奈良教育大学学術リポジトリNEAR
学校慣習法分析の基礎理論〔一〕 ―法社会学的方 法論序説―
著者 高野 桂一
雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学
巻 14
ページ 171‑192
発行年 1966‑02‑28
その他のタイトル THE FUNDAMEMTAL THEORY FOR ANALYSIS OF THE SCHOOL CUSTOMARY LAW ― AN INTRODUCTION TO THE THEORY BASED ON THE SOCIOLOGY OF LAW [I]
URL http://hdl.handle.net/10105/3381
一 法社会学的方法論序説 −
高 野 桂
(教育学教室)
序一学校経営体の相対的独自性と学校慣習法との関係一
学校経営体が、教育の非権力的社会作用性あるいはその公企業体的性格にもとづいて、教育行
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政管理体から相対的に独立したものであるという認識は、後に解明するように(第二葦)、今日 ようやく熟しつつあるといっていいであろう。学校経営体は、みずから相対的に独自の学校内部 経営管理上の秩序や規律を生み出す能力をもっているのである。このことは、必然的に学校経営 管理上の内部法(内在管理のための慣習法)の要求を生起せしめることになる。
戦後教育体制における学校の民主的解放は、一面において、学校の集団的行動規制を学校内部 の規律や規程の設定という方式をとって行なうことを嫌意する傾向をはらんでいた。しかし、お よそ社会や集団のあるところ秩序や規律を必要としないところはない。学校においても、それを 規律対象とする諸々の教育行政法・教育法の制定法体系が存在するとはいえ、その抽象性や一般 性のゆえに、なお一そう学校を生きた経営体となしうるための内部規範の必要なことはいうまで もない。ここにおいて、学校はそれら教育諸法律の枠組を誘因としながらも、さらに個々の固有 の経営行動規範を頗在化させ、明確化させる必要がある。
しかし、このことは、学校経営体の内部的固有の経営行為や教育行為の諸法則を必ずしもすべ てにわたって法規範的感覚や手法で律し、成文化することを意味するものではない。それがどの ような角度から、どのような範囲や深さにおいて規範化されたらいいかは、一にかかって今後の 教育の法科学的検討に期待されなければならないことなのである。
本論の分析の第一の志向は、かっての絶対主義的教育体制下の制定法偏重主義や要しき統制主 義といわれるものから、法を真に学校教育の受益者としての国民の、あるいはその実践者教師集 団や学習者児童生徒の自律的手段としたいという問題意識にある。しかし、また第二に、戦後に おいて、それら戦前・戦時の惑しき統制主義への反動から、最少必要としての法規範的要請まで
も捨て去ろうとする姿勢に対しての警鐘という意味をもつことにある。
ここでは、「上から」与えられるものとしての法的過程から、教職員・児童生徒の内在的自律的 法創造としての法形成あるいは法実践過程への志向・転換を、法的社会現象としてとらえようと する。教育制定(行政)法の一般的要求を個性的に屈折させるべき役割をもつ学校経営体におい ては、教師集団の自主・自律性が、おのづから学校内部の自律規範の形成過程をたどることがす
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ぢ道とされなくてはならない。このことは、教育が他の社会機能に比して、より事実作用的に進
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められることが多く、法律作用的韻城がせまいとされることとも関係する。個性的創造的な活動 の展開を必要とする学校教育の経営においては、他律的で強制性の強い制定法的統制の領域のみ
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では解決できないところの、自律法的創造過程の幅広い余地が残されていなければならないであ ろう。
学校慣習法分析の基礎理論〔一〕 (高野)
このようにして、われわれは、おのづからこれまでに学校内部に生きた姿で生成し、存続し、
消滅したであろう「学校慣習法」というべきものについての分析に向かわざるをえない。少なく とも学校慣習法は、制定法体系としての教育法の、あるいは教育法に対する学校経営体の反射鏡 と考えることができよう。また、学校慣習法(内部法)は、学校の教育制定法に対する観念や身 がまえ(認識・態度)と、その法実践行動との媒介物であり、中間項とも考えられよう。学校集 団の制定法実践行動が、そこに形式的服従と実質的服従の奉離を生み出すときは、また学校慣習
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法がより化石化し、その媒介的役割を弱化させたときであろう。
学校慣習法は、その基本的性格において学校内部の自律法・自治法であるべきものであり、学 校経営の現実において作用すべきものと考えられる。しかし、ここで一口に教育慣習法の一環と しての学校慣習法といっても、それが、①いかなる意味において存在し、①いかなる機能・効用
・役割をもち、⑨いかなる学問的方法論に基礎づけられるべきかの分析は、そう簡単なものでは ない。本稿は、そのような諸問題に対する何ほどかの基本的取り組みを目ざして編まれたもので ある。
なお、本稿の構成は、第一葦学校慣習法の法社会学的分析方法 〔一.学校慣習法の教育法体 系における地位−その地位と役割一、二.学校慣習法の法社会学的分析の課題と方法一本研究方 法論の摘出過程〕、第二章学校慣習法の経営学的・行政学的基礎一法社会学的アプローチの支持 としてみたる学校経営体の相対的独自性(自律性)の分析−となっているが、今回は紙数の都合 により第一葦の一学校慣習法の教育法体系における地位にのみふれるにとどめたい。
第一章 学校慣習法の法社会学的分析方法
−.学校慣習法の教育法体系における地位一その地位と役割一
〔一〕 学校慣習法の教育法源上の地位
学校慣習法(Schulgewohnheitsrecht)が教育法とくに学校の教育法上の法源として重要である ことはいうまでもないが、兼子仁氏によれば、それは次のような理由にもとづくとされている。
①教育社会は独自の法規範を形成するほどの自律性を有すること、⑧現行法制においては、教育 に対する立法的規律には限界があり、したがって教育事項については立法権の他律的な規律によ
るよりも教育社会の新しい自律的な規範形成にまつほうが妥当な場合が少なくないこと、⑧戦後 の教育改革以降しだいに法制が整備されてきたとはいえ、いまだ成文法の存在しない領域が存す ること、④教育および教育行政が・‥非権力的作用になったとすれば、成文法の根拠がなければ制 度の運営ができないというわけではないこと(l)。
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すなわち、ここでは人間形成における教育作用の自律性、そこにおける教育上の規範の固有性、
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非権力的な事実作用性などの教育の特殊性が、学校慣習法の法源的役割を生み出しているという のである。また、その特殊性からくる法律的整備の困難性の補充を学校慣習法がうけもつもので あることを明らかにしている。人間の内面的精神性や価値や質の問題にかかわることの多い教育 作用においては、制定法以前に広義の法規範過程をより多くもつであろうことが考えられる。
田中耕太郎氏も、一般的に「不文律の発生する可能性の大きい」教育あるいは学校経営上の法 現象としての、学校自治的慣習法にふれて、次のようにいう。「教育の分野においても慣習法が 法源的意義を有することは他の分野におけると異なることはないのであるが、しかし教育自体は 文化的活動として法の外にあり、むしろ道徳や教育学的技術によって支酉己せられるから、慣習法
の存在の余地は教育制度ことに教育行政の面に限局きれるのである。一般的にいえば、前述した 諸教育社会内において不文律が発生する可能性が大きいのである。例えば、成文の規定はなくと も、大学学長の推せん方法、教授会の権限のごとき、各大学の内部において永年慣行とされてき たところのものは自然的慣習法の性質を有するのである。」(2)
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しかし、ここで田中氏のように、慣習法の存在領域を教育制度および教育行政の面に限局する という考え方には、疑問がないわけではなく、この点については後述する。
また、兼子氏によれば、「具体的に慣習法の成立が指摘されるのは、学校の内在的管理・内部 親織(Schulleitung,Schulverfassung)およびそれと管理機関の学校管理権との関連といった 領域である。」そしてまた、「これらの教育慣習法は、一般行政慣習法に対しいろいろの特色を もっていると考えられるが、…・教育の自由や教育行政の地方自治および独立性の原理があるた めに、地方的慣習法の傾向があることに注意すべき」なのである(j)。
すなわち、学校慣習法はすぐれて学校の内在的管理規範なのであり、より教育事実に密着した 慣習法なのである。その意味でまた、地域的特色をもつものである。いいかえるならば、それは 学校教育および学校経営の慣習法とでもいうべきものを中核とした規範なのである。
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このように考えてくると、学校慣習法のなかには、単に学校行政慣習法というもののほかに、
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さらに教育事実に密着した次元での学校教育慣習法とでもいうべきものをふくむものとおもわれ る。前者は、兼子説のように、内在的管理と管理機関の行政管理との接点において発生すること が多いであろう。が、後者は、あくまで事実行為としての教育規範行為のなかから学校集団が自
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律的に法規範化をはかったものである。それは広く学校の教育法観念に立つ慣習法であって、教
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育行政法という観念からのみとらえる慣習法ではない。教育行政の慣行というよりは、教育の慣
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行というものから発生してくるものである。前記田中説が、内部的自治法としての学校慣習法を
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考えながらも、それを教育制度・行政の面に限定したのは、学校管理者の慣習法という臭いを強 くもち、このような思考にいまだ不十分さを宿しているといっていい。
次に学校慣習法と教育条理法との関係は注目しなければならないものの一つである。不文法と
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しての教育条理法とは、現実の教育的社会現象に内在する「本質・原理・法則ないし普遍的な法
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意識の内容が法として認められる場合」(4)に生起する。すなわち、それは「教育独自の本質や原 理を重視し、それを確認ないし助長する立場」において立法規律をとらえるものである。このよ
うな教育固有の原理としての教育条理法の根源性が、現実の生きた学校慣習法にも何らかの形で 包含され、表現される場合のあることはいうまでもない。学校慣習法は、その理想的形態におい ては、教育条理法によって基礎的に支持された生きた現実規範の一形態でもなければならないの である。また、現実にそうである場合もみられるのである。
さて、もう一つの側面として、教育判例法と学校慣習法との関係の密接であることがあげられ る。マックス・ウェーバーは、「判例法は<慣習法>形成の最古の形態である」(5)とする。田中 二郎氏も判例法を慣習法の一部に包含して、「裁判所の判決は、当該事件についてのみ拘束力を 有するに止まり、他の事件については何らの効力を有するものではない。しかし、実際において は、一たび判決例として定まったところは、特別の反対の理由のない限り、その後に生じた同様 の事件についても繰り返されるのが通例で、その結果、判決例に現われたところが、一般国民の 間に、法として意識されるようになる」(6)としている。教育判例法は、「元来成文法規に解釈の 余地が多かったり、慣習法・条理法がひろく存する法分野に働くものである。」(7)このようにし て教育判例法は教育慣習法あるいは学校慣習法分野の一部として成立し、また慣習法を定着させ
る。と同時に、教育・学校慣習法は判例法のなかに用いられ、定着されるという関係におかれて いるのである。
さらに、学校慣習法の役割機能の特質である特定社会集団の自主的自律的規範性に関し、次の ような法的サンクション(Sanction)の性格分析に注目することは重要である。「社会的慣習規 範の中に現実に作用しているinformal sanctionと国家権力の発動としてのformal sanction とを比較するとき、次のようにいえる。informal sanctionが物理的力を使うということは稀 であり一見弱いようにみえる。これに対し国家権力は制定法により最悪の場合に料死刑にするほ
どの物理力をもつ。しかし、より物理力が果たし得る機能は人にある行為をさせないという消極 的なものであり、積極的にある行為をさせるという方向に働くことは割合に弱い。ところが、
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informal sanction は積極的にある行為をさせる機能を非常に強く果たす場合がある。制定法 のsanctionはある特定の政治権力とある違反者個人との間だけの実力関係であるが、informal
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sanction が機能するのは、通常一定範囲の社会集団の人間関係の総体にかかわってくるという ことである。」(8)(傍点筆者)
学校慣習法には、このような意味でのインフォーマル・サンクションとしての性格をより多く
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もった学校教育慣習法である部分が幅広い。創造的人間形成としての教育活動が、消極的受動的 なコントロールによるよりも自主的自律的積極的コントロールにもとづくことが望ましいことを 考えるとき、学校慣習規範のもつインフォーマル・サンクションとしての存在や役割が浮きぼり されてくる。そして、このことは、また学校慣密法の特質である後述のような教育制定法に対す る「積極的補充性」にかかわってくるのである。(この点の解明は第一葦の二においてなす予定 である。)
〔二〕 学校慣習法の意義と性格く一〉−慣習法の法源的価値から−
さて、学校の経営管理上、これまでに、学則・法規・学内規則・運営規程・内規・学校内部法 などと様々に呼称されてきたところのものは、いかなる意味で学校の慣習法たる存在性をもつの であろうか。このことは、おのづから慣習法とは何か、その特性・範囲はいかなるものかを明ら かにしなければならないことを意味する。また、上記のような種々の呼称をもつ学校内部法が、
いかなる意味において慣習法の本来的性質からする資格を獲得し、その特性に適合するかの検討 を要求することになる。
1.慣習法とは−実用法学(法源論)的意味−
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慣習法は、一般に社会規範と呼ばれるもののなかで、とくに法律に深い関係をもつ社会現象で ある。しかし、この概念や意味は、実用法学的にとらえる場合と、法社会学的にとらえる場合と では異なるものがある。
法源論的見地においては、成文法主義に立って、国家法・制定法と区別される社会の慣行のな かに現実に妥当している規範が国家法・制定法の平面で承認された場合をのみさしていう、とす る狭義の見解がある。ここでは、慣習法は時の政治権力によってそのサンクションが与えられて いるかいなかをもって評価され、決定されることになる。この見地に立てば、慣習法が社会のな かですでに拘束力をもって存在しているというだけでは、法としての役割を果さないものなので ある。ここでは、「事実たる慣習」といわゆる「慣習法」とは法源的に区別されることになる。実
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用法学上の法原論は、いわゆる慣習法が存在するということ−それがおきてとして現実に拘束
力をもって妥当しているということ、あるいはそれが権利に関する社会規範であるということ
−にもとづいて、「慣習法に国家法の平面における妥当(サンクションの付与)」を要求する のである。
しかし、橋本文雄氏によれば、このような法解釈学的な慣習法概念とは別に、「社会学的見地 からする慣習法の概念」が兄い出されるのである。そして、この慣習法に関する法解釈学(実用 法学)的並びに法社会学的両概念は「厳密に一致するものたるわけではない」のである。氏によ れば、さらにその両概念の関係および法解釈学的制定法承認の慣習法概念に対する批判的見解が 次のように述べられている。「もちろんそれらの諸見地よりする慣習法の概念は、互いに相関聯 し、相制約する関係に立つことによって、均しぐ贋習法の概念たるの性格を保有し能う次第であ
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るが、特に制定法が慣習法の何たるかを定むる場合においては、いはば生ける野生のままの慣習
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法をそのまま示す態度にいずることなく却って自己に添い易きものとして、いはば手なづけてこ
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れを概念することの通例たるべきことが注意せらるることを要する。」(9)(傍点筆者)
すなわち、このような実用法学、法解釈学、法源論的慣習法概念は、「特にわが制定法かぎり の、更に戎法条の示すかぎりの慣習法の概念にとどまる」ものにすぎない(川kまた、それなるが ゆえに、時の支配権力によってその範囲や内容が便宜主義的に決定される可能性があることにな
り、生ける慣習法の原型や性格をゆがめてしまうことが考えられるのである。
したがって、このように慣習法概念をせまくとらえる考え方は、学校慣習法にとっても教育法 源論上妥当ではない。なぜならば、教育制定法のいまだ非体系性や不備がとなえられている現段 階では…)、その承認を与えるべき基準自体が問題とされるからである。また、制定法をめぐる政 治権力の解釈上の盗意性が云々される現段階において‖2)、制定法承認の教育・学校慣習法のみが 慣習法であるとされれば、教育・学校経営の中立性保持は時には実質的に困難となり、それが政治 権力の私物化きれるおそれもあるからである。教育・学校紛争が最後的には法廷(司法)において 結著される今日の法的メカニズムのもとにおいても、なお政治権力の盗意性が問題にされ、判例 法と慣習法の正しき意味での関連が必ずしも十分に保たれないという論議があるからである(13)。
このようにみてくると、実用法学、法解釈学上の制定法承認的慣習法概念は、その学問的法原 論の枠内においてさえ、もう少し幅を広げなければなるまい。
これに関し、田中二郎氏は次のような見解を述べている。「慣習法が法としての力を有するの は、国家の承認に基くものとするものもあるが、慣習法の効力は、慣習それ自身の力、すなわち
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事実上の慣習が人民の法意識を生ぜしめることによって生ずるもので、法令の規定又は国家の承
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認をまってはじめて認められるものではない。従って、その効力においても、必ずしも成文法の
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補充法たるに止まらず、極めて稀な例外ではあろうが、慣習法によって成文法の効力を失わしめ
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叉は変更せしめることもないではない。」糾)(傍点筆者)
また、川島武宜氏もいうように、「実用法学上の概念としても、『社会通念』その他の基準で 慣習法或は非慣習法の何れかの二者択一的決定をすべき」(15)ものなのであって、慣習法の意義・
性格をさらに幅広くダイナミックにとらえる必要がある。
さらに、このような慣習法領域拡大論は上記の一般慣習法に対する法解釈学的見解のみならず 教育慣習法や学校慣習法そのものをめぐってもなされている。田中新太郎説の次の主張のように 学校慣習法をして、国家法以外の法の淵源として明確につかみ、国家の権威に依存しないもので はあるが、「法規範たる性質を認めるべき」自治法と考える場合があるのである。
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「内部法的学校法は、学校協同体が、あるいは自己の権威により、あるいは国家または地方公共
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団体の授権によって制定する法規範または協同体の内部において行なわれる慣習法(例えば大
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学自治に関する慣習法のごとしである。それは国家法以外の法の淵源であり、いわゆる自治法
(Autonomie)である。『学則』は成文法的な自治法である。かような自治はすべて社会におい て存在する。これは社会法人の定款・財団法人の寄付行為、それ以外の団体の規約のようなもの
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である。これらは国家の権威に依存しないものではあるが、『社会あるところに法あり』の格言
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を正当と認めるかぎり、法規範たる性質を認めらるべきである。従って、それは教師をふくめて 学校当局および教え子を拘束するものである。」間)(傍点筆者)
教育行政法上の慣習法について、相良惟一氏が「教育行政の領域で、多年の慣習が一般国民の 法的確信を得て、法的効力をもつと認められるにいたったような場合、これを慣習法と呼ぶこと ができる」(lワ)とされる場合も、さきの田中二郎説およびこの田中耕太郎説にくみするものとみて
よいであろう。
このような見解にもとづいて、学校慣習法においても、制定法が認めるだけの慣習法に限定す ることなく、教育や学校に関する社会通念として認められ、あるいはその他の規範からして正当 ときれるものまでをふくむ場合を考える必要がある。現実の生きた学校経営管理や教育活動が幅 広ぐ慣行によって動いている状況からしても、それが民主約・台理的であるかぎりにおいて、こ のことは強調きれなければならないであろう。
2.制定法と慣習法−わが国法例二条の解釈から−
ところで、狭義の意味において制定法と慣習法との関連が問題にされる場合にも、それを極小 的求心的にのみ解する場合と、上記のような拡張的趣旨に向って解する場合とがある。わが国明 治以降の制定法における慣習法承認条項の法解釈論のなかにも、すでに上記のような幅広い解釈 を打ち出そうとする萌芽をみることができる。
橋本文雄氏によれば、明治31年法律第10号法例第二条「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗二反セサル慣 習ハ法令ノ規定二依リテ認メタルモノ及ヒ法令二規定ナキ事項二関スルモノニ限り法律ト同一ノ 効力ヲ有ス」を解して、次のようにいう。
「法例第二条は慣習が同条の要求する諸条件を具備するときは、それは法律と同一の効力を有 する旨を宣言する。従ってそこにいわゆる慣習が法たり得る社会的規範に関することは疑ない。
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この意味において本条の慣習は慣習的規範であり、後述する法律社会学的見地において概念きれ
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たる慣習法である、と解すべきである。すなわち、慣習的規範は本条の要件を具備することに より法律と同一の効力を有するに至り、法理上、制定法上の意味における慣習法となるのであ る。」(】g)(傍点筆者)
ここでは、制定法承認の慣習法を問踵にとりあげ、その解釈論を展開する過程で、すでに法解 釈学の禎域をこえた法社会学的方法論(広義の慣習法を支える立場一後述)が顔を出している。
このことは、おのづから「法令ノ規定二依リテ認メタルモノ」を広く解することになり、次の ように展開される。
「私はこれをかく法例制定当時現存せる慣習的規範、および当時すでに法令により認められた るものにのみ限定して解釈すべきでないと考える。すなわち『法令ノ規定二依リテ認メタルモノ』
とは、ひろく当時・爾後を通じて、法律および命令がみずから規定内容を変更し、爾後・慣習的 規範の示すところに従うとし、または、一定事項または一定生活関係に関し慣習的規範の妥当を 容認しまたはこれに委任したるとき、その範囲において既往のこれと矛盾せる制定法は改正・排
除せられ、また一定範囲においては慣習法的規範が制度上当該生活関係を規律する有効現行法と して法理的妥当性を獲得するに至ることを認むるものと解すべきである。」(19)
すなわち、ここでは制定法が特定時代の特定慣習を指示する場合のみそれが有効であるのでは なくして、時代の制定法そのものの要求する基本的枠内において矛盾しないもののすべてを慣習 法として、フレキシブルに、またダイナミックに認めようとするものである。
また、このように制定法優位主義下における慣習法のより広義の解釈への志向は、条文後段
「法令二規定ナキ事項」に関しても、次のように展開される。
「『法令二規定ナキ事項 に関しては、一般に現在または将来成立することあるべき慣習的規 範の法理的妥当性が当然認められる。すなわちこれらの慣習的規範または法律社会学的意義にお ける慣習法は制定法秩序の統一性を破壊するのおそれなきものとして直ちにその法理的な・法律 解釈学的な妥当性をも付与せらるるのである。もちろんこの場合においてもただ規定なき事項に 関するゆえに制定法または国家法の一般的秩序の精神と矛眉するものを認めざる趣旨なることは 言うを侯たぬ。法令に規定なき事項とは、それ自体規範的命題と解すべきである。すなわち法令 に規定ある事項に関するとは制定法たる法律または命令が、ある生活関係につきいずれかの定め・
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をなせることを言う。ただこのことはあたかもその問題たる生活関係の問題たる点につき制定法_
が一定の規範的命題を表白せる場合に限ると厳密に解せらるべく、‥=‥中略……同一生活関係に 関連するときといえども制定法が予想しこれを目ざして一定の規範的内容を表白せる生活関係と 白同ならざる生活関係に関しては、この故に慣習的規範の法理的妥当性が拒否さるべきではな い。」(20)
以上のようにして、現代制定法優位主義のもとにおいても、慣習法をできるだけそれに矛盾し・
ない範囲において、より幅広くとり入れていこうとする志向が法解釈論的にも努力されているこ とがわかる。そして、それは裏をかえせば法解釈学的方法の限界を示すものであり、方法論的に 法社会学的な力をかりなければならないことを示しているのである。
3.制定法との比較における慣習法の具体的特質−その両者の相違−
上記のような制定法と共存する慣習法の重要性は、さらに慣習法が制定法との比較において著 しい特質をもつことによるのである。もしそうでなければ、慣習法の存在意義は稀薄にならざる をえないことになろう。制定法と慣習法の差異の第一は、制定法が必ずしも現実的な共通の意識 にもとづいていないために、「覚知的」である保証をもたないのに反して、慣習法が「必然的に 共通な意識が存し、覚知的である」ことにみられるのである。
第二には、法が社会の流れにおし流される歴史性と社会の流れに働きかける自主性との契合の 仕方において、慣習法は制定法と対照的な性格をもつ。慣習法とても、それが法であるかぎり、
全く社会の流れのなかに埋没するばかりではなく、社会的現実との間に何らかの距離をもつこと もたしかである。しかし、「慣習法は社会の現実の慣行とひとびとの共同の確信のうちに謂はば 充分なる自己特化をとけることなくして存立せる特有の法源」なのである。したがって、慣習法 においては、いわゆる法の歴史性がその自主性よりも偏重される場合があるといえる。しかし、
このことは、慣習法の尊重が必然的法則的に望ましい場合には、それが集団的相対的な自主・自 律性をもつことまでも否定する意味ではない。
第三には、慣習法は社会の現実的生活関係のうちからおのづから生起する規範であるために、
原則的には特殊的局部的様態に適応する「特殊分化性」をもっている。これに対し制定法はその
学校慣習法分析の基礎理論〔一〕 (高野)
技術的抽象性のゆえに、その普遍化への志向が特殊的事態への適応性を欠くというちがいをもっ ている。
第四に、法における正義と合目的性の両者の法律価値の二律背反的競合関係(アンチノミー)
に関して、制定法と慣習法は相反する性格において相補関係にあるということである。この両者 のアンチノミーは、制定法の普遍性と慣習法の特殊分化性に相応して、これらの共存・共働によ って緩和されるという性格をもつ。
第五に、進展する社会への適応ということにおいて、その厳密性・精敵性という点では慣習法 は制定法に劣ることが多い。しかし、社会的現実において、特定の利害関心からまぬがれるとい
う点では、慣習法の価値が注目きれなくてはならない(2け。
以上、制定法と慣習法のおもな差異と特質を解明したが、これをさらに現代的法体制のもとで 簡単に図式化してみよう。現代制定法は、社会的現実からの自主性・精緻性・合理性・画一性・
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意識性・進化促進性・突発性・政策性・技術性・国家権力機構との緊密性などの諸特徴をもって いる。また、現代慣習法は、社会的現実との契合性・特殊分化性・慣行的定着性・具体的妥当性
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・自然性・流動性・伝統性・常識性・国家権力機構からの自主性などの諸特徴をもっているとみ られる(22)。
それゆえに、これらの対応的特質は、現代社会のそれらの特質を要求するそれぞれ固有の生活 的側面・生活関係において、相補的にいかきれなくてはならないのである。学校慣習法の存在意 義も、このような意味において教育制定法その他の諸法源との法源的共存・均衡・統一のなかに 生起するのである。
〔三〕 学校慣習法の意義と性格<二>−その法社会学的アプローチ−
1.事実としての慣習への注目
すでに橋本氏の法解釈論・法源論のなかにみられたように、慣習法は法社会学的分析対象とし て、より事実的にあつかわれることによって、一そうその独自の存在意義を根拠づけられる。そ
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して、そのことは、学校慣習法の場合のように教育活動や経営活動が法律(制定法)作用によっ てよりも事実作用において幅広く存在する場合には、なおさらのことである。
橋本氏は、さきの制定法と慣習法との関連構造の分析のなかで、さらに法作用の事実的側面の 解明が解釈学的・実用法学的分析だけでは限界があることを指摘したのであった。すなわち、
「法令二規定ナキ事項」に関して法理的に有効な慣習法の厳存する場合に、これと矛盾する法令 を制定するときは、解釈法学的見地や現代的制定法優位主義的法律秩序下においては一応慣習法 がその妥当性を失うことを認めつつも、次のように法社会学的別途の対象の存在性を指摘したの であった。「…しかして制定法の発布によるも慣習法が執拗に自己の事実上の妥当を保持する場 合、制定法の右に違背せる発布にもかかわらず、慣習法的意義の崩壊することある場合のごとき は、いずれも社会学的妥当の問題であり、別論に関する。」(23)
法解釈学においては、法源論的に「慣習法」と「事実たる慣習」とが区別されるが、法社会学
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的立場においては、「事実たる慣習」とおきての一種である「慣習法」とは連続系列をなすもの としてとらえられる。その境界は流動的であって、両者はけっきょく量的な差にすぎないのであ
る。」(2有
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慣習法という概念は、「社会規範がすでに慣習という形で行動の平面に存在している現象」を さすものである。そもそも慣習という概念は同一型の行動のくり返しという量的問題なのであり
そのくり返しの程度が慣習決定のメルクマールなのである。
ところで、社会現象の構造や変化を問題とする法社会学にとっては、この童的変化そのものが 問題なのであり、あるものを単に慣習法でないとして(法解釈学・実用法学のように)切りすて ることですまきれるわけにはいかない。たとえば、慣習と呼びうるほどの行動の反復はなくても 権力者の強いサンクションの機構があり、その規範にしたがって行動する可能性の高い場合には
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おきてとしての社会規範はすでに成立していると考えられ、慣習法への成長が予見されることに なる。また、これと逆に、これまで慣習法であった規範も、それに対するサンクションが退化し 成員の被拘束意識が低下すれば、そこでは消滅への過程が予見されることになる。したがって、
慣習法は単にくり返し結果としての現象のみをさすのではなく、そのような動的な変化の過程に ある現象をさすものと考えるべきものである。
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このようにして、おきてとしての慣習法を問題とする法社会学の立場においては、慣習法と非 慣習法とを明確に区別することはあまり重要ではなくなる。慣習法という概念は、多種多様の権
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利義務のおきての現象のうちで、比較的安定し、固定した静的観念をさすのである。現代社会に おいては、旧来の慣習法が変化し、退化しつつあると同時に、安定度の低い、変化しやすい慣習 法がたえず生成している。したがって、今日の法社会学の課題は、慣習法の静態理論ではなくて
その動態理論としての、慣習法の生成・存続・消滅の法則の分析に存するのである(25)。
学校慣習法の分析も、このような法社会学的アプローチに至って、単に制定法承認範囲での慣 習法から「事実たる慣習」にまで根源をさぐり、それとの連続関係において幅広く底深い分析を 進めなければならないのである。そして、それはさらに次に分析するように、慣習法をふくむ
「生ける法」の総体に対する法社会学の棍本間塩なのである。
2.生ける法の分析の問題−法社会学の対象−
慣習法をその部分とする「生ける法」の総体の分析は、法社会学の中心課題である。学校慣習 法の分析も、この生ける法の一環として考察されてこそ、はじめて基本的となり得るのである。
きて、法社会学の対象としての生ける法とはいかなる性格をもつものであろうか。渡辺洋三氏 によれば、「法社会学の対象とされる行為規範(生ける法一筆者)は、一万において人間の社会 的行動を現実に規定する規範である。しかし、それが法社会学の対象たり得るのは、同時に他方
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において、それが、国家制定法を頂点とするその社会、その国家の全法構造、全法体系、あるい′
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は全法秩序の巨大な底辺をかたちづくっているからである」(26)とされる。
また、ギュルピッチは、全包摂的社会規範を頂点とする全法体系の構造をとらえて、次のよう にいう。「全包摂的社会の規範的事実は、法律生活にあっては個々の特殊集団の規範的事実に優 越する。そして、個々の特殊集団の規範的事実は、社会的交渉の諸形態の規範的事実に優越す る。けれども、この事実は、けっして社会交渉形態の形式それぞれがその独自の法の種類を生み
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出すことをきまたげるものではない。社会的交渉形態の諸形式は、その統合の場である集団や全
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包摂的社会の内外にあって、なお法の第一次的源泉としての役割を果たすのである。」(27)
すなわち、全包摂的社会規範→特殊集団規範→社会的交渉の諸形態の規範体系の規範的優位性 という噴序は、法の源泉からすれば逆の序列体系をなすものと考えられる。が、その第一次的源 泉である個々の社会的交渉の諸形態としてのすべての社会規範が、法社会学の対象となるわけで はない。それは、いわゆる「統合の場である集団や全包摂的社会」との関係あるいはフィルター をもって透祝して、はじめて法社会学上の生ける法となる(2∂)。(しかし、ギュルピッチは、国家そ
学校慣習法分析の基礎理論〔一〕 (高野)
のものをも固有の内部的秩序をもつ特殊集団の一形態とみるから、ここでの全包摂的社会は必ず しも国家ではない。)
いいかえれば、法社会学が対象とするところの「生ける法」とは、国家制定法を頂点とする全
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法秩序の底辺に横わる現実の社会規範なのである。そして、そのような規範は必然的に他の社会
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関係一殴とは区別きれなければならないのである。それは全法体系の底辺を形づくるかぎりにお いてのみ、ある社会関係、ある社会規範をして「生ける法」ということができるのである(29)。江 守五夫氏が「生ける法を国家実定法秩序と無関係に観察することがナンセンスであり、それがか
えって法の科学的考察にとり有害である」(30)とするのもこの意味においてである。
ところで、「法」とは、その完成された形態においては、「組織きれた政治権力=支配機構に よって強制される規範」であるということができる。ここに法規範の特質を決定する第一の契機
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が求められる。しかし、ここでまた、権力二=支配関係一般がすべて直ちに法関係ではないことに 注意すべきである。法規範は権力によって規制されるものではあるが、同時にこの権力自身が客 観的ルールとしてのこの規範によって拘束されているという反面がなければならない。ここに法 規範の特質決定の第二の契機が存する。
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このようにして、政治権力による強制と客観的ルールによる支配との二つの契機を、その完全 に成熟した形態においてかねそなえたものが近代国家法いわゆる制定法なのである。とすれば、
たとえ「そのような完全な形態をとらず不完全な未成熟な形態であるにせよ、ともかくも上記の
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二つの契機を、その崩芽として内在せしめている社会規範」(引が法社会学の対象としての「生け る法」なのである。したがって、「生ける法」とは、支配関係としての本質をもつ社会規範関係 ということができる。学校慣習法も、未成熟な崩芽形態であるにせよ上記の二契機を、包含する 社会規範なのである。次の学校慣行をめぐる社会規範関係の例は、それを示すものである。
「本来、社会的支配関係と無関係であるべき贈答関係が、一定の条件のもとで、支配関係のな かに組み入れられるという場合も少なくない。たとえば、個々の父兄やPTAが教師に贈物をし たり、寄付をしたりするのは全国の通例の現象である。この場合、個々の父兄の意識においては たとえば子どもが世話になっていることへの御礼の気持という人情、あるいは子どもたちのため に学校の条件を少しでもよくしてあげようという子どもへの愛情、等々の素直な善意が主な動機 であって、教師と父兄との問の社会的支配関係とは本来関係がない。それにもかかわらず、一般 的に教育予算が少く、父兄の寄付に仰がなければ学校教育ができないという条件のもとで、さら
に教師の賃金が低く、その研究費はもちろんのこと、場合によっては生活費さえも父兄からの贈 物によって補てんされているという現実の条件のもとで、個々の父兄の主観的な意志いかんにか かわりなく、客観的にはPTAは教師の職業的活動や生活に対して多かれ少かれ支配力を行使し 得る社会的団体としての意味をもつ。」(32)
また、上記第二の法の契機に注目するとき、「生ける法」といわれる行為規範は単なる団体秩 序ではない。対立し衝突し合う社会的諸力を前提したうえで、しかも、それらの対抗関係を規律 づける客観的ルールの成立が要求されるとき、このような「客観的規範に服する社会的諸力の対 抗関係」を「生ける法」というのである。
エールリッヒも、「団体内において秩序を保ち規律をしていくという慣行の力は、それが団体 内における諸力の均衡を表現したものである、ということに基いている。…中略‥慣行はつねに 諸力の究極の均衡を反映している」(33)と述べている。T・パーソンズも、法制度をして社会の軋 額の潜在的要求を和げ、社会的相互交渉関係を円滑にする役割をおぴた統制機能である、として
いる(34)。
社会の対抗関係・矛盾を規範的統一にまでもたらすことは、まさに法制度の有効性判定のメル クマールなのである。
宗像誠也氏も、教育法規研究の基本的態度が、教育法規の動的条件発生的把握でなければなら ないとして、「教育行政法学の法社会学的研究」の必要をとく。そして、教育法規における社会 的矛盾関係にふれて、「条件発生的把握とは、社会的把握の謂であるといってもよい。‥・中略=・
一つの法規も、これを支持する社会的勢力とこれに反対する社会的勢力とを背景にもち、そこに はいろいろの利害関係や勢力関係が投影されている。そうしてまた、一つの法規が、どの程度に 発動し、励行されるかは、その法規の成立事情に制約される面があることは否定できない」(35)と
している。このような教育法をめぐる社会的矛盾関係の内蔵こそが、それを「生ける法」たらし
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めているのである。(ここで生ける法が単に慣習法のみではなく制定法に関する問題でもあるこ とに注意すべきである。ただ、すぐれて前者の場合に焦点づけられることはいうまでもない。)
以上のように、法社会学は、法の第一の契機に注目するとき、支配機構との関連においてはりシ さげられた社会規範を、「生ける法」としてあつかうことになる。また、法の第二の契機に注目、
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するとき、「法社会学は生ける法を対立する社会的諸力の対抗関係における権利義務的諸関係と
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して理解する」ことになる。さきに川島氏が、慣習法を権利義務を内容とする社会規範であり、
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それがおきてのなかでとくに慣習法を区別するメルクマールである、とした場合は、このような
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生ける法の動態の法社会学的アプローチを前提にしていることが考えられる(〕6)。
このように考えると、さきに法解釈学上「事実たる慣習」からの「慣習法」の区別を、現行制 定法の承認等をめぐる法解釈からとげようとしたよりも自然的な形で、慣習法の法規範たる性格 をうきぼりできることになる。
すなわち、ここにおいて、学校慣習法を学校の事実的慣習や事実としての学校社会法規範の連 続系としてみながらも、それらを相対的に区別する法社会学的メルクマールが比較的明瞭に提示 されることになる。学校慣習法を包含し、基底的な体系をなすところの「生ける法」が、上記の・
ような法の決定指標としての二つの契機をもって社会関係一般から区別されるとすれば、事実と しての学校慣習を学校慣習法から分つメルクマールも、未熟な相対的な形態上の差としてである にせよ、やはりその点に求められなければならないであろう。いいかえるならば、学校慣習法は 学校体制的権力の強制性ということと、学校社会の対抗的社会関係を客観的ルールによって措定 するということとの二つの契機において、単なる事実たる学校慣習よりもその規範的性格が相対 的に強く、濃厚であるといいうるであろう。その意味で、強制性・安定性・連続性・明確性・教 育体制の支酉己権力からの自主性が比較的高いものといえるであろう。
また、事実たる学校慣習は、生ける法の一環としての学校慣習法に上昇する過程的なものとし てつかまれることになろう。しかし、また、学校慣習法は、単なる学校内社会秩序ではなく、学
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校をめぐる内外の社会的対抗関係を客観的に措定するところの、より明確な権利義務意識によっ て支えられていなければならない。それによって、事実としての学校慣習一般から規範としての 学校慣習法に上昇することができるのである。学校慣習法の法社会学的アプローチは、このよう な意味における生きた学校慣習法の生成・存続・消滅の過程の分析にむけられるものなのである。
3.法社会学的にみた国家法(制定法)と生ける法(慣習法)との関係
さきに国家法・制定法と慣習法との関係を法解釈学的にみたが、ここでは、それを法社会学的
学校慣習法分析の基礎理論〔一〕 (高野)
にみてみることにしよう。この両者の関係のとらえ方は、そのどちらの方法論を選ぶかによって 明らかに異なる。この点に関する方法論的なちがいは、いみじくも橋本氏が次に指摘するとおり である。
「すでに法律解釈学的見地よりする慣習法の考察において予示したように、充分な意味におい
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て理解された・生ける慣習法は、制定法本位的な法律秩序のうちには内含せしめられ能わない。
すなわち慣習法は華寛その制定法本位的な法律秩序の統一性を破壊するに至らしめねぼやまぬよ
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うな契機を内蔵する。従って法律解釈学的見地においていわゆる慣習法は、すでに述べたやうに
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かかる契機を去勢されたものとしての慣習法にとどまる。かくして法律社会学的な見地において
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は制定法と慣習法との関係は、かかる擬制的・観念的な一元的法律秩序の立場を一応超越して、
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これらは別個の法律秩序を構成するものとして眺められる。すなわちこの立場では法律は多元性 として現はれる。」(37)(傍点筆者)
国家法と生ける慣習法との相互関係は、法社会学的にみると、多様な形態をとって現われる。
それは、概括的にいえば、①国家権力の意志と生ける慣習法とが一致する場合と、①その両者が あい矛盾し対立する場合との二つに分けてとらえられる(38)。
第一に、国家権力と生ける慣習法の一致の仕方−社会の行為規範としての生ける慣習法が全 法秩序に包摂される仕方、すなわち国家権力がすでに存在する法を全法秩序に組み入れる仕方
−には、次のような類型が仮説される。
① 生ける法がその内容および形式において本質的変化をうけることなく、そのまま国家法の レベルにまで上昇する場合。たとえば、従来、成文法規の規定を欠き主として慣習法によっ て規律されていたとおもわれる大学自治問題は、終戦後の教育公務員特例法制定により、人 事面に関しはじめて明文化された(i9)。
⑨ 生ける法が、その内容において同一性を維持しつつ、形態変化をとげながら、国家法とし て成立する場合。
③ 生ける法が直接そのままの形態において国家法として認められ、消極的に国家法として成
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立する場合の狭義の厳格な意味での慣習法がこれにあたる。この場合、生ける法と国家権力 の意志との一致の仕方は、消極的な国家法という形をとる。
④ 生ける法が、実質的に暗黙のうちに国家権力により承認され、しばしば支持激励されさえ しながら、様々な諸条件によって、それを否定されるか、あるいはそれと矛盾する国家法の 成立が余儀なくきれる場合(40)。
第二に、国家権力の意志と生ける慣習法とが矛盾対立する仕方は、次のように仮説される。
(このような矛盾は、根本的には階級的矛盾である。そして、それが直接的に現われる場合もあ り、間接的に現われる場合もある。)
① この両者の矛盾対立が、かならずLも本質的恒常的なものではなく、派生的一時的である 場合。
① 国家権力といわゆる生ける法との間に本質的対立があるのではなく、部分的・従属的対立 の一つとして、それぞれの法規範の担い手(tr云ger)が階級として、相互に部分的に対立 しあう場合。
③ 歴史的に先行する、より高い行為規範が、前進しつつある社会のなかにのこりかすとして 残存している場合。しかも国家権力自身がこの古い行為規範とその担い手たる諸階級と対立
している場合。
④ さらに、最も典型的な場合として、一定の歴史的法秩序のもとで、歴史的により新しい行 為規範とそれにともなう規範意識が成立し、発展しつつあり、国家権力の意志と生ける法と
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の本質的な矛盾が生まれる場合。
このように、国家法・制定法と生ける法としての慣習法との内的関連は、一致と矛盾の諸相を 内在的にふくむ諸関係である。法社会学は、この側面をとおして法の生成・発展・消滅の全過程
を明らかにし、立法・法の適用・機能などの構造分析を試みるものである。
ところで、このような制定法と生ける慣習法との一致と矛盾の関係把握自体が、すでに述べた ところの広義の慣習法の概念に立たなければ不可能であることが明確である。法解釈学的見地に 立つかぎり、その一致関係のみがとりあげられ、生ける慣習法の社会的現実が見失われがらにな
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ることは必然である。生ける法としての学校慣習法は、教育制定法との一致と矛盾の両社会過程 の総体として分析されなければならないのである。そうでなければ、創造的・自主的・自治的活 動としての広汎な学校経営管理上の慣習規範はきわめて狭く制限されたものとなり、生ける法と
しての姿を喪失することになる。
そして、このような制定法と慣習法との生ける法としての幅広い関係構造の把握が、おのづか
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らその基底に、法規範におけるサンクションの構造を多元的にとらえることに発することはいう までもない。学校慣習法は、とくに公立学校慣習法においてその幅がせばめられているとはいえ 国家権力以外のサンクションに支えられて生存しているのである。それが国家法からの直接的承
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認(法律的明示の有無にかかわらず)なくして、学校経営体に生成し、変化を起こす場合がある のである。それは、地方自治的サンクションによる場合、学校集団(校長をふくむ学校の直接的 担い手)のサンクションによる場合など、いろいろである。この点については、すでに田中新太 郎氏の内部的学校自治法説にもみたところであり、川島氏も法社会学的に証明しているところで ある(4り。国家の教育行政法のサンクションの平面で処理されるもの、地方的教育行政のサンクシ ョンにまかされるもの、学校経営体のサンクションにまかきれるものなど、これらは、みなそれ ぞれの次元において固有性をもつと同時に、現実の法規範体系の総体において、相互に一致と矛 盾の関係において規制しあっているとみなければならない。
一口に学校慣習法といっても、それは教育制定法との関係できわめて多義的であると考えられ る。地域や学校のなかに保守的慣行があまりにも停滞的であるためにこれを国家法的に定着でき ない場合、また、あまりにも流動的なために国家法として定着できない場合などがあろう。制定 法規が慣習による旨を明記している場合(たとえば地方自治法209条による住民の営造物として の学校利用権上の慣行承認)、制定法に全く規定のない場合とでは、その慣習法の意味が異なる であろう。さらにまた、強行法規に関係する慣行と任意法規に関係する慣習慣行とでは、意味が 異なるものと考えられる(42)。
4.公法・私法関係の視点から一 _
学校が公法的にと同時に私法によって規律されるものとする見解は、最近いずれの法理論にも 一般的に認められているところである。学校法を公法としてのみとらえる権力的な思考方式は、
もはや過去のものといっていいであろう(43)。
ところで、一般的に公法上の慣習法(行政法上の慣習法)となると、私法上の慣習法にくらべ てきわめて研究がおくれているときれている。そして、それは、私法にくらべて公法の分析のむ づかしきによるともきれている。しかし、このことは公法上の慣習法の法社会学的分析が重要で
学校慣習法分析の基礎理論〔一〕 (高野)
ないということではない。その必要性は、私法上の慣習法のそれと何ら異なるものではない。
「公法現象も法現象として国家権力と国民の間の社会関係を法的に規制するものであるかぎり、
その基礎にある社会関係の現実の構造の経験的把握から出発すべきものであることは私法の場合
・と同じ」(44)なのである。
そして、この公法上の生ける慣習法の法社会学的分析を阻害している原因は、渡辺氏の指摘の ように、次のような事情にあると考えられる。
「…実体法のなかでも、私法と公法とでは前者が国民相互の現実の一定の社会関係=権利義 務関係を直接に反映しているために、法規と現実の社会関係の相互関係が比較的あらわに人の眼 に映ずるに対し、後者においては必ずしもそうでないという事情もあって、公法現象の実態に対 する経験的観察は私法現象の場合にくらべるといちじるしく立ちおくれているようにおもわれ
る。これには、明治憲法のもとにおいて長年養われてきた絶対主義的法律観のために、権力現象 を一個の社会現象として客観的な観察の対象にするという学風が十分にまだ根をおろしていない
という歴史的事情も付加されているであろう。」(45)
このような要請からすると、学校慣習法についても、公法的事実の経験的分析からの取り組みを
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必要とすることはたしかである。が、学校慣習法の公法的分析の必要は、学校行政慣習法的側面 についてのみいえることである。さきにも示したとおり、学校行政慣習法とは、主に学校内在管 理と学校行政管理機関の接点に成立するものをさすのであり、学校経営体(内在管理体)が国家 権力や地方自治体からの授権の明確な領域において生み出す慣習法である。兼子仁氏も、「教育 公法の存在が明白なのは、権力関係(競詣設分)についてであって、非勧関係には問題があ る」(46)としている。学校慣習法のなかでも、そのような権力関係の比較的強いとおもわれる部分 は学校の行政慣習にかかわる部分であり、そこには公法上の慣習法分析の手法が通用されるべき であろう。
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しかし、ききにも示したとおり、ここで学校慣習法というときは著しく「学校教育慣習法」を
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意味しているのであり、自律的学校内部管理規範を意味しているのである。したがって、それは
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行政権力作用の次元でとらえる権力関係ではない。それは、行政権力的には非権力関係としての
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教育法関係に立つものである。それゆえに、必ずしもいわゆる「公法関係」に立つものではない。
ただ、学校経営体固有の自律的権力関係やサンクションの次元を想定してこれをとらえる意味
(それはいわゆる一般的にいう政治的・行政的権力作用においてではない)においては、問題は別 である。
ところで、行政法学者(それは、とくに解釈学的立場に立つもの)のなかには、このような学
:校内部法・学校慣習法について公法的角度と私法的角度の両者の識別を認めないものがある。
それは、たとえば美濃部達吉説の場合である。そもそも公法と私法とを区別する必要はもっぱ ら国家法についてのみのもので、「他の社会の法」については必要はない、とされる。そしてま た、それは、公法私法の区別の必要は、法が社会的規範であることの本質にもとづく論理上の必 然として出てくるものではなく、両者の区別の観念はもっぱら経験的に国法についてのみ発達し てきた観念である、という基本的立場に立っている。そのような立場から、次のように学校内部 慣習法における両概念の識別を否定しているのである。
「…若しこれに反して(公法私法観念が実定法を基礎とした経験的観念であることに反して 一筆者註)それらが純粋な論理的観念であるとすれば、敢てそれを国家法に限られた観念となす べき理由なく、絶ての社会に通じなければならないはずで、現に広浜教授はデ社会あるところに