナタ作品111の中に見出さ れるその特徴の再検討行なう。後期作品群の特徴. 選帝侯ソナタを除くと,32曲存在するが,その中. といわれているさまざまな作風を作品111から見. で2楽章制をとっている楽曲は作品111を含め4. 出し,その特徴が後期になって新たに現われたも. 曲である。一つは,いわゆる,最も劇的でベートー. のではなく,第2章で述べる,他の2楽章制ソナ. ヴェンらしい作風といわれている,中期の傑作群. タからも見出せることを示す。. の中に位置する作品54,あとの2曲は,作品78「テ レーゼ」,作品90である。この2曲は,ベートーヴェ. ンが後期作品群へ向かおうとする中期と後期を挟 む過渡期に作曲されている。ベートーヴェンは,. 第1節 ベートーヴェンの後期作品群の特徴と作 品111の関係の考察. ベートーヴェンの後期作品群の特徴は,以下の. 1804年に作品57「熱情」を作曲した後4年間,ピ. ようである。. アノソナタを作曲をせず,その後,1809年に作品. 1.形式の自由化. 78「テレーゼ」を2楽章制で書いている。その後,. 2.対位法への傾倒. ソナチネのような小規模なソナタ,作品79,さら. 3.跳躍の際の音域の拡大. にべー. トーヴュンの唯一の標題音楽といってもよ. 4.変奏曲への傾倒. い,作品81a「告別」を挟み,1814年に再度の4. 5.不協和音の多用(2度音程の衝突など). 年間の空自のあと作品90を2楽章制で作曲してい. 6.ソナタ形式における主題の取り扱いの変化. る。その後は,後期作品群として作風が移行し,. 7.半音階的和声進行の多用. 途中,2楽章制とは対照的で,長大な作品106「ハ. 8.演奏技術的考察の希薄性. ンマークラヴイーア」(Hammerklavier)が現れ るが,最終的には,2楽章制のシンプルな楽章構 成による作品111に至るのである。 このように,最後のソナタからさかのぼって,. 特に,作品78「テレーゼ」と作品90を作品111と 比較することで,晩年のベートーヴェンの作品の. 作品111には,上記の特徴がほとんどすべて盛 り込まれており,まさにベートーヴェンの後期作 品の特徴を備えている。. 1.形式の自由化は,すでに作品13「悲憤」 (Pathetique)にも現われているように,長い導. 特徴を再検討し,難解といわれるベートーヴェン. 入部(譜例1)が見出される。初期のソナタにもこ. の後期作品群の演奏解釈を行なう際の理解を深め. の特徴がすでに現われており,最後のソナタにも. る。. その形式を採用したことは,後期作品の特徴は,. 本論では,広い意味での後期作品群すべての考. すでに,初期の段階でベートーヴェンがこのよう. 察は,あえて行なわない。最後のピアノソナタ以. な作風を見出していたことになり,後期作品群の. 降,ベートーヴェンは,デイアベッリ変奏曲や,. 特徴は,今までの作風の集大成でもあると考えら. たくさんの室内楽曲,ミサソレムニスなどを書い. れる。作品13も,作品111も同じハ短調というこ. ているが,本論でそれらの考察を含めることは,. とも象徴的である。その他にも,作品78「テレー. 検証の幅が広範囲になり,明確とならない可能性. ゼ」も,短い導入部(譜例2). を持っており,この.
(4) ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察. ようにベートーヴェンは,導入部のついたピアノ. とする楽曲である。ピアノ演奏家たちは,作品111. ソナタを3つ書いている。. を多様な解釈で演奏してきたが,その表現は演奏. 第一楽章の第1主題は,ソナタ形式の定型どおり,. 家によって大きく異なっている。(註3)それは,. 男性的で力強いものだが,そのテーマに入る前に,. 本章で述べているベートーヴェンの後期作品群の. 何度も動機を強調している。(譜例3). 多様な新しい作風から,新しい解釈が可能である. 他にも全体. が自由な発想を持っており,各構成部の規模が多. ということに繋がり,それは,この楽曲の自由性. 様である。この点は,作品90にその特徴を見出す. ということにも結びついているものと思われる。. ことができる。. 第2主題は,大変短く旋律の性格もきわめてエピ. 第2節 2楽章制のピアノソナタの意義の考察. ソード的である。(譜例4)ここにも,形式の自由. ベートーヴェンは,彼の生涯にボン時代の選帝. 性を見出すことができる。. 侯ソナタを除く32曲のピアノソナタを作曲した中. 2.対位法への傾倒も,第一楽章に顕著に現われ. で,作品54,作品78,作品90,作品111の4曲の. るが,(譜例5) この特徴も,初期のソナタ,作品10. 2楽章制ソナタを残している。これらの4曲の作. −2にすでに現われている。対位法的な作風は,. 曲年代とベートーヴェンの作品区分は,以下のよ. 他のピアノソナタにも散見され,特に後期ソナタ. うである。. (註2). には,ほぼすべての楽曲に対位法が出現し. 備 考 年代 作品番号 作曲年 作品時代区分. ている。3.跳躍の際の音域の拡大と8.演奏技 術的考察の希薄性は,結びついており,第一楽章 には,4オクターブ半に及ぶ跳躍(譜例6). 中期の代表作,熱情. が見ら. 1804 中期. 54. にはさまれている。. れ,第二楽章にも第三変奏に音域の拡大が見られ 78. る。4.変奏曲への傾倒も,作品111の第二楽章 が典型的な変奏曲として現われる。この変奏曲は, 16/ト節の二部形式に5つの変奏がついた,厳格な. 形式ヴァリエーションと見ることができる. とワルトシュタイン. 「テレーゼ」. 1809. 1814. 90. 中期と後期の 過渡期 中期と後期の. 寡作といわれる時期. ウィーン会議開催中. 過渡期. 。しか. し,自由性という観点からこの楽章を検証すると,. 111. 1821/. 最後のピアノソナタ. 1822 後期. 拍子の変換が多く,その変換も9/16や12/32な ど複雑な拍子を採用し,運動性を拍子によって変. このように2楽章制のソナタは,中期以降に集. 化させている。さらに,主題も旋律と和声の両方. 中して善かれている。作品54は,ベートーヴェン. を基礎にしており,拍子の変化によって,旋律も. の中期の最もベートーヴェンらしい力強さを持っ. 主題から自由になっていく。この第二楽章は,そ. た楽曲の間に挟まれ,ベートーヴェンの時代区分. れらの赦密な数学的分析により,第3変奏までは,. の中でも特異な作品とされ,演奏される機会も少. 音楽が律動を増し高揚していくが,第4変奏から. ない。しかし,第2章で詳しく検証する作品78に. は動きが静止する方向になり,最終変奏では,長. 作風がよく似ており,作品111から,時代を逆に. いトリルによって静寂さが増し,最後は動きが止. 検討をしていくと,作品111の先駆けとなる最初. まって行く。このように,変奏曲への傾倒という. の楽曲は,この作品54に見ることができる。. 特徴の中に,自由性も兼ね備えていることがわか る。. ベートーヴェンの最後のピアノソナタ作品111. その同時期に,作品54とは音楽的に対照的な作 品57「熱情」が作曲されるが,その後5年の空白 を経て作品78が作曲される。ベートーヴェン中期,. は,上記のように後期作品群の特徴をすべて備て. 傑作の森と呼ばれる作風の終焉の直後に作曲され. おり,それ故,高度な演奏解釈と演奏技術を必要. た作品78「テレーゼ」は,後期作品群の特徴をす.
(5) 深 井 尚 子. でに備えており,この作品を境にして,ベートー. トーヴュン自身が「ロマン派」に分類されるわけ. ヴェンの作風には顕著な変化が現われる。. ではないにしても,しかし,その昔は「ロマン派. その変化は,第1節で述べた後期作品群の特徴 が現われ始めることと,2楽章制という,楽曲の. 的な音」に変わったのである。』. このように,ロマン派の先駆けともいわれる後. サイズの縮小化である。作品78「テレーゼ」は,. 期作品群の特徴は,1804年の作品54からその特徴. 作品54に続き,2楽章制であり,縮小化の傾向が. の片鱗が現われ,作品78「テレーゼ」によって,. 明確に読み取れる。さらに作品78の調性は,当時. 嬰ヘ長調という当時は稀な複雑な調性を使用する. では稀な嬰ヘ長調で,このような複雑な調はロマ. ことで,古典派の終焉とロマン派の先駆けを見る. ン派以降に見られるもので,シューマン. ことができる。. (RobertSchumann1810∼1856)のロマンツェ (Romanze),ショパン(Fr6d6rikChopin1810. 次に現われる2楽章制のソナタは,作品90であ る。この作品も,作品78と同様に,前の作品から. ∼1849)の舟歌などに使用されており,この点に. 4年の沈黙のあとに善かれた。ベートーヴェンは,. おいてもベートーヴェンの作風の新しさが見られ. 明確にロマン派の傾向を作品78に示した後,1809. る。興味深いのは,テレーゼと同じ年に善かれた. 年から1810年に2つのピアノソナタを作曲する。. 作品79「優しいソナタ」ト長調も,ベートーヴェ. これは,先にも述べた作品79と作品81a「告別」. ンの初期の作品に戻ったような楽曲で,縮小化,. である。作品79にも縮小化という2楽章制への方. または,単純で親しみやすく,静かな音楽の方向. 向性を見出したが,作品81a「告別」は,後期作. に向かっていることである。これらのベートー. 品群の特徴とはまた異なった新しい試みがなされ. ヴェンの作風の変化については,多くの音楽学者. る。この曲は,ベートーヴェンのピアノソナタの. によっても語られている。. 中でただ1つの「標題音楽」である。この楽曲は,. 諸井三郎(もろい さぶろう1903∼1977)は, 次のように書いている。(註4). 2楽章制ではないが,短い導入部のあとに,ソナ タ形式が現われるという点では,作品78,作品111. 『少なくとも彼は,激しく力強い力性の追求と,. に共通している。作品81a作曲のあと,ベートー. 偉大な建築性の探求とに飽和し,もっと平易なも. ヴェンには,再び4年の沈黙が現われるが,その. の,もっと身近なもの,もっと安らかなものを求. 沈黙の後に作品90が作曲された。このように,作. め始めたのである。』. 品54から作品90に至る経緯を検討してみると,. 伊藤義雄も,作品57以降4年の空白を経て善か. ベートーヴェンは,2楽章制という縮小化される. れた作品78カミ作曲された経緯と1809年のベートー. シンプルな楽章構成への段階的な方向性が見えて. ヴェンの変化について以下のように書いてい. くる。作品90は,作品78とは対照的で,第一楽章. る。. (註5). は,男性的で力強く,第二楽章は,女性的で優し. 『この沈黙によって彼の作風は第2の転換期に 入り,(中略)ここで,彼はこれまでとまったく. い。この構成は,作品111に類似しており,作品111 の先駆けとなる作品である。. 異なる浪漫ふうの新しい息吹を創りだした。』. カール・ダールハウス(CarlDahlhaus1928∼. このように,2楽章制という観点で1809年から. 1989)は,ベートーヴェンの晩年の様式をロマン. の後期作品群に移行する過渡期に当たる作品を検. 派的な音を用いていることに言及し以下のよう述. 討することで,最後のソナタ作品111が2楽章制. べている。. で善かれた意義を見つけ出すことができる。次章. (註6). 『『ピアノソナタ』作品七人や作品九○におい て「新しい音」をとったということ,しかもシュー. ベルトがこの音を採用することによって,ベー. ではさらに詳しく2楽章制のソナタを分析し,作 品111の演奏解釈の方向性を見川す∩.
(6) ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察. 第2章 2楽章制のピアノソナタの分析 第1章において,作品111が2楽章制で善かれ. ムを変えて現われるということで,この点もロマ ン汎 特にシューベルト(FranzSchubert1797 ∼1828)の音楽に影響していると思われる。第2. たことの必然性の意義を検証した。第2章では,. 主題は,2/ト節という動機とも言えるほどの短さ. 作品111の先駆けとなった2楽章制のピアノソナ. であり,リズムによっての音型の変化のみで大き. タを分析し,第1章で述べた2楽章制のソナタが,. な力性の発展や建築的立体性は見られない。第一. ベートーヴェンにとってどのような意味を持った. 楽章は,小規模で縮小化の傾向を顕著に見ること. のか,作品111との関連性を比較検討しながら考. ができる。 第二楽章は,一般的には,近親調で善かれてい. 察する。. ることが多いが,作品78は,第二楽章も同じ調性 第1節 作品78「テレーゼ」. で善かれている。このことは,調性的変化をさせ. 1809年は,ベートーヴェンが寡作期に入る少し. ず,リズムや楽曲の雰囲気のみで曲想を変えると. 前の時期であり,ピアノ協奏曲第5番など主要な. いう意味を持っている。そのため,この第二楽章. 作品も善かれているが,前章でも述べたように,. は,きわめて気まぐれ的な即興性がある。ベートー. この作品78「テレーゼ」は,ソナタ形式の自由性. ヴェンはこのタイプの楽章を今までもいくつか書. という特徴を持ち,「新しい様式」(註7)の先駆け. いており,作品31−2「テンペスト」の第三楽章,. といえる作品である。この「新しい様式」は,後. 作品31−3の第四楽章などにすでに見ることがで. 期作品群への過渡期に現われた特徴であり,ロマ. きる。作品31は,ベートーヴェンが,自ら「新し. ン派の音楽に大きな影響を与えた。これを以下に. い道を行く」(註8)と宣言した際に現われた形式. 詳しく分析する。. である。この作品78も前述したように後期作品群. まず,この曲の調性は嬰ヘ短調で,当時は大変,. に向かう前の「新しい様式」と多くの音楽学者が. 稀だった複雑な調性である。このことは,ピアノ. 指摘しているが,ベートーヴェンの作風の変化が. の黒鍵を多用することになり演奏技術的にも注意. 見られるときに現われる形式であると推察され. が必要であり,力強い打鍵がし難い。調性は複雑. る。作品78の第二楽章は,全149/ト節で構成され. であるが,楽曲全体は優しく美しい旋律性に満ち. ているが,4つの部分に分けられる。その内容は,. たものである。. 第1部の31/ト節の中に,この楽章すべての要素が. 次に楽曲の構成が極めて小規模であることと, かなり自由な発想を持って善かれていることにつ いて考察する。導入部. (第1章第1節譜例3参照)は,. 含まれている。その素材は3つ(譜例8abc) それらがこの楽章すべてにおいて展開されてい る。このような形式は,大変特殊なものである。. 主音嬰ヘ音の持続低音上に作られているが,その. しかし,この楽章は,めまぐるしい動きはあるが,. 後の主題との関連性は見出せない。第一楽章は全. 力強さや発展性に欠け,一方では旋律性が見られ. 体が106/ト節しかない小規模なもので,3つの部. る。. 分に分けられる。第1部は提示部といえるが,そ の中で第2主題やその終止部は,はわずか2/ト節. このように作品78の特徴は以下の3点が挙げら れる。. であり,第2部は展開部にあたるが,その部分は. 1.形式の自由性. 1糾、節である。第3部は,第1部とほとんど変わ. 2.楽曲の縮小化. らず,特に構成上大きな変化は現われない。この. 3.旋律性の増大. 第一楽章の分析の中で注目されるのは,第1主題 の8小節(譜例7). が極めてめずらしい方法で善か. れていることである。それは各動機がすべてリズ. 第2節 作品90 作品90は,前の作品81a「告別」から4年の空. ぁり,.
(7) 深 井 尚 子. 自の後,1814年に作曲された。この空白期間は,. 短調で開始されるが,下声部の10度のアルベル. ベートーヴェンの生涯の中で寡作期とも呼ばれ,. ティバスは,技術的跳躍が大きく,不自然で演奏. この寡作期は,1815年までとされている。この時. が困難である。しかし,上声部はきわめて旋律的. 期のウィーンは,ナポレオンによるヨーロッパ侵. で後期の特徴が見られる。基本的な構成は,新し. 略後の混乱期にあたり,ベートーヴェンはすでに. い様式とはいえないが,第一楽章を通して全てが. 当時,高名なな作曲家として全ヨーロッパに知ら. 旋律性に富んでいることが大きな特徴となってい. れていた。(註9). る。. この時期のベートーヴェンは,彼の音楽が政治. 第二楽章は,形式的にはロンドソナタ形式のよ. 的に利用された時期であり,他にも「不滅の恋人」. うに見えるが,全体を通して,ここでも優美な旋. との恋愛問題も進行しており,親族間題でも訴訟. 律が支配している楽章である。ソナタの終楽章と. を起こすなど,私生活において心の落ち着きがも. しては,非常に稀な形式で,ここにもベートーヴェ. てなかった時期といわれている。そのような理由. ンの形式の自由性を見出すことができる。ロンド. から,ベートーヴェンの創作意欲が減少し,寡作. ソナタ形式ととらえる理由は,2つの主題を持つ. になったという説もある。作品90は,後期作品群. ことである。しかし,一般的にロンドソナタ形式. に向かう過渡期の最後に善かれた曲で,同時期に. は3つの部分に分けられるが,この第二楽章は,. 善かれた作品は,芸術的に低く見られている楽曲. 中間部が独立していないため全体を3つの部分に. が多く,その代表的な楽曲に“ウェリントンの勝. 分けることができない。このように第二楽章は,. 利’’などがある。そのような環境の中で,ベートー. ロンドソナタ形式をとりながらも,優美な旋律に. ヴェンは,2楽章制の作品90を作曲した。この曲. 支配された自由な作風で善かれており,その旋律. は,作品111に類似し,その先駆となっている。. は,シューベルトを思わせるロマン的なものであ. 作品90は,第1節で分析した作品78とは,音楽的. る。パウル・バドゥラ=スコダは,次のように書. な傾向が異なり,明確に「暗と明」との対照になっ. いている。(註11)「初めてこのソナタを聴いたとき,. ている。作品90は,作品78よりもより多くの点で. わたしは,これはシューベルトの作品にちがいな. 作品111との類似点が発見される。調性を調べる. いと思った。」このようにこの楽章も後期作品群. と,第一楽章がホ短調,第二楽章が同主調のホ長. の特徴を備えていることが確認された。. 調であり,作品111も,第一楽章をハ短調,第二. さらに,この作品90には,発想標語がドイツ語. 楽章を,同様に同主調のハ長調で書いている。. のみで善かれている。この作品以降,ベートーヴェ. しかし,作品90は,2つの楽章ともたいへん旋律. ンは,しばしばドイツ語のみで発想標語を書くの. 性が強く,女性的な主題を持つという観点からも. であるが,このことは作品90において初めて行な. 後期作品群の特徴を備えている。第一楽章は,多. われた。ロマン派以降の作曲家は,自国語での発. くの音楽学者や演奏家(註10)が,. 「諦観的感覚」を. 想標語を使用することはめずらしくないが,その. 感じており,その音楽性は,はっきりと古典派後. 先駆けとしてこの作品90をとらえることもでき. 期,またはロマン派に向かう方向性を示している。. る。. 諦観性を感じる部分は,語例9,語例10に示した。. このように作品90は,ロマン派の先駆けとして,. (譜例9,譜例10). 第1主題提示部は,古典的な三部. 以卜のような特徴を備えている。. 形式である。しかし,構成に均衡が取れておらず,. 1.形式の自由化. その点が自由性を見出せる。推移も単純なオク. 2.旋律性の増大. ターヴの連続だが,音価が大きいため旋律性が高. 3.自国語での発想標語の採用. い。この旋律性の高さは,この提示部のみではな. 4.ロマン的な作風. く,この楽章全体を支配している。第2主題がロ.
(8) ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察. 第3節 2楽章制の楽曲と作品111との関連性 第2章第1節,第2節において,ベートーヴェ. 最後のピアノソナタ作品111が2楽章制をとり, 第一楽章でハ短調という力強い調性を持って,. ンの後期作品群に向かう過渡期に作曲された2つ. ベートーヴェンが好んで使ったといわれる「男性. の2楽章制のソナタについて分析,検証した。そ. 的な原理」(註12)をあらわし,第二楽章でシンプ. こから見出されたのは,一般的な3つ,および4. ルなハ長調で旋律性の強い優美な主題を持つ変奏. つの楽章からなるソナタ形式からの縮小化であ. 曲によって,「女性的な原理」を表現したと考え. る。これらの2楽章制のソナタは,各節のまとめ. られる。特に第二楽章の発想標語に「Semplicee. によって多くの類似性が認められた。作風を問題. cantabile」(素朴に,そして歌うように)と善か. にせず,構成を中心に分析をすると類似性が浮き. れていることでも,単純化と旋律性を特に強調し. 彫りになるが,その2つのソナタは,調性も作風. ていることがわかる。. も異なったものであった。作品78は,全曲を通し. このように,最後のソナタ作品111が2楽章制. て,同じ調性で善かれ両楽章に変化や劇的な発展. である意義を作曲年代をさかのぼって検証したこ. はなく,穏やかで優美な楽曲である。それに対し. とで,作品111に至った経緯を明確に示すことが. て,作品90は,第一楽章と第二楽章には,明確な. できる。最後のソナタ作品111は,特に第二楽章. 対照があり,「暗と明」が明確に示されている。. において,たいへん演奏表現が困難な楽曲といわ. 2つの楽章のみであっても,このようにまったく. れている。単純で旋律的な主題は,清楚な静寂か. 異なる作風を持つこの2つの楽曲は,2楽章制の. ら始まり,次第に動きが出現し,第三変奏におい. 可能性の広さも見出すことができる。. ては作品78の第二楽章に現われる明るく動きのあ. 最後のソナタ作品111は,第1章で考察したよ. るリズムを経て,終結部では単純な音型の連続や. うに後期作品群の特徴を備えており,その特徴は,. 長いトリラーによって深い静寂に戻って行くこの. 形式の自由化,ソナタにおける主題の取り扱いの. 楽章の演奏表現は,演奏家を悩ます困難な問題で. 変化など,作品78,作品90にも共通する特徴と合. ある。しかし,その旋律性や女性的な柔らかい主. 致することが多いことがわかった。作品78の第二. 題は,作品111が作曲される10年以上前からベー. 楽章のリズムは,作品111の第二楽章の第3変奏. トーヴェンの中に芽生えていたことがわかった。. のリズムに反映されている。特に作品90は,作品. それらの特徴は,後期作品群に至ったときに大き. 111との類似性が強く,調性の扱い方から「暗と明」. く特徴としてクローズアップされたが,その萌芽. という共通性があり,対位法への傾倒は,第二楽. は,作品78と作品90にあったことが明確になった。. 章の終結部にわずかであるが現われる。(譜例11). ベートーヴェンの最後のソナタ作品111は,運 命交響曲やピアノソナタ作品13「悲憤」などと同 様,苦悩からの再生といわれるハ短調である。第. 結 論 後期作品群は,演奏解釈が難解で一般の人々に. 二楽章は,同主調のハ長調で,調号が1つもつい. は,理解されるのが困難であった。現代において. ていない無垢な調性である。ベートーヴェンは,. もその評価は続いており,特にピアノの分野にお. 彼の晩年で,過渡期に少しずつ現われた縮小化と. ける,最後のピアノソナタ作品111の評価は,難. 単純性を最後のソナタに凝縮したと思われる。作. 解でわかり難いとされている。さらに,2楽章制. 品78以降のベー. で善かれた意義についてもしばしば議論になって. トーヴェンの作風は,変化に富み,. 後期作品群の特徴を多く使用した長大な作品106 「ハンマークラヴイーア」や,作品79のソナチネ. いる。つまり,ベートーヴェンは,第3楽章も作 曲するはずであった,または,第二楽章が長大に. のような単純な楽曲,そして,2楽章制の作品78. なりすぎ,第三楽章を断念した,などの意見があ. や作品90など多様な音楽を生み出した。その結果,. る。しかし,演奏家の立場から,演奏を通して研.
(9) 深 井 尚 子. 究を進めた結果,この作品111が,もう1つの楽. 註4:ベー. 井 三郎(1903∼1977) p.274 (音楽之友社). 章を持つことは考えられなかった。そのことを作 品111のみの検証ではなく,2楽章制のソナタが 現われた1804年以降のベートーヴェンのピアノソ. 註5:ベートーヴェンのピアノ作品 伊藤 義雄 p.205 (音楽之友社). 註6:カール・ダールハウス(1928∼1989) ベートー ヴェンとその時代 p.298 (西村書店). ナタにさかのぼって検証することで,作品111は, ベートーヴェンの意志で2楽章制で善かれたとい. 註7:新しい様式については,ドイツのピアニスト ア ルフレート・プレンデル(AlfredBrendel1931∼). うことが見出された。第1革において,ベートー. が著書の中で追求している。. ヴェンの最後のピアノソナタ作品111の特徴の考. 音楽の中の言葉 アルフレート・プレンデル. 察を行い,そこから作曲年代をさかのぼって,2 楽章制のピアノソナタ作品78と作品90の検討を行. p.86 (音楽之友社). 註8:ベートーヴェンは1802年,ボヘミヤのヴァイオリ ンニスト,ヴュンツェル・クルプホルツに対して,. なった結果,そこには数々の類似性と後期作品群. 「自分はこれまでの仕事に満足していない。今から. の特徴の萌芽が見られた。本論では,ベートーヴェ. 新しい迫を歩む。」と語ったといわれている。 ベートーヴェンの手紙(上) 小松 雄一郎編. ンが2楽章制の作品を32曲のピアノソナタの中で. p.90 (岩波書店). 4曲作曲していることに焦点を当て,それらの楽 曲と最後のピアノソナタ作品111との関係を詳し く追求した。その結果,作品111が2楽章制であ. 註9:ウィーン音楽文化史(上)渡辺 護 p.201(音 楽之友社). 註10:ベートーヴェンピアノソナタ 作曲学的研究 諸. ることの証明と後期作品群の萌芽は,すでに作品. 井 三郎 p.303 ベー トーヴェン音楽の哲学 テオドール・W・ア. 111を作曲する10年以上前から見いだされ,その 結果が作品111に結実していることを示した。. トーヴェンピアノソナタ 作曲学的研究 諸. ドルノ p.82 (作品社). 註11:ベートーヴェンピアノソナタ演奏法と解釈 パウ ル・バドゥラ・スコダ p.138 (音楽之友社). 註. 註12:音楽の中の言葉 アルフレート・プレンデル p.101(音楽之友社). 註1:ドイツの小説家トーマス・マン(ThomasMann 1875∼1955)の小説「ファウスト博士」の中で,音 楽家クレッチエメルに語らせている作品111の内容. 参考文献. は,ドイツの音楽学者テオドール・W・アドルノ (TheodorW.Adorno19O3∼1969)の意見をもと に善かれたといわれている。 ファウスト博士(上)トーマス・マン p.92 (岩 波書店). 他にもドイツの音楽学者ヨアヒム・カイザー (JoachimKaiser1928∼)も,この間題について 述べている。 ベートーヴェン32のソナタと演奏家たち(下)ヨ アヒム・カイザー p.282 (音楽之友社) 註2:後期ソナタは,ベートーヴェンの作品区分の中で. 1814年以降に作曲された作品を指す。つまり,作品. 101∼作品111までのことを示している。ベートー ヴェンの作曲区分は,多くの音楽学者がさまざまな 区分方法で区分しているが,後期ソナタの区分は,. 一様に一致している。 註3:このことは前掲カイザー著の中に,検証結果が多 数記述されている。 ベートーヴェン32のソナタと演奏家たち(下) p.300∼ (前掲). ファウスト博士(上)トーマス・マン1996 (岩波書店) ベートーヴェン32のソナタと演奏家たち(下)ヨアヒム・ カイザー1985 (音楽之友社). ベートーヴェンピアノソナタ 作曲学的研究 諸井 三 郎1958 (音楽之友社) ベートーヴェンのピアノ作品 伊藤 義雄1970 (音 楽之友社). ベートーヴェンとその時代 カール・グールハウス 1997 (西村書店). 音楽の巾の言葉 アルフレート・プレンデル1992 (音 楽之友社). ベートーヴェンの手紙(上)小松 雄一郎編1982(岩 波書店). ウィーン音楽文化史(上) 渡辺 護1998(音楽之友 社). ベートーヴェンピアノソナタ演奏法と解釈 パウル・バ ドゥラ・スコダ1977 (音楽之友社). 楽聖ベートーヴェンの誕生 西原 稔 2000 (平凡社 選書).
(10) ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察 ロマン主義と革命の時代 西洋の音楽と社会7 アレグ ザンダー・ リンガ一編1998 (音楽之友社). ベートーヴェン. 門馬 直美 2000 (春秋社). ベートーヴェン研究 児島 新 2005 (春秋社) ベートーヴェン全ピアノ作品の新しい奏法 カール・ ツェルニー1997(全音楽譜出版社) BeethovensKlaviermusikⅢJtirgenUhde1980(Reclam) Beethovensopus90unddieFensterzurVergangenheit Richard Kramer 講演記録”苦悩のあとに慰めを“一過渡期のベートー ヴェンにおけるバッハの影響−マルティン・ゲック (MartinGeck)(2000年国立音楽大学). 語例出典. BEETHOVEN Klaviersonaten BANDII G.HENLEVERLAG. (岩見沢校准教授).
(11) 深 井 尚 子 譜例1. /(. ▲ ■一. ... ■●■ ●●. ,. r■‘‘i 1. II. ■・・tI】 t■. ′■■l. t. rr】】rTr「. 章竿ざ首夏. 「「−■ml ㌣. l. ェ.ヽ■l. r. 亮∃試∃試∃∃轟試∃試∃∃∋∃ *.
(12) ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察 譜例2. Opt1578 Adagio¢乱nt8血ile. All叩0nOntrOppO ー l. ■ ノ. ■● ▼ t. 十 干 十 一_ 一 一_ 一■■ − 一■_ l. ▲ ■. 一■■. −−−. . ■−. 莞.Au叩000nbrioed叩p孔SSion孔tO u■ l】′.. ¢γ胱−. 琶訂∈訂∈辿■;宜r ㊥. 譜例4. 11.
(13) 深 井 尚 子 譜例5. ■一■−−■■−■−−−−. s. 2. 譜例6. 譜例7. Allegroma′nOn七roppo. 2 42. ●. 12.
(14) ベートーヴェン後期ピアノソナタの演奏解釈の考察. 譜例8−a. Allegroviv乱ee. 譜例8−b. 譜例9. 0 卿 ㊥ ′譜 iヽ︵. き.ご=忘。三罷mfヽ′」■▼しlて_−一t「■1▲●麿料F=帯、−:去do■lr暮Ii」一て■−1l .. 13.
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