ロンドン・チャイナタウンの文化空間
―― 他の地域との比較の視点から ――
王 維
1 は じ め に
1−1 問題意識
これまで海外のチャイナタウンの定義と性格について様々な議論が行われて きた。それらをまとめてみると,主に下記のようなものになる。チャイナタウ ンは
!
人種隔離ゲート(Peach,1996),"
防御的飛び地(Waller,1985),#
新 興の寄港地(Lai,1988),$
商業的区域(民族経済的集結地)(Zhou,1992),%文化的コミュニティ(Ling,
2004)&海外のチャイナ(E. Luk,2008)など,である。これらのいずれのチャイナタウンも,華人集団を主体として捉えてい る。つまり,海外の多くのチャイナタウンは華人にとって商売の場であり,生 活の空間であり,訪れる人も中国系の人が主体とされている。このような議論 から見ると,日本の伝統的な中華街
!
はかなり特殊で異なる側面を持っている。
日本の中華街は中国人だけのコミュニティではなく,特に神戸や長崎の中華街 の場合には,そこに住んでいる人は少なく,生活の場所というよりも,むしろ 商業の街としての機能が強い。たが,同じ商業的区域として捉えられている ニューヨークのチャイナタウンと比べると,まず新移民を受け入れる器でもな ければ,在日中国人の商業活動の中心地でもない。つまり,経済中心の民族経 済的集結地としての機能はない。しかも,構成員の半分以上は中国系の人びと ではなく,日本人である。横浜中華街でも多くの中国系の人びとが居住してい
(1) 本稿ではチャイナタウンと中華街を併用しているが,それは外国と日本のそれぞれの 事情や文脈を考えた上で,表現して区別していることをここでことわっておきたい。
香 川 大 学 経 済 論 叢 第85巻 第4号 2013年3月 103−150
るにもかかわらず,中華街を訪れる人達の多くは日本人である。つまり,日本 の中華街は,いろいろな意味で「日本的」であり,日本人を対象にイメージが 作られている。そのため,中華街が提供する料理や祭り,中国的商品などのサ ービスも,日本人や日本人の観光客を主な対象としている。その意味において は,北米や東南アジアの中華街と大きく異なっている。中華街における伝統文 化の創造活動では,日本人も中心的な役割を果たしてきた。日本社会と一体化,
つまり地域と一体化した中華街は,世界中のどこでも見られない中華街の姿で ある。ロンドンのチャイナタウンは,また日本や北米とも異なっている。
同じチャイナタウンと言っても,国や地域,歴史や文化背景によってさまざ まな違いがある。伝統的な生活空間を守りつつ,ホスト社会(他者)と衝突し ながらも,文化や経済資本をもって共生の道を歩んでいくチャイナタウンもあ れば,伝統的な生活空間という脈絡から脱落し,グローバル化の中で周辺の地 域社会(他者)と融合しながら再構築している中華街もある。さらに,グロー バルの移動によって他のエスニック・グループ(他者)と接触しながら,新た に伝統的な生活の空間に回帰し形成しつつあるチャイナタウンもある。このよ うなチャイナタウンの多様性に対して,どのような視点から共時的あるいは通 時的にチャイナタウンの共通性を見出していくのかが,新たな課題になると思 われる。
そこで,これまで社会学,人類学分野において議論されてきたコンタクト・
ゾーンと社会空間という考え方を視野に入れ,複眼的な視点からグローバル化 のチャイナタウン,つまり,異質な文化(ホスト社会文化,他のエスニック文 化,サブエスニック文化)と交渉,融合,共存しながら構築されてきたチャイ ナタウンについて論じてみたい。具体的に,ロンドンのチャイナタウンを例と して取り上げ,日本の中華街,そしてサンフランシスコ・チャイナタウンと比 較するという視点から,チャイナタウンの差異性と共通性を考えてみたい。
1−2 概念
コンタクト・ゾーンという用語は
Pratt
(Mary Louise Pratt
)著『帝国のまな−104− 香川大学経済論叢 380
ざし(
Imperial Eyes
)』[1992]中で使われた概念である。Pratt
は下記のように 定義している。ソーシャル・スペース
「コンタクト・ゾーンという社会空間は,まったく異なる文化が出会い,衝 突し,格闘する場所である。それは,植民地主義や奴隷制度など……しばしば 支配と従属という極端な非対称的関係において生じる…。
コンタクト・ゾーンとは,植民地における邂逅の空間である。それは地理的 にも歴史的にも分離していた人びとが接触し,継続的な関係を確立する空間で ある。それは通常,強要,根本的な不平等,そして手に負えない
!
藤を巻きこ んでいる」[Ibid. p
4](田中2007:31)。このように
Pratt
は,コンタクト・ゾーンを互いに異なる文化が接触してい る領域として捉え,つまり支配者と従属者が出会い,交渉する領域として捉え ている。しかし,これはかつて「地理的かつ歴史的な分離によって…分かれていたが,
コプレゼンス
いまやその軌道が交差することになった主体の空間的かつ時間的な共在を想起 させる試みである…『コンタクト』という言葉を使うことで,植民地での出会 いにおける相互作用的,即興的な次元を際立たせたい。それは,伝播主義者の 説明では簡体に無視され,また抑えられてきた征服と支配という次元である。
『コンタクト』という視点は,いかにして主体が相互の関係において,かつ相 互の関係によって構築されるのかということを強調する。それは植民地支配者
トラヴェラー
と被支配者,旅行者とそれを受け入れる人びととの関係を,分離やアバルトヘ イトによってではなく,しばしば権力の根本的な非対称的な関係が存在する中 での共在,相互作用,絡み合う理解や実践によって取り扱うつもりである」
[Pratt1992:7](田中2011:4)。ここでは,コンタクト・ゾーンの特徴が相 互交渉によって構築される世界として取り上げられている。
つまり,このような社会空間では現在,単に支配と被支配との関係ではな く,遭遇することで派生する影響関係の中で主体が形成される。それは,支配 される側の主体性,その能動的な文化形成のありようを重視し,文化接触によ る影響関係は双方向性を有するものであるという視点であろう。
381 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −105−
さらに,
Pratt
は,コンタクト・ゾーンで生じる現象として,対抗的な表象 に言及し,トランスカルチュレーションという概念を提案している。彼女によ ると,これは自己民族誌としての表象であり,従属的な立場にある非西欧人 が,支配的な立場にある西欧人あるいは都市民からかれらに伝えられるさまざ まなものを活用することで新しいものを創出していく過程を意味する[Pratt
1992]。ここで3つのポイントについて喚起したい。つまり,まずコンタクト・ゾー ンは異なる文化が遭遇し,衝突し,格闘する社会空間とされること。次に,そ の空間は現在,単純に対立的なものではなく,非対称的な関係の中で共在,相 互作用,絡み合う理解と実践の場所であること。さらに,コンタクト・ゾーン では文化の混淆化と多元化が呈され,その現象として対抗的な表象にあるこ と,である。チャイナタウンをコンタクト・ゾーンとして考える際,この3つ の点を踏まえた上で検討したい。
次に社会空間という用語は文化人類学よりむしろ社会学や人文地理学の分野 でよく取り上げる概念である。その代表とされるのは
Bourdieu
の社会空間に 関連する資本とハビトゥスの解釈である。Crossley
の解釈では社会空間とは「ブ ルデュー社会学の中にみられる鍵となる資本形態,たとえば経済資本,文化資 本,象徴資本,そして社会(関係)資本の配分によって構成される…諸個人が これらの多様な資本形態の所有に応じて連続線上に置かれたり位置づけられた りするのなら,そのかぎりにおいて私たちは,これら4つの一般的な諸資源 を,いやむしろこうした諸資源の配分を,(少なくとも)4次元からなる空間 の各次元として考えていくこともできる」(Nick Crossley
2008:448)。Bourdieu
は『実践理性 行動の理論について』という本において「社会空間と象徴空間」の項では,まず,社会空間とは実体論的ではなく関係論的に捉え るべきであると強調する。社会空間とは明確に定義されて図式化されるもので はなく,各行為者間の関係性を捉えていく中で浮かび上がっていくポジ(陽画)
であるということである。ある種の性質(気質など)が「差異,隔差,弁別的 特徴,要するに他の諸特性との関係において,かつそうした関係によってしか
−106− 香川大学経済論叢 382
存在しない関係的特性にほかならない」という。この差異や隔差の概念は空間 という概念の根底にあると
Bourdieu
は指摘し,彼にとって空間とは「明確に 異なりつつ共存する複数の位置の集合」にほかならない。「つまりたがいに相 手の外部にあり,他の位置との相互関係において,すなわち相互的外在性に よって,また近接関係や隣接関係,さらには何々の上にとか下にとか間にと いった序列関係によって定義される,そうした集合のこと」である(Bourdieu 1989(邦訳2007):20〜21)。このような社会空間における位置が決まっただけでは不十分で,ハビトゥス も考慮される必要がある,と
Bourdieu
は指摘する。この点についてBourdieu
は「社会的位置の空間は,ディスポジション(あるいはハビトゥス)の空間を 媒介として立場決定の空間のうちに具体化して現れる。あるいは言葉を換えれ ば,社会空間の主要な2つの次元においてさまざまな位置を決定する示差的な 隔差の体系にたいしては,行為者(または構築された行為者集合)の諸特性同 士,すなわち彼らの慣習行動や彼らが所有している財同士の,示差的な隔差の 体系が対応しているということである。位置の集合の各々にたいして,(ある いは趣味)の集合が対応し,さらにこれらのハビトゥスとその生成能力を媒介 として,たがいにスタイルの親近性によって結び付けられている財や特性の体 系的な集合が対応している」のだと述べる。さらに
Bourdieu
は「社会空間の総体を界として記述」し,「社会空間とはいろいろな力の界」だと指摘する。「力の界の必然性は界に参加している行為者 に不可避的に作用」する。「行為者は力の界の構造の中で彼らが占める位置に 応じて差異化した手段と目標を持って対決」し,そして「界の構造を維持した り変容したりすることに寄与する」とある(前掲書:65−66)。
しかし,社会空間は現在さまざまな場で生成・変容している。モダニティの 人類学実践における社会空間は人々の生きる生活の現場において,異質的なも のが共存する局面として捉えている。その関心は異質な関係性や志向や行為の 重層性・変容の過程にあり,そこにおける様々な関係性のずれや適応,抵抗様 態を把握することが目的とされる(西井・田辺2006:2)。
383 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −107−
ここで社会空間とは,人々が日常的実践の現場において,重層する関係性や 行動を生きているアクチュアリティにそって,異質な個人や関係性を共有する 場であると考える。そうした場合,身体を基点とするマテリアリティへの視点 と主体生成への視点を接合する場でもある。そこでは,他者とともに行為する 主体が社会空間を生成するプロセスと,また逆に,そこにおいて主体が生成さ れるという二重プロセスがみられる(前掲書:9−10)。
上記のような視点をまとめてみると,次のようなものになる。社会空間は行 為者の資本の配分によって構成されるが,その際行為者の相互関係が重要視さ れる。社会的位置の空間は,ハビトゥスの空間(慣習や性向)を媒介として立 場決定の空間のうちに具体化して現れる。社会空間はまたいろいろな力の界で あり,そこで行為者が占める位置に応じて差異化した手段と目標を持って対決 することによって,界の構造を維持・変容することに寄与する。社会空間は異 質的なものが共存する場であり,具体的な人びとの生と社会関係がかれらの現 実の行為(実践)によって築き上げられて行く場である。本文は主にこのよう なことに視点を置きながら,チャイナタウンをまたこのような社会空間として 考えてみたい。
2 ロンドンの華人
!
社会
2−1 イギリス華人の概況
歴史上,ヨーロッパ華人社会の中心は,イギリスであった。イギリス内務省 の資料によれば,イギリスのエスニック・グループの人口は2001年〜2009年 の間に,およそ660万人から910万人までの250万人ほど増加している。特に 華人人口は2001年から2009年の間,毎年の増加率が8.6%であって,2009年
(2) イギリスでは華僑や華人,中国系移民などのことをチャイニーズ・ブリティッシュ,
或いはブリティッシュ・チャイニーズと呼ぶが,その概念には,中国大陸,台湾,香港 及び東南アジア出身の中国系移民が含まれる。そのような内容をもつチャイニーズ・ブ リティッシュという語を,本稿ではロンドンとサンフランシスコを述べる部分「華人」
という用語で統一し,日本についての論述では伝統的な学術用語「華僑」を用いたい。
(なお,華僑と華人の概念については,王2001を参照)
−108− 香川大学経済論叢 384
の時点では45.2万人に達しているという。さらに最近になって,イギリスの 華人人口がすでに50万人を超えていると推測されている。しかし,華人人口 の数は急速に増加しているにもかかわらず,イギリスの人口総数のわずか 0.4%にすぎず,非白人のエスニック・グループのうちにも5.3%しか占めな く,その人口の比率は南アジア(インド,パキスタン,バングラデシュなど)
の50%より遙かに低い
!
。なお,華人人口のうち約32%はロンドンに集中して いるが,そのうちの70%は香港の出身者である。イギリスに香港人が多く移 住したのは,1997年まで香港はイギリスの直轄植民地であったからである。
もともと彼らの出身地は広東省であった。香港といっても,九龍の北側の新界
(ニューテリトリー)周辺の出身者がイギリスの華人人口の大半を示しており,
華人社会の中核を成してきた。中国の改革開放後,イギリスに大陸の出身者が 増加し,なかにも留学生の数は多くなっている。ロンドンの他に,イギリス中 西部にある港町のリバプールやかつて工業都市のマンチェスター,およびバー ミガム,エジンバラ,グラスゴーなどでも,華人が多く居住するようになって おり,各地でチャイナタウンも形成されている。
2−2 華人移住の歴史と現状
華人がイギリスへ移住する流れは歴史上3つの段階がある。
! 1 8 5 0年代〜1 9 4 5年
初期にイギリスに入ったのはいわゆる「華工」,つまり広東省出身の契約労 働者である。これはそれより先にアメリカや東南アジアで行われた中国人契約 労働者の移住の経緯と相似しているが,その背景はアヘン戦争で敗戦した中国
(3) http://lkcn.net/news/content/view/1741/41/『英華新聞』2012年6月4日付け,Long-Term International Migration time series1991to2010Components and adjustments used to estimate LTIM1
http://www.ons.gov.uk/ons/taxonomy/index.html?nscl=International+Migration
http://www.mpldigital.com/omega-group/uk-chinese-times,http://www.ukchinese.com/英中綱,
Pete Large and Kanak Ghosh. Estimates of the population by ethnic group for areas within England National Statistics Centre for Demography Office for National Statistics9−10)
385 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −109−
の開港に関連している。中国の開港によって,イギリスの商人が中国に出入り することは自由になった。そして,19世紀末頃から,東インド会社に契約させ られた多くの中国人労働者が,中国からイギリスへの船で船員として働くよう になった。この時期において,イギリスに入った華人があまり多くなく,しか もそのほとんどは独身で若い男性であった。彼らは主にロンドン,リバプー ル,カーディフのような大きな港を出入りしていた。後になって,故郷へ戻っ たものもいれば,そのままイギリスに残ったものもいる。イギリスに残った華 人の中でもロンドンやリバプールなどでの定住を求める人もいれば,別の船会 社の契約を待っている人もいた。第1次世界大戦の際にヨーロッパ系の船会社 と契約し,船員として働いた中国山東省,浙江省,広東省,そして上海からの 労働者は約10万人いたという(
Pidke
1998)。戦争後彼らのほとんどは中国へ 戻ったが,!
かの広東人だけイギリスにとどまって定住するようになった。1851年頃イギリスの華人がわずか78人であったのに対して,1911年に1,319 人,1921年に4,382人,さらに1930年になると,その数は5,973人になって いたという
"
。
なお20世紀初期,イギリスに渡った華人にはもう1つのグループがある。
それは香港,シンガポール,マレーシアなどイギリスの旧植民地から渡ってき た華人系留学生であったが,中にはカリビアン,東アフリカなどほかのイギリ ス植民地から来たものもいる。彼らのほとんどは学業が終わった後ホームへ 戻ったが,
!
かな一部だけイギリスに残留していた。ロンドン初期のチャイナタウンの形成は上記のような経緯があった。つま り,初期の華人は主に19世紀の植民地時代に東インド会社の船員として英国 に渡った船員達であった。彼らの多くは広東の出身者で,もともと流動性が高 い一時の滞在者に過ぎなかったが,次第に当初の海への出入り口であったロン ドン東部テムズ川沿いのライムハウス周辺に定住するようになった。そして,
先に到着した船員達は新たに港から下船した船員に宿泊先などを斡旋した。や
(4) Wai-ki E. luk2007:47,呉2007:30
−110− 香川大学経済論叢 386
がて雑貨屋,洗濯屋,タバコ屋,靴の修理屋及びレストランなどが立ち並び,
初期のチャイナタウンの規模を成していた。それはロンドンでの初めてのチャ イニーズコミュニティでもあった。1930年代以降,世界中の不景気によって ロンドンに訪れる中国系船員がすくなくなり,船員を相手とする商売も徐々に 衰退していくにつれて,すでに定住していた華人の一部も結局帰国することと なった。
! 1 9 4 5年〜1 9 8 0年代
この時期の華人は主に香港を経由してイギリスに渡った広東人と広東系香港 人の2つのグループであったが,中には広東系香港人のほうが圧倒的に多かっ た。彼らはイギリスに渡る背景が2つある。一つ目の背景としては,第2次世 界大戦直後英連邦の市民権所有者は英国臣民の地位が付与されたが,その英連 邦に旧植民地の香港も含まれていた。当時の香港人がイギリスへ入国すること は自由であって,しかも入国と同時にすべての政治的社会的権利も行使でき た。当時のイギリスでは,こうした移民の流入がもっぱら私企業によって受け 入れられることになっているが,香港の場合,親戚に頼って飲食業に従事する ものが多かった。その背景には労働市場の不足から発生するような経済的な側 面がある一方,旧植民地という政治的文脈の中で決定されていたことでもあ る。旧植民地からの移民によってイギリスは1960年代より移民労働力経済時 期に入っていた。
2つ目の背景は中華人民共和国の建立,および1950年代より香港の経済不 況や植民地政府よりの土地徴用などのような出身地の事情であった。香港人の 場合移住する自体それほど難しいことではないが,広東人の場合,その移住は 主に香港にいる親戚に頼っていた。つまり,まず親戚に頼って香港に渡り,そ れからイギリスに移住するような,いわゆる伝統的家族連鎖的な移民ルートで あった。戦後から1960年半ばまで,華人の人口は約6万人に達していた(
Wai
-ki E. luk
2007:
47)。1960年代半ばから香港系の華人はさらに増加し,その主 な職業は中華料理業であって,しかも,家族経営式の店が多く見られるように 387 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −111−なった。伝統的かつ独特な職業及び家族経営式によって,連鎖的な家族移民は さらに活性化し,この時期における主な移住形式となった。
しかしその後,イギリスでは民間企業が自由に旧植民地からの労働力を導入 できた時期も終焉を迎えることになった。旧植民地からの移民は,人種の上で 非白人の有色人種であり,こうした有色人種の増大を嫌悪する風潮が強まった ので,彼らの入国を制限する方向へと政策が変化したのである。
中国系移民は香港人や広東人以外,この時期にイギリスの移住が見られな かったのは,こうしたイギリスの移民政策に関連していた。実は1962年から 1990年代終わりまでイギリスの移民政策とは,出来る限り移民を入国阻止する ためのものであった。1962年の英連邦移民法(Commonwealth Immigrants Act)
が,有色移民を制限するという意図の下作られた法律であるが,戦後最初の移 民政策の転換点はこの移民法にある。ここでは英連邦諸国といっても,英国本 土生まれでない限り入国審査の対象とするという内容を盛り込んでいた。しか し,入国の際に,就業先が決まっている者,イギリス国内で必要とされる技術・
資格を持つ者以外は,外国人労働力としての入国者数に制限が設けられた。
1968年英連邦移民法が改めて改正された。この法律では,両親ないし祖父母 のうち1人でもイギリス国内で出生していない者については,入国制限の対象 とした。さらに1971年英連邦移民法この法律により,パトリアル!という概念 が提出された。この概念は,その血統をイギリスに!ることが出来る者を指 し,この人たちだけがイギリスへの定住権を獲得することができた。パトリア ル以外の人は,労働許可証を保持しない限り入国不可能となり,定住と労働の 自由を拒否されることになった。英国政府のパスポートを所持していても,他 の外国人と同様に12か月間有効の労働許可証が必要となったのである。
このような一連の移民法の下で,1971年時点で法律上,イギリスは英連邦 国の人であっでも,イギリスに親戚や友人及び仕事がない外国人(中国人も含 めて)はイギリスに入国はほとんど不可能である。しかし,現実には家族の呼
(5) patrial:英国籍所有者。自由居住権者と訳す場合もある。
−112− 香川大学経済論叢 388
び寄せあるいは婚姻を目的とする入国によって,1971年移民法成立後も,イ ギリス国内在住の移民数は増加したのである。イギリスに血縁(家族),地縁
(同郷),業縁(職業=中華料理業)がある大陸の広東出身者,そして香港出身 者はその縁故に頼って1960年代後半から1980年代初期まで,イギリスに渡っ た人は少なくなかった。1970年代において中国や東南アジアの政治,社会情 勢によって,イギリスに新たに移住してきた華人は,仕事を目的とする者だけ ではなく,留学生,政治亡命など民主自由を求める者が多く見られ,中には香 港を経由しイギリスに入った中国本土の出身者,そしてシンガポール,マレー シア,ベトナムの華人も含まれる。1970年代の末頃イギリスに在住の中国系 の人口はすでに96,035人に達していた(前掲書:46−47)。
! 1 9 8 0年代〜現在
この時期は従来と異なり,華人の移住は最も多元的であり,新しいディアス ポラが見られた。前記のように,1960年代をピークにイギリスに移住した華 人の多くは貧しく,教育レベルが低く,同じ夢をもつ異境地にいる寄寓者のよ うなものであって,比較的に均質的であった。しかし,1980年代以降イギリ スの華人が移住する背景には,出身国中国の政治や経済の台頭,東南アジア諸 国における華人への差別,経済のグローバル化,交通手段の発達,移民政策の 変化などが取り上げられるが,その出身国は中国に限らない。この時期にイギ リスに渡った華人は以下のようなグループに分類することができる。
まず,これまで移住の延長線にある香港人のグループである。1980年代に なるとイギリスに生まれる華人が増加したにもかかわらず,依然として家族や 親戚に頼ってイギリスに渡った人は多い。これも従来のイギリスの移民政策の 結果でもある。つまり,前記のように1960年代特に1970年代にイギリス政府 は移民を制限し,その移住は入国の際に,就業先が決まっている者,イギリス 国内で必要とされる技術・資格を持つ者,そしてすでにイギリスの居住権を持 つ人の家族だけに限定する政策を実施した。香港人の場合,1960年代ピーク にイギリスに移住したのは,新界出身の男性単身農夫が多く,そのほとんどは 389 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −113−
中国料理に関わる飲食業に携わり,稼いだお金を故郷の家族に定期的に仕送り をしていた。この時期の女性達は,故郷で夫の仕送りによって親や子供の世話 をして暮らしていたのである。だが,より安い手軽な中国料理のテイクアウェ イ・ショップが多くなり,家族の労働力が必要となったため,1970年代から 家族労働力としての家族の移住が顕著に見られるようになった。このような移 住形式は,1980年代以降も続いていた。初期に移住してきた単身男性は,故 郷に帰ることを夢見ていたが,家族移住によって妻や子供もイギリスに住むよ うになると,彼らは家族でイギリス社会に根をはって生きるように変化してき た。
1980年代以降イギリスに移住した香港人の中では,1997年の香港返還前後 にイギリスに移住してきたいわゆる「ニューカマー」も含まれていた。1981 年国籍法は,当時まだ独立していなかった地域の住民について,独立後に英国 政府がなんらかの移民政策上の優遇措置を与えることを想定していなかった。
1981年時点でまだ残っていた英領植民地の中で,最大の人口を抱えていた香港 に対しても同じであった。1985年香港法(Hong Kong Act1985)制定の結果,
1997年の中国返還までに申請した者については,「イギリス属領地市民」から
「イギリス公民」への切り替えが可能となったが,イギリス政府は「イギリス 公民」に対しては英国への入国及び居住の自由を認めなかった。1990年国籍 法でも,専門職優先などの厳しい資格を設け,受入数が厳しく制限された(柄 谷2003:186−188)。
しかし,イギリス側が制限したほどには,香港からイギリスへの移住はな かった。移住先として,カナダ,オーストラリア,アメリカ,シンガポールの 方が,より好まれたからであり,便宜を図るためイギリスのパスポートだけ必 要とした人も多かったからである。香港を離れた人の一部はビジネスなどの理 由で香港に戻ったり,或いは「宇宙人」のように香港と移住国の間を往来した りしていた。1990年代後半の香港から世界へ流出した移民総数は,1996年に は40,300人,1997年に は30,900人,1998年 に は19,300人 と 減 少 し て い る
[Benton and Gomez2008]。
−114− 香川大学経済論叢 390
第2のグループは中国大陸からの移民である。世界他の地域に分布している 華人の新移民と同様に,移住の背景には出身国と移住国の押しと引き2つの要 因がある。押し要因として,1978年の中国改革開放及びその後1990年代以降 の移住自由開放政策は,大陸からの移住者が増加する引きがねとなった。引き 要因として,2000年前後イギリスの移民禁止政策が大きく転換し,積極的受 入れ政策へと転じることであった。これはイギリスの労働市場の需要,そして 北米の移民政策に影響されるものでもあった。福祉国家として,イギリス政府 は公共サービスの質を低下させないために不足する労働力を移民として導入す ることが必要と判断し,2000年に労働許可制が改正され,医師,看護師,教 員,
IT
関連職種に就労する移民の規制緩和が実施された。また労働許可証の 有効期限が従来の4年から最長5年間へと延長され,EU
域外外国人も大学卒 業後は従来のように一旦はイギリス国外に出国する必要性がなくなり,卒業後 に労働許可証を取得することが可能となった。一方,1990年代後半に,アメリカを中心としてニューエコノミーブームと なり,まずアメリカが
IT
技術者不足からH
1−Bヴィザ枠を拡大して専門技術 者をインド,中国を中心に世界各地から受け入れた。この潮流は,世界で希少 なIT
技術者を国家間で獲得する競争となり,カナダ,ドイツ,日本との競争に 負けぬようイギリスも高度技能移民導入プログラムを2002年から導入し,そ の際まず多くの留学生や技能者の移住を受け入れた。この政策は留学生の就職 に大きな可能性を提供し,それは多くの留学生が学業が終わってもそのままイ ギリスに残り仕事ができる要因となった。イギリスは海外から受け入れる留学 生の数がアメリカに次ぎ2番目に多いが,特に最近イギリスでの留学生のう ち,中学校や高校からイギリスに渡った者の増加が著しい。中国大陸からの新 移民は1990年から増加し始め,1991年に400人ほどであったが,2003年の数 は2,600人 で あ っ た。そ し て1991年 か ら2001年 ま で そ の 数 は22,058か ら 48,459まで倍増した(Wai-ki E.luk
2007:
214)。2010年にイギリス政府は留学 生の入国及び学業後の就労を規制する法令を改正したが,それによって今まで のように留学生が卒業をしてからそのままイギリスに残り,仕事につくことは 391 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −115−容易ではなくなった。2008年の国勢調査では,グレーター・ロンドンに居住 している中国で生まれた華人の数は12万ほどに上り
!
,そのうち留学生の数は 約6万人という(Robin Pharoah2009:10−11)。
もう一つのグループは東南アジアからの中国系移民である。1991年国勢調 査によると,イギリスの中国系移民の出身地は,香港(34.07%),イギリス
(28.44%),中 国(11.79%)(2001年:19.22%),マ レ ー シ ア(9.66%),ベ トナム(6.02%),シンガポール(3.10%),台湾(1.04%),タイ(0.44%), フィリピン(0.26%),日本(0.13%),その他(5%)である(Wai-ki E. luk 2007:72Table2.7)。
3 華人の伝統的職業及び分散型居住形態
戦前までイギリスにおける華人の経済活動は,主に洗濯業と中国料理業であ る。イギリスの初期の中華料理店は,1930年代にリバプールやロンドンの波 止場に小さな飲食店ができたことに始まる。前記のように1950年代,経済不 況とイギリス政府の土地の徴用などで,イギリスの旧植民地である香港から広 東系移民がイギリスに一気に流入した。しかし,言葉や人種差別などの問題に よって,職を見つけにくく,やがて中華料理店を開くしかなくて,特にテイク アウェイのような中華料理店が多かった。1970年代に入っても,さらにテイ クアウェイの店が増加しつつあった。テイクアウトの店は各地域に散在するた め,イギリスの華人は比較的に分散して居住している。その主な原因は,他の 店と競合しないように全国に散らばる必要があったからである。この形式はイ ギリスだけでなく,ヨーロッパ全体に見られる中華料理店の特徴である。散住 型かつ目立たない存在であるのはイギリスの華人の最も大きな特徴として付け られているが,かれらは「サイレント・マイノリティ」といわれてきた[Benton
and Gomez2
008:172]。そのため,イギリスの華人は他の地域と比べると,伝統的な華人組織が少なく,機能も弱いと見られる。
(6) Office for National Statistics, UK, Control of Immigration : Annual Statistics ; Home Office,2008
−116− 香川大学経済論叢 392
華人の分散型居住形態は統計から見ることができる。2001年国勢調査によ れば,最も多いグレーター・ロンドンに居住する華人人口は80,210人である が,それはイギリスの全中国系人口247,403人の32%しか占めていない。そ して,グレーター・ロンドンにおいてさえ,中国系人口が 2%以上を占める 地区はない(
!
2006:3)。また中国系移民は10人中9人が中国系人口1%以 下の地区に住んでいるのに対して,西インド諸島系は21%,インド系は18%,パキスタン系は14%,バングラディッシュ系は30%しか1%以下の地区に住 んでいない[Benton and Gomez2008]。
ところで,何故イギリスでは中華料理,特に中華のテイクアウェイ・ショップ が受け入れられるようになったのだろうか。実はイギリスの民衆が,中華料理 に「目覚める」そして中華料理がイギリスで定着するようになったのは,第2 次世界大戦以後のことである。その原因は主に以下のようなことと考えられる。
まずホストイギリス社会の原因として,戦後イギリス人の飲食に対する嗜好 の変化が挙げられる。それは第2次大戦中に中国で任務をしていた英兵士がイ ギリスに帰還したことに関係している。彼らの影響もあり,国内において,中 華料理に対して関心が徐々に高まってきたことである。また,戦後のイギリス の経済を支えてきたのは移民労働力であった。移民によってもたらした中華料 理業を含むエスニック料理が安くて美味しい,そして手軽く食べられることが イギリス人の飲食に対する嗜好の変化を与えるもう1つの要素として挙げられ る。
次に移民側の要因としては,飲食業にはそれほど言語のレベルが必要としな いこと,そして,華人の大量の移住によって中華料理の消費者ができたこと,
華人が中華料理に拘る嗜好もイギリス社会に影響を与えたこと,などが考えら れる。イギリスの中華料理店のうち特にテイクアウェイのような中華ファスト ショップが多いということも,普通の中華料理店を経営するより,労働力や税 金などが安く,リスクが高くないからであろう。実はテイクアウェイの店の中 でも中華料理を提供する傍ら,フィッシュ&チップスも売っているところもあ る。
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テイクアウェイの店は最初コインランドリーがある場所から分布し,後に都 市だけではなく,小さい町にも散在するようになった。
テイクアウェイは各地に散住することに対照して,チャイナタウンは主に中 華料理店が集中している。現在のチャイナタウンは実は1960年代以降,香港 人の移住によって形成されていたのである。
1960年代のイギリスは景気の低迷に入り,地価はそれほど高くなかった。
2千ポンドがあれば一軒の料理店を開ける時代ではあったが,当時にしては大 金であったため,店を開くためにはやはりある程度の財力が必要であった。よ く見られたのは何人からか資金を集めて,共同で一軒の中華料理店を開く形式 である。
しかし,当時の中華料理は現在のように多様ではなかった。1960年代頃,
当時のロンドン・チャイナタウンでも中華雑貨や中華風のスーパーマーケット がなかった。華人達はなかなか本場の中華材料を手に入れることができず,市 場で買えたのは極限られているイギリス風の野菜だけであった。それを使って 各種の肉類を合わせて炒め,中華風料理にしたのだが,意外にも料理の種類が 少ない当時のイギリス社会に受け入れられて,中華料理ブームまで引き起し た。そのため,開業した中華料理店のほとんどは景気がよかったという
!
。1970 年代になると,やがて中華風スーパーマーケットができて,中華料理に使う原 材料も手に入りやすくなったため,中華料理店の料理の品も多くなり,質もか なり本場らしくなった。それにつれて,中華料理店の商売もますます繁栄して いった。
特に1970年代,家族がイギリスへ渡航することが許可されたため,多くの 華人の家族は香港からやってきた。それとともに,香港系の中華料理店は雨後 の筍のようにイギリスの全国に現れるようになった。さらに,1980年代に入 ると,政府によって中華料理店が直接に香港のコックを招くことが許可される ようになると,多くの中華料理店は高賃金で香港から有名なコックを招き,料
(7) 華埠商会前会長李志章氏の教示による(2010年8月)。
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理の質はさらに高められ,次第に本場の香港風広東料理がイギリスに定着する ようになった。それに伴って,イギリス人も徐々に中華料理の深さが分かるよ うになり,中華料理はイギリスで花が咲く時期を迎えた。
なお,中華料理店はテイクアウェイと異なる意味合いを持っていた。後者は ロンドンをはじめ,イギリスの各地に見られ,早く安いということで,一般の 市民やイスラム以外の移民にとって日常的な存在である。前者は華人達にとっ て日常的存在であるのに対して,現地人にとって異文化の体験のような非日常 的なものである。つまり,テイクアウェイの消費者は主に現地社会の人々であ るのに対して,中華料理店の消費者は華人を中心とするが,一部の現地人も含 まれている。
このように,中華料理業がチャイナタウンに多くの客を呼び寄せることがで きるのは,華人社会内外の2つの背景がある。つまり,華人の増加による日常 的中華料理と中華食料品の消費者数の拡大という華人社会内部の要因,そして 戦後のイギリスでは中華料理の需要と受容によって一部の消費者層が現れたと いう華人社会外部の要因である。しかし,チャイナタウンが本格的に整備され るまで,チャイナタウンの主体はやはり華人であり,チャイナタウンは華人の ビジネスの集結地であると同時に一部華人の生活の場であった。華人によって 作られた香港系中華料理はチャイナタウンのブランドの1つとなり,チャイナ タウンのゲートや道路などのようなハードウェアが建設される前に,チャイナ タウンソフトウェアとして用意されていた。
4 ロンドン・チャイナタウンの形成と発展
4−1 チャイナタウンの形成
ロンドンにはいくつかのチャイナタウンがあると言われているが,初期の チャイナタウンはロンドンの東のライムハウス地域を指している。つまり,前 記のように19世紀の植民地時代に東インド会社の船員として英国に渡った広 東系移民たちは,当初は海への出入り口となるロンドン東部テムズ川沿いのラ イムハウス地区に最初のチャイナタウンを形成していた。初期の華人は常に人 395 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −119−
種差別の対象とされ,上位社会に排除された一方,一部の上流階級にとって は,チャイナタウンがエキゾチック,神秘性の
!
れる幻想的空間であって,「東旅の門」(
Gateway to the East
)と呼んでいた。第2次世界大戦前まで,チャ イナタウンが犯罪かつ貧困,不思議かつエキゾチックな町として文学作品や映 画などを通してイメージされ,次第にイギリス的な東洋認識となってきた。特 に第2次世界大戦でロンドン東部が破壊的な打撃を受けると,ロンドン東部の チャイナタウンはほぼ壊滅する。1960年代広東系の香港人の増加にとともに,多くの華人は,当時はまだ売春 宿が散在しており,土地の値段も極めて低かったソーホー地区に進出し,彼ら の居住や商売によって新たなチャイナタウンが形成されていた。これは現在ま で続いているロンドンのいわゆる「チャイナタウン」の原型である。ソーホー 地域のメインストリートであるジェラード・ストリートの地域(Gerrard street)
は17世紀末頃成立し,当時多くのアーティストがこの地域に居住していた。
写真1 ライムハウスの旧跡 Source : The English Illustrated Magazine July
1 9 0 0
写真2 ライムハウス時代の華人についての記事 出典:http://www.bbc.co.uk/radio4/factual/chinese_in_britain2.shtml
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1800年代半ばまちが衰退した。この地域は物件が安いということで,19世紀 半ば頃より,フランスやハンガリーなどヨーロッパからの移民やユダヤ人の亡 命者が移住し,いくつもの移民コミュニティが見られたことで,移民のタウン に変身したのである(
City of Westminster
2005:
3)。つまり,ロンドンのチャイナタウンは1950年代に形成され,パリ13区の チャイナタウンよりも大きく,現在ヨーロッパにおける最大規模とされるが,
現在のようなロンドンのチャイナタウンが正式に整備し発展したのは,1980 年代以後のことである。
4−2 チャイナタウンの発展
1978年にチャイナタウンの発展をするためにチャイナタウンの有志達に よって「倫敦華埠街坊会」(後に倫敦華埠商会と改名。以下は華埠商会で統一)
が設立された。その背景には華人達が抱えた二重的なジレンマがあった。当時 の香港はまだイギリスの植民地であるにもかかわらず,香港系華人はイギリス 人と同じような扱いをされるどころか,常に人種差別的な対象とされていた。
その1つの現れとしてチャイナタウンにある多くの店は常に地元の一部の人に よって起こされた理由のない金銭的な悶着を受けていた。彼らは勝手に店に 入って食べて,そして払わず帰ってしまうが,チャイナタウンはまだ正式に認 められていなく,店主達はどこでもその是非を裁判してもらえない立場にあっ た。
一方,1980年代前後,中国の国際影響力の増大及びイギリスとの関係の改 善などによって,華人達は宗主国の臣民より中国系移民(中国人)として主張 することも可能となった。このようにイギリスの宗主国の国民そして中国系移 民という2つの立場から,イギリス政府と堂々と会話し交渉できる窓口が必要 とされた。「倫敦華埠商会」が設立した後,まず宗主国の国民としての立場か ら,所在地のウェストミンスター政府に,自分達の正当性を訴えながら,常に 遭遇した差別的なことの是非を求めた。その結果として政府の関係者が調停に 乗り出すことによって,支払いや賠償などの問題が解決できた。これはチャイ 397 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −121−
ナタウン組織が政府との会話を通して納めたはじめての成功であったが,それ 以来同じ問題がほとんど起こらなかった。
「倫敦華埠商会」が当時において抱えたもう一つ重要なことはチャイナタウ ンの整備であって,政府の協力を必要としていた。1970年代の末頃,チャイ ナタウンに中華料理店を始め中国物産やスーパーマーケットなどの店舗が多く なりつつあるにもかかわらず,正式にチャイナタウンとしてまだ政府に認めら れていなかった。倫敦華埠商会初代の会長李志章の話によると,彼は当時政府 と交渉するとき,華人達が1950年代にこの地域に来てから特に中華料理業は イギリスにいろいろ貢献をしてきたが,政府として華人達のようなエスニッ ク・グループの成績と発展をサポートするべきであるし,英国と中国との国交 も樹立したこともあり,華人の町としてチャイナタウンの設立を支援してほし いという話を持ちかけていた。一連の会話や交渉の段階を踏んだ後,ウェスト ミンスター政府はチャイナタウンの建設の提案を受け入れて,1985年にチャ
写真3 春 節 期 間 中 ロ ン ド ン・
チャイナタウン の ゲ ー ト
(2013年2月)
写真4 あずまやで寛いでいる多様なフェイス
(2010年8月)
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イナタウンに中華式ゲートと中華式あずまやを建設し,チャイナタウンの道路 も舗装した。その意図にはチャイナタウンは都心近くに位置し,都市の重要な 観光地としての役割を果たせるためである。それによって「倫敦華埠」つまり ロンドン・チャイナタウンは正式に成立することになった。チャイナタウンの 成立につれて,ますます多くの店が進出してきた。
4−3 今日のチャイナタウン
今日のチャイナタウンは,ジェラード通り(Gerrard St),ウォーダー通り
(
Wardour St
)の一部,ルパート通り(Rupert St
)とル パ ー ト コ ー ト(Rupert Court)
,シャフツベリー通り(Shaftesbury Avenue)の一部,ライル通り(LisleSt
),マックルズフィールド・ストリート(Macclesfield St
)とニュー・ポート・プレイス(Newport Place),ニューポート・コート(Newport Court),そし て リトルニューポート通り(
Little Newport St
)などの地域を網羅している。区域 内に中華料理店は78,薬屋,雑貨,スーパー,旅行代理店など53,他にバー やパブなど12店舗がある。ジェラード通り(Grerrard Street:爵禄街)は最も賑やかで,チャイナタウ ン大通りといったところで「倫敦華埠」(ロンドン・チャイナタウン)と書か れた中国式の赤い牌楼が3か所にもうけられており,チャイナタウンのシンボ ルとなっている。チャイナタウンの内の電話ボックスも中華風の赤いつくりに なっており,そして中国式のあずまやも立てられている。
チャイナタウンにある多くの中華料理は,「飲茶
Dim Sam」などの看板を出
しており,広東料理店が多いことを示している。それは香港的な景観でもある。現在,チャイナタウンは中国系の人だけでなく,各国からの旅行客までも集 まる観光名所となっている。ロンドンの中心地でピカデリサーカスは,三越な どの日系デパートもある賑やかな場所であるが,その近くには,映画館,劇場,
レストラン,ナイトクラブなどが多い歓楽街ソーホーである。ロンドンのチャ イナタウンはこのソーホーの一角に位置しており,観光地の立地条件としては 非常に恵まれている。
399 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −123−