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治療不開始/中止行為の刑法的評価―「治療行為」 としての正当化の試み

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治療不開始/中止行為の刑法的評価―「治療行為」

としての正当化の試み

著者 辰井 聡子

雑誌名 明治学院大学法学研究 = Meiji Gakuin law journal

巻 86

ページ 57‑104

発行年 2009‑01‑31

その他のタイトル Criminal Responsibility of Withdrawal and Withholding of Life‑saving or

Life‑sustaining Treatment

URL http://hdl.handle.net/10723/1988

(2)

治療不開始/中止行為の刑法的評価

―「治療行為」としての正当化の試み

辰 井 聡 子

Ⅰ はじめに

 川崎協同病院事件控訴審判決において,東京高裁は,裁判例・学説において 有力となりつつあった考え方,すなわち,治療中止行為を患者の自己決定権の 観点から正当化する立場に対し,つぎのような疑問を呈した(1)

 「……終末期において患者自身が治療方針を決定することは,憲法上保障さ れた自己決定権といえるかという基本的な問題がある。通常の治療行為におい ては患者の自己決定権が最大限尊重されており,終末期においても患者の自己 決定が配慮されなければならないとはいえるが,患者が一旦治療中止を決定し たならば,医師といえども直ちにその決定に拘束されるとまでいえるのかとい うと疑問がある。また,権利性について実定法上説明ができたとしても,尊厳 死を許容する法律(以下「尊厳死法」という。)がない状況で,治療中止を適法と 認める場合には,どうしても刑法 202 条により自殺関与行為及び同意殺人行為 が違法とされていることとの矛盾のない説明が必要となる。そこで,治療中止 についての自己決定権は,死を選ぶ権利ではなく,治療を拒否する権利であり,

医師は治療行為を中止するだけで,患者の死亡自体を認容しているわけではな いという解釈が採られているが,それはやや形式論であって,実質的な答えに はなっていないように思われる。」

(3)

 これまで,学説の大勢は,末期患者については,本人の同意があれば治療中 止が許されるとする立場を主張していた。その理由として,ある見解は「医師 は患者の意思に反してまで患者の生命を引き延ばす義務はなく,(生命を処分す る自己決定は認められないとしても)『生の押し付け』を拒否する患者の自己決定 は完全に尊重されなければならない」(2)と述べ,ある見解は「わが国の刑法では,

生命の主体がその生命を絶つことに同意を与えていたとしても,他人の生命を 絶つ行為は依然として嘱託殺人罪ないし同意殺人罪となりうるが,死期が迫っ た患者の場合には,誰もそのような患者に苦痛ある生を強制できないこと,ま た苦痛の除去は他人である医師の手によるほかないことから,通常は同意殺人 罪にあたる行為が例外的に許容されることになると考えられる」(3)と述べてい る。場面を終末期医療に限れば,これらの主張は穏当なものであり,支持者を 増やしていることも十分に理解できる。しかし,東京高裁が,これらの立場を 採用することに躊躇を示したことにも,やはり理由はあると思われる。

 同意殺人罪は,法益主体の意向にかかわらず,他者に対してその生命の保護 を義務づける趣旨の規定である。末期患者について,本人や近親者の同意によっ て治療を中止することがかりに正当であるとしても,患者の自己決定を根拠に それを認めることが,他者に課せられている絶対的な生命保護義務の解除であ ることは否定できない。現行法は,同意殺人を犯罪とすることで,ある場合に は「生の押し付け」,「生の強制」を刑法上の要請としている。それにもかかわ らず,なぜ末期患者においては「生の押し付け」を拒否する患者の権利が完全 に尊重されなければならず,末期患者には「苦痛ある生を強制できない」のかは,

十分に説明されているとはいえないと思われる。医療実務において,決して末 期とはいえない難病患者に対する治療の不開始が「患者の自己決定権」に基づ くものとして許容され,治療を尽くせば回復の可能性が十分にある場合であっ ても,家族が反対すれば治療が行われないケースがしばしばあることは,すで に知られている事実であろう(4)。これらの医療実務を全面的に許容するという

(4)

なら別であるが,「患者の自己決定権」論は,それが末期の患者に対して妥当 する明確な理由と,妥当性の限界が明らかにされない限り,「怖くて使えない」。

かりに筆者が裁判官であったとしたら,そのように感じるのではないかと思う。

 患者の自己決定があれば治療中止が許されるとする見解は,治療行為の正当 化に関する有力説,すなわち治療行為は患者の自己決定に適う場合に限り正当 化されるとする立場を基礎に置くものである。「患者は自己の身体に対してい かなる治療行為がなされるかを決定する排他的権限を有している。こうした患 者の自己決定権に基づく治療は許され,それに反する治療行為は違法である。

たとえ治療拒絶により死の結果がもたらされるとしても,患者の自己決定権に 反する治療は許されない」(5)。こうした考え方は,現在,かなり広い支持を得 ていると考えられる。

 しかし,東京高裁が述べたように,「患者が一旦治療中止を決定したならば,

医師といえども直ちにその決定に拘束されるとまでいえるのかというと疑問が ある」。死に至る治療の拒絶であっても,患者の同意により当然に正当化され るとすることは,同意殺人罪を犯罪とする現行法と明らかに矛盾するものであ ろう。末期における治療方針の決定に際して患者の自己決定が尊重されるべき ことは当然としても,患者の自己決定に反すれば直ちに違法とすることが妥当 であるか,患者の意思に反していても生命の保護が義務づけられるべき場合は あるのではないかという疑問はどうしても残るのである。そこで,本稿では,

治療行為の正当化根拠を再考し,「患者の自己決定権」と医師の刑事責任の関 係を明らかにした上で,治療不開始/中止行為の刑法的評価について考察した い。

(5)

Ⅱ 治療行為論

(6)

1.治療行為の正当化根拠

 通説的な見解は,治療行為は,①医学的適応性,②方法の妥当性(医療技術 的正当性),③患者の同意(インフォームド・コンセント),の 3 要件を満たした場 合に正当化されるとする立場をとっている。①,②はいずれも客観的に見た医 学的妥当性にかかわる要素であるので(7),この立場は,医学的に適切な行為で あっても,患者の意思に反する場合には,当該治療行為は違法であるとしてい ることになる。結論からいうと,こうした立場は,少なくとも刑法上の正当化 要件としては適当でないと思われる。

 医師法 19 条は,医師は「診察治療の求があつた場合には,正当な事由がな ければ,これを拒んではならない」としている。罰則こそないものの,医師に は診療を拒否する自由はなく,患者からの求めがあれば,診療契約を結び,患 者の疾患に対して何らかの措置をとることが義務づけられている。治療方針を 決定する際,医師は可能な限り患者の意思を尊重するべきであるが,たとえ患 者が治療に対して何らの意思を表明しない場合であっても,医師は治療を行う か行わないか,行う場合にはいかなる治療を行うかを決定しなければならない。

患者の疾患という,自らの与り知らない法益危殆化状況を前に,法益を左右す る決定を行うことを義務づけられている医師の立場は,治療行為の正当化を論 じる際に十分に考慮されなければならないと思われる。

 さらに,一般論として,医療上の決定は患者の意思に基づいて行われるべき であるといえるとしても,あらゆる医療上の決定を実際に患者が行うのは不可 能である点にも留意する必要がある(8)。医療はきわめて専門的な業であり,ど れほど説明を受けたとしても,素人の理解は医師には遠く及ばない。医師に「裁

(6)

量権」があるとされているのは,医師が専門的な知識・技能を専有しているた めであり,これは「権利」というよりは「義務」というべきものであろう。

 医療において「患者の自己決定権」が強調されるのは,医師が知識・技能を 専有している医療の場では,医師の専断から患者の利益を保護する必要性が高 いためである。しかし,医師による裁量の行使が医療という業の必然であると すれば,裁量の行使から生じる帰結からは,患者だけでなく,医師も保護され なければならないであろう。医学的に正当な治療であっても,患者の意思に反 すればつねに犯罪であるとすることは,医師の法的な立場を著しく不安定にす るものであり,適当ではないと思われる。

 以上の点,すなわち,①医師には診療義務が課せられていること,②医師は 専門的な知識・技術を専有することにより裁量義務を負担していることの 2 点 を考慮すると,医師の行為が診療契約に基づく義務として行われた場合には,

それが医学的に正当な行為である限り,刑法上は違法でないとするべきである ように思われる。医師法 1 条が定めるとおり,医師の基本的な役割は,「医療 及び保健指導を掌ることによつて公衆衛生の向上及び増進に寄与し,もつて国 民の健康な生活を確保する」こと,目の前の患者との関係では,患者の健康状 態を維持・改善することにあり,そのための知識と技能を持っているのが医師 である。医療倫理としては,治療行為はすべて患者の納得の下で行われるのが 望ましいというべきであるが,診療を拒否できない状況で,患者の健康状態の 維持・改善という基本的な任務に忠実に行われた医師の行為が,患者の意思に 反することによって直ちに「犯罪」に転じるとすることは,妥当な法政策とは いえないであろう。

2.治療行為の正当化と「患者の自己決定」―身体利益の二元性

 以上のように,診療契約に基づいて行われた医学的に正当な行為は治療行為 として正当化されると解したとしても,正当化に際して患者の意思が一切考慮

(7)

されないわけではない。

 医師の基本的な任務は,身体という利益の維持・改善にある。したがって,

治療行為の正当化要件としての医学的妥当性は,当該行為が,優越的な身体利 益の保護が期待される行為である点に求められるべきである(9)。その判断の際,

注意を要するのは,身体は,医学的な意味で生命を支える機能だけでなく,そ の外観や生活機能を通じて人格それ自体を支える機能も担っているということ である(10)

 とくに医療とかかわる場面では,身体の利益といえば「健康」として捉えら れる傾向が強いが,身体利益には,つぎの 2 種類があると考えるべきである。

第 1 は,生存の基礎としての,医学的な意味での健康状態,第 2 は,外観や生 活機能によって構成される,人格の基礎としての利益である。身体は,その健 康状態によって生命を支えると同時に,その外観や生活機能を通じて,人格と しての人間を形成している。生存を最優先する法の下では,基本的には第 1 の 健康状態が優先されるべきであろうが,身体の枢要部分の外観や基本的な生活 機能(四肢の有無,経口で食事をとることができるか等)など,第 2 の利益の中で も人格にとって本質的な影響を持ちうるものについては,健康状態に優越する 可能性があることは認めなければならないと思われる(11)。治療行為の正当化 において,患者の意思が重要な意味を持ちうるのは,治療が人格的な身体利益 にかかわる場面である。

 健康という身体利益は,医学的な観点から客観的に測ることが可能であるが,

人格にかかわる身体利益は,利益主体が当該利益にどの程度重きを置くかに よって左右される主観的利益である。したがって,治療の医学的正当性を判断 する際,衡量される諸利益の中に第 2 の主観的身体利益が含まれる場合には,

本人の意思を考慮しなければ,利益衡量を行うことはできない。たとえば,ガ ンの治療のために舌を切除する行為の医学的妥当性は,舌の切除により損なわ れる味覚や発話機能を患者がどの程度重視するかに左右されよう。かりに,舌

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の切除がガン細胞の縮小にとっては最善の方法であったとしても,舌の保持に より維持される味覚や発話機能を患者が重視する場合には,当該利益はガンが 治癒する可能性に劣後するものとはいえない。このような場合には,舌の切除 という治療は,患者の意思に反することによって違法となると解するべきであ ろう。

 従来から,患者に無断で舌や乳房を切除する治療は,刑法上も違法であると 解されていたが,その根拠は,あらゆる治療行為は患者のインフォームド・コ ンセントがあってはじめて正当化されるという命題に求められてきた。しかし,

高熱で危険な状態にある担当患者に解熱剤を注射する行為も患者の意思に反す れば傷害罪であるとするのは,妥当な結論とは思われない。舌の切除が専断的 に行われた場合に傷害罪が成立するのは,舌の保持により得られる利益は本人 の意向に左右される主観的利益であり,本人が切除を拒絶して(=舌の保持に 重大な価値を見出して)いる場合には当該行為は客観的に見て優越利益を保護す る行為とはいえないためと理解するべきであり,患者の意思に絶対的な地位を 認めるべきではないと思われる。

 もちろん,すべての治療は患者の納得の下で行われるのが望ましい。このこ とは,いくら強調しても強調しすぎることはない。それでも,本稿が,治療行 為の正当化根拠を客観的な医学的妥当性に求めるべきだとするのは,医師が裁 量を行使した結果について簡単に刑事責任を負わせるべきではないと考えるた め,加えて本稿のテーマである治療の不開始/中止との関係では,202 条に基 づく生命保護義務には不当な治療不開始/中止から患者の生命を保護する義務 が含まれると解される以上,医師には患者の自己決定を上書きして行動しなけ ればならない場合があることを確認したいためである。

(9)

Ⅲ 治療不開始/中止行為の刑法的評価

1.治療行為論による正当化

 治療不開始/中止行為においても,第一に問題とされるべきなのは,それが 医師が行う治療行為として適切なものといえるかどうかである。したがって,

治療不開始/中止の許容性も,まずは治療行為論の枠組みを用いて論じるのが 適切であろう。

 本稿の理解では,「治療行為」は,正当防衛,緊急避難等と並ぶ違法阻却事 由である。したがって,医師による治療不開始/中止行為の刑事責任は,それ が傷害罪ないし(同意)殺人罪の構成要件に該当することを前提に,治療行為 として正当化されうるかというかたちで論じられる。本章では,終末期ないし それに類する状況において,治療行為としての正当化がどの範囲で認められる かを考察するが,その前に,こうした枠組みにおいて治療不開始/中止行為を 論じることの,明らかな利点の一つを指摘しておきたい。それは,治療行為論 の枠組みでは,問題となる医師の行為が作為であるか不作為であるかによって,

正当化の可否が左右されることはない点である。

 医療実務においては,「治療不開始という不作為は犯罪ではないが治療中止 は犯罪であるから,一度治療を始めてしまうと二度と止めることはできない」

という認識が定着しており,そのために,本来開始されてしかるべき治療が開 始されない事態が生じている。治療中止の際の葛藤を回避するために,治療開 始の段階で決着を付けることが慣例となっているのである。顕著な例は,ALS

(筋萎縮性側索硬化症)等の神経難病の患者のケースであろう。

 ALSは,脳,内臓,眼球は正常に働き感覚も残るが,全身の随意筋が次第に 萎縮して動かなくなる原因不明の難病である。病状が進行し呼吸筋が衰えてく

(10)

ると,患者は自力で呼吸を行うことができなくなるが,その後も,人工呼吸器 を付ければ相当期間生存を続けることができる。人工呼吸器が必要になる段階 において,患者は決して末期状態にあるわけではない。

 それにもかかわらず,患者はその段階で,呼吸器を付けて生き続けるか,呼 吸器を付けずに死んでゆくかの選択を迫られる。呼吸器を付ければ生き続ける ことができるのであるから,本来であれば治療を続けることがデフォルトであ るはずであり,あえて選択が迫られるのはむしろ奇異といえよう(12)。それでも,

患者が呼吸器の装着/不装着の決断を迫られ,多くの患者が装着せずに死んで いくことを選ぶのは,一度装着した呼吸器を停止することはできないと解され ているため,そして,最初から装着をしないことは犯罪ではないと認識されて いるためなのである(13)

 このような事態を生みまた放置していることの責任は,かなりの程度法律学 にあるように思われる。病状がさらに進行するまでは治療を続けるという選択 よりも,早い段階で生命を終わらせる選択の方を促進してしまうような法理論 は,法律学の責任において,明確に否定されなければならないであろう。治療 行為論の枠組みにおいては,治療の不開始と中止が等価値であることは,つぎ のように説明することが可能である。

 医師と患者が診療契約を結んでいる場面では,医師は一般に患者の病状を悪 化させないための作為義務を負っていると解される。医師は,引き受けに基づ き,患者の身体という法益を排他的に支配しているといえるからである(14) したがって,治療を行っても行わなくても,医師の選択と患者の身体状態の悪 化や死亡との間に因果関係が認められる限り,医師の行為は傷害罪ないし殺人 罪の構成要件に該当する。治療行為論は,医師の行為に構成要件該当性がある ことを前提として,当該行為が,治療行為として適切であったか否かを論じる 議論である。そのため,当該行為は,それが客観的に見て適切な治療行為であ れば正当化され,そうでなければ正当化されないというだけであり,作為であ

(11)

るか不作為であるかは一切意味を持たないのである。

 治療中止行為を不可罰とし,その限りで作為と不作為の等価性を確保しよう とする理論構成として,すでに,医師による治療の中止は「作為による不作為」

であるとし,治療継続義務が認められないときには,治療中止行為には構成要 件該当性が認められないとする見解が提案されている(15)。この見解が,立論 の前提として,「医師の行為を不作為に分類することは,治療行為の社会的実 態に即して観察したとき,むしろ自然なことである。医師は患者の救命を依頼 されてこれを引き受け,自己の負担と責任において救命のための治療行為を継 続してきており,患者の現在の状態は,医師側の行う継続的な治療行為に全面 的に依存する形で維持されているのである。自動化された治療を打ち切ること は,将来に向けてもはや治療行為を行わないことと等価である」とするのは,

そのとおりであると思われる。たしかに,医師は患者の診療を引き受けて,と もかく何かを行うか行わないかの選択を継続的に迫られているのであり,治療 を行わない選択と打ち切る選択に差異を認めるべきではない。しかし,作為と 見るにせよ不作為と見るにせよ,医師の行為が類型的に構成要件に該当しない と見るのは困難であり,また妥当でないように思われる。構成要件に該当する ということは,直ちに当該行為が具体的に禁止されていることを意味するもの ではなく,健康状態を悪化させ,あるいは生命を終わらせる行為類型を,一般 的な禁止の下に置く趣旨であるに過ぎない。医師が治療を中止する行為は,構 成要件レベルでは,(構成要件レベルの)作為義務に反して生命を終わらせる行 為であると評価せざるをえないであろう。医師の行為を正当化しうるか否かを 決する「治療継続義務」の有無は,治療行為というものの特質,当該疾患の性 質,患者の意思等を考慮に入れてなされるきわめて実質的な判断である。こう した判断は,不作為犯の構成要件該当性を基礎づける保障人的地位の有無の議 論として行うよりは,違法阻却の可否の議論として行うのに適したものである と思われる。

(12)

2.終末期における医学的正当性の判断

(1)前提―医師の生命保護義務

 刑法によって積極的に保護されるべき権利であるかは別として,一般論とし て,患者には治療を拒否する権利がある。患者には病院に行かない自由がある し,患者が治療を拒否したために患者の身体状態が悪化したとしても,それが 傷害の限度に止まる限り,治療を行わなかった医師の不作為が犯罪を構成する ことはない。しかし,生命にかかわる場面では話は違う。同意殺人罪を犯罪と する現行法の下では,治療を拒否する患者の権利にも一定の制約が課せられて いると解さざるをえず,医師が,治療を行えば確実に命を救うことができる患 者に対し,必要な治療を行わずにその患者を死亡させたとすれば,患者が治療 を拒否していたとしても,不作為による同意殺人罪が成立することは否定しが たい。あえて強調されることは少ないが,この点には,疑問の余地はないと思 われる。

 たとえば,盲腸という病気は,適切な治療を行えば死に至る種類の病ではな いが,治療を行わなければ患者が死亡することはある。盲腸に罹患した患者が 治療を拒絶し,痛みの緩和のみを求めたとき,医師がこれに応じて積極的な治 療を開始せず,その結果として患者が死亡したとすれば,医師の行為は不作為 による同意殺人罪に問われてしかるべきであろう。

 診療契約関係にない患者に対し,治療を施す権利・義務は医師にはない。し かし,一度診療契約を結べば,医師は患者の健康状態を維持・改善し生命を保 持する義務を負うのであり,当該義務に反する行為を治療行為として正当化す ることはできない。以上を前提とした上で,それでも,終末期医療において死 期を早める治療の不開始/中止が正当化されうるとすれば,その理由はどこに あるのであろうか。

(13)

(2)終末期における医療の役割

 医学的正当性の判断は,医療の役割を基礎として判断されるものである。医 療は,技術的に可能なことをすべて行わなければならないわけではなく,医療 の役割に照らして,行う意味のある治療だけが,医学的に正当な治療と判断さ れるのである。とくに終末期およびそれに類する状況は,医療の本来的な役割 が,切実に問われる場面といえる。

 医療の役割を,単純に,患者の病気を治し,できるかぎり生命を長らえるこ とにあると解するのは適切とはいえない。これは,「過剰な延命医療」といえ ば誰でも否定的な反応を示す現在では,すでにいうまでもないことであろう。

「法が,生命保護の要請を理由に,医療従事者に対し,極限まで患者の脳と心 臓とを人為的に機能させ続けることを義務づけるとすれば,それは非人間的な ことであり,野蛮である。」(16) 死は不可避であるし,避けるべきものでもない。

ある種の疾患もそうであるかもしれない。

 おそらく,医療は,人が生まれてから死ぬまでの過程に寄りそって,なるべ く健康に,医学的な意味で安楽に,その生を全うできるようにするものであり,

何が何でも死なないように,一分一秒でも心臓の拍動を延長するためのもので はない。いわゆる「治療義務の限界」の理論,すなわち,治療として意味のな い行為を行うことは医師の義務ではなく,当該行為の中止は医学的観点から正 当化されるとする見解は,このような認識から直接的に導かれるものであり,

基本的に妥当であると思われる。

 しかし,「意味のない延命治療」と表現されるような行為を「義務ではない」

と消極的に否定するだけでよいかは,一つの問題であろう。「義務ではない」

ということは,「行っても不当ではない」ことを含意する。それでは,明らか に不当な延命治療が,医師の自己満足のためだけに行われ,患者がその犠牲に なる事態を回避することはできないように思われる。蘇生の可能性のない,臨

(14)

死状態の患者を家族から引き離し,心臓マッサージを施して死亡時刻を数分間 遅らせるような真に意味のない延命治療は,決して治療の名に値するものでは ない(17)。こうした行為が,客観的に見て適切な治療行為でないことは明らか であり,これを治療行為として正当化するのはむしろ困難であろう。法的には,

こうした「過剰な延命医療」は行ってはならないことが原則であり,患者の同 意があった場合に,被害者の同意の法理により例外的に許容されるものと解す るのが妥当であるように思われる。

 東海大安楽死事件判決において,横浜地裁は,「治療行為の中止は,意味の ない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいとい う,患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と,そう した意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療 義務の限界を根拠に,一定の要件の下に許容される」とし,「その要件は,患 者が治癒不可能な病気に冒され,回復の見込みがなく死が避けられない末期状 態にあること,治療行為の中止を求める患者の意思表示が中止を行う時点で存 在することである」としていた(18)。「意味のない治療」を中止する場合でも,

患者の納得が得られていることが望ましいことはたしかであるが,患者の意思 表示がなければ違法性が阻却されないとするのは,過剰な要求であろう。ちょ うど 10 年後,川崎協同病院事件第 1 審判決において,横浜地裁は「医師が可 能な限りの適切な治療を尽くし医学的に有効な治療が限界に達している状況に 至れば,患者が望んでいる場合であっても,それが医学的にみて有害あるいは 意味がないと判断される治療については,医師においてその治療を続ける義務,

あるいは,それを行う義務は法的にはないというべきであ」るとして,治療が 限界に達している場合には,患者の意向にかかわらず違法性が阻却されるとい う立場に転じた(19)。意味のない治療を行うことが許されないとまではいって いないものの,治療が限界に達している場合にはそれだけで医師の治療義務が 解除されるとした点は適切であったと思われる。同事件の控訴審判決も,第一

(15)

審が展開した治療義務論については,肯定的に評価していると見てよいであろ (20)

 ただし,医療の役割が何が何でも生命を引き延ばすことにあるのではないと しても,医療の介入を「人為」と切り捨てることができないことは,確認して おきたいと思う。日本尊厳死協会は,同協会が主張する尊厳死とは,「自らの 傷病が不治かつ末期に至ったとき,インフォームド・コンセント(十分な説明 と理解をした上での同意)に基づく健全な判断の下での自己決定により,いたず らに死期を引き延ばす延命措置を断り,自然の死を受け入れる『死の迎え方』

で,自然死と同義語」であると述べているが(21),同協会の主張する尊厳死は,

持続的植物状態の患者の治療中止を含み,ALSの患者については「①自力摂 食が不可能となり,人工的に水分・栄養補給が必要になった時期 ②呼吸が困 難となり,人工呼吸器を要するようになった時期 のどちらか一つが到来した とき,延命措置不開始ができる『末期』と考え」(22)るなど,かなり射程の広い ものである。これらの患者について,治療の不開始/中止を認めるべきかは,

議論の余地のある問題であるが,単純に「自然な死」として正当化しうるもの ではないであろう。

 人間は医療がなければ病気や事故によって容易に死んでしまう。それは見方 によっては「自然」であり,治療を拒絶した人を死ぬに任せることは何ら違法 なことではない,という考え方はありうるが,血を流している人の止血もせず に死亡させることが殺人ではないとする考えを,個人の生命保護を基本的な役 割の一つとするわれわれの社会が採用することはできないであろう。われわれ の社会は,医療の存在を当然の前提とする社会であり,医療が容易に実現でき ることは,当然行われるべきこととして,法的に期待されていると解さなけれ ばならない。同意殺人罪を違法とする現行法の下では,医師には,生命の救助 に必要な措置をとることが義務づけられていると解するべきであり,それを行 わない医師の行為には,同意殺人罪が成立すると解するほかない。問題とされ

(16)

なければならないのは,治療が限界に達しているとはいえない場面であって,

医療的介入に十分に意味がありうる場合であっても,治療中止が許容されるべ き場合があるのか,あるとしたらそれはなぜかということである。

(3)終末期医療の性格

 死につながる治療方針の選択が許容されうる理由を考える際,決定的な意味 を持っているように思われるのは,医療というものの不確実性である。医療は,

本質的に不確実な営みであり,結果を保証するものではない。とりわけ,全身 状態が悪化して重篤な状態にある患者においては,患者の個体差とも相まって,

不確実性はいっそう大きくなろう。

 中島みちは,終末期における治療の選択において「患者側の納得こそが大切」

である理由を,つぎのように分析している。

 「それは,ほとんどの場合,医療というものに絶対はないからです。医学と は不確実性の科学であり,医療とは医学を取り入れた実践の技術であるうえに,

医師の能力にも差があります。そしてその対象となる患者の身体には個体差が あり,病状もさまざまです。

 このように医療が不確実で相対的なものであるからには,医療の結果を,後 にも先にも一回きりの,この身ひとつに引き受ける患者と,その存在をかけが えのないものと感じている家族の納得や諦めこそが,終末期医療の中で,とり わけ尊重されねばならず,それなくしては,医療の中の『真の尊厳死』とは言 えないのではないでしょうか。」(23)

 もし,治療の効果が確実に予測できるならば,同意殺を違法とする現行法の 下では,医師にはつねに,生命の存続に向けて健康状態を改善し維持するため の治療が義務づけられることになるはずである。しかし,実際には,とくに重 篤な患者においては,治療の効果はまったく確実ではなく,苦痛と副作用だけ がもたらされることも少なくはない。医師には生命存続に向けた措置をとる一

(17)

般的な義務があることを前提としてもなお,多くの場合に,治療の選択が患者 に委ねられなければならないのは,治療の効果が不確実であり,不確実な治療 の結果を引き受けるのは患者であること,加えて,治療の実施はそれ自体,患 者の身体的な快・不快,生活機能の如何といった患者の主観的な身体利益に対 し,確実に,そしてしばしば甚大な影響を与えるためであると考えられる。

 たとえば,抗がん剤の中には,治療効果が現れるか否かが患者の体質に依存 し,その確率が 50 パーセントをはるかに下回るものがいくらでもある(24)。効 果が不確実である一方で,強い副作用はしばしば確実に訪れて,患者の生活を 脅かすことになる。このような場合,治療が功を奏すれば数週間,数ヶ月,あ るいは年単位の延命の可能性があったとしても,治療を義務づけることはでき ないし,義務づけるべきではないであろう。

 同意殺を禁じる法の下では,医師には担当患者の生命を保続させるための措 置をとる義務がある。したがって,容易に実施でき,患者の健康状態を改善す ることが確実な治療が存在する場合には,医師はそれを行うべきであり,それ が生命にかかわる場合には,患者にそれを拒絶する権利はないと考えられる(25) しかし,治療効果の不確実性が高く,深刻な副作用を伴うような場合には,当 該治療を行うことが患者の利益になるかどうかを,客観的に判断することはで きない。治療行為としての妥当性を判断する際に,比較衡量されるべき利益は,

プラスの方面に算入されるのは,患者の健康状態が維持・改善される不確実な 可能性,マイナス方面は,当該治療によってもたらされる身体的苦痛,生活機 能および生活状態の変化であり,後者は本質的に主観的なものである。後者が 主観的利益であるとしても,(生命の維持に向けた)健康状態の改善が確実であ るならば前者が優越すると解する余地はあるが,治療効果が不確実であること を前提とするなら,優越的利益の存否の判断は,患者本人にしか行うことがで きないと解するべきであろう。治療行為論一般においてそうであったように,

終末期医療における治療方針の決定においても,患者の意思に合致しなければ

(18)

治療が正当化されない場合があるのは,治療の医学的妥当性それ自体が患者の 意思に左右される場合があるためと考えるべきであり,患者に一般に治療拒否 権が認められるため,患者の治療拒否権が生命の利益に優越する場合があるた めと解するべきではない。

(4)医学的適正の判断

 治療効果の不確実さを,患者の意思を重視するべき一つの根拠とする立場に 対しては,人工呼吸器を装着すれば確実に数時間,数日間生命を長らえること ができるような場合における治療中止を正当化できないのではないかという指 摘があるかもしれない。しかし,すでに述べたように,医療の役割は,決して 心臓の拍動を長引かせることにあるのではない。治療の不開始/中止を構成要 件該当性のレベルのみで考察すると,数時間の延命を行わない場合であっても,

殺人罪の成立を否定することは難しいであろう。しかし,治療行為論の枠組み で論じる場合には,正当化の可否は,直截に,当該行為が医療の役割に則った 適切な行為であるか否かによって決まる。したがって同じ人工呼吸器の不装着

/取り外しであっても,その可否は,そのときの患者の身体状態に応じて,当 該行為が患者の身体状態に対して与える作用が医学の役割に照らして有意義か どうかという観点から判断されなければならないことになる。

 従来,患者の意思に基づく治療の不開始/中止が許される場面は,「患者が 治癒不可能な病気に冒され,回復の見込みがなく死が避けられない末期状態に あること」(26)というように,患者の医学的な状態によって枠づけられる傾向に あった。しかし,治療行為として意味があるかどうかは,患者の身体状態と治 療の相関関係によって決まるものである。終末期医療に関する議論においては,

「終末期」概念の曖昧さが指摘されたり,社会的合意に基づいて「終末期」を 定義する必要性が主張されることがあるが,治療の不開始/中止が許容されう る地点を,患者の身体状態によって一律に区切ろうとする試みは有害無益であ

(19)

ろう。

 医学的適正さ,すなわち,医療の役割に則した適切な治療であることの判断 は,とりわけ終末期医療においては,全身状態との関連において行うことが重 要であるように思われる。同じ人工呼吸器でも,全身状態が比較的良好な患者 の呼吸を助ける機能を果たす場合と,きわめて重篤な状態にある患者の呼吸機 能を無理に維持する場合とでは,まったく意味が異なる。生命の価値に着目す れば,全身状態が良好な患者の生命の価値と,重篤な状態にある患者の生命の 価値は等しい。これはいうまでもないことである。しかし,治療としての妥当 性に着目するなら,前者には意味があり,後者には意味がないことは明らかで あると思われる。

(5)小活―治療不開始/中止行為の評価枠組

 治療の不開始/中止の刑法的評価に関する本稿の基本的な考え方を整理して おきたい。

①医師が治療の不開始/中止により担当患者の死期を一定程度早める行為は,

作為であれ不作為であれ,殺人罪の構成要件に該当する。

②治療の不開始/中止が,医療の役割に照らして適切な選択であると評価でき る場合には,当該行為は治療行為として正当化される。この際,当該行為が作 為であるか不作為であるかは法的評価に影響しない。

③本稿の理解では,治療行為は,医師に診療義務が課せられていることを前提 とした違法阻却事由である。したがって,正当化される治療行為の主体は,原 則として,患者と診療契約関係にある医師に限定される。

④治療行為としての正当化の可否は,医学的な観点から,患者にとって当該行 為が有益であるか否かによって判断される。以下で述べるように,患者にとっ て有益か無益かは,患者の意思を考慮しなければ判断できない場合があるが

(⑦),医学的適正の判断がつねに患者の意思に左右されるわけではなく,患

(20)

者の意思に反しても適正と判断されるべき場合もあれば(⑥),患者の意思に 合致しても不当と判断されるべき場合もある(Ⅳ4)

⑤治療に意味があるかないかは,患者の身体状態と治療内容との相関関係に よって決まる。したがって,「患者が治癒不可能な病気に冒され,回復の見込 みがなく死が避けられない末期状態にある」場合であっても有効な治療はあり うるし,ある程度余命が残されている場合であっても治療が有益といえない場 合もある。治療不開始/中止の可否を,患者の身体状態と直接的に関連づけて 論じる従来の傾向は改められるべきである(27)

⑥治療が患者の利益になるか否かの判断は医学的な判断であり,蘇生の可能性 がなくなった段階で行われる心臓マッサージ等の過剰な医学的措置は,患者の 意思にかかわらず,無益な行為と評価するべきである。過剰な医学的措置は,

患者の求めに応じて行う場合には,被害者の同意の法理によって正当化される が,治療行為として正当化されるものではない。過剰な医学的措置の不開始/

中止は,患者や家族の納得の下で行うのが「ベスト・プラクティス」ではある が,患者や家族の同意なしに行っても刑法上は適法と解するべきである。

⑦治療不開始/中止が選択肢となりうる場面では,当該治療の(生命維持に向 けて健康状態を維持・改善する)効果が確実でない一方で,治療のあり方および 副作用はしばしば確実に,身体的な快・不快,枢要部分の外観,本質的な生活 機能といった患者の主観的身体利益に重大な影響を与える。このような場合,

利害(不確実な効果

VS

主観的身体利益の侵害)の衡量は患者自身にしか行うこと ができず,その帰結として,治療方針の選択は患者の意思に基づいて行わなけ ればならないことになる。この場面では,患者の意思に反する治療には医学的 妥当性が欠けるため,患者の意思に反する医師の行為は違法である。

(21)

Ⅳ 諸問題の検討

1.治療義務の限界,患者の自己決定権

 東海大安楽死事件判決以来,治療中止行為の正当化根拠は,治療義務の限界 と患者の自己決定権の 2 つの観点から論じられるのが通例となっているが,両 者の相互関係については必ずしも明確にはされていなかった(28)。ここでは,

治療行為としての正当化を論じる本稿の立場から,両者の関係がどのように整 理されるかを確認しておきたい。

 近時の有力説は,治療の中止が許される理論的な根拠を,(広い意味での) 師の治療義務の限界に求め,その判断において,医学的な観点(=(狭義の)

治療義務の限界)と患者の希望(=患者の自己決定権)の双方を考慮する立場を とっている(29)。この 2 つの要素はどちらも単独で治療中止の根拠となりうる ものとされ,末期であることを条件に,医学的に意味のない治療については患 者の希望にかかわりなく医学的観点のみによって,治療の中止を患者が希望し ている場合には,医学的判断にはかかわりなく患者の自己決定権のみを根拠と して当該治療を中止することが許される,とするのがこの立場であり,川崎協 同病院事件第 1 審判決の立場でもある。すでに論じたように,この立場の問題 点は,なぜ末期であれば患者の自己決定による正当化が認められるのかが明ら かでない点,それゆえに,医学的に不当な措置が「患者の自己決定権」によっ て正当化される危険を回避できない点にあった。

 本稿の立場は,治療不開始/中止行為が許される理論的根拠を治療行為とし ての正当性に求め,その判断においては,事実上,医学的観点と患者の希望の 双方が考慮されるというものであるから,有力説とさほど大きな違いがあるわ けではない。主たる相違は,本稿の立場では,治療行為としての正当性の判断

(22)

は,あくまでも医学的正当性の判断に基づくものであり,患者の自己決定それ 自体は治療義務を解除する根拠ではない点である。

 本稿の立場では,患者に対する医師の行為は,診療契約関係を前提に,治療 効果が期待できる医学的に正当な行為である場合に,治療行為として正当化さ れる。医学的正当性は,事前的な利益衡量により優越的身体利益の保護が期待 される場合に認められるものであるが,すでに述べたように,身体利益には,

外観や生活機能を通じて人格を形成する主観的利益が含まれるため,優越利益 といってもつねに客観的に判断できるわけではない。とりわけ,終末期におけ る治療は,治療効果の不確実性が高い(場合が多い)一方で,患者の主観的身 体利益に重大な影響を及ぼすことが多い。たとえば,経口で食事が取れるか,

どの程度明晰な精神状態が保てるか,痛みはどの程度であるかといったことは,

患者の主観的身体利益にとって,きわめて重要な事実でありうるであろう。こ うした場合には,治療のもたらす利害が患者の考え方に左右されるため,患者 の意思を確認しなければ利益衡量自体を行うことができないことになる。すな わち,治療不開始/中止行為の正当化に際して,患者が当該行為を希望してい ることが決定的な意味を持つ場合があるのは,治療の副作用として害される身 体利益が患者にとって重大なものである場合には,当該行為の医学的正当性を 認めることができないためであって,患者の治療拒否権が医師の生命保護義務 よりも優越するためではないのである(30)

 このように解することの最大の利点は,患者の自己決定の効力を,医学的妥 当性の枠内に収めることができることである。有力説も,末期であることを前 提としているから,その限りでは医学的な考慮が含まれているといえる。しか し,後述のように,議論の射程を末期に限定するのは適切でないこと,末期の 概念は非常に曖昧であることからすると,それだけで医学的に不当な行為が防 止できるかは疑わしいように思われる。同意殺人罪を犯罪とする法制度を前提 に,生命の保護を確実にするためには,患者の意思の効力を,身体利益の衡量

(23)

に必要な範囲に限定し,客観的利益の大きさに比して主観的利益の侵害が小さ い場合等には,患者の意思に反する治療の継続を法的要請とする余地を残して おくことが必要であろう。

2.治療不開始/中止論の射程

 治療中止の正当化に関する議論は,多くの場合,医学的な観点(治療義務論)

のみによる正当化が視野に入るような,かなり末期の状態だけを念頭において なされているように思われる。治癒不能かつ末期であることが重要な指標とさ れているのも,最終末期における治療中止行為の正当化が主たる課題と認識さ れているためであろう。

 最終末期の治療中止のみに焦点が当てられているのは,おそらく,これまで の実務において,治療不開始の刑事責任が問われたことがないためである。し かし,刑法理論上は,治療不開始であっても作為義務が認められる限り犯罪と なりうるのであり,治療不開始は不作為であるから犯罪にはならないという認 識は少なくとも正確なものではない。すでに見たように,そうした認識が,病 状が進行するまで治療を続ける選択よりも,早期に生命を終わらせる選択を促 進する効果を持っていることを考えると,最終末期よりも早い段階での治療不 開始/中止についても,法的な許容性の限界を明らかにしておくことは必要で あると思われる。

 実際,重篤な患者に対する治療方針の選択が法的な問題を生じるのは,治癒 不能かつ末期の場合だけではない。通常の治療行為は,傷害罪の構成要件該当 性が問題となるにすぎないため,患者の同意がある場合には被害者の同意に基 づく正当化が可能であり,治療行為としての正当化も比較的容易に認められよ う。これに対し,重篤な患者に対する治療の不開始/中止においては,患者が 末期ではない場合であっても,殺人罪の構成要件該当性が認められることが少 なくないと思われる(31)。末期における治療の不開始/中止が深刻な問題を生

(24)

じるのは,それが殺人罪の構成要件に該当するために,患者の同意のみでは当 該行為を正当化することができず,治療行為としての正当化も困難になるため である。したがって,治療中止の正当化を論じる際には,その射程を限定せず,

殺人罪の構成要件に該当しうる全てのケースを対象とすることが必要である。

 終末期医療の実情を考慮しても,議論の射程を末期およびそれに類する場合 に限定することには問題があると思われる。第 1 に,治療の不開始/中止は,

必ずしも患者が「治癒・回復不能」とはいえない場合であっても,許容されて よい場合があると考えられる。川崎協同病院事件の第 1 審判決は,被害者の余 命につき,約 1 週間から 3 か月程度の可能性が最も高く,昏睡・植物状態か ら脱却する可能性が 10%程度,昏睡状態の下で数年間生存を続ける可能性が 40%程度であったとする鑑定を参考に,「回復不可能で死期が切迫している場 合」にはあたらないと判断した(32)。たしかに,このような場合,患者は治癒・

回復不能であるとはいえないが,治療を続けても回復しない可能性が高いこと を考慮すれば,治療の負担が大きい場合や,持続的植物状態に陥る一定以上の 蓋然性があるような場合には(33),患者の希望に沿うならば,治療の中止は認 められてよいのではなかろうか。第 2 に,先に述べたように,重篤な患者の生 命を,医師の専断や家族の意向から保護するためには,早期の治療不開始であっ ても,法的に正当化できない場合があることを明確にする必要がある。医師・

家族の責任の範囲を積極的に拡大する意図は毛頭ないが,医療の適正を守るた めには,早期の治療不開始のケースも想定して,治療不開始/中止が正当化さ れる要件が示され,治療選択の指針とされることが望ましいと思われる。

3.患者の意思が明らかでない場合の治療方針の決定―本人意思の推定,医

師の裁量権

(1)推定的意思の不可欠性

 治療の不開始/中止を含む治療方針の決定が問題となる場面では,患者自身

(25)

が自らの意思を表明できることは稀である。その場合でも,治療の開始/継続 に意味がないことが医学的に明らかである場合には,医師の判断で治療不開始

/中止を決定することはできる。これに対し,治療に意味があるかないかが患 者の意向に左右される場合―すなわち,終末期において治療不開始/中止行為が 問題となるほとんどの場面―にはその判断をどのように行うかが深刻な問題と なる。

 この問題を考える際にも,患者の意思がいかなる意味で,治療不開始/中止 の正当化にかかわっているのかを明確にしておくことが重要である。

 有力な見解は,終末期における治療不開始/中止は,治療を拒否する権利,

あるいは「最後の生き方,すなわち死の迎え方を自分で決める」(34)患者の権利 によって正当化されるという立場に立っていた。このような解釈においては,

患者の決定権の内実が,「治療を拒否して死を選ぶ権利」,「あえて早期に死を 迎える権利」であることを否定するのは難しい。かりにそのような権利を認め るとしても,そのような重大な決定を行う権利は,一身専属的なものと理解せ ざるをえないであろう。川崎協同病院事件控訴審判決は,自己決定権という権 利行使により治療中止を適法とする場合には,家族の意思に基づく代行ないし 代諾を認めることは困難であることを指摘しているが,指摘のとおり,当該自 己決定権が実質的には「死を選ぶ」権利であることを前提とするかぎり,家族 による代行・代諾や「推定的意思」を認めることはできないという帰結は避け られないと思われる。

 同事件の第 1 審において,横浜地裁は,終末期における患者の自己決定の尊 重を「最後の生き方,すなわち死の迎え方を自分で決める」権利として位置づ けた上で,患者本人の意思が確認できない場合については,つぎのように述べ ている。

 「このような場合には,前記自己決定の趣旨にできるだけ沿い,これを尊重 できるように,患者の真意を探求していくほかない。この点について,直接,

(26)

本人からの確認ができない限り治療中止を認めないという考え方によれば解決 の基準は明確になる。しかし,その結果は,そのまま,患者の意に反するかも しれない治療が継続されるか,結局,医師の裁量に委ねられるという事態を招 き,かえって患者の自己決定尊重とは背馳する結果すら招来しかねないと思わ れる。……その真意探求に当たっては,本人の事前の意思が記録化されている もの(リビング・ウイル等)や同居している家族等,患者の生き方・考え方等を 良く知る者による患者の意思の推測等もその確認の有力な手がかりとなると思 われる。そして,その探求にもかかわらず真意が不明であれば,「疑わしきは 生命の利益に」医師は患者の生命保護を優先させ,医学的に最も適応した諸措 置を継続すべきである。」

 繰り返しになるが,「最後の生き方を決める」ことの反射的な効果であると しても,死の選択が問題となっていると解する以上,それを推定的意思によっ て認めることには問題がある。とくに,横浜地裁は,真意が不明である場合に は生命保護を優先させ,医学的に最も適応した諸措置を継続すべきであると述 べているが,生命保護にとって最善の医学的措置というものが,患者の意思を 除外して判断しうる場面であるなら,正しく「疑わしきは生命の利益に」とさ れるべきであって,推定的意思によって死の早期化を認めることは許されない はずである。

 しかし,終末期医療の実情を考えたとき,医師の裁量により医学的に可能な すべての治療が行われ,あるいは行われている治療がそのまま継続されること に問題があることは,横浜地裁の指摘するとおりである。この点につき,横浜 地裁が依拠したと思われる見解は,「患者の現実の意思表示がない限り,何も 決定することができないとすると,現状がそのまま維持されることになって,

望ましいことではない」という認識に立ち,「患者の事前の意思が存在する場 合には,これによって患者の意思を推定し,それも存在しない場合には,患者 の家族の意思によって患者の意思を推定することを認める必要がある」(35)とし

(27)

ている。この見解は,治療義務が限界に達している場合でなくても,患者の自 己決定権を実質的な根拠として治療中止行為の正当化を認める立場に立つもの であるが,問題は,この場面で患者の自己決定権が重視されるべきであるのは なぜかということであろう。もし,この見解が,「死の選択」すら,場合によっ ては患者の自己決定権に含まれるとする立場を前提とし,最後の生き方の選択 としての自己決定の推定を認めようとするものであるなら,横浜地裁に対する のと同様の批判が当てはまる。 

 たしかに,何も決定できないことにより,医学的に可能なすべての治療が行 われ,あるいはすべての治療がそのまま継続されることは,患者にとって不利 益となりうる(36)。それは,すでに述べたように,治療が患者の主観的身体利 益にかかわる場合には,当該治療の医学的妥当性は,患者の意向によって左右 されるためである。客観的には「プロ・ライフ」の方向での治療であったとし ても,当該治療の開始/継続を患者が拒んでいる場合には,当該治療は患者の 主観的身体利益を大きく害する不当な治療行為である可能性がある。全身状態 が相当に悪化しているときに,一縷の望みをかけて侵襲性の高い治療を開始/

継続するのがよいか,治療を行わずになりゆきに任せるのがよいかは,患者の 死生観,医療観,生活における優先順位等に依存する問題であり,客観的に判 断することのできる問題ではない。

 重要なことは,このように解する場合には,患者の意思の推定を認めなけれ ば当該行為の医学的正当性を論じるのは不可能であること,したがって,意思 の推定を認めないという選択肢は存在しないことである。ここで問題となって いるのは,治療不開始/中止行為の医学的な妥当性,すなわち,開始/継続と 不開始/中止のどちらが患者にとって有益な治療であるかということであり,

生きるか死ぬかの選択ではない。生きるか死ぬかが問題であるなら,患者の意 思が不明である場合には「疑わしきは生命の利益に」という方針をとることが 可能であるし,そうすることが妥当であろう。しかし,実際に問題となってい

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