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大正大学研究紀要100号(201503) 013星川啓慈「太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 ―― 一九三七年三月に書かれた『哲学宗教日記』の分析 ――」

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験

太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験

――

一九三七年三月に書かれた『哲学宗教日記』の分析

――

論文要旨

ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 私 的・ 宗 教 的 体 験 が 赤 裸 々 に 書 か れ て い る『 哲 学 宗 教 日 記 』 の 第 二 部 は、 彼 の 神 観・ 宗 教 観 や 宗 教 体 験 を 知 る に は 第 一 級 の 資 料 で あ る。 し か し な が ら、 こ の『 日 記 』 を 理 解 す る た め に は、 ど う し て も 彼 が篭ったショルデンの小屋の跡を訪れ、人里から隔絶されたその地理的・自然的環境を実際に確かめてみないと理解 で き な い 部 分 が 多 い。 例 え ば、 太 陽 の 描 写 や 彼 の 孤 独 感 や 宗 教 体 験 は そ れ ら と 切 り 離 し て は 理 解 で き な い。 筆 者 は、 二 〇 一 四 年 三 月 四 日、 そ の 小 屋 の 跡( 写 真 は 本 文 末 に 収 録 し て い る ) を 訪 れ る 機 会 を 得 た( そ の 模 様 は 註 18の ① の YouT ube にアップした動画に収められている) 。 本 論 文 で は、 第 一 次 世 界 大 戦 中 に 書 か れ た『 秘 密 の 日 記 』 の 記 述 も 踏 ま え な が ら、 『 哲 学 宗 教 日 記 』 に 頻 繁 に 出 て く る「 太 陽 」 や「 光 」 が、 「 単 独 者 」 と し て の ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が 神 と 対 峙 す る と き に ど の よ う な 役 割 を 果 た し た の か、 を 考 察 す る。 結 論 を い え ば、 「 一 九 三 七 年 三 月 二 六 日、 小 屋 か ら 見 え る 春 先 の 暖 か い 太 陽 の 光 が、 彼 に 落 ち 着きのある宗教体験をもたらすことに寄与した」ということになる。 一

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 キーワード 太陽、光、神、宗教体験、ウィトゲンシュタイン

はじめに

いわゆる「コーダー遺 稿 ( 1 ) 」が、一九九三年に知られるようになってから、ウィトゲンシュタイン研究は一つの曲が り角を迎えた。 象徴的なタイトルをもつ書物をあげるとすれば、 クラゲとノードマンの 『ルートヴィヒ ・ ウィトゲンシュ タイン――私的な場合と公的な場合』 (二〇〇三 年 ( 2 ) )をあげることができよう。彼の神や宗教などに関する「私的な」 文書や遣り取りが、それまで以上に脚光を浴びるようになったのだ。この著作の中に、 『哲学宗教日 記 ( 3 ) 』(文脈に応じ て『日記』と略記)の英訳も収められている。 また、遺稿管理人が出版しなかった『秘密の日 記 ( 4 ) 』――現在『草稿一九一四―一九一六』として出版されている著 作と同じノートの左側のページに並行して書かれた日記――には、神への祈 り ( 5 ) や戦闘体験を含め、ウィトゲンシュタ インの赤裸々な姿が記録されている。 これら二つの『日記』は「宗教者ウィトゲンシュタイン」を理解する上で、第一級の資料である。これらを読んだ ネトは「完全無欠 ( the Perfect ) に向かう道を見出そうとするウィトゲンシュタインの苦行の文 書 ( 6 ) 」と評しているが、 筆者もそのように感じる。彼は「完全なる人間」を目指すのであるが、それは苦難の道のりであった。彼自身、こう 書いている。 新約聖書に述べられていることのどれだけが正しく、どれだけが間違っていようとも、疑えないことが一つだ けある。つまり、 正しく 生きるためには、私は自分に心地よい生き方とはまったく違ったように生きなければな 二

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 らないだろう、ということである。すなわち、生きるとは表面で見えているよりもずっと真剣なものだというこ とである。 生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。(傍点引用者、一九三七年二月一三日) 本論文では、その苦難の道のりの一側面を、ショルデンにおける冬から春にかけての太陽の状態との関わりで考察 する。ただし、例えばこの二月一三日や二二日の日記に見られるような、極めて生々しい事柄を問題とするのではな い。精神的に落ち着きを見せる、ないし、一つの宗教的境地に到達した、一九三七年三月二六日の日記に焦点を合わ せて考察をすすめていく。

鬼界彰夫の指摘

本論文での考察の中心となるウィトゲンシュタインの言葉は、一九三七年三月二六日のものである。 私は、 自分のあるがままにおいて、 自分のあるがままに照らされ、 啓かれている。 私が言いたいのは、 私の宗教は、 そ の あ る が ま ま に お い て、 そ の あ る が ま ま に 照 ら さ れ、 啓 か れ て い る、 と い う こ と だ。 ( Ich bin so erleuchtet

als ich bin; ich meine: meine Relig

ion ist so erleuchtet, als sie ist.

) 「 照 ら さ れ、 啓 か れ て い る 」 の 原 語 は、 Licht ( 光 = 英 語 の light ) か ら 派 生 し、 「 照 ら す、 啓 蒙 す る、 悟 る 」 な ど の 意味をもつ erleuchten の受動態である。 『日記』の訳者である鬼界は「この動詞はウィトゲンシュタインが自己の宗 教性の展開を表現する上で、最も重要な言葉であり、最初は第一次世界大戦中に心の闇を神が照らす事を祈るときに 用 い ら れ た ( 7 ) 」 と 言 う。 そ し て、 『 日 記 』 に 先 行 す る 大 戦 中 の 具 体 例 と し て、 一 九 一 六 年 三 月 二 九 日 の『 秘 密 の 日 記 』 をあげる。 こ れ か ら 監 察 で あ る。 私 の 霊 は 委 縮 し き っ て い る。 神 よ、 我 を 照 ら し 給 え( erleuchte mich )!   神 よ、 我 を 三

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 照らし給え!   神よ、我が魂を照らし給え(

erleuchte meine Seele

)!(一九一六年三月二九日) し か し、 こ の erleuchten と い う 語 は、 『 秘 密 の 日 記 』 で は 頻 繁 に 見 ら れ る の で は な い。 筆 者 の 調 べ で は、 後 ほ ど 引 用するが、あともう二か所(一九一四年九月一五日、一九一六年五月四日)にしか見られないのだ。 だが、この語は使用頻度が低いから重要ではない、ということにはならない。この語が使用される文脈には重要な 共通点がある。それは、ウィトゲンシュタインが死に直面している状況において使用されていることである。 さ ら に、 鬼 界 は、 erleuchten は 一 九 一 六 年 三 月 二 九 日 の 場 合 と ほ ぼ 同 様 の 意 味 で、 『 哲 学 宗 教 日 記 』 に お い て は 次 のようなところで現れると言う。 明日、私の信仰は今日よりも明るくなったり(あるいは、暗くなったり)することはあるのだ。 助け給え、照 らし給え!   そして、決して闇が私の許を訪れませんように!(一九三七年三月二三日) それ〔純粋な服従によって死ぬこと〕は恐ろしいことだ。この恐ろしさが、ある光の輝きによって照らされま すように!   (同年三月二五日) こ れ ら の erleuchten の 用 例 は「 心 の 闇 を 神 が 照 ら す 事 を 祈 る と き に 用 い ら れ た 」 の で あ る が、 一 九 三 七 年 三 月 二六日の書付の場合、 鬼界は「心の闇が上からの光により照らされると同時に、 それをきっかけとしてウィトゲンシュ タイン自身の宗教性が、 ある境地、 すなわち信仰に到達するという意味も込められている」と述べて、 だからこそ「照 ら さ れ、 啓 か れ て い る 」 と 訳 し た の だ と 言 う ( 8 ) 。 つ ま り、 「 照 ら さ れ て い る 」 だ け で よ い と こ ろ に、 わ ざ わ ざ「 啓 か れ ている」を加えたというのである(ちなみに、英訳は illuminated である) 。 本 論 文 に お い て は、 こ う し た 鬼 界 の 指 摘 を 踏 ま え な が ら、 「 太 陽 が ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が 落 ち 着 き の あ る 宗 教 的 境 地 に 到 達 す る こ と に 寄 与 し た 」 こ と を 論 じ る。 言 い か え れ ば、 「 本 論 文 で 見 る よ う な 太 陽 と ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン との種々の関係がなければ、 『日記』で書かれているような宗教体験は彼にもたらされなかった」ということである。 四

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験

ウィトゲンシュタインの「小屋」と一九三六年―一九三七年頃の執筆活動

ウィトゲンシュタインの「小屋」は、一九一四年の六月(異説あり)に、ノルウェーの「ソグネフィヨルド」の最 奥部に位置するショルデンに建てられた。 小 屋 の 位 置 と 規 模 お よ び そ の 環 境 は 次 の よ う に な る。 小 屋 の 位 置 は、 北 緯 六 一 度 二 九 分 一 五 秒、 東 経 七 度 三 七 分 五四秒。石組みの上の部分の湖面からの高さは、二〇メートル程度。西側の湖に向かっている基礎部分の石組みの幅 は、横八メートル、奥行七メートル。さらにつけ加えると、小屋は周囲を山々でかこまれており、小屋のある位置は 日当たりが悪い。航空写真で見ると、周りには陽が当たっていても、小屋の周辺は日陰になってい る ( 9 ) 。 一九七一年に小屋の跡を訪れ、湖畔と湖上から基礎の石組みを見た黒崎は、次のように述べている。 見たとたん、私は全く「凄い」と思った。そして私は、ウィトゲンシュタインの壮絶な生き方の一端にふれた 思いがした。人里離れた所に住むとはいえ、これほど無遠慮に他人の接近を拒絶できる場所は、そう多くはあり 得ないであろ う )(( ( 。 また、マクギネスは次のように語っている。 こ の 小 さ な 家 に は 湖 を 隔 て て 素 晴 ら し い 眺 望 が あ り、 フ ィ ヨ ル ド が 南 西 方 向 に 開 け て い る。 家 屋 そ れ 自 体 も、 夏のあいだ、蔦で蔽われ緑樹で囲まれると、十分に快適な様相を呈した。だが、そこに冬のあいだ中棲みつくに は、隠者か苦行僧〔柱頭行者、高柱の上に住み俗世間から離れて苦行した禁欲者〕のような気質を必要とするで あろう。相当の勇気も必要であ る )(( ( 。 「 無 遠 慮 に 他 人 の 接 近 を 拒 絶 で き る 場 所 」「 冬 の あ い だ 中 棲 み つ く に は、 隠 者 か 苦 行 僧 の よ う な 気 質 を 必 要 と す る 」 という表現は、先のネトやウィトゲンシュタイン自身の言葉とも呼応するであろう。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は、 一 九 三 六 年 の 八 月 中 旬 か ら 一 二 月 の 初 め ま で、 一 九 三 七 年 の 一 月 末 か ら 四 月 末 ま で、 五

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 一 九 三 七 年 の 八 月 中 旬 か ら 一 二 月 中 旬 ま で、 シ ョ ル デ ン に 滞 在 す る。 『 日 記 』 の 日 付 は、 次 の よ う に、 大 き く 三 つ に 分 類 で き る。 ① 一 九 三 六 年 一 一 月 一 九 日 か ら 一 二 月 一 日 ま で、 ② 一 九 三 七 年 一 月 二 七 日 か ら 四 月 三 〇 日 ま で、 ③ 一九三七年九月二四日のみ。以下においては、 太陽 ・ 神 ・ 宗教についての記述が頻出する②を中心に、 議論を展開する。 と こ ろ で、 『 哲 学 探 究 』( 以 下『 探 究 』) に は 神 や 宗 教 の こ と は( ま っ た く で は な い に せ よ ) ほ と ん ど 出 て こ な い。 この著作がアウグスティヌスの『告白』の引用から始まることは知られているが、その冒頭および全体には宗教色は ほとんど無い。 しかし、 この著作の背後には、 ウィトゲンシュタインの宗教的な葛藤があるのだ。 早い時期に、 ドゥルー リ ー は「 私 は す べ て の 問 題 を 宗 教 的 観 点 か ら 見 な い で は い ら れ な い 」 と い う 言 葉 を 彼 か ら 聞 い て、 『 哲 学 的 考 察 』 が 「神の栄光」に捧げられていることや、 『探究』で論じられている諸問題が宗教的観点から見られている可能性に言及 している。ドゥルーリーは、当時ほとんど無視されていたウィトゲンシュタインの思索の次元の一つが「宗教」だっ た、と言いたかったのであ る )(( ( 。 そ の 後、 「 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 文 献 学 」 の 成 果 を 利 用 す る こ と が で き る よ う に な り、 新 発 見 の 資 料 も 精 読 し た、 鬼界は次のように力説している。 『 哲 学 探 究 』 と い う 記 念 碑 的 著 作 は、 こ の〔 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 〕 宗 教 の 歩 み の 結 果 と し て の み 0 0 生 み 出 さ れ た の で あ る。 こ れ こ そ が 日 記 が 我 々 に 与 え る 最 大 の 驚 き で あ る。 日 記 第 二 部〔 『 哲 学 宗 教 日 記 』 の 一 九 三 六 年 から翌年にかけて書かれた部分〕 とはこうした彼の宗教の歩みと 『探究』 生誕の忠実な記録であ る )(( ( 。(傍点引用者) 『 探 究 』 は、 そ れ ま で の 研 究 を 放 擲 し、 一 九 三 六 年 一 一 月 か ら 書 き 始 め ら れ る。 こ の 時 期 に は、 第 一 部 第 一 節 か ら 第一八八節に相当する部分が書かれた。つまり、この時期は「後期ウィトゲンシュタイン」の哲学的基礎が確立した きわめて重要な時期なのだ。そして、まさにその時、つまり、同年同月一九日から『日記』の第二部は書き始められ るのである。 この事実は特筆に値する。ウィトゲンシュタインは冷静に哲学的な思索を展開している(哲学的には苦難の道を歩 六

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 んでいるのは分かるにしても)ようでいて、実はその裏には、それと並行する彼の「宗教的人間」としての生々しい 姿があったのだ。

「神に語ること」と「神について他人に語ること」

『 日 記 』 の 中 に、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の「 公 的 な 」 哲 学 と「 私 的 な 」 宗 教 と を 結 び つ け る、 決 定 的 に 重 要 な 言 葉 が二つある。それは、厳冬期の一九三七年二月一五日と翌一六日に書かれた次の言葉である。 こ れ ら の〔 宗 教 的 〕 像 や〔 宗 教 的 〕 表 現 は、 む し ろ 生 の あ る 高 い 領 域 に お い て の み、 そ の 生 命 を 保 持 す る の で あ る。 こ の 領 域 に お い て の み、 そ れ ら を 正 し く 使 う こ と が で き る の で あ る。 本 当 の と こ ろ、 私 に で き る の は、 「 語 り え ぬ 」 と い っ た こ と を 意 味 す る 仕 草 を し、 何 も 語 ら な い こ と だ け だ ろ う( Ich könnte eigentlich nur eine

Geste machen, die etwas Ähnliches heißt w

ie

“unsagbar ”, & nichts sagen

)。 (二月一五日) こ の 言 葉 は、 『 論 理 哲 学 論 考 』( 以 下『 論 考 』) の 出 版 か ら 二 五 年 余 り た っ て も、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は 当 時 と 同 様の公の見解を抱いていることを示している。 だが、その一方で、ウィトゲンシュタインは『論考』の終わりで、神について「語りえないものについては沈黙し な け れ ば な ら な い 」 と「 沈 黙 」 を 命 じ て お き な が ら、 「 私 的 な 」 生 活 で は そ れ を 無 視 し て、 神 に 向 か っ て 饒 舌 な ま で に語りかけてい る )(( ( 。これは矛盾であろう。 この矛盾を解く鍵が次の言葉である。 神 に〔 向 か っ て 自 分 が 直 接 に 〕 語 る こ と と、 神 に つ い て 他 人 に 語 る こ と は 違 う( Es ist ein Ding zu Gott zu

reden & ein anderes, v

on Gott zu Anderen zu reden

)。

(二月一六日)

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が『 論 考 』 で 禁 じ て い る の は、 語 り え な い「 神 」 に「 つ い て 」( vo n ) 語 る こ と で あ る。 『 論 考 』 の「 語 り え な い も の 」 を 直 訳 す れ ば、 「 そ れ に つ い て 語 る こ と の で き な い と こ ろ の も の 」( W ov on man nicht sprechen kann )となる。解釈の仕様によっては、 『論考』の最後でも、 「単独者」として神に対峙した人が神に向かっ て直接語りかけることを禁じているのではないのだ。 ウィトゲンシュタイン自身によるこの区別――「神に語ることと、神について他人に語ること」――は決定的に重 要 で あ る。 『 日 記 』 に お い て、 彼 は「 単 独 者 」 と し て 神 に 語 り か け て い る こ と は あ っ て も、 神 に つ い て、 例 え ば そ の 属性について他者に向かって話したり書いたりしているわけではない。その証拠に、 右の二月一六日の言葉を挟んで、 次のように書かれている――「神よ!   私をあなたと次のような関係に入らせてください!   そこでは私が〈自分の 仕 事 に お い て 楽 し く な れ る 〉 と い う 関 係 に!」 「〔 神 よ!〕 私 の 理 性 を 純 粋 で 穢 れ な き よ う に 保 た せ て く だ さ い!」 。 これらは神への請願/嘆願である。さらに、 「孤独を求めてノルウェーに来たことを神に感謝します!」 (二月二〇日) は、神に対する感謝を表している。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の『 日 記 』 に お け る 神 に つ い て の 言 及 の 多 く は、 請 願 / 嘆 願 や 感 謝 な ど、 「 神 へ の 直 接 の 語 りかけ」であり、 「神についての記述」ではない。言いかえれば、彼はそうした「言語行為」をおこなっているのだ。 世界の「創造者」としての神について語っている部分もあるが、基本的に神の属性記述はあまり見られない。もしも 彼に「神は〈記述の束〉かそれとも〈固有名〉か」と尋ねれば、後者であると答えるだろう。 そうだとすると、本人が意識していたか否かは別として、ウィトゲンシュタインは右で指摘した矛盾した行為―― 一方で公に、神について「沈黙」を命じておきながら、他方で私的に、神に向かって饒舌に語りかけていること―― をしているのでは ない 0 0 ことになろう。だからこそ、彼は、私的な文書では神に対して、積極的/衝動的に語りかけて いるとも解釈しうる。 八

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験

第一次世界大戦の戦闘における神と光

ウィトゲンシュタインは、一九一四年八月より捕虜から自由の身になる一九一八年の八月まで、四年にわたる軍隊 生活をす る )(( ( 。彼は、両側性鼠蹊ヘルニアや腸カタルなどに悩まされながらも、また屈強な体格でもないの に )(( ( 、数々の 激戦で勇敢に闘い、種々の勲章を得ている。自らが属していたオーストリア=ハンガリー軍の第二四歩兵師団の兵士 の生還率が二〇パーセント程度(一六〇〇〇人中三五〇〇人程度)だったブルシーロフ攻 勢 )(( ( を始めとする数々の激戦 を か い く ぐ っ て、 彼 が 無 事 に 生 還 で き た こ と は 一 種 の 奇 跡 で あ る。 厳 密 な 確 率 計 算 は 無 意 味 だ と し て も、 私 見 で は、 ウィトゲンシュタインの全戦闘を通じての生還確率は高く見積もっても一割を超えなかったであろう。度重なる激戦 は、彼の神観や宗教観を考えるうえで、最も重要な出来事である。 戦闘状態や危険な状態が近づくと、宗教的な書付が増える。そのさいのキーワードは、頻出する「神」はもちろん のこと、 数は少ないが、 「照らす」 「光」である。それらを従軍中に書かれた『秘密の日記』から、 時系列にそって拾っ てみよう。 銃撃戦になったら、どのように行動すればよいのだろう。自分が撃ち殺されることを恐れはしないが、任務を 適 切 に 遂 行 し な い こ と を 恐 れ る。 神 よ、 我 に 力 を 与 え 給 え!   ア ー メ ン。 ア ー メ ン。 ア ー メ ン。 ( 一 九 一 四 年 九 月一二日) 神よ、私と共にいてください!   今では私はまともな人間になる機会があるといってもよいかもしれない。私 が死に直面しているからである。霊が私を照らしてくれますように。 (一九一四年九月一五日) ロシア軍はクラカウに向かって快進撃している。市民はみな街を離れなければならなくなってきている。事態 はわれわれにとって非常に悪化しているように見える!   神よ 0 0 、 我を助け給え 0 0 0 0 0 0 !!! (一九一四年一一月九日) これから監察である。私の霊は委縮しきっている。神よ、 我を照らし給え!   神よ、 我を照らし給え!   神よ、 九

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 我が魂を照らし給え!(一九一六年三月二九日) た ぶ ん 明 日、 私 自 身 の 要 望 に よ り、 偵 察 に 派 遣 さ れ る で あ ろ う。 そ の と き 初 め て 私 の 戦 争 は 始 ま る。 そ し て、 お そ ら く 私 の 人 生 も。 た ぶ ん、 死 の 接 近 が 私 に 人 生 の 光 明( das Licht des Lebens ) を も た ら す で あ ろ う。 神 が 私を照らしてくれますように。 (一九一六年五月四日) たしかに、ショルデンで過ごした比較的平穏な日々と、いつ命を失うかもしれない従軍中の日々とを、同次元で論 じることはできない。しかしながら、ウィトゲンシュタインにも、多くの人々と同様に、危険を感じたときや窮状に 陥ったときには神や光や霊を求めるという、一種の思考パターンがある。

従軍期間と小屋での滞在期間との共通項

ウィトゲンシュタインの従軍期間と小屋での滞在期間には、複数の共通項がある。ここでは、二つないし三つあげ たい。 一つは、これまで見てきたように、 「光」である。これは、 『秘密の日記』では、霊的/精神的な光であり( 「太陽」 という言葉は一度も登場しない) 、『哲学宗教日記』では、こうした光にくわえて、 「太陽」の物理的光である。 も う 一 つ は、 「 孤 独 」 で あ る。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン に は 従 軍 中 な か な か 一 人 に な れ る 時 間 は な く、 多 く の 若 い 兵 士たちと一緒に過ごさなければならなかった。彼と気の合う将校たちもいないわけではなかったが、多くの場合、周 りの人間とうまくやっていけない旨を 『秘密の日記』 で執拗に書いている。周りの人間に対する悪口を認めながらも、 彼らとうまくやっていけない自分を責めている。つまり、 多くの兵士たちに囲まれながらも、 精神的には 「孤独」 であっ たということだ。また、 『哲学宗教日記』 には、 「 今私は心が不確かな時、 頻繁に、 〈ここには誰もいない〉 と自分に向かっ 一〇

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 て 言 い、 自 分 の 周 り を 見 渡 し て い る 」( 二 月 二 二 日 )、 「 自 己 と と も に あ る 孤 独 ―― あ る い は 神 と と も に あ る 孤 独 ―― とはたった一人で猛獣と一緒にいるようなものではないか?   いつ襲いかかられるか分からないのだ」 (四月一七日) などと認めている。やはり、ショルデンの小屋では、物理的にも精神的にも「孤独」であったのだ。 強いて、 もう一つの共通項をあげるとすれば、 それは、 良好とはいえない「健康状態」である。従軍中の場合には、 前述したようなヘルニアや腸カタルの諸症状、激戦による心身疲労など、 『日記』の場合には、後述するような血便、 腸の痛み、衰弱、めまいなどをあげることができよう。 こうした孤独で優れない健康状態のなかで、二つの『日記』において、ウィトゲンシュタインは神に向かって頻繁 に/直接に語りかけ、祈りを捧げたのである。

筆者が小屋の跡を訪れた「三月四日」の日記

『 日 記 』 に は、 日 付( 月 と 日 ) が 記 さ れ て い る が、 時 々「 年 」 が 書 き こ ま れ て い る。 お そ ら く、 何 か 改 ま っ た 気 分 や あ る 種 の 思 い 入 れ が あ る こ と を 示 唆 し て い る の だ ろ う。 そ う し た も の の 一 つ が「 一 九 三 七 年 二 月 二 八 日 」 で あ る。 この直後から、太陽の記述が頻繁に登場し、それは三月三〇日まで続く。 計量的なことをいえば、次のようになる。この三一日間に日記を書いた日数は、全部で二五日である。これらのう ち、太陽に言及した記述があるのが、一一日分である。すなわち、三月四日、八日、一四日、一七日、一八日、一九 日、二二日、二三日、二四日、二七日、三〇日。これは、ウィトゲンシュタインには日記にその日の天候を書き込む 習慣がなかったことを考慮すれば、かなりの頻度であろう。さらに、次のようなことも言える。 「太陽」は女性名詞、 die Sonne で あ り、 『 日 記 』 で は こ れ を Sie/sie と い う 代 名 詞 で 受 け る こ と も あ る。 そ う す る と、 例 え ば 三 月 一 九 日 の 一一

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 日記では、 die Sonne は一度し出てこないが、 Sie/sie を含めると、 「太陽」は全部で七回も登場するという具合である。 それゆえ、この三一日間の太陽への言及頻度は極めて高いと言える( 「月」についての言及は一度もない) 。 三月以前には、太陽は稜線の下側にあってあまり見えず、これ以降に、稜線の上に出てくるのであろう。三月八日 に は、 「 私 は 今、 自 分 の 家 か ら 太 陽 が 見 え る の を と て も 待 ち 焦 が れ て い る。 そ し て 毎 日、 あ と 何 日 間 太 陽 が ま だ 見 え ないのか見積もっている」 とある。 『日記』 に登場する 「太陽」 という言葉の頻度ならびにそれについての記述は、 「太 陽が見えるのをとても待ち焦がれている」ウィトゲンシュタインの姿を彷彿とさせる。 その頃、ウィトゲンシュタインの健康状態はそれほど良くなかった、と推測しうる。その根拠として、三月前後の 日 記 の 二 か 所 を あ げ よ う ――「 身 体 の 具 合 が 悪 い。 非 常 に 弱 っ て お り、 め ま い が す る 」( 一 月 三 〇 日 )、 「 血 便 が 繰 り 返し出るようになってからもう二か月になる。 痛み も少しある。――ひょっとすると、自分は直腸癌で死ぬかもしれ ないと頻繁に考える」 (四月二〇日) 。 哲学的著作の執筆にも大変な思いをしているうえに、孤独であれば、ましてや厳冬期で体調が思わしくない状態で の孤独であれば、神に祈りを捧げたり語りかけたりしたくなるだろうし、太陽の陽射しは何にもまして有り難いもの であろう。 筆者がウィトゲンシュタインの小屋の跡に立ったのは、二〇一四年三月四日の午後一時頃から二時頃であ る )(( ( 。気温 は 六 ― 七 度 で、 天 候 は 曇 り( と き ど き 小 雨 )。 風 も 少 し 吹 い て い た。 太 陽 は 直 接 に は 見 え な か っ た。 太 陽 に つ い て の 言及が頻繁になるのは、 偶然にも 0 0 0 0 この三月四日からである。その日にはこう書かれている。 ああ主よ、自分が〔あなたの〕奴隷だということさえ分かればよいのですが! 今太陽が私の家にとても近づいている。ずっと元気に感じる!   身に余るほど調子が良い。 言 う ま で も な く、 「 あ あ 主 よ、 自 分 が〔 あ な た の 〕 奴 隷 だ と い う こ と さ え 分 か れ ば よ い の で す が!」 と い う の は、 神の属性などに「ついて」語っている言葉ではない。これも神に対して直接語りかけている言葉である。 一二

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 この日の日記はこれだけである。前日の三日には「ひざまずくことが意味しているのは、人は〔主の〕奴隷だとい うことである。 (ここに宗教が存するのかもしれない) 」と記されている。この続きで、右の文章が書かれているので ある。ウィトゲンシュタインは自分が主の奴隷となり、自分を放下することを求めていたのだ。しかし、これは簡単 なことではなかった。 この「主の奴隷」という概念は重要であり、これは『日記』でも一貫したものである。例えば、一月二八日に「自 分 に 対 し て、 俺 は 自 由 な 人 間 で は な く 奴 隷 だ、 と 言 わ な け れ ば な ら な か っ た 」 と あ る の だ が、 こ れ に 続 け て、 「 信 仰 が人間を幸せにするというのがどういう意味なのかわかった。それは、信仰は人間を直接神のもとにおくことにより 人間に対する恐怖から解放する、 ということなのだ」と言う。 「ひざまずく」という表現にしても「 膝に助けてもらっ て祈るのではない、人がひざまずくのだ 」(二月一九日)と述べられている。 三 月 四 日 の 書 付 は、 右 の よ う な 文 章 の 流 れ の 中 で 理 解 さ れ る べ き も の だ が、 き わ め て 示 唆 的 で あ る。 な ぜ な ら ば、 「ウィトゲンシュタイン」 「神」 「太陽」という三項が端的に現れているからだ。さらに、 これは、 先述したように、 「太 陽 」 と い う 言 葉 が 集 中 的 に 登 場 し 始 め る 最 初 の 部 分 に も あ た る。 こ の 日 以 降、 『 日 記 』 の 論 述 は「 こ れ ら の 三 項 を 軸 として展開されている」といってもよい。一言でいうと、神とウィトゲンシュタインとは、早春の太陽を媒介にして 結ばれているのだ。

太陽や光と関わる宗教的な論述

二月二一日の日記に 「 周りが冬であるように、 私の心の中は (今) 冬だ。すべてが雪に閉ざされ、 緑もなく、 花もない。 /だから私は、 春を見るという恵みが自分に分かち与えられるのかどうか、 辛抱強く待たなければならない 」とある。 一三

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 これは、厳冬期の自然環境とそれに対応する自分の心境の描写だが、そのままウィトゲンシュタインの宗教的展開に も当てはまる。すなわち、 春の訪れとともに、 精神的葛藤を経ながらもある宗教的高みへと至るプロセスが訪れ、 「恵 みが自分に分かち与えられる」ことになるのである。 ウィトゲンシュタインが達した一つの宗教的境地としても、また、太陽が彼の神観・宗教観となんらかの関係をも つという観点からも、先に引用した三月二六日付けの日記が注目される。 私は、 自分のあるがままにおいて、 自分のあるがままに照らされ、 啓かれている。 私が言いたいのは、 私の宗教は、 そのあるがままにおいて、そのあるがままに照らされ、啓かれている、ということだ。 私は 、昨日、今日よりも 照らされ方が少なかったわけではないし、今日、昨日より多く照らされているわけでもない。なぜなら、もし昨 日、私が事をこのように見ることが できた のなら、私は確かにそう見ただろうからである。 erleuchten と い う 言 葉 の 重 要 性 に つ い て は す で に 指 摘 し た が、 こ こ に は も う 一 つ 重 要 な 事 柄 が あ る。 そ れ は、 「 あ るがまま」 (

als ich bin, als meine Relig

ion ist )ということだ。右の書付に六年も先立つ、 一九三一年三月一日の日記 には次のように書かれている。 ベートーヴェンはまったくのリアリストだ。私は、彼の音楽は まったくの真理 だ、と言っているのだ。私はこ う言いたいのだ、彼は人生を まったく そのあるがままに見て、それからそれを高めるのだ、と。それはまったく 宗教であり、宗教的な詩などではない。……彼は英雄として、世界をそのあるがままに見ることにより、世界を 救うのである。 (三一年三月一日) ベートーヴェンのことは別として、 ここにウィトゲンシュタインの核心的宗教観(の一部)が出ている。すなわち、 彼は「人生や世界をそのあるがままに見て、それを高めるのが宗教だ」と考えているのである。この「人生を まった く そのあるがまま見る」 ( Sehen das Leben ganz w ie es ist )ということが、三月二六日の彼の宗教的境地に繋がって いくのである。 一四

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 ここで、 erleuchten の使用頻度を見てみよう。この語は、 二月二八日―三月三〇日の間にも、 全部で三回しか登場 しない。つまり、先に引用した三月二三日・二五日、そして二六日の三回である。 また、 「光」をめぐる論述については、次のようなものが注目される。 自分の感覚に従うなら、彼〔 真に義を求める人 〕はただ光を見るだけではなく、直接に光の下へおもむき、今 や光とともにある本質を持つようになる ( mit ihm 〔 das Licht 〕 nun eines W esens werden )、 と言えるだろう。 (二 月一五日) 人 間 は お の れ の 日 常 の 暮 ら し を、 消 え る ま で は 気 が つ か な い あ る 光 の 輝 き と と も に 送 っ て い る ( Der Mensch

lebt sein gewöhnliches Leben mit dem Scheine eines Lichts

) 。それが消えると、 生から突然あらゆる価値、 意味、 あるいはそれをどのように呼ぶにせよ、そうしたものが奪われる。人は突然、単なる生存――と人が呼びたくな るもの――がそれだけではまったく空疎で 荒涼としたもの であることを、悟る。まるで、すべての事物から輝き が拭い去られてしまったかのようになる。すべてが死んでしまう。 (二月二二日) そしてさらに、春が到来し、 「今日、太陽はここで一二時に昇り、今、 完全に 現れている」 「今朝、樹々は厚い雪に 覆われていたが、今、それはすべて融けている」という三月二二日、ウィトゲンシュタインは次のように認める。 ここには誰もいない、しかし、ここには壮麗な太陽 ( eine herrliche Sonne ) があり、そして、一人の卑しい人 間 (

ein schlechter Mensch

) がいる。 鬼 界 訳 で は「 壮 麗 な 太 陽 」( 英 訳 で は a glorious sun ) だ が、 herrlich は「 神 の 栄 光 」( die Herrlichkeit Gottes, the glory of Go d ) という成句にも使用され、 宗教的なニュアンスも持つ (ちなみに、 「主」 は   “Herr ” である) 。そうすると、 こ の 太 陽 は た ん な る 天 体 と し て の 太 陽 で は な く、 一 種 の「 神 の 現 れ 」 と も 解 釈 し う る。 「 一 人 の 卑 し い 人 間 」 と い う のは言うまでもなくウィトゲンシュタイン自身であり、彼は「単独者」として、太陽を介しながら、神と対峙してい るのであ る )(( ( 。 一五

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 こ こ で、 三 月 二 六 日 の 前 日、 二 五 日 の 日 記 に つ い て 検 討 し た い。 三 月 月 二 四 日 と 二 五 日 の 日 記 は、 「 三 月 二 五 日 」 という強調された日付の区切りがあるものの、 一続きの文章( 「私は……と考えた」 )である。そして、 「 ここ二日まっ たく良く眠れない、 自分が死んだように感じられ、 仕事ができない。考えが濁っていて、 暗く意気消沈している。 (つ まり、私はある宗教的な考えを恐れているのだ) 」という言葉で結ばれている。 こうした意気消沈も見られる流れの中で二六日の日記を読むと、そこには、それ以前の日々と比較して、ある種の 精神的安定や落ち着きを読み取ることができる。例えば、 「 良く眠れない 」二三日には、 「明日私の信仰は今日 よりも 明るく なったり(あるいは暗くなったり)することはあるのだ」と言っておきながら、先に引用したように、二六日 には、それを否定するとも解釈できるような書き方をしている 私は 、昨日、今日よりも照らされ方が少なかったわけではないし、今日、昨日より多く照らされているわけで もない( Ich habe mich gestern nicht weniger erleuchtet & heute nicht mehr )。なぜなら、もし昨日、私が事を このように見ることが できた のなら、私は確かにそう見ただろうからである。 ここには一種の精神的安定を読み取ることができよう。

三月二六日の太陽

こ の 日 の 日 記 か ら は、 太 陽 の 状 態 は 確 定 で き な い。 す な わ ち、 「 照 ら さ れ る 」( erleuchtet ) は、 霊 的 光 / 精 神 的 光 の み と 関 係 す る の か、 そ れ と も、 物 理 的 な 太 陽 の 光 と も 関 係 す る の か、 を 確 定 で き な い の だ。 な ぜ な ら ば、 「 太 陽 」 という言葉が直接には登場しないからだ。しかし、三月二二日、二三日、二四日、二七日の太陽をめぐる記述から判 断して、二六日に太陽が出ていた可能性は高い。 一六

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 今日、 太 陽 は 一 一 時 四 五 分 頃 か ら 一 時 一 五 分 頃 ま で 出 て い て、 そ れ か ら 三 時 四 五 分 頃、 一 瞬 山 の 上 に 現 れ た。 そして、日没前に部屋の中に射し込んでいる。 (三月二三日) 太陽はだいたい一時半頃に現れるが、その後も山の端に沿って進んでいるので、その外縁はもっと長い間見え ている。それは壮麗だ!(三月二四日) 今や、太陽は一一時を少し過ぎると昇る。今日、それは光り輝いている。くり返し太陽を見つめないことは私 には難しい。 つまり、 目に悪いと分かっていながらも、 くり返し太陽を見つめたくなってしまうのだ。 (三月二七日) このように、二二日、二三日、二四日、二七日には、ウィトゲンシュタインが太陽を見たことを確認できる。そう だとすれば、 「二六日にも彼は太陽を見た」と推測するのが自然であろう。 次に、太陽の出現/非出現とウィトゲンシュタインの精神状態との相関関 係 )(( ( から、三月二六日の太陽の出現につい て推測してみよう。二六日の日記の結びの言葉は「 神の恵みのおかげで ( aus Gnade )、今日は昨日よりもずっと調子 が良い 」というものである。 「 調 子 」「 気 分 」「 仕 事 」 と 太 陽 の 相 関 関 係 を 述 べ た 文 章 に は、 例 え ば 次 の よ う な も の が あ る ――「 今、 太 陽 が 私 の 家 に と て も 近 づ い て い る。 ず っ と 元 気 に 感 じ る!   身 に 余 る ほ ど 調 子 が 良 い 」( 三 月 四 日 )、 「 さ き ほ ど 本 当 に 太 陽 が 見 つ か っ た と き、 私 は と て も 嬉 し か っ た 」( 三 月 一 八 日 )、 「 も っ と 太 陽 を 見 る こ と が で き た な ら、 私 の 仕 事 を す る 力 は回復するのではないかと期待していたが、そのようにはならなかった」 (三月三〇日) 。さらに、二六日のおよそ一 か月前、太陽が稜線のうえに昇ることのない二月二二日には、次のように書かれている――「 こんなこと〔生全体が 掘り崩されること、震えながら深淵の上に吊るされることなど〕を私が考えるのは、もしかすると、ここにはあまり にも光が乏しいためである。しかし、今ここでは光は 現に かくも乏しく、この私がそうした考えを抱いているのだ 」。 こうした引用から推測すると、この頃のウィトゲンシュタインは、 太陽が出ていれば 0 0 0 0 0 0 0 0 、調子や気分や仕事する力や 思索内容などが良好になる/前向きになるのである。そして、 太陽が出ている時 0 0 0 0 0 0 0 0 、 その時に限定すれば 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、彼の気分や 一七

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 調子はそれなりに良好だったと推測しうる。それゆえ、三月二六日の彼は「神の恵み」=「太陽」のおかげで「調子 が良い」という解釈も十分に成り立つ。もちろん、一日は二四時間であり、日中に太陽が見えたとしても、夜になっ て意気消沈することは当然ある(例えば三月二五日はその例かもしれない) 。それでも、こうしたことは言いうる。 以上に述べた、①二二日、二三日、二四日、二七日の太陽の出現、②太陽とウィトゲンシュタインの精神状態、③ 二六日の日記の最後の言葉などから総合的に判断すると、 「彼は三月二六日に太陽を見た」と推測しうる。すなわち、 太陽がこの日、先に論じたような宗教的高み/宗教的境地へウィトゲンシュタインを至らしめた可能性は、極めて高 いのである。

「あるがまま」と「光」の関係

「 物 事 を あ る が ま ま に 見 る / あ る が ま ま し て お く / あ る が ま ま に 引 き 受 け る 」 と い う こ と は、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が 生 涯 に わ た っ て 求 め た、 彼 の あ る べ き 姿 勢 で あ る( 戦 争 に つ い て も 同 様 で あ る )。 こ れ に つ い て は、 彼 の 諸 著 作 で種々の表現をもちいて述べられているが、 本論文と関係の深い『哲学探究』では、 例えば次のように書かれている。 哲 学 は 、 す べ て の も の を 、 そ の あ る が ま ま に し て お く ( Die Philosophie läßt alles, w ie es ist )。 ( 第 一 部 第 一 二 四 節 ) 引 き 受 け る べ き も の、 与 え ら れ た も の、 そ れ が 生 活 形 式 で あ る( Das Hinzunehmende, Gegebene seien Lebensform )。 (第二部第一一章) こ れ ら の「 あ る が ま ま 」「 引 き 受 け る べ き 」 と い う こ と と、 先 に 引 用 し た「 人 間 は お の れ の 日 常 の 暮 ら し を、 消 え るまでは気がつかないある光の輝きとともに送っている 」という文章の関連について述べると、次のようになるだろ 一八

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太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 う――ウィトゲンシュタイン(およびその他の人々)の日常の生活が宗教的な光によって照らされ、意味を与えられ ているのならば、その生活を変える必要はなく、それをそのあるがままに引き受けるだけで良い。 三月二六日の日記は、外界で起こることも、自分自身もふくめて、すべてを「あるがままに見る/受け入れる」と いう心境になったことを述べていると思われる。 しかし、これですべてが解決したのではない。さらに考えるべき事柄は、三月二六日に「あるがままにおいて、あ るがままに照らされ、啓かれている」のは「自分」であり「自分の宗教」だということである。ベートーヴェンの引 用ならびに右の『探究』からの二つの引用においては、 「自分の外にあるもの」 「自分以外のもの」をそのあるがまま に受け入れる、 という印象が強い。だが、 この日の書付において「あるがまま」なのは「自分」ないし「自分の宗教」 である。 そこで、問題となるのは「ウィトゲンシュタインが自分自身をあるがままの状態で受け入れられたのか否か」であ る。実際のところ、彼は常日頃「自分自身をより良い生き方をできる人間に変えたい」と考えてい た )(( ( 。ドゥルーリー は「自分自身の生活の仕方のすべてを変えようという、常に持ちつづけたウィトゲンシュタインの意志に対して同情 や理解を感じないとすれば、彼を理解することはできな い )(( ( 」と証言している。また、ウィトゲンシュタインが自分自 身 を 嫌 悪 し て い る こ と は、 『 哲 学 宗 教 日 記 』 に も 執 拗 な ま で に 書 か れ て い る。 す な わ ち、 彼 は、 嫌 悪 の 対 象 で あ る 自 分からいかに脱すべきか、という問題と格闘しているのであ る )(( ( 。さらに、 『秘密の日記』においては、 「死の恐怖に怯 える自分を変えたい」 「周りの人々とうまくやっていけない自分を変えたい」という旨の書付が何度も見られる。 以上のように、その都度その都度、現在の自分を容認できない/より良い人間になることを願っているウィトゲン シュタインが、どうして三月二六日に「私は、自分のあるがままにおいて、自分のあるがままに照らされ、啓かれて いる」と述べることができたのかは、 彼の内面的なことはその日の日記からは読み取れないので、 推測するしかない。 筆者は、ウィトゲンシュタインがこのように述べることができたのは「太陽を見ることを待ち焦がれていた彼に対す 一九

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大正大學研究紀要   第一〇〇輯 る、温かい太陽の光の影響が大きいに違いない」と推測するのである。 ま た、 こ の 日 の ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 体 験 を「 宗 教 的 高 み 」「 宗 教 的 境 地 」 と 表 現 し た こ と の 理 由 は、 彼 が あ る がままの「自分」を「あるがままに受け入れた」ことにある。落ち着いた精神状態で自分自身をこのように捉えるこ とができる機会は、ドゥルーリーの証言からもわかるように、ウィトゲンシュタインの生涯でもそれほど多くはない のである。

結語

これまで行なってきたように、 『秘密の日記』にある「光」や「照明」の記述を踏まえて、 『哲学宗教日記』を読み、 一九三六年の冬から翌年の春先にかけてのウィトゲンシュタインが置かれた状況の諸要素(体調不良、孤独に追い込 む自然環境、日照時間の短さ、太陽の状態など)を考慮したうえでの細やかな結論は、以下のようなものである。 病める魂の持ち主であるウィトゲンシュタインは、早春で太陽が現れる機会が少ないショルデンの小屋におい て、 「 単 独 者 」 と し て 神 に 向 か い、 頻 繁 に 神 に 祈 り を 捧 げ た り 神 に 語 り か け た り し た。 そ の さ い、 こ れ ら の 行 為 が光や太陽と結びつくことがかなりあり、一九三七年三月二六日の日記に見られる宗教的高みないし宗教的境地 への到達には、春先の温かい太陽の光がこれを促し た )(( ( 。 本 論 文 で の 考 察 は、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン と い う 一 人 の 人 物、 ノ ル ウ ェ ー の シ ョ ル デ ン の 山 中 と い う 狭 い 場 所、 一九三七年の三月という短い期間に限定したものでしかない。しかしながら、 「光と宗教」 「太陽と宗教」という宗教 学における重要なテーマをめぐる一つの事例――光や太陽が宗教や宗教体験と極めて密接な関係を結んでいることの 事例――を提供したであろ う )(( ( 。 二〇

(21)

太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 二一 写真1 ショルデンの展望 奥がソグネフィヨルドの終わりの部分。左側 がウィトゲンシュタインの小屋のあった湖、 Eidsvatnet。 写真3  南側から見た小屋の基礎部分の石組みの一部 小屋を取り囲む山々の傾斜もかなりきつい。 小屋はどこにでも建てられるというわけでは ない。 写真2 在りし日の小屋 1947 年に B. Richards 氏が撮影したもの。 この写真と写真5を見ると、マクギネスが「柱 頭行者」に言及したのも頷ける。 写真4 小屋跡から南側を望む 当日、太陽は出ていなかったが、雲の切れ目 から明るい部分が見えた。精確な仰角はわか らないが、山が近くにあるので、太陽は春に なってかなり高く昇らないと見えない、と推 測できる。 写真5 小屋跡からショルデンの中心部を望む それは小屋のほぼ真西の方向にある。

(22)

大正大學研究紀要   第一〇〇輯 (1)「コーダー遺稿」 と 『哲学宗教日記』 (後掲) などとの関係については、 ゾマヴィラによる 「編者序」 ( “Editorische Not iz ” ) を見よ。 (2)Ludw ig Wittgenstein: Public and Private Occasions, ed. by J. Klagge and A. Nordmann, Oxford, Rowman & Littlefield Publishers, INC, 2003. この中に、 『秘密の日記』の英訳 ( Mov ements of Thought: Diaries, 1930-1932, 1936-1937 ) も含まれている。 (3)Ludw ig Wittgenstein, Denkbewegungen: T agebücher 1930-1932/1936-1937 , hrsg. v on I. Somavilla, Innsbruck, Hay mon-V erlag, 1997. 鬼界彰夫訳『ウィトゲンシュタイン   哲学宗教日記』講談社、二〇〇五年。 『日記』から の引用文は、基本的にこの鬼界訳を使用する。ただし、一部、句読点や用字を変えた部分や、原文を参照のうえ 訳語・訳文に変更を加えたところもある。引用文において、斜体は暗号体で書かれていることを、一重/二重傍 線は強調を、点線は表現の不確定さを表している(訳書の「凡例」参照) 。 (4)Ludw ig Wittgenstein, Geheime T agebücher 1914-1916 , hrsg. v on W . Baum, Wien,T uria & K ant, 1991. なお、 こ の『秘密の日記』も参照しながら、ウィトゲンシュタインの従軍体験などを宗教的観点から考察する長編ブログ を、二〇一四年一一月一日から開始した――「戦場のウィトゲンシュタイン――人類史上初の世界大戦という地 獄を闘い抜いた勇敢な兵士にして哲学者の物語」 。 (5)ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は「 語 り う る 」 事 実 の 世 界 と、 「 語 り え な い 」 宗 教 の 世 界 と を 峻 別 し た。 こ の 二 つ の 世 界 を 結 び つ け る の が、 「 祈 り 」 と い う 言 語 行 為 で あ る。 祈 り は ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン に と っ て き わ め て 大 切 な 行 為 で あ る。 筆 者 は、 次 の 論 文 に お い て、 現 象 学 者 の A・ シ ュ ッ ツ の「 多 元 的 リ ア リ テ ィ」 論 と ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の「 言 語 ゲ ー ム 」 論 を 結 び 付 け て、 こ の こ と を 詳 細 に 考 察 し た。 Keiji Hoshikawa, ”A Schutzian Analysis of Prayer w ith P erspect iv es from Linguist ic Philosophy , ” forthcoming. 二二

(23)

太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 (6)Norberto Abreu e Silva Neto, “Facing up to Wittgenstein's Diaries of Cambridge and Skjolden: Notes on Self-know

ledge and Belief,

” in UNSPECIFIED A ustrian Ludw ig Wittgenstein So ciety , 2003, p. 12. (7)鬼界、前掲訳書の「訳注」一五二頁。 (8)同「訳注」一五三頁。 (9)この写真は、小屋の移築計画のノルウェー語のパンフレットにある。 (10)黒 崎 宏「 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 紀 行 」( 『 言 語 ゲ ー ム 一 元 論 ―― 後 期 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 帰 結 』 勁 草 書 房 )、 一九九七年、一八二頁。 (11)Brian McGuinness, Wittgenstein: A Life Young Ludw ig 1889-1921 , Berkeley , The Univ ersity of California Press, 1988, p. 202. 藤 本 隆 志 ほ か 訳『 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 評 伝 ―― 若 き 日 の ル ー ト ヴ ィ ヒ   1889-1921 』 法 政 大 学 出版局、一九九四年、三四七頁。 (12)M. O' C. Drury , “Some Notes on Con versat ions w ith Wittgenstein, ” in Recollect ions of Wittgenstein , ed. by R. Rhees, (

Oxford, Oxford Univ

ersity Press, 1984 ), p. 79. (13)鬼 界 彰 夫「 隠 さ れ た 意 味 へ ―― ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン『 哲 学 宗 教 日 記 』( MS183 ) 訳 者 解 説 」( 前 掲 訳 書、 所 収 ) 二九六頁。 (14)『論考』 の最後の 「語りえないもの」 とは何かについては、 次の論文を見よ。星川啓慈 「『論理哲学論考』 における 〈語 りえないもの〉 と 〈沈黙〉 をめぐる新解釈――ウィトゲンシュタインの生涯において 〈文番号七〉 がもった意味」 (『宗教研究』第三六二号、日本宗教学会、二〇〇九年、所収) 。

(15)McGuinness, op. cit., Chap. 7.

マクギネス、前掲訳書、第七章。 (16)一 九 一 五 年 の ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン に 関 す る あ る 報 告 書 で は、 次 の こ と が 書 か れ て い る。 ①( た ぶ ん 戦 争 前 の ) 三つの医学的所見においてまったくの「兵役不適格」とされていること。②ヘルニアの再発と乱視性近視のため 二三

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大正大學研究紀要

 

第一〇〇輯

に「前線勤務はまったく不適当」であること。

McGuinness, op. cit., p. 237.

マクギネス、前掲訳書、四〇二頁。 (17)こ の 攻 勢 に つ い て は 、 最 近 で は 次 の よ う な 研 究 書 が あ る 。 Timothy Dow ling, The Brusilov Offensiv e , Bloomington, Indiana Univ ersity Press, 2008. (18)筆 者 が シ ョ ル デ ン か ら 持 ち 帰 っ た 情 報 や デ ー タ は、 本 論 文、 ブ ロ グ、 YouT ube へ の 動 画 の ア ッ プ な ど を 通 し て すでにいくつか発表している。①動画「ウィトゲンシュタインのノルウェー(一五分版) 」(松野智章撮影 ・ 編集、 YouT ube )、 ② 写 真 入 り の 連 載 ブ ロ グ「 哲 学 者 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が 一 〇 〇 年 前 に ノ ル ウ ェ ー の ソ グ ネ フ ィ ヨ ル ド の 最 奥 部 の 山 中 に 建 て た〈 小 屋 〉 の 跡 を 訪 れ て 」( 全 六 回 )、 ③ エ ッ セ イ「 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の〈 小 屋 〉 の 跡 を 訪 ね て ――『 哲 学 宗 教 日 記 』 を め ぐ る〈 太 陽 〉 の 物 語 」( 『 春 秋 』 第 五 五 九 号、 二 〇 一 四 年 )。 と り わ け、 ① の YouT ube の 動 画 を 見 れ ば、 小 屋 の 跡 へ 至 る ゴ ツ ゴ ツ し た 険 し い 道 の 様 子 や、 そ こ か ら の 周 囲 の 景 観 が 詳 細 にわかる。この意味において、 世界的に貴重な映像記録である。今後も、 「小屋の移築計画」や「ウィトゲンシュ タイン・アーカイブズ」についての動画を YouT ube にアップする予定である。 (19)太陽=神ではない。太陽は、あくまでも、神とウィトゲンシュタインを媒介する存在である。 (20)「太陽体験」について精神病理学的視点から書かれている次の論文集は、ウィトゲンシュタインを理解するうえ でも参考になる。宮本忠雄『病跡研究集成――創造と表現の精神病理』金剛出版、一九九七年。とりわけ、そこ に収められている「太陽と分裂病――ムンクの太陽壁画によせて」は、太陽と宗教性・創造性・治癒などとの関 係を知る上で有益である。 (21)星川啓慈『宗教者ウィトゲンシュタイン』法藏館、一九九〇年、一五七―一六六頁、参照。 (22)Drury , op. cit., p. 77. (23)星川啓慈 「自己嫌悪する自分から 〈あるがまま〉 の自分へ――ウィトゲンシュタインのキリスト教信仰」 (星川啓慈 ・ 松田真理子『統合失調症と宗教――医療心理学とウィトゲンシュタイン』創元社、二〇一〇年、所収) 。 二四

(25)

太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験 (24)さ ら に 踏 み 込 め ば、 「 太 陽 が ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン に そ う し た 宗 教 体 験 / 宗 教 的 境 地 を も た ら す こ と に 具 体 的 に どのように 0 0 0 0 0 作用したのか」 という問題もある。しかし、 これについて答えることは不可能である。その理由を、 『日 記』にそれと関連する記述がないことに加えて、いくつか挙げれば、以下のとおりである。①当日、彼の小屋か ら太陽が彼にどのように見えたかは、いかなる手段(自然科学的なものをふくめて)によっても正確に突き止め る こ と は で き な い。 ② 彼 が そ う し た 宗 教 体 験 / 宗 教 的 境 地 に 至 っ た 時 刻 も 判 明 し な い か ら、 「 現 在 形 」 で 書 か れ ているそれらの体験/境地と太陽の状態とを照合することもできない。 (25)本論文で論じられた「ウィトゲンシュタインの宗教体験と太陽の関係は、新プラトン主義を始めとする西洋思想 の中にいかに位置づけられるのか」という問題意識をいだく読者もいよう。しかし、そうした位置付けや関連付 けの試みは、おそらく論証不可能であるうえに、あまり意味がないであろう。 付記 (1)本論文は「ウィトゲンシュタインの〈小屋〉の跡を訪ねて――『哲学宗教日記』をめぐる「太陽」の物語」 (『春 秋』二〇一四年、第五五九号)を大幅に加筆したものである。 (2)本論文は、平成二五年度日本学術振興会科学研究費(課題番号二五二四四〇〇二)の助成を受けたものである。 (3)写真1・写真3・写真5は渡辺隆明氏、写真2は B. Richards 氏、写真4は松野智章氏によるものである。 二五

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大正大學研究紀要

 

第一〇〇輯

二六

The Sun and Wittgenstein’s Religious Experiences:

The Analysis of His Diary Written in March of 1937

Keiji HOSHIKAWA

Abstract

The second part of Wittgenstein’s diary, Movements of Thought, was

written in his house on the mountain in Skjolden, Norway during the winter of 1936-1937. We can see in it Wittgenstein’s personality as a “homo religiosus.” I visited the remains of his house at the very beginning of March in 2014 and came to appreciate the natural environment (the geography, climate, living things, etc.) which must have had some influences on his sense of solitude, religious experiences or personal contact with God. My experiences and the data acquired there are very helpful to understand the religious contents of the diary.

I will analyze the correlation between the state or appearance of the sun and Wittgenstein’s state of mind, religious experiences or personal contact with God, focusing on the description of March 26th, 1937: “I am as illuminated as I am; I mean: my religion is as illuminated as it is.” My hypothesis is that the appearance of the sun made some contributions to Wittgenstein’s ascent to this religious experience or state of mind. I will prove this by referring mainly to the

other parts of the diary and another diary, Secret Diaries, written during

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