諸葛 亮彼 後 の 「集 団指導 体 制」 と蒋 碗 政権(181)
諸葛亮 残後 の 「 集 団指 導体制」 と蒋碗政権
満 田
唖岡
目次
は じめ に
〔一〕 蒋 碗 の伝 記
〔二〕 諸 葛 亮妓 後 の 混 乱 と 「集 団指 導 体 制 」
〔三〕 『三 國 志 』 蜀 書 か ら見 た 「集 団指 導 体 制 」 と楊 儀 の 失脚
〔四〕 単 独 首班 政権 体 制へ の 「回帰 」
〔五 〕 蒋 碗 政 権 の外 交 ・内政 政 策 お わ りに
は じめ に
建 興 十 二 年(234),諸 葛 亮 は司 馬 整 との 百 日以 上 に わ た る睨 み合 い の 末,五 丈 原 で 陣 彼 した 。 そ の 直 後,帰 還 の 途 中 で魏 延 と楊 儀 の 問 に争 い が 起 こ り, 魏 延 は殺 さ れ る こ と に な る 。 そ して,諸 將 の 成 都 帰 還 の 後,後 継 者 とな っ た
の は 『三 國志 』巻 三 十 三後 主傳 に
十 二 年 … …以 丞 相 留 府 長 史 蒋 碗 爲 尚書 令,総 統 國事 。 とあ る よ うに蒋 碗,字 は公 瑛 で あ っ た。
彼 は諸 葛 亮 の 指 名 に よ っ て後 継 者 一 蜀 漢 の 最 高 権 力 者 の 地 位 に就 い た わ け で あ るが,後 継 者 指 名 に 関 して,『 三 國志 』..四 十 五 楊 戯 傳 附 『季 漢 輔 臣 贅 』 斐松 之 注(以 下,「 斐注」 と略す)所 引 『盆 部 誉 奮 雑 記 』 に は
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諸 葛 亮 於 武 功 病 篤,後 主 遣 幅 省 侍,遂 因 諮 以 國 家 大 計 。 福 往 具 宣 聖 旨, 聴 亮 所 言,至 別 去 藪 日,忽 馳 思 未..其 意,遂 谷口騎 馳 還 見 亮 。 亮 語 輻 日:
「孤 知 君 還 意。 近 日言 語,難 彌 日有所 不 壷,更 來 一・決 耳 。 君 所 間者,公 瑛 其 宜 也 。」 福 謝:「 前 實 失不 諮 請 公,如 公 百 年 後,誰 可任 大 事 者?故 軌 還 耳 。 乞 復 請,蒋 碗 之 後,誰 可任 者?」 亮 日:「 文 偉 可 以 継 之 。」 又 復 問 其 次,亮 不 答 。 幅 還,奉 使 稻 旨。
とあ る。 そ こで は 諸 葛 亮 は 蒋 碗 と費 緯 の 名 を挙 げ,そ の あ と を聞 か れ て も答 え な か っ た とい う こ と に な って い る。
しか し,陳 壽 『三 國志 』 本 文 で は上 記 の 記 述 とは異 な り,『 三 國 志 』巻 四 十 四蒋 碗 傳 に
亮 毎 言;「 公 瑛 託 志 忠 雅,當 與 吾 共 賛 王 業 者 也 。」 密 表 後 主 日:「 臣若 不 幸,後 事 宜 以付 碗 。」
とあ る こ とや 『三 國志 』 巻 四 十楊 儀 傳 に
而 亮 平 生 密 指,以 儀 性 猜 狡,意 在 蒋 碗,碗 遂 爲 尚書 令,盆 州 刺 史 。
とあ る よ う に,諸 葛 亮 は蒋 碗 よ り後 の こ と に は 口 を 出 して い な い こ と に な っ て い る。
蜀 漢 政 権 につ い て の代 表 的 な先 行 研 究 と して は,狩 野 直 禎 ・榊 原 文 彦 ・ヂ^
餉 公 ・中 林 史朗 ・臥 立 翠 ・渡 邉 義 浩 の 諸 氏 の研 究1)が 挙 げ られ る。 しか し, これ らの研 究 で 蒋 碗 輔 政 期 に つ い て 言 及 され て い る の はサ ・中林 ・取 ・渡 邉 の 諸 氏 で あ り,そ の 中 で も蒋 碗 輔 政 期 は先 に引 用 した襲 注 所 引 『盆 部 誉 奮 雑 記 』 の記 述 を受 け て か 費 緯 輔 政 期 と ま とめ て述 べ られ る こ とが 多 い2)。 しか し,上 記 の よ う な諸 葛 亮 の 後 継 者 指 名 に 関す る記 述 の 違 い に注 目す る と,陳 壽 の意 識 の 中 で 蒋 碗 輔 政 期 と費 緯 輔 政 期,そ して 姜 維 輔 政 期 との 間 に違 い が 存 在 す るの で は ない か と思 われ る。
本 論 文 で は,陳 壽 『三 國 志 』 本 文 と斐 注 所 引 史 籍 にお け る諸 葛 亮 の後 継 者 指 名 に 関 す る記 述 の 違 い に注 目 し,決 して多 くは ない 史 料 か らで は あ るが 政 権 首 班 就 任 以 前 の 蒋 碗 の 人 と な り を踏 ま え た 上 で,蒋 碗 政 権 の確 立 過 程 と政 策 の特 徴 を整 理 し,蜀 漢 国 史 にお け る 蒋 碗 政 権 の 位 置 づ け と彼 の存 在 意 義,
諸 葛亮7X後 の 「集 団指導 体制 」 と蒋 碗 政権(183)
そ して 陳壽 の 「蜀 漢 国 史観 」 の 一端 に触 れ て み たい と考 え てい る。
〔一 〕 蒋 碗 の伝 記
蒋 碗(字 は公瑛)に つ い て は,『 三 國 志 』 巻 四 十 四 に傳 が あ る3)。 そ れ に よ る と,蒋 碗 は荊 州 零 陵 郡 湘 郷 の人 で あ る。弱 冠 に して外 弟 で あ る泉 陵 の劉 敏4) と と もに 名 を 知 られ た 。 赤 壁 の 戦 い の 後,劉 備 が 零 陵 を支 配 した 際 に配 下 と な っ た の か も しれ ない が,劉 備 の 配 下 とな っ た 時期 は よ くわ か ら ない 。 また, 零 陵 の蒋 氏 に ど の程 度 の 力 が あ っ た か は わ か らな い が,一 定 の 名 声 と経 済 力 を有 して い た と思 われ る。 『三 國志 』 巻 六 十 一溢 溶 傳 斐 注 所 引 『江 表 傳 』 に は
時 溶 嬢 兄 零 陵 蒋 碗 爲 蜀 大 將 軍5),或 有 間溶 於 武 陵 太 守 衛 族 者,云 溶 遣 密 使 與 碗 相 聞,欲 有 自託 之 計 。 施 以 敗 灌,椹 日:「 承 明不 爲 此 也 。」 即 封 施
表 以示 於 溶,而 召 施 還,免 官 。
とあ り,蒋 碗 は武 陵郡 漢 壽 の 人 で あ る播 溶6)の 妻 の兄 で あ っ た こ とが わか る が,王 藥 の評 価 を受 け た 播 溶 との 人 間 関係 が あ る こ と も零 陵 の 蒋氏 の 名声 と 経 済 力 を考 え る上 での 傍 証 とな る で あ ろ う。
蒋 碗 が 州 の書 佐 と して 劉 備 に随 っ て 蜀 に入 り,広 都 の 長 に任 命 され た 。 劉 備 は遊 覧 のつ い で にた また ま広 都 に立 ち 寄 っ た 際 に,蒋 碗 が 仕 事 を して い な か っ た 上 に泥 酔 して い た の を見 て,大 い に怒 り,処 罰 し よ う と した 。 軍 師 將 軍 の 諸 葛 亮 は 「蒋 碗 は社 稜 の 器 で あ っ て 百 里 を 治 め る よ うな才 能 で は あ りま せ ん 。 彼 の 政 治 は 民 を安 んず る こ と は根 本 と し,外 見 を良 くす る こ と を優 先
して お りませ ん。 願 わ くは主 公 に は重 ね て この こ とを ご推 察 くだ さい 」 と述 べ て 救 お う と した7)。 劉 備 は諸 葛 亮 を敬 愛 して い た の で処 罰 せ ず 免 官 す る だ
け に と どめ た。 そ の後,什 郁 の令 とな った 。
劉 備 が 漢 中 王 に な る と,蒋 碗 は 政府 に入 っ て 尚 書 郎 と な っ た 。 建 興 元 年 に 丞 相 諸 葛 亮 が 開府 す る と,蒋 碗 を招 い て東 曹 縁 と した。 そ の後 茂 才 に挙 げ ら
れ た が,蒋 碗 は劉 琶 ・陰化 ・靡 延 ・彦 淳 とい っ た人 々 に 固 く譲 っ て受 け よ う とせ ず,諸 葛 亮 に 諭 され て い る。 そ の 後,参 軍 とな っ た。 建 興 五 年 に 諸葛 亮
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が 漢 中 に 駐 留 す る と,蒋 碗 と長 史 張 商 は 成 都 の留 府 の 事 務 を つ か さ ど っ た 。 建 興 八 年 に は 張 商 に代 わ って 長 史 とな り,撫 軍 將 軍 を加 え られ た 。 この こ と で 軍 務 も担 当 で き る こ とに な っ た と考 え られ る。 諸 葛 亮 は しば しば外 征 した が,蒋 碗 は常 に 食 糧 と兵 士 を満 た し,遠 征 軍 に供 給 した 。 この よ うな後 方 支 援 は,劉 備 の生 前 に は 『三 國 志 』 巻 三 十 五 諸 葛 亮 傳 に
先 主 外 出,亮 常 鎭 守 成都,足 食足 兵 。
とあ る よ うに諸 葛 亮 の 担 当 で あ り,諸 葛 亮 は前 線 に 立 つ こ とは ほ とん どなか っ た わ けだ が,蒋 碗 は この 諸 葛 亮 の歩 ん で きた道 を踏 襲 して い た こ とに な る。
諸 葛 亮 は常 々 「公 談 は忠 義 の 志 を持 っ て お り,私 と と も に王 業 を支 え るべ き 者 で あ る」 と述 べ て お り,密 か に後 主 に上 表 して 「臣 に若 し不 幸 が あ れ ば, 後 の事 は蒋 碗 に まかせ て くだ さい 」 と上 表 して い た の で あ る 。
諸 葛 亮 が 亡 くな る 健 興+二 年八 月)と,蒋 碗 は 尚書 令 とな り,俄 に行 都 護 ・假 節 ・領 盆 州 刺 史 を加 え られ,(翌 建興十三年四月に)大 將 軍 ・録 尚 書 事 に 移 り,安 陽 亭 侯 に封 ぜ られ た 。 当 時 は諸 葛 亮 を失 っ た ば か りで遠 き も近 き も 危 惧 の 念 を懐 い て い た 。 蒋 碗 は抜 擢 され て諸 官 僚 の 上 に位 置 した が,悲 しみ
も喜 び も な く精 神 も態 度 も変 わ らず 平 日の よ うで あ り,こ れ に よ って 衆 望 は 漸 く服 した 。 延 煕 元 年 に詔 勅 が 下 っ て漢 中 に駐 屯 して 開 府 し,翌 年 に は大 司 馬 を加 え られ た。
蒋碗 は諸 葛 亮 が しば しば秦 川 を うか が い な が ら,道 は 険 し く運 送 が 困難 で あ っ た た め,寛 に克 つ こ とが で き なか っ た と して,水 に乗 じて東 に下 る ほ う が よい と考 え た。 そ こ で多 くの 船 を作 り,漢 水 ・汚 水 か ら魏 興 ・上 庸 を襲 撃
し よ う と した 。 た また ま持 病 が 連 続 して起 こ り,実 行 す る こ とが で きな か っ た 。 しか も衆 論 はみ な 「も し勝 利 を得 られ なか った ら,帰 路 が 甚 だ 困 難 で あ っ て,良 策 で は な い」 と い う こ とで あ っ た 。 そ こで,尚 書 令 費緯 ・中 監 軍 姜 維 等 が派 遣 され て聖 旨が 伝 え られ た。 蒋 碗 は命 を受 けて 上 疏 し,「 も し東 西 力 を合 わ せ る な らば,速 や か に志 を得 る こ と は で きず と も分 裂 させ て 穰 食 し, 先 に そ の 支 党 を砕 くこ とが で き る は ず で あ り ます 。 然 る に呉 は約 束 を違 え て お ります 。 費 禧 等 と議 して お ります が,涼 州 胡 塞 の要 害 の 地 は進 む に も退 く
諸葛 亮妓 後 の 「集 団指 導体 制」 と蒋碗 政 権(185)
に も資 あ っ て,賊 の 惜 しむ と こ ろ で す 。 且 つ 禿 や胡 は心 で は漢 を渇 望 し,又 昔 偏 軍 が 完 に入 っ て 郭 准 は破 れ 走 っ た こ と もあ ります 。 そ の 長 短 を測 る に真 っ先 に 目 をつ け るべ き と こ ろ で あ る の で,姜 維 を涼 州 刺 史 と して くだ さ い 。
も し姜 維 が 征 行 し河 右 を制 圧 す れ ば,臣(蒋 碗)は 軍 を率 い て姜 維 に続 き鎮 め て い き ま し ょ う。 今 浩 は水 陸両 道 で 四 方 に通 じ,危 急 の 際 に も対 応 で き ます 。
も し東 北 に虞 れ が あ って も,出 撃 す る こ と も難 し くあ りませ ん 」(大 意)と 述 べ て,碗 は還 っ てAに 駐 屯 した。 病 が ます ます ひ ど くな り九 年 に卒 した 。 詮 は恭 で あ る。 浩 に駐 屯 した 後 の延 煕 七 年 に はi魏の 曹 爽 ・夏 侯 玄 らの漢 中 攻 撃 が あ っ た8)が,防 戦 の た め に出 陣 した の は 費 緯 で あ り,蒋 碗 は 直接 に は 関与
して い ない と思 わ れ る。
蒋 碗 の北 伐 計 画 に関 連 して,『 三 國 志 』 巻 四十 四蒋 碗 傳 にあ る延 煕 元 年 の詔 勅 に
須 呉 基 動,東 西 椅 角,以 乗 其 壕 。
とあ るが,中 林 史朗 氏 は この詔 勅 を引 用 され た あ と,
確 か に呉 と結 ぶ 事 は,蜀 漢 の 基 本 戦 略 で は あ っ た,だ が 其 れ は,あ くま で も蜀 が 「主 」 で あ り呉 は 「従 」 の 関 係 に 過 ぎ なか っ た はず で あ る。 し か し,こ こで は,「 呉 の挙 動 を須 」 ち て と言 う如 く,呉 の 動 きが 主 と為 り, 蜀 は 「従 」 の 立 場 に 位 置 し,既 に 呉 ・蜀 関 係 に 於 て 主 客 が 転 倒 して い
る。g)
と述 べ て お られ る。 ま た,氏 は蒋 碗 の 北 伐 計 画 が 衆 論 に よ り中止 させ られ た と し,衆 論 で は戦 略 に基 づ い た行 動 を とる か ど うか よ り単 純 に戦 術 の結 果 が 問 わ れ て い る,と して い る。 加 えて,諸 葛 亮 の 死 後,劉 暉 自身 の 姿 勢 自体 に 変 化 が 見 られ,蜀 漢 政 権 自体 も基 本 的 方 向 性 が徐 々 に転 換 して 土 着 化 傾 向 を 示 し,
戦 術 と して の 対 魏 戦 闘 は 行 わ れ るが,戦 略 上 に於 け る其 の 理 念 に基 づ い て 生 死 を賭 け るが 如 き戦 闘 は,一 度 と して行 な わ な い。 則 ち,孔 明 の死 去 に伴 って 蜀 漢 政 権 は,伝 統 的 正 統 性 と言 う理 念 上 に於 て は,そ の 存 在
意義 を失 った,つ ま り蜀 漢 政 権 は終 焉 した と言 え る。10)
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と述 べ,諸 葛 亮 以 前 とそ の死 後 とで は 同 レベ ル で 論 ず る こ とが で きず 連 続 し た存 在 で は な い,と され て い る11)。
渡 邉 義 浩 氏 も蜀 漢 が 益 州 土 着 政 権 と化 して 正 統 性 を失 っ て い くこ とへ の 配 慮 を した た め蒋 碗 の北 伐 が 計 画 され た と して い る12)。
確 か に蒋 碗 政 権 期 以 降,蜀 漢 政 権 は 土 着 化 傾 向 を示 して い っ た と考 え られ る。 しか し,蒋 碗 の 北 伐 は 果 た して 呉 の 動 き を 「主 」 と し蜀 を 「従 」 と して い た の で あ ろ うか,ま た蒋 碗 の北 伐 は 政権 の正 統 性 へ の 配 慮 の た め だ け に 計 画 され た の で あ ろ うか,本 当 に 諸葛 亮 の 死 で もっ て理 念 上 で も蜀 漢 政 権 は終 焉 して し ま っ て い た の で あ ろ うか 。 これ らに つ い て考 え る に は蒋 碗 ρ 北 伐 計 画 と当 時 の 三 国 の動 き を整 理 す る必 要 が あ るが,紙 幅 の都 合 で稿 を改 め て述 べ て い きた い。
〔二 〕 諸葛 亮 妓 後 の 混 乱 と 「集 団指 導体 制 」
蒋 碗 は,x興 十 二 年(234)の 諸 葛 亮 の 死 か ら延 煕 九 年(246)に 亡 くな る ま で の約12年 間,蜀 漢 の最 高 指 導 者 と して 政 権 を握 っ て い た。 『三 國志 』 な どを 参 考 に して そ の 間 の彼 の 職歴 を見 る と,
建 興 十 二 年 尚書 令 ・行 都 護 ・假 節 ・領 盆 州 刺 史
建 興 十 三 年 大 將 軍 ・録 尚書 事 ・中都 護(〜 建 興 十 四年)・ 領盆 州 刺 史 延 煕 二 年 大 司 馬 ・録 尚書 事 ・領 盆 州 刺 史
と な る13)。 こ れ に加 え て,先 に引 用 した 『三 國 志 』 巻 三 十 三 後 主 傳 の 内容 を 考 慮 す る と,蒋 碗 は諸 葛 亮 の死 の 直 後 か ら蜀 漢 に お い て 中 心 的 な地 位 を 占め
て きた とい う こ とが 理 解 で きる。
た だ,諸 葛 亮 の死 の 直 後 につ い て は,『 華 陽 國 志 』巻 七 劉 後 主 志 建 興 〇 二 年 条 に
干 是 以 碗 爲 尚書 令,ǹ1統 國 事,以 儀 爲 中軍 師,司 馬 費 緯 爲 後 軍 師,征 西 姜 維 爲 右 監 軍 、 輔 漢 將 軍,郵 芝 前 軍 師 、 領 菟 州刺 史,張 翼 前 領 軍,並 典
軍 政 。
諸葛 亮妓 後 の 「集 団指導 体 制」 と蒋 碗 政権(187)
とあ り,こ れ に よ る と蒋 碗 ・楊 儀 ・費 禧 ・姜維 ・郵 芝 ・張 翼 の6人 に よ る集 団指 導体 制 が 組 まれ てい た と考 え られ て い る14)。
この 見 方 に よる と,集 団 指 導 体 制 は 翌建 興 十 三 年 正 月 の楊 儀 失 脚 を経 て 四 月 に蒋 碗 の 大 將 軍 ・録 尚 書 事 就 任 に よ り約 八 カ月 で 解 消 され,蒋 碗 が 単 独 首 班 とな っ た政 権 と な っ て い くわ けで あ るが,こ の約 八 カ 月 の 所 謂 「集 団 指 導 体 制 」 につ い て 考 え る と同 時 に,諸 葛 亮 とい う蜀 漢 にお い て 非 常 に大 き な影 響 力 を もっ た 指 導 者 の 後 を どの よ うに 引 き継 い で い っ た の か とい う こ とにつ い て も考 えて み た い 。
こ こで,諸 葛 亮 が 亡 くな っ た建 興 十 二 年(234)八 月 か ら蒋 碗 が 大 將 軍 ・録 尚書 事 に就 任 す る十 三 年(235)四 月 まで の 『三 國 志 』 蜀 書 後 主 傳 本 文 の 記 事 を確 認 して お きた い 。
十 二 年 … … 秋 八 月,亮 卒 干 溜 濱 。 征 西 大 將 軍 魏 延 與 丞 相 長 史楊 儀 争権 不 和,墨 兵 相 攻,延 敗 走;斬 延 首,儀 率 諸 軍 還 成 都 。 大 赦 。 以 左 將 軍 呉 壼 爲 車騎 將 軍,假 節 督 漢 中。 以 丞 相 留 府 長 史蒋 碗 爲 尚 書令,総 統 國事 。 十 三 年 春 正 月,中 軍 師 楊 儀 慶 徒 漢 嘉 郡 。 夏 四 月,進 蒋 碗 位 爲 大 將 軍 。 これ を見 る と,諸 葛 亮 死 後 の蜀 漢 に お け る変 化 と して,
① 魏 延 の 敗 死 と楊 儀 の 失 脚
② 諸葛 亮 政 権 の 中心 で あ っ た漢 申 は呉 諮 に任 され た こ と
③ 蒋碗 が 国 事 を総 統 す る立 場,つ ま り諸葛 亮 の後 継 者 の地 位 に就 い た こ と が挙 げ られ る。
① の 中 で も,楊 儀 の 失 脚 につ い て は 「集 団 指 導 体 制 」 につ い て 考 察 す る 中 で 述 べ る こ と と し,こ こで は魏 延 の敗 死 につ い て確 認 して み た い 。 魏 延 に 関 して は,賀 游 ・張 雲 樵 ・常征 ・洪 濤 な どの諸 氏 の研 究15)が あ るが,こ れ らの 論 文 で は先 に 引 用 した 魏 延 傳 の文 章 か ら,一 様 に魏 延 に は性 格 上 の問 題 は あ っ た にせ よ叛 乱 の 意 志 は な か っ た と して 擁 護 し,有 能 な将 軍 で あ っ た魏 延 を 使 い こ なせ な か った 諸葛 亮 に 問題 が あ る と して い る。 中で も洪 濤 氏 は,「 諸 葛 亮 はi魏延 が 後 継 者 で あ る蒋 碗 や 姜 維 に とっ て 障 害 に な る と考 え て死 に追 い 込
(1ss)
ん だ」 と して い る。
そ こ で,魏 延 の死 に 関 連 す る 『三 國 志 』蜀 書 の 記 述 を見 る と,ま ず巻 四十 魏 延 傳 に は次 の よ うに述 べ られ て い る。
秋,亮 病 困,密 與 長 史楊 儀 、 司 馬 費 緯 、 護 軍 姜 維 等 作 身妓 之 後 退 軍 節 度, 令 延 断 後,姜 維 次 之;若 延 或 不 從 命,軍 便 自獲 。 亮 適 卒,秘 不 登 喪,儀 令 緯 往 掃 延 意 指 。 延 日:「 丞 相 難 亡,吾 自見 在 。 府 親 官 屡 便 可 將 喪 還 葬, 吾 自當 率 諸 軍 撃 賊,云 何 以 一 人 死 慶 天 下 之 事 邪?且 魏 延 何 人,當 爲 楊 儀 所 部 勒,作 断 後將 乎!」 因與 禧 共 作 行 留 部 分,令 禧 手 書 與 己連 名,告 下 諸將 。 緯 給 延 日:「 當 爲 君 還 解 楊 長 史,長 史文 吏,稀 更 軍事,必 不 違 命 也 。」
緯 出 門馳 馬 而 去,延 尋 悔,追 之 巳 不 及 。 延 遣 人 硯 儀 等,遂 使 欲 案 亮 成 規,諸 螢 相 次 引 軍 還 。延 大 怒,(綾)〔 擁 〕儀 未 獲,率 所 領 径 先 南 蹄,所 過 焼 絶 閣道 。延 、 儀 各 相 表叛 逆,一 日之 中,羽 轍 交 至 。 後 主 以 問侍 中 董 允 、
留 府 長 史 蒋 碗,碗 、 允 成保 儀 疑 延 。儀i等磋 山通 道,書 夜 兼 行,亦 纏 延 後 。 延 先 至,擦 南 谷 口,遣 兵 逆 撃 儀 等,儀 等 令 何 平 在 前 禦 延 。 平 叱 延 先 登 日=「 公 亡,身 尚未 寒,汝 輩 何 敢 乃 爾1」 延 士 衆 知 曲在 延,莫 爲 用 命,軍 皆 散 。 延 猫 與 其 子 藪 人 逃 亡,奔 漢 中 。 儀 遣 馬 岱 追 斬 之,致 首 於 儀,儀 起
自踏 之,日:「 庸 奴1復 能 作 悪 不?」 遂 夷 延 三 族 。初,蒋 碗 率 宿 衛 諸 螢 赴 難 北 行,行 歎 十 里,延 死 問至,乃 旋 。 原 延 意 不 北 降魏 而 南 還 者,但 欲 除 殺 儀等 。 平 日諸 將 素 不 同,翼 時論 必 當 以代 亮 。 本 指 如 此 。 不便 背 叛 。 これ を見 る と,確 か に先 行 研 究 の指 摘 の とお り,魏 延 に叛 乱 の 意 志 は な か っ た とい う こ とに な るだ ろ う。 しか し,同 じ魏 延 傳 に
延 既 善 養 士 卒,勇 猛 過 人,又 性 衿 高,當 時 皆 避 下 之 。 唯 楊 儀 不 假 借 延, 延 以 爲 至 忽,有 如 水 火 。
とあ る こ とや巻 四十 四 費禧 傳 に
値 軍 師 魏 延 與 長 史 楊 儀 相 憎 悪,毎 至 並 坐 箏 論,延 或 基 刀 擬 儀,儀 泣 涕 横 集 。 緯 常 入 其 坐 問,諌 喩 分 別,終 亮 之 世,各,,.延 、儀 之 用 者,禧 匡救 之 力 也 。
とあ り,巻 四 十劉 談 傳 に も
諸 葛亮 妓後 の 「集 団指 導体 制 」 と蒋 碗 政権(189)
建 興 十 年,與 前 軍 師魏 延 不 和,言 語 虚 誕,亮 責譲 之 。
とあ る。 こ の こ とか らす る と,陳 壽 『三 國志 』 の 記 載 か ら判 断 で き る魏 延 の 人物 像 につ い て は巻 四 十 五楊 戯 傳 附 『季 漢 輔 臣贅 』 の
文 長 剛 粗,臨 難 受 命,折 衝 外 禦,鎭 保 國 境 。 不 協 不 和,忘 節 言L,疾 終 惜 始,實 惟 廠 性 。
とい う指 摘 が 妥 当 な と こ ろ で あ っ て,諸 氏 の 研 究 が 強 調 され る 「有 能 な 将 軍 ・魏 延 」 とい う見 解 につ い て は簡 単 に は首 肯 し難 い。
先 行研 究 の 諸 氏 は 「魏 延 の死 の 責 任 は諸 葛 亮 に あ る」 と見 るが,果 た して そ れ だ け で あ ろ うか 。 確 か に彼 は諸 葛 亮 との 関係 が 良 くな か っ た 。 しか し, そ れ だ け で は な く蒋 碗 や 費 偉,董 允 が 彼 を どの よ う に見 て い た か は魏 延 傳 に もあ る とお りで あ る。 経 歴 を見 る と魏 延 は い わ ば 「た た き上 げ の 軍 人」16)で あ り,こ の こ とか らす る と政 権 を構 成 して い た 一 定 の名 声 や経 済 力 を有 す る 官 僚 層 か ら疎 外 され て い た可 能 性 す らあ る。 さ らに,そ の よ う な官 僚 層 とは 出 自が 異 な る劉 瑛 と も関 係 が よ くなか っ た17)。 これ らに加 え て,魏 延 傳 にあ る よ うに,彼 は そ の 性 格 な どか ら皆 に避 け られ て い た の で あ る。 そ うで な け れ ば,五 丈 原 か ら諸 軍 が魏 延 を残 して 引 き上 げ る こ と もな い だ ろ う。
とい う こ とか らす る と,や は り先 に引 用 した 『季 漢 輔 臣賛 』 の 評 価 が 妥 当 だ と言 わ ざ る を得 な い。 こ の よ う に見 る と,洪 濤 氏 が 述 べ られ た よ う に魏 延 が 蒋 碗 や 姜 維 の 障 害 に な る こ とが あ っ た と して も,そ れ は 「翼 時 論 必 當 以 代 亮 」 とい う理 由 で は な か っ た と考 え られ る。
と こ ろ で,魏 延 の 死 の 原 因 と して性 格 的 問 題 に 端 を発 す る楊 儀 との 対 立 も さ る こ とな が ら,諸 葛 亮 に対 す る不 平 不 満 が 挙 げ られ る 。 特 に諸 葛 亮 に対 す る不 平 不 満 の 原 因 と して は,戦 略 に 関 す る 諸 葛 亮 との考 え方 の 違 い が そ の0 因 と して挙 げ られ よ う。
諸 葛 亮 の 北 伐 に 関 して は種 々 の 先 行研 究が あ り様 々 な 議 論 が あ る18)が,詳 細 は別 稿 に 譲 る こ と と して,こ こで は 諸 葛 亮 の 北 伐 戦 略 の概 略 につ い て 述 べ て お きたい 。
諸 葛 亮 の戦 略 に 関 して,間 接 的 で は あ る が 『三 國志 』 巻 二 十 二 陳 翠 傳 附 陳
(190}
泰 傳 に次 の よ うな記 述 が あ る。
衆 議 以 経 奔 北,城 不 足 自固,維 若 断 涼 州 之 道,兼 四 郡 民 夷,檬 關 、 朧 之 瞼,敢 能 没 維 軍 而屠 朧 右 。 宜 須 大 兵 四 集,乃 致 攻 討 。19)大 將 軍 司 馬 文 王 日;「 昔 諸 葛 亮 常 有 此 志,卒 亦 不 能 。 事 大 謀 遠,非 維 所 任 也 。 且 城 非 倉 卒 所抜,而 糧 少 爲 急,征 西 速 救,得 上 策 。」
これ は魏 の正 元 二 年,蜀 漢 の 延 煕 十 八 年(255)に 姜 維 がJ7¥道 に攻 め 込 ん だ と きの話 で あ る。 雍 州 刺 史 の 王 経 が 姜 維 に大 敗 してX.L道城 に た て こ も った 際, こ の事 態 へ の 対 応 につ い て の魏 の 内部 で の協 議 の 内 容 で あ る。 文 章 中 の"征 西(將 軍)"と は 陳泰 の こ とで あ る。
"衆 議"に 対 す る司 馬 昭 の発 言 は
,要 す る に"衆 議"が 諸 葛 亮 の 北 伐 戦 略 で あ る と(少 な くとも)司 馬 昭 が 考 え て い た とい う こ とで あ る。 しか も,そ の戦 略 に よ っ て 朧 西 を攻 略 され る こ と は,(直 接 的 には書 いてはいないが)魏 に とっ て いや な こ とで あ る こ とは理 解 で き るだ ろ う。 つ ま り,諸 葛 亮 の戦 略 は
涼 州 へ の交 通 路 を遮 断 し,四 郡(朧 西 ・南安 ・天水 ・略陽[広 魏])の 人民 ・ 蛮 族 を あ わ せ,関 ・朧 の 要 害 を 占拠 し,朧 西 を攻 略 す る(そ して,そ の上 で長安 を窺 う)。
とい う こ とで あ っ た(と 少 な くとも司馬昭は考えていた)の で あ る。
加 え て,『 三 國志 』巻 二 十 六 郭 潅 傳 に あ る五 丈 原 の 戦 い の 際 の
青 龍 二 年,諸 葛 亮 出斜 谷,並 田干 蘭 坑 。 是 時 司 馬 宣 王 屯 滑 南;准 策 亮 必 争 北 原,宜 先 擦 之,議 者 多 謂 不 然 。 准 日:「 若 亮 跨 清 登 原,連 兵 北 山,隔 絶 朧 道,揺 蕩 民 、夷,此 非 國 之利 也 。」
とい う郭 准 の指 摘 を考 慮 す る と,司 馬 昭 だ け で な く司 馬 酪 も同 様 に考 え て い た可 能 性 が あ る。
この よ う な諸 葛 亮 の 方 針 は,当 時 の 雍 州 ・涼 州 の 情 勢 も考 慮 に入 れ な け れ ば な らな い20)。 河 首 平 漢 王 宋 建 が 抱 牢 を根 拠 地 と して 夏 侯 淵 に滅 ぼ さ れ る ま で 三 十余 年 間独 立 を保 って い た こ とが 『三 國志 』魏 書 武 帝 紀 に記 され て い る21) が,こ れ は,「 河 西 ・朧右 が 政 治 的 ・社 会 的 ・経 済 的 に独 立 の 一 域 と して 中原 に対 抗 す る形 勢 に あ っ た こ と を明示 して い る」22)と 考 え られ る。 また,黄 初
諸葛 亮妓 後 の 「集 団指導 体 制」 と蒋 碗 政権(191)
二 年(221)ま で宋 建 以 外 に も雍 州 ・涼 州 で は 反 乱 が 相 次 いで お り23),な か な か 安 定 しな か っ た 。 しか も独 立 の 一 域 と して 中 原 に対 抗 しよ う とす る こ とが で き る ほ ど豊 か で もあ っ た の で あ る。 この こ とだ け か ら考 え て も,諸 葛 亮 が 先 述 した よ うな戦 略 を考 え る理 由が 理 解 で き よ う24)。
『三 國志 』 にお け る涼 州 関 連 の 記 事 を精 読 す る と,黄 初 二年(221)に な っ て そ れ まで 相 次 い だ涼 州 の 反乱 が よ うや く鎮 圧 され,こ の前 後 か ら西 域 との 交 通 が 始 まっ た25)よ う な状 態 で あ っ た こ とが 理 解 で きる。 そ して,よ うや く涼 州 が 落 ち着 きか け て きた と思 った と こ ろで 太 和 元 年(227)に 西 平 の麹 英 が 反 乱 を起 こ し,臨 完 や 西 都 で暴 れ た の で あ る26)。i雍州 で も黄 初 六 年(225)か ら 太 和 元 年(227)の こ と と思 わ れ るが,安 定 のJ族 の 大 帥 辟 號 が 反 乱 を起 こ し て い る27)。 また,実 際 諸 葛 亮 の 北 伐 に 朧西 の 莞 族 も呼 応 して い た 可 能 性 が 高 い28)。 太 和 元 年 とい え ば,諸 葛 亮 が 漢 中 に駐 屯 し本 格 的 に北 伐 準 備 に入 っ た 年 で あ る。 そ れ に,『 三 國志 』巻 十 六倉 慈傳 に は,敦 煙 の 情 勢 と して
太 和 中,'/S太 守 。 郡 在 西 睡,以 喪 乱 隔 絶,曖 無 太 守 二 十 歳,大 姓 雄 張,遂 以 爲 俗 。
とあ る。 つ ま り,倉 慈 が 赴 任 す る まで の二 十 年 間太 守 は い なか っ た の で あ り, 魏 の統 治 の 不 安 定 さ は こ こに も見 て取 る こ とが で き る。
上 記 の よ う な状 態 を考 慮 に入 れ る と涼 州 は ま だ まだ 不 安 定 で あ り,情 勢 の 変 化 に よ っ て は い つ で も混 乱 に 陥 る 可 能 性 が あ っ た と言 え よ う。 とす れ ば, 涼 州Lあ る い は そ れ 以 西 の 異 民 族 諸 勢 力 の 中 で も蜀 漢 に つ こ う と して い る も の もあ っ た とい う こ とは 十 分 考 え る こ とが で き,ま す ます涼 州 が 混 乱 に 陥 る 可 能 性 は膨 らん で くる。 こ こ まで 述 べ た こ と を踏 ま え て考 え る と長 安 ・洛 陽 か ら涼 州 へ の 交 通 路 を遮 断 す れ ば,涼 州 が 蜀 漢 に帰 属 して くる可 能 性 が 高 く 29),そ うな れ ば涼 州 が 蜀 漢 に と っ て の 軍 事 的 補 給 地 とな る だ け で な く,西 域 へ の 通 路 を蜀 漢 が お さ え る とい う こ と,つ ま り,西 域 貿 易 の 利 益 は蜀 漢 の も の とな った とい うこ とが 想 定 で きる。
また,外 交 面 で は 呉 との 友 好 ・同盟 関係 を築 い て い た が,そ れ だ け で は な
{192}
い 。 宮 川 尚 志 氏 の 指 摘 に もあ る よ う に30),西 南 夷 を お さ え31),鮮 卑 の 朝 比 能32),月 支 ・康 居 な どの 周 辺 異 民 族 と も連 絡 を と る な ど関 係 を築 こ う と して い た 。 これ らは す べ て 「北 伐 を成 功 させ る」 とい う 目 的観 に貫 か れ た非 常 に 現 実 主 義 的 な対 応 で あ っ た 。 特 に建 興 三 年(225)に 南 征 を行 っ て 後 顧 の憂 い を無 く した の で あ るが,こ れ に は現 在 の 雲 南 地 方 や ビル マ 方 面 の ル ー ト(西 南 シル クロー ド)か らの南 方物 資 を確 保 す る意 味 もあ っ た と考 え られ る33)。
月氏 ・康 居 に 関 して は,『 三 國 志 』 巻 三 十 三 後 主 傳 斐 注 所 引 『諸 葛 亮 集 』 に あ る建 興 五 年(227)三 月 の後 主 の詔 勅 に次 の よ うな記 述 が あ る。
涼 州 諸 國 王 各 遣 月 支 、 康 居 胡 侯 支 富 、康 植 等 二 十 蝕 人 詣 受 節 度,大 軍 北 出,便 欲 率 將 兵 馬,奮 父 先駆 。
こ こ にあ る月 支 ・康 居 に 関 して は様 々 な見 方 が で き,確 実 に特 定 で きな いが, 使 者 を送 っ て来 た 集 団 が 大 月 氏 や西 域 諸 国 の影 響 を受 け て い る に して もい な い に して も,「 涼 州 や 西 域 の 異 民 族 に は蜀 漢 と良 い 関係 を築 く とい う選 択 肢 が あ っ た」 とい う こ と と 「魏 王 朝 の統 治 下 に あ っ て も涼 州 は安 定 して い な か っ た」 とい う こ と は言 え る で あ ろ う。劉 暉 の 詔 勅 に こ の よ う な記 述 が あ る とい う こ とは,使 者 が 蜀 漢 に来 て い な くて は な らな い とい う こ とで あ り,そ の 使 者 は お そ ら く涼 州 を通 っ て きた,も し くは 出発 して き た こ とで あ ろ う。 蜀 漢 へ 向 か う使 者 が 魏 王 朝 統 治 下 の 涼 州 を通 る,な い し出発 す る こ とが で きた と い う こ とで あ る な らば,そ れ だ け魏 王 朝 の 涼 州 に対 す る支 配力 が まだ まだ 弱 か っ た とい う こ と を意 味 して い る と思 われ る。
加 え て,内 政 面 で は農 業 の振 興34),治 水 施 設 の 整 備35),塩 鉄 の専 売36),蜀 錦 の増 産37),通 貨 の安 定 な どの諸 政 策38)を 実 行 し,民 衆 生 活 を安 定 させ て い っ た39)。
こ の よ う に,諸 葛 亮 は北 伐 の た め に様 々 な準 備 を整 え,状 態 をす べ て把 握 し,そ れ らに立 脚 した 非 常 に緻 密 で 手 堅 い 戦 略,そ して 国 家 そ の もの を構 築 して い た の で あ る。
これ に対 して,『 三 國 志 』 巻 四 十 魏 延 傳 にあ る魏 延 の戦 略 に 関す る記 述 は次 の よ うな もの で あ る。
諸葛亮 妓 後 の 「集 団指導 体 制」 と蒋 碗 政権(193)
延 毎 随亮 出,軌 欲 請 兵 万 人,與 亮 異 道 會 干 滝 關,如 韓 信 故 事,亮 制 而 不 許 。延 常 謂 亮爲 怯,歎 恨 己才 用 不 壼 。
これ は魏 延 が 韓信 の故 事40)に な らっ て別 行 動 を取 り漣 関 に出 る とい う策 を提 案 した の で あ るが,諸 葛 亮 の許 しを得 る こ とが で きな か っ た とい う話 で あ る。
彼 の 戦 略 に 関 す る考 え方 につ い て の 陳壽 『三 國 志 』 本 文 の 記 事 は これ しか ない の で 性 急 に判 断 は で き な いが,少 な くと も上 記 の 諸 葛 亮 の よ う な 国 家 戦 略 の 上 に成 り立 っ た もの で は な い とい う こ と は言 え る だ ろ う。 また,軍 事 的 に長 安 をお さ え る とい う以 外 の戦 略 上 の 長 短 が 明 確 に さ れ て お らず,長 安 を お さえ た あ と ど うす るか とい う こ とが は っ き りわか らな い よ うに見 え る。 加 えて,長 安 に い た る まで の 間 に襲 撃 され る可 能性 や 魏 延 が 通 ろ う と した 子 午 道 に多 い桟 道 の 危 険 性 な ど も考 慮 され て い な い よ う に見 受 け られ る41)。 大 敗 す るわ け に はい か な い諸 葛 亮 が 採 用 しな か っ た の も理 解 で き る。
加 え て,斐 注 の 記 事 ま で 見 る と 『三 國 志 』 巻 四 十i魏延 傳 襲 注 所 引 『魏 略 』 には
夏 侯 爲 安 西 將 軍,鎭 長 安 。 亮 於 南 鄭 與 撃 下 計 議,延 日:「 聞夏 侯 少, 主 婿 也,怯 而 無 謀 。 今 假 延 精 兵 五 千,負 糧 五 千,直 從 褒 中 出,循 秦 嶺 而 東,當 子 午 而北,不 過 十 日可 到 長 安 。 聞延 奄 至,必 乗 船 逃 走 。 長 安 中 惟 有 御 史 、 京 兆 太 守 耳,横 門 邸 閣 與 散 民 之 穀 足 周 食 也 。 比 東 方 相 合 聚, 尚 二 十 許 日,而 公 從 斜 谷 來,必 足 以 達 。如 此,則 一基 而 成 陽以 西 可 定 。」
亮 以 爲 此 縣 危,不 如 安 從 坦 道,可 以 平 取 朧右,十 全 必 克 而 無 虞,故 不 用 延 計。
とあ る 。 先 に 引 用 した 『三 國 志 』 巻 四十 魏 延 傳 本 文 を補 足 す る よ う に注 され て い る 文 で あ る が,こ れ に つ い て は 『三 國 志 』 巻 三 十 五 諸 葛 亮 傳 斐 注 所 引
『魏 略 』 の
始,國 家 以 蜀 中惟 有 劉 備 。 備 既 死,数 歳 寂 然 無 聲,是 以 略 無 備 預;而 卒 聞亮 出,朝 野恐 催,朧 右 、 祁 山尤 甚,故 三 郡 同時 鷹 亮 。
も合 わ せ て見 る と,「 諸 葛 亮 の 北 伐 が 始 ま る まで 魏 は全 く蜀 漢 に対 す る備 え を して い な か っ た」 とい うの が 『魏 略 』 の見 解 で あ る こ とが わか る。
(194)
た だ,諸 葛 亮 妓 後 の蜀 漢 軍 につ い て 「三 國 志 』 巻 四 十魏 延 傳 斐 注 所 引 『魏 略 』 に は
諸 葛 亮 病,謂 延 等 云:「 我 之 死 後,但 謹 自守,愼 勿 復 來 也 。」 令 延 撮 行 己 事,密 持 喪 去 。 延 遂 匿 之,行 至 褒 口,乃 獲 喪 。 亮 長 史楊 儀 宿 與 延 不 和, 見 延 撮 行 軍 事,催 爲 所 害,乃 張 言 延 欲 墨 衆 北 附,遂 率 其 衆 攻 延 。 延 本 無 此 心,不 戦 軍 走,追 而 殺 之 。
とあ る が,こ れ は 陳 壽 『三 國 志 』 本 文 に あ る諸 葛 亮 残 後 の 経 過 と全 く とい っ て い い ほ ど異 な って い る42)。 『三 國 志 』 斐 注 所 引 『魏 略 』 の 蜀 漢 に 関す る記 事
を見 る と陳壽 『三 國 志 』 蜀 書 本 文 の 異 説 も存 在 して い る43)が,『 魏 略 』 が 蜀 漢 政 権 滅 亡 以 前 に成 立 して い る こ と を考 慮 す る と,(陳 壽r三 國志』蜀書 に反映
されているであろう)『 魏 略 』 成 立 当 時 の 蜀 漢 政権 の 公 式 見解 を否 定 す る意 図 が 著 者 ・魚 炎 にあ っ た可 能性 も指 摘 で き る。 『魏 略 』 が この よ う な傾 向 を持 って い た可 能 性 が あ る こ と を考 慮 す る と,先 に引 用 した 『魏 略 』 の 記 事 を鵜 呑 み
にす る こ とは で きず,注 意 が必 要 で あ ろ う。44)
この よ う に見 る と,魏 延 の考 え方 の 中 に 「戦 略 」 とい う視 点 が あ っ た と は 考 え に くい 。 魏 延 は諸 葛 亮 の戦 略 が 理 解 で きな か っ た た め で あ ろ うが,彼 を
"怯"と ま で評 して い る
。"將 軍"で あ る魏 延 と"政 治 家"で もあ っ た諸 葛 亮 の 考 え方 に は相 当 な相 違 が あ った で あ ろ う45)。
この よ う に見 る と,魏 延 に は諸 葛 亮 へ の不 満 が あ っ た こ と は確 か で あ る。
と と もに(諸 葛亮の片腕 ともなっていて人 間と して も合わない)楊 儀 との確 執 もあ っ て敗 死 に追 い や られ る わ け だが,先 に指 摘 した諸 氏 の研 究 に もあ る よ うに, 少 な く と も魏 延 の 死 の背 後 に派 閥抗 争 の動 きは見 え て こ な い。 長 年 の 個 人 的 不 満 を爆 発 させ た だ け の よ う に しか 見 え ない 。 した が っ て,諸 葛 亮 妓 後 の蜀 漢 政 権 の 有 り様 を劇 的 か つ 根 本 的 に 変 化 させ る よ うな事 件 で は な か っ た の で
あ る。
② につ い て は 『三 國志 』 巻 四 十 五楊 戯 傳 附 『季 漢 輔 臣贅 』 に も
十 二 年,丞 相 亮 卒,以 壼 督 漢 中,車 騎 將 軍,假 節,領 雍 州 刺 史,進 封 濟
諸 葛亮妓 後 の 「集 団指 導体 制 」 と蒋碗 政権(195)
陽侯 。
とあ る。 また,『 三 國 志 』 巻 四十 三 王 平 傳 を見 る と,
十 二 年,亮 卒 於 武 功 … … 遷 後 典 軍 、 安 漢 將 軍,副 車 騎 將 軍 呉 萱 住 漢 中, 又 領 漢 中太 守 。
とあ る こ とか ら,諸 葛 亮 妓 後 の 漢 中 を託 され た 人 物 が 呉 謙 と王 平 で あ る こ と が わか る。
これ は,政 権 の 中心 が と りあ えず 首 都 ・成都 に戻 っ て きた こ と を意 味 す る。
建 興 五 年(227)年 以 来,諸 葛 亮 は漢 中 に丞 相 府 ・丞 相 営 を 置 い て独 自の 文 官 組 織 と蜀 漢 正 規 軍 を支 配 下 に お く と同 時 に,成 都 に は丞 相 留 府 を設 置 した 。 そ して 「孔 明 は絶 えず 成 都 の朝 廷 ・留 府 と密 接 な 連 絡 を と り,内 政 ・外 交 の 諸 事 につ い て の指 示 を与 え て い た の で あ る 。 そ して,と りわ け 留 府 に は後 継 者 とた の む 蒋 碗 らが 配 置 され,事 実 上 の 行 政 府 と して機 能 して い た もの と思 わ れ」46),「 孔 明 は漢 中 に進 駐 しなが ら も成 都 朝廷 を完 全 に掌 握 し,内 政 ・対 孫 呉 外 交 を リモ ー トコ ン トロー ル し」47)て い た。 この よ うに見 る と,諸 葛 亮 は本 当 に 国政 の全 て を総 覧 して い た の で あ る。
この 体 制 が 諸 葛 亮 の存 在 そ の もの に依 存 す る もの で あ っ た こ とは容 易 に指 摘 で きる。 した が っ て,そ の 状 態 は彼 の死 に よっ て 一 旦解 消 を余 儀 な く され, 内政 ・軍 事 ・外 交 の 諸 政 策 ・体 制 の 再構 築 を迫 られ る こ と と な っ た た め,成 都 に 国政 の 中心 が戻 っ て きた と考 え られ る だ ろ う。48)
〔三 〕『三 國志 』蜀 書 か ら見 た 「集 団指 導体 制 」と楊 儀 の 失脚
以 上 の こ と を踏 ま え た う え で,集 団 指 導 体 制 を構 成 す る 人 々 の 『三 國 志 』 各 傳 を確 認 しつ つ,③ と集 団指 導 体 制 につ い て 考 察 を加 えて み たい 。
まず 『三 國 志 』 巻 四十 四蒋 碗 傳 には
亮 卒,以 碗 爲 尚書 令,俄 而 加 行都 護,假 節,領 盆 州刺 史,遷 大 將 軍,録 尚書 事,封 安 陽亭 侯 。
とあ る。 こ こか らわか る の は(こ の文章 を素直 に読 めば〉行 都 護 ・假 節 ・領 盆 州
(196}
刺 史 の 諸 官 職 が 尚書 令 に任 じ られ た 後 で 蒋 碗 に 「俄 に加 え られ た」 こ とで あ る。 これ は蒋 碗 が 諸 葛 亮 の 後 継 者 で あ る こ と をす み や か に 明 らか に す る意 味 が あ った と思 われ る。
こ こで 『華 陽 國志 』 に 記 さ れ て い る集 団指 導 体 制 の 他 の構 成 メ ンバ ー の傳 を以 下 に列 挙 してみ る。 「三 國志 』 巻 四 十 四費 禧 傳 に は
亮 卒,緯 爲 後 軍 師 。 頃 之,代 蒋 碗 爲 尚書 令 。 とあ り,ま た 『三 國 志 』 巻 四十 四姜 維 傳 には
十 二 年,亮 卒,維 還 成 都,爲 右 監 軍 輔 漢將 軍,統 諸 軍,進 封 平 裏 侯 。 とあ る。 『三 國志 』 巻 四 十 五 郵 芝傳 に は
亮 卒,遷 前 軍 師 前 將 軍,領 菟 州 刺 史,封 陽武 亭 侯,頃 之爲 督 江 州 。 とな っ て い る。 『三 國志 』 巻 四 十 五 張 翼 傳 に は
亮 卒,拝 前 領 軍,追 論 討 劉 冑 功,賜 爵 關 内 侯 。 延 煕 元 年,入 爲 尚 書,稽 遷 督建 威,假 節,進 封 都 亭 侯,征 西 大 將 軍 。
とあ る。 また 『三 國志 』..四 十楊 儀傳 に は
亮 卒 子 敵 場 。 … …而 亮 平 生 密 指,以 儀 性 猜 狡,意 在 蒋 碗,碗 遂爲 尚書 令, 盆 州 刺 史 。 儀 至,拝 爲 中 軍 師,無 所 統 領,従 容 而 巳 。
と書 か れ て い る。
以上 の記 述 か ら 『華 陽 國 志 』 で 取 り上 げ られ て い る 六 人 が 政 権 中枢 に参 画 して い た のか ど うか を彼 らの官 職 な どか ら確 認 して み た い。
まず,蒋 碗 は 「国 事 を総 統 した 」 と記 さ れ て お り,こ の建 興 十 二 年 の段 階 で,尚 書 令 ・行 都 護 ・假 節 ・領 盆 州 刺 史 と な っ て い る 。 尚書 令 は この 当時 に あ って は 国 家 行 政 の 実 務 を担 っ て い た と考 え られ,盆 州 刺 史 を領 す る こ とで 地 方 行 政 の 責 任 者 と もな っ て い る。 ま た,行 都 護 につ い て は は っ き り しな い が,蜀 漢 に お け る都 護 就 官 者 が 中都 護 で あ っ た 李 厳 、 行都 護 の 蒋 碗 ・諸 葛 謄 で あ る こ とか ら,宰 相 格 の 者 が 就 任 す る軍 事 関係 の 官 職 と考 え られ る49)。 こ の よ うに見 る と,彼 は 主 要 な 官 職 をす べ て 握 っ て お り,そ の 上 諸 葛 亮 の遺 言 に よ る指 名 で あ るた め に 蒋 碗 個 人 と して は無 理 して力 を誇 示 す る必 要 もな い ほ どに権 力 が 集 中 して い る。
諸葛 亮彼 後 の 「集 団指導 体 制」 と蒋 碗 政権(197)
費 緯 につ い て は,建 興 十 三 年 四 月 にお け る蒋 碗 の 大 將 軍 ・録 尚書 事 昇 格 ま で は後 軍 師 で しか ない ので,官 職 か らは政 権 中枢 にい た か ど うか わか らな い 。
しか し,蒋 碗 の 昇 格 後 す ぐに 尚書 令 とな る の で,政 権 中枢 に い た 可 能 性 は高 い と思 わ れ る。
姜 維 につ い て は ど うだ ろ うか 。 官 職 は右 監 軍 ・輔 漢 將 軍 で あ るが,先 に引 用 した 『三 國志 』蜀 書 姜 維 傳 をみ る と,"統 諸 軍"と あ り,素 直 に読 め ば姜 維 が 蜀 漢 の 諸 軍 を統 率 して い た こ と に な る。 少 な く と も姜 維 が 政 権 中枢 に い た こ とは 間違 い ない で あ ろ う。
郵 芝 に 関 して は,前 將 軍 ・前 軍 師 ・領 菟 州 刺 史 へ の昇 進 と江 州 を総 督 して い た こ とが 書 か れ て い る だ け で あ る。 ま た,「 督 江 州 」 とい う こ とか ら江 州へ 駐 屯 して い た可 能性 もあ り,政 権 中枢 で 政 策 決 定 に携 わ っ て い た か ど うか は,
『三 國志 』 か らは わ か らな い。
張 翼 は,前 領 軍 に昇 進 し,関 内侯 の爵 位 を賜 っ て い るが,政 権 の 中枢 に い た か ど うか は わ か らない 。
楊 儀 につ い て は,『 三 國 志 』 に 「担 当 す る職務 が な く,手 持 ち無 沙 汰 だ っ た」
と は っ き り と書 か れ て い る。彼 は政権 の 中枢 に は い な か っ た の で あ る。
こ の よ う に 『三 國志 』 諸 傳 の 文 章 か ら考 え て み る と,諸 葛 亮 が 亡 くな っ た 後,蜀 漢 政権 中枢 部 に参 画 して い た こ とが は っ き り とわ か るの は蒋 碗 ・費 緯
・姜 維 で あ り,楊 儀 に は実 質 的 な職 務 が な か っ た。 ま た,郵 芝 ・張 翼 に つ い て は よ くわ か らず,中 枢 部 に は参 画 して い なか っ た よ うに も見 受 け られ る。
以 上 の よ うに 『三 國 志 』 の 記 述 と比 較 して み る と,『 華 陽 國志 』 に記 され て い る 集 団指 導 体 制 が 存 在 して い た か ど う か す ら判 然 とせ ず,い わ ば 陳 壽 の
「蜀 漢 国史 観 」 の 中 で は無 視 され て い る と言 っ て も よい ほ どで あ る。
この よ うな状 況 の 中 で,楊 儀 は失 脚 して い くこ と とな る50)。 『三 國志 』 巻 四 十楊 儀 傳 に は 以下 の よ う に述 べ られ て い る。
而亮 平 生 密 指,以 儀 性 猜 狡,意 在 蒋 碗,碗 遂 爲 尚書 令,盆 州刺 史 。(中 略) 初,儀 爲 先 主 尚 書,碗 爲 尚書 郎,後 錐 倶 爲 丞 相 参 軍 長 史,儀 毎 從 行,當
(198)
其 螢 劇,自 惟 年 宙 先 碗,才 能 鍮 之,於 是 怨 憤 形 子 聲 色,歎 咤 之 音 襲 於 五 内 。 時 人 畏 其 言 語 不 節,莫 敢 從 也,惟 後 軍 師費 禧 往 慰 省 之 。 儀 封 禧 恨 望, 前 後 云 云,又 語 緯 日:「 往 者 丞 相 亡 没 之 際,吾 若 墨 軍 以 就 魏 氏,庭 世 寧 當 落 度 如 此 邪1令 人 追 悔 不 可 復 及 。」 禧 密 表 其 言 。 十 三 年,慶 儀 爲 民,徒 漢 嘉 郡 。 儀 至 徒 所,復 上 書 誹 講,僻 指 激 切,遂 下 郡 牧 儀 。 儀 自殺,其 妻 子 還 蜀 。
まず 述 べ られ て い る の は,こ こで も性 格 的 な 問 題 で あ る。 そ れ が 失 脚 の 主 要 因 で あ る と見 な され て い る。
具 体 的 に は,費 緯 に 言 っ た 愚 痴 をそ の ま ま上 奏 さ れ て 失 脚 して しま うわ け だ が,こ れ を見 て 少 々気 の毒 に思 うの は筆 者 だ け だ ろ うか 。 慰 め に きて くれ た 費 禧 に対 して 言 っ た 愚 痴 が,ま さか そ の ま ま上 奏 され る な ど と は思 って も み な か っ た の で あ ろ う(本 当は言 っていなかった とい う可能性 もあるが,そ れは憶 測の域 を出ない)。彼 が お さ ま らず に"上 書 誹 誘"し た の もわ か らな い で は ない 。
た だ,費 禧 が 来 た か ら とい っ て愚 痴 を こ ぼ して し ま う側 に も問題 が あ る と言 わ れ て し ま え ば,そ れ で 終 わ っ て しま うわ け で,そ の 点 か らす る と彼 は 人 が 良 す ぎる とい う感 じが しな い で も ない 。 費 緯 にす れ ば,反 乱 の芽 を摘 む とい うふ うに 考 え た の か も しれ な いが,後 味 が 悪 い もの に な っ て し ま っ た の は否 め な い で あ ろ う51)。
これ を見 て み る と,楊 儀 の 失 脚 に も派 閥 抗 争 とい っ た よ う な もの は感 じ ら れ な い。 蒋 碗 に後 継 者 の 座 を も っ て い か れ た こ と に対 す る不 満 を費 緯 に上 奏 され て し ま った だ け の こ となの で あ る。52)
以 上 の よ う な 『三 國 志 』 の 記 述 を真 に受 け て 考 え る と,諸 葛 亮 死 後 の蜀 漢 は 非 常 に くだ ら な い こ とで 人材 を失 っ て い た こ とに な るが,魏 延 ・楊 儀 の 失 脚 以外 に は政 権 中枢 を構 成 して い た 人 々 に は大 きな変 化 が な い こ とが 分 か る。
つ ま り,諸 葛 亮 の 下 で働 い た 人 材 が 蒋 碗 の 政権 で も中心 とな っ て い る とい う こ とで あ り,体 制 を ゼ ロ か らつ く りあ げ る とい う必 要 は な か っ た とい う こ と で あ る。 確 か に,ゼ ロか らつ く りあ げ る場 合 で も前 の体 制 を引 き継 ぐ場 合 で
諸 葛亮 残 後 の 「集 団指 導体 制 」 と蒋 碗 政権(199)
も苦 労 が あ る こ とに変 わ りは ない の で あ る が,少 な くと も国家 が 大 混 乱 に 陥 る よ うな変 化 が な か った こ とは見 て取 れ るで あ ろ う。
陳 壽 『三 國 志 』 を参 考 に して 見 る と,集 団 指 導 体 制 と は い っ て も中 央 政 府 の職 務 を分 担 して い た わ け で は な く,官 職 か ら見 て も実 質 的 に も最 初 か ら単 独 首 班 と して の 蒋碗 を 中心 と した 体 制 で あ り,(少 な くとも結果的には〉蒋碗 単 独 首 班 政 権 の足 固 め の た め の過 渡 的性 格 を持 った体 制 で あ っ た と思 わ れ る。
蜀 漢 の 最 高 指 導 者 で あ っ た諸 葛 亮 は,単 な る 軍事 指 導 者 で は な く,内 政 ・ 外 交 ・軍 事 ま で含 ん だ総 合 的 な 指 導 者 で あ り,す べ て が彼0人 を 中心 に動 い
て い た と言 っ て も過 言 で は な い 。 そ の 諸 葛 亮 が,遠 征 先 で,あ る 意 味 で は
「不 慮 の 死 」 を遂 げ た わ け で あ るか ら,後 継 体 制 が確 立 され て い な い の は 当 然 の こ とで あ る。 そ の よ う な 中 で,0か らの後 継 体 制 の構 築 とい う課 題 が 蒋 碗 に迫 っ て い た の で は な い だ ろ うか 。
また,諸 葛 亮 生 前 の蒋 碗 の 官 職 は丞 相 留 府 長 史 ・撫 軍 將 軍 で あ り,そ こか ら一 気 に宰 相 格 の 官 職 まで 昇 格 させ る こ と は,生 前 に公 の 場 で の 後 継 者 指 名 が な か っ た こ とや 後 継 体 制 の 未確 立 とい う よ うな こ と な どの 難 し さ もあ った た め,集 団指 導 体 制 と見 られ る体 制 が採 用 され た の で は ない か と思 わ れ る。
集 団 指 導 体 制 は 諸 葛 亮 政 権 時代 の統 治 体 制 とは ま る っ き り正 反 対 の体 制 で あ る 。 この よ う な複 数 首 班 の合 議 制 で あ る集 団指 導 体 制 は,権 力 闘 争 の 激 化 に よ っ て 闘 争 が 起 こ り,そ れ に勝 利 した 人物 が 単 独 首 班 とな るの が 最 悪 の パ ター ン と して 考 え られ る わ け だ が,以 上 の よ う な記 述 か らす る と,蒋 碗 を中 心 とす る後 継 体 制 を構 築 す る 際 に表 立 っ た権 力 闘 争 や 集 団 指 導 体 制 に よ る権 力 の分 散 な どは ほ とん ど な く,楊 儀 の 失 脚 以 外 は 大 した 問 題 もな か っ た と見 受 け られ る。 そ の楊 儀 の 失 脚 も蒋 碗 へ の権 力 の 集 中 に対 す る不 平 を費 緯 に漏 ら した た め で あ り,む し ろ蒋 碗 へ の 権 力 集 中が 進 ん で い た証 拠 と考 え る の が 順 当 で あ る と思 わ れ る。
この よ うに見 る と,諸 葛 亮 の死 後,蒋 碗 が 「国事 を総 統 す る」,つ ま り後 継 者 で あ る とい う こ とは人 事 に よ っ て公 に示 され た の で あ るが,前 任 者 か ら権 力 を ス ム ー ズ に引 き継 い だ わ け で は な い 。 む しろ,言 うな れ ば前 任 者 の 「不
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慮 の 死 」 の 後 を う け た の で あ るか ら,後 継 体 制 な どが 準 備 され て い る はず も な く,そ れ を蒋 碗 は(ゼ ロか らではないに して も)一 か ら構築 せ ね ば な らな か っ た の で あ る 。 そ の 後 継 体 制 づ く りの た め の 「集 団指 導 体 制 」 と見 られ る体 制 で あ っ た と考 え る の が 順 当 で あ ろ う。 つ ま り,蒋 碗 政 権 の 足 固 め の た め の過 渡 的性 格 を持 っ てい た と考 え られ る の で あ る。
た だ,「 集 団 指 導 体 制 と見 られ る体 制 そ れ 自体 が 後 継 体 制 で あ り,蒋 碗 単 独 首班 と して の体 制 で あ っ た」 と考 え る こ と もで き る。
先 述 の よ う に,建 興 十 二 年 八 月 の段 階 で,蒋 碗 は権 力 を誇 示 す る必 要 もな い と思 わ れ る主 要 な権 力 をす べ て握 っ て い た 。 相 対 的 に見 る と これ 以 上 の 昇 進 は必 要 ない の で あ る。
さ らに,蒋 碗 は 自分 が 諸 葛 亮 の よ うに圧 倒 的 な権 威 ・権 力 を持 つ の を む し ろ避 け よ う と した よ うで あ る。 先 に引 用 した 『三 國志 』 巻 四 十 四 姜 維 傳 を見 る と,蒋 碗 は諸 軍 を 姜維 に統 率 させ て い た よ うに見 え る 。 そ の気 に な れ ば諸 葛 亮 の よ うに圧 倒 的 な権 威 ・権 力 を も っ て 自分 自身 で 統 率 で きる 状 況 だ っ た に もか か わ らず,で あ る。 彼 自身 が 前 線 で 軍 隊 を指 揮 した こ とが な か った と い う事 情 もあ っ た か も しれ な い が,彼 自身 へ の 諸 葛 亮 の よ う な権 威 ・権 力 の 集 中 に対 す る遠 慮 が あ っ た ので は な いか と思 う。
『華 陽 國志 』 巻 七 劉 後 主 志 に は,
十 三 年,拝 尚書 令 蒋 碗 爲 大 將 軍,領 盆 州 刺 史 。 以 費 韓 爲 尚書 令 。 時新 喪 元 帥,遠 近 危 棟 。碗,超 登 大位 。 既 無 威 容,又 無 喜 色 。 衆 望漸 服 。53) とあ る。 「遠 近 危棟 」 で あ っ た と きに蒋 碗 が 「大位 に超 登 」 した とこ ろ,そ の 姿 を見 て 「衆 望 漸 く服 した」 とい う こ とで あ ろ う。
周 囲 の状 況 が 蒋 碗 の 「超 登大 位 」 に有 利 に な っ て くる で あ ろ う こ と を蒋 碗 が 「計 算 」 して い た とい う穿 っ た見 方 もで きる だ ろ う。 た だ,『 三 國志 』巻 四 十 四 蒋 碗 傳 に あ る次 の よ うな記 述 を見 る と,必 ず し もそ う は言 え な い よ う で あ る。
東 曹 豫 楊 戯 素性 簡 略,碗 與 言 論,時 不 鷹 答 。 或 欲構 戯 於 碗 日:「 公 與 戯 語