ミス・デントン来日の前後(4) : J.N.ハリス宛の1 通の手紙を巡って
著者 日比 惠子
雑誌名 同志社談叢
号 29
ページ 133‑150
発行年 2009‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012978
ミス・デントン来日の前後(4)
―J. N.ハリス宛の1通の手紙を巡って―
日 比 惠 子
ミス・デントン(Mary Florence Denton、1857.7.4〜1947.12.24、愛称フ ローラ)の強烈な個性は、ともすれば他者との協働に支障をきたし、時に は出すぎた行動がまわりの顰蹙を買ったかもしれないということは、すで にF. B. Clappや中村貢が婉曲的に指摘
1)
している。同志社女学校の卒業生や ミス・デントン晩年の世話にあたった星名久の回想
2)
から、恐らくそんなこ とも頻繁に見られたのであろうと納得させられるところがある。筆者は前 稿まで3回
3)
にわたって、ミス・デントン来日前後の事情を概観していく中 で、彼女なりの使命感や気負いゆえに、そのような面は早くも最初から現 れているということにも言及してきた。しかしながら、このことは、視点 を変えると誤解されている可能性も否定できないのではないかという疑問 にもつながるのである。
筆者がこれまでに概観してきた時代は、後年のミス・デントンの時期で はなく、多くの悩みをかかえつつも必死になっていた若きフローラの時期 である。彼女の署名が来日直後の約1年は Flora Denton であり、その 後2〜3年はこの署名と M. F. Denton という署名が混在するというこ とは、すでに拙稿(2006)において指摘した
4)
。ミス・デントンがアメリカ ン・ボードの総幹事N.G.クラーク(Nathaniel G. Clark)に書き送った書簡
5)
にざっと目を通した限りにおいては、1892年以降は Mary Florence
Denton というフルネームの署名が使用されていることがわかる。署名
表記
6)
を変えることに何か理由があったのかどうかは興味ある問題ではある が、筆者が論及の対象としているのは、まだ Flora Denton であった時
期である。本稿では、その時期のデントンの行き過ぎた行動の例として紹 介されている1通の手紙を取り上げ、前稿まででは取り上げなかったフロ ーラが誤解されている可能性もあるという部分に焦点をあて、その手紙が 書かれた前後の状況を明らかにしたい。
1.J. N.ハリス宛の手紙
アメリカのコネチカット州ニューロンドンの実業家、J. N. ハリス
(Jonathan N. Harris, 1815-1896)の総額10万ドルにも及ぶ莫大な寄付金に より、同志社に理化学校を設立して科学教育を行うという構想が実現の運 びとなり、理化学館は「1889(明治22)年11月15日に定礎式をおこない、
翌年3月26日に上棟し、7月に竣工
7)
」した。
このハリスに宛ててフローラが書いた1通の手紙がある。フローラは、
女学校の生徒もハリスの寄付による恩恵に浴していることへの感謝と、女 生徒たちが下村孝太郎(1861-1937)の化学の授業を受けている様子を伝 えているのであるが、この手紙は一見、ハリス理化学館で女生徒たちが授 業を受けているという印象を与えるものである。これは、クラップ(1955、
68-69頁)で引用され、そのまま和訳されたものが中村(昭和50、61-62頁)
によって紹介されている。クラップは、デントンが英学校の男子生徒と同 様の学校設備を女学校の生徒にも望んでいたということを示す一例として、
ただこの手紙を引用しているだけである。しかし、これを紹介した中村が 更に加えた解説によって、女学校の生徒たちがハリス理化学館で授業を受 けているという読者の印象が決定的なものになるのである。この解説は読 者に誤解を与える原因となっている。
中村は1890年7月にすばらしい純洋式の校舎、ハリス理化学館が建設さ れたことに触れ、以下のように続ける。
・・・デントンにとっては勿論同志社にこのようなすばらしい理科の 校舎が作られたことは喜ばしいことには相違なかったが、これが男生 徒によってのみ占有せられることは何としても我慢のならぬことであ った。しかもそこには最近米国のジョンズホプキンズ大学で化学を専 攻して帰朝した下村孝太郎が教師として働いており、女生徒に、この 設備の整った校舎で、新帰朝の新進気鋭の学者から教育を受けさせる ということは、彼女の大きい夢であり、何としてでも実現させねば止 まぬ熱情が彼女をゆさぶり続けた。そして彼女の熱心は遂に当局を動 かして、理化学館での女子の教育が許されることになった。次に掲げ るハリスに宛てた手紙は明治23年の秋の頃に書かれたものと思われる が、これによって彼女の喜びと感謝の情を察することができると同時 に、女子部にもこうした素晴らしい設備を持ちたいという彼女の熱烈 な願望がうかがわれないであろうか
8)
。(下線は筆者)
中村の解説に導かれて、フローラがハリスに宛てた手紙を読むと、まさ しく新築間もないハリス理化学館の中で彼女のクラスが下村孝太郎の授業 を受けているのだと納得させられる。しかしながら、開校(1890年9月)
間なしの同志社ハリス理化学校の新校舎で、しかも男子のみを募集してい たその学校で、女子生徒が授業を受けさせてもらえるということが可能だ ったのであろうか。ましてや竣工から開校までの間に女学校の生徒に校舎 を使用させたなどということがあったとは考えにくい。
では、フローラはどのような手紙をハリスに宛てて認めたのであろうか。
長くなるが、以下にその手紙を引用する。この手紙は、写し(copy)とし てタイプ打ちされた状態で残されているものである。なお、書簡中の下線 並びにボールド体は、筆者によるものである。
Kyoto, Japan, May 2, 1890.
Dear Mr. Harris,
I wish you to sit here with me and see the happiness you have given my girls. First let me tell you how we too are benefited by your magnificent gifts to the Doshisha. Our Girls’ School (Doshisha Jo Gappo[sic]) is really a department of the Boys’ School but we struggle along with very little money and so have very little apparatus and have been able to do very imperfect work in the science. I have taught what science we have had since I came into the school and although very imperfectly prepared for it, expected to take up the chemistry this term. I looked with envy at the added helps over here and longed and longed for co-education (which the law forbids) that my girls might have chemistry with Mr. Shimomura (who has come home so well prepared for it) and that they might have this laboratory practice. I never dreamed that it would be brought about, but the Lord hasn’t forgotten these girls, and then Mr. Ogawa came to tell us that Mr. Shimomura thought the letter of the law would allow the girls to attend the lectures and see the experiments, I was too delighted. I at once went to see Mr. Shimomura and he was very kind allowing me more than I could possibly hope. Every day at 2P.M., we walk over here for the lecture, and on Monday and Wednesday stay for the quiz. Friday we snatch a lunch and come over to the laboratory at 12for two hours’ practice followed by the lecture. We are so happy to come that not one of us objects to eating our dinner in five minutes, for the girls have a class which should close at 12and I have to leave a class too.
Mr. Shimomura deserves our deepest gratitude for he works from 12 to five, (the boys practise from 3 to 4). But what shall I say of our gratitude to you who have provided it all for the boys, as well as for the girls? I think the girls will write and tell you of their pleasure and of the great help this practi-
cal work is. One of the girls who had gone over the subject last year, asked to take it again this year and she says that “it seems like a new subject.” My office is merely that of looker-on and as I sit here this pleasant Friday after- noon and see them peering anxiously into the test tubes in which they are dissolving silver, I can only repeat my first wish that you might be here to see them.
Words cannot express the good that your generosity has already done, and when I look at the fine new building now going up I am led to think of the bright prospects these young men have before them and I hope that you may sometime come and see them and this great work for yourself.
Just now we are feeling the full affects of the reaction in regard to educa- tion that is sweeping over Japan, and we need your prayer as never before.
What the immediate future holds it is hard to see but with it all we are hope- ful and happy for the Gospel Ship does move on.
With much gratitude,
Yours very truly,
(signed) Flora Denton
原文と比較してみると、中村の解説が誤解を与える原因となってしまった と断定できる理由が2つ浮び上る。
まず、フローラはハリス宛にこの手紙をいつ書いたのかという点である。
中村は「明治23年の秋の頃に書かれたものと思われる」と推測しているが、
引用した原文には、この手紙の日付(1890年5月2日)がはっきりと書か れている。フローラは、ハリス理化学館がまだ完成していないときにこの 手紙を書いたのである。女学校の生徒が理化学館で授業を受けているとい う解釈は否定されることになる。クラップが日付を転記せずに引用したた
めに推測の余地が生じ、その結果引き起こされた間違いである。
次に問題にしたいのは、筆者が引用した原文のボールド体の部分を、ク ラップは省略して引用しているという点である。クラップを底本とした中 村も勿論、省略された部分は(中略)という形で取り扱っている。しかし ながら、省略された部分の下線部、 when I look at the fine new building
now going up を読むと、ハリス理化学館が建設中であるということがは
っきりとわかるのである。ここからも、新校舎での受講はあり得ないとい うことが明らかになる。
それでは、このハリス宛の手紙はどのような状況の中で書かれたもので あろうか。そして、フローラが連れて出かけた女学校の生徒はどこで授業 を受けているのであろうか。
2.英学校と女学校の設備共用
同志社英学校との距離的近さによる女学校側のメリットとして、「創立 時から規模において同志社英学校は女学校をはるかに凌いでいたので、た とえば、礼拝堂、化学実験室等女学校独自の設備としては持つことができ なかった建物を共用できたこと
9)
」を挙げることができる。しかしながら、
女学校の生徒が英学校の建物や設備を使用するについては、一定の手続き を必要としたはずである。いつでも自由に出入りして使用することが最初 から許されていたとは思えない。
同志社英学校の教員会議録
10)
に時々見られる、女学校(生徒)の英学校設 備の使用を承認するという記述から推論すれば、女学校の生徒たちが英学 校の設備を使用する場合には、まず女学校側からの使用許可願いが出され、
それを英学校教員会議で検討した後に、使用を認めるという手順を必要と したのではないかと思われる。
女学校(生徒)の英学校設備使用に関する記録
11)
は以下の6例である。
①Saturday, Jan. 7, 1888(At no. 4, at 3P.M.) 〔p. 153〕
Voted to allow to a class of the girls’ school to use the physiological charts in Dr. Berry’s room, if in the opinion of the president & comm.
on studies it is not contrary to law. (下線は筆者)
②Thursday, Feb. 2, 1888(At no. 4, at 5P.M.) 〔p. 156〕
Voted to allow the teacher of chemistry in the girls’ school to use our chemical apparatus in this building at such times as the room is not in use.
③Thursday, Jan. 24, 1889(At no. 13, at 5P.M.) 〔p. 190〕
Voted to refer the question of allowing some of the higher classes in the girls’ school to draw books from the library through their teachers to the library comm. to consider and report.
④Thursday, May 2, 1889(At no. 13, at 5P.M.) 〔p. 204〕
Voted to allow the Girls’ school to use the chemical apparatus in this school under the superintendence of Mr. Gaines.
⑤Thursday, June 13, 1889(At no. 13, 5P.M.) 〔p. 207〕
Voted to allow the girls’ school to use the chapel in the morning of the 27th, or afternoon of 26th.
⑥Thursday, March 20, 1890(At no. 13, at 5p.m.) 〔p. 247〕
Voted to allow Mr. Shimomura to use the recitation room and chemicals for giving lectures to the Bekkwa students.
Voted to allow pupils from the girls’ school to attend the chemical lec- tures as listeners if it is found that this does not conflict with the laws of
the country. (下線は筆者)
教員会議録の中で女学校が言及されているのは、第1例が最初である。
ここで注目すべきは、下線の部分である。女学校の授業のために英学校 の教室を使用することを許可するについて、そのことが法律に違反してい ないと社長や学課委員会が思うのならという条件つきである。この日の出 席者の中には社長である新島の名前は記載されていない。設備の使用許可 を与えることへの賛否両論で結論が出ず、最終的には欠席していた新島に 判断を委ねたのかもしれない。この問題について新島がどのような結論を だしたのかはわからない。
1888年6月の本科卒業生が、女学校の課業について次のように回想して いる件がある。フローラがまだ来日していない頃である。
英語は勿論、数学、漢文、国語等の学科ハ比較的進歩して居りまし たが、理化学は当時実験の機械もありませんでした故おくれて居りま した。後に男学校へ行って実験を見せて貰ったり、天文の時の望遠鏡 を借りた事もあります。
私共より後のクラスになりました時ハ、男学校より経済を助けて貰 ったりした為、実験の設備も揃って理化も進む様になりました
12)
。
1887(明治20)年8月改正の同志社女学校規則の学科課程表によれば、
本科第4年の第1期に「天文学」、第3期に「化学」が開設
13)
されている。
この卒業生は卒業間際の学期に化学の実験を見せてもらったのかもしれな い。引用の第2例は1888年2月2日に出された決定である。この卒業生の 在学最後の期間に当たる。ここで承認されているのは、女学校の化学教師
が部屋の空いているときには化学実験装置を使っても構わないというもの である。教師自身の勉強のために使用を許可しただけとも解釈できるが、
たとえそうであっても、何かの折に生徒を連れていって実験を見せたとい うことがなかったとも言えない。しかしながら、これは単なる推測にすぎ ない。
第3例は、女学校の上級生が女学校の教師を通して図書を利用すること を認めるかどうかの問題は、図書委員会に問い合わせ検討のうえ報告する というものである。図書の貸出しが認められたのかどうかは不明である。
第4例では、女学校がゲインズ(Marshall R. Gaines)
14)
の監督のもとでの 英学校の化学実験装置の使用を許可するということが承認されている。こ の承認事項から逆に第2例を見ると、やはり第2例は教師のための措置で あって、女学校の生徒が英学校の化学実験装置を使って授業を受けること ができるようになるには、この承認を待たねばならなかったのかとも言え る。使用が許可されても、英学校教師の監督下でという、不自由な使用状 況ではある。
第5例は女学校に礼拝堂の使用を許可するものであるが、27日午前中あ るいは26日の午後にという、1回限りの使用許可である。
以上の5例については、恐らく、女学校の生徒は英学校の設備を使って 勉強できたのであろうと思われるが、その使用状況を資料的に確認するこ とは、女学校側の記録が残されていない限り、不可能と思われる。
それに対して、第6例は、前節で言及したフローラのハリス宛書簡内容 と符合するという点で重要な記述である。以下で、前節の最後で掲げた疑 問点、すなわち、このハリス宛の手紙はどのような状況の中で書かれたも のなのか、そして、フローラが連れて出かけた女学校の生徒はどこで授業 を受けたのかという点を明らかにしたい。
フローラの手紙は、女学校の生徒がハリスの莫大な寄付金の恩恵を蒙っ ていることへの感謝から始まっている。そして、英学校と比べて女学校で
は資金も乏しく、設備もほとんどないので、理科を教えるには不十分なこ としかできないという現状を伝え、フローラ自身が着任以来、理科の全て を担当してきており、十分な心得もないのに今学期は化学を担当すること になっていたという。
女学校から見ればすでに立派な設備の揃っている英学校である。そこに は帰国したばかりの下村孝太郎がいる。更に最新の設備を取り入れる理化 学館が建設中である。フローラは羨望のまなざしでそれを見ていたようで あるが、ただ単に見ていただけではなく、女学校の生徒たちも英学校で下 村の化学の授業を受けられないか、その可能性を求めて早速動き出したよ うである。
しかし、後年のミス・デントンであればやりかねないと思えるが、若き 日のフローラ
15)
が独断で英学校当局に直接談判に及んだとは考えにくい。女 学校においても教員会議は行われていたはずである。常識的な推論は、フ ローラが女学校の教員と相談し、当時のホワイト(Florence White)校長 名で、校務運営の日本人側の実質的責任者であった女学校教頭
16)
を通して英 学校に伝えられ、教員会議で審議されたということになるのではないだろ うか。
先に述べたように、このハリス宛書簡はタイプ打ちされた写しである。
原本は、後で言及するように、フローラの希望通りにハリスのもとに届け られたのである。そのタイプ打ちされた書簡中に、 Doshisha Jo Gappo という誤記(下線部)が見られる。これは Gakko のことであるが、誤 記はタイピングの間違いというよりは、フローラの筆跡が原因の誤読であ ろう。そして、更に1箇所、 Mr. Ogawa も、ひょっとしたらフローラ の筆跡が原因の誤読とは考えられないだろうか。フローラが Mr. Ozawa と書いたつもりでも、彼女の筆記体 z が g に読み間違えられたとい うことは十分にあり得ることなのである。日本語や日本人名を知らないア メリカン・ボードのタイピストが誤読していることに気づくわけがなく、
g だと確信してタイプを打ったのではないだろうか。もし、これが
Ozawa であり、「大澤善助」のことであったとしたら、先に示した推論
を支持する若干の根拠になりうるものと思われる。この頃女学校の教頭で あった大澤が女学校と英学校との間の連絡役を果していることがわかるか らである。
更に同志社で幹事としての立場にもあった大澤に対して、1889年10月10 日(木)の教員会議は、理化学館建設計画検討委員会(J. D.デイヴィス、
下村孝太郎、D. W. ラーネッド、金森通倫)への出席を要請する
17)
と決議し ている。大澤は理化学館のことについて、下村といつでも話ができる立場 にいたのである。
さて、フローラも書簡中で、共学は法律が禁じていると述べているが、
英学校の教員会議の決定も、国の法律に違反していないということがわか ればという条件つきで、聴講生としての受講を認めるものである。判断は 下村孝太郎に委ねられたのであろうか。下村が法律の条文では女学校の生 徒が講義に出席して実験を見ることを認めていることになるという判断を 下したということが女学校に伝えられ、フローラは狂喜するのである。早 速彼女が下村孝太郎に会いに出かけたというのは、彼女の出すぎた行動と いうよりも、化学担当者としての当然の行動、当然の成り行きと言えよう。
男女別学の根拠となった「学級編成ニ関スル規則」は1891年に出されて いるので、ここで問題となっている法律はこの規則のことではない。考え られるのは、教育令改正(明治18年8月12日)第27条「凡学校ニ於テハ男 女教室ヲ同クスルコトヲ得ス 但小学校及小学教場ニ於テハ男女教室を同 クスルモ妨ケナシ
18)
」であるが、女学校の生徒を受け入れるために後半部分 を下村孝太郎が拡大解釈したのであろうか。
さて、下村の授業を受講できることになったわけであるが、先に確認し たように、このときはまだ理化学館が建設中の時である。では、授業はど こで行われていたのであろうか。
先に引用した、女学校の英学校設備使用に関する記録の第6例では、下 村孝太郎が別課(邦語神学科)の生徒への講義をするために、暗唱のため の部屋と化学薬品の使用を認められている。フローラの生徒たちが入室を 許されたのはこの部屋と実験室ではなかったのか。聴講生としての受講を 認めるということは、教室で男子生徒と一緒に講義を聞くという可能性も あるわけである。後に触れることになるが、英学校の生徒の女生徒を受け 入れることへの反発が考えられ、比較的生徒数の少ない別課の授業への参 加を認めたということも考えられるからである。
また、化学実験には絶対に必要な化学薬品の使用について、何故ここで 下村は教員会議の許可を得なければならなかったのか。ここでも思い切っ た推論を試みると、理化学校で使用するためにアメリカで発注
19)
し届いた薬 品や機器類を、理化学校開校を待たずに使用したいという下村の要望があ ったのではないだろうかということである。英学校の一室で、最新の機器 類を使って、貴重な薬品を使って、下村は化学実験を指導していたのでは ないだろうか。
下村の好意的な解釈により、英学校で下村の化学の授業を聴講できる機 会を得たフローラは女学校の生徒たちを連れて毎日その授業が行われる場 所へ出かけたのである。フローラの手紙から女学校の生徒たちは毎日午後 2時に教室で講義を聞いたことが窺える。月曜日と水曜日は口頭試問を受 けたようである。特に忙しかったのは金曜日で、女学校での午前の授業を 12時前には終えて、昼食もそこそこに12時からの実験に出かけていく。そ して2時間の実験のあとに講義が続いたのである。午後2時から講義とい うことになるから、実験は週に1日ということだったのであろう。講義は 1時間と考えられる。下村は12時から5時まで仕事をしていたようである が、男子生徒が実験をする時間は3時から4時までということがわかるの で、恐らく女生徒への講義の後で、男子生徒の授業を始めたものと思われ る。女学校の生徒と男子生徒の授業時間は完全にずれていることになり、
実際には男女混合クラスでの授業ではないということになる。このように して下村は法律に抵触する可能性をかわしたのであろう。
十分な心得もない化学を担当しなければならなかったフローラにとって、
生徒たち以上に下村の厚意を有難く思ったに違いない。生徒を連れてやっ てきたフローラの仕事はただ生徒たちの様子を見ていればいいだけという、
まさしく引率者としてのものである。最新の機器類を使って実験と講義を 行う下村の姿、不安げに試験管をのぞきながらも好奇心に満ちて実験を行 う生徒たちの姿、そして窓の外に見える建設中の理化学館―フローラは 若者たちの前に開ける輝かしい未来を確信したに違いない。恐らくフロー ラは、新築された理化学館でも女学校の生徒たちが引続き授業を受けさせ てもらえると、本気で思い込んでいたのではないかと想像できる。
このような恩恵に浴することができるのも、ハリスからの莫大な寄付金 があるからである。感激したフローラは早速ハリス宛に手紙を書き、それ をクラークへの手紙に同封して、 I have felt anxious to thank Mr. Harris for the great privileges his gift brings to us and will you please read the inclosed letter and then pass on to him. (Denton to Clark: 1890.5.5, Kyoto)
と、ハリスへの転送を依頼したのである。クラークもそれをハリスに送っ たこと、ハリスがその手紙に非常に興味をもって喜んでいたということを フローラに伝えている(Clark to Denton: 1890.6.9)。
フローラがこの手紙を書いたのは、あくまでも自分が化学の担当であっ たという、その時の事情によるものであると言えよう。赴任して2年もた たない若い新参者の出すぎた行動
20)
という見方もできるが、このハリス宛の 手紙を書いたことに関してのみ言えば、これは必ずしもホワイト校長を差 し置いての行動とは言えないのではなかろうか。お礼を言わずにはおれな いほどに設備がすばらしく、フローラの感激もひとしおだったのであろう。
生徒たちが授業を受けさせてもらっている、そのクラスの担当者としての 責任を果たすつもりで、お礼のことばを認めただけということではないだ
ろうか。実際に英学校のほうに出向いてはいないホワイトでは、担当者ゆ えの実感のこもる手紙は書けなかったであろう。
3.ホワイトの憤り
英学校の教員会議の承認を必要としたとはいえ、女学校の生徒が英学校 の設備を使用できた例として、教員会議の記録と資料的に内容が符合する フローラのハリス宛書簡に言及してきた。では、フローラはその後もずっ と生徒たちを連れて英学校で下村孝太郎の授業に参加できたのであろうか。
その答えをホワイトの手紙の中に見出すことができる。ホワイトは女学 校が英学校と距離的に近いが故のデメリットに触れ、次のようにクラーク に書き送っている。
Every youth in Japan considers himself fully capable of regulating his sisters studies and even to give advice in regard to the management of the school in which she is, especially if he is near enough to give the matter his personal supervision! It would naturally be supposed that our school would be permitted to share in the benefits of the Doshisha, but it will be a long time before Japanese boys would consent to any such thing, as we have just found out, by trying to have our chemistry class, who are using exactly the same textbook as the Doshisha boys, allowed to attend Mr. Shimomura’s lectures. It worked for a while but now it has been decided that they can do so no longer, for no reason except the wretched one, that the mind of women is inferior to that of
man! (White to Clark: 1890.5.29) (下線は筆者)
一般的な書き方をしているが、ホワイトの口調は、何かにつけて英学校
の男子生徒が女学校の生徒の学習や、時には女学校の運営にすら口出しを するということに憤りをにじませているものである。
下線部に注目すると、女学校の化学のクラスの生徒たちを下村の講義に 出席させてもらえるように女学校側が努力したことがわかる。さらにフロ ーラも触れていない新事実が浮び上る。下村の授業への出席許可を願った のは、英学校の男子生徒と同じ教科書を使っているからだということがわ かるのである。すなわち、女学校側は生徒たちが男子生徒と同じレベルで 授業についていけると判断していたと考えられる。
しかしながら、フローラが感激してハリスに感謝の手紙を書いた同じ月 の終わりには、すでに英学校での化学の授業への出席は認めないという決 定がだされていたのである。教員会議での決定後、わずか2ヵ月以内にフ ローラの夢は絶たれたのである。女学校の生徒たちが英学校の教室で下村 の授業を受けたのは実質上1ヶ月少々でしかなかったと言えるかもしれな い。教員会議録には、許可を認めるという件は記録されているが、それが 取り消されたことは記録されてはいない。
ホワイトは英学校での授業に出席することができなくなったのは、男子 生徒がそれを認めようとしなかったからだと考えている。それも、正当な 理由からではなく、女子の知力が男子のよりも劣っているからという、ひ どい理由からだと、その決定を憤っている。
しかし、ホワイトのいう Japanese boys は、男子生徒のみを指すの だろうか。英学校を卒業して母校の教師となった、若い日本人男性も含ん でいるのではないだろうか。英学校の教師がすべて女学校に設備を利用さ せるということに賛成していたとは言えないだろう。教員会議の決定の中 に時々見られる、法律に違反していなければ、という文言には、できれば 受け入れたくないという本音が隠されているのかもしれない。
英学校の設備を共有させてもらえることは当然のことなのに、英学校が それに同意してくれるまでには随分と時間がかかりそうだとホワイトは苛
立っている。現段階では毎々許可を得なければならない。しかし、承諾を 得て設備を使用させてもらっても、すぐにその決定は覆されてしまう。ホ ワイトは校長という立場であっただけに、フローラよりも受けとめ方は深 刻だったのかもしれない。
フローラはこの件について何も言及していない。1890年5月5日付の手 紙にハリスへの手紙を同封してクラークに送ったフローラが、次にクラー クに便りを出すのは1890年7月21日である。この手紙の内容についてはす でに前稿
21)
で紹介したが、そこでもこの件については一切触れてはいない。
そして次にクラークに書き送るのは1891年2月21日のことである。この手 紙の冒頭でフローラはしばらく便りを送っていない理由を for I have nothing of interest to write except the fact of Miss White’s illness と書くの である。
女学校の生徒たちが英学校での下村の授業に出られなくなって、フロー ラはどのように思ったのであろうか。フローラにとっては、女学校の教室 で自分があまり心得のない化学を教えなければならない状況に戻ってしま ったことになるのである。番狂わせの事態が発生して、フローラは大いに 慌てたにちがいない。しかし、フローラがどのように化学の授業をしたの かは知る由もない。生徒たちが持っていた化学の教科書を使って、いわゆ る英書講読のような授業になってしまったのではないだろうか。フローラ も生徒たちもすっかり落胆してしまったであろうことは想像に難くない。
しかし、フローラはそんなことに落ち込んでいる暇もなく、やがてホワ イトの病気を目の当たりにすることになるのである。
以上、本稿では、フローラがJ. N.ハリス宛に書いた1通の手紙について 検討した。まず、それが誤解を与えるコンテキストで紹介されていること を指摘して、フローラがその手紙を書いた状況を明らかにした。そして、
この手紙を書いたということが必ずしもフローラの行き過ぎた行動とは言
えないということを示した。次に、英学校での授業参加が認められたもの の、それは長くは続いてはいなかったという事実をホワイトの手紙の中で 確認した。
1)Frances B. Clapp, Mary Florence Denton and the Doshisha(Doshisha University
Press, 1955) 、中村貢『デントン先生』(同志社女子大学、昭和50)。
2)デントン記念誌編纂委員会『ミス・デントン』(1953)。
3)拙稿「ミス・デントン来日の前後(1)」『同志社談叢』第25号(2005)97-117頁、
「ミス・デントン来日の前後(2)」『同志社談叢』第26号(2006)99-119頁、「ミ ス・デントン来日の前後(3)―ミス・デントン着任直後の行動―」『同志社談叢』
第27号(2007)95-114頁。
4)前掲、拙稿(2006)117頁。
5)宣教師とクラークとの往復書簡については、前稿までと同様に、同志社大学総 合情報センター(図書館)所蔵のマイクロフィルム資料、Papers of the American Board Commissioners for Foreign Missions を使用した。本稿で言及の対象となる のは、この資料内の年限である。
6)F. B. クラップ(1955、235頁)も言及しているように、後年のミス・デントンの
署名は M. F. D. である。例えば、長年の友人であった荒木和一宛の手紙の署名
がそうであるし、デントン日記にも時々 M. F. D. が見られる。
7)『同志社百年史 通史編(1)』(同志社、1979)、376頁。
8)前掲、中村貢『デントン先生』、61頁。
9)『同志社女子大学125年』(同志社女子大学、2000)、34頁。
10)松井全・児玉佳輿子翻刻、北垣宗治監修、Doshisha Faculty Records 1879-1895
(同志社大学人文科学研究所・同志社社史資料室、2004)。
11)同上書からの引用。本文中の〔 〕内の数字は記録されている頁である。
12)同志社社史資料室編『創設期の同志社―卒業生たちの回想録―』(同志社社史資 料室、1986)、394頁。
13)『同志社百年史 資料編(1)』(同志社、1979)、323頁。
14)1888年3月15日(木)の教員会議において示された春学期の科目担当者表に、
化学担当としてゲインズの名前がある。1889年10月17日(木)の教員会議では下 村氏に来週月曜日あるいはそれ以降できるだけ早く、ゲインズ氏の授業を引き継 ぐようにと要請するということが承認されている(前掲Doshisha Faculty Records、
159頁ならびに233-234頁)。
15)ハリス宛書簡を同封して、クラークに転送を依頼した手紙は同年5月5日に書
かれたものであるが、その中でフローラは、 I try my best to help Miss White but my inexperience in this work makes me a very poor helper. It is a great mistake to put new missionaries into positions of responsibility…. I think that many missionaries think that I shirk my duties, but regard for the real good of the work leads me to wait until I know this peculiar people well enough to take up anything which throws responsibility on my shoulders. と慎重かつ気弱な面を見せている。
16)この時期の同志社女学校教頭は、大澤善助(幹事)である。大澤は、明治21年 9月から23年9月まで教頭職にあった。『同志社九十年小史』(同志社、昭和40)、
254頁。
17)前掲、Doshisha Faculty Records, 233頁。
18)『学制百年史 資料編』(文部省、昭和48)、34頁。
19)「1889年7月23日、ハリスは、宣教師グリーン、ウスター工科大学学長フルロル、
下村の3人を理化学校設立委員として選んで自宅に招き、数日間にわたる談合を おこなって設立計画を練った。下村はフルロルおよびウスター工科大学化学教授 キニコットと話合って機器類を発注した。こうして、下村は新島の期待に応えて、
ハリス理化学校設立のため、ジョンズ・ホプキンズ大学院の学業半ばにして帰国 した」(『同志社百年史 通史編(1)』同志社、1979、374-375頁)。
20)中村貢、前掲書、63頁。
21)前掲、拙稿(2007)106-112頁。