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1837 年刊『約翰福音之傳』にみる 邦訳者ギュツラフの日本語理解

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1837 年刊『約翰福音之傳』にみる 邦訳者ギュツラフの日本語理解

―きわめて限定された学習環境下における簡易文法の創出―

松 本  隆

Karl Gützlaff ’s Understanding of the Japanese Language Shown in His Translation of the Gospel of John Published in 1837 : On His

Naive Grammar Created in an Extremely Limited Learning Environment

Takashi M

ATSUMOTO

  This paper examines the Gospel of John, which was published in Singapore in 1837, as a text which shows how the translator Gützlaff understood and imagined the Japanese language. The Japanese language learning resources which he was able to access were so limited, and time constraints were so tight, that the published translation was far from natural Japanese and diffi cult to read. His Japanese translation has countless defects, but most of them are not careless errors. They contain a kind of naive grammar which he created on the basis of his insuffi cient and incorrect understanding of the language. He used his own grammatical rules intentionally and repeated the same sentence patterns throughout the whole text of the gospel. This paper picks up and examines typical examples of the unique grammatical rules he used in simple sentences, complex sentences, and sentence sequences (discourses). In conclusion the paper proposes that the translator with limited resources had to tentatively create an image of the target language which resembled the source language.

要  旨

 1837 年に刊行された『約翰(ヨハネ)福音之傳』を,邦訳者ギュツラ フが当時日本語をどう把握していたかを示す資料として検討した.彼を取

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り巻く 19 世紀前半のマカオにおける日本語学習資源は,物的(参考書類等)

にも人的(情報提供母語話者)にもきわめて乏しく,また刊行までの時間 的な制約も大きかった.そのため邦訳は,一読して理解できる日本語には 程遠い出来であった.間違いだらけの不完全な訳文であるが,その誤りに は一定の型,簡易文法ともいえる,偶発的でない意図的な繰り返しが観察 される.小稿では,単文・複文・連文の各層における代表的な誤用の事例 を紹介し,それを生み出した簡易文法について検討する.そして,翻訳先 の目標言語に関する情報が限られた環境にあっては,翻訳元の起点言語寄 りの中間的な言語像を暫定せざるをえないことを指摘する.

1.ギュツラフ訳ヨハネ伝ならびに小稿の構成について

 聖書に含まれるまとまった書の邦訳として最初の出版物とされる『約翰 福音之傳』(内題:約翰之福音傳 ヨアン子スノ タヨリ ヨロコビ)が 1837 年にシンガポールで刊行された.日本語聖書の先駆けとして,しば しば引用される冒頭の一節「ハジマリニ カシコイモノゴザル」はよく知 られている.

 邦訳者ギュツラフはマカオの地で日本人漂流民 3 名の助けを借りながら

『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』の訳業に取り組んだ.その期間は 1835 年の暮れから翌 36 年 11 月までのわずか 1 年にも満たない(秋山 2008:292).それ以前から日本語を学んでいたギュツラフであるが,彼 の置かれた学習環境は,語学書など物的な参考資料においても,また日本 語母語話者の人的な資源の面でも,きわめて限定されていた.さらに 1 年 という時間的な制約も大きかった.『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』

には,このような厳しい環境下における学習の成果と限界が,福音の言葉 とともに記されている.

 ギュツラフの日本語は「一読しては意味不明」な文が多い(海老澤 1989:110).本福音書は 3 重の意味で読みにくい.まず,ヨハネ伝はほ かの共観福音書 3 種に比べて抽象度が高い.2 つめは,ギュツラフの訳文 が「不完全きわまるもので…〔中略〕…ほとんど体をなしていない」(藤 沢 1974:43)ことによる.そして 3 つめの難しさは方言である.ギュツ ラフの日本語学習と邦訳を助けた 3 名の漂流民は,尾張小野浦(知多半島 南端付近)の出身で,その地域性が邦訳に反映されている(彦坂 1987).

(3)

 彼らは太平洋を漂い米国に流れ着き,その後英国をへて 1835 年 12 月 にマカオに送られ,ギュツラフのもとに預けられた.北ドイツ生まれの ギュツラフは,ドイツ語が母語であったが語学の才能に恵まれ,当時英国 政府の中国語通訳官を公務としていた(秋山 2008:287).公務や中国で の宣教活動の合間をぬって,福音書の邦訳がなされたのである.邦訳にあ たりギュツラフと日本人漂流民 3 名は,彼らの共通語である英語で意思疎 通を図り,英語の欽定訳を底本の 1 つにしたと考えられる(浜島 2006b:

縦組 126 頁 , 横組 1 頁).小稿も,英語(起点言語)から日本語(目標言語)

へという翻訳の流れを仮定し,随時英語の欽定訳(Pollard 1985)を参照・

引用しながら邦訳を検討していく.ただし彼らが十分に意思の疎通ができ たかは疑問である.日本人 3 名の英語力と,時間の制約から,ギュツラフ は邦訳文を練り上げる十分な機会が得られなかったようである.

 このように,ギュツラフ訳ヨハネ伝は色々な要素が絡み合って複合的に 読みにくい文章になっている.読解を困難にしている諸要素のうち,小稿 は日本語の文法面に限定して論を進めていく.「この福音書の翻訳は、文 章も文体も前日本語的で、日本語としてはなっていない」(藤沢 1974:

27)という印象を,本書の読者は誰しも感じるであろう.しかしこれは,

彼の日本語がでたらめで文法がないことを意味しない.むしろ,本来の日 本語文法と異なる,誤概念としての素朴な簡易文法を彼が懐いていたこと を示唆する.

 小稿は規則性のある誤用のうち特徴的な事例 3 種を選んで検討してい く.小さな単位から大きな単位へと,⑴単文,⑵複文,⑶連文の層に分け,

各層から 1 事例ずつ紹介する.まず次の第 2 節では,⑴単文のうち「〜は

…である」に当たる断定表現を取り上げる.続く第 3 節では,⑵複文の構 成方法のうち,特に単文と単文を組み合わせる際の接続表現に注目する.

さらに第 4 節では,前後の文を相互に関連付けて文章・談話にまとまりを 持たせる指示表現へと視野を広げる.

2.単文レベル

 ギュツラフが懐いていた素朴理論・誤概念のうち,構造が比較的簡素な 単文に関する簡易文法から観察を始める.具体例として「〜は…である」

に当たる定義の文型を取り上げる.英語の「S

主語 be動詞 補語

+V+C」型に相当する表現で,

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主語と補語をイコールで結び付け「S = C」という関係を,日本語でどう 表現しているか観察していく.

2-1.ギュツラフ独自の文型「〜ラニ…ワ(〜は…である)」

 ヨハネ福音書では「わたしは世の光である」をはじめ,イエスが象徴的 な事物に自己をたとえる「わたしは○○である」という文型が要所で用い られる.「○○」の部分を入れ替えた文として下の例が見られる.各用例 の左側,太括弧内 4 桁の数字は,上 2 桁が章,下 2 桁が節を示す.例えば 第 1 例の 0635 は,第 6 章 35 節からの引用である.新共同訳を先に提示し,

続いてギュツラフ訳を示す.なお引用には,ゆまに書房 1999 年刊『約翰 福音之傳』複製版(幕末邦訳聖書集成⑰,原本は東京神学大学付属図書館 所蔵)を用いた.下線部は問題点として後述する箇所である.

 章節   《新共同訳》         《ギュツラフ訳》

【0635】わたしが命のパンである。 ワシラニイノチノモチワ、

【0812】わたしは世の光である。  ワシラニセカイノヒカリワ、

【1007】わたしは羊の門である。  ワシラニ ムクヒツジノトヲ。

【1009】わたしは門である。    ワシラニ トヲワ、

【1011】わたしは良い羊飼いである。ワシガ ヨイモヲリノヒト、

【1125】わたしは復活であり、命である。

    ワシラニ イノチ 井キカヱラセルヒト、

【1406】わたしは道であり、真理であり、命である。

    ワシガミチワ、ホントノコトワ、井ノチワ、

【1501】わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

    ワシガ マコト ブドウノキ、ワシノチヽワ ハタケツクリ。

 以上のギュツラフ訳 8 件を日本語の構文面から評価するなら,最後の 1501 が比較的よく出来ており,1011 がそれに次ぎ,あとは及第の水準ま で達していない.「ワシラニ〜」の「ラニ」と,文末の「〜ワ」が問題で ある.

 「(ワシ)ラニ〜ワ」は,言うまでもなく現代の標準的な日本語では用い ない.また,現代の方言ならびに,当時の江戸語と漂流民の出身地・尾張

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近辺の方言にも,これと合致する語形・用法は見出せない.

 0635「ワシラニ〜」に関して,愛知県三河地方出身の浜島(2006a:

244)は「形からは、「ワシ」の複数のように見えるが、「わしだ」(私だ)

の意に解釈できる。また筆者の方言では「だに」で理由を表すために用い る」と解説している.別の可能性として,理由の「だに」以外に,副助詞

(取り立て詞)の「だに」も「ラニ」の起源の一候補に挙げられよう.

 また新山(1980:379)は「ワ(は)」と,本書の文体に関して,「文中 あるいは文末に用いて、それに陳述の力・働きを負わせて、指定(断定)

の表現を表面には出さないといったスタイル」であるとする.さらに「ギュ ツラフ訳聖書の文体は、〝係助詞「ワ(は)」特立口語体〟とでも言うべき ものではないか」(同 378 頁)という見方を示している.

 彦坂(1997:249)によると,理由表現「〜だに」は近世の尾張におい ても用いられ,また助詞ワ(は)から転成した文末詞も尾張近辺の資料に 見られるという(同 369 頁).

 「(ワシ)ラニ」の由来をめぐっては,想像がいろいろ膨らむが,どれも 憶測の域を出ない.ただ 1 つ言えるのは,ギュツラフの「(ワシ)ラニ〜」

という用法が本来の日本語に存在しないことである.さらに 1 つ付け加え るなら『約翰福音之傳』の「ラニ」は「ワシ」にしか後接しない特殊な語 という点である.「ラニ」は「ワシ + ラニ」という定型句でのみ多用され,

これ以外の組み合わせは見出せない(上掲以外の「ワシラニ」の所在 0426, 0620, 0642, 0824, 0828, 0909, 1313, 1319, 1805, 1086, 1808, 1921).

 また「〜ワ。」に関しても,助詞から転成した文末詞が日本語に存在す るとはいえ,ギュツラフのような使い方は許容されない.にもかかわらず 本福音書では随所に「〜ワ。」が登場し,用例探しに事欠かない.

 この種の「ワ」は,英語の be 動詞に対応し,現代語であれば「である」

が当てられる.下の 0663 ようにギュツラフは「〜ワ」に陳述の機能を負 わせ,断定を示す文末表現として積極的に多用している.

【0663】ワシガヲマヱタチニ モノユフコトバ シンワ、イノチワ。

  わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(新共同訳)

  the wordes that I speake vnto you, they are Spirit, and they are life.

  (欽定訳)

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 文末とは別に,「ワ(は)」は本来の係助詞(副助詞)として文中でも常 用される.先の「1501 ワシノチヽワ ハタケツクリ」がその 1 例である.

 また同一文中に,係助詞の「ワ」と,文末詞の「ワ」が共起する例も見 られる.次の二重下線を付した「〜ワ…ワ」は,欽定訳の be 動詞(is)

に当たり,現代の日本語なら「〜は…である」と訳すところである.

【0424】ゴクラクワ シンワ… God is a Spirit, 

【0651】ワシガ井ノチノモチワ、テンカラアマクダルワ、〔中略〕

    ワシワトラセルモチワ、ワシノニクワ、…

    I am the liuing bread, which came down from heauen. 

    and the bread that I will giue, is my fl esh, 

 0651 の波線を付した「〜ワ」3 例のうち,第 1・2 例は文末詞,第 3 例 は助詞に分類できる.なお第 3 例「ワシワトラセルモチ」は,連体修飾節

(従属節)の中にあるため,本来なら「ワ」でなく「ガ」とすべきである.

 助詞「は」と「が」の混乱は現代の日本語学習者にもよくある誤用なの で措くとして,問題は文末詞として「ワ」である.この実在しない用法を ギュツラフが独自に創出したのは,繋辞にかかわる「ワ(は)」の働きを 拡 大 解 釈 し た た め だ と 考 え ら れ る. 繋 辞 つ ま り 主 語 と 補 語 を 繋 ぐ 語

(copula 連結詞)の代表例は,英語の be 動詞である.例えば「1501 ワシ ノチヽワ  ハタケツクリ/ my  Father  is  ye  husbandman」では,主語「ワ シノチヽ/ my Father」と補語「ハタケツクリ/ husbandman」を「ワ/

is」がイコールの関係で繋いでいる.表面上あたかも「ワ」と be 動詞が 同じ機能を担っているように見える.しかし「ワ」は動詞でも助動詞でも なく,後続の述語に係る助詞であり,例えば「〜は…である」等の成句全 体として繋辞の機能を発揮する.語(be 動詞)と語(ワ)が対応してい るのでなく,語と句「〜は…である」が対応していることに気づかなけれ ば,「ワ」の働きを見誤る.係助詞の結びとなる文末の断定表現は「であ る/です/だ/なり」など様々で,話し言葉ではしばしば省略される.「ワ シノチヽワ  ハタケツクリ [ φ

省略

]」の文末にも,本来であれば「ワ」と係り 結びをなす断定表現が必要である.

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 文末に断定表現を伴わない文中の「ワ」は,それ自体が be 動詞と同じく,

陳述機能をもつ述語動詞であるかのように見える.ギュツラフもこのよう な錯覚に陥り,日本語の基本語順で述語のくる文末に「ワ」を配し,断定 の文末表現として用いたと考えられる.

2-2.存在でなく断定を示す「〜アル。」

 前節ではギュツラフが「ワ」を断定の文末表現に転用している事例をみ た.本福音書に断定の「〜デアル。」は登場しない.その働きを代行する のが「〜ワ。」と,以下にみる「デ」のない「〜アル。」である.「〜アル。」

は第 11 章の冒頭にまとまって登場する.

【1101】 ベタニトコロノニン イモヲトノニマリヤト マルタノムラ、

ナワナサレス。 ビヨキアル。

Now a certaine man was sicke, named Lazarus of Bethanie,  the towne of Mary, and her sister Martha.

【1102】 …ソノキヤウダイ ナサレスビヨキアル。

, whose brother Lazarus was sicke.

【1103】 …カシラヒト、カワ井ガルモノワ ビヨキアル。

, Lord, behold, hee whom thou louest, is sicke.

 ギュツラフはこれら 3 節とも「ビヨキアル」で文末を締め括っている.

これは欽定訳の「is/was sicke」に当たる.現代語なら「である」となる ところを「で」のない「アル」で断定を表現している.

 ギュツラフが日本語学習と聖書邦訳の拠り所とした,メドハースト

(1830)編著『英和・和英語彙』英和の部「動詞」の項 106 頁に「To be   Ar アル」という 1 項目が見える.逆に和英の部で「アル」を引くと 300 頁に「アル  Ar To  be,  to  have」とある.両語を双方から関連づけるこれ らの記述は「アル=(to)be =繋辞」という誤解を招きかねない.辞書の 記述が直接の誘因かは不明だが,ギュツラフは第 11 章ほかで「アル」に 繋辞の機能を担わせている.

 本来の「デアル」でなく「アル」を文末の断定表現に用いる語法は,の ちの開港後に幕末から明治初頭にかけて横浜外国人居留地で用いられたピ

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ジン日本語を連想させる.金水(2014:35)はピジンの特徴が「単純化(そ してその裏返しの多義性)と混質性」にあるとし,語彙の減少や,活用な どの形態ならびに統語構造の単純化などをピジンの具体的な特徴にあげ る.

 ギュツラフは,存在を表す「アル」を,断定の表現に拡張使用している.

また前節でみたように「ワ」を,本来の文中における係助詞の用法に加え,

文末に移動し断定の表現に転用している.こうした「アル」や「ワ」の拡 張使用(使い回し)は,ピジンの特徴と共通する.ギュツラフの日本語は ピジン的でもある.

2-3.断定の否定「〜デワナイ」

 前節では存在表現の「アル」が断定表現にも転用されていることをみた.

「アル」の反対の「ナイ」も同様に,存在の否定ばかりでなく,断定の否 定に使用される.下に引用した 1310 の文末表現「ナイ」がその 1 例である.

本来ならば「ミナ(ニン)デ(ワ)ナイ」とすべきである.なお本例に 2 つ含まれる「キレイナ」の「ナ」は,英語の is / are に対応しており,

断定の「ダ」を意図した可能性がある(彦坂 1987:172).断定の「ダ」

については次の 2-4 節で後述する.

【1310】アラワレタヒト、アシバカリ シイカリ アラウ、タヾシ カラダワ     ミナキレイナ。オマヱタチワ キレイナ、タヾシ ミナニンナイ。

    He that is washed, needth not, saue to wash his feet,      but is cleane euery whit: and ye are cleane, but not all.

 本福音書に,肯定の断定表現「〜デアル」は見当たらないが,否定の「〜

デ(ワ)ナイ」は散見される.例えば「1836 ワシノクニ  コノセカイデワ ナイ/ My kingdome is not of this world」は,上の「1310 ミナニンナイ」

から類推すれば,「…コノセカイ [ φ ] ナイ」のように「デ(ワ)」が脱落 しても不思議ではない.しかし 1836 は「デ(ワ)」を正しく用いている.

本書では他の文法項目についても,誤用と正用の並存,揺れが見られる.

正確さが安定する段階にまで,ギュツラフの日本語が至っていないことを 示している.

(9)

2-4.その他の断定表現と似非断定表現

 本福音書の文末は,用言・体言止めが大半を占め,断定辞は多くない.

断定辞としては,これまでに見てきた「ワ」や「アル⇔デ(ワ)ナイ」のほ かに,「ダ」が 2 件(1034, 2112),「ナリ」が 1 件(0930),「ゴザル」が 2 件(1149, 1151),すべて合わせても下に引用した 5 件しか見出せない.

【1034】ワシガヲマヱタチヲ カミサマダトユフ。 I said, ye are gods?

【2112】ヲマヱワ ダレダ、Who art thou?

【0930】ヒトワ…、ドコカラクルヤラ ヲマヱタチワシラヌ、ソレホントノ コトナリ。 Why  herein  is  a  marueilous  thing,  that  ye  know  not  from  whence he is,...

【1149】アノヒトタチノ  ヒトリノニン  ナワカ井フワス  ソノ子ンノクゲタ カ井ゴザル、And  one  of  them  named  Caiaphas,  being  the  high  Priest  that same yeere, said vnto them, 

【1151】…タヾシソノ子ンノ  クゲタカ井ゴザルユヱ  マヱニコトユウ、ヱ ズヽクチヤウニンノ  タメニ  ヤガテシヌ。   but  being  high  Priest  that  yeere, he prophecied that Iesus should die for that nation:

 「ダ」2 件に関して彦坂(1987:172)は「ともに会話の直接引用部分で あり、口頭語的な部分が露呈したのであろう。ダについては、中世におい ては関西系の文献にも断定としてこの形の表記も知られるが、この時期に はなく、どうやら東部日本の方言のものとみられる」と,東部方言混入の 可能性を指摘する.ただ関西系の断定辞「じゃ(であ)」等は本書に見当 たらない.

 「ナリ」はほかにも例えば「1809 カヨヲニ  ヒトワユフコトバ  マコトナ リ 」 な ど 断 定 辞 の よ う に 見 え る も の が あ る. し か し 英 文「That the  saying  might  be  fulfi lled  which  he  spake,」と照らし合わせると一般動詞

「成る」を意図していることが判明する.さらに「1924 カヨホニ  キヨモ ンホン  ユウコトバ  マコトニナリ。that  the  Scripture  might  be  fulfi lled,  which saith,」 や「1928 キ ヨ モ ン ノ ホ ン  マ コ ト ニ ナ ア タ。that the  Scripture  might  be  fulfi lled,」は,英文と照合するまでもなく,邦訳(の 太下線部)を見るだけで一般動詞であることが分かる.類例は 1238, 

(10)

1318, 1422, 1525, 1712, 1936 にあるが,どれも一般動詞「成る」の終止形

「ナリ」であって,断定辞ではない.

 「ゴザル」は本書全体で 10 件みえるが(新山 1980:341-342),断定辞 と認められるのは上に引用した 2 件にすぎない.ほか 8 件中 3 件は定型句 の「アリガトゴザル」と,存在を示す「ゴザル」5 件である.

 この福音書の冒頭「0101-02 ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシ コイモノ ゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラク。ハジマ リニコノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」に存在を示す「ゴザル」

が 3 件集中している.これらは「ある/いる」の丁寧表現であって,断定 辞「〜である」を丁寧にした「〜デゴザル」ではない.

 いっぽう上に引用した 1149 と 1151 の「ゴザル」は,形容詞に後接す る「ゴザル」であり「デ」こそ介さないものの断定の用法である.本来は

「高うござる」とウ音便化すべきところ,終止形の「高い」をそのまま「ご ざる」に直結している.ギュツラフが活用に未習熟であることを示す 1 例 である.

 浜島(2006b:154)は,ギュツラフの日本語を尊重し表現意図を汲み つつ 1151 に手を加え,現代版において「…ただし,その年の高い公家で ござるゆえ,エズスクがやがて町人のために死ぬと前に事言う(=予言す る)」と改訳している.原文「ソノ子ンノ  クゲタカ井ゴザルユヱ」の語順 を一部入れ替え「その年の高い公家でござるゆえ」と微修正するだけで読 みやすさはずいぶん向上する.こう改めると断定辞「〜デゴザル」が表面 化する.

 もしギュツラフの邦訳文を減点法で採点するなら,あら0 0が目立つため評 価は低くなる.しかし不完全な邦訳も,わずかに修正を加えることで読み やすくなる.支離滅裂な日本語に見えるが,できていないことよりも,で きていることのほうが多い.自己修正に導く外部からのフィードバック と,熟成の時間があれば,彼の日本語は見違えるものになっていたはずで ある.

3.複文レベル

 この第 3 節では,that 節を含む複文を中心に,as 節や because 節など にも目を配りながら,そこに盛り込まれた概念を日本語でどう表現したか

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を観察する.

 検討の素材は,第 17 章から引く.この章は,出来事や行動などの具体 的描写は少なく,イエスが天の父に語りかける祈りの独白,つまり思索の 内容が大半を占める.そのため他の章にも増して訳出の苦労が想像され る.

3-1.主節と従属節を関係づける接続表現「タメニ< that」

 まず第 17 章冒頭 3 つの節を,欽定訳と見比べながら,邦訳文の構成法 について検討する.下に引用した邦訳の実線箇所が,英文の that に対応 する(広義の)接続表現である.点線の語句は,that 以外の接続表現で ある.

【1701】…チヽワ  トキワキタ、ムスコヲ  クライヲツケヨ、ウナジコト  ム スコワヲマヱヲ  クラ井ヲツケタ。   Father,  the  houre  is  come,  glorifi e  thy Sonne, that thy Sonne also may glorifi e thee.

【1702】ヲマヱワ  ヒトニ  ミナニンゲンノ  井セイヲトラシタ  トヲリニワ、

アノヒトワ アノヒト 〴 〵 ニ アランカギリ 井ノチヲ トラセルタメニ。 As  thou hast giuen him power ouer all fl esh, that he should giue eternall life  to as many as thou hast giuen him.

【1703】コノアランカギリ  井ノチワ、アノヒトタチ  ヒトリノマコト  ゴク ラクヲト ツカ井ニヤアタ ヱズヽクヲ クレストシヲシヒテヲルタメ ニ。 And  this  is  life  eternall,  that  they  might  know  thee  the  onely  true  God, and Iesus Christ whom thou hast sent.

 各英文は,助動詞 may, might, should を含む that 節が副詞的に働き,

文全体として祈りの表現をなしている.いろいろな訳し方が考えうるが,

例えばフランシスコ会聖書研究所(1985:208)は,ギリシア語原典から 1701 を次のように訳している.下線部は英文なら that に相当する.

「父よ、時が来ました。子があなたに栄光を帰することができますように、

あなたの子に栄光を与えてください。」

 ちなみに同じフランシスコ会訳でも,改訂前 1969 年の分冊版と 2011 年の合本は「〜ことができるように…」となっている.1985 年の改訂新

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版だけがより口語的で丁寧なマス形を文中に用いており親しみやすい.こ の日常的な祈りの表現「〜ますように…」によって,前後を無理なく結び 付け,複文全体を自然な話し言葉でまとめている.

 これに比べて(しまうのも酷だが)ギュツラフの「ウナジコト」は,英 文を参照しないかぎり,何と何がどう「ウナジ(同じ)」なのか表現意図 が読み取れない.海老澤(1989:113)は,本書の邦訳が日本語の構文と して破綻をきたしている理由について「原文の一語一語の訳語を模索しな がら書き留めて行った結果」とみている.確かに 1701 の和訳語の配列,

特に that と「ウナジコト」の配置は「原文の構文そのままの逐語訳」と の指摘が当てはまる.

 しかし 1702 〜 03 を見ると,ギュツラフが不十分ながら日本語の構文 知識を備えていたことが分かる.1702 と 1703 の that と,それに対応す る「タメニ」を見比べると,that があった従属節の始まる位置から,日 本語の構文を配慮して「タメニ」を従属節が終わる位置つまり文末へ移動 している.下図で第 1 段階としたのが,ギュツラフが行っている構文的な 処理である.

         英文 「主節,(that)従属節.」

  第1段階       

        邦訳⑴「主節,従属節(タメニ)。」 

      第 2 段階         邦訳⑵「   従属節(タメニ)、 主節。」

 第 1 段階の邦訳⑴は,従属節の内部だけを処理した途中の段階にすぎず,

日本語としてまだ不完全である.次の第 2 段階として,より大きな視点か ら主節と従属節の関係を整え,邦訳⑵を目指す必要がある.

 一般的には「従属節(タメニ),主節」という語順が日本語として落ち 着く.しかし必ずしも,従属節を前に出し,主節を後ろに回さなくともよ い.特に聖書の翻訳では原典(起点言語)の統語構造を尊重し,できれば 元の型を崩さずに,読みやすい目標言語へと移し変えられれば望ましい.

次に挙げる現代語訳 2 種は,その両方の要求を満たしている.

(13)

【1702A】フランシスコ会訳(2011)

あなたは、すべての人を治める権能を子にお与えになりました。

子が、あなたから与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。

【1702B】新共同訳(1987)

あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。

そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与える ことができるのです。

 1702A フランシスコ会訳も,1702B 新共同訳も,英文の主節に当たる 邦訳の第 1 文「あなたは〜お与えになりました。」を先行させ,英文の従 属節に当たる「〜ため…」を含む第 2 文を後続させている.両邦訳とも「主 節 + 従属節」という構文を保持しながら,日本語として体裁を整えている.

特に 1702B 新共同訳は「(その)ために」を,英文の that 同様,主節(主 文)と従属節(従属文)をつなぐ中間の位置に配している.いっぽう 1702A フランシスコ会訳は,「ため」をギュツラフ訳と同じ従属文の後方 に配し,さらに「です」を後続させて文を終結している.1702A は,ギュ ツラフがまったく的外れな訳し方をしているのでなく,改良をへて日本語 らしく整っていく途上の段階にあることを示唆している.

 ギュツラフの邦訳は 1702 に限っていえば「原文の構文そのまま」が問 題というより,むしろ「原文の構文」を生かし日本語を整えるための,文 法・表現・語彙に関する知識・運用技能を欠いていることが問題だと言え る.ギュツラフ訳は「〜タメニ。」で突然文を終えているが,フランシス コ会訳「1702A 〜ためです。」のように,何らかの断定辞を用いるだけでも,

ぎこちなさは軽減できる.もちろん「です」も「である/であります」も 19 世紀前半の一般大衆が使うには早すぎるため,文語調なら「なり」を,

口語調なら「でござる/でござります」あたりが文末の断定辞の有力候補 になる.

 しかし,前の第 2 節でみたように,ギュツラフは当時まだ単文レベルの 日本語像すら正確にイメージできていなかった.まして複文の組み立てに 至っては,過重ともいえる課題であったろう.

(14)

3-2.様々に工夫された接続表現

 1701 では「ウナジコト」が,1702 と 1703 では「タメニ」が that に当 たる接続表現として用いられていた.第 17 章ではこのほか副詞節を導く that に相当する語として,下表のように「ニヨテ(ニヨヲテ,ニヨツテ)」

が 5 件,「ヨヲニ」が 3 件(うち 1723 の 1 件は that 以外の語に相当する 可能性あり),「ユヱ」と「トテ」が 1 件ずつ用いられている.表では用例 の所在を節番号で示した.最下段「潜在化」として分類したのは,英文に that がありながら,邦訳に具体的な語句として反映されていない事例を さす.

     【第 17 章 副詞節を導く that に相当する訳語と所在】

     ニヨテ(5 件)12,15,19,23,26   ユヱ(1 件)13      タメニ(3 件)02,03,22     トテ(1 件)11      ヨヲニ(3 件)21,23,24  ウナジコト(1 件)01      潜在化(3 件)15,21,21 節

  メ ド ハ ー ス ト『 英 和・ 和 英 語 彙 』 英 和 の 部「 Ⅻ . Conjunctions / 1. 

Copulative」155 頁は that の訳語として「タメニ/ヨーニ」の 2 語を掲げ,

いっぽう和英の部「タメニ」には that / for,「ヨーニ」には that / in  order that の各 2 語を掲げる(220, 228 頁).この簡素な記載に比べて上 の表は,ギュツラフがより多様な訳語を工夫し,適訳を求めて模索してい ることを示している.

 表にまとめた 17 件の副詞的用法の that 節のほか,第 17 章には副詞的 用法でない一般的な目的格の that 節(つまり節内に助動詞 may 等を含ま ない用法)が 7 件(07, 0

2 件

8, 21, 23, 24, 25)と,関係代名詞の that 節が 1712 に 1 件みえる.これら計 8 件中 7 件まで,that に相当する語句が「潜在化」

している.

 残る 1 件の,文面に訳語として表れた例は「1723…セカイワヲマヱ  ワ シヲ ツカイニ ヤアタトシヒテヲル…/  the world may know that thou  hast  sent  me,  」である.この「ト」が that 同様,目的節をまとめる働 きをなす.

 こうした目的節を導く that は邦訳に反映されないことが多く,それが

(15)

訳文をピジンのようなぎこちない日本語に見せる要因の 1 つになってい る.下記の 1708 では 2 つの that がどちらも邦訳に反映されないため,片 言の日本語という印象が強くなる.特に邦訳の②の箇所には「〜ト」なり

「〜コトヲ」なり,複文をまとめる語句がほしい.邦訳の第⑶文は,単文 を羅列したままの状態に留まっている.単文を複文に組み立て,伝達内容 をまとめる知識と技法に,ギュツラフが未習熟であったことを 1708 は物 語っている.

【1708】ヲマヱワシニトラシタコトバヲ、ワシ アノヒトタチニ トラシタ。

アノヒトタチ ウケトヲテ、マコトニシヒテヲル。ワシガ ヲマヱカラキ タ[φ]、ヲマヱワ ワシヲ ツカイニヤアタ[φ]ゾンジル。

For  I  haue  giuen  vnto  them  the  words  which  thou  gauest  me, and  they  haue  receiued  them,  and  haue  knowen  surely that  I  came  out  from thee, and they have beleeued that thou didst sent me.

3-3.「原文の構文そのまま」でない大幅な加工

 第 17 章からさらに用例を拾い,複文の構成様式を詳しく探っていこう.

下に引用した 1713 と 1715 は that 節を含み,1714 は because 節を含む.

【1713】イマワシ ヲマヱノ トコロヱコル、コノコトヲ セカイニ モノユフ。

アノヒトタチ ハラノナカニ アマタノコトヨロコブユヱ。

And  now  come  I  to  thee,  and  these  things  I  speake  in  the  world,  that  they might haue my ioy fulfi lled in themselues.

【1714】ワシガ アノヒトタチニ ヲマヱノ コトバヲトラシタ、アノヒト タチ  セカイヨリコヌ、ワシガ  セカイヨリコヌトホリニ。ソレユヱ  カイノ ニンゲン アノヒト 〴 〵 ヲ キラウ。

I haue giuen them thy word, and the world hath hated them, 

because they are not of the world, euen as I am not of the world.

【1715】ワシガ タノマヌ、オマヱ アノヒトタチヲ ホカノセカ井ヱ ツレテ 井ク。タヾシ ニヨテ アノヒトタチヲ ワル井カラ マムル。

I  pray  not  that  thou  shouldest  take  them  out  of  the  world,  but  that  thou shouldest keepe them from the euill.

(16)

 1713 〜 15 は構文処理の度合いが異なる.1713 は that に相当する「ユヱ」

を後方に移動した小規模な操作である.これに比べて 1714 は,複文を構 成する 4 つの文節⑴〜⑷の順番を組み替え,かつ because に相当する「ソ レユヱ」の位置を移動した大幅な改編である.英文と邦訳を対照しやすい よう文節の番号⑴〜⑷を付した.英文に⑴から⑷へ順次番号をふった.邦 訳は構文の組み替えにともない,番号が順不同の並びに変わっている.最 後の例 1715 は that ふたつのうち①番目が文面に反映されず邦訳がきわめ て片言風である.

 1713 や 1715 に比べて,1714 の和訳は一読してすぐに文意が取りやすい.

文と文をつなぐ「…。ソレユヱ…」が,前後の文をうまくまとめている.「ソ レユヱ」は英文の because に該当する接続表現であるが,邦訳と英文とで は「ソレユヱ/ because」の係り方が異なる.

 1714 の邦訳が巧みなのは,英文だと途中にある第⑵文節「and the  world hath hated them (, because ...)」をそのままの位置でなく,後方へ 移動し「(…。ソレユヱ)セカイノ ニンゲン アノヒト 〴 〵 ヲ キラウ。」と いう語順に変えている点である.文(節)の配置を転換し「…トホリニ。」

でいったん文を区切る.唐突な文末の終え方にも感じるが,この休止は読 者にとってそこまでの文意を整理する休止となる.もしこれを「…トホリ ユヱ、…」という,本福音書にありがちな,いわゆるダラダラ文として 1 文にまとめると,前後の関係を把握せぬまま,つい読み流してしまう.英 文に拘泥せず,邦訳を 2 文に分けることによって,第 1 文(もとの英文の 従属節⑶⑷)で理由・背景を先に述べ,「ソレユヱ」を介して第 2 文(も との英文の主節⑵)の結論に導くという,日本語として読みやすい構成に 整えている.

 1714 は「ソレユヱ」を用いた邦訳の成功例といよう.メドハースト『英 和・和英語彙』155 頁は because の訳語として「ヨル・ヨシミ・ニヨテ」

しか掲げていない.本福音書における because と「ソレユヱ」の対応はギュ ツラフなりの工夫とみられる.メドハーストは「ソレユヘ So-re-yu-he」

を therefore と対応づけており(155,  231 頁),ギュツラフも「1103 ソレ ユヱ井モヲト  ヱズヽクノトコヱ  ツカ井ニヤアテユフタ。Therefore  his  sister  sent  vnto  him,  saying,  」のように therefore の訳語としても「ソ

(17)

レユヱ」を用いている.ギュツラフは,メドハーストを参照しつつ,より 適切な訳語を求めて工夫しており,その形跡が邦訳文の随所に認められる.

 しかし他の文法項目と同じく「(ソレ)ユヱ」の正確さは不安定で,

1714 のような成功例は稀少である.直前 1713 の that に相当する「ユヱ」

は不適当であり,せめて「タメニ」や「ヨヲニ」を選ぶべきである.「ユヱ」

が理由を示し,「タメニ」や「ヨヲニ」が目的を示すという使い分け(概 念の分化)がまだ明確になされていない.

4.連文レベル

 小稿はここまで,単文レベルにおける断定表現と,複文レベルにおける 接続表現について検討してきた.この第 4 節ではさらに視野を広げ,連文 レベルすなわち文の境界を越えて文章に結束性をもたらす文法要素に目を 向ける.具体的には指示詞「コ ・ ソ ・ ア」を,ギュツラフがどう認識し,

使い分けているかを,第 9 章を素材に探っていく.

4-1.ヒトを指す様々な語句

 以下の引用は,イエスによって視力を得た元盲人と,ファリサイ派の人々 とのやりとりである.下線部の「ヒト」に関する諸表現に注目してみたい.

【0915】フワリサイニンヒトニ 井カイニフタヽビミヱルトウ。ヒトワアノ ヒトタチニユフタ、アノヒトホコリヲ、ワシノメヱヌリツケテカラ、ワシ ガアラアテカラミヱル。Then  againe  the  Pharisees  also  asked  him  how  he  had  receiued  his  sight.  He  said  vnto  them,  Hee  put  clay  vpon  mine  eyes, and I washed, and doe see.

【0916】フワリサ井ノ ソレガシニンユフタ。コノヒトモンピヲマムラヌ、

ゴクラクカラコヌ。ホカノニンユフタ  ツミノニン  井カイニカヨヲニフシ ギナコトヲ ツクレルカ。ソレユヱ アノヒトタチアラソ井ヤウ。Therefore  said some of the Pharisees, This man is not of God, because hee keepeth  not  the  Sabbath  day.  Others  said,  How  can  a  man  that  is  a  sinner,  doe  such miracles? and there was a diuision among them.

【0917】フタヽビメクラヒトニユフタ。ヒトワヲマヱノメヲ アケタヲマヱ ヒトワユヱナニヲ  ハナシヲセルカ、ヒトワユフタ。アノヒトワ、マヱカ

(18)

ラシヒテヲルヒト。They  say  vnto  the  blind  man  againe,  What  sayest  thou of him, that he hath opened thine eyes? He said, Hee is a Prophet.

 この範囲に登場する人物の呼称は次の 4 種類に大別できる.(1)一人称

「ワシ」と二人称「ヲマヱ」,(2)三人称「ヒト/コノヒト/アノヒト/ア ノヒトタチ」,(3)「〜ヒト」を用いた普通名詞句「メクラヒト/マヱカラ シヒテヲルヒト」,(4)「〜ニン」を用いた普通名詞句「ソレガシニン/ホ カノニン/ツミノニン」と固有名詞「フワリサイニン」である.

 以上 4 種類のうち問題として注目したいのは,(2)三人称の用法(上に 引用した下線箇所)である.これについては次の 4-2 節で詳しく考察する ことにして,まず本節では(1)(3)(4)について概観しておく.

 ギュツラフは本書全体を通して,(1)一人称に「ワシ」を,二人称に「ヲ マヱ」を専用する.話し手の性別や年齢を問わず一人称は「ワシ」であり,

また話し相手が目上でも目下でも「ヲマヱ」を用いる.この「ワシ/ヲマ ヱ(タチ)」は,英語の I / you(thou)のような汎用語であり,立場や 状況による使い分けは見られない.

 例えば先に 3-3 節で見たイエスから神への祈り「1714 ワシガ  アノヒト タチニ ヲマヱノ コトバヲトラシタ/ I haue giuen them thy word」の中 でも,「ワシ」と自称するイエスは,神を「ヲマヱ」と呼んでいる.他所 でも同様に「ヲマヱ」を待遇的に透明な中立語として用いている.

 ただし,第 19 章で十字架に上げられたイエスが傍らに立つ母マリアに 述べたのは「ヲマヱ」でなく「アナタ」である(1926).しかし,その横 にいた愛弟子に対しては中立的な「ヲマヱ」を用いている(1927).1926 の「アナタ」は例外であり,第 2 章のカナにおける婚礼の場面では母を「ヲ マヱ」と呼んでいる(0204).

 さて人物呼称 4 種に戻ろう.(3)は「〜ヒト」,(4)は「〜ニン」を後部 にもつ複合語句である.これらは,どうにか意味の通じる構成であるが,

いかにも日本語に未習熟な非母語話者がこしらえた創作語彙という印象が 否めない.特に読み物に接した経験の少なさが感じられる.

 (3)のマヱカラシヒテヲルヒトは「預言者」の説明的な語釈をそのまま 訳語に使っている.prophet を 1 語で言い当てる適訳を見出せなかったの であろう.連体修飾句「動詞スル/シタ + ヒト(ビト)」の類例として第

(19)

9 章には「0918 ミヱルヒト,0939 ミルヒトビト,0901 メクラデウマレタ ヒト」などがみえる.語としての適切さは別として,短めの動詞句を名詞 にかけて連体修飾句を作る知識は備えていたことが分かる.しかし,修飾 節が長くなり構造が複雑になると,逐語的な邦訳になって破綻に陥りやす い(3-1 節参照).

4-2.人称代名詞 he と指示表現「アノヒト」の対応とズレ

 それでは,この第 4 節の主題である(2)の三人称「{コノ/ソノ/アノ}

ヒト{ビト/タチ}」の用例を詳しく検討していこう.日本語の指示詞「コ

・ ソ ・ ア」のうち特にア系の語句は,今日でも非母語話者の誤用が多い(迫 田 2001,池上/守屋 2009:131-135).

 前節で引用した 0915 〜 17 の範囲内に「アノヒト」2 例,「アノヒトタチ」

2 例,「コノヒト」1 例が含まれる.元盲人がイエスを指していう「アノ(ヒ ト)」は正用であるが,語りの地の文中でファリサイ派の人々を指す「ア ノ(ヒトタチ)」は問題がある.

 0916 でファリサイ派の「某人」がイエスを指していう「コノヒト」も 正しい用法とはいえない.欽定訳の this man をそのまま日本語に置き換 えた誤用と思われる.イエスを指す欽定訳の this man は「0916 コノヒト,

0924 ソノヒト,0933 アノヒト」と 3 通りに訳されている.このうち「ソノ」

と「アノ」は正しいが「コノ」はふさわしくない.

 対話で「コノ(ヒト)」が使えるのは,当該人物がその場にいるか,当 人に代わるもの(写真や絵など)があり,指示対象が眼前に存在する状況 に限られる.前節で触れた,十字架上のイエスが傍らの母と愛弟子に述べ た「1926 コノアナタノ ムスコヲミヨ」と「1927 コノヲマヱノ ハヽヲミヨ」

が,眼前にある現場を指す「コノ」の用例である.

 英語の this は,日本語の「コノ〜」と異なり,いま対話で話題になっ ている事物が眼前になくても用いることができ,逆に何かを手にしながら that を用いて客観的な述べ方もできる(池上/守屋 2009:132).日本語 では,話者が手に持っている現物を示して「ソレ」とは言えない.

 さらに第 9 章の後続部分から「{コノ/ソノ/アノ}ヒト{ビト/タチ}」

の正用と誤用の例を増補して,ギュツラフが「コ ・ ソ ・ ア」をどう把握し ていたかを詳しく探っていこう.

(20)

【0924】アノヒトタチ  フタヽビマヱニメクラヒトヲ  ヨバアテユフタ。ヲ マヱワゴクラクヱ  ジギヲシヨ、ソノヒトワツミノヒト  ワシトモシヒテヲ ル。Then again called they the man that was blind, and said vnto  him,  Giue God the praise, we know that this man is a sinner.

【0928】アノヒト 〴 〵   ヒトヲシカアテ  ユフタ。ヲマヱワヒトノデシ、ワ シドモムゼスノデシドモ。Then they reuiled him, and said, Thou art his  disciple, but we are Moses disciples.

【0929】ゴクラクムゼスニ ハナシヲシタ、ワシドモシヒテヲル、アノヒト ワドコカラ クルヤラシラヌ。Wee know that God spake vnto Moses : as  for this fellow, we knowe not from whence he is.

【0930】アノヒトワ  ヘントコタヱテ  アノヒトタチニユフタ。ヒトワ  ワシ ノメヲアケタ、ドコカラクルヤラ  ヲマヱタチワシラヌ、ソレホントノコ トナリ。The  man  answered,  and  said  vnto  them,  Why  herein  is  a  marueilous thing, that ye know not from whence he is, and yet he hath  opened mine eyes.

 上の 4 つの節と,先に引用した 0915 〜 17 を合わせた 7 つの節にみる「{コ ノ/ソノ/アノ}ヒト{ビト/タチ}」の正誤を下表にまとめた.正しい用 例の左肩に○印を,問題のある用例には×印を付けた.

【{コノ/ソノ/アノ}ヒト,正用と×誤用】

(発話者→言及対象) 0915 0916 0917 0924 0928 0929 0930 語り手→元盲人

×ヒト he

×ヒト he

×ヒト he ― 

×アノ the 語り手→ファリ

×アノ they

×アノ they

×アノ they

×アノ they ― 

×アノ they 元盲人→イエス

アノ he

アノ

he

×ヒト he ファリ→イエス

×コノ this

×ヒト he

ソノ this

×ヒト he

アノ this

(21)

 引用した範囲には発話者として,語り手(地の文),元盲人,ファリサ イ派の人(々)が登場する(表の左端,矢印の左側).これら 3 者が「コ

・ ソ ・ ア」を用いて言及している対象人物は,語り手が元盲人とファリサ イ派,元盲人とファリサイ派がイエスである(矢印が向かう先).

 表の上から 2 段め「語り手→ファリ(サイ派)」は指示詞が一貫してい て分かりやすい.地の文で語り手は,ファリサイ派を指すのに「アノヒト タチ」か「アノヒト 〴 〵 」を用いる.これは英語の they に対応している.

また 1 段めの「語り手→元盲人」に目を移すと「ヒト」と he の対応が見 て取れる.

 ここで改めて 0915 を読み直してみよう.「フワリサイニンヒトニ 井カ イニフタヽビミヱルトウ。ヒトワアノヒトタチニユフタ」となっている.

第 2 文の「アノヒトタチ」は,直前の文に出た「フワリサイニン」を指す.

先行文脈に提示済みの既知情報である人物を指示するとき,英語では he

/ she / they を用いる.ところが日本語は「×アノ(ヒトタチ)」とは言 えず「ソノ〜」か「コノ〜」を用いる.「ソノ〜」は先行詞を客観的に指 示し,「コノ〜」には心理的に近接した感覚が含まれる.どちらにしても,

ギュツラフの「アノ〜」は誤りである.人称代名詞 he / she / they の発 想に引きずられた可能性が高い.翻訳において,起点言語の発想と表現の 様式が,翻訳先の目標言語に影を落とすことは想像に難くない.

 現代でも「ソノヒト」とすべきところを「×アノヒト」とする誤りが,

英語話者に限らず,世界の学習者に広く観察される.母語が異なっても「ア ノ〜」の誤用傾向に共通性が見られることから,母語以外の影響つまり習 得過程で学習者が生み出す中間言語がその要因として挙げられている(迫 田 2001).しかし翻訳においては起点言語の影響がやはり大きいであろう.

 いずれにせよ,言語習得の過程において,誰しも誤用を犯しながら「自 分なりのルールの検証をし,間違いだと気づいて軌道修正を行い,習得を 進めていく」(迫田 2001:5)ことになる.しかしギュツラフの場合,き わめて限定された学習環境にあり,自分なりの簡易文法を修正するフィー ドバックに恵まれず,福音書邦訳の時点までに素朴理論が精緻化されるこ とはなかった.

 さて盲人は,第 9 章の主要人物で,その冒頭から登場する.いったん文 脈に導入され,読み手にとって既知の旧情報となった人物は,日本語でも

(22)

人称代名詞で受けられる.しかし「ヒト」は,単独のままでは普通の名詞 であり,ギュツラフが考え出した代名詞の(he / she に相当する)用法 はない.

4-3.「アノヒト」の正用と誤用

 前節に掲げた表の下半分,つまり元盲人とファリサイ派が,イエスをど う称しているかの検討に移る.

 元盲人は,ファリサイ派からイエスについて問われたとき「アノヒト」

で答えることが(引用した以外の部分でも)圧倒的に多い.正しい用法で ある.「アノ」の付かない「ヒト」を単独で用いる例もいくつか見られるが,

上述のように,これは正しくない.

 いっぽうファリサイ派がイエスについて話す場合も,単独の「ヒト」を he に相当する語として拡張使用しているが,やはり誤りである.

 欽定訳においてファリサイ派はイエスを this man で指し示している.

直訳すれば「コノヒト」だが,0916 の文脈ではふさわしくない.0916 は,

その直前 0915 の元盲人の発話を受けて,ファリサイ派の人が意見を述べ ている.話し相手が言及した人物を指すには,「コノ〜」でなく「ソノ〜」

を用いて,相手の領域にある話題を自分の領域に引き取らねばならない.

0924 の「ソノヒトワツミノヒト」が,相手の領域内の話題を指し示す「ソ ノ〜」の正しい用例である.

 話題を自分のものとして引き取った後であれば「コノ〜」を用いて,自 分の独白内での前方照応が可能になる.いっぽう英語は,相手が提示した ことでも,いま話題に上っていることを this 〜で指し示すことができ,

日本語と用法が異なる.

 続いて 0929 を見ると,ファリサイ派がイエスを指す this fellow = he に「アノヒト」を当てている.先に見た元盲人も,イエスを指すのに「ア ノヒト」を主用していた.「アノ〜」は,話題に関する知識を,話し手も 聞き手も共有していることを前提とした指示詞である.

 前節の表 2 段めの「語り手→ファリ(サイ派)」の「×アノ〜」が不適 切で,3・4 段めの元盲人とファリサイ派がイエスについて話す場合の「 アノ〜」が適格なのは,情報の共有度の違いによる.つまり,3 段めの元 盲人はイエスとじかに接触した体験を持ち,また 4 段めのファリサイ派も

(23)

たとえ直接的な接触がなくても,(彼らにとって)好ましくない噂を耳に することで間接的によく知っている.このように「アノ〜」が適格となる には,「アノ」を発する側も受ける側も,当該の話題について直接知って いるか,間接的にでも頭の中にイメージが確立していることが前提となる.

 いっぽう 2 段めの,語り手が地の文でファリサイ派に言及する場合の「ア ノ〜」が適格でないのは,語り手(福音書の筆者/編集者)と聞き手(読 者)が「アノ〜」の指し示すイメージを共有できないからである.この福 音書には「フワリサイ」(ファリサイ派)の人々が,すでに何度となく登 場している.だから読者は彼らがどういう人たちか,いちおう読んで知っ てはいる.しかし実際に会ったことはもちろん,詳しく知っているわけで もない.ごく浅い知識しか持ち合わせていない読者は,筆者から「アノ〜」

と言われても,肝心な話題の中心であるアノの中身を想起できない.

 要するに「アノ〜」を発する側と受ける側が,当該の話題についてイメー ジを共有できるか否かが,「アノ」の文法的な適否を分けることになる.

元盲人がファリサイ派の問いに答えて「0915 アノヒトホコリヲ、ワシノ メヱヌリツケテ…」と,自分になされた施術を語る場面では「アノ〜」が もつイメージ想起の効力が読者にまで及んでくる.すなわち,0915 を目 にした読者は,その少し前の 0906 でイエスが盲人に施した「ジダヱツバ ヲハイテ、ツバデホコリヲ子ヱテ、メクラノメヱヌリツケル」行為を回想 する.

 イエスを「アノヒト」と呼べるのに,ファリサイ派を「アノヒト(タチ)」

と言えないのは,詰まるところ,話題の人物が読み手にとって心理的な臨 在者となっているか否かにかかっている.福音書の記述を通して,読み手 はイエスを観念の世界で実感することができる.少なくともヨハネ伝 9 章 はそのように書かれているので,イエスを指して「アノヒト」と言われれ ば,読み手は心の中のイエス像を自然に思い浮かべることになる.

 ギュツラフ訳ヨハネ伝は全編にわたって「アノ(ヒト)」の誤用が頻出 する.たいていの場合,指示対象は分かるので「アノ」だけが原因で文意 が取れなくなることはない.しかし「アノ」に接するたびに読み手は違和 感を覚える.相手の既有知識への配慮を欠く,自己中心的な「アノ」のよ うな印象を受けるからである.本来,前後の文脈を円滑に関連づけ,談話 の結束性を高めるべき指示詞が,ギュツラフの邦訳では,かえって読解作

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