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横研究ノート_鈴木先生

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<研究ノート>

ナチ生成期のエーリック・ヴォルフ

─ ラートブルフの反ナチ論考との対峙 ─

鈴 木 敬 夫

Summary

In critiquing the legal system of the Third Reich, German legal scholar Gustav Radbruch (1878-1949) posited “conflict of positive law” (gesetz-liches Unrecht)* as a key characteristic of the Nazi government.

However, this “conflict of positive law” may, in fact, may be related to the concept of “legal certainty” (Rechtssicherheit) that Radbruch himself advocated, and furthermore, Radbruch may bear some of the theoretical responsibility for its incorporation by his protégé Erik Wolf (1902-1977) into the law-disregarding Nazi regime. On the whole, this essay inquires into the particulars of the legal positivist position that Radbruch upheld. In his magnum opus Rechtsphilosophie (Philosophy of Law, 1932), Radbruch argued that a judge that should be “the servant of legal certainty” rather than “the servant of justice,” and strengthened the

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clearly represents the naturalistic and positivistic tendencies, and the Neo-Kantian axiomatic tendency, in judicial methodology. However, in Germany after its defeat in World War I, the ideological values and ideals advanced by Neo-Kantianism did not provide a viable path to regaining ethnic pride. Julius Binder (1870-1939), whose ideas were originally rooted in Neo-Kantianism, was quick to change his position to the Neo-Hegelian philosophy of law in 1933 when the Nazis came to power, and stated that “the spirit of the German people is the concrete and universal foundation of the German state and its laws.”

The criminal law scholar Erik Wolf was one of those influenced by this mode of thought. Wolf clearly discarded the Neo-Kantianism that he inherited from his teacher Radbruch, interpreting the criminal offender as a type of person who harms the interests of “the people's community,” and arguing that whether or not to impose punishment should be based on the value judgments of the people's community. For him the sole standard for Richtiges Recht (“true law”), that is, the actual law governing the state, was the Nazi law of the Third Reich. Furthermore, he regarded judges, who Radbruch saw as “the servants of legal certainty,” as the “plenipotentiary of the people's community” (Beauftragter der Volksgemeinschaft), which must unquestionably support the Nazi rule of law.

At a time when freedom of thought and expression were severely restricted, Radbruch wrote numerous essays opposing the Nazi regime. Among them was Cicero in German: On Johann von Schwarzenbergs Translation of De Officiis 〔On Duties〕 (Cicero deutsch: Zu Johann von Schwarzenbergs Officien–Übersetzung, 1942), Which contains the follo-wing passage: “A tyrant, or a mad dog on the rampage: He who kills them is to be praised and honored.” Cicero was supporting the

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assassination of the tyrannical Caesars, and Radbruch cited this viewpoint in this essay, while Wolf welcomed the rise of the dictator Hitler. What role did relativist theory play in the works of these three men? 目 次 序.価値に盲目的な人びと Ⅰ.行為者本質論 Ⅱ.民族共同体の全権委員 Ⅲ.ラートブルフの反ナチ論考二題……自分を支える者の口に鍵をかけ、その 心を抑圧する暴君に、一人の暗殺者がしのび寄る(シュヴァルツェンベル ク)…… 結びに代えて.ナチ法理念としての⽛名誉⽜

序.価値に盲目的な人びと

法哲学者ラートブルフ(Gustav Radbruch, 1878~1949)の門人ヴォ ルフ(Erik Wolf, 1902~1977)が、ナチス時代に執筆した二つの論文、 すなわち⽛ナチス国家の正当な法⽜(Richtiges Recht im nationalsozialis-tischen Staate, 1934)(1)、⽛ナチス国家の法理想⽜(Das Rechtsideal des

nationalsozialistischen Staates, 1934/1935)(2)は、ナチスの不法体制に法 哲学的に与した論文として知られる。以下は、これらの論文が価値相対 主義者ないし実証主義者の一面を有していたラートブルフの理論と、は たしていかなる関係にあるのかを素描し、とくに当時著されたラートブ ルフの反ナチ論文との関係を問うものである。 まず、論文⽛実体的決断主義 ─ ナチズムにおける法哲学の機能につ いて ─ ⽜を著したロットロイトナー(H. Rottleuthner)は、つぎのよう に E. ヴォルフを断じている。1933 年以降、⽛きわめて激情的であったナ チス支配体制の最初の数年に、周知の非合理主義をもって国家革命を祝 い、本当の価値陶酔のうちに、新しい運動において最高の理念が実現さ 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 五 九 (一 二 三 )

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れているのを見た人びとであった。私はこのグループを“価値に盲目的 な人びと”と呼びたい。それは通常の意味とまったく違った意味で価値 に盲目な人びとであり、彼らの気高き背後にあるナチズムの真の現実を さらに認識することができなかった。そのうえ、1934 年から 38 年にか けてこのナチズムがそのヴェールを引き裂いたにもかかわらず、彼らは その純粋な価値思考に固執し、それゆえ(彼らの価値から単なる離反と してしか、彼らの価値の倒錯としてしか分析する以外)ナチズムの現実 を分析することができなかった。……このグループを代表する者は、E. ヴォルフ、ザワー(W. Sauer)、エムゲ(C. A. Emge)であった。彼らは すべて、短期間にせよ、長い期間にせよ、その支配体制への教養層から 讃美歌を送った。彼らはその支配体制をなによりも文化的革新として解 釈した。彼らは 1933 年のナチスの措置を、豊饒なる西洋の文化財から 高尚な言葉を選んで正当化した⽜と(3) それでは、⽛価値盲目的な人びと⽜の一人に数えられたヴォルフの法理 論とはどのようなものか。すでにヴォルフの周囲には、ナチス法理論に 法哲学的基礎を提供したビンダー(Julius Binder)の新ヘーゲル主義が 謳歌しており(4)、いち早くナチスの御用学者としてキール大学の学長に 昇りつめた兄弟子ダーム(Georg Dahm)(5)が傍に鎮座していた。加え て、ナチ学長ハイデガーの腹心としてヴォルフはフライブルク大学法学 部長に就任した(6)。このような環境の下で、ヴォルフはナズムを受容す る論文を著した。次の⚒論文は、1932 年から 33 年にかけてナチスを迎 えた彼の考え方を如実に表記している。

(⚑) Erik Wolf, Richtiges Recht im nationalsozialistischen Staate, Freiburger im Breisgau Fr. Wagnersche Universitätsbuchhandlung 1934. この論文の拙 訳が⽝専修総合科学研究⽞専修大学緑鳳学会、第 26 号(2018)101 頁以下。 (⚒) Erik Wolf, Das Rechtsideal des nationalsozialistichen Staates, ARSP Bd.

28 (1934/35), S.348ff.

(⚓) Hubert Rottleuthner, Substantieller Dezisionismus-Zur Funktion der

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Rechtsphilosophie im Nationalsozialismus, ARSP Beiheft 18 (1983), S.32;⽝法、 法哲学とナチズム⽞H. ロットロイトナー編、ナチス法理論研究会訳(みすず書 房、1987)50 頁。

(⚔) ビンダーは⽛法規範としての名宛人は臣民ではなく裁判官である⽜とする。 (Rechtsbegriff und Rechtsidee, Leipzig 1915. S.190)このように、法を概念的

に国民から切り離して、法を適用ないし執行する公務員にのみ関連させる見 解は、まさに規範主体を裁判官とみる立場であって、法実証主義へと接近する 立場である。竹下賢著⽝実証主義の功罪⽞(ナカニシヤ出版,1999)105 頁。 (⚕) ダームは、ラートブルフの筆頭弟子として知られる。この師弟関係につ いて常盤敏太の証言がある。日本の門人常盤敏太は、⽛…ダームが今を時めく キール大学教授として招聘されるまで、ラートブルフがみたダームの地位お よび経済上の面倒は、至れり尽くせりのものであった。…それが何故に師に 弓を引いたか。…これは時代が彼を無理やりに英雄にしたというより説明の しようがない⽜と記した。常盤敏太⽛ラートブルッフを中心として⽜(1934)、 鈴木敬夫編⽝ラートブッルフ・魔笛の刑法⽞(鳳社、1977)253 頁。なお常盤敏 太の著作がもつ戦時下の一面について、拙論⽛戦時期における相対主義の受容 と変容…G. ラートブルフの所説をめぐって⽜⽝専修総合科学研究⽞前掲第 23 巻(2015)25 頁以下を参照。

(⚖) Hugo Ott, Martin Heideger-Unterwegs zu seiner Biographie, Frankfurt /New York: Campus Verlag, 1992 (Reihe Campus; Bd. 1056), S.226.

Ⅰ.行為者本質論

ヴォルフには、刑法分野の論文⽛行為者の本質に関して⽜(Vom Wesen der Täters, 1932)(7)、⽛刑 法 改 正 の 危 機 と 再 建⽜(Krisis und

Neubau des Strafrechtsreform, 1933)(8)がある。さらに既述したナチス

国家に対して法哲学的基礎を与えたとされる論文⽛ナチス国家における 正当な法⽜、⽛ナチス国家の法理想⽜があげられる。これらは、実証主義 を説いたラートブルフの理論的影響を否定できなくはないが(9)、どちら かといえば、むしろヴォルフ自らが国家主義的なナチズムに親近感を もって構想し、真に⽛総統⽜を指導者と⽛確信⽜して執筆したのではな いか、と思われる節が随所に展開されている。それは、以下に素描する 彼のナチス国家論を垣間見れば判然とするであろう。 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 六 一 (一 二 五 )

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まず、別に掲載した拙訳論文のいわゆる⽛ナチス的な裁判官の理想⽜ を念頭に、ナチスにとって理想とされる裁判官が、いま判決を迫られた 場合、彼は行為者ないし犯罪者に如何に対処し判決すべきか。その結論 を先取りしよう。ヴォルフは、犯罪行為者を⽛民族共同体の利益を害す る者⽜の類型として把握し、科刑は民族共同体における価値判断に立脚 すべきことを力説して、ナチ政権下の判決に大きく貢献したのである。 いま彼の刑法観にみる可罰論を概観して、それが⽛ナチス国家の法理想⽜ に連なる行程を探ろう。 ヴォルフは、G. フッサール(G. Husserl)の影響の下に論文⽛行為者の 本質に関して⽜(Vom Wesen des Täters)を著し、刑罰を科される対象 者の本質に、⽛情操頽落⽜(Gesinnunsverfall)という観念を提起してい る(10)。ヴォルフにとって、人間は法的共同体の形成主体であり、共同体 の法規範を遵守する法的人格者にほかならない。人間によってなされる さまざまな意思活動、その連続性、統一性、人格性つまり⽛情操⽜ (Gesinnung)が、法を遵守する性質を有するときに、人間は法的人格者 としての適性をもつとされる。換言すれば、⽛法に合致する情操⽜(re-chtliche Gesinnung)こそが、人間をして法人格者たらしめる。もし情操 が法に背反するとすれば、彼は法的人格者たる地位から脱落することに なる。ヴォルフは⽛彼の法的情操が突発的あるいは継続的または部分的 かつ全体的な頽落の傾向を示顕する者⽜が犯罪行為者であり、彼は⽛法 的人格者たるべき一切の態度に乖離し、堕落を重ね、やがて頽落し (verfallen)、もはや法的存在者たりえない」(11)という。この理論は、人 間の⽛内的傾向⽜に注視し、法的共同体への寄与を人格と結びつける実 質、いわば彼の法的生活の実質的先験性(die materialen Aprioritäten des Rechtsleben)の面から行為者の法的概念を把握しようとするもので ある。まさに法的共同体の成員に先験的に観念される頽落可能性 (Verfallsmöglichkeit)を刑法的概念にまで高め、刑罰賦科の対象者の本 質に据えることを意味する(12) この⽛行為者本質論⽜では、明らかに行為者主義の原理が前面に押し ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 六 二 (一 二 六 )

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出され、行為主義と罪刑法定主義の破壊が現実のものとなろう。まさに 情操頽落者に対する評価と段階づけが、およそ裁判官に開かれたものと ならざるを得ないからである。情操頽落論には権威主義刑法への展化が みられる。ヴォルフの⽛ナチス国家の法理想⽜論にいう⽛民族共同体の 全権委員⽜としての裁判官の権威は、いきおい民族共同体のもとにおけ る行為者概念に反映され、その行為者類型は、民族共同体利害を害する 者の類型如何に把握され、科刑は民族共同体における価値体系に立脚し た裁量を促す。その結果、終に行為者類型は一元的なものに還元されて しまい、ナチズムの立場から価値判断され、民族直観に反する人格的存 在であることが科刑の根拠になる(13)。ヴォルフはいう。⽛民族社会主義 国家では、犯罪は、第一に抵抗と反逆として現れる……行為者は不服従 な法的共同体の成員であり、彼の法的情操の頽落が非難される⽜とし(14) そして⽛被害者の同意を正当化事由から抹消すること」(15)を要求してい る。この立場は、罪刑法定主義の廃止へと繋がるものであった。こうし た裁判官の営為は、ナチス国家を敵視する一切の行為に対する判決に如 実に表れたことは、後の人民法廷の判例がその典型であったといえよ う(17) (⚗) ヴォルフの主著ともされる⽝行為者の本質に関して⽞(1932)は、わずか 36 頁の小冊子ある。この前年に記された⽛構成要件該当性の類型⽜(Typen der Tatbestandsmäßigkeit, 1931)がある。これらの先行研究としては、大谷 實⽛人格責任論の準備的研究 ─ Erik Wolf の見解を中心として⽜⽝同志社法学⽞ 第 73 号(1963)21-49 頁。さらに同著⽝人格責任論の研究⽞(慶応通信、1972) 99 頁以下が挙げられよう。筆者はヴォルフの人格責任論の難解な原文につい て、大谷實教授から懇切なご教示を得ている。拙論⽛ナチス国家における正法⽜ について…エーリック・ヴォルフ没後 40 年…⽜⽝札幌学院法学⽞第 34 巻第⚒ 号(2018)1-60 頁、とくに 9-21 頁以下。 (⚘) 林鳳鱗は早くも 1934 年に、この論文は⽛個人主義的自由主義的要素を排 して、民族国家的権威主義的要素を刑法の根本精神に取り入れ、国家(国民社 会主義的)と人格者を刑法の基礎価値として、すべての刑法上の基礎観念(違 法性、責任、保護法益、刑罰の目的等)を此の二者の関係において観念すべき 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 六 三 (一 二 七 )

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ものとなすものである。…我々はさらに広い立場からヴォルフの思想を批判 すべきであろう⽜と批判した。同⽛エリク・ヴォルフ 刑法改正の危機と再建⽜ ⽝法政研究⽞第⚔巻第⚒号(1934)12 頁。

(⚙) ラートブルフは、自らの⽛相対主義が、実証主義と結びつく⽜ことを前提 としている。Radbruch, Der Relativismus in Rechtsphilosophie, 1934, GRGA III, S.18.

(10) ヴォルフの行為者本質論がフッサールから影響を受けたものとする立場 について、大谷實教授は、独自の見解を展開している。つまり、フッサールが ⽛法を認容する意思情操の頽落⽜(Verfallen der rechtbejahenden Willens-gesinnung)は、⽛法の頽落⽜を意味し、⽛犯罪を法の頽落現象として認識して いる⽜ことを指摘して、これは⽛行為者人格の頽落⽜を以て情操頽落の本質と は解していない、という。フッサールとヴォルフとは、この点で立ち位置を異 に す る と い う も の で あ る。G. Husserl, Recht und Welt, 1929., S.123-128, S.142;大谷實前掲⽛人格責任論の準備的研究⽜34 頁。

(11) E. Wolf, Vom Wesen des Täters, S.26-27;大谷實前掲⽛人格責任の準備的 研究⽜32 頁。

(12) 大谷實教授はまさにこの点において、ヴォルフとボッケルマンの結節点 をみている。Bockelmann, Studien zum Täterstrafrecht, II. Teil, S.122-127. ⽛ボッケルマンの人格責任論⽜⽝同志社法学⽞第 64 号(1961)120 頁以下。 (13) これが、まさにヴォルフの⽛行為者本質論⽜の帰結であるといえよう。彼 が、時勢に便乗してナチ刑法に拍車をかけた経緯をはっきりと描写して、大谷 實前掲⽝人格責任論の研究⽞112 頁以下。ただ筆者は本稿では、⽛行為類型論⽜ と必然的な関連にある⽛行為者類型論⽜に立ち入らない。ただ、行為類型と行 為者類型は必然的な関連にあり、後者は論理必然的に前者を予定することに なるが、しかし行為類型に該当させる、この⽛情操頽落者⽜に対する評価と段 階づけは、明らかに⽛裁判官に開かれたもの⽜になったであろうことを指摘す るだけに留めたい。

(14) E. Wolf, Tattypus und Tätertypus, 1936, ZAkDR., S.362. 大谷實前掲⽝人 格責任論の研究⽞110 頁。

(15) E. Wolf, Krisis und Neubau der Strafrechtreform, 1933, S.38.;前掲カウフ マン⽛法哲学とナチズム⽜15 頁。 (16) 常盤敏太著⽝ラートブルッフ⽞(鳳社、1967)100 頁。いわく⽛ナチ刑法は、 意思主義刑法と危険主義刑法との立場を混淆し、他方、応報主義をゲルマンの 瀆罪感・道義観より復活させながら、その当然の帰結たる結果主義を排斥する 等、ナチ刑法は刑法として生まれたのではなくして、暴君の恣意の剣として造 られたという感を深くする⽜とは、当時ドイツに滞在した者のナチスに対する 証言である。 ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 六 四 (一 二 八 )

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(17) Helmut Ortner, Der Hinrichter Roland Freisler—Mörder im Dienste Hitlers, Normen Verlag, Frankfurt am Main 2014, S.173ff.;ヘルムート・オル トナー著⽝ヒトラーの裁判官 フライスラー⽞須藤正美訳(白水社、2017)168 頁以下。ここには、⽛民族の名において⽜(Im Namen des Volkes)人民法廷が 言い渡した 5243 件の死刑判決のうちの主要な 10 判決が、⽛ささやかで罪のな い体制批判に対する当時の狂信的な不寛容さの証として⽜掲示されている。 これに対して、戦後 60 年間において、ドイツ司法機関がナチ犯罪人に対して 講じた措置は極めて軽いものであった。⽛ドイツ領内⽜に限って行われた犯罪 (占領諸国での犯罪は除外された)に対して被疑者 17 万⚒千人、そのうち⚓万 ⚖千人が裁判にかけられた。ほとんどが⽛証拠不十分⽜で無罪となり、有罪と なったものは僅か 6756 人である。そのうち謀殺罪を問われた者は 204 人で、 終身刑を言い渡された者は 166 人、死刑の判決を受けたのは⚖人であった。 ただ⚔人に死刑が執行されたに過ぎない。本田稔教授は訳稿を通じて、戦後 ドイツにおけるナチ犯罪人処罰の驚くべき“不寛容な実像”を詰問している。 ⽛刑法によるナチの過去の克服に関する三つの論考⽜本田稔訳、⽝立命館法学⽞ 第 379 号(2018 年第⚓号)141 頁。とくにトム・セゲフの論文⽛事件は幕を閉 じた。しかし、まだ終わっていない。⽜(Tom Segev, Der Fall ist abgeschlos-sen-aber unvollendet, 2009)

Ⅱ.民族共同体の全権委員

別掲の拙訳ナチ下の裁判官像は、論文⽛ナチス国家における正当な法⽜ に比し、わずか⚑年の後に展開されたものである。そこには、ナチスの 冠をいただいた C. シュミットに傾斜した姿がみられる。彼は、シュミッ トの掲げる⽛国家それ自体が政治的な統一体であり、それはときに民族 として、ときに国家として、ときに政治運動として現れる⽜とする所説 に依拠して(18)、ラートブルフが⽛法的安定性の僕⽜とみた裁判官を⽛民

族共同体の全権委員⽜(Beauftragter der Volksgemeinschaft)に位置づ けて、これに確かな⽛権威⽜を付与している。これは、ビンダーが⽛法 規範の名宛人は臣民ではなく裁判官である⽜とみる立場(19)、規範主体を 裁判官とする国家主義的な見方に沿っているといえよう。加えて、ヴォ ルフのいう裁判官像は、⽛法的等族資格⽜(Rechtsstandschaft)を有する、 民族共同体の⽛法的共同体成員⽜(Rechtsgenossen)でなければならない 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 六 五 (一 二 九 )

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ことを強調した(20)。そこにはラートブルフの相対主義における平等な 法主体が担う⽛法的安定性の僕⽜とは、凡そ似ても似つかぬ権威化した 裁判官像が示されている。 いわく⽛今日の立法者と政府との同一性によって、国家統治の指導原 理による裁判官の権威主義的指導が確保されており、それが裁判官に対 して、その自由裁量の枠内においても堅固なよりどころを与えるためで ある。まさにそれによって、総統の意思のあらゆる行為が法形式に表現 されること、そしてそれによって民族に存在する法的安定性の欲求が充 足されることが保証されている。その限りにおいて、ナチズム国家も“法 治国家”なのである。しかし、それは理解しがたい多様な形態の、結局は 無責任な立法者をもつ、形式的な実証主義の条文第一主義国家という意 味においてではなく、実体的な法治国家、すなわち実体的な民族と結び ついた司法の国家である。このような国家にナチズム的な裁判官の理想 像として出現するのが、民族共同体の全権委員である裁判官なのである。 裁判官の自由は、恣意によっても、形式主義的かつ抽象的な法的安定性 の原理によっても狭められることはない。むしろ制定法の中に表現され た、総統によって体現される民族の法的直観によって揺るがぬ基準を与 えられ、それによって必要であれば、制限される。我われはこの規制に 信頼をおいてよい。というのも、抽象的な法の制定法形式が、すべての 法共同体成員の感情と意欲の心情的な一致を可能とするほど十分には、 判決の独立性と安定性を確保できることはないであろうからである⽜ と(21) ヴォルフは先の論文で⽛正当な法とは……第三帝国におけるナチズム の法のみである⽜と宣言し(22)、正当な法の実践として、公益性と犠牲心 を強調したのだった。⽛公益的な権利行使の要求は、法共同体成員の血 の中で生き続けなければならい。まさに各人が法を愛することが必要で あり、そのさい自らの権利を犠牲にする覚悟が必要である⽜と(23)。この 論文では、法命題を形づくる⽛権威⽜に⽛正当な法⽜を当てているが、 ⽛法理想⽜論では、総統によって体現される民族の法的直観、それによる ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 六 六 (一 三 〇 )

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法解釈と適用の一切を⽛裁判官に全権委任⽜している。この立場は、キー ル学派と称された同じくラートブルフの門人 G. ダームの⽛実際には、ど のような法律でも総統の決断による⽜から、⽛総統が唯一の立法者である⽜ とする言説(24)と軌を一にすること明らかである。そこには⽛法的安定 性の僕⽜であった裁判官が、総統の意思に則して⽛法的安定性⽜ですら ⽛排除する⽜(beseitigen)ことを是とする道が拓かれている。刑事司法手 続きにおける⽛弛緩⽜(Auflockerung)の観念に身をおくことによって、 ヴォルフは⽛法的安定性⽜の頸木から自由になった(25)。それはすべての 裁判官は、法の理念とされた法的安定性を放棄して⽛総統の意思⽜へ還 元することを志向していたといえよう。 (18) ヴォルフは、シュミットから⽛国家は、決して民族から切り離して考えて はならない⽜を引いて、それを⽛道徳的理念の真実⽜に据えている。Carl Schmitt, Staat, Bewegung, Volk, 1933; Wolf, Das Rechtsideal des nationalsozia-listischen Staates, ARSP.Bd. 28 (1934/35), S.356.

(19) ビンダーの国家主義的な裁判官論について、註(⚔)参照。

(20) ヴ ォ ル フ は い う。法 的 等 族 資 格 が な け れ ば⽛法 的 指 導 性⽜ (Rechtsführerschaft)がなく、凡そ市民として共同体法に参画する資格がな い。E. Wolf, Rechtsideal, S.361-362. このヴォルフの平等概念を排除する考え 方は、シュミットの⽛平等⽜の代わりに⽛種族の同質性⽜(Artgleichheit)を採 る立場と同一歩調にあった。Raphael Gross, Carl Schmitt und die Juden-eine deutsche Rechtslehre, Suhrkamp Verlag 2000, S.60ff., S.62;ラファエル・グロ ス著⽝カール・シュミットとユダヤ人 あるドイツ法学⽞山本尤訳(法政大学 出版局、2002)37 頁以下、とくに 39 頁。

(21) E. Wolf, Rechtsideal, a.a.O., S.352. (22) E. Wolf, Richtiges Recht, a.a.O., S.10.

(23) ヴォルフが、⽛正当な法⽜それ自体としての⽛公益⽜に向けて、人びとに ⽛犠牲⽜を強要した問題を突いた研究、すなわち、Michael Stolleis, Gemein-wohlformeln im nationalsozialistischen Recht, J. Schweitzer Verlag, Berlin 1974, S.34ff.

(24) Georg Dahm, Deutches Recht, 1944, S.231. ダームのこうした⽛全体主義 的⽜見解が公然と展開されているのは、Dahm, Der Methodenstreit in der heutigen Strafrechtswissenschaft, ZStW Bd. 57 (1936), S.227ff. である。ダー 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 六 七 (一 三 一 )

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ムの主張とシュミットの具体的秩序思想は極めて酷似している。これを突い た佐伯千仭⽛刑法における所謂キール学派について(⚑)⽜⽝法学論叢⽞第 38 巻 第⚒号(1942)286 頁とくに 301 頁。それのみならず、ダームの行為者刑法論 がヴォルフと近似することになるのは想像に難くない。ダームいわく、あら ゆる犯罪の本質は、共同体に敵対する情操もしくは意思傾向の顕現(der Hervortreten einer gemeinschaftsfeindlichen Gesinnung und Haltung)にあり、 行為は単にその徴表的意義にすぎない、と。それゆえ⽛行為者の共同体からの 堕落の徴表⽜がまさに“行為”にほかならない。Dahm, Verrat und Verbrechen, S.284-294. 佐伯千仭・前掲 297 頁及び大谷實前掲⽝人格責任の研究⽞115 頁参 照。

(25) ここにいう⽛弛緩⽜の観念はリューピングにとって⽛弛緩⽜の概念は、総 統によって要求された⽛社会の維持という目的のための判決発見の弾力性⽜ (Elastizität der Urteilsfindung zum Zweck der Erhaltung der Gesellschaft)と いうテーゼが、形を変えて現れたものである。それは“法治国家を犠牲”にした ⽛手続きの簡略化⽜によってなされる。たとえば、1942 年⚓月に実施された⽛司 法の簡略化に関する総統命令⽜Erlaß des Führers über die Vereinfachung der Rechtspflege(RGB l. I S.139)が代表的であろう。これが同年⚘月になると、 ⽛刑 事 司 法 の 一 層 の 簡 略 化 の た め の 命 令⽜Verordnung zur weiteren

Vereinfachung der Strafrechtspflege(RGB l. I S.508)となって具体化してい る。Hinrich Rüping, “Auflockerung” im Strafverfahrensrecht-Grundsätzliche Entwicklung zwischen Liberalismus, “deutschem Gemeinrecht” und Naturrecht, ARSP Beiheft 18, S.65ff., S.68;ヒンリッヒ・リューピング⽛刑事 手続きにおける⽝弛緩⽞─自由主義と⽝ドイツ普通法⽞と自然法との間におけ る原則的展開⽜(園田寿訳)、前掲⽝法、法哲学とナチズム⽞96 頁以下、101 頁。 本稿の刑事司法手続きにおける⽛弛緩⽜の観念については、H. リューピングの 所説に負っている。 ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 六 八 (一 三 二 )

(13)

Ⅲ.ラートブルフの反ナチ論考二題…自分を支える者の口に

鍵をかけ、その心を抑圧する暴君に、一人の暗殺者がしの

び寄る

(シュヴァルツェンベルク)

当時において、如上のヴォルフの著作は、ラートブルフの著作と真っ 向から対峙して著されたものである。ダームとヴォルフが強調する法実 証主義の不法な実像を目の当たりに見て、ラートブルフは間髪入れず反 ナチ論文を以て挑戦し、その危険な権威主義法制に警笛を鳴らした。と くに門人のダームが刑法改正作業に関わって⽛権威⽜化を掲げ、⽛人種的 に把握された民族共同体⽜を志向して⽛権威⽜化を先導している姿は、 ラートブルフをして最早黙許すべきではないと決意させたといえよ う(26)。ラートブルフはかつて⽛法律学上の実証主義にとって、法は国家 の恣意以外のなにものでない⽜(1919)と述べたが(27)、その⽛権威を有す る一つの権力命令⽜(autritätiver Machtsspruch)(28)が現実のものになっ たのである。ヒットラーが体制を固めた 1933 年に、ラートブルフは矢 継ぎ早や⚓篇を書き下ろし、その不法性を糾弾している。すなわち、⽛権

威 刑 法 か 社 会 的 刑 法 か?⽜(Autoritäres oder soziales Strafrecht?, 1933)(29)、⽛ファシスト的な刑法⽜(Faschistisches Strafrecht, 1933)(30)

⽛刑 法 改 革 と ナ チ ズ ム⽜(Strafrechtsreform und Nationalsozialismus,

1933)(31)がそれであり、さらに続けて⽛法哲学における相対主義⽜(Der

Relativismus in der Rechtsphilosophie, 1934)(32)、⽛法 の 目 的⽜(Der

Zweck des Rechts, 1937)(33)が発表された。

しかし、彼の反ナチ論文のなかでも、上掲とは趣を異にしたつぎの⚒ 篇は注目されてよい。思想や表現の自由が厳しい時代背景を映して抽象 的な表現で、かつ間接的な描写を用いながら、行間に信教の自由、人間 の平等、人間の尊厳、公益と正義など、時代を超えた法価値を鮮明に描 いている。その⚒篇とは⽛ペーター・グュンター 愚か者にして英雄⽜ (Peter Günter—Narr und Held, 1911, in: Elegantiae Juris Criminalis,

1938)(34)、および⽛ドイツ化されたキケロー ヨハン・フォン・シュヴァ 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 六 九 (一 三 三 )

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ルツェンベルクの“義務”の翻訳について⽜(Cicero deutsch Zu Johann von Schwarzenbergs Officien-Übersetzung, 1942)(35)、(36)である。以下で

この⚒篇を素描する。

まず、⽛ペーター・グュンター、愚か者にして英雄⽜という題名の論考 は、ルターの正教の時代に、宗教的信念に基づいてキリストの神性を否 定した一人の職人に対する不寛容な処刑を扱った論文である。無垢の者 に対する死刑執行を扱ったこの 1911 年の論文が、⽝刑事法抜粋⽞ (Elegantiae Juris Criminalis)の初版(1938)に掲載された。ラートブル フが敢えてナチ全盛期の 1938 年に、旧稿を再び刊行した意図は何か。 ここで問われるのは、人がキリスト教の三位一体(Dreifaltigkeit)を否 定し、⽛キリストは人間だ⽜とする主張行為が神への冒涜だと糾弾され、 終に極刑に処せられたこの判例をどうみるかであろう。ナチスが思想、 信条の違いによって敵味方を区別し、ナチを従容しない者を敵対視して 強制収容所へ送り、時に処刑していた当時において、ラートブルフが 27 年の歳月を超えて改めて訴えなければならなかった意図を探らなければ ならない。ペーター・ギュンターへの宗教裁判から、第三帝国下におい て時勢に迎合した大衆と⽛司法の同質化⽜(Gleichschaltung der Justiz)

に靡いた裁判官等の実像を(37)直視できるのであるまいか。この論文で は、ルター時代には、無垢のペーター・グュンターが神を冒涜した廉で 断首され、ナチス時代には、民族への裏切り者と見なされた者は、総統 を冒涜した廉で処刑されたという史実が問われている。 1687 年⚒月、リューベック(Lübeck)の鍛冶屋の徒弟の一人ペーター・ グュンターは、居酒屋で口論したさい、四囲の仲間が神の御子キリスト について語ったさい、“我われはすべて神の子だ、キリストも我われと まったく変わりのない罪人だ、自分は三位一体を信じていない”と反論 して殴り合いになり、救世主であるキリストに対して汚らわしい冒涜的 な言葉を吐いたとしてペーター・ギュンターは逮捕され、裁判にかけら れた。ペーター・ギュンターの考えでは⽛キリストは神ではない。ただ の人間に過ぎない。⽜⽛存在するのは唯一の神だ。神はたった一つであり、 ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 七 〇 (一 三 四 )

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それがすべてだ⽜というものである。三位一体の否定は、もとより偶像 崇拝にかかわる。ペーター・ギュンは陳述で⽛ジェスイット(Jesuit)が 最初に呪われた悪党を通じて、このような偶像を造り上げた⽜と言って おらず、⽛呪われた悪党であるジェスイットが、最初にイエス・キリスト をかかる偶像に創り上げた⽜“Die Jesuiter, die verfluchten Schelme, haben erstlich Jesum zu solchem Abgott gemacht.”と言ったに過ぎない、 ⽛自分は神を冒涜した覚えもなく、冒涜もしていない⽜と繰り返し訴え た(38)。弁護士も⽛ペーター・ギュンターには、神を冒涜する前提が欠け ている。彼ペーター・ギュンターは、そもそもキリストの神聖を認めな いのであるから、神の冒涜者ではあり得ない⽜と主張した(39)。口論に 関った者たちへの尋問で、彼らは⽛他人から聞いたところによると、そ れは言ってみれば口論の最中にほとばしり出たようなもの⽜と証言して いる(40) ウィッテンベルクの神学科教授団たちは、かつての同僚マルチン・ル ター(D. Martin Luthers)の思想を尊重するあまり、人びとに先立って、 確固たる正統信仰の範を示すべきとする意見書を提出した。それによれ ば、ペーター・ギュンターは、悪意ある背徳者であり、三位一体の神以 外のものを信ずる無神論者にほかならず、聖霊の冒涜者であって神の冒 涜者である。よって刑罰を与えるべきだ、というものであった(41)。その 後の法学科教授団による判決草案でも、ギュンターの居酒屋での発言に は過度に酩酊していたという証拠はなく、理性が狂っていたとは認めら れない。尋問においても自己の主張をまったく変えていない。それ故 ペーター・ギュンターを、神を冒涜する言葉を吐き散らしたかどで、断 頭の刑に処すべきである、と示された(42) このような経緯の下で、愚か者で英雄であるペーター・ギュンターは、 受容として死に就いた。しかし、ラートブルフはペーター・ギュンター を信ずるべきだ、という(43)のである。ラートブルフは、論文の末尾に ⽛リューベックの人々は人を許すことを知らない⽜という諺を掲げた。 これを第三帝国のナチストは許すことを知らない、読み替えることがで 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 七 一 (一 三 五 )

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きるかどうか。⽛民族及び国家保護のための大統領令⽜(Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat, 1933)以降、第三帝 国の最盛期において、ナチ体制に逆らう者に対する残忍な刑の執行が日 常化していた。この論文は、思想信条に不寛容なナチ体制に向けた問題 の提起であり、かつ抵抗の意思表示ではあるまいか。

(26) “Gesellschaft”Band X, Heft 3(März 1933)に掲載された⽛権威刑法か 社 会的刑法か⽜(Autoritäres oder soziales Strafrecht?, 1933)と題する論文は、 権威刑法化するナチ刑法に対する批判のみならず、弟子ダームの言行を厳し く糾弾する論文となっている。ダームと F. シャッフシュタイン(Friedrich Schaffstein)の理論が、⽛権威的国家観⽜、⽛国民思想⽜、⽛ドイツ文化の伝統価 値⽜、⽛民族共同体⽜なる思想を階級闘争の思想の対極として掲げている、と指 摘する。この論文に描かれているダームからは、“法律は法律だ”とする思想か ら無防備にされたのではなく、むしろその主役であったことを知ることがで きる。この学術雑誌は、この論文を掲載した廉で発刊停止処分を受けた。 Rabruch, GRGA VIII, Strafrecht II, S.226-237.;拙訳前掲⽝魔笛の刑法⽞35 頁 以下;今日では⽝札幌学院法学⽞第 23 巻第⚒号(2007)109 頁以下に再掲され ている。

(27) Radbruch, Ihr jungen Juristen!, 1919, S.13. 法律学上の実証主義、つまり ⽛このような権力への偶像崇拝は、現実主義政治時代、権力国家の法律学上の

部分現象を意味していた⽜と。H. Rottleuthner, a.a.O., S.36.

(28) Radbruch, Rechtsphilosophie, GRGA II, S.321;邦訳⽝法哲学⽞222 頁;⽛意 思と力⽜をめぐる価値判断の限界については、拙著⽝法哲学序説⽞(成文堂、 1988)100 頁以下。

(29) この論文は法律雑誌“Gesellschaft”の第 10 巻第⚓号(1933.3)に掲載され たが、この雑誌は本稿を掲載した廉で以後、発行停止処分を受けた。 (30) Radbruch, GRGA VIII, Strafrecht II, S.221-225.

(31) Radbruch, GRGA IX, Strafrechtsreform, S.331 335.;拙訳⽛刑法改革とナ チズム⽜⽝札幌学院法学⽞第 25 巻第⚒号(2009)143 頁以下。

(32) Radbruch, GRGA III. Rechtsphilosophie III, S.17-22.;邦訳著作集⚔巻巻 頭。

(33) Radbruch, Der Zweck des Rechts, GRGA III. Rechtsphilosophie III, S.39-50;前掲拙訳⽝魔笛の刑法⽞74 頁以下。

(34) Radbruch, Elegantia Juris Criminalis (1938/1950), S.130-140; GRGA XI,

ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 七 二 (一 三 六 )

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S.395-409.(GRGA IV, S.236-245. Peter Günther der Gotteslästerer. Ein Lübecker Kulturbild aus dem Jahrhundert der Orthodoxie, 1911.);ナチ刑法が 謳歌していた 1938 年に、ラートブルフは、この初版において宗教的不寛容の 典型、冤罪者の⽛死刑執行⽜を扱った 1911 年の旧稿、“Peter Günther Narr und Held”を挿入し、国家権力による反ナチ確信犯に対する処遇、彼らへの極刑を 問責したとみることができよう。この拙訳は 45 年前に邦訳紹介された。⽝札 幌商科大学論集⽞第 11 号(1973)139 頁以下。今日では、⽝札幌学院法学⽞第 23 巻第⚒号(2007)132 頁以下に再掲されている。

(35) Radbruch, Cicero deutsch Zu Johann von Schwarzenbergs Officien— Übersetzung, GRGA XI, S.395-407 〔Elegantiae, S.90-103〕.

(36) ナチ期に著された論文に⽛魔笛の刑法⽜がある。しかし、その出版が戦後 にわたっているので、本号では取りあげない。Radbruch, Das Strafrecht der Zauberfläte (1946), GRGA IV, S.283-298.;前掲拙訳⽝魔笛の刑法⽞巻頭。 (37) K.D. Bracher, Die deutsche Diktatur—Entstehung, Struktur, Folgen des

Nationalsozialismus, Köln, 4.Aufl., S.257;K. D. ブラッハー⽝ドイツの独裁 Ⅰ ─ ナチズムの生成・構造・帰結 ─⽞山口定、高橋進訳(岩波書店、1975) 455 頁。なおイデオロギーによる⽛強制的同質化⽜については、S.270ff.;邦訳 447 頁以下。

(38) Radbruch, Peter Günter der Gotteslästerer, GRGA IV. S.238-239;拙訳 135-136 頁。

(39) Radbuch, Peter Günter der Gotteslästerer, GRGA IV, S.243;拙訳 142 頁。 ラートブルフは、弁護士の弁論に真摯な⽛信教の自由という思想への思い入れ⽜ が読みとれるとして、弁護士が⽛かかる間違った信念は、いかなる体刑または 法的強制力をもっても矯正されない。…なぜなら殊にこの誤れる良心がいく らかでも強制力をもっており、被告と分かち難く結びついているのであるか ら、この男は、自らの良心を犯さなければ三位一体を信ずることも、受け入れ ることもできないのである⽜と述べた一節を記録している。これは信教上の 信念のみならず、思想犯ないし確信犯の⽛良心の自由⽜の礎であろう。 (40) Radbruch, Peter Günter der Gotteslästerer, GRGA IV, S.244.;拙訳 143

頁。

(41) Radbruch, Peter Günter der Gotteslästerer, ebd.;拙訳 144 頁。 (42) Radbruch, Peter Günter der Gotteslästerer, S. 244;拙訳 144 頁。 (42a) Radbruch, Peter Günter der Gotteslästerer, S. 242;拙訳 140 頁。

つぎは、1941 年に著された論文⽛ドイツ化されたキケロー(Cicero deutsch) ヨハン・フォン・シュヴァルツェンベルクの“義務”の翻訳に 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 七 三 (一 三 七 )

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ついて⽜(1941)である。1941 年といえば、ナチス体制が不法な⽛法治⽜ を先鋭化させた時期である。すなわち、ヨーロッパにおけるユダヤ人全 体の運命を決する⽝委任命令⽞(TMWC)(43)が下され、かの⽛司法の簡略 化に関する総統勅令⽜(1942)が施行されて、ラートブルフの掲げた民主 主義法治国家の法の理念とされた⽛法的安定性⽜が、総統によって完全 に掌握された時代であった。 キケローの思想について、共和政ローマ末期のギリシャの政治家、哲 学者の思想がナチスの時代にどのように扱われていたか、当時の文献か ら探ることは至難である。ただひとつ⽛ギリシャの暴虐⽜を扱った書物 がナチスの禁書とされた史実がある。⽛近代ヨーロッパにおけるドイツ 民族⽜・⽛後進国⽜がもつ⽛大海の神秘⽜への憧れ、すなわち紀元前期⽛ギ リシャ人の破壊的光輝⽜への願望、そのドイツの⽛未知なる絶対的な力⽜ を揶揄したバートラー(E. M. Butler)の⽝ドイツにおけるギリシャの暴 虐⽞(The Tyranny of Greece Over Germany, 1933)が(44)、ナチスによっ

て禁書目録(1935)に掲載された。この一事からみても、人びとは、ギ リシャ哲学書を開くことに躊躇していと言えよう。まして、直接かかわ らなかったとはいえ、暴君カエサルの暗殺者を支持したキケローの著作 についてはなおさらである。いわば独裁者カエサルへの抵抗を促すキケ ローの政治姿勢は(45)、たとえ⽛光り輝くもの⽜であったにせよ、ナチス にとっても決して好ましいものではなかったであろう。 こうした経緯からみて、ラートブルフが“ドイツ化されたキケロー”を テーマにすることが、いかに慎重でなければならなかったか。まさにキ ケローとカエサルとの関係を明らかにしようとすれば、まぎれもなく独 裁者を成敗することの是非を問うことになる。遠くギリシャの昔であっ ても、なぜ暗殺が許されるのか、が問われる。ラートブルフは第三帝国 が終焉に向かいつつあった 1942 年に、ヨハン・フォン・シュヴルツェン ベルクの翻訳⽝キケロー 義務について⽞を題材にすることを通じて、 いわゆる⽛公益と正義⽜を弄ぶ暴君に対する批判論を展開した。シヴァ ルツェンベルクはいう。⽛自分を支える者の口に錠をかけ、その心を抑 ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 七 四 (一 三 八 )

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圧する暴君に、一人の暗殺者がしのび寄る。⽜“einem Tyrannen, der seinen Ratgebern Schlösser vor den Mund gelegt hat und ihre Herzen unter einer Presse hält, nähert sich ein Mörder”と(46)。自分を支える者

の口に鍵をかける、すなわち思想・言論の自由を抑える者は誰か。 いったいシュヴァルツェンベルクとは、いかなる法学者であろうか。 彼は 16 世紀という主権国家成立期におけるバンベルク刑事裁判令(1507 年)の起草者であり、この法律によって皇帝カール⚕世の刑事裁判例 (=カロリナ刑事法典、1532 年)が生まれたことで知られる。彼は中世 ローマ法学の近代化に貢献した卓越した法学者であった(47)。またキケ ローの哲学書の翻訳をもってドイツ民族教育に多大な貢献をしている。 この翻訳作業には、⽛ドイツのキケロー⽜を生み出そうとする努力が象徴 されている(48)。その翻訳出版にさいして、シュヴルツェンベルクはキケ ローの原文に押韻格言詩と木版画(挿絵)、付記を添えた。とくに翻訳⽝義 務について⽞は、当時の挿絵芸術の最高峰となった。その一つ、⽛拝金主 義の裁判官⽜“Taschenrichter”を取り上げた場面では、⽛全能の神よ、願 わくば我らが我らのキリスト教統治において、金によって正義に反する 行動をなすような有害極まりない人間から慈悲深く守られ、解放されま すように⽜と付記している(49)。当時において、新生の印刷技術とルター による聖書の翻訳とその普及、さらに翻訳⽝義務について⽞の出版は、 この時代の精神を支えていたといえよう。 法学者でもあり政治家でもあったシュヴァルツェンベルクは、領邦君 主の最高官吏として領邦国家の成立に参画した。等族制的な帝国改革の 先駆者として帝国統治院の一員でかつ官廷長官であった彼の政治綱領に は常に新たに訴求される⽛公益⽜“gemeine Nutzens”の理念が据えられて いた。そしてシュヴァルツェンベルクによる⽝キケロ 義務について⽞ の翻訳書には、いたるところで⽛公益⽜が、“res publica【=レス・プブ リカ、国家】”のドイツ語化に用いられていたことが明らかにされている。 し か し、17 世 紀 末 期 の ド イ ツ で は “res publica” の 逐 語 訳 で あ る “Gemeinwesen”【=公共体】が根付いてはいたものの、これを表現すべ 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 七 五 (一 三 九 )

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きものがまだ存在していなかったといえよう。すなわち、いわゆる国家 というものが存在していなかったのである。ただ民衆の幅広い集団的な 国家意識は萌芽の段階にあった。皇帝、帝国等族、領邦などが、相互に 国家成立をめぐる争いを繰り広げていた時代である(50) シュヴァルツェンベルクの政治姿勢は、キケローのカエサルとの関係 に関する彼の解釈に表れている。カエサルは中世の政治的意識にとっ て、ドイツ皇帝の一番の先任者だった。シュヴァルツェンベルク自身、 歴史的な予断なしに、カエサルのことを⽛皇帝ユリウス⽜と呼んでいる。 翻訳⽝義務について⽞においてキケローは、世紀前 44 年⚓月 15 日のカ エサル暗殺を思い浮かべつつ、こう書いている。⽛犯罪の中でも、ただ人 を殺すだけではなく、親しい人間を殺すことより大それた罪がありえよ うか。それならしかし、ある人が親しい間柄にもかかわらず暴君を殺し たとすると、この人は犯罪に関与したことになるだろうか。少なくとも ローマ国民はそう思わない。」(50 a)また翻訳⽝義務について⽞にある挿絵 の一つは、甲冑をまとい、冠と笏を身につけた、協議中の堂々たるカエ サルが描かれているが、翻訳者シュヴァルツェンベルクの立場は、まっ たく異なる。⽛公益⽜(Gemeine Nutz)への抑圧に対する反意をはっきり と示した。すなわち、キケロー自身がしたようにと、彼も挿絵に添えた 押韻格言詩のなかで⽛暴君⽜カエサルに対して、手加減することなく批 判を加え、⽛カエサルは侮って、公共の利益を抑圧した⽜と記した。しか もキケローと同様に、シュヴァルツェンベルクもカエサルの暗殺を、つ ぎのように是認した。⽛暴君と暴れる犬 ─ それを殺す者は褒め称えら れる。⽜(“Tyrannen und ein Hund, der tobt ─ Wer die ertödt, der wird

gelobt”)(51)この挿絵と格言詩の趣旨について、ラートブルフはつぎのよ うに述べた。⽛これはまったく抽象的な暴君への嫌悪がこのようにさせ たのかもしれない。しかし、カエサルのドイツ皇帝との関連性が誰にも 周知のことであったことや、皇帝マクシミリアンとカール⚕世が、自ら その様に結びつけられることを好んだことなどを考えあわせると、帝政 を横目で見ずにそれを云々することはありえない。まさに格言詩や挿絵 ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 七 六 (一 四 〇 )

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は、シュヴァルツェンベルクの帝国等族的、領主国家的な反皇帝の立場 か ら(aus Schwarzenbergs reichsständischer, Territorialstaatlicher

Oppositionstellung)説明されるべきであろう⽜と(52) シュヴァルツェンベルクによって⽛暴君⽜に譬えられる社会の実相、 ⽛自分を支える者の口に鍵をかける暴君⽜が存在した社会とはどのよう なものであったろうか。概して、中世の封建社会には、主権国家成立へ の産みの苦労、いわば新しい法が定立され、古い法が廃止されるという 新旧法制の更改に伴う葛藤がみられたであろう。その実相について、 ラートブルフはつぎのように要約した。いわくシュヴァルツェンベルク の時代は、⽛民衆の幅広い集団における意識的な政治生活の目覚めによっ て特徴づけられる。一方の人びとが帝国の改革に努めれば、他方の人び とは成立しつつある領邦国家の職務に尽くした。一方の側で騎士が失っ たもののために戦えば、他方の側では都市共和国の市民に誇り高き自尊 心が息づき、抑圧された農民層には不満が充満し、革命の兆しが見えて いた。すでに包括的な国家意識も萌芽の段階にあった。……生き生きと した政治活動は、宗教闘争によって葬り去られ、宗教改革の助けによっ て、かの政治闘争から領邦国家の絶対主義の新たな形が生まれたが、こ れは市民の国家市民的意識の上に築かれたものではなく、臣下の受動的 従順に基づくものだった⽜と(53) 混とんとした中世社会において、シュヴァルツェンベルクは、市民の 国家市民的意識を固めるためには、その核心に、キケローの哲学、⽝義務 について⽞を据えるべきことを思い至った。このことについて、ラート ブルフは⽛ヘレニズム哲学にとって理想的な人物は、あらゆる重要な営 みから、何よりも国事からも目を背むける賢者であったものを、キケロー は倫理行為への、さらに国家への、決定的な転換を図った⽜と述べてい る(54)。すなわちキケロは、“virtutis enim laus omnis in actione consistit”

【=徳への賞賛は、すべての行為のうちに存するからである】と。(⽝義務 について⽞⚑巻⚖章 19 節)(55)①さらに“et autem action in hominum

commodis tuendis maxime cernitur”【=行為は人々の便益が守られると

札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 七 七 (一 四 一 )

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きに、もっとも明瞭に認められる】(⽝義務について⽞⚑巻 43 章 153 節)(56)②からである。ラートブルフは、キケローの所説を引いて、これ をつぎのように実証している。⽛人間はしかし社会的な存在であり、単 に必要に迫られて社会情勢に参加するのではなく、むしろ(ミツバチの 群れの中のミツバチのように)“natura congregrati”【=集団をなす本能 がある】のである(⽝義務について⽞⚑巻 44 章 157 節)(57)③「というのも、 人間の本来は孤独な一人で放浪する種族ではなく、共同体や社会を求め る傾向にある⽜(⽝国家について⽞⚑巻 25 章 40 節)(58)もし、多くの者が (エピクロスがいう“lathe biosas”【=隠れて生きよ】に従って国事にやむ を得ず参加すると考えるならば、それはキケローにとって、“deserunt vitae societatem”【=生活共同体からの脱走ないし放棄】にほかならず (⽝義務について⽞⚑巻⚙章 29 節)(59)④、彼らにとって賞賛に値しないば かりか、不名誉なことである。(⽝義務について⽞⚑巻 21 章 71 節)(60)⑤ 「すべての社会的関係の中で、最も重要なものは、国家と我われ一人ひと りの間の関係である。我われにとって、親は大切、子供、親族、友人は 大切であるが、しかし、あらゆる人々が大切に思うそのすべての関係を 祖国はただ一つで包括している。祖国のためならば、良識のある人物の 誰が死地に赴くのを躊躇するであろうか。⽜(⽝義務について⽞⚑巻 17 章 57 節)(61)⑥「祖国を守り、助け、繁栄させた者は永遠の至福と生を享受す る。⽜(13 章 13 節)(62)⑦「この国家に対する献身は、人の義務(virtus 【=徳】)であり、功名心ではない。⽜(19 章;23 章)(63)⑧ラートブルフは いう。⽛キケローは国家生活への積極的な参加を、存在の最も深い位置 に根付かせた⽜と(64) ⽛道徳的であること⽜、⽛名誉であること⽜に絶対的な価値をおくキケ ローの立場は、国家成立を目途とする王道であったといえよう。いわく、 “est nihil utile quod idem non honestum, nec quia utile honestum, sed quia honestum utile”【=不名誉なことに有益なことはない。また有益である から名誉に値するのではなく、名誉に値するからこそ有益なのである】 (⽝義務について⽞⚓巻 30 章 110 節)(65)。これを、ラートブルフは⽛正義 ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 七 八 (一 四 二 )

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に反するものは、見せかけの有益でしかありえない⽜(“—was der Gerechtigkeit widerspricht, kann nur einem falschen Scheine noch nützlich sein.”)と読み替えている。こうして、キケロは対立するように みえる二つの原則を併せもつ国家の定義に到達する。シュヴァルツェン ベルクはキケローの国家論の一節、“est igitur res publica res populi, populous autem coetus multitudinis juris consensus et utilitatis communion sociatus”【=国家とは国民のものである。しかし、国民とは なんらかの方法で集められた人間の集合ではなく、法について合意と利 益の共有によって結合された民衆の集合である】(⽝国家について⽞De Re Publica、⚑巻 25 章 39 節)(66)に、在るべき国家像をみている。まさ に⽛名誉あること⽜から⽛国家⽜への道が拓かれる。こうしてみると、 シュヴァルツェンベルクを力づけたのは、この⽛名誉あること⽜ (Ehrbarkeit)の特定であり、それが一方では⽛正義⽜(Gerechtigkeit)、 他方では⽛有益⽜(Nutz)を有していることであったにちがいない。翻訳 ⽝義務について⽞に付された挿絵〈目隠しされた四人の阿呆〉には、片方 に⽛正義、名誉あること⽜、他方に⽛有益⽜が対置されている。格言詩は ⽛正義であること、名誉あることは有益と結びついており、誰であろうと 引き離すことはできない⽜と記されている(67)。シュヴァルツェンベルク が起草した⽛バンベルク刑事裁判令⽜(第 125 条)に⽛正義への愛から、 かつ公共の利益のために⽜(aus Lieb der Gerechtigkeit und um ge-meines Nutz willen)と規定されたことは、この刑事法の理念をよく表記 している(68)

なによりも⽛公共の利益⽜を尊ぶシュヴルツェンベルクの思想は、翻 訳⽝義務について⽞の刑法に関して述べた章(⚑巻 25 章 88 節、89 節)

で豊かに表現されている。それは、まず⽛寛怒⽜

(Sanftmütigkeit/clemen-tia)、温和や寛容は是認されるべきことの強調である。ただ“ut adhibea-tur rei publicae causa severitas, sine qua administrari civitas non postest”(【=したがって、その結果、峻厳で必要に応じた正義、つまり それがなければ国家の運営が成り立たなくなるような正義が、公共の利 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 七 九 (一 四 三 )

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益において欠けないかぎりにおいて、賞賛されるべきである】)この一節 は、刑法の厳粛な適用に、⽛寛容さ⽜が不可欠であることを明らかにした ものといえよう(69) 改めてラートブルフは、《シュヴァルツェンベルク版キケロー》の言葉 と銘打って、つぎの一節を掲げている。労をいとわず掲げよう。⽛しか し、すべての処罰と譴責は、不正(Ungerechtigkeit)(原語では“contu-melia”【=侮辱】)なく行うべきであり、刑罰を加えるものの利益のため にではなく、“ad rei publicae untilitatem”(【=公共の利益のために】)行 うべきである。また罰が罪より大きくなることや、同じ罪科であるにも かかわらず罰せられる者と召喚されない者があることは、防ぐべきであ る。怒り(Zorn)は刑罰で最も禁じられているものである。怒りを抱い ている者が処罰に臨めば(逍遙学派の哲学者が好む)、過剰と不足の⽛中 庸⽜(Mittel)を保つことはできないであろう。したがって私は、やはり 彼らが怒りは有益であるとか自然であると褒めそやすことを止めるべき だと思う。というのは、怒りはあらゆる事がらにおいて拒絶されるべき だからである。望むべきことは、統治者(国事を司る人びと)が怒りに よってではなく、法律を以て公正な立場で刑罰や譴責を行うことであ る。」(70)また他の箇所で、キケロは刑法の目的と実践を説き⽛公益と正義⽜ についてふれている。そこには⽛正義⽜に“res publica”の翻訳として⽛公 共の利益⽜が対置されているのである。また、刑法は不正であってはな らないという要求が、“rei publicae untilitas”(【=国家の利益】)の翻訳と して⽛公共の利益⽜と対置されている。如上の刑法の理念から読みとれ るのは、シュヴァルツェンベルクにとって、公益と正義、そして国家の 利益は同価値的なものとして含意されていたことであろう。 如上で見てきたシュヴァルツェンベルクが引用した“キケロー語録”、 ⽛人間の義務⽜と⽛国家への献身⽜、⽛共同体からの逃避⽜と⽛不名誉⽜、 ⽛道徳的であること⽜、⽛名誉であること⽜と⽛公共の利益⽜と、⽛公益と 正義⽜等などは、いずれもギリシャ時代ならずとも、中世においても国 家市民の意識の表れ、胎動ではあるまいか。まさに⽛国家とは国民のも ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 八 〇 (一 四 四 )

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のである。その国民とは、法についての合意と利益の共有によって結合 された民衆の集合である⽜(⽝国家について⽞前掲註 66)は、新生国家を 成立へ向かう市民の合言葉にふさわしい。当時において、新生国家の成 立への市民の国家意識を受容できず、法改革に躊躇する弊風は、すでに 許されない時勢にあったとみることができよう。都市国家から主権国家 への移行に努め、刑事法の改革を進めるシュヴァルツェンベルクからす れは、中世刑事司法の悪習が、時には⽛暴君⽜として映ったにちがいな い。⽝義務について⽞には、政治的性格は否定できない(70 a) いま、シュヴァルツェンベルクのいわゆる⽛暴君⽜をどのように理解 すべきであろうか。本邦におけるシュヴァルツェンベルク研究の第一人 者、若曽根健治教授の所説を掲げよう。キケローを引いていわく、⽛では、 有用さ〔ウーティリタース〕は道徳的高貴さ〔ホネスタース〕を打ち負 かしたであろうか。いや決してそうではない、ここでは道徳的正しさは 有用さに続いていた。⽜いったい、⽛有利だから高貴なのではなく、高貴 だからこそ有利⽜とか、⽛道徳的に高貴なものこそなににもましてそれ自 体のゆえに求められるもの⽜とあるのは、キケローにとって主題であっ た。そのさい、⽛道徳的に高貴なものはそのまま有利⽜であるのは、⽛共 同体の有利性の無視こそまさに自然の理法〔ナートゥーラ〕に悖る行為 といわなければならない。それは不正だからだ⽜と語るように、そのこ とが⽛自然の理法⽜(言い換えれば⽛万民法⽜〔ユース・ゲンティウム〕) に適っているからであった。このようにして⽛僭主を冒しても自然の理 法に反することなく、殺すことさえ、高貴な行為⽜となる。キケローに よれば、ホーネスタースとウティリタースとの一致は、⽛自然の法律⽜で あるのみならず、⽛神の、また人の法律⽜の求めるところでもあった、 と(71)。このように考えると、⽛共同体の有利性の無視⽜が⽛自然の理法⽜ に悖る行為として問責されることになる。いわゆる⽛暴君⽜は自然の理 法を、さらには⽛神の、また人の法律⽜を悖るもの、悖ることであると いえよう。広く傾聴されよう。 ただ、E. ヴォルフを⽛価値に盲目的な人びと⽜の一人に数えた H. ロツ 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 八 一 (一 四 五 )

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トロイナーは、ラートブルフが⽛歴史的な装いをしながら⽜暴君暗殺問 題を提起したことを指摘して、つぎのように述べている。 ⽛最後に、わたくしは 1942 年の ARST Band 35 への一つの寄稿に特に 注目したい。それはわたくしの知るかぎりでは、ドイツにおいてナチス 時代に出版されたグスタフ・ラートブルフの唯一の論文である。そこで、 ラートブルフは歴史的な装いをしながら(historisch verkleidet)暴君殺 害の問題を引き合いに出しているだけに、いっそう驚きである。そこに はドイツ化されたキケローがいる。それは、⽛ヨハン・フォン・シュヴァ ルツェンベルクの職責 Officien の翻訳について⽜という寄稿である⽜ と(72) 今日、⽛歴史的な装いをしながら⽜暴君殺害を提起したラートブルフの を、後の世の者は、いかに受け止めるべきであろうか。まぎれもなく命 を賭けて著わされたものである。この⽛ドイツ化されたキケロー⽜論に は、ラートブルフ自身の言葉ではなく、中世の法学者シュヴァルツェン ベルクの言葉を借りて、それも具体的に実在したであろう封建君主など を暴君に見立てて対象にするのではなく、むしろ、広く社会改革に消極 的な弊風に焦点を当て、それを廃絶すべき対象に据えた⽛暴君と暴れる 犬⽜が描かれている。この間接的な記述の狙いは、シュヴァルツェンベ ルクが、キケローの尊ぶ⽛正義と公益⽜を実現するために、人びとは人 間としての本来の⽛義務⽜をまっとうすべきで、⽛自然の理法⽜を尊貴し なければならない、と訴えたかったのではあるまいか。そしてラートブ ルフが“ドイツ化されたキケロー”に託したものは、在るべき国事から逃 れる⽛不名誉な⽜者を排し、国民の国家に献身することを⽛人間の義務 (徳)⽜とする者の出現ではなかったか。⽛道徳⽜と⽛名誉⽜兼ね備えた⽛国 民⽜であれば、主権者の口に鍵をかける暴君を駆逐することができるで あろうからである。歴史的な⽛装い⽜の陰には、確かな反ナチ思想、独 裁者暴君を忌避する思想が潜んでいたといえよう。この論文に至るま で、ラートブルフが⽛法哲学における相対主義⽜(Der Relativismus in der Rechtsphilosophie, 1934)で⽛自然法⽜,⽛人間の権利⽜を提起してか ナ チ 生 成 期 の エ ー リ ッ ク ・ ヴ ォ ル フ ( 鈴 木 敬 夫 ) 八 二 (一 四 六 )

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ら⚘年が経過していた。

(43) Trial of the Major War Criminals before the International Military Tribunal, Bd.26, S.266f.

(44) E. M. Butler, The Tyranny of Greece Over Germany: A Study of the Influence Exercised by Art and Poetry Over the Great German Writers of the eighteenth, nineteenth and twentieth centuries (Boston: Beacon Perss, 1958; 1935), p.8-9.:ピエール・グリマル著⽝キケロ⽞高田康成訳(白水社、1994) 162-163 頁。

(45) Pierre Grimal, Ciceron(Collection QUE SAIS-JE? N°2199:前掲邦訳グリ マル⽝キケロ⽞119-120 頁。そればかりか、カエサルが暗殺された後、その単 独執政官に昇ったアントニウスの言動に、カエサル的⽛暴政⽜の復活を予見し たキケローは、元老院においてアントニウスに対する弾劾演説を⚔回にわた り行い、彼の政権基盤を揺るがした。これが今に残る演説集⽝フィリッポス王 弾劾演説に倣って⽞である。その結果、キケローとアントニウスが敵対する政 治構造が鮮明になった。ほどなくしてカエサルの養子オクタウィアヌスが表 舞台に現れるや、所謂第二次⽛三頭政治⽜に移り、⽛追放・死刑処分⽜が布か れ、終にキケローは政敵として暗殺された(前 43 年)。しかし、このカエサル 暗殺の支持や、アントニウスへの糾弾演説は、そのすべてが政治的な野望から 出たものではなく、キケローの祖国への忠誠心、人間の徳の発露であったこと は、最晩年の著作⽝義務について⽞から伺い知ることができる。

(46) Radbruch, Cicero deutsch, GRGA XI, S.402.

(47) Radbruch, Cicero deutsch, a.a.O., S.397. シュヴァルツェンベルクによる立 法過程を実証的にあきらかにした、若曽根健治⽛シュヴァルツェンベルク⽜、 勝田有恒、内山進編著⽝近世・近代ヨーロッパの法学者たち ─ グラーティア ヌスからカール・シュミットまで ─⽞(ミネルヴァ書房、2008)50 頁以下、 若曽根健治著⽝中世ドイツの刑事裁判 ─ 生成と展開 ─ ⽞(多賀出版、1998) 462 頁以下に詳しい。 (48) Radbruch, ebd.

(49) Radbruch, Cicero deutsch, a.a, O., S.398. (50) Radbruch, Cicero deutsch, a.a.O., S.401.

(50 a) キケロー⽛義務について⽜高橋宏幸訳、⽝キケロー選集⽞⚙(岩波書店、 1999)288-289 頁。なぜ暴君カエサルが暗殺されなければならないのか。その 論拠をキケロー著⽝義務について⽞に求めるものが常道である。本稿では、比 較的新しいアントニー・エヴァリット(A. Everritt, 1940~)の英語版(2001 札 幌 学 院 法 学 ( 三 五 巻 二 号 ) 八 三 (一 四 七 )

参照

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