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南部家流鏑馬古文書について
ー史料紹介‑
HistoricalrecordsoftheNanbus・Yabusamc.
IintroductiontohistoricalrecordsI・
Takamit亡Ota 太田尚充
はじめに
中世の「武士は'とりわけ弓射と乗馬の技術の向上に励まなけれ1・rまゆみはならなかった。」それは「騎射の技術の優劣は'そのころの戟斗
形式からいって、自己の生死にかゝるだけでなく、直接戦斗の帰趨2つわもの.を決定した」からである。だから'中世武士の'いわゆる「兵ノ
道」も、近世幕藩体制下の観念的処世訓的な「武士道」と異なり、
戦士として、実用的な戦技能力の維持向上につとめることに重点が
おかれていた。特に'疾走する馬上から的を射当てるという騎射術
の練達は、名誉ある武士たるべき必須の条件であった。また'それかちゆrfらの基礎技術である馬術や歩射も尊重されたことは勿論である。せいぴよういちにんとうせんつわものしかし'「精兵」とか「一人当千の兵」といわれる'名誉ある中
世武士の、いわは戦技としての騎射術が、日常においては'笠懸' つくりもの3流鏑馬'牛遺物、犬追物'或いは作物という形式で行われたという
事実は認められるにしても、その内容や故実の変遷などについては
未だ不明の点が多い。中世武士たちが'時においては競技として、
また、時においては奉納儀式として'更には賓客の歓迎行事やお祝
いの関連行事として行われたという事実は'例えは﹃吾妻鏡﹄など
では、競馬、相撲、蹴鞠等とともにかなりの回数で登場する。しか
し、﹃吾妻鏡﹄には、この書の性格上、その具体的な実施内容に至
るまで細かに記述されているというわけではない。
従って、中世における騎射や歩射の研究は﹃吾妻鏡﹄をはじめと
して'平安末期から鎌倉、室町時代の関係史料を縦横に調査検討し
なければ充全とはいえないであろう。しかるに'中世における騎射4や歩射に関する研究例は少ない。その理由の一つとしては'古文書
学的な技術を含めて、史料収集とその研究の困難さにあるといわれ
5ている。
本稿で紹介する南部家流鏑馬古文書(写真)は'史料研究にとっ
て'右の諸問題を全面的に解決するとい‑わけではないが'数少な
い原史料の一点であり'積み重ねの必要な研究者にとって貴重な示
唆を与える一点と考えられる。この史料の存在にか1わる問題性に
ついては後述するが、筆者にとっては'先ず史料紹介自体が他の研
究者のためにも急務であると考え'こゝに発表を試みる次第であ
る。
附記
1
23 この史料は、昭和四十九年十二月'八戸市立図書館副館長西
村嘉氏の御好意によって、根城南部家または遠野南部家に関
する未発表の多数の古文書の写真の中から提供を受けたもの
である。西村氏は'これらの史料を'昭和四十四年十一月二
十三日'東京都府中市の東郷寺に在住されていた根城南部家にちざねの後胤、南部日宍氏(今は故人)所蔵にか1わる他の史料と
ともに撮影し'八戸市立図書館用として所蔵されていたもの
である。
また、八戸市在住の地方史家上杉修氏は、すでに昭和十年
頃'この同一文書を遠野市で撮影したといわれ、この古文書
の写真を未発表のまま所蔵されていた。
本稿の古文書は'「南部家流鏑馬古文書について」とい‑顔
で、昭和五十1年九月十六日'本学医療短期大学部研究発表
会で'その概要を発表しているのでこ1にお断りしておく。 註及び参考文献L高橋昌明「武士の発生とその性格」﹃歴史公論﹄第二巻第七号、五五
頁'雄山開、昭五一。
2.同右、五五頁。3.﹃吾妻鏡﹄(吉川本。国書刊行会編、昭四三。以下﹃吾妻鏡﹄よりの引
用はすべて吉川本による)建久元年(二九〇)八月十六日の「三流
作物」が初見である。永原慶二監修、貴志正造訳註﹃全訳吾妻鏡﹄第つくりもの三巻、1六三頁(新人物往来社、昭五一、一二)では「三流れ作物」
と振仮名をしているのでこれを参照した。
4.谷村辰己編﹃体育学研究文献分類目録第1巻﹄(不味堂'昭四五)
は、日本体育学会第一回より第二〇回までの発表演題を整理している
が、この中の体育史部門の研究発表四八六件中一件である。また、谷村辰己編﹃体育学研究文献分類目録第二巻﹄(不味堂、昭五〇)は、大学紀要等研究機関の論文題名を整理しているが、体育史関係論文二七1件中三件となっている。
右の中、肥後和男「中世の射芸」(東京教育大学体育学部紀要第三号'
昭三八)、は最も参考になった。谷村の目録にはないが、註1の「武士の発生とその性格」は、騎射等
中世武士の芸の背景に触れた好論文である。
5.岸野雄三﹃体育史‑体育史学への試論﹄二〇〇頁、大修舘'昭四八(初版)
「題名について
この古文書は'延応元年(二一三九)三月二十八日の年号のある
もの(以下Aとする)と'(建治二年1二七六)八月十五日の年号の
あるもの(以下Bとする)と二通であるが、何れにも外題が記され
ていない。しかし筆者は'今後この二通を併せて「南部家流鏑馬古
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充
尚田
大 文書と命名し発表するつもりである。命名の理由は大略左記によ
る。
1Aの古文書は、前後が切れて内外の題名判定は困難である
が、Bの古文書には「やぶさめの日記」と内題のあること。
2吉野朝史蹟調査会編﹃南部家文書﹄(昭一四、一〇、二五
刊)の附録﹃八戸家伝記﹄では、この古文書二通を併せて、1すでに「流鏑馬之記二巻」と呼称していたこと。
古文書の内容からみれば「流鏑馬」「笠懸」等の騎射のみでなノ\さ"しゝく、「大的」「草鹿」「丸物」等の歩射'「八的」「四六三」等、
﹃吾妻鏡﹄でいう作物も入っているので、総称して「流鏑馬古文
書」と呼ぶには多少の抵抗もあるが、当古文書に「やぶさめの日
記」と内題があり、すでに「流鏑馬之記二巻」と呼称していた事実
もあるので、やはり「流鏑馬古文書」とした。
3「南部家」は、南部三郎光行を祖とする家系の総称である
が、大別して、光行の嫡子南部実光を二代目とする三戸南部
(後に盛岡に移り盛岡南部とも)の系統と、実光の実母弟南
部実長を初代とする根城南部(後に遠野に移され遠野南部と
も)の二つの家系がある。この古文書はtA・Bとも根城南
部家の後胤南部日実氏所蔵文書の一部であり、その年号から
すれば、初代南部実長の在世中に書かれていることになる。
従って、「根城南部家」とか「遠野南部象」という肩書きを附
した方が妥当のようにも考えられる。しかし、南部実長は、
延応元年から建治二年の頃は未だ根城(現在の青森県八戸市 根城)に定住していたわけではなく、前記の﹃八戸家伝記﹄
に「於二甲州一領二数ヶ所l、住二波大井郷一。故世人或称二波大井
実長ことあるように、甲州波大井に居住していた。このこ
とから「根城」または「遠野」の土地名を附することは、こ
の古文書については妥当を欠くと考えられる。
また、騎射に関して、鶴岡八幡宮の放生会流鏑馬について2は、南部実長の祖父、信濃守加々美次郎還光から伝え聞かさ3れたことがあったかも知れないし、兄南部実光や叔父小笠原4次郎長清からも流鏑馬故実に関する情報を得ていたかも知れ
ない。後述するように、この古文書は、小笠原'武田家等の
甲斐源氏系統の流鏑馬に関する伝聞をもとにして書かれたと
も推察されるし、そうではなく'やはり南部一族の流鏑馬の
鍛練の所産として書かれた古文書とも推察される。どちらと
も速断し難い。
以上の二点を考慮し、広く「南部家」とし、「根城・遠野
南部家」或いは「三戸・盛岡南部家」という特定の家系にこ
だわらないことにした。
註及び参考文献
,1・「草稿在二千今畠'有・l流鏑馬之記二巻‑'一着延応元年三月廿八日
前後頗放失云云。一着建治二年八月十五日云云。是当時之遺書也。因
併附二此書11至﹃八戸家伝記﹄(前出)三四三頁.
2・﹃吾妻鏡﹄によれは'文治三年(二八七)八月十五日'この日始め
3」「 て鶴岡八幡宮放生会が行われ'流鏑居も奉納された。この時の源頼朝
琶従数人の中に'信濃守遠光の名がみえるo遠光は加々美次郎遠光の
ことで'甲斐源氏の祖新羅三郎義光の子義清の孫にあたる。頼朝の信
頼があり息女が頼家の世話係となっている。(文治四年七月四日)
彼は秋山家初代光朝や'小笠原家初代長酒、また南部家初代三郎光行
の父である。南部家二代実光や根城南部家初代実長からすれば祖父に
なる。
南部家初代三郎光行の後継者で南部家二代となる。根城南部家初代実
長の同母兄である。(異母兄行朝は後継を辞退し'二戸の祖となった
といわれる)実光は'﹃吾妻鏡﹄によると'建長四年(二一五二)辛
二月十七日七宗尊親王将軍の鶴岡八幡宮御参の時の随兵や'建長五年
(一二五三)八月'建長六年(二一五四)八月の鶴岡八幡宮放生会流
鏑馬の時の随兵として参列しその実状を見聞している。
南部実長の父である南部三郎光行の兄にあたる。実長からみれば叔父
である。甲斐源氏を代表する弓馬の芸の達人と考えられる。﹃吾妻
鏡﹄によれば'建久四年(一一九三)八月十六日の鶴岡八幡宮放生会
流鏑居の射手の一人として登場以来'度々この放生会流鏑馬の射手と
なった。
また建久五年(二一九四)十月九日'小山左衛門尉朝政の家で'源
頼朝臨席のもと'弓馬の芸に達して各々の家伝を継承する十八名を集
め'「流鏑居以下作物」射法を東国武士の射法として統一を試みたこ
とがある。この十八名の中に甲斐源氏を代表する小笠原次郎長清も武
田兵衛討有義とともに入っている。恐らく'こと弓馬の芸に関しては
一方の雄として活躍していたものと思われる。﹃南部史﹄(八頁。熊
谷印刷出版・昭四七第四版)によれば'実長の兄実光は'小笠原長清
の息女を妻にしているといわれる。 ニ'解読
この古文書は'右の註Ⅰに記したように、すでに︻︻南部家文書﹄
南部家流鏑馬古文書 A 写真(1) 八 戸 市 立 図書舘蔵 (フ ィル ム)
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南部家流 鏑馬古文書 B 写実し2)A‑ 立図 書鯛 (フ ィル ム)
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