応永の外寇と東アジア

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応永の外寇と東アジア

佐伯, 弘次

九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門 : 教授 : 日本中世史

https://doi.org/10.15017/16900

出版情報:史淵. 147, pp.17-37, 2010-03-01. 九州大学大学院人文科学研究院 バージョン:

権利関係:

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一七

応 永 の 外 寇 と 東 ア ジ ア

佐    伯    弘    次

はじめに

 応永の外寇は︑応永二十六年︵一四一九︶に起こった︑朝鮮の軍隊による対馬攻撃をいう︒朝鮮側では︑﹁己

亥東征﹂と呼んでいる︒

 この事件の背景には︑十四世紀半ば以降に活発化した倭寇問題が存在した︒一四一九年五月︑倭寇の船団が朝

鮮半島の西海岸を掠めながら北上し︑明に向かった︒朝鮮政府内では︑この対応策について︑前国王太宗・国王

世宗も交えて議論が行われ︑太宗主導のもとに︑倭寇の根拠地・対馬への派兵が決定した︒同年六月一九日︑李

従茂率いる二二七艘の兵船・一七二八五人の軍勢が巨済島を出発し︑翌六月二〇日に対馬浅茅湾の土寄︵尾崎︶

に到着し︑戦闘が始まった︒六月二六日︑朝鮮軍は仁位郡に進撃したが︑対馬の伏兵にあい︑苦戦した︒対馬島

主宗貞盛から修好の手紙が来たので︑朝鮮軍は撤退し︑七月三日に巨済島に帰還した︒この外寇のために︑朝鮮

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一八

と対馬宗氏は断交し︑その後︑対馬による関係復活交渉が活発化する︒またこの事件を画期として︑倭寇の活動

が下火になった︒以上が応永の外寇のあらましである︒

 この応永の外寇は︑早く学界の注目を集めたが︑その真相を明らかにしたのは三浦周行氏であった︒三浦氏は︑

朝鮮側の﹃朝鮮王朝実録︵李朝実録︶﹄の記事が真相を伝えているとし︑事件の内実を解明した︒従来︑後世の

国内史料によって︑朝鮮軍が対馬を攻撃し︑宗氏が撃退したと漠然と考えられていたことを︑朝鮮側の史料から

くつがえし︑倭寇問題に端を発する国際的事件であることを解明した︒

 三浦周行氏の研究を契機として︑応永の外寇に関する多くの研究が登場したが︑中村栄孝氏の研究は決定版と

もいうべきものであり︑今日においても研究の到達点となっている︒すなわち中村氏は︑朝鮮側史料だけでなく︑

日本側史料も駆使して︑外寇の背景︑直接の契機︑戦闘の過程︑戦後の交渉と結果を総合的に明らかにした︒

 その後︑応永の外寇に関する論考は少なく︑中村氏の研究がいまだに定説の位置を保っている︒本稿では︑こ

うした研究史を前提として︑応永の外寇を当時の国内の動向や国際関係との関連の中で再検討しようというもの

である︒従来の研究では︑日朝関係史の中でこの事件を捉えてきたが︑日本・朝鮮だけではなく︑中国︵明︶・

琉球や南海諸国︵南蛮︶も視野に入れ︑より広い国際的見地からこの事件を再検討してみたい︒

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一九 一 応永の外寇と日本

︵一︶ 事件情報の伝達

 国内史料に見える応永の外寇関係記事を表に示した︒

表 記録類に見える応永の外寇関係記事︵応永二十六年︶

月 日記事五月二三日

大唐 国・ 南蛮・

らんか﹂︒︻看聞︼ 高麗等︑日本に責め来るべしと高麗より告げる︒室町殿仰天す︒﹁神国何事かあ

六月一八日出雲大社怪異により︑今日より京門跡において御祈勤仕︒︻満済︼六月二四日今夕︑石清水八幡の東鳥居転倒す︒︻満済︼六月二五日

北野御霊西方を指して飛ぶ︒六月二九日 六月二六日出雲大社怪異の事︑耳を驚かす︒賀茂山数百本︑一時に枯れる︒︻満済︼ 仰せらる︒︻看聞︼ ごとし︒二四日夜︑石清水八幡宮の鳥居転倒す︒ささやきの橋うち砕ける︒諸門跡諸寺に御祈祷 大唐蜂起︒出雲大社震動流血す︒軍兵数十騎︑広田社より出て東方に向かう︒女騎の武者大将の

美濃南宮社壇振動の由注進あり︒貴布祢山崩れる︒西宮の剣珠︑東に向かう︒︻満済︼ 唐人襲来︑先陣の舟合戦あり︒大内若党︑大将として退治す︒︻看聞︼

七月 二日異国調伏の御祈を満済辞退する︒︻満済︼七月一六日諸社怪異の御祈︑青蓮院准后勤仕す︒︻満済︼

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二〇

七月一九日今月一六日熱田社怪異︒︻満済︼七月二〇日

八万余艘の由︑大内方へ注進到来︒兵庫に唐船一艘着岸す︒これは使節たり︒︻看聞︼ 唐人襲来︑すでに薩摩の地に着く︒国人合戦す︒唐人中に鬼形のごとき者あり︒海上に浮く異賊

七月二三日唐船一艘︑兵庫浦に着す︒今月一九日唐使官人︑兵庫福厳寺に参る︒鹿苑院僧︑明国書を披見する︒追い返さるべしと御治定︒︻満済︼

蒙古すでに対馬に発向し︑両方の死人数輩あり︒︻満済︼

七月二四日兵庫に来る唐人︑帝都に入れらるべからず︒牒状の外︑四字札を献ず︒薩摩に付く異賊は

聞︼ 蒙古︒︻看

八月 七日異国御祈︑八幡宮において御沙汰あるべし︒九州小弐方より飛脚注進あり︒﹁

高麗 打ち負く﹂﹁ 馬津に押し寄せ︑小弐代宗右衛門以下七百余騎合戦す︒六月二六日終日戦い︑異国の者ども悉く 船五百余艘︑対 八月一一日 御霊御出﹂﹁この度の所々諸社怪異︑親しくこれを聞く︒珠勝ただ感□押え難きものか﹂︒︻満済︼ 唐船二万余艘︑大風にて過半は海に没す﹂﹁この合戦の間︑種々の奇瑞あり︒安楽寺 慮の至り不思議なり﹂︒︻看聞︼ 唐船数多破損し海に入る︒唐船二万五千艘︒室町殿御悦喜︑公武人々参賀す︒﹁末代といえども神 唐人襲来︒去る六月二六日対馬において少弐・大友・菊池以下合戦す︒異賊打ち負く︒大風吹き︑

八月一三日異国襲来の事︑去る六日探題注進状不慮に披見し︑これを記す︵七月一五日探題持範注進状あり︶︒﹁末代といえども神明の威力︑吾が国擁護顕然なり﹂︒︻看聞︼︵注︶ 日付は出典の記録の日付︒︻看聞︼は﹃看聞日記﹄︑︻満済︼は﹃満済准后日記﹄

 出典にした﹃満済准后日記﹄﹃看聞日記﹄は︑いずれも京都で記されたものであるから︑実際の事柄が起きた

日付とは異なる場合がある︒とくに九州で起こった外寇に関する記事は︑京都の室町幕府まで注進されるため︑

京都に到着した情報が記主のもとに入って以降の記事になる︒

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二一  まず五月二十三日に﹁大唐国・南蛮・高麗等﹂が日本に攻めて来るという情報を高麗︵朝鮮︶が連絡してきた

ことが記されている︒この記事が正確な情報である場合には︑外寇以前に朝鮮から事前の情報が日本に伝わった

ことになる︒応永の外寇が起こるのは六月二十日であるので︑これはそれより一月前である︒

 応永の外寇の直接の契機となる倭寇による忠清道庇仁県都豆音串襲撃事件は五月五日であり︑朝鮮政府内で対

馬攻撃のことが初めて出たのは五月十三日︑太宗の意志により対馬攻撃が決定したのが五月十四日であった︒五

月二十三日には︑九州探題使節正祐らを諸君所に宴し︑対馬攻撃の件を伝えた︒五月二十五日に三軍都統使柳廷

顕が都を出発し︑五月二十九日に朝鮮が対馬守護宗氏に対して書を記した︒対馬攻撃が決定された五月十四日か

ら︑﹁大唐国・南蛮・高麗等﹂が日本に攻めてくることが﹃看聞日記﹄に記された五月二十三日まで︑十日もたっ

ていない︒朝鮮の都・漢城から日本の都・京都まで︑約十日で情報が到着するとは考えられず︑この情報は応永

の外寇とは別のものと考えるべきである︒あえてこの情報の中身を推測すると︑永楽帝の強硬な意志を伝える明

使が七月十九日に兵庫に到着しており︑この情報に尾ひれがついて先に京都に伝わった可能性もある︒

 こうした情報とともに︑出雲大社・西宮荒戎宮・広田社・石清水八幡宮・北野社・美濃南宮・熱田社など各地

で︑異国の襲来を予告するかのような怪異が発生している︒こうした中︑六月二十五日︑﹁大唐蜂起﹂という応

永の外寇の第一報が京都に届いた︵表︶︒この情報は︑﹁大唐蜂起﹂の他︑﹁唐人襲来﹂とも記されている︒当時の

人々の多くが︑明の襲来と考えていたのである︒

 襲来した主体も︑﹁大唐﹂﹁唐人﹂﹁蒙古﹂﹁高麗船﹂﹁唐船﹂と多様であり︑襲来地も﹁薩摩﹂﹁対馬﹂﹁対馬津﹂

とまちまちであった︒﹃看聞日記﹄が﹁唐人合戦事︑実説不審云々︑近日巷説誤多﹂と記すように︑不確かな情

報が京都を飛び交っていたのである︒

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二二

︵二︶ 二通の注進状とその性格

 正式な外寇の情報は︑八月七日に筑前の少弐満貞から室町幕府に注進が届いた︒これを伊勢因幡入道が足利義

持の前で読み上げた︒この少弐満貞注進状には次のようなことが記されていた︒

①﹁蒙古舟先陣五百余艘︑押寄対馬津︑小弐代宗右衛門以下七百余騎馳向︑度々合戦□︑ 六月二十六日終日

相戦︑異国者共悉打負︑於当座大略打死︑或召取﹂

②﹁異国大将両人生取︑種々白状在之﹂

③﹁此五百余艘ハ悉高麗国者也﹂

④﹁唐船二万余艘︑六月六日可令着日本地処︑件日大風起︑唐船悉□帰︑過半ハ没海﹂

 ⑤﹁彼生取大将高

 

 

白状﹂

⑥﹁凡此合戦之間︑種々奇瑞在之﹂

⑦﹁安楽寺御霊御出□□□間□□□□事﹂

⑧﹁則安楽寺御神馬前足被□□□﹂

 まず①では︑﹁蒙古舟﹂の先陣五百余艘が対馬津に襲来し︑少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し︑

度々合戦し︑六月二十六日に終日戦い︑異国の者どもは全て敗れ︑その場で大半は討ち死にしたり︑召し捕らえ

られたりしたと述べている︒冒頭の﹁蒙古舟﹂は誤りであるが︑六月二十六日に決着がついたというのは︑同日

に仁位郡に進んだが︑伏兵にあって敗れたという朝鮮側史料の記述と一致する︒

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二三  ②〜⑤では︑異国大将二名を生け捕りにし︑その白状から︑今回襲来した五百余艘は全て高麗国︵朝鮮︶の軍

勢であること︑唐船二万余艘が六月六日に日本に到着する予定であったが︑大風のために唐船は到着せず︑過半

は沈没したことを述べている︒朝鮮側史料には︑朝鮮軍の﹁大将﹂が捕虜になったという記事はないが︑大軍の

中の兵士が捕虜になるのはあり得ることであり︑捕虜の証言から︑襲来した軍勢が朝鮮軍であることを知ったも

のであろう︒ただし︑唐船二万艘が六月六日に襲来する予定であったが︑大風のために過半が沈没したというの

は荒唐無稽の話である︒この部分は︑﹁蒙古舟﹂が襲来したという①の記事と併せて考えると︑蒙古襲来のイメー

ジをもとに書かれたものと推定される︒

 ⑥〜⑧では︑この合戦中に奇瑞が起こり︑また安楽寺︵太宰府天満宮︶でも怪異・奇瑞が起こったことが記さ

れる︒

 以上のように︑この少弐満貞の報告は虚実取り混ぜたものであったが︑日付については朝鮮側の記述と一致す

ることから︑ある程度事実に基づいて記されたと考えられる︒

 宋希璟﹃老松堂日本行

録﹄は︑﹁去年六月︑朝鮮兵舡到対馬島︑小二殿報告御所曰︑﹃江南兵舡一千・朝鮮兵舩 10

三百隻向本国而来︑吾力戦却之﹄︑御所聞之︑乃於小二殿多送賞物︑向朝鮮甚怒焉﹂という陳外郎の言を記して

いる︒やはりここでも少弐満貞は﹁明兵船千隻と朝鮮兵船三百隻が対馬に襲来し︑満貞が力戦して退けた﹂と足

利義持に報告したとする︒朝鮮兵船三百は実際の二二七艘に近いが︑明の兵船は実際にはなく︑満貞自身も対馬

に渡って合戦していない︒満貞は︑応永の外寇における﹁勝利﹂を事実関係に基づきながらも︑自身の戦功を強

調するため︑大幅に誇張して室町幕府に注進したものと考えられる︒

 こうした外寇情報を詳細に伝えるのが︑﹃看聞日記﹄が引用する七月十五日付けの探題持範注進状であ

る︒こ 11

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二四

れによると︑六月二十日︑﹁蒙古・高麗﹂の軍勢五百余艘が対馬島に押し寄せ︑対馬を打ち取ったので︑﹁探題持範﹂

と太宰小弐︵満貞︶の軍勢がすぐに対馬の﹁浦々泊々の舟着﹂で日夜合戦したこと︑苦戦をしたので九国︵九州︶

の軍勢を動員し︑六月二十六日に合戦をし︑異国の軍兵三千七百余人を打ち取り︑海上に浮かぶ敵舟千三百余艘

は︑海賊に命じて攻撃させ︑海に沈む者が甚だ多かったこと︑雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗

り移り︑軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど︑合戦の最中に奇特の神

変が多く起こったこと︑六月二十七 12

日に異国の残る兵はみな引き退き︑七月二日には全ての敵舟が退散したことなどを記し︑これは﹁神明の威力﹂

によるものだとしている︒

 当時の九州探題は﹁持範﹂ではなく︑渋川義俊であるし︑内容的に見ても︑この七月十五日付けの探題持範注

進状は明らかな偽文書であ

る︒文体も通常の和様漢文ではなく︑仮名交じり文である︒九州探題と少弐満貞の軍 13

勢が対馬に赴き合戦した事実も確認できないし︑ましてや九州全体に軍事動員がなされた形跡もない︒少弐満貞

注進状と同様に蒙古襲来を下敷きに作成したものであろう︒

 ここで注目したいのは︑合戦の経過を示す日付である︒六月二十日に異国の軍勢が対馬に襲来したことは朝鮮

側史料と一致するし︑少弐満貞注進状にも見える六月二十六日の合戦も同様である︒七月二日に敵舟が撤退した

とするのは︑朝鮮軍が巨済島に帰還したのが七月三日であり︑到着までに一日程度有すると考えれば︑これまた

一致するといえる︒内容的には荒唐無稽の記事を多く含むが︑日付が一致するというのは何を意味するのか︒そ

れはこの注進状に記された合戦の経緯が︑正確な史料を下敷にして記された証左であると考えられる︒この注進

状が記された直前に京都に到着した少弐満貞注進状をふまえて偽作されたものとみるのが最も妥当である︒ま

た︑本探題持範注進状は写しが豊後国一宮柞原八幡宮文書にあるとい

う︒これが同時代的に同宮に存在したもの 14

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二五 であるならば︑八幡神や神功皇后の神威を強調するために八幡宮関係の人物が作成した可能性がある︒

︵三︶ 異国降伏の祈祷と神国思想

 寺社においては異国降伏の祈祷が行われた︒応永二十六年七月二日ごろに醍醐

寺︑七月二十五日と九月二日に 15

寺︑八月七日に石清水八幡 16

宮で異国降伏祈祷が行われた︒八月七日から七日間行われた﹁異国御祈﹂は﹁御所﹂ 17

すなわち将軍足利義持の指示によるものであり︑異国降伏祈祷の主体は室町幕府であった︒また︑この時︑﹁文永・

弘安之例﹂を石清水八幡宮の融清が注進しており︑この事件によって蒙古襲来の記憶がよみがえり︑蒙古襲来時

の先例にのっとって祈祷が行われたことがわかる︒しかし︑この前後に異国降伏祈祷が行われたことが確認され

るのは︑京都と周辺の大寺社である︒全国の一宮や国分寺でも異国降伏祈祷が行われた蒙古襲来時と比較すると︑

規模において極めて限定的なものであった︒

 この事件の情報が京都に伝達され︑この前後に全国の神社において怪異が頻発し︑かつ注進状に神変が具体的

に記されたことなどから︑この外寇撃退と神の関係が強調される︒例えば︑伏見宮貞成親王は︑﹁大唐国・南蛮・

高麗等﹂が日本に攻めて来るという情報を受けて︑室町殿︵足利義持︶が仰天したことを伝えた後︑﹁神国有何

事乎﹂と︑神国である日本は心配ないと記している

し︑日本側の勝利を記した注進状の到来を述べた後に︑﹁雖 18

末代神慮之至不思議也﹂と記

し︑先に紹介した探題持範注進状を引用した後に︑﹁雖末代神明威力︑吾国擁護顕 19

然也﹂と記してい

る︒醍醐寺僧満済も︑九州から届いた少弐満貞注進状の内容を記した後︑﹁雖末世□□□最可 20

仰之︑今度所々諸社怪異親聞之︑珠勝只感□難押者也﹂と貞成親王と同様のことを記してい

る︒当時の有力者た 21

ちは︑応永の外寇前後の怪異や外寇時の神変を瑞相とし︑﹁神明の威力﹂によって日本が守られたと理解したの

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二六

である︒

 また将軍足利義持も︑明使の来日に際して︑﹁諸神﹂﹁神﹂﹁明神﹂﹁神兵﹂などの語を多用し︑父足利義満が病

に臥したのは︑義満が外邦から暦・印を受けて外国に対して臣と称したため︑諸神が祟りをなしたこと︑昔︑元

兵百万が皆海に溺れたのは︑人力のみならず︑神兵の助けがあって防御したものであり︑今回も日本は︑明が攻

めてきても城壁を高くし︑堀を深く掘る必要はないと述べてい

る︒義持は︑対明外交︵朝貢︶断絶の根拠や明永 22

楽帝の威嚇への対抗として︑日本の神の意志や援助をあげているのである︒神国思想は蒙古襲来を契機として高

揚したが︑応永の外寇という対外事件を通して蒙古襲来の記憶がよみがえり︑神国思想もまた高揚したものと考

えられる︒

二 応永の外寇と国際関係

︵一︶ 応永の外寇後の外交交渉と日朝関係

 応永の外寇後の日本と朝鮮の外交交渉については︑中村栄孝氏の論考に詳しい︒まず基本的な事実関係を先行

研究から確認しておきたい︒

 この外寇の真相を究明するため︑室町幕府はこの年︑大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に

派遣した︒翌年︑日本国王使の帰国とともに朝鮮からは回礼使・宋希璟一行が来日する︒京都に着いた宋希璟は︑

初め足利義持に冷遇された︒その原因が︑応永の外寇にあると知った希璟は︑陳外郎や禅僧らを介して︑外寇の

原因は倭寇にあることを力説し︑義持の理解を得るに至った︒こうして日朝関係は国家レベルでは円滑化してい

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二七 くが︑対馬宗氏と朝鮮の関係は断絶したままであり︑対馬と朝鮮との間で外交復活交渉が重ねられていく︒その

過程で︑対馬の朝鮮慶尚道帰属問題が表面化するのである︒

 こうした一連の流れで確認しておきたいことの第一は︑日本国王使の派遣についてである︒日本側の史料には︑

国王使派遣に関する史料は残っていない︒﹃老松堂日本行録﹄は︑その間の事情を次のように記してい

る︒外寇後︑ 23

九州探題渋川氏が︑博多の僧宗金を室町幕府に派遣した︒宗金は将軍と親しい陳外郎と面会し︑経緯を詳しく説

明した︒外郎は︑義持に事情を説明したが︑義持はかつて少弐満貞の注進を信用したため︑少弐の計略に惑わさ

れ︑博多の僧無涯亮倪を正使とし︑陳外郎の子・平方吉久を副使とし︑大蔵経求請に託して日本国王使を朝鮮に

送ることに決定した︑と︒

 ここで注目されるのは︑本来︑日本国王︵室町将軍︶の外交使節には︑京都五山の禅僧が任命されるのが一般

的であるのに︑ここでは博多の禅僧が正使︑博多商人が副使という異例の構成をとっていることである︒その人

選の中心人物は︑﹃老松堂日本行録﹄によると陳外郎であったが︑陳外郎は中国からの帰化人の系統であり︑本

来博多に居住し︑その子平方吉久は博多商人であったように︑博多との関係が深

い︒この時の日本国王使派遣は︑ 24

九州探題渋川義俊―博多商人宗金―陳外郎という博多の人的ネットワークで推進されたということができる︒そ

のため博多の禅僧・商人が正副使に任命されたのである︒

 第二点は︑宋希璟と足利義持の外交交渉である︒宋希璟は︑往路においては対馬で早田左衛門太郎と︑復路に

おいては博多で大宰府の少弐満貞と︑対馬討伐の可否について激しい論争を行ったが︑最大の論争でありかつ外

交交渉は︑京都における足利義持との交渉であっ

た︒宋希璟一行は︑京都に入っても食事も出ないほどの冷遇を 25

受けた︒陳外郎は宋希璟に︑﹁二年前︑永楽帝の使者が来日し︑永楽帝は︑朝貢をしない足利義持に対して朝鮮

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二八

とともに日本を攻めることを通告していた︒少弐満貞が︑今回攻めてきたのは明の兵船千隻と朝鮮の兵船三百隻

であると注進してきたので︑義持は少弐満貞に多くの恩賞を与え︑朝鮮の派兵に激怒した﹂と説明した︒宋希璟

は︑対馬攻撃は日本を攻撃する意図からではなく︑朝鮮を襲った倭寇の根拠地を討伐したのであり︑明と同心し

て日本を攻撃することはあり得ないと反論し︑今回の使行は﹁通信・回礼﹂のためであることを力説した︒この

説得の結果︑義持の誤解は解け︑今度は手のひらを返したような歓待が始まる︒このように朝鮮回礼使一行の応

接に日明関係が大きな影響を与えていた︒

︵二︶ 日明関係と応永の外寇

 足利義持代になると︑日明通交は断絶した︒足利義持が明への朝貢を拒否したためである︒応永の外寇の直前

には︑明から使者が派遣されたことが知られてい

る︒明側の史料によると︑明使呂淵は︑永楽十五年︵一四一七︶ 26

十月︑捕縛した倭寇を日本に送り︑かつ日本国王足利義持の﹁自新﹂︵心や行いを新たにすること︶と倭寇に連

れ去られた明の被虜人の送還を求めるため︑日本に派遣され︑翌永楽十六年︵一四一八︶四月︑足利義持が派遣

した島津存忠︵久豊︶の使者とともに帰国したとされ

る︒しかし日本側の記録類によると︑呂淵が兵庫に到着し 27

たのは︑応永二十五年︵一四一八︶六月五日であっ

た︒﹃明実録﹄の日付は誤りであると考えられる︒足利義持 28

が島津存忠の使者を派遣するはずもなく︑この島津氏の使いは︑義持に関係なく︑島津氏が使船を途中より同行

せしめたものと理解されてい

る︒また︑﹃明史﹄や﹃明実録﹄では︑島津存忠の使者は日本国王が派遣したもの 29

として接遇されたとしている︒明通事周肇書状は︑日本国王の文書がなかったので朝貢品を受領しなかったとす

るが︑永楽十六年十一月一日付の永楽帝勅書︵足利義持宛︶に︑﹁惟爾敬順天道︑隋遣士 官性運等進貢方物︑足

(14)

二九 見爾悔過遷善︑尊仰朝廷之心﹂とあるので︑日本国王使として接遇されたと考えられる

30

 呂淵は室町幕府から︑﹁唐船不可入都︑自武庫則可帰﹂と入京を拒否され︑兵庫から速やかに帰国するように

命じられ

た︒﹃老松堂日本行録﹄によると︑永楽帝の国書に怒った足利義持は︑呂淵を入見せず︑海賊に殺させ 31

ようとしたが︑たまたま風が順風であったので海賊は呂淵に及ばず︑呂淵は帰国を果たしたとい

う︒帰国途上の 32

どこかで島津氏の使者と合流し︑明に帰国したことになる︒通常であるならば︑兵庫から瀬戸内海を経て博多に

至り︑平戸・五島を経由して中国・寧波に渡海するのが一般的なコースであった︒島津氏の使者が合流したこと

は︑こうした通常のルートではなく︑呂淵は南九州を経由し︑島津氏の庇護を受けて︑かつ日本国王派遣と称す

る島津氏の使船一隻を同行し︑明に帰国したと推定される︒

 呂淵は翌年にも日本に派遣された︒﹃明史﹄﹃明実録﹄には所見がないが︑﹃武家年代記裏書﹄によると︑応永

二十六年︵一四一九︶七月に呂淵は日本に到着し︑﹁和好﹂を求めたが︑七月二十七日︑幕府はこれを許さず︑

八月に呂淵は帰国したとい

う︒兵庫に呂淵一行の船一艘が到着したのは︑同年七月であり︑兵庫福厳寺で明使と 33

相国寺鹿苑院僧が対面して︑永楽帝の国書の写しを取り︑鹿苑院僧が義持に見せたところ︑﹁文言凡存外﹂であっ

たので︑明使を﹁帝都﹂に入れず︑文永の時のように追い返すように決定し

た︒前回同様︑海賊に襲撃させるこ 34

とがあったのかもしれない︒

 この兵庫における室町幕府と明使の交渉史料が﹁善隣国宝記﹂に残っている︒この時の明使は八名で︑﹁進貢

番人﹂すなわち島津氏の使者十六名を連れての来日であっ

た︒この明船に前年の島津氏の使者が乗船しているこ 35

とは重要である︒明の使臣は﹁両国往来の利﹂を説いたのに対し︑足利義持は︑﹁先君足利義満が左右に惑わされ︑

外国船信の問=外交関係を通じたため︑神と人が和せず︑天候不順となり︑義満も死去した︒義満は臨終に際し︑

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三〇

起請文をもって諸神に誓い︑永く外国との通問を絶つことを誓った︒これをもって明への朝貢を拒否するのであ

る﹂と主張し

た︒また義持は︑倭寇の所行については関知しないと述べている︒ 36

 さらに義持は︑先君義満が病を得たのは︑義満が先例に背き︑外国から暦・印を受け︑外邦に対して臣と称し

たために︑諸神の祟りを受けたせいであるとし︑これをおそれた義満は︑明神に対して今後外国の使命を受ける

ことはないと誓い︑子孫にも戒めたと︑前書と同様の趣旨を述べた︒そして義持は︑﹁昔元兵が二回日本を襲撃

したが︑舟師百万は皆海に溺れた︒これは人力のためだけでなく︑神兵がひそかに助けたため︑防御できたので

ある﹂とし︑永楽帝が﹁義持が使者を明に通じないので︑兵を用いて日本を討つ︒城壁を高くし︑堀を深く掘れ﹂

と威嚇したことに対し︑﹁自分は城壁を高くし︑堀を深く掘る必要はなく︑道をきれいにして迎えるのみである﹂

と逆に明を挑発し︑明使に速やかな帰国を促し

た︒ここには︑明の華夷思想に基づく国際観と日本の神国思想に 37

基づく国際観が衝突しているのである

が︑ともに一方的な主張であった︒日本は当時このような極めて緊張した 38

国際関係下に置かれていたので︑足利義持が応永の外寇を明・朝鮮連合軍の襲来と誤解しても仕方がない状況に

あったのである︒

 次に呂淵と島津氏の関係について検討する︒島津家文書等の国内史料からは︑呂淵と島津氏の関係は不明であ

る︒既述のように︑一回目の来日から帰国したとき︑呂淵は島津存忠が足利義持から依頼されたとする島津氏の

使節と同行して帰国した︒この島津船は一隻で︑硫黄と馬疋を積んでいた︒硫黄は島津領国の特産品であり︑日

明貿易では︑島津氏は幕府の命によって領内の硫黄を幕府に提供してい

た︒また︑二回目の来日の際には︑島津 39

氏の使節を同行していた︒呂淵と島津氏の深い関係がうかがわれる︒一回目の帰国の際︑呂淵は海賊の追撃を振

り切り︑南九州経由で帰国し︑その際︑島津氏の庇護を得たと推定したが︑二回目も島津氏の使者を乗船させて

(16)

三一 いたことから︑帰国は︑外寇直後の北九州経由ではなく︑島津氏がいる南九州経由であったことが推定される︒

永楽九年︵一四一一︶に来日し︑足利義持から拒絶された明使王進は︑幕臣たちがその帰国を阻止しようとした

ため︑ひそかに船に乗り︑﹁他道﹂より遁れ還ったとい

う︒この他道とは通常の北九州ルートとは異なる南九州 40

ルートを指していると考えられる︒この想定が正しいとすると︑すでに義持初期から明使と島津氏の関係が想定

されることになる︒

︵三︶ 日琉関係と応永の外寇

 次に日本と琉球との関係と応永の外寇との関連について検討しよう︒応永二十七年︵一四二〇︶五月六日付け

の琉球国王︵代主︶国書から︑当時毎年のように琉球から日本国王に使船が派遣されていたこと︑去年︵一四一九︶

派遣した琉球船二艘がまだ帰国していないことがわか

る︒この国書には︑﹁十月到来﹂という注記があり︑応永 41

二十七年十月に室町幕府に到着したことがわかる︒この時の琉球船は︑応永二十七年十月ごろ兵庫に到着したと

考えられる︒

 この去年日本に派遣してまだ帰ってこない琉球船についての記事が︑﹃老松堂日本行録﹄にある︒宋希璟が兵

庫に到着︵応永二十七年四月十六日︶して後︑兵庫代官から幕府に朝鮮使節到着の報告があった時︑斯波義淳・

管領細川満元・陳外郎らは︑﹁我が日本は︑琉球船を拘留したのみならず⁝﹂と考えたとあ

る︒この日本が拘留 42

した琉球船が︑前年の応永二十六年に日本に派遣された船である︒おそらく兵庫港に拘留されたと推定される︒

しかしなぜ拘留されたのかについては史料的所見がない︒

 宋希璟一行が帰国途上の応永二十七年七月二十二日︑安芸の蒲刈で︑﹁朝鮮の船は本来銭物がない︒彼の後か

(17)

三二

ら来る琉球船は多く宝物を積んでいる︒もしその船が来たならば︑奪取しよう﹂という現地人たちの言を聞い

ている︒朝鮮船とは兵庫から西に向かう宋希璟船であるので︑その後より来るとは︑宋希璟船からやや遅れて同

じ方向に向かう船であると考えられ

る︒応永二十七年五月七日付けの国書を積んだ琉球船は︑同年十月ごろ兵 43

庫に到着したと考えられるため︑航行方向も逆であるし︑日程的にやや早すぎる︒前年に拘留された琉球船は︑

二十七年七月二十二日以前に幕府から拘留を解かれ︑帰国の途上にあったと考えられる︒

 ではなぜ琉球船は室町幕府によって拘留されたのか︒永楽十五年︵一四一七︶十二月︑北京から帰国した朝鮮

の使節は︑国王太宗に帰国報告をし

た︒それによると︑永楽帝は朝鮮使臣に︑﹁日本国王無礼事︑汝知之乎﹂と 44

問い︑呂淵が日本にもたらした勅書の草案を見せた︒これは呂淵の一回目の遣使の時のものである︒永楽帝は琉

球国使が帰国の時︑﹁汝国与日本国交親︑後日征日本︑則汝国必先引路﹂と命じたという︒明が日本を攻める時

には︑琉球が案内をするように琉球国王に命じたのである︒

 この明による日本遠征は実行されなかったが︑応永二十六年の明使の来日と琉球船の来日・拘留︑さらには島

津氏の関与を連鎖的に考えることも出来る︒明使と琉球使の連動した動きとは︑例えば︑琉球使が足利義持に明

への朝貢再開を勧め︑義持の不興を買って拘留されたという想定である︒明使呂淵一行は南九州経由で帰国した

と考えられるが︑もう一歩踏み込んで︑琉球経由で来日ないし帰国した可能性も考えられる︒仮に琉球経由で来

日したとすると︑明船には﹁引路﹂する琉球船が同行し︑兵庫で琉球船が拘留されたという想定もできる︒直接

的史料がなく︑真相は不明であるが︑こうした可能性を指摘しておきたい︒

(18)

三三 ︵四︶ 南蛮船の来航

 十三世紀末から十四世紀代にかけて南蛮船︵東南アジア船︶の日本や朝鮮への来航が知られ

る︒応永の外寇前 45

後に限っても多くの事例が確認できる︒応永二十五年八月には︑南蛮国から足利義持に︑沈・象牙・藤以下の進

物があっ

た︒応永二十六年六月ごろ︑朝鮮に向かう南蛮船が日本近海で賊のために略奪を受け 46

た︒また同年には︑ 47

薩摩に南蛮船が来航し︑南九州の軍事抗争に巻き込まれ︑畿内方面に航行できないという事件が起こってい

る︒ 48

この船は旧港船であるとされる︒

 十五世紀前半は南蛮船の来航が活発な時期であり︑応永の外寇前後はとくに活発であった︒この時期︑南蛮船

が日本を襲撃したことはなかったが︑応永二十六年五月に︑大唐国・高麗とともに南蛮が日本に襲来するという

情報が入っているのは︑こうした南蛮との活発化した交流が背景にあるだろう︒

おわりに

 以上のように︑応永の外寇前後の日本は︑対朝鮮︵応永の外寇︶︑対明︵朝貢断絶︶︑対琉球︵琉球船の拘留︶︑

対南蛮︵南蛮船の来航︶と︑東アジア諸国および東南アジア諸国と密接な交流があった︒この交流の多くが平和

的なものでなく︑戦争・威嚇・拘留といった緊張した関係であったことが特徴である︒これらの関係は︑それぞ

れが独立していたのではなく︑多くの場合︑連動するものであった︒明が作り上げた東アジア世界︵朝貢体制︶

がその連動を後押ししたのだが︑南蛮までが関係するとなると︑当該期の国際関係が︑東アジアを越えた広がり

をみせていることは明らかである︒それゆえに︑応永の外寇という朝鮮と対馬・日本との対外的事件は︑明・琉

(19)

三四

球まで波及し︑東アジア世界から東南アジア世界にまで広がり︑複雑な様相を呈することになるのである︒

 かつて﹁唐人﹂﹁南蛮﹂が日本に襲来した︑対馬ではなく薩摩に襲来したという京都における情報は︑三浦周

行氏によって鮮やかに否定されたのであるが︑こうした情報が︑明使呂淵の薩摩経由︑南蛮船の薩摩来航といっ

た歴史的事実を背景とした情報であると考えると︑これらの情報の位置づけも変わらざるをえない︒

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︶ ﹂︵︑一

︶ ﹂︵︑一究 ︶︑

﹂︵究 ︶︒

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45寿寿集 

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三七

稿稿

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参照

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