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<研究論文>「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性―現象学的視点による音楽行為の原理から捉え直す―

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Academic year: 2021

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(1)研 究 論 集 第 5号;. 3 1-4 3 .2 0 1 8. 【研究論文l. 「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性 現象学的視点による音楽行為の原理から捉え直す. P o s s i b i l i t yo f" F u s h i z u k u r i "a ss o l f e g e : R e c o n s i d e rfromp r i n c i p l eo fm u s i c m a k i n gbyp h e n o m e n o l o g i c a lv i e w p o i n t. 消水稔(弘前大学) はじめに 創作の領域は、音楽科教育の中でこれまであまり多く扱われてこなかった現状がある(文部科学省 2008) は その原因として創作が、歌唱、器楽という他の表現領域に比べて、単に模倣や反復練習によって技術を身に付け るだけではなく、総合的な楽典の知識を学習者が必要とすること(小野他 2 0 0 4 )、場合によっては五線の記譜力 が求められること(浅井 2 0 1 4 )、また、指導者側の問題として教師自身の作曲体験が少ないことなど(高須 2 0 1 2 ) が挙げられる。それを受けて現行の指導要領では、創作の領域が重点化され、読譜力の向上が求められるように なった。しかし、現場の指導者には、「何をどう教えてよいのか分からない」、「作品をどう評価して良いか分か らない」といった声がある(松井 2 0 1 3 )。そのため、創作の領域における指導法の向上を図ろうと、学校の研究 会では、創作や音楽づくりをテーマに挙げるところが多く見られるようになった。そこから、新しい指導法の摸 索だけではなく、過去の創作教育の成果を再ぴ見直そうという気運が生じ、現在、「ふしづくり教育」が再び見 直されている(島崎 2 0 1 2 ,p .1 3 0 )。 この「ふしづくり教育」とは、 1 9 6 0年代に岐阜県の複数の学校で行われた系統性をもった旋律創作を中心と した音楽教育法で、当時の指導主事であった山本弘と中村好明の二人によって考案されたものである。「ふしづ くり教育」が持つ系統的で発展的なカリキュラムによる成果は、当時、大きな注目を集めた。しかし、このよう な過去の成果を再び用いるとき、安易に方法を一般化して用いるのではなく、踏まえておかなければならない視 点がある。それは、学習者である生徒を取り巻く環境は常に変化しているということ、また、歴史的には大きな 時流とは成り得なかった経緯があるということである。それら成果に関わる要素と停滞の原因を踏まえた上での 現在の教育への活用でないと、我々は、過去の成果を手に入れながらも課題を繰り返すことになる。人間の行為 が、空間と時間の関係性の上に生じる固有性を持っている以上、教育の事象は、方法を法則的に用いるのではな く、原理に立ち戻って考察されなければならない。 そこで「ふしづくり教育」を、〈創作行為における自己と音楽の関係性〉と〈創作行為の意義〉から見直すことで、 その課題と有効性を捉え直すのが本研究である。すなわち、自己を取り巻く社会的な文脈や、文化的背景の変化 に左右されない「関係性」という構造そのものから一般性を見出す研究である。そのために本研究では、木村敏 1平成 2 0年告示の第 8次学習指導要領 ( 2 0 0 8年)の基になっている教育課程部会芸術専門部会における「音楽科、芸術科 (音楽)の現状と課題、改善の方向性(検討素案)」では、「歌唱の活動に偏る傾向があり、表現の他の分野と鑑賞の学習 が十分でない状況が見受けられる。特に、創作と鑑賞の充実が求められている。」とある。 h t t p : / / w w w . m e x t . g o . j p / b _ m e n u / s h i n g i / chukyo/ c h u k y o 3 / 0 2 5 / s i r y o / 0 7 1 0 1 6 0 8 / 0 0 3 . h t m ( 2 0 1 7 . 1 1 . 1 2取得). -31-.

(2) 清水稔. の時間論を中心に、自己と認識対象の関係性である「こと」と「もの」の関係から音楽の本質的な機能を問い直し、 井筒俊彦の本質論からの知見を基に、現象学上の事象として創作行為を論じていく。本研究は、創作教育におけ る新たな知見を得るために、歴史的成果である「ふしづくり教育」を〈現象学的視点〉から新たに捉え直す試み である。. 2 . 「ふしづくり教育」の概要と〈現象学的視点〉について 「ふしづくり教育」の指禅法については、山本弘自身の指導記録. 1階 段 2階 段 3階 段 4階 段 5階 段 6階 段 7陪 段 8階 段 9階 段 1 0階 段 1 1階 段 1 2階 段 1 3階 段 1 1階段 1 5階 段 1 6階 段 1 7階 段 1 8階 段 1 9階 段 2 0階 段 2 1階 段 22 階 段 2 3陪 段 2 4階 段 25 階 段 2 6階 段 2 7階 段 2 8階 段 2 9陪 段 30 階 段. をもとに、その理念と方法を TOSS'の関根朋子によってまとめら れた著作がある(山本• 関根編 2 0 0 5 )。また「ふしづくり教育」の. 概要と歴史的な考察については、島崎の論文 ( 2 0 1 2 ) がある。そ こでは 1 9 6 0年代の歴史的な背景と共に、理論の概要と、成果と課 題について述べられている。これらをもとに「ふしづくり教育」 の概要を述べると以下のようになる。 岐阜県の指導主事であった山本弘は、小学校教師の音楽教育に 対する力量不足と意欲不足という現状を改善したいと考えていた。 そのためには「音楽の能力」とは何であるかという「明確な指標」と、 教える内容を「系統性のある」具体的で明確なものにするべきあ ると考えた。つまり、授業をシステム化することで、全ての小学 校の音楽教育が一律に等しい水準で音楽教育をできるようにした のが「ふしづくり教育」である。この「ふしづくり教育」の特徴は、 均等な教育成果を目指したシステマティックなカリキュラムにあ る。カリキュラムは 30段階 1 0 2のステップで構成され、明確に指 導内容が指示されている(図 1)。. リズムにのったことば遊ぴ 歌問答とリレー 原型リズムのリズム唱 リズム分割 ( I ) リズム分割 ( 2 ) リズムのまとめ 1拍単. f : t . 侠唱奏 ふし問答とリレー 陪名唱 続くふし、終わるふし 3音のふしの紀紐 7音のフレーズヘの移行と楳明奏 3音のふしのリズム変奏 3音のふしのリレー 2拍単位のふしづくりとリズム記諮 リズム変奏のまとめと記語 1音のまとまったふしづくりと記藷 ふしの旋律を味わう ふしのリズム変佐 拍子変# 自由なリズムでリレーと問答唱 自由なリズムのふしの記謹 音楽こと'"のリズム変奏と記謁 7レーズの記講 3拍子のふしづくりと記謁 6拍 ' { ・のふしづくりと記譜 短調のふしづくり 日徒のふしづくり ふしの歌詞づけ歌詞のふしづけ. 曲の発展. 図 1 「ふしづくり教育」のカリキュラム 出典:日本音楽教育事典 ( 2 0 0 4 )P . 6 7 4. この系統性をもったカリキュラムは、前述の「音楽の能力」は何であるかという山本の問いが反映されたもの である。山本は「音楽感覚学年別能力表」というのをつくり、まずは児童の実態を調査する。そして、他の教 科を参考にカリキュラム作りを行うのだが、その際、最も参考にしたと思われる教科が国語である。それを窺え る部分は、山本が当時の文部省(今の文部科学省)に送った檄文の中に見られる。山本は音楽を「ことば」とし て身に付けさせて文にしていく学習が、音楽でも可能だと考えるのである(山本• 関根絹 2 0 0 5 ,p .3 2 )。つまり、. 児童が「音楽をつくる」という活動を通して音楽を学習していく系統的、発展的カリキュラムと、パターン化さ れた活動による創作学習が「ふしづくり教育」の主軸となる部分である。この山本自身が述べる「子どもが音楽 を再構成する教育観」(山本• 関根絹 2 0 0 5 ,p .3 0 ) のカリキュラムは、それまでの作品中心の音楽活動から脱却. する生徒主体の学習活動カリキュラムであったと言える。また、教える内容がシステム化された、つまりマニュ アル化された教育法は、様々な専門性をもつ小学校教師にとって学習成果の均ー化をもたらした。すなわち、全 ての教師が同じ水準で教えることを可能にしたことで、達成度を均ーにできたことが一つの成果である。そして、 実践後の結果として、多くの児童が高い音楽能力を身に付けることができたという事実によって「ふしづくり教 育」は、実践校であった岐阜県古川小学校の名前を冠して「古川詣で」と言われるほどの、全国からの参観者を 集める注目の研究実践となったのである(山本• 関根絹 2 0 0 5 ,p .6 7 )。. 2. TOSS ( T e a c h e r sO r g a n i z a t i o no fS k i l lS h a r i n g ) は、向山洋ーを代表とする、 1 9 8 0年代の「教育技術法則化運動」を 基盤とする教育技術の提唱をする集団のこと. -32-.

(3) 「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性. だが、パターン化された授業は、教師が主導的に授業をしなくても、児童たちの手によって学習が進行するま での水準へと学校を変えた一方で、教育活動を停滞させる原因ともなった。 1 9 8 0年になって、. J .ペインターと P.. アストンによる「創造的音楽学習」が話題となり、第 6次学習指導要領にその理念が取り入れられると、当時の 個を尊重しようという気運と相まって、イメージと自由な発想による音楽づくりが創作の主流となった。そのた め、旋律に特化された「ふしづくり教育」は、系統性の不明確な音楽教育の現状を変えようとの思いで行った山 本による文部省への度重なる具申にも関わらず、全国的な流れに成り得ず、やがて下火となっていくのである(島 崎2 0 1 2 ,p . 1 2 9 )。そして、現行の指導要領である 2 0 0 8年告示の「第 8次学習指導要領」において、「創造的音楽 学習」の流れを受けて構成する過程が重視される(構成主義)とともに、創作教育での重点化が示されると、創 作教育への関心の高まりから再び「ふしづくり教育」が見直される気運が生じるなど(島崎 2 0 1 2 ,p ,1 3 0 )、創作 教育に対する摸索が現場では続いている。 この「ふしづくり教育」が下火になった理由を、島崎 ( 2 0 1 2 ) は、歴史的な背憬から考察しており、その考察 をまとめると次のようになる ( p ,1 3 0 )。. 1 . 教員の自主的運動でなく指定校からスタートしたものであった。. 2 . 全校一斉に取り組まない限り十分な成果が得られない。 3 . 現在の創作には創造的音楽学習が導入され、多様な創作活動が行われ、旋律創作に特化した教育では対応で きなくなった。. 4 . システム化が教師の没個性化になり意欲を削いだ。 島崎の考察は、歴史的な背景をもとにした推論であるものの、山本の願った音楽教育全体の変革とは成り得な かった理由を示している。項目 1と4の、自主的な運動ではなくシステム化が教員の意欲を削いだという推察は、 自己決定の阻害から衰退の要因としては十分に考えられる。なぜなら.、システム化による授業のマニュアル化は、 自己の持つ有能感への欲求を満たす場を阻害し、自律性の低下による意欲減退を招くことになるからである(デ シ・フラスト 1 9 9 9 ,p p ,9 4 9 5参照)。項目 2の全校体制を基盤とするカリキュラムであったことも、総合学習な どではないー教科としての役割を考えると、そのことが理念の理解において足並みを揃えることの困難へとつな がったのも推察できる。 だが、項目 3は少し様相が違う。この項目では学習者側の要因も含まれるため、単に歴史的経緯だけではない 問題点がそこに在る。なぜなら、絶えず変化する認識世界との関わりにおいて、自己が次の行為を選択する契機 は、他者との関係から生じる欲求である。尚、ここで言う他者とは、自己以外の全ての認識対象のことである。 旋律創作に特化した「ふしづくり教育」が創造的音楽学習に取って変わることになった要因は、自己と、音楽と いう他者との関係性から考察しないと事象は正しく把握されたことにはならない。 そこで、自己と音楽の関係性を捉えるためには、意識作用と意識対象の関係性から事象の一般性を見出す〈現 象学的な視点〉が、有効な手立てだと考えられる。なぜならデカルト以降の近代科学は、中村雄二郎が指摘する ように、「主観と客観、主体と対象の分離・断絶を前提としている」(中村 1 9 9 2 ,p ,9 ) のであって、主観を排除 することで客銭性を取り出す方法である。しかし音楽は、自己の固有な文脈の上に生じ、多義性を持つ事象であ る。想像的な客観的視線が一般化された正しいものとして捉える近代科学の思考は、自己を既に在るものとして おきながら、自己を排除した論理である。例えば窓から山を見ているとき、「目の前のリンゴより遠くの山が小 さく見えていても、大きいのが正しい」とするのが科学的な客観的視線である。その視線だけを取り出すことは、 自己が感じている世界である「実感」を排除することに他ならない。そのため、自己を排除しないで音楽の事象 を捉えるには、主体の意識作用と意識対象の関係から、共通の構造を取り出すことによって一般性を見出す〈現 象学的な視点〉が必要なのである。. -33-.

(4) 消水稔. 3 , 現象学的視点と自己と音楽の関係 「ふしづくり教育」を〈現象学的な視点〉で捉え直すには、自己が音楽と時間軸上においてどのように関係し ているか捉える必要がある。そのためには、まずは時間軸上における自己と他者との関係を明らかにしなければ ならない。 主体にとっての認識対象を他者とするとき、自已は常に他者との関係において時間軸上に生成される。そして、 意識作用の中心に在りながら、他者を認識することで存在している。そのとき自己は、自己を〈私〉として認識 することで自己の存在を自覚している。このような自己の在り方をハイデガー ( M a r t i nH e i d e g g e r ) は、その 絶えず認識主体である〈私〉の問いに対して、認識対象である〈私〉が実存である、と意識の主体が了解してい ると論じている ( 2 0 1 3 ,p p .1 1 5 1 1 6参照)。すなわち主体は、自らの思考において常に〈私〉が存在しているこ とを無意識に了解している。そのような「自己が〈私〉として認識している〈私〉」は、常に他者との出会いによっ て生成され、他者によってしか成り立たない。なぜなら、「私は何々である」という説明が常に私以外のものを持っ てこないと成り立たないように、自己を説明する言葉を自己自体は有していないからである(新宮 p . 1 4 4 )。新宮 はそのことを「自己言及の不完全性」として論じている(新宮 p p . 1 1 2 1 1 7 )。 そのような常に他者を介して〈私〉を了解することでしか存在し得ない自己は、時間軸上において存在する以 上、自己も世界も運動していなければならない。そのため、常に他者が入れ替わる事態となる。このような事態 にあって、〈私〉が〈私〉で在り続けるためには一定の構造が必要となる。つまり絶えず差異が生じる時間軸上 での他者との関係性にあって、〈私〉が持続していることを認識できる一貫性である。それは、過去から「あれ が私だ」と反復して想起できる〈私〉である。現在は絶えず次の瞬間には過去となり、人は記憶として過去を堆 積していく。その過去の堆積を基に「あれが私だ」と反復的に「今、ここ」に作用することが、自己の連続性を 保証する。 0から 1への時間軸上での変化は、その一点において捉えると変化の認識には成り得ない。意織が時 間の純粋持続において、 1に出会ったときに 0を反復的に想起していないとその差異を認識できない。〈私〉の 運動は、〈私〉という存在の了解の上に成り立つのである。木村敏は、このような認識作用を「自己の述語作用」 と名付ける(木村 1 9 8 2 ,p .8 3 )。だが、その働きだけでは自己は時間軸上に生成されないと木村は述べる。「あれ が私だ」という〈私〉を過去の堆積から見出すには、〈私〉が何者であるか、を知っている必要がある。「私はこ れだ」という自己認識があって、意識作用の方向づけが可能になり、「あれが私だ」という述語作用を成立させ るのだと言う。木村はこの「私はこれだ」という方向づけを「主語的自己」と名付ける ( 1 9 8 2 ,p .8 0 )。つまり、 「今、ここ」の〈私〉が時間軸上において絶えず変容しながらも、〈私〉としての持続を成り立たせる一貫性とし て成立するには、「自己の述語作用」と「主語的自己」の両者の働きが必要なのである。また木村は、両者はそ れぞれが独立して働く訳ではないとも言う。両者は相互作用的に同時に成立しているのであって、両者が互いに 作用する円環関係において「今、ここ」の〈私〉が生じているのである(木村 p . 8 4参照)。このような主体の認 識を木村は「自己の自己性」と名付けている ( 1 9 8 2 ,p .8 4 )。 この「自己の自己性」の論理によって、時間軸上での存在が成り立っている〈私〉は、主体の内部に〈私〉と 見立てる意識対象の他者と関わりながら、外界における他者と次のような関係をつくることになる。主体の外界 に働く主体の運動は、外界において意識の先にある他者をつくり変える。つくり変えられた他者は、主体の知覚 へと作用し、次の主体の運動を生じる。このように主体の外界に生じる知覚と運動の円環関係は、時間軸上にお いて絶えず連続し、そのこと自体が「自己の自己性」の論理に基づき、また、「自己の自己性」をつくることに なる。よって、自己は、世界との関わりにおいて常に、「自己の自己性」という働きによって、主体固有の過去 の〈私〉と常に関わりながら、〈つくりつくられる関係〉を持続させているのである。 このような原理によって〈私〉の存在が認識されているとき、「音」と「自己」との関係における本質的な機 能と意義は、次のように言える。意識対象としての「もの」は, 自己を投影する「他者」として,自己の存在を 保証する。そのような他者との関係の中で、主体は絶えず知覚と運動の円環運動が働く中で認識対象の「もの」. -34-.

(5) 「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性. に変化を与える。外界の意識の先が変化しなくとも、主体内部の「もの」は絶えず「自己の自己性」の働きによっ てつくられる。それは、内言や映像といった主体内部の形成物である。言い換えれば,主体は〈私〉を得るため に「他者」を日常的に作り出しているとも言える。つまり、内言と言われる内部言語活動も、内的聴感と言われ る内部の音も、あるいは内的な映像である心象も、主体の内部において意識対象となる「もの」は、〈私〉を認 識させるものとしてつくり出される「もの」である。それは主体の外界の「もの」を知覚することで生成され、 外界の「もの」をつくる運動の契機となる。よって「音楽」もまた、「音」を他者として「自己」を生成する行 為であると言える。そして、「音楽」という時間軸上に音を構造化された「もの」に出会ったときに、言語と同 様に統語的に構造を認知することから(アイエロ 1 9 9 8 ,p p .5 3 6 3参照)、「自己の自己性」における過去と未来の 円環運動による「今、ここ」の創出は、音楽の構造に巻き込まれることになる。主体は音楽の構造を「もの」と して認識したときに、自己の述語作用によって、それまで自己である〈私〉が出会ってきた音楽と日常の音の体 験と関係する。そこから生じることは、〈私〉だけのことであり、その音と「自己の自己性」との関係から生じ る情動の差異が感情の変化となって、〈私〉だけの「こと」という差異の連続と「もの」としての意味生成が為 されるのである。. 4 . 〈音楽をつくること〉の本質的な機能と意義 以上のように、現象学的な視点から、〈自己の存在を保証するための「もの」〉としての音楽の意義が導かれる。 しかし、「自己の存在を保証する」という理由だけでは、「もの」は音楽でなくとも良いはずである。音楽が文化 として残っている以上、そこには音楽固有の事由があるはずである。その音楽固有の事由は、次に述べる音楽行 為における「もの」と「こと」との関わりから見出すことが出来る。 「こと」と「もの」の性質の違いと関係性について、木村 ( 1 9 8 2 ) は次のように述べる。外部の「もの」でも 主体内部の「もの」でも、「もの」は克えというはたらきの対象となるようなものであって、その上で、見えと いうはたらきが可能になるためには「もの」との間に距離がなければならないとする ( p .5参照)。そのため、「自 己は、ことの現れに出会うやいなや、たちまちそこから距離をとり、それを見ることによってものに変えてしま おうとする」 ( p .9 ) と言う。つまり、「こと」は認識された瞬間に「もの」になる性質である。ゆえに、「こと」 は「もの」によって現前しながら、「こと」自身は絶えず過ぎ去る瞬間、瞬間の差異として、時間軸上に空間的 に生じる性質を持つ。つまり、「こと」は意識を向けられることによって反復され、時間軸上に持続することに よって「もの」となるのである。「ものはわれわれの内面的・外面的な空間を占めている」 ( p .1 6 ) というように、 空間に意識対象として空間を占める空間的な質量がないと「もの」にはならない。それは、外界の「もの」も同 様である。「もの」は絶えず運動を生じる時間軸上において、持続することによって空間的な「もの」となって 存在する。すなわち、「もの」は「こと」が無ければ「もの」にはならない。同時に、「こと」は「もの」が在る ことで存在が保証され生じることが可能になる。よって、木村が述べるように「ことはものに現れ、ものはこと を表わし、ものからことは読み取れる」 ( p .2 4 ) のである。 そのような関係性にあるとき、主体が外界につくる「もの」は、主体における〈私〉の「こと」が常に関係し ていることを先ずは踏まえなければならない。「ミとがミととして成立するためには、私が主観としてそこに立 、、、、、、 ち会っているということが必要である」 ( p .1 8 ) と木村が述べるように、主体内部の「もの」も外界の「もの」も、 主体が意識した「もの」との関係性によって運動として現れる以上、「こと」は必然的に〈私〉が常に関わって いることになる。そして「こと」が生じるには、時間軸上に「もの」として現前しなければならない。つまり「も の」が〈私〉の存在している「こと」を保証し、〈私〉が存在している「こと」自体が意味生成としての「もの」 を成立させるのである。 ところで、この「こと」と「もの」の関係性において見落としてはいけない性質が在る。そのとき、〈私〉を 保証するはずの「もの」はすでに純粋な「こと」ではない。「こと」は時間軸上に過ぎ去る瞬間、瞬間の差異で. -35-.

(6) 清水稔. 、、、 ある。木村は、「ことばに言い表されたことはすでに純粋なことではない」 ( p .2 1 ) とし、また、「イメージの姿 をとったものは、すでに純粋のミとではありえない」 ( p ,2 1 ) と言う。つまり、外界の「もの」と出会っている ときに、〈私〉は、主体内部の「もの」だけではない「こと」によって〈私〉を存在させているのである。 ここに、芸術一般の、とくに時間軸上の差異として構造化されることで機能を有する「音楽」の〈私〉を知る 他者としての必然性が在る。言葉にならない「こと」が、「音」の構造に巻き込まれることによって、音と〈私〉 との関係から生じる「こと」が、言葉という「もの」から離れて「こと」そのものへと意識が向けられるのであ る。感情そのもの、言葉に遮られない身体的な〈私〉に触れること、「実感」と言っても良いかもしれない「こと」 に触れるには、内言による論理思考から離れる必要がある。それは、「他者」そのものを味わうこと、言い変え れば〈私〉そのものの存在を味わうことである。すなわち〈音楽をつくること〉は、そのような音楽行為を触発 、、、、、 する「音」の構造化であり、「こと」の反復可能性をもった「もの」をつくることである。そこには、純粋な「こ と」ではないが、〈私〉がつくることで、そのときの〈私〉の求めた「こと」が「もの」として現前するのである。 その意識されない「こと」の存在を井筒俊彦 ( 1 9 9 1 ) は東洋哲学の思想の中に見出している。物の認識にお いて東洋の哲学には、「人間の意識の分節機能によって普遍化され一般化され、さらには概念化された」本質だ けではなく、「ものの個別リアリティー」と言うべき「個体的実在性の結晶点」としての本質を捉える思考が在 ると言う ( p .3 9 )。その具体例として、本居宣長の「物のあはれ」を「宜長は徹底した即物的思考法を説く」 ( p .. 3 5 ) と論じた上で次のように説明する。 物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からでなく内側から、 つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である、 という。明らかにそれは事物の概念的把握に対立して言われている。(井筒 1 9 9 1 ,p ,3 5 ) この井筒が宣長の「物のあはれ」に見出したような「もの」との出会い方にこそ、意識として客体化される前 の〈私〉の「こと」を捉える「もの」との出会い方が在る。私たちは「つくる」という行為の中で「もの」と対 話し続ける。「そうだ」「そうではない」「こうしたい」という試行錯誤をしながら〈私〉にとっての音楽を見出 していくのである。このように現象学的視点において、時間軸上での〈私〉は、言葉にならない「こと」の連続 で成り立っている。言葉した時には「こと」は過ぎ去っているのであり、その過ぎ去った「こと」を想起しても、 すでに「今、ここ」のリアリティーは失われている。その「こと」を再び〈私〉の存在を保証する「もの」とし て「つくりつくられる関係」の土俵に上げるには、主体の外部に言語体系以外の「もの」を現前させるしかない。 その現前した「もの」から「こと」の反復可能性を頼りに「実感」を呼び戻すしかない。「音楽」は、言語活動 によって失われた「こと」の世界における〈私〉の存在、〈私〉が何者であるか、という答えを得る行為だと言 える。そのためには、音や音楽を、主体の意識対象として現前させるしかない。つまり、〈音楽をつくる〉とい う行為は、〈私〉の存在を保証する問いの答えとしての〈私の音〉、〈私の音楽〉を身体的な「こと」において見 つけることであり、自己存在の持続という根源的欲求の充足なのである。. 5 . 創作教育における二つのスタンス しかし、〈音楽をつくること〉は、これまで述べた現象学的視点から導かれる意味において一元的であるが、 創作の教育の場では、音楽観における二つのスタンスが在ることが指摘されている(阪井 2 0 0 9 )。ひとつは「本 質主義的なスタンス」、もうひとつは「構成主義的なスタンス」である。前者は「優れた秩序・構造という規範を、 プロの作曲家・芸術家の作品をはじめ、伝統的・文化的に評価の安定した音楽に求める」 ( p .4 6 ) というスタン スであり、後者は「みずから規範を提示することなく、それを子ども達に投げかけ続け」 ( p .4 6 ) ることで、子 どもたちの中から外界の音との関わりの中で表現が生まれてくることを求めるスタンスである(阪井 p p ,4 5 4 6. -36-.

(7) 「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性 参照)。 この創作教育における二つのスタンスの対立は、吉野が指摘する音楽教育の理念における二つの立場として提 示した「認識の立場」と「行為の立場」へと集約される。この二つの立場について吉野 ( 2 0 1 3 ) は次のように述 べている。. 音楽教育の理念をめぐってはこれまで大きく二つの立場、すなわち音楽を「認識」の対象と見なし、認識 の変容・進展を目的とする「認識の立場」と、音楽を「行為」そのものと見なし、音楽行為の充実を主眼と する「行為の立場」が採用されてきた。(吉野 2 0 1 3 ,p ,3 7 ). 「認識の立場」は、吉野の論から推察するに、認識の客体、すなわち「もの」の進展を目的とすることから、伝統、 文化の中に規範を見出し、その継承をするための理解と学びを通して「もの」の発展を目指す立場である。それは、. 1 9 9 0年代のアメリカの音楽教育において、エリオット ( D a v i dJ .E l l i o t t ) が「作品中心主義」として批判したリー マー ( B e n n e t tReimer) に代表される「美的教育としての音楽教育 ( m u s i ce d u c a t i o na sa e s t h e t i ce d u c a t i o n:. MEAE)」の立場である。吉野は、戦後の学習指導要領に MEAEの思想が大きく影馨していることを読み取り、 「学習指導要領の音楽観は全面的に『認識の立場」に依拠している」と指摘している(吉野 2 0 1 2 ,pp.2 1 2 6 )。こ こでは、鑑賞をはじめ、演奏においても音楽を要素の集合として捉え、働きを知ること、理解することが目的と される。そのことから、良き鑑賞者を育てる教育であるとも言える。創作における「本質主義的なスタンス」は、 この音楽観の流れに在ると考えられる。 一方、「行為の立場」は、行為に機能的な本質が在るとする。吉野は、「主体と客体が分離されず、〈いま〉〈こ こに〉、〈そのつど〉生成する現在進行的に主体がコトとして(モノに対してではなく)行為に与っていく」 ( 2 0 1 3 ,p .. 3 7 ) のが、「行為の立場」であるとする。 1 9 9 0年代のアメリカにおけるこれまでの「作品中心主義」への批判か ら提示された「行為中心」の音楽観は、この「行為の立場」を求めた音楽論だと言える%エリオットは、「音楽 は根本的に人々が行う何かであって、作品や制作物ではない」 ( E l l i o t t1 9 9 5 ,p .3 9 ) と述べて、それまでの音楽 の在り方が、作品中心主義であり、西洋音楽の美学に基づいた狭い捉え方であると批判し、スモール ( C h r i s t o p h e r. S m a l l ) は、「音楽の本質とその根本的な意味とは、対象、すなわち音楽作品のなかにあるのではまったくなく、 人びとの行為の方にある。」(スモール 2 0 1 1 ,p .2 9 ) と述べ、西洋音楽の体系における「作品」を中心にした考え 方を批判し「行為」が音楽の本質である主張した。この立場では、「演奏・即興といった音楽行為の充実に置か れる」 ( p . 3 7 ) ことになり、表現者と鑑賞者の区別という前提は無くなる。表現することが鑑賞そのものであり、 自らの音楽をつくりだす行為が音楽本来の姿なのだとする。特定の音楽様式に囚われず行為に意義を見出す「構 成主義的なスタンス」は、この「行為の立場」の音楽観の流れに在ると考えられる。 さて、この二つの対立的なスタンスは、言い換えれば、〈創作で学ぶ〉のか〈創作を学ぶ〉のかの違いである とも言える。〈創作で学ぶ〉は、創作によって音楽の規範や文化を学び、既存の作品の理解へと至ること、すな わち、規範とされた音楽の学習を教育の主眼とする立場である。〈創作を学ぶ〉は、創作行為の意義を行為の主 体の内に認め、行為そのものの価値や意味を学ぶことである。一見すると創作学習や創作行為そのものが「行為 の立場」であるように見えるが、そうではない。指導する側に、どのような音楽観があるかで、指導の目的とす ることも、方法も評価も変わってくるのである。創作の本質理解に対する曖味さが、指導者も学習者も創作活動 に対する誤解や不満を招き、本来の〈音楽をつくること〉の価値から目を背けることになってしまうのである。. 3. ただし、吉野 ( 2 0 1 3 ) は、エリオットが行為中心の音楽論を提示しながら、反省的に知ることを求めていることを理由 に結果的には「認識論の拡充」であるとしている ( p . 4 2 )。しかし、やはり外側の「もの」への認識中心ではなく、主体 の行為の側へと教育の意識を戻そうとしている点において、本論では「行為の立場」の側としてここでは取り上げる。. -37-.

(8) 消水稔. 構成する過程での〈私〉への問いは「つくること」の本質に基づく行為であり、そのことを活動の理念とするこ と自体は正しい。だから〈創作を学ぶ〉ことに創作教育の本来の姿が在ると言える。創作活動を通して、音楽の 知識や、規範となる作品の素晴らしさを学ぶ(例えば〈私〉には出来ないことが、芸術作品では出来ているとい う驚き)ということではなく、自らの求める音を見出し、音楽を作り出す喜びへと至らなければならない。 だが、「行為の立場」に創作の本質が在るとして、構成主義的な立場で創作活動をしたときに、「ぐちゃぐちゃ な音楽」になることがしばしば見られる。物語や情景と結びついた音楽づくりにおいて、「子どもたちのつくる 音がぐちゃぐちゃ」であるという先生方からの疑問の声があることを坪能は指摘し ( 2 0 1 2 ,p p .1 1 7 1 1 8 )、また、 先の阪井の論文 ( 2 0 0 9 ) では、「音楽づくり」の活動で、「ぐちゃぐちゃな音楽」になったことに対して、音楽的 な深まりも高まりもなかったと評価した小学校教師のコラムを取り上げ、「音楽づくり」における指導者の悩み を紹介している ( p . 3 8 )。さらに、阪井は星野圭朗の音楽観を構成主義的であると論じているが、その中で坪能 の星野の授業に対する感想を取り上げ、「『グチャグチャな音」『音のカオス」が際限なく生み出されていった」(坪 能1 9 9 7 ,p .7 8 ) としている。つまり、構成主義における創作は、しばしば「ぐちゃぐちゃな音楽」という評価が 指導者の側から為されるのである。 阪井は、そのような評価に対して、本質主義的な立場でいるために生じる評価だと述べるとともに、二つのス タンスが混在しているために指導者が悩むのだと論じている。すなわち、純粋に構成主義的な立場であれば、行 為そのものに意味を見出し、その活動に学習者主体の表現を見出すということである。事実、星野は、「ぐちゃ ぐちゃな音楽」と評された創作を良いものとして活動を提示してきたはずである。しかし、立場を変えて理論的 に本質を見出して納得すればそれで良いことだろうか。前段において述べたように、本質には、概念として普遍 化された本質だけではなく、東洋の哲学には、「ものの個別リアリティー」と言うべき「個体的実在性の結晶点」 としての本質が在る。すなわち、「ぐちゃぐちゃである」と感じた実感が存在した事実がある以上、その実感を 理論的に棚上げにしたところで、「自己の自己性」としての〈私〉に生じている「こと」と蝋語を来すことになる。 実感がある以上、何らかの本質的な問題がそこには存在する。 「構成主義的な立場」の誤りは、学習者自らの内にある「こと」が「もの」として自然に表出されることを前 、、、、 提にし、「即興表現」こそが自己表現であるとして、自己を捉えたところにある。ここでは主体内部の「もの」 と外界の「もの」との関係性が問われていない。主体という「こと」と外界の「もの」との関係性で論じられて おり、自律的につくった「もの」は、自己そのものであるという前提がある。だが、そうではないはずである。 まずは、主体内部の「こと」と「もの」の関係が、外界の「こと」と「もの」の関係と関係しているのであって、 二重の関係性の上に〈私〉の「こと」は生じていなければならない。すなわち、主体内部の「もの」と外界に現 前する「もの」は、異なる「もの」であり、どちらの形成も〈技術〉の問題が関わってくるのである。 「こと」は時間軸上に同時に輻鞍し、過ぎ去るのであって、〈私〉の欲求していた「こと」は、その「もの」に出会っ て初めて知るのである。例え「もの」として内的に何らかの形で形成されていたとしても、その思い描いていた 「もの」に現実に出会ったときに「思っていたのと違った」「思っていた以上だ」といった思いが実感と共に表出 する事実がある。それは、主体と外界の他者が、絶えず知覚と運動のつくりつくられる関係を持続している中で 生じた「こと」が、主体内部の「もの」に、主体の外界に形成された「もの」に表出されていないことを意味する。 すなわち、自己の欲求を滴たす「もの」をつくるには、過ぎ去る「こと」を見出すだけの〈技術〉が必要であり、「試 行錯誤」する中で、自分の「こと」に問いかけながら「もの」へと現前させていく〈技術〉が必要だということ である。. 6 . 「ふしづくり教育」の問題点とソルフェージュ教育としての可能性 さて、この現象学的視点から導かれる自己と音楽の関係性から「ふしづくり教育」を捉え直すと、次のような 問題点が浮かび上がってくる。それは、「ふしづくり教育」が、現在の音楽環境との出会いから生じる主体の欲. -38-.

(9) 「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性 求を満たす〈創作を学ぶ〉活動になってはいないことである。 現在の音楽環境は、シンコペーションのリズムをもつ旋律やアウフタクトから始まる旋律の多いポピュラー音 楽、いわゆる大衆音楽を耳にすることが多い。しかし、「ふしづくり教育」では、基礎理論として「音楽ことば」 という考えを用いているためにリズムの発想が平易なものに限定されやすく発展性はあまりない。「ふしづくり 教育」は、言葉のリズムから音楽を構成する単位的なリズムをつくり出し、言葉のように組み合わせて構造化す ることを重視している。この「音楽ことば」によって「リズムの全てをつくることができる」という山本の考え 方は(山本 2 0 0 5 ,p p . 5 1 5 6参照)、当時の東京芸大教授であった松本民之助の創作教育法に基づいているのだが、 正しく松本の考えを捉えているとは言い難い。もともと松本民之助の教育法では、言葉によるリズム創作は作曲 の導入の一部であって、拍子の枠内に音符を納めようとすることによってリズムをつくり出すことを目的とし な作曲の系統学習における初期の学習方法に過ぎなかった(松本 1 9 6 4 ,p p . 7 1 1参照)。しかし、それを山本が「音 楽ことば」として日常の「ことば」をリズム化し、それが音楽、とくに西洋音楽の根本と成り得るとするような 捉え方をしたところに誤りが生じている。つまり、この「音楽ことば」という考え方を用いたことによって〈創 作を学ぶ〉活動としては、次の 2つの問題点が生じている。 まず一つは、西洋音楽の体系におけるリズムの原点を、言語体系の違いから日本語のもつリズムに求めること はできないということである。ヨーロッパの言語が音節言語なのに対して、日本語は、モーラ ( m o r a l言語である。 日本語はかな一つが 1モーラになり、同じ長さで認識するため、定期的に子音と母音が繰り返される単調なリズ ムとなりやすい性質をもっている(窪園・太田 1 9 9 8 ,p .2 4 )。つまり、言葉のリズムから音楽のリズムを作成し てしまうと、単調なリズムヘと限定されたり、ー音に 1シラプルの旋律になったりしてしまう。たしかに会話の 中の音の差異は音楽的要素を含み、音楽と言語活動は時間軸上において相関性が在る。だが、そのとき言語体系 における音声言語の生成方法は日本と西洋とでは異なるのである。 そして二つ目は、現代の音楽環境の違いから、主体に生じる「音楽的欲求」は、平易なリズムや単純な旋律線 ではなくなってきているということである。例えば上田 ( 2 0 1 6 ) が指摘するように 1 9 5 0年から 1 9 6 0年にかけて の音楽文化は「戦前以来の土俗的な精神に回帰するかのような傾向も顕著と」 ( p .1 3 6 ) なり、浪曲調や民謡調 の歌謡が「流行歌として一世を風靡していく」 ( p ,1 3 6 ) という状況であった。それらの音楽が平易なリズムや 単純な旋律線を基調としていたのに比べると、現代の大衆音楽は、多様な様式と共に、複雑なリズムやハーモニー を有している 4。そのような現代の音楽環境にあって、「自己の述語作用」と「主語的自己」の円環関係によっ て生じる〈私〉、あるいは〈私たち〉は、「今、ここ」に関わる過去の〈私〉が、既に複雑なリズムやハーモニー の音世界の中にいることを意味する。すなわち、「今、ここ」の〈私〉に生じる音楽に対する欲求は、既に「ふ しづくり教育」の頃とは異なるのである。〈私〉が「もの」をつくることで、そこに自己の欲する「こと」を見 出し、快の状態を味わうことが、創作行為の意義であることは既に述べた。すなわち、〈創作を学ぶ〉活動とし ては、そのシステム化ゆえに平易なリズムや音程に限定される「ふしづくり教育」は、適さない部分をもってい るということである。自己の(無意識の「こと」も含む)欲求を満たす「もの」が出来なかった学習者は、創作 という行為への興味を無くし、自己の欲求を満たす「音楽」として「自宅でポビュラー音楽を聴いている方が良い」 という結綸を抱いてしまうだろう。つまり、創作そのものの喜びには至らない学習活動は、創作行為そのものの 持続とはならないのである。 では、この「ふしづくり教育」は、過去の歴史遺産として、音楽教育における一つの過程として知識に留めて おくだけのものなのであろうか。だが、ここまでの指摘は、創作教育における「行為の立場」、つまり「構成主 義的な立場」からの〈創作を教える〉ことでの問題点であって、もう一方の立場、〈創作を教える〉という「本. 4. 現代の J P O Pに繋がる日本の流行歌の変遷をリズムやコード進行から佐藤 ( 1 9 9 9 )が詳しく分析しており、 1 9 7 0年代以 降をその変化の節且として捉えている ( p ,1 6 2 )。. -39-.

(10) 清水稔. 質主義的な立場」としての可能性には触れてはいない。先に述べたように、〈私〉の欲求していた「こと」は、 、、、、、、、、、 その「こと」が反復的に想起される「もの」に出会って初めて知るのである。〈私〉が求めていた「こと」に出 会うためには、「こと」を想起させるだけの「もの」として現前させていく〈技術〉が必要である。それは創作 においては「試行錯誤」を成立させるための〈技術〉であり、空間的思考を平易にする記譜力も含めて、ソルフェー ジュ的な能力としての〈技術〉である%この「ふしづくり教育」は、松永 ( 2 0 0 5 ) が「山本がめざしたのは、 子どもたちに作曲させることではなく、子どもの音楽的な能力を育てることであった」 ( p .1 6 8 ) と論じている ように、創作を通して、西洋音楽の語法を、発展的、系統的に学ぴながら読譜力、記譜力を身に付けることがで きるように構築されたカリキュラムである。すなわち創作の活動でありながら、その根本はソルフェージュのカ リキュラムなのである。つまり「ふしづくり教育」は、〈創作を学ぶ〉には問題点を有しているが、そもそもが、 記譜や音楽表現の基礎力といった創作行為を成立させるための〈技術〉を学ぶ性質のものなのである。よって〈創 作で〉ソルフェージュを学ぶ教育法として有効であると言える。 さらに、創作を通して学ぶことは、自然発生的に「比較聴取」. 6を通した学びが展開される点で、創作の〈技. 術〉としてのソルフェージュカを身に付ける教育法として有効であると言える。なぜなら自分の「こと」を「試 行錯誤」によって「もの」として見出すには、要素の働きを論理的な「もの」ではなく、身体的な「こと」とし て見出す〈技術〉が必要となるからである。「比較聴取」は、理屈ではなく実際に聴くことによって音の違いか ら生じる働きの差異を感じる。そのことは、先の井筒が論じる東洋哲学における本質、「ものの個別リアリティー」 と言うべき「個体的実在性の結晶点」としての本質、すなわち意識されない「こと」としての差異を通して音の 差異を捉える方法として有効であることを意味する。「もの」を通して求めていた「こと」を見出すには、「こと」 の部分で試行錯誤をしなければ、「こと」を見出す「もの」への構造化を達成できない。つまり、単に言語的思考、 体系の知識でもってリズムの違いや和声の違いを知覚し、言語や記号、あるいは概念として理解するのではなく、 音から生じる「こと」そのものの差異を際立たせて判断できる〈技術〉を身に付けることを、創作行為によるソ ルフェージュ学習は可能にしている。松永 ( 2 0 0 5 ) が「ふしづくり教育」に対して「単なる創作のためのシステ ムではなく、感覚を通して子どもの内的な身体感覚を育むことから始まる音楽教育のシステムである」 ( p .1 7 0 ) と述べているように創作学習を通して、ソルフェージュカを単に知識としてではなく、創作に必要な「試行錯誤」 を成立させる〈技術〉として身に付けることが出来るのである。 では、「ふしづくりに教育」において、具体的にはどのような課題や活動が「こと」としての働きを含めたソ ルフェージュ学習として有効であるのか、次に例を挙げながら述べる。 例えば、 28ステップや 29ステップは、楽器を用いて「模唱奏」する段階の課題である(図 2)。ここでは始 めに指導者が演奏したのを聴いて、音を鳴らす活動をする。その活動によって内的聴感が鍛えられる。次に、学 習者自ら変奏をしていく。「ふしづくり教育」では育てるべき音楽能力として「変奏力」を挙げている。そのため、 カリキュラム全体においてしばしば変奏の活動が出てくる。この変奏活動が試行錯誤の基本的な体験となり、そ の技術を学ぶことになる。聴いて感じた「こと」を基に変奏することで、そのとき感じた「こと」の差異から「自 分の気に入る音」を選択して「音楽」へと構築していくことが、試行錯誤を届いた作曲の基本的な〈技術〉とな. 、ノルフェージュ ( s o l f e g e ) とは、「総合的な基礎教育を意味する。主として楽典、聴音、視唱などの学習を通じて楽譜の 全体的な理解と正確な表現能力を得ることを目的とし、さらにそれらの能力を高める訓練を行う」(「新音楽辞典J1 9 7 7 淡香淳絹)※引用元にある( )内の補足は省略した。 6 「比較聴取」とは「ある点で共通性を持ちながらもある点で異なる面を見せる複数の音楽を提示し、対比的にその違い を目立たせて知覚.感受させる方法」(衛藤・小島 2 0 0 6 ,p .3 0 ) であり、音楽の働きを知覚する学習過程において用いら れる方法である。先の「美的音楽教育」の中心人物であったリーマーが編者になっている音楽教科書『MUSIC』 ( 1 9 7 8 , S i l v e rB u r d e t t ) においてよく用いられた方法である(衛藤・小島 2 0 0 6 ,p .3 0 )。しかし、ここでは、ある共通部分を持ち ながら比較して聴いて差異を感じる体験そのものを表わす言葉として用いる。 5. -40-.

(11) 「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性. 2 8 リズムかえっこ(リズム変奏により. 何倍もの音楽ことばをふやす). 日 2 9 2人組のリズムかえっこ ⇒. 図 2 模唱奏と変奏力を身に付ける課題. 転. ま i-. 去. B﹄. 主 玉 i-. 釦. 出典:山本弘• 関根朋子絹. ( 2 0 0 5 )p .1 2 6. る。差異の働きを感じるためには反復される要素があることが必要条件である。まったく違うとどの部分の何が 良かったのかを反省的に理解しにくい。 2 8ステップや 2 9ステップでは音程が同じままでリズムを変えた変奏で ある。このような変奏によって生じる「比較聴取」が、自分にとって〈そのとき〉に求めている「音」. 7. を見出. すことへとつながっていく。リズム、和声、音程など様々な要素のいくつかを共通項としながら、ある要素の部 分を変数として「比較聴取」できるような変奏をする。そのことによって〈私の音〉を見出すことを、そのとき に生じる「こと」とともに体験的に学ぶことができるのである。その積み重ねによって、音楽の各要素やそれら の統合による働きを、身体的な技能、知識とともに身に付けることが創作に必要なソルフェージュ能力である。 この変奏の技術と、そのときの比較聴取の体験をもっていないと、膨大な音の中から自分が求めている「音」を 見出さなければいけなくなる。そうなると学習者は途方に暮れた末に、満足のない音の選択で時間を埋めて作品 としてしまうだろう。どのような音でも時間を埋めてしまえば、「作品」になってしまう。だが、自分が満足し たかどうかはそこにはなく〈私の音〉を現前させたという喜びもそこにはない。「ふしづくり教育」では、「どれ が自分の好きな音か」問いかける活動も在る。これは図 3に示されるように「試行錯誤」の体験そのものである。 創作では、このような「自分の好きな音」を見つける技術と体験が必要なのである。. 3 0 1好きなふしさがし グループ全員のふしの中で,新しいふし,好きなふしがあったら見つけ, みんなで模奏する。発展的な取扱い。. 粗. ! j J J ・月」 ll J ) J . J J l1 1 一 心JII 」詞」 II 」冗]」 ± I. 図 3 模唱奏から好きなふしを見つける課題. 出典:山本弘• 関根朋子編. ( 2 0 0 5 )p .1 2 6. また、創作活動ではしばしば学習者の記譜力が問題となる。なぜなら、記譜の仕方がよく分からないために創 作活動が停滞してしまうことは良く見られる。そのため楽譜を用いない活動や、図形楽譜などを用いる活動も見 るが、音楽における「時間」と「空間」の関係を視覚的に捉えながら試行錯誤できるためにも記譜が出来る方が 良い。なぜなら、書記化された時間軸上の「もの」は記憶を補助し、空間的な操作をしやすくするからである。「ふ しづくり教育」では音の体験を重視しており、体験で身に付いてから徐々に記譜へと移行していく段階的な学習 が行われている。(図 4) は、指を五線に見立てて音高と五線との関係を視覚的、体験的に学ぶ記譜の導入である。 このように「ふしづくり教育」は、拍節感や音感、リズム感といったソルフェージュ能力を、創作によって自 然に生じる「比較聴取」によって、それらが生じる「こと」の違いを実感しながら学ぶことができる。そのこと. 7. ここでの「音」は、ー音だけでなく、いくつか組み合わせた「音楽」の断片的なものを含める。. -41-.

(12) 消水稔. l. I指遊び. 5線のおはじき並ぺなどの遊びから〇符までを実施し.ー将 来楽譜へ移行するための布石とする。 3 8 1指遊び 3音のふしを聞き.階名唱して左手の 5線の位濫で示す。 ( ふ し ) (階名唱)(指あそび) 左手 左手の人差し指で. ロ呈→みれど三喜忙;:日~=. 図 4 階名唱から記譜への移行. 出典:山本弘• 関根朋子編. ( 2 0 0 5 )p ,1 3 4. ば創作において〈私〉の求める「音」を見出すのに必要な「試行錯誤」の技術を身に付けることを意味している。 すなわち〈創作で学ぶ〉という意味において「ふしづくり教育」は、現在でも有効な音楽教育法なのである。. 7 . まとめ 大切なのは、〈私〉が求めていた「音」が現前することであり、それらの「音」を、〈私〉を見出す「こと」と して味わいながら、「試行錯誤」を通して「音楽」として構築されることである。その喜びの積み重ねが、創作 そのものの喜びとなって、生涯を通しての創作行為の持続へとつながっていく。そのような活動を成立させるた めには、音楽の〈技術〉を〈実感〉を通して身に付けなければならない。「ふしづくり教育」は、そのためのソ ルフェージュ学習を〈創作で〉学ぶ方法として見直される価値がある。つまり創作学習は、指導者が〈創作を学 ぶ〉活動と〈創作で学ぶ〉活動を、意図的に関連づけて成立させることが必要なのである。そのことによって指 導者のスタンスにおける迷いはなくなり、〈創作を学ぶ〉活動の課題設定において指導者の独創性が発揮されれ ば、指導者側の意欲にもつながるだろう。 また、本論では個人と音楽の関係性を中心に論じたが、他の主体との関わりも発展的に見出せる。音楽とい う「もの」を現前させることは、外界という空間に意識対象の他者をつくり出すことで、主体同士を関係させる ことを可能にする。他の主体がつくった「音」でも、それが〈私の音〉であれば、〈私〉の試行錯誤を助けてく れる。創作は自己から表出する表現であるという誤解から、個人的な活動のように捉えられがちであるが、〈私 の音〉が実際の「音」として嗚ることが必要な要素なのであって、創作でもグループ学習は有効な手段と成り得 る。またグループ活動によって、他の主体の承認があることも創作の過程で有効に働く。それは、〈私〉が時間 軸上に持続する「こと」への欲求を満たしていく。なぜなら、「私はこれだ」という主語的自己として現れる〈私〉 の同一性は、他の主体によって認められることが世界との関わりにおける保証となるからである。〈私〉は「音」 と同時に、主体同士の関係性も求めているのであって、言葉以外の「こと」が他の主体に認められることも、「こ と」を「もの」から〈私〉として引き受けるときに有効な要素であり、〈私〉の持続において最終的には必要な のである。 今回は、「ふしづくり教育」の現象学的視点から、全体的な再評価の方向性を示したに過ぎない。これらの知 見をもとに、より具体的な再評価をするとともに、そこから新しい創作のカリキュラムを構築していくことが必 要である。. 【引用文献l アイニロ, R ( 1 9 9 8 ) 『音楽の認知心理学』(大串健吾訳)誠信書房. 浅井ちとせ ( 2 0 1 4 ) 「小・中学校の音楽科『創作(音楽づくり)』分野における指導と評価の工夫について」『研究紀要(第. -42-.

(13) 「ふしづくり教育」によるソルフェージュ教育としての可能性. 4集)」京都府総合教育センター,p p .4 0 4 5 . 淡香淳絹 ( 1 9 7 7 ) 『新音楽辞典』音楽之友社. 井筒俊彦 ( 1 9 9 1 ) 「意識と本質一精神的東洋を索めて』岩波書店. 衛藤晶子・小島律子 ( 2 0 0 6 ) 「音楽授業において知覚.感受を育てる方法論としての比較聴取ー表現の授業の場合ー」「大 阪教育大紀要第 V部門」第 5 4巻第 2号.p p .2 9 4 0 . 小野貴史他 ( 2 0 0 4 ) 「音楽科教育における創作領域の現状ー教科書の分析を中心とした考察ー」「信州大学教育学部紀要 N o . 1 1 3 ]p p .3 1 4 2 . 木村敏 ( 1 9 8 2 ) 『時間と自己』中央公論新社 窪園晴夫・太田聡 ( 1 9 9 8 ) 「音韻構造とアクセント」研究社. 阪井恵 ( 2 0 0 9 ) 「〈音楽づくり〉の理論をめぐるスタンスの整理一学習論における客観主義 v s .構成主義.『音楽』観におけ る本質主義 VS.構成主義」『研究紀要』第 4 3集.国立音楽大学,p p .3 7 4 8 . 佐藤良明 ( 1 9 9 9 )『 J-POP進化論ー「ヨサホイ節」から「 Automatic」ヘ―J 平凡社. 島崎篤子 ( 2 0 1 2 ) 「1 9 6 0年代の学校教育における創作学習∼わらべうたとふしづくり教育に着目して∼」「教育学部紀要」 第 46集.文教大学教育学部.p p ,1 1 5 1 3 4 . 新宮一成 ( 1 9 9 5 ) 『ラカンの精神分析』講談社 スモール. C ( 2 0 1 1 ) 「ミュージッキングー音楽は〈行為〉である」(野澤豊ー・西島千尋訳)水声社. 上田誠二 ( 2 0 1 6 ) 「m復興期」『〈戦後〉の音楽文化」(戸ノ下達也編)青弓社. 高須一 ( 2 0 1 2 ) 「音楽づくりのコッ」「音楽づくりの授業アイデイア集』音楽之友社,p p ,6 1 2 . 坪能由紀子 ( 1 9 9 7 ) 「星野圭朗先生の実践とその意味」『音楽の発見ー「ミューズ的表現」 J音楽之友社,p p .7 1 7 8 . 坪能由紀子 ( 2 0 1 2 ) 「先人の実践に学ぶ」『音楽づくりの授業アイディア集』音楽之友社,p p .6 1 2 . デシ, E , L・フラスト. R ( 1 9 9 9 ) 「人を伸ばすカー内発と自律のすすめ』(桜井茂男訳)新躍社. 中村雄二郎 ( 1 9 9 2 ) 「臨床の知とは何かj岩波新書 日本音楽教育学会絹 ( 2 0 0 4 ) 『日本音楽教育事典」音楽之友社. ハイデッガー ( 2 0 1 3 ) 「存在と時間(一) J (熊野純彦訳)岩波文庫. 松井孝夫 ( 2 0 1 3 ) 「中学校音楽科における創作指導の発案とその一考察一附属女子中学校での実践を通して一」『音楽文化 研究第 1 2号』聖徳大学大学院音楽文化研究科,p p .1 5 2 4 . 松永洋介 ( 2 0 0 5 ) 「「ふしづくりの音楽教育」が日本の学校の音楽教育に示唆するもの」「“ふしづくり”で決まる音楽能力 の基礎・基本』明治図嘗,p p .1 6 4 1 7 6 . 松本民之助 ( 1 9 6 4 ) 『音楽創作の指導ー創作する子らのためにー」音楽教育図書株式会社. 山本弘• 関根朋子編 ( 2 0 0 5 ) 「“ふしづくり"で決まる音楽能力の基礎・基本』明治図書.. 吉野秀幸 ( 2 0 1 2 ) 「音楽教育における『行為の立場』」『メデイア・記号・芸術』 N o . 4東北大学大学院情報科学研究科メデイ ア記号論研究室, p p . 1 4 5 4 . 吉野秀幸 ( 2 0 1 3 ) 「音楽教育の理論モデル構想ー「認識の立場j を超えて一」「大阪教育大学紀要 号p p .3 7 4 9 .. E l l i o t t .DavidJ .( 1 9 9 5 ) ' ' M u s i cMatters. 第 I部門』第 62巻第 1. —A NewPhilosophyofMusicEducadon" OxfordUniversityPress.. -43-.

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参照

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