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諦観からの軌跡 : The Journal of a Voyage to Lisbon を中心に

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諦観からの軌跡 : The Journal of a Voyage to Lisbon を中心に

著者 能口 盾彦

雑誌名 言語文化

巻 7

号 4

ページ 483‑505

発行年 2005‑03‑10

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007586

(2)

諦観からの軌跡

―The Journal of a Voyage to Lisbon を中心に―

能 口 盾 彦

『リスボン渡航記』はフィールディング(Henry  Fielding)が最晩年に認めた 旅日記である。日記とはいえ、フィールディングの小説と構成面で似通って おり、本文に加えて、「読者への献呈の辞」(Dedication  to  the  Public)、「原著 者 に よ る 序 文 」 (Author’s Preface)、「 原 著 者 に よ る 序 章 」 (Author’s Introduction)とから成る。筆者から読者への献辞に纏わる経緯で他と異なる のは、対象が物心両面の庇護者ではなく不特定多数の読者であること、加え て『リスボン渡航記』がフィールディング没後出版故に、筆者自身ではなく 盲目の異母弟ジョン(John Fielding)等の手を借りた点であろう。1 転地療養に ポルトガルに出向くも、薬石効無くリスボンでフィールディングが客死した ことから、『リスボン渡航記』の出版経緯に相違が生じたのも無理もない。

遺族の財政支援を意図したジョンの尽力により、遺稿は1755年2月に兄縁の 印刷業者ミラー(Andrew  Millar)によって日の目をみたが、既存の作品と比べ て見劣りするのは否めない。 評判は捗々しくなく、モンタギュー夫人(Lady Mary  Montagu)は最も啓発された箇所として子猫の話(海中に落ちた子猫の 救出劇)を、ウォルポール(Horace  Walpole)はフィールディングの水腫治療

(套管針〔trochar,  198〕により腹部から幾クォート〔quart,  1.136リットル〕

も体液を抜き取る施術)を挙げているにすぎない。2 ところが同年11月にリ スボンを襲った大地震は旧市街を廃虚と化し、為に英国民のかの地への関心 がつとに高まった。3 読者の渇望を受け、時を移さず翌月上旬には長短二編 の『リスボン渡航記』が発刊された。短縮版では遺稿に何らかの削除・改筆

「言語文化」7-4:483−505ページ 2005.

同志社大学言語文化学会©能口盾彦

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が施されたとの説が浮かぶ。4 同版は近親者の深遠なる配慮を受けて削減さ れた2月版を基とするが、フィールディングの生の声が伝わらぬと危惧する 向きを受けての長編版の出現がある。5

旅行記としての『リスボン渡航記』には筆者と残留家族との哀切の別離、

船長や乗組員との人間関係、停泊地での様々な出来事、帆船航海の様子、作 者自身の病状と処方の顛末に示唆される当代の医療・医術の現状が記載さ れ、折々の挙動からフィールディングの心境を具に読み取れよう。フィール ディングと同行するのは、フィールディング夫人(Mary)、先妻シャーロッテ (Charlotte)との娘である次女ハリエット(Harriet)、知人のマーガレット (Margaret)(形而上学者であるコリアー〔Arthur  Collier〕の娘)と男女の召 使2名を数え、計6名となる。相客はポルトガル人2名のみで、14歳の小学 生と年齢不詳の無学な修道士であった。8名の乗客は、私椋船(privateer)上 がりのヴィール船長(Richard Veal)と配下の水夫達が操船する貨客船「ポルト ガルの女王号」(the Queen of Portugal)に乗り込み、リスボンを目指したこと から当時の航海事情が偲ばれる。1754年下旬にロンドンの自宅を出発し、テ ムズ河畔のロザハイド(Rotherhithe)から乗船したフィールディング一行が辿 る航跡から、当時のテムズ河流域は言うに及ばず、イングランド東南部の港 湾風景や特産品の数々、航海術や船上での食料事情等が記され、紀行文学作 品としても読者の感興を呼ぶものがある。

上述したように、『リスボン渡航記』が死出の旅路を記したことから、そ の出版経緯は申すまでも無く、フィールディングの既存作品とは一線を画す ことは明らかだ。しかしながら、フィールディングが自著に自己の人生訓、

芸術論、歴史観を吐露したことはこれまでも決して珍しくなく、最晩年の自 筆と目される『リスボン渡航記』がその例に外れるとは考えにくい。無論、

文筆家の性からして、人目に晒されるのを念頭に人為的な感情抑制も謀られ たかもしれないし、逆に赤裸々に感情を述べ連ねる場合も無きにしもあらず。

回顧に徹した旅日記に仕立てられる範も少なくない。さらには読者を念頭に 入れた作者が旅先の出来事に創作、虚構を盛り込もうとするかもしれない。

いずれにしても散文小説より遥かに自伝的な旅日記や見聞録の方が、筆者の 心境を推し量れることは間違いない。帰らぬ旅を覚悟したフィールディング

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の足跡を『リスボン渡航記』に辿ると、公表された作品に垣間見られる作者 の残映と比べて遥かに人間臭い印象を受けるのも、旅日記故に本性そのまま の実像がより鮮明に描出された所以であろう。読者にとっても自作に介在す る文人フィールディングとは異なった、家庭人としての彼の肉声を耳にする ことも可能となる。こうした見地から、ロンドンの旅立ち前後の筆者の心境 と、旅半ばの旅人の心的変化を遺稿から丹念に読み解き、フィールディング の伝記等と照らして論証することが本題にそぐわぬはずはなかろう。テキス トに投影される満身創痍のフィールディングの言動から、前途に幾ばくかの 希望の光を見出そうとする筆者の苦悶が読み取れ、作者の揺れ動く心の振幅 を遺作に辿ってみたい。

I

転地療養をめぐる経緯を知るには、「原著者による序章」に着目せねばな らない。持病の痛風に加えて、水腫や黄疸、喘息に苦しむフィールディング が転地療養に一縷の望みを託しつつ、治安判事の職責を全うする様が詳らか に記されている。冒頭の段落から、1753年8月の始めに国王の主席外科医の ランビー氏(Mr. Ranby)の診察を受けたフィールディングはバースへ湯治に行 くようにとの指示を受け、即刻、逗留先を手配するが、ロンドンはミドルセ ックス(ウェストミンスター地区も兼任)の治安判事として、首都での相次 ぐ凶悪事件の対策・処理に忙殺されて機を逸するのであった。

I had delayed my Bath journey for some time, contrary to the repeated advice of my physical acquaintance, and to the ardent desire of my warmest friends, though my distemper was now turned to a deep jaundice; in which case the Bath waters are generally reputed to be almost infallible. But I had the most eager desire of demolishing this gang of villains and cut-throats, . . . 6

フィールディングが立案した法令が施行された結果、1753年冬季のロンドン の治安は急速に改善されたが、“. . . altogether uniting their forces in the destruction of a body so entirely emaciated that it had lost all its muscular flesh.

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Mine was now no longer what was called a Bath case; . . .” (193)と彼の病状は悪 化の一途を辿り、湯治の為にバ−スへ出向くどころか、僅か六マイルの馬車 に身を委ねる事すらまま成らぬ身となった。骨皮となった吾が身を古来の英 雄と喩えるフィールディングの自惚れ、“I began in earnest to look on my case as desperate, and I had vanity enough to rank myself with those heroes who, of old times, became voluntary sacrifices to the good of the public.” (193)はまさに殉教者 のそれではなかったか。

多忙なフィールディングではあったが、自己の病状を掌握する冷静さは持 ち合わせていた。彼のみならず、衆人の一致する所見“I was now, in the opinion of all men, dying of a complication of disorders;” (195)と書面の伝える症 状から、フィールディングは肝硬変ないしは腹膜癌を患っていたものと推断 される。7 萎える気力・体力を奮い立たせ、治安判事としての残務整理に邁 進するフィールディングの姿を「原著者による序章」は伝えているが、最後 の力を振り絞ってロンドンの治安悪化の元凶に立ち向かうのも、忍び寄る死 を忘却する策に他ならぬとも考えられる。イングランド南西部、ロンドンか ら116マイルの地にあるバースへは、当時の駅馬車でまる三日、夏季の特別 運行時ならまる二日を要したことから、僅かばかりの距離さえ耐えがたき身 と成り果てたフィールディングは、忍び寄る死を認識したに違いない。こと ここに至り、古の偉人に身を擬える筆者の心境こそ、諦観の境地に他ならぬ。

そこには人生のはかなさや悪戯に悲惨さに耽ること無く、即ち、無常観や厭 世観に心を占められず、死への憧憬に魅せられた訳でもない。フィールディ ングの告白、“my health began to decline so fast that I had very little more of life left to accomplish what I had thought of too late.” (194)からは、余命幾ばくも無 き諦観が念頭から失せる事はなかったものと推定される。

旅立ちを前に治療の傍ら転地療養先に思いを馳せるフィールディングであ ったが、胸に去来する諦観の念は隠せない。治安判事の職を弟のジョンに委 ねたことも、後顧の憂いを断つ為からであろう。「原著者による序章」が伝 える筆者の最悪期はペラム氏(Henry  Pelham,  Robert  Walpoleの実質的後継首 相、Earl  of  Wilmington  (1673?-1743)の逝去を受けて)の死去の日、“I was at the worst on that memorable day when the public lost Mr. Pelham. From that day I

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began slowly, as it were, to draw my feet out of the grave; . . .” (196)であったこと から、1754年3月6日頃と推定される。墓穴から足を云々とする語句から、

読者は死と対峙する筆者の姿を見るであろう。達観の域に達し得ないのか、

筆者がこの日を境に藪医者の推奨する胡散臭い治療に邁進するのも、藁をも 掴もうとする人の業か。フィールディングは勧められるままに色々な治療を 試みている。ウォード医師(Mr.  Ward〔196〕)による套管針の施術を受けた 結果、“. . .within two days I was thought to be falling into the agonies of death”

(196)となる始末、腹部から14クォートも病液を抜き取る荒治療から、当然 予想できたであろうに。水腫の治療と称して患部から大量の体液が抜き取ら れる事態も二度三度、その間にあって、バークリー主教(Bishop  Berkeley

〔198〕)の推奨するタール水の服用を励行しつつ、ミルク・ダイエットも試 みたりと、病状に一喜一憂するフィールディングの心中が露見する。何れの 加療もさしたる効果を上げなかったことから、今回が死出の旅となるとの諦 観をフィールディングは抱かざるを得なかったのではなかったか。バースで の湯治で回復は覚束なく、馬車での旅も体力が許さないことを認識したフィ ールディングは、主治医等から延命策は “. . . , I chiefly depended seemed to think my only chance of life consisted in having the whole summer before me, . . .”

(198-9) であるとされ、海路によるリスボン行きの決意を固める。

ロンドン郊外のフォードフック(Fordhook)の自宅から1754年6月26日の正 午きっかりに迎えの馬車に乗り込む筆者のさりげない別離の場面、永久の別 れを偲ばせる行間に、再び見えること無き家族との惜別の情が強く込められ ている。潮待ちや凪の日々による蛇行を「ポルトガルの女王号」は繰り返し つつ、漸くにして8月7日にリスボンに到着したフィールディングは、二ヶ 月程の滞在の後、10月8日に同地で没する。ところがポルトガル到着後の彼 の動静を伝える記載は長短二版の『リスボン渡航記』にも一切収められてい ない。リスボン到着後、一時小康を取り戻したとの知らせが英国に伝わるに つれ、8 転地療養への期待が膨らんだが為、フィールディング死去の報は驚 きをもって迎えられたという。9 異国の地で死に臨んだフィールディングの 心境は如何ばかりであったろうか、想像するしか策は残されていないが、書 き残されないのを幸いと考えるのは論者のみだろうか。

(7)

II

諦観とおぼしきフィールディングの心境が、かの地への道程で変化を呈し たか否かを探求することは、広範な見聞録と並んで肝心であろう。ヴィール 船長は貨客船「ポルトガルの女王号」の積荷の嵩上げをロンドンで当て込ん では出帆を渋り、近在の荷主に渡りを付けようとして係留を重ねる。無論、

凪で停泊を余儀なくされたこともあったが、フィールディング一行が6月下 旬に乗船し8月上旬にして漸く目的地に到達したことから、その巡航が異常 に長いことが注目されよう。一説によれば、出航地は異なるが、ファルマス (Falmouth、イングランド南西部コーンウォール州の海港)〜リスボン間を、

1772年に5日間、1760年に7日間、1787年では9日間で渡航した記録がある ことから、10 「ポルトガルの女王号」の遅々たる巡航は突出している。しか しながら、仮にロンドンからの航海が二週間にも満たなければ、『リスボン 渡航記』での筆者の機微な心理動向や、多彩な目撃談を欠くことで魅力は半 減したのではあるまいか。遅延があればこそ創作に幸いしたとも言える。

航海中でのフィールディングの生への執着は、筆者の旺盛な食欲にいかん なく発揮されている。船酔いで家族の女性陣を始めとして相客が臥せってい るのを尻目に、筆者の食欲はいっこうに衰えを見せない。『トム・ジョウン ズ』(Tom Jones, a Foundling)で作者は自己を定食屋の主人と喩えている如く、11 健啖家たるフィールディングの食への拘りがここでも立証される。船上で初 めて口にする牛肉料理を前にして次なる言及が見られる。

A sirloin of beef was now placed on the table, for which, though little better than carrion, as much was charged by the master of the little paltry ale- house who dressed it as would have been demanded for all the elegance of the King’s Arms, or any other polite tavern or eating-house! (203)

当時の貨客船では乗客は船荷の一部として扱われ、船室が宛がわれなかった。

こうした事情を踏まえ、船上食への認識をフィールディングは有して然るべ きなのだが、その法外さに怒りを隠し得ないのも、義憤に駆られやすい性分

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の為なのか。彼の憤慨に内包される食への執着は、まさに生の証の裏返しに 他ならない。

フィールディングならずとも、人間、病身でひもじさが募れば、怒りを押 さえきれぬもの。遅々たる船足でイングランド沖を陸地沿いに南下する「ポ ルトガルの女王号」はワイト島(the  Isle  of  Wight)沖に停泊する。同島はイン グランドとはソレント海峡(Solent)とスピットヘッド海峡(Spithead)で隔てら れるイギリス海峡に浮かぶ小島で、後に有名な保養地となる。1754年7月13 日、歩行困難な筆者は椅子駕籠に身をゆだね、ワイト島の寒村ライド(Ryde) にやっとの思いで上陸する。記録によれば、1754年7月12日の午後に風待ち の為ワイト島に停泊、翌13日に同島ライドに上陸し18日に一行は出立したと ある。久方ぶりの陸での逗留生活を迎えるフィールディングであったが、初 日から波乱含みの展開は読者の感興を呼ぶ。諍いはワイト島の宿屋の饗応に まつわる。上陸に先立って空豆を当地の宿に先送りし、4時には茹で上げる ように厳命した筈だが、未調理の空豆をみてフィールディングは怒りを禁じ 得ない。宿とは名ばかりの民宿の女将ミセス・フランシス(Mrs.  Francis)は、

豆が冷えても煮すぎても困ると弁解に終始し、筆者の憤激は禁じえないが、

事の顛末はこうだ。漸くにして自前の空豆とベーコンを腹におさめたフィー ルディング一行は、メインの肉料理でも食材の不備が発覚したが、運良く入 手した地物の舌鰈や鱈、大海老を調理させ、ロンドンのホワイト亭12の饗宴 に勝るばかりのディナーを満喫する。結局、空豆に端を発した相互不信は鹿 肉の処理や宿泊場所をめぐる諍い、さらには宿賃の勘定へと両者の反目に歯 止めが掛からない。

ロンドンからリスボンへの旅程で、フィールディングが最後の陸上生活を 過ごしたのがこのワイト島であり、『リスボン渡航記』にあって要の箇所を 占めていることから、同島のミセス・フランシスがヴィール船長に劣らぬ重 要な役割を担わされている事に筆者の意向が読みとれる。宿の亭主は朴とつ な農夫で、一切経営に口を差し挟まず、彼女が一人海浜の宿を切り盛りして いる。フィールディング一家と島の女性との出会いは、波間に漂う小型帆船 に身を委ねる危うさを除けば、道中での最大のトラブルかもしれない。彼女 の勘定高さから悪魔的存在として描写されているが、フィールディングの他

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例の如き醜悪な容姿の持ち主ではなく、“the good woman had starved us, but from wisely consulting her own dignity, or rather perhaps her vanity. . .” (228)と内 面がむしろ重視されている。旅籠風情の客あしらいは洋の東西を問わず大差 なく、筆者が唱えている如く、彼女の 自負心或いは虚栄心 をフィールデ ィングがどうやら傷つけたようである。むしろロンドンの元治安判事として 高い身分に伴う義務 (noblésse oblíge)を抱く気骨さで、島の女に接すべし との意見も生まれよう。首都からの珍客を迎えるべく、朝から客間を清掃し たミセス・フランシスだが、フィールディング一行は船上で屠った牡鹿の肉 塊を宿の食卓や床に無造作に置いたことが彼女の怒りを呼び、自尊心に火を 付けた。貧相な客間と造りから、未だ血の滴る肉片を置くことを躊躇しなか った都人(gentlefolks〔229〕)の無神経さが事態を一層こじらせた。島の女性 の整頓好きを見て取ったのはフィールディング夫人で、“. . .before this, discovered the immoderate attention to neatness in Mrs. Francis, and provided against its ill consequences.” (228-9)と、同家の別棟に心地よき居住空間を確保 するのであった。宿泊料をめぐるミセス・フランシスの計算高さが次に槍玉 にあげられるが、これとて一見客に対する接客の一端に過ぎない。女シャイ ロックの如く描出される女将との確執に根ざすのは、当主としての筆者の自 負心であり、病人が陥りがちな手負いの獅子の如き対抗心、反発の表われと 定めるべきだろう。

空豆やベーコン、鹿肉をワイト島の宿に持参することからも分かるように、

当時の貨客船の乗客は船旅に食糧を携帯するのが習いであった。18世紀中葉 までの航海では船に生き物を積み込み、必要に応じて饗するのである。船賃 は食費込みの料金だが、寄港地で乗客が新鮮な食料を自前で調達せねばなら ず、船長を始めとして乗組員達が船客の御大尽ぶりに期待するのも船乗りの 習いに外ならぬ。船長は無論のこと、他の乗組員達の心証を良くする為、船 内食の補充として寄港先で食糧を調達する事がフィールディングに求められ るのであった。野菜以外にサウタム(Southam〔253〕)という林檎酒や生きた 鹿や鳥、漁船からは新鮮な魚を調達しては船上の食卓を飾る訳だ。立ち居振 る舞いもままならぬ筆者だが、船が停泊する度に、下男を陸に派遣しては食 糧確保に努める。

(10)

. . . , I apprehended I could provide better for myself at Deal than the ship’s ordinary seemed to promise. I accordingly sent for fresh provisions of all kinds from the shore, in order to put off the evil day of starving as long as possible. . . (219)

気息延々とした病人が 飢えて死に行く厄日を出来るだけ先に延ばす為 と 称して、食糧確保に腐心する様は可笑しくもあるが、これもフィールディン グの並々ならぬ生への執着の裏返しではなかろうか。

船上やワイト島で魚料理に舌鼓を打つフィールディングは食材の良さを堪 能するばかりか、国家の食糧政策への私見を表明する。フィールディングが 真の魚好きかは別として、船中で彼が激賞するのがジョン・ドーリ(John Dory、本文ではJohn Dorée〔262〕)で、我国でも美味とされる海魚で側面の 模様から的鯛と呼ばれる。7月23日にデヴォン州沖で漁船から入手したドー リに“It resembles a turbot in shape, but exceeds it in firmness and flavour.” (262) と称賛を惜しまぬ筆者は、魚の効用を長々と説く。ワイト島で呈した筆者の 獣肉へのこだわりから察すると奇異な印象を受けるが、自身の食性とは別に 安価な魚の活用を説く。

Of all the animal foods with which man is furnished, there are none so plenty as fish. A little rivulet, that glides almost unperceived through a vast tract of rich land, will support more hundreds with the flesh of its inhabitants than the meadow will nourish individuals. But if this be true of rivers, it is much truer of the seashores, which abound with such immense variety of fish that the curious fisherman, after he hath made his draught, often culls only the daintiest part and leaves the rest of his prey to perish on the shore. If this be true it would appear, I think, that there is nothing which might be had in such abundance, and consequently so cheap, as fish, . . . (263)

大量に供される安価な魚を効率良く貧困層の食糧として活用すべし、と力説

(11)

する筆者の口から、“. . . , honest hunger will be satisfied with plenty. . . , I humbly submit the absolute necessity of immediately hanging all the fishmongers. . .”

(264)との過激な発言も飛び出す。そこには国家の大系を鑑みる為政者とし ての提言が込められており、とても転地療養先に出向く船上で認められる代 物ではない。職を辞したとはいえ、元治安判事として犯罪者の増加を懸念し た筆者は、窮貧層の生活改善を視野に入れた建言を認めている。13 そこに は病人特有の物憂い投げやりな気配は感じられず、活力に満ちた為政者とし ての顔が見え隠れする。

III

天地創造は『旧約聖書』の「創世記」が説くところだが、『リスボン渡航 記』にあって、自然の女神(nature〔185〕)14が水生動物や鳥類や魚類の誕生に 関わり、個体の多少に関与したとある。この自然という女神と彼女の工匠 (her journeyman the poet〔186〕)を定め、工匠を代表するホメロスやヘシオド スをフィールディングは例証する。「原著者による序文」の中で、古代ギリ シャ人の業績を論じ、“They are not, indeed, so properly said to turn reality into fiction, as fiction into reality.” (186)と断定する。虚構を用いて事実の拡大をは かる、この並外れた天分の持ち主たちの所業がここで詳らかにされる。

. . . , they assert facts contrary to the honour of God, to the visible order of the creation, to the known laws of nature, to the histories of former ages, and to the experience of our own, and which no man can at once understand and believe. (186)

神の名誉に反する事実云々のみならず、才人たちは虚構(fiction〔186〕)と虚 偽(their  lies〔186〕)の策を駆使して事実(reality〔186〕)に変更を加えている、

と作者は疑念を呈する。

宗教的足跡として、前章で論及されたワイト島がここでも大きな役割を担 っている。首都ロンドンからイングランド南部の海岸線沿いに帆船は南下す るが、凪のために幾度となく係留を重ねざるを得ない。なおも自然の悪戯に

(12)

翻弄され続けて迷走する「ポルトガルの女王号」の航跡は、まさに未開の地 への巡礼の旅さながらと言える。ワイト島ライドで旅装を解いたフィールデ ィングは、“Certain it is that this island of Wight was not an early convert to Christianity; nay, there is some reason to doubt whether it was ever entirely converted.” (231)と島の歴史を紐解いて見せる。フィールディング一行が連 泊するのは、ミセス・フランシスの旅籠屋の客間でなく別棟の納屋で、元は 教会堂らしかった。

. . .an ancient temple, built with the materials of a wreck, and probably dedicated to Neptune in honour of THE BLESSING sent by him to the inhabitants. . . (230)

難破船の廃材で設えられた往時の教会堂は、海神ネプチューンに献納された とある。さらにワイト島のキリスト教への改宗が言及され、同島が初期の拠 点ではなく、“nay, there is some reason to doubt whether it was ever entirely converted.” (231)と記されることから、改宗の有無さえフィールディングは 疑念を呈している。

何故にフィールディングはワイト島へのキリスト教伝播を問題とするの か。キリスト教伝来の歴史は専門家に委ねるとの一節(. . . ,  luckily  for  us,  we have a society whose peculiar professions it is to discuss and develop〔231〕)が見 られることから、筆者が真正面から同地の布教活動を取り上げる意図は無い のだろう。因みにアイルランドのケルト人は4世紀前半にキリスト教化され、

5世紀半ばにはアイルランドの修道士によって、スコットランド西岸のアイ オナ島(Iona)に修道院が建立された。イングランドへのキリスト教伝播はロ ーマ教皇庁から派遣されたアウグスティヌス修道士(Augustine,  Apostle  of  the English)がイングランド南部ケント王国に597年に上陸した折とされる。当の ワイト島へのキリスト教伝播は定かにされないが、筆者の疑問の裏には同島 の後進性を揶揄する意図が込められているのではないか。

その事実はワイト島での三日目の7月19日、実際はフィールディングの記 載ミスの結果、15 同月14日の日曜日にフィールディング夫人がハリエット

(13)

にマーガレットを伴って現地の教会に出向く情景が物語る。

This morning our ladies went to church, more, I fear, from curiosity than religion; they were attended by the captain in a most military attire, with his cockade in his hat and his sword by his side. So unusual an appearance in this little chapel drew the attention of all present, and probably disconcerted the women, who were in dishabille, and wished themselves drest, for the sake of the curate, who was the greatest of their beholders. (232)

離島唯一の集会場たる教会に着飾った都会人が臨席すると、島の非文化性が 際立つばかりで、所詮相容れぬ文化・経済的断差が露呈する。島の副牧師の 為にも着飾っておればよかったとは、まさに閉鎖社会の後進性を物語るもの ではなかろうか。隔絶された共同体社会への筆者の偏見が見てとれる。

ワイト島の教会には「ポルトガルの女王号」の相客であるポルトガルの修 道士ではなく、信心深きヴィール船長が女性陣と同席する。具体的な記述箇 所は見当たらぬが、フィールディング一家とミセス・フランシスとの諍いは 船長の知るところとなり、島を後に航海を続ける「ポルトガルの女王号」の 遅々たる航行をめぐって、船長は呪詛への懸念を隠さない。

. . . he was under the spell of witchcraft, I would not repeat it too often, though indeed he repeated it an hundred times every day; . . .This witch, in the captain’s opinion, was no other than Mrs. Francis of Ryde, who, as he insinuated, out of anger to me for not spending more money in her house than she could produce anything to exchange for, or any pretence to charge for, had laid this spell on his ship. (272)

ミセス・フランシスが魔女かは別にして、迷信に左右され易いヴィール船長 の信仰の程が察せられる。ヴィール船長の迷信深さ“The captain now put on his most melancholy aspect, and resumed his former opinion that he was bewitched.”

(280)こそ、自己の信仰心と渾然一体化となるもので、船乗りが海神を尊び、

(14)

祈りを捧げる習いに従って、船長は乗組員を度々招集しては祈祷を繰り返す。

Nothing remarkable passed this day, except the captain’s devotion, who, in his own phrase, summoned all hands to prayers, which were read by a common sailor upon deck, with more devout force and address than they are commonly read by a country curate, and received with more decency and attention by the sailors than are usually preserved in city congregations.

(276)

7月24日に船長の甥である陸軍中尉の訪問を受けた後(249)、「ポルトガル の女王号」は翌25日正午にはポートランド島の沖に達し、イギリス沿岸を離 れてポルトガルを目指すが(実際はドーバー港近くのペリー岬付近まで押し 戻されるのだが)、外洋での大荒れの海を前に、一行は船酔いで寡黙を余儀 なくされる。船長室を共有するフィールディングのみがヴィール船長の話し 相手となる。気忙しく甲板員に風や船の具合、航海術に関して尋ねる船長の 口から、“. . . . he had more patience than a Job, frequently intermixed summons to the commanding officer on the deck. . . .” (252)と自己を聖人と唱える言葉が発 せられる。船長のいつもの口調と解するのも可能だが、忙しげに指示を下す 自らの姿勢を、忍耐強いヨブとする手前味噌さに可笑しみが生じる。

ワイト島やヴィール船長の生き様に示唆される如く、生の証として人は信 仰に生き、大地の果てにも聖地は宿り、文化・文明とは隔絶した地にも宗教 心は生まれ、脈々と人々の営みの中に流れる。英国国教会広教会に帰依した フィールディングが聖職者や宗教関連の事例にふれることはこれまでも少な くなかったが、16 紀行文での扱いを如何に解釈すべきか。航海中でのキリ スト教にまつわる記述は、何でも見てやろうとの気概を旅行記作家に期待す る読者には魅力ある事象と映るが、18世紀中葉の文筆家は道徳訓話と無縁に 終わらせる筈は無い。その観点から敬虔なクリスチャン然たるヴィール船長 と筆者の一悶着に着目したい。船長室を共有する待遇から、フィールディン グには契約の船賃以外に特別料金が上乗せされる。共有者としての筆者の振 る舞いに、僅か30ポンドばかりの船賃で命令するのかと船長は憤懣やるかた

(15)

なし。船長の度重なる不遜な態度に遂に怒り心頭のフィールディングは、こ れまで食料品を調達・備蓄してきた船を下りる決意をして、自身をダートマ スに連れ帰るホイ船(hoy〔269〕、二本マストの小型帆船)の手配を命じる。

彼の剣幕に恐れをなし、ホイ船の船影を見た途端、卑屈にも船長はフィール ディングに許しを請う。即刻、船長を許す筆者だが、“Neither did the greatness of my mind dictate, nor the force of my Christianity exact, this forgiveness. . .because it was convenient for me so to do.” (270)として、大見得を 切って駆け引きをなす様子が明らかとなる。この件でのフィールディングの

“Christianity”とは大仰な言葉使いだが、慣用語句の如き軽さで用いられ、語

義としては寛容さを意味する。重病人とは言え、理不尽な輩に決然と対峙す るも、包容力を失わない。容赦するのは自らにも便宜とする柔軟性こそ、許 容する善意を未だ喪失せずとの証であり、死の恐怖を前に、生に固執するか らこそ信仰や迷信に生きるとし、自らを省みつつ、人々の宗教的営みの重み を、偏見と微笑みを交えながら筆者は解き明かすのである。

IV

『ジョウゼフ・アンドリューズ』(Joseph Andrews)の「原著者による序文」

(Author’s Preface)に提示される如く、『リスボン渡航記』の「原著者による序 文」もフィールディングの創作理念、執筆意図を明示し、旅行記或いは航海 記作家としての意欲が表明されている。そこには筆者の作家魂が充満し、と ても死出の旅路に就く者が認める序言の類ではない。冒頭の段落末に“. . . . we may believe their books will be still more agreeable company, as they will in general be more instructive and more entertaining.” (183)と記されている事から、

筆者がブルーガイド的な安直な旅案内を目指さぬ事は明らかだ。次いで旅行 者の心得が数箇条にわたって記されている。即ち、旅行者は目にする物を取 捨選択し、注目に値する物が世に遍在するなどと考えてはならぬとする。紀 行文に登場する旅行者(traveler)を自然の注釈者(commentator)であると筆者は 定め、観察の成果を献じる対象としての読者の存在を挙げる。旅行記におい ても物語や小説に於けると同様に読者の存在をフィールディングは認め、

“the latter (reader) never forgive any observation of the former (author) which doth

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not convey some knowledge that they are sensible they could not possibly have attained of themselves” (184)と旅行記作家の立脚点を確認する事を忘れない。

加えて良識ある人と良き関係を育むには、“the voyager should possess several eminent and rare talents; so rare indeed, that it is almost wonderful to see them ever united in the same person” (184)であると、旅行記作家の前提となる航海者の 資質を問うている。

航海記の頂点として、フィールディングはホメロスの長編叙事詩『イーリ アス』及び『オデュセイア』を例証するが、“I should have honoured and loved Homer more had he written a true history of his own times in humble prose, than those noble poems that have so justly collected the praise of all ages” (185)と あるように、ギリシャの古典に無条件の賛辞を呈している訳ではない。ホメ ロス如き才人が自己の天分を発揮するには、真実に代えて荒唐無稽な虚構を 用いざるを得ない、とフィールディングは分析する。その謂れはロマンスに 対する実録(history)としての旅行記の特性に起因するとの予てよりの持論に 則るのであろう。実録をとの意にそった『リスボン渡航記』にしても、虚構 の例を挙げるに労を要しない。例えば、7月29日に保存の為に海中に吊るし ておいた塩漬け肉に鮫が掛かり、吊り上げて鮫の腹から肉塊を回収したとか、

ワイト島ライドの宿に在る時代がかった納屋の由来や、7月11日に海中に転 落するも九死に一生を得た子猫が、後に船内の羽毛布団の中で窒息死するエ ピソード(271)等は眉唾物と申せよう。

フィクションの範疇に入らぬルポルタージュ的記述で読者の関心を呼ぶの はフィールディングの水腫治療と同夫人の抜歯処理をめぐる空騒ぎであろ う。水腫治療の第一人者ウォード医師による套管針の処置を筆者は都合4回 受けたとされる。因みに『リスボン渡航記』の「原著者による序章」による と、一回目が1754年2月で14クォートの腹液を、二回目は同年5月で13クォ ートを、三回目は同年5月末で10クォートを、第四回目は曜日が特定され、

同年6月28日に友人で外科医兼解剖学者のハンター氏(Hunter〔209〕)によっ て船上で10クォートを抜いたとの記述が見られる。腹水が内臓を圧迫する為 の治療法だろうが、その量に読者はど胆を抜かれる。怪しげな薮医者療法は さらに繰り返される。バークリー主教の論文を読んだフィールディングは、

(17)

同主教推奨のタール水を、套管針による第二回目と第三回目の処理の半ば頃 から、朝な夕な半パイント(0.57リットル)ずつ服用していることが判明する (198)。腹水を抜いては黒く澱んだ液体を摂取する治療が果たして水腫に実 効性があるのか、現代医学の観点から論じるまでも無いだろう。実は当の患 者である筆者すらこうした処方に懐疑的ではなかったか。当代一流の医師、

医療にして非近代的療法以外に寄る辺無き患者の悲劇的窮状を、自己告白の 形式でフィールディングは揶揄した、と言い換えても差し支えないだろう。

実際ウォルポール(本論・序)でなくとも、『リスボン渡航記』に明らかに される前近代的医療実態には失笑を禁じえない。

原始的な医学療法はフィールディング夫人の歯の治療にも例示されてい る。「ポルトガルの女王号」に乗船したものの、夫人は歯痛に悩まされ、6 月30日には下男に腕の良い抜歯師を呼びに遣る。ところが水先案内人の不手 際で連れ戻った時には船は出港した後で、結局治療は果たされずじまい。船 は歯痛の夫人を乗せてテムズ河を下り、グレーヴゼンド(Gravesend、テムズ 河河口の南岸にあるケント州の港町)で評判の外科医を船に呼んでの治療と なるが、夫人の歯痛の元凶は上顎の最奥部の歯で抜歯出来ないとの診断が下 される。抜歯の代わりに供されたのが“opium applied to the tooth, and blisters behind the ears” (214)で、阿片と発泡膏とで痛み止めをはかるのでは名医の名 が廃る。物理的対症療法にも痛みは募るばかりの夫人は、7月2日にディー ル(Deal、ケント州東部の町)沖二マイルに船が停泊した際、抜歯の意を固め てディール在住の外科医を船に呼ぶ。同医師は手術を断るが、夫人の懇願に 根負けして手を下すが不首尾に終わる。手術の有様は描写されていないが、

“for, after having put my poor wife to inexpressible torment, he was obliged to leave her tooth in statu quo” (218)とあることから、ヤットコ、ペンチの類を口蓋に 押し当てる医師の悪戦苦闘振りが目に浮かぶ。筆者の水腫治療と並行しての 夫人の歯痛騒動は正にドタバタ喜劇の様相さえ呈する。当代の医学・医療の 現状を旅行記に差し挟むことによって、そこに凝縮される非近代性を『ガリ バー旅行記』(Gulliver’s Travels)第三篇の如くに揶揄嘲笑するのが、存外、フ ィールディングの執筆意図の一端かもしれない。自らの醜態を晒しながらも、

現実を直視する筆者の姿勢がここにも発揮されている。

(18)

偉大な文豪ですら文学ジャンルに占める紀行文学への認識に欠けるとフィ ールディングは処断する一方、教訓小説の権化たるリチャードソンを念頭に、

航海記作家が示す社会的効用としての娯楽から、訓話を読者に伝播し得るも のと定め、我こそその資格・資質ありとする。紀行文をものする資質を、果 たしてフィールディングが保持するかとの問題が浮上するが、『リスボン渡 航記』のミセス・フランシスの対応に筆者自身の豊富な体験が裏打ちされて いるとの説が唱えられている。17 バテスティン(Martin  Battestin)は彼女の 計算高さは大陸の一等旅館の経営者の処世訓に則る(237)ことをその典拠と している。「原著者による序文」にて旅行記作家としての野心をあらわにし、

新たなジャンル開拓に燃えるフィールディングの自負心こそ、転地療養に臨 む命の糧、活動源ではなかろうか。

1737年に施行された「劇場封鎖令」(the  Licensing  Act)により、フィールデ ィ ン グ は 劇 作 家 の 道 を 閉 ざ さ れ る も 法 曹 界 に 転 進 を 果 た し 、『 パ ミ ラ 』 (Pamela, or Virtue Rewarded)の出版を契機として小説家に転向し、晩年は治 安判事としてその職責を全うした。人生の節目節目で発揮されたフィールデ ィングの旺盛な生命力は驚嘆に値する。とはいえ、決して健康に恵まれたと は言えず、若年の頃より痛風に苦しみ、晩年には水腫や黄疸、喘息と肉体は 苛まれるばかりであった。こうした満身創痍のフィールディングがリスボン に向う船上にあっても、旅行文学の旗手たらんと欲する、その創作意欲の衰 えを窺わせぬタフネスさは驚くばかりである。何がフィールディングをかく も行動せしめたのか、単に家族を扶養する家長としての使命感とだけでは説 明し得ない。リスボンへの航海中に幾度も執り行なわれた荒治療を克服した 事にも象徴される様に、数多の障害を乗り越え、全身衰弱と戦いながらも前 向きに生きようとする筆者の熱き心が紙面から伝わってくる。それは旅行作 家として一家の糧を確保しようとする執念の表われであり、病魔と闘う原動 力の一端となったのかもしれない。文人としての向上心に加えて、この闘病 生活が執筆意欲の高揚を促したとも考えられる。無論、病を得て転地療養へ 出向かざるを得なくなったフィールディングの無念さも認めざるを得ない

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が、阿修羅の如き活動を成し得た生命力を考察すると、若年の頃からの闘病 生活を通して育まれた闘争心、あらゆる事象への 負けじ魂 が彼を駆り立 てたのではなかろうか。五十歳にも満たぬ短い人生であったが、壮絶な闘争 本能が困難にあっても萎えず、新たな創作意欲を彼に燃え立たせたのであろ う。

一度は死を覚悟したフィールディングの覚えた諦観から、異郷で没するこ とも覚悟した事であろう。一時は湯治療養地としてのバースがリスボンに先 立って考慮されたが、フィールディングの病状は既に同地で治癒を期待する 軽微なものではなかった。仏国のプロヴァンス(Aix-en-Provence)へは馬車に よる長距離移動が避けられず、18 船旅で行くリスボンが最終的に選択され た。だが当地での滞在費は当初の予想を大いに上まわるもので、物価がイン グランドの三倍にも上ったとか。19 リスボンへの旅すがら、あれ程旺盛な 執筆意欲を示したフィールディングが漸くたどり着いた療養先の環境が為に 筆を折ったとは考えにくい。旅先にあっても執筆意欲を示すのが物書きとし ての使命と心得たフィールディングが、リスボン到着後に俄かに心変わりし たとも考えられない。それとも病の進行が思いのほか早かったのか。これと て本論一章末にも示した如く、異国の環境が幸いしたのか、フィールディン グは一時小康を得たことが判明している。この辺りの事情を勘案するにはフ ィールディング自身の書簡が不可欠だが、本国に送付された書簡は所在知れ ず。20 唯一現存するのが弟のジョン宛の私書だが、文の一部が欠損してい るばかりか、判読不能の箇所も少なくない。21 残された文面から、筆者の 健康状態や『リスボン渡航記』の船長に対する自らのコメント、さらにはリ スボン滞在中の諸事(フィールディング夫人の病〔ホームシック〕22と同夫 人と一家に付き添ってきたコリアー女史23との確執等)に加えて、弟への冬 物衣類の送付依頼も在ったというから、フィールディングの健康回復の程が 見て取れる。24

ス タ ー ン (Laurence  Sterne)の 『 セ ン テ ィ メ ン タ ル ・ ジ ャ ー ニ ー 』 (A Sentimental Journey through France and Italy)は仏国と伊国周遊記と称される が、伊国への記述は他と比べて過少で、伊国北西部のピエモンテ(州)

(Piedmont)以南に至ることなく結末を迎えている。労咳を持病とするスター

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ンが大陸に転地療養に出向いたことは衆知の事実で、彼の旅行記の着想に

『リスボン渡航記』が無縁と断言出来ないだろう。フィールディングの『リ スボン渡航記』の執筆理念からして、リスボンで一時的に小康を保つからに は、旅行作家の抱負を実践してリスボン滞在記を認めても論理に合わなくは ない。認めたが紛失されたのか、或いは当地での詳らかな生活記述を私生活 の観点から嫌ったのか定かでない。それとも死の直前までペンを手にしたが、

人間関係が詳らかにされることを嫌った親族の意向を反映して原稿が遺棄さ れたのか、疑問は残る。英国初期小説の第一人者たるフィールディングの肖 像画が唯の一枚も現存しないミステリーの背景同様、25 終焉の地でのリス ボンでの渡航記ならぬ滞在記を残さぬとする作者フィールディングの遺志、

老醜を晒したくないとする意向が強く働いたのかもしれない。否、フィール ディングは読者の空想に委ねようとしたのかもしれず、表題に謳われる地域 を駆け巡るありきたりの印象記にあらず、単なる見聞録に終わらせぬとする フィールディングの意向が強く働いている。加えて、リスボン到着後に一時 的に健康を取り戻し得たとは言え、立ち居振る舞いにも不自由な筆者の行動 範囲は限られ、書き連ねても凡庸なリスボン滞在記と成りかねないとの危惧 の念が生じ、『リスボン渡航記』のタイトルが示す如く、当地への道程こそ 肝要として、彼にペンを置かせたのではあるまいか。

1 弟ジョン或いは出版業者ミラー、ないしはフィールディング全集の最初の編集 者マーフィ(Arthur Murphy)との説がある。

Cf.  Homes  Dudden, Henry Fielding: His Life, Works, and Times(Oxford:  Clarendon Press, 1952), 2: 1036.

2 Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1047.

3 Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1046; Willbur Cross, The History of Henry Fielding (New  York:  Russell  &  Russell,  1963),  3:  87.  ヴィール船長もリスボン大地震に遭遇 し、「ポルトガル女王」でようやくにして帰国。

4 フィールディング亡き後、遺族がポルトガルから帰国する際、渡航で世話にな った船長等の助力にすがった事から、『リスボン渡航記』短縮版ではヴィール船

(21)

長や甥の描写に、また反政府攻撃ともなる窓税への言及箇所、さらにニューキャ ッスル公爵邸にフィールディングが出向いた際の処遇等、修正・削除が施された。

Cf., Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life(New York: Rutledge, 1989), 610-2; Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1041-2.

5 1762年に発刊されたマーフィ版フィールディング全集にはこの長編版が収めら れ、1756年にダブリンで出版された短縮版はドブソン(Austin  Dobson)によって 1892年に編纂され、ヘンリー版(Henley)フィールディング全集に納められている。

Cf., Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1041.

6 Henry Fielding, The Journal of a Voyage to Lisbon(London: J.M. Dent & Sons, 1964), 192. 以下、頁数は全て同版により文中に記す。

7 Martin  Battestin, Henry Fielding,  577;  Donald  Thomas,  Henry  Fielding  (London:

Weidenfeld, 1990), 391.

8 Wilbur Cross, The History of Henry Fielding, 3: 64; Homes Dudden, Henry Fielding, 2:

1050 & 1054.

9 Martin Battestin, Henry Fielding, 605.

10Tom Keymer, “The Journal of a Voyage to Lisbon: Body, City, Jest,” Critical Essays on Henry Fielding, ed. Albert Rivero (New York: G. K. Hall & Co., 1998), 224.

11 拙稿「Fielding考ー作家は 定食屋 の如しー」『同志社大学英語英文学研究』

63号(同志社大学人文学会, 1994)

12 アディソン(Joseph  Addison)やスティール(Richard  Steele)等が利用していたセント ジェイムズ街にあったWhite’s Chocolate Houseに由来する社交クラブで、腕利きの コックを擁することで知られていた。

13『貧民に適切な食を与える建言』(〔A Proposal for Making an Effectual Provision for the Poor, for Amending their Morals, and for Rendering them useful Members of the Society〕1753)でのフィールディングの弁証にも同様の指摘を見る。

14 フィールディングの『ジョナサン・ワイルド』(Jonathan Wild the Great)で追放処 分の咎で、大海原をボートで一人漂うワイルドは自暴自棄に陥り、入水自殺を試 みるが、彼を生還させるのも自然の女神である。

15 Wilbur Cross, The History of Henry Fielding, 3: 48.

16 拙稿「Tom Jonesの宗教性をめぐって」『同志社大学英語英文学研究』43号(同 志社大学人文学会,1987);「Ameliaの宗教性をめぐって」『同志社大学英語英文 学研究』65号(同志社大学人文学会,1995);「『大盗ジョナサン・ワイルド傳』

の 宗 教 性 」『 同 志 社 大 学 言 語 文 化 』 第 5 巻 第 1 号 ( 同 志 社 大 学 言 語 文 化 学 会 , 2002);「Joseph Andrewsの宗教性をめぐって」『主流』第65号(同志社大学英文 学会,2004)

17 Martin Battestin, Henry Fielding, 75.

(22)

18 Harold Pagliaro, Henry Fielding: A Literary Life(London: Macmillan Press, 1998), 197;

Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1001.

19 Martin Battestin, Henry Fielding, 596.

20 Martin Battestin, Henry Fielding, 595.

21 Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1048.

22 Martin Battestin, Henry Fielding, 598; Willbur Cross, The History of Henry Fielding, 3:

55.

23 Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1050; Martin Battestin, Henry Fielding, 598-600. 

24 Homes Dudden, Henry Fielding, 2: 1053.

25 フィールディングの肖像画は皆無とされ、リスボン渡行に同行したコリアー女 史が盗み描いたフィールディングのシルエットのみが作家の面影を唯一伝えてい る。ホガース(William  Hogarth)はこのシルエットを基にフィールディングの肖像 画を描いたことで知られている。

Cf.,  Wilbur  Cross, The History of Henry Fielding,  3:  70-2;  Homes  Dudden, Henry Fielding, 2: 1056-7.

Of a Process from the Author’s Resignation in The Journal of a Voyage to Lisbon

Tatehiko N

OGUCHI

Key words:Fielding, Lisbon, Mrs. Francis, the Isle of Wight

What works particularly well in The Journal of a Voyage to Lisbon by

Fielding is that diseases gather as the Journal unfolds. As far as one can

determine from the Journal, it may be quite uncertain whether the author on

a voyage was free or not from resignation to the decree of destiny and

predestination. It may be suggested, however, according to the Author’s

Introduction, that as a result of facing impending death, the author was

anxious about his own posthumous affairs, not only making a plan to put an

(23)

immediate end to the violators of the public peace in London but also entrusting his post as the Justice of the Peace at Westminster to his half brother John.

During the sailing for Lisbon, there are some glimpses of health of the author, although he must undergo trochar-tappings on account of his dropsy.

His invincible feeling may be due to his ambitious attitude. The most remarkable forces of seemingly recovering his health are shown in the appetite of the author as a man who takes pleasure in eating even when sailing through rough seas. Wherever his ship, the Queen of Portugal, casts anchor, the author is anxious to hunt for foodstuffs such as poultry, fish and fresh vegetables, in addition to noted products of the area, though he has much difficulty in moving about due to his disease; his bloated body is lifted on to the ship with pulleys. It is well known that passengers at that time had to prepare for their special food to lay in a supply of ship-food as an extra charge in addition to the normal fare, if they wished to be warmly welcomed by the crew members.

As Author’s Preface in the Journal suggests, there may be no author or writer but Fielding who makes a declaration of his own ambition to be a travel writer in spite of facing imminent death. By criticizing the most celebrated travel books as those of fussy accuracy or fabrication, Fielding signifies his intention of conveying “instruction in the vehicle of entertainment,” a book of travels, in opposition to Samuel Richardson. In defense of his own theory, Fielding mocks the tendency of travel writers to lapse into the fantastic or the mundane, to which even the Odyssey and the

Aeneid belong as works of travel.

Judged from the navigation of his ship from the beginning, there are a

series of mishaps and frustrations the author will have to confront; he needs

a surgeon to tap him. Alternating calm and heavy seas compound his

affliction, leaving Fielding to endure pitiful adventures as if they are trials

during the pilgrimage to Lisbon by a wind-bound ship. As for religious

(24)

elements, Christian propagation into the Isle of Wight, Sunday service held there, and how Captain Vail is superstitions and passionately religious are alluded in the Journal to illustrate how Christian religion is dominant in rural areas or is believed blindly, Fielding introduces the islanders and the captain. In the face of death or mortality illustrated by the case of a cat, washed overboard and miraculously rescued, but suffocated to death under a feather-bed in the cabin, it seems reasonable to assume that Fielding is eager to live as long as possible with his Christian beliefs as a latitudinarian.

What puzzles the reader is to find that the Journal ends with some words

of Horace, relating that Fielding at last lands in Portugal after his

troublesome six-week voyage, and enjoys a good supper at a nameless inn

in the western suburbs of Old Lisbon. It is a mystery how Fielding stayed

there for two months after his landing and before his death, and why he left

no journal or diary to be a sequel to the Journey. It is well known that

Fielding sent three letters from Lisbon during his stay, but two were lost and

only one long letter to brother John was left. The evidence of the letter

which is our last view of Fielding, that is, costs of living, illnesses among

the family, new acquaintances, and so on, in so far as it can be used, support

the presumption that Fielding’s view on the Journey had been fixed long

before his death, for he wished to have completed the work without

showing ugliness of old age before dying.

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