九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
The Kawabe River Dam Project and the Political Process, focusing on Anti-Dam Movements
土肥, 勲嗣
九州大学大学院法学府修士課程
https://doi.org/10.15017/3927
出版情報:法政研究. 71 (4), pp.169-204, 2005-03-09. Hosei Gakkai (Institute for Law and Politics) Kyushu University
バージョン:
権利関係:
論 説
はじめに
第一章 川辺川ダム計画前史
第二章 第一期ダム反対運動
第一節 第一期ダム反対運動の分裂
第二節 第一期ダム反対運動の転換
第三章 第二期ダム反対運動
第一節 第二期ダム反対運動の台頭
第二節 第二期ダム反対運動の展開
むすびにかえて
川辺川ダム建設をめぐる政治過程
−ダム反対運動を中心として−
勲 嗣
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論 説
地図:球磨川水系略図
(出典:福岡賢正『国が川を壊す理由第2版』葦書房、1998年。なお、須恵村、深田村、
岡原村、免田町、上村は、2003年4月よりあさぎり町となる。)
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川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
戦後開発政治が崩壊しはじめている︒高度成長期に本格化した地域開発は︑私たちの生活に﹁豊かさ﹂をもたらした︒
しかし︑﹁豊かさ﹂そのものが多様化している今日︑戦後開発政治は行き詰まりをみせた︒その象徴的な出来事として︑
一九九〇年代以降︑公共事業が争点化され︑その改革が政治行程に浮上した︒政府の財政逼迫︑環境意識の高まりに加
え︑地域民主主義の要求が展開されるようになったのである︒
︵1︶ 本稿では︑大型公共事業の象徴的な事例とされる能蕃県の川辺川ダム建設におけるダム反対運動に焦点を当てる︒建
設省︵当時︑以下省略︶が一九六六年に発表したダム計画は︑球磨川の最大支流である川辺川に大型ダムを建設すると
︵2︶ いう計画であった︒この計画は︑後に多目的ダム計画となり︑建設省のほか農林水産省︵以下︑農水省︶︑電源開発株
式会社︑熊本県︑各市町村︑各団体が関係する計画となる︒現在︵二〇〇五年一月︶︑建設省の土地収用法に基づく収
用申請後︑熊本県収用委員会において一部の土地および漁業権の収用に関する審議がなされている︒
このようにダム計画が発表されてから現在まで事業が長期化しているのは︑地域住民による二つのダム反対運動が起
きたからである︒ひとつは︑ダム計画の水没予定地において展開されたダム反対運動である ︵以下︑第一期ダム反対運
動︶︒村の中心地が水没予定地とされた五木村では︑ダム反対を掲げる運動が展開され︑後に裁判闘争へ発展すること
になった︒いまひとつは︑ダム計画の恩恵を受けるとされる地域を中心に展開されたダム反対運動である ︵以下︑第二
期ダム反対運動︶︒この運動は︑第一期ダム反対運動が終息したころ台頭し︑ダム建設をめぐって大きな影響力を発揮
している︒
︵3︶ ところで︑川辺川ダム建設をめぐる社会現象を分析した研究はこれまでほとんどなかった︒しかし︑近年になり︑第
︵4︶ 一期ダム反対運動を中心とした考察がはじまっている︒ひとつは︑社会学のアプローチに基づく研究である︒その代表 はじめに
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説 的な論文として︑﹁大規模公共事業における﹃早期着工﹄ の論理﹂ ︵植田︑二〇〇四年︶ は︑ダム建設で水没予定地とな
︵5︶ 論 る五木村がなぜ早期着工を要望するのかについて︑三つの水没団体の関係者の言説を中心に考察をおこなっている︒い
まひとつは︑社会学のアプローチを踏襲しっつも︑政治学の視点からの研究である︒木原滋哉の﹁ムラの近代化とダム
開発﹂ ︵木原︑二〇〇四年︶ は︑川辺川ダム反対運動の全体を理解するために︑第一期ダム反対運動の論理を明らかに
︵6︶ した論文である︒以下︑木原論文をより具体的に検討することによって︑筆者の視点を示すことにする︒
木原論文の重要な提起は︑中範囲理論としての﹁受益圏・受苦圏﹂概念を再構成するための視点として︑テクノク
︵7︶ ラート ︵国家官僚︶ が担う統合機能に着目したことにある︒すなわち︑テクノクラートが担っている﹁システム統合﹂
と﹁社会統合﹂という二つの機能を分析枠組として︑ダム反対運動の論理を説明している︒ここでいう﹁システム統
合﹂とは︑﹁技術的手段を用いた社会システムの統合﹂のことであり︑他方︑﹁社会統合﹂とは﹁利害調整や規範を通じ
︵8︶ た行為主体の統合﹂とされる︒木原によれば︑ダム開発問題においてテクノクラートは︑工業・水道・農業用水の必要︑
治水対策の必要︑発電の必要などを充足するために︑技術的手段を用いてダム開発を促進する︵システム統合︶ と同時
に︑受益圏と受苦圏を創出するとともに︑その間の利害調整︑合意形成を実現する ︵社会統合︶という二つの機能を担
うとされる︒このような見方に立てば︑五木村のダム反対運動における絶対反対の論理は︑ダム建設による被害は緩和
することのできない致命的な被害であり︑利害調整は不可能であるとして︑システム統合の論理自体に反対する立場と
される︒また︑五木村のダム反対運動における条件闘争の論理は︑システム統合の論理自体には反対しないが︑犠牲を
︵9︶ 緩和することができればダム建設に賛成するという立場であると説明される︒他方︑ダム計画の受益圏とされる地域で
展開されるダム反対運動については︑利害の調整という社会統合のレベルではなく︑システム統合そのものに疑問を提
起し︑ダム計画の目的︑システム統合の論理に反対のため︑条件闘争にはなりにくく︑絶対反対となりやすいとされる︒
筆者は︑基本的に木原の見解に同意するものである︒ただし︑川辺川ダム建設における反対運動の考察を深めるため
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川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
川辺川ダム反対運動の考察を行う辛がかりとして︑ダム計画が地域政治の課題として浮上してきた経緯についてみて
おこう︒これまで一九六六年に川辺川ダム計画を発表した経緯について建設省は︑直前の一九六三〜一九六五年の三年
連続で起こった球磨川の水害をダム計画の契機として説明している︒しかし︑川辺川にダムを建設する計画は︑三年連 には︑利害調整や合意形成といった社会統合が地域政治における様々なアクターによって担われている側面に着目する
︵10︶ 必要があるだろう︒本稿で示されるように︑能州本県や関係市町村は︑大型公共事業である川辺川ダム計画の形成期から
ダム計画を進める上で︑大きな役割を担っている︒さらにいえば︑地域政治における社会統合の﹁成否﹂は︑ダム反対
運動の盛衰を促進するひとつの要因となっている︒また︑第二期ダム反対運動についての考察は充分になされていない︒
ダム計画の受益圏とされる下流地域の人吉市・八代市においてダム反対運動がどのような経緯で台頭し︑影響力をもつ
ようになったのだろうか︒また︑そもそもなぜ二つのダム反対運動にタイムラグ ︵時間のずれ︶ が生じたのだろうか︒
そこで︑本稿の目的は︑これらの先行研究の成果を継承しっつも︑川辺川ダム計画の実施段階において大きな影響力
を有するダム反対運動を︑ダム計画をめぐり対立が先鋭化する地域政治社会レベルにおいて捉え直すことにある︒ダム
反対運動は地域社会においてどのように発生したのか︑また︑発生した場合︑どのような政治過程のなかで展開して
いったのかを時系列に沿って考察する︒なお︑本稿では分析の対象を限定し︑二〇〇〇年の時点をもって一応の区切り
とした︒
以下︑川辺川ダム建設をめぐるダム反対運動の展開過程を︑その前提となったダム計画の原型が形成される経緯を概
観した後︑第一期ダム反対運動︑第二期ダム反対運動の順で考察を進めることにする︒
第一章 川辺川ダム計画前史
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説 続の水害が発生する以前の一九五〇年代の球磨川総合開発計画に確認することができる︒ここでは︑川辺川ダム計画の
論 起源を探るため︑一九五〇年代の球磨地域の総合開発までさかのぽって︑この間題の軌跡をたどることにしよう︒
川辺川にダムを建設する構想は︑一九五〇年代の球磨川総合開発計画に確認でき璽この計画は︑ニューディール政
策の象徴とされるテネシー開発をモデルとしたものである︒熊本県の知事︵当時︶は︑﹁県営発電所を造って︑電力事
情を好転させ︑県産業の工業化を図るとともに︑その売電事業で少しでも稼ぎたい︑自主財源をつくりたい﹂として電
M順円
源開発を主目的とする球磨川総合開発計画に﹁全力投球﹂を試みたといわれている︒この計画の﹁テストケース﹂とさ
れた荒瀬ダムは発電専用の県営ダムとして初めて建設された︒その後︑発電専用の瀬戸石ダム︑そして県営初の多目的
ダムとして市房ダムが次々と建設されていった ︵地図参照︶︒
球磨川最大の支流である川辺川の開発は︑他のダムと同様に︑電源開発を目的に計画されていた︒川辺川は︑電源開
発の﹁九州でも有力な候補地﹂として注目され︑電源開発株式会社によって一九五三年から大規模な調査が行われた︒
ダム建設計画は︑﹁下頭地ダム﹂構想として発表された︒一九五七年には相良村藤田地区にダムを建設する﹁相良ダム﹂
構想に変更された︒ この電源開発株式会社のダム計画は︑五木村の中央部の四百戸以上を水没させる計画であった︒五木村村議会は︑
﹁下頭地ダム建設計画反対﹂を決議し︑村長は電源開発株式会社総裁へ計画撤回の陳情を行った︒これに対して総裁
︵当時︶は︑﹁国策として急増した電力需要を供給せねばならない﹂﹁電力増強には大規模発電を建設せねばならない﹂
﹁大規模発電は川辺川上流以外にない﹂﹁大規模発電は電源開発会社の使命である﹂﹁五木村の人達の心情は良くわかり
H 球磨川総合開発計画と相良ダム71(4・174)542
川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
電源開発株式会社のダム建設からの撤退は︑地元の関係者に大きな衝撃を与えることになった︒地元の関係者には︑
川辺川にダムが建設されることによって︑球磨北部地域の農業用水として利用する北部開発の期待があったのである︒
電源開発株式会社が球磨川事務所を廃止することが明らかになった後︑一九六〇年九月の熊本県議会において︑地元県
議会議員は︑球磨川総合開発の今後の対策について次のように質問している︒
⁝ 御承知のごとく球磨地域は︑本県におきます残された最も経済効果の大きい開発地域の一つでございまして︑球磨総 陳情の趣旨も良くわかり気の毒にたえないが国の為であり了解してほしい︒補償は充分考える﹂とし︑ダム構想は進展
︵13︶ していったのである
しかし︑電源開発株式会社は︑総額二億数千万円を使って調査を終了する︒一九六〇年になると︑電源開発株式会社
はこの計画から撤退し︑相良ダム構想は暗礁に乗り上げることになった︒その背景には︑一九五〇年代後半のいわゆる
﹁エネルギー革命﹂がおこったことを指摘することができる︒アメリカからの発電機器の導入により︑火力発電の新鋭 ︑■ 化・大型化がもたらされ︑石炭専焼火力から重油専焼火力への革命がおきたのである︒この時期は︑水主火従から火主
水従︵水力発電中心から火力発電中心︶ へとエネルギ1政策が転換したのである︒また︑相良ダムに限って言えば︑四
︵15︶ 百戸を超える水没世帯への補償問題は︑発電用コストとして割りにあわないものであったことも指摘されている︒
このように球磨川総合開発計画の一環として川辺川にダムを建設するという電源開発株式会社の相良ダム構想は︑実
現されることなく挫折することになったのである︒
0 電源開発株式会社から建設省へ
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説 合開発として国におきましてもすでに取り上げられ︑市房ダムの完成︑南部利水の着工等すでに進行中でありまして︑
論 この間県の御協力には郡民あげて感謝しておるところでございます︒しかしながら残っております北部利水の根幹をな
すべき相良ダムの建設が︑御承知の通り目下暗礁に乗り上げたる形になつておるのでございます︒相良ダムは︑御承知
のごとく球磨北部地域一千三百町歩の利水計画につながるものでありまして︑この建設なくしては北部開発はあり得な
いわけでありますが︑頼みの綱としておりました電源開発会社の球磨川調査所がこのたび引き揚げることになつており
ます︒こうなつて参りますと︑この前途が非常に暗くなるわけでありまして︑これをこのまま放置しておくわけにも参
らないと存ずるわけであります︒何とか今後の打開の方策を講じなければならぬと思うのでありますが︑これにつきま
︵16︶ していかにお考えであるか⁝
球磨南部地域では︑球磨川総合開発の一環として建設された市房ダムをひとつの水源として︑農地を潤す南部開発が
可能であった︒他方︑球磨川の ︵上流から下流へ向かって︶ 右岸となる球磨北部地域では︑一九五七年に球磨北部土地
改良事業促進期成会が結成され︑戦後︑引き揚げて開拓に入った人々に水田を切り開く計画が持ち上がっていたのであ
る︒電源開発株式会社の撤退は︑すなわちこの地元の北部開発の計画が白紙になることを意味した︒このような事情に
よる地元県議の質疑に対して︑知事︵当時︶ は次のように応えている︒
もともと球磨川の北部高原の開発問題は相良ダムと関連させて考えられておるものでございますが︑相良ダムが御承知
の通り電気と農業だけでは成り立ちにくい︑治水分も含めなければ発電と高原開発の農業関係だけではどうしてもやは
り財源的に不足であるということで︑川辺川の治水費を建設省に持ってもらうことでこの計画を実現したいというふう ︑﹁︑ にみんなの考え方が変わって参っております︒
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この発言に続き知事は︑建設省および経済企画庁との折衝の結果︑一九六〇年から経済企画庁の予算により建設省の
直轄調査が始まっていることを言及している︒その後︑一九六三〜一九六五年の三年連続の水害が発生する︒この水害
により︑球磨川と川辺川の合流地点となる人吉市を中心に大きな被害が生じた︒一九六六年七月︑建設省は︑川辺川に
︵川二 治水専用ダムとして﹁新相良ダム計画﹂を発表する︒さらに一九六八年︑治水・利水・発電を目的とする多目的ダム計 川辺川の治水費を持ってもらうのにはやはり球磨川の全体の治水計画を練り直さなければならぬ︒・⁚市房︵ダムー引用 者︶だけでは球磨川の治水は終わらない︑川辺川の治水を完成しなければ球磨川は安心できないんだと︑その実情をよ く調査して建設省に治水費を持ってもらうということがこれから残された仕事として私どもがやらなければならぬこと ・卜■ でございます︒ 当時︑財政再建団体に指定されていた熊本県は︑ダム建設のコストを負担する余裕はなかった︒他方ダム開発をめ ぐっては︑建設省を担い手とした多目的ダムの法制度が整備されつつあった︒例えば︑特定多目的ダム法︵一九五七 年︶︑治山治水緊急措置法︵↓九六〇年︶︑河川法︵叫九六四年︶が制定されている︒熊本県は︑農業と発電だけではコ スト高であるため︑治水コスト分を建設省に負担してもらうことによって︑相良ダムによる北部開発を継続しょうとし たのである︒しかし︑建設省に治水コストを負担してもらうためには︑川辺川を最大の支流とする球磨川水系全体の ﹁治水計画を練り直す﹂必要があった︒球磨川上流の市房ダムは︑球磨川の洪水を防ぐことができるという前提で︑計 画され建設された経緯があるからである︒そのような前提で市房ダムが建設された建前上︑相良ダム建設の治水コスト を負担する建設省は︑球磨川水系の治水計画の全体に大きな変化がない限り︑大蔵省︵当時︶を説得することができな い︑と関係者は考えたようである︒知事の答弁は次のように続いている︒
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論 説
画となり︑名称は現在の﹁川辺川ダム計画﹂となった︒二つのダム反対運動を呼び起こすことになった川辺川ダム計画
の原型はこのような経緯で形成されたのである︒建設省によってダム計画が発表された背景には︑ダム開発に対する地
元関係者の強い期待があったことをここでは確認することができる︒
H 五木村と関係市町村
一九六六年七月三日︑建設省は︑能州本県球磨郡相良村に川辺川ダムを建設する計画を報道機関の報道という形で突然
発表した︒ダムを建設した場合︑相良村の一部と隣接する五木村の中心地は水没することになる︒特に五木村の場合︑
役場をはじめ中学校と二つの小学校︑郵便局などの公共施設のほか︑四〇〇戸を超える一般民家が水没対象となる︒こ
の計画発表に対して︑村議会では︑﹁五木村並びに五木村議会及び五木村民は︑この計画は五木村並びに五木村民を水
没の犠牲に供するのみであり︑何等利益がないので︑相良ダムの建設に反対する﹂として︑ダム反対の決議を行なって
︵20︶ いる︒ 川辺川ダム計画は︑川辺川上流に位置する五木村の中心部を水没予定地にする計画である︒五木村では︑計画発表当 初からダム反対運動が展開された︒ここでは︑五木村を中心にダム反対運動がどのように発生し展開していったのかに ついて考察してみる︒まず︑一九六六年のダム計画発表から一九七六年のダム基本計画告示までの過程をみてみよう︒
第二章 第一期ダム反対運動
第一節 第一期ダム反対運動の分裂
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その後︑五木村では︑ダムに対して村民一丸となって対応するため︑五木村ダム対策委員会 ︵以下︑村ダム対策委︶
が設置される︒しかし︑当時の雰囲気としては国策に抵抗しても仕方がないという﹁あきらめ﹂がすでに存在していた
︵21︶ ことを確認できる︒例えば︑後に裁判闘争を展開した村ダム対策委員のひとりは︑﹁その当時︑村の中に︑ダムに反対
する雰囲気はありませんでした︒私自身︑ダムへの抵抗はあまり感じていませんでした﹂﹁突っ込んだ発言もありませ
んでした︒どれだけ高い補償金をつかむことができるかどうかということが︑関心事だったような気がします﹂と語っ
︵22︶ ている︒そのような﹁あきらめ﹂が当初からあったとはいえ︑計画発表からダム反対の決議を行い︑村民一丸となって
抵抗する姿勢を対外的に示したのである︒その結果︑当時のダム反対運動は︑住民運動型のダム反対運動ではなく︑五
木村という政治行政単位によって展開された︒
他方︑ダム建設によって村の一部が水没予定地となる隣村の相良村は︑ダム建設に伴なう受苦圏と同時に︑ダム建設
によって農業利水の供給が得られる受益圏を共有する行政区である︒しかし︑相良村は︑五木村と異なり︑ダムに沈む
地域は一部であるの対して︑農業利水の恩恵に預かる地域は広大である︒したがって︑川辺川のダムからの水を期待す
る関係市町村のなかで中心地域であった相良村は︑球磨地域の関係市町村長と共に︑一九五七年に球磨北部土地改良事
業促進期成会を結成し︑積極的にダム建設の促進を要望する活動を行っていた︒ダム反対を掲げた五木村とは対照的に
球磨地域の市町村長はダム建設を陳情していったのである︒
〇 五木村と慎重派水没団体
村を挙げてダム反対を示した五木村であったが︑一九七〇年になると村内部において︑ダム建設に対する住民の立場
の相違が表面化してくる︒ダム建設を容認する村の姿勢が対外的に示されるのは︑一九七〇年︑建設省に対して﹁川辺
川ダム建設に伴う五木村立相計画の基本的要求事項五五項目﹂ ︵以下︑五五項目要求︶ が提示された後のことである︒
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論 説
︵23︶ すでにこの時期︑五木村は︑納得できる十分な補償と立村計画を期待する条件闘争に変わりつつあったとされる︒
五木村が五五項目要求を提示するようになったのは︑能本県の積極的な関与によるものである︒地元への配慮から慎
重な態度を取っていたといわれる当時の知事は︑ダム計画発表から三年後の一九六九年六月定例県議会において︑﹁川
辺川ダムは県民の大きな願いであり︑県としては建設の方向で計画を進めていく﹂とダム建設に積極的に取り組む姿勢
︵24︶ を﹁唐突に﹂強調する︒その後︑熊本県は︑同年九月に総額八三億八︑六〇〇万円の村づくり計画についての説明会を
小=▼へ ︑√・r.. 開催する︒これを受けて︑翌年六月に五木村が提示した五五項目要求を中心に交渉が展開された︒その後︑補償基準案
及び立村計画案づくりのために︑測量及び調査が必要であるとされ︑一九七一年二一月︑知事立会いのもとに︑九州地
︵27︶ 方建設局長と五木村長との間で協定書への調印がなされた︒これにより︑建設省職員の立入調査が可能となり︑川辺川
ダム計画は実施に向けて進展することになった︒
しかし︑この立入調査を契機として︑補償交渉のあり方が住民の間で問題となる︒いわゆる﹁改ざん事件﹂である︒
当時の状況について︑先出のダム対策委員は﹁ダム建設が︑村人の暮らしにどんな影響をもたらすのか︑だれも知らん
︵28︶ かったんですよ︒ところが︑少しずつ ﹃これはおかしか﹄と首をひねるようなことが目につき始めた﹂と語っている︒
︵29︶
﹁改ざん事件﹂とは︑一九七一年に五木村と建設省の間で交わされた協定書の内容が改ざんされた事件である︒﹁事前に
水没者大会で確認した﹃調査立入り前にダム対策委員長︵村長︶と関係者に通知する﹄との文面から﹃関係者﹄の字が
︵30︶ 抜かれていた﹂ことが問題となったのである︒﹁何の連絡もなくいきなり建設省の職員が自宅に訪ねてきて︑住民に戸
惑いが広がりました︒村も国も県も︑行政は信用できん︒住民がもっと勉強せんといかんとの思いが︑少しずつ強まり
まし響この事件を契機に有志数人で勉強会が開かれ︑﹁生活権を守る会﹂が発足︑一九七三年五月には︑﹁五木村水
没者地権者協議会﹂︵以下︑地権者協︶が結成される︒その団体は︑条件闘争の立場をとる村ダム対策委から分離して︑
﹁川辺川ダム計画への対応を村まかせにせず︑住民の手で解決する﹂という方針を掲げ︑独自の活動を展開することに
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川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
臼 県議会上程をめぐる攻防
特定多目的ダム法第四条第四項は︑建設大臣が作成するダム建設に関する基本計画に対して︑知事は県議会の議決を
得て意見を述べることを規定している︒この規定に基づき︑基本計画を県議会に上程する動きが出てくるのは︑一九七
五年八月である︒熊本県の地域振興課長等が五木村を訪れ︑交渉窓口となっている村ダム対策委に対して︑多目的ダム
︵33︶ 法による川辺川ダムの基本計画を作る必要性を強調している︒﹁今︑ダム計画は人間に例えれば戸籍のない状態である︒
︵34︶ 国から十分な予算をとるためには多目的ダム法による基本計画を作る必要がある﹂︒﹁建設省策定の基本計画に能川本県が
議会の議決を経て同意すれば︑官報で大臣告示となり︑﹃川辺川ダム﹄が正式に認知され︑予算もつきやすくなる﹂と
︵35︶ 説明し︑基本計画の上程を促している︒これを受け︑ダム容認派の村ダム対策委において︑同年一二月の県議会に上程
︵36︶ することが正式に決まった︒
︵37︶ 他方︑ダム慎重派である地権者協は︑県議会上程を阻止する動きを展開する︒﹁基本計画が県議会で了承された場合︑
建設省は早速︑補償基準案を提示してこよう︒そうなれば水没者は補償基準の単価に関心を奪われ︑生活再建への目が
そらされてしまう﹂として︑基本計画に先立ち︑生活権補償︑精神的補償を中心とする個人補償要綱の策定を要求して ︵32︶ なったのである︒
計画発表から村を挙げてダム反対を表明してきた五木村は︑行政に対する不信から住民間に溝が生じてきた結果︑村
一体となったダム対策がとれなくなった︒とはいえ︑ダム慎重派水没団体である地権者協も補償基準に応じる姿勢を示
しており︑ダム建設に絶対反対するような立場ではなかった︒つまり︑五木村内部でダム容認派とダム慎重派が分離し
たとはいえ︑村全体としてはダム建設は容認される方向であった︒ところが︑川辺川ダム基本計画案の県議会への上程
をめぐりダム容認派とダム慎重派は対立することになった︒
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論 説
︵38︶ いたのである︒五木村の地権者協に限らず︑五木村︑相良村の四つ水没者団体のうち五木村ダム対策委以外は基本計画
︵39︶ 案の一二月県議会上程に反対であった︒結局︑﹁少なくとも基本計画については全水没者団体の賛成を得て上程したい﹂
︵40︶ とする県は︑川辺川ダム基本計画案の一二月定例県議会の上程を見送くることにした︒
これに対して︑五木村長は︑相良村長及び町村会長と共に︑基本計画案の一二月県議会に追加上程するよう県に要望
す璽結局︑知事︵当時︶は︑一二月県議会上程は断念した︒しかし︑その後︑五木村長らは︑県議会上程のための工
︵42︶ 作に動き︑自民党県連会長と知事の﹁尽力﹂によって︑臨時県議会が翌年一月に開かれ基本計画は承認された︒県議会
︵43︶ 議事録によれば︑ある県議は︑﹁見切り発車﹂または﹁異例の臨時議会﹂を開催した︑と知事を批判している︒地元の
︵44︶ ﹁大多数﹂ の要望が優先され︑﹁少数派﹂の﹁時期尚早﹂との意見は無視されることになったのである︒
ここまでして川辺川ダム基本計画案の県議会での承認を急いだ背景には︑ダム建設を推進したい関係者の間に︑ある
懸念があったからだと思われる︒相良村長および県職員は︑水没者団体に県議会上程阻止を止めるよう次のように説得
している︒
ダム計画の﹁遅れ﹂や﹁一時中止﹂を懸念した関係者は︑全ての水没者団体の同意が得られない状況においてさえ︑
年度中に川辺川ダム基本計画を告示するために︑基本計画案の県議会承認を必要としたのではないかと思われる︒ 一二月県議会への上程が阻止されると︑事務的にみて来年三月県議会への上程は無理となり来年七月以降にズレ込む︒ さらに五一年度には多目的ダム法の事業実施要綱が改定され︑費用負担の割合が変わる︒このため基本計画の練り直し が要請され︑そうなると再度︑基本計画の地元説明が必要になり︑ダム計画は大幅に遅れ︑場合によっては一時中止の
︵45︶ 事態も予想される︒ダム計画に反対でないのなら一二月県議会への阻止行動はやめてほしい
71(4・182)550
H 容認派水没団体の調印
さて︑一九七六年︑建設省は︑川辺川ダム基本計画の県議会上程及び承認︑建設大臣告示︑という川ダム建設を進展
させることができた︒一九六七年に設置された村ダム対策委は︑すでに五木村の水没地域の総意をまとめるという機能
を実質的に失っており︑一九七六年四月に解散する︒他方︑同年五月には︑いわゆる﹁多数派﹂の水没団体として︑ダ
ム容認派・推進派である五木相川辺川ダム対策同盟会︵以下︑同盟会︶が結成される︒
同盟会とは︑村ダム対策委の大半を構成員として結成され︑﹁混沌としてかつ遅々として進まないダム間題の解決を 以上のように五木村を中心に展開されたダム反対運動は︑村一体となった条件闘争から条件闘争のグループと絶対反 対を掲げるグループに分裂した︒ダム容認派とダム慎重派の分裂を決定的なものとして︑ダム慎重派はダム絶対反対派 へ態度を硬化させていく契機となったのは︑県議会における川辺川ダム基本計画案の承認であった︒﹁見切り発車﹂の 県議会臨時会での承認を経て︑川辺川ダム計画が告示されてから︑地権者協が水没補償基準に調印するまで︑さらに一 四年以上の歳月が必要となったのである︒以下その過程をみることにする︒
いずれにしろ︑この基本計画上程をめぐる攻防の後︑ダム慎重派であった地権者協は︑ダム反対派へと変わった︒地 権者協と建設省の補償交渉はすでに開始されていたにも関わらず︑県が県議会臨時会への上程を決定すると︑地権者協 は︑ダム絶対反対を表明し︑相良村地権者協とともに﹁いっさいの交渉を拒否する﹂として交渉打ち切り及び建設阻止
︵46︶ を建設省に通告することになった︒以後︑地権者協は裁判闘争を展開する︒第二節 第一期ダム反対運動の転換
71(4・183)551
論 説
■▲卜︑ 目指し︑個人補償を水没者の生活再建問題の解決を再優先課題とし︑活動﹂する団体とされる︒ダム建設によって五木
村では望ハ五世帯が水没予定となるが︑その内三五三世帯が同盟会の構成員とされる︒その結果︑この団体は︑﹁多数
派﹂を強調することにより︑積極的に補償交渉を展開することになる︒補償基準交渉を進める同盟会に対して︑﹁未だ
時期尚早であり︑具体的な生活再建策を盛り込んだ立村計画を検討した上で判断すればよい﹂﹁しゃにむに補償を要求
する同盟会について行けん﹂と同盟会から分裂し︑五木村の中心地である頭地の田口地区の四三世帯で条件付容認派の
︵48︶ 五木村水没者対策協議会︵以下︑水対協︶が結成された︒ただし︑水対協が同盟会から分裂したとはいえ︑その後にお
︵49︶ ける補償基準に対する交渉活動等においては水対協と同盟会はともに協調していくことになる︒
ダム容認派水没団体である同盟会と条件付容認派である水対協は︑一九八一年ダム建設に伴う水没補償基準に調印す
る︒翌年三月︑五木村議会は︑賛成多数でダム建設反対決議を解く︒その後︑これらの団体はダム建設の促進活動を
行っていった︒
0 反対派水没団体の和解
一方︑地権者協は︑県議会において川辺川ダム基本計画が上程された後︑絶対反対を表明し︑五木村ダム対策委︑能州
本県︑建設省と法廷において対立することになる︒地権者は複数の訴訟を起こしたが︑その中でも中心となったのは︑
かえって洪水被害を大き 川辺川基本計画の取消訴訟であった︒その訴訟理由は︑﹁川辺川ダムは洪水調節機能がなく︑
︵訓︶ くする危険性があり︑河川法違反︒ダム建設は水没住民の憲法で保証された財産権・生存権の侵害﹂であるとされる︒
川辺川ダム基本計画取消しをはじめとする一連の訴訟は︑能表地裁の和解勧告を経て︑のちに却下される︒地権者協は︑
福岡高裁へ控訴するが一九八四年︑建設省と和解が成立し︑訴訟を取消した︒
地権者協はなぜ和解に至ったのだろうか︒地権者協が能本地裁の却下を不服として福岡高裁へ控訴した翌年︑五木村
71(4・184)552
川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
の他の水没二団体は補償基準に調印した︒この一般補償基準に調印することによって︑五木村では一九八一〜一九八三
年までの三年間で約半数の水没世帯が村外に移転することになった︒具体的な生活再建策が示せないまま︑一般︵個
人︶補償だけがおこなわれたため︑大量離村が起こってしまったのである︒生活再建策の大きな要素となる代替地の確
保については︑最も多くの地権者が地権者協に参加しており︑代替地の確保には時間を要したのである︒代替地造成の
目途は立たない状況でもあり︑これによって︑ダム反対派の予想を超えて︑多くの水没予定者が離村する︒ここで村の
将来を案じる地権者協は和解へ向かわざるを得なかったのである︒﹁移り住む代替地の造成のめどもないまま家を買収
すれば︑水没者が村を去るとは当然︒ただ︑離村者の数は思った以上でした﹂﹁このままでは︑村はどぎゃんなるとだ
ろうかと︑不安になるんですよ﹂﹁村の将来を考えると︑ダムを利用するしか方法はなかと思ったとです﹂﹁ダムはおか
しかとの訴えには︑何の間違いもなかと今でも思っております︒でも︑あの時︑和解のほかに選択はなかったとです﹂
﹁川辺川ダムができれば村はだめになる︒和解を受け入れることは︑ダムそのものを認めること﹂﹁最高裁まで闘っても
よか︑との思いもありました︒しかし︑このままでは村が消滅する︒人がいない村の生活再建なんてあり得んでしょう︒
ダムを拒否するという選択肢は閉ざされました﹂﹁今も︑運動に間違いはなかったと思っとります︒ただ︑村の発展を
︵51︶ 最優先させんといかんかった﹂︒最後までダム反対闘争を繰り広げた水没団体は︑﹁村の発展﹂ のため﹁ダムを利用﹂す
る道を選んだのであった︒
地権者協が和解に応じたとき︑原告提訴時一〇一人にいたメンバーが六九人に減っている︒また相良村でともに闘っ
た相良地権者協も︑一九八一年に訴訟を取り下げていた︒また︑この当時︑下流からのダム反対運動への支援はなかっ
たといわれる︒このような法廷闘争における孤立化も和解へ至った原因であると考えられる︒
ダム反対派が和解したとはいえ︑地権者協が建設省の補償基準に調印するまで︑さらに六年間が必要となる︒和解後
も﹁住民の生活再建策やダム計画で疲弊した村の再生策がはっきりしない﹂として︑地権者協は建設省との補償交渉を
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論 説
臼 ﹁補償の公共事業化﹂ への組込み
ダム反対派水没団体の和解後︑五木村は︑村の再建をダム建設とセットにする水源地域対策特別措置法 ︵以下︑水特
法︶ の指定を受ける︒一九七三年に制定された水特法とは︑水源地域整備計画に基づく公共事業の実施を通して︑﹁関
係住民の生活の安定と福祉の向上﹂を図り︑﹁ダム及び湖沼水位調節施設の建設を促進﹂ ︵同法第一条︶ するというもの
︵53︶ である︒ここに採用された手法は﹁実施を大前提として︑補償を単なる金銭補償から過疎対策的な公共事業へと昇格﹂
させるというものであった︒﹁公共事業実施のための補償という本来はネガティブな要因を公共事業化することによっ
て︑建設省は︑その事業範囲の拡大を可能とすると同時に︑補償問題を引き起こす本体の公共事業 ︵ダム建設事業な
︵54︶ ど︶ を安定的に実施する﹂ ことを可能としたのである︒
五木村がこの仕組に組み込まれていくのは︑一九八六年からである︒一〇年前の基本計画が承認された時には︑熊本
︵55︶ 県議会において︑すでに水特法による五木村の救済が検討されていた︒北部開発が可能となる川辺川ダム建設に期待を
寄せる熊本県および関係市町村は︑五木村の住民にはダム建設を受け入れてもらう必要があった︒そのため︑五木村水
没地域の住民の合意が得られない状況下においても︑熊本県は︑県議会における承認が必要であった︒第一期ダム反対
運動が和解した一九八四年︑ダムによる利水事業である土地改良事業は︑農水省による国営事業に格上げされ︑大規模
な北部の開発事業が可能となったのである︒
五木村は︑ダム建設と村の再建がセットにされる水特法の指定を受けることにより︑五木村の振興対策は可能となっ ︵52︶ しばらく保留する︒ダム反対派が補償基準に妥結したのは︑立村計画の目途がついた一九九〇年であった︒村民の大量 離村という文字通り﹁受苦﹂をダムが建設される以前に経験し︑五木村を中心に展開されたダム反対運動は︑まさに ﹁苦渋の選択﹂ の内に幕を閉じたのである︒
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川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
一九九〇年︑ダム反対派水没団体が水没補償基準協定書に調印する︒その際立ち合った細川護照知事︵当時︶ は︑川
辺川ダム計画の進展について︑﹁二十四年ぶりにようやく決着し﹂︑おおむねめどが立った︑との見解を県議会で示し
︵56︶ た︒しかし︑全国的に大型公共事業への批判が高まる中︑人吉市を中心とするダム反対運動の台頭により︑川辺川ダム
計画は錯綜していくことになる︒ここでは︑一九九〇年代において︑ダム計画の﹁受益圏﹂とされる人吉市を中心にダ
ム反対運動 ︵第二期ダム反対運動︶ がどのように発生し︑展開していったのかについて考察する︒ 以上の経緯より第一期ダム反対運動は次のようにまとめることができる︒水没予定地域の五木村で展開された第一期
ダム反対運動は︑川辺川ダム基本計画の県議会上程をめぐって分裂が決定的となり︑絶対反対派は裁判闘争へと発展し
た︒しかし︑ダム反対運動のネットワークを拡大することができず︑村民の大量離村により反対する意義が失われ︑ダ
ム建設を受入れざるを得なかった︒その結果︑五木村は︑ダム反対運動から一転してダム建設推進を要望することに
なったのである︒ た︒その結果︑村の中心地をダム湖に沈める川辺川ダム計画を五木村は推進することによって︑村が存続することを選 んだのであった︒山九九〇年以降︑公共事業﹁見直し﹂ の中で︑川辺川ダム事業が動揺する時期において︑五木村は村 づくりのため︑ダム建設を積極的に要望することになった︒
第三章 第二期ダム反対運動
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論 説
H 第二期ダム反対運動前史
一九九〇年代前半に台頭してくるダム反対運動のひとつの源流は︑それ以前から展開されていた人吉市におけるダム
計画﹁見直し﹂運動に求めることができる︒人吉市は︑球磨川下りや温泉街などが有名な観光都市である︒その人吉市
にとって球磨川は貴重な観光資源であった︒川辺川にダムが建設されたら球磨川にどのような影響が及ぶのか︒川辺川
ダムの基本計画が告示された一九七六年︑人吉市議会において︑ダム建設により商工観光︑農政に及ぼす影響調査︑資
料収集をすることを目的に﹁川辺川ダム間題調査特別委員会﹂︵以下︑特別委員会︶が設置され︑人吉市は自治体レベ
︵57︶ ルでこの間題に取り組んでいった︒
その一環として人吉市より委託された能⁝本商科大学︵現能⁝本学園大学︶産業経営研究所は︑球磨川が人吉地域経済に
︵58︶ 及ぼす影響について調査を行っている︒調査報告書によれば︑人吉市は︑第一次産業への依存度が高い球磨郡の周辺町
村とは異なり︑第三次産業の就業人口が六割を占める産業構造となっている︵一九八〇年当時︶︒第三次産業就業人口
の大半が卸売・小売業とサービス業によって占められており︑﹁人吉市の就業人口が大きく観光関連産業にかかわって
いる﹂ことを指摘してい璽また︑完八一年に実施された住民意識調査によれば︑﹁現在︑川辺川ダムの建設計画が
ありますが︑この計画についてあなたはどう思いますか﹂という設問において︑﹁水資源の有効利用や防災のためにダ
ムを積極的に肯定する意見﹂が三六・八%であるの対して︑﹁球磨川の水流変化による漁業︑観光資源への影響や自然
︵釦︶ 環境の破壊をおそれる意見﹂が四六・三%を占めている︒このように︑川辺川ダム建設は︑人吉市の住民にとって︑他
人事ではすまされなかった︒
人吉市議会の特別委員会における調査結果として︑一︑流量は基本計画の毎秒三十トンでは球磨川下りには足りない︑ 第一節 第二期ダム反対運動の台頭
71(4・188)556
川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
二︑水の汚濁が心配される︑三︑鮎をはじめすべての魚に汚濁の影響が出る︑四︑市房ダムと川辺川ダム両方の統合管
︵61︶ 理をしないと大変な洪水をひき起こす心配がある︑ことが明らかになったとされる︒このような調査結果を踏まえ︑特
別委員会︑球磨川漁協︑人吉温泉旅館組合︑球磨川下りを経営する人吉観光会社︑人吉商工会議所︑人吉市の六団体に
より︑人吉市ダム対策協議会が結成され︑基本計画の修正や流量増を求め︑﹁反対運動ではなく﹂︑ダム計画﹁見直し﹂
︵62︶ 運動を展開していった︒
川辺川ダム計画への人吉市の対応がダム ﹁見直し﹂運動であり︑ダム反対運動でなかった理由のひとつは︑ダム計画
に伴う相反する利害が関係している︒五木村でのダム反対運動が終息し︑川辺川 ダム建設が現実的になると﹁全市民で
取り組まねばどうにもならない﹂として人吉市ではダムの基本計画を見直し流水量の増加を要求する署名運動を始める
︵63︶ ことになった︒しかし︑川辺川ダム計画に伴う利水をめぐって住民の意見は対立することになった︒球磨川の流量増水
を望めば︑農業用水への影響が懸念されたのである︒川辺川ダム計画は︑観光産業への悪影響を与える可能性があると
同時に︑農業用水を確保できるという利益をもたらす事業でもあった︒そのため︑人吉市の運動はダム反対運動にはな
りえなかったのである︒
いま一つは︑人吉市周辺の球磨郡町村からの圧力行動がダム反対の表明を阻害する要因となった︒川辺川ダム計画以
前にダム計画が浮上した際︑人吉市住民は反対を表明した︒それに対して︑ダム建設を望む周辺町村は六八日におよぶ
︵64︶ 不買運動を展開し︑政治経済的に断交することによって︑人吉市への圧力行動を実行している︒また︑先の人吉市市民
全体で取り組もうとした署名運動においても︑﹁周辺の町村議会などから反対の声が噴出︒協力を要請していた市の町
︵65︶ 内会連合会の協力も得られず︑市議の多くも意見を翻して結局断念﹂した経緯がある︒人吉市とは異なり︑第一次産業
に依存度が高い周辺町村は︑川辺川ダム計画に伴う農業用水などの利益を求めて︑ダム計画へ難色を示す人吉市への圧
力行動を展開したのである︒周辺町村との関係から︑人吉市ではダム反対運動を展開することは困難であった︒
71(4・189)557
論 説
0 ﹁よそ者﹂視点の導入
人吉市を中心とするダム反対運動が台頭するきっかけとなったのは︑毎日新聞の記者福岡賢正による﹁再考川辺川ダ
ム﹂ の連載記事である︒一九九〇年一〇月に人吉市に赴任してきた福岡は︑一九九一年八月から一九九二年六月にかけ
て︑﹃毎日新聞﹄ ︵熊本版︶ において︑川辺川ダム計画を検証する記事を連載した ︵後に ﹃国が川を壊す理由﹄ として出
︵67︶ 版︶︒福岡は︑﹁この地とは縁もゆかりもなく数年後には転勤してしまう﹂︑いわゆる﹁よそ者﹂ であった︒﹁全国から川
らしい川が消えた今︑川辺川や球磨川は流域の人たちだけのものではない︒問題があることが分っていて何も書かない
︵棉︶ のは︑記者としての怠慢だと﹂考え︑連載をはじめる︒この連載がきっかけになって︑第二期ダム反対運動のネット
ワークの拠点となる﹁清流球磨川・川辺川を未来に手渡す会﹂ ︵以下︑手渡す会︶ が一九九三年に結成される︒手渡す
︵69︶ 会は︑川辺川ダム計画の凍結と環境アセスメントの実施を求める運動を展開していった︒
第二期ダム反対運動の特徴のひとつは︑団体名からも明らかなように︑守るべき価値として自然の保護を掲げたこと このような要因から人吉市では︑ダム反対ではなく︑ダム ﹁見直し﹂を求める活動を自治体レベルで展開してきた︒
その結果︑人吉市の運動は五木村のダム反対運動と連帯することはなかったのである︒また︑この人吉市におけるダム
計画﹁見直し﹂運動は︑ダム推進派の市長が誕生した一九八七年の市長選後︑勢いが弱まることになる︒ダム計画の
﹁見直し﹂を求めていた従来の慎重派市長から︑⊥九八九年発足する川辺川ダム建設促進協議会の会長となる推進派市
長へと代わったのである︒さらに︑一九九一年の市議改選により︑建設会社の﹁実質的なオーナー﹂が特別委員会の委
︵66︶ 貞長に就任し︑人吉市のダム ﹁見直し﹂運動の中心的役割を担った特別委員会の活動も下火になっていった︒その結果︑
人吉市長がダム建設を積極的に要望していくのとは対照的に︑人吉市の住民は︑周辺の地域住民と共に︑一九九〇年代
以降ダム反対運動を展開していくことになったのである︒
71(4・190)558
川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
臼 ﹁受益者﹂ からの異議申立て
一九九〇年代前半は︑建設省の川辺川ダム計画そのものではなく︑その目的のひとつである農水省の国営川辺川総合
土地改良事業に反対する運動が発生してくる︒川辺川ダムの恩恵を受けるとされるいわゆる﹁受益者﹂である農民から
︵71︶ 異議申立てが展開される︒
川辺川から水を引く国営川辺川総合土地改良事業の起源は︑前述の通り︑一九五〇年代後半からある球磨川の北側に
位置する高原︵たかんばる︶台地を水田化する計画である︒この計画は︑川辺川ダム計画と結びつき︑さらに﹁多くの である︒ダム計画﹁見直し﹂運動が生活保全型の運動とすれば︑第二期ダム反対運動は自然保護型の運動という新たな 視点から運動が展開された︒また︑第二期ダム反対運動の二つ目の特徴は︑その担い手は必ずしも球磨川・川辺川の流 域住民だけではなく︑﹁そこに住まない住民﹂によって運動が展開されたことである︒その結果︑運動の担い手は拡大 することになる︒﹁手渡す会﹂は︑市民団体の﹁くまがわ共和国﹂を母体として結成された︒﹁くまがわ共和国﹂とは︑ 国鉄が民営化される頃︑人吉市から湯前町まで球磨川沿いを走る鉄道の存続を求めて活動した市民団体である︒そのメ ンバーは︑球磨川流域にわたり︑川辺川 ダム計画が直接的に影響しない地域の住民も含まれている︒
以上のように︑﹁よそ者﹂視点の導入により︑﹁そこに住まない住民﹂も担い手となって︑生活保全運動に加えた自然
保護運動が展開されていったのである︒とはいえ︑人吉市の住民も含めてこれらの運動の担い手は︑建設省によって川
︵70︶ 辺川ダム計画という制度上の﹁関係者﹂とはみなされなかった︒五木村では首長・議会および水没団体がダム建設を受
け入れており︑第二期ダム反対運動の中心地であった人吉市の市長もダム建設を要望していたのである︒他方︑このよ
うな従来﹁関係者﹂とされてこなかった住民による運動が発生する同時に︑制度上の﹁関係者﹂からも異議申立てが発
生する︒
71(4・191)559
論 説
補助金を受けられる﹂国営事業に採択される︒その結果︑国営事業の基準である三〇〇〇ヘクタールを超える大規模な
事業と発展した︒土地改良事業は農民の申請事業であるため︑土地改良法は︑受益対象農家の三分の二以上の同意を必
要な要件として規定している︒国営川辺川総合土地改良事業は︑当初計画︵一九八四年︶と変更計画︵一九九四年︶ の
二度にわたって︑受益対象農家の同意取得がおこなわれている︒
問題となったのは︑一九九四年の変更計画に伴なう同意取得作業である︒推進母体である川辺川土地改良事業組合を
中心として︑役場の職員︑農業委員︑事業推進員らにより︑﹁強引な同意署名集め﹂が展開されたのである︒川辺川利
水事業の構想があった一九六〇年代と一九九〇年代では︑農業情勢の著しい変化があった︒減反政策︑農産物の自由化︑
農業従事者の高齢化︑後継者不足である︒受益対象農家は︑﹁負担金を払ってまでダムの水はいらない﹂として同意署
名を拒否するケースが多かった︒しかし︑﹁水はただ﹂﹁後で撤回できる﹂等の説明によって︑同意取得作業が展開され
たのである︒
変更計画の同意取得作業に疑問を抱いた農民ら一一四四名は︑行政不服蕃査法にもとづき異議申立をおこなった︒一
九九五年二月に熊本市︑四月に人吉市︑八月には相良村において︑口頭審理がおこなわれ︑申立て農家や関係者ら延べ
約三〇〇名が意見陳述をおこなった︒しかし︑口頭審理は十分おこなわれないまま中断することになった︒農林水産大
臣は︑農民の異議申立て請求を却下した︒これに対して︑農民は裁判闘争を展開していくことになる︒
以上より︑一九九〇年年代前半に台頭してきた第二期ダム反対運動について︑次の三つのことを確認することができ
る︒第一は︑一九九〇年以前より展開されていた人吉市のダム﹁見直し﹂運動が発展した運動という側面である︒第二
は︑﹁よそ者﹂の視点の導入を契機に︑﹁そこに住まない住民﹂も担い手として加わる形で︑自然保護運動が展開された
という側面である︒第三は︑ダム計画の﹁受益者﹂が行政手続の暇庇をめぐって異議申立を行い︑事業反対の声を表面
71(4・192)560
川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
③ ② ①
H ダム審議委員会
一九九五年九月︑建設省は︑ダム事業に係る事業評価方策の試行の一環として︑川辺川ダム建設事業審議委員会を設
︵72︶ 置した︒このダム審議委員会︵以下︑ダム審︶ の設置は︑中央政治レベルでの﹁公共事業見直し﹂の流れの中で決定さ
︵74︶ ︵73︶ れたものである︒ダム審が導入された主な要因は次の三点が指摘されている︒ 化したことである︒これらの三つの運動が完全に一体となってダム反対運動が展開されたわけではないが︑川辺川ダム 計画に反対する人々は共通する課題として︑相互に緩やかなネットワークを形成していったのである︒次に︑これらの ネットワークの形成を促す契機となった川辺川ダム審議委員会について考察してみよう︒
一九九二年にブラジルで国連環境開発会議︵地球サミット︶ が開かれ環境基本法が一九九三年に成立するなど国民
の環境意識が高まり︑長良川河口堰︑諌早湾や中海の干拓など︑大規模公共事業による自然破壊を問題視する声が強
くなった︒
自民党と社会党を中心とした五五年体制が崩壊し︑市民団体などとのパイプをもつ非自民による細川政権が一九九
三年八月に成立し︑国政に市民団体らの意見を反映させやすい環境ができ︑公共事業問題が北川石松元環境庁長官
︵自民党︶ など一部議員による反対運動の対象から政党間の大きな争点に浮上してきた︒
財政赤字の拡大から︑無駄な公共事業に対する批判が高まってきた︒ 第二節 第二期ダム反対運動の展開
71(4・193)561
論 説
0 ダム計画継続の論理
一九九〇年代前半にすでにダム反対運動が展開されていたにも関わらず︑川辺川ダム事業はどのように﹁継続﹂され
ていったのか︒そもそも建設省の﹁再評価﹂作業とは何だったのか︒誰がどのような基準で﹁再評価﹂するのか︒ダム
審委員の人選について設置・運営要領は︑﹁知事︑市長村長︑議員が六割を占め︑残りは学識経験者から知事が選ぶも
︵75︶ の﹂とされていた︒このダム審の設置に携わったとされる建設省の技監︵当時・河川局開発課長︶ は︑委員会の人選に
ついて次のように言及している︒﹁﹃だれが地域の代表か﹄ということで建設省内でも議論があった︒議会制民主主義な
︵76︶ ので︑どうしても地元の市町村長は外せない︒上下流の調整も必要なので︑知事もということでこの人選になった﹂︒
このように﹁地域の意見﹂は﹁地域の代表﹂によって反映される︑という前提で委員会の人選は行われた︒
川辺川ダム審の二一人のメンバーは︑学識経験者五名︑県知事︑地元県議ほか関係市町村長の計一二名であった︒ このような経緯でダム審議委員会が全国一一の事業を対象に設置され︑川辺川ダム事業のその対象のひとつに選ばれ
た︒川辺川ダム審は︑川辺川ダム事業について︑﹁改めて︑地域の意見を聴き︑今日における事業の意義︑事業の内容
などについて審議し︑今後とるべき事業の方向などについて意見を︵具申すること︶﹂を目的に設置され︑同ダム事業
について︑﹃継続して実施﹄︑﹃計画変更して実施﹄︑﹃中止﹄ のいずれが妥当であるかの意見を求める諮問がなされた︒
審議委員会は︑一九九五年九月八日より一九九六年八月一〇日まで九回の審議が行われ︑次のような答申を出してい
る︒﹁川辺川ダム事業は︑﹃継続して実施﹄することが妥当である︒なお︑事業の継続にあたっては︑今後とも︑関係機
関との調整はもとより︑地域住民・流域住民の意見を十分聴くとともに︑環境の保全に最大限の配慮をなし︑本ダム事
業が所期の目的を達し地域の発展に寄与するよう要望する﹂︒このようにして川辺川ダム審は︑﹁継続して実施﹂という
結論を出して幕を閉じることとなった︒
71(4・194)562
川辺川ダム建設をめぐる政治過程(土肥)
ダム建設について︑現在賛否両論がありますことは十分承知をいたしておりますが︑県としては︑球磨川流域の災害
防止や人吉・球磨地域の発展に寄与するものとして建設を要望したところでありまして︑ダムについては︑現時点でも
必要であると認識をいたしております︒したがって︑県としては︑これまで水源地域の振興のための水源地域整備計画
を実施するとともに︑水没者の生活再建対策として代替地先行取得資金利子補給や生活再建資金補助を行うなど努力し
てきたところでありまして︑随分と地元の皆様方にも御苦労をいただきながら︑建設途上にあるこのダムの建設につい
︵77︶ て︑時計の針を二十年︑三十年後戻りさせることはできないと思っております︒ 表⁚川辺川ダム建設事業審議会委員
ここで注目すべきことは︑これらの委員は︑ダム審が設置される以前に︑川辺川ダム建設に対する態度を明らかにし
ていることである︒まず︑福島知事︵当時︶ である︒彼は︑ダム審が設置される一年前の一九九四年九月定例県議会に
おいて︑川辺川ダム計画について次のように発言している︒ 熊本大学法学部教授 ︵委員長︶ 九州共立大学学長 熊本県立大学総合管理学部教授 能⁝本県議会議員 相良村長 相良村議会議長 能⁝本大学理学部教授 九州東海大学農学部教授 熊本県知事 人吉市長 五木村長 五木村議会議長
71(4・195)563
論 説
福島知事︵当時︶ は︑大蔵省主計局を経て︑国会議員を務め︑労働大臣を経験した政治家であり︑ダム反対派水没団
体の地権者協が補償基準の協定書に調印後︑任期満了に伴う知事選で自民党推薦候補として知事に当選している︒五木
︵78︶ 村のダム反対水没団体が和解に至る際にも大きな役割を担ったとされる︒国会議員時代に川辺川ダム計画の利水事業に
あたる国営川辺川土地改良事業の策定へ向けて活躍しており︑川辺川ダム建設をめぐっても従来の知事と同様に推進す
る立場を明確にしていた︒
この知事を中心に他の審議委員会の委員は選出されている︒関係市町村のひとつである五木村議会では︑審議会の開
催中︑﹁川辺川ダム・五木ダム建設事業の促進ならびに子守唄の里づくりに関する決議﹂を行い︑﹁議会として川辺川ダ
︵79︶ ム事業の促進と︑村の振興発展を図る意志を内外に明らか﹂ にしている︒五木村は︑ダム反対派水没団体が和解し︑補
償基準に調印した後︑ダム建設を前提として村づくりをはじめていた︒また︑ダム建設による利水事業の対象地域の村
長であり︑同時に川辺川土地改良事業の組合長でもある相良村村長は︑﹁川辺川土地改良事業の早期完成を実現するた
め︑ダム建設に絶大な展望を期待している﹂と答申の補足意見として︑述べている︒さらに︑観光に与える影響が懸念
されていた人吉市においては︑人吉議会でダム審以前にダム建設促進意見書を提出している︒これらの自治体の首長で
構成される﹁川辺川ダム建設促進協議会﹂ ︵会長人吉市長︶ は︑ダム審が設置される一年前の一九九四年五月には︑ダ
ムの早期着工に対する要望を国会へ請願書として提出し︑﹁球磨川流域の洪水防止︑農業生産力向上のためのかんがい
︵80︶ 用水の補給など︑川辺川ダムは地域の安全と発展に欠かせない﹂と訴えていたのである︒
一九九〇年代の﹁地元の代表﹂ ︵県知事︑関係市町村長︶ は︑水没予定地五木村︑観光都市人吉市を含め︑ダム建設
促進ですでに意見が一致していた︒建設省のダム審を﹁地元の代表﹂ の意見に基づいて行ったところで結論はすでに明
らかであった︒ダム建設を求める﹁地元の要望﹂は﹁地元の代表﹂によって担われていたのである︒ダム審のある委員
は答申の補足意見として次のように言及している︒﹁少数意見︑反対意見等にも充分配慮する必要があるが︑最終決定
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