産業革命期における英国農業労働者の状態
その他のタイトル English Agricultural Labourer in the Period of the Industrial Revolution
著者 荒井 政治
雑誌名 關西大學經済論集
巻 2
号 3
ページ 95‑120
発行年 1952‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15855
英国の農業はテュー*ク
1
朝以降資本主義への途を急ぐのであるが
︑
A﹂の過程を何よりもよく表現するのは土地収奪の典型的
形態と称せられるエンクロージュア運動の進展である︒十五世
紀中葉より十六世紀の全期に亘つて牧羊のために行われた︑い
わゆる第一次ニンクロージュア運動はそれが行われたミッドラ
ンド地方を中心として農村近代化への顕著な足跡を残す︒それ
と同時に保有地ないしは共同樟
c o m m o n
r i
g h
t s
, , t s l
失った多数
産業革命期における英国農業労働者の朕態︵荒井︶ の労濁者・貧民の群を生み落したことはモーアの﹁ユービトア﹂
九五
ンクロージュア︶の結果︑資本制農業が成立するに及んで全く 紀中葉以降すなわち本稿で問題とするいわゆる産業革命期に入つても開放耕地と共に各地に見出すことができる︒しかしこの 紀に入ってもなお支配的であったといえる︒いなそれほ十八世 いわば前近代的農業労働者は一部の地方を別とすれば︑十八世
ま し
~' ま
し
が
が
き 一︑旧制村落における朕態二︑農業革命の影蓉三︑戦時における聡態︵一七六
0
年ー一八一三年︶四︑戦後における朕態二八一四年ー︑一八三四年︶
き
が偲える如くである︒不運な彼等は小屋住農をその根幹とする中世以来の農業労慟者の険列に加えられてゆく︒しかしながら農業それ自身において資本主義が未だ初期の段階にある以上︑厳密な意味における農業労慟者の数は全体的に見れば未だ微々たるものであって︑多くの者が些少ではあるがなお生産手段な
いし生活手段と結合しており︑従つて賃労働による牧入ほむし
ろ副次的に生計を補充する程の意義しかもつていなかったので
( 1 )
ある︒厳密な意味における農業労働者から区別されるかような
種の労働者も産業革命と平行して進展した農業革命︵第二次ェ
荒 井
産業革命期における英国農業労働者の状態
政
治
産業革命期における英国農業労働者の朕態︵荒井︶
旧殻を脱した近代的農業労働者に変容する︒
さて経済史上工業と農業との発展における相互媒介性は英国
において最も明瞭に現われる︒今問題としている時期について
見ても工業・農業の両分野に起った二つの革命が平行革命
p a‑
r a l l
e l r
e v o l
u t i o
或ほ幽生革命匂n
i n r e
v o l u
t i o n
と呼ばれるご
とく両分野における平行的発展は明白である︒もし工場制度を
もつて固有の産業革命の象徴とすれば︑賓本家的大農制はまさ
に農業革命の象徹である︒農業における工場制とも呼ぶべき資
本家的大農制は1
般に
一
1一
分制
t r i p
a r t i
t e s
ys
te
m として知られて
いる農業体制と密接に結合している︒そこで中心的役割を演ず
るのは云う迄も無く借地農業家
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であ
るが
︑
AJ
の産業本家としての借地農莱家の下に麗傭される農業労働者は
如何なる状態にあったか︒工業と農業がより均等的発展を遂げ
たこの国の産業発展の特質はまた工業・農業のそれぞれの分野
における直接生産者の状態についても等しく反映している︒す
なわち産業革命の時代においても基本的には工場労働者も農莱
労慟者も同じ立場に立つ°従つて工場労働者と固有の産業との
関係についてすでに語られている多くの事柄は農業労働者の場
合にも適合的であると考えられる︒本稿は手近な若干の資料に 拠りつつ︑特に連関の深い諸事情との結びつきにおいて︑当時
( 2 )
の農業労働者の状態を素描せんとするものである︒
註
( 1 )
しかし本稿において用いる農業労働者という語は︑
厳密な意味における農業労働者と︑そうでない農村労
働者との何れの楊合にも用いていることをお断りして
おく
︒
( 2 )
ここでは特にイングランドの農業労働者を取●げる
のであるが︑プリテンの労働者一般についてはすでに
次の如き研究史の展望が典えられている︒
小松芳喬氏﹁産業革命と労働者ー歴史的展望﹂︵早稲
田大学人文科学研究第七号所牧論文︶五島茂氏﹁綽済
史﹂︵三頁ー六頁︶
十八世紀中葉の英国は末だ農業国であり︑しかも開放耕地と
共同地より成る古い構造をもつ農村がより廣範囲を占めてい
た︒かかる旧い形態の村落も続ぐ七十年間に全くその影を没す
る︒そこで先づこれらの十八世紀の旧制村落における農業労働
者は如何なる状態にあったかということから述べてゆこう︒中
世において既にそうであった如く農業労働者層の基幹をなすも
のは小屋住農である︒小屋住農
c o t t
a g e r
は家屋
c o t t
a g e '
K "
所
︵一︶旧制村落における状態
九六
有ないしは賃借し︑それに附醸して末開墾地とか収穫後の共同
耕地において放牧樟・燃料採取権その他のいわゆる共同権を有
していた︒小屋住農の中にほ︑僅かの地条
s t r i p s ・ ,
所有もし
w :
くは賃借して自身の土地を耕作し時折乾草作りとか牧穫期のご
とく高賃銀の支給される際には賃労働に従事するものと徴細な
土地ないし末開墾地を囲い込んだ単なる菜園
g a r d e n
または1
定の共同権を有するに過ぎず︑仕事さえあれば常に賃銀のため.
に働き家畜や菜園は全く彼等の妻子に委ねているものとある︒
前者はむしろ小農の性格に近似しており︑後者は日傭労働者で
ある︒従つて小屋住農という1般的名称の下には︑これら両者
が包括されている︒次に小屋住農より社会的には更にその下層
に位するスクオックー
s q u a t t e r
及びボーズ
1
b o r d e r
と称され
る1階層が存した︒両者は元来異る階層であるが時には共に小
屋住農に包括されることもあった︒彼等ほ村落から若干距った
ところの共同地あるいは森林内に自己の小屋を建て僅かばかり
の土地を開墾して住み付いた移住者であって︑小屋住農同様す
でに中世マナーの中にその祖先を見出すことができる︒更に労
慟力の提供者としては小農や小屋住の子供達が加えられる︒こ
れらの子供逹は小農狐を得るか︑或は少くとも結婚の費用と自
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶
九七
己の住む小屋を購入又は賃借し得るまでは主家に住み込みで働
いていた︒以上が農業労働者層を形成する主たる構成要素であ
しからばこれら労働者は如何なる状態にあったか︒われわれ
は便宜上労働者層をファーム・サーヴァント
f a r m s e r v a n t
及
び日傭労働者
d a y l a b o u r e r
の二の類型に分つて考察したい︒
ファーム・サーヴァントはいわば住込の労働者であって︑農場
監督︑鋤使い︑牛飼︑羊飼︑馬車挽︑乳搾り︑除草等がその主
たる職種であったが︑成年男女の外年少の農事見習︵徒弟︶も
いた︒上記の鰤樋からも知られるように女のサーヴァントも主
たる仕事は戸外の農業労働であるが︑畑仕事の閑散時には農場
小屋
f a r m h o u s e
の家事に従事していた︒ファーム・サーヴァ
ントほ相当長期︵普通一ケ年︶に亘つて扉ほれ︑賃銀は年栖めで
あって︑すべて農場小屋に宿泊し
1 1一度の食事と野良着を支給さ
れた︒言い換えれば貨幣賃銀よりも実物賃銀の方がより大なる
比重を占めていた°雇い入れは櫛して全国何処の地方において
いち
も書毎に開催される法定市
s t a t u t e f a i r
でなされた°尤もこ
いち
のような﹁雇入市﹂圧已
l ' } . g
, f a i
r
の開かれない地方では労働者は農場から農場へ雇主を求めて歩まねばならなかった︒仕事を求 る ︒
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶
めてかような﹁雇入市﹂に集るファーム・サーヴァントほ男も
女も何等か自身の職種を識別させる.^ツヂを付ける慣行があっ
た︒すなわちグロースクー︑オックスフォード︑.^ークス︑ウ
イルッ等南部諸州では︑馬車挽ほ帽子に鞭朧の切端を付け︑牛
飼は牛の毛を撚つて付け︑乳搾りは同じものを彼女の胸に付
C 1 )
けた︒また北部では花毬を胸に付けて現ほれた︒W
・マージ
ャルは中部地方のある著名な法定市の最況を鮮明に停えてい
るが︑市から二五哩ないし一
1 1 0
哩も距った凡ゆる池方から徒歩
で二
︑
0 00
入な
いし
︱
1
1
︑00 00
人程が流れ込んできた事実
・( 2 )
を記している︒このような長期の住込労働者たるファーム・
サーヴァントと明白に異った性格をもついま1つの類型は日
傭労働者である°蕪脊とクロ.ハーが普及する以前にあってほ日
翌 ぎ
傭労働者の主たる仕事は施肥︑播種︑除草︑打穀︑排水︑
昧堆積所の屋根葺き︑芝焼等で平常雇ほれる者の多くは村の中.
から見出された︒従つてファーム・サーヴァントの雇入の場
合に見られるような﹁雇入市﹂の制度は.見られない︒だが牧護
の際には一時に多董の労働力を必要とする関係上︑賃銀も通常
h a r v e s t e r
遥かに高率だったので近くの村や町の職人もいわゆる牧穫人
として農村に流れ込んでくる︒彼等は市場に現われ そこで雇主との間に1
日 ︑
1週またほ牧穫の全期についての雇
傭契約を結ぶ°賃銀の支払は昧や穀物の刈取︑打穀︑排水等ほ
出来高によるとともあったがその他の場合は時間によった°賃
銀ほ貨幣のみで支払われたのではない︒たとい貨幣のみで支給
されたかの如き外観を呈している場合でも︑大抵の地方では作
業中にはビ・ールが給興され︑また南西部の如き果実の豊富な地
C 8
方ではサイーが給興されている︒また明白に﹁賄付﹂^
9 .
)w i t h
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岱d ' ,
^
a
n d
victuals'~
条件とした例も多く見られる°殊に寸
時も惜しまれる牧穫時にあってほ牧穫人
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には農場
小屋で食事が出されるのが普通で︑賃銀も平常よりずつと高率
となり同時に飲物も壻謙された°労働時間は例えば東南部では
夏は十二時間冬は十時間位であり︑収穫時には西部では慣習的
( 4 )
に聰方から夕暮迄となつていたようである︒
次に労働者の家計を窺うに︑この面では小屋住農自身の賃銀
所得は決定的重要性をもたない︒というのは他に家族による家
計への大なる貢献ー殊に自給生産面においてーがあったからで
ある︒それは旧制村落が小屋住農に僅かな農地と共同地ないし
末開墾の利用を許し︑彼等の家族に恰好の労働対象を輿えてい
たからに外ならない︒小屋住農ほすでに1言したごとく大多数 九
八
た°゜ハソは共同地で採取したハリエニシダ たまちまちであった︒豚と鷲烏を有する者︑牛を持つ者︑もつ麦︑大変を作って自家消喪の一部を自給し︑養豚用の一豆︑冬期家畜を維持するための乾草︑それに自家用の野菜などを作っていた︒家畜や家禽の飼育によってミルク︑ペター︑卵︑肉が得られてそれが飲料や調味料に供され︑蜜繊ほ冬期の蠍燭となっ
furge~
燃料とし
て自家の窯で焼かれた︒この場合注意すぺきことは上述せる小
土地ないし共同地における農耕や家畜の飼育は牧穫その他の繁
忙期以外は殆んど小屋住農の手を煩ほすことなくその妻や子供っ5)の家族労働によつて営まれたという点である︒また労働者の妻
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶ れ、養蜂—多くの婦人がこれを営んだーを営む場合にほ蜜が採 ていた︒小屋の近くにある小区劃地には少し許りの小麦︑ライ と成功した小屋住農は尚相当の家畜や家禽を共同地に放牧し した土地面積が区々であると同様彼等の飼育する家畜の数もま リニ︱︱芝クを採取する権利が認められていた︒小屋住農の保有 ス・ラソドや末開墾地を利用して家畜を放牧し︑草土︑薪︑ハ ことにより︑換言すれば村落の構成員たることによつて︑ラマ の者が小屋の近くに菜園を有しておりまた小屋を占有している
九九
それは近くの織布工の許で織上げられて家族や家庭の必要を充 や子供ほ牧穫後の開放耕地において落穏を拾い集めること
g l
ー
e a n i n g
がでぎた︒粗放的な農耕制度の下においてほ︑イーデ
ンが指摘する如く︑可成り多抵の穀物や豆を拾い集めることが
C 6 )
できたようである︒農牧面における家族労働から転じて次に家
内工業面に移れば︑ここにも尚家族労働の没透する分野が隈汎
に残されていたことが知られる︒十八世紀後期は︑工場制工業
の漸進が見られるとはいえ依然家内工業の支配的な時代であっ
て︑農村の低廉な労慟力を支柱とする前貨問屋制
p u t t i n g
, o u t
s y s t e m
が限汎に展開されていた︒毛織物工業地帯では労鋤
者の妻子の殆んどすべてが間屋
f a c t o r
のために紡毛に従事し
ていたことほ周知の所である︒この外レース製造︑麦諮加工︑
編物等の家内工業が彼女等に賃仕事を提供していた︒尤もこれ
らの家内工業は通常低賃銀であって︑例えば婦人が一日四ペン
スを稼ぐためには十時間ないし十一一時間紡車によって熱心に慟
( 7
)
かねばならなかったといわれ︑叉子供す手偲わせても一週一シ
(8)
リングないしニシリング程度であったといわれるこから推しても︑そう大ぎな牧入ほ期待されなかったようである︒また自家
生産の麻や睛入した羊毛を紡いで家族の靴下に編んだり︑或ほ
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶
たした︒十八世紀末の北部について﹁幕夫や職人や労慟者の
身に謳うものは︑靴や帽子を除いては殆んど総てのものが家庭
で作られた・・・買手が相当の財産家でない限り︑店舗で求めた上
衣は彦惨と自慢を示すものだと考えられた﹂と言うイーデンの
( 9 )
叙述は何もとの地方に限られたものではなかった︒その上乾草
作りや牧穫期には多くの婦人が賃労働に出かけていった°殊に
北部では男の手に鎌を見るととは稀で︑刈取ー方言で^
sh
ea
r ,
( 1 0 )
i ng `ーは殆んど婦人によって為される﹂特殊な慣行があった︒
賃 銀 は 例 え ば
Ox
fo
rd
sh
ir
e
では食事付で1日1
シリ
ソグ
︑
(11) 北部では乾草作りで一日六ペソスないし十ペソスであった︒こ
の外除草︑石拾い︑施肥等の畑仕事もあった︒子供も畑仕事で
1
日 一
1一ペソスないし七ペソス位の収入があったようである︒し
かし全般的に言って婦人子供が廣廊囲に︑男と同様に常時農業
労働に従事し賃銀労働者階級を形成するのはかなり後のことに
属す
る︒
上来述ぺ来ったところから︑この時代の旧制村落の労慟者の
性格を一般的経済的に規定すれば︑彼等は単なる賃銀労働者で
はなくしてW・ボーデンの用語が適切に表現するごとく﹁半独
(12)
立生
産者
﹂
se
mi
, in
de
pe
nd
en
tp
ro
du
ce
r
と称すべきである︒まうな中世的雰囲気に覆ほれた村落社会と労慟者の状態は︑やが しかし新しい政治的経済的諸力によって︑ここに規定したよ た^モンドの言葉を藉りれば﹁土地持労働者﹂
l a b o
u r e r
a )
l an d
とも言えよう︒しからば︑かかる性格をもつ旧村落社会
の労働者層ほ如何なる社会的地位に置かれていたであろうか︑
われわれほとの社会が痰化に富んだ段階的な階層をもつていた
ことを知る︒すなわち上層の大地主層と下層の労働者層の間に
は大小多くの自営農ないし小作農が介在しており全体として可
成り調和のとれた社会を構成していた°労働者の上層部は小是
層に没入し︑事実労働者も小農と共に隣人であり︑相互に理解
をもち略・々同種の生活を営んでいた︒労働者も若干の蓄積を得
れば小是圃を手に入れ1層の簗栄に向う可能性は大きかった︒
末だ生産手段と結合していた彼等にとつては勤勉と節約によっ
て小自営農
s ma l
l
f r e e
h o l d
e r
へ上昇する道が展けていた︒か
ような社会を当代のある人ほ^
g ra d
a ti o
o f n
s o
c i e t
y `
とい
う言
葉で呼んでいる︒小屋住農層は若干の生産手段との結合によっ
て物価や雇用の変動から保護されて生活の安定を得︑将来にお
ける繁栄への期待が残されていたので彼等労働者の状態は決し
(14) て悪くはなかったのである︒
1 0 0
wi
th
ぅ゜ て否定さるべき運命を担つていた︒すなわちジョージ一1一
世の
治
世が始まるとともに︑その変遷の過程は︑議会の法律による工
と農地の統合とい
う具体的な姿を以てスクートし︑この世紀の進むと共に加速度
的に進展する︒段階ある社会層を以て構成されていた旧制村落
は、社会層の迦結性
compa 巳
oriship~打破せられ︑中間層は分解を遂げ農村には労賽の両極に分離した単純な社会構造が出
現する︒同時に労働者もまた彼等が停統的に保有していた小区
劃地・菜園を喪失し︑世襲財産として代々継承されてきた共同
地の利用を絶たれる︒これらの生産手段こそ彼等の唯1の出世
の手蔓であり︑勤勉と節約を刺戟して貧民化を阻止する足場と
もなつていたのだ︒ここに至つて従来の﹁半独立生産者﹂また
ほ﹁土地持労働者﹂は1切の生産手段から解放され︑無産労働
者ないしは貧民化し︑新興工場制工業にとつて尤大な産業予備.
軍を形成する︒そこで節を新たにしてその事情を明らかにしよ
註
6←
H a s b a c h , W . , H i s t o r y f o t h e E n g l i s h A g r i c u l
t u ,
r a l L a b o u r e r , 1 9 0 8 . p . 8 5 ; P i n c h b e c k , I v y , W o m e n W o r k e r s i n t h e I n d u s t r i a l R e v o l u t i o n , 1 9 3 0 . p p
: 1 6 ,
1 7
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶ ンクロージュア
p a r l i a m e n t a r y e n c l o s u r e
( 2 )
H a s p a c h , o p . c i t . 1 p .
8 4
( 3 )
G i l b o y , E . W . , W a g e s
甘
E n g l a n d , 1 9 3 4 . p . 7 9
( 4 )
i b i d
̀ .
p .
5 4 ,
p . 8 7 ,
( 5 )
P i n c h ぽ
c k
︑ 0
p . c i t . ; p . 2 2
; H
a s h a
< " h,
o p . c i t . , p p . 9 5
‑ 9 9 ; H a m m o n d . J . L . , a n d B a r b a r a , T h e V i l l a g e L a b o u r . e r , 1 7 6 0 , 1
匁 沼
‑ "
1 9 2 4 . p ,
8 2
しか
しク
ラッ
︒ハ
ム
は共同権に関し︑上記諸家程には高く評債しない︒
C l a p h a m , J•H••
E c o n o m i c H i s t o r y o f M o d e r n B r i t a i n , v o l .
I .
p . 1 2 6
( 6 )
H a m m o p . d , o p . c i t . , p .
8 3
( 7 )
H a s b a c h , o p
c i t .
`
1
3 7
( 8 )
C l a p h a m , o p . c i t . , p . 1 3 0
( 9 )
P i n c h b e c k ,
0
p . c i t , , p . 2 3
; H
a s b a c h , o p . c i t . , p . 9 9
( 1 0 )
G i l b o y
,
0p . c i t
`
.
p . 1 5
1 ;
P i n c h b e <
" k
︑
0p . c i t . , p . 5 6
( 1 1 )
G i l b o y
,
0p . c i t . , p .
8 6 ,
p . 1 5 1
( 1 2 )
B o w d e n , w . I n , d u s t r i a l S o c i e t y i n E n g l ; m d
t
01w a r d s t h e n E d o f t h e E i g h t e e n t h ・ C e n t u r y , 1 9 2 5 . p . 2 2 0
( 1 3 )
H a m m o n d , o p . c i t . , p . 7 6
C 1
4 )
H
a s b a c h ,
0
p .
c i t . , p . 9 9
︵二︶農業革命の影響
1 0
テュー仄
l
朝よりステュアート朝初期にかけての第1次エンクE i
g h
t e
e n
t h
C e
n t
u r
y
^ n o n , p
a r l i
a m e n
t a r y
ジョージの治下︵一七六
0
年ー1八二
0
年 ︶
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶
ロージュア運動はその後やや緩慢に進行するが︑ファーマー・
に再び活酸化す
る︒これがここに取上げんとする第二次ェンクロージュァ運動
ag
re
em
en
t
である︒この期の囲込方法には利害関係人の間における合意
によるところのいわゆる
e n c l
o s u r
e ' も行はれたが︑しかしこの期のエンクロージュアは︑.
当時の政治情勢の1の表現形態たるいわゆる﹁議会によるエン
クロージュア﹂の方式をとった大規模な土地再編成なるところ
にその一特質を見出ず︒以下においては主としてこのような型
︐のエソクロージゴアが労働者層に及ぼした影響について考察す
る︒すでに前節で明らかにした如く労働者の経済生活と殊に密
接な関連をもつのは共同地である︒従つてこの階層にとつてほ
開放耕地のエンクロージュアよりは寧ろ共同地のそれに︑より
大きな利害関係を有す必゜
共同樟の附属する小屋
co
mm
on
r i g h
t c o
t t a g
e
の所有者は
共同地が囲い込まれる当つてはそれに代る土地の割当に預るか
或は補償をうけ︑また耕地が囲い込まれる際にも零細地主ほ補
償された︒しかし失つーた共同権の補償として受け入れた割当地
a l l o
t m e n
t
ほ牧畜に利用するには余りにも微細であったーと言 つてもそれが喪失した樟利に対する厳密な法律上の割当であった︒例えば﹁牛二頭と羊主頭を放牧する樟利と引換えに一ェーカーが割当てられた︒それほお粗末極まる等価物であった︒﹂︵
( 1
‑
An
na
ls
of
A g r i
c u l t
u r e )
更に割当てられた土地は柵で囲はね
ばならなかったが︑この費用ほ到底負担し得るものではなかつ
た ︒
1七九六年
G e n e
r a l
E n c l
日
o s eB i l
一の提唱者は︑貧民に
ほ柵作り
f e n c
i n g
の費用を免除すぺしと提案したが︑特別委
( 2 )
員会の採択するところとはならなかった︒結局割当地は土地仲
介商人の手を涌じて買取られてしまったであろう︒次に小屋の
賃借人である場合においては法的にほ割当地の分配に預る権利
を有しない︒それは地主に属す︒そして共同地の消減した場合
には︑その分に応じて賃料が割引かれた︒しかしながら生活の
可成りの部分を共同地で飼育する牛や若干の家禽に依存じてい
た人々にとつては︑この割引額は取るに足らぬ慰藉であり︑共
同権の附属しない小屋の如きは殆んど利用価値の無いものであ
った︒最後にスクォックーは元来不法俊入者であったから大多
数の者が共同地から追放され︑小屋ほ引倒され︑彼等が開墾し
耕作していた一握の土地は共同権を立証し得た人逹に膿渡され
た。ただ蚕食地
encro~chments
において二十年間ー時には一――1 0
十年叉は四十年間ー蓮続して自らの小屋に住み家畜を放牧して
いた事を立証し得た場合には︑正当な権利と看倣され補償され
( 3
)
た︒しかし現実にほそれを立証することは殆んど不可能であっ
たろう︒エンクロージュアの行はれる以前においてほ︑正当に
若しくほ慣習的に共同地の利用と開放耕地の刈跡に放牧するこ
とができた労働者達は︑上述の如く結局それらの凡ての利益を
喪失した︒これに対してほ道撼上の賠償に値したのであるがこ
れがなされた例は極めて少数であった︒半独立生産渚たりし彼
等の経済生活はその背骨を粉砕され︑ここに無産者化の劇はそ
の最後の幕を閉じたのである︒
次に開放耕地と共同地を含むェンクロージュアは雇傭に如何
に影響したであろうか︒農村における失業ないし離村はr
日
a l
ex
od
us
については他の諸要因が同時に作用しているのでエン
クロージュア及び農地兼併がどう連関しているかを検出するこ
とは極めて困難な問題であり︑しかも時と処によって大いに異
る︒ジソク>アーの如きェンク
p
1
ジュ・
アと
農地
兼併
の唱
導者
•(4)
、すら全般的に見れば︑その結果雇傭は減少したと理解しているがことに考察の対象としているイングランドに関する限りその
C 5 )
断定は擬問である°雇傭の問題について今1
つ附
言す
べ含
は︑
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶ 旧制村落の労働者に少なからざる利益を齋らしていた落配拾いg l
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が危機に直面したことである︒労働者の妻子ほ囲込
地に侵入してもそこで蒐集しうる落穂は極めて少なくなった︒
そこで労働者自身が侵入してきて麦束の穂が窃取される恐れが
( 6 )
生じた︒このため落穂拾いの慣行を饒つて論議が斗はされたが︐
その最中の1
七八
八年
︑
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によって禁止された︒
労働者層に上述のような結果を齋した﹁議会によるエンクロ
ージュア﹂ー殊に共同地のーと土地兼併は︑人口の増大?不作
の迦続・打続く戦争等のために惹起された︑食糧増査という国
家的要請に応ずるものであったとはいえ︑大地主・大農企業家
凸 .
の農業労働者層に対する考え方が如何にそれを花当化し︑ひい
てほ労働者層の取扱にも大いに屈映したかを見逃すべきではな
みよ
う︒
かろう°再びジソクレアーの言を藉りて彼等の考え方を窺つて
﹁それは小屋住農逹をして村や町に居住することを余
儀なくせしめる︒そこには小屋住晨達は彼等自身と社会の何れ
. ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
・
にとつても︑田舎に留つて時間を浪喪しているよりも造かに有
0 7 )
益な仕事がある﹂と︒農村の支配層の眼にほ独立的労働者が自
身の菜園を耕やし︑自家用の燃料を採取し︑家畜を飼育すること
ほ時間の浪費であり︑社会ー支配層のーにとつての損失である
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︱ ︱( 2 )
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1 産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶
と映じたのである︒第二次ニンクロージュァ運動に関逼する独
立労働者の賃労働者化と並んで今1つの重要な蛮化が見られるr8) °すなわち尚残存していた自営農民層の漸次的退場の後に1般
に 一
1一
分制
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と呼ばれている典型的な賽本主鶉農m
業経営の登場が目立つてくる︒A﹂の農業体制で中心的役割を演
ずるのはすでに述ぺたように大産業資本家たる借地農業家であ
る︒彼等は臓々都会の出身であり︑その経営と営利の追及にお
いては都会の慣習と都会人の感覚を以て臨み︑雇傭する無産化
した社会層に対してほ感傷的因習
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や批
( 9 )
襲的諸関係
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に囚はれることはなかった︒
次に示す
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ベットの害簡の1節は雇傭者の労働者に対するかかる態度を如実に表明している﹁労働者に憐憫の情を起させ
︑︑
︑
ないようにするため可成り速隔地から農場監督を雇う習慣があ︑︑̀︑︑︑︑った︒とりわけス・コットランド人の農場監督が好まれた︒とい
5
のはそれによって他の何人にもまして厳格性が得られるもの(10) と考えられたからである﹂
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註(1)C日
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が正当な権利考I
として認められた1例︒﹁この男は荒蕪地の1隅に建て
られた家に住んでいるがマナー領主は多年に亘つて権利
を主張したことはなかった︒それで今日ではそれは自由
保有と看倣してよい﹂︵イーデン︶︒また多くの囲込法
には﹁最近二十年以内の何時かにおいて︑件の共同地や
荒蕪地に設定された露食地は︑すべて分割さるべき土地
の1部と看傲さるべし・・・従って分割され且割当てらるペ
きものとす﹂という条項が設けられていた︒
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( 5 )
耕地の牧揚化を特徴とする第一次屯ンクロージュア
と異り︑この期の囲込地が主として耕地に向けられたこ
と︑荒蕪地の耕地化による耕地面積の増加を考慮に入れ
れば農民離村はそれ程大きかったとは考えられない︒ま
た近傍の都市に移住した若干の農業労働者も高い工業賃
銀に誘引されたのであって農業から閉め出されたのでは
ないことを賃銀統計は物語る0
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1傍点筆者
( 6 ̀ )
( 7 )
10
四
( 8 )
ョーマンの消滅に関しては小松芳喬氏の次の論文に
詳し
︒
﹁ョーマン層衰滅の時期に関する諸学説﹂︵早稲田政治
経済学雑誌一0
二号所牧︶
﹁ヨーマン層衰滅の時期に関する最近の諸学読﹂
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10
号所牧︶
( 9 )
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( 1 0 )
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り引用
十八世紀中葉よりナボレオソ戦争の終了まで英国は殆んど継
続して戦争の状態にあった︒ここでは戦時下の農業労働者の状
態を考察しようとするのであるが︑その中十八世紀に残存して
いた旧制村落における状態については既に前述したので此処で
ほ反復を避け︑主としてエンクロージュアと土地兼併によって
再編成された新しい村落における賃労働者に関して述べる︒市
場の変動や偶発的失業を回薙ないしほ緩和する何物も残されて
いない無産者化した賃労働者にとつてほ︑賃銀と物価の動きが
旧制村落の労働者の場合に較べて濫かに大きな意義をもつてく
る°蓋し賃労働者は消費するもの総べてを市場に求めざを得な
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶ (‑︱‑︶戦時における状態︵一七六0ー一八一三︶
︵ 同 誌
‑ 0
五
かったからだ︒一七六五年以降ナボレオン戦争終末に至るまで豊作は極めて稀であり︑多くの地方で土地は長く無謀な使い方をした結果生産力の低下が著しかった︒のみならず増加人口の維持に必要な轍入を妨げた戦争とナポレオンの大陸封鎖によっ(1
)
て一層穀物価格ほ騰貴した︒新生産方法は労働者の小麦粉購入
をより不利な立場に変えてしまった。
D• デイヴィーズはこの点
を強調して云う﹁大農業家は製粉業者と卸で取引する°製粉業者
は食糧品店と︑食糧品店
me
al
ma
n は小売店と取引し︑最後に貧
しい者はその小麦粉を小売店からプッセルの建値で買う︒とい
うのほ製粉業者も食糧品店も小売価格になる一袋以下の量では
労働者に売らないのだが︑香民の懐にほ即座に一袋をまるごと
買い得ることほ滅多に無い﹂と
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(2)
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同時にこのことは嘗て農業家から直接購入していた場合よ
りも︑より高いものを消費するようになったことを意味する︒
( 8 )
同様のことは肉についても言い得ることである°価格臆貴ほ食
糧に限らなかった︒戦費は高率の間接税の形を以て労働者層に
課せられた︒1七八八年
J
・ホーリットは︑石鹸︑皮革︑蠍燭等に対し戦争遂行のため課された間接税によって︑これらの商
7 t
)
品価格は約五分の1程騰貴したと言っている︒
産業革命期における英国農業労働者の状態︵荒井︶
地方賃銀ほ外に前述のような家族の牧入源があるという前提
の下に決定されていたため︑農業革命と共に家族の牧入源の大
牛を喪失したことは︑それだけ生活水準の低下を意味する︒尤
も物価の側における変化に伴つて賃銀も徐々に上つており︑対
仏戦争中は農村人口の工業地帯へ或ほ軍険への流出︑穀物栽培
の壻加等により確かに大巾の上昇があったようである︒だが
J
・ホーリットが言うように︑労濁の価格は食糧の価格の上昇と
C 5 )
比例していなかった︒この点に関し当代及び後世の諸家の提供
する数字は概して大まかで︑それらを以て一般化することは後
述するごとく可成り危険ではあるが︑賃銀と物価の関係が略々
どのような傾向にあったかを把握する一助にはなる︒一七九六
年にナクニエル・ケントの云うところによれば︑最近四十年な
いし五十年の間に食耀価格は六
0
%騰貴しr
賃銀は二五弧上昇したと︒しかし対仏戦争のイソフレ時代には両者の開ぎは更に
大きくなる︒H・レヴィーは一七六
0
年と一八1
︱‑
一の
間に
賃銀
( 6 )
は六〇劣、小麦価格は一
11i0~
上昇したと計算し︑アーンル卿ほトゥークやヤングの数字に批判を加えた後﹁ナボレオソ戦争
の期間に農業賃銀の極めて重大な増加が行はれたことは確かに
事実だ︒しかし︑よし賃銀が二倍になつていたとしても︑食糧準に抑えられて一家の全牧入は減少せしめられる傾向すらあっ てた︒従つて労働者の側からすれば一方の牧入は他方で相当部 価
格は
一
1一倍になっていたことは不幸にして正しく事実である︒
6 7 )
換言すれば実牧入は三分の一だけ減小していたのだ﹂と断じ︑
この賃銀の遅れについて﹁賃銀を引上げることは常に容易であ
るが︑引下げることは極めて困難である︒物価騰貴がほんの一
時的なものであるかも分らないような時に農業家が賃銀の引上
( 8
)
げを澁るのも蓋し尤のことである﹂と説明する°然し農業賃労
慟者の生活を脅やかしたのは物価騰貴のみではなかった︒すな
わち農村の安価な労働力の上に築かれていた最後の家内工業形
態ーいわゆる前貸問屋制
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にその途を譲りつつあった︒主として農業賃銀に生活の基盤
を置いている労働者にとつて︑問屋より受ける副牧入は実際
には必ずしも1家の全収入ほ好結果を齋らすものではなかつ
た︒というのは労働者に生活の維持以上の所得を典えることは
全く不適当であり望ましくないことと考えられており︑地主・
農業家は労働者のそのような副牧入を前提にして農業賃銀を建
分が相殺されていた︒のみならず地主・農業家は膜々副業的家
内工業による補助的所得能力を過大許価するために賃銀は低水 ほ漸次工場制
10
六
( 9 )
た0世紀末以降︑前貸問屋制の衰退につれて︑上述の農業賃銀
の性格は露ほになり︑副牧入はさ程大きな額ではなかったとは
いえ︑これが喪失は労働者の生活に悲惨な結果を免れしめなか
家計の支柱をなす農業賃銀が低いため労働者の家族は副業的
手工業によつて補足してきた︒しかるにこの副牧入の途を絶た
れた場合︑最早家庭にあって家計を援助し得る手段は無く︑労働
者の妻逹は賃労働者の隊列に加わり︑夫と同様に農業日傭労働
者となった︒それまでは乾草作りとか牧穫以外には婦人を雇傭
する賃労働ほ極めて少なかった︒婦人にも男同様になし得る大
量の恒常的仕事が生じたのは︑蕪脊その他の根菜を栽培する改
良農法の廣汎な適用と集約化された大農制が出現した十八世紀
末ないしは十九世紀初頭になってからである︒蕪苛を栽培する
新しい農場では鍬や手による除草に安価な臨時労働が需められ
た︒またナボ>オソ戦争が︑軍人の供給源たる農村から多数の
牡丁ー牡丁六人につき1人の割合と推定さるーを吸牧していつ
たことも新しい婦人労働者階級の出現を促した一因であると考
えられる︒しかし婦人労働者が何れの地方にも増加したわけで
( 1 0 )
はない°或る種の家内工業が残存していた地方とか︑殊に後述
産業革命期における英国農業労働者の朕態︵荒井︶
った
︒
1 0
七
する如く救貧税による補給金制度a ll o
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していた地方では︑その増加が顕著になるのほ一八三四年の新
G11) 救貧法制定以降であった︒婦人労働者のこのような進出の結果
ほ︑しかし家内工業の場合と同様︑農業労働者階級に関する限
り必ずしも有利なものでほなかった︒蓋し婦人労働の壻加は男
子の賃銀を低く抑えることになり悪循環に追い込まれるからで
ある︒彼女等の仕事は主として軽作業で︑牧獲︑除草︑石拾い︑
牧場手入︑作物の植付︑移植︑施肥を主とするが︑戦時中は男
( 1 2 )
のする力仕事にも従事している︒賃銀は作業により異るが除草
の如き普通労働で
1
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ペソス程度のようであ
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る ︒
1七六五年以降英国は穀物の輸入国に転じ︑穀物政策は地主
階級に有利に展開した︒長期に亘る戦争は地主にとつてほ増大
する富の源泉であり︑賃銀労働者にとつては長期の災難の源泉
であった︒﹁貧者は戦争のために苦しんだ︒併しこの時代ほど
土地貴族
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が富裕で︑また愉しい田舎の邸宅生
(14) 活に浸り切ったことはない﹂°ジョージニ世
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が普及
産業革命期における英国農業労働者の朕態︵荒井︶
ンドの凡ゆる地方の農業労働者の家計について行った実態調査
(1
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︵
1 7
)
の結果︑或いは救貧税の急激な増加などに見られる数字は︑窮
乏な生活状態を実証するものである︒
D・デイヴィーズは自己
( 1 8 )
の眼に映じた彼等の姿を実に鮮かに描き出している︒
﹁私は彼等の見すぽらしい落ちぶれた状態に眼を覆うわけに
はゆかない︒彼等は一般に何の変化もないものを食べ︑お粗
末な着物を纏い︑或る子供は靴や靴下すら履いていない°学
校に涌う子供は殆んどいない︒大抵の家庭が商人に借金を負
うていた︒要するに彼等の家庭では子供が割合に元気そうで
あるという以外には何の祭しみも見出されなかった︒しかじ
かような惨さを彼等の怠惰と浪曖に負はすことは出来ない︒
と言うのは農業家は彼等に仕事を欠かせない様に気を配つて
いたことを知つている︒それに若し彼等が酒に溺れていたの
であれば私の耳にもよく入った筈です︒婦人逹は殆んど金儲
けはしないが畑仕事の無い時には家庭でバン焼︑衣服の洗濯
や繕い︑子守などしてよく働いているのを見た﹂︒また婦人建
は新しい衣服を作るに十分な程に︑ポロ片を縫い合すのに多
くの時間を費していた︒労働者逹はよい身装をした人々の間
に出ることを恥ぢて教会から離れていったともいわれる︒
かように窮乏化したこの階級による支配階級への訴は遂に
1( 1 9 )
七九五年﹁主婦の
1揆 ﹂
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という形 ァーム・サーヴァントは農場小屋に宿泊して賄を受けていたが 穀物価格が異常な高値を示すに及んで農業家はこれを不利とす 辿る︒しかし中部・南部と大いに事情を異にする北部において は︑この慣行は依然として残存する︒蓋し北部では日傭労働者 の賃銀は高く︑飲食物による支給を有利としたからで大麦のス ー
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ないし粥
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が彼等の主食であった︒
かくして中部・南部のファーム・サーヴァントの性格は規則的
に雇傭される日傭労働者に転ずるが︑北部ではファーム・サー
ヴァントの性格を維持し得たため︑本質的には労働者に不利な
非近代的賃銀形態の下でではあるが戦時の高物価による脅威を
或程度綬和することができたのである︒
日傭労働者について見ても眠して北部では南部に比すれば相 るようになり︑市場に近い中部・南部では継えず衰微の一途を 置かれた環境の如何によって相当異った相貌を呈する︒従来フ で全イングランドを蔽ったのである
Q有名なスピーナ
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の決議がなされたのも実にこの年のことであった︒
1
方には地主・農業家の嘗てなかった程の繁栄が︑他の極に
は貧窮に喘ぐ労働者層が看取される︒しかし労働者層の変貌ほ
イングランドの各地で一様に起ったのではなかった︒労働者の
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