大逆事件と百年後の小説 : 瀬戸内寂聴「風景」を 中心に
著者名(日) 内藤 千珠子
雑誌名 大妻国文
巻 42
ページ 207‑228
発行年 2011‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001298/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
大妻国文第必号
。
年 月
大逆事件と百年後の小説
||瀬戸内寂聴﹁風景﹂を中心に||
内 藤
千 珠
子
大逆事件︑韓国併合から百年を迎えた二O一O年は︑このふたつの出来事について︑種々の領野で多角的な議論が試み
られ
た一
年だ
った
︒
そうした状況を念頭にこの年の文学をめぐる空間を見渡してみると︑きわめて興味深い現象を確認することができる︒
二つの小説に引用された大逆事件の記憶が︑アンビパレントな論理を構成しているのである︒具体的にいうと︑物語の欲
望をなぞり︑肥大させてゆく小説と︑物語の欲望に同期しながらもそれを批評的に更新する小説が生産され︑対照を描い
てい
る様
相が
見出
され
る︒
本稿では︑大逆事件をめぐる記憶という観点から︑現代の日本語小説の時空において︑どのような言葉が編まれ︑言説
の構図のなかにいかなる論理が生成されたのか検討したい︒
事件が報道された当時︑記事のなかにはスキャンダラスな物語を編成しようとするメンタリテイが発動していたこと︑
大逆事件の物語構造が韓国をめぐる政治的な物語と相関関係を描いていたこと︑日蔭茶屋事件や虐殺事件
が報道された際︑大杉栄という記号によって大逆事件のイメージが再現的に反復されたことなどを念頭におきながら︑焦
そし
ての
ちに
︑
大逆
事件
と百
年後
の小
説
0 七
二O八
点を当てるのは︑大逆事件というイメージが現代の小説のなかに引用される際のジェンダl
の力
学で
ある
︒
二O一O年に発表された二つの小説︑すなわち中森明夫の長篇﹃アナーキー・イン・ザ・
J
P﹄と︑瀬戸内寂聴の短篇
﹁風景||面鉛﹂を主たる分析の対象とし︑物語とジエンダ!というテl
マの
もと
に検
討し
てみ
たい
︒ 1
﹃アナーキー・イン・ザ・
J
P﹄に見られる差別の定型
中森明夫﹃アナーキー・イン・ザ・
J
P﹄は︑大杉栄を現代によみがえらせた小説である︒物語は青春小説の枠組みを
とり
︑
アイドルのファンである平凡な男子高校生﹁シンジ﹂が︑十七歳の誕生日にパンクロックに目覚め︑彼の意識のな
かに大杉栄の精神が宿るという設定を持つ︒タイトルはセックス・ピストルズの
﹁ア
ナー
キー
・イ
ン・
ザ・
U
K﹂を借り
てお
り︑
一人称の﹁オレ﹂として物語を語り進めるシンジは︑大杉栄のアナーキズムをセックス・ピストルズのパンクの
精神と結びつけ︑過去と現在を縫合する︒
シンジの頭の中に﹁間借り﹂した大杉栄は︑現代を批評し︑シンジに過去を語り聞かせ︑ときにシンジは過去を現実の
ものとして体験する︒現在と過去を往還する時間軸のなかで︑赤旗事件︑大逆事件︑日蔭茶屋事件︑大杉栄の虐殺などが
語ら
れて
ゆく
︒
シンジの現実は︑大杉栄の精神に触れることで変質する︒パンクバンドのメンバーとしての活動︑兄との
対話︑伊藤野枝の精神が憩依した憧れのアイドル﹁りんこりん﹂との恋を通じて︑大杉栄的な﹁恋と革命﹂が変奏される
とい
うわ
けだ
︒
単行本の帯には﹁朝日新聞︑読売新聞︑東京新聞︑
ツイ
ッタ
12
n・で大反響﹂とあるが︑実際にネット上でも好意的
な反応が目立ち︑文芸時評や書評等でも︑留保をつける評者もあるが︑おおむね意欲作として肯定的に評価されているよ
うだ︒こうした反応は︑本作が読者の輿味を引きつけながら歴史的出来事を語ることに成功していることの証左左いえる
だろ
う︒
だが
︑ その物語の文法には︑批判すべき点が散見されるといわざるをえない︒大逆事件をめぐる物語やイメージ がどのように引用されているのかという観点からすると︑定型を強化しながら︑きわめて反動的なかたちで大逆事件のイ メージを利用していると読まれるからである︒
まず第一に指摘しておきたいのは︑物語の展開にスキャンダルの力学が作用していることである︒
シンジは兄の西一郎
から大きな影響を受け︑とりわけ知識や思想という点において多くを負っているのだが︑その兄は︑自身の恋愛スキャン ダルをきっかけに︑思想的変容を余儀なくされていた︒
頭の中に浮かび上がる︒兄貴と彼女のツ1ショットが︒夜の路上のキスシl
ン︒写真週刊誌の隠し撮り︒﹁ワーキ
ングプアの女神と自称フリlタl
の革
命児
の恋
﹂の
見出
しが
︒
フリ
iタl
の革命児||たしかに兄貴はそう呼ばれていたよ︒何年前のことだっけ︒﹁三十一歳・フリータ
l
・西
一郎
﹂と
して
︑ 兄貴の投稿論文が載ったんだ︒﹃頓座﹄という雑誌だった︒ワ:﹈題名は﹁もはや戦争しかない!﹂
語り手が尊敬する兄の西一郎は︑雑誌﹃論座﹄につ丸山異男﹂をひっばたきたい||剖歳フリーダー︒希望は︑戦争︒﹂
を掲載して注目された赤木智弘をモデルとして造形され︑また︑﹁ワーキングプアの女神﹂と呼ばれる女性活動家﹁天野
カレ
ン﹂
は︑明らかに雨宮処療をモデルにしている︒このように現実と地続きの次元を構成した上で︑
フィクションとし
て設
けら
れた
のが
︑ その二人の聞の恋愛スキャンダルである︒このスキャンダル報道は同時に︑西一郎は実際には有名大 学の大学院を出た後に非常勤講師の職にあり︑親は一苅エリート官僚だという情報を暴き立て︑彼を﹁フリ
lタ|﹂を詐称
する﹁エリート御曹司﹂だと弾劾する︒経歴詐称︑体制側のスパイなどと罵られ︑嫌気がさした西一郎は政治的にも思想 的にも左から右へと転向し︑物語現在では︑自民党若手議員のブレーンもっとめる気鋭の若手評論家として注目を集めて
大逆
事件
と百
年後
の小
説
0 九
。
い る
さ ︒
らに
︑
シンジに大杉栄の霊が棲みついたのと同様に︑シンジのアイドル﹁りんこりん﹂にもまた︑伊藤野枝の精神が
宿っていたという物語展開が用意されているのだが︑﹁りんこりん﹂をめぐる現状は︑スキャンダルによって彩られてい
る︒﹁あたしは桜色のファンシー・プリンセス﹂と歌うアイドルと運命的に出会うことになったとき︑シンジは彼女が清
純なアイドルとはいいがたい人格を持っていることを知り︑動揺する︒
そんなパカな!嘘だろ?りんこりん︒嘘だと言ってくれよ︑オレのアイドル︒りんこ星人じゃないのか︒宇宙
一清
純な
桜色
ファ
ンシ
ー・
プリ
ンセ
スじ
ゃな
かっ
たの
かよ
︒﹇
:・
﹈
﹁あたしの昔の写真とか︑そんなのネットや写真週刊誌なんかに出まくってるでしょ?﹂
そう
だつ
た︒
だか
ら:
::
︒見
ない
よう
にし
てた
︑オ
レは
︒
い や
︑
ホン
ト︒
そう
いう
の︒
ユlチューブやニコニコ動
画に
投稿
され
てる
︑彼
女の
昔の
映像
ゃな
んか
︒ネ
ット
のひ
どい
書き
込み
ゃな
んか
︒﹇
・:
﹈
一瞬の天使が消える︒日の前の天使は︑たちまち悪魔に顔を変えて︑邪悪な笑いを笑ってたね︒
現実のアイドル﹁ゅうこりん﹂こと小倉優子をモデルとして造形された﹁りんこりん﹂は︑﹁宇宙一清純なファンシー−
プリンセス﹂をキャラクターとして演じているにすぎない︒テクストは彼女を︑﹁パカなアイドル﹂
では
なく
︑﹁
意志
のな
い人形﹂を演じながら逆に︑﹁気持ち悪いファン︑汚いオタク﹂を﹁心の底ではめちゃめちゃパカにし返﹂すという︑パ
ンクの精神を秘めた女性として描き出す︒そしてその二面性が︑芸能界ゴシップ︑スキャンダルといった文脈でメディア
上で情報化されているのである︒
兄の女性関係がスキャンダルとして物語の背景を動かし︑アイドルのスキャンダルが語り手の自覚された死角を構成す
るーーすなわち︑この小説においては︑スキャンダルが物語を動かすというしくみが内在しているのだ︒
アイドルをスキャンダラスな文脈に巻き込む事実が︑語り手によって﹁天使﹂と﹁悪魔﹂の比輸によってとら
えられていることに注意したい︒論じるまでもなく︑女性を聖女と悪女の二律背反イメージで表象する構図は︑近代の女
性イメージをめぐる定型そのものにほかならないわけだが︑小説﹃アナーキー・イン・ザ・
J
P﹄には︑こうした差別的
加え
て︑
な紋切り型が頻出する︒
たとえば︑大杉栄の精神に連れられてシンジが過去の時空を体験するくだりでは︑大杉栄の一人称が振り返る管野須賀
子が︑﹁淫蕩の血が流れ︑年少の荒畑寒村をたぶらかし︑幸徳秋水を妻から奪った魔女ーーと非難された︒だが︑処刑の
直前︑監獄へ面会に行ったオレと妻の保子の手を握り︑涙を流していたのは||そう︑まぎれもない聖女の姿だった﹂と︑
﹁魔
女﹂
と﹁聖女﹂という二元構造のもとで把握されている︒また︑大杉栄と恋愛関係にあった女性たちをシンジの視線
がとらえる場面では︑伊藤野枝は﹁愛矯がある︒豆ダヌキみたい︒萌え系︒癒し系﹂と︑神近市子は﹁瞳が異様に輝いて
いる︒危うい︒怖い︒きっつい系︒肉食系﹂と叙述され︑対になる二人の女性が二元構図の対照を象徴させられている︒
したがって﹁りんこりん﹂の二面性表象が︑女の表の貌と裏の貌といった女性差別的な二律背反イメージをなぞったも
のであることは瞭然であり︑彼女の人物造形に含まれる知的な側面も︑むろん物語の進行過程で︑男性的な欲望によりそ
うようなふるまいをみせるだろう︒作中で
﹁り
んこ
りん
﹂
は出会ったばかりのシンジに︑女性を性的対象化するオタクや
アイドルファンを批判する発言をしてはいるのだが︑自分を﹁ただ無内容なかわいいだけの存在﹂とみなす男たちの一人
だったシンジを︑否定するどころか受け入れ︑性的にも精神的にも結ぼれてゆく︒あまりに露骨な物語展開が可能となる
のは︑男性化された欲望にとって都合の良い女性表象の定型が用いられているからにほかならない︒
伊藤野枝は長津まさみや小倉優子︑神近市子は沢尻エリカ︑さらに大杉の最初の妻︑堀保子は上戸彩と︑大逆事件の記
憶に連なる女性たちは︑現代の女性アイドルのイメージに重ねて表現されてゆく︒叛逆の意志をもって行動した女たちを
大逆
事件
と百
年後
の小
説
現代のアイドルに節合する表現様式からは︑この小説が男性化された目線から女性を消費するコ1ドを携えていることが
みえてくるだろう︒弟のなかに大杉栄の精神がよみがえったという事実を最終的に受け入れた兄は︑弟に対してこう間い
かけ
る︒
﹁えっ︑管野須賀子と金子文子!そりゃ︑すごい︒大逆罪で死んだ二人じゃないか︒参ったね
o
H大逆事件なうw
とか
?
でさ
︑
おい
︑ど
んな
女だ
った
よ?
﹂ワ
:﹈
﹁ う
ん ︑
ほら
︑
HエロかっこいいHって一言葉が前にはやったじゃん︒そういうので言うと︑あのさ︑J
アロ
かっ
こい
し、
みた
いな
?﹂
﹁テ
ロか
っこ
いい
!
管野須賀子と金子文子が:::ははあ︑なるほどねl︒すごいキャッチフレーズだ︒テロかっ
こいい|大逆系女子︒
って
わけ
かあ
﹂
つま
りす
べて
は︑
﹁で
さ︑
おい︑どんな女だったよ?﹂という問いに集約されるのだ︒管野須賀子と金子文子を﹁大逆
系女子﹂︑﹁テロかっこいい﹂女として表象するテクストは︑男たちの性的興味によって︑過去から呼び出された女たちを
他者化し︑性的に色づけ︑対象化して物語に配置する︒
テクスト内には︑大杉栄が現代によみがえる︑という設定それ時代を批評する兄のコメントが挿入される︒﹁大杉栄の
幽霊
なん
てな
︒
クリシェ︑紋切型︑ありふれた発想﹂と断じる兄の西一郎は︑研究や芸術の領域における大杉栄の物語史
を網羅的に整理してみせ︑さらに︑小説の末尾には︑大量の参考文献が示される︒そのようにしてテクストの布置は︑
ク
リシエや紋切型の束として物語史を総括した上で︑自身を紋切り型だと言って非難してくる批評も乗り越え︑新しいステー
ジを示そうとする意図をちらつかせる︒
ころ
か︑
しかし︑無防備に反復される差別的な女性表象を確認すれば判然とするように︑紋切り型の図式は︑乗り越えられるど
むしろこの小説を既存の物語に回収し︑奉仕させようとしているのではないだろうか︒
小説が発するのは︑現代における﹁アナーキー﹂とは︑右でも左でもなく︑何でもありだ︑というメッセージである︒
だからたとえば︑大杉栄の目線を通して︑小泉純一郎や石原慎太郎といった右翼政治家たちに﹁アナーキストの面構え﹂
という評価やイメージが与えられ︑﹁天皇陛下万歳﹂の芦とパンク礼賛の声には置き換え可能な位置が与えられるばかり
か︑テクストの論理の上では﹁革命万歳﹂﹁無政府主義万歳﹂に等しいフレーズとして読まれることになる︒作中︑
シ ン
ジが小泉純一郎をナイフで刺す妄想的イメージが挿入されはするものの︑最終場面は︑兄の画策した自民党のパーティー
会場
で︑
シンジたちのパンクバンドはステージに上がり︑右も左もなく踊るすべての固有名は一様に溶け混じり︑現在と
過去の論壇人や政治家たちが﹁アナーキー﹂に揮然一体化し︑自由な未来がイメージされてゆく︒
右も左もないアナーキズム︑それは規制を否定し︑すべてを肯定しつくす自由であるかに一見みえるかもしれない︒だ
が︑物語の構造を支えているレベルに注意するなら︑この小説の論理は︑物語の規制に無自覚で︑それゆえ物語の拘束力
のなかにすべての感性を閉じ込める機能を果たしさえするだろう︒
大逆事件とそれに連なる出来事が︑スキャンダルの力学によって物語的に消費されたのと同じように︑作中人物はスキヤ
ンダ
ル
H物語の定型化された枠組みを生きさせられてゆく︒大杉栄というヒーローが相変わらず賞賛され︑最も高いレベ
ルを与えられているのと同時に︑関わりを持った女たちは︑女性表象をめぐる紋切り型によって性的に対象化される︒さ
らに︑大杉栄が見る現代の時空では︑シンジの兄をはじめとして︑柄谷行人︑宮崎哲弥︑福田和也︑東浩紀といった批評
家・評論家︑男性の政治家たちの固有名がずらりと並ぶが︑女性については︑鶴見俊輔の陰に置かれて一瞬顔を見せる鶴
見和子︑兄の恋愛対象である天野カレン︵雨宮処凍︶が例外的で︑あとは大杉栄と伊藤野枝の対関係を変奏する男女のカツ
プルのなかに装飾的な記号として現れるばかりである︒つまり現在の時空には︑男性の恋愛対象となるか︑補助的な記号
大逆
事件
と百
年後
の小
説
四
となる場合をのぞき︑活動や言論の主体となる女性の固有名は具体的に現れない︒女たちには︑女性ジェンダ1化された
他者の位置しか与えられず︑女性の固有名はホモソlシヤルな幹の外に排除されている︒
テクストが捕らえられたジエンダlの力学は︑大逆事件をめぐる物語的な記憶それ自体を歪曲する︒大杉栄と同時に建っ
たのは︑恋愛するヒロインとしての伊藤野枝である︒
﹁︿
とう
とう
ここ
まで
追っ
かけ
てき
たの
か︑
野枝
?﹀
﹂
﹁︿
ええ
︑あ
なた
の行
くと
ころ
なら
︑ど
こま
でも
::
:﹀
﹂
﹁︿
だっ
て:
::
おま
え:
::
二十
一世
紀だ
よ︑
ここ
は︒
ぼく
らが
死ん
でか
ら︑
なん
と︑
もう
八十
七年
後だ
︶﹂
﹁︿
百年
後だ
って
::
:千
年後
だっ
て:
::
たと
え地
獄の
果て
まで
も︑
あな
たの
後を
つい
てい
く︒
﹇・
:﹈
それ
に︑
まさ
か
ここ
まで
は:
・・
:市
子さ
んも
保子
さん
も︑
追い
かけ
ては
これ
ない
::
:ご
伊藤野枝と大杉栄とが
﹁り
んこ
りん
﹂
とシンジの身体を借りて会話するこの場面が意味しているのは︑野校の目的が
大杉栄と再会することのみに集約されていることにとどまらない︒アナーキストがかつて唱えた﹁フリl
ラブ
﹂
は︑二人
の純愛へと置換されているのだ︒物語は︑二人に身体を貸し与えた﹁りんこりん﹂とシンジの密度の濃い恋愛を予感させ
る形
で閉
じら
れて
ゆく
︒
その
結果
︑
天皇制への叛逆︑構造に向けられた反逆の意思や物語はすっかり影を潜め︑後景化していることに注意を払
いたい︒もともと
﹁フ
1リ
ラブ
﹂
は︑天皇制を中心とする家族国家観や性愛観への抵抗という意味合いをもち︑大杉栄
をめぐる物語群にあっても︑大杉的男性中心主義が天皇制を逆説的に補完してしまっていたという指摘も含め︑そのこと
は意識されていた︒しかし︑アナーキズムを脱色したこのテクストでは︑﹁天皇陛下万歳﹂の声が意味を欠いたものとし
て引用されたり︑主人公の背後で兄が憲法改正について口走ったりする程度で︑天皇制をめぐる意識は後景化される︒大
杉栄に連なる主人公は︑その現在の時空において︑純愛的な恋を演じはしても︑政治的な議論や知的な活動はもっぱら兄
にゆだねられ︑主人公は政治的意識をもつことを放棄しているようにさえみえる︒恋愛と対になっていたはずの革命や反
逆の物語は︑あくまでも過去の時空に留め置かれているのだ︒
天皇制への叛逆というスキャンダルが不可視にされるという構図から考えるべ
きなのは︑語られない空白が︑磁力をもって言説上に生み出す効果についてである︒空白にされ︑死角を構成してはいる
引用
され
た物
語の
原点
にあ
った
はず
の︑
が︑過去と対になることで︑物語上の空白には︑天皇制をめぐるドラマが必然的に召喚されずにはいないからである︒こ
の小説は︑物語の空白に現代の天皇制︑皇室をめぐるスキャンダラスなドラマを吸引することによって︑物語の差別を変
奏し
︑強
化し
てゆ
くこ
とに
なる
︒ 2
﹁皇
室ス
キャ
ンダ
ル﹂
の表と裏
ところで︑現代における皇室関係のスキャンダルとしてすぐさま思い浮かぶのは︑皇太子妃雅子をめぐるパッシングの
諸相
と︑
その延長にある愛子内親王をめぐる報道であろう︒
メデ
ィア
上に
は︑
﹁雅
子﹂
とい
う記
号が
︑
天皇制をめぐるス
キヤンダルの主人公として選ばれ︑行き渡っている︒週刊誌や保守系の論者によるパッシングはいうまでもなく︑ネット
の空間には︑雅子妃へのパッシングサイトとして有名な﹁ドス子の事件簿﹂がある︒森暢平はその内容について﹁公務を
欠席した同じ日に︑雅子さまが私的なお楽しみ活動した記録﹃同日シリーズ﹄︑雅子さまが実家︵小和田家︶の人たちと頻
繁に会っていることをまとめた﹃しょっちゅう会ってるシリーズ﹄などもあり︑ここまで執揃に追跡する情熱に感心する﹂
と紹介した上で︑﹁そのほとんどが﹃アンチ雅子妃﹄の立場に立つ︒事実上︑雅子さまへの悪口サイトと言ってよい﹂と
大逆
事件
と百
年後
の小
説
五
一
ー
ム,
、
述べてい︵旬︒このサイトには︑性的な榔橘侮蔑︑悪意︑が行き交い︑えげつないまでの表現が散見される︒ここでは︑主
人公
の
﹁雅子﹂という固有名は侮蔑的な呼び名﹁ドス子﹂へと呼び変えられ︑負の要素にまみれたヒロインの位置に固定
され
てい
る︒
他方
で︑
天皇制に反対する論者たちにとっても︑論理は全く異なるものの︑皇太子妃はやはり批判の対象として注視さ
れて
いる
︒
たとえば桜井大子は論集﹃雅子の
反乱
﹂﹄
のな
かで
︑﹁
皇太
子妃
マサ
コ
︵雅
子
はいまそれが意図的である
のまっただ中にある﹂︑﹁マサコの﹃改革﹄ならぬ﹃反乱﹄は︑大衆天皇制への大
きな転換点に象徴天皇制を立たせているのではないか﹂と述べている︒いわゆる﹁雅子のワガママ﹂が︑より柔軟かつ校 かどうかとは無関係に︑天皇制﹁改革﹂
滑な
やり
方で
︑
日本社会に天皇制の権力構造を浸透させる役割を果たすものとして︑批判の対象とされているのだ︒現在
にあっては︑実に様々なレベルで︑﹁雅子﹂という記号は︑悪意や攻撃︑非難を誘発する記号と化している︒
さて︑こうした状況が皇室スキャンダルをめぐる表の構図だとするなら︑
いわ
ゆる
﹁己
県子
様萌
え﹂
は︑その裏面にはり
ついたスキャンダルだといえるだろう︒森暢平は皇室をめぐるメディア状況の隠されたもうひとつの軸としてこの現象に
注目しており︑﹁ネット上で民子内親王が注目されたのは︑学習院女子中等科に入学したO四年ごろからだという︒真新
しいセーラー服に身を包んだ内親王が皇室番組で紹介されると︑一部で人気が爆発し︑内親王を模したイラストや動画が
次々
に投
稿さ
れた
︒
その中で手番ヒットしたのが︑﹃ひれ伏せ平民どもっ!﹄で︑ほかにも
3
Dを使い精巧に制作された
作品などニコ動﹇引用者註・ニコニコ動画﹈にはいくつもの傑作が置かれている﹂と述べ︑その下敷きになっているのが
︵ 叩︶
﹁秋篠宮民子様御画像保管庫﹂だと指摘する︒そのトップベlジには次のような文言が置かれている︒
とのサイトは︑わが日本国のお姫様である異子内親王の御写真やイラストを掲載しているサイトです︒君が代は
千代に八千代に・:我等が皇室美少女姉妹秋篠宮長子内親王︑佳子内親王のおふたりを愛で称えましょう︒﹇:・﹈
ネットで大人気﹁虞子様萌え﹂!宮内庁は困惑気味ワペ
m wF c c
一ユ
|ス
に載
りま
した
︒
一緒にこれからも姫様たちを応援していきましょう︒
︵ 日︶
掲示板で勉強しましょう︒ 宮内庁の人によると︑とりあえず静観の構えのようで﹁閉鎖しなさい﹂という反応でなくてよかったです︒皆様と
ニコニコから来た人たちはイラスト保管庫・マコリンペン画像
このサイトについて森は
︵ ロ︶
﹁少女ポルノそのものというイラストまである﹂と述べているが︑実際︑ニコニコ動画など
を媒介にしてみられるイラスト︑動画などを集めたそこはロリコン的な欲望によって描かれた少女イメージが集積した
場所となっている︒異子内親王は﹁マコリンベン﹂と呼ばれ︑﹁わが日本国のお姫様﹂﹁我らが皇室美少女姉妹﹂を愛でた
たえ﹁応援﹂するという名目で︑少女を性的に商品化する表現がうずまいている︒誰の目からみても︑ネット上で熱く注
目さ
れた
﹁マ
コリ
ンベ
ン﹂
lま
ロリコン的欲望を投影される記号と化している︒
一見すると︑こうした言説群と先に見た中森明夫の小説がもった構図は︑無関係のように思えるかもしれない︒だが︑
天皇制をめぐるスキャンダラスな物語の二つの表れとして並べてみたとき︑天皇制を不可視の背景とする︑現代的な物語
の感性そのものが浮かび上がり︑物語からその登場人物に対して発露する暴力が透け見えてくる︒社会的な位置はまった
く異なるが︑物語において与えられた表象という観点からいえば︑﹁マコリンベン﹂
と﹁
りん
こり
ん﹂
は親和した記号と
なる
︒
いずれも︑意志を持たないとみなしうる
﹁少
女﹂
﹁プ
リン
セス
﹂
の位置にあり︑だからこそ意志を欠いた空白に男
性的な欲望を一方的に投影することが可能となる︒﹁少女﹂の記号は︑家父長制時代の﹁女﹂という記号を代理し︑表象
する
一方︑﹁皇太子妃雅子﹂という記号には ︒
その
﹁わ
がま
ま﹂
によって天皇制を破綻させようとする女でもあり︑天皇制
を代表する女でもある︑といった背理が潜んでいる︒安定した天皇制を揺るがす記号でもあり︑逆に︑たとえば天皇制反
大逆
事件
と百
年後
の小
説
日 七
八
対論者が議論するように︑逆説的に天皇制を安定させる記号でもあり︑そのことによってパッシングを引き寄せずにはお
︑尋戸品︑n−J﹂0仇 M J J n v
かつて天皇制をめぐるスキャンダルの女性主人公が
﹁暗
殺す
る女
﹂
であったとすると︑﹁雅子﹂という記号
は︑
﹁暗
殺す
る女
﹂
でも
あり
﹁暗
殺さ
れる
女﹂
でもあるという両義性を示すだろう︒
その
意味
で︑
﹁雅
子﹂
とい
う記
号に
は︑
物語の記憶を媒介に︑負の要素をまとった悪女としてのヒロインの系列が呼び込まれてくる︒
小説﹃アナーキー・イン・ザ・
J
P﹄と皇室をめぐる一一つのスキャンダルを並べてみると︑女性嫌悪とロリコン的欲望
が対になった︑女をめぐる現代の二元構造が鮮明になる︒意思を持った女性にはそれを葬ろうとする圧力が加わり︑内面
が空白で人形のように扱いうる少女は︑その空白性ゆえに賞賛される︒
大逆事件の記憶を引用する﹃アナーキー・イン・ザ・
J
P﹄が︑可視の部分と不可視の部分をとじ合わせ︑その割合を
さまざまに変奏しあいながら上演するのは︑まさしく︑現代天皇制を背景にした物語の差別である︒それは︑男性のオタ
ク的感性と論壇に表出するホモソlシヤルな構造とを両輪にもち︑女性を他者化し︑排除する様式を描いている︒
物語の差別という文脈からこの百年を振り返ると︑負の輝きによって称揚されるヒロインの位置をその娘たちに継がせ
ようとする力学が︑反復され︑再生されてきたといえるだろう︒だから現在︑﹁愛子﹂という記号からは︑ヒロインの系
譜が透け見える︒たとえば︑週刊誌のなかに引かれる︑﹁暴れん坊の児童たちは︑ある時︑愛子さまの目の前で︑母であ
る雅子妃について﹃仮病の税金ドロボl!﹄と暴言を吐いたといいます︒これに強いショックを受けられた愛子さまは
﹃学校に行きたくない﹄とか︑﹃もうやめたい﹄とたびたび口にされているのです︒何より︑雅子さまの姿が見えないと︑
愛子さまの表情が明らかに強張ってしまうと言います﹂という宮内庁関係者の談話︑﹁学校でもプライベートでも︑支え
あうかのように寄り添う雅子さまと愛子さま﹂︑﹁学習院初等科からの帰途︒雨の中に件む大小二つの傘は︑ぴたりと寄り
︵ 日︶
添いながらも︑ひどく修げに見えた︒やまない雨はない︑という言葉を信じたい﹂といった表現からは明らかに︑﹁愛子﹂
という記号にヒロインの娘という物語的なポジション︑が与えられているのが読み取れる︒
氾濫する物語定型を食い破るためには︑女性主人公が新しい場所を踏みしめる必要があるだろう︒
3
瀬戸内寂聴と大逆事件
そのときどきにおいて変化する︒物語の主旋律とは異なる細部の連
なりから別の意志を読み取ったり︑物語を裏切る表象上のドラマを読解したり︑物語の余白から批評的な意味を構成した 権力の要請する論理をすりぬけるための方法論は︑
り︑物語を規範に従属させるのではない読み方を読者に促す小説は︑これまで︑さまざまな方途を編みなしてきた︒
﹃ア
ナー
キー
・イ
ン・
ザ・
J
P﹄が現代の社会を呪縛する差別の構造を見事なまでに追奏するテクストだとすると︑瀬
戸内寂聴の短篇﹁風景||面会﹂は︑強制される規範や物語の制度を鮮やかに逸脱し︑その余白に批評的な論理を産み落
としたテクストにほかならない︒
連作短篇の
﹁ 風
景 ﹂
は︑瀬戸内寂聴自身が責任編集する雑誌﹃け宮寂聴﹄に掲載されているため︑語り手の
﹁わ
たし
﹂
は限りなく作家本人のイメージと近接し︑現実の出来事を吸引しながら再構成するフィクションとなっている︒
ホテルで待っていたら︑約束の時間ぴったりに玄関に大谷恭子弁護土の姿が現われた︒今日は珍しくロングドレス
で別人のように優雅に見える︒
何を着ても着こなしてしまう不思議な人だ︒今日の女らしいスタイルを見れば︑まさかこの人が︑死刑になった永
山則夫や︑国際テロリストとして現在獄中に捕えられている重信房子の弁護士とは思いもよらないだろう︒﹁ここよ﹂
と︑待っていたロビーの柱のかげから手を挙げると︑大谷さんは歩を早めて近づいてきた︒
いつ
逢っ
ても
︑
おや︑前
より若くなった︑と思わせる不思議な人だ︒
大逆事件と百年後の小説
九
。
︵ は︶
小説の冒頭は︑﹁わたし﹂が大谷恭子弁護士と待ち合わせる場面から開かれる︒私小説的な雰囲気を漂わせるとのテク
﹁大
谷さ
ん﹂
と﹁
わた
し﹂
ストには︑実在の人物︑現実の出来事︑歴史的事件や︑瀬戸内寂聴が書いた伝記的小説などが複合的に引用されてゆく︒
は︑千葉長子法相が﹁処刑の場に立ちあった﹂死刑の問題から︑管野須賀子や金子文子といっ
た歴史上の固有名︑大逆事件の経緯︑旧刑法七十三条の条文などをお互い相手に語りはじめる︒
現在時に大逆事件の記憶をつなぎあわせる会話は︑﹁そうだつた﹂﹁そうだつたわね﹂といった互いの立場やキャリア︑
認識を確認しあうような同意によってつなぎ合わされており︑知的情報を説明する機能を果たす︒それは日常的な会話と
してはやや不自然で︑読者に風変わりな印象を与え︑独特なゆがみを生じさせているといってよい︒その不自然なゆがみ
が︑読者に知的情報を伝えるとともにその知識と読者を連接させるのだ︒﹁管野須賀子や金子文子なんかを︑あんなに委
しく書いたのは寂聴さんだけじゃないワ﹂という﹁大谷さん﹂の問いかけは︑管野須賀子を主人公とした﹃遠い声﹄︑古
から引き出し︑大逆事件をさま河力作を書いた﹃いってまいりますさようなら﹄といった小説のタイトルを﹁わたし﹂
ざまなかたちで小説に描いてきた瀬戸内寂聴のテクスト群を大きく引用するようにして小説の世界像が構成されてゆく︒
ふたりの会話は︑﹁大谷さん﹂が﹁ところで︑重信さんのこといっ書いてくれるの?﹂と問いかけることで途切れる︒
﹁わたしは急に塩をまかれたなめくじのように縮こまって﹂しまい︑﹁これから︑大逆事件の裁判の時︑名弁論で被告たち
に感動を与えた平山修弁護士のことを話そうと思っていたのに︑咽喉がからからに干上がってしまって声が出なくなった﹂︒
﹁大谷恭子も現在までのような弁護を進んで引き受けていると︑女平出修のように後世に名を残すのではないかと︑わた
しは言いたかったのだ﹂︒だが︑重信房子について﹁書くと約束してからもう三年めになる﹂のに果たすことができずに
いる
﹁わ
たし
﹂
は︑言おうとしたそのことを語ることができずに︑一言葉を飲み込んでしまう︒
にあ
る︒
﹁わ
たし
﹂
すなわちこの小説の主題は︑大逆事件という歴史的事件と︑重信房子という固有名をつないで物語現在を構成すること
はこれから︑﹁重信さん﹂に面会に行くところなのである︒
﹁重
信さ
ん﹂
に会
いに
行く
移動
の問
︑﹁
わた
し﹂
は﹁大谷さんとのつきあい﹂を振り返る︒それは﹁一九八六年︑
月
十四日に東京高等裁判所の法廷に︑連合赤軍事件の永田洋子のために情状証人として出廷してほしいと︑頼みにこられて
は法廷で︑﹁一月二十四日というその日が︑明治四十三年大逆事件で幸徳秋水たち十一名︑が処
以来
﹂
のこ
とで
︑﹁
わた
し﹂
刑された日に当たっていたことに﹂気づく︒
そうした記憶に触れ︑﹁今年︑大逆事件百年目に当るんですよ﹂﹁偶然かもしれないけど︑
つい
四︑
五日前︑新宮で講演
会があって︑大逆事件百年の話もしてきたし︑大石誠之助のお墓参りもしてきたの﹂と﹁大谷さん﹂に話しかける﹁わた
し﹂は︑﹁偶然﹂を物語的な必然へと変換し︑現在のなかに大逆事件の位相を招き入れる︒
この短篇のなかで︑﹁わたし﹂は遂行された出来事に対して︑価値判断を下さない︒たとえば連合赤軍事件については︑
弁護人自身の抱いていた﹁実に厳しい批判﹂や︑﹁当時親しくつきあっていた男﹂の
といった非難︑﹁出家者が殺人を認めていいのか﹂といった罵りが︑率直に書き記され ﹁同志を殺したんだよ︒十四人も1
そんなこと許せると思うのか﹂
る︒ただし問題にされるのは︑永田洋子の場合には﹁耳の底にこびりついていた﹂﹁わたしがそこに出ることが彼女たち
のプラスになるといった大谷さんの声﹂であり︑また︑重信房子については﹁あなたに書いてもらうことで︑彼女に少し
でも
勇気
と一
冗気
が出
れば
有り
難い
のよ
﹂と
いう
﹁大
谷さ
ん﹂
の言
葉の
方な
のだ
︒
何事をも肯定し︑肯定しつくして関係をつなぐという力が︑テクスト上には満ちている︒それは︑何ものも否定せず排
除しないという力学にほかならない︒重信房子の娘をめぐるエピソードからは︑肯定する力が女性同士の関係を深めるあ
りょ
うが
見て
取れ
る︒
大谷さんは重信さんがパレスチナ人との聞に生んだメイさんの国籍を︑メイさんの一一十八歳の時︑取得させた人で
もあった︒﹇・:﹈多くは語らないが︑あれは大変な仕事だったと︑ちらとつぶやいたのをわたしは聞き逃していない︒
大逆
事件
と百
年後
の小
説
一
一一
聞き落とされてもおかしくないような声を決して
﹁聞
き逃
し﹂
はしない
﹁わ
たし
﹂
のありょうこそ︑他者どうしの聞を
つなぐ力にほかならないことが読まれよう︒実はかつて︑﹁わたし﹂
lま
﹁重
信房
子の
赤ん
坊︑
そちらで育ててくれません
か﹂と﹁若い男友だち﹂
から
頼ま
れ︑
﹁あ
あ︑
いいですよ︒重信さんの赤ちゃんなら美人になるでしょうね﹂と相手を戸
惑わせるほど﹁あっさり引き受けた﹂ことがあったのだった︒﹁大谷さん﹂に連れられた﹁メイさん﹂にあったとき︑そ
の話をすると︑ぼんやりとは知っていたらしい﹁メイさん﹂は﹁ほのかに笑﹂ぃ︑﹁大谷さんは初耳だと目を丸くした﹂︒
﹁今
から
でも
いい
です
よ︒
いつでもいらっしゃい︒メイさんひとりぐらい養えますよ﹂と重ねられた
﹁わ
たし
﹂
の台調か
ら︑やわらかな笑いが派生する︒
肯定の力学は︑女性の美をめぐる描写にも影響する︒﹁わたし﹂の目線は︑女性を性的な対象として定型化する男性的
視線とは全く異なるやり方で︑女性の美を拾い出してゆく︒小説冒頭で﹁大谷さん﹂を﹁何を着ても着こなしてしまう不
思議
な人
﹂︑
﹁い
つ逢
って
も︑
おや︑前より若くなった︑と思わせる不思議な人﹂と表現しているのを皮切りに︑﹁メイさ
ん﹂については﹁身につけているもののセンスがよく︑小さなアクセサリーまで一味ちがうものを選んで﹂
いて
﹁ も
λノ 三
十前になっているなど思えないほど若々しく美しかった﹂と褒め︑﹁重信さん﹂
は﹁白髪も目立たず︑顔はいつも化粧気
がないが︑本来際立った美人なので︑今でも美貌は衰えていない﹂︑﹁今年六十五歳だが︑いつでもいきいきして艶がよく
二十も若く感じられる﹂と表現される︒
こうした描写は︑女性をめぐる加齢差別や︑女性を性的に商品化する性差別の構造を逆手にとったかたちで︑女性が女
性を肯定的に評価するときの定型的な表現であるといえるだろう︒年齢を超越して見えるのは意志や目的をもった活力を
備えているからであり︑着こなしゃファッションが魅力的なのは本人が自分を表現する自己表象力をもっているからであ
り︑そうした内面の奥行きが︑外見の美しさとして現れているのを︑﹁わたし﹂の目は﹁美人﹂と描き出しているのであ