古代における祈雨について
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(2) 序 章. 目 次. 第一章 飛鳥・奈良時代における祈雨 第一節 大化前代の祈雨 ・⋮⋮⋮::. 1旱魅と異常気象 ⋮⋮⋮:. 五. 六. 六. 二四. 冗. 第二節 国家的祈雨の成立 ⋮⋮⋮⋮. 二四. 2 皇極元年の祈雨 ⋮⋮⋮⋮. 1 異常気象記事の空白期. 二七. 四一. 2 天武朝以後の神祇的祈雨 3 天武朝以後の仏教的祈雨. 五二. 五二. 四九. 第二章 平安時代における祈雨 lIーー−一llllーーili11111−Ii一. 第一節 神祇的祈雨 ⋮−⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮・⋮⋮⋮−⋮−・−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮・. 1 諸社奉幣 ・⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮:⋮⋮⋮⋮⋮−⋮・−⋮⋮⋮⋮⋮−:⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮.
(3) 2 丹生・丁丁祢社への奉幣馬 ⋮⋮:⋮⋮⋮⋮−−⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−::.. 五八. 五五. 亮. 3 伊勢神宮への奉幣⋮ ⋮⋮⋮⋮⋮−−−−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・:::⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮:⋮,,,. 4 山陵の丁丁 ⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮−⋮−⋮⋮⋮⋮.⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮、⋮,⋮、⋮,:. 六二. さ. 第二節 仏教的祈雨 ・−⋮⋮−⋮⋮⋮:−:⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮:⋮−一−⋮⋮・⋮⋮−⋮−⋮:⋮−,. 六四. 5 神祇官での祈雨 −−−⋮レ⋮⋮⋮⋮−−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮::⋮⋮⋮⋮−−−⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−. 1 諸大寺での読経 ⋮⋮⋮⋮⋮−⋮・⋮:⋮⋮⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮. 六六. 第四節 その他の祈雨 −⋮⋮−⋮−⋮⋮:−−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−・−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−−⋮−⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮. 2龍十手読経⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮⋮⋮:⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮. 1 諸社における神前読経 ⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮:⋮−⋮−⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−:. 第三節 神仏習合的祈雨 ⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−−−−−⋮−⋮⋮⋮−⋮−−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮・⋮−⋮﹃・−⋮⋮−⋮⋮,. 八二. 八二. 七七. 七六. 七五. 交. 2 大極殿での読経 ⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−:⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮−−⋮−⋮−:.. 3 東大寺での読経 ⋮⋮:⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−−−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮. 1 五十祭 ・⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮,,⋮−⋮−. 八八. 七一. 2 蔵人による神泉苑の清掃 ⋮⋮⋮⋮⋮:⋮−⋮⋮:⋮⋮⋮⋮−⋮:⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−,. 九四. 4 神泉苑での密教的修法 −⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−−−・⋮⋮⋮. 第五節 平安時代における祈雨の展開 ⋮−⋮・⋮⋮⋮⋮−⋮:⋮⋮⋮⋮⋮−:⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮:.
(4) 九六. 茜. 2 十世紀初頭の祈雨の多様化. 九八. 九世紀初頭の祈雨の興隆 −⋮−. 3 十世紀中葉からの祈雨の衰退. 九九. 1. 4 院政期の祈雨の変容.⋮:⋮⋮. 二二. 一〇. ェ. δ− 七 ll 第三章 空海請雨伝承の成立と展開 一iIIl ーーーーーiii−. 第一節 空海請雨伝承と先行研究 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:−⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮:⋮−⋮−:⋮⋮−. 第二節 空海請雨伝承の成立 :⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮:−⋮⋮⋮−⋮⋮⋮,⋮⋮⋮⋮:−⋮. 第三節 空海請雨伝承の展開 −⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−:⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮:⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮. 2 空海請雨伝承の成立 :⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮・−⋮−⋮⋮:,,. 三二. ≡二. 二四. 一三. 1 ﹁御遺手﹂における空海請雨伝承 ⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮−⋮−⋮:⋮⋮. 三五. 1 空海による史実としての祈雨 ・⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−:⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮−. 2 ﹁大師御行状丁丁﹂における空海請雨伝承 ・⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮−.. 三九. 西五. 一三. 3 空海請雨伝承の展開過程 ・⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮:⋮−:−⋮. 第四節 空海請雨伝承の成立・展開とその背景 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮;,⋮⋮⋮:⋮−⋮⋮. 終 章.
(5) 序章.
(6) 王権と祈雨が密接な関係にあることは、すでにフレイザーが﹃金枝篇﹄において述べているところ. である。かつての王の多くがレインメーカーであり、雨を降らせる能力を持つ者こそが王権を維持し. うるというのである。 ﹃魏志﹄によると、扶余の国では、水盛が調わず五穀の実らないのは王の答で エ あるとして、あるいは王を取り替え、あるいは王を殺そうとしたと記されている。. そして、これと同様な意味で、我が国の古代の天皇にもレインメーカーとしての性格が備わってい. たことを指摘する研究者は多撃示唆に富む興味深い説ではあるが、具体的にそのことを示す事例が 少ないため、確証を得にくいのが残念である。. そこで、本研究では、天皇に視点を置いてその呪術性を追求するのではなく、国家に視点を置いて、. 国家としての旱魑に対する意識、国家としての旱越に対する対応の様相を中心に見ていきたいと思う。. 旱毬は、農耕社会にとっては、その根幹を揺るがす最も重大な災害の一つである。それが、古代と. いうことになると、治水技術の未発達な面から考えても、その被害がなおさら大きかったことが想像. される。古代国家においても旱越を重大な問題としてとらえたようで、その対応策として祈雨を行っ. ている。その方法を見ると、平安時代の当初までは、主として神祇的な方法で行われていたようであ. る。それがしばらくすると、仏教的な祈雨が盛んとなり、その中に神泉苑での祈雨が登場することに. なる。これに関しては、空海がここで祈雨を行ったという有名な伝承が付随しており、その持つ意味. が注目されるところである。このように、平安中期になると、密教的な方法が行われたり、さらには. 一. 一. 2.
(7) 陰陽師による五濁祭が行われたりするようになる。そうしてみると、古代においても、国家的な祈雨. が時間の流れとともに、大きく変化していたことがうかがえるのである。そこに、古代国家における. 政治的及び宗教的観念の変化が表出しているようで、大いに興味を注がれるところである。. 先行研究を見るところ、古代の祈雨についての体系的な研究は、まだなされていないと言ってよい。. その中で、梅原隆章・佐々木令信両氏の研究は貴重である。梅原氏は、飛鳥・奈良時代の国家的な祈 る 雨が、天皇制国家体制を強化する役割を担っていたことを述べておられる。また、佐々木氏は、おも. に平安時代の仏教的な祈雨の研究をされ、宮中での祈雨御読経の成立と展開、及び空海の神泉苑での ら 祈雨の説話が果たした役割などについて述べておられる。. しかしながら、これらは個別的な研究であるので、飛鳥・奈良時代から平安時代へとどのような経. 過をたどって国家的な祈雨が変遷していったのかについては、まだ明らかにされているとは言えない。. そこで、本研究では、古代における国家的な祈雨の全体的な流れをまず明らかにしたい。そして、次. に、そこに見られる変遷の様子から、その変化の理由とそれが持つ意味について究明していきたい。. そうすることによって、国家の祈雨に対する意識の変容など、その観念的な部分にも迫りたいと思う。. 以上のことを明らかにするために、まず第一章では、古代国家がいつ頃から旱越を国家的な問題と. して受け止めるようになり、またそれに対応するようになったのかを見ていきたい。そして、そこで. 行われる祈雨がどのような形態であり、どのような意味を持つのかを考えたい。つづく第二章では、. 一. 3. ﹁.
(8) 平安時代に見られる様々な祈雨について個々に検討を加え、全体として国家的な祈雨がどのように変. 化しているのかを見ていきたい。そして、その変化の理由と意味を考える中で、東密による神泉苑で. の祈雨がどのように位置付けられるのかを究明したい。つづいて第三章では、空海の神泉苑での請雨. 伝承が実際の神泉苑での祈雨とどう関わっていたのかを、伝承の展開をたどりながら考えていきたい。. そして、その伝承の果たした役割だけでなく、その成立の要因となった社会的背景をも考察したい。. 註. ︵1︶ジェイムズ・フレイザー著、一八九〇年初版。参考としたのは、その簡約本の訳本にあたる、. フレイザー著・永橋卓介訳﹃金枝篇﹄全五冊︵岩波書店、一九五一年︶である。. ︵2︶ ﹃三国志﹄ ︵中華書局出版、一九五九年︶八三〇︵集書三〇︶東夷夫絵の項。. ︵3︶梅原隆章﹁日本古代における雨乞い﹂ ︵﹃日本歴史﹄七四︶、筑紫経距﹃日本の神話﹄ ︵河出 量旦房、一九六四年︶などがある。. ︵4︶梅原隆章前掲註︵3︶論文。. ︵5︶佐々木令信﹁古代における祈雨と仏教一宮中御読経をめぐって一﹂ ︵﹃大谷学報﹄五〇1二︶、. 及び﹁空海神泉苑請雨祈祷説について−東密復興の一視点一﹂ ︵﹃仏教史学研究﹄一七1二︶。. 一. ︸. 4.
(9) 第一章 飛鳥・奈良時代における祈雨.
(10) 旱越と異常気象. 第一節 大化前代の祈雨 1. まず初めに、旱魅について﹃日本書紀﹄にどのような記述があるかを見ていきたい。その初見記事 として、神代上に、天の岩戸に関わる話として次の様に記載されている。. 一書日、是後、主神之田、有三含量。号日天安田・天平田・天邑井田。山守良田。遥遥森旱、無. 所損傷。其素面鳴尊之田、亦有三威。号日天代田・天川依田・天皇鋭田。此皆碗地。雨則流之。 旱則焦之。. ここでは、日の神の田が良い田であるのに対してスサノオの田が悪い田であることを述べている。日. の神の田が良い田であることの理由として、長雨や旱にあっても損なわれないことをあげ、逆に、ス. サノオの田が悪い田であることの理由として、やせ地であることのほかに、雨が降れば流れて旱があ. れば焼けるということをあげている。ここでは、田の善し悪しをその地味の善し悪しだけで測るので. はなく、水旱の害に対して耐えられるかどうかをその判断の大きな基準としているのである。. 旱魑の記事として次に登場するのは、安閑天皇元年七月の条である。ここでも同様のことが見られ. 一. 一. 6.
(11) る。. 三日、皇后錐髄同天子、而内外之名廟堂。亦可以充屯倉之地、式嘉納庭、後代遺遊。適言勅使、. 簡揮良田。勅使奉勅、宣南大河内鼠味重畳・日、白丁宜奉進膏膜雌粟田。二曲忽然恪惜、欺証勅. 使日、此田者、天幕難概、水澄易浸。費功嬉涙、収穫極少。勅使依言、服命無量。. 皇后の名を屯倉の地に残そうということで、勅使に良田を選ばせたのであるが、それに対して、大河. 内直仁和は田の献上を惜しんで、この田は旱になると潅概が難しく、水が多くなると浸かりやすいと. いうふうに答えて、それに適さないことを述べたのである。ここでも、良田でない理由として、水旱 の害にあいやすいことがあげられているわけである。. ﹃日本書紀﹄に見える旱越記事の初期のものが、二例共に水面の害を受ける程度によって田の善し. 悪しを述べているところに興味深いものを感じる。このことは、その当時の水稲耕作をする農民にと. って水道の害が最も重要な関心事であったことを意味しており、そのことは、それだけそういった災. 害の多かったことを示しているものと思われるのである。すなわち、当時はまだ潅概施設が十分に整 っていない水田が多くあったことを物語っているのであろう。. 以上、旱越に関する﹃日本書紀﹄の早い時期の例を見たが、ここで気を付けなければならないこと. は、これらの記事が長雨と旱というようにワンセッ手にされて水稲耕作の害の代表的な例として記さ. れていることであって、実際にその時に起こった旱越の記事を載せているわけではないことである。. 一. 一. 7.
(12) それは、当時旱越にみまわれることの多かったことを明示しているのには違いないのであるが、だか. らといって、旱魑の発生そのものを一つの歴史的事実として取り上げようとしているわけではない。. つまり、時には旱越が大きな被害をもたらしたことがあったであろうが、それにも関わらず、その出. 来事を﹃日本書紀﹄に記載すべき事柄としては取り上げなかったということことである。このことは、. 国家としての旱魑に対する意識を考える上で非常に重要なことと思われる。以下、この点について検 討していきたい。. 歴史的出来事として、旱越そのものが﹃日本書紀﹄に記載され始めるのは、推古三十六年︵六二八︶ からのことである。その四月の条に、次のように記されている。 自春至夏、旱之。. この記事の後は、箭明八年︵六三六︶・皇極元年︵六四二︶と比較的近い時期に続いて記事が見ら れるようになる。箭明入年︵六三六︶の条には、 是歳、大旱、天下飢之。. とあり、皇極元年︵六四二︶六月の条には、 是月、大旱。. と記されている。そして、この年の七月に初めて祈雨の記事が登場することになる。そのことについ ては、後にくわしく述べることにしたい。. ﹁. 一. 8.
(13) 以上のことは、夏越という出来事をこの時期になってようやく国史に記載し始めたことを示してい. るようである。孤立的な単独の記事ではなく、ある程度の連続性をもって記載されているところに、. そこにはっきりとした意図が感じられるのである。ここにおいて、国の政治面において旱魅の災害が 注目されるようになってきたことをうかがうことができる。. ところで、この旱越についての記載の変化が、旱越の場合だけに限って見られるものであるのかと. いう点を確認しておく必要がある。そこで、表1に﹃日本書紀﹄に見られる天候に関する記事を拾い. あげてみた。その中で、霧雨及び洪水について見ると、まず初めはスサノオが追放される場面の記事. である。葦原中国から底根国へと追放された時に霧雨が降り、スサノオは衆神に泊めてもらうことも. できず苦難に満ちて下って行くのである。ここでの森雨はスサノォ一人に災いをもたらすものであっ. て、災害というような意味は持っていない。また、霧雨そのものを歴史的出来事として記載したとい. うよりも、スサノオの追放という出来事に付随した形で述べられているのである。その後、森雨が災 害そのものとして記載されるようになるのは、聖明二十八年のことである。 郡国大水飢。或人相食。転傍郡穀以相救。. ということで、大水から人が人を食べるような大変な飢餓が発生したようである。この後、比較的連. 続した形で霧雨及び洪水の災害の記事が見られるようになる。この様子は、旱越の記事の場合とよく. 似た傾向を持っている。ただし、災害の初見としては、霧雨及び洪水の方がやや早いようである。. [. 一. 9.
(14) . 1. 位. N. 獄他 わら の 関な。そ にとのび. 害害も及 藤 雛遮. 礫撫 購難 に際際実た. 葡. 実実はし ににに通 時時時を ののの間. 本受 そ そ 嘩. 旧 ◎△▲※. [. 卸調. 雨止水洪雨森. ⋮⋮. i 欝 ⋮ 離⋮ 欝 瓢 ⋮ ⋮⋮ ⋮サ⋮ ⋮子 ⋮ス ⋮一 ⋮様 ⋮一 ⋮一 ⋮の ⋮雨﹀⋮論轍欄 一△⋮ ⋮サ ⋮ ︸ ⋮. ⋮ ⋮⋮ ⋮. ⋮. ・︸⋮⋮︶㎜ ︸ ⋮ ⋮葉一 ⋮ ⋮ ⋮言⋮ ⋮ ⋮ ︸の⋮ ⋮ ⋮ ⋮り⋮ ⋮ 一 ⋮偽⋮こレ. ⋮. ⋮解棚⋮叢n劃還・⋮÷. ⋮三⋮三︸三二. ⋮ ⋮. 二⋮三⋮⋮欝三=⊥. 三⋮ ⋮. ⋮. 繍⋮誰髄纐憾薗 一、一一 ⋮. ⋮ ⋮ ⋮⋮ 一一 .. O三禦蜘⋮翻翻 ⋮鰍 ︸ ︸ ⋮三⋮︸⋮二⋮. ⋮6 ⋮73 3 ⋮孟⋮記n⋮一 ︸ ︸ い. 1 ⋮1 ⋮n⋮. ⋮ ⋮二⋮ ⋮⋮ ⋮ ⋮ ⋮㎝ 一. 三︶⋮ノ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ ⋮ ・・⋮三⋮⋮⋮⋮二⋮ ⋮ ⋮ ⋮. ㈹榊. 一二⋮ ⋮霜 ⋮ ︸r▲一 ⋮. 雨祈魑旱. 日月. 次年. 暦西. ︻. 0 1.
(15) 2. 位. N. ⋮冒壷三⋮㎝剖三⋮三﹁⋮⋮,噸 二三馴魎三灘二 踊騨前回⋮操駄時⋮⋮藩藷露⋮芝樋⋮鎭⋮顛醜. ⋮ ⋮. ⋮ ⋮ ︸ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮. ∴爺∴∴ ⋮⋮ピ⋮⋮ ⋮⋮ ⋮. 轡翻⋮一 ⋮ド ⋮. ⋮⋮難熱熱麓融 鷹⋮葉桜紆⋮皇. ∴n鷺ド∴じ門⋮ ⋮姦髄撃遼ドm皿⋮B蕩藷 轍棚⋮飾欽. ⋮㍊劃6. 6 ⋮B ︸14皿前す ⋮17⋮% 皿31 一33 ⋮錫⋮あ 宮 ︸910⋮11 ⋮−明 ︸明 一 ⋮明 ﹁明⋮明⋮明 ⋮極 ⋮ ⋮. 欽 ⋮欽 ⋮. ⋮ ⋮⋮ ⋮・ 一. 一. 1 1.
(16) 3 位. N. 3. 12⋮96.⋮Z ⋮ ⋮. ⋮. 詔 ︸. ⋮. 互. 1⋮ ⋮1 一. ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ ⋮⋮ 一一 ⋮. 3︸1 ⋮. ⋮. ⋮↑. ⋮ ⋮. セ”例∴旧m⋮槌脚 A⋮. ⋮・. ⋮ ⋮ ⋮豊厩扁硬黒竹旙 ⋮㎝ ︸旙. ⋮⋮ ⋮. ⋮7⋮8⋮9⋮− ⋮遵5 ⋮6 7 一智⋮智⋮武 ⋮武⋮鼠 ⋮武 ⋮武 ⋮天 ⋮天⋮天⋮天 ⋮天 ⋮天⋮天 ⋮ ⋮ ⋮. 一 ⋮5 匿撫 ⋮智⋮智 ⋮智 ⋮天⋮天 ︸天. ⋮一⋮ 膨⋮⋮. ⋮⋮三 紳二⋮二 ⋮三︸ 二二鱒⋮鉱る⋮⋮三⋮阯⋮三 ⋮三. ⋮. ︶ 瓢響⋮︶⋮⋮∴⋮簗⋮⋮貯⋮⋮⋮矧鷹 ・灘叢⋮犠⋮謝三川齢⋮灘圃騰 ⋮甜艦踊颯 踊旙旙籍獺欝一瓢墜 蝋鵬 課三講⋮灘 冒. r58逡胴92。お⋮⋮鍔動わ82。粥1 11 正 ⋮ ⋮. 偲,. 4⋮1躯翻 ⋮. 朽⋮聞6⋮6曽 一. ⋮44.6⋮. 1 ⋮2 ⋮3蜥 ⋮蜥 難. 犯 ⋮娼6 ⋮6 ⋮ 一. 一. 1. 2.
(17) 4. 位. N. 回し ∴︸ 三︸⊥△一 ↑△⋮ 皿 ︷△△⋮ ㎝◎ ︸ 皿△⋮ 一△⋮ 一△⋮ 一 ・ . 一 一 ⋮ ⋮ ⋮ .. ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ . 二延⋮⋮﹁■ ⋮ 口 ⋮ ⋮.⋮ ⋮ ⋮ ⋮. ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮僅“⋮耀湘、。⋮藁談磯際二型. O=配三=翰 ⋮貯﹁ .零零鵬二㊥⋮羅⋮野ド餌螢鮪 樋騰騰⋮繍鰭. ㎜ ⋮◎◎⋮⋮ ,. ⋮−・お6⋮翻爺⋮翻⋮響藷⋮ 一 一 一 − . ⋮. ⋮6己∴ 一 ﹁. ⋮一働 三曲闘厩 副司 一 一. 脚鋤 繍野馳藷 ⋮襯謝懸陥 痴謝酬 ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮硲 樋 ⋮盤徳. 一. 3 1.
(18) 次に、その他の天候記事について見てみたい。表1のようにたくさんの記事が載せられているので. あるが、そのうちの早い時期の記事には一つの傾向が認められるようである。それは、天候そのもの. を取り上げているのではなく、ある歴史的出来事があって、それに付随した形でその時の天候が記述. されている点である。このことは、先のスサノオの追放時の森下と全く同じである。そして、天候そ. のものが記されるようになるのは、推古三十四年︵六二六︶のことである。すなわち、三月の条に、 寒以霜降。. とあり、そして、六月の条には、 雪也。. とある。ちょうどこの時期は、推古天皇の死亡記事へと向かう過程に位置しているので、それを予兆. するような意味を付加されているともとれるのであるが、そうであったとしても、天候そのものだけ. を取り上げて記述するようになったのは、やはり大きな変化であったと思われる。そして、これ以後. 天候自体の記事が多くなるのである。ただし、そうは言っても、ごく普通の天候についての記事が書. かれることはないのであって、どこかに特異性をもった天候のみ記録に留められるわけである。先の. 例でも、三月に霜が降り、六月に雪が降るというような異常気象であったがために、記録の対象とな. ったのであろう。以上のように、天候の場合を見ても、推古三十四年から天候そのものの記述が始ま るということで、旱越や霧雨の場合とほぼ同じ時期であると言えるのである。. 一. 一. 14.
(19) このことを、先ほどの表1をより簡略化して作成した表2で見ると、視覚的にわかりやすいと思う。. それで見ると、推古三十一年忌始まりとして皇極二年︵六四三︶を終わりとする一つのグループが見. られる。そして、その次の期間は、不思議なことにほとんど記載されない時期が約三〇年間続くこと. になる。それから、天武四年︵六七五︶以後にまた記述が多くなり、第二のグルfプを形成している。. 旱越の記事を見ると明確にそのような傾向を示しているし、その他の天候の記事もほぼそれにあては. まっている。ただ、森雨の記事だけはややあてはまらない場合が多いのであるが、それも大きな流れ で見ると同様の傾向を示しているものと考えてよいであろう。. このように、異常気象全般に同様の傾向が見られるというところに、旱越だけに限らず、異常な気. 象現象に対して広く記載しようという姿勢がうかがえるのである。それは、その当時の記録者たちが. 異常な気象現象に目を向けるようになったことを意味しているのであろう。つまり、異常気象という. ものが国家にとって重大な政治課題になりうるものであることを意識し始めたと言うことができよう。. しかしながら、それは徐々に起こった変化ではないようである。すなわち、推古三十一年からの第一. グループの記載の様子は、それ以前に比べて著しい変化であって、急激に始まったとしか思えないの. である。そのことは、先に述べたように、見越という一つの現象についてだけ現れた変化ではなく、. 異常気象全般について共通して現れているところにも、その意識の上での急激な変化が感じられるの である。. 一. 一. 15.
(20) 1. α. そ. 繍. 備. N考. の. ◎. 臓踊. ◎. △. .. 霧 難踊 茄. 蜆 緬. ○. ●. 欄 酪. 旧 盟 2 表. 騨. 鰍. つ. 撒 締 ヨ. 期. △. 翻. . △. 0. 60. む. 粘. 59. 6. 10. 62. む. ﹁. 6. 一. 1.
(21) 2砿N. ,. 課肋麟. 裏 顯晶’. . 蕾雷霜看 雷懇. . △ △ △ △ △. 翻 翻 罵 蜘 ■ ﹁ , , , τ ﹁ ■ . . ■ . ■ 冒 . , 脚 冒 冒 1 ‘ 冒 ■ ■ . 1 . 冒 . , . 脚 , , 1 ﹁ . ﹁ ■ 伽 層 . ● , , ● . . 9 , . . ■ ■ , . , , , 層 層. ◎. ※ ○ ○ ○. 幽. △. 8 1瑚 蜥. 0 03 46 6. 第ーグループ. る 財艦鵬随繍. 灘 8 瑠. . 唱 . . ︻ . ﹁ 唱 唱 . ﹁ ■ ﹁ . , 冒 , . 髄 , ● . . ■ , , ■ . . . 冒 ■ . . . , , . ■ 印 層 脚 ■ . . . 幽 I I . . . . l l . l l . l l . ﹁ 1 層 . .. △ △ ◎ ︵. 0 0 05 6 76 6 6. 荿X醜霜楓 雪. . 9.鰍.η. 9.欄 灘. ↓↓. ◎◎. △ △△. ↓ ・・. ◎ ◎◎. ︶ ︶◎◎◎ ○ ◎◎◎◎ ◎ ︵ ︵↓↓ ・ ・ ↓ ↓ : ・. ○○◎◎◎◎◎◎○○◎◎◎◎. 械. 鍼. 網 蕪慧斑鷲24679囑 −. 0 08 96 6. 第2グループ. 一. 一. 7 1.
(22) 異常気象の記事が急に多くなることについては、何らかの契機があったものと思われるのであるが、. その契機とは、推古二十八年の﹁天皇記﹂ ﹁国記﹂などの編纂ではなかったかと推測している。つま. の一つの高揚期であったことを示しているからである。そして、それらの編纂がもとになって、以後. り、 ﹁天皇記﹂及び﹁国記﹂が当時の国史にあたるものであることを考えると、この時期が国家意識 コロ. の朝廷の記録をより充実したものにしようとする動きが出てきても、不自然ではないからである。国. 家意識の高揚期であったこと、そして、それに伴って、記録を充実させようとしたこと、この両者が. 異常気象の記事の増加となって現れているものと思われるのである。このことは、別の視点から見る. と、この時期になってようやく、国家にとっての異常気象及びそれに伴う災害が問題視されるように なってきたととらえることができそうである。. 以上のように考えるならば、この第一グループの記事がかなりの信懸軍を有しているものととらえ. てよいであろう。そのことを前提とした時、旱越の場合には、推古三十六年頃雪明八年の二つの記事. は旱越のみの記載であって、皇極元年になって初めて祈雨の記事が登場しているところに興味を覚え. る。それは、霧雨の場合において、その時期にはすべて予洗の発生のみの記事であって、翠雨を行っ. ていないことと共通している。つまり、この時期は、水旱の災害が国家にとっての重要問題として意. 識され始めたことには違いないのであるが、それに対しての国家としての政治的な対応がまだ十分で はなかったことを示している。. 一. 一. 18.
(23) 2 皇極元年の祈雨. これまで述べてきたことを念頭におきながら、祈雨の初見記事である皇極元年︵六四二︶の記事を 見ていきたい。七月から八月にかけてのことである。 セ ニチ ロ . ○餌壷、群臣相語之日、随晶々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。羽島移市。或祷河伯。既無所敷。 ニ セロ . 蘇我大臣報日、可於寺々転読大乗経典。悔過如仏所説、敬而祈雨。○庚辰、於大寺南庭、守仏菩. ニ スロ . 薩像與四天王像、屈請衆僧、読大雲門等。干時、蘇我大臣、手写香炉、焼香発願。○辛巳、微雨。 ニ ぬロ . ○壬午、不能祈雨。故停読経。 ニロ . ○入華甲申朔、天皇幸南海河上、脆拝四方。仰天蕉門。即題大雨。遂雨五日。淳潤天下。濯詳額 熟.於是、天下百姓、倶称万歳日、至徳天皇。. 旱魅に対して、まず群臣が神祇的な方法でいろいろと祈雨を行ったのであるが、効果がなく、そこ. で続いて、蘇我大臣蝦夷が仏教的な方法で行うことになる。その結果、わずかに雨は降ったのである. が、大きな効果をあげるまでには至らなかった。それに対して、天皇が樽詰の河上で祈雨を行うとた. ちどころに大雨が降ったのである。この話の内容を見ると、蝦夷が行うと小雨で天皇が行うと大雨と. いう対比の仕方などから、天皇の呪力の方が蝦夷の呪力よりも勝っていたことを述べるところに重点. 餅 ヨ.
(24) が置かれているように思われる。こういつた記述のありようには、後世の潤色が感じられるが、だか. らといって、この話のすべてが後世の作とまでは考えにくい。おそらく、天皇の権威付けとなる部分. が潤色されたものであろうから、それとあまり関係しない部分には、本来の姿が残されているものと 思われる。. そういう目で見ると、初めの群臣の話の部分はまず潤色を受けにくいところであろう。三々の祝部. の教えるところに従って、牛馬を殺して諸社の神を杷つたり、何度も市を移したり、河の神に祈った りしている。その方法がきわめて中国風であるところにやや問題を感じないではないが、ともかく、. 神に対していろいろな方法で祈雨を行っているのである。ここで注目したいことは、これらの祈雨が. 群臣それぞれによって行われているらしいことである。群臣が集まり蘇我蝦夷もいるところをみると、. おそらく朝議の場であろう。そして、 ﹁群臣相語二日﹂とあるように、群臣がそれぞれに自分の行っ. た祈雨についての報告をしているものと考えることができる。朝議において祈雨のことが話されてい. るということは、旱越だけでなくそれに対する祈雨の実施というものも国の政治的な検討課題として. とらえられていることを意味している。しかしながら、当初の群臣による祈雨の様子を見ると、朝廷. が主体的に行っているとはとても言いがたいものであって、実際的な実行者は群臣であった。おそら. くは、豪族達がそれぞれに自分の支配する地域の神々に対して祭を行っていたものであろう。そして、. このようなあり方が、この時期までの一般的な祈雨のありようではなかったかと思うのである。. ﹁. 一. 20.
(25) それに対して、国家的な見地に立って祈雨を行おうとしたのが蘇我蝦夷である。彼は、寺々に大乗. 経典を転読させるという方法をとる。いかにも、仏教を重んじた蘇我氏らしい方法である。ここにあ. る寺々というのは、おそらく豪族たちの建てた寺を含めてのことであろう。それらの野々に対して、. 画一的にある祈雨の方法を取らせるという姿は、きわめて国家統制的なものであると言える。蝦夷は. 国家レベルでの祈雨を計画し、そして、自分をその主導者の位置に置いたのである。このことをさら. に言うならば、国家体制の構築を推し進めようとしているのが蘇我氏であることと、その国家体制と. は蘇我氏の主導する国家体制であることをここでは物語っているようである。ただし、蝦夷が実際に. 自分自身香炉を手にして祈雨を行ったかどうかについてはやや疑問の生じるところである。天皇の呪. 力が優れていることを言うためにこういう話の設定にしたともとれるからである。しかし、そうであ. ったとしても、蝦夷が国家レベルでの祈雨の主体者であったことには間違いないのである。. 次に、皇極天皇の祈雨について見てみたい。この場合も史実であるかどうか、疑問の生じるところ. である。天皇自らが南扇の河上で四方拝のような所作を行っているが、これは中国風の方法ともとれ. るし、神祇的な特殊な方法ともとれる。 ﹃日本書紀﹄の編纂期には、諸社奉幣という形式が普通であ. ることを考えると、わざわざこのような特殊な方法を話として載せるということも不自然であるので、. ヨ . 逆に史実であった可能性も強い。そして、仮に史実でなかったとしても、ここにこのような方法が記. 述として選ばれたことには、十分理由があったものと思われるのである。というのは、ここで天皇が. ト ヨ.
(26) とりえる祈雨の選択肢を考えてみると、思いのほか他に方法がないからである。すなわち、仏教的な. 方法については蝦夷がすでに行ったところであるし、神祇的な方法も問題が多い。その地域を支配す. る者がその地の神を杷って祈雨を行うのが原則であることを考えると、天皇が普通に神を杞るのであ. れば、それは天皇家が私的に祈雨を行っていることにしかすぎないこととなり、ここでの祈雨にはふ. さわしくないのである。また、後世に見られるような諸社に奉幣するという形での祈雨も、おそらく. この時代には不可能に近かったものと思われる。なぜなら、豪族はその支配する地域に対して絶対的. とも言える宗教的権威を持っていたと思われるので、そこへ奉幣するということは、一種の宗教的な. 介入ともなりかねないわけであるから、この段階でそこまですることは困難だったと想像されるから. である。このように考えてくると、天皇が国家レベルでの祈雨の主体者となるには、中国風の方法を. る . とるか、あるいは神祇的でも特異な方法をとるしかないのである。一見奇異とも思える方法ではある が、皇極天皇がとったとされる方法には、それなりの理由があるわけである。. ともかく、ここで注目したいことは、蝦夷が命令を下に降ろす形で組織的に祈雨を行おうとしたの. に対して、皇極天皇の動きはきわめて個人プレー的な傾向が強いということである。ここに、国家的. な祈雨への動きが、この時期まず蘇我氏の主導のもとに進められていたことがわかるのである。その. ような意識で史料をながめると、この時期までは旱越の害やその対応策は、その地域を治める豪族の. 実行するところのものであり、そのために、国史の上に記録されることも少なかったと考えられる。. 一. 一. 22.
(27) それが、推古朝末期の国家意識の高揚期を迎えると、旱魅を含む異常気象に対して国の政治的問題と. 見る動きが高まってきたようである。その時期は、聖徳太子が没して、ちょうど蘇我氏が権力を掌握. する時期にもあたっている。そして、皇極元年に至って、ついに蝦夷は自分を主体者として、国家的 な祈雨を行い、組織的に群臣を従属せしめる形にもっていったのである。. ところで、この皇極天皇の祈雨を一番のよりどころとして、天皇をレインメーカーであったとする. 研究者は多い。たとえば、梅原隆章氏は、 ﹁皇極天皇あるいはそれ以前の社会に於て︵は︶、水旱風. 雨を司る霊能者としての天皇のシャーマニスティックな権威を疑わず、天皇の祈雨が民衆の下からの 要請で行われ、良い結果の見られた時には民衆が感謝の通念をさ・げた﹂と述べられている。確かに、. 皇極天皇の行為そのものは、レインメーカー的性格を十二分に発揮していると言えよう。しかしなが. ら、先に述べたように、蘇我蝦夷が初めて国家的な祈雨を行ったと思われるわけであるから、それに. 対抗して登場した皇極天皇は、蘇我蝦夷に触発される形で国家的な祈雨に踏み切ったと考えられる。. そのことからすると、天皇による祈雨は、.本来この当時国家的な意味合いを持っていなかったという. ことになる。すなわち、皇極天皇にはレインメーカー的な性格がうかがえるが、それが本来国家的な. 祈雨の場面で発揮されることはなかったようで、おそらく天皇家の支配する地域に対してのみ有効な. ものであったと思われる。これは、天皇だけに特有のものではなく、各豪族にも認められるものであ ったかもしれないのである。. 一. 一. 23.
(28) しかし、一方では、これとは全く別な考え方として、皇極天皇がこの時までは全くレインメーカー. 的な性格を持っていなかったとするのも可能である。というのは、中国において国家的な祈雨を行う. のが皇帝であることは、知識としておそらく入っていたものと思われるので、蘇我蝦夷の行為に脅威. をいだいた天皇が、自身を中国の皇帝になぞらえて、急遽祈雨を行ったとも解せるからである。その 方法が特異なものであることからも、十分考えられることである。. このように、天皇のレインメーカーとしての性格については、皇極天皇の記事だけで判断すること. は難しく、ここでは以上二つの考え方があることだけを提示するにとどめたい。ともかく、いずれに. せよ、この当時の本来の姿としては、天皇が国家を意識して祈雨を行うことはなかったと思われるの である。. 異常気象記事の空白期. 第二節 国家的祈雨の成立 1. 前節では、表2の第一グループについて考察を行ったが、ここではまず、それ以後の空白期の問題. について考えてみたい。この期間は、森雨についての記事が二例ばかりあるだけで、旱越についての. 一. 一. 24.
(29) 記事は全く途絶えてしまう。だからといって、この時期に旱魅が起こらなかったとは考えにくい。第. ニグループの天武朝・持統朝の約三〇年間に、少なくとも二〇件の祈雨を行っているところを見ると、. かなりの頻度でこの当時旱魅に悩まされていたことがわかる。そのことからすれば、この空白の期間. も約三〇年忌であるから、何度かは旱越にみまわれているはずであって、全くなかったとは考えられ ないのである。. それでは、実際には起こっていたはずの旱越が、なぜ記事としては書かれなかったのであろうか。. ﹃B本書紀﹄の編纂段階で、この期間だけ故意に旱越の記事を省いたのであろうか。それとも、もと. もと﹃日本書紀﹄の編纂に用いた原史料にこの時期の旱越の記事がなかったのであろうか。このいず. れかであろうが、 ﹃日本書紀﹄の編纂者が、第一グループの時期と第ニグループの時期には旱越の記. 事を取り上げて、その間にあたるこの期間だけ故意に記載をとりやめるということは不自然なことで. あるし、そうすることの必然性も見当たらない。この期間に森雨の記事が、大化三年︵六四七︶と天. 智五年︵六六六︶に二度記載されているのを見ると、旱越の記事だけを省くというのはなおさら考え. にくいことである。おそらく、 ﹃日本書紀﹄の編纂者としては同じ態度で記載に努めようとしたので. あろうが、もとになる記録所そのものに虚血の記事がなかったため、記載しようにも記載できなかっ たというのが真相であろう。. このことから、第一グループと第ニグループの間の空白期間は、この時期自体、旱毬も含めて異常. 一. 一. 25.
(30) 気象に対する記録化の態度が弱まっていたと考えることができる。そうだとすれば、なぜこの期間は. 異常気象に対する記録化の態度が衰退したのであろうか。そのことを考えるために、まず空白期間の. 始まった時期を検討してみたい。第一グループの最後が、例の皇極元年の祈雨の記事である。このこ. とは、非常に興味深いことを示しているものと思われる。すなわち、第一グループの最終段階におい. ては、祈雨が国家的なレベルにまで高められようとしていたわけである。そこまで高まってきていた. ものが、その次の段階で急激に旱越すらも記録に残さないという態度に変わるのは、よほどの大変化. と言わざるをえない。そのように考えた時、この時期としてこの大変化に該当するものと言えば、大 化の改新しかないであろう。. 大化の改新によって蘇我氏が滅ぶと、それ以前に蘇我氏が推し進めようとしていた政策の多くは当. 然破棄されることとなる。皇極元年の記事が蘇我氏による国家的な祈雨への動きであったことを思う. と、この政策自体も破棄の対象となったものと考えられるのである。おそらく、その専制的な祈雨の. あり方がそれまでの祈雨のあり方とはあまりにもかけ離れていたことから、周囲に反発やとまどいが. 生じていたことと思われる。そういうことから、大化の改新以後、祈雨の方法は一旦以前の豪族レベ. ルの方法に後退したようで、旱魑についても記事として取り上げられなくなってしまったと考えられ る。. この空白期間については、史料が途絶えてしまうことから、この部分だけで考えることは難しいの. 一. 一. 26.
(31) で、次の第ニグループを検討する中で合わせて考えていきたい。. 2 天武朝以後の神祇的祈雨. 表2を見るとわかるように、愚妻グループに入ると壱越と祈雨の記事が急激に増加している。そし. て、それと時を同じくして、その他の天候についての記事も多くなっていることに注目したい。膏雨. についてはそれほどの増加は認められないが、持統五年︵六九一︶に止雨の初見記事が登場すること. などは、やはり大きな変化の時期であったことを物語っているようである。このように、この時期は、. 異常気象全般に対しての問題意識が著しく高まってきた大きな変革期であったと言えそうである。. その中でも、特に顕著なのは三越に対してである。表2を見ると、二三年の内の一四力年に旱魑や. 祈雨の記事が見られるという、かなりの頻度を示している。そして、以前とは異なり、旱越の記事が. あれば必ずそれに対する祈雨の記事があるというようになっている。また、それとは逆に、旱越の記. 事は漏れていても、対応策としての祈雨の記事は記されていることが多い。これらの事実から考えら. れることは、鳥越が起こった場合には、必ず国家としてその対応策としての祈雨を行っているという. ことである。そこには、真剣に対応しようとする姿勢がうかがえる。つまり、国の政治的行為として. の祈雨が確立しているのである。このような祈雨の面での政治的な動きが発生するのは、表2に見る. ﹁. 一. 27.
(32) とおり明らかに天武朝のことであろう。そして、これ以後もこの姿勢は続いていくことになる。. それでは次に、具体的にどのような方法で祈雨を行っていたのかを見ていきたい。寒具グループの 祈雨の記事の初見は、天武五年︵六七六︶のことである。. 是夏、大旱。遣使四方、四望二才、祈諸神祇。亦請諸僧尼、祈干三宝。然喜雨。由是、五穀不登。 百姓飢之。. ここでは、諸神に奉幣するとともに、僧尼が三宝に祈るという方法をとっている。 ところが、翌年の天武六年の五月になると、 於京及畿内零之。. というように、 ﹁零﹂という記述が用いられるようになる。 ﹁零﹂とは、中国で雨乞をさす言葉であ. る。その後、この﹁雲﹂という記述が、持統二年までの約一〇年間続くことになり︵表3︶、この間. 一〇回の﹁雲﹂が行われている。残念ながら、それらのいずれの記述も簡略なため、具体的な内容を. 知ることはできない。けれども、この間の﹁雲﹂というものが、その言葉通りに中国風の祭杷であっ. たかというと、その点については疑問の生じるところである。すなわち、天武十二年︵六二三︶七月 の条に、. 是月始至八月、旱之。百済僧道蔵、雰之得雨。. とあるように、百済の僧道蔵による祈雨も﹁雰﹂と記されているからである。道幅は、中国風の方法. 一. 一. 28.
(33) 雨. 祈. に. る. え 見. 渤 嚇 表. 3. 考備. 次年. 曽兀﹀極施皇一. ︻ノ︶6武67天一. 6 ︶武㎝天︵. 8︶武硲天一. 9︶武麟天︷. 0︶1 1武州天一. 2︶斑㈹天一. 3︶副鯉天一. 一兀︶鴇. 2︶統加持一. 4 ︶鴨. ダ0︸統説持一. 7︶3統69持︷. 0ノ︶統筋持︷. 0︶繍働持︵. 二. 9 2.
(34) ではなく、明らかに仏教的な祈雨を行ったはずであるが、それに対しても﹁雲﹂という言葉をあてて. いる。このことは、祈雨の方法のいかんにかかわらず、この時期は記述の上ですべて﹁雲﹂という表 現をとっていたことを推測させる。. そして、この﹁雲﹂に続いて登場するのが次の様な記述である。持統六年︵六九二︶五月十七日の ことである。. 遣大夫謁者、桐名山岳涜請雨。. この﹁大夫賢者﹂及び﹁名山岳涜﹂という言葉は、 ﹃後漢書﹄に見られる言葉であるの鴛“それにな. らって当時の記録者が記述したものと思われる。ところが、このうち﹁名山岳涜﹂という言葉の方は、. 翌持統七年にはすぐに﹁諸社﹂という言葉に置き替えられてしまう。四月十七日の条に、 遣大夫謁者、詣諸社祈雨。. とある。 ﹁名山岳涜を桐りて﹂と﹁諸社に詣でて﹂が対応していることから、 ﹁名山岳涜﹂が﹁諸社﹂. と同義であることがわかる。このことから、持統六年の﹁大夫謁者を名山岳涜に遣わす﹂という表現. は、中国の記述をまねたものであって、実際には﹁諸社﹂に対する祈雨であったと言えるであろう。. その後、大夫剛者を遣わして諸社に祈雨を行うというこのスタイルが、持統十年まで続き、六例見ら れることになる︵表3︶。. 以上のように、 ﹁雲﹂という表現も、 ﹁大夫誉者を名山岳涜に遣わす﹂という表現も、ともに中国. 一. 一. 30.
(35) の記述をまねたものであって、実際に中国の祈雨法を行うのではなかった。そして、その間の表現の. 変化もまた、記述上の変化であって、実際的な祈雨行為の変化を伴うものではなかったと思われるの である。. 同様のことは、 ﹃続日本紀﹄に移った段階での表現の変化にも言えそうである。文武二年︵六九八︶ 五月一日の条に、次のようにある。 諸国旱。因奉幣畠干諸社。. ここでは、諸社に対して奉幣を行うという具体的な行為が記されていて、以後こういう記述が続くこ. とになる︵表4︶.その前段階の﹁大夫謁者﹂の表現の時期には、奉幣という記述はなかったわけで. あるが、だからといって、奉幣がなかったとは言えない。先のように、時期的な記述の変化というも. のがあるわけであるから、この場合も、 ﹃続日本紀﹄に移行した時点での記述上の変化ととらえるべ. きであり、むしろ、それ以前から奉幣という形で祈雨が行われていたとみるのが妥当ではないかと思 われる。. 右の推測が認められるとすれば、改めて注目されるのが、先にあげた天武五年︵六七六︶の記事で ある。. 是夏、大旱。遣使四方、以捧幣吊、祈諸神祇。. ﹃日本書紀﹄にたった一例見られる記事ではあるが、明らかに奉幣を行っている。これ以後、 ﹁雲﹂. レ 弓.
(36) 璽. 砿. N. 雨 祈. る. え に. 見. 椥 ㈱ 表. 4. 考備. 次年. つ4︶ 8武69文︵. 一兀︸ 1宝m大一. 2︶ 2宝冊大︵. ︺⊃︸ 3宝m大︵. F兀︸ 4雲70慶一. . う4︶二筋慶一. 一1後−以︸&. 3︶雲二面︷. り4︸銅鵬和一. ⊃﹂︶ 0銅71和一. 7︶ 4銅71和冗. 一兀︶ 5亀71霊一. 一兀︸ 7老71養︵. 6︸老㎜養一. 4︶ 2平B天一. 一. 2 3.
(37) 軌. 2. N. ◎ノ︶ 7平B天一. ︻り︶13平召天︵. 7︶1︻り平74天一. 8︶1!0平召天一. ⋮ ﹁癒あ﹁と︸ 一無る ⋮て門財ε興国嬬於一7 ⋮7↑⋮7 ・7. 9︾17平74天一. 7︶ 3鉾76秤︵. 8︸ 4鐸祐評︵. 2︶鴨. 2︶雲肥旦駄7糠︷. 2︶ 1亀η宝︵. −︶︶亀㎜宝︵. 朧⋮瓦⋮⋮麗・⋮宛と⋮誉⋮⋮5 一. 4︶ 3亀η宝一. ︻ノ︶ 4亀η宝一. rO︶亀篇宝一. 7︸ 6亀η宝一. 一塩︶暦観延︵. 4︸ 5暦聡延一. ﹁ ⋮脇 痛購⋮識⋮内 ⋮ ⋮浴畿 ⋮ ⋮沫る.使 一 皇あ‘噸、⋮㎝幡. 7︶暦窩延一. Qノ︸暦㎜延一. 旱 一儲瞬二国 .醗照以詔⋮ ﹁皇。天疫. .. 0︶ll暦η延一. 3 3.
(38) という記事、さらには﹁大夫筆者﹂という記事が続くようになるが、それらを表面的な記述上の変化. ととらえるならば、実際的な祈雨の行為としては諸社への奉幣という形が続いていたものと思われる のである。. この諸社奉幣というスタイルは、以後何百年と続いていくきわめてオーソドックスな方法であって、. なおかつ祈雨だけに限定されるものではなく、さまざまな祈願の場でなされるものである。それほど. オーソドックスな方法となっているので、あたかもはるか以前より続いてきたかのような感を与える. のであるが、記録としては天武五年が初見であって、それ以前には見られないという事実にはやはり. 注目せざるをえない。このことから、諸社奉幣というスタイルは、天武五年かあるいはそれをあまり さかのぼらない時期に初めて登場したものと考えるのが妥当であろう。. そして、ここで問題としている諸社奉幣についてであるが、 ﹁奉幣﹂そのものは以前から見られる. 普遍的な祭杷方法の一つである。だから、それよりも重要なのは﹁諸社﹂の方である。つまり、奉幣 は奉幣でも、 ﹁諸社に対して﹂という点こそ、究明すべき問題なのである。. 諸社ということになると、天皇家が鈍る神々だけではおさまらず、おそらく有力な豪族が上る神々. も入ってくるものと思われる。国家が各豪族の滑る神々に対して、直接的に奉幣使を遣わして神を謬. るということは、ある意味で、各豪族の持つ祭杞権をゆさぶりかねない重大な宗教的介入にもあたる. わけである。そういう影響力を考えると、諸社奉幣というものが、ただ漠然と成立したのではなく、. 一. 一. 34.
(39) 重大な政治的意味と背景をもって成立したことが推測される。すなわち、諸社奉幣という方法がとら. れた背景には、国家による強力な政治的・宗教的主導権の発揮があったと言えるのである。. そういう意味では、天武豊というのは、実にふさわしい時期と言える。すなわち、天武朝は、壬申. の乱によって畿内の有力豪族の勢いが後退し、それによって相対的に天皇の地位が高まり、天皇によ. る専制的な政治が実現した時期にあたっているからである。以後に継承されたように、制度的にも整. った形である諸社奉幣は、律令的な国家体制へと向かおうとする、まさにこの時期の所産と言えるの である。. ア . この諸社奉幣と同様な見地で理解できるのが、広瀬祭・龍田祭である。天武四年︵六七五︶四月十 日の条に、. 遣小紫美濃王・小錦下佐伯連広足、桐風神干龍田立野。遣小錦中間人連大上・大山中曽祢連韓犬、 祭大忌神於広瀬河曲。. とある。広瀬を大忌神、龍田を風神として、順調に水が得られることと風水の害が起こらないことを. 祈る祭であり、ともに、神祇令に孟夏︵四月目と孟秋︵七月︶の祭と規定されている。神祇令に定め. られた祭の祭神がちょうどこの時期に登場することも、神祇面での整備が天武朝に一段と進んだこと. を示しているものと解してよいであろう。また、それに加えて、広瀬・龍田が大忌神・風神という、. 自然現象に関わる神として特殊な性格を持たされていることにも注目したい。専門神とも呼べる個性. ︸. 一. 35.
(40) 的な神であり、これまでにあまり例を見ない新しいタイプの神の出現と言えそうである。これもまた、 この時代の要求により登場したものであろう。. 以上のように、諸社奉幣という形式の祈雨は、律令的な国家体制へと向かう段階において、神祇面. での制度的な整備が進む中で誕生したものである。中央集権体制をめざした国家が、天皇の命令のも. とに、諸社奉幣という形で一律に祈願を行うシステムを作り上げ、そうすることで、国の神祇制度の. 中に各豪族の杷る神々を組み込んでいったものと思われるのである。これはきわめて組織だったもの. で、政治的にも制度的にも、まさしく国家的な祈雨と呼ぶにふさわしいものである。ここには、皇極. 天皇のように自ら祈雨を行う姿はもはや見られない。天皇が祈願の主体者であることには変わりはな. いが、あくまでも神祇的な制度にのっとって広範囲の神々に祈願を行うのであって、天皇の持つ個人 的な霊力に依存する様子はうかがえないのである。. それでは次に、この諸社というのが、どの範囲の神々をさしているのかを見ていきたい。 ﹃日本書. 紀﹄では、先に述べたように﹁雲﹂等の記述が諸社奉幣であったことが推測されることと、持統朝に. は実際に﹁諸社﹂の記事が多く見られることから、この時期は﹁諸社﹂が主流であったと考えられる。. それに対して、 ﹁畿内﹂もしくは﹁四畿内﹂と出てくるのは三例ほどにとどまっており、まだそれ程. 一般的ではなかったようである。 ﹃続日本紀﹄においても、当初は同様の傾向を示しているが、天平. 四年︵七三二︶頃より﹁畿内﹂ないしは﹁諸国﹂という記述が増すようになり、天平宝字七年︵七六. 一. 一. 36.
(41) 三︶からは圧倒的に﹁畿内の群神﹂という記述に変わっている。そして、さらに延暦七年︵七入入︶. には、伊勢神宮とともに﹁七道の名神﹂という記事も見られるようになる。この流れを見ると、 ﹁諸. 社﹂はおそらく畿内よりも狭い範囲に所在する神々をさしていたものと推測され、それが徐々に畿内. の群集へと広がっていったものと考えられる。このことは、旱越における国家の対応すべき地域が年. 月とともに広がりを持っていったことを示している。おそらく、初期の段階では都とその周辺もしく. は大和一国というような狭い地域を対象としていたものと想像されるのである。つまり、国家的に祈. 雨を行うようになった段階においても、当初は割合に狭い範囲にしかそれを実施しなかったわけであ. る。このことは、それ以前の豪族レベルでの祈雨を主体としていた時期に、その視野においていた範. 囲と、さほど変わっていなかったのではないかと思われるのである。それが、律令制の浸透にともな. って、国家意識の高まりと政治面での空間的拡大が生じてきて、その一端として祈雨面での範囲の拡 張となって現れたと言えるであろう。. ここで、三越についての当時の観念を考えてみると、旱越は神の巣によって発生するというのが、. 古代の一般的な解釈であったようである。そして、また、ある地域に発生した旱越はその地域に杞ら. れている神の出ホであるとして、きわめて地域に密着した考え方でとらえられていたようである。とこ. ろが、実際に発生する旱越はより広範囲に起こることが一般的であるから、国家として対策を行う際. に、広範囲に起こる旱越を目前にして、それらの地域の神々がすべて集っているという受け止め方を. 一. 一. 37.
(42) せざるをえず、自然とその地域の神々を穿ることとなるのである。おそらく、諸社奉幣といった場合 には、旱越の発生している地域の神々に対して奉幣を行ったものであろう。. そして、祈雨の対象が、時とともに広範囲の神々になるに従って、おのずとその結果にばらつきが. 生じるようになるのは当然の帰結である。 ﹃毎日本紀﹄大宝二年︵七〇二︶七月八日の条に詔として 次のようにある。. 又在山背国乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有霊験。宜入大幣及月次筆墨。. この当時の国の行う祈雨としては、諸社に奉幣するというのが基本的な方法であるので、この﹁毎旱. 祈雨﹂という記事から見ると、火雷神が国による祈雨の対象とされた諸社に含まれていたものと考え. られる。そして、一斉に行った諸社への祈雨奉幣において、火雷神が特に﹁領有厚着﹂というふうに. 見なされたのは、おそらくその杞られている地域によく雨が降ったことから判断されたのであろう。 ここにも、神とその杷られている地域との密接な関係が読み取れるのである。. そして、さらに注目したいことは、頻りに徴験があることによって大幣及び月次の幣例に入れられ. ていることである。 ﹁験﹂とは、神の不思議な感応や祈誓に対する効験を意味する言葉であるが、そ. れに注目しているということは、従来の神の集を鎮めることによって雨を願うという考え方よりも一. 歩踏み込んだものになっていて、むしろ、神から恵与される結果の方に期待する態度となっているよ. うである。験があることによって大幣や月次の幣に入れるということは、言わばそのことによって面. 一. 一. 38.
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