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⊂:コ 鋳物師水野太郎左衛門

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全文

(1)

CROS S ROADS.Fac .o fEdu c . .Hi r o s ak iUnz '

V

. ,6 ( Oc t obe r ,2 0 02).1 ‑1 5

鋳物師水野太郎左衛門

Ta r 6z a e mo nMi z unot heMe t a lCa s t e r

幸*

Mas a kiANNO

要 旨】

本稿は信長が永禄五年二月に鋳物師水野太郎左衛門に宛てて出 した折紙を分析 したものである。私はここ で、 この文書の 「自他国鍋釜人事可申付之」の部分について、先学の豊田武氏 ・奥野高広氏とは異なる解釈 を導き出 し、太郎左衛門が商人司と同様 な存在であ ったことを明らかに した。 また以上の分析を通 じて、 こ の文書中に、信長 と太郎左衛門との交渉内容が埋め込 まれてお り、文書中の 「諸役の免許」が一般に理解さ れているような 「諸役の免除」ではなく、 「諸役徴収権の許可」の意味であることを明らかに した。

キーワー ド】

上野鋳物師 熱田鉄屋 大工 小工 売子 鋳物師商人 国内独占権 全国商品 他国商人 商人司 諸 門次 所質 免許

1 は じめに

本稿の課題は、尾張国春 日井郡鍋屋上野村の鋳物師、水野太郎左衛門家に伝来する永禄五年二月付け信長 判物 を考察す ることにあ る。中世や近世の鋳物師 につ いての研究 は、名古屋大学 国史研究室が1

982

年 に

『中世鋳物師資料』を公刊 して以来、急速 に深化 しているが、 この文書を逐語解読す るなどの詳細 な研究 は、その公刊以前になされた奥野高広氏、豊田武氏のものがあるのみで、 これ らを凌駕 し、新 しい研究水準の もとにこの文書を位置づけ直す個別研究は、管見による限 り末だ表れていない。2 問題の所在では資料 と 先学の解釈をとりあげ、

3

分析では当文書の分析を、

4

むすびではまとめを行いたい。

2 問題の所在

この文書は、信長が水野太郎左衛門に対 し、鋳物師と して幾つかの特権を保証 したものである。 この折紙 の作 られた永禄五年とは、信長が桶狭間で今川義元を討ち取 ってか ら2年後で、 この年信長は尾張一国を統 一 し、美濃制圧に向か って動 き出 してお り、正月に織 田 ・徳川両家は清洲同盟を結んでいる。問題の文書を 次に掲げる 1)

前々任筋 目、国中鐘 ・塔九輪 ・鰐 口可鋳之、次於熱田鉄屋、立棄育事可停止、然者 自他国 鍋釜人事可申 付之、諸役 ・門次 ・所質等令免許之、無相違者也、仇如件、

永禄五 二月

上野 鋳物 □

⊂:コ

l

の読みと しては問題あるまい。なお 「葉音 (た くや く)を立てる」とは 「輔 (ふいご)を立てる」 ことで、鋳

*弘前大学教 育学部社会科教室

De pa r t me ntofSoc i a l St udi es ,Fac ul t y ofEduca t i on,Hi r os a kiUni ve r s i t y

(2)

2

物師たちが鋳金に必要な金属の熔解装置を始動 させ ることを意味 した。なお、今後 この文書の分析を進めて 行 くために、事実書きの部分を次のようにa〜 d4つに分解 したい。

a

前 々任筋 目、国中鐘 ・塔 九輪 ・鰐 口可鋳之、次

b

於熱田鉄屋、立葉音事可停止、然者

C

自他国鍋釜人事 可申付之、 d諸役 ・門次 ・所質等令免許之、無相達者也、仇如件、

永禄五 二月

上野 鋳物師

太郎左衛門とのへ

l織 田信長

花押

以上のように四分解す ると、 この文書の事実書 き部分の文章構造は (a、次b、然者 C、

d)

となり、

a・

b

は並列関係にある。 さらに 「しか らば

C」

とあ り、

a ・bと C

との関係 も明快で、

(a ・b

だか ら

C

であ る) と して、

a ・b

か ら論理必然的に

C

が導かれ ると してお り、

C

の対象 も

a ・bと同様太郎左衛門とな

る。 これに対 して、

C ・d

の関係は不明確で、

C

d

は同格なのか、あるいは

d

C

の説明文なのか等 々が 問題 となる。奥野氏はこの文書を次のように解釈 し、説明を付 している。

水野氏は、 もと尾張春 日井郡鍋屋上野村 (名古屋市東区 ・千種区)に住み、のち清洲に移 り、さらに開 府後 の名古屋 に転 じ、鍋屋町に居 を しめ、現代 に及んでいる。信長は水野氏にたい し、

a

従来か ら権利 に よって尾張国中で鐘 ・塔の九輪 ・鰐 口を鋳造す る特権を認め、

b

熱田の鉄屋 (鍛冶)が輔を立てることを禁 止 した。そ して

C

他国人が尾張国中で鍋 ・釜を移入す るのを禁止 し、水野氏に専売権を与えた。 d水野氏の 諸役 とか門次の所質などを免除 した。織田氏の工業政策が見 られ る。

3)

と。

豊田武氏もまた 『中世 日本の商業史の研究』 4)の中で、 この文書を次のように説明 している。 「鋳物師水 野太郎左衛門は春 日井郡鍋屋上野村において古 くより鋳物の特権をもっていたが、永禄五年二月、信長より

a

従前の如 く国中において鐘 ・塔 ・九輪 ・鰐 口を鋳造す る特権を認め られ、且つ d諸役 ・門次 ・所質を免除 せ られた。信長は同時に彼の特権を保護せんため、

b

熱田において鉄屋が棄筈を立てることを禁 じ、 またそ の承認を得ず して、

C

他国より鍋釜を尾張に移入す ることを禁止 し」た、 と。

C

の部分に注 目す ると、

C

の部分は、奥野 ・豊田両氏共に、 ここを (他国の鍋釜が尾張の国に移入するこ との禁止)と理解 し、「申付」の対象を (太郎左衛門ではない) と している。 しか しこの理解は く

a・b

だか

C

である)と した私の文章構造全体に対す る理解 と異なっている。 さらにテキス

ト C

の 「申付」とは、「 の者か ら下の者に処置などを言い渡す。命ず る。」の意であるのに、奥野氏は 「申付」の意味を 「禁止」と し、

さらにその対象を 「他国人」 とす るなど、私の理解と大きく異なっている。

結論を先に言えば、

C

の部分は、(鋳物師水野太郎左衛門に国中の専売権を与えたので、他国よりの鍋釜 の移入を水野氏に管理 させ る) と解釈すべきだと私は思う。なぜ なら、すでに豊田氏が同書で明らかに した ように、当時 「葦屋釜 ・播磨鍋 ・能登釜」 などが全国商品

5)

となってお り、戦国大名が律令以来の一国単位 で領国経済を形成す る一方で、畿内を中心に全国的商品流通が活発化 してお り、 自給 自足的で閉鎖的な地域 経済圏は考え られず、他国産 「鍋釜」の国内流入は禁止できなか ったと思われ るか らである。

その故、私 はこの文書を次のように解釈できると思 う。(従前の如 く国中において鐘 ・塔九輪 ・鰐 口を鋳 造す る特権を認め、熱田において鉄屋の営業活動を禁止す る。だか ら他国より鍋釜が尾張に入ることについ ては太郎左衛門に管理 させ、配下の小工 ・鋳物師商人に対す るのと同様、諸役 ・門次 ・所質等の取扱権を認 める)と。先学の解釈 と大きく異なるのは、

C

を(管理)と し、 dを

C

の説明文 とす る、

C

・dの部分であ り、

先学の解釈 よりも水野太郎左衛門の主体性を拡大 して解釈 した ことになる。

この文書全体の理解において大切なのは

C

の部分と、 dの 「諸役 ・門次 ・所質等、令免許之」である。そ れ故次章では、

C

・dを分析す るための前提 と して、当時の鋳物師の在 り方、政治権力との関係等 々の観点 か ら、まず最初 (

1

)では

a

、( 2)

では

b

を順に分析 したい。次に

( 3)

では上野鋳物師と熱田鉄屋の関 係を考察 し、 さらに (4)では

C

の文を、(5)では全国的な商品流通 と地域経済圏の問題を考察 したい。最 後の (6)では dの 「諸役 ・門次 ・所質」 と 「免許」の四つの言葉を分析 したい。

(3)

3

文書の分析

(1) a

前 々任筋 目、国中鐘 ・塔九輪 ・鰐口可鋳之」について

鍋屋上野村の所在地は、名古屋か ら瀬戸に向かう街道の途中、守山の付近で、庄内川の支流矢田川の南方 にあた り、猿投窯の分布域内にある。鋳物師の仕事には鋳型を作 る窯業が含 まれることか ら、粘土等が商品 化す るまでは、仕事場はよい粘土のとれ る場所か ら離れ られ なか った。それ故か、水野太郎左衛門家は清 洲 ・名古屋へ と転 じたものの、信長と共に岐阜 ・安土に行 くこともなく、その後 も尾張の土地を離れず、織 田家の御用鋳物師、次いで尾張藩の御用鋳物師と して近世を迎えた。

a

か らは、水野太郎左衛門が 「前 々か ら」尾張一国内の寺院 ・仏具に関わる鋳鋼製品 「鐘 ・九輪 ・鰐 口 の製造独占権をもち、 この既特権を 「前々の筋 目に任せ」て承認す るよう信長に迫 ったことがわかる。 また この 「前 々の筋 目」 という言葉

6)

か ら、太郎左衛門家が蔵人所や異継家 との関係を持つ供御人の系譜を引 き、清洲城 にいる尾張守護 ・斯波氏や、岩倉城の上四郡守護代 ・織 田伊勢守家、清洲城の下四郡守護代 ・織 田大和守家などか ら国郡単位での独占権 ‑ 「大工職の承認を得ていたことが想定され る。

a

で問題 と しているのは 「鐘 ・塔九輪 ・鰐 口」である。朝岡康二氏が述べている7〕ように、鐘 などを鋳 る 作業は 「出吹きと称 し、寺近 くまで鋳物師が出向き、臨時の仕事場で鋳るのが基本であ」り、「ひとたびその 他の鐘を鋳た者は、のちのちまで、その権利をもつ ことになった」 ことか ら、鋳物師には 「焚鐘にたいす る 特別な気持ち」があ ったという。それ故、次の史料

8)

か らも明かなように、戦国期、鋳物師の国郡 ごとでの 営業独 占権確立には 「焚鐘の鋳造」が シンボルとなっていた。

1

)永享四年 と康正二年 に備後国守護山名氏より鋳物師宛てに出された二つの判物

9)

には 「築鐘鋳井散在之 在所等、可相計者也」 とあること。

2)天正四年八月十三 日付の 「

鋳物師職座法度

」 1

0)の第四条に 「鐘鋳等之事者、一国‑郡二御牒井旧書等所持 者有之所江者、仮令旧書頂戴之錐為鋳物師、其所江入乱鐘相建、令鋳営儀、堅可為停止」 とあること。

3)『

芥田系図

1 1 ) 』

に 「尤当国寺社 ノ鋳鐘ハ他 ノ鋳物師へ鋳造 ヲ許サズ、悉皆吾家 ノ銘文印キル。又野里同 職中ヨリ農具 ・塩 ・温釜等 ノ口銭銀請来 り候」 とあること。

高級品製作に係わ る鋳鋼技術は、 日用品製作に係わ る鋳鉄 よりも技術が高度なことか ら、鋳鋼の鋳物師は 同時に

C

にある 「鍋釜」 などの鋳鉄業をも行 っていた

1 2)

。 また彼 ら大工鋳物師は独 占的な販売圏 「売場

1 3)

を持ち、販売業者 ・鍋釜商人たちの元締めをも兼ねていた。 「芥田文書

1 4)

J西大寺市場

1 5)

などか ら考える と、太郎左衛門も縄張 り 「売場」内の市場に 「鋳物師座」等の 「市座」を持ち、諸役 ・座公事等を徴収 し、

ここか ら 「市公事銭」を毎年領主に納めていたと思われ る。

桜井英治氏の試みた戦国期 「野里村金屋法度」の 「さきおい ・へ らおい ・さら」等々の解読

1 6

1によれば、

鋳物師が鍋釜を売 るとき、同時に鋳物の材料 とす る壊れた古い鍋釜を回収す る 「鍋換えの習俗」が、近世の みならず戦国期においても確認され、鋳物師 ・消費者関係は一回限 りの売買に終わ らず、継続的なサ イクル を持ち、商品の販売圏は同時に原料の仕入圏でもあ ったという。 ここか ら鋳物師たちの縄張 りは 「市売 り」

の対象となる 「市場」に限 らず、 「里売 り」の対象もあ ったとなる。

ここか ら鋳物師は、地域の結節点 ・市場のみならず、地域全体をも縄張 りと し、 くまなく地域住民と接触 を し、国内のどんな道 にも詳 しか ったとなろう。 このことが、笹本正治氏が 『戦国大名 と職人

1 7) 』

の中で、

当時鋳物師は武器修理の他、(道案内の点でも戦国大名に重用 されていた) と した根拠であろう以上か ら、

鋳物師は商業圏統一のため国内統一に意欲を持ち、戦国大名とも利害が一致 してお り、 このことが、信長の 尾張統一が直ちに国内鋳物師の一元化に連動 した理由であろう。

信長の父弾正忠信秀は尾張下四郡の守護代 ・織田大和守配下の三奉行の一人で、祖父信定は津島の経済力 を背景に勝幡城を根拠地 と したが、信秀は愛知郡に進出 し古渡に築城 し、那古野城を今川氏か ら、守山城を 松平氏か ら奪い、伊勢湾経済の中心地熱田を新たに支配領域内にくみ こみ、鍋屋上野村に近い末盛城を居城 と した。 ここか ら、信秀 と水野太郎左衛門との関係 も考え られ るが、尾張一国内の鋳鋼業独 占権大工職」

は守護公権にのみ係わ り、信秀には係わ り得なか ったものと思われ る。

天文二十三年信長は居城を那古野か ら清洲へと移 して以後、かつての守護 ・斯波氏に代わ り、戦国大名と して尾張を軍事的 ・政治的に統一 して行 く。その過程で太郎左衛門家 との間に新たな接点がうまれ、かつて の守護による保護の再確認が、今度は信長に対 して求められ、その結果がこの文書に結実 したと思われ る

1 8

)。

(4)

4

天文二十四年には、初代の水野太郎左衛門範直は、 「大工」と して現在名古屋市中区にある尾張功徳院所蔵 の鉄地蔵

1 9

)を鋳てお り、その活躍が確認され る。

それ故、 この水野太郎左衛門宛て信長判物成立の前提には、太郎左衛門側か らの営業権 ‑ 「大工職」に対 す る確認 ・保証の要求と、信長側のそれへの承認 ・安堵という二つの過程が想定 され る。

( 2) b

於熱田鉄屋、立曇善事可停止」について

信 長は この折紙で、

a

では、異継家 との関係 をもっ 「上野鋳物 師」水野太郎左衛 門家が尾張一 国内で

鐘 ・塔九輪 ・鰐 口」を鋳 る特権を承認 し、次の bでは、本来商売敵で、信秀 ・信長の支配下にあ ったと思 われる 「熱田鉄屋」の営業活動を禁止 している。 これは、上野鋳物師の一国規模での営業独 占権を、鋳鋼業 のみならず鋳鉄業についても承認 したことを意味 し、特権の再確認、 「大工職」の一元化であ り、 「上野鋳物 師」による熱田鉄屋の乗 っ取 り、吸収合併の事実確認である。

網野善彦氏によれば

20

)鉄屋 ・金屋」 とは鋳物師の集住地 をさす とある。現在熱田周辺の地名に 「鉄屋・

金屋」は見つか らないが、熱田と名古屋の中間地点には 「金山

」20)

がある。 ここには熱田神宮の修理職が

金山」彦命」を示巳った金山神社があ り、 この社地の森 を 「金山の森鍛冶屋の森」 とい ったとあるので、

熱田鉄屋」はここだと思われ る。 刀鍛冶が示巳るものが稲荷

21 )

であることと比較すれば、 「上野鋳物師」と

熱田鉄屋」は信仰が近 く、仕事の内容も近似 していたと思われ る。

鉄を扱 う職人には 「鍛冶屋」 と 「鋳物師」が考えられ るが、 「鍛冶屋」 と 「鋳物師」 とでは原料が 「鋼鉄」

と 「錬鉄」 と異なることか ら、両者は区別 され る。 また 「鍛冶屋」の仕事を細分化すると、刀剣類、鉄砲な ど武具を作る 「刀鍛冶 ・鉄砲鍛冶」 と、民衆的な道具である刃物、農具と しての鋤鍬等 々を製造す る 「野鍛 冶」が考え られ る。 また刃物製造か らは 「研 ぎ師」が、 さらに鉄は リサイクルがきくことか ら古鉄回収業の 存在 も考え られ る。 しか し鋤鍬等は 「鋳物師」 も製造 していたと思われ る。

鋳物師たちの在 り方を歴史的 な長いスパ ンで考えると、他国鋳物師が国内に入 りこみ 国内需要を満たす

出職」の段階か ら、各国内に鋳物師が定着す る 「居職」の段階に至 るという。そうなると、古いタイプの

出職」鋳物師の営業に対 し 「居職」鋳物師の側が禁止を迫 り、戦国期以降は、鋳物師の営業権は原則的に 国郡単位で確立す るという

22)

。焚鐘 等は 「前 々か らの筋 目」があ り、尾張一国内での独 占権があ っても、

鋳鉄業の独 占権確立は、鋳物師の近世的展開に対応 した出来事 なのである。

近世の天命鋳物師

23)

の世界は 「総官一鋳物師一鋳掛職の関係で結ばれ鋳物師は大工 ・親方、鋳掛職は 小工 ・下吹 とも称 された鋳物師は基本的には定住 し、常時鋳物生産に当た り、鋳掛職は出職で仕事の多寡 によって、人数 も移動 した総官には鋳物師代表が当た り、鋳物師を統括す るとともに、職業の安定 をは か った。 また、鋳掛職は、鋳物師に労力を提供す る見返 りに、給金を受けた」とある。 ここか ら 「鋳物師 ・ 大工」を企業家に 「鋳掛職 ・小工」を熟練労働者に喰えることができよう。

近世始めの辻村鋳物師

24)

の集団が同村出身者か ら構成 されていたように、 この 「鋳物師一鋳掛職関係」

は血縁関係 を基盤 と した カ‑ ス ト的閉鎖集団で、中世では営業権 ・販売圏を守 るため武装 していた

25

)

鋳掛職」は近世に独立す る職種だが、 この 「小工

」 ‑

鋳掛職」か ら、中世の 「小工」は鋳物師の仕事の 多い時は熟練工 と して鋳物生産にあた ったが、仕事のない時は 「出職」 して鍋釜販売や、 ヨーロッパの鋳掛 屋であるジブシ

‑ 2 6)

と同様、馬車等で遍歴 していたと想像 され る。

それ故 「小工」たちは各地に散在 し、鍋屋上野村で水野氏の下で鋳造活動に従事す る他は、遍歴の職人と して鋳掛業を行い、鍋釜商人と して鋳物販売をもや っていたと思われ る。鋳物師の水野太郎左衛門家の営業 独占とは、太郎左衛門の出職範囲が尾張一国に限 られることを意味 したが、他方 「小工」たちの出職、旅の 範囲は尾張一国に限 られなか った。それ故逆に、他国の 「小工」たちも、「焚鐘の鋳造」等の大がか りな仕事 でない限 り、鋳掛業や鍋釜販売等 々の形で、尾張国内を遍歴 していた。

異継文書には、大工鋳物師が他国の鋳物師たちを管理 していたことを示す、次のような興味深い文書

2 7、

がある。 ここには書き写 しの際の 「丹波柿芝足立治右衛門所持」 との説明書 きも添え られている。

鋳物師衆遠夫 ・陣夫令免許之候、従他国猶以呼集候而、無等閑可令馳走者也、

天正八

(5)

十二月七 日

大工源右衛門との

松 田印

大工源右衛門」 とは丹波国の鋳物師大工足立家の一員であろう。足立家の者たちには 「速夫 ・陣夫」が 免除されていても、 「大工源右衛門」は他国の鋳物師を呼び集めることができ、彼 らを 「遠夫 ・陣夫」 に動 員す る責任を負 っていた。夫役の動員であ ったため、実際に呼び集め られた他国鋳物師は、「小工」や 「鋳掛 職 ・鍋釜商人たちだ ったであろう。 ここか ら、戦国期に鋳物師の営業独 占権が国 ごとに確立す るといって

も、他国の鋳物師が大勢丹波国に入 りこんでいた事実が確認されよう。

( 3)

上野鋳物師 と熱田鉄屋

上野鋳物師」が 「大工」水野太郎左衛門に率いられた族縁的集団であ ったのと同様、 「熱田鉄屋」 もまた

大工」に率いられた血縁的な武装職能集団であ った。それ故二つの集団が一つに結合す るには大変な困難を 伴 っていたと考えられ る。 この間題を理解す るために、元亀二年に信長が太郎左衛門宛てに発給 した次の朱 印状

2 8 )

を見なくてはならない。 ここでは、永禄五年の折紙の内容、つ まり水野太郎左衛門が得た特権

a・

b

・ C

・dは 「鉄屋大工識」の一語で表現されて、安堵されている。

鉄屋大工職事、如前 々申付候、井屋敷之儀、不可有相違之状如件、

元亀武

六月廿三 日 上野鉄屋

太郎左衛門とのへ

(信長朱印)

この後水野太郎左衛門家は、歴代領主か らの発給文書の宛名を見る限 り、「上野鍵塑嘩 」ではなく 「上野墜 昼」と呼ばれている

2 9 )

。 この事実か ら、一つには尾張国春 日井郡 「鍋屋上野」村が尾張における鋳物師の集 任地 となったことが想像 され る. しか し呼び名の変化は社会関係の変化をも表 してお り、

a

か らは異継家 と の関係が窺われ るにも拘わ らず、永禄五年の信長判物の本質は、水野家の虞継家支配下か らの離脱、寅継家 支配の 「鋳物師」か ら織 田家直属の 「鉄屋」への変化であ った可能性がある。

つ まり、文書の字面か ら確認 され ることは、水野氏の尾張一国 「大工識」の承認や 「上野鋳物師」の 「 田鉄屋」の乗 っ取 りであるにも拘わ らず、実態においては、む しろ形式 と内実との逆転現象が考え られ、 こ の折紙の背後には、織 田氏による尾張統一や、織田氏による伊勢の北畠 ・神戸両氏乗 っ取 りにもあたる出来 事が想定 され る。水野氏が虞継家の支配下に入 り獲得 した特権 「前 々の筋 目」は否定され、実質において織 田弾正家支配下の 「熱田鉄屋」が 「上野鋳物師」の在 り方を リー ドしたと思われ る。

それ故 この折紙の隠された 目的は、「熱田鉄屋」による 「上野鋳物師」の乗 っ取 りの安堵であ り、二つの族 縁集団の統合であ った。 これ まで尾張国内の 「小工」たちは、少なくとも上野 と熱田の二 ヶ所での鋳物製造 に携わ ってきたが、今後は鍋屋上野の水野氏の下でのみ働 くこととなった。一方水野家は、文禄二年には上 野村か ら都市清洲に、さらにその後、名古屋鍋屋町へ移転 した。鋳物師のこの (農村か ら都市への移住)に ついては、市村高男氏の次の議論 「都市に住む鋳物師と村 に住む鋳物師

30 ) 」

が参考になる。

都市に住む鋳物師たちは、原料の鉄 ・銅はもとよ り、燃料の木炭や鋳型 に使用す る砂 ・粘土などをすべ て購入 し、生産活動にあてることになる。それゆえ、都市居住鋳物師の登場は、原料鉄 ・銅や木炭 ・砂 ・粘 土などが商品と して広範に流通 し、都市に居住 しなが らも、それを容易に調達できるような条件が整 ってき たことを物語 っている。同時にそれは、都市居住鋳物師たちが、原料 ・燃料の直接的な生産や調達その他か ら解放 されて、鋳物生産の生産 と販売のみに労働を集中す ることにより、鋳物職人と して純化する条件を得 たことをも意味 していたのである。

つ まり、農村部の集落に居住 し生産活動を していた鋳物師たちは、熟練労働者 と しての 「小工」の他に、

原料 ・燃料の直接的生産やその調達にあたる非熟練労働者 ・季節労働者を大量に必要 と してお り、中世とい う時代は、 こう した労働力は 「下人」 という形態をとったのである。彼 らは当然農業労働にも従事 したが、

(6)

6

仕事の暇な時は、鍋釜などを販売 した り、遍歴の職人として鋳掛業をも行 っていたと思われる。それ放、中 世鋳物師の世界は (大工鋳物師一小エー下人) と定式化 されよう。

桜井英治氏は戦国期播磨国野里村の鋳物師の世界が、「鋳物師総管職」の芥田氏、金屋中の正規 メンバーで ある 「鋳物師」、金屋の下で製品販売を行 う 「売子」か らなる

31 )

ことを明らかに した。 また天正十五年四月 十五 日に遠州森の金屋七郎左衛門に宛てた家康朱印状

32)

には 「駿遠両国鋳物師惣大工識之事、右七郎左衛 門二定上音、小工共可相随、小工、同鋳物師商人井炭寵五 口之通、諸役免除之事、不可有相達者也、仇如件」

とある。以上か ら定式は、(大工鋳物師一小エー売子 ・鋳物師商人) と言い直す こととなる。

笹本正治氏の明らかに した

33

)ところでは、近世中葉、明和三年に遠州森の金屋山田七郎左衛門が配下の 小工・商人を調査 したところ、 「配下の小工は六人お り、七郎左衛門を含めた七軒がそれぞれ鍋釜商人と関係 を持ち、遠江全体で鍋釜商人は一四九人が数えられ る」 とある。戦国期野里村の売子が金屋の下にあったの と同様、近世中葉になっても、遠江の鋳物師商人たちは小工を 「主人」 と していたのである。他方 これ とは 別に、戦国期における原料 ・燃料等の商品化の動きは 「下人」を身分的に解放 していった。

それ故、「大工」水野太郎左衛門と 「売子

鋳物師商人」の関係は、「主人一下人」関係か ら、商品の卸問 屋 と小売 りの関係へ と変化 し、カース ト的閉鎖集団か ら解放 され る方向にあ った。 ここか ら、「小工」たちに とっての統合 とは仕事場の統一であり、鍋屋上野村への集住 となった。他方 「売子」たちにとっては、卸問 屋である水野太郎左衛門か ら様 々な保護の下に鋳物商品を卸 して貰うこととなったと思われる。 しか しその 決め手は、両者にとって共通の他者、

C

の 「他国より入 って くる鍋釜」の問題であ った。

次に

C

の分析に入 りたい。

(4)

C

「自他国鍋釜入手可申付之」について

この文書では、

a・bで一国規模での独 占権を承認 した後、「

然者」 という順接で繋いで、

C

では他国か ら 入 って くる 「鍋釜」のことを問題 としている。前述 したように、 この 「他国か ら鍋釜入ること、 申 し付 くべ し」の部分を、先学は 「停止 ・禁止」 と している。 この理解は、この時期国郡 ごとに排他的独 占権が成立 し、

太郎左衛門側が く「大工職」の一国規模での独占がなったのだか ら、当然尾張一国内の 「売場」は全て 自分 が独占すべきだ) と主張 したはずだとの前提に立 っている。

しか し、営業独占権は直ちに 「売場」独占権に連続 し、他国鍋釜の排除につなが ったのだろうか。鋳物師 太郎左衛門の持つ一国規模での営業独 占権は、焚鐘の鋳造を中核 としていた。 これに対応 して 「市売 り 売 り」を含め、尾張一国内での鍋釜等の鋳物販売権は太郎左衛門の下にあ った。 しか し 「売場」に関 しては、

水野氏以外の鋳造 した鍋釜は尾張国内では販売させないとする閉鎖的な市場独占ではなく、他国の鍋釜 もあ る一定のルールの下で販売 されていたと思われ る。

網野善彦氏

34

)は 「平安末 ・鎌倉期、回船鋳物師たちは打ち鉄 ・熟鉄等の原料鉄、鍋 ・釜 ・鋤 ・鍬等の鉄 製品、さらに絹布 ・大豆 ・小麦等 まで持ち、広 く諸国を遍歴 し交易」 していた事実を明らかに した。鋳物師 の在 り方が 「出職」段階か ら、次の各国内に定着す る 「居職」段階へ と変化す ると、原料鉄は全国商品に成 長 し、回船鋳物師に代わ り原料鉄を商 う鉄商人が堺を中 山こ全国を巡回 した。 「居職」の鋳物師はこの原料 鉄に依存 していたので、鉄商人が副業 と して鍋釜販売を行 っても、禁止はできなか った。

また 「鍋釜」を商う他国商人には、鋳物師配下の 「売子」 と同様 な商人の存在 も考え られる。 ここに他国 鍋釜移入問題の発生根拠がある。 「大工識」を持つ鋳物師太郎左衛門は一国規模で製造業を独 占 していたか ら、「問屋」と して製品 「鍋釜」を直属の 「売子」に卸す ことを通 じ、彼 らを支配できたが、他国商人に対 し ては、商品の 「卸問屋」でないことか ら、支配は及ばなか った。 ここに信長か ら太郎左衛門に対 して 「他国 より鍋釜の入る事」への命令 「申付」が出された理 由がある。

d

では 「所質」を問題 と している。田中克行氏が明らかに した

35

)ように、 「郷質」と 「所質」は同 じ質 取 りを意味 し、 「郷質」が東国における質取 りを示す言葉であるに対 し、「所質」は西国で使われていたとい う。それ故 「所質」 という言葉は、鍋釜を移入する他国の商人たちが京都 ・堺 ・大和等 々の西国出身であ っ たことを示 している。 ここか ら当時全国商品 と して流通 していた京三条釜座の 「釜」 とか、 「播磨鍋 ・草屋 釜 ・能登釜」等 々が尾張にも出回 っていたと想像されるのである。

近世の水野氏のように尾張一国内での販売独 占権を強 く主張す る段階以前の、戦国期 「居職」の時代に

(7)

は、尾張国内での局地的な縄張 りを主張す る段階があ り、その次に、商売敵の縄張 りを吸収 し、一国規模で 全ての鍋釜販売を取締 る段階が考え られ る。

C

とはこれであろう。 「他国か ら鍋釜入 ること、申 し付 くべ し」 とは、先学のいう 「停止 ・禁止」ではなく、(管理せよ)(取 り締 まれ)の意味であ り、水野氏は丹波の

大工源右衛門」 と同様、商人司と して、他国の鍋釜商人たちを支配 していた。

信長か ら太郎左衛門に対 して出された 「他国よ り鍋釜の入る事」への命令 「申付」の内容は、前述 した

芥田系図』か らは、(口銭銀の徴収)や (営業許可証の公布)の可能性が考え られ るが、以下

( 6)

のろ) 諸役免許のところで考えたい。

(5)全国商品流通 と地域経済圏

鋳物師達の尾張国への 「出職」や他国の 「鍋釜商人」の流入は、時間的にも、空間的にも、津島神社の祭

36

'が関わ っていた。狂言 「千鳥」に 「津島祭」のことがあるなど、中世か ら近世にかけて、尾張で一番有 名な祭礼は津島神社の祭礼であ った。津島神社の信仰圏は伊勢神社の信仰圏とも重なり、遠 く東国に広が っ ていた。祭礼の 日には遠 くか ら人々が参詣 し、その人々を 目当てに商人たちも集合 し、祭礼の瞬間は、津島 神社の境内 ・門前には全国の人々の交流す る巨大都市が出現 した。

小島広次氏は富士山頂の十一面観音の鋳鉄像の銘か ら、中世 (明応二年)の津島に鋳物師がいたと主張 し

36)

が、これは富士大宮司を檀那 と し、津島の住人が願主となり、河内の鋳物師が津島に出職 して観音像を 鋳造 した事例である。 この前提には、鋳物師の仕事場 (‑金大工所)が津島にあ った ことになる。小島氏は 十五、六世紀 には (津島に大工所が存在 し、売買された) こと、慶長年間には (「くぎ大工」の存在が知 ら れ、大工所が同様に社家たちに売 り渡 された) ことを明らかに した。

以上か ら戦国期の港町津島に鋳物師が存在 したことはほぼ間違いないと思われ る。鍋屋上野が粘土 ・砂 ・ 木炭などの生産地を背景と していたのに対 して、 ここ津島は水運によって、必要なものは全て商品と して輸 入す ることで、鋳鉄業は成立 していた。一方、笹本正治氏が明 らかに した

37 )

ように、近世初頭に近江辻村 の鋳物師たちが、津島祭の際に商売棚を出 し鍋釜を販売 していた。辻村鋳物師が全国的に活動を開始するの は天正年間以降なので、それ以前は京三条釜座 などが店を出 していたと思われる。

二代 目水野太郎左衛門は文禄二年の清洲移住を機に、辻村鋳物師の来国を禁止す るよう領主徳川義直に訴 え出たが、執政の平岩親吉は水野氏の要求をそのままは認めず、祭礼時

2 0

日間を限 り、礼式を出させて、辻 村の鋳物師たちを水野の一員と して鍋釜販売を許可 したという。 こう した津島祭 りの特例は、寛文年間まで 続いた。平岩裁許の意味は、辻村鋳物師はあ くまでも 「出職」で、津島への 「居職」は許可 しないが、祭礼 の際には水野氏の保護下に鍋釜販売を行う旧慣は守 るとのことであろう。

前述 した 「鍋換えの習俗」により、鋳物師 ・消費者間には強い結びつきがあ り、鋳物師は強固な販売圏を 持 っていたが、販売される鍋釜には全国的な商品流通の網がさらに覆い被 さっていたのである。つ まり、永 禄五年のこの信長判物以前の尾張国内における鋳物師商人たちの縄張 りは、太郎左衛門の縄張 りと熱田鉄屋 のそれの他、西国の鉄商人や鋳物師商人たちの縄張 りの三者が考えられ るが、三者が時間的にも、空間的に も同質でなく、原理的に重複 していたことが問題であ った。

しか し今や、 この三者は水野氏の下に一元的に管理 され、太郎左衛門配下の 「売子Jも、熱田鉄屋の 「 子」 も、 また他国の鋳物師商人たちも皆、太郎左衛門か ら営業許可証を貰い、尾張国内で鍋釜販売を行なう 体制になった。 このような太郎左衛門の在 り方は、他国の商人をも自己の保護下に置 く今川氏の商人司 ・友 野氏とよく似たものと考えられよう。 この商人司と しての在 り方が、尾張国内の太郎左衛門配下の 「売子」

と熱田鉄屋の 「売子」相互間に統一をもたらしたのである。

他方、天正十年七月付 け北畠信雄 「末盛丸山新市場」宛判物

3 8 )

か ら、太郎左衛門には市場開催権等を持 つ商人司の側面 もあ ったことがわかる。 「鍋屋上野」の南に末盛城虻があ り、「丸山新市場」は水野太郎左衛 門の膝元にあたる。当文書伝来の事実か ら、太郎左衛門は商人司と して丸山新市場の開催権等をも持 ってい たと考え られ る。 「売子」たちが多 くの馬車や牛車を曳いて鉄製品の卸買いをす る際、多種多様 な商品をこ の 「末盛市場」で販売 し、その売 り上げ代金で鉄製品を仕入れていたことが想像され る。

その前提には、 「鋳物師商人売子」や遍歴の 「鋳掛師」たちが、鎌倉期の回船鋳物師と同様、移動 スー パーマ‑ケ ッ トの側面 を持ち、本来商 うべ き鉄製品以外 に野鍛冶や鋳掛業のための道具、柑桐 ・輔 ・羽 口

(8)

8

直 幸

等々や原料鉄や回収 した古鉄 ・炭、多種多様の商品等 々を大量 に馬車や牛車に積み、移動 していたことをあ げることができよう。以上より、水野氏の持 った商業権には、尾張一国内の鋳物製造独 占権、鋳物販売許可 権、膝元の末盛丸山新市場の市場開催権、問屋 と しての鋳物の卸業等 々が考え られ る。

尾張における鋳物師の商圏には、色 々な レベルのものがあ り、それ らが重層的に存在 していたのだが、津 島の祭礼を中心 とす る全国的な商品流通圏は信長がもっとも把握 しにくいものであ った。そこで信長は利害 の一致す る水野氏と結ぶ ことにより、 これ らの重層的な商業圏の把握 につとめたわけである。それ故

C

以下 は、次のように解釈で きよう。(他国より鍋釜が尾張に入ることについては太郎左衛門に管理 させ、配下の 売子同様、彼 らに対す る諸役 ・門次 ・所質等の取 り扱 いの権利を認める) と。

そこで、次に dが問題 となって くる。

( 6)d

諸役 ・門次 ・所質等令免許之、無相違者也」について

現在の歴史学界の通説的な理解では、 「免許」 とは 「免除」の意味で、 「免除特権」を表 しているとなる。

この理解に合わせて dの解釈を試み ると、前述 した豊田氏の解釈に落着 して行 く。 しか し、ここでは 「免許」

の意味を根本に遡 って考え直す ことを通 じて、

d

C

の説明文であることを明らかに したい。その次に 「 役 ・門次 ・所質」の分析 に進みたい。

い)免許

現在の 日本中世史の学界においては、「免許」は 「免除」の意味だとす るのが常識で、史料解釈においても、

免許」を 「免除」の意味だとす ることに異議を唱える見解はどこにも存在 していない。 しか し現在の我 々の 日常世界、我 々が無意識的に用いている現代 日本語の世界では 「免除」 と 「免許」 とは明らかに別の意味で あ り、両者を区別す ることの方がむ しろ常識である。大学入学時の入学金や授業料は 「免除」の対象だが、

卒業時に手にす るのが教員や医師の 「免許」証である。

現在我 々が手にす ることができる辞書で、「免許」について一番詳 しいと思われ る小学館 『国語大辞典』に は、次のように①〜⑥の意味が記 されている。

ある特定の事を行うことを官が許す こと。許可す ること。

一般 には許 されていないことを特別に許可す ること。

名対面を許 され ること。名謁を許され ること。

師匠が弟子に、武術 ・技芸などの修 了を認定 して授ける名 目。 またその証書。ゆる し。伝授。免状。

法令によって、一般には禁止 されている行為を、行政官が特定の人、特定の場合に解除 し、認めること。

国家の権利 に属す る行為について、特定の者 に限 り、 これをす ることができる権利を与えること。

今仮に 「免許」本来の意味を②の 「特別な許可」だと仮定 したとき、師匠 ・弟子間で意味のある 「特別な 許可」 とは何かを考えると、当然④の 「免許皆伝」 となる。① ・②の用例 と してあが っているのは、「貞永式 目」 と 「迫加法」で、いずれ も鎌倉期の法令である。他方、⑤ ・⑥の用例はいずれ も近代のもので、どちら も① ・②か らの発展であろう。⑥が 「権利付与」の意味なのに対 し、⑤には 「免除」の意味が含 まれている。

ここか ら 「免許」 イコール 「免除」の可能性が出て くる。

しか しここで注 目すべ きは、②の 「特別な許可」の意味の中にも 「免除」の意味が含 まれていることであ る。今 ここで、「特別な許可」を願 うものと、それを許可するものという上下関係にある二人の人物が互いに 相対崎す る場面を想定 したとき、そこには当然 「年貢をまけて くれ税金を免除 して くれ」等々との懇願が 想定 されよう。 しか し 「免許」は常にイーコ‑ル 「免除」 となると、 日本社会においては、被治者の側は常 に被害者で、何 ら積極的な主張 も持たなか ったとなる。

しか し 「特別な許可」を願 うものが何 らかの権利を主張 し、それを権力側が承認する、 「安堵」す る、「 利を付与す る」 ことも原理上はあ り得たはずである。言い換えれば 「免許」は 「免除」の意味だとす る現在 の歴史学界の常識の背後 には、被治者 ‑被害者、民衆 とは何一つ権利の主張を しないものとする愚民観 ・民 衆蔑視の歴史観が存在 していると私は思 うのである。次に、「免許免除」を構成す る三つの漢字 「許」

除」の訓読みを掲 げて、それぞれの文字の持つ意味を考えていきたい。

除」は順 に 「ぬ ぐ、まぬがる、ゆるすゆるすのぞ く、きよめる、きざは し」となる

3 9)

(9)

ここか ら 「免許」を和語で言い換えれば、「ゆる し、ゆるす」 となり、 「免除」は 「まぬがれ、のぞ く」 とな ろう。より簡潔にいえば 「免許」は 「ゆるす」であ り、「免除」は 「のぞ く」となる。 日本語の 「ゆるす」と は 「束縛を加えている力を緩 くして、 自由に行動 しうるようにす ること。 また束縛をゆるめて、相手の要求 を聞き入れ ること聴許す る」の意味

40)

である。

つ まり 「免許」本来の意味は、相手の主体性を認め、(相手の裁量で ことが運ばれ ることを許可する)の意 味であろう。かつての総理大臣の愛用語を借 りて説明すれば、 「よっしゃ、分か った」 となろう。 となると、

当然相手の要求如何によって、同 じ言葉が 「免除」にも 「権利付与」にもなることは明かである。つ まり、

免許」が 「免除」を意味す るか、 「権利付与」を意味す るかはその言葉 自身か らではなく、交渉 している両 当事者間の社会的なコンテキス トによって決 まるのである。

それ故 この文書の 「諸役 ・門次 ・所質等、令免許之の場合 も、「諸役 ・門次 ・所質等」を具体的どうす る のかという述語部分は、信長 ・水野太郎左衛門間の社会的なコンテキス トか ら考えなければならず、文書上 に表現されているのは、①両者が問題 しているテーマと、②信長の 「よっしゃ、分か った」のみ となる。つ まり文書の意味を正 しく理解す るためには字句の解釈ではなく、文書の差出人と受取人との社会的なコンテ キス トの考察に進 まなければならず、私たちは今、文書解釈の陸路に立つ ことになる。

このことはルイス ・フロイス

4

1)が永禄十二年四月八 日付けで足利義昭か ら布教許可状を得た際、 日本の 免許状の特徴を、次のように述べていることと深 く係わ っている。 「尊師の知 らるる如 く、公方様又は 日本 の諸王の免許状は文言極めて簡単に して意味は深長 なり。」と。 ここでフロイスは、 日本の中世文書の特徴 が H言葉少なくして意味多 LHで、 「最小 メッセージ型 コミュニケーシ ョン

4 2 ) 」

だと している。例えば、富 田林の寺内町に対 して出された提書 と して有名なものに、次の三好盛長等連著提書

43)

がある。

富田林道場

‑ 諸公事免許事、

一 徳政不可行事、

‑ 諸商人座公事之事、

一 国質、所質井二付沙汰之事、

寺中之儀何も可為大坂並事、

右之条 々、堅被定置華、若背此 旨、於違犯聾者、忽可被処厳科者也、仇下知如件、

永禄三年三月 美作守在判

五 ヵ条の内、第一、第二、第五条は主語プラス述語の形だが、第三、第四条は主語のみで、述語を伴 って いないO当事者たちにとって 「大坂並たるべき事」でこれ らのテーマが何を意味 しているか、省略 された述 語部分は明解 なのだろうが、歴史的なコンテキス トのわか らない後世の研究者 には解釈の難 しい法令であ る。今 ここでは、 この文書の解釈 には入 らないが、 日本の中世古文書が 「最小 メ ッセージ型 コミュニケ‑

シ ョン」に基づいて作成 された例 と してあげておきたい。

以上か ら、「最小 メッセージ型 コミュニケ‑シ ョン」においては、両当事者間の社会的なコンテキス トこそ が重要で、「免許」の中身は両者の暗黙の了解に任されていたとなる。つ まり、信長と水野太郎左衛門との関 係か ら考えると、「諸役 ・門次 ・所質等」の 「免許」を要求 したのは太郎左衛門側で、信長側はその要求に応 えて 「令免許之、無相違者也、仇如件と答え、 この判物を結んでいる。 これは信長側の要求

C

に対 して、

水野太郎左衛門側が dの 「諸役 ・門次 ・所質等」を要求 したことになろう。

つ まり

C

の信長側の要求 「他国より鍋釜の入る事」の 「申付

に対 して、 dの 「諸役 ・門次 ・所質等

は水野氏側が示 した条件であ り、 この条件を 「免許

しない限 り、「申付」は引き受けられないと したのであ る。次に太郎左衛門側の要求 した 「諸役 ・門次 ・所質等」の内容について考えていきたい。

ち)諸役

諸役とは一般には 「諸 々の役」を意味 し、 「の複数形である。 ところで、有光友学氏は論文 「今川 不人権 と (諸役免許)」において、戦国期の今川氏が領国内の寺社 ・給人宛てに発給 した文書に登場す る 「

(10)

1 0

直 幸

役」を、次の五つに分

頬 44)

している。 ここか ら一 口に 「諸役」 とい っても、多義的で何を意味す るか、直 ちには決定できないことがわかる。

A

守護役一棟別 ・反銭 ・国役 ・郡役

B 人夫役 一四分一 ・点役 (天役 ・転役 ・伝役) ・押立 ・飛脚 ・用脚 ・伝馬役 ・普請人足

C

役一陣夫 ・陣僧 ・陣参 ・陣取之人数

D

地下役 一所役 ・地下次諸役 ・惣郷次之諸役

E

その他 一職人役 ・商売役 ・山手役 ・船役 ・社役 ・井堤之普請

地域住民である寺社や給人に対 しては、一般的に家屋敷や 田畑に対 し、

A

守護役」、B 人夫役」、

C

軍役」、D 「地下役」などが課せ られていることを前提 と して、その免除が今川氏側か らす る特別な恩恵を 意味 していた。我 々が問題 としている 「諸役免許」 も、 こう した住民税的なものと考えるのが通説で、そう なると 「諸役」は上野村の住人水野太郎左衛門に課せ られたもので、「諸役免許」とは特別に免除された特権 の意味となろう。そう考えると、前述 した豊田氏の理解に辿 り着 くことになる。

しか しなが ら、この場合の 「諸役」 とはE 「その他」の 「職人役 ・商売役」 と して理解すべきであろう。

となると、前述 した 『芥田系図』にある 「口銭銀の徴収に対応す る営業許可証の公布」と関係 してこよう。

信長が天文廿三年に祖父江五郎左衛門に宛てた文書

45 )

には 「俵子船壱腹之事、諸役等令免許上者、無異儀 可往反者也、仇状如件」 とある。 この場合の 「諸役」とは交通税のことで、「諸役免許」 とは関銭 ・津料など

(交通税の免除)を意味 し、(俵子船壱腹に対す る自由通行を許可す る)の意味である。

我 々が問題 と している折紙の 「諸役免許」 もこれ と同 じものであろう。鋳物師たちが 「市津泊関渡等」を 自由に交通 し、売買を営む ことができる権利 には、長い歴史があ り、天皇に結びついた供御人であることに よっているのだが、信長はここで 「諸役免許」 という短い言葉でそれを表現 し、承認 している。それ故、太 郎左衛門は他 国の売子に対 して も、 自己の支配 下の売子 と同様、鍋釜販売 に係わ る自由通行の許可、 「 書 ・短冊

46) 」

等の通行許可書を発給 したと考え られ るのである。

諸役免許」をこのようなものと考えると、さらにその発展 と して、発給は当然無償ではなか ったはず な ので、太郎左衛門は配下の売子と同様、他国の商人たちに対 しても、 「過書」発給の反対給付 と して 「諸役」

の徴収が認め られていたとなろう。つ まり、 「諸役免許」は直接的には (通行許可書の発給権)を意味 した が、拡大 して、(徴税請負権の許可)をも意味 したと考え られ る。それ故信長が水野太郎左衛門に対 して行 っ た 「諸役免許」 とは、 (徴税請負権の許可)の意味 となろう。

信長のこの 「諸役免許」は、朝倉氏や今川氏が御用商人 ・特権商人で 「商人司」の橘氏や友野氏に対 して 行 った 「諸役免許」 とよく似ている。越前の朝倉義景は 「商人司」の橘屋 に対 し、次のような判物

47

1を発 給 した。

諸商売井諸役等事、去嘉吉元年六月十七 日任 御輪 旨之 旨、所令免許、不可有相違状如件、

元亀武

十二月十四 日

橘屋三郎五郎

(花押)

諸商売」とはい っても、 この場合は薬売 りのことで、 この文書は薬売 りの商売を許可 したものである。

諸商売」は 「許可」す るが、 「諸役」は 「免除」 したでは落着 きが悪 く、 「商売」 も 「諸役」 も共 に 「許可」

する、「安堵」す るの意味で、この 「免許」は 「権利付与」の意 となろう。 この 「輪 旨」は、網野善彦氏が明 らかにされた天皇の名による自由通行権 を示 してお り、 この場合の 「諸役免許」 とは直接 には 「過書 ・短 冊」等の (通行許可書の発給)を意味 していたと考えられ る。

ところで、今川氏に代わ り駿河を征服 した武田氏は、元亀四年 に今川氏の 「商人頭」であ った友野氏に宛 てて次のような朱印状

48)

を与えた。

如旧規連雀役、木綿之役等、御代官被仰付候之条、対 日他国之商人、無非分様、以寛宥役銭可請執之 旨、被 仰出者也、仇如件、

(11)

元亀四年英酉

八月廿七 日 (龍朱印) 友野宗善

跡部美作守 奉之

この朱印状か らは、①友野氏が武田氏か ら連雀役 ・木綿役の徴収の 「代官」に任命されていた こと。②そ の 「役銭」は他国か ら来た商人たちに対 しても徴収できたこと、がわかる。 この権限は 「旧規の如 く」の言 葉か ら、武田氏の駿河支配以前か ら友野氏に与え られていたと考えられ るので、 この言葉に対応す るものは

今川義元の次の判物

49)

となろう。

友野座之事

当府如前 々 可為商人頭之事、

諸役免許之事、

友野之者、就他座錐令商売、伝馬之事者、可加友野座事、

木綿役江尻 ・岡官 ・原 ・沼津、如前 々取之事、 自当年為馬番料、木綿廿五端可進納事、

‑ 友野座江自他座無前 々子細、以新儀錐 申懸、不可許容事、

右、先制壬子年正月廿七 日焼失之由、遂訴訟間、重訴出判形也、条 々領掌永不可有相達者也、偽如件、

天文廿二年二月十四 日 友野次郎兵衛尉

宇佐見隆之氏

50)

は第二条を除いた残 り四ヵ条を全部逐一検討 した上で、「友野氏は今川氏と結びっき友野 座 と呼ばれ る座を経営す る商人であ った。そ して商売役を徴収 し、今川氏に奉仕 していた」 と結論を下 して いる。 しか し氏は第二条の解釈を保留 しているが、商売役徴収権は 「木綿役」を記 した第四条の他、第二条 の 「諸役免許」か らも説明され るべきであろう。 この 「諸役」は元亀四年の武田氏朱印状の 「連雀役」に対 応 し、配下の商人たちか ら徴収 したものと考えられ よう。

連雀商人に対す る 「商人頭」 と しての権限と して、友野氏は 「役銭」の徴収権が許可されたと理解する点 で、氏の議論は我 々の考察 と一致 している。以上、上野の鋳物師水野太郎左衛門、商人司の友野氏、橘氏の 三例の分析か ら、「諸役免許」とは諸役の 「免除」ではな くして、諸役徴収権の許可、安堵の意味 となろう。

は)門次

鋳物師商人売子」たちは、商品の鉄製品以外に野鍛冶や鋳掛業のための道具、柑桐 ・輔 ・羽 口等 々や 原料鉄や回収 した古鉄 ・炭等 々を大量に馬車や牛車に積んで移動 していた。牛馬を駆使 しての長距離移動 に 長けていること、鋳掛け、鋳金等の特殊技能 などか ら、戦国大名は彼 らを、戦争に際 しては工兵隊 ・陣夫 と して、平時の普請事業・公共事業 に際 しては専門技術者 と して動員 した。前述 した天正八年の 「松田氏判物」

か らは、他国の鋳物師たちが 「速夫 ・陣夫」 に動員されたことがわかる。

笹本正治氏

5

1)は、家康が元亀元年 に遠江の引馬 (浜松)に築城 した際、普請方の惣奉行を勤めた番匠の 木原吉次について、「木原氏以下の大工たちは、工兵隊と しての意義 も大きか った。いざ戦争 とというときに は、陣小屋はもちろんのこと、敵の城を攻め入るための井廊や柵を作 る役割 なども負 った。 このため戦国大 名以来、近世大名 に至 まで、各大名は大工 をは じめ とす る職人集団を組織 し、動 員で きるように して い た。」 と述べている。 この番匠と同 じことが鋳物師にもあてはまろう。

大名が彼 らを普請事業 ・公共事業に動員す るための言葉が 「門次」であ ったと思われ る。 「門次」は 「 並」 と同 じで、「かどなみ」 と読み、 「郷次

国次」等 と同様 に 「門毎に」 とか、 「門に対 して一斉 に」の意 味で、彼 らを公共性に訴えて動員 したと思われ る。 しか し 「門次」のこの意味か ら、「門次」の形容詞的な用

52)

は幾つもあげることができる。それ故この場合 も 「所質」を形容す る 「門次所質 53)」か、それ とも両者 は別 々なのか、形容詞か、独立 した名詞かが問題 となる。

しか しなが ら、鋳物師関連文書を見てい くと、戦国期の鋳物師に与えられた免除特権には次のようなもの があ り、その中の 「門次」は形容詞ではなく、独立 した名詞 と考え られ るので、 この場合の 「門次」を形容

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