銀河鉄道の邂逅 ─ 道を説く人々 ─ 下 田 幸 江
一 はじめに
く。語られる全てのものが幻想世界を一層魅力的にしてくれてい いう、現実では目にすることのできないものが次々と描かれてい 河原にある砂でさえ〈小さな火が中に灯る水晶〉で出来ていると 美 し い。 ど こ か 現 実 世 界 に も 通 じ る 既 視 感 を 覚 え さ せ な が ら も、 進むのと共に変化していく風景はまさに幻想的で透き通るように く 流 れ て い く 水 や、 色 鮮 や か な 花 々、 神 々 し い 光 ─ 銀 河 鉄 道 が 点を当ててこの物語を読み解いてみたいと思う。 の作品とは比べられない程の魅力を秘めていると言える。音もな そ、私はジョバンニとカムパネルラが出会う銀河世界の人々に焦 の夜』という作品で描き出される銀河世界の夢幻的な美しさは他 何を伝えようとしたのか理解することは難しいだろう。だからこ えてしまう。一つ一つの言葉や行動を探ってみなければ、彼らが く さ せ る ─ そ ん な 物 語 ば か り で は あ る が、 と り わ け『 銀 河 鉄 道 が描く童話はどの作品も美しく、どこか物悲しく、時に心を温か な言葉をジョバンニに、そして私たちに残してあっという間に消 らば、私は迷うことなく『銀河鉄道の夜』だと答える。宮沢賢治 放つキャラクター像である。彼らは突然姿を現し、どこか意味深 「 宮 沢 賢 治 の 作 品 の 中 で 最 も 魅 力 的 な 作 品 は?」 と 聞 か れ た な や鳥捕り、燈台守という奇妙でありながら読者を魅了する異彩を とりわけ魅力的なのがジョバンニとカムパネルラを導く大学士 るのだ。
二 「標本」と「証明」
ジョバンニとカムパネルラが唯一下車する駅・白鳥の停車場の プリオシン海岸で、二人は獣の骨を採掘中の大学士に出会う。そ の骨を何に利用するのか不思議に思ったジョバンニは彼に対して
こう問いかける。
「標本にするんですか。 」 「いや、証明するに要るんだ。…(略)…」
「
標 本 」 と「 証 明 」 ─ 大 学 士 に よ っ て 訂 正 さ れ る こ の 二 つ の 言葉は大きく意味が異なるようである。 「標本」とは、 「物品の形 状、 性 質 な ど を 示 す た め に、 そ の 実 物 に 似 せ て 作 っ た も の。 ま た、その実物の一部。見本となるもの。ひな型。転じて、代表的 な も の。 ま さ に そ れ ら し い も の
注
注
。」 の こ と。 こ の「 標 本 」 と い う 言葉は、ジョバンニが父親について語る際にも使われている。
「 …( 略 ) … こ の 前 お 父 さ ん が 持 っ て き て 学 校 へ 寄 贈 し た 巨 き な 蟹 の 甲 ら だ の と な か ひ の 角 だ の 今 だ っ て み ん な 標 本 室 に あ る ん だ。 六 年 生 な ん か 授 業 の と き 先 生 が か は る が は る 教 室 へ持って行くよ。…(略)…」
この言葉から、父親が持ち帰ったものが「標本」として皆の役 に立っていることを、ジョバンニが誇りに思っていることがわか る。 「 蟹 の 甲 ら 」 や「 と な か ひ の 角 」 は 日 常 生 活 に お い て は 装 飾 品として部屋に置く以外に大した活用法はなく、ただそこにある だけでは学術的な知識を与えてくれる〈価値あるもの〉にはなら ないだろう。しかし、学校という社会と繋がる場で教育の道具と して「標本」は必要とされていく。ジョバンニの父親が持ち帰っ た も の は 授 業 の 度 に「 か は る が は る 」 先 生 た ち に よ っ て 利 用 さ れ、この様子からジョバンニの父親の働きが〈価値あるもの〉と して認められていることがわかる。さらには、その考えがジョバ ンニ個人の子供の考えではなく、自分たちを教育する側の客観的 視点をもつ先生の認識であることによって、ジョバンニは皆の役 に立つ「標本」を持ち帰ってくる父親が「監獄へ入るやうなそん な悪いことをした筈がない」と自信を持って断言することが出来 るのである。つまり父親が成したことの素晴らしさを裏付ける証 拠品として「標本」は考えられているのだ。ジョバンニにとって の「標本」とは、友人らにからかわれるような父親像を否定する こ と の 出 来 る、 〈 価 値 あ る も の 〉 と し て 彼 の 中 で 強 く 印 象 付 け ら れていく。さらに言えばジョバンニは、昆虫採集でも知られるよ う な、 鑑 賞 を 主 な 目 的 と し た 美 的 収 集 と し て の「 標 本 」 で は な く、生態学・生物学を学ぶ上で役立つ学術的な「標本」を〈価値 あるもの〉として見なしているのである。
だ が、 大 学 士 は ジ ョ バ ン ニ の 考 え る よ う な「 標 本 」( =〈 価 値
あ る も の 〉) の 為 に 獣 の 骨 を 採 掘 し て い る の で は な く、 自 分 た ち にとってある地層に見えるものが、自分たちとは異なる人物が見 てもその地層に見えるのか、という事実を「証明」する為に採掘 作 業 を し て い る の だ、 と ジ ョ バ ン ニ の 言 葉 を き っ ぱ り と 否 定 す る。 「 証 明 」 と は「 あ る 事 柄、 判 断、 理 由 な ど が 真 実 で あ る か 否 か を 明 ら か に す る こ と
注
注
。」 で あ る。 つ ま り 物 事 が「 真 実 で あ る か 否 か 」 を 見 極 め る 行 為 で あ り、 「 標 本 」 の 前 段 階 の、 あ る 事 物 が 証 拠 と な り う る の か を 考 え、 「 見 本 」 と な る も の を 創 り 出 す 行 為 だ と 言 え る。 大 学 士 に と っ て、 プ リ オ シ ン 海 岸 に 埋 ま っ て い た 「 大 き な 大 き な 青 じ ろ い 獣 の 骨 」 は 百 二 十 万 年 前 の 牛 の 先 祖 の 骨 であることが既に彼の地学的、生物学的な相対的見地からわかっ て い る。 し か し、 そ れ が「 ぼ く ら と ち が っ た や つ 」 ─ つ ま り、 そ う い っ た 地 学 や 生 物 学 な ど の 専 門 的 な 知 識 を 持 た な い 人 々 に とっても百二十万年前の地層から出土した骨という事実は事実と し て 受 け 止 め ら れ る の か、 そ れ と も「 風 か 水 や が ら ん と し た 空 」 の よ う な 空 虚 で 意 味 の な い、 た だ の 地 層 に 見 え る の か を 考 え、 「 ち が っ た や つ 」 に も 科 学 的 な 事 実 を「 証 明 」 す る た め に 行 動 し て い る の で あ る。 だ が 裏 を 返 せ ば、 大 学 士 は「 ぼ く ら 」 と「 ち がったやつ」とでは考えに差異が生じることを十分に理解してい るとも言える。すなわち、理解しているからこそ「証明」しよう とする行動に出ているのであり、それに気付いていなければ、た だ「標本」として保存するのみで満足していた筈である。自分に と っ て 百 二 十 万 年 前 に 見 え る 地 層 が、 「 ぼ く ら と ち が っ た や つ 」 にも大学士らと同様の認識を得てもらいたいが為に「標本」では なく「証明」することを目標とし、行動しているのだ。大学士は 百二十万年前の地層を「標本」として〈価値あるもの〉とただ断 定し、そこで研究を終えてしまうのではない。自分の限られた分 野・世界に留まらずに専門家以外にとってもその事実が受け止め られるのか、多角的な視点を持って事実の追究と「証明」に精を 出し、採掘作業を続けているのである。 ジ ョ バ ン ニ に よ っ て 使 わ れ る「 標 本 」 と い う 言 葉。 こ こ に は、 ジョバンニの現実世界における経験に基づいた、既成概念が象徴 さ れ て い る よ う に 考 え ら れ る。 〈 価 値 あ る も の 〉 と し て「 標 本 」 を見なしているが、しかしそれが誰にとっても等しく価値がある ものなのか、そもそも価値があるという考えは正しいのか、大学 士はその疑問を「大きな大きな青じろい獣の骨」という具体例を 用 い て ジ ョ バ ン ニ に 問 い か け て い る。 そ の 上 で 自 ら 行 動 を 起 こ し「証明」しようと努力している姿を見せてくれてもいる。だが ジョバンニはどうだろうか。周囲から父親のことで「らっこの上 着が来るよ」とからかわれ、幼馴染の友人・カムパネルラとも疎
遠になってしまっているが、その状況を打開しようと行動する姿 は描かれない。それはもちろん、病床の母と行方不明の父に代わ り生活の為、子供であるジョバンニ自ら遊ぶ暇もなく働かなくて はならない家庭環境に原因の一端があることは否定できない。し かし、ジョバンニは友人たちの言葉を否定し、母親に告げたよう に「標本」を持ち帰った父親が悪い人間である筈がないことを皆 に主張しようともせず、自分も仲間に入れてもらえるよう説得す ることもない。父親が帰ってきさえすれば全ては解決し、カムパ ネルラとも以前のような関係に戻ることが出来ると考えているの か、ただ父親の帰りを待ち続けるだけである。いつ帰ってくるの かわからないまま不安と孤独に心が苛まれた時には、なんとか幼 少時代のカムパネルラとの幸福だった日々を思い出し、自らを慰 め、それを支えに生きている。事実を「証明」しようと努力する 大学士のように、客観的に物事や自分自身を見つめ直し自分にも 何か要因はなかったかと考えはしない。ジョバンニは過去ばかり を見つめ、現実に立ち向かおうとしていないのである。この大学 士 と の 出 会 い に よ っ て、 ジ ョ バ ン ニ は こ れ ま で の 自 分 に 足 り な かった積極的な働きかけを知り、今までの価値観から抜け出し多 角的な視点をもつ必要性を教えられる。それは幻想的な銀河世界 を 旅 す る 上 で も 重 要 な こ と で あ る が、 「 ほ ん た う の さ い は い 」 を 模索することになるジョバンニとカムパネルラにとって指標とな る観念を大学士はまず示してくれているのだ。旅に入る準備段階 としてこの出会いは設けられている。そして大学士によって与え られた内面的な変化は、世界中駆け巡ることができそうな程軽く 「風のように」走る二人の姿からも見て取れる。
三 鳥を捕る人
この作品において最も謎に包まれた、かつ最も魅力的な人物と 言 え る 鳥 捕 り。 こ れ ま で 多 く の 研 究 者 に よ っ て 鳥 捕 り と は ど う いった存在であるのか議論が交わされてきた。とりわけ鳥捕りの 「鳥を捕まへる」という職業を論点とし、罪人として捉える論と、 それとは逆に善良な人物として見なす論など、未だ鳥捕りについ て は 様 々 な 論 が 展 開 さ れ て い る
注
注
。 先 行 研 究 を 踏 ま え た 上 で、 鳥 捕りとはどういった人物なのか、ジョバンニやカムパネルラにど のような影響を与えたのか、読み解いていきたい。
まず、鳥捕りとはどういった存在であるのだろうか。鳥捕りの 「毎日注文があります。 」という言葉から、天の川の河原に帰って いく鷺や、鶴、雁などの鳥を捕まえ、それを売って生計を立てて いること、その為に銀河鉄道に乗車していることがわかる。吉本 隆明 氏
注
注
は、鳥捕りとは「殺生を販る小狡い商売人」であると述べ
ている。同様に西田良子 氏
注
注
は
こ の 世 で 殺 生 罪 を 犯 し た 鳥 捕 り が、 極 楽 の 象 徴 で あ る 苹 果 の 匂 や 野 茨 の 匂 の し て く る 前 に 汽 車 か ら 姿 を 消 し て し ま っ た の は、 恐 ら く 彼 岸 へ 渡 る こ と が 出 来 ず、 再 び〈 欲 界 〉 へ 輪 廻 転 生したことを表しており…(略)…。
と鳥捕りが「この世」で生きていたこと、また現世で罪を犯した が故に天上へ行くことが出来ず再び〈欲界〉である「この世」で 生を受けたことを述べている。しかし、カムパネルラや青年たち のように現世で生きていた思い出は語られることがなく、死者と して銀河世界にいるとは言い切ることが出来ない。むしろ銀河世 界に精通しており、鉄道がどこまでも行けることやジョバンニの 切符の特別性を教えてくれていることから、鳥捕りは銀河世界の 住人だと考えられる。また「殺生罪を犯した鳥捕り」と西田氏は 述べているが、殺生をしているのは銀河世界においてであり、現 世で何か罪を犯したのかは全く分からない。もし罪を犯したが故 に鳥捕りが銀河世界に留まっているのならば、それは鳥捕りだけ ではなく銀河世界で生活していると考えられる大学士や燈台守も ま た 天 上 に 行 く こ と の 出 来 な い 罪 人 だ と 言 っ て い る こ と に な る。 だが燈台守は苹果の匂いや野茨の匂いがしようとも鉄道から消え ることはなく、大学士もまた採掘作業が罪意識の表れによる行動 だとは思われない。つまり、カムパネルラや青年たちが、他者の 命を救うといった善行を積んだことで天上に行くことが出来、悪 行を働いたものが銀河世界に留まっているとは考えにくい。銀河 世界の住人たちが天上に行く様子が描かれなかったからと言って カムパネルラや青年たちよりも下位だと見なすのは間違いなので ある。 次に、 「鳥をつかまへる商売」とはどういうことなのだろうか。 鳥捕りは生きている鳥たちを捕まえ、売り捌いている事から前述 したように〈鳥を殺している〉=「殺生罪を犯した」人物だと考 えられており、さらには「稼ぐことだけを念頭に置いているタイ プ
注
注
」 と の 考 え す ら 発 生 す る。 だ が、 鳥 捕 り が 鳥 を 捕 ま え る 瞬 間 は、猟師が銃や鋭利な物を用いて獲物を捕らえる時のような血腥 い 描 写 が な く、 鳥 捕 り の 職 業 が、 「 鳥 を つ か ま へ る 」 =〈 生 き 物 を殺している〉=〈罪を犯している〉と単純に解釈していいもの ではないように思われる。それは、鳥たちの生命の成り立ちにも 大きく起因するだろう。鷺は「天の川の砂が凝って、ぼおっとで き 」、 捕 ま え る 時 も「 ぴ た っ と 」 押 さ え る と「 安 心 し て 」 死 ん で しまう。さらに、死んだ鳥たちは「押し葉」にされ、チョコレー
トよりももっと美味しいお菓子としてジョバンニには認識されて いる。実際に描かれる鷺が捕えられる瞬間には、鷺たちは眠りに つくように眼を瞑り最期の時を迎えているが、捕えられなかった 鳥たちもまた残りの命を謳歌するのではなく、 「雪の融けるやう」 に、砂と一体になってしまう。天の川から誕生し、また天の川の 一部に戻るかのように終わりの時を迎える鳥たちは、まさに幻想 的な銀河世界に生きる生物として、私たちが想像するような生々 しく血が通った生物、というよりも美しく、儚い生物に感じられ る。命とは自然から生まれ出て、自然へと帰っていくという理が ここで示されているのである。萩原昌好 氏
注
注
はこの事について
…( 略 ) … こ こ で は 鳥 た ち は、 地 に 降 り た っ た と 思 う と 直 ち に 銀 河 の 砂 と 化 し て し ま う の で あ る。 つ ま り 殺 生 戒 は 犯 し て いない。
と、述べている。私も萩原氏同様、鳥捕りによって捕まえられて も捕えられなくとも、鳥たちは同じように「銀河の砂」と化す運 命 を 辿 っ て お り、 平 等 に 死 の 瞬 間 を 迎 え て い た よ う に 思 わ れ る。 さらに、鳥捕りは舞い降りてくる鳥たちをただ布袋の中に入れて いるだけであり、その何気ない行動が鳥たちを殺していると言え るのか疑問に思う。鳥捕り自身が、ぴたっと押さえると鳥たちは かたまって死んでしまうと説明し、自身が殺していると認める発 言をしてもいるが、やはり鳥を押えることや袋に入れることが西 田氏の述べるような銀河世界に留まるしかない、大罪に値する程 の行動とは思われない。ただ、鳥捕り自身が生きていく為には鳥 を捕り、その鳥たちの命を代償に自分の生活を手にしているのも また事実ではある。他者の命を奪うことで生きている自分に対す る、 内 心 に あ る 罪 意 識 の よ う な 葛 藤 が、 「 鉄 砲 弾 に あ た っ て、 死 ぬ」かのような行動を起こさせているのだと考えられる。 また、ジョバンニやカムパネルラから見た鳥捕りとはどんな人 物なのだろう。鳥捕りは、 「がざがざした、けれども親切さうな、 大 人 の 声 」 で 話 し、 「 茶 い ろ の 少 し ぼ ろ ぼ ろ の 外 套 」 を 着 た「 赤 髭のせなかのかがんだ」人物である。どこかみすぼらしいその姿 は、ジョバンニに「さびしいやうなかなしいやうな」気まで起こ させるが、初対面でまだ一言話したに過ぎない鳥捕りに対し、そ の様な感情をジョバンニが抱くのは些か不自然に思われる。ここ で描かれる「ぼろぼろ」な鳥捕りの姿は、お祭りの夜に「新らし い」着物を着る子供らの中、ただ一人「きうくつな上着」を着て いたジョバンニの姿にも通じるものがある。ジョバンニは、鳥捕 りを一目見た瞬間、現実世界における自身の姿を無意識的に重ね
合わせ、それと同時に改めて友人たちから自分がどのように見ら れ て い た の か、 鳥 捕 り を 通 し て 客 観 的 に 自 分 の 姿 を 知 る こ と と な る。 そ れ に よ っ て 何 を 知 る で も な い 赤 の 他 人 の 鳥 捕 り に 対 し、 「 さ び し い や う な か な し い や う な 」 思 い を 胸 に 抱 い た の だ と 考 え られる。しかし、鳥捕り本人は「気にしながらそれでもわざと胸 を張って」歩くジョバンニのように、周囲の目に頓着している様 子はない。むしろ積極的に相手に話しかけ、ジョバンニとカムパ ネ ル ラ と の 距 離 を 縮 め て 行 く。 そ の 一 方 ジ ョ バ ン ニ は、 「 鳥 を 捕 まへる商売」とは何であるのか関心を持ちながらも、不可思議な 事ばかり口にする鳥捕りに、不信感を募らせていく。それに対し ても鳥捕りは大らかに応対し、鳥捕りの方からジョバンニたちに 歩み寄ろうと、実際に商品である鳥を食べてみるよう勧める。さ らには近くに偶然居合わせた燈台守にも無償で分け与えるのであ る。だが、それでもなおジョバンニの中に燻ぶる鳥捕りへの不信 感は消える事がない。むしろ雁を口にしたことによって
( …( 略 ) … こ ん な 雁 が 飛 ん で ゐ る も ん か。 こ の 男 は、 ど こ かそこらの野原の菓子屋だ。…(略)…)
と、鳥捕りの言葉全てを疑うようなことを考える。それはジョバ ンニが予想していたものを大きく覆されたからである。ここでは 大 学 士 が 伝 え よ う と し て い た、 多 角 的 視 点 を 持 つ 必 要 性 が 再 び 説 か れ て い る よ う に 思 わ れ る。 視 覚 的 な 認 識 だ け で み れ ば 鳥 の 「 雁 」 で あ る が、 本 当 に た だ の「 雁 」 と 見 な し て い い の か ジ ョ バ ンニとカムパネルラは問われ、自身の経験に基づいた考え方から 物事を疑いもせず判断している姿がまざまざと描かれている。そ れはジョバンニにとって、鳥捕りが話すあらゆることが俄かに信 じ ら れ な い 話 で あ る こ と や、 「 わ っ し 」 と い う 一 人 称 や「~ ま す ぜ。 」「~ さ あ。 」 と い っ た 風 変 わ り な 話 し 言 葉 か ら 大 学 士 の よ う な知識階級の人物でないことを感じ取り、鳥捕りの言葉に信憑性 がないと判断したからだと思われる。実際にジョバンニは鳥捕り に対し「ばかに」していることも述べており、ジョバンニやカム パネルラは内心、鳥捕りを見下していることがわかる。だがその 一方で、そういった感情を持ちながら鳥捕りの善意を受け入れて いることを申し訳なく思いもしている。鳥捕りの人柄にふれるこ とで、ジョバンニの内面に変化がおき始めているのである。 では、ジョバンニに影響を与えた鳥捕りの人柄とはどんなもの なのか。次にあげる言葉こそが、それを最も端的に表している。 「 あ ゝ せ い せ い し た。 ど う も か ら だ に 恰 度 合 ふ ほ ど 稼 い で ゐ
るくらゐ、いゝことはありませんな。 」
「
毎 日 注 文 」 を 受 け な が ら、 自 ら の 生 活 の 為 に 鳥 を 捕 っ て い る 筈だが、鳥捕りは身の丈にあった稼ぎこそが最善である、と断言 している。ここからは、必要以上の利を求めない慎ましい人柄が 伺える。またジョバンニの特別な切符を目にすると、驚きを率直 に口にし、まだ子供のジョバンニに対して「大したもんだ」と感 心したように彼を見つめる。誰に対しても等しく親切に接し、自 分の感情を素直に表し、自らの幸福ばかりに目を向けずに生きる 鳥捕りの姿に、ジョバンニは自分に欠けているものに気付かされ る こ と と な る。 今 ま で 現 実 世 界 に お い て 疎 外 さ れ る 側 で あ っ た ジョバンニは、似た境遇の鳥捕りに対して、彼の心情が理解でき る唯一の存在であった筈である。だが実際は、ジョバンニを疎外 してきた人間と同じように、鳥捕りに対して冷たく接し、どこか 見 下 し て い た。 そ れ は ジ ョ バ ン ニ に と っ て の 鳥 捕 り と は「 邪 魔 な」 、「見ず知らず」の人であったからだと言える。しかし、鳥捕 り に と っ て も ジ ョ バ ン ニ ら は 同 様 に「 見 ず 知 ら ず 」 の 人 物 で あ る。そんなことは気にも留めず、気さくに、また親切に接する鳥 捕りの態度を見ていくうちに、ジョバンニは今までの自らの態度 こそが大きな間違いである、と学ぶことができた。それが「鳥捕 りのために」 「なんでもやってしまひたい」 「ほんたうの幸」の為 に、という言葉から読み取れる。カムパネルラは大学士と出会う 前 に、 母 親 を 思 い 出 し「 ほ ん た う の 幸 」 に つ い て 考 え て い る が、 ジョバンニはこの鳥捕りとの出会いによって「はじめて」このよ うな思いを抱く。見た目や言葉遣いから「ばか」だと見下してい た 人 物 か ら こ そ、 ジ ョ バ ン ニ は 多 く の 事 を 教 わ っ て い た の で あ る。 最後に、鳥捕りとの間で交わされる「標本」という言葉につい て考えてみたい。そもそも鳥をどうして捕るのか、と尋ねるジョ バンニに鳥の捕り方を丁寧に説明する鳥捕り。その際、鳥を押さ え「 押 し 葉 」 に し、 そ れ を 皆 が 食 べ る の だ と 教 え る。 こ の 答 え に、ジョバンニは一体誰が鷺を口にするのだろうかと不信感を滲 ませている。大学士について分析した際に述べたように、ジョバ ン ニ に と っ て の「 標 本 」 と は 学 術 的 な 知 識 を 与 え る も の で あ っ た。それ故に、おそらくジョバンニは「標本」にするのかと尋ね た 通 り、 「 鳥 を 捕 ま へ る 」 職 業 と は 自 分 た ち が 授 業 で 使 う〈 価 値 あるもの〉である「標本」を作る為に必要な鳥を捕まえる仕事だ と考えたのだ。だが、鳥捕りは商品=食料として鷺を捕まえてい るのであり、決して「標本」を作るために鳥を捕っているのでは ない。鳥捕りは稼ぎとなりうる食料品としての商品価値を鳥に見
込み捕まえているのである。ジョバンニの考えるような、人々の 役 に 立 つ「 標 本 」 と し て の 価 値 を 見 込 み 生 物 を 捕 る こ と も あ る。 し か し、 む し ろ 私 た ち は 食 料 を 得 ず し て 生 き て い け な い の で あ り、食料として生物を見なすことの方が生活を送っていく上では 多い。ここでは、私たちが〈他の命を代償に自分の生を得る〉と いう食物連鎖の中で生きていることを指摘しているように思われ る。また自分が生きていく為にも他者の命を食料として見つめな ければ生きていけない、生きることの過酷な側面を示唆してもい る。 つ ま り、 「 鳥 捕 り 」 と い う ど こ か 浮 世 離 れ し た 存 在 は、 私 た ちが他者の命を代償に生活し生きている本来の様をそのまま表し た姿なのである。殺生をした鳥捕りは罪人である、との論がある ことは前述もした。しかし、他の者の命を奪っている、という認 識もせずに出てくる食料の有難みに気付かず生活している人々の 方 が 罪 深 い 人 物 で あ り、 「 ば か 」 な 人 間 な の か も し れ な い。 そ し てジョバンニの、鳥を「標本」にするという考えは、そういった 他の命の上で生きていることを忘れて生きてしまいがちな私たち の姿を映して出し、揶揄しているのだ。
この〈他の命を食べ、奪い生きている〉という考えは、作家論 となるが本テクストの作者である宮沢賢治における重要なテーマ と な っ て い る。 『 よ だ か の 星 』 で は 主 人 公 で あ る よ だ か が、 小 さ な虫を食べた自分がさらに鷹に食べられ死んでいくという運命に 嘆 き、 周 囲 に も い た ず ら に 他 の 命 を 奪 わ ぬ よ う 言 い 残 す。 ま た、 『 ビ ジ テ リ ア ン 大 祭 』 に お い て は、 植 物 に し て も 何 億 と い う 微 生 物が生きているのだから、殺され食べられていく動物を可哀想だ と思うのならば、植物も口にすべきではない、と述べている。こ れらの作品から、他者の命を食べ生きている者の罪深さ、という ものがそもそも作者・宮沢賢治の中には根深い思想として存在し ていたことを読み取ることが出来る。だが勿論、他の命を奪う事 の罪深さを認識しながらも、必要最低限の殺生が生きて行く上で やむを得ないことも承知している。これはそのまま鳥捕りの人物 像に反映されており、まさに「からだに恰度合ふ」稼ぎしか得よ うとしていない鳥捕りこそ賢治が思い描く理想の人間を忠実に表 しているのだ。 大学士によって、多角的な物事の視点をもつ姿勢の大切さを説 かれながらも、自分の常識に基づいてしか物事を見ていないジョ バンニの姿がここでは描かれている。しかし、鳥捕りの素朴で実 直な人柄にふれることで、ジョバンニの内面では少しずつ変化が 起きてきている。物語の最終的なテーマとなっていく「ほんたう の 幸 」 に つ い て 鳥 捕 り を 通 し て 考 え さ せ ら れ る の で あ る。 た だ、 こ の 時 に 願 う「 ほ ん た う の 幸 」 と は 鳥 捕 り 個 人 の「 幸 」 で あ り、
あらゆる人々の為の「幸」ではない。
四 燈台守
燈台看守とも燈台守とも呼ばれる人物は、初め「大きな鍵を腰 に下げた人」として鳥捕りとほぼ同時期に物語に登場する。鳥捕 り と は 違 い、 「 燈 台 守 」 と い う 呼 び 名 か ら 彼 の 仕 事 を 予 想 す る こ とが出来、鳥捕りと比べるとどこか魅力に欠けてしまうかもしれ ない。だが、燈台守もまた鳥捕り同様、ジョバンニに変化をもた らす重要な人物である。そもそも燈台守とは、港に立つ燈台で帰 港してくる漁師たちの道標となるように灯りをともし、彼らを無 事に迎える役割を担っている。この物語の中でも銀河という河の 中を迷う人々を導くかのように、手を差し伸べ、道を示す役割を 担っていると言っていいだろう。
燈台守は銀河鉄道に乗車したジョバンニとカムパネルラの前に 早くから姿を現している。しかしその中で最も注目すべきは、タ イタニック号の沈没事故の死者だと思われ る
注
注
かほる、タダシ、青 年の三人との出会いの場面からである。彼ら三人は乗車当初、水 に濡れ「がたがたふるえてはだしで」登場する。その身なりだけ で 十 分 に 壮 絶 な 目 に 遭 っ た こ と が 予 想 で き る が、 「 額 に 深 く 皺 」 を刻み、疲れ「無理に」笑う様子も描かれる。何故そのような姿 で乗車してきたのか、燈台守が彼らに問いかけると、年長者であ る家庭教師の青年が辛い気持ちを押し込め、かほるたちの父親に 頼まれ子供らと共に乗船したこと、水難事故に遭遇したことを語 り出す。人々がボートに逃げ込む中、冷静に状況を判断しどうに か、かほるとタダシだけは助けようと声を張り上げ、周囲の人に 訴えかける青年。しかしその瞬間、目の前に同じように幼い子供 たちが幾人もいることに気付き、彼らを押しのけてまで二人を助 け る こ と に 躊 躇 い を 感 じ た こ と を 打 ち 明 け る。 家 庭 教 師 と し て、 自らの教え子を助ける事が自分の義務である、という思い。それ と は 逆 に、 二 人 を 助 け る 為 に 他 人 が 死 の う と 気 に せ ず 押 し の け、 救い出すことが正しいと言えるのか、このまま運命に身を任せる ことこそ、二人にとって幸福なのではないかという、相反する思 いに揺れ動く。最終的に、自らの決意に基づき、三人で共に死を 迎 え る。 覚 悟 の 上 の 死 で あ っ た も の の、 「 船 に 乗 ら な け ぁ よ か っ た」というタダシの思いを聞くと、青年も辛いようで今なお複雑 な思いや葛藤を抱えたままであることを吐露する。
「 な に が し あ は せ か わ か ら な い で す。 ほ ん た う に ど ん な つ ら い こ と で も そ れ が た ゞ し い み ち を 進 む 中 で の で き ご と な ら 峠 の 上 り も 下 り も み ん な ほ ん た う の 幸 福 に 近 づ く 一 あ し づ つ で
すから。 」 燈 台 守 は、 青 年 に 対 し て、 こ の よ う に 慰 め の 言 葉 を か け る。 人々を導く役割を担う燈台守でさえ「しあはせ」とは何かわから ない、と述べるが、どんな決断や行動も正しい道を進む為のもの な ら ば、 「 ほ ん た う の 幸 」 に 近 づ く 一 歩 で あ る の だ、 と 励 ま す。 自分の決断が正しいものであったのか迷う青年にとって、この言 葉 は 救 い と な り、 彼 の 心 は や っ と 安 ら ぎ を 得 る。 そ れ は か ほ る、 タダシにとっても同様であり、その心の変化と共にいつの間にか 足元は「白い柔らかな靴」に包まれている。
ここで注目すべきは、鳥捕りの食物連鎖の問題と関係深い〈他 者の命を犠牲にして生きることが正しいのか〉という問いが投げ か け ら れ て い る こ と で あ る。 〈 他 者 の 命 を 糧 に 生 き て い る 〉 と い う食物連鎖の問題は、ある意味自然の摂理であり、そうしなけれ ば私たちは生きていけない。それ故に誰もが〈食べる〉という行 為を本能的に罪も感じることなく行っている。だがこの水難事故 で は、 自 分 の 行 動 一 つ で 自 ら の 命 か 他 者 の 命、 ど ち ら か を 救 い、 どちらかを失うこととなる。たった一瞬の判断・行動が目の前の 人の生死を決めるのである。この時、青年は自らではなく、他者 の命を救う行動に出ている。つまり、他者の命を奪ってまでして 生きるよりも自らの命を犠牲にし、他者を助けるべきであるとい う考えを持っていたのだ。これこそが青年たちの信じる「ほんた うの神さま」へと続く「たゞしいみち」である。誰かの「さいは ひ」を願い、選び取った行動は、ジョバンニにふとパシフィック に い る 人 物 を 思 い 起 こ さ せ て い る。 そ の 人 物 こ そ ─ 漁 に 関 わ る 仕 事 を し て い る ─ ジ ョ バ ン ニ の 父 親 の こ と だ と 思 わ れ る が、 現 実世界においてはジョバンニを孤独な状況に追いやった原因の人 物 と し て 描 か れ て い た。 そ ん な 父 親 に 対 し、 ジ ョ バ ン ニ は 彼 の 「 さ い は ひ 」 の 為 ど う す べ き か 考 え、 塞 ぎ 込 む。 ジ ョ バ ン ニ の 中 心は今まで母親やカムパネルラのことであったが、青年たちの他 者を思い行動する姿を知ることで、父親の為にも何かしたいとい う思いを抱くようになってきている。だが、ここでもジョバンニ にとっての「さいはい」を考える対象がごく狭い世界でしかない ことも留意しておきたい。 次に、苹果について考えていく。燈台守はジョバンニやカムパ ネルラ、かほるたちに苹果を分け与える。ジョバンニとカムパネ ルラは今まで同じ列車に同乗し、青年の話を共に聞きながらもか ほるたちと全く関わることがなかった。燈台守が彼らにも声を掛 け、苹果を配ることで、ジョバンニとカムパネルラはこの三人と の距離を縮めることとなる。共に食べ物を食べる、もしくは食卓
を共にするという事は家族や親しい友人らの間で行われることで あり、人と人との関係性が育まれる場である。もとは見知らぬも の同士ではあったが、この何気ない燈台守の行動によって、ジョ バンニたちとかほるたちの関係に変化を及ぼし、サウザンクロス 駅に着くまで様々なことを語り合いながら共に旅をしていく道連 れへと変化している。
では、苹果にはどんな意味が隠されているのだろう。本テクス トにおいて苹果は幾度か登場している。だが現実世界においては ジョバンニが銀河世界に飛び立つ直前、いわば銀河世界の導入部 とも言える丘の上の場面に登場するのみであり、その他は全て銀 河世界でしか描かれない。つまり、苹果そのものが銀河世界に通 じる鍵となってもいるのである。そして、具体的にどういった際 に苹果というモチーフが描かれるのか。それは死者を彩るものと して、である。まずはカムパネルラがおっかさんの「いちばんの 幸」の為に何かを決心した際カムパネルラの頬は苹果のように美 し く 輝 く。 次 に、 水 難 事 故 の 死 者 で あ る 青 年 ら が 姿 を 現 わ す 直 前、ふいに辺りは苹果の匂に包まれる。ジョバンニやその他の乗 客、大学士、鳥捕りは苹果という言葉によって形容されることな どない。しかし死者であるカムパネルラ・かほるたちの行動は苹 果という言葉に形容されており苹果と死者との間に、深い結びつ きがあることがわかる。ここまでは、ジョバンニと死者たちの間 に違いこそあるが、死者たちには何ら違いなど描かれず、暗に死 者を示すものとして〈苹果〉という言葉が使われているのだと考 えられる。 だが、食べ物としての苹果はこの列車に乗車してきた青年、か ほる、タダシ、ジョバンニ、カムパネルラへと生者・死者関係な く皆に配られる。その中で、実際に苹果を口にする姿が描かれる のは、タダシのみである。しかし逆に言うならば、苹果を食べず に仕舞う姿が描かれるのはジョバンニとカムパネルラの二人だけ であることから、青年とかほるも苹果を食べた可能性があること を否定できない。では苹果を食べた、もしくはその可能性がある 三人に共通し、ジョバンニとカムパネルラに共通しないものとは 何だろうか。さらに言うならば、同じ死者である筈のカムパネル ラは何故苹果を口にしないのだろうか。 そもそも、ジョバンニは生者であり、青年たちやカムパネルラ と存在自体に大きな隔たりがあることは否定できない。前述した よ う に、 青 年 た ち が 姿 を 現 わ す 際 辺 り は 苹 果 や 野 茨 の 匂 に 包 ま れ、頬を苹果のように赤らめるカムパネルラにも通じる変化があ る。その変化がジョバンニには全く描かれない。しかし苹果の実 はジョバンニにも配られることから、単に生死にかかわる違いだ
けでこの苹果が配られていないことがわかり、死者だからこそカ ムパネルラも苹果を口にすると考えるのは、大きな間違いだとい う事に気付かされる。青年たちは、既に述べたように水難事故に 巻き込まれ、死を遂げている。様々な葛藤があったものの、最終 的には他者の為、ひいては「みんなの幸」の為という考えに基づ いた行動であり、自らの死を覚悟した上での行動であったと言え る。 そ の 裏 に は 人 の 命 を 代 償 に し て ま で 生 き る べ き で は な い と いった信念があった。その信念を支えるものこそ、サウザンクロ ス駅で下車する際に彼らが口にする「ほんたうの神さま」なので あ る。 銀 河 鉄 道 へ の 乗 車 を さ も 予 期 し て い な か っ た か の よ う に、 彼 ら は 突 然 姿 を 現 わ す が、 ジ ョ バ ン ニ や カ ム パ ネ ル ラ と 大 き く 違 い、 ど こ へ 向 か う 為 の 旅 で あ る の か、 「 ほ ん た う の 神 さ ま 」 と は 何 か を 知 っ て い る。 そ れ に 比 べ、 カ ム パ ネ ル ラ は 予 想 外 の 死 で あ っ た と 言 え る。 ザ ネ リ が 船 上 か ら 水 中 へ 落 ち て し ま っ た 時、 「 す ぐ に 」 カ ム パ ネ ル ラ が 飛 び 込 ん だ と 説 明 さ れ る よ う に、 カ ム パネルラは友人であるザネリが危険に直面するのを目の当たりに し、衝動的に「すぐ」行動したのであり、自分の命がどうなるの か、 と い っ た こ と を 考 え て は い な い 筈 で あ る。 青 年 た ち の よ う に、自身の命とザネリの命について考え、死をも覚悟した上での 行動ではなかったのだ。それ故に青年たちとは違い、銀河鉄道に 乗 車 し た も の の ど こ へ 向 か え ば い い の か わ か ら ず に い る。 ま た カ ム パ ネ ル ラ の 胸 の 内 を 占 め る の は 自 分 の 母 親 の 事 の み で あ り、 「 み ん な の 幸 」 を 考 え て は い な い。 最 後 の 場 面 で は、 ジ ョ バ ン ニ の「みんなの幸」の為に生きていこうという言葉に一時は同意す るものの、その後に続くのは、カムパネルラにとっての天上、母 親のことであった。つまり、他者の命と自分たちの命を天秤にか け、 自 ら の 命 を 犠 牲 に し た 青 年 た ち と は 違 い、 カ ム パ ネ ル ラ に と っ て の 中 心 は 母 親 で あ り「 み ん な の 幸 」 で は な い。 「 み ん な の 幸」を考えての行動であったのか、また自分にとっての「ほんた う の 神 さ ま 」 ─ 揺 る ぎ な い 信 念 が あ る の か、 こ の 二 点 が 青 年 ら とカムパネルラを比較した際、大きく異なる点だと言える。もち ろ ん、 「 さ い は い 」 と は 何 か を 考 え た 際、 苹 果 の よ う に 頬 を 赤 ら めるカムパネルラの姿が描かれていることから、カムパネルラも また苹果を口にし、天上へと旅立つ資格があったことが予想され る。だが、前述した点から、カムパネルラは彼にとって最も大切 な母親のいる天上へと旅立つことになったのだ。 ジョバンニはカムパネルラとは違い、特定の個人の幸ばかりに 捉 わ れ て い る わ け で は な く、 「 み ん な の 幸 」 を 最 後 の 場 面 で は 模 索している。しかし、ジョバンニは何度も述べているように生者 であり、まだ天上へと向かう資格を有していない。銀河世界に目
的地となる終着駅がないのは当たり前である。また、青年たちと の「ほんたうの神さま」論争に描かれるように、ジョバンニはま だ 自 分 の 信 じ る べ き 道 と い う の が 定 ま っ て い な い。 「 ほ ん た う の 神さま」を漠然と思い描いてはいるものの、はっきりと自分の信 じる「ほんたうの神さま」像を見つけられてはいないのだ。
苹果という言葉によって形容されることは死者皆に通じる事で あることから、天上に向かう資格は死者に対し、平等に与えられ て い る と 考 え ら れ る。 し か し、 苹 果 を 口 に す る こ と が 出 来 た の は、 青 年 た ち の み で あ っ た こ と か ら、 「 み ん な の 幸 」 を 願 い、 そ の為に何をすべきかを理解している者だけが苹果を食べ天上へと 向かうことが出来るのだ。切符(=苹果)は、鉄道に乗車するも の が 皆 手 に す る こ と の 出 来 る も の だ が、 〈 苹 果 を 食 べ 自 ら の 糧 に すること〉は天上へと旅立つ資格のある者だけが出来る行動なの かもしれない。その行動は特別な切符を手に入れる為に必要な通 過儀礼なのだ。そして、その切符を渡すのは、燈台守という港を 照らし人々を導く存在であり、彼はまさしくこの銀河鉄道の乗客 たちを天上へと導く役目を担っているのである。 五 水難事故の死者たち
ネルラにしか関心がないジョバンニの姿が浮き彫りになり、それ ないジョバンニの方に問題があるのだろう。ここにきて、カムパ 日のまま、小さく限られたカムパネルラとの世界でしか生きてい や他のクラスメイトといった友人が出来ているのだ。むしろ幼き 広げていっている。それは当然の変化であり、だからこそザネリ えられた交友関係の中だけではなく、自分自身の力で交友関係を つカムパネルラは大人へと成長しているのであり、親によって与 カムパネルラの関係を思い起こさせてくれる。昔に比べ、少しず 手にされず孤独感に襲われる。その姿は現実世界のジョバンニと パネルラはかほるやタダシにも関心を向け始め、ジョバンニは相 きてかほるやタダシという同年代の子供が登場することで、カム ネルラは、共に遊んだ幼い日の彼のままであった。だが、ここに が現れることがなかった。それ故にジョバンニにとってのカムパ 年代の子供たちだと思われる。今まで銀河世界では同年代の人物 べられることはないが、おそらくジョバンニやカムパネルラと同 事故の死者たちである。かほる、タダシの具体的な年齢は特に述 考 え さ せ る 人 物 ─ そ れ は、 か ほ る や タ ダ シ、 青 年 と い っ た 水 難 「 ほ ん た う の 神 さ ま 」、 「 ほ ん た う の 幸 福 」 と は 何 で あ る の か、
と 同 時 に ジ ョ バ ン ニ 自 身 も そ の 孤 独 を 埋 め て く れ る カ ム パ ネ ル ラ 以 外 の 第 三 者 を 求 め る よ う に な っ て い く。 現 実 世 界 に お い て は、決してこのような思いが描かれることはなかった。銀河世界 でジョバンニの関心が少しずつカムパネルラ以外の人物にも向き 始めており、彼の世界が広がりつつあることがわかる。ここまで の銀河世界の旅で学んだことが少しずつジョバンニに変化をもた ら し て き て い る の だ と 考 え ら れ る。 か ほ る や タ ダ シ の 存 在 が 改 め て、 カ ム パ ネ ル ラ と い う 個 人 だ け で な く そ れ 以 外 の 第 三 者 ─ 「みんな」へと考えさせるきっかけとなっている。
最 後 に 再 び、 「 標 本 」 と 関 わ り の あ る 話 が か ほ る と タ ダ シ に よ っ て な さ れ る。 そ れ は、 彼 ら の 父 親 か ら 聞 い た 蠍 の 話 で あ る。 博 物 館 で ア ル コ ー ル に つ け ら れ て い る 蠍 ─ こ れ こ そ、 「 標 本 」 であるが、その蠍を見たことから蠍に纏わる一つのエピソードが 語られる。それは、他者を殺し、命を奪いながらバルドラの野原 で生きてきた蠍が、いざ食べられる側の立場になった時、物語は 始まる。いたちに命を狙われた蠍は逃げ回った結果、井戸に落ち てしまう。井戸の水に溺れていくしかない現実に直面した際、蠍 は自分の命を差し出していたならば、いたちを生かす糧となった のではないか、という思いに至る。さらには、
「 こ の 次 に は ま こ と の み ん な の 幸 の た め に 私 の か ら だ を お つ かひ下さい。 」
と、神に祈るのである。今まで自分の生ばかり考え、他者の命を 奪うことを気にも止めていなかったが、死が身近なものとなった 時、 蠍 は 自 分 の 命 は「 み ん な の 幸 」 の 為 に 活 か さ れ る こ と を 望 む。これは、水難事故に遭った青年たちに通じる考えである。個 人 ば か り に 気 を 取 ら れ る こ と な く、 こ れ か ら 続 い て い く「 み ん な」の人生・命まで考慮しているのである。この話を聞いたジョ バンニとカムパネルラは悪い虫だと思っていた蠍が実はいい虫で あったのだと、教えられる。ここでも大学士が述べた多角的視点 を 持 つ こ と の 大 切 さ が 改 め て 感 じ ら れ る。 今 ま で ジ ョ バ ン ニ に と っ て の 世 界 と は カ ム パ ネ ル ラ や、 病 床 の 母 親 が 中 心 で あ っ た。 限られた親しい人々の幸福を願い、親切にするのは当たり前であ る。しかし、 「見ず知らず」の人であっても他者が生きていく為、 「 み ん な の 幸 」 の 為 に 自 ら を 捧 げ る と い う 蠍 の 考 え の 素 晴 ら し さ に気付き、深い感銘を受ける。今 まで狭い世界の中でしか物事を 判断していなかったジョバンニが大きく変化し、
「 み ん な の 幸 の た め な ら ば 僕 の か ら だ な ん か 百 ぺ ん 灼 い て も
かまはない。 」
と、 「 み ん な 」 に つ い て 考 え 始 め、 そ の 為 な ら ば 自 分 の 身 す ら 投 げうつ覚悟だと語る。その一方、これに賛同するものの、心の奥 底では母親への思いが根強いカムパネルラは、母親のいる天上の 元へと旅立ってしまう。
えていかなければならないのだ。 し、 学 び、 「 ほ ん た う の さ い は ひ 」 に つ い て ジ ョ バ ン ニ 自 身 が 考 り で あ る。 新 た な 旅 の 道 連 れ を 探 し な が ら、 様 々 な こ と を 経 験 バンニにとっての「ほんたうの神さま」探しはまだ始まったばか うの神さま」や「ほんたうのさいはひ」は未だわからない。ジョ 行 く こ と の 大 切 さ を 学 ぶ こ と が 出 来 た の で あ る。 だ が、 「 ほ ん た 周 囲 に 関 心 を 持 ち、 「 見 ず 知 ら ず 」 で あ っ て も 周 囲 の 為 に 生 き て く こ と で、 カ ム パ ネ ル ラ 一 人 に ば か り 気 を 取 ら れ る の で は な く、 漠然とした教えでしかなかった。旅を経て、さらには蠍の話を聞 「 標 本 」 と「 証 明 」 の 違 い を 大 学 士 か ら 教 わ っ た 時 に は、 ま だ
六 終わりに
人生には、必ず終わりの時が来る。その期限の長さに違いがあ り こ そ す る が、 ど の 人 物 に も 平 等 に 訪 れ る も の で あ る。 突 然 の 死、自ら選び取った上での死、不慮の事故による死。どんな死で あっても、なんの後悔や迷いを一切胸に抱くことなく、迎えるこ との出来るものではないだろう。とりわけ主人公であるジョバン ニにとって、予期せぬ幼馴染・カムパネルラの死は簡単に信じる ことの出来ない出来事だった事と思う。目が覚めるほんの少し前 ま で、 共 に 旅 を し て い た と な れ ば、 尚 更 で あ る。 し か し、 こ の 『 銀 河 鉄 道 の 夜 』 と い う 作 品 は た だ 大 切 な 人 の 死 を 嘆 き、 悲 し む 物語ではない。日々の中で、改めて自分を見つめ直し、生きる事 とはどんなことであるのか、問いかける物語である。 大学士は、知識があるからといって、その一つの概念に捉われ すぎてはいけないということ、人によって価値は異なるのだ、と いう事を教えてくれている。続いて出会う鳥捕りは、ジョバンニ と似通った人物として登場することで、客観的に自分自身を見つ める機会を与えてくれている。それと同時に、似た境遇にありな がらも、ジョバンニとは異なる人柄の鳥捕りと出会い、彼の良さ を 知 る こ と で、 鳥 捕 り の 為 に 何 か し た い と い う 気 ま で 起 こ さ せ る。最後には、燈台守と共にかほるやタダシ、青年と旅すること で、改めて個人だけではなく「みんなの幸」の為に生きて行くこ とを教えられる。これらは、現実世界においてジョバンニに足り なかった部分である。そして、日常生活の中では気付けなかった
事である。
銀河世界において数多くの事を学んだジョバンニは、ある〈変 化〉を遂げている。それは、銀河世界に飛び立つ前、呼ばれるこ とのなかったカムパネルラ、ザネリ以外の友人たちの名前が呼ば れることである。祭りの夜、既にザネリと共に会っていた友人た ちの名が銀河世界から戻り、目覚めた後、唐突に呼ばれるように なる。これは暗に、ジョバンニのものの見方が変わったこと、彼 にとっての世界が少しずつ広がってきていることを示しているの だと考えられる。
カムパネルラは、確かにジョバンニの目の前からは姿を消して しまった。しかし、カムパネルラという存在がいたからこそ、淋 しさに耐え、生活することが出来た。また銀河世界においてもカ ムパネルラの存在によって、自分が狭い世界の中でしか物事を見 ていないことに気付けたのだ。それは彼の死を経ても変わること がない。カムパネルラの存在は、死をもってして消えてなくなる のではなく、例え死んでしまっても、ジョバンニに様々な影響を 与 え 続 け る だ ろ う。 カ ム パ ネ ル ラ の 父 親 が 明 日、 「 み な さ ん と う ちへ遊びに」くるよう言うのもまたその一つである。どんな出来 事も決して無駄になどならない。全てが経験となり、次の変化や 成長をもたらすのである。 この物語は作者である宮沢賢治が執筆途中で亡くなってしまっ た 為、 永 遠 に 完 成 す る こ と の な い 作 品 と な っ て い る。 だ か ら こ そ、読者はそれぞれこれからのジョバンニの旅路を想像し、また 銀 河 鉄 道 の 行 く 末 を 想 像 し 続 け る こ と が で き る。 〈 未 完 〉 で あ る こと、それはこの物語を何よりも魅力的にしてくれていると私は 思う。
注注
注 注 『日本国語大辞典第二版第十一巻』(小学館・平成十三年十一月)
注 注 『日本国語大辞典第二版第七巻』(小学館・平成十三年七月)
とのない人間」と鳥捕りを評しており、また笠原祥子氏は「単なる は、「救いのない絶望に生きていながら、一度もおのれを省みたこ りをめぐって…)」洋々社「宮沢賢治」創刊号・昭和五十六年十月) 村文昭氏(「『銀河鉄道の夜』
─
そのシルエット画法(ザネリと鳥捕 を読む』辺境社・昭和六十三年六月)との説もある。その一方、中 て、天上のことさえしっている旅人」(佐野美津男『宮沢賢治の童話 六十二年十一月)の論や「銀河鉄道についてくわしいだけではなく 闇へ─
『銀河鉄道の夜』試論」・洋々社「宮沢賢治」第七号・昭和 地良く配る気の良い正直な人間」として説く岩見照代氏(「白い暗 注 鳥捕りを善良な人物と見なしている論として、「自分の獲物を皆に心〈殺生〉という意識に終わらない、もっと悪い罪を感じさせる」(「宮沢賢治とキリスト教
─
その作品と聖書との関わりを中心に─
」・藤女子大学「国文学雑誌」第七号・昭和六十年七月)との見方もしている。注注 と教材の研究」第二十三巻第二号・学灯社・昭和五十三年二月) 注 吉本隆明宮沢賢治「賢治文学におけるユートピア」(「国文学解釈
注 西田良子
注 ス出版・二〇〇一年四月) 『宮沢賢治『銀河鉄道の夜』作品論集近代文学作品論集成⑨』クレ 「「銀河鉄道の夜」論
─
ジョバンニの切符─
」(石内徹編注 新倉俊一
注 版・「星座」第六号・昭和五十九年七月) 「宮沢賢治と夢物語
─
『神曲』的幻想空間─
」(矢立出注 萩原昌好
注 年十月) 『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』(河出書房新社・平成十二
氷山にぶつかり沈没した点や多くの乗客が犠牲となった点など、タ タイタニック号の水難事故以前にも船の沈没事故はあったようだが、 没事故といえば、タイタニック号の事故を必ず想起させる筈である。 事を考えれば、作者・宮沢賢治にとっても、また読者にとっても沈 「銀河鉄道の夜」へむかって