• 検索結果がありません。

現代エジプトのファラハ*

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "現代エジプトのファラハ*"

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

現代エジプトのファラハ*

ブハイラ県バドル郡における結婚の祝宴の報告 竹 村 和 朗

Faraḥ in Contemporary Egypt

A Report on the Practices of the Wedding Party in Badr District, Buḥayra Governorate

TAKEMURA, Kazuaki

This study reports the practices of the wedding party, or faraḥ in Arabic, as part of the marriage process in the Badr District of Buḥayra Governorate in Egypt.

The examined site is a reclaimed desert area on the western edge of the Nile Delta, where a national desert development project called “Tahrir Province”

was inaugurated in the early 1950s. During my fieldwork in Badr, from July 2010 to April 2012, I frequently encountered marriage not only as a topic of conversation with local people but also in the form of faraḥ which was under- stood as an important social gathering among them. I was able to conduct the participant observation of 20 faraḥs. Such active fieldwork enabled me to realize the extent to which this custom is embedded in the social life of local residents, although young people who wish to be married usually struggle for years to collect the extremely large amounts of money from their modest incomes to hold a wedding party. If such a heavy burden is required, why is the faraḥ considered necessary and how is it carried out?

Section II begins with the story of a man who wanted to get married but could not as he was hampered by the very high cost of providing a residence and holding a faraḥ, which he nonetheless regarded as the necessary conditions of marriage. Then, the previous ethnographic descriptions of Egyptian marriage practices are examined to explore the meaning of this custom. Comparative analysis indicates that faraḥs were sometimes held in relation to the rite of the marital procession, but they were often recorded as ancillary events; the details are little known.

Section III shows the contexts of 20 faraḥs that I observed within and outside of Badr and introduces two important interlocutors during fieldwork, Y and G. The former represents the villagers among whom I spent the first half of the fieldwork, and the latter is the owner of an apartment in the central Keywords: Egypt, fieldwork, marriage, wedding party, ethnographic description キーワード : エジプト,フィールドワーク,結婚,祝宴,民族誌的記述

* 本稿は,松下国際財団(現・松下幸之助記念財団)の2008年度松下国際スカラシップ(現・松下幸 之助国際スカラシップ)による2年間の留学助成をもとに行われたエジプトでの長期滞在・フィー ルドワークの成果の一部である。同財団の支援に深く感謝したい。

(2)

Ⅰ.はじめに

本稿は,現代エジプトの結婚に関する民族 誌的資料として,ブハイラ県バドル郡におけ る祝宴―現地の人々が呼ぶところの「ファ ラハ」(faraḥ1)―の諸実践を報告する。

舞台となる地域は,下エジプト(カイロ 以北のナイル・デルタ地域)の西端に位置 し,1950年代の国家的開発事業「タフリー ル県計画」によって拓かれた沙漠開拓地であ る。この地域には,開拓地分配を目当てに周 辺のデルタ諸県や上エジプト(カイロ以南の ナイル河谷地域)から多くの人々が移動し,

定着していった。その後,地域社会としての

成熟が認められると,2001年にはブハイラ 県を構成する中位の地方行政体,「郡」を形 成するようになった[cf. ‘Ammār 2003; 竹

村2013]。バドル郡は,公的には「バドル市」

と呼称される中心部の町―住民はこれを古 くからの通称で「マルカズ・バドル」と呼ぶ

―をのぞく,6つの地方単位に分けられ,

そのそれぞれに複数の村が含まれる。これら の村は,開発計画時に設置された人工の集落 であるが,数十年の時間の経過の中で,各村 は人口数百人から1万人を超えるものまでさ まざまに発展している。2010年の郡人口は 約17万人で,その1割強の約2万3千人がマ ルカズ・バドルに居住する[‘Ammār n.d.]。

この地域に対する私の調査関心は,沙漠地 town of Badr, where I lived in the latter half. Descriptions of several faraḥs are provided, focusing on their physical features and social exchanges within them. Observation reveals the important roles played by participants and the far-reaching effects of a good reception by the hosts, as if the two groups create the party, each performing its expected role.

Section IV further examines the work required for the bride and the groom separately. We review how the bride’s side prepares the bride, responsibility for whom will be reassigned from her family to the groom and his family, gradually through the process of faraḥ. The groom’s side, on the other hand, shows more conflicting views of the people involved regarding the type of faraḥ they should make. Based on detailed descriptions, therefore, this study argues that performing a faraḥ, both as participants and as hosts, constitutes an integral part of marriage practices in Badr through which people socially grant recognition to the married couple and thus reconfirm the proper order of their society.

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.結婚とファラハ  1.結婚したい男

 2.結婚とファラハの関係性

Ⅲ.フィールドワークとファラハ  1.ファラハとの出会い

 2.ファラハに参加する

Ⅳ.ファラハを開催する  1.花嫁の兄として  2.花婿の父として

Ⅴ.おわりに 参考文献

1) 本稿では,アラビア語の単語や表現をアルファベット表記で表現する。正則アラビア語の表記は,

『岩波イスラーム辞典』[大塚ほか2002]および『ハンス・ヴェア現代標準アラビア語』[Cowan 1994]に準拠する。文中で引用される会話は口語アラビア語で行われたため,『エジプト・アラビ ア語辞典』[Badawi and Hinds 1986]を参照した。

(3)

の開拓を通じて国内の社会的・経済的諸問題 を解決しようとする「沙漠開発」とその過程 に巻き込まれた人々の主体的関与のあり方に ある。これらの関心にもとづき,私はバドル 郡地域において,2010年7月から2012年4 月まで参与観察を主とするフィールドワーク を行った。2010年7月から2011年1月まで は,同地域の一画にカイロ・アメリカ大学2)

の沙漠開発研究所3)が保有する試験農場―

以下,大学農場と略記―を拠点として,大 学農場の周辺地域,とくに近隣のX村4)に ついて調査を行った。2011年1月末からの「1 月25日革命」以降の政治的・社会的変動期を カイロで過ごした後,4月からバドル郡地域 を再訪するようになり,7月からはマルカズ・

バドルにアパートを借りて調査を続けた。

フィールドワークでは対象者と親しくなる に つ れ,「結 婚5)」(gawāz/zawāj6))や セ ク シュアリティに関わる話題に,頻繫に遭遇す るようになった。結婚や子どもの有無,それ らに関わる願望や苦悩,家族・夫婦関係の問 題や不満,性に関わる言説や経験談などは,

人々の間で,ときに私を巻き込んで交わされ た。私自身が当時30歳前後の男性既婚者で 子どもがいることも知られていたので,対話

者は自然と同世代の男性が多かったが,彼ら にとって結婚や性にまつわる話は仲間内では よく話される,当たり前の話題だったのかも しれない。

結婚は単なる「話題」にとどまらず,実際 の「出来事」として立ち現れることがあっ た。それが本稿でいうファラハである。バド ル郡の人々がファラハと呼ぶものは,結婚あ るいは婚約に際して催される祝宴のことであ る(アラビア語のfaraḥaは「喜ぶ」ことを 意味する)。その規模や様式は一様ではない が,たいていは住宅地の中の空地や路地に設 営された舞台や天幕において,あるいは施設 のホールや広間において,当該男女二人が着 飾って壇上のソファーに座り,その姿を大勢 の人々が椅子に座って眺め,飲み物や水煙草 をのみながら,音楽や踊りなどを楽しむといっ たものであった。建前上はオープン・パーティ であり,招待状がなくても(そもそも招待状 が用意されない,あるいは,用意された数が 少ない場合も多い),入場が断られることは ないとされる。ファラハは,バドル郡の住民 にとって貴重な娯楽や飲食の機会であった が,それ以上に,重要な社交の場と見なされ ており,ファラハの開催に関する情報は人々

2) The American University in Cairo(略称AUC)のこと。同大学は,1919年の開学以来,エジプ トにおける英語教育,私立大学およびアメリカ式高等教育のモデルとなっている。

3) Desert Development Center(略称DDC)のこと。同研究所は,1979年の設置以来,現バドル郡(旧 コーム・ハマーダ郡南タフリール地区)にある試験農場とミヌフィーヤ県サダト市にある研究所の 二つを軸として活動してきたが,近年では西部沙漠のオアシス集落の灌漑やカイロにおける環境保 全事業など活動範囲を広げている。この試験農場の土地は,この地域の開拓地を管理する公的機関

「南タフリール農業社」からの賃貸であったため,契約期間の満了に伴い,2015年2月末,同社に 返還された。

4) アルファベットを用いた地名や人名はすべて仮名である。

5) 本稿では「夫婦になること」の能動的な過程を意味するものとして「結婚」の語を用い,「男女の 継続的な性的結合の制度」「これに関連する法律行為・契約」「これにもとづく姻戚関係」などを広 く包含する概念である「婚姻」と区別する。本稿の対象はあくまで前者の「結婚」であり,後者と 深く関わる親族関係論などは本稿の射程外とする。

6) 前掲注5の意味での結婚は,口語アラビア語でgawāzと表現され(下エジプトに位置するブハイ ラ県バドル郡では,カイロ方言と同じくjīmがgīmで発音される),正則アラビア語ではzawājあ

るいはnikāḥの語で表現されることが多い。zawājは,英語のmarriageと同様に結婚と婚姻の両

方を含む語で,現代エジプトの身分法制においてはzawājが一般的である。他方,nikāḥは,イス ラームの聖典クルアーンに現れる語である(たとえば,第2章第221節では動詞としてnakaḥaが 用いられる[中田2014: 64])。契約を伴う法的行為としての婚姻の意味合いが強く,イスラーム法 学の古典ではnikāḥがよく用いられる[cf. 松山2009; Schacht 1995]。

(4)

の間を駆け巡り,熱心に交換されていた。

こうした環境において,私も次第にファラ ハに参加する機会を得ていった。フィールド ワーク中に参加したファラハの数は20件で あり,単純計算すると1ヶ月に1度はファラ ハに出ていたことになる。私がファラハに参 加するときには,結婚する本人あるいはその 家族をあらかじめ知っていて,彼らに直接あ るいは間接に誘われた場合が多かったが,そ のほかにも,知己のバドル郡住民たちから,

突然「これからファラハにいくぞ!」と声を かけられ,誰に関係したファラハか十分な説 明もないまま,私にとって初対面の人のファ ラハに連れていかれる場合も少なくなかっ た。他方,そうした友人の家族や親族の一員 が結婚する場合には,彼らがとりしきるファ ラハに呼ばれ,あるいは当然来るものと見な され,彼らが「身内」として果たす仕事ぶり を間近で観察することができた。

これらの経験から,人々(とくに結婚当事 者の男女およびその保護者)が結婚の祝宴を 開くために金銭面で大きな苦労をしているこ と,そしてそうした負担にもかかわらず,祝 宴の開催が結婚に必要不可欠な慣習として根 づいていることに気づかされた。言うまでも なく,婚姻は重要な社会的制度の一つであり,

世界のどの社会・文化にもそれぞれの形の制 度や慣習が見出されるものである。現代エジ プトの場合,人口の約9割がムスリム(イス ラーム教徒)であり,バドル郡の住民も大多 数がムスリムであることから,イスラームの 影響を受けていることは想像に難くない。し かしこのことは,エジプトの地域・地方にお ける個々の結婚の実践が,単一の「イスラー ム的様式」をとることを必ずしも意味しな い。むしろ,個々の結婚は,関係者の間のあ る程度の共通理解を前提として,それぞれの 結婚観やイスラーム理解,具体的な経済的能 力や個人的事情,法制度の参照や周囲の経験 や助言などをすり合わせつつその都度つくり あげられ,実践されていると考えられる。

したがって,本稿で提示する祝宴の事例は,

あくまで2010年代初頭のブハイラ県バドル 郡という特定の場において,私という特定の 調査者が,特定の人間関係の中で観察した特 定の結婚実践の集積である。したがって,本 稿で提示された状況が,そのままバドル郡地 域を代表するとは言うことはできない。同様 に,エジプトの他の地域や時代との安易な比 較や,それにもとづく文化的理解も控えなけ ればならないだろう。むしろ,本稿において 私が問いたいのは,バドル郡の人々が,どの ような理由や考えにもとづき,どのような方 法によって,ファラハを行っているのかであ る。本稿では,この問いを以下の構成から論 じていく。

第Ⅱ節では,結婚とファラハの間の関係性 を確認する。第1項では,長期にわたって「結 婚したい」と求め続けたある男性の話を提示 する。彼の結婚に対する願望や苦悩,結婚に 至る過程を確認する中で,ファラハの開催が 婚姻の社会的成立を告げるものであることが 了解される。第2項では,エジプト社会に おける結婚および祝宴の実践の記述を整理す る。近現代エジプトの民族誌的記述に記され た祝宴の諸形態からは,結婚とファラハの関 係性が時代や地域ごとに少しずつ異なり,決 して不変のものではないことが示唆される。

第Ⅲ節では,本稿が示すバドル郡における ファラハの事例の全体像を示す。第1項では,

私がファラハを観察するにあたってもっとも 重要な対話者となったYとGという二人の 人物との関わりを紹介する。第2項では,ファ ラハに参加するようになった当初の私が観察 したファラハの様子を描写する。ここでは,

とくに参加者の視点から理解されたファラハ の物質的・形態的な構成と,参加者に対する 開催者の「もてなし」の重要性を論じる。

第Ⅳ節では,ファラハの開催者に視点を移 し,ファラハを一部とする結婚成立過程の最 終局面を見ていく。第1項ではYが花嫁の 兄として,第2項ではGが花婿の父として,

(5)

それぞれファラハの開催に巻き込まれ,関与 する様子を描き出す。ファラハの開催におい ては花嫁・花婿のそれぞれに義務や役割があ ること,それらを果たすために開催者は社会 的資源やネットワークを駆使して周囲の人々 を動かし,互いに支えあいながらファラハを 構成することを論じる。

最後に,第Ⅴ節では,以上の議論を総括し て,本稿が提示したファラハの理解の方法と 内容について再検討を行い,現代エジプトの 結婚実践の事例報告としての結論とする。

Ⅱ.結婚とファラハ

1.結婚したい男

2010年7月,私はバドル郡地域にある大 学農場を訪れた。これは私にとって最初の訪 問ではなく,数年の期間を空けた後の再訪で あった7)。その日は夕方4時すぎに到着した ので,農場労働者の多くはすでに仕事を終え,

帰宅しはじめていたが,残っていた旧知の 人々に挨拶をしてまわっていると,過去に親 しくしていたK(20代後半の男性)がいた ので,声をかけ,近況を尋ねた。するとKは,

私も知るかつての同僚の名を次々と挙げ,「み んな結婚して子どもまでいる」と言った。そ こで私が,やや冗談めかして,「そういうKは どうなんだい?」と訊くと,Kはこう答えた。

おれは美人と結婚したい。それが望みだ。

でも美人でも何もしないのはだめ。実はい ま,カイロにいるある人と約束を交わして いる。彼女はディプロマ(diblūm,高校卒 業資格)を持っているから難しいかもしれ ないけど,おれは正規雇用者(muwaẓẓaf 8)

だから……。だけど,おれの母親は,父親 と離婚して,おれと一緒に住んでいて,姉 妹もいる。だから,おれは自分の家の二階 に住まないといけない。

Kは高校卒業資格を持っている相手の女性 と比べて学歴の点で劣るが,正規雇用者であ る点を活かして結婚の実現を目指していると いうことであった。翌朝,私とK,そして 当時大学農場に長期滞在していた若いフラン ス人男子学生で話をしていると,Kは,若 者同士のくだけた雰囲気から,前日とはまっ たく違う望みを語った。

フランス人は美人だから,おれはフランス 人と結婚して,国籍をとって,フランスに 移住して仕事をする。それからエジプトで も結婚するんだ。フランス人は処女でなく てもいいけど,エジプト人は処女でないと だめだ。もし血が出なかったら,おれは

……〔持っていたナイフを突き刺すふりを する〕。まあ,おれはこいつ〔フランス人 学生〕のイトコをもらうからいいんだ。

こうした冗談話の3ヵ月後の2010年10月,

私はKに,数日前に彼の父親と偶然マルカ ズ・バドルの街角で出会った話をした。する と,Kは苦しげな表情を浮かべて言った。

おれはもううんざりだ(zihiqtu)。いっそ

殉教者(shahīd)になって死にたい。お

れはもう28歳で,給料は1,000ポンド9)だ。

妹や母を養うために,家に500ポンド入れ ている。残りの500ポンドを貯めていった として,結婚はいつになるっていうんだ? 

7) 私は,2004年夏と2005年冬に約1ヶ月ずつ,当時在籍していたカイロ・アメリカ大学大学院の修 士論文執筆の調査のために滞在した[cf. Takemura 2005]。

8) アラビア語で,「職に就いた者,およびその状態」のこと。文脈により,契約等のない「日雇い労働者」

(‘āmil)と対置して「正規雇用者」を意味することもあれば,そうした正規雇用の代表格である政

府機関に勤める「公務員」を意味することもある。

9) エジプトの通貨単位で,エジプト・ポンド(Egyptian Pound/ginī maṣrī/junayh miṣrī)と呼ばれ る。以下,ポンドと略記。この当時の為替レートは,1ポンド=15〜17円であった。

(6)

家の二階部分を建てるのに70,000,家具

(farsh)に30,000,小さなファラハに10,000,

祝いの屠殺用の牛5頭に15,000,花嫁衣 裳に5,000,結婚指輪(dibla)に15,000

……これで,いくらだ?〔私が計算して 教えると合計145,000ポンド〕それを500 ポンドで割ると,いくらだ?〔私が計算し て教えると24年〕24年後か……絶望的だ。

Kは自分が結婚できないのは,経済的理由 にあり,それはすなわち,親の責任を果たさ ない父親のせいだと怒りを込めて言う。

親父(abū-ya)は何もしてくれない。もう

会わなくなって4ヶ月たつ。心がない。冷 たいんだ。母と結婚して,おれが生まれて 離婚して,また結婚して妹ができて離婚し て。女,妻……誰の面倒もみない。〔財布 から写真を取り出して,そこに映っている 男女を指差しながら〕花嫁がおれのオバさ ん(‘ammet-ī10)で16歳,花婿だってたっ たの19歳だ。なんで結婚できたのか。花 婿の父が少しずつお金を集めたから。うち は父なし子だ。妹たちはおれのことを「パ パ」(bābā)と呼ぶんだ。

このときの暗い表情から,私はその後Kに 結婚の話を訊きづらくなった。それから半年 以上たった2011年6月に農場内でKを見か けたとき,ひどくうなだれた様子をしてい た。近くにいたKの友人に尋ねると,「彼は 一昨日,婚約者と別れたばかり」であるとい う。詳しい理由は言わなかったが,Kの友 人が「彼女の父親がよくない人だったから」

とKを擁護するあたりに,相手の父親が求 める(おそらく金銭的な)要求に応えられな かったという含意が読みとられた。この友人 は「かわいそうなKのために,日本人の花 嫁を一人用意してくれないか?」とそつなく 頼んできたのであった。

それからまた数ヵ月後の2011年12月末,

ある土曜の早朝に私が新聞を買いに行くため に市内を歩いていると,バイクに乗って買い 出しに来ていたKに出くわした。声をかけ て路上で話をすると,Kはいま自宅の二階部 分を増築しているところで,明るい顔をして,

「今度いよいよ結婚する」と言った。相手はK が住む村の住民で,私も知る人物の娘であった。

Kは自身の結婚の状況についてこう述べた。

アパートはできた。20,000ポンドかかっ たけど,トイレと台所はタイル張りにした。

応接間はタイルなしで,床に座るようにし た。相手の父親は5,000ポンドしか出さない。

少ないだろ。でもいいんだ,おれはセックス して子どもができれば。それが望みなんだ。

Kはその後,2012年4月初め,無事にファ ラハを挙げることができた(後述する表1の 20番)。以前に二人で計算した金額にこの2 年間の貯蓄で到達したとは思えないが,結婚 相手の父親からの援助のような周囲の助けが あったのだろう。Kのファラハは,私がフィー ルドワーク中に観察した最後のものであった が,他と比べても遜色のないものだった。

さて,先にKが述べた結婚の支出計算か らは,Kが意識する重要な項目を見てとる ことができる11)。全体の半分を占める「家の 10)アラビア語で「父の姉妹」のこと。オジ・オバは,父方(‘amm/‘amma)と母方(khāl/khāla)で

表現が異なる。

11)比較のため,1980年代末のカイロの庶民街における結婚費用の内訳を見てみると,花婿側の費用 総額約1万ポンドの内,最大の単独支出はアパート準備金の3,500ポンドで,続いて婚約贈呈品の シャブカの1,500ポンド,家具のアントレ(本稿第Ⅳ節で後述)の1,200ポンドが続く。ファラハ に関係するものとしては,花婿衣装が750ポンド,花嫁衣裳が150ポンド,花嫁の美容院代が50 ポンド,ファラハの設備費(音楽や照明,椅子,天幕,茶菓)が250ポンドで合計1,200ポンドであっ た[Singerman 1995: 112, Table 2.1]。衣装に比べて設備費が著しく低いことにはやや疑念が残る。

(7)

二階部分」は,自宅の二階部分を増築して,

新たな「アパート」(shaqqa),すなわち独 立した住居とすることを意味する。近年のバ ドル郡地域では,鉄筋コンクリートの基礎と 柱を骨組みとして,赤煉瓦や石灰岩を壁とす る住居が一般的で,複数階を重ねることがで きるが,当人の経済的能力に応じて,まず1 階部分を建て,後から2階,3階と増築して いくことが多い。Kの場合,父親不在のため,

結婚後も母親や姉妹の面倒を見るために自宅 の2階部分を増築し,そこに住むことが選ば れたようだ。その次に費用の大きい「家具」

は,おそらく寝具を中心とした家具のことで あろう。

これら二つ(と「結婚指輪」)が結婚生活 の基盤とすれば,残る「ファラハ」「屠殺用 の牛」「花嫁衣裳」は,結婚を祝うために必 要とされる散財である。単純に金額だけを 見れば,三つ合わせて30,000ポンドであり,

アパートの半分以下だが,全体の5分の1を 占める点では,相当の支出ではある(Kの 毎月の収入が1,000ポンドで,その内500ポ ンドを結婚資金として貯めるという仮定から すれば,30,000ポンドですら丸5年に相当 する金額である)。しかし,物質的資源とし ての家具はその後も残るが,ファラハはその 瞬間が過ぎれば,記憶と記録以外,何も残ら ないように見える。そのようなもののために,

人々はなぜ,わざわざ高い費用と労力を必要 とするファラハを行うのか。ファラハは結婚 に必ず必要なものなのだろうか。これらの問

いに答えるため,本稿の第Ⅲ,Ⅳ節ではバド ル郡地域の人々が実践するファラハの様子を 示すが,その前に次項で,これまでのエジプ トの民族誌的記述において理解されてきた結 婚とファラハの関係性について確認してお こう。

2.結婚とファラハの関係性

エジプトにおけるムスリムの婚姻法制や諸 実践については,これまでさまざまな報告が なされてきた。法的には,婚姻は,当事者(あ るいはその代理人や後見人)と二人の証人に よ る「婚 姻 の 契 約12」(katab/el-kitāb/‘aqd al-zawāj)の締結と専門職「マーズーン13)

(ma’dhūn)による登記により成立するが,

社会的・慣習的にはこれだけでは不十分であ り,夫婦の共同生活の開始によって完了する ものとされる[cf. 大塚1985: 227; Wikan 1980:

84; Singerman and Ibrahim 2001: 89; Aḥmad 2014]。この区別は次のように表現される。

エジプトにおける標準的な調査で,ある個 人が結婚しているかどうかをgawazとい う用語を用いて尋ねる場合,それは普通,

この共同生活の確立という最後の段階につ いて尋ねていると理解される。[Singerman and Ibrahim 2001: 89,イタリックは原文 ママ]

前項に紹介したKの話では婚姻契約等につ いては述べられなかったが,後述するバドル 12)イスラーム法学では婚姻の契約は口頭のみで有効とされ,文書化は必要条件ではなかったが,近 代エジプトでは1897年の「シャリーア法廷組織法」(Lā’iḥa Tartīb al-Maḥākim al-Shar‘iyya wa- l-Ijrā’āt al-Muta‘alliqa bi-hā)[N.A. 1897]以来,婚姻・離婚に関連する争訟処理のため,文書化 が求められるようになった[Nasir 1990: 70-71; Esposito 2001: 49]。書式については,2000年の 法改正前のものだが,al-‘Amrūsī[2000: 40-47]を参照のこと。

13)マーズーン職は,1915年の「マーズーン令」によってシャリーア法廷に付随する専門職として設 置された。1955年のシャリーア法廷の廃止に伴い,同年の法務省令により再公布されている。こ の第18条によれば,マーズーンは「エジプト人のムスリムに関わる婚姻契約,離婚証明,前妻と の復縁許可の文書化を独占的に管轄する」[al-Majma‘ al-‘Arabī al-Qānūnī n.d.]。また,第23条 に記されるように,「マーズーンは,二冊の台帳を持ち,一つには婚姻および前妻との復縁許可が,

もう一つには離婚が記される」[al-Majma‘ al-‘Arabī al-Qānūnī n.d.]。この台帳こそがマーズーン の代名詞的道具である。

(8)

郡の諸事例では,ファラハはまさにこの「共 同生活の確立」を象徴する行事として見なさ れていた。しかし,これまでの民族誌的記 述では,共同生活の確立は,「行列」(zifāf) と「床入り」(dukhla)の二つの行為あるい は段階から説明されてきた。端的にいえば,

「行列」は,花嫁を新居に移動させることで あり,「床入り」は,夫婦が新居で同衾する こと,あるいはそこで行われる最初の性交渉 を指し,場合によってそれに先立つ処女証明 までを含む。これらは,過去には数日にわた ることもあったが,現代では一日で行うこ とが多く,その日は「行列の日」(yawm al- zifāf)や「床入りの夜」(layla al-dukhla)な どと呼ばれる[Amīn 2008: 228-230]。その 前夜には,花婿・花嫁それぞれの近親者が 集まる「ヘンナの夜」(layla al-ḥinnā’)があ り,「床入り」の翌朝には,近親者がご祝儀 や食事を持参して新夫婦を訪れる「サバー ヒーヤ」(ṣabāḥiyya)が報告されている[大 塚1985: Aḥmad 2014]。

次節以降の議論を先取りしていえば,バド ル郡における結婚のファラハは,この「行列」

と「床入り」の間に行われ,かつそれら二つ を合わせたものであったといえる。典型的に は,数台の自動車が「行列」を組んで花嫁を 移動させるが,新夫婦はそのまま新居に直行 して「床入り」するのではなく,まずファラ ハ会場に寄り,そこで数時間ほど客と新夫婦 が一緒になって音楽や飲食を楽しんだ後,新 夫婦は新居に入り「床入り」に至るという具 合である。したがって,ファラハは「行列」

の一部ともいえるが,行列の中に一つの時間 と空間を区切り,大音量の音楽や溢れるばか りの飲食の非日常的空間が繰り広げられると いう点において,「行列」とは異なる別の過 程とも考えられる。

結婚の際の食事の提供は,イスラーム的伝 統に根拠を見出すことができる。かつて預言 者ムハンマドが,結婚を報告してきた信徒 に対し,「ご馳走せよ,たとえ羊一頭でも」

(awlim wa-law bi-shātin)[‘Aṭā 2001: 28- 29; cf. 牧野2001: 49-50]と述べたことから,

結婚の際に「ワリーマ」(walīma),すなわち

「食 事」(ṭa‘ām)の 宴[cf. Heffening 2000:

900]を開くことは信徒にとって推奨される 行為と考えられている[cf. 松山2009: 165]。

たとえば,1980年代初頭に出版されたある エジプト人著述家による結婚マナーブック

『結婚と婚礼の諸作法』[‘Āshūr 1982]では,

結婚に際してムスリムが行うべき10の事柄 が挙げられるが,その最終10番目にワリー マの開催が触れられる。

結婚は,礼拝を援け,連帯を強め,親愛を 深めるための恵まれた機会である。このた め,あなたのできる範囲で用意した食べ物 からなるワリーマを開くことは,預言者の 伝統とされる(yusannu)。[‘Āshūr 1982:

63]

この著者によれば,ワリーマを行う時期は,

「行列を終えた後,あるいは婚姻の契約を終 えた後,7日までの間に」[‘Āshūr 1982: 64]

が推奨される。これは,結婚の「行列」に合 わせて行うことも,あるいは,その数日後す でに共同生活が開始した後に行うこともあり うることを意味する。むしろ,預言者の慣 行にしたがって,人々を招いて宴を開くこと 自体に意義が認められ,その集まりから貧者 を排除しない寛大さが強調される[‘Āshūr 1982: 64]。結婚と食事の結びつきという点 では,ワリーマは,バドル郡地域で観察され たファラハの原型,その宗教的根拠と見なす ことができるかもしれない。しかしこれら二 つの概念が理念と実践の関係にあると考える のは難しい。これら二つの指示内容は一致 しない点も多く,また,私の記憶ではバドル 郡地域での日常会話ではワリーマの語は用い られず,結婚の祝宴はつねにファラハと呼ば れていた。したがって,本稿ではワリーマは あくまでイスラーム的理念の一つと見なし,

(9)

人々の実践とは次元の異なるものとして理解 する。

それでは,エジプト社会に関する民族誌的 記述においては,ファラハと「行列」と「床 入り」は,どのような関係にあると観察・報 告されてきたのだろうか。いくつか代表的な ものをとりあげてみよう。まず,近代エジプ トの風俗に関わる最初の包括的な記録として 知られるイギリス人著述家エドワード・レイ ンの『当世エジプト人の風俗と習慣の記録』

では,カイロの都市街区での結婚実践が細か く記される[Lane 1978: 161-174]。これに よれば,婚姻の契約の締結後,花嫁側によっ て家財道具が用意され,ラクダで新居に送ら れる。「床入り」の前夜には,花婿のもとに 男性客が集まり,花嫁のもとに女性客が集ま りヘンナを施す。当日昼すぎ,花嫁は友人や 付添人とともに花婿の家へ歩いて向かう。花 婿の家の前では,剣戟や棒打ち,奇術などの 見世物が行われるが,食事や天幕の用意はと くに言及されない。花嫁一行は到着後,室内 で食事をふるまわれる。花婿はすぐに花嫁と 会いに行かず,日没前に風呂屋に行き,夜の 礼拝のためモスクに出かけ,友人や楽団を 伴ってゆっくり行き帰りする。その後ようや く花嫁の顔を見に行き,気に入れば周囲の女 性に伝えてザガリート14)をあげさせ,その 後花嫁のもとに戻り,「床入り」を果たす。

この記述では,見世物をのぞき,ファラハ にあたる集まりや飲食には言及されないが,

レインが続けて短く触れる村の結婚では次の ように述べられる[Lane 1978: 174]。

婚礼の夜,およびしばしばそれに先立つ数 夜,村では,新夫婦の男女の友人が花婿の 家に集まり,開けた場所で夜の数時間をす

ごし,歌と無作法な踊りを楽しみ,タンバ リンあるいは太鼓で音をあげる。男女は歌 うが,踊るのは女だけである。[Lane 1978:

174]

都市街区と異なり,農村地域では,花婿の家 のまわりで,花婿・花嫁それぞれの男女の友 人が歌い踊る,にぎやかな集まりがあること が示唆される。ただしこの記述はごく短く,

集まりの規模や性格,飲食物の有無,「行列」

との関係などについては述べられない。

レインの約1世紀後,1920年代に上エジ プトの農民を調査したイギリス人人類学者 ウィニフレッド・ブラックマンも村の結婚 の様子を記している[Blackman 2000: 93]。

花嫁は,日没前,ラクダや自動車に乗り,楽 団とともに花婿の家に向かう。これに先行し て,花嫁の家財道具を積んだ荷車が送られ,

衆目にさらされる。到着した花嫁一行は花婿 の家の中で待たされる。花婿は,男性友人の ため,自宅の一角で宴(feast)を開く。

夕闇が濃くなるにつれ,銃声があげられ,

女たちはザガリートをあげ,音楽隊も輪に かけて騒々しさを増した。家の外にはたい てい天幕が張られ,ここに男たちが集まり,

花婿に祝いを述べ,コーヒーを飲み,タバ コを吸った。お祭り騒ぎは,とても貧しい 人々でないかぎり,たいてい二日か三日は 続けられた。[Blackman 2000: 93]

ブラックマンの記述では,花嫁が「行列」に より到着した後の話として,音楽隊が呼ばれ,

新居の戸外に天幕が張られて男性客が座り,

宴会を楽しむ様子が描かれている。しかしや はり記述は短く,「床入り」のタイミングや 14)レインはzaghareetと表記したが,『エジプト・アラビア語辞典』ではzaghrūta(複数形がzaghārīt)

[Badawi and Hinds 1986: 372],エジプト人文学者アフマド・アミーンの『エジプトの伝統・慣習・

表現辞典』ではzaghrūdaと表記される[Amīn 2008: 226]。『ハンス・ヴェア現代標準アラビア語』

では,zaghārīdとzaghārīṭの両方が記載されている[Cowan 1994: 439]。これは,喜ぶべき出来 事に遭遇したときに女性があげる歓喜の声で,口をすぼめ舌を顫わせながら,甲高い音をあげる。

以下,カタカナによりザガリートと記す。

(10)

女性客の有無などについても述べられない。

20世紀前半の上エジプト農村の観察から

『エジプト農民』を書きあげたエジプト人神 父ヘンリー・アイルートは,結婚における処 女証明を強調する[Ayrout 2005: 118-119]。

「床入り」の日,花嫁の家財道具と花嫁の家 で用意された食事が,花婿の待つ新居に運び 入れられる。花嫁はすでに前夜に入浴し,手 足にヘンナを施されている。花嫁一行は,ラ クダや自動車に乗り,銃声とザガリートが響 く中,花婿の家へと向かう。花婿は友人宅で 風呂を浴び,手をヘンナで染める。友人宅に 集まった人々は,花婿に愛と喜びの歌を歌い,

銃声をあげ,塩をふりかける。花婿が友人と ともに家に戻ったとき,花嫁はすでに到着し ており,そこでまず処女証明が行われる。

小さな花嫁はすでに双方の親族にかこまれ 待っている。彼らは,花嫁の処女性をもっ とも原始的なやり方で確かめるのだ。血が 流れ―花嫁は痛みから泣き叫び,その叫 び声はまわりのザガリートにより搔き消さ れる。名誉は守られた。宴がはじまり,朝 まで続く。宴はいつもにぎやかで,しかし,

男と女はつねに離される。男女はそれぞれ 喜び方が違うからだ。色とりどりの菓子や べたつく焼き菓子,ときには肉が手渡され る。この日には経済観念などない。その日 の深夜,あるいはいくつかの地域では一,

二日後に,結婚は床入りによって完了され,

そこにはほとんど秘密はない。[Ayrout 2005: 119]

その後に続く祝宴では,多くの人々が招かれ

(しかし男女は場所を分けられ),飲食物がふ んだんに提供されるものとされる。アイルー トによれば,夫婦の「床入り」は,処女証明 とは別に,当日深夜あるいは後日改めて行わ れるものであった。ここでの処女証明は,同 衾としての「床入り」の一部というよりも,周 囲に見せるためのものとして「行列」の一部

といえるかもしれない。いずれにせよ,花嫁 と花婿が「行列」により新居に集合したとこ ろで,まず処女証明が行われ,その後にその 新居の周辺で祝宴が催されたことが示される。

1960年代半ばにカイロ南の郊外化する村 を調査したヨルダン人人類学者ハーニー・

ファフーリーは,一般的な結婚実践と新しい 風習の両方を報告する[Fakhouri 1972: 66- 70]。一般的な手順では,「床入り」の前日,

花嫁の家財道具が運び入れられ,同夜,花婿 と花嫁がそれぞれ友人を呼び「ヘンナの夜」

を催す。当日,花婿は友人宅で入浴と散髪を し,花嫁は自宅で入浴と美容を行う。その後,

花婿は楽団を先頭として村の中を歩き,自宅 へ戻る。

行列が花婿の家に着くと,参加者たちは,婚 礼のために借りられた大きな天幕(sewan) に入り,椅子あるいはマットの上に座り,

食事をしながら音楽を楽しむ。[Fakhouri 1972: 67,イタリックは原文ママ]

一方,花嫁は,支度が終わった頃に花婿の家 族が迎えに来て,近ければ徒歩で行列をなし,

遠ければタクシーで移動する。花嫁が花婿の 家に着くと,花嫁は設営された舞台上に座ら され,家財道具とともに部屋と中庭にいる女 性客の視線にさらされる。

花嫁が展示される間,婚礼に招かれた女性 たちは,歌い,手を叩き,タンバリンの音 に合わせて踊って花嫁を楽しませる。この もてなしの最中,花嫁と客には食事と飲み 物,それに紅茶がふるまわれる。[Fakhouri 1972: 68]

このようにファフーリーの報告では,「行列」

に続いて,天幕の中で祝宴が開かれる。そこ では,親族や友人が招かれ,男女は別々に席 をとり,飲食物が提供され,音楽が演奏され た。新しい風習の結婚式では,全体的な手

(11)

順は変わらないものの,村の床屋ではなく 近くのヘルワーンの町の「美容院」(beauty shop)が利用され,プロのカメラマンが記 念撮影し,楽団がわざわざカイロから呼び寄 せられた。処女証明は,10〜15年前までは 花婿が白いハンカチでくるんだ指で破瓜し,

年配の女性が横でそれを見守る風習があった が,新しい結婚式を行った花婿は「ばかげ た風習と思ったのでやらなかった」という

[Fakhouri 1972: 70]。

1980年代にナイル・デルタ南東部の農村 地域を調査した社会人類学者の大塚和夫は,

13件の祝宴を含む事例から以下の特徴を述 べている[大塚1985: 294-302]。新婦の家財 道具には精確な一覧表が作られる(運び入れ は言及されない)。前夜の「ヘンナの夜」は 個々の違いはあるが,親族や隣人の小規模な 集まりが一般的とされる。「床入り」の当日 昼すぎ,「行列」のために,花嫁の家に花嫁 側の親族や隣人が集まり,そこに花婿が自分 の親族や友人とともにやって来る。夫婦と近 親者が飾りたてた自動車に乗り込み,その後 ろにその他の人々が乗る車が続き,市街地を まわりながらにぎやかにクラクションを鳴ら して新居へ向かう。このとき徒歩の行列が行 われる場合もある。

新居に着くと,事前に用意された一段と高 い場所に2人は座り,そこで新郎側の親族 や新居の隣人たちの祝福をうける。しかし,

それもあまり長くは続かず,人々は早めに 辞去し,あとには2人とその近親のみが残 る。それから2人は初夜を迎えるのである。

[大塚1985: 299]

大塚が観察した事例では,「行列」や「床入り」

の日よりも,シャブカと呼ばれる金製品の贈 呈による「婚約」(khuṭūba)の際に祝宴が 張られることが多かったという。上の引用で は,新居近くの「一段と高い場所に2人は座 り」という記述から何らかの雛壇の用意が示

唆されるが,とくに音楽や飲食の提供がなく,

客の訪問もかぎられていたようだ。むしろ大 塚は婚約の祝宴を細かく記述している。大塚 によれば,その祝宴こそが「ファラハ」と呼 ばれており,歌と踊りと音楽,飲食物の提供,

タバコのやりとり,楽団や歌手に対するご 祝儀のチップなどが観察された[大塚1985:

288-290]。処女証明の実施が確認されたの

はわずか1件のみで,処女性重視の観念は残 るが,血のついたハンカチを公衆に示す行為 は,すでに高学歴層や宗教熱心な者を中心に 忌避される傾向にあったという[大塚1985:

299-302]。

最後に,2000年代初頭にナイル・デルタ 東部の村の結婚実践を調査したエジプト人人 類学者アブドゥルハキーム・アフマドの報告 を見てみる[Aḥmad 2014: 165-192]。花嫁 の家財道具の運び入れは花嫁側の家族によっ て行われる。「床入り」の前日昼には,花嫁 の化粧や髪のセット,ヘンナの染付けが行わ れ,夜には,花嫁・花婿のそれぞれの家で「ヘ ンナの夜」が行われ,親族や隣人,友人が集 まり,ティルミス(塩茹でした団扇豆)や紅 茶が出され,祝婚歌が歌われる。「床入り」

の日,花嫁・花婿の家ではそれぞれ早朝から 食事が用意され,昼すぎに隣人を招いた「昼 食の宴」(ḥafl al-ghadā’)が催される。花嫁 側でつくられた食事は花婿側に届けられ,夫 婦の夜食となる。花婿は散髪に行き,親族の 家で入浴する。「行列」は,花婿が直接迎え に行く場合と他人を迎えに行かせる場合があ るが,いずれにおいても,花嫁を連れた一行 が到着すると新夫婦二人の上に塩や米,チョ コレートなどが撒かれる。夫婦は,参加者の 前でケーキを互いに食べさせあったりする。

ほどなく,

花嫁は新居に入る。花婿は,花嫁とわずか な時間をともにするが,花嫁をその家族

(母親や姉妹)に任せ,客を迎えるために 戻り,祝いの返礼と,言葉あるいは行動に

(12)

よる飲食の呼びかけの義務を果たす。〔中 略〕村では近年,床入りの夜には,性交が なされないようになっている。それは二人 に重圧をかけるものであるから,しばし休 息をとらせ,その後,自然な形で夫婦生活 がはじめられなければならない。[Aḥmad 2014: 188]

として,この前後に祝宴があったかどうかは 述べられない。食事の提供という点では,他 の報告にない「昼食の宴」が挙げられるが,

「行列」の前日昼に行われる点,花嫁・花婿 それぞれの家で催される点から,上に述べて きた祝宴とは異なるものと考えられる。また,

「床入りの夜」における最初の性交渉に関し ては,当該夫婦にある程度自由が与えられる ようになっており,かつて花婿の母親が担っ た処女証明ももはや行われない[Aḥmad 2014: 188]。処女証明は,すでに公に行う事 柄ではないと見なされるようになっているの かもしれない15

以上に見てきたように,従来のエジプトの 民族誌的記述においては,婚姻の社会的成立 としての結婚は,「行列」と「床入り」の二 つから説明されてきた。前者は花嫁の身体 的・財産的移動を示すものとして,後者は花 嫁の処女確認や花婿の性交渉の権利行使に関 わるものとして論じられてきた。民族誌的記 述には,ファラハや祝宴と呼ばれる歌や踊 り,飲食物の伴う集まりが言及されることが あり,それはたいてい「行列」の後,新居の 周辺で親族や友人によって担われるものとさ れた。ここから,ファラハが何らかの形で「行 列」と重複あるいは連続する内容を持つ行事 であることが理解される。ただし,「行列」

とファラハがどのような点で共通し,あるい

は,異なるのか,ファラハを行う理由や結婚 の過程における役割,ファラハに集まる人の 内訳,その開催方法や食事の提供などの具体 的内容や詳細については,これまでほとんど 明らかにされてこなかった。この意味で,次 節以降で提示するファラハの事例は,先行研 究においてこれまで問われてこなかった事柄 であり,「結婚する」というモメントの社会 的了解のあり方と,「祝宴」という具体的な 出来事の関係性を,経験的・具体的に理解し ようとする試みといえるだろう。

Ⅲ.フィールドワークとファラハ

1.ファラハとの出会い

「はじめに」で述べたように,私のフィー ルドワークは2010年7月から2012年4月ま で行われたが,前半にあたる2010年7月か ら2011年1月にかけては,カイロ・アメリ カ大学農場に宿泊し,ここを拠点として周辺 地域を調査していた。過去の滞在時の経験か ら,大学農場で働く者が周辺地域から来てい ることを知っており,私はそうした村々の一 つ,X村をおもな調査対象としていた。大学 農場周辺地域は,バドル郡の他地域で1960 年 代 に 進 め ら れ た3〜10フ ェ ッ ダ ー ン16)

(以下FD)の小規模開拓地の分配がなされ ず,1970年代以降になって,企業や組合へ の数百〜数千FDの大規模な売却・賃貸が行 われた17)。このためか,X村住民の大半は耕 作地を所有せず,近隣農場での農業労働やマ ルカズ・バドルでの商業活動により生計を立 てていた。一般に,小規模開拓地受領者が住 む村が数千人規模の人口を有するのに対し,

X村周辺の村々は全般に人口規模が小さく,

政府施設等も少ない[‘Ammār n.d.]。そのた 15)大塚やアフマドの事例は下エジプト東部,私の事例も下エジプト西部なので,より「保守的」とい

われる上エジプト地域については,結婚を定める慣習や社会的事情が著しく異なる可能性もある

[cf. Bach 2004]。

16)フェッダーン(正則アラビア語ではfaddān,以下FDと略記)はエジプトの土地面積の尺度で,

現在では1FDは4,200 m2と定められている。

17)大学農場も開拓地政策の転換期にある1979年に設置された[Takemura 2005: 79-82]。

(13)

めX村住民は,公的サービスや日々の買い 物のために,約10キロ離れた中心部の町マ ルカズ・バドルに通うことがつねであった。

私のフィールドワークにおいてもっとも重 要な対話者の一人であったYは,このX村 で生まれ育った30代半ばの男性既婚者であ る。Yはかつて大学農場に勤めていて,私が 2004年に大学農場に滞在したときに親しく なった。Yはその後大学農場を辞め,農業関 係のさまざまな仕事に従事したようだが,私 と再会した頃には,マルカズ・バドル郊外に ある野菜や果物の苗を育てる農場―以下,

Z農場 ―で働いていた。2010年7月にY と再会した私は,この苗農場を沙漠開拓地に おける農業実践の事例と捉え,Z農場にも出 入りするようになったが,大学農場からの交 通の便が悪かったため,次第にマルカズ・バ ドルに住むことを考えはじめた。Yとその友 人でZ農場の経営者であるZ(マルカズ・バ ドル在住,Zと私の関係は次項で後述)に相 談したところ,Zに紹介された不動産仲介人 を通じて,市内にアパートを見つけることが できた。それがGのアパートである。

Gは50代の男性既婚者で,幼い頃に父親 に連れられてこの地域に移り,父親が手に入 れたマルカズ・バドル内の土地を相続して,

そこに自らの家を建てていた。自宅は三階建 てで,この地域によく見られるように,各階 が独立したアパートになっている。2011年 当時,G夫婦は未婚の次男Bとともに3階 に住み,長男Aの夫婦が1階に住み,空い ている2階を季節ごとにやって来る果物や 野菜の仲買人に貸していた。私が紹介された 頃はブドウの仲買人が初夏の収穫期を終えて 退去したばかりで,次にイチゴの仲買人が冬

(11月〜3月)に来るまでまだ数ヶ月の猶予 があった。私は日本に帰国する予定の2012 年3月までの滞在を希望していたので,冬に

なれば重複が生じることが予想されたが,G はとくに気にせず,私の入居を認め,私も部 屋の清潔さや場所の利便性を気に入り,賃貸 契約を交わした。

こうして私はマルカズ・バドルに住みはじ め,大学農場やZ農場を訪れたり,市内を 歩きまわったり,知り合いを訪問したりする 日々をすごしていた。大家のGはもてなし 好きで,私をよく夕刻のお茶に誘ったり食事 に誘ってくれたりした。しかし私とGが本 当に打ち解けた瞬間を一つ挙げるならば,そ れは入居から数ヶ月後のある日の出来事であ ろう。その日,私はトイレ18の排水が悪い という話をGに伝えた。すると,Gはすぐ さま家の裏手にある下水管の本管の蓋を開 き,友人の下水工から下水管清掃用ワイヤー を借りてきて,自ら下水管の掃除をはじめた。

後にわかったがGは清潔好きで,物事を折 り目正しく行うことを重視する几帳面な性格 をしていた。Gの妻やAの妻は,仕事の大 変さやGの異様な熱意を見て,すぐに姿を 消した。後にGの息子のAとBも戻ってき たが,現場を一瞥するとすぐに消えていった。

私は言い出した手前もあり,その場に残り,

Gの手伝いと話し相手を務めていた。私は Gの汚れ仕事を率先してやるところに好意 を抱き,Gは自分の息子と同年代の私が自 分の仕事ぶりを高く評価したことを好ましく 思ったようだった。この日を境に私とGの 間の距離は一気に縮まり,私はG一家と多 くの時間を過ごすようになった。

こうした交友関係にもとづき,私がフィー ルドワーク中に参加したファラハは20件で,

その概要は表1にまとめたとおりである。

20件の内,X村で行われたものが6件,マ ルカズ・バドルで行われたものが7件あっ た。「花婿・花嫁との関係」と「同行者」欄 の記述に表れているように,半数以上(11件)

18)トイレには,「西洋式」(afrangī)の便座と,和式便所に似た(ただし前後の向きが逆の)床には め込まれた「自国式」(baladī)の二つが設置されていた。「自国式」はシャワーの排水溝を兼ねて いるため,その二つが同じ排水溝へと流されることを意味する。

(14)

の事例において,私と結婚当事者との間に直 接の面識がないが,その家族や親族,同行者 との関係性から参加した。総じて,X村の 人々とは顔見知りで,彼らのファラハには気 軽に訪れることができた。この表には,現地 でファラハと呼ばれる集まりをすべて入れて いるため,婚約のファラハが2件(6,15),「ヘ ンナの夜」が2件(14,17)含まれる。第

Ⅳ節で扱うYの妹のファラハとGの息子の ファラハ(13,18)には,「ヘンナの夜」と「床 入りの夜」の両方が含まれるが,それぞれ1 件にまとめてある。「食事」の欄には,食事 の提供の有無を記してある。食事が出ない5 件の内,屋内施設で行われたものが3件(1,

4,11)あり,その施設に来る前に花婿・花 嫁の自宅周辺で食事が提供された可能性があ る。「楽団」の欄は,音楽を演奏する人や歌 手の有無を意味する。楽団のない場合でも,

音響機器を用いて音楽を大音量で鳴らすこと がつねであった。

2.ファラハに参加する

さて,バドル郡のファラハは,どのような 形で行われているのだろうか。手はじめに,

フィールドワークの最初期のX村でのファ ラハ(表1の3番)の様子を,フィールドノー トから再現してみよう。当時,私は大学農場 に宿泊していて,夕方,Yから電話があり,「今 晩,○○おじさん(X村住民/大学農場関係 者)の息子のファラハがあるから行こう」と 誘われた。私は花婿とは面識がなかったが,

花婿の父とは顔見知りで何度か話をしたこと があり,X村住民であるYの誘いもあった ので,出てみることにした。

夜の9時頃,私はYと合流して,X村の外 れの空地に設営された会場に歩いていった。

会場には天幕が張られ,電飾が飾られた舞台 が設営されており,入口近くでは木の枝が燃 やされ,水煙草用の炭火が用意されていた。

入口右手には,紅茶を給仕するテーブルがあ り,係の若者たちが忙しく準備していた。左

1.バドル郡とその周辺において参加したファラハ(*印はバドル郡の外)

No 日付 曜 場所 花婿・花嫁との関係 同行者 食事 楽団

1 2010/9/6 金 カフル・ザィヤート* 花婿がZの友人の親族 Z,Y他2 × ×

2 2010/9/30 木 ワーディー・ナトルーン* 花婿がZの父方オジ Z,Y他1 ○ ○

3 2010/10/15 金 X村 花婿がX村住民 Y ○ ○

4 2010/10/21 木 マルカズ・バドル どちらかがYの知人 Y × ×

5 2010/10/22 金 ゼーン村 花嫁がZの妻の妹 Z一家,Y ○ ○

6 2011/1/28 金 ビリンガート村* 花嫁がZ農場で働く Y ○ ×

7 2011/7/5 火 X村 花婿・花嫁がX村住民 (なし) ○ ×

8 2011/7/7 木 マルカズ・バドル 花婿がZの父方イトコ Z,他2 ○ ×

9 2011/7/8 金 X村 花婿がX村住民 Y ○ ○

10 2011/7/15 金 ミヌフィーヤ県の村* 花婿がZの親族 Z,Z兄,Y × ○

11 2011/7/16 土 マルカズ・バドル 花嫁の父が大学関係者 Y × ×

12 2011/9/26 月 マルカズ・バドル 花婿がGの父方オイ G家族 ○ ○

13 2011/10/20 木 マルカズ・バドル 花嫁がYの妹 Y ○ ○

14 2011/10/24 月 ゼーン村 花嫁兄がZの友人 Z,Y ○ ×

15 2011/11/7 月 アイン・ガールート村付近 花嫁がAの妻の妹 G家族 ○ ×

16 2011/11/8 火 X村 花嫁がX村住民 Y, 他1 ○ ○

17 2012/1/18 水 マルカズ・バドル 花嫁が友人の友人の妹 友人 × ×

18 2012/3/29 木 マルカズ・バドル 花婿がGの息子B G家族 ○ ×

19 2012/3/29 木 X村 花婿がX村住民 Z ○ ○

20 2012/4/5 木 X村 花婿・花嫁がX村住民 Y ○ ○

(15)

手では発電用モーターが唸りをあげていた。

まだ花婿・花嫁は到着しておらず,入口近く には,私が知るX村住民らが何人か集まっ ていた。私とYは彼らに挨拶をして会場に 入り,中で別の知人を見つけてそれぞれ挨拶 をしていると,彼らの内の一人に指示されて,

会場入口の左手にあるテントの横にある椅子 に座らされた。これは,ファラハの参加者の ために用意された食事の順番待ちの列で,中 には一列20人は入るテーブルが2列並べら れていた。椅子はなく,皆立って食べるよう である。

テーブルにはおよそ等間隔で小皿が並べら れており,アルミホイルに包まれた羊肉,味 付けされたライス,マカロナ,レバー煮,漬物,

パン,さまざまな菓子があった。私がカメラ を取り出して写真を撮ろうとすると,隣にい たYに「おい,そんな場合じゃない(yabnī mish waqt19))」と叱られた。しかし周りにい た人たちは「撮れ撮れ」とけしかけ,食事を 用意した料理人まで連れてきたので,結局写 真を撮ることができた。しかし周囲を見渡すと,

それまで大勢いた人々はほとんど食べ終わっ てテントから出て行っていたので,私も急い

で食事をかきこんだ。このテントでは食事の 提供が何度も繰り返されるようである。

食事が終わって,Yとともに椅子に座って いると,突然騒々しい音が鳴り響き,花婿・

花嫁の一行が会場に到着した。楽団を引き連 れた盛大な行列で,会場の入口付近で音楽と 踊りの実演がしばらく行われた。空には花火 があげられ,祝いの銃声が鳴り響き,専属の カメラマンがその様子をビデオカメラで撮影 していた。参列者の中には携帯電話のカメラ で動画撮影する者もいた。花婿・花嫁が舞台 上の特別席に座る頃には,参加者も仲間同士 でかたまって椅子に座った。

舞台上では司会が声を張りあげていたが,

そこにもう一人スーツ姿の中年男性が登場し,

歌いはじめた。まわりの人に訊くと,同じブ ハイラ県のマハッラ・クブラー市から呼び寄 せたプロの歌手だという。音楽や歌は,大型 スピーカーを使って大きな音をあげていたた め,周囲と話をするためには相手の耳に叫ば ないと聞こえないほどであった。私は大学農 場関係者らと一緒に座り,舞台上の歌手や 花婿らの様子を見たり,「踊れ」と言われてそ の場で踊ってみたり,周囲の様子を見たりし

1.食事の天幕の中

19)食事の時間がかぎられていることを踏まえて,「そんな時間はない」と急かす意味であったのかも しれない。

(16)

て時間を過ごした。参列者には紅茶と水煙草 等がふんだんにふるまわれ,係の若者がコッ プや炭火を持って客席を駆けまわっていた。

深夜12時頃,私はYに声を掛け,まだにぎや かさの続く会場を後にして大学農場に戻った。

翌日の大学農場では,前日のファラハに出 た人たちの間で,「昨日のファラハはいくら かかったか」「誰が出ていたか」という噂話 が繰り返されていた20)。私の存在は,X村住 民以外の人々からも気づかれていたようであ 20)費用についてはそれぞれ見解が異なり,第Ⅱ節でとりあげた20代未婚のKが「50,000ポンドは 下らない」と言うと,他の者(若者・既婚)が,「それはない。30,000ポンドくらいだろう。食事,

舞台,余興にそれぞれ10,000ポンドずつだ」と反論した。別の年配男性は「全体で13,000ポンド くらいだろう」と,さらに低い数字を述べていた。

2.花婿と花嫁の到着(中央奥のスーツ姿の男性が花婿。花嫁と腕を組んでいる)

3.水煙草や飲み物を楽しむ参加者たち

(17)

る。その日の夕方,私が買い物のために訪れ たマルカズ・バドルの通りを歩いていると,

大通り沿いの家具屋の中年男性に呼びとめら れ,「昨日のファラハでお前を見たよ。何し てたんだ。招待されたのか?」と咎めるよう に質問された。私は,相手の口調を意識して 少し話を誇張しつつ,「勿論,行かないわけ ないよ。近くの大学農場に泊まっているから ね」と答えた。すると「それだけで?」とな おも納得しない口ぶりであったので,私が

「昨日の花婿の父親を知っているかい。○○

おじさんだ。知り合いなんだよ」というと,

彼は「本当か!」と驚いた。今度は私が「そ ういうあんたはどうなんだ?」と尋ねると,

「おれも花婿の父親と友だちなんだ。ぜひお 茶でも飲んでいってくれ」と言い,急に柔ら かな物腰に変わった。このことは,ファラハ が人々の関係性を確認する場であり,また,

これを通じて新たに関係を広げる契機となる ことを示している。その土台となるのは,無 料で客に提供される飲食物や歌・踊りの実演 であった。こうしたもてなしは,よく現地で いわれる「おまえは客だから(enta ḍēf-nā)」 と同じ語に由来する「歓待」(ḍiyāfa)の精 神と言い換えることができるかもしれない。

一方で,ファラハの参加者もただ漫然とも てなしを受けるのではなく,その場をにぎや かにし,盛りあげる役割を担っているようで ある。数ヵ月後,X村でまた別の結婚のファ ラハが行われた(表1の9番)。花婿は大学 農場関係者で,私は彼から事前に,「今度ファ ラハをやるから来てくれ」と誘われていた。

当日の夜7時頃,私はそれまでZ農場にい て,Yの車に乗ってX村へ向かっていると ころだった。途中の一本道に差しかかったと ころで,X村の方からやってきた数台の車の 一団とすれ違った。Yに訊くと「花婿の行列 だ」と答えたので,私たちは方向転換し,行

列を追いかけることにした。一団が市内に入 る前に追いついたが,このときはまだ数台の 車が縦に並んで静かに走っているだけであっ た。一団はマルカズ・バドルで有名な写真ス タジオの前に停まった。バドル郡での結婚で は,このスタジオで花婿・花嫁の記念撮影を 行ってからファラハに行くことが多く,この ときも先客がいて,撮影を待つ間に次々に別 の2組が到着した。

X村の花婿たちが撮影を終えて出てくる と,一行は再び車に乗り込み,市内の大通り を一周した後,花嫁の家がある村(X村とは 別の村)に向かっていった。花嫁の家が近く なると,何台かの車が蛇行し,もうもうと砂 塵をまきあげはじめた。花嫁の家に着き,少 し外で待ち,再度人が乗り込んだ後,一団は 再出発し,ファラハの会場のあるX村へと 向かっていった。X村が近くなると次第に,

激しく蛇行運転し,けたたましくクラクショ ンを鳴らす車が増え,砂塵をまきあげる騒々 しい行列になってきた。車の一団はX村に 入ると,村の中ほどの空地に設営された会場 にすぐには向かわず,村の中を二,三周まわっ てから,会場に到着した。Yは「おれは二周 で十分だ」と言って,行列を離れ,近くにあ る自宅前に車を停めた。

会場に着くと,すでに楽団が壇上で演奏を はじめていて,その合間に,マイクを持った 司会がご祝儀のチップを出した人の名前を 連呼していた。私は会場でYと別れ,知己 のX村住民や大学農場関係者らと話し,舞 台を見ていた21)。食事のテントもあり,案内 役の若者が声をかけてまわっていた。私も呼 ばれたが,そのときはお腹が空いていなかっ たので「また後で」と断ったら,結局食べ損 なうことになった22)。しばらくの間写真を撮 り,舞台を眺めていたが,椅子に座る友人(X 村住民)を見つけ隣に座った。彼がご祝儀の 21)歌手は花婿の出身地であるファイユームからわざわざ呼び寄せた歌手であるという。

22)後に大学農場でこの花婿と会った時にその話をすると,残念そうな表情を浮かべた。結果的には彼 の「もてなし」を断ってしまったことになったのかもしれない。

(18)

チップをあげていたので,「自分も出したい が,いくらくらいか?」と尋ねると,「5で 十分だ」と言うので,私は5ポンド札を出し て,彼が持っていた紙切れに名前を書いて舞 台下にいる係のところへ持っていくと,係が

ノートに名前と金額を書き,次いで司会が私 の名前を連呼した。

ファラハはその後も続き,深夜12時頃に は大きなウェディング・ケーキが運ばれてき て,花婿と花嫁がそれを互いに食べさせ,グ 23)舞台上では,向かって右側に花婿と花嫁が座り,その前にビデオカメラマンが立っている。左側に は楽団が座り,立っているのが司会。参加者の席は真ん中に幕が引かれ,舞台に向かって右が女性 席,左が男性席と分けられていた。これらの位置取りは,ファラハによって異なり,とくに明確な パターンは見出されなかった[cf. 大塚1985: 287, n. 17]。

4.会場の様子23

写真5.肩車される花婿

参照

関連したドキュメント

We also describe applications of this theorem in the study of the distribution of the signs in elliptic nets and generating elliptic nets using the denominators of the

We show that a discrete fixed point theorem of Eilenberg is equivalent to the restriction of the contraction principle to the class of non-Archimedean bounded metric spaces.. We

Kilbas; Conditions of the existence of a classical solution of a Cauchy type problem for the diffusion equation with the Riemann-Liouville partial derivative, Differential Equations,

We present sufficient conditions for the existence of solutions to Neu- mann and periodic boundary-value problems for some class of quasilinear ordinary differential equations.. We

In Section 13, we discuss flagged Schur polynomials, vexillary and dominant permutations, and give a simple formula for the polynomials D w , for 312-avoiding permutations.. In

Analogs of this theorem were proved by Roitberg for nonregular elliptic boundary- value problems and for general elliptic systems of differential equations, the mod- ified scale of

It turns out that the symbol which is defined in a probabilistic way coincides with the analytic (in the sense of pseudo-differential operators) symbol for the class of Feller

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A