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〈研究ノート〉大学教育における学力低下の背景--日米比較

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(1)大学教育における学力低下の背景:日米比較 眞砂 薫 1.はじめに  今、日本とアメリカの両国では、大学生の学力低下が問題となっている。大学生は、重 い学習内容を課す科目を回避し、それが大学生の基礎学力である批判的思考力や、論理的 思考力の低下を起こしている。アメリカと日本は、その歴史においても、社会構造におい ても、異なる点は多い。それでもアメリカの大学教育は、戦後日本の大学教育のモデルで あると考えられてきた。日本の文部科学省なども、大学を監視し管理する基準としてアメ リカの大学教育を利用してきた。 「入りやすく出にくい」アメリカの大学は、厳しくも実践 的な大学教育の理想であると考えられてきた。その一方で「入りにくく出やすい」日本の 大学教育は、過熱した受験競争とともに批判されてきた。この大学教育観は妥当なのか。  日米両国の大学教育の現代的問題である学力低下の原因は、学習の絶対量の不足である 「軽量化」である。これまで大学教育の学力低下問題は、大学教員の教育力の不足とされ、 大学の授業方法改善の問題に還元されてきた。しかし学力低下の根本的な解決のために は、多く重い学習課題を学生に強制し、個人学習を徹底させる「学びへの圧力」academic press が重要だという研究結果がある。現代の学生に「学びへの圧力」を加えるためには、 その社会的背景の理解が必要である。  大学教育の軽量化の原因の一つには、市場競争社会の中で学生や親が、教育をサービス と考え、学歴という商品を購入するという価値観がある。その価値観は日本社会にも見ら れる。同じ病巣を抱える社会で、同じ症状である学力低下問題があるならば、アメリカの 大学の教育システムを導入することに賛成する意見もあろう。しかし私たちは単順にアメ リカの大学教育を理想のモデルとして取り入れてよいのか。  アメリカの大学教育システムは日本のそれに先行するモデルである。また日本の大学教 育への批判の根拠や比較の対象とされてきた。そのアメリカの大学教育の限界が明らかに なり、方向性が見えないままに「漂流」するものであるとしたらどうか。アメリカの大学 教育の限界と漂流は、日本の大学教育のみならず、大学教育行政にとっても重要な問題で ある。 2.大学教育力の測定と学力低下研究から:日米比較を交えて  R. アラムと J. ロクサはその著書. (2011)の中で、アメリカの大学. −109−.

(2) 教養・外国語教育センター紀要. 教育の限界を明らかにするために、College Learning Assessment(大学学習評価)と呼 ばれるテストを行い、結果を分析している。明らかになるのは特定の教科・学科の知識を 超 え た 知 的 能 力 で あ る。 具 体 的 に は critical thinking( 批 判 的 思 考 能 力 ) 、analytical reasoning(分析的論理思考力) 、problem solving(問題解決能力) 、writing(文章力)を 測定する。大学での教育成果の検証のためには大学入学後の得点の変化(伸び)に注目す る。そしてアメリカの大学生の知的能力が入学後に低下あるいは伸び悩むと研究は指摘す る。  アラムとロクサの研究は、エビデンスベースで、大学入学時と大学 1 年終了時の 2 点で 同じ学生を測定し、大学入学後の学習の成果を明らかにしようとした。その結果、アメリ カの大学生は、入学後と 1 年終了後の学力、とりわけ批判的思考能力などの学習成果の伸 びは僅かであった。  研究では、批判的思考能力、論理的思考能力などでは、学生の人種・エスニシティー・ 出身階層の格差が、入学後の学力格差となった。世界的に見れば均質な日本社会に比べ、 アメリカでは、エスニシティーグループの格差が、大学入学以前の学力格差となる。入学 者選抜試験や、大学入学後の単位相当の「高校での学習実績 advance placement」には、 入学以前の階層・人種・エスニシティー間の格差が影響する。このような人種・階層格差 問題を、日本の教育問題に当てはめることはできない。  それでもこの研究は、アメリカの大学生の不十分な学習の実態を明らかにする。大学教 員が授業を通して学生に課す課業の量の軽量化が深刻である。1 学期間に多量の論文の執 筆、1 週間で課題としての多量の文献講読を求められる科目の履修に関する学生調査では、 論文レポート執筆・文献講読とも求められない科目を選んで履修するケースが増加してい る。論文執筆と文献講読の課業のある「重量授業科目」を回避し、課業の少ない「軽量授 業科目」を選択する学生が、現在のアメリカの大学で増加していることが明らかになっ た。大量の文献講読の必要な科目を学生は選択したがらず、論文・レポート執筆を課す授 業を選択しない学生は、半数に迫る。意識的に重い課業回避をする学生もあり、大量の課 業を課す重量授業を選択する学生は、半数を割り込もうとしている。  この研究調査から、論文執筆と文献講読の両方を課す授業を履修する重量学習型学生の 成績の伸びは大きいことが明らかになる。両方を回避、または一方の課業を課す授業しか とらず、十分な課業を回避した軽量学習型学生の伸び率は低いのである。この研究は、大 学入学後の成績・能力伸び率の差の原因は、学生の入学後の、重量型授業の回避であると 結論している。  回避の原因は、アメリカ社会の学歴主義が、安易な学習で学歴を獲得し就職につなげた いという、私的事情を優先する思想が、アメリカの大学に蔓延したためであると研究は結. −110−.

(3) 大学教育における学力低下の背景:日米比較. 論付ける。このような現代の社会思想に影響されず大学教育の成果を上げるためには、学 生の私事に迎合して大学の授業の軽量化をするのではなく、重い学修課業を強制し学修に 向かわせる圧力 academic press が必要であるという。その academic press を有効にする ためには、社会と学生およびその親の、大学教育への支持と信頼と理解が欠かせない。で は大学教育の改善と学力低下の阻止をするためには academic press が必要であるとして、 その academic press は、日米で学生たちやその親に受け入れられるのか。そして何より、 日米社会は同じ教育理念を共有できるほどに同質の社会なのか。 3.なぜ日本はアメリカの大学教育を理想とするのか  特定の教科・学科の知識を超えた知的能力である critical thinking(批判的思考能力) 、 analytical reasoning(分析的論理思考力) 、problem solving(問題解決能力) 、writing(文 章力)を大学生に教育することが、現代の日本の大学の喫緊の課題である。なぜ日本の大 学生に、英語力に加え、あるいは英語力以上に上に挙げた知的能力が必要なのか。  大学を企業の人材輩出の機関として利用したい思惑が、日本の企業にはある。長引く経 済不況で、大学卒業生を採用し、自社に相応しい人材として「育成」する余裕と時間がな いため、日本の企業は企業内研修 On the Job Training を大学教育に肩代わりさせる思惑 がある。日本では、加熱した TOEIC 高スコア礼賛以来、現在も大学卒業生に求める即戦 力的要求項目は増加している。今や、日本の一流企業では、英語ができても仕事ができな い人材は、必要ではない。英語力以上に「仕事の基礎力」である、批判的思考力、論理的 思考力、問題解決能力、そしてコミュニケーション能力を、入社後付与する負担を、日本 企業は負う余裕はない。その能力養成の負担は大学教育に求められる。 「世界的規模での 人材の移動と獲得の競争の激化」である「グローバル化」の中で、日本の大学教育に高い 要求を示し、高レベルの人材輩出力を発揮させるためにも、大学教育に上記の能力の育成 をさせたい。こうしてアメリカと日本で、大学教育の重要な役割は、学生に知的能力を与 えることである点で一致する。同時に現在の日米両国にとって大学生の知的学力が入学後 に低下するとすれば、深刻な問題となる。 4.日本の大学教育の変遷  1990 年代以降の日本で行われた大学設置基準の大綱化を受けての、大学制度の見直しと 大学改革は、アメリカモデルの後追いであった。しかしその後、日本の大学教育は、徹底 してアメリカの大学教育システムを模倣する方向に進んだわけではなかった。日本の多く の大学で行われた「教養部解体」や「一般教育の見直し」以降、アメリカの大学との微妙 な差異を見せ始めている。. −111−.

(4) 教養・外国語教育センター紀要.  1990 年代の大学制度の見直しは、市場競争原理の教育分野への持ち込みであった。大学 設置基準を緩和し、大学を増やす一方で、多くの大学の競争は、大学教育・研究のレベル を向上させるであろう、との教育政策的な予想と期待があった。同時にそれは、教育の監 督官庁にとっては、大学の教育のみならず運営、経営へ介入する「監視と管理」の機会で あった。また大学の自由競争は、マスメディアが「教育」を報道の標的とする機会を与え た。大学教育は、学歴と就職を確保するための投資となり、大学教育とは「教育サービス 産業」であるとの価値観をメディアは大衆に与えた。こうして大学の「聖域性」は剥奪さ れた。この時期から「強い大学」 「大きな付加価値を学生に与える大学」のランキングが、 マスメディアが伝える大学問題の中心となった。大学の「評価と格付け」は、教育への 「監視と管理」のためのツールであり基準となった。  しかし大学の評価格付けを行い、大学の存続を賭けた自由競争の判定を行う基準が、大 学の「教育レベル、教育の質、教育内容の独自性ではなかった」ことは確認されるべきで ある。確かに「教育のレベルや独自性」を測定する基準を、可視的・数値的に示すことは 極めて難しい。英語教育であればスコアが明示される TOEIC が重視され、大学はその平 均スコアの向上に英語教育の重点を置くこととなった。入学者の定員割れや、留年生・休 学生、中途退学者の数の多さは、大学の教育指導力の不足を証明する数値的証拠となっ た。この傾向は大きく日本の大学の教育を歪めることになる。定員割れを起こさず入学者 数を確保するためには、合格者のレベルを落とさざるを得ない。そうなれば留年・休学・ 中途退学者数が増え、それを防ぐためにリメディアル補習教育を行い、講義・授業のレベ ルを落とすことによって、留年・休学・中途退学の原因となる落第不可の数を減らそうと する「大学内努力」が行われる。日本では 2000 年代に入ると大学生のレベルの低下が深 刻な問題となる。  時を同じくして、長引く日本経済の低迷から、産業界では、入社後の企業内研修教育を 行う余裕がなくなり、即戦力あるいは国際性を備えた人材の提供までも、大学は求められ るようになる。 「本来合格できない低学力者の受け入れと、企業での研修すら不要な高い 能力の人材の輩出」という達成の難しい役割を社会的に大学教育が押しつけられるという 状況の中で、大学教育の「評価と格付け」で「監視と管理」を強めることは、監督官庁に しても、日本社会全体にとっても「競争の中で大学教育の機能を最大限まで高める鞭」と して有効であった。  このような歴史の中で、アメリカの大学システムと日本の大学システムは似て非なるも のであり続けた。似ている部分は、戦後日本の大学教育が、基本的にはアメリカの大学教 育モデルを模倣した結果である。しかし志望する大学の選択においても、大学進学を希望 する根拠としての人生観や野心の問題も、アメリカと日本では大きな差異があった。入学. −112−.

(5) 大学教育における学力低下の背景:日米比較. 者選抜における学力試験重視の日本と、学力以外の多元的な選抜基準をもつアメリカでは 大きな違いがある。受験者の学力階層によって事前に格付けされてピラミッド型を示す日 本の大学の階層性に対して、アメリカの大学群はレベルの差があるにせよ、ピラミッド型 ではなく多峰型を形成する。アメリカの大学を見て、単純な比較検討することは極めて難 しい。しかし日本の大学教育の教育水準の下向スパイラル現象は、アメリカにも存在す る。カーネギー財団の調査では、アメリカの大学教員は、本来高校で習得すべき事項を大 学で教育するのにあまりにも多くの時間と費用が使われていると感じており、大学新入生 の半数がリメディアルの無単位科目を履修せざるを得ない。  しかしアメリカには日本と明らかに異なる状況がある。アメリカの大学は基準以下の成 績になった学生を退学させる規則を持っている。学生は大学院への進学や企業への就職 で、学部時代の成績が重要な選抜基準となる。アメリカの大学生は、 「外側からの動機付 け」によって、 「功利的な教育要求にも積極的に応えよう」と努力することは事実である。 日本では、アメリカと同じくシラバスの明示により学習内容の質を保証し、授業評価に よって監視と管理を行う一方で、入学者、留年、休学、中途退学などの数値的な監視から 私学助成金が決定される以上、日本の大学は「基準以下の学生の入学は厳密に拒否し、か つ基準以下の学生の退学を促す」ことが難しい。それが日本の大学教育における独特のダ ブルバインド状況を物語っている。結果として、日米両国の大学教育において大学教育の 軽量化は深刻となり、大学教育は大きな方向性を失っている。 5.日本の大学教育と社会の構造  大学教育を含め、日本社会全体が「グローバル化する世界への対応」をせまられてい る。国家・国境を越えた経済と人の流通が促進され、日本社会の構造的閉鎖性への対応が 求められる。大学教育に視点を移せば、日本語という言語の壁に守られて、大学の学校組 織、学生や教員が、外国から流入できず、日本のそれらも海外に進出できない状態への対 応が求められる。対応への不備は、文化的・言語的な保護主義となるかもしれない。しか し「グローバル化」が公平に行われるためには「競争と格付け評価」が公平公正に行われ なければならない。  中谷巌が指摘するように、日本社会に「競争と格付け」が存在しなかったわけではな い。歴史的に、近くは戦後日本の経済的成長において、個人も企業も「格」を求めて競争 をしてきた。格を求めての競争は「日本社会の活力の源泉」であったと中谷は指摘する。 同時に日本社会の格をめぐる競争は、地域的・社会的な「閉鎖性」に守られた競争であっ た。そこが「グローバル化」問題との接点になる。アメリカ型の「競争とその結果として の格」は、個人においても企業においても、世界的に、個人がいきなり全体との競争にさ. −113−.

(6) 教養・外国語教育センター紀要. らされ、その結果、獲得した成果が、個人の格を作る。それに比べて日本型の競争は、ま ず日本社会という殻の中での競争であり、その中にも地域、企業などの内なる殻がある。 重層的な殻の中での競争が、日本型の競争であると中谷は指摘する。大学も同様である。 受験の難易度によって、古くは国立 1 期校、2 期校をはじめ首都圏私立大学群での格付け に始まり、地方の大学群での格付けが行われ、グループ形成が行われる。グローバル化を 意識した競争に挑むにしても、幾重にも形成された日本的「格の殻」を破壊することから 始めなければならない。多層的な殻の内部での日本型競争と、殻なき統一規格の中でのア メリカ型競争を、同じ「国際競争」の名で呼ぶことに問題がある。  問題を教育に絞ろう。近代日本において、教育・学歴は、個人の社会階層的移動つまり 「立身出世」にとって重要な要素であった。竹内洋は近代日本の立身出世主義のイデオロ ギーの発展について観察した。この結果竹内は、日本の明治期の近代化においても、明治 以前の身分制度を破壊する形での出世 = 個人の社会進出はなく、階層性を前提としつつ、 「分をわきまえた出世」が存在し、社会的に容認されたことを日本社会の特徴として指摘 する。個人の所属する階層の間での緩やかな移動(=出世)は認めつつ、社会の階層性は 維持することで、日本という閉鎖社会は安定してきた。その安定の中で、個人レベルの競 争と野心は、社会の活性化に役立った。この考察を応用すれば、日本の学校における競争 もまた、多層的階層構造を維持したままでの競争が、日本の高い教育レベルを築いたと考 えられる。  この前提に立てば、アメリカ的な意味での自由競争を実現する「グローバル化」を、日 本のグローバル化と重ねて考えることはできない。そこには「日本社会の多層的な格=殻 の構造を破壊するグローバル化で、本当に日本の発展が期待できるのか」の多面的な検討 が抜け落ちている。戦後の高度経済成長の後、日本は今、長い経済低迷の時期にある。し かし日本再生の特効薬としてグローバル化が特効薬になると断言することはあまりにも思 慮を欠き、リスクが高い。大学教育もその問題を先行的に反映している。  マクロなレベルでは社会構造も歴史的背景も異なるアメリカの大学教育システムを、ミ クロなレベルで模倣的に導入し、導入したシステムが機能しているかを検証するため、大 学教育を監視し管理するのが、現代日本の大学教育の置かれた構図である。低迷を打破す るためとはいえ、ミクロとマクロのレベルで矛盾を抱えたグローバルな大学教育改革は正 しいのか。 6.大学・大学院教育:研究か教育か【アメリカの歴史的側面から】  大学教員の役割の中核を研究活動にするという発想は、研究成果で大学教員の存在価値 に意味を与え、社会的資産価値を上げることが大学の存在意義との考え方である。その. −114−.

(7) 大学教育における学力低下の背景:日米比較. 分、大学教員の教育の負担を軽減する必要が生まれる。  こうした歴史的経過は J.L.Chase(1970)の研究に詳しい。19 世紀末から 20 世紀初頭に かけて、1876 年のジョンズ・ホプキンスをはじめ、アメリカの大学は大学院を設立し、大 学教員は研究活動の専門家として位置づけられた。研究には高い価値が置かれ、教育の位 置づけは低くなった。それで教育活動の負担は大学院生にかかった。大学院生は研究の専 門家の養成課程にありながら、学部生教育を担わされた。大学院生は学部生教育を担当す ることにより、財政的な援助(奨学金給付に加え、若干の給与)を受ける仕組みが出来上 がった。  給与と引き換えに研究専念ではなく教育専念を課せられる大学院生の姿は、現代日本の 教養系大学教員の姿に近い。研究重視の大学のあり方は、学部教育の質の低下につなが り、アメリカの大学教育の問題となった。現代日本の大学入学者数の増加が質的低下の一 つの原因であるが、第 2 次世界大戦後のアメリカでも、同様の大学生の爆発的な増加が、 教育史の大きな節目となった。  第 2 次世界大戦前にはアメリカでも、大学教員は研究とともに、学部生を多人数クラス で教育し、試験を課し採点をし、指導した。戦後、大学生の増加は大学教員の需要を生む が、大学教員養成のために大学院も増加し、大学院生の財政援助として TA のポストが増 加した。一方大学教員に対しての人事評価の基準は研究と出版になった。現代日本の大学 教員の評価項目に研究業績・研究成果の項目が残された事は、憂慮すべきである。日本の 大学教員評価の厳格化と負担増加の将来像を、昇格か辞職か、出版か死か、と表現された 当時のアメリカ的状況が暗示している。研究業績を積む一方で、授業評価を厳密に行う 「勤務評定」がアメリカにはある。授業に手抜きができないうえに、研究業績の発表に関 して publish or perish(発表か死か) あるいは up or out(昇進か辞職か) という言葉が 象徴するアメリカの大学内の状況に、日本も急速に近づきつつある。  連邦政府の助成金は、1960 年代後半で 170 億ドルとなり、10 年前の 4 倍となったことは、 しかしながら、アメリカの大学教員の役割が、一時期にせよ、研究重視であり研究に専念 できる環境の提供が大学の役割であったことから考えれば、現在日本の大学教員の立場は さらに悪い。アメリカでは 20 世紀後半から 21 世紀にかけて、大学教員の不足や、大学教 員の研究への専念が、教育経験の未熟な大学院生を TA として教壇に立たせ、結果として 学部生教育のレベルの低下を起した。  アメリカ大学教育史の、歴史的経緯については、天野郁夫(1988)が次のように解説す る。大学教育が「教育サービス」であれば、現存する大学院生という手持ちの資源を学部 教育に活用することは妥当である。低下する学部生の学力、つまり学士力向上に、大学専 任教員が提供できる個人指導以上のきめ細かい教育指導、大学での基本的学習スキルの教. −115−.

(8) 教養・外国語教育センター紀要. 育、オリエンテーション的教育の徹底が効果を上げる可能性はある。アメリカの大学教育 の定型を確立し、教育サービスを学部生に提供することができたという点で、J. Andrew (1985)は、アメリカの教育制度の改善における成功例として TA 制度を評価している。  今日の日本の産学連携や知的生産を社会にダイレクトに還元させる政策や思潮は、20 世 紀後半の、連邦政府の助成金増額による大学研究振興政策と同じである。アメリカでは早 くも 1960 年代から顕著になり始めた学部教育の質的低下に対し、1970 年代から、TA に 対する計画的な訓練・指導プログラムが現れる。アメリカでは、大学教育を担当する人材 のための組織的・計画的な訓練プログラムが 1970 ∼ 80 年代にかけて現れ、1990 年代に急 速に制度化された。TA が制度として定着したアメリカでは、 TA となるべき大学院生には、 TA セミナーとして、学部生向けの大学教育スキル訓練と同じく、大学教員養成プログラ ムが作られ、実施されているのが現状である。アメリカの姿が、歴史的・文化的差異を超 えて、日本の将来像であれば、日本でも大学教員の教育スキル研修が国家的教育政策とし て示される可能性はある。 7.大学・大学院教育:研究か教育か【日本の場合】  今日、日本の大学教育の現場は、研究と教育の両立、さらには学部教育への専念を求め られている。大学教員には、小・中・高校教育の延長線上にして、社会に人材を送り出す 最後の関門としての「仕上げ教育」を課す。そうなれば、大学教員の研究の時間的・労力 的余裕は生まれない。しかしながら、大学という企業内での勤務査定に「研究」の項目が 設定され、研究に係るインセンティブの条件を満たせない大学教員の研究費減額がある。 経費削減と労働強化を、企業としての大学は同時に達成している。このような大学教員の ジレンマは日本が最初ではない。アメリカにおいても、 「大学教員の最大の責務は、研究 か教育か」という議論は存在した。  日本でも 1986 年の臨時教育審議会 2 次答申以降、日本の大学院の各研究科での TA 制 度が開始された。しかし理科系学部ではすでに大学院生が実質的な TA 的役割を実践して いた。日本での TA 制度導入は、日米の大学教育の歴史の差異を考慮せず、アメリカ方式 を盲信的に評価し導入を決定したように見える。日本の理科系学部では学部生や大学院生 の就職も大学教員が指導する。一方、学部生や新入院生の教育指導は、上位年次院生や助 手、助教が行う日本では、TA 制度が、学力低下の著しい学部生教育や、教育サービス向 上に効果を発揮するかどうか、疑問が残る。  日本でも、国家が公的な大学助成金の配分を武器に、研究機関としての大学を競争さ せ、研究成果を引き出そうとする。しかし日本では、長く続いた「教養 2 年、専門 2 年」 の大学教育体制があった。基礎教育は教養・外国語系統の教員が担当してきた。この伝統. −116−.

(9) 大学教育における学力低下の背景:日米比較. から、日本では TA が制度的に定着しなかった分、大学院生ではなく、教養系大学教員が 学部生の基礎教育を担う。現代日本では、増加する大学生の、大学入学後の学力低下の責 任は、TA ではなく大学教員が負い、学部教育の質的低下の問題の根幹を見えにくくさせ ている。  日本の現状では、国は大学・大学院への予算の重点配分を、傾斜配分方式で研究業績を 基準に行おうとしている。日本の大学教育でも、財政逼迫を理由にして予算・資金の傾斜 配分を行うことで研究重視の価値観が、高まり始めている。一方で大学生に大学での基本 学習スキルや、様々な補習的教育を与えればならない。研究と教育の関係は緊張し、日本 の現状は 1960 年代アメリカの大学教育の現状と同じである。当時、外部からの研究助成 を獲得するため、大学での研究の比重は重くなり、安価な教育力として TA に過大な期待 と負担をかけたため、深刻な大学教育の質的低下を経験したアメリカは「定型スキル教 育」を確立できた。しかし日本版「定型スキル教育とそれを行える教員・院生のためのプ ログラム」が確立も完成もしていない現在、アメリカ的 TA 制度だけを導入すれば、日本 の大学教育の窮状に対処できると結論付けるのは早計である。  アメリカのみならず、日本でも、市場原理の導入と自由競争が質的向上をもたらすとの 理念が普及したため、大学がサービス産業化した。親や学生は、大学教育を購入する消費 者である。顧客(=学生)の選択を肯定し重視し、消費者のニーズに応える形でサービス を提供するのがサービス産業の本質である。事実、学生が軽量授業を選択すれば、高い要 求の授業は選択から外れ、好結果は得られないのは当然であるが、その原因が学生の選択 である事実は議論されなかった。また消費者である学生と親たちが大学に求めるのは、表 向きでは入学以後の能力の向上であっても、要求度の高い、厳しい授業は求めず、快適な 設備を備えるキャンパスであり、友人との交流や在学中の社会経験ばかり求め、教員によ る教育訓練は求めないのである。この実情、つまり大学教育の前提となる学生や親の価値 観の観点から見て、大学が教育の聖域であるという認識はなく、他のサービス産業と同じ 消費者優先原理の働くサービス産業であると考える事実は、日本でも全く同じであり、そ れこそが問題である。  現代日本はアメリカ以上にマスメディアにコントロールされる大衆迎合型社会である。 加えて、個人がむき出しで社会に対峙する個人主義社会ではなく、閉鎖的であるがゆえに 活力もまた閉鎖的集団の内部から生まれるという日本型の構造を考慮に入れた「グローバ ル世界論」は未だに生まれていない。正しくグローバル化問題を考える場合、アメリカ型 を原型とするにしても、日本の社会構造を考慮した日本型大学教育論を創造しなければな らない時期に来ている。. −117−.

(10) 教養・外国語教育センター紀要. 8.スキル教育としての大学教育  日本では学士力の低下が問題となっている。大学入学後の「基本的な勉強の仕方」の教 育が必要とされている。しかし日本では、 「大学教育の基本スキルの習得」には未解決の 問題が多い。 「学習の基本スキル」というべき科目を作るか、どのくらいの時間をかける のか。そして誰が教えるのか。  アメリカの大学教育における基本スキルの習得は、大学院生の TA が担当する新入生セ ミナーで学ばれる。読むべき参考文献のリストでの提示がなされ、リサーチ(新聞、雑誌 記事収集)の方法、図書館の活用(図書館ツアー) 、知識の提示(プレゼンテーション) の仕方、について説明がなされる。基本的文献をもとに、問題の立て方、先行研究の引 用・参照の方法とルール、使用データの説明の仕方、文献リストの提示の仕方が教えられ る。論文執筆や、クラスでの議論のために、 「目的」 「分析」 「考察」 「議論」 「結論」の区 別が学生に叩き込まれる。 「文献講読予習 reading assignment」 、 「討論形式の授業参加」 「リポート・ペーパーの執筆」の方法がスキルとして確立され訓練される。さらに実用的 な知識として、中間・期末レポート、論文の作成の方法とルールまでも「教育」されるこ とが多い。  アメリカの大学教育に共通する特徴は、スキルの教育(学び方)に「明確は型」がある ということである。これは評価と競争を保証する基盤である。スキルとは「個人的な資 質、能力に関わりなく基本的に誰でも習得できる技術」と定義できる。そうであれば、大 学入学時に、評価と競争のための基礎を大学が学生に教育したという確実な事実があれ ば、その後は学生個々の自己責任と言える。現代日本においも、入学から卒業までの学生 教育の確かな実践と、その質的保障を大学は厳しく問われている。それは、アメリカの大 学教育に見られる「学びの明確な型」 「教育の定型性」が、日本の大学教育に欠如してい るか、未完成であるからだ。しかし現在、日本の大学教育で、独創性の発揮、個性の発見 が問われているとすれば、大きな誤りがある。アメリカの教育では学生に「内容のオリジ ナリティー」が問われるにしても、 「独自の問題発見→リサーチ→一定のルールの順守→ フォーマットに乗せた論述」を学生が実行できることが、内容の独創性の有無を評価され る以前の前提である。この前提が、日本の独創性教育では不問のままである。  アメリカの大学教育の内容を今一度、吟味しよう。理論的に言えば大学教員が授業に際 し、授業準備である文献講読や、学習の集大成としての多量の論文執筆を課せば、批判的 思考力、論理的思考力、問題解決力など知的能力の向上が期待できるとの推論は妥当であ る。さらにこの推論に基づけば、アメリカの大学教育モデルを基本的に踏襲する日本の大 学教育もまた改善が期待できることになる。しかしこの論理に破綻はないか。  アメリカ社会の大きな背景は学歴主義 credentialism であり、それが個人としての私事. −118−.

(11) 大学教育における学力低下の背景:日米比較. (低い要求で単位を取得し、大学卒業資格を取得して就職につなげたい)を優先する傾向 である私事化 privatization の思想を大学に蔓延させる。この社会的体質は、アメリカの社 会構造の模倣としてのグローバル化によって、日本にも浸透しつつある。その社会的背景 にはマスメディアの発表する大学ランキングが消費者たる学生や親の選択に影響を与える 事実がある。ランキングを上げるためには大学の学術研究レベルが大きな要素となる。最 先端科学技術の開発があり、マスメディアを通じての情報発信は、消費者たる学生や親の 選択に影響する。  そのような逆風の中で、知的能力の向上を大学教育の使命とするならば、学ぶ文化の再 構築し、彼らの学力低下の原因を直視しなければならない。結論は極めてシンプルであ る。学生自身の学習があって学力が向上するのであれば、大学の授業には高い要求を、学 問的な圧力 academic press として与えるしかない。ここで消費社会の原理を大学に持ち 込んではならない。日本の大学や高校においても、授業技法によって、academic press な しでも授業成果は向上するとの主張がある。学校当局は授業方法などの教員の教育技術問 題で、消費者の要求に応えようとする。しかし先に挙げた研究の Collegiate Learning Assessment テストの結果から検証すれば、学生がその軽量さゆえに期待しやすい「楽し い体験学習」や「楽なグループ学習」では結果は伸びなかった。結果が伸びたのは、単独 学習で高い要求の文献講読や論文執筆を実行した学生であった。この研究結果を支える理 念は、正当な高等教育の意味の再考であり、学歴の意味の再考である。学歴を保証する高 い要求を課す高等教育は、知的な市民によって運営される市民民主主義社会を形成する基 礎となる。この考えは、アメリカの大学教育問題を考えるうえで極めて正当である。しか しアメリカ社会の実情はどうか。そして日本社会は深層までもアメリカ社会と同質なの か。 9.教育システムと社会:クーリングアウトとトラッキング  苅谷剛彦(2012)は、トラッキング・システムという教育社会学的観点から、日本社会 とアメリカ社会を比較している。アメリカの大学においては授業に関する基本的情報に加 え、担当講師の情報、講義の目的・スケジュール、成績評価方法、文献入手方法、履修条 件が詳細にわたって提示される。これを受けて現在の日本の大学でも、文部科学省の指導 もあり、同様のシラバスの提示がほぼ義務づけられつつある。しかしなぜシラバスの提示 が重要なのか、の理由については、日本とアメリカでは差異がある。その差異の根底に は、社会的・文化的な差異が存在することが見逃されがちである。  日本の大学でのシラバスの重要性は、 「 (社会的に、また大学内では学生に向けての)情 報開示・説明責任の実行」という社会規範ゆえである。 「透明性の確保と情報公開の義務」. −119−.

(12) 教養・外国語教育センター紀要. という現代日本的ポピュリズムによって蔓延する、大学生の消費者意識の反映である。授 業料を払い、単位や学位という商品を購入するためのカタログであるシラバスへの、大学 という企業の責任である。 「教育のサービス産業化」は、アメリカが起源であり、日本は その後を追っている。  そのような状況の中で、苅谷はアメリカにおける高校間格差とトラッキング・システム の問題を指摘する。アメリカの高校では、履修科目の生徒による「選択」が、大学選択に 対して重要である。公立・私立の大学では高校で履修した科目パターンは、大学入学選抜 基準として最も、あるいは非常に重視される。科目選択によっては大学の入学資格が得ら れない。トラックとは、進学か、就職か、など生徒の将来の進路のことである。個人の進 路に強く規制が働く仕組みを「トラッキング」という。これは日本社会における「生徒の 進路」問題と同じに見える。しかし苅谷によれば、日本社会のそれには「集団の編成原 理」が働く。学校や、学校群のレベルにより、護送船団方式で、あるレベル・階層の人間 が選択できるトラックは限られる。限られるが保証もされていた。日本では、同じトラッ クを選択する生徒・学生は、同じ集団に属するという帰属意識を持つ。  しかしアメリカでは、高校から大学へ、さらに大学入学後もまた、トラッキングは完全 に、個人の選択と個人の責任の問題なのである。苅谷は、日本の高校教育について、教育 社会学的に指摘される「日本にも社会・階層格差的なトラッキングが存在し、高校の成績 が受験する大学の選択に制限を加えるではないか」との主張には反対する。アメリカのト ラッキングは、制度的な境界であり、個人がその選択を誤ると、別のトラックに変更する のが極めて難しい。教育において、アメリカのトラックは、個人にとって制度的障壁なの である。 10.日本の社会と教育システム  こう考えれば日本の「教育と進路の護送船団方式」という喩も正確ではない。苅谷は日 本の社会と教育の状況を、 「メリトクラシーの最も大衆化した姿」あるいは「学力偏差値 という一元化した基準」で選抜を行う「徹底した競争の大衆化状況」と見ている。日本の 大学受験を支える「学力」や「偏差値」を作りだすのは「高度な可視性を備えたメリトク ラティック・マシーン」であるという。日本では、進学に関する「選択」の重みは個人に かかるのではない。高校の階層性が、生徒の進路の選択範囲を規定している。  それを考慮にいれると、日本で言われる「アメリカの大学は、入りやすく出にくい」と いう言葉は次のように説明できる。アメリカのトラッキングでは、競争させて、競争後に 「敗者を納得させる」システムが用意されている。野心を持って入学できるが、入学後に、 自分の能力や選択において、誤りがあったと自分が納得できる(させる) 。 「後の祭り」型. −120−.

(13) 大学教育における学力低下の背景:日米比較. の敗者の処遇の仕組みは、アメリカではクーリングアウトと社会学的に呼ばれる。一般に 高校、大学、社会へと何重にも各レベルでクーリングアウトが用意され、野心と敗北への 処理が進むのがアメリカ社会である。そうであればこそ、シラバスを含め「ルール整備を 徹底する」のが、アメリカ社会の原理原則である。一方、未だアメリカのような「個人の 選択に委ねられたトラッキングと、対になるクーリングアウト」が存在しない日本では、 シラバスの整備は、教育の監督省庁が大学を管理し監視する道具でしかない。 11.教育と格差の日米比較  アメリカではクーリングアウトが最も機能するのは大学教育においてである。大学入学 に、まず全員の野心を過熱させ、結果が明白となれば野心を冷やす。それを支えるトラッ キングつまり進路規制障壁は、大学教育の外部ですでに、社会装置としてまた既成事実と して構築されている。  今一度、注意深く、教育におけるアメリカと日本の「類似と差異」の見極めの重要性を 認識しよう。 「格差と競争」という一般論のレベルでみれば、アメリカと日本は類似し、 日本は急速にアメリカ化しているといえる。しかし、日本的競争では、学校間格差も関連 し、あらゆる種類の「受験」において、 「予想される敗者としての個人」には、事前の自 己選抜と辞退を、社会的、システム的に、受験者個人に強要する。例えば模擬試験や進路 指導で無理だと判断された難関校受験を受験生は「自ら辞退」する。  アメリカの自由競争の基盤に埋め込まれたトラッキングとクーリングアウトは、自由参 加の競争における心理的な緩衝装置である。それは個人に心理的影響を与え、個人の野心 や不満のガス抜き効果を果たす。一方明治以来の学校制度の整備普及という知的インフラ 整備が進んだ日本においては、学業達成度という文化的価値基準は、国民の合意を得た選 抜基準であり、進路の規制障壁でもあり、トラッキングを決定する制度的障壁でありう る。日本では、個人の学歴や出世への野心は、文化的に承認されたトラックの存在を織り 込んだ野心であり、社会階層内での移動可能性(つまり立身出世)に、個人的な野心の冷 却(クーリングアウト)装置は必要がない。日本の大学における科目選択への指導は、あ くまでも教育的指導であり、授業評価に記載された学生のコメントは、大学というサービ ス業界への個人的なクレームに過ぎない。文部科学省が指導を強化する「シラバスの整 備」は、サービス産業的クレーム対策である。このようにして、アメリカの教育システム を日本が模倣しても、それは形骸的にならざるを得ない。大学教育問題に顕著に表れるア メリカと日本の制度的類似は、 「日本の形式的な後追い現象」であると同時に、 「両国の文 化的差異」を内在するものであることに注目しなければならない。. −121−.

(14) 教養・外国語教育センター紀要. 12.クーリングアウトとトラッキング:日本の大学教育における検証  アメリカに比べ日本の大学生の特徴として、①成績評価へのクレームと質問がすくな い、②習熟度別クラス制度の実効性が薄い、という点を挙げることが出来る。これらの点 は、クーリングアウトとトラッキングという観点から観察すれば説明がつく。その背景に は、日本とアメリカの社会システムの違いがある。①についてはどうか。アメリカでは大 学生の消費者意識が強く、文字通り高額な授業料に見合う教育が受けられるかどうかにつ いて、厳しい選択の目を持って、教育を選ぶ。したがって、シラバスとは教育サービスの 売買の商品カタログである。売買契約書に基づく教育サービスに対し、シラバスは「その 対価として学生に課す課業を示し、学生が果たしたその業績に対して、あらかじめ示した 基準と手法によって教育評価を行う」ことを明示している。ここには「評価社会」の本質 が見える。シラバスに示した内容の実行の評価は、学生による授業評価で検証される。大 学全体の基準認定 acreditation は、大学の外部からの大学評価によって行われる。学生が 獲得する成績は個人の選択の結果であると同時に、クーリングアウトに向かう分岐点であ る。アメリカの大学生は自分の業績に対する評価に対し、妥当な判断がなされたかについ ては非常に熱心であって当然と考えられる。一方日本社会では、アメリカと異なり、ト ラッキングが完全に個人的な判断の結果ではない。個人の進むトラックに関しては、社会 が関与し責任を持つ。  ②についてはどうか。クーリングアウトをうまく行うためにはトラッキングの仕組みに おいて敗者に敗者たることを気付かせないでおくことが肝要であり、勝敗が決していても 勝負はこれからだと思わせる状態を許すことが、アメリカ競争社会を成り立たせている。 この状態の維持により、組織(学校)への服従をも確保できる。自分の実際の選択以外の 可能性(大学に進学しない者が進学・卒業できると確信するなど)への自信を例にとれば 日本とアメリカで大きな差が出るという。アメリカの学生は、未知の自分の可能性に大き な自信と野心を持つことができる。その比較対象として、日本の大学生の意識はどうか。  筆者の担当クラスの学生延べ 96 名については、入学時にプレイスメント(クラス分け) テストを行い 3 レベルの習熟度別クラス編成を行っている。その後 1 セメスター終了後に 面接による本人の意欲確認と成績によって、上位クラスへの移動を認めている。その結果 は次の通りであった:1 セメスター経過後、成績がクラス上位 10%以内に入り、入学時の TOEIC スコアが 550 以上の学生 10 名をクラス昇格候補者とし面接を行った。 【結果】クラス昇格を望む学生 2 名;クラス昇格を勧めたが辞退するもの 8 名;そのうち で 3 名は逆に基礎クラスへの降格を希望した(が降格は許可しなかった) 。 【面接内容から明らかになった学生の意見・意識および分析と考察】 クラス昇格を希望した学生はいずれも高いレベルのクラスの授業を受けることにより自分. −122−.

(15) 大学教育における学力低下の背景:日米比較. の学力向上=可能性に期待を持っていた。一方、辞退者の全てが、上位クラスでの授業準 備や授業内容に対する課業(負担)の増加を好まない、と述べ辞退した。この辞退者のう ち 3 名がクラス降格を希望した理由は、平常の授業準備の負担減に加えて、下位クラスの 評価基準が低ければ、同じ実力では成績評価が良くなるのではないか、との考えを示した (最終的な成績評価は、英語運営能力テスト(TOEIC)を同一学年学生全員に課し、その 結果も考慮して総合的に判断すると説明したところ、授業負担減以外に利がなければ降格 は希望しないとの考えに変わった。しかし英語能力向上が自分の可能性を広げるとは思え ないと述べた。  アメリカのトラッキングとクーリングアウトの仕組みには、学生全員の野心(可能性へ の期待、意欲)の過熱と冷却の過程が含まれる。一方、日本ではトラックは存在するが、 それは個人の選択である以前に、社会階層的に強いられた選択である。日本では、大学進 学以前に、大学間、また学部間の格差を考慮したクーリングアウトが行われている。この 過程で日本の大学生は、野心と意欲をすでに去勢されている。したがって習熟度別クラス 編成が学生の教育的野心を加熱することはない。 13. 「学びへの圧力」の必要性と困難  日本の大学教育とアメリカの大学教育は、差異ばかりが際立って見える。背景となる歴 史や社会構造も異なる。しかし現在、日米ともに、大学教育における学生の学力低下に直 面している。低下する学力とは、批判的思考力をはじめとする知的学力である。これらの 能力は大学教育でぜひ学部生に学ばせたく、大学院教育の基礎となる能力である。重要な ことは、軽量化する大学生の学習内容を、強制的に重量化させ、学生に課す学習量を多く するのが効果的な方法であることが、研究結果から明らかになった。しかし大学教育の学 習量を再び重量化することは、社会構造的に非常に難しい。その点は、日米の両社会に共 通している。  社会の情報技術が高度になり、情報技術が社会構成員の意識の「顧客化」を進め、教育 はサービス産業化しつつある。事実、両国は高度資本主義国であり、教育機関もまた企業 化した。市場競争の中では、顧客に「サービスを提供」しても、顧客に「負担を課さな い」ことが競争に勝ち残る要素である。こうして教育が学生に重い課題を回避させ、学生 の学習をさらに軽量化させ、結果として学力低下につながる。この下降スパイラルを食い 止めるためには、academic press「学びへの圧力」を、大学教育が公的権利として持たな ければならない。それを保証するためには、大学という教育機関を、一般企業と同じ審査 基準で査定することをやめなければならない。マスメディアは教育という領域を安易に大 衆伝達の話題とすべきでなく、大衆迎合的に教育の現状だけを批判すべきではない。また. −123−.

(16) 教養・外国語教育センター紀要. 高度な民主主義的市民社会を構成する社会構成員たる一般市民は、大学を含む教育機関に 敬意を持ち、聖域化しなければ academic press は効果をあげることはない。  日米の学生の意識には大きな差異がある。これは一見、アメリカの学生は楽観的で積極 的であり、日本の学生は悲観的で消極的である、という陳腐な比較である。しかし今回示 したトラッキングとクーリングアウトという個人の意欲をコントロールする社会的装置を 見逃してはならない。日本の学生の意識や意欲は、加熱させられるまえに適度に冷却され ているのである。これは日本の大学教育の責任ではない。 参考文献 天野郁夫『大学―試練の時代』(東京大学出版会、1988)。 苅谷剛彦『アメリカの大学・ニッポンの大学』(中央公論社、2012)。 竹内洋『日本人の出世観』(学文社、1978)。 中谷巌『転換する日本企業』(講談社、1987)。 Andrew, Johnson, D.W.. ,(Jossey-Bass Inc.. Publishers, San Francisco, CA, 1985. Chase, John L. , (US Department of Health, Education and Welfare, 1970.) Jencks,C. and Riesman, D., The Academic Revolution,(A Doubleday Anchor Book, 1968). Richard Arum & Josipa Roksa, (Chicago: The University of Chicago Press, 2011).. −124−.

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参照

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