13 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Jan.- Mar. 2020]
新しいコレクション
松田権六(1896–1986)
《秋草泥絵平卓》
1932年
高さ8.0 、幅61.0 、奥行38.5 cm 漆、泥絵
Lc0365 平成30年度 購入
撮影:エス・アンド・ティ フォト
松 田権六といえば
︑
一九五五年に﹁
蒔絵﹂
の技法で重要無形文化財保持者の認定を受けた
︑
蒔絵のエキスパートです︒
一般的に﹁
蒔絵﹂
というと︑
漆の黒と︑
模様を描き出す際に使われる金粉の対比というイメージで知られます
︒
そのため︑
この作品の一見蒔絵らしからぬ風貌に︑﹁
おや? ﹂
と思われる方もおられるかもしれません
︒
その違和感は
︑
フラットな面にラフに描かれた模様によってさらに強まります
︒
蒔絵は江戸時代に高度に発達し
︑
少し大げさに言うならば︑
半レリーフ的な仕上げで模様を高く盛り上げた硯箱や調度品類が多く生み出されました
︒
そうした蒔絵技法は︑
大正時代に大家として名を馳せた赤 あか塚 つか自 じ得 とくの作品にまで受け継がれてきました
︒
しかし︑
この作品はどうでしょう︒
蘇芳で赤く染めた桐の一枚板を用いた天板
に
︑
萩の枝や葉を流れるような筆致で描いています
︒
絵画の筆で描いたような表現を︑
漆と金粉等を使って達成するため︑
松田はこの作品であえて泥 でい絵 えという技法を用いています
︒
漆芸技法でいう泥絵とは
︑
漆を塗った面に︑
金銀粉や箔を水や膠で溶いて作った金泥で模様を描く技法です
︒
漆が乾かないうちに直接描いていくので
︑
筆致を生かした表現が可能となります
︒
一方で︑
この手法では︑
下絵も描くことができず
︑
やり直しもきかない一回勝負となるため︑
かなりの修練が必要と されます︒
江戸時代の蒔絵とは全く趣を異にする難しい技法に︑
松田があえて挑んだ理由はどこにあったのでしょうか
︒
大正時代から昭和初期にかけて
︑
松田の師であった六角紫水ら東京美術学校を中心とした蒔絵作家を中心に︑﹁
末 まっ金 きん鏤 る﹂
と呼ばれる技法が流行しました︒
それは︑
正倉院の漆工品に例が見られる我が国最古の蒔絵技法であると同時に
︑
まるで絵画のようにモチーフの自由な描出を可能とする蒔絵の新手法としても読み替えられ
︑
注目されていました
︒
ただし当時︑
末金鏤は漆に金銀粉を混ぜて描く
﹁
練 ねり描 がき﹂
の技法によると考えられており
︑﹁
あたかも絹素の上に金泥を以って画きたらんが如き筆致濃淡
﹂
を現すことができる﹁
清新な﹂
技法と捉えられていました
︵
その後︑戦後の調査で︑末金鏤は漆で模様を描いた上に金銀粉を蒔く研 とき
出 だし蒔絵によることが明らかになりました
︶︒
本作は︑
こうした戦前の﹁
末金鏤﹂
ブームを受けて︑
やり直しのきかない難しい手法を用いて︑
松田権六が蒔絵表現を押し広げようという意図で制作したものと推測さ
れます
︒
江戸時代までの高度な技巧に裏打ちされ
ながらも
︑
表現としては固く古めかしいものとなっていた漆芸表現を変革しようとい
う気運が満ちていた時代
︑
松田の出した回答の一つがこの作品でした︒ ︵
工芸課主任研究員 北村仁美︶ ︵
所在不明︶
と比べると明らかです︒﹁
人民広場﹂
とはおそらく皇居前広場のこと︒
戦後数年間︑
その空間はメーデーなど様々な集会に用いられました︒
俊も︑
一九四六年五月十九日に行われたいわゆる食糧メーデーに参加したようですから
︑
描かれているのがほとんど女性である
︽
人民広場︾
は︑
その体験に基づいているのかもしれません︒
これと対蹠的になるように
︽
解放され行く人間性
︾
は描かれたのだとすれば︑
ここに描かれているのを単なる女性だと思ってはいけないということになります
︒
実際︑
現実の裸婦なら大抵あるはずの陰毛が描かれていません
︒
また乳房はありますが乳首の表現は不明瞭です︒
そうしたディテールよりも
︑
肉体を量塊として捉えることに意識が注がれています
︒
そして絵の具のタッチも独特で
︑
特に左半身におけるそれは︑
塑像における石膏や粘土のようです︒
俊は
︑
新しい憲法のもとに生きる人間の姿を描こうとして︑
理想的な身体を象 かたどることに長けた彫刻に範をとった
︒
そしてそれを絵画ならではの抽象的な空間においた
︒
表明したいことがあればこその表現です︒
一方︑
当時の美術雑誌を紐解くと︑
男性画家の描く裸婦は︑
後ろ向きであったり腰や足に布をかけていたり身をよじったりと堂々としていないものばかり︒
俊の作品がいかに清新であったかがよくわかります
︒ ︵
美術課主任研究員 保坂健二朗︶
松田権六