植民地統治と監獄制度
―19世 紀 中葉の海 峡植 民地 における囚人の管 理―宮本隆史
は じめに
1875年2月13日17時 す ぎ、雨 模様 の シ ンガポー ル刑 事監 獄 の食 堂 で、 夕食 を とっ てい た囚人 の 間で暴動 が 始 まった 。食 堂 中央 近 くに席 を とって い た囚人 が、袖 の 中 に隠 し持 ってい た手斧 で 、看守 サ ン ドフ ォー ドの眉 間 を打 った のが事 の始 ま りで あ る.待 ち構 えて いた かの ように、多 数 の華 人 が叫 び なが ら踊 りあが り、 い まひ と りの看 守バ ー トン とサ ン ドフ ォー ドに 襲 い かか った 。所長 の デ ン トは食 堂 に居合 わせ て お り、看 守 た ち を助 け に 向か お う としたが、 そ の矢先 に背 中 を ノ ミで刺 され倒 れて しまう。 その他 の看守 た ち はデ ン トの救 助 に向か お う と した もの の、行 く手 を阻 まれデ ン トを救 助す るこ と も暴 徒 を捕 らえる こ と もままな らな い。 当時 デ ン トが手 に してい たの は雨傘 のみ 、看 守 たち も杖 を携 行 してい るのみ で あっ た。一 方 で 、 囚人 た ち は棹 、 手斧 、 ノ ミ、 鉄 棒 、先 の尖 った棒 、 ス レ ッジハ ン マ ー な どで 武装 してい た。そ の多 くは監獄 内の作 業所 か ら持 ち出 され た も の であ り、先 の尖 った棒 な ど暴 動 のた め に用 意 され た もの もあ った。 当時 の シ ンガポ ール監獄 は、作 業所 の あ る作 業 区 と食 堂や 監房 の あ る居 住 区 と に区切 られ てお り、 出入 りの際 に囚人 の所 持 品 を点検 す る こ とに なっ てい た。 そ れ に も関 わ らず 多数 の作 業用 具が持 ち出 され た こ とは、 監獄 内の 規 律 の 「いい加 減 さ」 を証 明す る もの と事件 後 に批判 され る ことに なる。 看 守長 の ラム は、当時 ヨー ロ ッパ 人の 囚人(多 くは懲 罰 を課 され た兵士) を収 監 して いた 区域 にい たが、暴 動 の報せ を うける と服 役 中の兵 士 た ちを 率 い て救援 に駆 けつ けた。 ラムの一 隊が現 れ る と、居住 区 で暴 れて いた 囚 人た ち は作 業 区へ と移動 し、あ る者 は梯 子 を塀 にたてか け て逃亡 をはか り、 あ る者 は作 業具 を手 に して武 装 した。 数 に優 る囚人 に ひ とたび ラム は圧 倒 され たが 、兵 士 た ちに ライ フル を持 たせ発 砲 させ た 。17時30分 、暴 動 を南アジア研究第19号(2007年) お こ した 囚人59人 中、死 者14人 、重傷 者12人 、軽傷 者25人 を出 して暴 動 は鎮 圧 され た。無 傷 で捕 らえ られた者 はわず か5人 、 そ して逃 亡 に成功 した者 は3人 で あ った.ま た 、所長 の デ ン トは暴 動 の さなか に死 亡 した1。 この後 、事 件 が 明 らか に して しまっ た と された 、監獄 の 「い い加 減 な」 管 理体 制 につ いて 、海 峡植民 地(ペ ナ ン、シ ンガポー ル、 マ ラ ッカ)の 関 係 官僚 たちが 議論 をつ くす ことに なっ た.特 に、看 守 が簡 略 な装備 しか 身 につ けて い な か った 一方 で、 囚人 には 点検 の あ ま さか ら武 装 を許 して し まった とい う点が 、 「いい加 減 な」管 理体 制 を示 す もの と され た。 さ らに、 そ うした 「いい加 減 な」体 制 は、 囚人 を雑居 状態 で管 理す るこ とや、過 度 に健 康 に配慮 した食事 をふん だん に与 え るこ とに よって 、監獄 が本 来 もつ べ き厳 格 さが 損 な われ て い るこ とに起 因す る もの だ と批判 され た2.こ の 事件 の後 、1870年 代初 頭 か ら開始 されて い た監獄 改 革 の徹 底 が強 く主張 され、 規律 の厳格 化や、 それ を可 能 にす る新 監獄 の建 設 な どが急 速 に進 め られ た。 その動 きは、全 室独 房の新 しい監獄 、 パ ール ズ ・ヒル監獄(1882 年 完成)の 建設 に帰 結す るこ とにな った.こ れ以 降、 囚人 の暴動 や逃 亡 を ほ とん ど不 可能 に した 、規律 の厳 格 化が進 め られ る こ とにな ったの であ る。 と ころ で、 海 峡植 民 地 に お いて 、監 獄 で の暴 動 や 逃 亡 が発 生 した の は これ が初 め てで はない 。例 え ば、 『シ ンガポ ール ・フ リー ・プ レス』 紙 は、 1853年9月 に シ ンガポ ー ル流刑 監 獄 の 中 で騒動 が お こっ た こ とを伝 えて い る.騒 ぎをお こ したの は、ベ ンガル のア リー プル監獄 か ら流 刑 囚 と して 送 られ て きた 「反 抗 的 で危 険 な」 ス ィクの 囚 人 た ち約100人 で あ る.流 刑 囚 たち は脱獄 を はか って 、棒 や薪 な どを手 に看 守 た ち を突如 攻撃 した 。 看守 の ひ と りに よって 門が 閉 ざ され る前 に、30人 が監 獄外 に逃亡 したが 、 逃 げ遅 れ た暴 徒 た ち は、 監獄 内 にい た他 の囚 人 た ちに よって鎮 圧 された 。 逃 亡 した囚 人 も、看守 と他 の 囚人 た ちに よって 追跡 され 、すべ てが捕 らえ られ た[Buckley 1984(1902):578]。 このふ たつ の事件 は その 内容が よ く似 てい る。 囚人 たち は雑居 状態 で管 理 され(そ の ため密 か に暴動 の計 画 を練 る こ とや集 団行 動 が容易 とな った と考 え られ る)、 棒 な どの 管理 が あ ま く凶器 を比 較 的容 易 に手 にで きた こ とが 暴動 の 機会 を与 え た.し か し、1875年 暴 動 よ り も暴 徒 の 数 の う えで は大 規模 であ っ た に も関わ らず 、1853年 の暴 動 後 には、独 居 房 監獄 の 導 入や処 遇 の厳格 化 といっ た、 囚人処 遇制 度 自体 の改 変 の提 言が な ん らな さ れ てい ない。 実 の ところ、1850年 代 か ら60年 代 にか け ては、 ムハ ッラム
植民地統治と監獄制度一19世 紀中葉の海峡植民地における囚人の管理一 の祭 りの 際 に流刑 囚が 度 々激 しい暴 動 を お こ して お り、 また逃 亡者 も年 間30人 以 上 を出す こ とがあ っ たに も関 わ らずで あ る[表1参 照]。 さ らに 当時 は、す で に本 国 イ ギ リスで ペ ン トンヴ ィルの独 居 房監獄 が1842年 に 完成 してお り、 その成 果 が さか んに喧伝 されて もい たの であ る。独 居 制 は 囚人 ど う しの接触 を大 き く制 限す るた め、暴 動 や逃亡 の機 会 を奪 うと され 、 そ れが この制 度 の ひ とつ の効果 と して 強調 され てい た。 19世 紀 半 ば の 時 点 で 、 海 峡植 民 地 の 監獄 に お い て暴 動 や 逃 亡 が 頻 発 した に も関 わ らず 、 それ を抑 え るこ と をね らい とした処 遇制 度 の 改変 が、 1870年 代 に入 る まで 開始 され なか った の は何 故 だ った のだ ろ うか 。本 稿 で は、1870年 代 よ りも前 にお け る 囚人処 遇 制度 を成 り立 たせ た 諸条 件 を 中心 的 に検 討 し、 その諸 条件 が 変化 す る とと もに囚人処 遇制 度 の改変 が 要 請 され る ことに なっ た ことを示 した い。 この過 程 を示す こ とに よって、 次 のふ たつ の点が 具体 的 に明 らか に なる と考 え られ る。 第一 に、 海峡 植民 地 にお いて 、当局 が植 民地 にいか な るかた ちで介 入 し よ う としたか につ いて の政策 上 の方針 が、 囚人 処遇 の制 度 と理念 の あ りか た を大 き く左 右 す る条件 となっ てい た とい う点 で ある。 イ ン ド亜大 陸 の よ うに在 来の法 を尊重せ ね ば な らなか った土 地 とは異 な り、海 峡植民 地 の よ うな 「イギ リス 臣民 に よって発 見 され植 民 され た土地 」にお いて は、コモ ン ・ ロー の建前 上 イ ング ラ ン ドの 法 がそ の土 地 の法 と された[Hooker1988: 340-347].し か し、海 峡植 民 地 の刑 事 政策 に関す る議論 は、 イ ング ラ ン 表1: 流刑監獄にお ける逃亡者 数3
南 ア ジア研 究 第19号(2007年) ドでの法 制度 に関す る議論 とは離 れて展 開 され た。 そ こで は、植 民 地 の「ネ イテ ィヴ」 の囚人 をいか な る存 在 として理解 す るの か、ま た植 民 地 を経 済 的 に経営 す る際 に監獄 を どの ように位置 づ け るのか とい った 、植 民地特 有 の課 題 が制 度の 設計 に際 して考 慮 すべ き もの とな って いたの で あ る。 第二 に、 暴動 や逃 亡 とい った 囚人 の諸実践 が 、海 峡植 民地 の刑 事政 策 の 展 開 にお いて持 った歴 史的意 味 であ る。海 峡植 民地 の流 刑監 獄 での暴 動 や 逃 亡 に注 目 した研 究 と して は、ピー リスの ものが あ る[Pieris 2003]4。 彼 女 は、 囚人 が労 働力 として公 共事 業 に用 い られ、 シ ンガポ ール の 「景観 」 を規律 化 す る過程 に利用 され た こ とを論 じる一方 で、 囚人 に よる逃 亡や暴 動 な どの実践 に注 目す る こ とに よって、 囚人 自身は植 民地 の空 間 を植 民 地 当局 とは異 なる しか た で認識 し生活 した の だ とい う こ とを示 そ う と した 。 端 的 に整理 す る と、 当局 が 追求 す る 「規律 化 」 の運 動 と、 囚人 の 「抵 抗 」 を彼 女 は対 立 させ てみせ たの であ る。 しか し、彼 女 の議論 におい て は、 こ の よ うな 関係 を成 り立 たせ た歴 史 的諸 条件 が どの よ うな もので あ り、 また 囚人 の諸実 践 にい かな る歴 史 的意 味 を読み取 るべ きな のか とい うこ とにつ いて は説 明 され ない5.「規 律化 」 と 「抵 抗 」 を対 立 させ る ピー リス の図式 それ 自体 は一 定の 意 味 を もつ もの であ る と して、 そ れ を19世 紀 海峡 植民 地 にお ける監獄 制 度の展 開 との 関連 にお いて把 握す る必 要 が あろ う。 これ らの点 を明 らか にすべ く以下 の議 論 を進 めるが 、そ の手 がか りとし て 、 こ こで は 冒頭 で示 した1853年 暴 動 と1875年 暴 動 とい う、 一見 類 似 したふ たつ の事例 の 問の 明 らか な差 異 に注 目したい 。そ の差異 とは、登 場 す る看 守 の位 置 で あ る.実 は、1875年 暴 動 の 際 の看 守 た ちは外 部 か ら雇 用 され てい たの に対 し、1853年 暴動 の鎮圧 に大 きな役 割 を果 た した看 守 た ちは彼 ら 自身が 囚人 た ちか ら選 ばれ てい た ので あ った 。1867年 に流 刑 制 度 が廃止 され る まで 、流刑 囚 の管理 は 「囚 人看 守convict-warder」 をそ の 中心 的 な担 い手 と して行 な われ てい たの で あ る。1870年 代 以前 の 流刑 監獄 にお け る囚人処 遇制 度 の諸 条件 を考察 す る にあた って 、そ の処遇 制 度 を特徴 づ け る囚人看 守 制度 に注 目す る こ とが有 効 なの で はな いか と考 える。 議 論 は 次 の よ うに進 め る。1.ま ず議 論 の 前提 と して 、英 領 イ ン ドお よ びイギ リス帝 国 にお け る海 峡植 民地 とい う行 政単 位 の位 置 づ け を概 観す る。 2.次 に、 監獄 の設 計 ・運 営者 た る官僚 た ち に よっ て、 どの よ うに機 能 す べ きもの として流 刑 囚の処 遇制 度 が理解 されて いた のか とい う点 につ いて 検 討 す る。3.さ らに、 そ う した処 遇 制 度 の理解 が植 民 地経 営 にお い てい
植民地統治と監獄制度一19世 紀中葉の海峡植民地 における囚人の管理一 か な る意 味 を持 った か を確 認す る。 ここで、 流刑 囚 の管理 にあた って有 効 と考 え られ た 「囚 人看 守 制 度 」 に注 目す る。4.そ して 、 囚人 た ち の逃 亡 や暴 力 的実践 につ い て、そ れが いか に対処 すべ きもの と考 え られ たのか を 示 す.5.最 後 に、1870年 代 に入 る まで に、既 存 の囚 人処 遇制 度 を成 り立 たせ た諸 条件 が どの よ うに変 化 し、 それ とと もに処 遇 の枠組 み がい か に変 化 したか を明 らか にす る。 1.流 刑制度 と英領 イ ン ドに お ける海 峡植民 地 の位置 マ ラ ッ カ海 峡 の英 領 植民 地 の歴 史 は、1786年 のペ ナ ン島の英 領 化 に始 まる。 ペ ナ ンは、領 有直後 に 自由貿易港 とされた ため、 周辺 海域 の商 人 を 多 く惹 きつ け、 かつ て森林 に覆 われ ていた この地の 人 口は急増 した.ペ ナ ンは 自由貿易 港 の地位 を1801年 に一度 失 うが 、1805年 にイ ン ド第4番 目 の管 区 となる。 この後 、 シ ンガ ポー ルの建 設が1819年 に 開始 され、1824 年 の英蘭協 約 に よってマ ラ ッカが スマ トラの英領 ベ ンクー レ ンと交 換 され 英領 に なっ た.そ して、1826年 にペ ナ ン、 シ ンガポ ー ル、 マ ラ ッカ よ り な る海 峡植 民地 が成 立 し、管 区の地 位 が受 け継 が れ る と ともに、3つ の港 市が 自由貿 易 港 と され る.と ころが この 後、 海峡植 民 地が 東 イ ン ド会社 に とっ て大 きな利 益 を生 まず 、財 政 的 な重 荷 であ る こ とが 次 第 に 明 らか に な った 。1830年 には管 区 の地 位 は剥奪 され 、ベ ンガ ル政府 の管 轄下 の レ ジデ ンシー に降格 され た。しか し19世 紀 中葉 よ り、海 峡植民 地 を ク ラウ ン・ コ ロニー に変 え るべ きであ る との主張 が海 峡商 人 たち を中心 に強 くな され は じめ、最 終 的 には1867年 に植民 地 省 の管轄 下 に移動 した。 当初 、海 峡 植民 地 は 海軍・基地 と しての役 割 に加 えて 、香 辛料 の生産 地 、 中国貿易 の 中継港 と して多 大 な利益 を東 イ ン ド会 社 に もた らす こ とが期 待 されて いた.し か し、 自由貿易 港 とされた ため に政府 には関税 収入 が入 ら ず 、香 辛 料 の価格 が 下が り農業 も振 るわ なか ったた め土地 か らの収 益 も期 待 で きなか った とい うのが 実際 の展 開 であ った。 一方 で、 東 イ ン ド会社 の 貿易独 占の終 了や 、 自由貿易 港 の地 位 とい う条件 もあ り、 地域 の人 口 は増 加 した ため、 イ ンフラス トラクチ ャーの整 備へ の 要求 は高 まった。 イ ン ド 統 治下 の 海峡植 民地 は財 政 的重荷 とみ な され てお り、 カル カ ッ タが 海峡植 民 地政 府 に期待 す る こ とはな るべ く安 上が りに植民 地経 営 を行 な うこ とで あ った[Turnbull1972:3-5].そ の ため、 海 峡植 民 地政 府 はマ レー 半 島 の在 地 勢力 に対 して も不介 入 の姿勢 を保 ちつづ け る こ ととなっ た。
南 アジ ア研 究第19号(2007年) とこ ろで、 英領 イ ン ドで は18世 紀 後 半 の植 民 地統 治 開始 期 よ り、 囚 人 処 遇 制 度 の ひ とつ と して流 刑 が行 なわ れ て いた.流 刑 制 度 の導 入 の 背 景 と して は、 在 地 の 「残 虐 な 」刑 罰 に替 わ る 「人道 的 な」 刑 罰 が要 請 され た とい う事 情 に加 えて[Majumdar 1960:235-6]、18世 紀 末 の イ ン ド亜 大 陸各 地 の監獄 が過 密 に なっ てい た一方 で、新 し く開発が 行 なわ れ るこ と に なっ たペ ナ ンな どイ ン ド洋東縁 の植 民地 で は労働 力 が不 足 して いた とい う事 情 が あ った 。例 え ばペ ナ ンに は、 英 領化 され た時 点 で58人 の 住民 し か い なか った とい う[Hoyt 1991:5].こ うして導入 された流 刑 囚 は、19 世紀 半 ば には海 峡植 民地全 体 を合 計 して4,000人 前後 を数 える よ うにな る。 また、 初期 の植民 地 建 設期 を過 ぎて も、 「財政 難 」 とい う理 由か ら、 当局 は囚人 の 「安 価 な 」労働 力 に大 き く依存 しつづ け る こ とにな った。流 刑 に は、海 峡植 民地 とい う英 領 イ ン ドの辺 境 の諸都 市 を安 あが りに開発 す るた めの労 働力 を確 保す る とい う意 味が与 え られ たの だ った6.
2.囚 人処遇制度の規範的理解について一流刑監獄と社会との関係一
以 上、 簡略 で はあ るが海 峡植 民地 の英 領 イ ン ドとい う枠 組 み にお ける位 置 を説 明 した。次 に、海峡 植民 地 の流刑 監獄 の制 度が どの よ うな刑 罰理 念 との 関係 で形 成 された のか とい う こ とにつ いて の考 察 に移 る。 こ こで は、 監獄 制 度 の 役 割 は何 で あ るべ きなの か、そ れ は どの よ うな機 能 を持 つ も の と して理解 すべ きなの か、 とい っ た規範 レヴェ ルの主 張が 具体 的 に どの よ うに な され て いた の か を確 認 す る。そ の た め に、19世 紀 前 半 の イ ン ド 亜 大 陸 と海 峡植 民地 の それ ぞれ にお け る監獄 制 度整 備の過程 を振 り返 る際 に、度 々参 照 され るふ たつ の資料 を と りあ げたい 。英領 イ ン ド全 体 を対象 と した1838年 監獄 規 律 委 員 会 報告 書[RCPD 1838]と 、19世 紀 海 峡植 民 地 の監獄 規則 の原 型 となるベ ンクー レン規則 を書 き上 げた 頃の ラ ッフル ズが 自 らの刑 罰観 を記 してい る、東 イ ン ド会社 取締 役 会宛 書簡(1818年) [Raffles 1830:295-299]の ふ たつ で ある。1838年 監 獄規 律委 員会 とラ ッ フルズ は、 その見解 が そ れぞ れ イ ン ド亜 大 陸 と海 峡植 民 地 にお ける その後 の監獄 制 度整 備 の方 向性 に、多 大 な影響 を与 えた と評価 されて いる。 これ らの資料 の 内容 を比較 検 討 しなが ら、 監獄 制度 が どの よ うに作 動 すべ き も の と して語 られてい たの か とい うこ とを多 少 とも読 み解 きたい.植民地統治と監獄制度一19世 紀中葉の海峡植民地 における囚人の管理一 2・1. 1838年 監 獄規律 委 員会 報告 書 19世 紀 前 半 に おい て は、英 領 イ ン ドの 囚人 処 遇 のあ りか た を一般 的 に 規定 す る ような規 則 は存 在 しなか っ た.1838年 委 員会 は、 そ う した一 般 規定 を定 め よ う とす る動 きの最 も初 期 の もの と評 価 され てい る7. 1838年 委員 会報 告 書 は、 イ ン ドにお け る刑 罰が ね らい とすべ き もの と して犯 罪 の 「抑止 」 を強調 し、植 民 地 のネ イテ ィ ヴの 「矯 正」 可能 性につ い ては非 常 に懐 疑 的 な見解 を示 してい る.刑 罰 の 目的 につ い ての議 論 に関 連 して、1838年 委 員会 は、 囚人 に課 され る労働 につ いて 次 の よ うに論 じ た。 同委 員会 に よる と、 囚人労働 の種 類 はふ たつ の タイ プに分類 で きる と され る.第 一 の タイ プは 「監獄 で行 な うの に適 した仕事 を知 って い る者 に は それ を行 なわせ 、何 も知 らない者 に は何 らか の仕事 を教 え る こ とによ っ て、 囚 人 自身 の維 持費 を まか な うこ とが で きる よ うな仕事 を させ る こ と」 で あ る[RCPD 1838:105(par.235)]。 こ うした労働 は 「矯 正 」 の理念 と 接 続 す る もの と して提 示 され る.生 産 的 な労働 を囚人 に教 え込 ん で 「矯 正」 す る とい うわ けであ る。 第二 の タイプ は 「それ よ り厳 しい仕 事 に よ ってで も 〔そ の作 業 か ら〕早 く逃 れ たい と思 わせ る よ うな 、退屈 で単 調、 難儀 で かつ 面 白 くない作 業 」[lbid.:105]で あ る と され る。 こう した作 業 と して は、 単純 な刑 務作 業用 の器 具 を ひたす ら無為 に回転 させつ づ けた りす る よ うな、 単調 な ものが 選 ばれ る8.こ こで は生 産性 は追及 され るべ きね らい とは され ない。両 者 の特長 と して は、 第一 の タイ プの労働 は囚人 の労働 に よる収益 に よって政府 に利 益が もた らされ る こ とが考 え られ 、一方 で 第二 の タイプの労 働 は どの囚 人 に対 して も同程度 の 「抑止 効果 」が期 待 され る こ とが挙 げ られ てい た[Ibid.:105-111].1838年 委 員会 の基・本 的 な姿 勢 と して は、刑 期 囚 に対 して第一 の タイプの労 働 を課す こ とに関 して は消 極 的 であ り、 「非生 産 的労働 」 を課す こ とを強 く推 奨 した9。 2-2. ラ ツフルズ 書簡 一 方 で、1818年 前 後 に赴任 先 のベ ンクー レ ンに おい て、19世 紀 海 峡植 民地 の監獄 制 度 の基礎 とな る監獄 規 則 を書 き上 げた ラ ッフル ズ は、 イ ンフ ラス トラ クチ ャー整 備の ため の土木 工事 や森 林 の開拓 な どの労 働 に囚 人 を 従事 させ 、 それ に よって 囚人 た ちを 「矯 正 」す る こ とを処 遇 のね らい とす べ きで あ る と主張 してい た.ラ ッフル ズが そのベ ンクー レン規 定 にお いて 導入 したの は、等 級制 度 と仮 出獄 制 度 であ る.彼 が 導入 した3等 級 制(1818
南 ア ジァ研 究 第19号(2007年) 年 頃)は 次 の よ う な も の で あ る。 第1ク ラ ス: 監 獄 外 で の 居 住 を 許 さ れ た 囚 人 。 第2ク ラ ス: 一 般 の 囚 人 。 第3ク ラ ス: 行 な い の 悪 い 囚 人 。[Raffles 1830:299] ラ ッフルズ は等級 制度 に よって、行 ないの よ り良い もの を上位 の等 級へ 、 行 ないの悪 い もの を下位 の等 級へ と振 り分 け る とい う段 階 的処遇 を行 ない、 さ らに は行 ないの最 も良い者 に仮 出獄 の恩 典 を与 え る とい う体制 を整 える ことに よって 、囚 人 を 「社会 の有 用 な成員 」へ と矯 正す るこ とが可 能で あ る と考 えた ので あ る10。ここで、 上位 の等 級へ の格 上 げ の要 因 とな るの は、 囚人 が課 され る労働 をいか に勤勉 に行 な うか とい うこ とで あ った.こ こに お いて、勤 勉 な労働 者 を生 み 出す とい う企 図 と、 囚人 を 「矯 正 」す る とい う企 図 とは 同時 に達 成 され る もの と して定 式化 された ので あ る。以後 、ラ ッ フルズの規 則 を基礎 に、数 度の規 則改 訂 を通 じて等 級制 が よ り詳細 な もの に整 え られて い くこ とに なる。1825年 前 後 にペ ナ ンで使 わ れて い たベ ン ク ー レン規 定 改 訂版"、1826年 の 海 峡植 民 地成 立 の 翌年 に制 定 され た ペ ナ ン規 定(1827年)12を 経 て、 海 峡植 民 地知 事 の 名 を冠 したバ ター ワー ス規 定(1845年)13に よって規則 上 の整 備が一 定 の完 了 をみた。バ ター ワー ス規 定 にお ける6等 級制 は次 の よ うな もので ある. 第1ク ラス: 監獄 外 で の居 住 を許 された 囚人。 第2ク ラス: 囚 人官 吏(convict peon)及 び病 院 と公 共機 関 に おい て 働 く囚人(女 性 も含 む)。 第3ク ラス: 市街 地 の外 で道路 や 公共 の工事 に携 わる 囚人。 第4ク ラス: 新規 に送 られ て きた 囚人 、お よび他 の ク ラス よ り降格 さ れた 囚人 も しくは第5ク ラス よ り昇格 され た囚 人. 第5ク ラス: 逃 亡 を 防 ぐた め に通 常 の 警 戒 以上 の もの を必 要 とす る 反 則 者 な どの ような、 上 位 の ク ラス よ り降格 され た囚 人。 も し くは、 そ の流刑 元 の 管 区 よ り特 別 な指 示 が な され て い る囚人。 第6ク ラス: 第2ク ラス に含 まれ ない女性 お よび傷 病者 ・老齢 者. [Butterworth Rules]
植民地統治と監獄制度−19世 紀中葉の海峡植民地における囚人の管理― この後 、 こまか な改 訂 は重 ね られ た もの の、1873年 の流 刑 監獄 制 度 の 廃 止 に いた る までバ ター ワー ス規 定が 効力 を持 ち 、等級 制 度 も この6等 級 制 が基 本 とされた 。 ラ ッフルズ の、等 級制 を基 盤 とした 「矯 正」 の企 図 は、 1870年 代 に入 る まで、 海峡 植民 地 の流 刑 囚処 遇 の基 本 的 な方 向性 を規定 す るこ と となった. 2.3. 監 獄 と社 会の 関係 上記 を ま とめ る と、海 峡植民 地 の流 刑 囚 につ いて は、1838年 監 獄 規律 委 員 会が 支持 した ような刑 罰 理念 に合 致 しな い、 「矯 正 」 に重 点 を置 く処 遇 形態 が有 効 であ る と考 え られ、 制度 の整 備が な され てい った とい える。 た だ し、1838年 委 員 会 は、 「矯 正」 を重 視す る処 遇形 態 につ いて、 例外 的 に容 認す る態 度 を とる場 合 が あっ た。そ う した議 論の ひ とつ は、流刑 囚 が 終 身刑 の 囚人 に準 ず る もの で あ り、「矯 正 」が 強調 され て しか るべ きだ とい う主 張 で あ る。1838年 委員 会 は、 社会(society)へ の完全 な る復 帰 を想定 されて いな い よ うな終 身刑 の 囚人 に関 して は、そ の管理 に際 して「抑 止 」 よ りも 「矯 正」 が よ り強 調 され るべ きで ある とし、 そ の多 くが終 身刑 であ る と考 え られ た流 刑 囚 につ いて もそ れ は 同様 で あ る として いた。 「た とえ彼 を 自由 な行為 者(a free agent)に す る こ とは絶対 に危 険で あ る と して も、彼 の道 徳 的性 向 を矯 正す る こ とは、犯 罪者 の ため に、神 聖 に して 究極 に大 いな る 目的で なけれ ば な らない」[RCPD 1838:103]。 また イ ン ドの 囚人 に とって 海 を渡 る こ とは、 「カース トもし くは社 会 の 絆 」 を 「死 に よって と同様 に完 全 に破 壊 す る」 とされ[lbid.:97]、 流 刑 囚 に対 して は、 「抑止 」 をね らっ た手厳 しい管 理 は必 要 で は ない とい うこ とも語 られ た。 カ ース ト ・ヒ ン ドゥー は海 を渡 る と カー ス トを喪 失す る とい う、 い わゆ る 「黒 い水 」 の言説 が ここで 変奏 され てい る。 「流刑 囚の 扱 い は、そ れ らの囚 人の大 多 数が終 身流 刑 に処 され てい る と ころで は特 に、 深 く考慮 されす ぎる ような事柄 で は ない.過 度 のい い加減 さは他 の刑罰 の 場合 と同様 に非常 に有 害 であ るが 、必要 の ない厳 しさは、全 く無用 で あ り、 他 の種類 〔の囚 人〕 の場合 に比 して、 この種 の 囚人 の場合 には非常 に残 虐 な もの と なるか らで あ る」[lbid.:79-80].む しろ、流 刑 は 「カー ス トも しくは社 会 の絆 」か ら個 人 を切 り離 す こ とに よって、 人 び とに恐 怖心 を与 え、「社会 の抑 制(thedeterring of society)」が達 成 され る と も考 え られた 。
南 アジ ァ研究 第19号(2007年) つ ま り、流 刑 は囚 人 を 「社会 」 か ら切 り離 す もの であ り、も との社会 へ の復 帰 は基 本 的 に考 え られ ない もの と されて い る14。その た め、流 刑 は囚 人 送 り出 し地の社 会 に対 して は一般 予 防論 的見 地か らす れ ば 「抑 止」効 果 を発 揮 しうる と考 え られ、応 報 刑論 的見 地 か らすれ ば 「カー ス トも し くは 社会 の 絆」 か ら囚人 を切 り離 す こ と自体 を もって イ ン ドの ネイ テ ィヴに は 十 分 な報 いが与 え られ る と考 え られ たの だ と理 解で きる。 これ に対 して、ラ ッフルズ の影 響下 に あっ た海峡植 民 地 にお いて は、監 獄 と社 会 との 関係 は一方 通行 的 な もの と して とらえ られた ので あ った。つ ま り、監獄 は海 の 向 こ う側 か ら送 られて きた囚 人 を 「社 会 の有 用 な成 員 」 に変 え、海 峡 植 民地 の社 会 に送 りだ す仕 組 み と して理 解 され た。 「社 会 」 は囚人 が 「矯正 」され た うえで組 み込 まれるべ き到 達点 で はあ るが、「社 会 」 の中 の諸個 人 が監獄 に対 して どの よ うな態 度 を とるべ きなのか とい った こ とにつ い て は、 ラ ッフルズ の囚人 処遇 の企 図 は何 も語 らないの であ る。例 え ば、社会 の 中の 人び とが監獄 の存在 を意 識す るこ とに よって犯 罪 か ら遠 ざか る こ と、 あ るい は規 範意 識 を持 つ こ とが期 待 で きるか どうか につい て は、考 慮 の対象 にな ってい ない.い か に効 果 的 に囚人 を 「矯 正 」す るか と い う関心 に も とつ いて 、制 度の設 計 が行 な われた ので あ る. さて、刑 罰 のね らい はい か なる もので あ るべ きなの か、と い うこ とにつ いて の こ う した主張 は、監獄 制 度の あ りかた に関 す る規 範 的 な レヴ ェルで の理 解 に 関わ っ てい た もの とい え る。1870年 代 まで の海 峡植 民 地 の流刑 監獄 制 度 に関 しては、 「矯 正 」の 理念 を強調 す る主 張 が支 配 的 な位 置 を 占 め たの で あ った 。 で は、 こ う した規 範 的 レヴェ ルで の制 度 理解 は、19世 紀 の海峡植 民 地 の統 治 とい う文脈 の 中 で、 いか なる実 際的 な意 味 を持 った の だろ うか。 3. 囚 人 と そ の 看 守 た ち 海 峡植 民地 へ送 られた流 刑 囚た ちは 、森林 開拓 や道路 建 設等 の イ ンフ ラ ス トラクチ ャー整 備のた めの労 働力 を提 供す る もの として期待 された 。そ う した植 民地 開発 の ため の囚人 労働 力 の組織化 が 進 め られ る中で形 成 され た のが 囚人看 守制 度 だ った。 囚人看 守制 度 とは、囚 人の 中の行 ないの 良い 者 に看 守 の役 割 を担 わせ 、他 の 囚人 の 監督 にあ た らせ る制 度 で 、19世 紀 初頭 の ペナ ンにおい て始 め られた もの であ る。ペ ナ ンで はペ ナ ン規 定成 立 (1827年)と とも に この 制度 は一 度廃 止 された が、1830年 に シ ンガ ポー
植民地統治と監獄制度―19世 紀中葉の海峡植民地における囚人の管理― ルで復 活 し、 流刑 監 獄 の 終 了 に い た る まで続 い た。1855/56年 の 『海 峡 植民 地年 間報 告書 』 は、「囚人 自身 の 中か ら、信頼 に足 る行 ないの よい者 を、 そ の全体 の警 護 と監視 にあた らせ る こ とは、安 全 上 よ り役 立 ち、武 装 した 自由民 に よって警 護 され る場合 よ りも逃 亡す る者 の数 は少 な くなる よ うで あ る」 としてい る15。 流刑 監獄 の組 織は、 数人 の ヨー ロ ッパ 人官 吏 とその 下の 囚人 官吏 に よっ て管 理 ・運営 された16。 まず 、公 共事 業 局長 を兼任 す る監獄 所長 を頂 点 と し、 その 下 に3人 の ヨー ロ ッパ 人 の官吏 が置 か れた 。職工 な ど特 別 な技 能 を持 っ た囚 人 た ちの監 視 官、路 上 の労 働 の 監視 官 、お よび看 守長 で あ る。 ヨー ロ ッパ 人 ス タ ッフは合 計 で この4名 にす ぎない.そ の下 に、階 層化 さ れた 囚人下級 官 吏(petty officers)た ちが置 か れた[図1参 照]。 こ う した制 度 を作 りあ げ るこ とに よって、 海峡 植 民地 当局 は囚人 の労 働 力 を活用 し、植民 地 開発 を推 し進 めた.囚 人看 守 と して は、十 分 に信 頼 に 値す るだけ 「矯正 」 され てい るはず の、 等級 制度 上 の上位等 級 の囚 人 にそ の役 割が 与 え られ た。 つ ま り、 ラ ッフルズが導 入 した等 級制 度 と、 それ を 支 えた 「矯 正 」の理 念 が この囚人 看守 制度 の前 提 だ ったの であ る。植 民地 社 会 の開発 の ため に、 囚人労 働力 を活 用 しよ うとす る監獄 制 度 の編成 の う 図1:バ ター ワース規定(1845年)に お ける流刑監獄の官僚機構
南 ア ジア研 究 第19号(2007年) えで 、「矯 正 」の理 念 は有効 に作 動す る と考 え られた のだ とい え るだ ろ う17. 4. 囚 人 の 諸 実 践 へ の 対 処 それ では、 こう して囚人看 守 を中心 として組 織化 され た囚人 の管 理 シス テ ムは実 際 の ところ どの程 度有 効 に作 動 した と考 え られ たの だろ うか。 こ こで は、囚 人の逃 亡 と暴 力 的行 為 に対 して、 監獄 当局 が いか に対処 しよう と した のか を検討 す る. 4-1. 囚人看 守 を信用 す る まず 、逃 亡 の防止 につ い て考 え るため に、 囚人 たちが どの よ うな施 設 に 収 容 され たの か に注 目 した い。海 峡植 民地 の流 刑監獄(Convict Lines)18 の設備 は、実 の と ころ遅 々 として整備 が進 まなか った 。最 も進 んで いた は ず の シ ンガポ ール流 刑 監獄 で さえ、建 物 が完 成 した の は よ うや く1860年 の こ とで あ り・ そ れ ま での この監 獄 は 「開い た村(open campong)」 と 囚人 た ち に呼 ばれ る状態 であ っ た[McNair 1899:78]。 しか し、 そ うで あ って も流刑 監獄 には所 長 以下 ヨー ロ ッパ人 ス タ ッフがお り、 囚人 とその 看守 た ち を直 接 の監視 下 に置 いて いた 。そ して、 逃亡 や暴 動 の企 てが たて られて も、1853年 暴 動 の よ うに通 常 は首尾 よ く鎮 圧 され た ので あっ た。 当局 に とっ て監視 が よ り困 難で あ ったの は、森 林 開拓 や道路 建 設 な どの ため に、市街 か ら離 れ た場 所 で活動 す る 囚人 たちの 集 団で ある。多 少 の距 離 で あれ ば、 囚人 たち は囚人 看守 の監 視 の も と、昼 間 は外 での労働 に従事 し、夜 間 は流刑 監獄 で過 ご した 。 しか し、マ ラ ッカの後 背地 やペ ナ ンの半 島側 の ウェル ズ リー州 な ど、流刑 監獄 か ら遠 く隔 た った場所 で労 働 に従事 す る囚 人 た ちは、 「コマ ン ド(command)」 とよば れ る仮設 の 建物 に寝起 き した。 ここで の囚人 の生 活 はすべ て囚 入看 守の 監視 の も とで行 なわ れ る こ とにな ってい た。実 際 の ところ、 そ こか ら逃亡者 が 出 る こ とは しば しば あ り、 また規律 の徹 底 が 困難 な時 もあ った.し か し、 マ ク ネアー をは じめ とす る当時 の監獄 所長 は、囚 人看守 の下 におい て も 「コマ ン ド」 の管理 は よ くい き とどい て いた と主 張 してい る[McNair 1899:19,44]。 監獄 当局 の 一般 的 見解 と して は、逃 亡 囚 人 の数 は全 体 と して 多 くは な く、効 果 的な 囚人管 理が 逃亡 囚人 を少 な くした と しば しば主 張 され た。特 に シ ンガ ポー ル流 刑 監獄 の所 長 を10年 間 にわ た っ て務 め たマ ン(任 期: 1845-55年)は 、任 期 中 に逃 亡 に よって 失 っ た 囚人 の 数 は 年 間1∼2人
植民地統治と監獄制度―19世 紀中葉の海峡植民地における囚人の管理― であ った と主張 した19。そ して 、遠隔 地の 「コマ ン ド」にお ける 囚人 たち も、 逃 亡 を はかれ ば囚人 看守 た ち に よって捕 らえ られ る はず の もの とされた。 実 際 に は年 間 に30数 人 もの逃 亡 者 が 出 る こ とが あ っ た に も関 わ らず 、 こう した 問題 は流刑 監獄 の廃 止 にい た るまで 囚人管 理 の制度 的 問題 とはみ な され てい な か った.「 コマ ン ド」 の廃止 や、独 居制 の 導入 とい っ た、 よ り厳 しい監 禁形 態 は検討 され るこ とす らなか った 。問題 は、 囚人 の収 監 の 形 態 と管理 システ ムで は な く、監 獄 の所長 や 囚人看 守 に よる管理 の適切 さ に置 かれ てい たの であ る。特 に所 長 の能力 とい う ものが 非常 に重 視 され た. 「所 長 の 良 い管理 」 とい った言 葉 は、 報告 書類 の中 に繰 り返 し記 され た も ので あ る20。また、囚 人看 守 が十 分信 頼 に足 る とい う こ とが さか ん に強調 され た こ とも重 要 であ る。 囚 人 自身の 中か ら看 守 を選 ぶ こ とに よって 、当局 は ヨー ロ ッパ 人 ス タ ッ フの不 足 を補 い、 よ り安上 が りに監獄 の運営 を行 なお う と した 。そ の 際、 当局 に は、囚 人看守 一般 の信 用可 能性 につ い て、 それ に疑 い をさ しは さま ない とい う立場 を保 持 すべ き理 由が あ った と理 解 で きる。第 一 に、 囚人看 守た ちの信 用可 能性 に疑 問 が持 たれ る な らば、彼 らに囚人 たち の監視 を任 せ る こと 自体 がそ もそ も困難 にな る。第二 に、囚 人看守 た ちが そ こか ら選 ばれ る第2ク ラス とは、す で に矯 正 の 階梯 の上位 に位 置 す るた め、 囚人看 守が 信用 で きない とす る な らば、等級 制 度 に よる段 階 的処遇 自体 の有 効性 に も疑 問符 が 付 け られ る こ とにな りかね なか った はず だ ったの であ る。 4-2. 逃亡 者の 逃れ る先 しか し、仮 に囚 人看 守が 真 に 当局 に対 して忠 実 で あ った として も、 「コ マ ン ド」 に寝起 きす る ような環境 で は逃亡 を防 ぎ きれ なか った の は明 らか で ある.そ う した事 例 を こ こで ひ とつ紹介 す る。 1856年4月11日 に、 マ ラ ッカの後 背 地 で土木作 業 に従 事 してい た集 団 の 中か ら18人 の 囚 人が 逃亡 した ため 、 囚人看 守 ア ップー が追 跡 した。 そ れ に ア ロー ル ・ガ ジ ャの カー テ ィ ブ21が手 の者 を連 れ て随行 し、15人 を 捕 捉 した。 カー テ ィ ブに は定 め られた 額 の報 酬 が支 払 わ れ た22。しか し、 逃 げおお せ た3人 の囚 人 は ラ ンバ ウの首 長 の も とに身 を寄 せ た こ とが 判 明 したため 、再 度 アロー ル ・ガ ジ ャの カー テ ィブが要 請 され て交渉 にあた っ た。 しか しなが ら、 ラ ンバ ウの首 長 は カーテ ィブを は ぐらかす こ とに終始 し、結 局 の ところ引 渡 しは拒 否 され た23。この よ うに、実 際 に は交渉 が成
南 ア ジァ研 究 第19号(2007年) 立 しない とき もあ った こ とが わか る。 イギ リスが積 極介 入 政策 に転 じる ま で は、海 峡植 民地政 府 はマ レー半 島 の在 地勢力 に対 して必 ず しも絶対 的優 位 に立 って いた わけで は なか ったの で ある24. こ う した状 況 を海峡植 民 地の官 僚 た ちはい か に理解 しよ う としたの だろ うか.1855/56年 の 『海峡植 民 地年 問報 告 書』25では、 イ ン ド亜 大 陸 とセ イ ロ ンか らの囚人 の逃 亡 に関 して次 の よ うに記 され てい る。 比 較 的少 数 の逃亡 者 しか 出なか っ たの は、囚 人看 守 に よる警戒 の ため とい うよ りは、逃 亡者 た ちがそ こに逃 げ込 む しか な い、 この地 の 自然 が もた らす 困難の た め といっ たほ うが よい。 そ こは一 般的 に い って深 い ジ ャ ング ルで あ り、 も し逃亡 者 たちが トラか ら逃 れた として も、マ レー人 の手 中に落 ち る とい うこ とはほ ぼ確 実 で あ る。 マ レー人 た ち に は、 常 に報酬 が与 え られ るので 、逃 亡者 た ち を捕 まえる用 意が あ る。 そ れ で も幾 人 か は逃 げ きる のだ が 、逃 亡 者 た ち は遠 隔 の マ レーの 国 (Malayan States)に お いて、 そ れ ら逃 亡者 た ち を捕 らえた者 の奴 隷 に なる のがお ちで あ る。そ こで は、 逃亡者 たち は 自 らの環境 が ま しに な って はい ない こ とに気 づ くの が常 な ので ある。26 この記 述 か らは、逃 亡者 が逃 げ込 む空 間が 、 当局 の官僚 に とっ てあ る種 の 「外 部 」 として把 握 されて いる とい う こ とを読 み取 れ る。逃 亡者 が逃 げ 込 む先 は、海 峡植 民地 に生 まれつつ あ った社会 空 間 の中 であ る とは されて い ない。 近 隣の 「マ レー人 」 には報 酬 を与 える こ とで交渉 が まだ可 能 であ る とされ たが 、 「深 い ジャ ング ル」 や 「遠 隔の マ レー の 国」 は それ 自体 と して逃亡 者 に とって不 利 な条件 と して提 示 され てい る。つ ま り、 それ らは 海峡植 民 地 の統治 者が直 接 関与 す る対 象 と して は提 示 されて いな いの であ る。外 部 に逃 走 して しまった者 につ い ては、 交渉 可能 な範 囲 で捕 らえれ ば 元 どお り監獄 内 での監 視下 に置 け ば よ く、捕 らえ るこ とが で きな けれ ばそ の者 たち につ い てあ ま り思 い悩 む必 要 は なか っ た。 「トラ」 に喰 らわ れ る か 「遠 隔の マ レーの 国」 で 「奴隷 にな るのが お ち」 だ とい うわけ であ る。 4-3. 暴 力的実 践 一 方 で、19世 紀 中葉 の 海峡 植 民地 当局 は、 流刑 囚た ち に よ るあ か らさ まな暴力 的 な実践 につ い ては常 に危 惧 して いた。 イ ン ド亜 大 陸か らの流 刑
植民地統治と監獄制度一19世 紀中葉の海峡植民地における囚人の管理− 廃 止 の直接 的 な きっか け とな った の も1857年 の 「大反 乱 」 に呼応 して 囚 人 が暴 動 をお こす ので は ないか とい う恐 れで あ った。 また、 囚 人た ち は監 獄 にお い て も時 お り暴 力 事件 を起 こ して い る. ここで、 マ クネ アーが 記 して いる、 自分 自身 と前任 の シ ンガ ポー ル流刑 監獄 所 長 のマ ク フ ァー ソ ン(任 期:1855-57年)に 対 して計 画 され た暗 殺未 遂事 件 の例 を紹介 したい 。 まず、 マ ク フ ァー ソ ンに関す る事件 を見 る. あ る夕 ベ 、点 呼 の 前 に土 中 にナ イ フ を隠 して い る囚 人 が い た。 そ れ を 目撃 したあ るパ ー ルス ィー の 囚人 は、 機 会 をみ はか らっ て ナ イ フを掘 り 出 し、 刃 を と りはず して柄 だ け を土 中 に戻 した。 暗殺 を企 て て い た 囚人 は、 マ ク フ ァー ソ ンが近 くに来た ときにナ イ フを土 中か ら取 り出そ う と し たが 、刃 が はず され てい た ので 、企 て は未 遂 に終 わ った[McNair 1899: 125-126]。 次 にマ クネア ー 自身の体 験 であ る。マ クネ アーが所 長 の時 に、2人の ス ィ クの 囚人 の 問で争 いが お きた こ とが あ った。片 方 は ラー ム ダー ス ィー ・ス ィ クで あ り、片 方 はマズ ハ ビー ・ス ィ クであ った。 マ クネ アー は この件 を調 査 し、マ ズハ ビー ・ス ィクの側 に非 があ る と し、彼 を罰 した。 これ を受 け て、 マズハ ビー ・ス ィクた ちが この判 断 に不服 を覚 え、密 か にマ クネ アー に報復 を加 える こ とを決定 した 。 しか し、彼 らが計 画 を練 っ てい る問、彼 らの言 語(お そ ら くパ ンジ ャー ブ語)を 理 解す るあ るパ ー ルス ィー の囚 人 が 計画 を聞い てい た。計 画 の実行 され るはず であ った朝 、パ ー ルス ィー の 囚人 は、ス ィクた ちが銃 を所 持 して い るこ とをマ ク ネアー に密告 し、計 画 は未遂 に終 わ った。 暗殺 を計 画 した 囚人 たち は厳罰 に処 され厳 しい監 視下 にお かれ た一 方、 密告 者 は第3ク ラス か ら第2ク ラスへ と昇格 され、 恩賞 を与 え られ た。 マ クネ アー は、 囚人 たちが 互 いに監視 しあ って いた こ とを 指摘 し、そ れが 囚人管 理 にあ た って たいへ ん都合 の よい もの で あっ た と記 してい る[Ibid.:123-125]。 暴 力 的行為 は確 か に脅威 とみ な され た。 これ は、流 刑制 度 の廃止 の議 論 に直接 結 びつ くこ とに もな った。 しか し、 こ こで も暴 力 的行為 の発 生 の要 因が 、監獄 の管理 制度 そ れ 自体 に帰 される こ とはなか っ た.上 記 のいず れ の事例 にお いて も、 囚人 たち の行 動 が比 較的 自由で あ り、 さ らに は容易 に 凶器 となる もの を手 にで きた こ とは特 徴 的で あ る。そ れ で も、独 居 房へ の 監禁 や所持 品 の厳 しい 点検 を行 な う とい う方 向 に管 理 制度 が組替 え られる ことは なか った。 む しろ、 監獄所 長 や囚 人看守 に よる適切 な監視 に よって
南 アジ ア研 究 第19号(2007年) 問題 は解決 され る もの と位置 づ け られて いた ので あ る。そ して 、時 には 「密 告 者 」 を利 用 す る ことに よって予 防 され うる もの で もあ る とされた 。 監獄 の 中 に は イ ン ドの 非常 に多様 な人種(races)が お り、 非常 に多 様 な職業 の者 た ちが いた 〔…〕.雑 居制 度 の下 で監獄 内 に この よ うな 多様 な人 種 が い た こ と には、 〔様 々 な作 業 に従 事 させ る こ とが で き る ことに加 えて〕 他 の よ り重要 な利 点 があ った。 なぜ な ら、 ひ とつの カース トは例 外 な く他 の もの か ら 「分 裂」 して いた ため、 当局 へ の起 こ りうる共 同の 反乱(combined revolt)に 対す る予 防 と保 証 にな っ てい たので あ る[McNair 1899:53-54]。 マ ク ネアー は、 囚人 の問 に見 られ る 「人種 」 も し くは 「カー ス ト」 問 の 差 異 を、管 理上 の利 点 として と らえてい た。 囚人 たち は、 そ う した諸 カテ ゴ リーの想 定 され た境界 に沿 って 「分 裂 」 してお り、 当局 として はそれ を 適 切 に配 置す る こ とに よって囚 人の行 動 を管理 で きるはず の もので あ った。 流 刑 監獄 で は、独居 制 の よ うに囚人 を個 々 に閉 じ込め る こ とに よって 「共 同の 反乱 」 を予 防 す る とい った ことは語 られ なか っ たので あ る. 同時期 の イギ リス では、 逃亡 や暴動 な どを防 ぐた めの有 効 な方策 と して、 独 居 制 の 導 入 に 関す る議 論 が 長 年 に わた って続 け られ て い た。 時代 が い さ さか 下 るが 、1889年 に タラ ックは、雑 居 状態 にお け る 「等 級 制 度」 は い か に適 切 に管理 し よう とも、囚 人の 問の会 話 の機会 を剥 奪す る ことが不 可 能で あ り、逃亡 そ の他 の陰謀 を練 る機 会 を与 えて しま うと して批 判 して い る[Tallack 1984(1889):119-120]。 この場合 、 問 題 は、所 長(彼 が ひ きあい に出 したの は、 囚人 を等級 分 け し段 階 的 に処 遇 す る とい う制 度 を ノー フ ォー ク島で試 み たマ コ ノキー)に よる適切 な管理 に 関係 す る もの で は な く、 囚人管 理制 度 自体 にあ る と とらえ られて い る。 そ して 、独 居 制 と い う管 理制 度 にお いて こそ 、そ うした問題 が解 決 され る もの と して理 解 さ れて い る。 海 峡植 民 地 で 同様 の議論 が 支 配 的 にな るの は、1870年 代 に入 っ てか ら の こ とで あ る。そ れ までの流 刑監 獄 で は、所長 を頂 点 と した監獄 の ス タ ッ フに よる適切 な管 理 が、 囚 人管 理 の要 と され た。 カ ル カ ッ タに とって財 政 的重荷 で あ った海峡植 民 地 を安上 が りに 開発 す る ため の労働 力 の提 供 を 囚人 た ちは期待 され た こ と、 同様 に財政上 の理 由か ら簡単 な監獄 施 設 しか
植民地統治と監獄制度一19世 紀中葉の海峡植民地における囚人の管理− 建 て られず 、ス タッフ も囚人 た ちか ら選 ん だほ うが安 上が りであ った こ と、 これ らを考慮 す れば この時 代 の流刑 監獄 の 囚人管 理制 度 は経済 的 に合 理 的 な もの とみ な され えた.そ して、こ う した制度 は、例 えば1855/56年 の 『海 峡植 民地 年 間報告 書』 にお い て 「トラ」 や 「遠 隔 のマ レー の国 」 に よって 象 徴 され た植民 地 の 「外部 」空 間、さ らに は囚人 の 問にみ い だ された 「人種 」 も しくは 「カース ト」 の差異 とい った もの を想 定す るこ とに よって 、有効 に作動 す る もの と して理 解 され たの であ る.
5. 閉 じ込めという処遇形態へ
しか し、 海峡社 会 の特 に ヨー ロ ッパ 人商 人 を中心 と した コ ミュニ テ ィか ら、流 刑 制度 に対 す る非 難 の声 が あ げ られ始 めた の も19世 紀 の半 ば あた りであ っ た。流刑 制 度へ の非 難 は主 に、1.囚 人労働 の効率 性 を疑 い27、監 獄 の維持 費 を海 峡植民 地 が負担 せ ね ばな らない こ とにつ いて批 判す る もの と、2.流 刑 に処 され た 「犯罪 者 」 た ち に よっ て もた ら され る と想 定 され た 海峡 社 会へ の 「悪 影響 」 を危惧 す る主張 か らな って い た。19世 紀 半 ば の 人 口増 加 に よっ て よ り多 くの 労働 力 が 供給 され る よ うに な り、 流 刑 制 度 の最大 の メ リ ッ トとされた 囚人労働 力 の有用 性 は低 く見積 も られ る よ う に なっ た一方 で、都 市化 の進展 とと もに社 会 の安 全 に関す る不安 が 高 ま り、 植 民 地社 会 に外 部 か らもた らされ る好 ま し くない要 素 と して流刑 囚 た ちが 把 握 される傾 向が 強 くな ったの であ る[宮 本2007]。 1857年 の 「大 反 乱 」が お こ る と、 海 峡地域 へ の 反乱 の飛 び火 を恐 れ た 住 民 た ち に よっ て、流 刑停 止 キ ャ ンペ ー ンが張 られ、1860年 に イ ン ド亜 大 陸 か らの 流刑 は停止 され た。 そ して、1867年 の植 民 地省 へ の移 管 に と もなって流刑 監獄 制 度が 公式 に廃 止 され る こ とが決 定 され る。最終 的 に は、 流 刑 監獄 に残 って い たすべ ての 囚人 が、1873年 に ア ン ダマ ー ンに移送 さ れる こ と とな り、流刑 監獄 制 度 は終 了 した 。 この年 は、 前年 の1872年 監 獄 令28に 続 い て、 そ の細 則 で あ る1873年 監獄 規則29が 出 された年 で もあ る。 これ に よっ て囚人 の処 遇制 度 は大 き く 再 編 され 、 囚人 を完 全 に 閉 じ込 め る とい う収 監 の方 式へ 転 じた。1870年 代 を通 じて海 峡植 民 地 で は監獄 改 革が 行 な われ、 「抑止 」 を旨 と した厳 罰 化傾 向が 進 んだ ので あ る30。この背景 と して は、地域 の 人 口増 加 に ともなっ て社 会 の安全 に対 す る不 安 が高 まった こ とが 考 え られ る31。社 会 の 中 に犯 罪 的傾 向 を もつ要 素が潜 伏 してい る とい う危惧 が 強 ま り、 それ か ら社 会 を南 ア ジア研 究 第19号(2007年) 防衛 す る こ とが刑 罰 の 目的 と して 強調 され る よう に なっ た。 この時 代 に は防衛 され るべ き 「社 会 」 なる ものが 、所与 の もの として想定 で きる よう にな ってい たの であ る.そ して、 囚人 が逃亡 した場合 、逃 げ 込 む先 は植 民 地 の社 会空 間の 中で あ り、社会 へ 「悪影 響 」 を与 えるで あ ろ うこ とが危 惧 され る ように なっ た。 囚人 は今 や 絶対 に逃亡 させ ては な らない もの とな り、 囚人 の 自由 な行 動 は完全 に制御 され るべ きもの となっ た。 そ こで処遇 の要 として導入 された のが独 居制 で あ る。そ して、 この新 た な方 針 の も とで は、 囚人看 守 制度 の生 き残 る余地 は完 全 に な くな った32。自 らの判 断 で行 動す る こ とを大 幅 に許 され た囚 人 は監 獄制 度 内 に存 在 しな くなった ので あ る。
おわ りに
海 峡植 民地 の流刑 監獄 は、 囚人 の労働 力 を活用 して植 民 地 の社 会 空 間の 開発 を推 進 し、 また その労 働 を通 じて 囚人 を 「社 会 の有用 な成 員 」 につ く りか える こ とをね らい と した もの であ った と理解 で きる.囚 人 は、監獄 で 「矯 正 」 され る こ とに よっ て植民 地社 会 に組 み 込 まれ る もの とされ た ので あった が、 当の 海峡植 民 地の社 会 空 間は囚 人労働 力 の活用 に よって 開発 さ れ る とい う関係 にあ っ たの で あ る。つ ま り、生 産性 と結 び付 け られ た19 世 紀前 半 の監獄 制度 は、林 野 を切 り開 き植 民地 の空 間 に編 入 してい くとい う 「外 向 き」 の介 入 を行 な っ た のだ と理 解 で き る。 そ こで は、 囚 人 自身 に看守 の役 割 を担 わせ て 「コマ ン ド」 の よ うな場所 で労 働 に従事 させ る こ とが合 理 的で あ る と判 断 され、 また流 刑監獄 は海 峡植民 地 の社会 に対 して 「抑 止 」的 であ る こ とを論 理 上期待 され も しなか ったの であ る。結 果 と して、 囚人 た ちがあ る程 度 自由 に行 動 す る ことが許容 され る ことに なっ た。確 か に ピ ー リス の描 い た よ うに、19世 紀 の 中葉 の海 峡植 民 地 で は、 囚人 た ち は 当局 の思惑 に反 す る ような逃 亡や暴 力 行為 といっ た諸実践 をあ る程度 大 規模 にお こなっ た.た だ し、 そ う した諸 実践 は、 管理 体制 が 囚人 の 自由 な 行動 をあ る程 度許 容す る もの であ り、 この 時代 に はそ う した制 度 が経 済的 に合 理 的で あ る と判 断 された が ゆえ に可 能 だ ったの であ る. それ に対 して 、植民 地 の社会 が あ る程 度形 成 され る と、社会 と監獄 との 関係 が新 たなか た ちで再定 式化 され なけれ ば な らな くなっ た。新 た な囚人 の処 遇 にお い ては、住 民 の 中に潜 伏す る と想 定 され た 「犯 罪 者」 か らそ の 社 会 を防衛 す る こ とが喫 緊の 課題 とされ る ように なる。 囚人 を社 会空 間 の 建 設 に利用 す る こ とよ りも、厳 重 に 閉 じ られ た監獄 の 中に 閉 じ込 め る こ と植民地統治と監獄制度一19世 紀中葉の海峡植民地における囚人の管理− に力 点が 置 か れ る よ うにな って い くの であ る.1870年 代 以 降 の監獄 制度 は、す で に巨大 にな りつ つ あ った都 市 空 間の 内部 を適切 に管 理す る ため の 「内 向 き」の 介入 をね らい とす る もの とな った と言 っ て よい.囚 人 に課 さ れ る労 働 も、生 産性 や 「矯正 」 よ りも 「抑 止効 果」 を強 調す る もの とな っ てい った 。そ して 、 この新 た な処 遇体 制 の要 として独 居 制が 導入 された の であ った 。本稿 の 冒頭 で指摘 した とお り、独 居 房監獄 の導入 の直接 的な引 き金 となった の は、他 で もない 囚人 たち に よる 「抵抗 」、1875年 の監獄 暴 動 だ った ので あ る. 最後 に、今 後 の研 究課題 の提 示 も兼 ね て、時代状 況 の よ りマ クロな レヴェ ル と監獄 との 関係 に言及 して本稿 を閉 じたい 。海峡植 民 地 の流刑 監獄 が最 終 的 に消 滅す る1873年 は、新 知 事 ク ラー クが着 任 し、マ レー 半 島へ の そ れ までの不 介入 政 策か ら積 極 介入 政策 に転 じた年 で もあっ た.こ の政 策転 換 に よって、 イギ リス帝 国 の枠組 み の中 にお け る海 峡植 民地 の位 置づ け は 大 き く変 わ る こ と にな る。 つ ま りこの後 、 そ れ まで の よ うな<財 政 的負 担 にな らぬ よ う消極 的 に維持 され るべ き英 領 イ ン ドの辺 境都 市>で は な く、 <マ レー半 島統 治 のた めの拠 点>と い う意 味 を、海 峡植 民地 は担 うよ うに な ってい った 。以後 、 マ レー半 島 は英 領 マ ラヤ と して再 編 され てい くこ と に な り、植 民地 当局 は半 島全 体 の統治 をめ ざす よ うになっ てい く。 それ ま での英 領植 民地 の 「外 部」 が、統 治す べ き 「内部 」空 間 と して再 編 され る ことに なった ので あ る。 この意 味で も、囚人 の逃亡 を許 してい い ような 「外 部 」 空 間は消滅 した。 そ こで は 「トラ」 や 「遠 隔 のマ レー の国 」 な どは も はや想 定 す る ことがで きな くなる。犯 罪者 を厳 重に隔離 し 「抑止 」効 果 を ね らうとい う、1870年 代 に導入 された新 た な囚人 処遇 の体 制 は、1920年 代 にい たる まで海 峡植民 地 にお いて支 配 的 な もの となるが 、そ れ はこ う し た英領 マ ラヤ の統 治の確 立 とい う新 た な政 治 的課題 と調 和 的 な部 分が 大 き か った こ と と関係 してい る ように推測 され る。 この点 の研 究 につ い て は今 後 の 課題 と したい. 本 稿 の 一部 は2006年10月 の 日本 南 ア ジア学 会 の全 国大 会 で 報 告 した もので あ る。 執 筆 に あ た って は井 坂 理穂 先 生 の ご指導 を仰 ぎ、 本稿 の 原 型 とな った修士 論 文の 一部 は粟屋 利江 先生 の ご指導 の下 で執筆 した 。 また、 竹 下 和 亮 さん、 井 口 由布 さ ん、 中村 隆 之 さん、 内村 俊 太 さん か らは、 草
南 ア ジア研 究 第19号(2007年)
稿 に対 してた いへ ん有益 な ご批 判 をいた だ き、 大幅 な書 き直 しを迫 られ た。 こ こに心 か らの謝意 を表 したい.
註
1
Report on the Outbreak in the Criminal Prison, Singapore, 13th February , 1875, by Allan Skinner, Inspector of Prisons, 15 February , 1875, CO 273, vol. 79, No. 3194.
2
こ う し た 議 論 に つ い て は 、 『植 民 地 省 資 料 集273』 に 収 め ら れ た い くつ か の 覚 書 を 参 照 。9Mar . 1875,00273, vol.79, No.3912; 10Mar.1875 , CO273, vol.82, No.10134; 15Mar.1875,
CO273,voL82,No.12677.
3
年 間 報 告 が 残 され 始 め た1855/56年 度 か ら、 流 刑 監 獄 制 度 廃 止 の 前 年 で あ る1865/66年 度
の 『海 峡 植 民 地 年 間 報 告 書 』 よ り。1867年 の 数 字 は 残 され て い な い 。 な お 、 この 数 字 に は 未
遂 に 終 わ っ た 事 例 は 含 ま れ て い な い た め 、 逃 亡 の 試 み 自体 は こ れ よりも多 か っ た 。Report on
the Administration of the Straits' Settlements, 1855/56-65/66 (ARSS ,vol.1).
4 他 に19世 紀 海 峡 植 民 地 へ の 流 刑 制 度 を 扱 っ た も の と して、Saw[1956]、Sandhu[1966]、 Turnbull[1970]、Rajendra[1983]、Yang[2003]な ど が あ るが 、 い ず れ も簡 略 な もの に と ど まって い る 。 ピー リス の もの を 含 め て こ れ らの 先 行 研 究 で は、 処 遇 制 度 に 関 す る 植 民 地 官 僚 た ち の 支 配 的 理 解 が い か に形 成 され 変 化 した の か とい う、 本 稿 で 焦 点 をあ て る 問 い に は 大 きな 注 意 が 向 け られ て い な い 。 こ の点 が 、 処 遇 制 度 の 歴 史 的 意 味 を把 握 す る 際 に 重 大 な 意 味 を も つ こ とにつ い て は 、 拙 稿[2007]で 詳 し く論 じた 。 5 「規 律 化 」 の運 動 に対 して、「抵 抗 」 の契 機 を強 調す べ きで あるとい う議 論 は、 フーコー の 『監 獄 の誕 生 』(1977=原 著1975年)に 対 する反 応 として、 その 出 版の 直後 よりなされ は じめて お り、 ピーリスの議 論 もそ の流 れ に連 なる。 しか し、 重 要 なのは、 「抵 抗 」 の存 在 を指 摘 する こと自体 で はな く、そ うした 「抵 抗 的」諸 実 践 が 歴 史 的 にもった 意 味を解 明 することであ ろう。 本 稿 では、「規律 」 と「抵 抗 」の二 項対 立 を静態 的 に捉 えるような歴 史 観 に批判 的 な立場 をとり、 む しろ囚 人の諸 実 践 が制 度の 再編 成 過 程 にいか に関係 したか を明 らか にす るものであ る。 6 海 峡 植 民 地 は 、 イ ン ド亜 大 陸 の 他 に 香 港(1846/47-56)と セ イ ロ ン(1850-67)か ら も囚 人 を 受 け入 れ た が 、流 刑 囚 の 大 多 数 は イ ン ド亜 大 陸 か らの もの で あ った 。 サ ン ドゥに よる と1790-1860 年 の 間 に 約15,000人 が 亜 大 陸 か らマ ラ ッカ海 峡 周 辺 に 送 られ 、 そ の75%が 終 身 刑 に処 され た 囚 人で あ った[Sandhu 1969:134-137]。 7 当委 員会 の 報告 書 でなされ た提 言 は、採 用 され ることは なか ったが 、 その後 の インド各 地 にお ける監 獄 運 営の 具体 的 場 面 において、 度々参 照 され ることになった。 8 た と え ば、「踏 み 車 を回 す 、キ ャ プ ス タン また は旋 回 盤 を 回 す、水 を汲 み 上 げ る、煉 瓦 を破 砕 す る 、 粉 を挽 くな どの 作 業 」[RCPD 1838:105]. 9 1838年 委 員 会 の メ ンバ ー で もあ っ た マ コー レ ー も他 所 で 同 様 の 主 張 を して い る 。Clive[1975: 449]. 10 こうした見解 につ いては、 シンガポール最 後 の流 刑 監獄 所 長で あったマクネアーにいた るまで 共 有 されてい る[拙 稿2007:267]。 また、「社会 の有 用 な成 員」 の言 説 と監獄 制度 の歴 史 的関係 について は、別稿 を準 備 中で ある。 11
Fullerton to Government of India , 17 Feb. 1825, SSR, A 20 , pp. 214-225.
12
植民地統治と監獄制度―19世 紀中葉の海峡植民地 における囚人の管理一
Malacca, 5 Feb. 1828, SSR, 0 2, pp.325-338 .
13
Butterworth Rules, in Government of Bengal to Butterworth, 17 Sept. 1845, SSR, S 12, Item 180.
14
18∼19世 紀 の本 国イギ リスにおいて、流 刑 は死 刑 の代 替 刑 として位 置 づ け られた という経 緯 例 えばIgnatieff[1978:16]参 照)を 考 慮 す れば、この点 は比 較 的 容易 に納 得が い くものであ る。
15
Report on the Administration of the Straits' Settlements for 1855/56, p. 24 (ARSS,vol.1:
26).英 領 イ ンドの 他 の 地 で もこ の 制 度 は採 用 され た[Arnold1994:154]。19世 紀 後 半 の ア ン ダ マ ー ンで も この 制 度 は 積 極 的 に採 用 され て お り、 セ ンに よ る と、 囚 人 看 守 は 「ネ イテ ィヴ」 と そ の 社 会 を 「知 って 」 い る が 、 彼 自 身 の 政 治 的 忠 誠 心 は 植 民 地 政 府 に 対 す る もの で あ る は ず で あ っ た 。 そ して 、 囚 人 看 守 自身 は 囚 人 で あ る た め に 、 看 守 が 自由 身 分 で あ った 場 合 よ りも、 植 民 地 政 府 は 強 い 支 配 力 を行 使 す る こ とが で きる と考 え られ た[Sen2000:116]。 16 ペナ ン規 定、 バ ターワース規 定 で は、 囚人 看 守 はすべ て等 級 制度 上の 第2ク ラスの囚 人か ら選 ばれてい た。 17 囚 人 た ち の 労 働 力 が 、 具 体 的 に ど の 建 築 物 や 道 路 の 建 設 に 利 用 され た か に つ い て は 、Yang [2003]やPieris[2003]が 詳 しくとりあ げ て い る 。 18 この他 、 同時 期の 海峡 植 民 地 には、現 地 で裁 かれ た囚 人を収容 するための2種 類 の 監獄 、矯 正 院 とシヴィル ・ジェイルが 存在 した。 これ らの監 獄 については、拙 稿[2007]を 参 照 。 19
Man to GoI, 6 June 1857, SSR, S25, Item 220.こ の 間 の 数 字 は 残 され て い な い た め ・ マ ンの
主 張 を検 証 す る こと は残 念 な が ら不 可 能 で あ る 。
20
例 え ば 、1855/56年 か ら1865/66年 の 間 の 『海 峡 植 民 地 年 間 報 告 書 』 を 参 照 。Report on the Administration of the Straits' Settlements, 1855/56-65/66(ARSS,vol.1).
21
カーティブとは、イスラーム社会 において形 成 された書 記 層 であるが、アロール ・ガ ジャのカーティ ブ を名 乗 るこの人物 は、 この地 においてあ る程 度の影 響 力 をもつ在 地 有 力者 で あった 。
22
Resident Councillor Malacca to Blundell, 15 April 1856, SSR, EE 23, Item 52.
23
Resident Councillor Malacca to Blundell, 29 Sept. 1856, SSR, EE 23, Item 122.
24
海 峡 植 民 地 当 局 が 在 地 勢 力 と逃 亡 囚 人 の 身 柄 引 渡 し の 交 渉 を 行 な った 例 として、 例 え ば 次 の
事 例 を参 照 。Gol to Butterworth,22 Jan.1844,SSR, S11, Item 9;Blundell to Gol, 6 May
1848, SSR, R 17, pp. 6-14; RC Malacca to GoSS, 30 July 1855, SSR, EE 22, Item 123; RC Malacca to Blundell, 29 Sept. 1856, SSR, EE 23, Item 122; RC Malacca to GoSS, 31 Oct. 1865, SSR, EE 35, Item 179. 25 1855/56年 は、『年 間報 告 書』 が 書 き残 され 始 めた最初 の 年で あるため 、 この年 の報 告 書 には そ れまでの海 峡 植 民 地 統 治 の概 容が 記 されて いる。刑 事 政 策 に関 して も、 当局 の支 配 的見 解 を伺 うことが で きる記 述 が なされてお り、重 要 な資 料であ る。 26
Report on the Administration of the Straits' Settlements during the year 1855-56,p.24 (ARSS,voL.1:26). 27 囚 人労 働 力 の 効率 性 に 関する議論 つ いては、 ターンブルが 注 目して いる。現 時点 で 効 率性 を 評 価 することは、資 料 が十 分 に残 されてい ないため困 難 である.し か し、彼 女 が 指 摘 するよう に、処 遇制 度 の展 開 に関連 して重 要 なの は、19世 紀 半 ば になってか ら効 率 性 を疑 う声 が 出さ れ はじめ、 それが 海 峡 商人の 間で有 力 となった という事 実 であ ろう[Turnbull1970:97-99]。 28
南 ア ジァ研 究 第19号(2007年)
and to the Custody of Prisoners, 15 Nov. 1872, SSGG, 15 Nov. 1872, pp. 999-1003. 29 R
ules and Regulations framed by the Governor in Council under Ordinance No .XIV.of
1872, for the guidance of all persons concerned in the care and management of Prisons
and Prisoners in the Straits Settlements, 29 May 1873, enclosed in Ord to CO, 31 May 1873, CO 273, vol. 66, No. 7292. 30 具 体 的 に は 、 労 働 、 食 事 、 拘 禁 の 形 態 、 等 級 制 の 見 直 し な どが1870年 代 の 監 獄 改 革 の 中 心 的 な 焦 点 に な った[拙 稿2007]。 31 ほ ぼ 同 時 期 に ヨー ロ ッパ に お い て 新 派 刑 法 学 が 台 頭 した こ とも影 響 を与 えて い る可 能 性 が あ る が 、 この 点 を明 らか に す る こ とは今 後 の 課 題 と した い 。 32 な お 、 こ れ に よって、 自 由 な 人 口 か ら看 守 を採 用 す る必 要 が 出 て きた が 、採 用 条 件 が 良 くな か っ た た め に 応 じ る 者 が 少 な く、 当 局 は 常 に 人 材 不 足 に 悩 ま され た[Butcher 1979:23 ,47,157]。 政府関係文書
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植民地統治と監獄制度−19世 紀中葉の海峡植民地 における囚人の管理―
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