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四行の空間 : 'Western Wind'を想像的に読む試み(北川弘教授退官記念論文集)

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      四行の空間

‘Western Wind’を想、像的に読む試み 笹 尾 純 治 Westron winde, when will thou blow, The smalle raine downe can raine? Christ if my love were in my armes,       1) And 1 in my bed againe. 西風よ,お前はいつ吹くのか 細かな雨もそのとき降り注ぐだろうに ああ,愛しき人をこの両腕に抱き ふたたび寝床に入ることができたなら 便宜的に‘Western Wind’と一如ばれることの多いこのよく知られた四行詩 は,16世紀初め頃のものとされているある写本に残る,恐らくは断片であろう と思われる,作者不明の歌(当時の叙情詩は,ほとんどが曲に乗せて歌うため のものであった)である。断片の僅か四行であるとしてもそれは十分に鑑賞に 堪え,それどころかC.S. Lewisなどは, The quatrain ‘Western Wind’ need fear no rival in the Greek Anthology.  There is almost everything in it−weather, distance, longing, passion, and  sober home−felt reality. Many poets (not contemptible) have said less in 1) R. T. Davies (ed.), Medieval English Lyn’cs : A Critical Anthology (Faber & Faber, 1963), p. 291.

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84  北川 弘教授退官記念論文集(第294号)          エ  far longer pieces. と,絶賛を惜しまなかった。Lewisの言葉は少々大げさに思えるとしても,こ の詩は,その古さにもかかわらず,現代においても多くの人々の心を動かして 止まない小品である。しかし,僅か四行であるがゆえに,そして断片のように 思えることから,この詩の具体的理解は多く想像(あるいは創造)に委ねられ ており,その意味でこの詩は大きな広がりを持つ。その広がりの一端を捉えて みようとするのが拙稿である。 1  極めて平易な日常語による僅か四行であるが,語学的レヴェルでの解釈に問 題がないわけではない。そのレヴェルでは第1行と第2行のつながりが問題に なりうるのだが,普通は第2行の始めに‘that’(=so that)を補って読まれ る。別の解釈の可能性についてはIIで述べることにして,今はその解釈に従っ て考えてゆくことにする(冒頭の拙訳もそれに従って訳したつもりである)。  ‘that’を補って「雨が降るように」と読むことを保証する意味上の根拠は,言 うまでもなく春の西風と雨の連想である。イギリスでは,西風が吹くのは春だ けとは限らず,一年を通じて最:も多い風向きであるが,日本で春風と言えば菅 原道真の「東風吹かば………」が思い起こされるのと同様に,イギリスの春と 連想されるのは西風である。この春の西風は大西洋の暖流に乗って吹いてくる 穏やかな風で,冬枯れの大地を蘇らせる暖気と雨をもたらす。この雨も激しく 降るのではなく,心地よい細かな雨(‘smalle raine’)で,まさに慈雨と呼ぶべ きものである。このようにイギリスでは,春は穏やかな西風と心地よい雨と共 に訪れるのであり,その連想は極めて自然なもので,古来詩歌でもよく詠われ, 中でも真っ先に思い起こされるのがTlie Canterbury Talesの冒頭である。 Whan that Aprill with his shoures soote The droghte of March hath perced to the roote, 2) C. S. Lewis, English Literature in the Sixteenth Century (Oxford U. P., 1954), p. 223

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And bathed every veyne in swich licour Of which vertu engendred is the flour; Whan Zephirus eek with his sweete breeth Inspired hath in every holt and heeth       の The tendre croppes,... 四行の空間 85 四月がその心地よい村雨を 三月の乾きの根元まで滲み通らせ, 花を生じさせる水分で あらゆる葉脈を潤したとき, また西風もその優しい息を すべての雑木林や荒野で か弱い新芽に吹きかけ,……… このような連想の下地があるとき,‘Western Wind’の前半二行からは間違い なく<春を待ちわびる声〉が聞こえてくる。  その声を受けて立つ後半二行と前半二行との連関をどのように捉えるかが, この詩の理解の鍵となろう。 Christ if my love were in my armes, And 1 in my bed againe. この二行をどのように読むとしても,そこからはく恋人の不在を嘆く声〉が聞 こえてくる。そこまでは間違いない。しかし,その〈不在〉はどのような不在 なのだろうか。ただ何処か遠くの土地へ行ってしまっているだけだと考えるこ ともできる。もしそうだとすれば,前半二行との連関において,春になれば恋 3) F.N. Robinson (ed.), The ComPlete PVorks of Geoffre.v Chaucer, 2nd ed.(1957; Oxford U. P., 1974), P. 17.

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86  北川 弘教授退官記念論文集(第294号) 入が戻ってくるという(何やら〈出稼ぎ〉のような)筋書きが見えてこなくも ない。その場合,男の帰還を待ちわびる女の歌と考えるのがより自然であろう。 ‘love’という語は通例女性の恋人(つまり男性から見た恋人)を意味するが,男 性の恋人を意味することも(特に,女性が歌うのであれば)可能であるから, その読みは不可能ではあるまい。しかし,後半二行の〈不在〉は,単なる地上 的な別離であろうか。℃hrist’という叫びの沈痛な響き,仮定法の中に用いら れた‘againe’などを考え合わせるとき,その声はどのようにしてももうこ度 とできないことを嘆く声として聞こえてきはしないだろうか。そのような声と して捉えた場合でも,〈不在〉が地上的なものである可能性はある。しかしそう すると,前半二行の〈春を待ちわびる声〉との連関がうまくいかないように思 える。もし地上的な〈不在〉ではないとすれば,それはく死による不在〉でな くてはならない。  後半二行の〈不在〉をそのような不在として捉え,前半二行との連関を考え てみるならば,前半二行は単なるく自然界の春〉を待ちわびる言葉から,一気 に象徴的あるいは宗教的意味を帯びたものとなってくる。春は古来,洋の東西 を問わず,冬の〈死〉からのく復活・再生〉の季節と考えられてきた。イギリ スに春をもたらす西風と雨はまさに復活と再生をもたらすものとなるのであ り,The Canterbury Talesの冒頭の春雨と西風もそのようなものとして描か れ,そこでは復活のためのく血〉(‘bathed every veyne in swich licour’)と く息〉(‘breeth’,‘Inspired’)のイメージが用いられている。‘Western Wind’の 後半二行に〈死〉を読み取り,この〈復活〉の季節としての春を重ねてみると, 前半二行は単なる「春よ来い」ではなく,象徴的な〈春〉つまり〈死者の復活〉 の願いともなる。それはただ地上的な意味で西風が吹いて雨が降り,大地に春 が訪れればよいというものではない。その「西風」と「雨」の待望は,永遠に 訪れることがないかも知れぬ〈春〉=〈復活〉の待望となるのである。  前半二行に〈復活〉の象徴を読み取るとき,第3行の始めの℃hrist’も単な る「ああ」という詠嘆ではなく,文字通りの「キリストよ」という宗教的意味 が強く響いてくることになる。いや,話は逆で,その語の持つ宗教的意味が,

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       四行の空間  87 詩の中でのその語の中間的位置と相侯って,前半と後半を連関させる重要な働 きをし,それによって前半のく復活〉の含意が顕在化すると言うべきであろう。 後半に〈死〉を読み取る際に,℃hrist’に感じられる沈痛な響きを出発点とした のだから。  後半の〈不在〉を嘆く声を〈死〉を嘆く声として考えてみたが,その場合で も,死者は誰であるかということになると,二つの選択肢があるかも知れない。 ここまではく恋人の死〉を嘆く歌として考えてきたのだが,そう考えるほうが より自然であろう。その場合,後半二行は意味を続かせて,「恋人を両腕に抱 き,そのようにして私の寝床にふたたび入れたなら」と読むことになろう。し かし,第4行に第3行から多少独立した意味を持たせて読むことはできないだ ろうか。つまり,その場合も「恋人を両腕に抱きながら」ではあるかも知れな いが,「私の寝床にふたたび入れたなら」という言葉をもう少し強い意味に読 み,「私の寝床」が入りたくてももはや入れないものであるという含意を持たせ ることは不可能だろうか。仮にそう読むとすれば,第4行は,「(冷たい墓では なく)暖かい寝床にふたたび入りたい」という,死者のく生の世界への願望〉 である可能性がひょっとしたら出てくるかも知れない。その場合,‘Western       ヘ   ヘ   ヘ   へ Wind’の全体の四行は,恋人の復活を願う〈生者の歌〉ではなく,我が身の復 活を願うく死者の歌〉となろう。少なくとも,死者が歌ってはいけない道理は ない。ただ,この読みには少し苦しいところがある。〈眠り〉が時として〈死〉 のメタファーとなるように,〈寝床〉もく死の寝床〉つまり〈墓〉のメタファー になりうるという,今の読みとは逆の連想があるからだ(もっとも,その連想 の方向で‘Western Wind’を読むことはとてもできないが)。〈死者の歌〉とい うのはあくまで一つの可能性である。  〈死者の歌〉にこだわるなら,第4行に第3行から独立した意味を持たせず, 「恋人を両腕に抱き,そのようにして私の寝床にふたたび入れたなら」と続け て読んだ場合でも,〈死者の歌〉と考えることは可能であるかも知れない。しか し,それではく生者の歌〉ではなく<死者の歌〉としなければならない理由が なくなる。ただ,第3行と第4行を続けて読んだ上で〈死者の歌〉と解する際

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88  北川 弘教授退官記念論文集(第294号) の思考方向を始めに述べた(歌い手も「恋人」もまだ生きているという)地上 的レヴェルでの読みに適用するならば,新たな可能性が開けるかも知れない。 そこでは,遠くの土地へ行った男の帰還を待ちわびる女の歌という,春の訪れ と男の帰還を重ねた読みの可能性を,消極的ながら,述べたのであったが,〈死 者の歌〉の考え方をこの地上的レヴェルに引き下げて考えてみるなら,故郷を       ヘ  ヘ  へ遠く離れた男のほうが故郷にいる女を思って歌うという,春の自分の帰還を待 ち望む歌と解することもできよう(故郷を離れた女が歌うと解することも全く 不可能ではないが)。この場合,復活を願う〈死者の歌〉が男の〈望郷の歌〉に 変わる。その際,上のように第4行の「私の寝床にふたたび入れたなら」に独 立した意味を持たせたなら,それはほとんどノンセンスとなろう。いずれにし ても,ここでも一つの可能性を述べたに過ぎない。その可能性もかなり希薄に なってきたように思えるので,このあたりで別の角度から‘Western Wind’を 考え直してみよう。       II  1における読みはすべて,‘Western Wind’の第2行の始めに‘that’(=so that)が省略されていると考えて,「細かな雨が降るように」と読むことを前提 にしており,本稿の冒頭に引用したテクストに従う限り,第2行のそれ以外の 読みは不可能に思える。若干の異同がある他のいくつかのテクストを参考とし て挙げてみよう。 Western wind, when will thou blow,  The small rain down can rain ? Christ, if my love were in my arms  And I in my bed again!       4)        (E. K. Chambers) 4) E. K. Chambers (ed.), The Oloford Boole of Si[xteenth Centu7y Verse (1932 ; Oxford U. P., 1961), p. 40.

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Westron wynd, when will thou blow, The small rain down can rain ? Christ, if rny love were in my arms, And 1 in my bed again.        5)        (Geoffrey Grigson) 四行の空間 89 Westron winde, when wilt thou blow, The smalle raine downe can raine ? Christ if my love were in my armes, And 1 in my bed againe.       6)        (Edward Leeson) 本稿の最初に引用したテクスト(R.T. Davies)を含めて,これら四つのテクス トには,スペリングを現代風に改めてあるか否かという違いと,コンマ・感嘆 符の有無という程度のパンクチュエーションの違いがあるだけで,いずれも意 味に大きな差異をもたらすものではない。因みに,‘will’の二人称単数形は ‘wilt’であり,よってLeesonは‘wilt’を採用しているのであるが,この歌の場 合,語尾の[一t]の音が‘thou’の[δ一]の音に同化(assimilation)されてし まう。他の三つのテクストで‘will’となっているのは,その同化がスペリング に表されているのである。また,Chambersの現代風に改められ.た‘Western’ は,この歌本来の音を大事にするならば,‘Westron’のように発音すべきであ ろう。さらに音について考えるなら,第2行の‘The’は,もともと‘That’だ ったのが,歌い継がれてゆくうちにその弱音ゆえに‘The’と誤解されるに至っ たのではないかと推測してみたくなる。仮にそうだとすれば,第2行の始めに 5)Geoffrey Grigson(ed.), The Faber Boo々of五〇ve Poems(Faber&Faber,1973),p. 243. 6) Edward Leeson (ed.), The New Golden Trectsui y of English Ve7se (Pan Books, 1980), p. 2.

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90  北川 弘教授退官記念論文集(第294号)          ヘ   ヘ   へ 省略された‘that’を補って考える必要も,後に述べるような別の読みの可能性 もなくなるし,定冠詞がなくても第2行の意味は成立する。現行のように‘The’ とするならば,その定冠詞に何らかの意味付け(ここまでの第2行の読みでは, 「春の,春をもたらす」という意味になろうか)が必要となろう。  話が少し横道に逸れたが,上で比較した四つのテクストには意味に大きな影 響を及ぼすような異同はなかった。ところが,次に引用するテクストの場合は どうであろうか。 Westron wind, when will thou blow ?  The small rain down can rain: Christ, if my love were in my arms  And 1 in my bed again!       7)        (J. B. Trapp) 前の四つのテクストとの大きな違いは,疑問符の位置(及び,それに伴うコロ ンの使用)である。さらにこのテクストでは,第2行の‘can’に‘does’という 語注が付いている。恐らく事の順序は,‘can’を‘does’と解したが故に,疑問 符を第1行の末尾に移したのであろう。意味を考慮した上でのパンクチュエー ションの変更は,‘Western Wind’のような,写本によって残されている詩の 場合,ある程度は許されることである。それが正しく書き写されているとは限 らないからである。Trappによるパンクチュエーションのメリットは,第1行 と第2行が別個の文に分かれて,第2行の始めにわざわざ‘that’を補って考 える必要がなくなり,(so)that節に‘may’ではなく‘can’を用いるという16 世紀当時としては普通とは言えない語法(現代英語なら‘may’よりも‘can’ を用いるほうが口語的と言えば済むことであるが)を回避できるということで 7) J. B. Trapp (ed.), ‘Medieval English Literature’ in Frank Kermode & John Holland− er(gen. eds.),The()xford/lnthology(ゾEnglisla五iterature, vo1.1(Oxford U. P.,1973), p. 417.

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      四行の空間   91 ある。恐らくは,(so)that節に‘can’と考えた場合の落ち着きの悪さが, ‘can’ ‘does’と解させ,疑問符の第1行への移動を行なわせた原因なのであ ろう。  ‘can’を‘does’と解し,疑問符を第1行の末尾に移した場合,これまでの読 みとはどのように異ってくるのかを考える前に,そもそも‘can’を‘does’と 解することが可能なのかどうかを確かめておかなくてはならない。単語のあり もしない意味を勝手に作り出すことは許されないのだから。そこで0.E. D.を 引いてみると興味深い記述に出くわす。我々がよく知る‘can’の記述の次に,       へ   ぬ   へ それとは別の語で今は廃語となっている‘can’の記述が続き,その語源欄の中 に次のように書いてある。  It was in its origin a variant of gan, apParently merely phonetic;in later  times, when used as a simple auxiliary of tense, its identity with gan  tended to be forgotten;it was, from its form and construction, curiously  associated with the preceding verb cAN, and this occasionally led to a  forgetfulness of its being a past tense, and to the substitution of couth,  cozad, cozald, the pa. t. of that verb. Can prevailed in northern and north  midland poets ti11 the 16th c., and in the end of that century it was greatly  affected by Spenser and his fellow−archaists and followers. Its main  function is now filled by did, though the original gan is still a favourite  note of ballad poetry. つまり,この別の‘can’は本来‘gin’(=begin)の過去形‘gan’の異形であっ たが,その‘began’の意味は次第に薄れて,単なるく過去〉の助動詞(=did) として用いられるようになった。ところが,その語形と原形不定詞を従える助 動詞として用いられるということから,我々がよく知る助動詞‘can’と結び付 けられて,それが本来過去形であるということが時として忘れられ,その過去 形として‘could’が使われることもあった,ということである。そして,‘could’ を誤って〈過去〉の助動詞(=did)として用いた例を。. E. D.は挙げているの だが,それと同時に起こり得たかも知れぬ,‘can’を現在形と誤って〈現在〉の

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92  北川 弘教授退官記念論文集(第294号) 助動詞(=do)として用いた例は挙げていない。しかし,‘could’を‘did’の意 味で用いることがあったのなら,‘can’を‘do’の意味で用いることもあった のではないかと推測することは可能であって,Trappが‘Western Wind’の第 2行の‘can’を‘does’と解しているのは,その推測に基づくのではなかろう か。もしそうだとすれば,Trappはかなり危ない橋を渡っていることになる (あるいは,そのような例を実際に幾つか知っていたのかも知れないが)が, 少なくとも,‘can’=‘does’とできる可能性はあると言えるのではなかろうか。 その場合,この‘can’は我々がよく知る‘can’とは別の語で,正しくは‘did’       ヘ   ヘ   へ の意味なのに誤って‘do’の意味(主語が‘The small rain’だから‘does’)で 用いられたものということになる。  ‘can’を‘does’と解することを一応認めた上で,そのように解した場合 ‘Western Wind’にどのような意味の変化が起こり得るのかを,前半二行と後 半二行の連関を常に念頭に置きつつ,考えてゆくことにしよう。 Westron wind, when will thou blow ?  The small rain down can rain: Christ, if my love were in my arms  And I in my bed again! ‘can’がく現在〉の助動詞の意味で用いられているのだとすれば,‘can rain’と いうのは単に‘rain(eth)’である場合に比べて,幾分は〈現在〉の意味が強めら れるであろうし,また,当時の動詞の現在形は現代英語の現在進行形の意味も 持ち得たことを考え合わせるべきである。そうすると上の第2行は,「細かな雨 が今まさに降っている」という意味になり得るのではなかろうか。第2行をそ のように解するならば,春の西風と雨の連想を断ち切って前半二行を読むこと ができるかも知れない。本稿の始めのほうで,実際のところ西風は春にだけ吹 くわけではないと言ったが,同様に,「細かな雨」も春だけのものではないか ら,この読みは不可能ではない。Trappも,‘small’に‘thin, biting’という語

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       四行の空間   93 注を付けているから,この雨を冬の,あるいはまだ寒い初春の(秋まで戻る必 要はあるまい)雨と考えているようで,春の西風がもたらす心地よい慈雨とは 解していない。このように読んだ場合,春の訪れの象徴は「西風」だけが担う ことになり,「細かな雨」のほうは春の季語としての役割を失う。1でいろいろ 考えてみたように,〈春〉を恋人が帰ってくる(あるいは,歌い手が恋人のもと に帰ってゆく)単なる〈自然界の春〉ととろうが,死んだ恋人が復活する(あ るいは,死んだ歌い手が恋人のもとに復活する)〈象徴的な春〉ととろうが,春 の西風と雨の結び付きを断ち切った前半の読みを後半に続けることは可能であ ろう。その場合,「細かな雨」は,〈春〉の象徴を失うかわりに,後半二行の沈 痛な響きにより別の象徴を担うことになるように思える。つまり,「細かな雨が 今まさに降っている」というのは,悲嘆に暮れてさめざめと流す〈涙〉を暗示 することになるのではないだろうか。特に,〈春〉を〈復活の春〉ととる象徴的 読みにおいては,「雨」のく涙〉の象徴が前面に出てこよう。  しかし,「細かな雨」を〈春雨〉ととらず,春をもたらす西風と雨の連想の結 び付きを断ち切る上の読みは少々強引ではなかろうか。その連想を断ち切るに は,両者の古来の結び付きばあまりにも強い。従って,「雨」はやはり〈春〉を 含意するととるほうがより自然であろう。そうすると,前半の読みは,1での 読みがすべて「西風」と「雨」を共にいまだ訪れぬものと解していたのに対し,      ヘ   へ 今の場合,春の「雨」は既に降っているのに「西風」はいまだに吹かないとい う,自然の順序に矛盾する読みを施すことになる。しかし,春には西風が吹い て雨がもたらされるという自然の順序に矛盾するからこそ,新たな意味の可能 性が出てくるかも知れない。「西風よ,お前はいつ吹くのか。細かな雨は既に降     ヘ   へ っているのに」,つまり,「こうして既に雨が降っているのに,西風がまだ吹か        8) ないのはどうしたことか」と読むことはできないだろうか。この場合,自然の 順序に矛盾するのだから,ただ地上的レヴェルだけで読むのは無理であろう。 先ほどの「雨」=〈涙〉の象徴を前面に押し出すことになる(ただ,この「雨」 8)このように読めるとすれば,‘can’を‘does’ではなく正用法の‘did’の意味に解し,「細  かな雨は降ったのに」と読む可能性も出てくるかも知れない。

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94  北川 弘教授退官記念論文集(第294号) には心地よい〈慈雨〉のイメージはなくなる)。そして,「西風」はく春〉すな わちく復活〉そのものとなる。このような象徴的レヴェルで‘Western Wind’を 仮に読んでみるなら,「復活の日はまだなのだろうか。こうして私は泣き暮らし ているのに。ああキリストよ,私の愛しい人を………」というような感じにな ろうか。このような象徴的読みでは,上に述べた春の西風と雨の連想を断ち切 った場合の象徴的読みとあまり変わらなくなることは確かである。ただ,その 強引な断ち切りを避け,春の西風と雨の連想を保持することにより,「………の に」という気持ちが加わり,それだけいっそう待ち焦れる気持ち,懇願する気 持ちが増すと言えようか。  象徴的レヴェルに少し気を取られ過ぎたが,(1での象徴的読みも含めて)象 徴的読みを施す場合に気を付けなければならないのは,‘Western Wind’は自 然の大地に根をおろした詩であるということである。つまり,それを象徴的に 読むとしても,3行目で‘Christ’という叫びが即せられて初めてそのような象        9) 徴的レヴェルに上昇してゆくのであって,あくまで前半二行の自然界のレヴェ ルを見失ってはならない。従って,象徴的に読む場合でも,実際に自然界の春 を待ちわびる気持ちを,その程度はどうであれ,前提とすべきであろう。その 点で,上に述べた自然の順序に矛盾する読みには少し苦しいところがある。や はり,自然的・地上的レヴェルと象徴的・宗教的レヴェルがオーヴァーラップ するような読みが,‘Western Wind’の最:も豊かな読みではなかろうか。それ と,IIで述べた読みはすべて, Trappによる‘can’=‘does’と解した上での疑問 符の移動という(危なっかしい)テクスト操作を前提とした読みであることを もう一度言っておかねばならない。 III ここで想像的というよりは創造的(あるいは捏造的!)読みを付け加えさせ 9)これは読み手の反応に即した言い方で,詩そのものの内的連関については,前半には初 めから既に〈復活〉が含意されていて,その含意によって後半の復活の願望へと自然に繋 がってゆく,と言うべきであろう。また,歌い手の気持ちに即した言い方をするならば, 自然界の春を待ちわびる気持ちと復活の願望は初めから融合している,と言えよう。

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       四行の空間   95 個頂こう。孫引きの類になるが,IIの始めで引用したGrigsonの‘Western Wind’のテクストには,‘A fragment of a night−visit song recovered in modern form from a Dorset singer (59A in James Reeves, The Everlasting      10) Circle,1960).’という注が付けられている。Reevesの本が手に入らないので詳 しいことは分からないが,‘anight−visit song’というのは「夜に恋人のもとを 訪れて歌う歌」ということであろう。そうだとするならば,これまでの‘West−        11) ern Wind’の詩のイメージがかなり変わってきて,男が夜に恋しい女のもとを 訪れて切なく歌いかけるという情景が浮かんできたりもする。そうすると, ‘Western Wind’を非常に俗なレヴェルで読んでみたい衝動に駆られる。しば らくその衝動に身を任せてみることにする。  ルネッサンス時代の恋愛詩によく出てくるトポスとして,女性に振られるこ と,あるいは,恋人同士が別れることはく死〉であるという考え方がある。‘West− ern Wind’より時代は後の1600年前後に書かれたものだが,その考えを利用し た〈振られ男の恨み節〉を一例として挙げておく。 When by thy scorne, O murdresse, 1 am dead,   And that thou thinkst thee free From all solicitation from mee, Then shall my ghost come to thy bed, And thee, fain’d vestall, in worse armes shall see ;       12)       (John Donne, ‘The Apparition’, 11. 1−5) この人殺し女め,お前の侮蔑で俺が死に, お前が俺の口説きから 10)Grigson, p.376.       へ 11)「夜の訪問」ではなく「夜が訪れること」ならイメージが合うのだが,‘night−visit’はそ  のような意味になり得ない。 12)Helen Gardner(ed.),John Donne’The Elegies and The Songs and Sonreets(Oxford  U.P.,1965),p.43.

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96  北川 弘教授退官記念論文集(第294号)   すっかり解放されたと思うそのときに,   俺の亡霊がお前の寝室へ行き,   お前が処女を装って,もっとひどい男の腕に抱かれる様を       見ることになるだろうよ これは少し痛烈な内容の例であるが,このような「女性に振られることは死で ある」という考え方はルネッサンス時代の恨み節・嘆き節によく出てくる。ペ トラルカ(1304−74)を起源とする一つの文学的慣習(literary convention)な のである。そのような考え方の中に‘Western Wind’を仮に置いてみると,1 ・IIで述べたような象徴的・宗教的読みを一気に非常に俗なレヴェルに引き下 げることができる。しかし,それを具体的に述べる前に注意しておかなければ        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ ならないのは,‘Western Wind’は依然中世的な歌であり,イギリスのルネッ          ヘ    ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ サンス的恋愛詩とは時代が少しずれるということである。すなわち,‘Western Wind’が既に歌われていた16世紀初期というのは, Thomas Wyatt(1503−42) とHenry Howard, Earl of Surrey(1517?一47)がペトラルカの詩を(そのソ ネット形式と共に)イギリスに紹介する少し前であり,ペトラルカの影響を直 接間接に受けた恋愛詩がイギリスで書かれるようになるのはその後のことであ る。始めに創造的もしくは捏造的読みと言った所以である。そのような読みを 敢て企てるのは,〈読み〉という行為においては読み手のあらゆる経験・知識が        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 動員されるのであって,詩そのものの内部ではなく外部(それも直接の関係が ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   へ ない外部)から持ち込まれた読みの可能性も,時として意味を持ち得るのでは ないかと考えるからである。少なくとも,実際の読みの行為においてそのよう な読みが占める割合は小さいとは言えない。  そこで,‘Western Wind’の象徴的・宗教的読みと「女性に振られることは死 である」という考えを重ねてみると,文字通り〈死者の復活〉を願う歌が比喩 的なく死者の復活〉を願う歌,つまりは,〈自分に冷たくなった女に愛が戻って くること〉を願う求愛歌となる。その場合,〈死者〉は女に振られた歌い手自身 である。また,敢て奇想(conceit)を押し進めるならば,〈復活〉をもたらす「西

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       四行の空間  97 風」は女の〈愛の囁き〉(厳密に言うと,呼びかけられている「西風」=〈相手 の女〉,「西風が吹く」=〈女が愛を囁く〉),それが降らせる「雨」は男の〈感 涙〉となろうか。何だか女々しい男になってくるが,このような男はルネッサ ンスの恋愛詩の中にはいくらでも出てくる。一つのコンヴェンションだからで ある。あるいは,「西風」と「雨」を,女が男に〈詫びる言葉〉とそれと同時に 女が流す〈涙〉と考えてもよい。あるいは,IIでの読みを適用して,「こうして 既に雨(=男の涙)が降っているのに,(それに先立つはずの)西風(=女の愛 の囁き)がまだ吹かないのはどうしたことか」という風に読んでもよい。また, 「ふたたび自分の寝床に入りたい」という第4行には,夜な夜なく亡霊〉のよ うに女のもとへやって来て自分のベッドで眠れない,恋心に苛まれた男の姿が 浮かんできたりさえする………  ‘Western Wind’を読んで誰もが感ずるであろう深い情感を損なうこのよう な読みには,ばかばかしいという思いを否めないが,俗なレヴェルに下げると はそういうことである。Grigsonの注にある‘a night−visit song’という言葉か ら,夜に明かりのともった女の部屋の下で男が自分の切ない思いを歌いかける, というような情景を思い浮かべるとすれば,時代の違いを無視しているとはい え,そのような読みも全く不可能とは言い切れないのではなかろうか。逆に言       13) うと,そのような情景を思い浮かべなければ,ただのこじつけである。  コンシートを導入して論理の整合性はつけたが,上のような俗な読みに最も      ヘ   ヘ   へ 抵抗を示す舟中の言葉は℃hrist’という叫びである。この言葉の響きは重く深 い。それは文学的技巧とは相容れないような響きである。上で言った「‘West− ern Wind’を読んで誰もが感ずるであろう深い情感」は,この‘Christ’という 13)なお,ペトラルカには,自然界に春が訪れても恋しい女性を亡くした詩人にはもはや春  の訪れはないことを詠ったソネット(Rime, CCCX)があることも,同様の読みの参考にな  るかも知れない(このソネットにはSurreyの翻案がある)。因みに,そのソネットは  ‘Zefiro torna’(=Zephyr returns)という言葉で始まる(このような言葉上の連想を誓い  てゆけば切りがないが)。もっとも,そのようなspring songとlove complaintの伝統は,  イギリスでも中世に遡るのであり,‘Western Wind’もその伝統の中にあると考えるべき  であろう。

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98  北川 弘教授退官記念論文集(第294号) 一語にその多くを負うていると言って過言ではない。その言葉の響きを敢て無 視した俗な読みは,所詮,読み手の戯れに過ぎないのかも知れない。 結語  以上,‘Western Wind’の四行をもとにいろいろな読みを試みたが,どのよ うに読むにしろ常に念頭に置いていたのは,前半二行の〈春を待ちわびる声〉 と後半二行のく恋人の不在を嘆く声〉の連関である。その連関が生じないと思 われる読みは排除した。以上の読みの中で,詩全体のトーンなどを考慮に入れ た上で,その連関が最もうまくゆくように思える読みは,〈恋人の死〉を想定し て‘Christ’の持つ宗教的意味を詩全体に及ぼし,前半二行に〈死者の復活〉と いう象徴的意味を持たせる,という読みである。その場合でも,前に述べたよ うに,自然界のレヴェルを見失ってはならない。それは,〈自然界の春〉を実際 に待ちわびる気持ちをあくまでも基盤としつつ,それに〈恋人の復活〉の願望 を重ねてゆくような読みである。そのように自然界のレヴェルと象徴的レヴェ ルを総合してゆくときに,この詩は最も見事な姿を見せるように思える。しか し,IIIのような読みはともかくとして,この詩の読みを限定する必要など全く ない。さまざまな読みの可能性を孕んでいるのがこの詩の,いや詩というもの の,いや,更に言うならば,〈テクスト〉というものの,空間の在りようなのだ から。  前半と後半の連関と言ったが,ひょっとしたら,そのようなものを求める必       14> 要もないのかも知れない。まだまだ読みの可能性はありそうである。しかし,       ヘ  へ拙稿の目的が,‘Western Wind’の四行が持つ大きな広がりの一端を捉えると いうことであったのだから,的外れもあったかも知れないが,以上で一応事足 れりとしよう。ただ,こうして読んでくると,始めに引用したC.S. Lewisの 言葉が大げさに思えなくなってくるのは確かである。 14)前半が暗示する冬の〈寒さ〉が恋人のくぬくもり〉を思い出させる,ということに過ぎ  ないのかも知れない。それも一種の連関と言えなくもないが。

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