東
洋
学
報
第一〇〇巻第二号
二〇一八年九月論 説
五胡十六国~北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰 雪 幸 人
は じ め に 本稿が考察の対象とする四~五世紀は、ユーラシア大陸全土において騎馬遊牧民の活動が活発化した時代である。
その影響によってローマ帝国や、漢とそれに続く魏・晋など、各地の古典帝国が解体し、同時に、より広域で新た
なネットワークが成立しつつあった時代とされる ︵1︶。 このようなユーラシア大陸全土にわたる変動が連鎖的に発生した背景として、従来の研究において前提とされて きたのは、前近代における遊牧民族が持つ騎馬軍事力の優位性である ︵2︶。 四~五世紀の華北において成立する五胡十六国・北魏も、以上一連の変革期の中に位置づけられてきた ︵3︶。そして、
五胡十六国・北魏時代は、それまで農耕を主たる産業として発展してきていた華北を、その北方に起源を有する胡
一二五
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
族が初めて組織的に統治した点に大きな特徴がある ︵4︶。このような騎馬集団による農耕地帯の支配が見られる当該時 代の諸国家は、森安孝夫氏の指摘するように﹁広義の征服王朝 ︵5︶﹂に位置づけられると言えよう。
騎馬軍事力を根幹とする胡族の華北支配の様相について、今かりに、五胡十六国時代後期にオルドスを拠点とし
ていた夏を例にとると、その華北進出戦略として﹃晋書﹄巻一三〇赫連勃勃載記に、義熙三年︵四〇七︶の夏の君主
の赫連勃勃による発言として、
吾れ雲騎風馳を以て、其の不意に出で、前を救えば則ち其の後を擊ち、後を救えば則ち其の前を擊ち、彼︵後
秦︶をして奔命に疲れしむれば、我は則ち游食自若たり ︵6︶。 とあり、その華北進出に際して、騎馬軍事力の機動性を活かした戦略を取っていたことが見て取れる ︵7︶。また、北魏
の支配体制においても、﹃魏書﹄巻三五崔浩伝に、神瑞二年︵四一五︶の崔浩の発言として、
今北方に居り、假令、山東に變有れども、輕騎もて南出し、威を桑梓の中に燿せば、誰れか多少を知らん。百
姓之を見るに、望塵震服せん。此れは是れ國家の威もて諸夏を制するの長策なり ︵8︶。 とあり、騎兵の軍事力を用いて華北︵とくにここでは関東︶を支配するというビジョンが明確に示されている ︵9︶。 これらの事例からも、五胡十六国・北魏の時代の胡族を中心とする諸国家において、騎兵の機動力を用いて華北
へと進出・支配する体制が取られていたことは明らかであろう。
それにもかかわらず、﹃晋書﹄巻一〇六石季龍載記上には、咸康三年︵三三七︶よりも後の出来事として、
季龍︵石虎︶の志は兵を窮むるに在るも、其の國內の馬少きを以て、乃ち私馬を畜 たくわうることを禁じ、匿する者 一二六
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 は腰斬す。百姓の馬四萬餘匹を收め以て公に入る ︶10
︵︹以下、史料A︺。
とあり、五胡十六国時代において﹁其國內少馬﹂を理由に、民間から馬を強制的に徴発するという事態が発生して
いるのである。この史料に見える﹁季龍﹂とは後趙の君主、石虎︵字が季龍︶のことで、民間への馬の徴発令が出さ
れたのは五胡十六国時代前半期の国家、後趙においてであった。
そもそも、﹁広義の征服王朝﹂だけでなく、歴代の中国王朝にとっても、馬を安定して確保することは、その支配
体制を維持する上で重要な課題であり、歴代の中国王朝が馬の飼育と獲得に極めて強い関心を持っていたことはす
でに繰り返し指摘されてきた ︶11
︵。そのような馬の飼育と獲得に関する政策は一般に﹁馬政﹂と呼ばれる。中原に成立
した歴代諸王朝の﹁馬政﹂のあり方については、南宋・章如愚の﹃山堂考索﹄後集巻四四兵門、馬政条の総論に、
馬政に三有り。之を官に牧するは、一なり。之を民に蓄うるは、二なり。之を戎狄に市 もとめるは、三なり ︶12
︵。
とあるのが代表的な馬政の方針を示していると言えよう ︶13
︵。
ましてや、胡族を中核とする国家において国内に存在する馬の数が十分でないというような状況は、胡族による 華北支配が可能となった背景に彼らの軍事的優位性を想定する従来の理解 ︶14
︵では、およそ考えられない問題である。
それは、五胡十六国史の理解の根幹にかかわるといわねばならない。では、この﹁其國內少馬﹂という状態は一体
何を意味するのであろうか。
一二七
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
一 後趙と軍馬 そもそも、五胡十六国時代の国家構造や胡族による華北支配の在り方についての研究において、今日まで大きな 影響を与え続けているのは谷川道雄氏の提唱した﹁宗室的軍事封建制﹂に関する議論である ︶15
︵。谷川氏によれば、五
胡諸国では君主の血縁者である宗室が軍事力を分有しており、その軍事力によって君主権を著しく掣肘している点
に五胡十六国時代の特徴があり、そのような分権制︵﹁宗室的軍事封建制﹂︶の根幹には、血縁に基づく﹁部族制﹂が
あるとする。本稿で問題とする後趙も谷川氏の議論において、軍事力を分有する宗室による抗争が繰り返された点
が強調され、﹁宗室的軍事封建制﹂を論ずるうえでの重要な分析対象となっている ︶16
︵。
この谷川氏の議論に対しては、これまで様々な角度から批判が加えられ、後趙についても特に軍事権の所在など をめぐって多くの批判・分析が行われている ︶17
︵。しかしながらその一方で、後趙の軍隊の構成については、その根幹
が胡族の﹁部族兵﹂によるという点以上の分析は十分になされてこなかった ︶18
︵。また、谷川氏自身も﹁その軍隊がい
かなる兵士によって充たされていたかは知るに由ないが、羯士の例から推すならば、基幹部分は勇猛な非漢族兵士
であったのではないか﹂と推測するが ︶19
︵、軍馬については全くと言っていいほど分析されてはいない。すると、後趙
の軍馬について着目するということは、胡族による華北支配の在り方を検討する上での新たな知見を提供すること
に繋がるのではなかろうか。
そこでまず、後趙という国家について確認しておきたい。後趙は五胡十六国時代前期の有力国家であり、羯族の 一二八
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 石勒により建国された。都は襄国︵現在の河北省邢台市︶に置かれ、後に石虎の即位と共に鄴へと遷都がなされた。
羯族については諸説あるものの、身体的にはインド=ヨーロッパ系の要素を持ちつつ混血した雑胡で、匈奴に従属
したことにより、その文化的要素を多く受け入れた人々とする町田隆吉氏の指摘が穏当とされている ︶20
︵。
その軍事力については、石勒が権力を拡大する過程で烏丸などの胡族集団を多く吸収しており、軍事的に胡族が 大きな役割を果たしていたことがすでに内田吟風氏によって指摘されている ︶21
︵。また、石勒は裸一貫から建国したた
め、石勒の時代に羯族が軍事の中心にいたとは言えないが、石虎末期には羯族を中核とする集団が後趙内で勢力を
有していたことが確認できる ︶22
︵。つまり、後趙もその成立と発展には、烏丸や羯族の持つ騎馬軍事力が関わっていた
ことは間違いないのである。
それならば、馬不足時の君主、石虎の時期の軍事態勢はどうなっていたのであろうか。この点については、﹃晋
書﹄巻七七蔡謨伝に、東晋において左衛将軍の陳光の上疏によって、後趙が領有していた寿陽への攻撃が計画され
た際、それに反対して出された征北将軍・都督徐兗青三州等諸軍事・領徐州刺史・仮節の蔡謨の上疏の中に、
而して賊︵石虎︶の郵驛、一日千里にして、河北の騎は、以て來赴するに足り、惟だ隣城相救うのみにあらず ︶23
︵。
とあることから、敵国の東晋から見ても十分に驚異的な騎馬軍事力を有していたことがうかがえる。また、このよ
うな軍事力については、﹃太平御覧﹄巻三〇〇、兵部三一騎条所引﹃鄴中記﹄にも、
趙王虎︵石虎︶の建武六年︵三四〇︶、⋮︵中略︶⋮虎は常に此の臺︵涼馬臺︶に于いて騎卒・虎牙・宿衞を棯練
し、雲騰黑矟騎五千人と號す ︶24
︵。
一二九
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
とあるように、首都の鄴に騎馬隊が組織されていたことが分かる ︶25
︵。これらのことから、後趙は建国以来石虎の時代
にいたるまで、騎馬軍事力の果たした役割が大きかったことは十分に確認できるのである。
では、前掲の﹁其國內少馬﹂という状況には如何なる背景が存在するのであろうか。まず確認すべきは、その理
由として当時の後趙に﹁季龍志在窮兵﹂という軍備増強の動きがあることである。前掲史料Aの直後には、
敕して河南四州をして南師の備に具え、幷・朔・秦・雍をして西討の資を嚴にし、靑・冀・幽州をして三五發
卒し、諸州の甲を造らしむる者は五十萬人 ︶26
︵。
とあるように、領内全域を巻き込んだ大動員令が出されていることが確認されるのである。
となれば、この﹁其國內少馬﹂という状況は、単純に﹁国内の馬が少ない﹂、という状況を述べたのではなく、石
虎の目ざす﹁軍備増強の規模に比して﹂、国内の馬が少ないという意ともとれる。
しかし、同載記には、百姓からの馬徴発令からしばらく後に、
季龍又た州郡の吏の馬一萬四千餘匹を取り、以て曜武關將に配し、馬主は皆な、復すること一年 ︶27
︵。
とある。ここに見える﹁曜武關將﹂が具体的に何を指すのかは不明であるが、百姓だけでなく州郡の吏からも馬を
徴発していることは、後趙が政権として運用可能な馬が不足していたことを示唆していよう。
さらに、前掲の史料Aでは﹁匿者腰斬﹂というほどの徹底した民間馬の徴収にもかかわらず ︶28
︵、集められた馬の合
計が﹁四萬餘匹﹂であった点にも着目したい。
そもそも、後趙の領内における民間の馬所有について考える際に重要なのは、後趙が度々行った大規模な強制移 一三〇
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 住政策︵徙民︶である。後趙は、征服した諸地域の人々や遠征先の住民を、首都の鄴を中心とする地域に数多く徙 民しており ︶29
︵、中でも徙民された胡族は、﹃晋書﹄巻一〇七石季龍載記下附冉閔載記に後趙崩壊の際の永和六年︵三五
〇︶のこととして、
靑・雍・幽・荊州の徙戶及び諸もろの氐・羌・胡・蠻數百餘萬、各おの本土に還らんとし、衟路交錯し、互相
に殺掠す ︶30
︵。
とあることが端的に示すとおり、後趙領内、特に首都近郊に数多く移住させられていた ︶31
︵。このような状況をうけて
市来弘志氏は、当時の鄴周辺は度重なる戦乱により農業が衰退しており、牧畜がその人口を支える重要な産業の一
つであったと指摘している ︶32
︵。しかし、馬は食用を主目的として飼われる家畜とは異なるうえ ︶33
︵、上掲史料の﹁數百餘
萬﹂というような胡族の人口に鑑みても、後趙の軍馬の供給源を百姓等の国内のみに求めるには、国家の把握する
馬の数として四万頭という数は少ないと言わざるを得ない。領内全域を巻き込んだ大動員令に際して国家として強
引な徴発を行っても、四万頭﹁しか﹂集められない状況、それが﹁其國內少馬﹂という表現に繋がったといえよう。
その要因は、一つには後趙の領域の地域性に起因すると言える。後趙が管理する軍馬について、牧地の分布から
考えてみよう。後趙領内の国家直営牧地については、﹃晋書﹄巻一〇四石勒載記上に、茌平︵現在の山東省聊城市︶の
﹁馬牧﹂や、その東の﹁赤龍・騄驥諸苑﹂など、西晋時代に関東に置かれた馬牧・苑がいくつか確認できる。ただ
し、それらの馬牧・苑の馬を基盤に兵を挙げた石勒らの勢力が、﹃太平御覧﹄巻一二〇偏覇部四後趙条引﹃十六国春
秋﹄後趙録に、
一三一
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
二年︵永興二年、三〇五︶、陽平の人、公師蕃等自ら將軍を稱し、兵を趙・魏に起こし、眾は數萬に至る。勒︵石
勒︶と汲桑は牧人を率い苑馬數百騎に乘り、以て之に赴く ︶34
︵。
とあり、公師蕃らの数万人に及ぶ軍勢に石勒が合流するに際して、苑馬数百騎のみで参加している点から、西晋時
代の関東の馬牧・苑の規模が数千頭あるいは数万頭を擁するような大規模なものではなかったことがうかがえる。
また、五代から宋代以降には、後趙の拠点の近くにあたる相州に安陽監が置かれていたことが知られるが ︶35
︵、前漢代
には﹃漢書﹄巻五景帝紀、中元六年六月条の如淳注に引かれた﹃漢儀注﹄に、
太僕牧師諸苑三十六所、北邊・西邊に分布す。⋮︵中略︶⋮馬三十萬疋を養う ︶36
︵。
とあり、﹃続漢書﹄百官志二・太僕条に、
又た牧師菀有り、皆な令官、養馬を主どり、分かれて河西六郡の界中に在り。中興皆な省き⋮ ︶37
︵。
とあるように、前漢代の養馬の中心はむしろ河西回廊に置かれていた ︶38
︵。
また、唐代の監牧についても、既に多くの先行研究が指摘しているように、﹃唐文粋﹄巻二二張説﹁大唐開元十三
年隴右監牧頌徳碑﹂に、
大唐、周隋亂離の後に接し、天下征戰の弊を承け⋮︵中略︶⋮貞觀自り肇め、麟德に成り、四十年閒、馬は七
十萬匹に至り、八使を置き以て之を董べ、四十八監を設け以て之を掌る。隴西・金城・平涼・天水四郡の地に
跨り、幅員千里、犹お隘狹と爲すがごとくんば、更めて八監を析き、河曲豐曠の野に布き、乃ち能く之を容る ︶39
︵。
とあり、その多くは西北部、特に隴西と河西回廊を中心に偏在していた ︶40
︵。このことから、漢から唐にかけての華北 一三二
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 における養馬の中心は西北部であり、後趙が本拠地とした鄴一帯を中心とする﹁関東﹂は、当時においても養馬が
盛んとは言えない地域であり、本来、大量の軍馬を安定して供給できる地域とはみなせないのである。
ところがその一方で、先述のように後趙政権が強大な騎馬軍事力を有していたことは間違いない。では、その軍
馬の供給源はどこに求められるのであろうか。すると考えねばならないのは、政権支配地域外部からの馬の輸入で
あろう。それはどこからであろうか。
二 後趙の軍馬供給源 まず、漢・唐において主要な馬の供給地であった西北部であるが、当時は前涼 ︶41
︵がその大部分を支配していた︵論
文末尾の附図参照︶。前涼と後趙との関係を史料から追うと、長安を拠点としていた前趙を石勒が滅ぼした三二〇年
代末に両者は領域を接するようになり、﹃晋書﹄巻一〇五石勒載記下に、石勒が皇帝に即位し建平元年︵三三〇︶と
改元した時期のこととして、
涼州牧張駿、長史馬詵を遣わし圖を奉じ、高昌・于然・鄯善・大宛の使を送り、其の方物を獻ぜしむ ︶42
︵。
とあるように、三三〇年には前涼君主の張駿から後趙への使者の派遣が確認できる。しかし、その前後の交通のあ
り方については、﹃晋書﹄巻八六張駿伝に、
初め、建興中︵三一三~三一六︶、敦煌計吏の耿訪、長安に到るに、旣にして賊に遇い、反るを得ず、漢中に奔
り、因りて東して江を渡り、太興二年︵三一九︶を以て京都に至る。屢しば上書し、本州の未だ中興を知らざる
一三三
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
を以て、宜しく大使を遣わすべく、鄕導を爲さんことを乞う。⋮︵中略︶⋮始めて訪を以て治書御史を守せし
む。駿︵張駿︶を拜して鎭西大將軍とし、校尉・刺史・公は故の如し。西方人隴西の賈陵等十二人を選び之に
配す。訪、梁州に停まること七年、驛衟の通ぜざるを以て、召還せらる。訪、詔書を以て賈陵に付し、託して
賈客と爲る。長安に到り、敢えて進まず、咸和八年︵三三三︶を以て始めて涼州に逹す。九年⋮︵中略︶⋮是れ
より每歲使命絶えず。後、駿、參軍麴護を遣わし上疏して曰く⋮︵中略︶⋮自後、駿の遣使多く季龍の獲る所
と爲り、逹せず ︶43
︵。
とあるように、東晋の命を受けて前涼へ向かった耿訪がその命を果たせず、配下の賈陵を商人にかこつけて詔書の
伝達を目指したところ、それもなかなかうまくいかなかった。その理由として、中間に後趙があるために、前涼と
東晋の交通が自由でなかったことを示している。つまり、三三〇年代初頭までは、後趙・前涼間においては商人︵賈
客︶であっても自由には行き来できず、その往来には大きく制限がかけられていたことがうかがえる。それに加え
て、三三三年に石勒が没し、石虎が即位する三三四年の前後においても、石虎の権力拡大の過程において、宗室の
石氏による反乱が頻発し、長安とその周辺地域でも反乱がおきている ︶44
︵。これに乗じて、後趙から前涼に鞍替えした
勢力もあるなど、この混乱期には後趙政権と河西との政治的交通は断絶が生じていたことが確認できる。さらに、
前掲張駿伝には続けて、
後、駿は又た護羌參軍陳㝢・從事徐虓・華馭等を遣わし京師に至らしめ、征西大將軍亮︵庾亮︶上疏して言え
らく、﹁陳㝢等は險を冐し遠く至る。宜しく銓敍を蒙むるべし﹂と。詔して㝢を西平相に除し、虓等を縣令と爲 一三四
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 す ︶45
︵。
とある。ここで上疏している庾亮が征西将軍であったのは三三四年~三三九年であり、その間に江南に到着した使
者を﹁冐險遠至﹂としてとりたてて叙している点から見れば、三三〇年代を通じて、前涼・後趙間の交通は大きく
制限されていたとみて大過ないであろう。
この後、再び両者の交通が確認できるのは、﹃晋書﹄石季龍載記上の、
張駿、季龍の盛を憚り、其の別駕馬詵を遣わし之に朝せしむ ︶46
︵。
とある前涼から後趙への遣使記事で、﹃資治通鑑﹄はこの記事を咸康六年︵三四〇︶に繋年している。ところが、﹃晋
書﹄巻七康帝紀建元元年︵三四三︶八月条には、
石季龍、其の將の劉甯をして攻めて狄衟を陷さしむ ︶47
︵。
とあるように、当時前涼の勢力圏であった狄道を後趙の軍が攻撃しており ︶48
︵、軍馬の供給源となりうる前涼との戦争
が始まっている ︶49
︵。さらに三四六年の張駿の死とともに、後趙による大攻勢が行われており、両者の関係は引き続き
不安定であった。
すなわち、前涼と後趙の関係は、後趙の勢力拡大に圧迫された前涼が使者の派遣と貢献を行うことはあっても、
基本的には敵対的関係にあり、前涼から後趙に安定した大規模な馬の供給があったとは考えにくい状況であったと
言えるのである ︶50
︵。
そこで、前涼とは別に後趙に馬を献じていた勢力を探すと、﹃晋書﹄石勒載記下に、三三〇年の石勒の皇帝即位に
一三五
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
際して、
時に高句麗・肅愼は其の楛矢を致し、宇文屋孤、並びに名馬を勒︵石勒︶に獻 すすむ ︶51
︵。
とあり、東北方面のシラ・ムレン上流域に拠点をもっていた宇文部等からの献馬が確認できる。この宇文部による
献馬については、さらに﹃晋書﹄石季龍載記上に、
鎭北宇文歸、段遼の子の蘭を執送し季龍に降り、駿馬萬匹を獻む ︶52
︵。
と記されている。この記事は﹃資治通鑑﹄では三四三年に繋年されており、宇文部が三四四年に慕容部の攻撃によ
り滅亡することを考えれば、宇文部はその滅亡の前年まで後趙に対して馬を献じていたことがうかがえるのである。
このような宇文部と後趙との交通が断続的に続いていたことは、﹃資治通鑑﹄巻九七建元二︵三四四︶年正月条の
後に、
初め、逸豆歸︵宇文逸豆歸︶の趙に事うること甚だ謹にして、貢獻は路に屬なる ︶53
︵。
とあることからもうかがえる。この﹁貢獻﹂に馬が含まれていたことは、まず間違いないであろう。つまり、後趙
の軍馬の供給源は、東北の宇文部から輸入された馬に求められるのである。
三 軍馬徴収の理由 それならば、このような外部からの大規模な馬の供給があったにもかかわらず、後趙が民間から軍馬として馬を
強制徴発するに至った原因はどこにあったのであろうか。 一三六
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 この点を考えるには、まず、後趙が百姓から私馬を徴発した年代を考える必要がある。しかし、五胡十六国時代の出来事について年代が明記されていた北魏・崔鴻による﹃十六国春秋﹄は既に散逸し、最もまとまった史料の残る﹃晋書﹄載記は出来事の年代についての記載が不明確である。そこで、百姓からの馬徴発令について﹃資治通鑑﹄
を確認すると、三四〇年に繋年されている ︶54
︵。しかし一方で、前述の史料Aの私馬の徴発記事の後に記載されている
﹁河南四州をして南師の備に具え⋮﹂という動員令は、三四二年に繋年されている。このため、馬徴発令の年代比定
については、後世に五胡十六国関係史料を整理した人々も処理を迷ったようで、明・屠喬孫らによる﹃十六国春秋﹄
では巻一六後趙録六石虎中の建武六年︵三四〇︶条と建武八年︵三四二︶条の両方に私馬の徴発記事を記載し ︶55
︵、清・
湯球の﹃十六国春秋輯補﹄では私馬の徴発を三四二年に比定している ︶56
︵。
この私馬の徴発を三四〇年と三四二年のいずれに比定すべきかは断定し得ないが、三四〇年から三四二年の間︵三
四〇年代初頭︶の出来事であることだけは大過あるまい。
そこで、この三四〇年代初頭の後趙と宇文部をめぐる国際関係についてあらためて考察してみたい。
宇文部の勢力圏については、西は代︵拓跋部︶、南は段部、東は慕容部︵前燕︶等と接していたと推測される ︶57
︵。そ
のため、後趙と宇文部の間にはこれらの諸集団が存在していたのであり、宇文部と後趙の交流を考えるには、二勢
力間の関係だけでなく、その間に存在したこれら諸集団を含めた国際関係を確認しなければならない︵附図参照︶。
まず、慕容部については、周知のとおり、後に後趙の滅亡に乗じて華北の東半分を支配する前燕を建国するので
あるが、三二〇年代ではその勢力範囲はいまだ大凌河中流域に限定されており、著しく拡大するのは三四〇年代に
一三七
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
入ってからである ︶58
︵。三三〇年代から三四〇年代初頭の動向としては、三三三年に君主の慕容廆が死去し、後継者争
いが勃発するが、三三六年に慕容皝が勝利を収めた ︶59
︵。三三八年には、隣接する段部への対抗策として後趙とむすび、
段部を攻撃して敗走させたが、その軍事行動・利益分配をめぐって後趙と対立することとなった。その結果、﹃晋
書﹄石季龍載記上には、遼西鮮卑の段遼を討伐した記事の後に、
初め、慕容皝は段遼と隙有り、使を遣わし季龍に稱藩し、遼の宜しく伐つべきを陳べ、眾を盡くして來會せん
ことを請う。軍の令支に至るに及び、皝の師出でず、季龍將に之を伐たんとす ︶60
︵。
とあり ︶61
︵、同巻一〇九慕容皝載記の咸康三年︵三三七︶の慕容皝の燕王即位記事の後に、
季龍、進みて令支に入り、皝の會師せざるを怒るや、軍を進めて之を擊ち、棘城に至る。戎卒は數十萬、四面
進攻し、郡縣諸部の季龍に假應する者は三十六城 ︶62
︵。
とあるように、大規模な後趙の侵攻を被っている。この後趙の侵攻を数年かけて撃退した慕容部は、三四〇年には
後趙の東北辺に侵攻するなど反撃に転じた。その外交方針は江南の東晋と結び、後趙とは基本的に敵対するもので
あった ︶63
︵。
一方の段部は、後趙の東北辺でその勢力と接し、﹃晋書﹄巻六三段匹磾伝の末尾に、
務勿塵︵段務勿塵︶より已後、晉の喪亂に値り、自ら位號を稱し、據りて遼西の地を有ち、而して臣として晉人
を御す。其の地は西は幽州を盡くし、東は遼水を界とす。然して統べる所の胡晉は三萬餘家可り、控弦は四・
五萬騎可りにして、而して石季龍と遞いに相い侵掠し、連兵して息まず、竟に季龍の破る所と爲る ︶64
︵。 一三八
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 と総括されるように、後趙と断続的に戦闘を繰り返した後、前述の三三八年に慕容部・後趙の攻撃を受けて、著しくその勢力を減退させた。そのため、三三〇年代の末には慕容部と後趙が勢力を接し、抗争を繰り広げてゆくことになる ︶65
︵。
それに対して、後に北魏を建国する拓跋部は、宇文部との対立はほぼ認められず、三三〇年代中盤まで後趙とも
密接な関係を持っていたことが、﹃魏書﹄巻一序紀に現われている。以下、序紀にもとづいて整理すると、烈帝元年
︵三二九︶条に、
石勒、使を遣わし和を求め、帝は弟の昭成皇帝を遣わし襄國に如かしめ、從う者は五千餘家 ︶66
︵。
とあり、三二九年に代から後趙へ人質が送られていたことが確認できる。さらに、煬帝後三年条︵三三七︶には、
石虎、將の李穆を遣わし騎五千を率い烈帝を大甯に納れしむ ︶67
︵。
とあり、三三七年には、クーデターにより地位を追われ後趙に亡命していた烈帝︵拓跋翳槐︶が後趙の援助のもと、
再び君主の座に返り咲くなど、三三〇年以前から代国と後趙は密接な関係があったことがわかり、当時の代国は、
後趙と宇文部との交通を仲介し得る勢力であったことが推測できる。
一方、三四〇年前後となると、昭成帝建国二年条に、
慕容元眞︵皝︶の妹を娉し皇后と爲す ︶68
︵。
とあり、復位後一年経たずして死去した拓跋翳槐の後を継いだ昭成帝︵拓跋什翼犍︶が、即位翌年︵建国二年、三三九︶
に慕容氏と婚姻を結んでいる。前述の通り、三三九年はまさに後趙と前燕の関係が悪化している時期である。これ
一三九
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
は、代国が親後趙路線から親前燕路線に切り替えたことを示唆する ︶69
︵。この結果、﹃資治通鑑﹄巻九七、咸康八年︵三
四二︶一〇月条の建威将軍の慕容翰による慕容皝への発言中に、宇文部の現状を分析して、
宇文の强盛なること日久しく、屢しば國︵慕容部︶の患と爲る。⋮︵中略︶⋮遠く强羯︵後趙︶に附くと雖も、
聲勢は接せず、救援に益無し ︶70
︵。
と述べられているように、三四二年には後趙と宇文部との交通が遮断されていたことがうかがえる。前節末尾で、
宇文部は滅亡寸前まで後趙に馬を献じていたと述べたが、右の史料によればこの時の両者の交渉は一時的に途絶え
ていたことが知られる。
そして、馬の徴発令と、後趙と宇文部との交通が途絶えた時期とがまさに一致しているのである。とすれば、後
趙と拓跋部・慕容部︵前燕︶など東北の諸勢力との関係悪化が、宇文部と後趙の交通路を閉ざす要因となり、それ
が後趙の馬不足につながったと見てまず間違いないであろう。
代や慕容氏のように、北方民族が外交手段として中国への馬の輸出を停止する例は、やや時代は遡るが、﹃三国
志﹄魏書巻二六田豫伝に、
文帝の初め、北狄彊盛にして、邊塞を侵擾し⋮︵中略︶⋮高柳以東より濊貊以西まで、鮮卑數十部、比能・彌
加・素利、地を割き統御し、各おの分界有り。乃ち共に要誓し、皆な馬を以て中國と市 あきないするを得ざらしむ ︶71
︵。
とあるように、鮮卑等にとっては重要な外交カードの一つとして三国時代にもすでに見えている。この例から後趙
と対立する慕容部および代国が、宇文部から後趙への軍馬の輸送を阻んだことも十分に推定できよう。 一四〇
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 なお、後趙における馬不足は、先に見た三四三年の宇文部による献馬によって一旦は解消されたと推測できる。しかし、その宇文部は慕容部の攻撃をうけて三四四年には崩壊してしまった。また、前述のように三四三年には、当時前涼の勢力圏であった狄道を後趙の軍が攻撃しており、馬の供給源である前涼との戦争が始まっている。それならば、宇文部の崩壊後、後趙にとって宇文部に変わる馬の供給源は存在したのであろうか。 そこで注目したいのは、先に紹介した夏の前身で、オルドスを拠点とする鉄弗の劉務桓との関係である。﹃魏書﹄
巻九五、鉄弗劉務桓伝には、
務桓、一名は豹子。種落を招集し、諸部の雄と爲る。潛かに石虎に通じ、虎拜して平北將軍・左賢王と爲す ︶72
︵。
とあり、石虎による劉務桓への冊封がみえる。これは﹃晋書﹄赫連勃勃載記に、
祖の豹子︵劉務桓︶は種落を招集し、復た諸部の雄と爲る。石季龍︵石虎︶、使を遣し就きて平北將軍・左賢王・
丁零單于に拜す ︶73
︵。
とあるように、後趙側からの接触である可能性が高い。そして、この冊封は﹃魏書﹄序紀、昭成帝建国四年︵三四
一︶一〇月条に、
劉虎は西境に寇す。帝は軍を遣わし逆討し、大いに之を破り、虎僅かに身を以て免る。虎死し、子の務桓立つ ︶74
︵。
とあることから分かるように、劉務桓が酋長となった三四一年一〇月以降のことである。冊封や授官などの政策に
は、授与する側の国内事情も背景に存在することを忘れてはなるまい。つまり、馬不足の時期にはじめて後趙と鉄
弗劉氏との関係が始まるのである ︶75
︵。
一四一
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
以上をまとめると、馬の徴発令が出された三四二年までの三四〇年代初頭においては、後趙と東北の遊牧勢力と
の関係が大幅に悪化したことにより、軍馬の供給源が断たれていたと言える。逆に言えば、後趙の軍事力・支配力
の根幹となるべき軍馬は、国外の遊牧勢力との密接な交渉によって確保されていたことが、この点から改めて確認
されるであろう。
四 胡族国家における馬不足 さて、後趙を事例として胡族国家における馬不足について分析してきたが、このような馬不足の問題は、実は後
趙のみで発生していたのではない。慕容氏によって建国された前燕・後燕においても、従来の根拠地から離れて南
方に進出して軍馬を消耗し、その補充が間に合わずに軍馬不足が発生していたことが滅亡の一因であった点が、先
行研究によって指摘されているのである ︶76
︵。その根拠としては、前燕が行った徙民政策が、後半期になると大量の家
畜を伴うようになる点が挙げられている。つまり、胡族の華北進出すなわち南方進出には、軍馬不足を引き起こす
という危険性を常にはらんでいたと言える。
この問題は、五胡十六国に続く北魏にも見られる点に注意しなければならない。
まず、北魏の軍馬の状況について北魏洛陽遷都︵四九四年︶以前の軍馬供給体制の変遷を追って確認すると、﹃魏
書﹄巻三三張済伝に、張済が襄陽へ使者として派遣された際の東晋の雍州刺史の楊佺期とのやり取りを報告した中
で、北魏の﹁被甲戎馬﹂の数について﹁中軍精騎十有餘萬﹂と述べているように、北魏が当初より豊富な馬を保有 一四二
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 する勢力であったことは間違いない。これに加えて四二九年に柔然を打ち破るまでの段階では、対外戦争による掠奪と税による徴收が確認できる ︶77
︵。
また、四二九年に柔然を破った後には、﹃北史﹄巻九八高車伝に、
後、太武、蠕蠕を征し、之を破りて還る︵四二九年︶。漠南に至り、高車東部の巳尼陂に在りて、人畜甚だ眾く、
官軍を去ること千餘里なるを聞き、將に左僕射安原等を遣わし之を討たんとし⋮︵中略︶⋮皆な徙して漠南千
里の地に置く。⋮︵中略︶⋮歲ごとに獻貢を致す。是れ由り國家の馬及び牛・羊は遂に賤に至り、氈皮は委積
す ︶78
︵。
とあるように、陰山周辺で放牧する高車から膨大な数の家畜が献貢されていることが分かる。これによって、周辺
勢力からの掠奪が不要となったが、四九〇年代︵孝文帝期︶になるとその陰山が荒廃し、北魏に打撃を与えたことも
指摘されている ︶79
︵。
また、陰山方面だけでなく、漢代・唐代でも牧畜の中心であったオルドスや河西についても、﹃魏書﹄巻一一〇食
貨志に、
世祖の統萬を平げ︵四三一年︶、秦隴を定むるや、河西の水草の善きを以て、乃ち以て牧地と爲す。畜產滋息し、
馬は二百餘萬匹に至り、橐駝は將に之に半ばし、牛羊は則ち無數なり ︶80
︵。
とみえ、版図の拡大に伴い、広大な牧場地と豊富な家畜を北魏が確保していたことが見受けられる。さらに、﹃魏
書﹄巻一〇〇、庫莫奚伝および契丹伝には、東北地方の諸族との交易が記され、北魏は後趙と同じく東北方面との
一四三
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
交易・朝貢を通じても馬の輸入を確保していたのである。
以上から、北魏洛陽遷都以前においては、豊富な軍馬を国内外から調達する体制が確立していたと言える。
北魏の政治体制が孝文帝による洛陽遷都を契機として大きく転換したことは周知のとおりであるが、洛陽遷都以
後の軍馬供給問題を見ると、﹃魏書﹄巻四四宇文福伝に、
時に遷洛に仍り、福︵宇文福︶に敕して牧馬の所を檢行せしむ。福は石濟以西・河內以東を規 くぎり、黃河を拒てる
こと南北千里もて牧地と爲す。事尋で施行され、今の馬場は是れなり。代より雜畜を牧所に移すに及び、福將
養に善くし、並な損耗無く、高祖之を嘉す ︶81
︵。
とあり、河陽に大規模な牧場が設置されたことが確認される。この﹁馬場﹂で養われた馬の供給源については、﹃魏
書﹄食貨志には、
高祖遷洛︵四九四︶の後 ︶82
︵、復た河陽を以て牧場と爲し、恆に戎馬十萬匹を置き、以て京師の軍警の備えに擬す。
每歲河西より牧を幷州に徙し、漸を以て南に轉じ、其の水土に習いて死傷すること無きを欲するなり ︶83
︵。
とあり、大規模な牧場︵馬場︶は、その設置当初には馬および雜畜が代から移され、以後は河西から供給されてい
たことがわかる。洛陽周辺で馬が十分に繁殖できるのであれば﹁每歲﹂河西より牧を徙す必要はないからである。
なお、この﹁馬場﹂は、前掲の宇文福伝に﹁今之馬場是也﹂とあることから、﹃魏書﹄の成立時、則ち北魏の分裂以
後も存続していたことが知られる。
以上のことから、牧畜民を数多く擁する北魏においても、農耕地帯である洛陽を拠点とした後は、洛陽近辺で馬 一四四
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 を繁殖させるのではなく、北方から供給されたものを飼育していたことが分かるのである。 このような洛陽遷都にともなう馬の供給体制変更に対する北魏朝廷内での認識については、遷都に先立って、その是非をめぐる議論の中で、﹃魏書﹄巻一四東陽王丕伝に、燕州刺史穆羆による遷都反対意見と、孝文帝の反論とい
うかたちで次のようなやりとりが載せられている。すなわち、
高祖の都を遷さんと欲するに及び、太極殿に臨み、留守の官を引見し大いに議す。⋮︵中略︶⋮羆︵穆羆︶曰
く、﹁⋮︵中略︶⋮四方未だ平らかならず、九區未だ定まらず。此を以て之を推すに、謂えらく不可と爲す。征
伐の擧は、戎馬を要須し、如し其れ馬無くんば、事克つべからず﹂と。高祖曰く﹁卿の馬無きと言うは、此の
理粗ぼ可なり。馬は常に北方に出づるも、廏は此の置に在り、卿、何ぞ馬無きを慮らんや﹂と ︶84
︵。
とあり ︶85
︵、ここでは洛陽遷都に反対する理由として、洛陽周辺では軍馬を確保することが困難であるという意見が出
されている。それに対して洛陽遷都の主導者である孝文帝は、その主張を大筋で認めながらも︵﹁卿言無馬、此理粗
可﹂︶、﹁馬常出北方、廏在此置﹂と反論している。ここに見える﹁廏在此置﹂という一文は﹃資治通鑑﹄巻一三九、
建武元年︵四九四︶三月条では﹁廏牧在代﹂となっており、これによれば﹁此﹂とは﹁代の地﹂を指しており、孝文
帝は、北方の厩を確保すれば軍馬について心配する必要はないと反論しているのである。
つまり、後趙において発生したような、胡族の華北進出・南方進出にともなう軍馬の不足という危険性は、北魏
においても認識されていた事態なのである。
一四五
東 洋 学 報第一〇〇巻 第二号
む す び 以上、本稿で指摘したことをまとめると、
︵1︶五胡諸国の支配の根幹とされる軍馬は、華北では西北部を除いて生産されず、北方の地域︵いわゆる農牧接壌地
帯以北 ︶86
︵︶から輸入・輸送されていたこと、
︵2︶胡族を中核とする国家であっても、北方からの軍馬の輸入・輸送に問題が生じれば華北支配にも支障をきたし
たこと、
︵3︶農牧接壌地域以北を領有できなかった胡族国家にとって、北方の諸勢力との関係性こそが華北支配の重要な課
題であったこと、
のごとくである。
先に述べたように、本稿が主な考察の対象とした五胡十六国時代が、ユーラシア大陸全土にわたる変動が連鎖的
に発生した時代であることは、概説書や通史で繰り返し指摘されている。一方で従来の五胡十六国研究では、十六
国各国の内部構造を分析し、主として一国史の研究によって当該時代を中国史に位置づける傾向にあり、ユーラシ
ア史上に位置づけようとする通史・概説との間には乖離が生じていたといえる。﹁馬﹂という、胡族の華北支配の根
幹をになう﹁モノ﹂が、十六国の外から輸入されていたとする本稿のような見方は、五胡十六国時代を世界史上に
位置づけようとする視点と、中国史上に位置づけようとする視点との橋渡しとなるのではあるまいか。つまり、一 一四六
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 国史としてではなく、五胡諸国全体の構造を見て、初めて五胡十六国時代の史的あり方を認識できるのではないかということである。 また、五胡十六国時代に北方民族が華北を支配するに当たって、その拠点が南下すると、支配の根幹である軍馬が十分に供給されなくなる現象は当該時代のみならず五代十国においても指摘され ︶87
︵、さらには、遼においても、滅
亡の一因に軍馬不足が指摘されている ︶88
︵。華北統治の拡大と進展が、統治を行う上で基盤となる軍馬を不足させると
いう問題は、五胡北魏期のみの問題ではなく、﹁広義の征服王朝﹂による農耕地支配の構造を考える上でも重要な示
唆を与えるのではないだろうか。
註︵
︵ 二〇〇一年、四一︱四二頁︶参照。 年、五九︱六一頁︶、妹尾達彦﹃長安の都市計画﹄︵講談社、 業ネットワークの変動を中心に﹄︵岩波書店、一九九一 1︶ 家島彦一﹃イスラム世界の成立と国際商業国際商
︵ 究﹄一七、二〇〇二年︶。 二〇一五年所収、三︱六頁。初出は﹃内陸アジア言語の研 イグルと中央ユーラシア﹄第一篇1、名古屋大学出版会、 2︶ 森安孝夫﹁ウイグルから見た安史の乱﹂︵同氏﹃東西ウ
3︶ 妹尾達彦﹁中華の分裂と再生﹂樺山紘一ほか編︵﹃岩波 講座世界歴史9中華の分裂と再生3︱
︵ 二〇一二年、二頁︶。 国中国史上の民族大移動︹新訂版︺﹄︵東方書店、 店、一九九九年所収、一四︱一六頁︶。三崎良章﹃五胡十六 13世紀﹄、岩波書
︵ またはしていた諸集団を﹁胡族﹂と総称する。 と呼び、中国の北方に居住し、遊牧・牧畜を生業とする、 4︶ 以下、本稿では、長城以南、淮河秦嶺以北を﹁華北﹂
胡・北魏時代の政治と社会﹄五胡篇第四章、創文社、 の成立とその性格﹂︵同氏﹃中国史上の民族移動期五 5︶ 森安氏前掲書、四︱五頁。なお、田村實造﹁慕容王国
一四七
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
一九八五年所収、一四一頁。初出は﹃東洋史研究﹄一一︱二、一九五一年︶は、五胡十六国を征服王朝の先駆けと見なす。︵
︵ 前、使彼疲于奔命、我則游食自若。 6︶ 吾以雲騎風馳、出其不意、救前則擊其後、救後則擊其
︵ 文化研究﹄一、一九九九年︶。 7︶ 市来弘志﹁赫連勃勃の領土拡大過程について﹂︵﹃東洋
︵ 也。 誰知多少。百姓見之、望塵震服。此是國家威制諸夏之長策 8︶ 今居北方、假令山東有變、輕騎南出、燿威桑梓之中、
︵ る長城建設の意義﹂︵﹃東方学﹄九〇、一九九五年︶。 9︶ 勝畑冬實﹁北魏の郊甸と﹁畿上塞囲﹂胡族政権によ
︵ 收百姓馬四萬餘匹以入于公。 10︶ 季龍志在窮兵、以其國內少馬、乃禁畜私馬、匿者腰斬。
︵ 九七二年、一︱二四頁︶等参照。 九七七年︶、谷光隆﹃明代馬政の研究﹄︵東洋史研究会、一 訳:千田英二訳﹃中国養馬史﹄日本中央競馬会弘済会、一 11︶ 謝成侠﹃中国養馬史﹄︵科学出版社、一九五九年。邦
︵ 戎狄、三也。 12︶ 馬政有三。牧之于官、一也。蓄之于民、二也。市之于
13︶ このほかにも、乱世である五胡北魏期には敵対勢力か ︵ らの掠奪例も多く見られる。
︵ 初出は﹃佐賀大学教養部研究紀要﹄一六、一九八四年︶。 題﹄、第一篇第一章、汲古書院、一九九八年所収、三三頁。 代における華夷観の変遷﹂、同氏﹃魏晋南北朝時代の民族問 いたことを指摘している︵川本芳昭﹁五胡十六国・北朝時 感﹂が﹁漢族・漢文化へのコンプレックス﹂等と混在して ﹁胡族の内面には多かれ少なかれ漢族に対する軍事的優越 三八頁︶、また、当該時代の華夷観を分析した川本芳昭氏は し︵岡崎文夫﹃魏晋南北朝通史﹄弘文堂、一九三三年、六 ろの胡族︶のもつ軍事力が当時の華北に与えた影響を強調 て﹁蛮族の優れた武力が⋮﹂等、﹁蛮族﹂︵本稿でいうとこ 14︶ 古くは岡崎文夫氏が五胡十六国時代の華北情勢につい
︵ 筑摩書房、一九九八年所収、一二︱一三頁︶。 家と共同体﹂︵同氏﹃増補隋唐帝国形成史論﹄、序説、 15 ︶ 谷川道雄﹁隋唐帝国の本源について中国中世の国
︵ 16︶ 谷川道雄﹁南匈奴の自立およびその国家﹂︵同氏前掲註
︵ 大学文学部研究論集﹄三五、一九六四年︶。 15︶書第Ⅰ編第一章所収、四九︱五五頁。初出は﹃名古屋
よび小野響﹁後趙における君主と軍事力石虎即位以前 権の構造理解にむけて﹂︵﹃史正﹄七、一九七九年︶お 17 ︶ 町田隆吉﹁後趙政権下の氐族について﹁五胡﹂諸政 一四八
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 を中心として ﹂︵﹃立命館史学﹄三五、二〇一四年︶、同氏﹁石虎即位以後における後趙の政変に関する一考察 君主位に対する理解を中心に ﹂︵﹃東洋史苑﹄八四、二〇一五年︶参照。︵
︵ 九九二年︶一八七︱一九〇頁等。 18︶ 唐長孺﹃魏晋南北朝隋唐史三論﹄︵武漢大学出版社、一 19︶ 谷川氏前掲註︵
︵ 16︶論文五四頁。
および、三崎氏前掲註︵ 立についての予備的考察﹂︵﹃史境﹄四、一九八二年︶ 20 ︶ 町田隆吉﹁西晋時代の羯族とその社会後趙政権成
︵ 3︶書六一頁。
︵ 初出は﹃史林﹄二〇︱三、一九三五年︶。 究匈奴篇﹄同朋舎、一九七五年所収、三一三︱三一四頁。 21︶ 内田吟風﹁南匈奴に関する研究﹂︵同氏﹃北アジア史研 22︶ 内田氏前掲註︵
21︶書三一五頁。谷川氏前掲註︵
︵ 書五四︱五五頁。 15︶ 城相救而已。 23︶ 而賊之郵驛、一日千里、河北之騎、足以來赴、非惟隣 なお、﹃資治通鑑﹄はこの上疏を三三九年のこととする︵﹃資治通鑑﹄巻九六咸康五年八月条︶。︵
虎牙・宿衞、號雲騰黑矟騎五千人。 24︶ 趙王虎建武六年、⋮︵中略︶⋮虎常于此臺棯練騎卒・ ︵
25︶ 小野氏前掲註︵
︵ と言えよう。 える﹁雲騰黑矟騎五千人﹂はその一翼を担う存在であった 趙の政治史上で重要な役割を果たしたとされる。ここに見 首都に置かれた石虎直属の軍事力は強大なものであり、後 17︶二〇一五年論文の分析によれば、
︵ 靑・冀・幽州三五發卒、諸州造甲者五十萬人。 26︶ 敕河南四州具南師之備、幷・朔・秦・雍嚴西討之資、
︵ 皆復一年。 27︶ 季龍又取州郡吏馬一萬四千餘匹、以配曜武關將、馬主
︵ 間に馬がいることがわかる。 求之不得、便誣以犯獸論﹂という記述が見え、引き続き民 の後年に﹁季龍性旣好獵⋮︵中略︶⋮百姓有美女好牛馬者、 と言うことは無く、﹃晋書﹄石季龍載記上には、この徴収令 28︶ 無論、この時の徴収令で領内の全ての馬が徴収された
︵ ︵福建人民出版社、一九九七年︶五一六︱五一八頁を参照。 29︶ その概略については、葛剣雄主編﹃中国移民史﹄二巻
︵ 各還本土、衟路交錯、互相殺掠。 30︶ 靑・雍・幽・荊州徙戶及諸氐・羌・胡・蠻數百餘萬、
鞠率眾三萬降于季龍。署鞠等一十三人親通趙王、皆封列侯、 書﹄石季龍載記上に咸康二年︵三三六︶条の後に﹁索頭郁 31︶ これら後趙国内に徙民された多くの胡族の中には、﹃晋
一四九
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
散其部眾于冀・靑等六州﹂とあるように、漢族とは異なる、﹁部﹂を基準とする生活を行っていた諸集団が多く含まれている。︵
︵ ジア海文明への道﹄東方書店、二〇〇七年、四八頁︶。 民族分布﹂︵鶴間和幸編﹃黄河下流域の歴史と環境東ア 32︶ 市来弘志﹁魏晋南北朝時代における鄴城周辺の牧畜と
︵ たものではないことが示されている。 あることから、この地域で行われた牧畜業が馬のみに偏っ 行われていたことがうかがえるが、ここに﹁猪羊馬牧﹂と とあり、西晋では鄴を含む﹁三魏﹂の領域内で広く牧畜が 三魏尤甚、而猪羊馬牧、布其境內、宜悉破廢、以供無業﹂ は、西晋の賊曹属であった束皙の建義の中に、﹁土狹人繁、 僅かしか紹介されていない。なお、﹃晋書﹄巻五一束皙伝に は羊や牛を対象としたもので、馬︵驢馬を含む︶の料理は、 33︶ 例えば﹃斉民要術﹄巻七・八に見られる肉料理の多く
︵ 數萬。勒與汲桑率牧人乘苑馬數百騎以赴之。 34︶ 二年、陽平人、公師蕃等自稱將軍、起兵趙・魏、眾至
︵ 第二章、吉川弘文館一九七四年、六九︱七四頁︶。 35︶ 曽我部静雄﹁宋代の馬政﹂︵同氏﹃宋代政経史の研究﹄
⋮養馬三十萬疋。 36︶ 太僕牧師諸苑三十六所、分布北邊・西邊。⋮︵中略︶ ︵
︵ 興皆省⋮。 37︶ 又有牧師菀、皆令官、主養馬、分在河西六郡界中。中
︵ 〇一五年、一〇一︱一二七頁︶。 年二期︶。陳寧﹃秦漢馬政研究﹄︵中国社会科学出版社、二 38︶ 雍際春﹁西漢牧苑考﹂︵﹃中国歴史地理論叢﹄一九九六
︵ 乃能容之。 之地、幅員千里、犹爲隘狹、更析八監、布于河曲豐曠之野、 董之、設四十八監以掌之。跨隴西・金城・平涼・天水四郡 肇自貞觀、成于麟德、四十年閒、馬至七十萬匹、置八使以 39︶ 大唐、接周隋亂離之後、承天下征戰之弊⋮︵中略︶⋮
︵ 参照。 グド人の牧馬﹂︵﹃東洋史研究﹄六六︱四、二〇〇八年︶等 五年、三九︱四三頁︶、山下将司﹁唐の監牧制と中国在住ソ 40︶ 馬俊民・王世平﹃唐代馬政﹄︵西北大学出版社、一九九 崎氏前掲註︵ め、その建国時期をどこに置くかについては諸説ある︵三 く、基本的に西晋・東晋の臣下という態度をとっていたた に割拠した前涼は、実際に独立を標榜した時期は極めて短 41︶ 五胡十六国時代前半期に、張氏を中心として涼州一帯
涼と呼称して考察を進める。 呼称するのは本来は適切ではないが、本稿では便宜的に前 3︶書七五頁参照︶。そのため一貫して前涼と 一五〇
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 ︵
︵ 大宛使、獻其方物。 42︶ 涼州牧張駿、遣長史馬詵奉圖、送高昌・于然・鄯善・
︵ 龍所獲、不逹。 後、駿、遣參軍麴護上疏曰⋮︵中略︶⋮自後駿遣使多爲季 咸和八年始逹涼州。九年⋮︵中略︶⋮自是每歲使命不絶。 召還。訪、以詔書付賈陵、託爲賈客。到長安、不敢進、以 人隴西賈陵等十二人配之。訪、停梁州七年、以驛衟不通、 治書御史、拜駿鎭西大將軍、校尉・刺史・公如故。選西方 州未知中興、宜遣大使、乞爲鄕導。⋮︵中略︶⋮始以訪守 反、奔漢中、因東渡江、以太興二年至京都。屢上書、以本 43︶ 初、建興中、敦煌計吏耿訪、到長安、旣而遇賊、不得
︵ 生鎭關中、石朗鎭洛陽、皆起兵于二鎭﹂とある。 44︶ ﹃晋書﹄石勒載記下に石勒の死後のこととして、﹁時石
︵ 西平相、虓等爲縣令。 西大將軍亮上疏言、﹁陳㝢等冐險遠至。宜蒙銓敍﹂。詔除㝢 45︶ 後駿又遣護羌參軍陳㝢・從事徐虓・華馭等至京師、征
︵ 46︶ 張駿、憚季龍之盛、遣其別駕馬詵朝之。
︵ 47︶ 石季龍、使其將劉甯攻陷狄衟。
八一年︶参照。 の境域について﹂︵﹃駒澤大学文学部研究紀要﹄三九、一九 48︶ 前涼の支配地域の変遷については、前田正名﹁前涼国 ︵
︵ による反撃も見え、一進一退の攻防が行われていた。 は、﹁涼州將張瓘敗趙將王擢于三交城﹂とあるように、前涼 49︶ この後も、﹃晋書﹄康帝紀建元二年︵三四四︶四月条に
︵ 端的に示している。 通好、旋見寇襲﹂と述べている。この発言は両者の関係を の政権との関係性を総括して、後趙との関係を﹁往與石氏 負・梁殊に応対した涼州牧張瓘が、前涼とそれまでの中原 として使者を派遣した際のこととして、前秦側の使者の閻 後趙滅亡後に長安に成立した前秦が、前涼と国交を結ぼう 50︶ 当時の情勢については、﹃晋書﹄巻一一二苻生載記に、
︵ 51︶ 時高句麗・肅愼致其楛矢、宇文屋孤、並獻名馬于勒。
︵ 52︶ 鎭北宇文歸、執送段遼之子蘭降于季龍、獻駿馬萬匹。
︵ 53︶ 初、逸豆歸事趙甚謹、貢獻屬路。
﹃晋書﹄載記を中心として﹂︵﹃史料批判研究﹄四、二〇 十六国時代に関する諸史料の紀年矛盾とその成因唐修 十六国時代の紀年に関する問題点については鈴木桂﹁五胡 ︵﹃国際学レヴュー﹄一二、二〇〇〇年︶参照。なお、五胡 て司馬光が利用した﹃十六国春秋﹄をめぐって﹂ 鑑考異﹄所引﹃十六国春秋﹄及び﹃十六国春秋鈔﹄につい 石虎伝が残存していたことについては、町田隆吉﹁﹃資治通 54︶ ﹃資治通鑑﹄編纂時には﹃十六国春秋﹄後趙録石勒伝・
一五一
東 洋 学 報第一〇〇巻 第一号
〇〇年︶も参照。︵
︵ 参照。 国研究の一斑﹂︵﹃史学雑誌﹄一一九︱七、二〇一〇年︶ 山智史﹁屠本﹃十六国春秋﹄考明代における五胡十六 55︶ 屠喬孫らによる﹃十六国春秋﹄の性格については、梶
︵ 56︶ ﹃十六国春秋輯補﹄巻一七、後趙建武八年条。
57 ︶ 船木勝馬﹃古代遊牧騎馬民の国草原から中原へ ﹄︵誠文堂新光社、一九八九年、一一二頁︶参照。︵
︵ 化﹄汲古書院、二〇〇七年所収︶。 井重雅先生古希・退職記念論集古代東アジアの社会と文 58︶ 三崎良章﹁慕容廆の遼西支配﹂︵記念論集刊行会編﹃福
︵ 部と結んで慕容皝に対抗している。 59︶ その間に慕容皝と対立していた慕容仁は、宇文部や段
︵ 請盡眾來會。及軍至令支、皝師不出、季龍將伐之。 60︶ 初、慕容皝與段遼有隙、遣使稱藩于季龍、陳遼宜伐、
︵ 61︶ ほぼ同様の内容が同巻一〇九慕容皝載記にも見える。
︵ 城。戎卒數十萬、四面進攻、郡縣諸部假應季龍者三十六城。 62︶ 季龍、進入令支、怒皝之不會師也、進軍擊之、至于棘
支配構造の特質政治過程の検討と支配層の分析を通し 前掲註︵3︶書六九︱七〇頁および、小林聡﹁慕容政権の 63︶ 慕容部の拡大過程と外交戦略の概観については三崎氏 ︵ 照。 て﹂︵﹃九州大学東洋史論集﹄一六、一九八八年︶を参
︵ 竟爲季龍所破。 餘家、控弦可四・五萬騎、而與石季龍遞相侵掠、連兵不息、 而臣御晉人。其地西盡幽州、東界遼水。然所統胡晉可三萬 64︶ 自務勿塵已後、値晉喪亂、自稱位號、據有遼西之地、
65︶ 段部の興亡については、船木氏前掲註︵
︵ ︱一一四頁を参照。 57︶書一一三
︵ 家。 66︶ 石勒、遣使求和、帝遣弟昭成皇帝如襄國、從者五千餘
︵ 67︶ 石虎、遣將李穆率騎五千納烈帝于大甯。
︵ 68︶ 娉慕容元眞妹爲皇后。
︵ らもうかがえる。 燕︵慕容部︶との使者のやりとりが活発になっている点か 記録が三四六年まで途絶えている一方、三三九年以降、前 69︶ このことは、﹃魏書﹄序紀において代と後趙との交渉の
︵ 聲勢不接、無益救援。 70︶ 宇文强盛日久、屢爲國患。⋮︵中略︶⋮雖遠附强羯、
71︶ 文帝初、北狄彊盛、侵擾邊塞⋮︵中略︶⋮自高柳以東
濊貊以西、鮮卑數十部、比能・彌加・素利、割地統御、各有分界。乃共要誓、皆不得以馬與中國市。 一五二
五胡十六国〜北魏前期における胡族の華北支配と軍馬の供給 峰雪 ︵
︵ 拜爲平北將軍・左賢王。 72︶ 務桓、一名豹子。招集種落、爲諸部雄。潛通石虎、虎
︵ 北將軍・左賢王・丁零單于。 73︶ 祖豹子招集種落、復爲諸部之雄。石季龍、遣使就拜平
︵ 子務桓立。 74︶ 劉虎寇西境。帝遣軍逆討、大破之、虎僅以身免。虎死、
︵ 75︶ 当時のオルドスが格好の牧地であったことは、後掲註
︵ 80︶の﹃魏書﹄食貨志を参照。
︵ 王国史﹄︵一潮閣、一九八六年、二二九︱二三〇頁︶。 大学出版社版を参照︶、池培善﹃中世東北亜史研究慕容 人民出版社、一九六二年。本稿では二〇〇六年の広西師範 一一、一九三五年︶、馬長寿﹃烏桓与鮮卑﹄二一九頁︵上海 華書局、一九八七年、八三︱八四頁。初出は﹃禹貢﹄三︱ 76︶ 馮家昇﹁慕容氏建国始末﹂︵同氏﹃馮家昇論著輯粋﹄中
︵ に、﹁制六部民、羊滿百口輸戎馬一匹﹂とある。 二月条に﹁調民二十戶輸戎馬一匹・大牛一頭﹂、三月乙亥条 ﹁詔諸州六十戶出戎馬一匹﹂とあり、同泰常六年︵四二一︶ 77︶ ﹃魏書﹄巻三太宗本紀永興五年︵四一三︶正月乙酉条に
⋮︵中略︶⋮皆徙置漠南千里之地。⋮︵中略︶⋮歲致獻貢。 巳尼陂、人畜甚眾、去官軍千餘里、將遣左僕射安原等討之 78︶ 後、太武、征蠕蠕、破之而還。至漠南、聞高車東部在 ︵ 由是國家馬及牛・羊遂至于賤、氈皮委積。
︵ 山大学文学部紀要﹄四七、二〇〇七年︶参照。 農耕の間北魏平城の鹿苑の機能とその変遷﹂︵﹃岡 惟童阜耳﹂とある。その影響については佐川英治﹁遊牧と 于陰山之講武臺。⋮︵中略︶⋮自臺西出南上山、山無樹木、 西﹂の酈道元の注に﹁余、以太和十八年、從高祖北巡、屆 過雲中楨陵縣南、又東過沙南縣北、從縣東屈南、過沙陵縣 79︶ 陰山の荒廃については、﹃水経注﹄巻三河水注に﹁又東
︵ 畜產滋息、馬至二百餘萬匹、橐駝將半之、牛羊則無數。 80︶ 世祖之平統萬、定秦隴、以河西水草善、乃以爲牧地。
︵ 從代移雜畜于牧所、福善于將養、並無損耗、高祖嘉之。 東、拒黃河南北千里爲牧地。事尋施行、今之馬場是也。及 81︶ 時仍遷洛、敕福檢行牧馬之所。福規石濟以西・河內以
︵ 〇〇八年︶に従い、本稿では﹁高祖遷洛之後﹂に改める。 一郎﹃﹃魏書﹄食貨志・﹃隋書﹄食貨志訳注﹄︵汲古書院、二 82︶ 中華書局標点本は﹁高祖位之後﹂に作るが、渡辺信
︵ 習水土而無死傷也。 擬京師軍警之備。每歲自河西徙牧于幷州、以漸南轉、欲其 83︶ 高祖遷洛之後、復以河陽爲牧場、恆置戎馬十萬匹、以 略︶⋮羆曰﹁⋮︵中略︶⋮四方未平、九區未定。以此推之、 84︶ 及高祖欲遷都、臨太極殿、引見留守之官大議。⋮︵中
一五三