運動する博物館 : 水俣病歴史考証館の対抗的実践
著者 平井 京之介
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 36
号 4
ページ 531‑559
発行年 2012‑03‑30
URL http://doi.org/10.15021/00003861
運動する博物館
―水俣病歴史考証館の対抗的実践― 平井 京之介*
Museum and Social Movement: Redefining the Minamata Disease Incident through Exhibit and Narratives
Kyonosuke Hirai
熊本県水俣市の水俣病歴史考証館は,水俣病事件を永く記憶にとどめ,水俣 病の経験を出発点として,社会のあり方を考えることを目的として,水俣病被 害者とその支援者によって設立された民間の博物館である。これまでの博物館 研究においては,カタストロフィを展示する博物館について,歴史的な不正を 指摘し,被害者が自らの経験を語る権利を取り戻すという権力化の側面が強調 して論じられてきたが,一方で社会運動の媒体としての博物館の可能性につい ては十分に検討されてこなかった。本稿は,水俣病歴史考証館が展示と語りを 通じて水俣病事件を知らない人びとに何をどのように伝えようとしているかを 検討し,この博物館が,被害者の立場から水俣病事件についてのオルタナティ ブな見方を提示するという意味と,展示施設という枠組みを越えて社会運動の 媒体として機能するという2つの意味で,対抗的な博物館であることを論じる。
Located in Minamata, a city in southwest Kyushu, the Minamata Dis- ease Museum was opened as a memorial to the Minamata disease incident and to question the way we live and the basis of our livelihoods. It is a pri- vate museum run by the victims and their supporters. Museum studies have presented a view of museums memorializing a catastrophe as vehicles for empowerment, where the victims can point out historical injustice and restore the right to narrate their own experience in public, while failing to fully doc- ument their possibilities as social movement. In this paper I argue that, by focusing on what the museum defines through its exhibit and guiding narra-
*国立民族学博物館民族文化研究部
Key Words:Minamata disease, social movement, memorial museum, ethnographic authority, narrative
キーワード:水俣病,社会運動,メモリアル博物館,民族誌的権威,語り
tives on the incident and how it communicate with those who have no experi- ence of it, the Minamata Disease Museum can be considered as a countermu- seum both in the sense that it presents alternative visions of the incident from the victims’ point of view and in the sense that it functions as an agent of social change, which differs from the framework of a facility for exhibition.
1 はじめに
水俣病はチッソ水俣工場が不知火海に流した工場廃水によって引き起こされた公害 病であり,「公害の原点」といわれる。健康被害と環境破壊の大きさで世界に類例の ない惨事であり,自然と人間との関係に対する我々の理解を根底から変えることに なった。最初の患者が公式に確認されてから半世紀以上が経過した現在,二度と悲惨 な公害を繰り返さないために,その歴史と教訓を次の世代に伝えていくことが大きな 課題になっている。水俣には,水俣病の歴史を展示する施設として,水俣市立水俣病 資料館(以下,市立資料館)と,財団法人水俣病センター相思社(以下,相思社)が 運営する水俣病歴史考証館(以下,考証館)の2つがある1)。両館の掲げるミッショ ンはほぼ同じだが,展示内容には大きな違いがみられる。一言でいえば,市立資料館 が「公的」な言説を再生産しているのに対し,考証館は被害者の立場から対抗的な言 説を生み出している。
米国の博物館研究者,P・ウィリアムスは,米国ホロコースト記念博物館や広島平 和記念資料館,カンボジアのトゥール・スレン虐殺博物館など,多くの市民が犠牲に なった悲惨な歴史的事件を記録し未来に伝えることを目的とする博物館を,メモリア ル博物館(memorial museum)と呼んだ(Williams 2007: 8)。考証館をそのひとつに数
1 はじめに
2 考証館の設立 3 市立資料館の歴史叙述 4 考証館の展示
4.1 展示内容
4.2 展示のアプローチ 4.3 展示が伝えるもの 5 考証館の語り
6 おわりに
えることは可能だろう。水俣病の多発地帯という記憶の場所に立っている。水俣病被 害者とその支援者によって計画され,建設された。被害者の生活支援や水俣病に関す る調査研究と一体になって運営されている。被害者と協力して水俣病の経験を伝える という強い教育的使命を持ち,その問題意識は現代社会の諸問題にも向けられてい る。これらはみなウィリアムスが挙げたメモリアル博物館の特徴と一致する
(Williams 2007: 21)。
本稿の目的は,考証館および相思社が2),博物館という文化的制度を自らの目的遂 行に使用する独自のやり方を評価することにある。考証館が展示と語りを通じて何を 叙述しているか,事件を知らない人びとに何を訴えかけているかに注目しながら,水 俣病事件の歴史と政治の文脈のなかに考証館を位置づけ,その意味と意義を考えてみ たい。最初に,相思社が考証館の設立に至った経緯を概観する。このことは,考証館 の実践が相思社の社会運動の伝統と連続したものであり,その歴史と文化を色濃く反 映したものであることを理解するのに役立つだろう。次に,市立資料館の展示を紹介 し,考証館が対抗しようとする公的な歴史叙述の内容を確認する。その後で,考証館 の展示と語りが何をどう伝えようとしているのかを検討する。最後に,考証館の実践 がいかなる意味で対抗的なものといえるかについて考えてみたい。
この研究の背景には,博物館実践の社会運動的側面,あるいは社会運動の媒体とし ての博物館の可能性が,これまでの博物館研究において十分に検討されてこなかった のではないかというわたしの問題意識がある。カタストロフィを展示する博物館につ いては,歴史的な不正を指摘し,被害者が自らの経験を語る権利を取り戻すという権 力化の側面が強調されてきた。じっさい,考証館も,被害者の記憶や行政の失策,地
写真1 水俣市立水俣病資料館
域社会の抑圧的構造などをはっきりと記すことで,公的な歴史叙述や,それを正当化 する科学的・司法的な言説を批判している。しかし表象の次元を越えて,博物館実践 を展示空間における来館者と博物館スタッフとの相互行為としてとらえると(Sandell 2002; 2007),人びとの自己変革を促す媒体として博物館が機能する可能性がみえてくる。
わたしの水俣病事件とのかかわりは,2004年の水俣への訪問がきっかけとなって はじまった3)。相思社で常務理事の遠藤邦夫さんから水俣病事件の状況と相思社の活 動について話を聴いた4)。遠藤さんは,水俣病として新たに名乗り出る人が今でもい ること,水俣病や水俣に対する差別や偏見が根強く残っていること,水俣病の教訓を 伝える活動が水俣で活発になっていることなどを熱く語ってくれた。とうの昔に事件 は解決済みと思い込んでいたわたしは,自らの無知を恥じるとともに,水俣で30年 以上に渡って続く相思社の運動に強い関心を持った。2005年秋から約半年間,ボラ ンティアとして在籍しながら相思社について民族誌的な調査をおこなった。その後も 現在まで,年に数度の補足調査を続けている5)。本稿では,展示内容や展示のアプ ローチについてのわたしの考察や解釈とともに,これまでの調査で得られた民族誌的 データを用いる。相思社スタッフのインタビュー,相思社内部の議論,相思社スタッ フと来館者とのやりとりなどが主要な情報源になる6)。これらのデータを用いること で,考証館の対抗的な実践をより具体的に描き出すことができるだろう。
2 考証館の設立
まずは考証館の設立母体である相思社の紹介からはじめよう。相思社は,水俣病被
写真2 水俣病歴史考証館
害者の生活支援とともに,水俣病に関する情報の収集および提供を目的として,1974 年に設立されたNGOである。当初構想されたミッションは,以下の4つであった。
①患者とその家族が集まる拠り所になる7)。②被害者の立場に立った医療サービスを おこなう。③水俣病事件関連の資料を収集し,提供する。④患者が働くための共同作 業場となる。これらのミッションの実際の活動に占める割合は,時代とともに大きく 変化していった。1970年代後半は,組織の経済的自立が急務とされ,低農薬ミカン やリンゴの販売,有機栽培のための堆肥製造販売,廃食油をリサイクルした石けんの 製造販売,キノコの製造販売,生鮮食料品販売などの事業に力が注がれた。これらは たんなる収益活動ではなく,水俣病の教訓を伝える活動のひとつとして位置づけられ ていた。たとえば,低農薬ミカンの販売は,漁師として働けなくなった被害者のミカ ン栽培を支援するためにはじめられたものであり,安全な食生活,環境への配慮,地 域づくりをテーマにした商品を会員向けに販売する協同組合運動であった。1980年 代になって,補償を求める被害者の運動が激化すると,相思社は各種事業を継続しつ つも,被害者団体の事務局を引き受け,訴訟や座り込みなどの運動を全力で支援する ようになった。1990年代に被害者とチッソや行政とのあいだで和解のプロセスが始 動すると,相思社はいわゆる「新しい社会運動」へと活動内容を変化させていく8)。 統治機構に社会的正義や民主的振る舞いを求めるよりも,水俣病の教訓を伝えること によって,独自の価値観やライフスタイルに基づくオルタナティブなコミュニティを 自分たちで実現しようとする傾向が強くなった。
博物館をつくる構想が相思社で最初に生まれたのは,1981年である。当時,被害 者の経験を言語で表現することの難しさを痛感していた相思社世話人の柳田耕一が,
ある水俣病被害者から25年使用している漁具をみせられたとき,実物のもつ存在感 を実感し,事実と実物が有する訴求力を表現する展示館を構想したという。機関紙
『水俣』紙上で柳田は次のように書いている。「このカキ打ちの喚起力というか存在す る力に比べれば,自分たちの表現力はとるに足らぬものであることを実感として受け とめました」(柳田1981)。柳田の提案に賛同した当時理事長だった川本輝夫は,「水 俣病事件を歴史的にとらえ,私たちの生きている時代を水俣病事件を通して検証しよ う」と,まだみぬ展示館を「水俣病歴史考証館」と名づけた(吉永1989)。1983年秋,
「水俣病歴史考証館準備委員会」が発足し,機関紙「水俣病歴史考証館通信」の発行 が開始された。だが,『水俣病30年 写真展・資料展』の開催をきっかけに実際の準 備活動がはじまったのは,1986年になってからのことである。このときの展示がそ のまま考証館の展示の原型になった。数億円規模の博物館を新たに建てるという当初
の計画は見直され,空き家になっていた相思社敷地内のキノコ栽培工場を改装して博 物館をつくることになった。
考証館の建設は文字通り「手作り」だった。延べ床面積約230平方メートルの鉄骨 スレート葺き平屋木造家屋が,全国からの寄付や無利子の借用金500万円と,専門家 や支援者の無料奉仕によって博物館に改装された。展示内容は,被害者から聞き取り を重ね,研究者や専門家の協力を仰ぎながら,相思社スタッフが自分たちで考えてつ くったという(水俣病センター相思社2004: 213–216)。その際,以下の相思社の4つ の活動が基礎になったと考えられる。
ひとつは水俣病研究会との連携である。1969年,水俣病裁判闘争を支える法理論 の構築およびデータの収集を目的として熊本で設立された水俣病研究会(当初は裁判 研究会)には,研究者,ジャーナリスト,労働者などが参加していた。その主要メン バーが相思社の設立や運営にもかかわっており,水俣病研究会が集めた資料の一部が 考証館の展示の基礎になった(吉永1989)。考証館設立の責任者だった吉永利夫さん は,わたしとのインタビューで,相思社から派遣されて3年間この研究会で資料整理 を手伝った際に,水俣病事件に対する分析のアプローチを学んだこと,その過程で 知った事実を伝えなければならないという認識を深めたことが,考証館の準備段階で 活かされたと語っている。
もうひとつは不知火海総合学術調査団との交流である。この調査団は,作家の石牟 礼道子の要請により,不知火海沿岸地域での水俣病被害の実態解明を目的として,
1976年に12人の社会科学者で結成され,5年間続けられた。団員には,相思社とか かわりが深かった最首悟,原田正純,石牟礼道子,日高六郎などがいた。調査の経緯 と結果については1983年に上下巻として出版された『水俣の啓示―不知火海総合調 査報告』(色川1983)に詳しい。「調査団日誌」の章に描かれているように,このと き相思社は現地での案内役を務めた。その研究成果は,展示パネルのなかに幅広く採 り入れられた。また,展示の構成や内容について,調査団員であった色川大吉や最首 悟,記録映画作家の土本典昭9)に度々相談してもいた。調査団の影響がもっともはっ きりみられるのは,被害者への差別と抑圧の歴史的構造を説明した展示部分であろ う。
第三に,生活学校と名づけられた相思社の活動である。生活学校は,一年間のフ リースクールとして,1982年から1992年にかけて相思社によって開校された10)。全 国から集まった希望者が合宿し,患者との共同生活,水俣病学習,農作業などを通じ て社会のあり方や自身の生き方を問い直すという学校だった。『考証館通信』準備号
のなかで吉永さんは書いている。「生活学校の活動は,そのまま『考証館』の準備に つながるものとして位置づけられるでしょう。学習会での患者さんたちの話が,記録 として生きるはずだし,さまざまな道具や資料の収集もこのなかで進められます。さ らに,水俣病から読み取られたことの実践が,前向きな『考証館』のイメージの活性 化を呼ぶでしょう」(吉永1983: 3)。生活学校で学んだことは,とりわけ漁民の暮ら しを紹介する展示に活かされた。
第四に,石牟礼道子とその著作の存在は,考証館設立の過程を考えるうえで無視で きないものである。精神的ないし情念的なレベルで大きな影響を与えた。展示制作で もっとも影響を受けたものは何かというわたしの問いに,吉永さんは次のように答え ている。「展示については石牟礼道子の影響が強かったと思う。患者の人たちが暮ら している,生活している,漁をやっている,笑っている,考証館では(そうしたもの への)水俣病の影響を展示したい。被害や闘いばかりではなく,道子さんの描いてい る水俣病。ばあさん,じいさん,人びとのかかわり,人の暮らし方,天のくれらすも んでござる,それが壊されたことを」。水俣を訪れる人の多くが,きっかけは被害者 を描いた小説を読んだり映像をみたりしたことだという。なかでも特別な存在が,
「水俣のバイブル」といわれる『苦界浄土 わが水俣病』である。石牟礼はこの著作 を通じて,患者の存在としての衝撃力や,患者がたたえている異様な優しさと不思議 な魅力を描くことに成功した。渡辺京二が『苦界浄土』の解説で指摘するように,石 牟礼は,「あの人(患者)が心のなかでいっていることを文字にする」(渡辺2011:
97)ことができたのである。「巫女」のようなこの役割は,沈黙する被害者に限りな く近づき,彼らの世界や感覚を知ったうえではじめて果たしうるものだろう(渡辺 2011: 103)。相思社が考証館で目指したのは,被害者の精神世界からみた水俣病の意 味を描くことであり,彼らの情念そのものに立ち会っていると感じられるような展示 を実現することであった。これを相思社では,石牟礼のことばを借りて,「考証館に 魂を入れる」と表現した。
1988年,「水俣病事件を永く記憶にとどめ,水俣病の経験を出発点として,社会の あり方を考えること」を目的として,考証館が開館する。相思社の運動の歴史と文化 のなかから生まれた博物館であり,相思社のスタッフが自らの思いを伝えるためにつ くった博物館である。制作過程では,プロフェッショナルにみえる博物館展示を実践 することよりも,自分たちが伝えたいことを伝えたいように伝えることが優先され た。それでは,相思社は博物館という媒体を用いて何をどう伝えようとするのか。こ の問いに取り組む前に,考証館が対抗する公的な歴史叙述の内容を押さえておこう。
3 市立資料館の歴史叙述
市立資料館は,「水俣病の経緯を整理し,水俣病の歴史と現状を正しく認識し,悲 惨な公害を二度と繰り返してはならないという切なる願いと,貴重な資料が散逸しな いよう収集保存し,これを後世への警鐘としていくこと」を目的として,1993年に 開館した。建物は鉄筋コンクリートの二階建てで,一階に資料閲覧室と事務室,応接 室などがあり,二階に展示室とラウンジ,語り部室がある。ここでは市立資料館の展 示内容とそれが伝えるメッセージを検討する。だがその前に,なぜこのタイミングで 市立資料館が建てられたのかを考えておく必要があるだろう。
市立資料館の設置は,水俣市の水俣病事件に対する姿勢に大きな変化が生じたこと を意味する。水俣市は1980年代まで水俣病の問題解決に積極的な役割を果たしてこ なかった。加害企業であるチッソの存続を支援する一方で,国や熊本県の影に隠れて 事件と距離をとる態度をとってきた(cf. 石田1983; 栗原2005)。国および熊本県が 1977年から約485億円をかけて進めた水俣湾のヘドロ処理事業が1990年に終了する と,環境庁(当時)は,完成した埋立地の活用策を検討するなかで,再生水俣のシン ボルとして水俣病資料館の設置を決めた。同年,熊本県と水俣市は,水俣病の教訓を 活かした環境再生・創造を核とする地域づくり(あいとやすらぎの環境モデル都市づ くり)を推進する事業として「環境創造みなまた推進事業」を開始し(1998年まで 継続),資料館を通じた情報発信をそのひとつに位置づけた。国土庁(当時)の地域
写真3 市立資料館の展示場内
個性形成事業として2億3千万円の補助を受け,総額6億1千万円をかけて資料館を 建設した。これは水俣市が,それまで水俣病事件について沈黙を守ってきた方針を転 換し,水俣病事件を地域振興策の柱として位置づけたことを意味する11)。
水俣市の方針転換の理由は何か。相思社の吉永さんは次の4つの理由が考えられる という。「①環境問題が世界的課題と叫ばれる時代となり,環境問題としての水俣病 事件は,行政が取り上げ可能な一般的課題となった。②チッソの地域支配に変化が生 じたり,世代が変わり,水俣病に直接的な嫌悪感をもつ市民が減ってきている。③水 俣病被害者の運動が,行政にとって予想不可能なものではなくなった。④水俣(病)
が世界から注目されている以上に,水俣をアッピールできるものがみつからない」(吉
永1991a: 3)。事件発生から資料館建設までのあいだに経過した歳月は,被害がもっ
とも甚大だった頃の記憶をある程度薄れさせるには十分な長さであった。被害者運動 は行き詰まり,疲弊し,もはや過激な闘争には逆戻りしない段階に到達していた。ま たこの頃,政治家の仲介や裁判所による和解勧告などによって,熊本県と水俣市,
チッソ,被害者団体とのあいだで和解のプロセスが始まっていた。これらのことか ら,大きな反対運動が起こることなく,しかも行政が許容できる範囲内で,水俣病事 件を表象できる歴史的状況が生まれていたといえる。そこで水俣市は,博物館を利用 した地域づくりに活用しようと考えたのであろう。
市立資料館では,来館者はまず映像展示室の大型スクリーンで「水俣病のあらま し」という映画を観てから展示室に入る。展示室には一応順路があり,おおまかに年 代順になっている。展示は,「水俣病の歴史」「水俣病の科学」「世界の有機水銀」「水 俣病への対策」「今後への取組」という5つのテーマで構成される。解説パネルが中 心で,実物はほとんどない。新聞記事と歴史的文書が大量に使用されているのが特徴 だ。各パネルにほぼ1台ずつモニターテレビが埋め込まれており,ボタンを押すと,
3分程度の記録フィルムが流れるようになっている。2000年代後半から,企画展用に 作成されたパネルを,企画展終了後に,展示室を囲む壁面に展示するようになった。
たとえば現在は,水俣病被害者団体,石牟礼道子の創作活動,企業の社会的責任,水 俣湾再生事業といったテーマのパネルが並ぶ。結果として,異なるテーマの,スタイ ルの違うパネルが向き合い,全体のストーリーが来館者にわかりにくくなってい る12)。
考証館と比較して,大きな展示スペースが割かれているのは,「水俣病の科学」で ある。発症のしくみ,工場排水の経路,魚介類への水銀の蓄積,水銀摂取,水俣病の 病像など,模式図や統計表,顕微鏡写真,実物サンプルを用いて水俣病発生のメカニ
ズムを詳細に解説している。また,「水俣病への対策」にも大きなスペースが割かれ ている。図表や写真,地図を用いて,補償救済制度の制定,水俣病被害者向け医療施 設の整備,水俣湾のヘドロ処理など,行政が講じた対策について細かいデータを挙げ て解説している。
一方で,裁判判決を伝える部分を除き,水俣病事件における行政の責任については ほとんど言及されていない。被害者の苦しみの少なくない部分は,行政による水俣病 被害者の扱いによって生じたものである。チッソへの暗黙の支援,被害者の人命軽 視,官僚主義といった行政の態度は,間違いなく被害の拡大につながった。相思社ス タッフが指摘するように,「たとえば水俣病事件に対する行政の責任は,少なくとも 拡大防止と被害補償という点では確実にある。1959年当時の中村水俣市長らがおこ なった『チッソの排水停止は困る』という陳情の一例からも,水俣市とチッソの共犯 関係は否定できない」(さとう1993: 13)。ところが市立資料館の展示は,分析や評価 はもとより,水俣病の歴史のなかで果たした水俣市の役割について触れることさえ避 けている。過去の特定の要素を選択的に忘却することによって,水俣病事件の物語を 創造しているのである(スターケン2004: 26)。
また,市立資料館の展示では,被害者が水俣病事件をどう生きたかがまったく表象 されていない13)。専門家によって分析され客体化された匿名の身体としてのみ被害者 は描かれている。被害者が生きていくなかで遭遇した苦痛や死や悲嘆は,統計的デー タや病理写真など,専門家の合理的思考やテクノロジーによって変形されたものとし て(クラインマン他2011: iii),展示に登場する。いわば被害者の声に代わり,専門 家の声が提示されているのだ。
市立資料館の展示は科学的なアプローチを採用している。タイトルや解説文には事 実の羅列が多く,意見や評価を含む表現は避けてある。受動態が多用され,修飾語句 はほとんどない。語り手は全知の第三者であり,語り手としての水俣市の存在は表面 に出ない。高度に専門的な説明や写真は多くの来館者に理解困難と思われるが,それ でも展示の科学的権威を高める役割は十分に果たしている。それはまた,博物館の意 図的選択を科学的調査の結果として表示することにもなる。被害者を客観的データと して扱うことは,水俣病を科学的に表象する効果的なやり方であるばかりでなく,被 害者の声を反映させないためにも都合のよいものになっている。
一方で,市立資料館の展示は,出来事の歴史的文脈や出来事間の因果関係をほとん ど説明していない。展示全体の3分の1を占める「水俣病の歴史」では,時系列的な 順序で出来事を列挙しているが,見出しにその年代全体をまとめる簡単な記述がある
だけで,あとは個別の出来事を紹介する新聞記事や歴史的文書,写真,図表などが,
前後の他の項目とは孤立して存在するように並べられている。しかも記事や文書の具 体的な内容は,字が小さいためにほとんど読むことができない。当時の新聞記事の刺 激的な見出しによって,水俣病の恐ろしさや原因究明の困難さは伝わるだろう。陳情 書や契約書,判決文などの歴史的文書などから,被害者とチッソや行政とのあいだに 紛争があったことをうかがい知ることもできる。しかしそれらの記事や文書に関連す る出来事のあいだの関係やその背後の文脈についての説明はなく,前もって学習して 来なかった来館者がそのつながりを再構成することはできないだろう。ある相思社ス タッフは次のように批判する。「ウソは書いてはいない。でも誰が,なぜ,この制度 を作り,その結果どうなったかというのは書いてはいない」(弘津1993: 17)。科学的,
客観的証拠を並べる一方で歴史的因果関係を説明しない展示は,行政の不作為によっ て引き起こされた結果やその影響を矮小化することを助けている。行政の責任逃れに よって対応が遅れ,被害が拡大したという水俣病事件の重要な教訓のひとつが隠され るのだ。
こうした展示は水俣病事件についてどんなことを伝えるだろうか。第一に,水俣病 事件は終わった,あるいは少なくとも危機は乗り越えたということである。資料館の 開館当時,相思社は機関誌で特集を組んでいるが,そのなかに次のような論評がある。
「この資料館は名称の通り,本当に『資料館』であった。つまり,『過去に悲惨なこと があり,残念なことでした』。でも『今はちゃんと対策をとってます』という論調で ある。……いかにも第三者のつくったような,たとえば水銀中毒の発症のメカニズム やらが何かと詳しくモニターで解説されており,このことがことさら『過去のもの』
であるかのように巧妙に思わせている」(堀1993: 11)。すでにみた設立の経緯から明 らかなように,市立資料館が建てられた目的のひとつは,水俣病事件を取り巻く論争 に終止符を打つことだった。水俣病の原因は科学的に究明され,新たな発症は抑えら れた。水俣湾に堆積した水銀ヘドロの処理は完了し,海水の水銀値は通常のレベルに まで下がった。被害者に対しては補償救済策を十分に整備し,和解が進んでいる。こ うした物語を語る市立資料館の展示は,「公害脱却キャンペーン」(金子2011: 24)の ひとつといえるだろう。
第二に,水俣病事件が環境再生の物語でもあるということだ。市立資料館の建設計 画が具体化したとき,吉永さんは皮肉たっぷりの論評を機関誌に書いている。「(市立 資料館の開館は)水俣の地域振興策であり,数十年前なら考えられなかったけれども,
水俣地域で一番利用できる最大の個性は『水俣病問題』との認識から出発している。
……要するに,水俣病を経験した地域だからこそ,より一層,環境や自然,生態系に 配慮した地域づくりを推進していくといいたいのだろう」(吉永1991b: 1)。市立資料 館の展示は,行政がとった対策のほとんどが遅れてしかたなく講じたものであること や,被害者や支援者によってその不備を指摘されていることなどには触れずに,回復 した,整備した,再生したという成功部分だけを勝利のシンボルとして強調する。そ れはあたかも困難な課題を克服した行政の英雄的態度を顕彰しようとする意図に発す るものであるかのようだ。さらにそうした克服した課題を「環境」という流行のキー ワードと結びつけることで,水俣病事件を取り巻くイメージや意識,主張をずらそう としている。水俣病の経験を活かして「環境都市水俣」というアイデンティティを構 築しようというのである。何かを想起することよりも,顕彰することを体現するとい う意味で,市立資料館には「モニュメント博物館」と呼べる側面がある。
第三に,水俣病事件に関する公的言説は正当なものであるという主張だ。あらゆる 博物館は,社会についての特定の見方を構築し伝えることによって特定のイデオロ ギーを支持している(Sandell 2007: 3)。V・ダスは,インドのボパール事件の分析に おいて,苦痛の生産と苦しみについての神正論が社会秩序の脅威となるのではなく,
その正当化の手段となる社会的メカニズムを明らかにした(Das 1995)14)。市立資料 館は,科学や医療,司法の論理によって被害者の経験や感情を矮小化した水俣病事件 像を描いている。この論理は,これまでに行政が水俣病事件において実施した政策の 基礎にあったものと同じである。すなわち,市立資料館の展示は,自己の正当性を訴 え,反対意見を抑圧した結果というだけでなく,行政がもつ社会についての特定の見 方を反映したものといえるだろう。そして,この論理に適合する物語だけが水俣病事 件の歴史として語られるべきだという主張がそこにある。行政は水俣病事件の教訓を 伝える博物館を,自らに有利な社会秩序を正当化する官僚主義的な言説の強化に利用 しているといえる。
こうしてみてくると,市立資料館は水俣病被害を拡大させた原因のひとつである社 会の抑圧構造を再生産しているといえないだろうか。水俣病の被害拡大の背景には,
行政が水俣の絶対的な支配者であった加害企業チッソ寄りの態度をとり続け,天草地 方からの移民である貧しい漁民の被害を無視し抑圧してきたことがあった。市立資料 館の展示は,科学的アプローチを用いて行政の対応策を正当化する一方で,被害者の 要求や主張を無視し,彼らの経験を自らのマスター・ナラティブに適合するように矮 小化して展示している。このマスター・ナラティブのなかでは,何が失われたか,ど うやって失われたかをしっかりと理解することよりも,問題がどう乗り越えられたか
が前面に迫りだしてきている。行政の責任については裁判で判決が下された国と県の 部分的な加害責任をかたちのうえでなぞるだけである。ここにおいて被害者は,改め て無視され,誤って表象され,抑圧されている。水俣市は自らの差別的な対応が被害 者の苦しみの拡大につながった過程を展示に含めないことによって,水俣にいまだ存 在する差別や偏見,抑圧の構造を認め,それらを根絶する機会を逸しているのである。
水俣病事件を繰り返さないためには,行政を含む加害者による特定の諸実践の結果と して被害拡大が生じていった歴史を見つめ直すことが欠かせないだろう。
4 考証館の展示
4.1 展示内容
考証館の展示の順路は一方向で,年代順になっている。テーマごとの区分は不明確 な部分もあるが,「豊かな海と暮らし」「企業の犯罪」「原因究明期」「多様な被害」
「対立から創造へ」の5つに分けられる。最後に小さなミュージアムショップがあり,
水俣病関連の書籍やビデオ,オリジナルグッズなどが売られている。解説パネルと写 真が中心で,歴史的文書や新聞記事,チラシなどの展示物が多いのは市立資料館と同 じである。解説パネルの数とその情報量はさらに多くなっている。その一方で,比較 的多くの実物が展示されてもいる。不知火海で使われていた小型の漁船,水俣病の原 因を突き止める実験に使われたネコの小屋,高濃度の水銀を含むヘドロ,水俣病患者 支援運動のシンボルとなった「怨」の旗,水俣病患者とチッソとのあいだで結ばれた 患者補償協定書の原本,埋立工事で使われた看板,石牟礼道子著『苦界浄土』の生原 稿などだ。
「豊かな海の暮らし」という最初のコーナーでは,水俣病の被害を受ける以前の不 知火海の漁民の暮らしを紹介している。展示場に入ってすぐの広いスペースには,一 そうの漁船が,以前に水俣で使われていた漁具とともに展示されている。これらはみ な被害者から寄付されたものだ。周囲の壁面では写真や絵,ミニチュアなどを使っ て,海の自然と一体となって暮らしていた漁師たちの姿が生き生きと描かれる。「不 知火海は,海辺の人びとをふところ深く包み込み,質素ななかにも,豊かな自然の恵 みのあるあたたかい暮らしを与え続けてきた」とパネルに説明がある。とりわけ印象 的なのが「魚が主食」と題された写真だ。漁師の家の庭先で1961年に撮られたこの 写真には,汚染魚をそうとは知らずに分ける3人の女性と,それをみつめる4人の子
どもが写っている。女性の優しい表情と子どもたちのうれしそうな顔が強く胸を刺 し,彼らの純粋さと無罪性を雄弁に語る。最初に水俣病に冒されることになったのは 水俣湾周辺で生活する貧しい漁民であった。彼らは天草地方から水俣の海岸沿いに移 り住んだ移民の子孫であり,水俣社会の主流とのかかわりが薄く,そもそもよそ者と して差別的に扱われていた。そうした歴史的背景が水俣病被害者の差別や偏見を助長 する社会的背景となったことを解説パネルは指摘する。
考証館が漁民の暮らしに焦点を当てる理由は2つあるだろう。ひとつは,水俣病被 害者が失ったものは何かを強調することだ。彼らは健康を奪われたというだけでな く,仕事を,そして漁業という生活様式を奪われた。それは彼らにまったく非のない ところでの受難であった。牧歌的な生活を理想化して描くことで,すでに失った自然 や暮らしのかけがえのなさを象徴するとともに,我々が暮らす産業資本主義社会を批 判しようという意図もあるに違いない。もうひとつは,ここで描かれる生活が被害者 の水俣病闘争の根拠になっていることを示すことである。漁民の日常生活は,チッソ に代表される近代資本制社会を組織している論理と対立するものであり,彼らの闘争 はそうした生活の位相に根拠をおいていた(渡辺2011: 83)。その延長線上で,相思 社が取り組む社会運動も,水俣生活民の暮らしのあり方を学び,豊かさや利便性を求 める我々の暮らしのあり方を見直すことを提起している15)。
展示全体の中核部分に当たる「企業の犯罪」と「原因究明期」という2つのコー ナーでは,人命が軽視され,企業の利益や行政の責任逃れのために対応が遅れ,被害 が拡大していった事実を,被害者の立場から糾弾している。このコーナーは文章によ
写真4 考証館の漁船と漁具の展示
る解説が特に多くなっている。チッソ本社から切り取ってきた鉄格子,患者手帳,補 償協定書といった実物には存在感があり,個人の前に立ちはだかる強大な国家官僚シ ステムを表象することにある程度成功している。天井から吊される水俣病運動の象徴 である黒の「怨」旗と「死民」と書かれたゼッケンは,展示場全体に立ちこめる患者 の怨念を象徴するかのようだ。とはいえ,それらのモノ自体が喚起する意味を深く理 解するには,どうしても背景の説明が必要になる。「患者をだました見舞金契約」
「チッソを擁護した『科学者』たち」「患者たちはやっと立ち上がった」「全国の注目 を集めた水俣病判決」といったタイトルの解説パネルは,全面がほぼ文章で埋めら れ,チッソがどんな犯罪行為をおこなったか,行政がチッソを擁護し被害者を軽視し たことによってどれだけ対応が遅れ,被害が拡大したか,被害者がどんな運動をおこ ない,いかに無視されたかを批判的に解説している。たとえば,「汚染魚は放置され た」というパネルの最後には次のように書かれている。「水俣湾の魚が原因で病気に なることが,しだいに明らかになってきたが,厚生省は法律で『魚を捕ってはいけな い』と決めることをしなかった。この時以来,今日まで水俣湾内の魚は,法律で捕る ことを禁止されたことは一度もない。それもいつの間にか『大丈夫だ』といわれて,
1973年に第三水俣病事件が起きるまで再び水俣湾内の魚は捕られ,人びとに食べら れていた」。
写真はある程度,差別や抑圧,暴力といった表象困難な記憶や感情に光を当てるこ とができるかもしれない。少なくとも,それらがどのようなものであったかを想像す るための手がかりのようなものを与えてくれる。水俣病事件を象徴する写真といえ
写真5 考証館の患者運動の展示
ば,みる人の恐怖感を増幅させるような,激しくけいれんする末期の劇症型患者のも のだろう。それらは水俣病の実態や恐ろしさを伝えるのに役立つが,逆に偏った被害 者のイメージを植え付けるだけでなく,水俣病に対する人びとの誤解を助長し,行政 や社会の対応を誤らせる危険がある。考証館はその種の写真を1点しか置いていな い。一方で,運動する患者や支援者の写真を数多く展示する。チッソの株主総会で幹 部を取り囲む純白の巡礼服を着た患者たち,拡声器のマイクを握って演説する支援 者,水俣病被害者の遺影を胸に繁華街をデモ行進する患者家族といった白黒の記録写 真である。水俣病被害者にとって運動は,裁判も含め,被害の苦しみを象徴的に訴え る場であり,自分たちの怒りを公的に表現するカタルシスのドラマであり,現代社会 の道徳的問題についてコメントする場でもあった(cf. Das 1995: 141)。展示された写 真からは彼らのそうした激しい情動が伝わってくる。
「多様な被害」という次のコーナーも,模式図と文章ばかりのパネルで構成される。
このコーナーの原型をつくった吉永さんは,ここでもっとも表現したかったのは精神 的被害だったという。だが,展示を通じて精神的被害を表象することは難しいので,
知恵を絞った結果,差別や偏見の表現を紹介するパネルを考えたという。「政治家た ちの患者非難」というパネルでは,「認定申請者のなかには補償金目当てのニセ患者 がたくさんいる。もはや金の亡者だ」といった政治家の発言を実名入りで紹介し,
「政治的意図を持ってなされるこうした人びとの発言は,世論に影響を与え,被害者 への偏見や差別をより強くしている」と断じている。「こんなことばが投げつけられ た」のパネルでは,無知や偏見からくる被害者への誹謗中傷が,黒地に白字で並べら れている。「認定されるためにフラフラ歩く練習ばしよる」「うつるけん,よるな」
「患者がいるからこの町は暗くなったっぞ」。解説文は,「水俣病はチッソがつくり出 した『犯罪』であるという事実を知らせることからしか,このような患者への暴言は 消えない」と結んでいる。来館者の多くはこのパネルの前で立ち止まり,じっと解説 を読んで,それからしばらく動けなくなっていた。
1995年に政府が未認定患者の救済策を提示して以降,被害者と行政との関係は和 解に向けて少しずつ変化した。考証館はこれにあわせて何度か展示を更新してきた。
その変化がもっとも大きくみられるのが,展示の最後にあたる「対立から創造へ」と いうコーナーである。2004年にわたしがはじめて訪れたとき,考証館はまだ開館当 時に近い運動史中心の展示をおこなっていた。展示全体でチッソの犯罪行為と行政の 怠慢を厳しく糾弾していた。2005年のリニューアル時に,「展示の流れが左翼的な運 動史観によって構成されていることによって,『水俣病を伝える』目的が,運動の要
求実現に収束している」(川部2003)ことを自ら反省し,新たに「もやい直し」事業 の紹介を展示に加えることにした。「船と岸壁,あるいは台風のときに船と船をつな ぎとめる綱を水俣では『もやい(舫)綱』と呼」び,もやい直しとは「水俣病と正面 から向き合い,対話し共同する地域再生の取り組み」のことである(解説パネル)。
もやい直し関連の各種イベントの他,ゴミ減量運動,環境マイスター認定制度,環境 教育など,行政の呼びかけで始まったもやい直し事業を紹介し,「差別や偏見の解消 はまだまだ達せられたとはいえず,『もやい直し』は始まったばかりである。深刻な 被害・対立を体験した地域がいかにそれを乗り越えるか。水俣の『もやい直し』は,
民族紛争や宗教対立とも通じるテーマをも持って,これから形作られていくものであ る」と結んでいる16)。
4.2 展示のアプローチ
考証館は展示内容だけでなく,アプローチにおいても市立資料館と対照的である。
市立資料館は専門家のデータを用いて出来事の客観的な特徴を提示し,展示内容に科 学的権威を付与していた。これに対し考証館は,相思社の活動経験や被害者との信頼 関係を提示し,それによって展示内容に信憑性や喚起力を生じさせている。わたしは これを民族誌的権威と呼びたい。
民族誌的権威という概念をわたしは民族誌的調査と民族誌との関係の類比から採用 している。「民族誌(学)的権威(ethnographic authority)」(Clifford 1983; ロサルド
1996; Marcus and Fischer 1999; クリフォード2003)とは,フィールドでの経験を民族
誌として記述するときに,特定の時制や声,メタファー,修辞法などを用いることに よって生み出される民族誌家の権威のことだ。同じことは博物館展示についても考え られる。展示構成や展示品の選択,展示ケース,ラベル,解説パネル,照明,写真の 使用等によって,展示制作者の権威がつくり出されている(Karp and Kratz 2000)。本 稿では,展示制作者が科学的根拠に基づき対象者を客観的に提示しているという印象 を来館者に与えることによって生み出される権威を科学的権威と呼ぶ。これに対し,
民族誌的記述にみられる権威戦略と類似のものとして,展示が制作者と対象者との長 期に渡る人格的な関係を反映したものであるという印象を来館者に与えることによっ て生み出される権威を民族誌的権威と呼ぶ17)。科学的権威と民族誌的権威はともに展 示対象となった人びとの経験を叙述する権威が自らにあることを主張するものであ り,博物館展示における権威の形成にかかわる2つの異なるアプローチととらえるこ とは可能だが,制作者が意図的に工夫するレトリックや戦略というよりは,展示の効
果についてのものである。
考証館の展示も,図や表を用いて科学的データを提示している。しかし科学的権威 を付与するという意味では成功していない。キノコ工場を改造した建物,薄暗く冷暖 房設備のない展示室,統一性のない概念図や統計表,訂正の跡がみえる解説文,汚れ のある解説パネルや変色した写真,展示に使われるふつうの事務机,手作りの模型な どは,展示の科学的信頼性についての来館者の判断にマイナスの効果を与えているだ ろう。また,解説文にみられる糾弾調の,非難めいた過激な表現も,展示内容の信頼 性や道徳性に疑いをもたれる恐れを作り出している。特定の個人や団体の責任追及に 焦点を当てすぎているために独善的に映り,主張の信頼性を薄れさせているのだ。
しかし考証館の展示は,民族誌的権威によって,被害者の生きられた経験を証言し たものとしてその真実性を来館者に訴えかける力をもつ。被害実態の目撃証言である と来館者に認知されることで,展示の信頼性を高めているのだ。考証館は被害者と支 援者によってつくられた博物館であり,彼らの個人的な記憶を展示している。じっさ い,展示物の多くと被害者とのあいだには人格的な関係がある。実物のほとんどは寄 贈品であり,寄贈した被害者の名前とともに展示されている。デモや座り込みに参加 する被害者の写真が展示可能になっているのは,本人あるいは遺族と相思社とのあい だに信頼関係があるからだ18)。情感豊かなチッソ工場や漁村の暮らしの絵,かつての 水俣の写真は,被害者や支援者が描いたり写したりしたものであり,彼らが「自分に とっての水俣病」を見つめ続けた成果である。また,科学的権威を与えるうえではマ イナスの効果があった糾弾調の解説パネルも,民族誌的権威を与えるうえではプラス の効果を持つ可能性がある。展示パネルの語りは被害者を代表したり,直接代弁した りするかたちになっていない。しかし解釈の語調や文体とそこにうかがわれる道徳意 識から,被害者の気持ちを理解し彼らを支援しようとする者たちが語り手になってい ることがわかる。来館者はそれらのことばを被害者の悲しみや憤りを表現するものと して受け入れることができるだろう。
考証館とその展示物が帯びる民族誌的権威は,記憶の場所にあるという事実によっ ても支えられている。考証館は水俣湾から1キロほど内陸に入った穏やかな丘を登り 切ったところに立っている。行きにくい場所,みつけるのが困難な場所に位置してい るのは,元々,水俣病被害者の拠り所として建設された相思社の敷地内に建てられて いることによる。敷地前の道路は車一台がやっと通れる幅の農道で,大型バスで行く と500メートル手前の空き地で降りて歩かねばならない。そこから考証館までの民家 や畑の景色は記憶の場所という感覚を呼びさますことだろう。あるいはまた,被害者
の日常生活に分け入っているというイメージを持つかもしれない。さらには,相思社 そのものが,1970年代後半から1980年代にかけて被害者運動の拠点となった歴史的 な場所でもある。集会棟にある仏壇では水俣病被害者百柱以上の位牌を預かってお り,庭には水俣病で死んだ「ネコの墓」が建っている。こうした場所の感覚や情動に 彩られた景色は,自らはその出来事を経験していない来館者が記憶を想像することを 助けるだろう(White 2004: 299; Williams 2007: 102)。人は記憶の場所でこそ,水俣病 で亡くなった人を見出したり,彼らに話しかけたりすることができる(cf. スターケ
ン2004: 31)。考証館は説明や解釈のための表象のシステムであるというだけでなく,
記憶の場所にあることによって,継続する生きた歴史のなかにいるという感覚を来館 者に生じさせる力を持つ。歴史的現実に自らを浸らせるような空間,展示されるモノ や写真を眺めるための神聖な空間になることができるのだ(ソンタグ2003: 120)。
考証館の展示のあり方を考えるうえで重要な展示物が出口手前に2つある。ひとつ は「わたしの伝えたい水俣」というパネルであり,考証館スタッフが一人ひとり顔写 真入りで,簡単な自己紹介とともに,相思社に入った経緯,水俣への思い,伝えたい ことなどを自分たちの言葉で語りかけている。たとえば,「水俣病を伝える」と題し た遠藤さんの文章にはこういう一節がある。「はて,いつから自分はこんなに水俣の ことが好きになったんだろう。少なくとも20年前には,チッソばかりでなく市民も 市役所も敵だと思っていた。そういえば1995年に子どもが生まれてから『この水俣 生まれの水俣育ちになる我が子が,自分のふるさとを好きになってもらいたい』と,
親としてのエゴイスティックな感情を持つようになった」。永野三智は「水俣病の裏 と表を発信したい」という文章でこう書いている。「実際に『今』苦しむ患者の方に 出会い『水俣病は終わっていない』の意味がわかってきました。聞き取りのなかで相 談者のさまざまな思いがあふれ出します。日々の症状や将来への不安,自身の歴史や 水俣病への思い,診断によって下される『水俣病』を背負って生きること,認定され たから終わり,手帳を取得したから終わりではありません。人生は,ずっと続いてい くのです」。これらの語りから,展示を作っているのがどんな人か,被害者や加害者 とどんな関係にあるか,どんな人間の目を通して被害者の物語が語られているかとい うことが理解される。そうした情報は来館者が展示内容を相対化して評価することを 助けるだろう。そして考証館の展示の信憑性や喚起力,すわなち民族誌的権威を高め ることにつながっているはずだ。
もうひとつは,「水俣病事件をめぐる表現活動」という題の展示ケースである。そ こでは『苦界浄土』の自筆原稿をはじめ,「多様な『わが水俣病』を伝える」小説や
写真集,記録映画のフィルムやシナリオ,演劇の脚本などが展示されている。解説に 明記されてはいないが,これらの著作者は長年にわたり相思社と関係が深い人びとで あり,水俣病被害者を支援してきた人びとであり,自らが共感した被害者の思いを伝 えようとして表現活動に携わってきた人びとである。この展示は,考証館がそうした
「わが水俣病」の表現活動のひとつであり,相思社の運動の歴史と文化のなかから生 まれたものであることを象徴している。それはまた,石牟礼道子の著作にみられたよ うな,患者たちの情念そのものに立ち会っていると感じられるような展示を考証館が 目指していることを宣言する。
この展示は,来館以前に読んだ本や観た映画で知ったことと,実際に水俣で経験し たこととがここで出会うという間テクスト性を象徴してもいるだろう。来館者の多く はこれらの出版物や映像から,水俣病事件についての知識を得て,関心を持って,水 俣を訪れている。「大衆文化生産と記憶の実践とは相互に対話しており,記憶の場所 は大衆文化で流布している物語を通じて意味を獲得する一方で,場所そのものが集合 的経験として記づけられた物語を普及させる」(White 2004: 294)。こうした確認を通 じて来館者は水俣病事件との情動的結びつきを深めると考えられる。
4.3 展示が伝えるもの
考証館の展示は何を伝えているだろうか。おそらくそこには3つの主張が含まれて いる。ひとつは,裁判闘争を基軸とする水俣病運動の成果として和解が達成されたと いう主張である。展示構成からは,人びとが豊かに暮らしていた不知火海で,チッ ソ・行政による犯罪的行為があり,被害者は立ち上がって闘い,少しずつ勝利を得て きた,というストーリーが読み取れる。そして最後に,行政との和解以降の,2000 年代後半の「もやい直し」活動の紹介がある。記憶とは,過去の瞬間を正確に想起し たものというよりは,和解やアイデンティティの回復といった社会の必要性のために 断片的な過去を再構築してできるものだろう(Brown 2006: 251)。相思社が自らの活 動や行政との関係の変化に応じて展示内容を改訂したのは当然だし,評価すべきこと だと思う。しかしこの改訂によって,水俣は悲惨な経験を乗り越え,環境都市として 誇れるようになったという,市立資料館が描く物語に近いものがそこから読み取れる ようになった。1970年代以前を中心に扱う「多様な被害」までの展示パネルでは写 真がすべて白黒であったのに対し,「もやい直し」の展示ではカラー写真が使われて いる。そのことも,まるで暗黒の過去から明るい現在に移行したことが暗示されてい るかのような印象を与えている。そして相思社がつねに主張する「水俣病は終わって
いない」というメッセージを弱める結果になっている。じつは「もやい直し」のある 最終通路の反対側には「現在の水俣病補償」というコーナーがあり,そこで残された 課題が紹介されているのだが,白黒を基調とする細かい図表が並んでいることによっ て来館者の注意をあまり引いていない。とりわけ展示場を短時間で駆け抜けるとそう なのだが,被害者が行政や市民と和解し,協力して環境モデル都市を目指すまでに なったという印象を来館者は持つだろう。
運動から和解へというこの物語には,被害者の多様性を隠してしまうという問題点 もある。水俣病の被害者といっても一枚岩ではなく,事件発生当初から諸派に分か れ,分裂や合体を繰り返すとともに激しく対立してきた。しかし,被害者があたかも 同質集団であり,被害者全員が一致団結して闘ってきたかのように考証館の展示は表 象している。確かに初期の被害者には漁民が多かったのだが,被害を受けたのは漁民 だけではない。魚介類を日常的に捕獲して食べていた海辺のその他の住民や,彼らか らもらって食べていた隣人へと被害は拡大し,最初は被害者を差別していた人たちが 後には被害者になっていった。こうして被害者と加害者との境界線が不明瞭になり,
被害者の親族や共同体に多大な緊張を生み出していく過程は,水俣病被害の歴史にお いて特に重要なものだと思われるが,展示はこの過程に触れていない。もっとも激し い差別を受け,激烈な闘争に参加した初期の被害者だけを被害者として実体化する危 険を冒している。しかも特定の団体の歴史を中心に展示を構成しているにもかかわら ず,そのことを明記していない。相思社が支援する被害者団体の運動が水俣病事件の 歴史的展開を切り開いてきたことは確かだが,被害者が直面した対立やジレンマ,不 安などをすべて無視し,さまざまな多くの物語をひとつの闘争の語りに包含してしま うのは問題だろう。
第二に,考証館の展示は,水俣病事件は「社会的な苦しみ(social suffering)」を生 み出したと主張している。「社会的な苦しみは,政治的・経済的・制度的な力が人び とに加えられることによって,また,それらの力が人びとの社会的問題の取り組み方 に影響を及ぼすことによって,生み出される」(クラインマン他 2011: i)。水俣病と は,一義的には,チッソという企業が水銀を含む工場廃水を海に流し,その水銀に よって汚染された魚介類を多量に摂取した人びとに生じた健康被害であるが,それと 同時に,あるいはそれ以上に,社会にみられる漁民差別の歴史的構造,チッソの植民 地主義的支配,生業を奪われたことによる貧困,行政のとった対策,司法システムの 不備といった社会的プロセスが重なり合って被害が拡大していった。とりわけ考証館 の展示が強調するのは,「ニセ患者発言」に端的に示されるように,被害者は自らの
苦しみを,本来彼らを救うシステムであるはずの臨床医学や行政制度の実践を通じて 増幅させられてきたということだ。
第三の主張は,水俣病事件は現代社会に生きる私たちの問題として考えなければな らないというものだ。考証館の展示は,我々から離れた過去の出来事としてではな く,現在の生活と直接結びついた問題として水俣病を提示する。自然や人間より利益 を優先する社会が水俣病を生み出した。その社会の延長線上に現在の日本社会はある のであり,その歴史に加担してきた以上,我々にも責任がある。このことを来館者一 人ひとりに自分の問題として考えることを求めているのだ。「同情するのではなく,
我々の特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれないという洞察こそが課題であ り,心をかき乱す苦痛の展示はそのための導火線に過ぎない」(ソンタグ2003: 102)。
5 考証館の語り
考証館には,団体客を対象に,相思社のスタッフが15分から30分をかけて展示場 を案内するサービスがある。以下に述べるように,それは内容からすれば,「案内」
や「解説」というよりも「語り」に近いものだ19)。わたしはこの語りこそが,相思社 の水俣病を伝える活動,彼らのいう「考証館活動」において決定的に重要な役割を果 たしており20),考証館は展示をみる施設としてよりも,物語が語られる舞台としての 存在意義の方が大きいと考えている。
展示案内は相思社スタッフが交替でおこなうが,それぞれの案内はきわめて個性的 な内容を持つ。即興的なものであり,相手や話の成り行きによって対象も内容も変わ る。マニュアルのようなものはなく,特別な訓練もおこなわれていない。語りの内容 と展示物とのあいだに直接的な関係がないことも多く,展示物について解説するとい うよりも,スタッフ個人が相思社で活動するなかで気づいたこと,経験したこと,考 えたことなどを語るために展示物や考証館という空間が用いられるといった方がよい かもしれない。わたしのインタビューに対し,相思社のNさんは案内で次のような ことに注意していると語った。「それぞれが感じる水俣の魅力なり水俣病の魅力とい うのを語れているということですね。そこにどうやって自分を出せるかというのがあ りますよね。客観的に水俣病の説明をするんであれば,相思社じゃなくていいと思う んで,相思社の案内の意味がなくなってくると思いますから,間違っていてもいいと 思うので,自分が思う水俣病とか,自分が感じる(水俣病とか)……」。案内でガイ ドが個性を出すことはむしろ意図的におこなわれていた。
とはいえ案内の内容には共通性がみられる。Nさんは次のように述べる。「最初,
相思社の話ですよね。漁民の生活。チッソ。で,ネコ実験,胎児性(水俣病の解説),
くらいですか。……運動のあたりはだいたい飛ばします。基本的に飛ばします。もや い直しはさらっとですね」。わたしは2005年の調査で,相思社スタッフ全員の案内を 何度も観察したが,だいたいみなこれと同じパターンだった。もっとも時間をかけて 熱心に説明するのが,入ってすぐの「豊かな海の暮らし」のコーナーで,ほとんど飛 ばしてしまうのが水俣病運動史だった。来館者の滞在時間に余裕があれば,後半の
「多様な被害」の一部と「対立から創造へ」の一部がそれに加えられた。
「豊かな海の暮らし」について熱心に語るのは,現在の相思社が水俣病とともに生 きる人びとの姿をもっとも伝えたいと思っているからだ。相思社のKさんは案内で 次のことに注意しているとわたしに語った。「それは俺自身の反省と関係するけど,
生活とか文化というのは従来否定してきた人間なもんですから,そこから新しい世界 が生まれると思っていなかったから。ここ10年くらいはそこしかないなと思ってい るふしもあって,だから特にあの中でも,暮らしに含まれる部分,最初の水俣の入り 口を描いた絵,砂田明の絵と,その次の坪段で魚をみんなで分けている絵とか,暮ら しでいうと,あとなんだろうな,日常生活のなかでの困難みたいなほうに重点をおい て一応説明してると思っていて,それはなるべく運動とか,補償要求とか,という話 にならないように,水俣病のことを理解して欲しいなぁというふうに思っている。そ の,個々人の暮らしにとってなんだったのかという,……『暮らしのなかの水俣病』
という切り口が,一番おもしろいなぁといま思っているから……なるべくそういう日 常生活というところを切り口にして,説明したいと思っています」。水俣病被害者に ついては広く世間に知られた2つのイメージがある。ひとつは,不治の病に冒され,
ひっそりと隠れて暮らす,哀れで孤独な犠牲者というイメージだ。もうひとつは,天 使のように清らかな存在,進んで赦しを与える聖者というイメージである。どちらも 水俣病被害者のある一面を誇張してとらえており,彼らの生活の危機的現実や,その なかで逞しく生きる姿をまったくとらえていない。そうした水俣病とともに生きる人 びとの姿,「暮らしのなかの水俣病」こそが,相思社がいま,語りで伝えようとする ものである。
案内で語られる物語の多くは,被害者について相思社スタッフが見聞きしたことそ のままではない。彼ら自身の経験に変換して,彼らのことばで語るものである。先に 紹介した「水俣病を伝える」というパネルに次のような記述がある。「私たちは,『水 俣病を伝える』ことにどのような価値や意味があるのかを,わかりきったことにして
はいけない。伝える人が『水俣病とは何か』を自分に問うことがなければ,水俣病は 緊張感のない一片の情報となってしまう」。語られるのは相思社スタッフによる自伝 的な物語であり,被害者の生に触れた経験,その経験について反省したこと,結果と して生じた自己変容の過程についての語りである。これを相思社では「わが水俣病」
と呼んでいる。彼らは被害者の経験を自らのもののように装って語るのではなく,埋 められない距離のある他者の経験として認めたうえで,彼らがそこから何かを学ぼう とするものとして語るのだ。
Nさんは展示の説明で気をつけていることを次のようにいう。「できるだけ個人的 なつながりのなかで案内をしていきたい。だから相思社の枠のなかでの案内ではなく て,相思社のNとしてできることをやっていきたいなとは思いますね」。水俣病事件 についての深い思いを語ろうとすれば,それは個人的なものにならざるをえない。
「他者の苦痛へのまなざしが主題であるかぎり,『われわれ』ということばは自明のも のとして使われてはならない」(ソンタグ2003: 5–6)のである。それは又聞きではな く,おのれ自身の眼の証言に基づいて自分の意見を確立したものであるからこそ,生 き生きと物語ることができるのだろう(ギンズブルグ2003: 58–59)。彼ら自身に直接 の影響を及ぼしたものであり,血肉となっているものであり,自分の中に引き継がれ た生の記憶である。
相思社はこうした語りによって自己変革のための素材を来館者に提供していると考 えている。Nさんはわたしにこう語った。「基本的には案内って素材提供だと思うん ですよね。素材を提供して,あとはどう判断するかというのは,向こうの判断だから,
もちろん結論まではもっていかないし,個人的には結論はしゃべっても,判断という のはその人たちがするものですから,というふうには思ってますね」。語りを相思社 による「教育」と考えるのは適切でないだろう。彼らは来館者が自らの素朴な世界観 や倫理意識を疑い,人と人との関係や人と自然との関係をいっそう深いレベルで真剣 に考えるための媒体として物語を提供する。ただし自分の生活に直接かかわる重要な 問題としてそれを受けとめ,反応するかどうかは,来館者しだいである。来館者はそ れぞれ聞いた話を,能動的に,自分にとってより身近な,切実な問いに置き換える作 業を課される。この過程は「学習」と呼ぶのが適切かもしれない(Williams 2007:
154)。ただしこの学習では最終的な答えを出すことを必ずしも求められるわけではな い。問題がなぜ起こったのか,どのようにして起こったのか,そこにある教訓とは何 かを考えることがより重要である。こうした学習のアプローチは,学習者の社会的背 景や文化的態度の多様性を前提としつつ,一人ひとりの能動的,政治的な知識の構築