道 宣 の 前 半 生 と
﹃続 高 僧 伝
﹄
初 稿 本 の 成 立
日本 古写 経研 究所 研究 紀要
創刊 号︵ 平成 年︶ 28 Journal of the Research Institute for
Old Japanese Manuscripts of Buddhist Scriptures Vol. I 2016
池
麗
梅
道 宣 の 前 半 生 と
﹃続 高 僧 伝
﹄
初 稿 本 の 成 立
池
麗 梅
は じ め に
南北朝後 期か ら隋 唐代 まで の中 国仏 教史 を研 究す る上 で必 要不 可欠 な文 献 であ る﹃ 続高 僧伝
﹄が 有す る重 要性 につ いて は今 さら 強調 する まで もな いで あろ う︒ ただ
︑そ の資 料的 価値 が認 めら れ︑ 様々 な研 究分 野に おい て引 用・ 援用 され る一 方で
︑収 録資 料が 亜大 なう え多 岐に わた って いる こと もあ り︑
﹃続 高僧 伝﹄ その もの を対 象と する 研究 はや や難 航し てい る観 があ り︑ 特に
︑ 同書 の成 立過 程の 複雑 さが
﹃続 高僧 伝﹄ 研究 の障 碍の 一つ にな って いる と思 われ る︒ 道宣 の序 文に よれ ば︑ 同書 は︑ 南朝 梁・ 慧皎 の﹃ 高僧 伝﹄︵
仏教 初 伝以 来︑ 五一 九年 まで の高 僧の 伝記 を︶ 継ぎ
︑梁 天監 元年
︵五
〇二 か︶ ら唐 貞観 十九 年︵ 六四 五︶ まで の百 四十 四年 間に 活躍 した 高僧 につ いて
︑そ の正 伝だ けで も三 百四 十人 分を 収録 して いる とい う()
︒し かし
︑現 行の 諸刊 本大 蔵経 本 を見 る限 り︑
﹃続 高僧 伝﹄ が収 録す る伝 記の 実数 は︑ 道宣 本人 が序 文で 告知 した 総数 より もか なり 増え てお り()
︑ま た︑ 著作 の収 録年 代の 下限 とさ れる 貞 観十 九年 以後 の記 事も 存在 し()
︑あ まつ さえ 道宣 死後 の出 来事() にま で言 及さ れ
てい るの であ る︒ こう した 種々 の齟 齬の 存在 から
︑先 学は
﹃続 高僧 伝﹄ が現 行本 の形 態に 至る まで に数 段階 の増 補・ 編纂 が行 われ たと 想定 した()
︒そ して 刊本 大蔵 経テ キス トよ りも 古い 成立 段階 に起 源を 有す るテ キス トと して 注目 を集 めた のが
︑興 聖寺 一切 経を はじ めと する 日本 古写 一切 経本
﹃続 高僧 伝()
﹄ の存 在で あっ た︒ まず
︑藤 善真 澄﹇ 二〇
〇二()
﹈は
︑興 聖寺 本﹁ 玄奘 伝﹂ を刊 本大 蔵経 本と 校 合し
︑興 聖寺 本所 収の
﹁玄 奘伝
﹂の 祖本 は貞 観二 十二 年︵ 六四 八︶ 十月 頃に 撰述 され たと 論証 して いる()
︒更 に︑ 同氏 は︑
﹃続 高僧 伝﹄ の全 体は 貞観 十九 年に 初稿 がい った ん完 成し
︑貞 観二 十三 年︵ 六四 九︶ には 補訂 され て興 聖寺 本の 祖本 が成 立し たが
︑そ れに 後の 加筆 が行 われ た結 果︑ 興聖 寺本
﹃続 高僧 伝﹄ の現 状に なっ たと 考え てい る()
︒ま た︑ 興聖 寺本 の中 に﹁ 大唐 西明 寺沙 門 釈道 宣撰
﹂と いう 撰号 が見 える こと から
︑当 本の 原本 は道 宣が 西明 寺に 移住 した 顕慶 三年
︵六 五八 以︶ 後に 書写 され たも のと 考え てい る()
︒一 方︑ 伊吹 敦
10
﹇二
〇〇 五()
﹈は
︑﹁ 逹摩
=慧 可伝
﹂の 増補 に着 目し て︑ 興聖 寺本 の祖 本の 成立
11
年代 の下 限を 麟徳 元年
︵六 六四 に︶ 引き 下げ
︑更 に斉 藤逹 也﹇ 二〇 一四
﹈﹁ 金 剛寺 本﹃ 続高 僧伝
﹄の 考察 袞巻 四玄 奘伝 を中 心に
﹂袞 は︑ 興聖 寺本
﹁玄 奘伝
﹂
の成 立は 貞観 二十 二年
︵六 四八
︶以 後と 考え てい る()
︒12 藤善 氏と 伊吹 氏の 諸論 著が 刊行 され た当 時は
︑興 聖寺 本以 外の
﹃続 高僧 伝﹄ 古写 本の 存在 や内 容は あま り広 く知 られ てい なか った が︑ 近年
︑金 剛寺 一切 経本
︵以 下︑
﹁金 剛寺 本﹂ と略 称す る︶ 及び 七寺 一切 経本
﹃続 高僧 伝﹄︵ 以 下︑
﹁七 寺本
﹂と 略称 する を︶ も併 せ用 いて 考察 を展 開し た斉 藤逹 也﹇ 二〇 一 四﹈ は︑ 金剛 寺本
・興 聖寺 本な どと 高麗 再雕 蔵本 等の 諸刊 本大 蔵経 本と の間 に見 られ る内 容上 の相 違に 着目 し︑ 伝記 収録 者数 は︑ 興聖 寺本 は金 剛寺 本に 次い で少 なく
︑再 雕本 が最 も多 いこ とを 指摘 し︑ 更に は︑ 上記 諸本 所収 の
﹁法 泰伝
﹂︵ 巻一
・)
「慧 遠伝
﹂︵ 巻八
・)
「道 仙伝
﹂︵ 巻二 十五
・)
「道 英伝
﹂︵ 巻二 十五
・)
「僧 崖伝
﹂︵ 巻二 十七 の︶ 内容 の相 違に つい ても 分析 した 上で
︑金 剛寺 本が
﹃続 高僧 伝﹄ の最 も古 い形 態を 反映 する テキ スト であ り︑ これ をも とに 増補 され たの が興 聖寺 本で あり
︑興 聖寺 本に 更に 増補 を加 えて 形成 した のが 高麗 再雕 本等 のテ キス トで あっ たと 推測 して いる
︒更 に同 氏は
︑金 剛寺 本は 刊本 系統 本の みな らず
︑興 聖寺 本よ りも 古い 形態 を留 めて いる 可能 性が 高く
︑ その 祖本 の内 容の 大部 分は 貞観 十九 年の 初稿 を受 け継 ぎ︑ 永徽 年間
︵六 五〇
~六 五六 年︶ の初 め頃 まで に編 集さ れた が︑ 編集 時期 の最 下限 は顕 慶年 間
︵六 五六
~六 六一 年︶ の初 めま で下 ると 推定 し︑ 更に
︑金 剛寺 本﹁ 玄奘 伝﹂ の 祖本 は貞 観二 十年 から 二十 二年
︵六 四六
~六 四八 の︶ 間に 編集 され たと 結論 づけ てい る()
︒13 この よう に︑ 現存 最古 の形 態を 留め た﹃ 続高 僧伝
﹄の 古写 本の 出現 によ っ て︑ 同書 は数 段階 の増 補・ 編纂 を経 て刊 本大 蔵経 本の 現状 に至 った とい う仮 説が 立証 され ただ けで はな く︑ 古写 本の 祖本 が属 する
﹃続 高僧 伝﹄ の古 い階 層の 編集 年代 まで 突き 止め られ たこ とは 重要 な進 展と 言え よう
︒と ころ が︑
特に 近年
︑﹃ 続高 僧伝
﹄の テキ スト 研究 が目 覚ま しい 発展 を遂 げる 一方 で︑ 藤善 真澄 氏に よっ てす でに 基礎 が築 かれ た道 宣伝 の研 究に 関し ては
︑残 念な がら 新た な進 展は 皆無 と言 わざ るを 得な いの であ る︒ そも そも
﹃続 高僧 伝﹄ の成 立過 程が
︑一 部に 見ら れる 後世 の加 筆や 再編 成な どを 除い ては
︑道 宣自 身の 度重 なる 編集 によ って 複雑 化し たの であ れば
︑な おさ ら道 宣の 行跡
︑特 に道 宣の 編纂 意図 の変 化に 着目 する 必要 が生 じて くる ので ある
︒更 には
︑最 近急 速な 発展 を遂 げた 同書 のテ キス ト研 究で 得ら れた 新知 見を 道宣 伝の 研究 に応 用す る一 方で
︑道 宣の 行跡 と突 き合 わせ なが ら再 度検 証す る必 要も 生じ てく るで あろ う︒ これ まで
︑﹃ 続高 僧伝
﹄の 改編 の時 期に 関す る考 察が 様々 に行 われ てき たも のの
︑同 書の 成立 と道 宣伝 の両 方に 関わ る根 本的 な問 題の 一つ
︑そ もそ も︑ なぜ
︑道 宣は
︑当 初︑ 同書 を貞 観十 九年
︵六 四五
︶ま での 収録 でい った ん完 結さ せよ うと した のか
︑に つい ては
︑こ れま で一 度も 検討 され てこ なか った ので ある
︒本 論文 はこ の問 題の 考察 を主 たる 対象 とす るも ので あり
︑道 宣の 中高 年期 まで の生 涯と 行跡 をい ま一 度精 査す るこ とに よっ て︑ 終南 山に おけ る﹁ 巌隠
﹂十 二年 の実 態を めぐ る理 解を 根本 的に 見直 し︑ 更に いわ ゆる
﹁蜀 地行 脚﹂ の時 期に 関す る従 来の 説を 再検 討し て︑
﹃続 高僧 伝﹄ 初稿 の収 録時 期の 下限 とさ れる
﹁貞 観十 九年
﹂が 道宣 自身 にと って 有す る意 味と その 背景 を明 らか にし てみ たい
︒
一
入 道
・ 勉 学
袞隋 大業 六年
︵六 一〇
︶か ら唐 武徳 九年
︵六 二六
︶に かけ て()14 道宣
の事 跡を 全体 的に 伝え る資 料と して は︑
﹃宋 高僧 伝﹄︵
九八 八年 巻︶ 十 四﹁ 明律 篇第 四之 一﹂ 所収 の﹁ 唐京 兆西 明寺 道宣 伝﹂
︑﹃ 釈門 正統
﹄︵ 南宋 嘉
熙年 間︵ 一二 三七
~一 二四
〇年
︶の 初め 頃︶ 巻八
︑及 び﹃ 仏祖 統紀
﹄︵ 一二 六九 年︶ 巻二 十九 所収 の道 宣伝 があ る()
︒こ れら 宋代 成立 の各 伝は
︑道 宣の 滅後 七
15
十五 年が 経過 した 天宝 元年
︵七 四二 に︶ 霊昌 太守
・李 邕︵ 六七 八~ 七四 七年
︶ が撰 した
﹁道 宣行 状﹂︵
逸失 に︶ 基づ いて まと めら れた と考 えら れる
︒し か し︑ 七世 紀に 生き た道 宣の 生涯 と事 跡を より 精確 に理 解す るた めに は︑ その 生存 期間 中に 成立 した 記述 にも 注目 すべ きで あろ うし
︑道 宣が 彼自 身の 事跡 につ いて 書き 記し た記 事が
︑実 際に 彼の 著作 に附 され た序 文や 後批 など の形 で多 く伝 わっ てい るの であ る︒ 本稿 では
︑宋 代成 立の 道宣 伝だ けに 頼る こと なく
︑上 掲の 道宣 自身 の記 述や 彼と 同時 代に 成立 した 種々 の唐 代史 料等 を併 せ用 いる こと によ って
︑道 宣の 行跡 を辿 って いく こと とす る︒
『釈 門正 統﹄ は︑ 道宣
︵五 九六
~六 六七 年︶ は︑ 俗姓 銭氏
︑都 長安 の生 まれ であ る()
︒九 歳に なる と幅 広く 書を 読み
︑十 二歳 にし て文 章に 長け た︒ 十五 歳
16
から 長安 日厳 寺の 慧頵
︵五 六四
~六 三七 年() に︶ 師事 し︑ 十六 歳か ら法 華経 をは
17
じめ 種々 の経 典を 読誦 し︑ 十七 歳の 時に 剃度 を得
︑二 十歳 で律 師智 首︵ 五六 七~ 六三 五年() の︶ もと で具 足戒 を受 けた
︑と 伝え られ る()
︒こ の記 述は
︑後 述
18
19
する よう に︑ 宋・ 元照 述﹃ 四分 律含 注戒 本疏 行宗 記﹄
︵四 巻()
︶の 末尾 に収 め
20
られ てい る道 宣の
﹁後 批﹂︵
以下
︑﹁ 含注 戒本 疏批 文﹂ と略 称す る︶ の内 容と ほ ぼ一 致す るた め︑ 信憑 性は 高い と思 われ る︒
「含 注戒 本疏 批文
﹂は
︑永 徽二 年︵ 六五 一︶ 九月 十九 日︑ 道宣 が﹃ 四分 律含 注戒 本疏
﹄を 完成 させ た直 後︑ 筆を 擱く 前に 書き 記し た自 叙伝 とも いう べき 一文 であ る︒ その 中で
︑道 宣は
︑仏 道に 憧れ た幼 少時 代︑ そし て入 道︑ 得度
︑ 受戒
︑更 に武 徳・ 貞観 年間 を通 じて の律 学研 鑽・ 遊学 を経 て︑ 永徽 二年 に至 るま での
︑お よそ 半世 紀近 くに わた る求 道の 遍歴 を回 顧し てい る︒ この
﹁含
注戒 本疏 批文
﹂は 道宣 伝お よび 彼の 著作 の成 立年 代を 理解 する ため の根 本史 料と 認め られ
︑こ れま でも 研究 者に よっ て注 目さ れて きて いる ので()
︑本 稿の
21
考察 もま た︑ 主と して この 批文 の内 容分 析と 解釈 を主 軸と して 展開 して いく こと にな ろう
︒ まず
︑道 宣の 幼少 時代 から 青年 時代 まで の事 跡に つい て︑
﹁含 注戒 本疏 批 文﹂ の冒 頭に は︑ 以下 のよ うに 記さ れて いる
︵引 用文 の分 段︑ 句読 点︑
︵
︶内 の西 暦年 代表 記は 筆者
︒以 下︑ 同じ
︒︶ 余以
軽生
︑簉 筵正 法︒ 昔在 童稚
︑即 有信 心︑ 無縁 携接
︑致 及過 学︑ 年 十有 五︵ 六一
〇年
︑︶ 方得 尋師
︒十 六︵ 六一 一年 誦︶ 経︑ 十七
︵六 一二 年︶ 剃落
︒大 業余 暦︵ 六一 五年
︶︑ 蒙受 具戒
︒于 時仏 法梗 塞︑ 寺門 常閑
︑致 於 律教
︑無 処師 尋︑ 但在 守文
︑持 犯不 識︒ 大唐 御世
︑時 遭倹 約︑ 乍欲 投聴
︑ 志不 自由
︒ 武徳 四年
︵六 二一 年︶
︑方 得預 聴︒ 纔得 一徧
︑便 欲坐 禅︒ 和尚 教曰
︑
﹁戒 浄定 明︑ 慧方 有拠
︒始 聴未 閑︑ 持犯 焉識
︒汝 且専 聴︑ 吾自 為汝 知僧 役務
︒﹂ 又往 聴律 十徧
︑心 楽禅 思︑ 不忘 昼夜
︑聞 持犯 処︑ 多貫 心懐
︑至 於文 句︑ 並不 尋究
︒又 欲坐 禅︑ 和尚 又曰
︑﹁ 更聴 十徧
︑可 遂汝 心︒
﹂又 往 律筵
︑依 位伏 業︒ 時首 律師 親命 覆読
︑自 顧愚 闇︑ 文句 欠然
︑至 於義 理︑ 依語 謹誦
︑未 是心 証︑ 何容 覆講
︑遂 不敢 受︒ 聴二 十徧
︑時 経六 載︒ (
﹃卍 続蔵
﹄巻 四〇
︑一 七四 頁・ 下段 第一 三~ 二四 行) 私は 優れ た素 質で はな いの に︑ 仏門 に入 り正 法を 学ん でい る︒ 幼い 頃 から 信心 はあ った もの の︑ 仏門 に受 け入 れて もら う機 会に 恵ま れな いま まに
︑学 年︵ 十五 歳︶ を迎 えて しま った
︒﹇ その 年︑ まさ に﹈ 十五 歳で
︑
はじ めて 師︵ 慧頵
︶を 尋ね 得て
︑十 六歳 にし て仏 経を 読誦 し︑ 十七 歳で 得度 した
︒隋 大業 年間 の末 頃に
︑よ うや く具 足戒 を受 ける 機会 に恵 まれ た︒ その 当時
︑仏 法は 行き 詰ま って いて
︑寺 院も また 常に 静ま りか えっ てい た︒ 特に 律の 教え に至 って は︑ 師を 尋ね るこ とす らで きな い状 態で あり
︑僧 たち は︑ ただ 律典 を守 り伝 えて いる だけ で︑
﹇実 際の とこ ろ﹈ 戒を 守る とは どう いう こと であ り︑ また 戒を 破る とは どう いう こと なの か︑ わか らな いま まで あっ た︒ 大唐 の治 世が はじ まる と︑ しば しば 僧尼 の沙 汰が 行わ れた
︒ふ と律 を学 ぼう とい う思 いが 生じ ても
︑そ の志 はな かな か叶 えら れな かっ たの であ る︒ [唐 初﹈ 武徳 四年 に至 って
︑や っと 律学 の聴 講に 預か るこ とが でき た︒ とこ ろが
︑わ ずか に﹇ 四分 律の 講義 を﹈ 一遍 聴い ただ けで
︑坐 禅が した くな って しま った ので ある
︒す ると 和上 は私 を諭 して 言っ た︒
﹁戒 律を 清浄 に持 ち︑ 禅定 が明 らか にな って
︑は じめ て智 慧が 確か な拠 り所 を得 て生 まれ てく るの であ る︒ 聴講 を始 めた ばか りで
︑ま だ熟 達し てい ない 状態 であ るの に︑ 戒律 を守 ると はど うい うこ とで あり
︑ま た戒 を破 ると はど うい うこ とな のか が分 かる だろ うか
︒お 前は しば らく 聴講 に専 念し なさ い︒ 僧坊 の役 務は
︑お 前の 代わ りに 私が 務め てあ げる から
︒﹂ と︒ そこ で︑ 私は ふた たび 律筵 に参 じて 講義 を十 遍ま で聴 くこ とに なっ たが
︑ 私の 心中 は坐 禅へ の思 いで いっ ぱい で︑ 昼も 夜も 坐禅 を忘 れる こと はで きな かっ た︒ 講義 に出 席し て戒 律の 持犯 につ いて の教 示を 聞け ば︑ 多く の場 合は 納得 でき たの では ある が︑ 具体 的な 文言 とな ると
︑更 に尋 ね極 める よう なこ とは 一切 しな かっ た︒
﹇十 遍の 講義 を聴 き終 えた ので
︑﹈ ふ たた び︑ 坐禅 をし たい と申 し出 たら
︑和 尚が また 言う のに は︑
﹁律 講を
更に あと 十遍 聴講 した ら︑ お前 の好 きな よう にす るが よい
︒﹂ と︒ そこ で︑ 私は ふた たび 律筵 に参 じ︑ 位に よっ て学 業に 専念 する こと にし た︒ ある 時︑ 智首 律師 が自 ら︑ 講義 の覆 講を する よう に︑ と私 にお 命じ にな った
︒し かし
︑私 が自 らを 顧み れば
︑も とよ り性 分が 愚闇 であ るた め︑ 具体 的な 文言 は頭 に入 って おら ず︑ 更に 文言 の意 味や 内容 に至 って は︑ ただ 師が 教え た通 りに 自分 も謹 んで 唱え ただ けで あり
︑そ れら が真 に意 味す ると ころ が分 かっ てい ると はと ても 言え なか った
︒こ のよ うな 状態 では
︑私 に覆 講が 務ま るは ずも なく
︑結 局︑ 引き 受け るこ とは でき なか った ので ある
︒そ うこ うす るう ちに
︑私 は二 十遍 の律 筵を 聴講 した が︑ すで に六 年の 月日 が経 過し てい たの であ る︒ これ
は︑ 道宣 が十 五歳 で仏 門に 入っ てか ら︑ 二十 歳で 具足 戒を 受け
︑そ し て三 十一 歳に なる 武徳 九年 に︑ それ まで の六 年間 にわ たる 四分 律勉 学の 成果 とし て﹃ 四分 律刪 繁補 闕行 事鈔
﹄の 土台 部分 をま とめ あげ るま での 事跡 を伝 える もの であ る︒ 別の 拙論() では
︑道 宣は 隋代 の大 業末 年に すで に進 具し たも
22
のの
︑受 戒後 六年 が経 った 唐代 の武 徳四 年︵ 六二 一︶ にな って から 初め て律 学の 講義 に列 する こと がで きた とい う年 代の
﹁ず れ﹂ に着 目し て︑ 隋末 唐初 の戦 乱や 政権 交代
︑更 には 唐初 の仏 教政 策と いっ た政 治的 状況 が原 因で
︑当 時の 長安 では 律学 の展 開が 一時 的な 停滞 状態 に陥 って いた こと が明 らか にな った
︒そ のよ うな 危機 的な 状況 の中 で︑ 長安 の僧 衆の 多く が教 理や 坐禅 に傾 倒す る一 方で
︑律 学の 研鑽 は怠 って いる 状況 を懸 念し 四分 律学 の復 興に 努め たの が︑ 玄琬
︑静 琳︑ 慧頵
︑智 首ら を中 心と する 長安 の高 僧た ちで あっ た︒ 彼ら が力 を合 せ︑ 武徳 四年 から 同九 年ま での 六年 間に わた り︑ 弘法 寺や 崇義
寺で 智首 を座 主と する 四分 律の 講座 を二 十遍 開き
︑道 宣ら の青 年僧 衆の 育成 と共 に︑ 長安 にお ける 四分 律教 学の 普及 と定 着の ため に確 固た る基 盤を 築き 上げ たの であ る︒ 当時 の律 講が なけ れば
︑道 宣は 四分 律の 研鑽 に邁 進す るよ うに なる きっ かけ を得 られ ず︑
﹃四 分律 刪繁 補闕 行事 鈔﹄ の土 台を 作り 上げ るほ どの 素養 も培 えな かっ たで あろ う︒ この 意味 では
︑隋 から 唐へ の政 権交 代後 に玄 琬︑ 智首 らの 尽力 で実 現で きた 律講 の復 興こ そが
︑律 師と して の道 宣︑ そし て彼 を開 祖と する 南山 律宗 の原 点な ので ある
︑と 指摘 した
︒ その 後︑ 間も なく
︑道 宣は
︑律 の研 鑽を 更に 深め るた めに 慧頵 に別 れを 告 げて
︑智 首に 従っ て都 を離 れ︑ 各地 を転 々と しな がら 見聞 を広 めた
︒更 に数 年後 の貞 観四 年︵ 六三
〇︶ には
︑帰 京の 途に 着く 智首 とも 別れ
︑曽 て四 分律 の研 究が 隆盛 を極 めた 旧北 斉領 に向 かっ て旅 立つ こと にな った
︒こ れら の貞 観年 間に おけ る道 宣の 事跡 につ いて は︑ 節を 改め て詳 述す るこ とと しよ う︒
二
十 年 遊 方
袞貞 観元 年︵ 六二 七︶ から 十一 年︵ 六三 七︶ まで 全二
十遍 の講 義が すべ て終 わっ た頃 には 早く も六 年が 経過 し︑ 時は 武徳 九 年︵ 六二 六︶ にな って いた
︒す でに 武徳 四年
︵六 二一 六︶ 月二 十日 には
︑太 史 令の 道士 傅奕
︵五 五五
~六 三九 年︶ が寺 塔の 僧尼 を減 員し て益 国利 民す べき 旨 の十 一箇 条の 建白 書を 提出 し︑ 朝野
︑特 に仏 教界 に大 きな 衝撃 を与 えた
︒武 徳五 年︵ 六二 二︶ 正月
︑済 法寺 の法 琳︵ 五七 二~ 六四
〇年 が︶
﹃破 邪論
﹄二 巻 を撰 述し て反 論し たが
︑道 教側 もそ れに 応え て清 虚観 の道 士李 仲卿 が﹃ 十異 九迷 論﹄ を︑ 劉進 喜が
﹃顕 正論
﹄を 傅奕 に託 して 奏上 した
︒そ こで
︑武 徳九 年︵ 六二 九︶ 四月 辛巳 二十 三日 に仏 道二 教を
﹁沙 汰﹂ すな わち 整理 淘汰 する
詔が 下さ れ()
︑仏 教道 教と もに 規制 の対 象と なっ た︒ しか し︑ この 直後
︑玄 武
23
門の 変と 呼ば れる 秦王 李世 民︵ 後の 太宗 の︶ クー デタ ーが 勃発 し︑ 六月 庚申 四日 には 人心 収攬 のた めに 大赦 が行 われ
︑僧 尼道 士に 対す る沙 汰も 取り 止め にな った ので ある()
︒そ の頃
︑長 寿坊 の一 角を 占め る崇 義寺 では
︑道 宣が 四分
24
律の 研究 ノー トを 取り まと めて おり
︑後 に﹃ 四分 律刪 繁補 闕行 事鈔
﹄と 呼ば れる 南山 律宗 教学 の中 核を なす 大著 の土 台が いよ いよ 出来 上が ろう とし てい た()
︒25 政局 上の 激震 と教 団を 取り 巻く 不穏 な情 勢の 中で
︑道 宣が どの よう な心 境 で研 究ノ ート の作 成と 執筆 に取 り組 んで いた のか は察 し得 ない が︑ 六年 にわ たっ て学 んだ 内容 を消 化し 集大 成し よう とす る過 程で
︑律 学の 諸系 統や 実践 の諸 相に つい ても 関心 が高 まり
︑外 遊し て見 聞を 広め よう とす る決 意が 次第 に固 まっ てい った ので あろ う︒ 貞観 初年
︵六 三〇
︑︶ 道宣 は和 上慧 頵の 前に 跪き
︑遠 方遊 学の 許可 を求 めた
︒す ると
︑慧 頵は
﹁出 家為 道︑ 任従 観化
︑必 事世 善︑ 不可 離吾
︒﹂ と述 べ︑ 弟子 を引 き止 めよ うと した
︒師 の切 実な 言葉 に思 わず 涙が こみ 上げ た道 宣で はあ った が︑ 今回 の遊 学の 決意 ばか りは 揺る がな かっ たの であ る︒ 和上 の元 を長 く離 れる つも りは なか った もの の︑ 気が 付け ばす でに 十年 もの 歳月 が過 ぎ去 り︑ 帰還 を果 たし た時 には
︑師 はま さに 臨終
︵貞 観十 一年 七月 二十 六日 逝去 を︶ 迎え よう とし てい たの であ る()
︒26 道宣 が早 い時 期か ら遊 学見 聞の 志を 抱い てい たこ とは 確か であ るが
︑た だ 貞観 初年 の時 点で 和上 慧頵 に別 れを 告げ て離 京を 実行 した 背景 には
︑律 学の 恩師 智首 の動 向と の関 連性 もあ るよ うに 思え る︒ とい うの は︑ 前述 の通 り︑ 律講 を受 け始 めて から 十年 間に 亙っ て智 首に 師事 した
︑と 道宣 自身 が明 言し てい ると ころ から すれ ば︑ その 師事 期間 は武 徳四 年︵ 六二 一︶ から 貞観 四年
︵六 三一
︶頃 まで の十 年間 に相 当し
︑彼 は長 安時 代の 六年 間に わた る律 講に 引き 続き
︑更 に四 年ほ ど智 首に 従っ て律 の研 鑽に 取り 組ん でい たこ とに なる から であ る︒ 但し
︑貞 観初 年に 和上 の元 を離 れて から 十年 間帰 京し なか った こと を考 え合 わせ れば
︑道 宣が 智首 の門 下に いた 最後 の四 年間 は︑ 長安 以外 の場 所に いた こと にな る︒ つま り︑ 道宣 が貞 観初 年に 離京 を決 意し た直 接的 な原 因は
︑智 首が 何ら かの 事情 で都 を離 れる こと にな った こと にあ るの では なか ろう か︒ そこ で︑
﹃続 高僧 伝﹄ 巻十 四所 収の
﹁道 宗伝()
﹂に 見え る︑ 智首
27
が長 安以 外の 地方 で律 講を 行っ たこ とを 伝え る記 事に 注目 して みた い︒ 道宗
︵五 五四
~六 三八 年︶ は︑ 同州
︵現 在の 陝西 省渭 南市 附近 憑︶ 翊に 生ま れ︑ 周武 の廃 仏に よっ て一 度還 俗し
︑隋 初に 再度 出家 して 同州 の大 興国 寺に 所属 する こと にな った 僧で ある
︒隋 大業 末年 の度 重な る飢 饉に 臨ん では
︑黄 河対 岸に 位置 する 蒲州 の道
らと 協力 し合 い︑ 救済 活動 に奔 走す るな どし た道 宗 愻 は︑ 徳行 が高 く︑ 信望 が厚 かっ たた めに
︑大 興国 寺の 責任 者に 選ば れ︑ 寺院 僧衆 の統 括を 任さ れる こと にな った
︒前 述の 長安 の静 琳と 同様 に︑ 道宗 もま た︑ 僧衆 が戒 律も 知ら ない まま 仏教 以外 の雑 学に 明け 暮れ てい て︑ 教団 の秩 序に 乱れ が生 じる こと を懸 念し
︑わ ざわ ざ長 安か ら智 首を 召請 して 律の 講義 を開 かせ たの であ る︒ 講義 中は
︑道 宗自 身が 門下 の三 百人 以上 を率 いて 聴講 する だけ では なく
︑途 中で 道場 を浄 める 必要 があ るこ とに 気づ くと 即座 に講 義を 中断 させ
︑清 掃を 行っ た後 に講 義を 再開 させ た︑ とい う逸 話が 伝え られ てい るこ とか らも
︑そ の率 直で まじ めな 性格 が窺 える
︒﹁ 道宗 伝﹂ の記 述に 基づ けば
︑智 首が 道宗 の屈 請を 受け て大 興国 寺で 律講 を行 った のは
︑道 宗が 隋末 の危 機を 乗り 切り
︑同 寺の 責任 者に なっ た唐 初で あっ たと 推測 され る︒ ただ
︑唐 初は
︑河 南北 部を 支配 した 王世 充や その 偽鄭 政権
︵六 一九
~六 二一
年︶ が武 徳四 年︵ 六二 一︶ に滅 びる まで 戦乱 が続 き︑ 政情 が安 定し なか った
︒ この よう な状 況で
︑偽 鄭の 領土 と隣 接す る同 州に 智首 が赴 いた とは 考え られ ず︑ 更に 武徳 四年 以降 の六 年間 は長 安で の律 講に 没頭 して いて
︑地 方へ 出か ける のは 難し かっ たと 思わ れる
︒従 って
︑智 首が 道宗 の召 請を 受け て大 興国 寺に 赴く こと がで きた のは
︑早 くて も貞 観元 年よ り以 前に は遡 らな いこ とに なろ う︒ この こと を︑ 道宣 の足 跡と 関連 づけ て考 えれ ば︑ 貞観 初年 に道 宣が 慧頵 の許 可を 得て 離京 した 理由 は︑ 智首 に随 行し て同 州大 興国 寺に 行く こと にあ った ので はな かろ うか
︒ 大興 国寺 にお ける 律講 以降 の智 首の 事跡 には 不明 なと ころ が多 いが
︑道 宣 の足 取り に関 して は︑ その
﹁含 注戒 本疏 批文
﹂に 見え る以 下の 記述 によ って 知る こと がで きる
︒ 貞観
初年
︵六 二七 年︶
︑周 遊講 肆︑ 尋逐 名師
︒若 山若 世︑ 遂以 所解
︑造
﹃鈔
﹄三 巻︒ 未及 覆治
︑人 遂抄 写︒ 貞観 四年
︵六 三〇 年︶
︑遠 観化 表︑ 北 遊幷 晋︑ 東達 魏土
︒有 厲︵ 礪︶ 律師
︑当 時峯 岫︑ 遠依 尋読
︑始 得一 月︑ 遂即 物故
︒撫 心之 痛︑ 何可 言之
︒ (
﹃卍 続蔵
﹄巻 四〇
︑一 七四 頁・ 下段 第二 四行
~一 七五 頁・ 上段 第四 行) 貞観 初年
︑い くつ もの 講肆 を周 遊し て名 師を 尋ね 求め
︑あ る時 は山 中 へ︑ ある 時は 都会 へと 巡り 歩い た末
︑遂 に﹇ 聴聞 を重 ねる こと を通 し て﹈ 理解 した とこ ろを まと めて
﹃鈔
﹄三 巻を つく った
︒修 治に 取り かか る前 なの に︑ 早く も人 々は それ を書 き写 そう とし た︒ 貞観 四年
︑遠 く関 外の 地域
﹇に おけ る四 分律 の研 鑽状 況﹈ を見 学し よう と思 い︑ 北は 幷 州・ 晋州 に遊 び︑ 東は 魏土 まで 行っ た︒
﹇そ の魏 土に は﹈
﹇法
﹈厲 とい う
律師 がお り︑ 当時 の律 学の 権威 であ った
︒遥 々と 尋ね たの に︑ 師事 する こと わず か一 箇月 にし て︑ 律師 は逝 去し てし まっ た︒
﹇そ の時 の私 の﹈ 胸を 打つ ほど の心 の痛 みは
︑言 葉で は表 しき れな いも ので あっ た︒ これ
によ れば
︑道 宣は
︑貞 観初 年︵ 六二 七︶ から 同四 年ま では 関内 に止 ま り︑ 都市 や山 中を 広く 踏査 しな がら
︑講 肆を 傍聴 した り名 師を 訪問 した りし て︑ 充実 した 日々 を過 ごし てい たよ うで ある
︒更 に︑ 前述 の武 徳九 年に 取り まと めた 研究 ノー トを ベー スに
︑自 らの 知識 と見 解を 採り 入れ る形 で︑ 三巻 本﹃ 四分 律刪 繁補 闕行 事鈔
﹄の 初稿 を完 成さ せた のも その 頃で あっ た︒ いま だ内 容の 精査
・修 訂を して いな いと いう のに
︑そ れを 書き 写そ うと する 人も いた よう であ る︒ 更に
︑貞 観四 年︵ 六三
〇︶ にな ると
︑道 宣は いよ いよ 潼関 を越 え︑ 黄河 の 向こ う側 にあ る河 東道 を目 指す こと にし た︒ 彼が 貞観 四年 とい うタ イミ ング で東 上す るこ とを 決意 した のも
︑や はり 智首 の動 向と 関連 して いる よう であ る︒ 智首 は︑ 貞観 三年
︵六 二九 に︶ 大興 善寺 で始 まっ た波 頗の 訳経 場に 証義 僧と して 召集 され
︑貞 観四 年︵ 六三
〇︶ 三月 まで には 新た に訳 経の 拠点 とな った 長安 の勝 光寺 に着 任し てい たと 考え られ る()
︒そ こで
︑道 宣は
︑帰 京の 途
28
に着 く智 首に 別れ を告 げ︑ 曽て 四分 律の 研鑽 が隆 盛を 極め た旧 北斉 領に 向か って 旅立 った ので ある
︒そ の足 跡は
︑あ たか も四 分律 の学 匠達 が長 安に 来た 道を 逆に 辿る かの よう に︑ 四分 律学 の発 祥地 へと 続い てお り︑ 北は 晋州
︵山 西省 臨汾 市附 近︶ と幷 州︵ 山西 省太 原市 附近
︑︶ 東は 魏の 旧領
︵今 の河 南省 北部
︑ 陜西 省東 部︑ 山西 省西 南部 及び 河北 省南 部等 にわ たる 地域 に︶ まで 及ん だの であ る︒
(
一
︶ 河 東 へ の 旅 立 ち
中世中国 では
︑長 距離 を移 動す る場 合︑ 特に 黄河 流域 や揚 子江 流域 にお い ては 陸路 より も水 路を 利用 する のが 一般 であ り︑ それ は道 宣の 行跡 に関 して も言 える こと であ る︒ 例え ば︑
﹃続 高僧 伝﹄ 巻二 十七
﹁遺 身篇
﹂所 収の
﹁唐 雍州 新豊 福縁 寺釈 道休 伝﹂ は︑ 道宣 の貞 観四 年︵ 六三
〇︶ 十月 の事 跡を
︑次 のよ うに 伝え てい る︒ 釈道
休︑ 未詳 氏族
︒住 雍州 新豊 福縁 寺︑ 常以 頭陀 為業
︑在 寺南 驪山 幽 谷結 草為 庵︒
︵中 略︶ 貞観 三年 夏内
︑依 期不 出︑ 就庵 看之
︑端 拱而 卒︒
︵中 略︶ 四年 冬首
︑余 往覲 焉︒ ( ﹂
﹃大 正蔵
﹄巻 五〇
︑六 八四 頁・ 中段 第四
~一 八行 ) 釈道 休︑ 出自 した 氏族 は不 詳で ある
︒雍 州新 豊の 福縁 寺に 住し てお り︑ 常に 頭陀 行を 日課 とし
︑福 縁寺 の南 にあ る驪 山の 幽谷 に草 を結 んで 庵を 造っ た︒
︵中 略︶ 貞観 三年 の夏
︵四
~六 月︶
︑期 日に なっ ても 出て こな か った ため
︑庵 に行 って 確か めた とこ ろ︑ 道休 は端 坐し たま ま亡 くな って いた
︒︵ 中略
﹇︶ 貞観
﹈四 年の 冬の 初め に︑ 私は
﹇彼 の地 に﹈ 往っ て﹇ 道 休の 肉身 舎利 に﹈ 参詣 した ので ある
︒ 道休
は︑ 雍州 新豊 にあ る驪 山で 頭陀 行す るこ と四 十五 年︑ 貞観 三年
︵六 二 九︶ の夏
︑禅 定に 入っ たま ま亡 くな った
︒そ の遺 体が ミイ ラ状 態で 伝存 して いた 様子 を︑ 道宣 自身 が貞 観四 年冬 首︵ 十月 に︶ 実見 して いる
︒新 豊︵ 現在
の陝 西省 西安 市臨 潼区
︶は 漕渠 のほ とり に位 置す るが
︑こ の漕 渠は 長安 から 東 へ向 かっ て︑ 渭水 の南 をほ ぼ平 行し て流 れ︑ 華州
︵現 在の 陝西 省華 県︶ の域 内 で渭 水と 合流 する 運河 であ る︒ 道宣 が貞 観四 年十 月に 当地 を訪 れた のは
︑長 安を 離れ
︑漕 渠の 水運 を利 用し て関 外の 河東 道に 向か う途 中の こと であ った ろう 道 ︒ 宣が 潼関 を通 過し て蒲 州︵ 治所 は山 西省 永済 県付 近︶ につ いた 年時 は不 明 だが
︑蒲 州か ら北 上す るに あた って は︑ 汾水 流域 の絳 州︵ 治所 は山 西省 新絳 県 付近
・) 晋州 を通 るル ート を採 らず に︑ 先ず は黄 河を 遡り
︑慈 州︵ 治所 は山 西 省吉 県付 近︶ を経 て︑ 隰州
︵山 西省 臨汾 市隰 県附 近︶ に至 る経 路を 採っ たと 推 測さ れる
︒そ の根 拠は
︑江 南大 蔵経 本以 降の
﹃続 高僧 伝﹄ 巻二 十五
﹁護 法篇 下﹂ 所収 の﹁ 法通 伝﹂ に見 える 以下 の記 事で ある
︒ 余以
貞観 初年
︑承 其素 迹︑ 遂往 尋之
︒息 名僧 綱︑ 住隰 州寺
︑親 説往 行︑ 高聞 可観
︒
(
﹃大 正蔵
﹄巻 五〇
︑六 四二 頁・ 上段 第五
~六 行) 私は 貞観 の初 年に
︑法 通の 生前 の事 跡に つい て聞 き︑ 彼の 事跡 を尋 ね に往 った
︒彼 の子 息の 名は 僧綱 とい い︑ 隰州 の州 寺に 住し てお り︑ 彼か ら法 通の 生前 の行 跡を 直接 伺う こと がで きた
︒そ れは 見聞 に値 する 素晴 らし いも ので あっ た︒
(
﹃大 正蔵
﹄巻 五〇
︑六 四二 頁・ 上段 第五
~六 行) 法通
︵生 卒年 不詳 は︶
︑隰 州竜 泉石 楼︵ 山西 省西 部︑ 呂梁 山西 麓の 石楼 県︶ の 出身 であ り︑ 隋開 皇年 間の 末頃
︑妻 子を 共に 得度 させ て治 所隰 州の 僧寺 と尼
寺に 入れ た後
︑自 らも 当州 の通 化寺 明法 師に 従っ て出 家し た︒ その 後︑ 稽湖
︵す なわ ち︑
﹁稽 胡﹂ と呼 ばれ る胡 族の 居住 地域 を︶ 遊化 し︑ 南は 竜門 関︵ 絳州 の 域内 か︶ ら︑ 北は 勝州
︵治 所は 現在 の内 蒙古 自治 区准 格爾 旗東 北十 二連 城︶ に至 り︑ 黄河 右岸 の嵐 州︵ 治所 は現 在の 山西 省嵐 県嵐 城鎮
・) 石州
︵治 所は 現在 の山 西省 離石 県)
・汾 州・ 隰州 では
︑多 くの 民衆 を仏 教に 帰依 させ た()
︒貞 観年 間の
29
初期
︑隰 州に 到着 した 道宣 は︑ 法通 の評 判を 聞き
︑当 時隰 州の 州寺 にい た子 息の 僧綱 を訪 ね︑ 彼か ら﹃ 続高 僧伝
﹄﹁ 法通 伝﹂ に記 すこ とに なっ た詳 しい 事跡 を知 り得 たの であ る︒ ここ で注 意す べき 点は
︑上 掲引 用文 に見 える
﹁貞 観初 年﹂ とい う年 代表 記 であ る︒ 前述 した 通り
︑道 宣が 潼関 を通 過し たの は貞 観四 年十 月以 後の こと であ るた め︑ 上掲 引用 文に 現れ る﹁ 貞観 初年
﹂と は貞 観元 年の こと では なく
︑ 貞観 年間 の初 期と 理解 すべ きで あろ う︒
﹃集 神州 三宝 感通 録﹄ 巻三 には
︑隰 州と 蒲州 との 中間 に位 置す る慈 州に ある
﹁安 仁寺 西劉 薩何 師廟
﹂に 関わ る︑ 次の よう な記 事が ある
︒ 慈州
郭下 安仁 寺西 劉薩 何師 廟者
︒昔 西晋 之末
︑此 郷本 名文 成郡
︑即 晋 文公 避地 之所 也︒ 州東 南不 遠︑ 高平 原上
︑有 人名 薩何
︑姓 劉氏
︒余 至其 廟︑ 備尽 其縁
︑諸 伝約 略︑ 得一 涯耳
︒︵ 中略 何︶ 遂出 家︑ 法名 慧達
︒百 姓仰 之︑ 敬如 日月
︒︵ 中略
︶今 安仁 寺廟
︑立 像極 厳︑ 土俗 乞願
︑萃 者不 一︒ 毎年 正月
︑輿 巡村 落︑ 去住 自在
︒︵ 中略 余︶ 素聞 之︑ 親往 二年
︑周 遊訪 迹︑ 始末 斯尽
︒﹂ (
﹃大 正蔵
﹄巻 五二
︑四 三四 頁・ 下段 第二
~二 八行 ) 慈州 城下 の安 仁寺 の西 にあ る劉 薩何
︵訶 師︶ 廟︒ 昔︑ 西晋 の末 頃︑ こ
の郷 はも とも と文 成郡 と呼 ばれ
︑す なわ ち晋 文公 が難 を避 ける ため にい た地 であ った
︒州 から 東南 に遠 くな い高 い平 原の 上に
︑名 は﹁ 薩何
︵訶
﹂︶
︑姓 は劉 氏と いう 人が いた
︒私 はそ の廟 に至 り︑ その 事跡 を細 大 漏ら さず 収集 した
︒既 存の 諸伝 は簡 略で あり
︑そ れら の記 事に よっ ては 彼の 生涯 の一 端し か知 り得 ない ので ある
︒︵ 中略
﹇︶ 薩﹈ 何︵ 訶︶ は遂 に 出家 した
︒そ の法 名は 慧達 であ った
︒人 々が 彼を 敬い 仰ぐ こと は太 陽や 月に 対す るか のよ うで あっ た︒︵
中略 現︶ 在︑ 安仁 寺の 近辺 にあ る廟 の
﹇薩 訶の
﹈立 像は 荘厳 極ま りな く︑ 当地 の慣 習と して 祈願 する 時は 人々 が大 勢集 まっ てく る︒ 毎年 の正 月に は立 像を 載せ た御 輿が 村落 を巡 るが
︑ 御輿 が先 に進 んだ りそ こに 止っ たり する のは
︑ま るで 像に 意志 があ るか のよ うに 自在 であ った
︒︵ 中略
︶私 は以 前か らそ のよ うな こと を聞 いて いた ので
︑自 ら当 地を 訪れ
︑二 年間 にわ たり 付近 を周 遊し てそ の事 跡を 訪ね
︑何 から 何ま です べて 知る こと とな った
︒ この
内容 記述 によ れば
︑河 東道 に初 めて 足を 踏み 入れ た道 宣は 蒲州 から 黄 河を 遡っ て慈 州に 到着 した
︒そ の後
︑慈 州と その 周辺 を周 遊し 調査 する こと に︑
﹁二 年﹂ もの 時間 を費 やし たこ とに なる
︒潼 関を 通っ て河 東道 に入 った のは 貞観 四年 十月 以降 と推 測さ れる から
︑蒲 州に は短 い間 滞在 し︑ すぐ に慈 州に 向け て出 発し たと して も︑ 慈州 到着 は貞 観五 年に 入っ た頃 より も後 のこ とと 考え る︒ そし て︑ 慈州 に実 際に
﹁二 年﹂ ほど 留ま った とす れば
︑隰 州に 至っ たの は貞 観七 年頃 と推 測さ れる ので ある
︒
(
二
︶ 汾 水 流 域 ︑ そ し て 魏 土 へ
その後︑ 隰州 から は東 方に 向か い︑ 晋州 域内 で汾 水に 辿り つき
︑再 び水 路 を採 って 北上 し︑ 汾州 を経 て︑ 幷州 に至 った と考 えら れる
︒復 路の ルー トに 関し ては 推測 の域 を出 ない が︑ 再び 汾水 を下 り︑ 汾州 南部 の霊 石附 近で 下船 し︑ 徒歩 で東 方向 に位 置す る沁 州︵ 治所 は現 在の 山西 省長 治市 沁源 県︶ に向 か った と思 われ る︒ そし て︑ 沁州 西北 部に ある 綿上 県鸞 巣村
︵沁 源県 北部
︑介 休県 の東 南四 十里 にあ る介 山の 麓︶ の僧 坊に 到着 した のは 貞観 九年 の春
︵六 三五 年一 月~ 三月 頃︶ であ った()
︒と ころ が︑ そこ で同 年の 夏安 居を 終え て帰 京し
30
よう と思 って いた 時で あっ たと 思わ れる が︑ 具戒 の師 であ る智 首が 同年 四月 二十 二日 に長 安で 他界 した とい う訃 報が 舞い 込ん だの であ る︒ そも そも 道宣 が遠 方遊 学を 決意 した のは 智首 の律 学弘 化に 啓発 され たか らで あっ たし
︑突 然の 訃報 に接 した 道宣 は︑ 智首 と出 会っ てか らの さま ざま なこ とが 想い 出さ れ︑ その 智首 がす でに 彼岸 に渡 り︑ この 世に はな いこ とを 思っ て︑ 深い 悲し みに 胸を 痛め た()
︒31 しか し︑ 安居 が解 けた
︵貞 観九 年七 月十 四日 後︶
︑道 宣は すぐ に南 下し て帰 途に 着こ うと はせ ず︑ 東方 の魏 土へ 向か い︑ 相州
︵現 在の 河北 省邯 鄲市 臨漳 県︑ およ び河 南省 安陽 市の 一部 を含 む()
︶に 法礪
︵五 六九
~六 三五 年︶ を訪 ねよ うと し
32
たの であ る︒ この 場合
︑や はり 水路 を最 大限 に利 用す るな らば
︑綿 上県 から まず 東を 目指 し︑ 沁州 の東 部を 流れ る沁 水に 辿り 着い た後 は︑ 沁水 を北 上す るこ とに なる
︒沁 水は 沁州 と潞 州︵ 治所 は現 在の 山西 省長 治市 上党 県︶ との 州 境あ たり で流 れを 断つ が︑ そこ から
︑一 旦︑ 潞州 域内 の涅 水と いう 河を 南下
し︑ 続い て涅 水が 濁漳 水に 流れ 込む とこ ろか らは 濁漳 水を 東南 方向 に下 って
︑ 河北 道の 相州 域内 に入 るこ とに なる
︒そ の途 中︑ 道宣 が潞 州潞 城︵ 現在 の山 西省 長治 市潞 城県 の︶ 法住 寺を 訪れ たこ とは
︑﹃ 続高 僧伝
﹄に 見え る複 数の 記 事に 拠っ て推 測さ れる
︒ま ず﹃ 続高 僧伝
﹄巻 二十
﹁曇 栄伝
﹂に
︑以 下の よう に見 える 余 ︒
因訪 道芸
︑行 達潞 城︒ 奉謁 清儀
︑具 知明 略︒ 故不 敢墜 其芳 緒云
︒
︵﹃ 大正 蔵﹄ 巻五
〇︑ 五八 九頁
・下 段第 二九 行~ 五九
〇頁
・上 段第 二行 ) 私は 高徳 を尋 ねに 行く 途中 で潞 城に 到着 した
︒そ こで 曇栄 本人 に謁 見 し︑ 彼が 仏法 の肝 要に 明達 して いる こと をま ざま ざと 知っ たの であ る︒ そう であ る以 上︑ どう して 曇栄 の卓 越し た業 績を 伝え ずに いら れる だろ うか
︒ 更に
は︑
﹃続 高僧 伝﹄ 巻二 十二
﹁慧 進伝
﹂附
﹁道 瓉伝
﹂に は︑ 以下 のよ う に記 され てい る︒ 時同
郷沙 門道 瓉者
︑善 宗四 分︒ 心明 清亮
︑講 解相 仍︑ 具伝 章鈔
︒︵ 中 略︶ 末齢 風疾 頓増
︑相 乖儀 節︑ 雖衣 服頽
︑而 薬食 無瑕
︒余 聞往 焉︑ 欣 陊 然若 旧︑ 敘悟 猶正
︑年 八十 余矣
︒ (
﹃大 正蔵
﹄巻 五〇
︑六 一九 頁・ 上段 第二 五行
~中 段第 一行 ) その 時︑ 慧進 の同 郷に 沙門 道瓉 とい う者 がお り︑ 正し く四 分律 を宗 と して いた
︒頭 脳明 晰で
︑話 す内 容と 理解 して いる 内容 とが 全く 一致 して いた
︒彼 の見 解は 章鈔 が具 さに 伝え てい る︒︵
中略 晩︶ 年に は風 疾︵ 痴呆
症︶ が急 激に 悪化 した ため
︑﹇ 持戒 の﹈ 形儀 がお かし くな って しま った
︒ しか し︑ 法衣 に関 して はめ ちゃ くち ゃに なっ てし まっ たの に︑ 飲食 に関 して は戒 律の 規定 を完 全に 守っ てい た︒ 私は 道瓉 のこ とを 聞い て訪 ねて 往っ たと ころ
︑と ても 喜ん でく れた が︑ その 話し ぶり や思 考は 病気 にな る前 のよ うに 正常 に見 えた
︒年 は八 十歳 過ぎ であ った
︒ 両者
のう ち︑ 曇栄
︵五 五五
~六 三九 年︶ は貞 観十 三年 十二 月に 法住 寺で 入滅 して いる ため
︑道 宣が 直接 面会 でき たの はそ れよ り以 前の こと でな けれ ばな らな い︒ 更に は︑
﹁余 因訪 道芸
︑行 達潞 城﹂ とい う道 宣の 筆致 から は︑ 道芸
︵仏 道の 達人 を︶ 訪ね に行 く途 中で 潞城 に着 いた
︑と いう ニュ アン スが 読み 取 れる ので あり
︑こ の時 の法 住寺 訪問 は︑ 相州 から の復 路で はな く︑ 相州 へ法 礪を 訪ね てい く往 路の 途中 での 出来 事と 考え る︒ さて
︑潞 城を 後に した 道宣 は︑ 再び 濁漳 水の 河津 に戻 って 乗船 し︑ 東南 方 向に ある 相州 に向 かっ たと 考え られ る︒ おそ らく 鄴県
︵河 北省 鄴県
︶あ たり で下 船し
︑徒 歩で 故鄴 城︵ 河北 省臨 漳︶ を経 由し て︑ 目的 地で ある 治所 相州
︵河 南省 安陽 市北
︶に 至っ たと 推測 され る︒ この よう に推 測す る根 拠は
︑﹃ 続 高僧 伝﹄ 巻十 六﹁ 習禅 篇一
﹂所 収の
﹁僧 稠伝
﹂に 見出 され る︒ 天保
三年 下勅
︑於 鄴城 西南 八十 里竜 山之 陽︑ 為構 精舎
︑名 雲門 寺︑ 請 以居 之︒ 兼為 石窟 大寺 主︑ 両任 綱位
︒︵ 中略 余︶ 以貞 観初 年︑ 陟茲 勝地
︑ 山林 乃旧
︑情 事惟 新︒ 触処 荒涼
︑屢 興生 滅之 歎︒ 周睇 焚燼
︑頻 曀黍 離之 非伝 者︒ 親閱 行図
︑故 直敘 之于 後耳
︒ (
﹃大 正蔵
﹄巻 五〇
︑五 五五 頁・ 中段 第二 一~ 二四 行)
天保 三年 に勅 が下 され
︑僧 稠の ため に鄴 城の 西南 八十 里に ある 竜山 の 南に 精舎 を築 いて 雲門 寺と 名付 け︑ 僧稠 を招 いて 住持 させ た︒ 石窟 大寺 の寺 主を も兼 任さ せた ため
︑雲 門と 石窟 の両 寺の 僧綱 の職 に任 じら れた こと にな る︒︵
中略 私︶ が貞 観初 年に この 勝地 に登 って みた とこ ろ︑ 山 林は 昔の まま だが
︑状 況は すっ かり 変わ って しま って いた
︒目 にす ると ころ のす べて が荒 れ果 てて おり
︑私 は生 滅の 無常 を何 度も 嘆い た︒ 辺り は見 渡す 限り 灰燼 にな って いて
︑世 の移 り変 わり のあ まり の激 しさ に幾 度も 心を 曇ら せた ので ある
︒こ のよ うに 自ら 遺跡 を訪 れた ので
︑あ りの まま を最 後に 記す ので ある
︒ これ
によ れば
︑道 宣は
﹁貞 観初 年﹂ に故 鄴城 の﹁ 西南 八十 里竜 山之 陽﹂ に ある 雲門 寺遺 跡を 実地 踏査 して いる が︑ この 中に 見え る﹁ 貞観 初年
﹂と は︑ 前出 の﹁ 法通 伝﹂ の場 合と 同様 に︑ 貞観 年間 の初 期を 指す 表現 と理 解さ れよ う︒ 次に
︑﹁ 含注 戒本 疏批 文﹂ の前 掲引 用箇 所か らも 明ら かな よう に︑ 道宣 は 相州
︵河 南省 安阳 市北
︶の 日光 寺を 訪れ て法 礪律 師の 下に 参じ たが
︑師 事す るこ とわ ずか 一箇 月に して 法礪 は逝 去し た︒ 法礪 の入 滅は 貞観 九年
︵六 三 五︶ 十月 の出 来事 であ るた め()
︑道 宣は 遅く とも その 一箇 月前 の九 月頃 には 相
33
州に 着い てい たは ずで ある
︒従 って
︑故 鄴雲 門寺 遺跡 の踏 査は
︑そ れよ り少 し前
︑す なわ ち同 年の 八月 末か 九月 初め の頃 だっ たの であ ろう
︒ 法礪 の逝 去に よっ て︑ 日光 寺に 留ま る理 由を 失っ た道 宣は
︑再 び沁 州綿 上 県に 戻る こと を決 意し た︒ ただ
︑相 州を 離れ る前 にど うし ても 訪れ てみ たい 山寺 があ った ため
︑彼 は相 州か ら洹 水を 上流 に遡 り︑ 西方 にあ る林 慮県 に向
かっ たの であ る︒
﹃続 高僧 伝﹄ 巻十 六所 収の
﹁僧 達伝
﹂は
︑以 下の よう に伝 えて いる [ ︒
僧達
﹈遂 終於 洪谷 山寺
︑春 秋八 十有 二︑ 即斉 天保 七年 六月 七日 也︒ 宣帝 聞之
︑崩 騰驚 赴︑ 舉声 大哭
︒六 軍同 号︑ 山林 為動
︒葬 於谷 中巌 下︑ 立碑 於後
︒余 以貞 観九 年︑ 親往 礼謁
︑骸 骨猶 存︒ 寺宇 遺迹
︑宛 然如 在︒ (
﹃大 正蔵
﹄巻 五〇
︑五 五三 頁・ 中段 第一 四~ 一九 行) [僧 達は
﹈最 後に 洪谷 の山 寺で 生涯 を終 えた
︒享 年八 十二 歳︑ 北斉 天 保七 年六 月七 日の こと であ った
︒斉 宣帝 は訃 報を 聞き
︑混 乱状 態で 弔問 する と︑ 大声 を挙 げて 泣い た︒ する と六 軍も 一斉 に泣 き出 した ため に︑ 山林 が震 動し た︒ 谷中 の巌 下に 遺体 を葬 り︑ その 後ろ に石 碑を 建て た︒ 私が 貞観 九年 に自 ら墓 参り に往 った 時に は骸 骨が なお 存在 し︑ 寺の 堂宇 の遺 跡は かつ ての 様子 を彷 彿と させ てく れる
︒ この
記述 から
︑道 宣が 林慮 の洪 谷山 寺を 訪れ たの は貞 観九 年だ った こと は 明ら かで あり
︑彼 は法 礪が 入滅 して から さほ ど時 間が 経た ない うち に相 州を 後に して 林慮 に向 った こと にな る︒ 林慮 から 沁と 潞の 両州 境に 跨る 太行 山脈 に沿 って 北上 した 後は
︑再 び濁 漳水 の水 路を 利用 しな がら 往路 を逆 に辿 って
︑ 沁州 綿上 県に 戻る だけ であ った ろう
︒ (
三
︶ 沁 部 住 錫
袞 著述 活動 の最 初の ピー クと 律師 とし ての 覚悟 貞観九年
︵六 三五 の︶ 後半 に行 われ た相 州の 旅が 終っ た時 点で
︑道 宣が 当
初意 図し た﹁ 遠観 化表
﹂或 いは
﹁広 流聞 見﹂ の目 的は すで に達 成さ れて いた
︒ また
︑後 述す るよ うに
︑そ れか ら帰 京す るま での 期間 は︑ 積極 的な 遊方 を続 ける こと にで はな く︑ むし ろほ とん どの エネ ルギ ーを 撰述 と講 説に 傾注 する こと に︑ 道宣 は意 識的 に方 向転 換し たよ うに 見受 けら れる ので ある
︒思 えば
︑ 貞観 九年 とい う年 は︑ 道宣 がち ょう ど四 十歳 とい う人 生に とっ ての 重要 な節 目を 迎え た年 であ るだ けで はな く︑ 長安 の智 首と 相州 の法 礪と いう 二人 の律 学の 巨匠 をわ ずか 半年 の間 に立 て続 けに 失う こと で︑ 仏教 界︑ 特に 律学 の領 域が 一つ の時 代の 終焉 を迎 えた とも 言え る年 であ った
︒そ れと 共に 道宣 自身 の習 学時 代も 幕を 下ろ し︑ 彼は もは や一 人の 学徒 とし てで はな く︑ 次の 時代 を切 り開 く新 世代 の律 学の 指導 者と して
︑四 分律 教学 を集 大成 し︑ その 実践 を担 う主 体と なる こと を自 覚し なけ れば なら なく なっ たの であ る︒ 貞観 九年 末以 後の 道宣 自身 の動 向に つい て︑
﹁含 注戒 本疏 批文
﹂は
︑以 下 のよ うに 記し てい る︒ 乃返
沁部 山中
︑為 択律 師又 出﹃ 鈔﹄ 三巻
︑乃 以前 本︑ 更加 潤色
︑筋 脉 相通
︒又 出﹃ 刪補 羯磨
﹄一 巻︑
﹃疏
﹄両 巻︑
﹃含 注戒 本﹄ 一巻
︑﹃ 疏﹄ 三 巻︒ 于時 母氏 尚存
︑屢 遣追 喚︒ 顧懐 不已
︑乃 返隰 列︵ 州︶
︒同 法相 親︑ 追 随極 衆︑ 乃至 三十
︑達 於河 濵︒ 一夏 言説
︑又 出﹃ 尼注 戒本
﹄一 巻︒ 遂爾 分手
︑唯 留﹃ 鈔﹄ 本︑ 余並 東流
︒巡 涉稽 湖︑ 達於 京邑
︒ (卍 続蔵 巻四
〇︑ 一七 五頁
・上 段第 四~ 一〇 行) そこ で︑ 沁州 の山 中に 引き 返し
︑択 律師 のた めに
︑も う一 度﹃
﹇行 事﹈ 鈔﹄ 三巻 を撰 した
︒こ の﹃ 鈔﹄ は︑ すな わち 以前 の三 巻本 を下 敷き とし
︑
更に 表現 に潤 色を 加え
︑文 脈の 筋道 が通 じる よう にし たも ので ある
︒ま た︑
﹃刪 補羯 磨﹄ 一巻 とそ の﹃ 疏﹄ 二巻
︑﹃ 含注 戒本
﹄一 巻と その
﹃疏
﹄ 三巻 も撰 した
︒ その 時︑ 母親 はま だ健 在で あり
︑何 度も 使い を寄 越し ては 帰京 を促 し た︒ 私も 母の こと を思 い︑ 懐か しむ 気持 が止 め難 くな った ので
︑隰 州ま で戻 った
︒仏 門の 同志 たち も大 勢が 付き 随い
︑そ の数 は三 十人 にも なっ てい た︒
﹇一 行は
﹈黄 河の ほと りま でや って きた
︒そ こで 夏安 居を 共に 結び
︑私 は講 義を し︑
﹃尼 注戒 本﹄ 一巻 を撰 述し た︒ そし て︑ つい に皆 と別 れた ので ある が︑ 私は ただ
﹃鈔
﹄の テキ スト だけ を手 元に 残し
︑ほ かの 著作 はす べて 彼ら に与 え︑ 河東 の地 に残 すこ とに した
︒﹇ 黄河 の水 流に 船を 浮か べ﹈ 両岸 に広 がっ てい る稽 胡居 住地 の中 を通 り抜 けて
︑京 邑に 帰着 した
︒ 道宣
は再 び沁 州綿 上県 に戻 り︑ そこ で武 徳末 から 貞観 初年 にか けて まと め 挙げ た﹃ 四分 律刪 繁補 闕行 事鈔
﹄初 稿本 の文 章を 潤色 し︑ 文脈 の筋 を通 すな どし て修 訂本 を完 成さ せた
︒更 には
︑﹃ 四分 律刪 補随 機羯 磨﹄ 一巻
︑﹃ 四分 律 刪補 随機 羯磨 疏﹄ 二巻
︑﹃ 四分 律含 注戒 本﹄ 一巻
︑﹃ 四分 律含 注戒 本疏
﹄三 巻 も同 時期 に撰 述し たの であ る︒ 沁州 にお ける 滞在 期間 は︑ 貞観 九年 の末 から
︑ 後述 する よう に︑ 隰州 に向 かっ て出 発す る十 一年
︵六 三七
︶の 初頭 にか けて であ った ため
︑前 掲の 諸著 作の 撰述
・修 訂は
︑実 質的 には
︑貞 観十 年︵ 六三 六︶ の一 年間 で行 われ たと 見て 間違 いな かろ う︒ その 頃︑ 道宣 の母 親は 健在 であ り︑ 離京 して 十年 が経 とう とす るの にな か なか 帰京 する 様子 がな い息 子を 案じ て︑ たび たび 人を 遣わ して 帰京 を促 して