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は じ め に小稿は,フェランティ(Sebastian Ziani de Ferraniti)という一人の天才的

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フェランティと近代電力経営の構想

−初期イギリス電力産業における革新と挫折−

坂本倬志

は じ め に

1.近代電力経営への道程

2.第1次大戦前の電気技術史におけるフェランティ

3.1880年代イギリスの電気事業とグロヴナー・ギャラリー発電所 4.ロンドン電気供給会社とデットフォード計画

む  す  び

は じ め に

小稿は,フェランティ(Sebastian Ziani de Ferraniti)という一人の天才的 電気技術者が初期のイギリス電力産業史において果たした役割を,近代電力 経営の構想という観点から位置づけようとするものである。フェランティが 顧問電気技師として初期のイギリス電力業にかかわったのは,クログナー・

ギャラリー(Grosvenor Gallery)発電所とデットフォード(Deptford)発電 所だけであって,しかも, 1886年から1891年までの短期間に過ぎなかった。

しかし,彼は独自の交流技術の開発によって,当時としてほ常識を越えた規 模の,大量集中発電・高圧遠距離送電を実現させ,近代電力業の礎石を築い たのである。

1880年代の初めに、電灯が新しい照明手段として技術的に実用化が可能に なったとき,イギリスでは,特にロンドンのような大都市においては,これ に対する潜在的需要はきわめて大きいものであったはずであるが,実際には,

1880年代を通してイギリスにおける電灯照明の普及はほとんど見られなかっ

た。いいかえれば,電力経営がほとんど進展しなかったのである。この点,

(2)

2 2 0  

アメリカにおける事情はまったく対照的であって, 8 0 年代初期から急速に電 灯照明の普及がみられ,電気事業が重要な産業の一つへと急成長していった のである。

電力業がほどんど成立していなかったイギリスにおいて, 1 8 8 0 年代後半に 突如として,アメリカにおいても見られなかったような巨大規模の集中発電 所の建設,交流による超高圧遠距離送電を試みた企業が出現した。しかも,

それは近代電力システムと呼ばれるにふさわしい技術的基盤に立つものであ った。その技術上の責任を全面的に負ったのが,フェランティであった。以 下では,フェランティが登場した時期の電力技術の水準やイギリス電気事業 の状況を踏まえながら,近代電力経営がし、かにして出現してきたのか,そし て,その営業内容はどのようなものであったのか,などについて考察してい きたい。

1  .近代電力経営への道程

まず,近代電力経営について,筆者なりに概念規定をしておく必要があろ う。いうまでもなく,電力とはエネルギーのー形態であって,電力経営はこ の電力エネルギーの生産・販売にかかわることを業務とする。しかし電気 はそれ自体物質ではなく, しかもその伝送ないし移転は導線の介在を要して 一瞬になされるという,特殊な性質のエネルギーである。し、し、かえれば,そ の生産と消費は同時になされなければならないのである。以下では,このよ うなエネルギー特質をもっ電力を,単に大量に供給するだけでなく,生産の 立地をその消費区域の外におくと L 、う技術システムを近代電力システムと呼 び,それを基盤にした電力経営を近代電力経営と呼ぶことにしたい。

電力経営の萌芽的形態は, 1 8 7 0 年代後半の欧米において出現したアーク灯

照明に見られた。この時期にようやく実用化された発電機の容量は,アーク

ランプ数個ないし十数個を直列接続して照明しうる程度であったので,アー

ク灯業者は,照明に必要な発電機‑配線・アークランプなどをセットにして

販売したのである。その購入者は,自家発電式のアーク灯システムを取り付

けたことになる。 L 、 L 、かえれば,電気エネルギーの購入ではなく,電気エネ

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フ ェ ラ ン テ ィ と 近 代 電 力 経 営 の 構 想 2 2 1  

ルギーを生み出す装置の購入である。したがって,この段階では,電気エネ ルギーの生産・販売を業務とする電力経営は未だ成立していなかったことに 留意したい。

電力経営の原初的形態が出現したのは, 1 8 7 9年,アメリカにおし、て,プラ ッシュ ( C h a r l e sF .   B r u s h ) が自らのアーク灯システムの販路拡張政策の一 環として,電灯会社 ( C a l i f o r n i aE l e c t r i c  L i g h t  Company o f  San F r a n c i s c o )   を設立し,この会社が中央発電所方式によるアーク灯照明の供給を開始した のを鴨矢とする。中央発電所方式は,アーク灯照明の需要家に対して,照明 設備を設置するが,設備を売るのではなく,照明そのものを売るのである。

当時は、電力の利用が照明に限定されていたので,初期の電力会社はほとん どが「電灯会社」ないし「電気照明会社」と称していた。そして、単に電気 エネルギーを供給するのではなく,その最終消費形態である電気照明として 供給した。しかしながら,アーク灯照明は,その l灯当りの消費電力が大き いうえに,当時の発電機の容量は依然として小さかったので,自家発電方式 と中央発電所方式とのあいだには,ほとんど技術上の差異はなかったといえ よう。すなわち,需要家ごとに発電機および照明設備を取り付けていく点で は同じであり,顧客が照明システムを購入するか,あるいは照明サービスの 対価として料金を払うか,ということに両方式の相違点があったに過ぎない。

中央発電所方式が技術的に自家発電方式とは一線を画し,電力(電灯)経 営が自立した産業として発展して L 、く契機をもたらしたのは,エジソン (Thomas A .  E d i s o n ) による白熱電灯システムの開発であった。白熱電灯は,

真空のガラス球の中で高抵抗の物質に電流を通して白熱・発光させるという 原理に基づくものである。したがって 2 本の炭素棒聞に放電させて結局は 炭素棒を燃焼させることによって光を発生させるアーク灯とは,全く異なる 技術である。白熱電灯システムの最大のメリッ卜は,アーク灯システムでは

( 1 )   アメリカにおけるアーク灯システムの開発過程と,ブラッシュによるアーク灯用中央

発電所の建設については, H a r o l d  C .   P a s e r ,  T h e  E l e c t r i c a l  M a n u f a c t u r e r s  1 8 7 5 ー 1 9 0 0 :A 

S t u d y  i n  C o m p e t i t i o n ,  E n t r e p r e n e u r s h 仇 T e c h n i c a lC h a n g e ,  a n d  E c o n o m i c  G r o w t h  ( R e p r i n t  

e d . ,  New York ,  1 9 7 2 ) ,  P a r t   1 を参照。

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2 2 2  

技術的に困難であった「光の分割」と L 、ぅ課題を克服したことであろう。エ ジソン・システムは,白熱電灯 l 灯当りの光の強さを,当時のガス灯と同じ ように 8 ないし 1 6 燭光に設定し(アーク灯は 1 灯が2000 燭光位であった), 

l 台の発電機から多数の電球に配線することを可能にした。しかも,各電球 は並列に接続されていたから,照明の必要な電球だけを点灯することができ た。さらに,需要に応じて,複数の発電機を並行運転することができたので,

発電機の台数を増やして発電所の規模を拡大することも可能であった。

エジソンは, 1 8 8 2 年初めにロンドンにおいて,実験的ではあるが,世界最 初の白熱電灯用の中央発電所を建設し,運転開始した。その成功をみて,同 年中にニューヨークにおいてもアメリカで第 1 号の白熱電灯用中央発電所を 建設し、本格的な電力経営に乗り出した。その後,エジソン・システムによ る中央発電所は全国の主要都市に急速に普及していき, 1 8 8 8 年までにその発 電所数は 1 8 5 にまで増加した。しかしながら,エジソン・システムによる電 力経営が,そのまま近代的電力業の特質を具えているとはいえなかった。そ こには,大きな技術的制約が存在した。一言でいえば,エジソン・システム は直流システムであったので,発電所からの送電距離がかなり限定されざる をえなかったことである。直流システムにおいては,送電時における変圧は 技術的に困難であって,エジソンが苦心して開発した三線式送電方法で、も,

発生電圧は消費電圧の 3 倍程度にするのが限度であった。一般的には,直流 システムにおいては,発電時の電圧は消費電圧と同一にするのが普通であっ た。電気損失の問題を含めて,低圧送電は送電コストが高くつくことを主な 理由として,直流システムによる電気供給の範囲は、発電所を中心にせいぜ、

L  、直径半マイルの範囲が限界であった。したがって,このシステムでは,電 灯需要の密度の高い都市の中心地に,発電所が立地していくことになった。

大きな都市では,その中心部の何ヶ所かに発電所が点在するとし、う状況を呈

( 2 )   エジソン・システムの開発過程については,次を参照。 A r t h u rA.  B r i g h t ,  ] r . ,  The  E l e c t r i c ‑ L a mt  l n d u s t η 1 :   T e c h n o l o g i c a l  C h a n g e  a n d  E c o n o m i c  D e v e l o 戸

n e n tf r o m  1 8 0 0  t o  1 9 4 7  

( R e p r i n t  e d ;  New Y o r k .   1 9 7 2 ) .   p p .  5 6 ‑ 5 9 ;  P a s s e r ,  o t .   c i t . .   p p .   7 8

1 0 4 .

( 3 )   P a s s e r ,  o t .   c i t . .   p p . 1 2 1 .  

(5)

フェランティと近代電力経営の構想 2 2 3  

したのである。直流システムを採る限り,電力需要の増大に対しては送電技 術の制約から,電力経営は「分散的システム」と L 、う形態を強めながら展開 せざるをえなかったといえよう。

直流システムの壁を取り払う新しい技術として登場したのが,交流シス テムである。両システムにおける基本的相違点は, ( 1 ) 直流発電機には整 流子が必要であったため,これが発電機 1台当りの発電容量を増加させてい くうえで制約になったのに対し,交流発電機は整流子を必要としなかった ので、技術改良次第ではいくらでも 1 台当りの発電容量を大きくしていく ことができたこと, ( 2 ) 直流送電において不可能であった変圧が,交流送電 においては交流変庄器を開発することによって可能になった,というこの二 点に絞ることができょう。アメリカにおいては,ウェスティングハウス ( G e o r g e  W e s t i n g h o u s e ) が,いちはやく交流システムの導入‑開発に乗りだ し,これを武器に電気照明市場に大きな地歩を占めるようになった。彼は,

需要家が散在していて電灯需要の密度が比較的低く,直流システムによる電 気照明が普及していない地域を,重点的に市場開発していった。これはし、う までもなく,変圧器の使用によって,高圧送電されてきた電流を配電時には 消費電圧にまで落とすことができ, したがって,発電所から遠距離まで比較 的低いコストで電気供給ができるようになったからである。

交流システムの登場は,近代電力システムへの重要なステップではあった が,それ自体が近代電力経営の技術的必要条件を充たしているとは必ずしも いえなかった。たとえば,ウェスティングハウス・システムによる電力経営 の方式は,エジソン・システムのそれと基本的には大差なく,需要地域の中 心地に発電所を建設し,その周辺に配電していくというものであった。ただ し交流システムのメリットを生かして,配電範囲を直流システムよりも広 げることができた。それにしても,電力の生産と消費が同一区域でなされて

( 4  ) ウェスティングハウスによる交流技術の導入・開発過程については,さしあたり次を 参照。拙稿「ウェスティングハウス電機会社の成立と展開過程一一第 1 次大戦前アメ

リカにおける交流技術の導入と開発一一」長崎大学経済学部特定研究班編『技術移転と

産業発展に関する総合的研究 j (昭和 6 0 年 ) , 6  ‑19 頁 。

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2 2 4  

いるという点では,両システムとも同じであったといえる。さらに発電所規 模についてみると, 1 8 8 0 年代末では,両システムともに,取付電灯数に換算 して 2 0 0 0 灯前後で,ほとんど変わりはなかった。アメリカにおいては,直流 システムおよび交流システムともに 8 0 年代後半にそれぞれ急速に発展してい ったが,生産と消費の立地的訴離を特徴とする近代電力システムの開発は未 だ着手されておらず,また,近代電力経営の構想は未だ生まれていなかった

といえるであろう。

2 . 第 1 次大戦前の電気技術史におけるフェランティ セパスチャン・フェランティは 1 8 6 4 年 4 月 9 日にリヴァプールで生まれ た。フェランティ家は代々音楽や絵画などの芸術分野において優れた人材を 輩出してきた名門であったが,セパスチャン自身の才能はこれとは系列を異 にした科学の分野,それも応用機械工学の面において開花した。彼は,すで に幼少の時,各種の新聞から切り抜きして,あらゆる種類のエンジンに関す るスクラップ帳を作ったり,近くの駅に行っては機関車の観察をするのを楽 しみにしていた。 1 0 歳の時,彼が両親にねだったプレセントは,復水器を調 べるための「圧縮蒸気に関する本」であったり,蒸気式消防ポンプの動くモ デルであった。フェランティは 1 3 歳の時ラムスゲイトにあるセント・オーガ スティン・カレッジの生徒になったが,その入学早々,この学校の校長は,

彼が非凡な発明的思考力を持っているのに気付き,彼に一部屋与えて自由に 機械いじりすることを許した。フェランティののちの成功の基盤がこの校長 の英断によって与えられたといわれるほど,彼は学業のかたわらで,この部 屋を使ってさまざまな機械の試作に没頭した。事実, 1 8 8 2 年に世に出た有名

( 5 )   P a s s e r ,  O p .   c i t . ,  p p .   1 2 1 .   1 4 9 より算出。

( 6 )   フェランティ家は中世のイタリアにその系譜を辿ることのできる名門で,セパスチャ ンの父親の代にイギリスに移住してきた。父親 ( C e s a rde F e r r a n t i)は,持ち前の芸術的 才能を生かして写真業を営み,成功をおさめた。母親も芸術家の血筋をひく家柄の出で あって,彼女自身は音楽家であった。 C f . G .  Z .  d e  F e r r a n t i  and R .  I n c e ,  T h e  L i f e a n d Le t ‑ t e r s  o f  S e b a s t i a n  Z i a n i  d e  F e r r a n t i ( L o n d o n ,  1 9 3 4 ) ,  p p .   15‑17 

( 7 )   W.  L .   R a n d e l l ,  S .   Z .   d e  F e r r a n t i :  H i s  l n f l u e n c e  u p o n  E l e c t r i c a l  D e v e l o p m e n t ( L o n d o n , 

New York ,  and T o r o n t o ,  1 9 4 3 ) ,  p .   1 .  

(7)

フェランティと近代電力経営の構想 2 2 5  

な卜ムソン=フェランティ交流発電機 ( T h o m s o n‑F e r r a n t i   a l t e r n a t o r ) は , 彼が 1 4 歳の時この部屋で作った機械が原型となっていた。

フェランティは本格的な電気機械の製作者になることを夢見て,高名な技 術者に教えを乞うベく, 1 8 7 9 年にロンドンのユニヴァシティ・カレッジに進 んだが, 1 8 8 1 年に父親が病に倒れて学費を送れなくなると L 、う不運にあって,

やむなく,彼はカレッジを中退し,知人のってでカールトンにあるシーメン ス社 ( S i e m e n s W o r k s ) に就職した。ここに勤務していたのは短期間に過ぎ なかったが,その間に彼は,電気技術者に必要な訓練を受けたあとすぐに研 究開発部門に抜擢されたり,同社が各地にアーク灯プラントを設置する際の 監督をまかされるまでの頭角をあらわした。しかしながら,彼の野望は単に 優秀な電気技術者になるということではなく,その発明の才能を生かしうる ように自らの会社を持って自由に電気機械の製作にたずさわることであっ た。幸運にも,電気に興味を持つ二人の知り合いを得て,フェランティは 1 8 8 2

年に 1 8 歳の若さで会社 ( F e r r a n t , i Thompson a n d  I n c e ,  L t d . ) の設立に参 加することができた。いうまでもなく,フェランティが技術担当で,他の二 人は出資者であった。

1 8 8 2 年は,アーク灯のブームが起きただけでなく,白熱電灯が実用化され るようになった年でもあった。フェランティは,早くも同年中に白熱電球 1 , 0 0 0 灯 ( 2 0 燭光換算)点灯可能な当時としては大容量の発電機を製作した だけでなく,交流用の電気計器を考案した。しかし,翌年になると,フェラ ンティ製品の顧客でありかっその販売代理庖でもあったハモンド社 (Ham‑

mond c o . ) と L 、う電灯会社がフェランテイの会社を買収してしまったので,

フェランティは自分の特許をこの会社から買い戻すとともに,新たに独力 で自らの会社を創設した。現在まで存続しているフェランティ社 ( S . 'Z .   d e  

( 8 )   F e r r a n t i  a n d  I n c e ,  o p .   c i t . ,  p p .   3 3  ‑ 3 5 .   ( 9 )   R a n d e l l ,  o p .   c i t . ,  p .   2 .  

(

1 の 出資者の一人,フランシス・インス ( F r a n c i s I n c e ) は事務弁護士をしており,また,

その娘 ( G e r t r u d eI n c e ) がのちにフェランティの妻になったことからも窺えるように,後 述のフェランティ社の経営に長くかかわった。

( 1 1 )   R a n d e l l ,  o p .   c i t . ,  p .   3 ;   F e r r a n t i  a n d  I n c e ,  o p .   c i t . ,  p .   5 4 .  

(8)

226 

F e r r a n t   , i L t d . のちに F e r r a n t , i L t d . に名称変更)の誕生である。同社は, 8 0 年代前半は主として電気計器を中心に企業発展するが,その後は,フェラン

ティ自身の構想・設計による発電機,変圧器,開閉器, ヒューズなど発電シ ステム全体にわたる電気機器の生産の比重も高まった。次節以下で述べるよ うに, グロヴナ一発電所やデットフォード発電所を手掛け,重電機企業とし ての道を切り拓こうとしていたのもごの頃であった。

デッ卜フォードで世界最大規模の発電所を建設し,フェランティの名声は アメリカのエジソンにも匹敵するほど高まったが, 1 8 9 1 年に彼がデットフ ォード発電所の顧問技師を辞めたあとは,フェランティ社の企業展開は必ず しも順調ではなかった。しばらくのあいだは,電気計器に専門化して,苦境 をようやく凌ぐと L、う状況であった。しかしながら, 1 8 9 7 年から 1 9 0 0 年にか けて工場と本社をロンドンからランカシャーのホリンウッドに移転したのを 契機に,折りからの重電機ブームをも背景にして,フェランティ社は重電機 企業として再出発した。その後,大きな欠損を出しながらも,管理組織の改 編や戦略の転換を行ってそれを克服し,第 1 次大戦までには,中堅の電機メー

カーとして安定した企業基盤を築いていた。

フェランティが優れた電気技術者があり, しかもその技術を武器にきわめ て若い時から企業を経営していた,いわゆる技術者=企業者 ( e n g i n e e r‑e n ‑ t r e p r e n e u r ) であったことには異論がないであろう。ただし,企業者ないし 経営者としてのフェランティにいかなる評価を与えるかについては,若干の

( 1 2 )   ロンドンのチャーターハウス工場で i 動いていた 3 0 0 人の従業員のほとんどが,その家族

とともにホリンウッドに移転してきた。 C f .E .  G .  D .  L i v e i n g .   The F e r r a n t i ' s  a n d  S e v e n t y  

Y e a r s  0 1  E l e c t r i c a l  D e v e l o p m e n t .   1 8 8 2  ‑1952  (U n p u b l i s h e d  t y p e s c r i p t .   1 9 5 2 ) .   p p .   6 4  ‑6 5 .  

( 1 3 )   この間のいきさつをやや詳しく述べると,フェランティ社は経営規模拡大のため 1 9 0 1

年に株式の公開に踏み切り,資本金 4 0 万ポンド(および社債 1 0 万ポンド)にまで増資し

たが,経営不振から脱しきれず,ついに 1 9 0 4 年には自主的に清算を申し出て,経営権は

債権者の一人パース銀行 ( P a r r ' sBank= のちの W e s t m i n s t e rB a n k ) の手に渡った。パー

ス銀行の主導のもとで,同社は 1 9 0 5 年に資本金 1 3 万ポンドに縮小した新会社として再建

され,経営陣の大幅な刷新が断行された。そして,生産品目を配電盤・変圧器・電気計

器などの少数の種類に限定し,発電機や蒸気機関の扱いは旧製品の維持・修理のみにす

るというような,経営戦略の転換が国られた。その後の経営状態は順調で. 1 9 1 0 年まで

には累積赤字を解消することができ,以後は内部蓄積を進めた。 I b i d . .p p .   7 3 ー 7 8 ; F e r ‑

r a n t i a n d l n c e ,  o p .   c i t . .   p p .   157‑160. 

(9)

ブェランティと近代電力経営の構想 2 2 7   見解の相違が出てくるものと思われる。この点については,別の機会に考察 することにして,以下では,技術者としてのフェランティの業績について簡

単に触れておきたい。

フェヲンティは, 1 8 歳の時に発電機に関する特許を取ったのを初めとして,

きわめて多数の発明を世に問うてきた。そのなかには,改良型限鏡枠および その製造機械,改良型自転車タイヤ,折りたたみ式スポークのついた車輪な ど,思いつきからのも含まれるが,ほとんどの発明ないし特許は一貫して電 気に関するものであった。電気技術史上,フェランティの最大の貢献は,デ ットフォードにおいて実現した大容量集中発電・高圧遠距離送電システムで あり,この技術開発によって電力の生産と消費の立地的諮離を特徴とする近 代電力経営の道を切り拓いた。このシステムの開発過程で,発電機以外にフ ェランティが取得した特許のなかで特に重要なものは,高絶縁の同軸ケーブ ルの発明と各種の電気計器の考案であろう。フェランティがのちに有力な電 線企業 ( B r i t i s hI n s u l a t e d  W i r e  C o . ) の取締役に迎えらるのも絶緑技術の基 本特許を所有していたからである。また,電気計器はフェランティ社の主力 製品のーっとなった。デソトフォード発電所に従事していたあいたも,フェ ランティの関心は l 幅広く,上記のほかに,白熱電球,真空ポンプ,電気炉,

電気軌道,エレベーター, クィック・スイッチ,安全ヒューズ,変換機,整 流器,コンデンサーなどの品質改善や製造方法の改良に取り組んでいた。

なお,蒸気タービンに関するフェランティのかかわり方について簡単に触 れておきたい。蒸気タービンは 1 8 8 0 年代の初め頃からヨーロッパの科学者や 技術者によって開発が進められていたが,ながでもその最先端を切っていた のは,イギリスのノミーソンズ ( C h a r l e sA .   P a r s o n s ) であった。 9 0 年代後半 になると蒸気タービンと発電機を連結させたタービン発電機が開発されるよ

うになり,発電技術の飛躍的な向上につながっていくのであるが,イギリス の発電所はこのタービン発電機の採用に後れをとり,したがって国際的に見て

( 1 4 )   F e r r a n t i  and I n c e ,  O p .   c i t . ,  p .   1 3 7   ( 1 : . )   Randel .   1 o p .   c i t . ,  p .   2 1 .  

( I (

) i

Percy Dunsheath ,  A H i s t o r y  0 1  E l e c t r i c a l  E n g i n e e r i n g ( L o n d o n ,  1 9 6 2   , ) p p .   1 9 6

2 0 0 .

(10)

2 2 8  

発電効率の悪さが指摘されるようになった。その原因のーっとして,パイオ ニアであるパーソンズの存在にもかかわらず,イギリスの電機製造業者の多 くは,このような新しい技術に対して無関心であったということがしばしば 言及され,その典型的な例としてフェランティが引き合いに出されるのであ る。確かに,フェランティは 1 8 9 0 年代を通してタービン発電機には関与せず,

もっぱら低速往復機関直結発電機の大型化に取り組んでいた。この点では,

新時代の技術への対応が後れていたという非難は免れないが,しかし彼が その後もこの新技術に無関心であり続けたというわけではなかった。フェラ ンティは, 1 9 0 2 年から 1 9 1 3 年まで,かなりの精力を蒸気タービンの研究に注 ぎ込んだのである。その研究は,タービンの羽根の電気溶接法の改善や,潜 水艦ないし魚雷用のタービンの開発など多様な側面もみられたが,むしろ,

一定の一次動力からいかに大きな二次動力を導出できるかという,基礎研究 の色彩が強かった。一連の研究の成果として 1 9 1 0 年に彼が試作した蒸気ター

ビンは,当時としては最良のものであった。

第 1 次大戦までの約 1 0 年間は,フェランティの発明の才能が最も多彩に開 花した時であり,また,その名声が最も高まった時で、あった。この時期に,

いくつかの電力供給計画の顧問として活躍しただけでなく,大手の鉄鋼会社 ( V i c k e r s ) や紡績会社(J &  P C o a t s ) の委託研究を引き受けた。 1 9 1 0 年と 1 9 1 1 年には,彼は「電気技師協会 J C I n s t i t u t i o n   o f   E l e c t r i c a l   E n g i n e e r s ) の 会長に選出された。そして 1 9 1 2 年には,マンチェスター大学より,電気エネ ルギーの伝送技術の開発に貢献したことを理由に,理学博士号を授与され た 。

(

1 り さしあたり,拙稿「イギリス電機産業形成期における技術・市場・企業者活動 J

~一橋

論 叢 j77 巻 6 号 , 4 6 頁,参照。

( 1 8 )   R a n d e l l ,  O p .   c i t . ,  p p .   2 2  ‑2 3 .  

( 1 9 )   J o h n  F .   W i l s o n , De F e r r a n t i ,  S e b a s t i a n  Z i a n i ( 1 8 6 4 ‑ 1 9 3 0 )   :  E 1 e c t r i c a l  Equipment  M a n u f a c t u r e r   and  I n v e n t o r " ,  i n   D a v i d   J .   Jeremy  ( e d . ) ,  D i c t i o n a r y   o f  B u s i n e s s   B i o g r a P h y :  A  B i o g r a P h i c a l  D i c t i o n a r y  o f  B u s i n e s s   Le a d e r s  A c t i v e  i n  t h e  P e r i o d  1 8 6 0  ‑1 9 8 6 ,  Vo 1 .   I I   (London ,  1 9 8 4 ) ,  p .   4 5 .  

仰 , ) R o l l o  A p p l e y a r d ,  The H i s t o ηo f t h e  I n s t i t u t i o n  o f  E l e c t r i c a l  E n g i n e e r s ,  1 8 7 1 ‑ 1 9 3 1  ( L o n ‑ don ,  1 9 3 9 ) ,  p .   2 9 4 .  

( 2 1 )   F e r r a n t i  and I n c e ,  o p .   c i t . ,  p p .   1 7 6  ‑ 1 7 8 .  

(11)

フェランティと近代電力経営の構想 2 2 9  

3 .   1 8 8 0 年 代 の 電 気 事 業 と グ ロ ヴ ナ ー ・ ギ ャ ラ リ 一 発 電 所

1 8 8 2 年は,英米両国において白熱電灯用の中央発電所が初めて建設された 画期的な年であった。しかしながら,その後の両国における電力産業の展開 過程はきわめて対照的で、ある。アメリカにおいては,エジソンをはじめトム ソン=ヒューストン,ウェスティングハウスなどの電機製造企業によってプ ロモー卜された電力企業が族生し, 1 8 8 8 年までに建設された中央発電所数は 全国で約 6 0 0 に達した。そして, 9 0 年代初めの照明市場においては,白熱電 灯が既存のガス灯の約半分に達するほど普及し,さらに 9 0 年代末までにはガ ス灯を凌駕していた。これに対して,イギリスにおける電灯事業の進捗状況 は暗潜たるものであった。 1 8 8 8 年における中央発電所数は,きわめて小規模 なものを含めてわずかに 1 2 に過ぎず, したがって, 8 0 年代における白熱電灯 の普及はネグリジフソレなものであった。 9 0 年代にようやく本格的な電力産業 の進展がみられるが,世紀転換期においても,照明市場における白熱電灯の 普及率はガス灯の 10% にも満たなかったのである。

このような,両国における展開過程の著しい差異をもたらしたものは何で あろうか。 L 、し、かえれば,特に 1 8 8 0 年代におけるイギリス電力産業の発達を 阻止した要因は何で、あったのか。この点について簡単に触れておこう。

8 0 年代イギリスの電気事業の発展を困難にした要因として,さしあたり,

次の二点を指摘することができる。第ーは,イギリスにおける都市ガス・シ ステムが高度に発達していたことによって,照明コストの点で白熱電灯が照 明市場に参入するのが容易ではなかったことである。 8 0 年代初期において,

英米両国のガス価格差を見ると,イギリスのガスはアメリカのガスのわずか 3 分の l の価格でしかなかった。アメリカにおいて,エジソンは白熱電灯の 照明コストをガス灯のそれと同じになるまでシステムの改良を重ねたあと,よ

似) 1 .   C .   R .   B y a t t ,  The B r t i s h  E l e c t r i c a l  l n d u s t r y  1 8 7 5  ‑ 1 9 1 4 : ・ TheEconomic R e t u r n s  t o  a  New T e c h n o l o g y ( O x f o r d ,  1 9 7 9 ) ,  p p .   25‑27. 

( 2 3 )   1 9 世紀前半からのイギリスガス産業の発展過程については 次を参照。 Trevor 1 .  

W i 1 l i a m s ,  A H i s t o r y  0 1  t h e  B r i t i s h  Gas l n d u s t η(Oxford ,  1 9 8 1 ) ,   P a r t  1 1 .  

(12)

2 3 0  

うやく商業化に踏み切った。すなわち, 8 0 年代初期のアメリカにおいては,

電灯照明価格は,カ、ス灯照明価格とほぼ同じであったのである。このことと,

屯灯コストが両面においてほとんど差がなかったことを考えあわせると, 8 0   年代初期のイギリスにおいては,白熱電灯はガス灯の約 3 倍も

I

匂価な「賀沢 な光」であったといえよう。

第二の,さらに特殊イギリス的要因として, 1 8 8 2 年に制定された「屯灯事 業法 J ( E l e c t r i c  L i g h t i n g  A c t ) の存在が, 8 0 年代の電気事業の展開にとって 重い桂結になったことをあげなければならないであろう。 1 8 7 0 年代の末葉か らアーク灯による電気照明がイギリスにおいても実用化され,これにともな って,公共的電気供給を目的とする企業が設立されるようになった。しかし ながら,このような新しい業種の企業は,事業内容を議会に対して法案とし て提出し, r 個別法 J ( P r i v a t e   A c t ) の制定をまって始めて事業に着手できる とし、う仕組みになっていた。個別法の取得による事業認可には,繁雑な手続 きと莫大な議会費用を要したので,電灯事業の認可手続きのための一般法の 制定を望む声が強く,議会は 1 8 8 2 年に特別委員会を設置してこのための法案 作成にあたらせた。このようにして成立した 1 8 8 2 年屯灯事業法は,当然なが ら,事業認可のための手続きを簡略にし,費用の削減をもたらした。この点 からすれば,同法は電気事業の促進要因としての役割を果たしたはずである が,実際はむしろ,同法の存在によってイギリス電力産業の本格的な展開が 数年間遅らされることになったのである。

1 8 8 2 年法における最大の問題点は,民間企業による電灯事業に対して,必 要以上に強い規制を盛り込んだことである。具体的には, [ ‑ 2 1 年強制買収条 項」の存在であった。その内容を簡単に記せば,次のようになろう。同法は,

まず,公共的電気供給を目的とする事業者は商務省から事業認可を受けなけ ればならないと規定し,その認可の方式を, r 免許 J ( l i c e n s e ) と「暫定命令」

何) T a k u j i  Sakamoto , Technology and B u s i n e s s  i n  t h e  B r i t i s h  E l e c t r i c a l  I n d u s t r y  1 8 8 0 一 1 9 1 4 "   i n   Akio  Okochi  & Hoshimi  U c h i d a ( e d s . ) ,  D e v e l o p m e n t   and D i f f u s i o n   0 1   T e c h n o l o g y :  E l e c t r i c a l  and C h e m i c a l  I n d u s t r i e s   (Tokyo ,  1 9 8 0 ) ,  p p .   5   ‑ i : 5 6 .  

( 2 5 )   拙 著 『 イ ギ リ ス 電 力 産 業 の 生 成 ‑ 発 展 と 電 気 事 業 法 の 変 遷 j (長崎大学東南アジア研究

叢 吉 第 1 9 巻 , 1 9 8 3 年 ) , 19‑20 : D : 。

(13)

フ ェ ラ ン テ ィ と 近 代 電 力 経 営 の 構 想 2 3 1  

( P r o v i s i o n a l   O r d e r ) の二通り設定した。ここで特に問題になるのは,民間 企業が主として認可を受けた「暫定命令」の方式である。すなわち,企業が

「暫定命令」によって事業認可を受けた場合,電気供給区域の地方自治体は,

事業認可後 21 年を経過した時点で,事業内容を強制的に買収しうる権利を有 する,とし、う条項が付加されていた。さらに,強制買収しうる選択権をその 後 7 年ごとに施行できるものとされていた。しかも,その買収価格は「土地・

建物‑プラント・原材料などの,買収時点での市場価格」によって決められ,

暖簾や将来の期待利潤に対する補償は含まないものとされた。

この「強制買収条項」の基底には,議会を取り巻く既存のガス灯産業の利 害関係や,公益事業に対する公営優先の思想、が読み取れるが,この点につい てはここでは差しおくとして,とりあえず,この条項がイギリスの電力産業 に与えた影響について考察しておく必要があろう。電灯会社が「暫定命令」

の取得によって一定地域において電力経営を開始したと仮定した場合,この 企業は 21 年後には,ほぼスグラップ価格で発送電設備を地方自治体に譲渡し,

その地区における電力経営に終止符を打つことを覚倍しなければならない。

し巾、かえれば,この条項のもとでは,イギリスにおける電力経営は, 2 1 年と いう短 L 、期間のうちに,発電所や送電設備に投入した多額の資金を回収して しまうほどの高い収益をあげてし、く見通しを立てなければならなかった,と いってよいであろう。しかし,電力経営において不当に高い利潤をあげてい くことは,消費者擁護の立場から,別の条項によって規制されていた。 1 8 8 2 年の時点では,中央発電所経営はまったく未知の分野であり,しかも,他の産 業部門に比べてかなり多額の資本を必要としたので このような厳しい制約 条件のもとでは,屯灯企業の資金調達は困難をきわめたといわざるをえない。

仰 免 許 J の取得には,前もって供給区間の地方臼治体の同立を必要としていたこと,

1E 気供給の日的が,何回・公有地・教会・公会堂・ l~iJi斗などの照明のための「公的目的」

のものに限定されて

L、たこと,さらに 'J~ 'iと Jt~r日j が 7 年!日!に制限されていたことなどの珂

由によって, I 暫定命令 J による認可の取件の ) J が‑q;}:的であったと与えられる。 C f .A r ‑ t h u r  P .   P o l e y  and Frank Ddhridge ,  A Handhco   l 2

011 

t h e  E l e c t r i c   L i g h t i

l1

g  Act

, 

i o

9 2( L o n ‑ don ,  1 8 8 2 ) ,  p p .   1  ‑2 ,  1 1 ‑ 1 2 ;  Lawrence Duckworth ,  The C o n s u m e r ' s  H

aI

; d h n o l ?  0 1  t h c   La w  R e l a t i n g  t o  Ga s ,  l V a t e r ,  and E l e c t r i c  Lighting(London ,  1 9 0 0 ) ,  p p .   87‑88. 

(2ì) 市îtfJt[H~'; ,

22‑2311 。

( 2 時 P o l e yand D e t h r i d g e ,  o p .   c i t . .   p p .   58‑59. 

(14)

2 3 2  

事実,電灯事業法が施行された 1 8 8 2 年中に「暫定命令」の申請が 2 0 0 件ほど なされ,そのうち 6 9 件が商務省によって認可されたが,実際に事業着手され たものはほとんど皆無であった。同年中に設立された電灯電業の授権資本の 総額は,第一次大戦前では空前絶後の1. 2 0 0 万ポンド以上にのぼるが,大部 分の企業は資金の調達をできないまま清算されてしまったので、ある。かくし て , 1 8 8 2 年法のもとで,イギリスの電気事業は出発早々から足踏みを強いら れた状態であった。この状況を打開したのが, 1 8 8 8 年の電灯事業法改正であ る 。 1 8 8 8 年法では, r 強制買収条項」の期限が 2 1 年から 4 2 年に引き延ばされ,

その後の買収選択権も 1 0 年ごとになった。この法改正後,イギリスではよう やくロンドンを中心に,本格的な電力産業の展開が開始されるのである。

1 8 8 0 年代のイギリス電気事業が逼塞した状態を強いられたのは,ガス産業 との不利なコスト競争も一因ではあるが,上述したように, 1 8 8 2 年電灯事業 法の制定という法制的側面の方が,より重要な要因として考えられるべきで あろう。それで、は,この法律のもとでは,まったく中央発電所経営は不可能 であったといえるであろうか。実は,きわめて限られた条件のもとではある が,技術的に同法に抵触しないで,中央発電所を経営すると L 、う例外的な方 法があった。この方法によって,イギリスの電力産業のノミイオニア的存在と なったのが, グロヴナー・ギャラリー発電所である。

1 8 8 2 年法が対象としたのは,送配電用の電線を一般公道に埋設する電灯事 業に限られていた。したがって,自家発電方式による電気照明が同法の対象 から除外されていたのはいうに及ばない。それだけでなく,公道を利用しな いで,地下・地上を問わず 隣接した私有地の利用によって中央発電所方式の 電気供給をする場合も,この法律の対象外となった。当時,このような方法

仰 , ) Em i 1 e  Garcke ,  Manual 0 1  E l e c t r i c a l  U n d e r t a k i n g s  and D i r e c t o r y  0 1   Q 庁 i c i a l s , Vo 1 .   1  (London ,  1 8 9 6 ) ,  p .   9 .  

( 3 0 )   前掲拙著, 2 7  ‑28 頁 。

1 ) ロンドンにおける電力産業の成立過程については,さしあたり,次を参照。拙稿「ロ ンドンにおける電灯事業の成立 J

IJ

創立 7 0 周年記念論文集 J (長崎大学経済学部, 1 9 7 5 年 ) , 321‑342 頁 。

例 R e p o r t 介' o mt h e  S e l e c t  C o m m i t t e e  o n  E l e c t r i c  L な h t i n gB i l l ( B .   P .   P . ,  1 8 8 2 ,  Vo 1 .   1 0 ) , 

p a r a s .   21‑22. 

(15)

フェランティと近代電力経営の構想 2 3 3   による電灯事業は「抜け道システム J Cmarauding  s y s t e m ) と呼ばれたが,

グロヴナー・ギャラリー発電所はまさにこの「抜け道システム」によって運 転開始されたのである。

グロヴナー・ギャラリ一発電所は, リンゼイ C S i rC o u r t s  L i n d s a y ) という 人物が, 1 8 8 3 年にロンドンのニュー・ボンド街にある自分の画廊に電灯照明 を導入したのを,そもそもの発端とした。最初は,セミ・ポータブルの蒸気 機関 2 台でシーメンス製単相交流発電機 2 基を駆動し, 2 , 000V の電流にアー ク灯を直列接続して,自家用に利用するというだけのものであった。しかし まもなく近所の商庖経営者や居住者からの要望を受けて,これらの家屋に電 気 供 給 を 開 始 し た 。 こ の 時 の 方 法 は , 各 需 要 家 宅 に ゴ ラ ー ル = ギ ブ ス C G a u l a r d  and G i b b s ) 変圧器(当時は 2 次発電機と呼ばれていた)を設置し それぞれの変圧器を直列に接続して高圧電流を送るというもので,電線は各 家屋の屋根の上の柱から柱へと高架式に張りめぐらされた。外部からの需要 の高まりに対して, リンゼイは本格的な発電所経営を決意し, 1 8 8 4 年の 1 2 月 に,かなり大規模な発電設備の建設に着工した。その概要は,まず,画廊の 下に縦 6 5 フィート,横 5 1 フィートの地下室を造ってこれを機械室とし,さら に隣接した新しい建物の地下室にボイラーを設置して,この二つの地下室の あいだに約 5 0 フィー卜のトンネルを堀って蒸気パイプを通した。ボイラ一室 の上には事務所と庖舗があり,屋上には 3 日分の給水ができるタンクが置か れていた。そして,二つの地下室を結ぶトンネルは排気ダクトの役割も果た し,その途中に高さ 1 1 0 フィートの煙突が建てられ,強制換気装置によって,

燃焼ガスや蒸気の排出がスムーズにできるようになっていた。そして,機械 室では,シーメンス社の単相交流発電機(同社製では当時最大) 2 基が,マー シャル (Marsha 1l)社の蒸気機関 3 基によって駆動されるようになっていた。

もちろん,負荷の大きさに応じて稼働台数の切り替えができた。需要家への 電気供給は,以前と同じように各戸に変圧器を配置し,高架線によって配電 するというものであった。

3 ) H. R .   Meyer ,  M u n i c i ) α 1O w n e r s h i p  i n   G r e a t  B r i t a i n   (London ,  1 9 0 6 ) ,  p p .   1 9 6  ‑197. 

( 3 4 )   P a r s o n s ,  o p .   c i t . ,  p p .  2 1  ‑2 2 .  

(16)

2 3 4  

この新しい発電所は, 1 8 8 5 年の暮れに運転開始されたが,実際には機械的 トラブルが多く,すぐに稼働不能に陥った。ここで登場するのが,まだ 2 1 歳 だったフェランティである。彼は,当時,シティのアボルド街にある工場で 自ら設計した交流発電機の製作にあたっていたが, リンゼイ社 ( S i r C o u t t s   L i n d s a y   &  C o . ,  L t d .   )からの要請で,翌年の初めからグロヴナーー・ギャラ

リー発電所の技術責任者として仕事に就いた。フェランティは着任早々,シ ステム全体にわたる抜本的な技術改善に取り組んだ。まず,ゴラール=ギブ ス変圧器は送電線に対して直列接続であったが,これを並列接続に変換した のを手始めに,新しい配電盤の設計・製作や,電気計器の導入などをしなが ら,高架式の送配電システムに全面的な技術改良を加えた。たとえば,サス ベンダー・ワイヤーから電線ケーブルを吊るす紐を皮紐に替えたり,絶縁オ イルを全面的に採用して安全性を高めた。さらに,約 1 年後には,シーメン ス交流発電機に代えて,自ら設計・製作した大型交流発電機を設置した。か くして, 1 8 8 7 年初めまでに,グロヴナー・ギャラリ一発電所は電圧 2 , 400V ,  出力約 700kW のフェランティ交流発電機 2 基によって, 1 0 燭光白熱電球に

して 3 5 , 0 0 0 灯の照明が可能な発電容量を擁していた。経営もほぼ順調に発展 し,その配電範囲も,南北がテムズ河からリージェント・パークまで,東西 が王立裁判所からナイツブリッジにまで広がった。

( :

l 5 )   F e r r a n t i  a n d  I n c e ,  o p .   c i t . ,  p .   5 4 .  

制 フ ェ ラ ン テ ィ は , ゴ ラ ー ル ニ ギ ブ ス 変 圧 器 を 直 列 型 か ら 並 列 型 に 改 造 し て , 実 用 に 耐 え う る 変 圧 シ ス テ ム を 開 発 し た が , 特 許 所 有 者 の ゴ ラ ー ル と ギ ブ ス か ら , 基 本 特 許 の 侵 害であるとして, リンゼイ社を相手に訴訟がなされた。これに対してフェランティは,

イ ン ス の 協 力 を え て , コ ラ ー ル と ギ ブ ス の 変 圧 シ ス テ ム は 非 実 用 的 な も の で あ り , こ の 特 許 の 存 在 は か え っ て 電 気 技 術 の 進 歩 の 妨 げ に な る と し て 、 裁 判 に お L 、てコ

A

ラール=ギ ブス特許の取りが i しのけ

1

し立てをおこなった。 1 8 8 8 年 7 月 の 最 終 的 判 決 は , フ ェ ラ ン テ ィの中し立てを全面的に取り t げ,ゴラール=ギブス特許の廃止を告げるものとなった。

この判決が, リ ン ゼ イ 社 の み な ら ず , 電 気 業 界 に 与 え た 影 響 は 非 常 に 大 き い も の で あ っ て , 少 な く と も , ブ ェ ラ ン テ ィ は , そ の 後 特 許 権 侵 害 や ロ イ ヤ ル テ ィ の 心 配 を す る こ と なく,交流技術の開発に打ち込むことができた。 C f . G a u l a r da n d  G i b b s  v .   F e r r a n t i ' ¥   E l e c t r i c i a n ,  J u l y   1 3 ,  1 8 8 8 ,  p p .  308‑309. 

( 3 7 )   P a r s o n s ,  O p .   c i t . ,  p p .   2 3 ‑ 2 4 .  

(17)

フェランティと近代電力経営の構想 2 3 5  

4 . ロ ン ド ン 電 気 供 給 会 社 と デ ッ ト フ ォ ー ド 計 画

リンゼイ社は,フェランティを主任技師として迎え入れてからわずか 1 年 のあいだに,さまざまな技術的難題を克服して, ロンドンの中心部において 電灯照明のための中央発電所を稼働させ,電力経営のパイオニアとして成功 をおさめていた。この成功がひとえに,電気技師としてのフェランティの群 を抜いた才能に依存していたことは,いうをまたないであろう。そじて,こ の成功に刺激されて, ロンドン電気供給会社 C L o n d o nE l e c t r i c  S u p p l y  C o r ‑ p o r a t i o n ,  L t d . ) が , 1 8 8 7 年 8 月に授権資本額 1 0 0 万ポンドで設立された。

同社の目的は, リンゼイ社からグロヴナー・ギャラリー発電所をテイク・

オーパーして,ロンドン市内のより広い区域に電灯照明を供給することであ った。また,同社は最初から公開株式会社として発足したが,実際には,応 募者はわず か 2 8 名で,引受総額は 5 3 5 , 0 0 0 ポンドであった。しかも,そのう ち,ウォンティジ卿 C L o r d W a n t a g e ) が 2 2 0 , 0 0 0 ポンド, リンゼイが 4 8 , 8 8 5

ポンドを占めるというように,実質的には私会社的な財務内容であったとい ってもよいであろう。これを別の見方から L 火、かえるならば,フェランティ の技術的才能に賭して,未知の領域に近かった電力経営に多額の資金を投ず る資産家が出現した,ともいえるであろう。

ところで,フェランティ自身は, グロヴナー・ギャラリー発電所を手掛け ている頃すでに,電力経営に関して独自の確固とした構想を胸に抱いていた。

この構想は,フェランティ社の名義による「高圧・低圧両システムの組合わ せによる経済的電灯照明に関する覚書」において,きわめて明確に打ち出さ れている。それは,電力業の現状を批判しつつ}具体的に開発可能な技術シ ステムを提示することによって,将来の電力経営のありうべき姿を描き出し ているものであった。以下,この「覚書」の要点を示しながら,電力経営

(

3 句 E l c c t r i c i a n , September 9 ,  1 8 8 7 ,  p . 3 8 6 .   例 E l c c t r i c i a n , November 9 ,  1 8 8 8  p .  2 0  

例 S .Z .   d e  F e r r a n t   , i L i m i t e d ,  N o t e s  o n  t h e  E c o n o m y  S e c u r e d  i n  E l e c t r i c  L i g h t i n g  b y  t h e  C o m ‑

b i n a t i o n  o f t l z e   l I i g h  a n d  Low T c n s i o l l  S y s t e m s   ( u n d a t e d ) ,  F e r r a n t i  A r c h i v e s  F i l e ,  B 2 3 1 7 . 1 .  

(18)

2 3 6  

に関するフェランティの構想、がどのようなものであったかを,把握しておこ う 。

フェランティは,まず,当時の電力の供給方式がきわめて非経済的であり,

この点の是正には,ガス事業や水道事業における供給方式の歴史的な展開過 程を参考にすべきである,と指摘している。すなわち,特にガス事業を例に とると,初期のうちは,短い距離をおいてガス工場が点在し,それぞれのガ ス工場から少数の顧客に配管してガスを供給するというものであったが,需 要の増大と経営の拡大とともに,これらの小さな工場の数は際限もなく増加 する傾向を辿り,きわめて非効率・非経済的なものとなった。この状況を打 破するために,生産の集中化が図られ,その結果,大地区ごとにガス工場の 数は 3ないし 4までに減少した。しかしこれでもまだ生産拠点が分散しす ぎ て い る と の 判 断 か ら , た と え ば , サ ウ ス ・ メ ト ロ ポ リ タ ン ・ ガ ス 会 社

( S o u t h  M e t r o p o l i t a n  G a s  C o . ) は,郊外のベクトンに大工場を建設し,こ の一つの工場だけでそれまでの供給区域全体をまかなえるように,究極的な 生産集中化を図った。水道事業においてもほぼ同じような経緯が見られた。

ガス事業および、水道事業とも,最終的には,土地が安くて公害を最小限に食 L  、止められる場所に生産の拠点を集中させる,というのが歴史的帰結であっ 7 こ 。

フェランティは,電力事業もガスや水道と同じように,生産拠点を郊外に

移し,集中生産システムを採用すべきであると提唱した。しかし電力事業

には独自の技術的難問が存在した。それは,送配電時におけるエネルギー損

の問題である。当時の一般的なシステムでは,たとえば, 1 0 0 ' " ' ‑ ' 5 0 0 V で発電

し 1 0 0 ' " ' ‑ ' 2 0 0  V で送配電すると L 、う低圧システムでは,送配電幹線における電

圧の急激な低下が生じるという理由によって,一つの発電所からの電灯取付

数が制限されざるをえず, したがって,規模の経済が充分に生かされるほど

の大規模な発電所は建設することができなかった。特に問題になるのは,低

圧送電において定常電圧を維持しようとした場合,送配電幹線用の銅の量が

かなり多く必要とされたことであった。かくして,低圧システムでは,発電

所は電灯供給地区の中心地に立地し,せいぜ、い,直径半マイルの区域に送配

(19)

フ ェ ラ ン テ ィ と 近 代 電 力 経 営 の 構 想 2 3 7  

電するのが,一般的な形態であった。このように 低圧発送電システムを採 る限り,主として送配電時におけるエネルギー損,あるいはコストの制約か ら,電力事業がガス事業や水道事業のように大規模集中生産・遠距離供給シ ステムに移行するということは,きわめて困難であったのである。

市街の中心地に発電所が立地することについて,フェランティは次の 3点 をあげて批判している。( 1  )石炭の輸送が困難である。たとえば,電灯取 付数 2 , 0 0 0 灯ほどの規模の発電所であれば,年間約 3 , 0 0 0 トンの石炭を消費す るので,その運搬には多大のコストを必要とするだけでなく,石炭運搬馬車 の頻繁な通行が近隣に迷惑を及ぼし、通行禁止の措置を受けることもある。

(  2  )ボイラー用に必要な大量の水の問題がある。水の供給も,市街では割 高になることはし、うまでもない。( 3  )大型機械の運転は,必然、的に振動を 引き起こし,近所とのトラブルの原因になり易い。また,石炭の燃焼にとも なう大量の燃え殻・煤煙などが発生し,公害の原因となる。

フェランティは,さまざまな欠陥を持つ従来の低圧電力システムに替わる ものとして,次のような画期的なシステムを提示した。都市の郊外に一つの 大規模な発電所を建設し,そこで,たとえば, 1 0 , 000V と L 、ぅ高圧で発電し,

その高圧のままで電力需要区域まで送電する。需要地においては,変電所や 変圧器を経由して,最終的にはたとえば 100V という消費電圧にまで下げて 配電する。フェランティは,これを「高・低圧システム」と呼んだ。このよ うなシステムが実現されれば,上述の低圧システムにおける難点が解決され るだけでなく,広範囲のさまざまな顧客に供給することによって負荷率を高 めることができ,したがって,効率のよい電力経営が期待できるはずである。

( 4 1 )   エ ジ ソ ン が か つ て 中 央 発 電 所 シ ス テ ム を 開 発 し た と き , や は り ニ ュ ー ヨ ク の 都 市 ガ ス

・ シ ス テ ム を 模 倣 し た と い う 事 実 は , フ ェ ラ ン テ ィ と ロ ン ド ン 都 市 ガ ス ・ シ ス テ ム と の 関係に酷似していて,きわめて興味深し、。しかしながら,電力システムに関するエジソ ン の 構 想 と フ ェ ラ ン テ ィ の 構 想 と の 差 異 に , 注 目 す る 必 要 が あ ろ う 。 低 圧 シ ス テ ム を 代 表 す る も の が エ ジ ソ ン ・ シ ス テ ム で あ っ て , フ ェ ラ ン テ ィ は ま さ に こ れ を 乗 り 越 え る た め の 着 想 を , ガ ス 事 業 か ら 得 た の で あ る 。 こ れ は , ア メ リ カ と い ギ リ ス 両 国 に お け る ガ ス 産 業 の 発 達 段 階 の 差 異 を そ の ま ま 反 映 し て い る も の と み な し て よ い で あ ろ う 。 エ ジ ソ ん・システムの構想とガス産業との関連については,次を参照。 P a s s e r . o t .   c i t . .   p p .   1 8 3  

‑ 1 8 5 ; 大河内暁男『経営構想力一一企業者活動の史的研究一一.n(東京大学出版. 1 9 7 9 年).

63‑65 頁 。

(20)

2 3 8  

ブェランティが描いた「高・低圧システム」は,屯力の消費区域のそとに 電力の集中生産の拠点をおくと L 、う、まさに近代電力経営の構想であった。

しかしながら,この構想、の実現のためには,大型発電機,高絶縁ケ一フ 高度な変電技術といつた前人未到の技術開発が不可欠でで、あり, この技術上の 裏付けなくしてはこの構想も単なる理念倒れに終ってしまうであろう。いう までもなく, フェランティはこれらの難題に対する解答をすで に用意しつつ あった。グロヴナー・ギャラリ一発電所で立証されたフェランティの技術開 発能力に存在して,この近代電力経営の構想を実現すべく設立されたのが,

ロンドン電気供給会社であった。そして世界で最初の近代電力経営の具体的 な構想が,デットフォード計画であったのである。

デットフォード計画の概要は,以下のようなものであった。ロンドンの中 心地からテムズ河に沿って 3 0 マイルほど下流のデットフォードに大型機関

(  1 基 1 0 , 0 0 0 馬力)に連結した大容量の交流発電機(電圧 1 0 , 000V) を数基 擁する大規模集中発電所を建設し,最終的には発電所全体で 1 2 0 , 0 0 0 馬力の 大容量にまで拡張する。デットフォード発電所からグロヴナー・ギャラリー 発電所までは 1 0 , 000V の高圧で送電し,グロヴナー・ギャラリ一発電所で

2 , 400V にまで電気を下げ,さらに各需要家の変圧器で 100V の消費電圧にま で下げる,というシステムである。このデットフォード発電所だけで, 2 0 0  

万灯の電灯照明を供給しようとする遠大な計画であった。

発電機の容量,送電電圧の高さのいずれをとっても,当時の水準を文字通 り桁違いに超越したこの計画は,ほとんどすべてフェランティの設計による もので,建設にあたっても彼が指揮をとった。ロンドン電気供給会社は,デ ットフォード発電所の完成を 1 8 8 8 年末までと見込んでいたが,実際には 2 年 近く遅れた。しかし当初の計画に若干の変更が加えられたものの,ブェラ

ンティと L 、う天才的電気技師によって, 1 8 9 0 年に,近代的電力業の陪矢とも いうべき,当時世界最大規模の発電所が完成されたので、ある。発電所には,

4 基の 1 0 , 0 0 0 馬力の機関にそれぞれ直結された 1 0 , OOOV フェランティ交流発

仰) F e r r a n t i  and I n c e .   o p .   c i t .  .  p .   5 7  

(21)

ブェランティと近代電力経営の構想、 2 3 9   屯機が 4 基設置され,そのほかにし 2 5 0 馬力機関 2 基に連結された 5 , 000V フ

ェランティ機 2 基があった。

大容量発電機の開発もさることながら,さらに大きな技術的難関として,

高圧による長距離送電の問題があった。特にロンド ンまでの 1 0 , 000V 送電幹 線は,当時の常識をはるかに越えた高圧・遠距離であって,それには高度の 絶縁技術と変圧技術の開発が要求された。まず,送電ケープールに関して, フ

ェランティは画期的な絶縁技術を考案した。それは,高圧用の同軸ケ一フ の ! 開 ; 沼 目 発 で で 、 あ る 。 1 本のケーブルのなかに 2 本の導線を通しそのあいだを絶縁 するというもので,この導線はそれぞれ銅管の形状をとり,同じ断面積で一 方が他方の内側に内包されていた。しかもこのケーブルは, ドラムに巻きつ けることができるように,柔軟性を持つよう工夫してあったので,長距離の 敷設が容易であった。 2 本の導線のあいだの絶縁物質としては,蝋を浸みこ ませた厚さ半インチほどの紙が用いられた。変圧技術に関しては,すでに 1 8 8 9 年に,グロヴナー・ギャラリ一発電所から 2 , 400V で送電し,端末の変 圧器で消費電庄の 100V に 落 と し そ れ を こ ん ど は 変 圧 器 で 2 , 400V にまで上 げてグロヴナー・ギャラリ一発電所まで送電し,そこで 5 , 000V に加圧して デットフォードまで送り,さらにまた,逆の

IJ

目で 5 , 000V → 2 , 400V → 100V と変圧・送電する,と L 、う実験をおこなった。その結果,変圧器の利用によ る電気損は見られず,たとえ 1 0 , 000V 送電からの変圧であっても,何ら問題 ないことが立証された。

しかしながら,デットフォード発電所からの送電には,別の問題が存在し た。ロンドンまでの 3 0 マイル余りの区間, どのようなルートでケーフ守ルの敷 設をするかとし、う問題である。この時期はすでに 1 8 8 8 年の屯灯事業法改正後 であり,ロンドン電気供給会社も「暫定命令」の申請によって, ロンドン市

( 1 3 )   P a r s o n s .   o p .   c i t . .   p .   2 9 .  

川) 当時の送電技術の水準では,せいぜレ 2.500Vf 立が限度であった。 Cf, F e r r a n t i  and I n ‑ c e .   o p .   c i t . .   p . 5 8  

( 4 5 )   ブェランティが取得したノミテントのなかでも,同:同ケープルはかなり向く位置づけら れるものである。その出造の詳細については,次を参照。 E l e c t r i c a lE n g i n e e r .   O c t o b e r  2 6 ,  1 8 8 8 .   p p .   3 5 ( ) ‑ 3 5 1 ;  Dunsheath.  o p .   c i t . .   p p .   1 6 4  ‑ 1 6 5 .  

(46) 

E l e c t r i c i a n .   October 1 1 .   1 8 8 9 .   p .   5 8 6 .  

(22)

2 4 0  

内の事業認可を受けていた。したがって,電気供給区域内の送配電線の敷設 に関しては,特に大きな問題は生じなかったのであるが,デットフォードか らロンドンまでのあいだ,もし公道にケーブル埋設しようとすると,その間 に存在する非常に多くの地方自治体から許可を取りつける必要があった。こ れはきわめて困難であり,また時間を要することであった。デットフォード 計画においては,もちろん当初から,この点についての対策が講じられてい た。それは,送電ケーブルの埋設場所として,公道ではなく,鉄道会社所有 の線路沿いの敷地を利用することであった。すで に 1 8 8 8 年中に,デットフォー ドからロンドンまでの区間では,チェザム・アンド・ドーパー (Chatham and D o v e r ) ,ブライトン・アンド・サウス・コースト ( B r i g h t o nand S o u t h   C o a s t )   ,サウス・イースタン ( S o u t hE a s t e r n ) の各鉄道会社と,そしてロン

ドン市内では, メトロポリタン・アンド・ディストリクト( M e t r o p o l i t a n   and D i s t r i c t ) 会社と,それぞれ路線利用の協定を締結していた。

さて,世界の電気技術者が注目するなかで,デットフォード発電所は,

1 8 9 0 年 1 0 月に稼働を開始し,約 3 0 マイル離れたロンドンへの電力供給が実現 した。以下では,この世界最大の発電システムが実際にどのように運営され ていったか,そして,ロンドン電気供給会社の経営内容はし、かなる進展を辿 ったか,について触れておこう。

デットフォード発電所は,その運転開始早々から,いわば不運としかし、い ようのない事故に遭遇した。同発電所の稼働開始の約 1 ヶ月後,すでに変電 所になっていたグロヴナー・ギャラリー発電所において,不用になった発電 機の搬出作業中,一人の作業員が変圧器のスイッチの単純な操作ミスで,

5 , 000V の電流をショートさせ,それが原因で火災が発生してしまった。 1 1 日後,新しい変圧器や修理された変圧器が運び込まれ,運転が再開されたが,

今度は,修理された方の変圧器が不調のため,他の変圧器に負荷を移したと

7 ) E l e c t r i c i a n .   O c t o b e r  2 6 .   1 8 8 8 .   p .   7 8 7 .  

( 倒 アメリカにおいても,フェランティによる類のない集中発電および高圧送電システム に対して強い関心がょせられ,デットフォードの運転開始が早く実現されるよう望む声 が高かった。 C f .E l e c t r i c i a n .   F e b r u a r y  7 .   1 8 9 0 .   p p .  352‑353. 

例 E l e c t r i c i a n , O c t o b e r . 2 4 ,  1 8 9 0 ,  p .   6 9 9 .  

(23)

フ ェ ラ

γ

ティと近代電力経営の構想 2 4 1  

ころ,これが過大負荷になって火をふきだし,全体に燃え広がってしまった。

まったくの不注意による最初の事故を契機として,結局,デットフォード発 電所はその後約 3 ヶ月間,運転を停止せざるをえないという,不測の事態に 陥ってしまったのである。

この事故は, ロンドン電気供給会社のその後の経営展開にとって,いくつ かの不利な条件を形成する要因になったといえよう。まず第一に,当時の常 識を超えた大規模発電と高圧遠距離送電は,やはりこの時期の技術水準では 無理であり,同時に危険であると L 、う見方が一般化したことである。これは,

ロンドン電気供給会社にとってだけでなく,電力産業全体にとっても,不幸 な条件となったといえるであろう。第二に, ロンドン電気供給会社はこの 3

ヶ月のブランクのあいだに顧客を失ってしまい,他の電力会社との競合で後 塵を拝することになった。この点については,若干の考察をしておく必要が あると思われる。

1 8 8 8 年の電灯事業法改正後, ロンドンにおいては 1 0 社ほどの電灯会社が事 業認可の申請を出した。翌年 4 月に,商務省はこれらの申請に対して調査お よび行政指導をおこなった。これが,マリンディン調査報告 ( R e p o r t.  by  Major M a r i n d i n ) と呼ばれているもので,ロンドンにおけるその後の電力事 業は,ほぼこの報告を基調に展開することになった。マリンディン報告の結 論は 7 項目にわたって提示されているが,ここでの関連でさしあたり重要な のは, I 競争」に関する規定である。当時は,直流システムと交流システム が技術的に競合していた時代であった。これを反映して,同報告では次のよ うなことを奨励した。一定区域の電力経営は地域独占をするよりは,むしろ 2 社ほどで競合したほうが望まし¥.、。しかも,できれば,直流企業と交流企 業との競合が望ましい。この報告は,公益事業のいわゆる自然独占の理論を 内包しつつも,直流システムと交流システムとではどちらが優れた技術で あ

何 , ) P a r s o n s ,  o p .   c i t . ,  p p .   2 6 ‑ 2 7 .  

( 5 1 )   正式には次のような名称である。 R e p o r t b y  Major Marindin o n  t h e  V a r i o u s  A p p l i c a t i o n s   f o r  P r o v i s i o n a l   Or d e r s  and L i c e n c e s  u n d e r  t h e  E l e c t r i c   L i g h t i n g  A c t s  i n   R e s p e c t s  o f  t h e  

M e t r o p o l i s ( B .   P .  P , .   1 8 8 9 ,  Vo 1 .   7 0 ) .  

何) 詳しくは,前掲拙著, 40‑42 頁を参照。

参照

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