合なものを示すが︑前者では共存していたこと︑後者では徹底的に排除されたことを指摘した︒天皇の歴史は﹁鬼﹂が排除さ
れてきた歴史かもしれないと示すことで︑天皇制について考え
なければならないという警鐘の意味を持った作品であると考察
した︒
はじめに
野田秀樹﹃贋作・桜の森の満開の下﹄︵新潮社︑一九九二年一月︶は︑一九八九年に初演された戯曲で︑坂口安吾の小説﹁桜
の森の満開の下﹂と﹁夜長姫と耳男﹂を下敷きとして︑坂口の二作品に﹁国づくり﹂の話を盛り込んだ内容となっている︒筆者は︑二〇一八年の﹃贋作桜の森の満開の下﹄再演を観劇
している︒しかし︑そのときは言葉遊びやスピード感に圧倒さ
れ︑何が言いたいのかわからないと感じた︒なぜそう感じたの
か︒本稿ではその原因を考察し︑物語の二つの柱となる︑耳男
の﹁ものづくり﹂とオオアマの﹁国づくり﹂がどのように関係し キーワード戯曲・国家創生・神話・天皇制・鬼
要 旨
本稿は﹃贋作桜の森の満開の下﹄における﹁鬼﹂と天皇制につ
いて論じたものである︒第一章では︑本作が天皇の崩御や改元に合わせてイベント的
に上演されていることを指摘した︒また︑野田がテーマ主義の批判をしていることに触れ︑テーマをぼかすために言葉遊びが多用されていると考察した︒第二章では︑野田が原作者である坂口安吾の天皇の源流は飛騨であるという考えを踏襲しているとした上で︑本作の舞台で
あるヒダの神話が天皇の歴史として書き換えられていると考察
した︒第三章では︑ヒダの王の時代に登場する﹁鬼﹂と天武天皇の時代に登場する﹁鬼﹂を比較し︑どちらも為政者にとって不都
鈴 木 春 香 野田秀樹 ﹃ 贋作桜 の 森 の 満開 の 下 ﹄ における
﹁ 天皇 ﹂ とその 神話化 をめぐって
││鬼たちは排除される││︿
令和二年度 国文学科卒業論文優秀賞論文﹀
大ミロクを作る︒次第にその大ミロクが鬼を追い払ったと
いう噂がたつ︒タクミが作ったものにはタクミの魂が宿る
ということから︑鬼をも睨み返すミロクを作った耳男の魂
は鬼であるとされてしまう︒天武に追われる身となった耳男は姫を連れて桜の森まで逃げて行く︒その森の中で︑姫
は鬼となり︑恐ろしくなった耳男は姫を殺してしまう︒
これに対して︑﹁桜の森の満開の下﹂は︑鈴鹿峠の桜の森に住む山賊の物語である︒山賊の男はある美しい女を攫ってくる
が︑その女は︑男の女房たちを殺すように指示し︑足の悪いひ
とりのみを女中として生き延びさせた︒都に住んでからは︑女
は人の首を持ってくるよう男に命じ︑毎日﹁首遊び﹂にふける︒山へ帰る日︑女をおぶって桜の森を通っていると女は鬼になっ
ていた︒男は女を絞め殺すが︑女の姿は消えて花びらになって
いたというのが主たるあらすじである︒他方︑﹁夜長姫と耳男﹂では︑大きな耳をもつ耳男と︑夜長
の長者の娘ヒメの物語となる︒ヒメは︑奴隷のエナコに耳男の両耳を切りおとさせる︒ヒメのもとには大勢のタクミが集めら
れていて︑ミロクボサツを彫るように命じられたが︑なかでも耳男の作ったバケモノのようなミロクがヒメに気に入られる︒耳男の作ったミロクは疫病を払うと評判になる︒ところが︑疫病が落ち着くとヒメは﹁みんな死んでほしい﹂と言い出し︑怖
くなった耳男はヒメを殺してしまう︒
こうしてみると坂口の﹁桜の森の満開の下﹂は︑﹃贋作﹄では主に冒頭と最後の桜の森での場面に︑﹁夜長姫と耳男﹂はミロ
ク作りのストーリーに反映されていることが分かる︒ ているのかを考えてみたい︒さらに︑物語全体を通して登場し
つつも︑正体のはっきりとしない﹁鬼﹂の表象を分析する︒
なお︑今回の分析をするにあたり︑演出や役者の演技につい
ては触れず︑戯曲テクストのみの分析とする︒本文は︑﹃贋作桜の森の満開の下/足跡姫時代錯誤冬幽霊﹄︵新潮文庫︑二〇一八年九月︶を採用した︒
1 上演の背景
原作との比較
﹃贋作桜の森の満開の下﹄は坂口安吾の﹁桜の森の満開の下﹂︵﹃肉体﹄一九四七年六月︶と﹁夜長姫と耳男﹂︵﹃新潮﹄一九五二年六月︶を下敷きとして書かれている︒まず作品のあらすじを整理し︑大まかな差異を確認する︒
深い桜の森で︑耳男は師匠であるヒダタクミの名人を殺
してしまう︒同じ森で山賊のマナコもまた名人を殺す︒同
じくタクミに扮したオオアマも含めた三人は︑ヒダの王に命じられ︑夜長姫の一六の正月までにミロクボサツを彫る
こととなる︒実はオオアマは︑天智天皇に対して謀反を企
む弟の大海人皇子である︒完成した三体のミロクボサツの
うち耳男の作った化け物のようなミロクが姫に気に入られ
るが︑それが同時に鬼門となり︑鬼を引き入れ︑壬申の乱
のきっかけとなってしまう︒第二幕に入り︑壬申の乱が明
けた世では︑一幕で鬼とされていた人々は人として暮らし
ている︒ヒダの王家の人々は牢に入れられ︑姫は天武天皇
の妃となった︒耳男は天皇に命じられ︑ヒメの顔を彫った
あり︑昭和天皇の崩御が同年の一月七日である︒天皇の吐血が前年九月一九日に報じられると︑以下のような事態が起きた︒
翌年二月下旬の葬儀までの約五ヶ月間︑日本各地で各種の行事・催し物などが中止されたり変更される事例が多発し
た︒このような中止・変更措置は主催者らが天皇の病状回復を願ったり哀悼の意を表すための自発的な行為とされ︑
﹁自粛﹂と呼ばれた
︒ 1
この作品は﹁自粛﹂の期間に上演されていることがわかる︒天皇制の問題を含む本作品を上演するのは挑発的とも取れる時期である︒ここで︑野田秀樹は︑天皇の容体が危ぶまれるよう
になった時期に︑この作品の構想を練り始めたのではないか︑
という疑問が浮かぶ︒このことについて野田秀樹は︑﹁贋作・桜の森の満開の下﹂の﹁劇誌﹂と名付けたノートに︑
あまりに今回の作品とのタイミングが良くて︑︵略︶予期
していたことではあるが︑劇中の崩御とかミカドといった
コトバがぐっと重きをなしてくる︒客がドキッとしたりも
するだろうし︑なにか︑これまで上演していたような︑客
の心のひっかけ方ではないだろう︒
と記している
︒ 2
また︑二〇一六年六月には天皇が生前退位について﹁お気持
ち表明﹂を行い︑一七年一二月には二〇一九年四月三〇日が退位日と決められた︒二〇一八年の再再々演に関しても︑平成か
ら令和へと変わるタイミングを狙って公演を打ったのではない
だろうか︒野田は︑当公演公式サイトで︑﹁イントロダクション﹂
として次のようにコメントしている︒ ﹃贋作﹄は主に耳男のミロク制作という﹁ものづくり﹂と︑オ
オアマの﹁国づくり﹂が軸となっており︑坂口の二作品との大
きな差は︑国づくりと天皇制の問題が含まれていることであ
る︒例えば︑﹃贋作﹄において天武天皇となるオオアマは坂口
の作品には登場せず︑戦争や反乱の話も登場しない︒野田秀樹
が意図して国づくり︑天皇制について盛り込んでいるのであ
る︒
イベントとしての上演次に︑この作品が書かれ︑上演された時期と内容との関係を考察する︒この作品の上演記録は次の通りである︒初演 劇団夢の遊眠社第三七回公演東京 一九八九年二月一一日〜二八日 京都 同年三月三日〜八日再演 劇団夢の遊眠社第四二回公演東京 一九九二年一月二〇日〜二月九日 大阪 同年二月一三日〜三月一日再々演 新国立劇場主催公演 東京 二〇〇一年六月一日〜三〇日再々演 野田地図第二二回公演 東京 二〇一八年九月一日〜一二日︑一一月三日〜二五日大阪 同年一〇月一三日〜二一日 北九州 同年一〇月二五日〜二九日 パリ 同年九月二八日〜一〇月
﹃贋作桜の森の満開の下﹄の初演は一九八九年二月一一日で
な意味しか持たない﹁性質表明﹂︑一見無関係なイメージを無理やりつなげる﹁生成﹂︑﹁中心となる謎﹂の四つに分けて論じ
ている
︒ 4
﹃贋作桜の森の満開の下﹄において︑﹁無関係﹂は︑オオアマ
が謀反の計画を話した場面で︑自分が天皇となったのちに皇后
になって欲しいというオオアマとそれを拒否する早寝姫の会話
で見られる︒早寝姫 勝利のあかつきなんて興味がない︒
オオアマ どうして︒早寝姫 どうせ︑あかつきは眠っているもの︒︵
54頁︶ また︑﹁性質表明﹂は︑夜長姫 見つけたものだけが遊べる︑古代のゆーえんち︒耳男 遊園地?夜長姫 いいえ︑古代の所以地︒古に所以のある︑訳あり
の遊園地︒︵
61頁︶
という︑鬼たちが﹁クニヅクリの神話﹂を再現する場面の直前の会話で見られる︒﹁中心となる謎﹂はそれぞれの物語の中心となる暗号のようなものであり︑﹃贋作桜の森の満開の下﹄
では︑次のような﹁クニヅクリの神話﹂の一節が当てはまると考えられる︒
カニ︑クニを見てヒニ︑ネニ持つ夢︑オニ︑マニうけてム
ニシニました︒︵
66頁︶
そして︑﹁生成﹂が︑物語を進める役割を持つ︒内田洋一は次のように述べている︒
﹁缶蹴り﹂が﹁官蹴り﹂ないし﹁冠蹴り﹂になり︑ジイドの﹁狭 昭和が終わり︑平成が始まった平成元年に︑この作品は初演された︒そして奇しくも︑平成が終わろうとする平成三〇年にまた上演される
野田は︑この作品を天皇の崩御︑即位と重なる時期に上演す ︒ 3
ることで一種のイベントのようにして上演しているのではない
だろうか︒そうした出来事と合わせて上演し︑より観客の興味
や関心を惹くことを狙ったと思われる︒野田はあえて世間の注目が天皇などの話題に集まる時期にこ
の作品を上演していることがわかった︒しかし︑私自身が観劇
した際には︑天皇の話題やものづくりの話が出ていることはわ
かったが︑結局何が言いたいのかという確信が掴めなかった︒
せっかく注目される時期に上演していながらテーマがぼやけて
いるように感じられる理由は何であろうか︒次の節では︑その理由を言葉遊びに注目して考えたい︒
言葉遊びの効果次のように︑セリフに言葉遊びが多く使われるのは野田秀樹
の作品の特徴である︒王 ヒメ達が気に入ったミロクを造れば︑そのオレイに︑
このキレイなドレイをやろう︒耳男 オレイにドレイとはキレイとはいえブレイ︒ (文庫版 26頁︑以下同じ︶
﹃ゼンダ城の虜〜苔むす僕らが嬰児の夜﹄と﹃オイル﹄に関し
て︑野田の言葉遊びを論じた先行研究では︑野田の言葉遊びの
パターンをストーリーとの関連性において︑﹁無関係﹂︑字面的
はなぜかという問題からも推測される︒﹁贋作﹂は﹁がんさく﹂
と読むのが普通である︒﹁がんさく﹂には特定の作品の偽物を作るという意味があり︑坂口の二作品の偽物を作るという意味
だと捉えられる︒しかしそれと同時に︑天皇の国づくりの物語
が﹁偽物﹂かもしれないという警鐘を含んだ意味合いを持たせ
たかったのではないだろうか︒そのため︑あえて﹁がんさく﹂
ではなく﹁にせさく﹂と読ませ︑坂口の﹁がんさく﹂であり︑天皇の物語は﹁にせもの﹂かもしれないという二重の意味を持た
せたのだろう︒天皇の崩御により︑国民の関心が高まる中で︑天皇の国づくりの物語が﹁偽物﹂かもしれないと発表すること
には︑強い皮肉が込められている︒日本人が幼い頃から聞いて
きた﹁古事記﹂︑﹁日本書紀﹂などの国づくり神話︑万世一系で
あるという神話は本当だろうかという問いかけをしたかったの
だろう︒以上をまとめると︑野田は天皇制の話題を扱ったこの作品
を︑天皇が注目される時期に合わせてイベント的に上演してい
ることがわかった︒その目的は︑観客の興味関心を引くためで
ある︒しかし︑言葉遊びを多用することによって︑﹁天皇制の話を扱っている﹂ということはわかっても︑野田本人の主張が
はっきりと示されることはなく︑観客への問いの投げかけにと
どまる︒私自身が観劇した際に感じた︑スピード感に圧倒され︑何を言いたいのかわからないということの原因はここにあった
のだと思う︒言葉遊びによってコロコロと話題が変わることで
スピード感が生まれるが︑その分︑観客にはテーマがぼやけて感じられるのである︒ き門﹂がフランス語の﹁セマ・キモーン﹂︵私の鬼門︶ある
いは﹁狭鬼門﹂の連想となり︑そのようにして言葉遊びが
ドラマの展開そのものとなるのは野田作品ならではだ
︒ 5
では︑物語を進めるにあたり余計な言葉遊びが入っているの
はなぜか︒それは︑言葉遊びによって︑話をあえて脱線させる狙いがあるからではないだろうか︒言葉遊びによって話題が次々に変化することで︑観客が物語のテーマを感じ取りにくく
し︑核心から注意を逸らす働きがあると考える︒野田は︑劇作家の松尾スズキとの対談の中で︑次のように話している︒
じゃあ︑今度の芝居のテーマは︑なんて愚鈍なインタ
ヴューをいきなりされると︑いやーな気分になるよね︒一言で言えるくらいなら芝居なんかしないって
︒ 6
さらに︑宗教学者の中沢新一との対談でも︑野田は次のよう
に述べている︒
俺はテーマを言われると︑そこはいつもクリアじゃないか
ら︑俺はテーマ主義ではないという答え方しかしないんだ
よね︒演劇だからそれが許されているのかもしれないけ
ど︒テーマ主義をやるんだったら︑俺は演劇やってねえか
らとしか言いようがない︒思想とかに行ってるだろうと
︒ 7
この︑テーマ主義の批判から考えると︑野田は天皇制を批判
する︑または賛同するなどといったわかりやすい主張をするの
ではなく︑人々に問題提起をしたいのだと考える︒そのために連想ゲームのような言葉遊びによって滑らかに違う話題に移
り︑テーマが﹁クリアじゃない﹂と感じさせたいのであろう︒
このことは︑タイトルの﹁贋作﹂を﹁にせさく﹂と読ませるの
つまり︑飛騨の両面スクナと言われる人物の歴史が人物を変
えて各土地に分配され︑天皇家の長い歴史とされたということ
である︒坂口によれば︑天武以前の天皇は飛騨の人物であり︑
その人物に対するクーデターの歴史を隠すために都合よく編纂
されたものが﹁古事記﹂や﹁日本書紀﹂であるということだ︒
﹁夜長姫と耳男﹂の中には天皇に関する記述はなく︑坂口が天皇制の問題と直接的に絡めて物語の舞台を飛騨に設定したか
は定かではない︒しかし︑野田が本作を戯曲化する際に天皇制
の問題を取り上げたのは︑飛騨が天皇の歴史において重要な土地であるという坂口の考えがベースにあったからではないだろ
うか︒このことは︑内田が﹃贋作﹄について
﹃安吾新日本地理﹄などに見られる独自の日本古代史︑と
りわけ飛驒王朝伝説を取り込んだ作品である︒
と述べるように既に先行研究でも指摘されている
︒ 10
では︑具体的にどう取り込まれているのか︒飛騨の王朝が天皇に滅ぼされたという坂口の主張と同じく︑﹃贋作﹄において
も︑ヒダの王が天武天皇によって牢に入れられ︑ヒダの国自体
が新しい国に吸収されてしまう︒また︑オオアマは国づくりの方法を知るために﹁王家の嫡流であるヒダのクンダリまで︑で
むいてきた﹂︵
47頁︶と︑はっきりとヒダの王家が天皇家の家系
であると示されている︒以上のことから︑物語の舞台であるヒダは天皇の嫡流とさ
れ︑天皇制と深い関わりがあることがわかる︒それは︑天皇の歴史は元を辿ると飛騨の歴史であるという坂口の考えが元と
なっている︒ 2 ヒダと天皇制
坂口安吾の天皇史観
ここでは︑作品の舞台である飛騨に焦点を当て︑飛騨と天皇制の関係を分析する︒
この物語が展開されている飛騨という場所の設定は﹁夜長姫
と耳男﹂を踏襲したものであり︑坂口が設定したものである︒早川は次のように述べている︒
特に﹁飛騨・高山の抹殺︱中部の巻﹂は飛騨が古代史にお
いて本当は重要な場所であったという説が展開されている
ことから︑小説﹁夜長姫と耳男﹂も天皇制の問題と関連づ
けられて論じられる傾向があっ
8
た坂口は︑﹃安吾新日本地理﹄の﹁飛驒・高山の抹殺﹂で︑飛騨
の地形と﹁古事記﹂・﹁日本書紀﹂に登場する土地を照らし合わ
せ︑壬申の乱は美濃ではなく︑飛騨であったであろうというこ
とを述べている︒また︑飛騨には日本の主として伝わる︑顔が二つ︑手足が四本ある両面スクナという怪人物が存在してい
た︒その人物の伝承を日本武尊︑大友皇子の歴史と照らし合わ
せると︑重なるところが多いということも述べている︒それら
を踏まえ︑﹁古事記﹂︑﹁日本書紀﹂の記述は︑次のようなもの
だと述べている︒
神話も天皇紀も︑ダブりにダブらせて︑その重大なことを︑
あの神様︑あの天皇︑あの悪漢にと分散してかこつけて︑
くりかえし︑くりかえし︑手を代え︑品を代えて多くの時代の多くの人物にシンボライズした
︒ 9
うけてムニシニました︒︵
65頁︶
これをオオアマが聞き︑﹃クニ︑チニさかえるあけぼのに﹄
と書きたし︑クニヅクリの回転を速めると︑カニたちのメリー
ゴーランドは激しく回り始める︒耳男 カニの速度が速まった︒
オオアマ まん中にクニの王冠︒ マナコ 境界線にはカニがしがみつき︒鬼たち クニの外にオニ︑ふきとばされる︒うわっ‼
︵
66頁︶
このように︑﹁狭鬼門﹂には︑鬼を国の外に追いやり︑境界線を定めることで国づくりができると記されている︒つまり︑
﹁ハウ・トゥー・かんけり﹂と﹁狭鬼門﹂には謀反を起こして王位を奪うところから︑国の広げ方まで︑国づくりについて書か
れていることになる︒
また︑これらの書物をヒダの王が持っていたことを踏まえる
と︑書かれている内容はヒダに伝わる歴史や神話であると考え
られる︒それをオオアマが奪い︑書き換えるということは︑坂口の主張する︑﹁古事記﹂や﹁日本書紀﹂は飛騨の歴史が手を代
え︑品を代えて多くの時代の多くの人物にシンボライズされた
ものだということと重なる︒
奪われるヒダの光次に︑﹁ハウ・トゥー・かんけり﹂と﹁狭鬼門﹂をオオアマに渡し︑そのオオアマによって殺される早寝姫に注目したい︒オ
オアマに恋をし︑殺されてしまうこの姫の死はどのような意味 書き換えられるヒダの神話
その上で︑本作における﹁古事記﹂︑﹁日本書紀﹂の扱いにつ
いて考える︒のちに﹁古事記﹂︑﹁日本書紀﹂となる﹁ハウ・
トゥー・かんけり﹂と﹁狭鬼門﹂は︑ヒダの王が持っていた書物で︑オオアマに頼まれた早寝姫がオオアマに渡すものであ
る︒﹁ハウ・トゥー・かんけり﹂は︑オオアマに書き換えられて﹁古事記﹂となる︒王冠を缶蹴りの缶に見立てて︑缶が蹴られるこ
とは謀反を表し︑缶が倒れている間は王の不在︑国の混乱を意味している︒オオアマはこの缶蹴りの仕方︑つまり謀反の起こ
し方を知りたかったのである︒
﹁狭鬼門﹂もオオアマに書き換えられ︑﹁日本書紀﹂となる書物である︒オオアマのセリフでは﹁予告された殺人の記録﹂︑﹁孤独が百年ぶん詰まっているような悪書﹂とされ︑その内容は﹁ク
ニヅクリの神話﹂である︒
メリーゴーランドのように王冠の周りを回るカニたちが現
れる︒︵略︶カニの中に謎のカニがいる︒マナコである︒
︵
64頁︶ というように︑マナコが俗物を表すカニを演じ︑夜長姫が耳男に教える形でその神話が再現される場面がある︒謎のカニ カニはクニを見ながら︑クニに憧れ︑クニを一周して︑クニの輪郭線ができたのです︒耳男 クニヅクリというのはカニのおかげなのか︒謎のカニ カニのおかげです︒夜長姫 カニ︑クニを見てヒニ︑ネニ持つ夢︒オニ︑マニ
歴史上から抹殺されてしまうことを示すことがわかった︒
しかし︑坂口が飛騨に天皇家のルーツがあったことを主張す
るように︑この物語のヒダも歴史から抹殺されたままにはなら
ないことが伺える場面がある︒天武天皇によって鬼とされた耳男が逃げている場面で︑マナコが耳男にかける次のような言葉
がある︒ ころがるところまで︑ころがっていけ︒じきにはねかえっ
たら︑歴史の花道に返り咲かあ︒耳男︑ヒダと共に消えた来世で会おう︒︵
歴史の花道に返り咲くということは︑後世において︑奪われ 127頁︶
たヒダの歴史が正しく認識され直されるということだと推察で
きる︒耳男が夜長姫を殺してしまった後︑桜の森で鬼女にかけ
られる﹁森に迷いこんだ王家の夢が帰り道を捜しました﹂︵
131
頁︶という言葉もヒダの王家の歴史が︑天皇の歴史に呑み込ま
れたままではなく︑いずれヒダの歴史として認められる日が来
ることが示唆されているのである︒
3 国づくりと鬼
ものづくりと国づくり
ここでは︑まず耳男の﹁ものづくり﹂に注目して︑それが﹁国
づくり﹂のストーリーとどのように関係していくのかを考えた
い︒さらに︑タクミである耳男がなぜ鬼とされてしまうのか︑他に登場する鬼たちは一体何を表しているのかを考察する︒耳男は︑ヒダの王に頼まれたミロク製作の際に︑とても異様
な方法をとっている︒ を持つのだろうか︒早寝姫は︑坂口の二作品には登場しない︑野田秀樹のオリジ
ナルの登場人物である︒夜長姫の妹として描かれ︑﹁明けの明星を見つけるまで妹の番人︑まんじりともせず朝のひばりに︑
まぶたが重くなる﹂姉の夜長姫に対し︑妹の早寝姫は﹁宵の明星を見つけると︑すっかり眠りこけ﹂︵
24頁︶る︒夜のイメージ
を持つ夜長姫の対になる人物として書かれていることがわか
る︒さらに︑早寝姫が死んだときに王は次のように言う︒
太陽が死んだ⁝⁝ヒメからはいつも光の洪水が溢れ出して
いたのに︒︵
以上のことから早寝姫は太陽の象徴のような姫だと捉えるこ 69頁︶
とができる︒
では︑太陽の象徴である姫がオオアマに殺されるとはどうい
うことか︒それは︑ヒダから太陽を奪うことであり︑光を奪う
ことになるだろう︒光の当たる﹁歴史の花道﹂︵
127頁︶から外れ
てしまうことを示していると考えられる︒そして太陽を失った
ヒダは︑第二幕第三場﹁落日のヒダの王家﹂のタイトル通り︑王の権力を剥奪され︑天武の作る新しい国に吸収されることと
なる︒以上をまとめると︑﹁古事記﹂︑﹁日本書紀﹂の元となった﹁ハ
ウ・トゥー・かんけり﹂と﹁狭鬼門﹂はヒダの歴史が記された
ものであり︑それは飛騨が天皇家のルーツであるとする坂口の考え方が反映されたものだと考えられる︒さらに︑オオアマが
ヒダの太陽たる早寝姫を騙して二冊の書物を奪い︑その姫を殺
すということは︑天皇によってヒダの光が奪われ︑光の当たる
て耳男が鬼だとされてしまう理由も同じである︒
しかし︑﹃贋作﹄ではこの設定にもう一つの意味がかけられ
ているのではないだろうか︒それは︑国づくりとものづくりの共通点を示すことである︒鬼たちを殺し︑ヒダを吸収して国が大きくなっていくように︑蛇を殺し︑その血を吸ったミロクが立派な作品になる︒実際に耳男がそうして作った﹁化け物のよ
うなミロク﹂は夜長姫に気に入られ︑﹁鬼門﹂となって戦が始ま
るきっかけを作ることとなる︒野田は︑中沢新一との対談で次
のように語っている︒
結局鬼を見つけるのは夜長姫という鬼女なんだね︒その姫
が見つけることで︑鬼ができて殺されていく︒その瞬間を耳男という飛騨の芸術家も見るんだけど︑彼は彼女に最後
についていけなくなるわけ︒彼女は︑そういう大虐殺まで
も見て︑ものを創れというわけね︒︵略︶大虐殺を肯定す
るのかという話になるんだけどさ︵笑︶︒でも︑それはあ
る部分でものを創るときの真実じゃない︒それを直視でき
なければ︑ものは創れないわけだし
︒ 11
これは︑作品終盤で鬼たちが次々に殺されていく場面につい
て語ったものであるが︑﹁ものを創る﹂には犠牲が必要で︑そ
れを直視しなければならないということであり︑このことを蛇
を殺すことに置き換えて表現されたのが︑耳男のミロク作りの場面であると考える︒
さらに︑それを証明するかのように︑二幕で耳男が作った大仏は﹁失敗﹂であるとされている︒大仏には夜長姫の笑顔を﹁呪
いながら願う﹂ための蛇の血を吸わせていなかったからであ ゴマの代わりに松脂を燻し︑土ふまずに火を当て焼いた︒
そして水を浴びてもひるんでしまいそうな夜には蛇をと
り︑ひっさいて生き血をしぼり︑一息にあおって残る血を︑作りかけの像にしたたらせた︒押されてなるものか︑生き血を吸え︑そしてヒメの十六の正月に︑イノチが宿って化
け物になれ︒︵
46頁︶
とあるように︑耳男の仕事場は︑﹁天井から無数の蛇が吊る
されている﹂状態である︒これは︑ヒダのタクミの習慣ではな
く︑耳男の小屋だけのことであり︑耳を切り落とすことを命じ
るような残虐な姫に怯まぬよう︑心を奮い起こすためにそうし
ているのである︒プレテクストの﹁夜長姫と耳男﹂にも次のよ
うな文がある︒
吊るした蛇がいっせいに襲いかかってくるような幻を見
ると︑オレはかえって力がわいた︒蛇の怨霊がオレにこ
もって︑オレが蛇の化身となって生まれ変わった気がした
からだ︒そして︑こうしなければ︑オレは仕事を続けるこ
とができなかったのだ︒
オレはヒメの笑顔を押し返すほど力のこもったモノノケ
の姿を造りだす自信がなかったのだ︒オレの力だけでは足
りないことをさとっていた︒
この表現から︑﹁イノチが宿って化け物になれ﹂と念じ︑ミ
ロクを彫っていた﹃贋作﹄の耳男はプレテクストの踏襲である
といえるだろう︒殺したものの怨霊がタクミに宿り︑その作品
にも現れるということである︒﹁オニをもにらみかえすこのミ
ロクをつくったお前の魂は鬼だな﹂︵
113頁︶と︑﹃贋作﹄におい
人物設定から分析していく︒耳男は︑﹁夜長姫と耳男﹂においても︑﹃贋作﹄においても大
きな耳を持つが︑両作品で奴隷のエナコに両耳とも切り落とさ
れる︒耳男という名前は﹁夜長姫と耳男﹂で坂口がつけたもの
であり︑野田のオリジナルではない︒なぜ坂口は︑大きな耳を持つ人物として設定し︑耳男という名前をつけたのか︑野田が耳男という名前をそのまま使った理由も含めて考えたい︒
まず︑耳という器官の特徴を考えると︑自ら情報を選んで得
ることも︑拒絶することもない受動的な器官だということがで
きる︒特に野田はそれを意識して耳男という名前を使ったと思
われる︒桜の森での耳男のセリフに︑次のような部分がある︒
目をつぶって︑何かを叫んで逃げたくなる︒けれど目はつ
ぶれても耳はつぶれない︒まぶたはあるけど︑耳ぶたはな
いから︒耳たぶはあるけど︑耳ぶたはないから︑それで桜
の粉と一緒に耳から何かが入ってくる︒︵
15頁︶
また︑エナコに二つ目の耳を切り落とされた時には︑
目は口ほどにものを言うけれど︑耳は無口なまでに︑もの
を言いません︒目は物欲しげになりますが︑耳には欲望が
ありません︒耳は︑なにものをも拒まずに︑森羅万象ひき
うけて痛く苦しくとも︑じいっと︑かたつむりの貝殻の中
で動かずにいる⁝⁝︵
45頁︶
というセリフもある︒
これらのセリフは︑耳は拒絶できない器官であるということ
を強調しているものであり︑耳男の人物像を示すものだと考え
ることができる︒例えば︑耳男は作品冒頭で師匠である赤名人 る︒﹁オレは︑何か約束を忘れている気がする﹂と考える耳男
に姫は﹁すぐにも蛇をとっておいで﹂︵ともに
姫を殺してしまう︒そして姫の最後のセリフがこれまでのこと 身となったことでそれが叶わず︑逃げ惑う中で結果的に耳男は 朝にとりに行こうとする二人だが︑耳男が鬼とされ︑追われる 106頁︶と言う︒翌
を総括するものとなっている︒
いいの︒好きなものは︑呪うか殺すか争うかしなければな
らないのよ︒お前の大きなミロクがダメだったのも︑その
せいだし︑お前のバケモノが︑すばらしかったのも︑その
ためなのよ︒ねえもしも︑また新しく︑なにかを作ろうと思うのなら︑いつも︑落ちてきそうな広くて青い空をつる
して︑いま私を殺したように︑耳男︑立派な仕事をして
⁝⁝︵
129頁︶
つまり︑ものづくりには呪いや願いといった強い思いや︑そ
のための犠牲が必要であり︑それらを﹁吸わせる﹂ようにして作ったものは職人の魂が宿って立派な作品となるのである︒
そして天武がそうしたように︑国づくりにおいては鬼を殺
し︑他の国を吸収していくという犠牲が必要なのである︒この︑蛇を殺して生き血を吸わせるくだりからは︑ものづくりが魂を乗り移らせるような作業だということだけではなく︑国づくり
との共通点も表現されていると考える︒
鬼にされる耳男
ではなぜ︑職人として立派な作品を作るような耳男が鬼とさ
れてしまうのかを考える︒まず︑耳男という人物の持つ特徴や
う為政者と鬼がいてはじめて国が成り立つのではないだろう
か︒鬼狩りから逃れるマナコと耳男の次の会話も︑それを表し
ている︒
マナコ カニは︑さいごにこう考えた︒ゼニがなくちゃ︑
ナニもできねえ︒けれど︑クニなくしては︑ゼニもない︒
だけどやっぱり︑オニなくして︑クニはない︒耳男 つまり?
マナコ オニの息吹のかかるところがないと︑この世は駄目な気がする︒︵
119頁︶
また︑天武天皇の国づくりは耳男を鬼としなくても︑ヒダの人々を鬼とするだけで成立するはずであるが︑なぜ耳男まで鬼
とされてしまうのだろうか︒耳男は第二幕においてタクミとし
てミロクをつくったのち︑天武天皇によって鬼とされる︒﹁も
のづくりと国づくり﹂でも述べたように︑﹁オニをもにらみか
えすこのミロクをつくったお前の魂は鬼だ﹂︵
113頁︶という理由
からである︒内田は耳男に関して︑
国家や権力の前ではとりあえず無力だが︑その作品の力に
よって民衆に対して大いなる力を持ち︑しまいには﹁鬼﹂
として攻撃される
︒ 12
と述べている︒優れたタクミだからこそ︑民衆を動かす力を意図せずに持ってしまった耳男は︑天武天皇をはじめとする為政者側にとって邪魔になり︑﹁鬼﹂とされてしまうのである︒こ
れは︑耳男に代表される﹁民衆に対して大いなる力を持﹂つ︑
ものの作り手が国づくりにおいて鬼とされる意味だと捉えるこ
ともできるだろう︒ を誤って殺してしまい︑すぐに登場してきたヒダの人々が耳男
を名人だと勘違いしたことによって名人だと名乗り始める︒そ
の直後の場面では︑山賊のマナコが自分の意思で青名人を殺
し︑名人になり代わって行動していく︒二人を比較すると耳男
が成り行きに流されて行動していることがはっきりとわかる︒
さらに︑天武 ︵まだ逃げていない耳男に向かって︶耳男が!逃げ
たぞ!鬼が!逃げたぞ!
そのコトバに震えおののき︑逃げていく耳男︒丑寅の方角へ逃げてしまう︒︵
116頁︶
という一節もある︒耳男はまだ逃げていないのにも関わら
ず︑天武によって鬼とされ︑されるがまま抵抗できずに逃げて
しまい︑鬼とされてしまっているのである︒
このように︑耳が拒絶出来ない器官であることと重ねられ︑流れに流されてしまうという耳男の性格が表されていることが
わかる︒
さらに︑耳という漢字から考えると︑耳は古代の日本におい
て神格を表す尊称とされ︑皇室の名前にも見られる漢字であ
る︒例えば︑神武天皇の子の手研耳命︑神八井耳命などである︒
つまり神武天皇が開いた日本という国の国づくりに関わる人々
についている名前だと捉えることができる︒では︑その漢字が天皇ではなく︑鬼として天皇に追われる立場の男につけられて
いるということはどういうことか︒それは︑国づくりにおいて︑犠牲となる鬼が︑鬼を追う天皇と同じくらいに必要不可欠なも
のであるという意味があるのではないかと推測する︒天皇とい
る︒
エンマ 見えないわけじゃないんだ︑無視してるだけなん だ︒仕事の赤鬼 人は鬼々たちのこと︑見えてるのか︒仕事の青鬼 見えていて無視してるわけだ︒︵
29頁︶
このように︑ヒダの王の時代の鬼は︑人々には見えないが︑
﹁実は見えていて無視﹂されている存在である︒﹁ヨミのクニ﹂
に行くことや︑死んだ赤名人︑青名人が鬼と呼ばれていること
を考えると︑鬼とは死んだものを表すようにも思える︒しかし︑
この鬼たちはオオアマの謀反に加担し︑その後︑人として暮ら
す場面がある︒死んだ人が鬼と呼ばれるのであれば︑死人が生
き返って人になったことになってしまうだろう︒
ハンニャ ︵略︶この耳だって人間界から切り離されたの
をきっかけに鬼になれるんだって︒
エンマ 耳鬼か︒仕事の赤鬼 確かにこの耳の境遇︑オレたちに似てる︒仕事の青鬼 出るなり切り捨てられて︑物語の外にポイ
だ︒︵
30頁︶
というように︑鬼たちが︑耳男から切り離された耳に自分た
ちの境遇を重ねる場面や︑
オオアマ この辺りには鬼たちが出入りする鬼門があると
いいます︒
エンマ ︵ギョッとして︶今︑物語の中に︑俺たちがでて
こなかったか?
ハンニャ ハンニャ︑物語の中に社会復帰できるかもしれ 排除される鬼前節で︑国づくりには鬼が必要不可欠であるということを述
べた︒耳男はその優れた技術によって天皇の邪魔となったため
に鬼とされるが︑他に登場する鬼たちは一体何を表しているの
だろうか︒
プレテクストの﹁桜の森の満開の下﹂には鬼女が一人登場す
るが︑もう一つの﹁夜長姫と耳男﹂には一人も登場しない︒原作の鬼女が投影された夜長姫は︑桜の森で鬼に変貌し︑耳男に殺されてしまうが︑これは原作を踏襲した流れであることがわ
かる︒この作品には︑前述の耳男の他にも多くの﹁鬼﹂と呼ば
れる人々が登場する︒しかしながら︑人の目に見える鬼︑見え
ない鬼など一言に鬼と言っても意味合いが違うことがわかる︒
﹁鬼﹂と呼ばれる登場人物たちを一度整理する︒登場順に︑鬼女たち︑エンマ︑ハンニャ︑仕事の赤鬼︑仕事の青鬼︑耳鬼︑耳男︑ヒダの王国の人々︑そして夜長姫である︒ここでは︑国
が滅びる︑またはつくられるタイミングで人から鬼になった
り︑鬼から人になったりするエンマ︑ハンニャ︑仕事の赤鬼︑仕事の青鬼の四人に焦点を当てて鬼とは何かを考えたい︒
エンマ︑ハンニャ︑仕事の赤鬼︑仕事の青鬼は人には見えな
い︑﹁ヨミのクニ﹂の世界の鬼たちである︒エンマとハンニャ
は赤名人︑青名人が死んだ時に﹁ヨミのクニ﹂に引き入れて仕事の赤鬼︑仕事の青鬼とした︒また︑耳男の耳が切り落とされ
た時には︑その耳を引き入れて耳鬼とする場面もある︒
ハンニャのセリフに︑﹁鬼と二の腕の贅肉は︑目に見えぬこ
そよかれ﹂というものがある︒さらに次のような会話も見られ
るのだろうか︒それは︑王や政権といった権力者に対して反対
する人々の反乱とその成功を表すのではないかと推察する︒
﹁人になる﹂ということは人間らしい生活を手に入れることを表しているのだろう︒
そして物語の終盤︑天武天皇が耳男やヒダの王家の人々を鬼
として鬼狩りを始めると︑ハンニャロとアカマロは天武ととも
に鬼狩りをし︑エンマロとアオマロは鬼として追われる立場に
なる︒ わたしは鬼など欲しくない︒けれども誰もが鬼を欲しが
る︒指をさす鬼を欲しがる︒︵
113頁︶
この天武のセリフから︑この場合の鬼は︑天武によって意図的に鬼とされ︑迫害される人々を表していることがわかる︒天武は︑自分が壬申の乱で鬼を引き連れて反乱を起こしたよう
に︑権力に刃向かう危険分子となり得る鬼は欲しくない︒しか
し天武天皇の国の民衆自体が自分たちより低い身分の︑攻撃す
る対象を欲していると喝破する︒
さらには天武天皇は︑鬼が目に見えないように︑誰が自分に歯向かうかわからない不安に脅えていたという一節がある︒
ハンニャロ 近頃のミカドは︑わが王冠がいつ蹴られるか
と︑すっかり脅えていらっしゃる︒
ヘンナコ 誰が蹴るの?天武 オニだよ︒
ヘンナコ オニ︑見えなくなったんでしょう?天武 オニというな!オニと呼ぶからオニが生まれる︒今後は︑オの字もニの字も使ってはならぬ︒︵
109頁︶ ない︒︵
37頁︶
というように︑﹁鬼﹂という単語が登場すると﹁物語の中に社会復帰﹂することを期待する鬼たちのくだりがある︒この会話
から︑鬼とは﹁物語﹂の中に入れていない︑排除されている存在であることがわかる︒この﹁物語﹂という言葉は︑﹃贋作桜の森の満開の下﹄という物語を指すのと同時に︑第二幕における天武の次のセリフと対応していると考えられる︒
オレから逃げれば︑逃げたぶんだけこのミカドの物語か
ら逃げれば逃げたところまでがミカドのクニとなる︒二千年逃げつづければ︑その二千年先まで︑このミカドの物語
が届きうるクニとなるのだ︒︵
123頁︶
つまり︑﹁物語﹂とはその国の支配の及ぶ範囲であり︑後世
に伝えられていく歴史のことだと考えられる︒ヒダの﹁物語﹂
に入れない鬼たちは︑切り離された耳が﹁物語の外にポイ﹂と放り出されるのと同様に︑ヒダの歴史という﹁物語﹂に登場し
ない方が都合の良い存在なのではないだろうか︒﹁ヨミのクニ﹂
は死んだものがいくところであると同時に︑﹁物語﹂というヒ
ダの歴史から追い出されたものたちが辿り着く世界なのであろ
う︒
しかし︑﹁カンがころがっている間は︑クニとカニとオニの見分けがつかなくなる﹂︵
68頁︶からと︑オオアマの謀反のどさ
くさに紛れて鬼たちは﹁社会復帰﹂を試みる︒﹁人になりすま﹂
して謀反に加担し︑天武天皇の時代になると︑それぞれエンマ
ロ︑ハンニャロ︑アカマロ︑アオマロとなり︑人として生活す
るのである︒鬼が人になるということにはどのような意味があ
王の時代﹂︵
124頁︶と言われるのは︑鬼たちも鬼だからと攻撃さ
れずに暮らせていたからではないだろうか︒
しかし︑天武天皇は不都合なことは国から排除すると宣言す
るのである︒国にとって不都合な人は﹁物語﹂から排除される
だけではなく︑攻撃される対象となり︑国民となることが許さ
れなかったのである︒
これは︑言い換えれば天皇に対して反乱を起こす危険のある人や︑異を唱える人を許さないということだと推察される︒こ
こで︑次の会話を思い返したい︒
マナコ カニは︑さいごにこう考えた︒ゼニがなくちゃ︑
ナニもできねえ︒けれど︑クニなくしては︑ゼニもない︒
だけどやっぱり︑オニなくして︑クニはない︒耳男 つまり?
マナコ オニの息吹のかかるところがないと︑この世は駄目な気がする︒︵
天皇という為政者にとって不都合な人も存在していないと 119頁︶
﹁この世は駄目﹂ということになる︒しかし︑﹁駄目な気がする﹂
とされるだけで︑鬼がいなくなった世は描かれず︑なぜ駄目な
のか︑そもそも本当に駄目なのかということははっきりとしな
い︒先に一章で︑野田は天皇制に対して賛成や反対など明確な自身の主張を出さず︑観客へ問題提起をしたいのだろうと述べ
た︒ここでも︑鬼を受け入れず︑排除していく天皇を描くだけ
である︒ヒダの神話が書き換えられたこと︑ヒダの太陽が殺されたこ
と︑それによって国自体が吸収され︑天皇の作る国からヒダの しかし︑耳男を鬼として︑自ら鬼を作り出すと﹁今日の鬼は恐くない︒目に見えるから﹂︵
119頁︶と余裕を見せるのである︒
また︑天武天皇はヒダの王家から奪った﹁狭鬼門﹂に書かれ
た方法で国づくりをしようとしていることも伺える︒﹁クニヅ
クリの神話﹂には︑国の輪郭ができた後︑クニヅクリの回転が速められ︑﹁クニの外にオニ︑ふきとばされる﹂とある︒天武
は﹁クニヅクリの神話﹂にのっとり︑鬼を遠くまで逃すことで
その先が国の輪郭となることを狙い︑わざと鬼を作り出したの
である︒つまり︑天武天皇の時代の鬼は︑国の外に排除される人々だということができるだろう︒
ヒダの王の時代の鬼は歴史から排除され︑天武の作る鬼は国
そのものから排除される︒どちらも排除されるという意味で
は︑国や権力者にとって不都合で邪魔なものということになる
だろう︒では︑この二つの時代の鬼の違いは何であろうか︒そ
れは︑ヒダの王の時代は︑国の民が﹁鬼もろともに生きてい﹂
︵
124頁︶たことに対して︑天武天皇は新しい国をつくるにあたっ
て︑﹁オニをつくらない﹂︑鬼が出入りする﹁丑寅の門を閉鎖す
る﹂︵ともに
100頁︶と宣言していることから考えられる︒
つまり︑ヒダの王の時代の鬼=不都合なことや人は︑歴史と
いう﹁物語﹂から排除されていたといっても︑人々はそれを攻撃することなく共に暮らしていた︒しかし︑不都合なことであ
るから︑歴史として記録などに残らない︒だからこそ︑人に見
えないという表現がされているのではないだろうか︒王にとっ
て邪魔なものは歴史からは排除されたとしても︑ヒダの国民と
して﹁もろともに生きてい﹂たということだと考える︒﹁幸福な
王の時代ごと排除されたことなど坂口安吾の思想に沿って物語
は展開されてきた︒これが天皇の歴史なのかもしれないと観客
に思わせることが狙いであり︑天皇制について考える機会を与
えたかったのではないだろうかと考える︒
おわりに
物語の最後にはヒダの王の時代そのものが鬼とされる︒天武
によって鬼とされたヒダの王の時代は天皇の歴史から排除さ
れ︑﹁歴史の花道﹂から外れていくのである︒しかし︑二章の﹁奪
われるヒダの光﹂で触れたように︑この物語のヒダも歴史から抹殺されたままにはならないことが伺える場面もある︒本作は
ヒダの王国が天皇の国に吸収される過程を描いているが︑長い時間をかけて︑気付かれなかったその歴史が再発見されること
を仄めかしてもいるのである︒これは坂口が昭和の時代になっ
て指摘したこととも重なるだろう︒全体を通して︑坂口の思想
が色濃く反映されていることからも︑野田から坂口への尊敬の念が感じられる作品だと思った︒坂口は万世一系の天皇制を疑い︑飛騨に天皇家の源流があっ
たと考えた︒野田はそれをベースとして︑ものづくりと国づく
りのストーリーを絡ませたり︑たくさんの鬼を登場させたりし
て複雑に脚色したのである︒そして︑国づくりの過程で鬼が殺
されていく場面を描くことで︑天皇制の歴史は︑実際は邪魔者
を排除してきた歴史かもしれないと提示する︒本作は︑天皇制
について一度立ち止まって考えなければいけないという警鐘の意味が込められた作品なのだろうと考える︒ 注︵
学研究科政治学論集﹄一九九三年三月︶ 1︶亀ヶ谷雅彦﹁自粛現象の社会心理﹂︵﹃学習院大学大学院政治
︵
2︶野田秀樹︵監修・長谷部浩︶﹃定本・野田秀樹と夢の遊眠社﹄ (河出書房新社︑一九九三年七月) ︵ NODAMAP3︶・第二二回公演﹃贋作桜の森の満開の下﹄スペ シャルサイトhttps://www.nodamap.com/sakuranomori/︵最終閲覧 二〇二一年一月一二日︶
︵
五〇︑二〇一六年一二月︶ ﹃ゼンダ城の虜﹄から﹃オイル﹄へ﹂︵﹃待兼山論叢芸術学篇﹄ : 4︶黄資絜﹁野田秀樹作品における言葉遊びと時間性の変遷
︵
一九八六〜一九八九﹄所収︑三一書房︑一九九八年九月︶ 5︶内田洋一﹁解説・解題﹂︵﹃現代日本戯曲大系第十四巻
︵
第七号所収︑青土社︑二〇〇一年六月︶ 一郎編﹃ユリイカ六月臨時増刊号総特集野田秀樹﹄第三三巻 6︶松尾スズキとの対話﹁演劇のコトバ︑思想のコトバ﹂︵西館
︵
六月臨時増刊号総特集野田秀樹﹄所収︶ 7︶中沢新一との対話﹁天皇制という︿芸能﹀﹂︵同右﹃ユリイカ
︵
8︶早川芳枝﹁坂口安吾の天皇制批判と古代東アジア史論︱﹁カ
ラクリ﹂に対抗する﹁カラクリ﹂︱﹂︵﹃エコ・フィロソフィ研究﹄
13︑二〇一九年三月︶
︵
9︶坂口安吾﹁飛騨・高山の抹殺﹂︵﹃文藝春秋﹄一九五一年九月︑
のち﹃安吾新日本地理﹄収録︑現在は河出文庫︑一九八八年五月︶
︵
10︶注5に同じ︒
︵
11︶注7に同じ︒
︵
12︶注5に同じ︒
︵すずき はるか︑令和二年度国文学科卒業生︶