R.A.フィッシャー素描
その他のタイトル Ronald Aylmer Fisher
著者 高木 秀玄
雑誌名 關西大學經済論集
巻 2
号 1
ページ 106‑113
発行年 1952‑02‑29
URL http://hdl.handle.net/10112/15868
彼•
R o n a l d A y l m e r F i s h e r t !
一八
九0年二月l七日・ロン
ドソの南郊
E a s t F i n c h l e y
において生をうけた︒彼の父はキン
グ街に美術品競賓店を営むすぐれたエネルギーと廣く深き美術
鑑賞眼をもっ
G.
F i s h e r
であり冨父方の家族はケンプリッチ
大学数学学位試験
( C a m b r i d g e W r a m g l e r )
に合格し︑のちほ
ど.敬会に身を捧げた父の弟を除いて殆んどが実業界の人達で
あった︒彼のもっィギ・リス風の温厚な常識"事実の世界へのあ
くなき関心"数学と美術への劇しき熱情ほ母方の血液によって
育成されたもののようである︒即ち︒著名にして祉会的信望厚
一
︑ 少 年 時
.
代 き
近代統計学の開拓者ともいうべき
R .
と学とについて素描を試みること•これが本稿の目的である。A
︒フィッシャーの人斯学に関心を有される人々になにがしかの興味をそ
4
ることと思う
︒
は
し
R
が •A
フ ィ ッ シ ャ
きロッドン下級裁判所癖護士であった彼の組父と・アフリカ野
獣をロッドソヘ蒐集するととについて秀れたオ能をもつ母の唯
一人の弟とは彼に偲統的規律といくらかの胃瞼心とのほどよき
調和によるイギリス人の魂をうみだしたものと解されるのであ
る ︒ ー
多くの秀れた数学者逹についていひうる如く彼の特別のオ能
は幼にして輝きはじめた°賢明な彼の母は︒このきらめく﹁小
さな宝石﹂に犬文学に関する入門書を読み聞かせることによっ
て磨きをかけた0彼の生涯を貫くもの`数学への﹁無限のあこ
がれ﹂をかきたてたのは次の三人の良き師蓮であった︒郎ち
W.
N . R o e , C•
H . P . M a y o ,
N W.
R o s e v e a r e
がそれ
であった°殊に彼の幾何学的方法に関する知識を統計学へと展開せしめたの庄最後の
W•
N .
R g
e v e a r e
であるといわれ
ている︒その頃.彼の眼力は無理な読書に堪へ難きまでに弱ま
つていた︒ために師とともになす夜の勉学には鉛筆と紙を用う
ることは厳止され耳だけで績けざるを得なかった︒このことは
彼をして後々に至りて︑輿へられし問題の完全なる解に達する 高
ー 素 描
木
秀
1 0
六
玄
までペンを執らず.思考にふけり`問題を分析し終えたときほ それがいかなる鍵で解かれたかを忘却したと告白ぜしめるが如 き習慣をつけたのである︒それはそれとして︑この少年時代の 勉学が彼の統計学の理論体系をして著しく立体幾何学的たらし め.更に記号主義的たらしめたのである︒
二
︑ ケ ン プ リ ッ ヂ 時 代
1九0
九哭彼はヶソブリッヂの
C o n v i l l e C a i u s
大学へと
進んだ︒その頃よりフィッシャー家の経済状態は彼をして大学 の過程へ進学せしめること甚だ困難なものとなっていた︒ため に彼は奨学金制度を利用しなければならなかった
0
かく
て.
1九1
二年.ヶソプリッヂ大学の数学学位試瞼第二部
( T h e M a t h e m a t i c a l T r i p o s
P a r t
1[ )
に合格し.更に一年間.物理 学のステューデソトシップとして
J a m e s J e a n s
のもとにおい
て統計力学.最子理論を•
F .
J
M . S t r a t t o n
のもとにおいて
誤差論の研究に従事した︐当時の彼の心をとらへた問題はダー ウインによって展開されし遣停理論を否定し.メンデルの学説 を撒的`数学的に明証することであった︒一九︱︱
‑ 0
年に出版さ
れた﹁自然洵汰の逍偲理論﹂
( T h e G e n e t i c a l T
h e o r
y 0
f
n a
t u r a 1 S e i e c t i o n
の内容をなすものはこれである︒次にケンプリッヂ時代において彼は従来のイギリス的な数学 激育を大陸的な純粋数学的態度に轄換するととの必要を感じ た︒彼にとつて重要なことは論証を明確に陳述することでは
R.A・フィッシャー素描
10
七
︑統計學に闘する初期の業績
た<`何故にこれを必要とするかについての條件を明確にする ことであった︒手ぬかりなく作られた杖で遅き歩を運ぶことよ りも偶然的な誤謬を無親してもよ
N
機敏にそれから一定の知 識を誘導することとそのぞましいものとされたのである︒当 時`彼は自分が畢なる数学激育に従事するよりも.むしろ.数 学研究に適していると確信していたもののようである︒まと と`彼は意思的にして氣短な宵年であった︒だがそれは若きが 故の氣短さではなく.創造的天才にありがちな一傾向が彼にお いてもみられたものと解すべきであろう︒
上述の如きケンプリッヂにおける輝しいアカデミックなその 履歴にもかかわらず.彼はそこで生涯の職を発見することを得 なかった0
彼が初めて統計学の講義を繭講したのほ
G.U•
Y u l e
の講義であり`他方ではイギリスの記述統計学の代表学者である
K .
P e a r s o n
の﹁遣偲理論への数学的寄輿﹂
( M a t h e m a t i c a l C o n t r i b u t i o n s t o t h e T h e o r y
f
0
E v o l u t i o n )
を批判的態度を
もつて精読し.一九四一年•第一次世界大戦の直前に両者の交 琲が開始されたのである︒当時︑
H . E .
Soper~-
誌
Biometrica
に正規分布をなす無限双変母集園より抽出せる標本の相関係数 の分布を論じたが`それは冗長な手績で近似的な結果を導くに すぎないものであった︒この問題こそフィッシャー自身が思索 し績けていた問題であり︑直ちにS 8
e r
の論文を読み終え︑一
R . A
・・
フィ
ッシ
ャー
素描
週間中に走り書でそのより精確な解を
P e a r s o n
に送りとど
庄更に後日.補筆して同誌に掲載した︒この論文とそ精密標
本分布理論の出発点をなすものであり・独特の方法で彼の天才
ぶりを示すものである︒
( B i o m e t r i k a .
X .
5 0
7 ‑ 5 2 1 .
1
9 1
5 )
︒この論文を執筆し終えて直後にステューデソトの論文を読み"
多元空間で表現することがいかにステューデントの試瞼的な考
え方を完全なものとするかに蒲想し.しばらくして級内相関の
精密分布の問題を解決し厩述の相関係数の
Z
変換と共に1九二
1年`雑誌﹁メトロン﹂
( M e t r o n )
に発表したのである︒
( M
e ,
t r o n . I . P a t 4 .
1
ー32)かくして`彼の理論統計学への関心は次第に品まり•こと統計学のアカデミックな研究に従事するが如き性格のものであれ
ばいかなる招致にも応じ上であろうが`か
4
る機会はにわかに訪れなかったのである0併るに大馳中︵一九一三年ー一五年︶
の﹁商業一般投査会肱﹂
( T h e M e r c a n t i l e a n d G e n e r a l I n v e s t 1 m e n t C o m p a n y )
の事務の運用と一九1五年ー一九年の五ケ年
にわたる公立学校における物理学︑数学の数授としての位置を
得た︒勿論︑このいづれもが彼にとつて格桐のものとはいひ難い
であろうが.さりとて.それは必ずしも無駄なことであるとも
断定し難いのである︒郎ち物理学の数授をなすに当つて実験に
訴へることが不可欠の要素であることを確信するに至ったので
ある︒か
4
る実験操作の科学の方法においてもつ意義への反省は彼のケンプリッヂ時代にはなかりしところであった︒後日` 彼の統計学の体系が実験計画を中心として樹立された基盤を.この点に求めることができるようである︒
それにしても彼のすべてを見渡す能力が.より廣く熱せるの
ちに`他を切り離して統計的研究の機会が訪れたととは.何に
もかえがたい幸であったというべきであろう︒
四
︑ ロ ザ ム ス テ ッ ド 研 究 所 時 代
第一次大眠後`ゴールトソ研究所
( G a l t o n L a b o r a t o r y )
の
統計部長の位置につくことを怨憩された︒当時の同研究所長は
既述の
K a r l P e a r s o
n
であった︒しかるに︑ほぼ同時にロザムステッド農業研究所
( R o t h a m s t e d A g r i c u l t u r a l a t S t i o n )
の所
長
S i r J o h n R u
器 s
l I
より同地に統計研究所を`設立する責任
者たるととを懇請されたのである︒
このいづれもが金銭的には必ずしも好條件のものではなかつ
たのであるが`その性格上.独立的研究に従事し得るという点
ですぐれる後者の申出を進んで受けたのである︒ここにおいて
彼の希望は果された°此処・ロザムステッドの地とそ彼に生涯
の天職を縣んでくれたのである︒かくして彼の輝しい活躍の数
年が開始された︒即ち`理論の領域では標本分布に関する研究
を更
に進
め・
1九ニ一年には近代統計理論の某礎構造について
の見解を世に問うぺく﹁瑯論統計学の数学的基礎﹂0
M a t h e m a , t i c a F l o u n d a t i o n s o f
The~retical
S t a t i s t i c s . P h i l . T r a n s . R o y . S o c A . c c x x i i .
3 0
9 ‑
̀3 6 8 )
なる餌期的な一論文が謳めあげら10
八
れ.応用の領械では同年に時系刑にみられる緩漫なる変動を分
離す
る方
法が
(l
ou
r.
A g r i
S c .
. X
L
1 0 7 ‑ 1 3 5 ) ‑
1九二四年に小麦牧穫董に及ぼす降雨董の影響に関する重要な覚害を発表
した
︒(
Ph
il
.
T r a n
s .
R oy .
S o
c .
B .
g
x i i i ,怨ー
1 4 2 )
更に
一
九ニ︱を年に全世界を通じて農業試験技循に1
大 革 命 を も た ら
し.いわゆる実験計画に関する研究の濫鮨ともいうぺき農場試
験に
つい
ての
最初
の論
文を
発表
した
︒(
lo
ur
.
A g r i
S c .
. x i i
i ,
3 1 1 │ ︑
32 0 )
本論文において我々が今日も新刊の統計学害出接見する有意性の
Z
橡定の数学的操作が展開されているのである︒だが`彼の代表的著作を述べるに当つて忘れることのできない
ものは一九二五年にF.
A .
E .
rC
ew
とD
.
Wa
rd
Cul
tu
re
の
両氏
共編
によ
るB
io
lo
牲
c al
Mo
no
gr
ap
hs
n a
d M
an
ua
ls
の第
五
巻と
して
Ol
iv
er
na
d Boyd祉より出版されし﹁リサーチ︒ワ
ーカ
ーズ
のた
のめ
統計
的方
法﹂
(S
ta
ti
st
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Me
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od
s f
o r R
e
器
r ,
< : h
八年に至るまWorkers)である︒本書は初版以来`一九四
で十版を重ね.諸領械の研究者をして近代統計方法の実際的適
用の手引書の役割を果し"若き世代の科学者達に統計的意識を
醸しだした︒その後の数年間における彼の業績には利目すべき
ものがある︒即ち.理論的には精密標本分布.評債理論︒1致
性のカイ自薬度`ベイスの公理と迦確率等の諸問題について`
応用的側面については`より進歩的な農場実験の操作につい
て"いづれも我々`斯学に志す者の必読の論著が踵を接L
発て
表されたのである︒
R.A・フィッシャー素描
‑0
九
六
︑ ゴ ー ル ト ン 研 究 所 時 代
厩述の如く彼は︐久しきにわたり"メソデル主義遣偲学の研
究に従事しその成果を1九了八年以末断片的に発表し績けた
が `
1九
三
0年に至り厩述の﹁自然淘汰の遣偲理論﹂を刊行す
るに及んだ︒本害は
D
閂且
n
が要請せる以上に精密な根拠に立ちて自然洵汰の原理を体翠つけるべく`その質的研究より撮
的研究へと科学の方法を韓換すぺきことを標謗せるものであ
る︒P
C .
aM
ha
la
no
hi
sに
よる
なら
ば︒
恰も
C.
Ma
xw
el
lが
Fa
ar
dy
の電
磁理
論の
諸概
念数
学用
語に
置換
し"
かく
する
こと
によって"理論とそのものの精密化と高度化を促進せしめたと
ひとして`彼︑フィッジャーはDarwin
E l '
進化論を最的態度を持するととによりて吟味し。批判し•もつて遣偲の統計理論を
体系づけたのである︒いわば︒近代化学の'荼本的特質を梱念の
盤的形成に求めることが許されるとすれば︑フィッジャーの頭
脳こそ近代科学の系譜の1環をなす遣停学の開拓者というべき
であ
ろう
か︒
1九
==
==
年︑
K・
Pe
ar
so
nの
退任
にと
もな
い彼
はロ
ドソ
ン大
学のゴールトソ研究所の激授の職に就任した︒当時︒彼は優生
学にその学的関心をよせていた°就任とともに前所長たりし
K.
Pe a
r s 0
nの
後を
うけ
・
1九
︱︱
‑=
=年
に﹁
優生
学雖
﹁誌
(A
ga l s
五
︑ 自 然 淘 汰 の 遺 偉 理 論
R.A
・フィッシャー素描 o f E u g e n i
g)
の編集責任者となり.爾来~数年はとれにより て遣停学研究への統計的方法適用についての研究を綾け︑その 農業実瞼法は︑近時畜工業.医学`公衆衛生︑数育.心理学そ の他.あらゆる科学的実験に適用されているのであるが.その
実験法の統一的著作は一九︱︱︱五年に公刊されし﹁実瞼計画法﹂
( T h e D e s i g n o f E x p e r i m e n t s )
であ
る︒
七
︑ 彼 の 業 績 を 貫 く も の 多岐にわたる彼の業絨は凡そ以下の三大部門に区別される︒
a ・
統計学の数学理論
b
`農業及び実瞼計画への統計理論の適用
c`遣偲学への貢献
a
盲まつ数学理論についていへば.彼は統計資料より厳密な結 論を誘導する統一的にして一般理論を展開した︒
ー︑標本分布の理論
彼の統計の数学理論に関する研究を素描するととは`とりも なおさず`統計学の近時の発展の跡を追うことにもなるのであ
るが、
~Ji
」で`まづとりあげられるのは近時統計学の基盤をな す無作為抽出標本の考へ方についてである︒郎ち︒母集園より 任意に抽出せる標本がいかなる分布の型をなすかについての考
ヘ方についてである︒その最初の型は1九
00
年に
K . P e a r
! 3 o n
によって発見された﹁カイ自乗分布﹂の型である°数年おくれて
S t u d e n t
ー本名はW . S . G o
s 器 t
であり一九一=七年︱一月に 死亡ーは標本分散度及びそのt
ー統計量又はその推計的楔準 偏差をもつて平均値を割るものの値の分布の型を発見した
0甑
述の如く一九1四年に相関係数の精密分布についての1論文の
筆を執りし時︒彼は上記の
S t u d e n t
の論文の存在に関知しなか
ったのであるが︑彼独自の
n
次元空間内の一点によってD
たる大きさの撰本を表現するすぐれた抜逹を考案した︒この方法
ほ輩に楔本分布理論のみならずJ
N e y m a n
と
E . S . P e a r s o n
の新しき研究に多くの示唆を輿へている︒なお.との方法は平 均誤差及び平均平方課差の精密分布の研究(Metron•
1 9 2 1 ,
i
︑P a r t 4 . l ‑ 3 2 Y
回帰係数の研究
( l o u r . R o y . S o c . 1 9 2 2 1 XXV•
597 ーふ 12)"
偏相関係数の研究(Mefron•1 9 2 4 , i i i , 3 2 9 ‑ 3 3 2 )
及び多元相関係数の研究
( P r o c . R o y . S o e . A , 1 9 2 8 ,
X
は .g→
ふ
7 3 )
にも使用された︒一九二三年に
t
統計最についての
S t u d e n t
9
結果に論証を興え( P r o c . C a m b . P h i l S , o c , x x l , 6 5 5
ー
‑ 6
5 8 ) "
一九二四年にそれが種々の統計的仮説の検定
に使用され得ることをトロントの国際数学会誌に寄稿してい
る︒同年に
S t u d e u t
9 t
ー統計撮をZ統計議に苦逼化し盲相異る自由度によるニケの推計的分散度の比率の対数に拡大し`
帰無仮説の検定にこれを使用した︒︵炉
o n o m e t r i c a , 1 9 3 5 , i i i , 3 5 3 ‑ 3 6 5 )
更に
一九
︳︱
‑六
年に
相異
る函
数の
分布
を同
1の一般的 階に麗する正規的多蛮相関母集園より任意に抽出せる標本の二
組の平均値の差の有意性を検定するに用いられた︒
( A g
a l s o f E u g e n i c s 1 , 6 3 6
̀ Vii•
1 7
9
ー器︶その他.標本の最大項又は最1 ︱
10
小項の度数分布︑拌入値の映差の変数分布︑調和解析における有
意性の検定との関係で生ずる精密分布等の研究が試みられた︒
2
︑評債及び統計的類推の理論断るまでもなくここで評債とは未知の存在たる母集園の分布
の型を規定する料数平均値.標準偏差等を︒その粕集園より任
意に抽出せる標本観察値より評債する手績をいうのである︒即
ち.﹁既知のもの﹂より﹁未知のもの﹂へと進む推理の科学的
方法をいう︒か
4
る推理の科学的方法に関して︑一七六︱︱︱年にB ; i y e s
の﹁偶然論における一問題の解決のための一文﹂
( A n
‑ e s s a y t o w a r d s s o l v i n g a
p l o b l e m i n t h e d o c t r i n e o f chanc•
e s )
が発表されて以来.その非本的性格について劇し吾論等が
展開された︒この1文において
B a y e s
は﹁無知の斎一的分布
の豚理﹂を手懸りとして所輿のテーマの解決を試みたのであ
る︒一批紀後.フィッシャーは近代統計学の甚盤を如上の問題
に求めて既述の﹁理論統計学の数学的甚礎﹂を書きあげた︒そ
とにおいて彼ほ標本調査の諸問顆.殊に評債理論の諸問題の解
決につとめた︒郎ち彼は次の如ぎ評債の二つのクライテリオン
を提起した︒﹁一致性のクライテリオソ﹂と﹁充足性のクライ
テリオソ﹂とがこれである︒母集体の分布型を規定する母数を
評債すべく.その母集園より任意に抽出せる標本の事実的観察
の結果の数的表章たる統計は抽出標本の大きさが無限に増大さ
れるにつれて評債さるべぎ母数に無限に近迫するという︒これ
英彼の謂う所の﹁一致性のクライテリオン﹂であり︑次に拗
R . A
・フィッシャー素描 くとも大標本の場合についていへば統計評債の変異は同一の母数を評債する他の一致統計漏の変異を超えざること.これが.﹁充足性のクライテリオン﹂である︒か
4
るクライテリオソを澤足せしめる評債の操作を﹁最尤度法﹂
( m e t h o d o f m a x i m u m l i k e l i h o o b )
と称
した
︒
( P r o c . R o y . S o c
︑
A , c x l v i , 1 ‑ 8 )
彼の統計的類推の理論へなせる第二の寄輿は末知の母数の箪
一の推計値にあらず︑その推計値の落ちると期待される間隔を
求めるに際して必要とされる﹁信頼確率﹂に関する一聯の研究
であ
る︒
( P r o c . C a m b . P h i l S o c . x x v i , 5 2 8 │ 5 3 5 , f o u r , R o y . S t a t . S o c . x c v i i i
̀ 39~2)0なお、これとの関係で展開
された
K .
P a r s o n
のカイ自乖檄定法の一般的適用`特に彼に
よって作成されし﹁カイ自薬法﹂ほ今日"との方而のオペレ
ークーにとつて不可欠のものであることを附け足しておく︒
( P r o c . C a m b . P h i l . S o c . x x v i , 5 2 8 1 5 3 5 . x x v i i i ( 1 9 3 2 ) , 2 5 7 ‑ 2 6 1 ; P r o c . R o y . S o c . A , c x x x i x ( 1 9 3 3 )
3 4 8 1 3 4 ‑ 8
; A u n a l s E u g e n i c s , v i ( 1 9 3 5 ) , 2 9 1 1 3 9 8
f o u r . R o y .
S t a t . S o c . l x x v
̀ 8
7 1 9 4 . E c o n o m i g " i i
i ( 1 9 2 3 ) 1 3 9 ‑
‑ 4 7 ; E u g e n i c s R e v i e w , x v i i i ( 1 9 2 6 ) , 3 2
ー
3 3 ; A t t i d e l C o n g r e s s o
I n t . d e i M a t e m a t i c i , v i ( 1 9 2 8 ) , 9 4
ー
1 0 0 . )
b︑農業及び実験計画への統計理論の適用に関する彼の貢献に
ついてここで詳述するぺきもないが︑その理論的根拠は既述の
如ぎ任意標本抽出法そのものでありしこと︒しかも︒従来の如
く農場の全面積よりの一仕切りだけを抽出し︑土猿の質︑特定の
R . A
・フィッシャー素描
施肥の収穫高への効果を分析する方法ではなく.所輿の農場を
多数の層に細分し︑更にそれ人\の層より任意に標本としての
プロックを抽出して効果分析をなす新しぎ農場試瞼が彼によっ
て革命的方法として迦用されたのである︒要するに彼の実験計
画法の内容をなすものほ"母集園としての全農場の模写.確率
化.
ロブ
ック
化の
一︳
一段
階で
ある
︒か
4
る操作は単にここで謂う農場実瞼のみに限られず今日では鰊述せる如き諸領械におい
て︒殊に工場製品の管理法においても大幅にとられている︒彼
の実験計画法に関する理論は近代化学方法論に新しき方向を示
唆するものであるといひL
は"
か
4
る故による︒ちなみにこれに関する彼の著
T h e D e s i g n
0 f
E x p e r i t m e n t s . O l i v e r a n d B o y d
̀
L o n d o n a n d E d i n b
u r g h ,
1935
̀
19 37 , 19 42 ,
1947
i ! W i s h a r t
が指適する如く﹁革命の性格に値する何ものか﹂で
ある
︒
C︑彼の遣偲学への貢献についてさきに若干ふれておいた︒郎
ちメンデル説の批的験証を彼の統計的方法で果すことこそ彼の
遣偲研究を貫くものであった°更にくわしくいへば︑微少な個
々の効果のメンデル的要因を二次"三次の統計によってとら
へ︒それから遣偲上の変最が計算され︒かつ︒優性効果.環椀
的諸原因が抽象されうる種々の遺傭最を評債する方法にその劃
期的貢献をなした°実際的にも逍偲変異"特性に包括される諸
要因の可能数に関する知識ほ淘汰の潜在性を決定するのに不可
欠のものであるが︒フィッジャーはこれらの量的決定にも独自 の研究方法を発表したのである︐
^
︑ フ ィ ッ シ ャ ー の 學 問 的 榮 養
おしなべて新しき学問の領械の開拓者の運命ほかな
L
きものである
0
たとへその人の破りし道のもつ債値がそれに相応する栄誉をうくるとしてもその生存中において然ることは極めて稀れ 麿 と で あ る
0我々のフィッシャーは幸いにもその稀れな人の
一人たり得たものである︒その理由として彼の研究が比類なき まで優れたものたりしこと.彼の呼吸する時代の諸科学が対象
直的概念で把握し.実験のオペ>ージョソに科学の方沫を求
める傾向にありしこと数へ得るであろう︒
郎ち
・
1九 ︱
‑ 0
年`
︱︱
‑ + 1
オにして厩述のケソプリッヂ大学
の評議員に選ばれ︒1九二六年`同大学の
D o c t e r o f c i S e n c e
の学位を獲得し`彼の研究の成果ほ理論的にも応用的にも急速に多方面に影啓を及ぼし1九二九年にイギリス王立協会評議員
( F e l l o w o f T h e R o y a l S o c i e t y )
に選ばれ︒更に同年ウェル
ド ソ 質
つ
i V
d o e l n M e d a l )
を授
輿さ
れ`
1九 ︱ ︱
‑ 0
年にアメリ
カ統計協会名誉評議員
( H o n o a r y F e l l o w o f T h e A m e r i c a n S t a t i s t i c a l A s s o c i a t o n )
に︑
一九
一︳
一四
年に
アメ
リカ
芸循
科学
学士
院外人会員︶
F o r e i g n M e m b e r o f T h e A m e i r c a n c A a d e m y o f A r t s a n d S c i e p . c e )
に選
ばれ
たの
であ
る︒
その
他︒
一九
一︳
一六
年 に渡米し︑その三百年祭記念に際しハーヴァード大学より名誉 学位を受け︒翌︱︱︱七年に印度統計学会名密評議員
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F e l l o w s h i p f o , t h e I n d i a n S t a t i s t i c a l I n s t i t u t e )
に選
ばれ
.
更に一九一テ八年一月に開催されし印度統計会議の第一部会議長
の席につくぺ<招聘された︒
以上を以つてしても彼の英米統計学界において占むる地位の
いかなるものなるかを伺い得るとともに.その輿へられし学問
的栄誉の高きことに氣附くことであろう︒つけ足していへば彼
の幸羅はひとりその高き学問的栄誉のみの故ではなく︐家庭的
にも融まれているがためである︒即ち.一九一七年に医学博士
H .
G l ' a t t a n G u i n n e s s
の賢明なる娘
R u t h E i l e e n
と結婚し七
人の子女をもうけ今日もヶンプリッヂ大学の職を奉じ研究に従
事し絨けている
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人`あるいはその後の近代統計学の躍進的進歩に眩感され彼を古典の人という0
筆者は斯る態度を執らな
ぃQむしそ彼に縦く人々の論著が機械論的な応用数学書風に
綴られていることになにがしかの懐疑を有する筆者自身は彼の
既述の諸論著の各頁に最も新しきものを発見するのである︐
読者は本稿を読み終えられていかなる意情を持たれただろう
か0推察するに.それはあの秀れた者達の生涯にありがちな翡
劇的なるものではなく`説圃の歌の中で新しき高模を築きつつ
ある木匠の姿に似たるものではなかっただろうか︒
砿記︶本稿ほ近滸の
W a l t e r A . S h e w h a r
t
編集によるC o n
ー
t r i h u t i o n s t o M a t h e m a t i c a l
Statistics•
N e w York•
1 9 5 0
の 心 志
頭に轄載せるカルカック大学の
P . C . M a b a l a n o b i
記による。なお・原文は1ya•SB に s
激授の停V o l . 4 , P t .
2•
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2 6
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・フィッシャー素描 ー2 7 2 ,
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