ヘーデマン「一般条項への逃避」の今日的意義
円谷 峻
Ⅰ はじめに
本稿は、ヘーデマン(JustusWillhelmHedemann)の論文「一般条項への逃避」 (JustusWilhelmHedemann,DieFluchtindieGeneralklauseln-EineGefahrfür RechtundStaat,1933)を取り上げ、その今日的意義を考えることを目的とす る1)。1933 年に公表された同論文は、しばしば指摘されるように、一般条項の 光と陰を示し、一般条項の濫用に対する警告の書である2)。このような警告に特別寄稿
1)ヘーデマン(JustusWillhelmHedemann)(1878 年 4 月~ 1963 年 3 月)は、ドイツの法 学者である。1917 年に創設された同大学経済法研究所の所長に就任した。特筆すべきは、 本論文「一般条項への逃避」が公表された 1933 年にナチスにより設立されたドイツ法 アカデミーにおける委員会の議長となり、1936 年以降はベルリン大学法学部の経済法研 究所長、同大学法学部長などを歴任している。ナチスが恣意的な法の運用を行ったこと は広く知られているが、そうだからといって、ヘーデマンは、ナチスに対する批判者で あったわけではなく、むしろナチス政権から重用さえされた人物である。ヘーデマンは、 1946 年に大学を退職した。 2)広渡清吾著『法律からの自由と逃避』(日本評論社、1986 年)371 頁。また、五十嵐清「< 書評>広渡清吾著『法律からの自由と逃避』」『現代比較法学の諸相』(信山社、2002 年) 108 頁は、次のようにいう。「これは、表題から分かるように、当時の判例・学説が一般 条項へ逃避したことに対する警告の書である。」。もかかわらず、一般条項、とくに信義則は、判例法による法形成の原動力として、 依然として重要なものになっている。たとえば、ドイツの法学者ディーター・ ライポルト(DieterLeipoldt)は、その著書でいう。「一般条項への立法者の 逃避が批判的に論じられはしたけれども、全体としてみれば、一方では正確に 概念づけられた諸規定と、他方では一般条項の共存が十分に維持されてきた。 基本的には、これにより法実務を通じた法の発展(法形成)に対する可能性を もたらすものが民法典の中に組み込まれたのである。(たとえば、138 条[善 良な風俗に違反する法律行為、暴利行為]、826 条[善良な風俗に違反する故 意による加害]または 242 条[信義誠実に従った給付]のような)一般条項の 枠内で、判例は多くの新しい法命題を創設した。そして、この方法で、一般条 項により正当化された新たな法が形成され、最終的には、具体的な法律上の規 定に匹敵するかたちで、それらが適用されるのである。」3)。 私は、ライポルトの指摘を適切だと考える。しかし、ヘーデマンの警告は、 依然として通奏低音のように響いている。今日の判例法による法形成物を適切 に理解するためには、このヘーデマン論文と向き合う必要がありそうだと思わ れる。本稿は、このような問題意識から、ヘーデマン論文については優れた先 行研究(注 2 引用文献など)があることを知りつつも、ドイツにおける議論を 中心にして論を進めることにする。
Ⅱ 論文「一般条項への逃避」の内容
1 論文の全体像
(1)ヘーデマン論文の構成 (ⅰ)ヘーデマン論文は、次のような構成になっている。 まえがき(1 頁~ 3 頁) 3)DieterLeipoldt,BGB Ⅰ EinführungundAllgemeinerTeil,7.Auflage,2013,§3.Rdnr.15.Ⅰ 第 1 部 現状分析(4 頁~ 52 頁) 1 章.民法典制定以前における一般条項(exceptiodoligeneralis,ALR§10 Ⅱ 17)(4 頁~ 6 頁) 2 章 民法典の一般条項、とくに 826 条および 242 条(6 頁~ 10 頁) 3 章 自由法運動と価格増額の闘い(10 頁~ 12 頁) 4 章 信義誠実の高い人気(12 頁~ 15 頁) 5 章 労働法と競争法への侵入(15 頁~ 18 頁) 6 章 特別法における一般条項(18 頁~ 21 頁) 7 章 商法(21 頁~ 24 頁) 8 章 公法(24 頁) 9 章 民事訴訟(24 頁~ 29 頁) 10 章 執行法(29 頁~ 32 頁) 11 章 刑法(32 頁~ 38 頁) 12 章 税法(38 頁~ 41 頁) 13 章 行政法(41 頁~ 46 頁) 14 章 国家法(46 頁~ 51 頁) 15 章 ビザンチン主義(51 頁~ 52 頁) Ⅱ 第 2 部 評価(53 頁~ 76 頁) 16 章 一般条項の解釈論(ドグマティーク)(53 頁~ 58 頁) 類似する概念からの一般条項の分離(53 頁~ 55 頁) 射程の限界(55 頁~ 56 頁) 多数の一般条項間の関係(56 頁~ 57 頁) 法体系への組み入れ(57 頁~ 58 頁) 17 章 一般条項が前面に出される理由(58 頁~ 60 頁) 対象の過剰さ(58 頁~ 59 頁) 拠り所となる内的なものがないこと(59 頁~ 60 頁) 疲労(60 頁)
18 章 一般条項の成果(60 頁~ 66 頁) 緊急の個別的紛争の解決(60 頁~ 62 頁) 新しい法形成物の創設(62 頁~ 64 頁) より高い段階での判断力の発掘(64 頁~ 66 頁) 19 章 一般条項の第 1 の危険:軟化(66 頁~ 67 頁) 20 章 一般条項の第 2 の危険:不安定さ(67 頁~ 70 頁) 21 章 一般条項の第 3 の危機:恣意(70 頁~ 73 頁) 22 章 我々はいずこにありや?(73 頁~ 76 頁) (ⅱ)本稿では、本論文をすべて紹介する余裕はない。そこで、「まえがき」、 1 章、2 章、3 章、4 章、9 章、16 章~ 22 章を中心にして検討する(なお、以下で、 ヘーデマンの主張をしばしば紹介するが、原則として筆者なりにまとめたかた ちで、それも筆者(円谷)が興味深いと思う部分を中心にして説明する。この 点を留意されたい。)。 (2) 「まえがき」 (ⅰ) 「まえがき」には、副題として、„iusestarsbonietaequi“(「法とは、 善意と公平の技術である。」)というラテン語が付されている4)。ヘーデマンは、 2 世紀初頭の法学者であるケルススが善意とか公平が法にとり重要であること を述べるに至るまでには、数百年にもわたる法の発展があり、ビザンチン期の 初期の法は公平と善意の法(iusaequumetbonum)ではなく、厳正な法(ius strictum)であったこと、その後、徐々に、信義誠実による法律行為(negotia 4)ユスティニアヌス帝が編纂したパンデクテン(学説彙纂[がくせついさん])の最初の文 は、次のようなウルピニアヌスの言葉である。「法に真剣に取り組もうとする者は、とく に、法が何に由来するかを知らなければならない。それは、正義から導かれるのである。 何故ならば、ケルスス(Celsus)が印象深くも定めたように、法とは、善意と公平の技 術のことだからである。」(Ulp.D.1,1,1pr.)。訳は、OkkoBerhrends,RolfKnütel,Berthold Kupisch,HansHermannSeiler,CorpusIurisCivilisTextundÜbersetzung ⅡDigesten 1-10,1995 によった。
bonaefidei)が厳格な法律行為(strictiiurisnegotia)よりも前面に現れてきた ことを指摘する5)。 (ⅱ) ヘーデマンは、ローマ法が厳格な法から柔軟な法へと変化していった ことについて、「まえがき」で詳しく論じるが、彼が「法とは、善意と公平の 技術である。」(iusestarsbonietaequi)という言葉を冒頭に用いた理由に ついては、本論文の結論部分で説明されている。彼は、この言葉の意味につ いて、「ヴィントシャイト(Windscheid)は、『ここには、法の理想が明示さ れている。』と唱えたが、デルンブルグ(Dernburg)は、彼に反対して、『ars とは理想ではなく、理想を実現する技術である。』という。私は、デルンブル グに与する。」と論じる(74 頁)。本論文は、その技術としての一般条項を対 象にして、法を運用する者、とくに裁判官に対してその安易な活用を戒めよ うとするのである。本論文は、第 1 部「現状分析(Ⅰ)」、第 2 部「評価(Ⅱ)」 に分けられる。
2 第1部 現状分析
(1)「1 章 民法典制定以前における一般条項」 (ⅰ)今日の信義誠実に該当するものは、ヘーデマンによれば、第 1 にロー マ法以来認められてきた一般的悪意の抗弁(exceptiodoligeneralis)であり 5)どのような法律行為が信義誠実による法律行為(negotiabonaefidei)かが興味深いが、 それは、ガイウスの法学提要 4 - 62 とユスティニアヌスによる法学提要 4,6§28 に列 挙されている。佐藤篤士監訳『ガーイウス 法学提要』(敬文堂、2002 年)203 頁によれば、 ガイウス法学提要 4 - 62 では、誠意訴訟は、売買、賃約、事務管理、委任、寄託、信託、 組合、後見、嫁資、使用貸借、質、家産分割、共有物分割の訴訟である。 また、ユスティニアヌス法学提要4,6§28 では、とくに信義誠実に基づいた訴訟は、 使用賃貸借、用益賃貸借、雇用および請負契約、準事務管理、委任、寄託、組合、後見、 使用貸借、抵当権の設定、相続財産の分割、共有の分割に基づく訴訟などである(ドイ ツ 語訳 を 使用 し た。使用文献 は、C.F.Müller,CorpsIurisCivilis,TextundÜbersetzung Institutionen,2.verbesserteunderweiterteAuflage,1997)。6)、第 2 には公法の領域で用いられたプロイセン一般ラント法(ALR)の §10 Ⅱ 17)である7)。以下では、一般的悪意の抗弁についてのみ論じる。 (ⅱ)ヘーデマンによれば、民法典制定以前には一般的悪意の抗弁は教科書 上でのたんなるお飾りであり、実務では全く一般化されず、稀に個別的に用い られる補助手段でしかなかったし、ライヒ裁判所の判例を一瞥するだけでそれ は明らかとなる。彼は、次のようにいう: ライヒ裁判所は 1879 年に活動を開始し、最初から半公式の判例集が出版さ れたが、(判例集 6 巻 333 頁における内容のない考慮を別とすれば)、最初の 17 巻までは、この一般的な悪意の抗弁(exceptiodoligeneralis)について言 及する判決は存在せず、1886 年に至って初めてそれを述べる判決が下された。 すなわち、ライヒ裁判所の活動開始から 13 年間で悪意の抗弁が用いられてい 6)悪意の抗弁(exceptiodoli)は、特殊的悪意の抗弁(exceptiodolispecialis)と一般的悪意 の抗弁(exceptiodoligeneralis)とに区別される。前者は過去の悪意の抗弁とも言われ、 後者は現在の悪意の抗弁とも呼ばれる。たとえば、原告が契約の締結に際して詐欺をし た場合に、被告が原告には悪意があったと抗弁し、審判人に免訴を求める場合には特殊 的(過去の)悪意の抗弁が問題となる。これに対して、たとえば、原告が免除契約を結 びながら、訴えを提起する場合、悪意は、過去の行為ではなく、訴えの提起という現段 階の行為に認められる。この場合に、被告は、一般的(現在の)悪意の抗弁により、免 訴を求めることができる。一般的悪意の抗弁は、「主観的な精神状態を問題とすることな く、或る事情が存する場合の訴えの提起は当然に悪意を包蔵するものと看做された場合 ――「事物自体がその中に悪意を包蔵する」――にも適用があったから、その適用範囲 は甚だ広く、法務官が市民法を矯正するのに最も重要な武器とするに至った。」(原田慶 吉『ローマ法[改訂]』[有斐閣全書、2001 年]390 頁。旧字体は新字体に変更)。 ドイツ民法典制定時における一般的悪意の抗弁の取り扱いについては、ラインハルト・ ツィンマーマン(佐々木有司訳)『ローマ法・現代法・ヨーロッパ法』(信山社、2008 年) 87 頁。 7)ALR§10 Ⅱ 17 は、「公的な平穏、安全および秩序のために必要な施設、および、公衆ま たは個々の社会構成員に切迫した危険を防止するために必要な施設は、警察署である。」 と定める。「平穏、安全、秩序とは、公法の教師が „Generaldelegation“ と名付ける一般条 項であり、公法の領域に存在した。」(ヘーデマン 5 頁)。
る判決として、わずか 10 判決が見いだされるにすぎない。これら 10 判決では、 統制がとられておらず、全く事案を異にするものもある。一つは保証に関する もので、第二は代理に関するものである。そして、第三のものは留置権につい てであり、第四は、抵当権譲渡に関するものであった。一般的な悪意の抗弁は、 まずは「信義誠実」と同じだとされた。次に、一般的な悪意の抗弁に対してよ り強い内容も認められるようになった。一般的な悪意の抗弁は、ただ抗弁とし てだけ認められるのではなく、悪意(dolus)が損害賠償請求権のための訴権 の構成要素とされたのである。しかし、全体として、一般的悪意の抗弁は、ご くわずかしか利用されはしなかった。 (2)「2 章 民法典の一般条項、とくに 826 条および 242 条」 (ⅰ)民法典制定後の状況はどうであったか。ヘーデマンは、民法典制定以来、 よく知られるようになった王の如き条文として、157 条(契約の解釈)、226 条 (シカーネ禁止)、242 条(信義誠実に従った給付)、826 条(善良な風俗に違反 する故意による加害)を指摘するとともに8)、それらのその後の「運命」につ いて説明する: 226 条(シカーネ禁止)は、発展することもなく取り残された。同条の適用 は、立法時の期待に反して稀でしかなかった。157 条(契約の解釈)も、漸次、 表舞台から後退していった。同条は、今では、第 1 には解釈を論じる場合にお 8)本稿では、便宜上、条文見出しは、原則として、2002 年の改正民法典に付せられた公式 見出しによる。157 条(契約の解釈):「契約は、信義誠実が取引慣行を考慮して求めるよ うに解釈される。」。226 条(シカーネ禁止):「権利の行使は、それが他人に損害を加える 目的のみを有するときには、許されない。」。242 条(信義誠実に従った給付):「債務者は、 信義誠実が取引慣行を考慮して求めるように給付を実現する義務を負う。」。826 条(善良 な風俗に違反する故意による加害):「善良な風俗に反する方法で他人に故意に損害を加 える者は、その者に損害を賠償すべき義務を負う。」。なお、826 条(善良な風俗に違反す る故意による加害)は、不法行為法規定の一つである。
ける堅実な備品として、第 2 には(それよりもやや頻繁でより重要なものとし て用いられてはいるが)、242 条(信義誠実に従った給付)の忠実な従者とし ての存在意義があるにすぎない。その結果、826 条(善良な風俗に違反する故 意による加害)と 242 条(信義誠実に従った給付)だけが生き残った。 (ⅱ) ヘーデマンは、826 条(善良な風俗に違反する故意による加害)が長 期にわたり優勢に見えたし、実際にも同条の経歴は輝かしいものであったとし て、次のように説明する: 同条は、民法典における可能なすべての領域での救済手段となっていった。 契約違反の場合には、契約違反をする当事者自らは、契約に基づいて訴えられ ることをまがりなりにも認識しているが、契約外で現れる不法行為者に対して は、被害者は何の武器もないように思われた。しかし、人々は、不法行為者の 乗る小舟を 826 条(善良な風俗に違反する故意による加害)という鉤付き棒で 素早く手許にたぐり寄せ対応した。相隣法のもとでは、部分的には民法典とよ り詳細なラント法を通じて個別的な決定の積み重ねを図る(カジスティーク) という対応がとられはした。しかし、これらの多数の個別的な諸規定のいずれ によっても解決することができない問題が生じ、826 条(善良な風俗に違反す る故意による加害)がその場合における問題解決のための突破口となった。婚 約関係では、たとえば女性婚約者と男性婚約者が、婚約法の原則によりすでに 十分な法的関係にあるとする。しかし、女性婚約者の父親が、悪意に満ちた方 法で婚約を壊したとき、ライヒ裁判所は、父親に対する損害賠償請求を 826 条 (善良な風俗に違反する故意による加害)で根拠づけた。この条文は民法典の 枠を広く超えて有益なものとされた。これは、一般条項の特性の「さらなる進展」 (Weiterwandern)、「さらなる蚕食」(Weiterfressen)のよき具体例である。(本 論文では労働法、カルテル法における同条の輝かしい働きも説明されているが、 これについてはこの指摘にとどめる。)。 (ⅲ)ヘーデマンによれば、ここ 10 年間、242 条(信義誠実に従った給付) が 826 条(善良な風俗に違反する故意による加害)を凌駕した。「信義誠実」
の原則は、すでにその制定の時期にも多くの注目を浴びたし、また、民法典の 施行後直ちに学問的な加工も行われた9。しかし、学説による 242 条(信義誠 実に従った給付)に対する学的関心に比較して、実務が当初とった態度は、抑 制的なものであった。ヘーデマンによれば、同条はライヒ裁判所判例集 48 巻 で初めて現れ、その後の 4 巻には見いだされず、次に見いだされるのは 53 巻 であり、その後の 3 つの巻には認められない。ライヒ裁判所は、1912 年の判 決(RGZ81,40)で10)、会社における議決権濫用に対して「信義誠実」という 手段で問題の克服を図るべし、との学者ハッフェンブルグによる提案に反して、 裁量と公平に基づいた伸縮自在な信義誠実という常套句は共同社会生活におけ る活動の中に最大の不安定さを持ち込むことになる、その濫用的利用により紛 争が多発する、と判断した。 さらに、ヘーデマンは、自身の興味深い経験を明らかにする。「私が 1 年後 (= 1913 年)に『生成と展開』に関する講演を行い、若い人々の熱狂のなか 9)ヘーデマンは、学問的加工として、およそ次のように説明する:すでに、1902 年、上 級地方裁判所参事官のシュナイダー(Schneider)は、『債務関係法における信義誠実』 という著書を刊行した。同年、シュタムラー(Stammler)は、その著書『正法学説』(Lehre vomrichtigenRecht)で広く明瞭に「信義誠実」という公式(Formel)を用いたが、 それに加えて、家族法の「濫用禁止」(ドイツ民法典 1354 条 2 項、1357 条 2 項、1666 条)および種々の異なった個別の箇所で現れる「公平な裁量」(billigenErmessen) という概念を用いた。また、シュタウプ(Staub)も、すでに 1902 年に Deutschen-Juristen-Zeitung で 157 条および 242 条について簡単に取り上げた。ヴェント(Wendt) は、AcP(円谷注 ドイツの法律雑誌名)の 100 巻で、「信義誠実」という新しい概 念と並んで、なお一般的悪意の抗弁(exceptiodoligeneralis)が用いられるべき余地 と必要性の有無について 400 頁を超える研究を公表した。その際に、一般条項の息吹 (Generalklausel-Gefühl)が明瞭に感じられる。 10)RGZ81,40 との標記について説明する。RGZ とは、EntscheidungendesReichsgerichits inZivilsachen(ライヒ裁判所[=戦前における最上級審裁判所]民事判例集)であり、 81,40 は、81 巻 40 頁の意味である。なお、Bd. という標記も後に出てくるが、それは Band(巻)の意味である。
で『王の如き条文』を賞賛したとき、真剣に行われた討論で、ナウムブルクか らの著名な 2 名の裁判官が、そのような『信義則法学』(Treu-und-Glaubens-Jurisprudenz)における大きな危険を唱え、もし人々がこの路線(=信義則法学) を進むならば、我々は、直ちに上滑りを開始し、もう停まることはできないで あろう、と反論した11)。」(10 頁)。 (3)「3 章 自由法運動と価格増額との闘い」 (ⅰ)しかし、このような信義則に対する実務の態度は大転換した。ヘーデ マンは、その理由として、第一次大戦前の自由法運動と戦後の価格増額の争い (Aufwertungskampf)を挙げている。 参考までに自由法運動(Freirechtsbewegung)について簡単に説明して おこう。自由法運動とは、1906 年に「法学に関する闘争」(DerKampfum dieRechtswissenschaft)と い う ヘ ル マ ン・カ ン ト ロ ヴィッチ(Hermann Kantrowicz)による著作で開始され、1909 年以来、カールスルーエの弁護士 エルンスト・フックス(ErnstFuchs)によって担われ、「拘束から活動へ、文 言への厳格な拘束から自由な解釈へ、厳格で狭隘な個別の条文の世界から裁 判官の王国へ」(ヘーデマン)という方向に向かった運動である。わが国で も、次のように説明されてもいる。「自由法運動とは、一般に十九世紀末葉か ら二十世紀初頭にかけて、ドイツおよびフランス等に興隆した、反概念法学の 法思想を呼ぶ。その主要な主張は、法解釈の形式論理主義を排し、法源を成文 法に限定せず、学者の『 生レベンデスける法・レヒト』の探求と、裁判官の法創造機能を積極的 に説くところに、概念法学とは対蹠的な内容を示している。このような要求が 11)本文でいう「生成と展開」(WerdenundWachsenimBürgerlichenRecht)は、1913 年、 刊行されている。興味深いことだが、ヘーデマンは、第 1 次世界大戦以前では自由法運 動論の信奉者でもあった。このことは、本注の該当本文から理解することができよう。 すでに、五十嵐・前掲 108 頁がこれを指摘する。
十九世紀末よりにわかに高まってきたのは、上述のごとく、法の現実が概念法 学的方法の射程をはるかにのりこえて、裁判官たちに自由な法の探究を不可避 なものとさせるに至った実情にもとづく。」12)。 しかし、自由法運動は永続きしなかった。その理由は、自由な法解釈におい て依るべき規準が曖昧だったということに尽きるであろう。自由法運動は、そ の後、同運動と基本的に同様な認識に基づきつつも、利益(Interesse)を評価 規準とする利益法学に代わられた。本稿は判益法学の紹介を目的としていない ので、これについてはこの指摘にとどめておく。 (ⅱ)ヘーデマンは、1923 年以降の価格増額の争いについては、「18 章 一 般条項の成果」でも論じるが、3 章でも、彼は、次のような指摘をしている: この争いは、(第一次世界大戦後のドイツでの極端なインフレーションを 背景とするであるが)13)、法的な観点からみると厳格な法(iusstrictum)と 公平(aequitas)との対立である。ちなみに、ここでは厳格な法は、通貨法 (Währungsgesetz)であった。裁判所は、さしあたり金銭増額という手段、(ロー マ法の原則である)clausularebussicstantibus(事情変更約款)、債務超越理 論(dieLehrevonderüberobligationsmäßigenKraftanstrengungen)あ る い は「期待不可能」(dieNichtzumutbarkeit)という理屈で問題の解決を図ろう とした。しかし、最終的には、裁判上のエネルギーは、242 条(信義誠実に従っ た給付)、すなわち、信義誠実に注がれ、それにより通貨法の厳格性を守護す るかんぬきが外されて、門戸が開かれた。このため、242 条(信義誠実に従っ た給付)という民法上の一般条項で最も基礎的な公法上の諸法規への介入とい 12)小林直樹「利益法学」『法哲学講座 第四巻 法思想の歴史展開(Ⅲ)』(有斐閣、昭和 32 年) 267 頁。なお、主唱者として、オーストリアのエールリッヒ、ドイツのカントロヴィッチ、 フランスのジェニー、日本の牧野英一などが挙げられる。また、アメリカのロスコー・ パウンドやホームズ、リューウェリンなども同一の傾向にあるとされている(小林・前 掲 270 頁~ 271 頁参照)。 13)詳しくは五十嵐・前掲書 109 頁~ 110 頁。
う前代未聞の出来事が生じたのである14)。 (4)「4 章 信義誠実の高い人気」 (ⅰ)ヘーデマンは、信義則などの一般条項が高評価を得たことについて、 以下のように説明する: (価格増額 の 問題)以来、242 条(信義誠実 に 従った 給付)は「高 い 人気」 を博するようになり、同条は、塊(かたまり)となって裁判所の判例集を形 成している。少なくとも半ダースにも及ぶ判決の中で、同条が確認されないラ イヒ裁判所判例集はなかった。それと並び、他の類似の一般条項についても急 展開が生じた。一般的な悪意の抗弁は、ドイツ民法典の制定時に(立法者に より)明瞭に拒否されたにもかかわらず(プロトコールⅠ、238 頁以下)、そ して、学説における当初の争い(シュナイダー対ヴェント)にもかかわらず、 私法体系の中に確定した地位を得て、242 条(信義誠実に従った給付)と並ぶ ものとなった。ライヒ裁判所は、1904 年 9 月の判決で、「特別な事情」を要件 とはするが、157 条(契約の解釈)、242 条(信義誠実に従った給付)、826 条 (善良な風俗に違反する故意による加害)とならび悪意の抗弁(Einrededer Arglist)を認める可能性を示した(Bd.58S.429)。それから 5 年後、最上級裁 14)価格増額に関する法律論は、行為基礎論として、ドイツにおける判例による確立した法 形成物となり、2002 年に施行された改正民法典では、313 条(行為基礎の障害)として、 条文化された。 313 条(行為基礎の障害)は、次のとおりである。「(1)契約の基礎とされる諸事情が 契約締結後に重大に変更し、当事者がその変更を予見していたら、契約を締結しなかっ たか、他の内容で契約を締結したであろうとき、個別的な事案のすべての諸事情、とく に契約上または法律上の危険分配を考慮して当事者の一方に変更されない契約に拘束さ れることを期待することができないかぎりで、契約の適合を求めることができる。(2) 契約の基礎とされる本質的な観念が誤ったものと判明するとき、それは諸事情の変更と 同じである。(3)契約の適合が可能でないか、または、契約当事者の一方に期待するこ とができないとき、不利益を蒙る当事者は、契約を解除することができる。継続的債務 関係については解除権に代わって解約権が認められる。」。
判所は、判例による法形成物を顧みることができるほど広範に進展した(Bd.71 S.432)。その後、最上級裁判所は、むしろ、特別な悪意という主観的要件さえ も脱落させ、原告によるそれまでの行為に対する同人によるたんなる客観的な 違反をもって、被告に対し「民法典において黙示に承認された」悪意の抗弁を 認めるのに十分だとみなした(Bd.108S.110)15)。従って、再び、すでに半分 は見放されていた一般条項の輝かしい凱旋パレードが生じたのである。 (ⅲ)また、ヘーデマンは、「重大な事由」、不安の抗弁権(321 条[不安の 抗弁権])などを取り上げ、それらでは信義則に支えられた一般条項的な規定 の導入や解釈が図られていると指摘し、以下の(a)(b)にように論じる: (a)重大な事由について たとえば、1923 年のカルテル法 8 条に「重大 な事由」に基づく解約という一般条項的な形式が導入され、また 1928 年の改 正賃借人保護法は、諸事案に対応するカジスティークな規定を多く有するが、 同法 4 条では「賃貸人にとり甚だしく不公平」という一般条項的な規定が設け られているし、法関係は重大な事由に基づいて契約の終了前に解消されるとの 原則を私法、公法に設けようとの試みなどがある(13 頁~ 14 頁)。 (b)不安の抗弁権 双務契約の場合、先履行義務者は、「契約の締結後、 相手方の財産状態に本質的な悪化が生じるとき」(321 条[不安の抗弁権])、法 律から一度は放棄された「契約不履行の抗弁」(exceptiononimpleticontractus) (=契約を履行しなくてもよいとの抗弁権)を取得する。しかし、([ヘーデマ ン論文公表時の]321 条には契約の解消に関する規定は含まれていないのだか ら)、先履行義務者は、(履行拒絶権を有するが)依然として契約に拘束される のである。先履行義務者は、給付をする必要はないが、相手方も給付する必要 15)一般的悪意の抗弁に関する本文の叙述は、主観的要件を重視せず、客観的要件で権利濫 用を認めるようになったわが国の権利濫用論と近似する。わが国における権利濫用論の 機能分析については、とりあえず、幾代通「『権利濫用』について」法政論集第 1 巻 2 号 139 頁、鈴木祿弥「財産法における『権利濫用』理論の機能」法律時報 341 号 16 頁。
もない(円谷注 先履行義務者は履行を拒絶することができるが、先履行がさ れない以上、相手方も履行をする必要がないからである。)。このため、242 条 という魔法の杖で、民法典に定められていない解除権が先履行義務者に認めら れることになった。すなわち、この不確定な状態は、何らかの方法で終わらせ なければならない。先履行義務者に契約を解除する権利が認めなければならな いだろう。この解除権は 242 条から導かれる。何故ならば、先履行義務者が自 己の給付の準備をしておかなければならないのか否かについて永続的に不確実 な状態に置かれるならば、それは、信義誠実に合致しないからである。 (ⅳ)以上が、ヘーデマンの主張である。なお、2002 年に施行された改正民 法典 321 条(不安の抗弁権)2 項 2 文に先履行義務者の解除権が定められ、立 法的解決が図られている16)。同条に関する政府草案理由書は、ヘーデマンの 上記説明と同様な立法理由を述べている17)。 16)2002 年の改正民法典 321 条(不安の抗弁権)には、1 項と 2 項が設けられた。321 条(不 安の抗弁権):「(1)双務契約に基づいて先履行義務を負う者は、反対給付に対する自ら の請求権が相手方の給付能力が欠如したことによって危うくなることを契約締結後に明 らかとなるとき、自らの負う給付の履行を拒絶することができる。反対給付が履行され るとき、または、反対給付のための担保が提供されるとき、給付拒絶権は認められない。 (2)先履行義務者は、相手方が、その選択に従って、反対給付と引き換えに、反対給付 を履行するか、または、担保を提供しなければならない相当期間を定めることができる。 その期間の徒過により、先履行義務者は、契約を解除することができる。323 条(給付 がされなかったか契約どおりに提供されなかったことによる解除)が準用される。」。 17)政府草案理由書は、次のように説明する。「不安の抗弁権の提起後における不確定的状 態を阻止するために、本条 2 項は、先履行義務者の解除権を定めている。それは、猶予 期間を用いる形式に従っている。すなわち、解除は、先履行義務者が先履行権利者に対 し先給付と引き換えに反対給付の実現または担保の提供のために相当期間を設けたこと を前提とする。これにより、連邦通常裁判所の判例が、法律として定められる。判例に よれば、その様な解除権は、242 条(信義誠実に従った給付)から生じている。」。本稿 は、政府草案理由書についてはカナリス(Claus-WilhelmCanaris)によって集成された „Schuldrechtsmodernisierung2002”(Beck,2002)に よった。引用部分 は、同書 752 頁 ~ 753 頁である。
(5)その他の領域への一般条項の侵入 (ⅰ)前述 の「4 章」に 続 き、「5 章 労働法 と 競争法 へ の 侵入」、「6 章 特別法 に お け る 一般条項」、「7 章 商法」、「8 章 公法」、「9 章 民事訴訟」、 「10 章 執行法」、「11 章 刑法」、「12 章 税法」、「13 章 行政法」、「14 章 国家法」、「15 章 ビザンチン主義」で、一般条項がどのように用いられてき たかが論じられている。5 章、7 章、8 章、10 章、11 章、12 章については省略 する。 (ⅱ)「9 章 民事訴訟」では、一般的悪意の抗弁が、信義誠実と結びつい て、民事訴訟でも居場所を得たと論じられている。本稿では、とくに表見証明 (Prima-facie-Beweis)の登場とその発展について、彼の説明を紹介する: 民事訴訟法 の 領域 で は、表見証明(Prima-facie-Beweis)と い う 急速 に 推し進められた法形成物がある。古い厳格な立証責任の原則からの弛緩 (Auflockerung)は明らかである。立証責任は分配される(汝はこれを証明し なければならず、相手はあれを証明しなければならない――Duhastdas,der Gegnerjeneszubeweisen.)。立証負担を担う当事者がまずスタートをきる(Die belasteteParteimachteinenAnlauf.)。彼が完全な証明を果たすことはできな いが、「定型的事象経過」(typischenGeschehensablauf)までの証明には達す ることができ、それ以上を期待することができない場合、その段階から、相手 方が証明を負担しなければならない。 (ⅲ)ヘーデマンによれば、表見証明を肯定するこの立論は、数年内に解釈 上の教義の如きもののようになった。また、ライヒ裁判所による表見証明に対 する見解については、次のように説明されている: 「立証軽減」という言い回しは、すでに早くに用いられたが、概念の確立、 そして、それと同時に訴訟上の一般条項の構築のための源となった判決は、 1925 年 12 月 12 日判決だと思われる(Bd.112,231)。この判決では、証明をす べき者の「困難な状況」から出発し、「完全な証明」からの割引(Abstrich) が許されるものとみなされ、それは、次の言葉で特色づけられた:「このこ
とで、すでに蓋然性の証明(Wahrscheinlichkeitsbeweis)(Beweisdesersten Eindrucks[第一次印象での証明],Prima-facie-Beweis[表見証明])が指摘さ れる。すなわち、事物の通常の経緯の場合に、生活経験に従えば損害を発生さ せる特定の原因に起因する特定の事実が確定されるとき、通常の経緯とは異な る過程を主張する者は、そのことを証明しなければならない。 同判決以降、表見証明は裁判所の確定した道具となり、年を追うごとに重用 されるようになった。そのため、ライヒ裁判所は、その過度の利用について 警告を発しなければならなかった。ライヒ裁判所は、1930 年の判決において、 第一次的な外観での証明の原則は普遍化されてはならず、いわゆる定型的事象 経過に制限されると判断した(Bd.130S359;1930)。しかし、ライヒ裁判所は、 この普遍的な補助手段(表見証明)の促進から離れることはできず、たとえば、 1929 年末に認められた制限づけ(Bd.127S28)は、1 年そこそこが経過したに すぎない 1930 年の判決で、「制限しすぎている」として放棄された(Bd.130 S.264;1930)。今日、いずれにせよ、ライヒ裁判所は、表見証明を、「明らかな ことである」(Selbstverständlichkeit)という(言い回しと)同様に、十分に 利用している(Bd.136S.360;1932)。 (ⅳ)ヘーデマンは、表見証明が裁判官の評価に基づくもので、証明責任の 分配を変えるものではないことを強く指摘し18)、およそ次のようにいう: 18)ドイツ法の表見証明は、わが国の「一応の推定」に相当する。一応の推定は、過失につ いても因果関係についても認められている。「一応の推定」は、立証責任の転換を図る ものではなく、「裁判官の自由な心証の経過において被告の過失が事実上推定されるに すぎない」と指摘されている(中野貞一郎「過失の『一応の推定』について(一) - 自由心証と挙証責任の境界-」法曹時報 19 巻 10 号 11 頁)。しかし、一応の推定がされ ると、これを覆すのは容易ではないとして、過失の一応の推定に関して、次のように説 明されている。「過失の挙証責任が原告にあるということは動かせないけれども、過失 を推定させる客観的事情が証明された以上は、被告としては、過失がなかったことを推 認させるべき事実(「特段ノ事情」)を証明(間接反証indirekterGegenbeweis)しない かぎり、不利な認定を受けることになるから、こうした事実については、被告側に真正
表見証明が認められるに至った経緯の全体を眺めてみると、その様相は「信 義則法学」または「善良な風俗による法学」(JurisprudenzderGutenSitten) に並ぶものである。表見証明では「立証責任の分配(Beweislast-Verteilung) の 変更 が 問題 な の で は な く、た ん に 裁判官 に よ る 証拠評価(richterliche Beweiswürdigung)の領域における」問題だと強調されたが(Bd.134S242; 1931)、そのことは、表見証明が(上述の信義則法学などに)類似しているこ とを示している。評価(Würdigung)、すなわち、価値判断(Wertung)は、 まさに民事法上の一般条項で中核となるものだからである。 (6)「14 章 国家法」、「15 章 ビザンチン主義」 (ⅰ)「14 章 国家法」で は、授権立法(Ermächtigungsgesetzgebung)を 中心に論じられている。授権立法は、第一次大戦中から戦後にしばしば出され たが、戦後には、経済的苦境に対応するためにワイマール憲法 48 条を根拠に して発せられていた19)。たとえば、大規模な経済再建を導こうとする 1923 年 10 月 13 日付け授権法では、「(帝国政府が)財政的、経済的および社会的な領 域で必要かつ差し迫ったものとみなす措置」が一般条項で定められ、1923 年 12 月 8 日付け授権法では、「(帝国政府が)国民および帝国の難局を考慮して の意味の挙証責任(反証責任Gegenbeweislast)があるといわなければならない。つま り、過失という主要事実については原告に挙証責任があるが、これと関連する別個の証 明主題である、無過失を推認させる事実については、被告が挙証責任を負うわけである。」 (中野・前掲 13 頁~ 14 頁)。因果関係について一応の推定によるものとして、たとえば、 東京地判昭和 42 年 6 月 7 日判時 485 号 21 頁がある。 医事法における因果関係に関する現在のドイツ法理論については、円谷峻「重大な 医療過誤と因果関係の証明 GroberBehandlungsfehler」明治大学法科大学院論集第 7 号 223 頁。 19)憲法 48 条 2 項 1 文は、「ライヒ大統領は、ドイツ帝国において、公の安全と秩序が相当 に破壊されるか、危険にさらされるとき、公の安全と秩序の回復のため必要な措置を講 じることができ、必要な場合には武力を投入することができる。」と定める。
必要かつ差し迫ったものとみなす措置」が一般条項で定められている。ヘーデ マンによれば、これらの授権法には、立法された法律の目標が設定されており、 その範囲内での権力の行使が許されるのである。ここでは、「限界付けが図ら れており、それと共に、複数の立法上の諸要因の間で均衡を図りたいという願 望が一様に見受けられる。授権された者は、設定された目的の枠を超えること は許されない」のである(50 頁)。 しかし、「1930 年の夏に始まった緊急大統領令(präsidialeNotverordnungen) の大きな波のもとでは」、(設定された目標への拘束よりも)「装飾的なタイト ルが重要視されているように」思われ、「1933 年 2 月 4 日付け『ドイツ国民の 保護のための』命令(RGBI. Ⅰ S.35)では、『公の安全のための直接的な危険』 という文言(Folmeln)または『公の安全と失序』という文言が、法規の中心 に据えられている」という(50 頁)。本論文では、1933 年以降における授権法 に設定された目標がお飾りになり、それに拘束されることがなくなっていると 指摘されている。 (ⅱ)「15 章 ビザンチン主義」では、その様な授権法に設けられた目標が たんなる飾りになってしまうことの危険性として、ヘーデマンは、「その場合、 国家の機関は、もはや何ものにも拘束されず、『信義誠実』にも『安全と秩序』 にも拘束されないことになるであろう。」と指摘する(51 頁)。彼によれば、「世 界史におけるすべての王位簒奪者、独裁者、侵略者は、権力を握るや直ちに、『国 家の福祉』、『安全と秩序』、『正義』またはそれらと同様のことを目的とする決 まり文句と自らの行為を結びつけたいとの願望を抱いてたし、それを優雅な方 法で理解した。しかし、このことは、時代と民族を越えて、一般条項の最大な る危険を明らかにする。優越的な権力自身が一般条項を自らの行為のために設 けるときには、変動可能性という要因は、権力的要因と一つになって、一方的 で、かつ、制御不可能な指導的武器になる。」(51 頁)。 ヘーデマンは、「我々の国家は、ビザンチン国家へと変わり始める。何故な らば、それは、まさにコンスタンティン帝がそうだったからである(在位 306
年から 337 年)。彼は、古い、真正の法(ius)に特別に広い門を『公平』(aequitas) のために開き、何が『正当』であるかの確認を皇帝の意思に委ねた。」。ヘーデ マンが 15 章を「ビザンチン主義」と名づけるのは、ビザンチンの皇帝が臣民 のためによかれと、恣意的に権力を行使することを念頭に置いているからであ る。
Ⅲ 第 2 部 評価
1 第 2 部の構成
(1)「16 章 一般条項の解釈論(ドグマティーク)」 第 2 部(評価)では、第 1 部での現状分析に基づいた評価がされている。第 2 部冒頭の 16 章は、一般条項の解釈論を展開する。同章は、「類似する概念か らの一般条項の分離」、「射程の限界」、「多数の一般条項間の関係」、「法体系へ の組み入れ」が論じられている。ヘーデマンの見解は、およそ以下の(ⅰ)(ⅱ) (ⅲ)のようにまとめられる。 (ⅰ)「類似する様相からの一般条項の分離」 各法規には拡張可能な概念 が含まれている。一般条項は、それらからどう区別されるか。拡張可能な概念 は、構成要件または構成要件の一部の枠内にとどまるが、一般条項は、個々の 構成要件より上位にある。もっともその境界は流動的である。(ヘーデマンは、 その具体例の 1 つとして、次のようにいう)。50 年前、生成されつつあった民 法典に離婚の権利が準備され、裁判官に範な裁量的余地を与えるために、離婚 権を定める条文の構成要件にいわゆる相対的な離婚理由も付け加えられた。そ の導入をめぐる討議では、「一般的な条項」(clausulageneralis)として論じら れていた(たとえば、Motive4S.573)。しかし、――我々の基準で測れば―― それは、まと外れな議論だったと思われる。一般条項は狭く解されたり、拡 張されたりしている。しかし、法律家は、そのような揺れ動きや区別づけの流 動性に驚きはしない。たとえば、国家法を行政法から分離し、機関をたんなる代理人から分け、または、「一般的な学説」を「特別な部分」から分離するこ とは、どのような者によっても達成されていない。このことは、伸縮可能であ るにすぎない個別的な構成要件と一般条項とを比較する場合にも認めざるを得 ない。憲法上のプログラム規定と一般条項を比べる場合には、もっと困難が伴 う。私は、一般条項がプログラム規定を凌駕するとの見解を支持し、一般条項 には法の設定または法への千渉という直接的な意思が内在する点で、一般条項 はプログラム規定から区別されると考える。 (ⅱ)「射程の限界」 第二の問題は、一般条項の射程という限界にかかわ るものである。かつては、一定の法律規定は一般条項の干渉を受けてはならな いと考えられていた(方式規定、法律上の期間規定、消滅時効制度など)。し かし、最近、「善良な風俗」または「信義誠実」という一般条項がそれらの規 定を浸食している。たとえば、方式を遵守しなかったことを不誠実に言い立て る者や期間を善良の風俗に反してすり抜ける者が法律の個別的な要件の背後に 隠れることは、許されない。民事訴訟については、民法 826 条(善良な風俗に 違反する故意による加害)による既判力の崩壊がある。それにもかかわらず、 人々が法の修正は必ず法律の補充と補完よるとは正当にも考えないときには、 どこかに一般条項の限界が設けられなければならない。当事者の契約自由との 関係についても同様である。次第に契約上の合意が一般条項によって挫折させ られてきている。その点に一般条項の本質がある。しかし、多くの強力な申し 合わせを含む契約全体が単独または複数の一般条項をもって覆せるとは考えら れない。私は、その本質に抵触する契約部分の否定のために一般条項を持ち出 すことはできるが、逆に一般条項が契約自由の領域を攻撃することはできない という見解に傾いている。 (ⅲ)「多数の一般条項間の関係」、「法体系への組み入れ」 ヘーデマンは、 この二つの問題を取り上げるが、彼によれば、前者は従来論じられていなかっ た問題である。この問題に関するヘーデマンの論述も問題提起の域を出ないと 思われるので、本稿ではこの指摘にとどめる。
「法体系への組み入れ」について、ヘーデマンは、一般条項が裁判官や立法 者のためのたんなる道標以上のものであり、そのため、解釈およびプログラム 規定とは異なり、一般条項が絶え間なく進展する生きた法に随伴し、それに影 響を及ぼそうとするのであることなどを指摘する。 (2)「17 章 一般条項が前面に出される理由」 ヘーデマンによれば、一般条項が前面に出される理由として「対象が過剰で あること」、「拠り所となる内的なものがないこと」そして「疲労」である。彼 は、以下で(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)のように論じる。 (ⅰ)「対象が過剰であること」(ÜberfülledesStoffes) ここでは、立法 や裁判が取り組まなければならない法的問題が膨大になっており、一般条項が これに対処している。立法は、いつも紛糾した時事問題に浮かされ、それを後 追いしている。立法は、現実に追いつけない中途半端な状態にあるが、立法の 対象は途方もなく多い。判例も同様である。立法の場合とまさに同じように、 騒がしい個別的な判決が下されている。そのような分裂状態、細かな作業とい う全体的調和の崩壊に対して、体系の救い主として、全体を覆う丸天井、全体 を統合する鐘(つりがね)のように一般条項が示される。この状況のもとで、 一般条項は、救い主としての役割を果たしている。 (ⅱ)「拠り所となる内的なものがないこと」(innereHaltlosigkeit) 一般 条項が前面に出される第 2 の理由は、一般条項には拠り所となる内的なものが ないことである。一般条項は、人を引き寄せるような蠱惑(こわく)的な響き をもっている。すなわち、一般条項には、信義誠実、善良な風俗、微罪を犯し た者への同情、ドイツ国民の保護などのような倫理的な響きがあるが、個別的 な規定にはそのような蠱惑的な印象は全くない。今日、「新たな精神」(円谷注 当時の時代思潮を想え !)が主張されているが、それはむしろ一般条項に役 立ち、従って、一般条項は従来よりももっと広範に行われるとの蓋然性がある。 (ⅲ)「疲労」(Ermüdigung) 第 3 の理由は、「疲労」である。この理由も、
いずれにせよ、現在の好意的な判断または将来の希望に満ちた考察を通じて説 明されるのではなく、――たとえば、ここ約 30 年という――過去から説明づ けられる。対象の多さと拠り所となる内的なもののなさから、ゆっくりとした 力量の衰退(einlangsamesNachlassen)以外に何が生ずるであろうか。その 場合には、「居ごこちのよい」一般条項が、進んで「援助」をし、その援助に より、一般条項に道が開かれ、その道は日ごとに拡大するのである。 (3)「18 章 一般条項の成果」 ヘーデマンは、一般条項には、本質的に二面性を有しており、その一面にお いてのみ後に判断すべき危険が存するという。18 章では、光の部分について、 以下の(ⅰ)~(ⅳ)のように論じられている。 (ⅰ)緊急の個別的紛争の解決 緊急の個別的紛争の解決のために一般 条項が用いられ、具体的解決が図られている(第一部の各章参照)。信義誠 実などの諸基準は、修正のために、場合によっては締結された契約の無効化 (Annullierung)のために、さらにそれを越えて、経営者グループとその他の 株主間の衝突、または、カルテルとその構成員間の衝突に基づく解約の場合の ように、それにより、関係する私人の間での経済的な財貨または経済力の新た な分配が成し遂げられる。 (ⅲ)新しい法形成物の創設 一般条項は、この持続性とそれが検証可能 であることによって、新しい法形成物に息吹を与える。パンデクテン法学者は、 一般的悪意の抗弁(exceptiodoligeneralis)から、種々の法形成物を発展させ た(相殺、留置権20)、訴権譲渡の利益21)など)。 重要な具体例は、価格増額という法形成物である。ライヒ裁判所は、『損な 20)原田・前掲書 272 頁は、「ローマ法の留置権は悪意の抗弁[四四三]の一適用である。こ れを質権に類するような担保物権と考えた証拠はローマ法にはない。事実悪意の抗弁は 対人抗弁で特定人にしか対抗できないのである。」という。
われた客観的基礎が信義誠実の原則(157 条[契約の解釈]、242 条[信義誠実 に従った給付])によって創られる』ことを確定した。それは、決して孤立し てはいない。民法典における一般条項は、絶え間ない発展のなかで、新たな法 的様相を生み出している。そして、それは民事法解釈の確固とした部分となっ ている。たとえば、今日では欠かすことができない culpaincontrahendoとい う法形成物がそうである。これは、当初は、最大級の不信をもって取り扱わ れたが、今日では、完全に市民権を得ている(これについては後述部分参照)。 この法形成物は、242 条(信義誠実に従った給付)の一般的法思想が表明され た結果である。また、権利失効(Verwirkung)という法形成物は、以前には 全く認識されていなかったが、今日、消滅時効および取得時効とならぶものと なっており22)、若い法学者によりしばしば単行論文として取り扱われている (たとえば、dieJenaerDissertationvonErdmann,1933)。」。 (ⅳ)より高い段階での判断力の発掘 司法関係者は、一般条項により(ⅲ) で指摘したような創造的な活動を誇りをもって果たすことができるが、一般条 項の果たす能力を考えるならば、我々は現在の次元からより高い次元に引き上 げられて活動することができる。その場合にどの程度高い次元に引き上げられ るかには幅があるが、一般条項をたんにお飾りとしてではなく用いるときには、 浅薄化という危険はなくなる。その好例として、すでに論じた価格増額の場合 が指摘される。 21)訴権譲渡の利益(beneficiumcedendarumactionum)について、原田・前掲書は、「保証 人が弁済したときは、保証人は債権者に対して債権者が主たる債務者に対して有する訴 権の譲渡を請求することを得る(beneficiumcedendarumactionum 訴権譲渡の利益)。 尤も主たる債務者と保証人との法律関係がこの訴権の行使を不能ならしめることはあ る。保証人の弁済によって債権が消滅する法理上の難点を避けるため、法学は保証人が 債権を買い取ったものと擬制している。」という(258 頁)。 22)権利失効についての詳細な研究として、成富信夫『’ 権利の自壊による失効の原則[増補版] (有斐閣、昭和 39 年)。
4 一般条項の危険性
(1)「19 章 一般条項の第 1 の危険:軟化」 (ⅰ) 第 1 の危険としての軟化については、次のように指摘されている: 軟化とは、まずは思考における軟化である。「信義誠実」、(プロイセン一般 ラント法の)「10 Ⅱ 17」などのような都合のよい概念が、徐々にその地位を高 めた。十分に構成するという困難な作業は、次第に回避された。個別的な規定 は堅固で扱い難く、複数の個別的な規定の組み合わせ、対照はより困難であり、 非常に時間のかかるものである。これに対し、信義誠実または善良な風俗で事 案を解決する場合には、容易である。我々は、対象が極めて過剰となり散漫に 取り扱われていること、一般条項が増大することに影響を及ぼした疲労という 理由のために、以後の判決についても寛大に評価し、それらの判決に寛容の抗 弁(exceptiolenitatis)を認めようとする。しかし、客観的な状況を秘密にし ておくことはできない。すなわち、疑問のある軟化がすでに進行している(裁 判での軟化)。 立法者についても状況は変わらない(立法活動での軟化)。彼は、獲物を追 う鳥の如き素早さで、諸法律、緊急命令、施行規則および実施規則を生み出す。 立法者は、個別的な諸要件を設ける。そして、そのうちのいくつかは十分に磨 き上げられた後に設けられるが、その他の要件は、一般条項のもとに落ち着く ために、あわただしく定められた。我々がこの経緯をとくに明瞭にしようとす るならば、次のように言う必要がある。取り扱う題材を余すところなく徹底的 に熟考し、一般条項へ逃避しようとする立法者の考えを打破するには、時間、 力量、意欲が欠けている。どのような裁判官に対しても個人的に非難を加えら れない。しかし、司法全体は、この批判に耐えなければならない。過重な負担 を負っている者、疲れている者は、自らを楽な状態にし、ゆっくりと上滑りす る中で、一般条項という楽なクッションに手を伸ばすのである。(2)「20 章 一般条項の第 2 の危険:不安定さ」 (ⅰ)ヘーデマンは、次のように述べで、法の不安定さを指摘する: 民法典制定に携わった人々は、そのような一般条項がなければうまくいかな いことをおそらく認識していたが、それが他の場所で繰り返して用いられるこ とによって不安定さに陥る危険性に気づき、その積極的活用については尻込み をした。「一般的悪意の抗弁(exceptiodoligeneralis)を許すことにより、極 めて疑わしい方法で、固定した法規範に代わって裁判官の主観的な感情が前 面に出され、法と道徳の区別がぼやける。」(Protokolle Ⅰ S.239a.E.)。しかし、 それは、民法典導入に続く活発な取り扱いのもとですぐさま忘れさられた。た だ若い研究者のルドルフ・ヘンレ(RudolfHenle)だけが、その後に(1912 年)、 大変鋭い見解を示した。彼は、「自由法学派」を「法的デカダンス」と呼び、 それらとならび、信義則法学と一般的悪意の抗弁を二つの「はやり病」だと激 しく非難した。しかし、それさえもすぐに忘れ去られた。 (ⅱ)ヘーデマンは、このような状況のもとでの裁判官が置かれる立場につ いて、およそ次のように説明する: 裁判官は、自らが真剣に調査しなければならないとき、揺れ動く基準をもっ て不気味なほど増大している作業を行うにあたり、内的な不安定さという重苦 しい感情を抱くに違いない。そして、ライヒ裁判所が「善良な風俗」とは容易 に変動するものだと説くとき(RG.,Urteilvom26.Oktober1928,JW.1929S.249。 同判決:[何が善良な風俗に反するかについてものの見方が変わらないわけで はなく、不変ではあり得ない、むしろ道徳的、精神的、経済的な生活および国 民の必要性のなかで、そして、その変容とともに、変遷し得ることを見過ごし てはならない。])、誠実なすべての裁判官も、そして同人が「価値判断をする 勇気」を十分に有しているときにさえ、「信義誠実」「善良な風俗」または類似 の概念によって、整備されていた土台がだんだんと揺らいでいることを認めて いる。
(3)「21 章 一般条項の第 3 の危険:恣意」 (ⅰ)ヘーデマンが指摘する第 3 の危険は、恣意である。彼は、およそ次の ように説明する: 一般条項の実体的内容は決して統一されたものではなく、倫理、経済または 政治という側面が入り交じっている、そのために、倫理的基準、経済的基準ま たは政治的基準のいずれで問題の解決が図られるべきかについて、必然的に、 恣意的な決定が導かれるか、少なくともそのような決定が拒みがたいものと なっている。そのために、軽薄さと思い上がりというさらなる危険性が浮上す る。性格の弱い人々にとって、次のような言葉は、魅惑的な響きがあるに違い ない;「条項を墨守する奴隷であったり、信義誠実のたんなる報告者ではなく、 道徳的な裁判官であれ」、「政治的な事柄に目を向けよ」、「国家思想の報告者で あれ」、「世界観の守護者となれ」、「正義の代理人たれ」。確かに、その様な立 場への憧れはある。しかし、日の当たる部分は、影の部分と極めて明瞭に隣接 する。疲労は壮大なる公式の背後に隠れており、甘えはまがい物の倫理観の背 後にひそみ、そして、安逸さは信義の背後に簡単に隠されている。隠れた側面 が顕示され、妄想または見せかけの正義に代わって、恣意が腰を据えるのであ る。 (ⅱ)大々的な恣意の典型例として、ソビエト連邦の市民法や刑法典が指摘 されている。とくに前者について、ヘーデマンは、次のように指摘する: 今日のソビエトロシアは、歴史的意味について一つの具体例を設ける。ソ ビエトロシアは、意識的に「ソビエト制度」に把握された勢力の道徳観、法 感覚、世界観を法全体のために決定的なものとし、この基本的な考えは種々 の場所で一般条項という形式で表現われる。1922 年付け市民法の 1 条には、 「市民の権利は、それが社会経済上の目的との抵触において実現される場合を 別として、法律上の保護を享受する。」と述べられている。それに続いて 4 条 では、「国の創造的勢力の発展のために、ソビエト連邦共和国は、市民の権利 を承認する。」と定められている。この二つの規定では、体制に敵対的である
ことは、法的保護の対象外である、と言わんとしているのである。このソビ エト体制そのものだけが、明らかに、何が「生産的な体制」や「社会経済的 体制」に沿っているのか、何がそうでないかを定め、命令することができる。 その場合、民事訴訟法のある規定(4 条)(「ある事件について決定を下すため の法律または命令が欠ける場合、裁判所はソビエトによる立法の原則ならび に労働者および農民による政府の一般的政策に従わなければならないのであ り、裁判所はこれを理由として事件を決定する」)が、そして、さらには、唖 然とするほどの幅広い射程を有する一般条項が、裁判官はその体制に奉仕し なければならないことを示している。この条項は、ある勢力、すなわち、統 治する勢力の世界観によって完全に方向付けられた条項である。最後に言え ば、もっと決定的なのは、1929 年付け刑法典の二つの一般条項である23)。(刑 法典についての叙述は省略)。 (4)「22 章 我々はいずこにありや?」 ヘーデマンは、本論文の結論部分部分において、裁判官の果たすべき役割の 23)五十嵐・前掲書 111 頁は、1939 年に出版されたヘーデマン著『ドイツ経済法』(Deutsches Wirtschaftsrecht:EinGrundriss)では、「恣意」の部分を脱落させていることを指摘する。 確かに、『ドイツ経済法』「§8 一般条項と解釈」「Ⅰ 一般条項と解釈」で、ヘーデマ ンは、次のように述べ、「恣意」を欠落させている。「一般条項は、大変に幅広く、従って、 伸縮性のある形式(Formel)である。これは、法律の適用者、すなわち、裁判官がその 時々の時代における関係について適切に対処し、全く新たな事実を把握することを可能 にする。この点で、裁判官には、大変に大きな責任(Verantwortung)もある。裁判官は、 これによって立法者に近い立場になる。同時に、判例が揺れ動くという危険および考え の軟化という危険が存する。このことは、この『一般条項』を余りにも安易に、そして 苦労せずに用いてはならないことを示している」(同書 65 頁~ 66 頁)。 筆者(円谷)から見ると、ソビエトロシアに対する本文での批判は、当時のドイツに ついても該当する部分もあったように思われる。そうであれば、―推測でしかないが―、 当時のドイツでも重きをなしていたヘーデマンにとっては、1939 年段階では本文「恣意」 の部分は割愛すべきものだったのであろう。
重要性を指摘して、およそ次のようにいう: 一般条項は、体系的には実体法に属し、手続法には属さないけれども、一般 条項が祝福を授けるのか、厄災をもたらすのかという歴史的に重大な問題は、 結局は、個々の国民(Volk)の裁判官次第である。国家の権力者は、必要で あれば、「国家の必要性」という一般条項を自由に用いることができる。しか し、権力者が、さらにそれを超えて、秩序づけられた訴訟遂行上の確実な基礎 (Fundamente)を破壊し、とりわけ裁判官の独立という原則を破砕するとき、 歴史的な過去の幻影が現れる。周知のように、この「ビザンチン流の新しい公平」 が、たんに思考力の緩和ではなく、多くの種類の危険を伴う軟化という結果を 導いた。この軟化は、公平(aequitas)、人間性(humanitas)、慈悲(benignitas) という衣をまとって現れたのである。裁判官がこれらの概念における陰部分の 虜(とりこ)になるならば、彼は裁判官であることをやめなければならない。 裁判官は、この気味悪く流布した一般条項の本質を鋭く洞察し、それを用いる 場合には、最高の抑制をもってこれを取り扱う義務を負う。それにより、裁判 官は、自らと国民の司法が滑落していくことを阻止することができるのである。
Ⅲ ヘーデマン論文の意義
1 今日における一般条項の役割とヘーデマン論文の警告
(1)今日における信義則の活用 ヘーデマン論文は、ドイツが異常な思潮のもとにあった時代に刊行された論 文ではある。しかし、彼の警告は、今日においても価値あるものと思われる。 一般条項、とくに信義則は、ヘーデマン論文時代と同様に、あるいは、それ以 上に活用されている。以下では、今日、信義則が活用されているいくつかの事 例について検討する。 (ⅰ)ドイツ民法典を眺めてみると、問題を法律的に可能なかぎり精密に規 律するが、最後には、一般条項を加えるという手法が多く採用されている。要するに、一般条項は、立法者が考えなかったか、考えつかなかった諸場合を把 握するものとして配置されている。 民法典における約款規制に関する規定が、その典型である。ドイツ民法 305 条(一般的取引条件の契約への組み入れ)以下は、どのような約款が禁 止され、あるいは許容されるのかという問題を規律する。309 条(評価可能 性のない条項禁止)で解釈の余地なく禁止される約款が列挙され、308 条(評 価可能性を伴う条項禁止)では、裁判官の解釈により無効となる約款が定め られている。そのうえで、307 条(内容規制)では、その他の数多くの諸場 合について一般条項が設けられている。同条 1 項 1 文は、「約款の条項が契約 の相手方を信義誠実に反して不相当に損なうとき、それは常に無効である。」 と定めている。 家族法に目を転じよう。離婚後の扶養に関する 1569 条(自己責任の原則) は、「離婚後には、各配偶者には、自らが自らを扶養する義務を負う。配偶 者の一方がそれをする能力を有しないとき、同人は、他方に対し以下の諸規 定に従ってのみ、扶養請求権を有する。」と定めるが、立法者は、積極的衡 平条項と呼ばれる 1576 条(衡平を理由とする扶養料)を加えている。同条は、 どのような場合に夫婦の一方は、離婚後もかつての配偶者に扶養を請求する ことができるかを規律する。さらに、立法者は、消極的衡平条項にと呼ばれ る民法 1579 条(重大な不当性に基づく扶養請求の制限または拒絶)を定め ている。同条は、扶養債務者の要求が「重大に不当」であるならば、現在認 められている扶養請求権は、個別的な場合には拒絶され得ると定めるととも に、一連の例を同条 1 号~ 7 号に掲げ、最後の 8 号に一般条項を挙げている。 同号は、前述の諸例の場合だけではなく、そこで列挙された諸場合と「同程 度に重大である」類似の場合が存するときにも扶養請求は拒絶されると定め る。 (ⅱ)信義則は、今日、国際取引においても重視されている。たとえば、国 際取引に精通したペーター・シュレヒトリウムは、ヘーデマンの警告を受け止