限界 炭坑 島の 資本 主義 的展 開︵ 序説
︶
−長 崎県 香焼 島の 実態 調査 を中 心と して
−
河 地 貫 一
限界炭坑の島1問題提起に代えて
資本の原始蓄積過程と地方産業資本の成立︵明治三〇年−香焼村成立まで︶
地方産業資本の確立︵第一次大戦前まで︶
地方産業資本の変遷と地域の変貌︵戦時体制期前まで︶
新興財閥の進出と島峡社会の崩壊︵太平洋戦争終了まで︶
畠峡社会の再建運動と国家独占資本の進出︵戦後︶
1.
一般に︑l島峡は少くとも幕藩体制の後期から明治初頭にかけて︑寄港鳩や大漁業なかんずく捕鯨の基地として︑本
l土の農山村と比較して他地域との交流の多い先進地域が多かったと思われる︒
で明治に入って︑本土の陸上佼通ことに鉄道の発達に伴って畠への寄港が少甘くなり︑またその大漁業も近代資本制2漁業の担い手となり得なかっ粕ために衰えていった︒
経 営 と 経 済
) 五 回
り 白
鳥に発達した工場制手工業も特殊な例を除くと大正の恐慌までに殆んど消滅していった︒かくして島は明治に入っ
て従来の先進性を失い︑自給農業と沿岸漁業との地域としての性格を強めていった︒しかもそれら小商品生産には前
期的な商人資本の支配が長く残荏し︑生産者相互︑或は生産者と消費者とを分断せしめてきた︒島は孤立した貧困な
社会という性格を強くしていった︒島の労働力は家計補助のための短期的な出稼ぎか或は口べらし的な二︑三男︑女
子の無償に近い低賃金労働(兵隊︑庖員︑女中)力の給源でしかなかった︒品川同日本資本主義の成長とは対眼的に自
9 ‑
給的性格を強め︑まさに日本資本主義のアフリカ型植民地であったといえよう︒
幕藩体制の時期と異って︑明治以降の島の財政的な投資開発は︑殆んど行われなかった乙とは他の本土の農山村漁
村と同じであるが︑本土にみられる特定地点からの波及効果は島にはなかった︒
9 u
はまさに貧困と﹁離島化﹂とのそれであった︒
戦後の地域開発の時期に入って島の投資開発が進められ︑本土からの架橋航送船施設が進められて︑従来の自給的
向 ︒
性格から急速に貨幣経済化と本土資本の市場化とを進めてきた
f q
以上のような一般の島唄の推移に比して例外があった︒それは主として近代産業の原料としての地下資源
i !
こと
に近代産業の動力源或は原料としての石炭資源にめぐまれた島々であった︒すなわち日本資本主議は明治初頭から資
本主義経済発展の文字通りの原動力としての石炭資源の開発には極めて積極的であった︒その開発には島たると本土
たるとを問わなかったが︑輸送条件にめぐまれた島峡部や本土沿岸部に特にこの傾向が強かった︒これらの地域の石
炭資源はヴェ
l
パ!の工業立地論にみられるような諸工業の立地因子となるのではなく︑あくまで特定の工業地域への原料資源提供のいわばモノカルチュア
l
的な開発が進められた︒そのために島や沿岸部は近代的な石炭産業に有利な自然条件を提供していたといえる︒ 一般の島峡における明治以降の歴史
4 過去筆者が行ってきた島峡研究はそのような特殊な条件にめぐまれていない一般島映を主として対象としてきた︒
乙乙でいま問題にしようとしている香焼島(長崎港湾の入口に位置する)は上に述べてきた石炭ことに原料炭にめぐ
まれた地域である︒そしてこの島の石炭資源は明治二七(一八九四)年に三菱資本が大規模な投資と開発を行い︑そ
Fhu の自然条件の劣悪なために約七年にして完全にそれを放棄した川いわば限界炭坑であった︒そしてそれ以降は地方小資
向 ︒
本の開発にまゆ
h d
れてきたのである︒そのことは︑例えば香焼島の近傍の高島のように早くから三菱資本による徹底n u
的な地域の破壊をまぬがれてきたことを意味するであろう︒現在の高島には明治当初の姿は全くなく︑町役場はいわ
ば会社の厚生課の一係程度のものにすぎないといわれている︒
限界炭坑とはいえ︑良質の粘結炭をもっ香焼島の開発は弱小な地方資本によって徐々に資本主義的開発が進められ
てきた︒そして明治以来の数次の戦争によって︑好況︑不況による地方資本の興亡をくりかえしながら︑
一
O O
年の問にわたって島唄社会の崩壊を進めてきた︒昭和四
O
年︑この島はいわゆる﹁地域開発﹂政策の一環として臨海工業地域の造成が進められて陸繋島化することが決定して︑
菱重工業のこの島への進出が決定した︒ ﹁島﹂としての歴史を閉ぢることになった︒その結果独占
かくして︑今後香焼島の歴史は︑高島で早くからみられたような独占そのもののそれであろう︒当然そこに展開す
るものは地方史としての香焼島史ではなく︑まさに独占の歴史であり︑日本経済史の一部分でしかないはずである︒
島としての歴史の終石川はまた地方史として香焼町史の終震をも意味することになる︒
香焼鳥はもと佐賀藩の支誌であった深堀部(現在長崎市)の所領であった︒幕藩体制下にあって唯一の外国貿易港
限界炭坑島の資本主義的展開序説
五五
経 営 と 経 済 香焼島人口
1 8
2
戸17"
3 "
6 3 "
3 5 "
雇 工 総 戸 数 姓
業
1 8 5
2
年日 大 百 漁 耕 地 所 有 者 の %
│所有者│
%
│聴取りはるもの0~1
(反)0 9 3 . 8 3
1~3 6 8 7 . 6 3
小自作3~8 1 4 7 1 . 4
自 作8~ 0 1 6 . 7
地 主計
」 ー 2 吋 0 0 1 例 8 "
5
人3 7
ク工 族 身 売 人 石 士 あとの地主の表をみると、地主件作りも行われて
いたと思われる。
明治
0 2
年地租名台帳(樋口農学士による)8
戸五六
であった長崎港湾の入口に位置するこの島は水田を殆んどもた
可4ないが︑軍事上の要衝として幕府で極めて重視されていたし︑
9 6
1
人大正
7
年 「 郷 土 誌J
西海の他の島々と同様に香焼島は一九世紀の初頭から瀬戸内
QU 地方から漁業移民を迎えも生産的にいえば元来農業の島であ また石炭の市場にもめぐまれていたといえる︒
子 総 人 口
船ったこの島に漁民が増加し︑村網式の大漁業が成立していった︒
一九
世紀
中葉
には
総一
戸数
一八
二一
戸中
漁家
三五
一戸
をか
ぞえ
てい
る︒
明治
ニ
O (
一八八七)年の地租名寄帳(役場所蔵)をみると︑耕地の細分化と小作地化が進んでいると推定される︒元来一般に水田の少
い︑土地生産性の劣悪な島峡社会では寄生地主制の発達は極めて弱い
点からみる旬︑この島の商品経済の侵透はかなり早くから進んでいた
と思われる︒もちろんこうした小作地化の進展過程において耕地の拡
大が進み土地の生産性はかなり上昇している︒乙の時期は第一期の耕
地拡張期である︒
土地を失った農民はさきに述べた漁業に多く吸収されていった︒既
に明治八(一八七五)年の干鰯の生産は五万庁(大正元年は一︑六八
八斤)をこえ︑同一二年には手繰網が二統︑漁船二五隻あり︑同一八
(一八八五)年には鰯干場︑網干場が計一町五反あった︒(明治初期の
明治初期鉱山と定置網
1 9 t 1
図 的 制 代 m . J ~~1P ~[tl 代 田雑 i!.~ 制代 ハ狸掘りやま 門的穴式やま
現在は桝網が
4
ヶ所あるのみ。土井首(深堀領)の人の網代が
2
ヶ所ある。① 尾ノ上炭坑狸穴 ② 丹馬山狸穴 ③ 下 丹 馬 山 狸 穴
④ 五 尺 地 区 狸 穴 ⑤ 恵里地区狸穴 @ 栗 ノ 浦 狸 穴
⑦坊主山地区露天掘り
島田のやま 最初に入った本土資本(東京)の坑口
小出のやま 島田から炭坑を買い入れた資本(東京)
定 置 網 定置網申請綴(明
0 2 0 ‑ 1
年の間)による(高良友敏調)炭 坑 役場岩本武重氏の御教示による。
厨 国
E M
尚 一 一 制
比 一 ル 川
平 副 一 ( 川 刈附 川
‑ 幾 肌
ノj 、 't~~'
' l . f
~lj .
行I
I I 久米太 0 . M 1
l!. 6 1 M18 、
し一一一占四 回
刷(1. 1 0 0 2 ' 1 ' ) ( 1 . 08ωn E5
一ノ瀬才‑t‑.
9 . 1 1 凡
一ノ詩!日均三 ~1.19
( 5
州:)、図①
②
③
④
漁場申請綴(町役場所蔵)には鮪︑師︑雑魚の定置網があった︒明治八年の肥前国地理図誌には﹁農業専業︑漁業収
では専農から兼業化に転換したのを大体乙の時期としているから︑なり︒貧民多し﹂とあるが︑郷土誌(大正七年)
限界炭坑島の資本主義的展開序説
五七
経 営 と 経 済 耕 地 の 変 遷
田 │畑│
嘉永
) 5 ( 2 5 8 1 7
町.2 1 1 │
反2
町.l
反f
3 0 ( 1 8
9
7)2 . 3 I 0 . 2 7
増大正
) 7 1 9 1 ( 6 0 . 2 6 . 2 8
倖1 0 ( 1 9
2
1)1 . 3 8 8 . 5
滞昭和
3 9 1 ( 5
0)8 I 8 3 . 8
漸1 0 ( 1 9 3 5 )
8 I 8 9 . 8
増1 6 ( 1 9
4
1)8 I 5 0 . 8
急2 2 ( 1 9
4
7)8158'~_l~J
る︒明治に入って乙の産業に大きい転期がおとずれ
る︒明治初めには従来の狸堀りが島内網主商業資本
の支配下に入以引また島外資本の動力設備︑洋式汽
缶を導入した機械制生産への第一歩がみられ(町史
稿)︑生産は明治一八
(一
八八
五)
年に
は一
O
年前の約三倍に増加している︒
しかしこの島外炭坑資本は明治二
O (
一八八
七)
年の土地名寄帳をみると︑
化し︑また七︑八年後には︑同じく商業資本にその
炭坑を売却している 一町歩余の在村寄生地主
(町史稿)点をみると︑さきの
嘉永
5
年 郷 土 誌M.18
県庶務課史誌事務 掛 待M.
0 3
分村建議録M.34
香焼村台帳T. 6
村現勢調査符T. 0 1
良商務統計s 2 2 ‑ . 5
基礎関係書類五八
農民屑の分解の進行とともに︑
小作農民の漁民化が進み︑乙の
えることが出来よう︒ 時期を漁業の盛えた一時期と考
石炭の採掘は既に元総年間か
れ(
郷土
誌)
︑
ら農民の勝手堀の記線があらわ
一九世紀中葉の
人口調べでは炭坑稼ぎ九一戸とあ
人 名
山 下 幸 三
4 3
反. .
町7 5 .
反3 セ 1 . 7 . 7
一 ノ 瀬 才 一 一
1 . 7 5 . 1 . 7 5 .
時 津 次 三
2 . 4 1 . 1 . 6 1 . 9 . 5
一 ノ 瀬 藤 三 一
1 . 7 . 4
坂 井 松 次 郎
‑ 1 . 0 1 . 4 . 3 1 . . 3
香 田 久 米 蔵
1 . 5 9 . 5 1 . 1 . 0
松 尾 文 市
2 . 0 2 . 0 . 1 4 . 0 . 1
山 口 理 四 郎 一
1 . 3 . 0 1 . ! 3 . 0
島 田 鹿 助
5 . 3 7 . 6 1 . 2 . 0
香 田 久 米 太 郎
5 6 . 7 2 . 8
明治
0 2
年地主一覧0 1 (
名)(明治
0 2
年 地 租 名 寄 帳 ) ー樋口民学土調査一 品目度助が日外炭坑経営者機械設備を導入した炭坑資本は近代的な産業資本とはいい難い︒市場は中園地方と長崎の外国船が主であった︒島の
基幹的な産物である鰯(ほしか)と石炭の移出︑米の移入を介してこの島の貨幣経済化は早くから進み︑商業資本の
蓄積も進んでいたものと推定される︒
しかし︑商業資本は島外のものが主で︑肥料(ほしか)の移入は佐賀商人︑石炭の取扱いは長崎の商人とされてい
るが(町史稿)︑明治一二(一八七九)年の土地課税台帳(役場所蔵)
I 年 代
i
戸 数 │ 人 口 │ 資 料 話永5 ( ) 2 5 8 1 2 8 1 1 6 9
呑焼村沿革史文久
2 ( ) 2 6 8 1 3 9 1 ?
釜改帳 元治
2 ( ) 3 6 8 1 8 9 1 ?
明治
5 ( ) 2 7 8 1 2 1 2 1
,3 0 2
壬申戸籍1 2
) 9 7 8 1 ( 0 6 2 一
戸別課税台帳1
8 ) 5 8 8 1 (
511n1 …
( 3 3 )
) 1 8 1 ( 3
0
9 8 1 (
7)0 0 3 I 1 . 0 9 5 I
分村建議録 人 口m
出N治 初
明
限界炭坑島の資本主義的展開序説 では島内の網主︑地主︑炭坑主であり︑かっ
商人であった山下幸三が一
00
石船以上の船四隻を所有し︑島内
今i由外
む
︐
と ︑
ふ
を白尾年 十 品
島ほ九七)年頃とで大差がない︒しかし︑農民屑の分解の過程のなか
酷かでミ早くから漁業の綱子などの日一居い労働者がかなり進出されて
)はいたものと忠われる︒さきの﹁貧民多し﹂という表現はこの潜在
ふ労働力の用意されていたことを示すものであろう︒ のみならず︑高島からも石炭を購入販売している︒︑喝さき取りによるとほかになお地主︑網主兼商人が二円あったといわれている︒
山下は明治に入って土地の合併を進め︑明治二
O
年では島内会耕地の二ニ・四
M m
︑山林の二ニ・三M m
を所有旬︑また綱元として縫切網二統︑鮪定置網をもっていた(分村建議録)︒
資本家的生産様式の成立する前提条件である賃銀労働者の存在
から
考え
ると
︑
一八五二(嘉永五)年の総人口と明治三
O (
一 八 五九
経 営 と 経 済
六O
明治二五︑六年に入って︑さきの山下および島外の大阪舎密会社による資本制生産様式のコークス企業が成立して
いる叫しかし︑二
0
年代のコークス生産は微々たるものであり︑三O
年で前者が二O
人前後︑後者で一二︑三人程皮(分村建議録)︒しかし︑両者ともわが国最初の非回収式であるがピ
l
ハイ
ブコ
の労働力を使用していたにすぎない
山下コF グスの全貌
明治
7 2
年設立され盛衰をくりかえしながら、昭和3 4
年遂に閉鎖された。写真は閉鎖直前の昭和
3 1
年のもの。(溝口氏撮影)
ークス炉を建設していた︒大阪舎密のコークス生産はその
後みるべき発展がなく︑自身炭坑経営に進出しても(明治
三二年)(郷土誌)︑石炭は原料のまま大阪のガス会社に
送られて地元のコークス生産にまわされていない︒山下コ
ークスは日清戦役後︑三菱造船と佐世保工廠に市場を得て
大きく発展する(郷土誌)︒明治一一二年には︑二列二
O
釜の設備をもち︑地元民三四︑五人を使用している︒イギリ
スの
カ
l
ジフ炭︑高島︑端島の石炭をも原料としてあわせ用いている(聴取り)︒
農民の狸掘り︑商業資本の横穴式採炭と平行して︑明治
的 以
二七年には︑三菱資本が属島の横島に投下される︒この横
島開発は社誌によると﹁石炭の一般需要増加し︑筑農各炭
供給之に伴わ(四二巻五頁)ない﹂のが直接の契機となっており︑以後相ついで横島の埋立も行わ払川二九年には採
炭が始まっている︒三
O
年には寄留三00
人︑出稼ぎ二八
O
人をかぞえ(分村建議録)︑同三二年に横島の一戸数一二O
一円︑小学校が設立されている(郷
土誌
)︒
対岸の深堀村に属していたこの島を分離独立村にするための﹁分村建議案﹂
の筆頭にかかげ﹁時運ノ進歩ト共ニ石炭坑其他顕著ノ事業等頻々激興シ・:﹂とし︑当時島内における新しい企業を具
休的にあげている︒そして初代村長として山下が選ばれた︒
つまり︑明治二
0
年代の少くとも後半は︑地元商業資本︑島外産業資本による近代産業の成立する時期であり︑明 治三一年の呑焼村分村は︑いわば産業資本が成立し︑新興ブルジョワジl
の拾頭してきた事実の政治的表現といえる︒(明
治三
O
年)では山下幸三を請願者明治二七年横島の開発に入った三菱資本はこの岩礁の埋立を也
V
︑同
一巳
一(
一八
九九
)年
には
一戸
数二
ニ
O
︑人口七0 0
をこえていたが(分村建議録)︑ゴ一年後﹁収支償はざるをもって廃坑﹂とした︒そして高島︑端島への集中的投資を進める︒すなわち香焼の石炭資源は財閥資本の放棄したいわば限界炭坑であった︒しかし炭質が高カロリーの原
料炭であったために︑また長崎︑佐世保に大きい市場をもっているために︑地方資本︑非財閥資本の採炭が好︑不況
のなかに興亡をくりかえしつつ断続することになる︒貧弱なしかも原料炭としての限界炭坑の島であったという地理
的事実がこの島の性格づけに決定的な役割を果すことになる︒
呑腕本島の石炭は︑数多の商業資本の経営とその支配による狸掘りと併存して︑明治三二(一八九九)年に大阪舎
密の本格的経営が始ま︑け(市場は大阪ガス)︑﹁種々設備を整え﹂(郷土誌)生産を進め︑明治三七年の全国の鉱業
要覧にも列記されてくる︒同四
O (
一O
七)年には大阪舎密によって竪坑採掘が進められる(町史稿)︒こうして九採炭は完全にこの島外資本の経営にうつり狸掘りも全く終
E
局する︒少くともこの時期をもって︑香焼島の石炭産業は近代的資本制生産が確立したものと考えられる︒明治四一年坑内夫二八五人︑坑外夫一一
O
人であった(香焼村沿革限界炭坑島の資本主義的展開序説
. . . . . . . .
/、
経 営 と 経 済 長崎湾内における三菱資本の炭坑経営(1.
0 0 0
円)l
横 島 ( 高 島1
端 島年 代
B/S !p/LIB/S!P/L!B/S!P/L
明
8 2 0 . 0 1 一 0 . 0 5 2 0 . 0 9 4 2 . 6 5 2
9
0 . 0 1 一 0 . 0 5 2 . 6 9 ‑ 1 0 . 0 7 4 . 7 1 3
0
4 . 9 5 1 一 0 . 1 6 2 1 . 7 2 ‑ 1 4 . 4 1 6 . 4 1 3
1
3 . 0 7 2 一 3 . 7 9 2 7 . 2 7 1 3 . 0 2 6 . 8 8 1 3
2
8 . 1 7 2 1 . 2 3 6 . 2 6 2 7 . 0 1 2 3
3
8 . 0 7 2 2 . 0 1 . 4 4 2 4 . 8 3 1 1 2 . 8 2 7 . 5 8 1 3
4
8 . 0 8 2 ‑ 6 . 5 1 0 . 5 7 2 7
1.8 6 1 6 . 6 9 . 0 4 2 3
5
‑ 3 1 . 5 6 1 . 5 6 3 0 . 6 0 1 1 0 . 3 7 6 0 2
1. 損益計算書B/S
貸借対照表P/L
三菱社誌各関係年度よりーは赤字
︑ ︑ ︐
︐ ︐ ︑
︑ ︐ ︐
︐ ︑ ︑
︐
J
4lnLqu
六 一 一
史)︒つづいて大阪舎密の横島開発が進められてくる
〆画、、
事務報告│大正︑六︑七︑八)︒大正七年の郷土誌によ
ると﹁香焼島石炭はコークス原料として大いに声価あり︑
また石炭にして販売︑炭量豊富なら
ぎるも︑数十年間は採掘すべき我村
一九
一二
年
香
1 5
8
,0 4 2 トン
8
,0 2 2
(鉱業要覧明治
3
7) 産の大宝庫なり﹂とある︒
の事務報告では炭坑夫五四六人をか
O‑L< 生
灰
ぞえ︑分村当時(分村建議録)の約
石 日 焼
二・五倍に及んでいる︒
高 山下コークスは市場(佐世保工
廠︑長崎造船)の確立に伴って発展し︑三七年には大き
い設備投資を行い︑使用人は四回︑五人に増加している
(事務報告)︒明治三七年大阪舎密のコークス生産の場
合は︑石炭は原料炭のまま大阪に送られ島には原料供給
地としての資本主議的経営の型態が取られていたために︑その発展にみるべきものは依然としてなかった︒当時既に
副産物の回収可能な回収式コークス炉が完成されていたために︑その副産物市場たる大阪に送られていた︒乙の原料
産地は両社(山下︑大阪舎密)とも非回収式段階に止まっていた︒
以外には発展し得なかったといえる︒ つまり加工品としてのコークスの生産は地元資本
工 所 鉄 尾 松
松尾鉄工所
3
,0 0 0 トシ乾ドッグ
(明7 3
完成)川南工業から三菱重工へと受けつがれている (長浜)
石炭
︑
コークスの近代産業の確立と並行して︑明治三五(一
九
O
二)
年に
︑
一地方資本(旧士族出身)の松尾鉄工所(造船)
が設立される︒海面の埋立によって工場敷地(八︑
000
坪)
と三
︑
000
トンの乾ドックが竣功し︑島内労働者七︑八O
人・
が使用される(事務報告)︒日露戦役を経て︑急に成長し︑四
三(一九
O
九)
年の
職業
別一
戸数
の工
業五
二一
戸兼
業的
日一
匡一
戸数
二
一六(全一戸数の五二%)をみると(事務報告明治四二年)︑日
雇一戸数の工場労働者化を推論させている︒
コークス︑石炭︑造船の三近代産業は日露戦役を経過して大
きく成長し︑戦後不況の時期も︑なお独占体制の確立していな
かった当時では大きい影響もなく︑地万産業としての地位を確
立し
てい
った
︒
分村当初まで︑人口数は前代と殆んど変動はなかったが(構造的に大きい変化が起っている)︑分村以降の産業資
本の確立別に入ると入寄留を迎えて人口は急増する︒そして単に鉱工業ばかりでなく︑戦後不況も加わって農漁家も
かなり増加してくる(事務報告!明治四五︑大正二年)︒
明治三四(一九
O
一)年の﹁香焼村沿革史﹂では﹁住民の業態農業約五割︑炭坑稼ぎ是につぎ︑その他漁業︑商業︑限界炭坑島の資本主義的展開序説 日稼等﹂であったが︑明治末には商工業が増加し︑大正年間に入ると︑急増した農漁家も﹁凡そ兼業として日雇稼ぎ
」 ー
/ 、 、
経 営 と 経 済
E
年 代 │
戸 l人 口 l
資 料
明
5 2 1 2 1
,3 0 2
壬 申 戸 籍3 0
0 0 3 1
,0 9 5
分村建議録( 1 7 )
) 4 7 ( 4
5
4 1 5 2
,2 9 6
事(務明5
報4
告年書)(
8 8 )
) 1 7 4 (
香 焼 島 人 口
島 戸 数
工 │その他│ 計
4 1 7
4 9 6 5 2 1
をな
し﹂
六四
(事
務報
告
l
大正二年)ていたとあるから︑乙れら兼業農漁家の主要労働力は炭坑︑工場労働者
となっていたと思われる︒
(事務報告書関係年代)
明治
九︑
一
O
年頃から農民の漁民化が進み︑明治一 二
O
年頃は本島漁業の最盛期と思われる︒島内には二大網元があり(うち一一戸は山下幸一ニ)︑縫切網を
出していた(分村建議録)が︑島の工業化が進むと
ともに次第に労働力を失って︑
焼
一網
四
O
人を必要とするこの網は寄立の基盤を失い︑山下の網は五島奈
良尾に移動し︑それに代って本島の網漁業は小人数
のさし網が主体になる(聴取り)︒
以上︑明治に入って︑土地制度の変革から︑農民層の分解が進むとともに︑乙の頃はま
香
4 2
4 5
2
た耕地が最も増加した時期でもあり︑土地の生産性も上昇している︒しかし島は軍事の島
の性格から︑小作農民の漁業労働力への移動が起り︑前代末期に農漁兼業の島となる︒産
業資本の確立期に入ると更に鉱工業へ労働力移動が行われて︑農漁業を次第に喪失してい
った
︒
年
大
しかしながら︑乙の島に立地した近代産業資本は︑なお地方資本であり財閥資本でなか
ったために︑その地域社会に対する影響は高島などにみられるほど急激な破壊的なもので
明
1 8 7
5
肥前園地理図誌1 9 1
2
役場統計「水産」ほしか生産
1 9 1 2
4 9
,0 0 9
斥1
,8 8 6
斥1 8 7
5
年はなかったD従って︑全一円燃の六割がなお農漁家に分類され︑ことに日露戦後の不況後は農漁家が増加し︑また果樹︑
養蚕など商品農業が奨励され川(香焼村沿革史)まゆ価の高騰もあってかなりの成果をおさめている︒
以上土地制度の改革︑地方産業資本の確立によって︑徐々に進められてきた香焼島社会の破壊は︑第一次大戦以降
の独占の確立期に入って一一周その崩壊を進める︒
四
松尾鉄工所バ官露︑第一次世界両大戦に際会して急速に膨脹していった︒第一次大戦時には一︑000
トンの第二 ドックを完成切さらに船舶の大型化に伴って一O
︑000
トンドックの築造を計画(埋立関係綴l
大正
五年
)し
︑
次の
年に
は三
︑
000
トン級の鋼鉄船二住民を進水させ(郷土誌)ている︒多数の入寄留者を労働力として入れているとともに︑島内本
籍一戸数の%はその家族冷ヤ﹂の造船所に送っている︒﹁本邦重要鉱山
要覧﹂にあらわれてくる香焼炭坑もまた第一次大戦中に最盛期を迎
加 え ︑
﹁日をおうて盛んとなり﹂(郷土誌)生産量は明治三三(一九
0 0 )
年の六倍強に及んでいる︒大正七年には横島の採炭を開始し
ている(事務報告
l
大正六︑七︑八年)︒ほかに神八木炭坑という地方小資本の採掘もあらわれている(事務報告︑大正八)︒こうし
た繁栄のなかにあって︑大正四年には﹁ガス爆発のために七
O
余名の死傷者を出し﹂(郷土誌)︑劣悪な労働条件(当時地獄といわれ
限界
炭坑
島の
資本
主義
的展
開序
説
香 焼 炭 坑 作 業 員 212人(分村建議録)
明
0 3
(本邦重要鉱山要覧)
7 8 7
大
1
(郷土誌)
868
7
松 尾 鉄 工 所 従業員(大
. 7 )
六五284人
220戸
本村人
7 0 3
人(郷 誌)
6 7 0
戸土 外来人
経 営 と 経 済 出 炭 呈
従 業 員 平 均 賃 金 (
1
日)女 男 女
トシ 7 9
人5 8
人2 9 6 . 0
円 ‑0 4 . 0
円 円 呑 焼1 5
,9 3 4 5 2 . 0
高 島
5 2 2
,4 7 0 2
,0 3 6 8 5 1 0 7 . 0 ‑ 0 4 4 . 3 2 . 0 ‑ 0 5 2 .
(大正元年)
191 2
た高島のそれよりも悪かった)のもとに︑
川μ
た ︒
六六
﹁地底﹂をはいまわる多くの労働者があっ
山下コークスは大戦中株式会社組織となり(事務報告l大正五)︑資本金五
O
万円
︑
第一次大戦後の不況期に入って︑松尾鉄工所
は計画中の一万トンドックの建造を中止(埋立延期願
l
大正
一
O )
し︑次の年にはニ 工員三
O O
入︑釜は六列六六釜と増大した土誌
)︒
﹁長崎の山下﹂として全国にその名を
知られたのはこの時期であった
(聴
取り
)︒
農 商 務 省 本 邦 重 要 鉱 山 一 大 正3年)
一方大阪舎密のコークス企業は﹁大阪の本社
に直送させる残部の一部をコークス原料として
(郷土誌)ために︑規模は拡大せず︑依
然として旧式の非回収式ピ
l
ハイブ炉であっ
︑.
︐‑
‑
LtL た
︒大
正一
O (
一九二一)年には更に新しいコークス企業一社とほかにガラ焼が二戸あらわれ
てい
る
(事
務報
告
l
大正
一
O )
︒
担
F
コ戸グス産業従業員
分村建議録 大阪舎密
1 2 44‑ 5
聴取り3 7
現勢調査簿
6 8 1
6 2 6
大郷土誌
3 ?
0 0 7
農商務統計 長崎県統計 山下コ戸グス
34‑ 5
3 9 5 2 6 3 1 2
1 5
3 0
明
O
八人を解雇︑ついで大正一一(一九二四)年に破産した(事務報告│大正一一﹀︒もちろん全国の造船界が不況に見舞われ︑倒産︑事業縮少があらわれるが︑その過程
のな
かで
︑
一社当ドック数︑造船トン数︑資本の増加が起り︑戦後不況期で造船資本
松尾鉄工の哀退 従 業 員 進 水 隻 数 大
7 7 8 9 3
8 0 7 8 2 9 8 8 6 4 1
1
0 8 4 一
1 2
5 5 4 3 1
5
。 一
大
7
郷土誌8 . 9
現勢調査
1 1
事務報告1 2
良商務総計表
(謝敷宗登日造船)︒長崎における造船界
(加
藤木
堂
υ日華大鑑!大正三乙であった松尾鉄工所
も所詮は非独占のしかも一地方資本にすぎなかった︒
また大戦後の不況で石炭は大
E
八年頃の半ばにまで価格が下落し︑ の集中独占が進んでいるの﹁勇
者﹂
さきの神八木炭鉱は大正一
O
年に倒産した(事務報告!大正一O )
︒
大阪舎密の経営する香焼炭鉱の倒産の契機は大正九年の炭鉱暴動で
あった︒九州最初の労働組合が大正五年︑香焼炭鉱に﹁友愛会香焼
ω
支部﹂として組織され(長崎労働組合連働史四頁)︑待遇改善にかなりの効果をあげた︒同九年のストライキは納屋制度の廃止を要求して戦われた︒結果は﹁指導者七七名が騒優罪で
起訴され﹂た︑勺次の年には納屋制度︑が廃止されている︒極めて低賃金に依存していた香焼炭鉱は大正一五(一九二
六)年倒産した︒独占体制の確立していく過程で倒壊する地方産業資本の典型的な事件として把えるととが出来るが︑
また︑納屋制皮の廃止が︑その企業の存続を許さない程度の生産性の劣った限界炭坑であったことは否定出来ない︒
こうした日本資本主義の独占段階への移行過程で非独占である地方資本の興亡のなかにあって︑唯一つの例外があ
った︒それはコークス産業である︒戦中に興った一企業の倒産があったが再建されているし︑山下コークスは不況時
にあっても﹁是業を休む乙となく継続しつつあった﹂
備を縮少しニ列ニニ釜を解体している
して独立している(事務報告﹀︒ (事務報告)︒しかし︑大正一四(一九二五)年にはかなり設
(聴取り)︒大阪舎密の炭坑は消滅しているが︑そのコークス部門は別会社と
︐これらの三コークス企業は金融恐慌︑世界恐慌中も存続し︑なかでも山下コークスは朝鮮に進出した日本鉱業と結
限界炭坑島の資本主義的展開序説
六七
経 営 と 経 済
六八 一部原料炭をも入れて︑五
O
人前後の労働力を使用していた(聴取り)︒乙とに満州事変(んで新たな市場を聞き︑昭和六
l
一九三一年﹀以降︑コークスの需要増大から︑大阪舎密時代何ら設備投資のなかった香焼コークスもコーク ス炉を三列三O
釜にまで設備を増加している(事務報告l昭七
)︒
日露戦後の不況対策として講ぜられた地域産業(採炭場は大資本にかこいまれてしまっている)すなわち農漁業は
労働力の大量移動と﹁近年工業発展して容易に金銭をうる途開けたれば︑自然に軽視され﹂(郷土誌)︑また米食が
主食化し(郷土誌)︑自給的な麦︑甘藷の裁培が忘れられていった︒ただ︑
工業原料品としての繭は大戦中の高価格に刺戟されて養蚕業は発展し︑大
﹁年三回の蚕の飼育を行っている﹂
7
年3 4 . 8
0 . 5 3 . 2
産
4 6
5
升0 0 5
升( 1 0 0
0
貫)1 0 4 . 7
0 . 3
0 . 5
生 大正
1
年Z封
果
梅
' vh u
剖似
みかん 梨
0 . 4 0
. 3
ひ'わ
役場「農業」統計(大1) 郷土誌(大正
7 )
正四年には桑苗︑蚕種を大量に入れ︑
(郷
土誌
)︒
工業原料農業の発展にくらべて漁業の衰退は著るしかった︒郷土誌(大
正七年)によると﹁一時不漁と一万工業の発達とによって漁業は衰退にお
もむき︑今や専業者全くなく︑兼業者また少し﹂とあり︑生産高もかなり
低下
して
いる
︒
要するに産業資本の発展によって︑香焼島の地域産業は崩壊或は変質し︑この島の地域性を大きく転換せしめてい
る︒それでも︑なお︑地方資本による産業資本主義段階における地域社会の崩壊はそれほど決定的なものではなかっ
従って第一次大戦後の不況対策として農漁業の振興政策が取れる余地があった︒大戦中発達した養蚕業と果樹裁培 た ︒
漁業生産高の低下 (大
1 1
正9
元? f ) I
(大1 8 7 1
正9 )
( 1 0 1 1 2
0 4
日40
貫.)
戸8 i 1 (
自貫戸〕 漁 獲 高(うち鰯)
) 6 . 8 9 ( ) 2 . 3 3 (
加 工 品 │
7 . 2 8 . 2 1
香焼村役場「水産」
郷土誌 大正元年 大正
7
年振興に重点がおかれたようである
一五
)︒
更に
甘藷
︑ (
事務
報告書
l
大正
一四
︑
麦の増産がはかられ︑大正一五年には農
事改良普及実行委員会も結成されている
(事務報告一五年)︒この不況期は本島
における第二の耕地拡張期であるが︑全
耕地八八町歩中二
O
町歩は隣島伊王島農民の出作り耕地となり︑乙の出作りは既
に︑明治二
O
年の名寄帳を検討すると五町歩あり︑約四六年間香焼島の資本主議発展の過程において五町歩出作り耕
地が増加している︒従って耕地の拡大が必ずしも︑本島の農業活動の拡大を意
味していない︒
漁業は漁業組合がかなり活動し︑その振興の中心的役割を果している︒大正
一二年には県の水産試験場が蔭ノ尾水道に真珠の養殖を行い︑漁獲物もわずか
に上昇している︒あぐり網︑刺網も増加している(事務報告)︒しかし︑郷土
漁獲高(1.
0 0 0
貫)大
8
1.3
(大7 、 9
現勢調査) (大2 1
、4 1
農商務統計)8 1
6 0 1
4
農商務統計
大正
5 1
年 は 長 崎 県 統 計誌が述べている﹁鉱工業界は近年激盛に赴︑与
d i ‑ ‑
月に日に進々として発達し︑我村をして純然たる工業村に化せしめ
‑
5 4 . 7 1 2
ている﹂ように第一次大戦中急激に地域の破壊が進んできている時点で︑これらの振興策は大きい効果をあげてはい
ない︒当然人口の流出と潜在失業群の造成を結果しそれがかえって兼業農家の増加を示している︒
限界炭坑島の資本主義的展開序説
(統)
│ あ ぐ り │ 大 敷 │ 刺 網
大正
2 1 7 1
1 3
2 6 1
1 4
8 0 2
1 5
8 4 2
治、 網
六九
経 営 と 経 済 数 農 家
3 0 4
戸2 5 3 2 7 8
農 家 年 代
民‑ u
大
8 E
口 表
人
七
O
人口は分村当時は幕落体制の時期と大差がなかったが︑日露戦争を経て二︑
000
人台に達し︑第一次大戦末には三︑五OO人に達した︒大正一一年の松 統 統︒ 県 場 む は 役 く 年 は
ふ
8 3
を
︑ 阻
業
5
︑し﹁横浜︑東京︑神一戸その他に出稼ぎ﹂するものが多く(事務報告│大正二一兼 大 計 計
昭 3
尾鉄工所の二O八人解雇に始まって入寄留者の退去︑本籍人口の出寄留が増加
大正8、9の出入寄留は現勢調査簿、
他はすべて事務報告関係年度。
注 出寄留とは本籍人口の流出を意 味する。従って入寄留の流出は ふくまれていない。
)︑また大正一一年の記録では対岸の九州汽船の造船所に三四人
が出稼している
(事
務報
告ー
一一
年)
︒
一四
年の
松尾
の倒
産後
︑ 年 代 │ 人 口 │ 入 寄 留 │ 出 寄 留 大
8 3 , 5 6 2 1 .2 6 0 3 9 5
9 3 , 7 1 6 1 .2 6 4 3 0 4 1 1 3 , 5 3 9 1 , 1 8 7 4 0 7 1 3 2 , 8 7 4 ? ? 1 4 2 , 2 6 8 ? ?
人口流出は特にはなはだしく(事務報告)︑大正一五年には日露
戦争後にまで減少した(事務報告
l
大正
一五
年)
︒
そして松尾鉄工所の復活︑海水浴場の設置など︑今日でいう企
一方従来の地方自治体段階の不況期にお
ける地域再建策としての農漁業振興をこえて︑国家的段階の救農 業誘致運動が行われる︒
土木事業があわせ行われた︒
松尾の復活運動は倒産後三年にして行われ(事務報告
l
昭和二)て︑村会に協議会が作られ︑四年(一九二九)には再建総会が長崎で閲かれ﹁近々事務開始の運びに至らん﹂と事務
報告(昭和四年)は述べている︒しかし世界恐慌に入って実現し得なかった︒この再建運動とならんで﹁尾ノ江﹂に
海水浴場が聞かれ(村営)た︒当初は九州汽船と提携したものであった︒昭和一一年の収支をみると村収支のそれぞ
れ六
・O
%︑
0
・一%を占め(村長事務引継綴l
昭和一五)ていたが︑﹁支那事変による船舶不足から昭和一一年中止さ
れた
﹂
(向
上)
︒
五
戦後不況と独占強化の過程のなかで︑コークス企業を除いては︑香焼島の地方産業資本は完全に消滅し第一次大戦
中工業村化していた乙の地域は殆んど工業を喪失し︑失業の島となった︒当然︑農漁業の振興策が取られる︒しかし
日露戦争よりかなり栄えてきた養蚕業も第一次大戦後アメリカ市場を失って﹁収支相伴わず︑桑畑の如︑きは廃止せん
とする状況﹂(事務報告
l
昭和五)となり︑戦後不況につづく金融恐慌︑世界恐慌によって︑島の主産業にみるべき 産業人口(家族をふ〈む)昭 3
I
昭 9I
8 7 4 2 6 9
計 12, 610-'~
昭和3年は長崎県統計書 昭和9年は香焼村諸統計綴
4 1 7
2 8 1 1 3
4 2 4 9 1
1 7 6
1 1 4
1 4 2 1 5 9 1 7 8
2 4 0
民
j
魚屈
詳
その{也 工 商
不 日
は激増し老大な潜在失業人口をかかえた︒ ものがなくなっている︒養蚕に代る養鶏︑そきいの増産︑或は麦類増産のための採種園︑施肥裁培の改善を行い
〆 園 、 、
農 業 従 事 者 (県統計)
4 0 4
人円ベ
U
甘 口
n HH n
(役場統計) (兼業をふくむ)
事務報告
l
昭和七)︑また各部落に農業技術員をおき︑甘藷︑麦の改良︑増
殖をはかる(昭和一
O
事務報告)など種々の振興策が取られ農業従事者の数
5 9 4
人9
農家数の急増乙とに小作農家の急増︑漁業に関しては﹁漁具漁船の改良および漁獲物の加工︑販売万法の改善︑設
備などの奨励﹂(事務報告│昭和三)を行い︑海岸磯洗い︑海藻の精製講習会が聞かれる(事務報告︑昭和一
O )
な
どがあるが︑恐慌時の不漁と台風の被害とが重なって漁業はむしろ衰退を進めていった︒漁獲高では大正末期のメ︑
漁船数も半減した︒乙とに網の中心であった刺網は殆んどなくなった︒それたもかかわらず︑漁業従事者はむしろ増
限界炭坑島の資本主義的展開序説
七
経 営 と 経 済 資 業 の 推 移
( )内は動力船 大正年間は農商務省統計 昭和年間は香焼村諸統計綴
昭和5年台風があった。漁船30隻が破
壊された。
︑ ︑ ︐
︐ ︑ ︑
︐
J
︑ ︑ ︐ ノ ︑
BEF
‑ ‑ n L q u d A τ
七
加し︑ことに漁業労働者が急増している︒漁業もまた潜
在失業群のプ
l
ルであったこと農業と変りはない︒日本の漁業は明治末期から独占化が進み︑'つ事ついて沿
岸漁業の動力化の進むなかにあって︑香焼島の漁業は潜
在失業群をかかえながら次第に崩壊の途を進んでいった︒
決定的となづた︒ つづく新興財閥川南工業所の進出によって︑その崩壊は
こうした恐慌下の農漁村に対して︑政府は昭和六︑七
年に救農土木事業と時局救匡事業を行っているが︑香焼
村でも昭和八(一九三注ゴ一)年時局救匡事業として補助金八︑七
O O
円︑村債二︑八五O
円で村道の修築を 行い︑昭和一O
年には約一キロの舗装車道を完成している(天神下から深堀間│後の道路図参照)︒一日三
Ol
五
O
人が働き︑しかも一週間に同一人が一回というきびしい制限があった︒日給男子五
O
銭︑
女子
一ニ
O
銭である(聴取り) b
これらの事
業はつづく戦時体制の強化のなかに中止され︑或は地方有産者の寄付によってその
品d︐一部のみが達成された例も多い︒
こうした地万産業資本の消失と入寄留の退出とにより本籍人口の減少は一層はな
はだしく︑世界恐慌から昭和一
O
年ま
では
二︑
000
人を割ってしまった︒漁 業 従 事 者
大正
4 1
150
8
大正