英 文 学 会 通 信 英 文 学 会 通 信
─日本大学英文学会─
第 99 号
発行:日本大学英文学会
〒156-8550 東京都世田谷区桜上水3-25-40 日本大学文理学部英文学研究室内 Tel(03)5317-9709(直通)
Fax(03)5317-9336
目 次
《ご挨拶》
日本大学英文学会会長に就任して ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学英文学会会長 深沢 俊雄 2 退任のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学英文学会前会長 吉良 文孝 2 英文学科主任挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部英文学科主任 塚本 聡 3
《エッセイ》
大学生から先生へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 公立中学校教諭 酒井 雄也 4 教員志望の方々へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 長野日本大学中学高等学校教諭 近藤 一樹 4 中学校の教員になるまでの道のりとこれからの抱負
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 長野県安曇野市立豊科北中学校教諭 笠井 勇也 5
《海外留学体験記》
海外留学体験記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部英文学科4年 鈴木 智子 6 アメリカでの留学生活 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部英文学科4年 田中 亜季 7 自信は最大のおしゃれ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部英文学科4年 吉田 美咲 8
《追悼文》
羽柴正市先生を偲んで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学薬学部教授 金子 利雄 10
《特 集》
ジョージ・エリオットと私 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部講師 会田 瑞枝 11
《月例会関連》
月例会報告・予定、その他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
《新刊書案内》
『英米文学の精神分析学的考察』第2巻について ・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部講師 関谷 武史 14 『英語教育の精神と実践:コミュニケーションから英米文学まで』について
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学講師 岡田 善明 14
《事務局・研究室だより》
助手退任のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部元助手B 千葉麻衣子 16 退職のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部元助手B 森尾 文恵 16 着任のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学文理学部准教授 前島 洋平 17
助手A着任のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部助手A 野村 宗央 17
着任のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部助手B 加藤 絵梨 17 着任のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部助手B 齋藤 多珠 18
《ご挨拶》
日本大学英文学会会長に就任して
日本大学英文学会会長 聖徳大学教授 深沢 俊雄 東日本大震災以後、国際的にも日本においても、社 会情勢や経済状況の不安定さが際立っていましたが、
日本も政権交代とともに経済状況や学生の就職状況等 に明るい兆しが見えるようになって来ました。この明 るい状況ができるだけ持続するように望まずにはいら れません。
ところで、私ごとになりますが2011年4月に吉良 文孝会長のもとで、副会長に選任されてから2年の歳 月が経過しました。
日本大学英文学会の発展に多大な貢献をされた会長 の吉良先生が2013年3月末、会長の任を退かれました。
それゆえ、吉良会長の後任として微力な私が推挙され ました。
振り返ってみますと、吉良会長と英文学科スタッフ の皆様方の献身的なご尽力により、日本大学英文学会 の月例会・学術講演会・年次大会等の研究活動には目 覚ましい進展がありました。今後もこの進展を維持し 続けるべく、英文学科の教授であられる副会長の高橋 利明先生と英文学科のスタッフの皆様方のご援助とご 協力をいただきながら、英文学会の発展に努める所存 です。
英文学会会員の皆様のご協力をいただきながら、重 責を果たせればと思っております。
今後ともご支援のほど、どうぞよろしくお願い申し 上げます。
退任のご挨拶
感謝、感謝の在任期間でした。
本当にありがとうございました。
日本大学英文学会前会長 吉良 文孝 この3月末日をもちまして会長職を退くこととなり ました。(故)寺﨑隆行先生の急逝に伴ない、その残任 期間を含め2年と4か月。会長指名による前任の副会 長期間の4年間を合わせ足かけ6年間、身に余る重職 に就かせていただきました。学会のためにこれといっ て華やかな、記憶に残るような仕事ができたとは言え ませんが、なんとか無事に任期を終えることができま した。これもひとえに会員の皆様のご理解とご協力の 賜物です。心より感謝申し上げます。新会長職には 聖徳大学の深沢俊雄先生が就任され、また副会長には 英文学科の高橋利明先生が会長より指名されました。
最高のかたちでのバトンリレーができました。
昨年度の年次大会総会でも申し上げましたが、今後 は、さらなる学会行事を企画することによって会員の 皆様に対する利益還元の必要があると考えております。
数年後には英文学科創設90周年を迎えます。文理学 部も教職関係者を対象に学部としての「同窓の会」を 企画中です。これと並行するかたちとなりますが、
教職関係者に限らず広く英文学科卒業生が参画できる ような学会企画を考えなければなりません。その手始め として、現在、年次大会終了後に開催される懇親会に は同窓会員の無料参加を実施しております。どうぞ 会員の皆さん、年一回の懇親会に足をお運びいただき、
久しぶりの再会に旧交を温めてください。
また、研究会員の皆さん、とくに若い研究者の皆さ ん、いつも申し上げることですが、本学会の月例会は その活動内容としては、質・量ともに日本でも指折り のものであると私は自負しております。同規模の学会 活動を見るにつけ、わが学会の研究活動はかなりの 水準にあるものと痛感します。年次大会も含め月例会 での発表、そして機関誌への投稿を積極的にお願いし ます。ともに盛り上げていきましょう。それが本学会 のさらなる充実発展につながるものと思います。
退任のご挨拶が知らぬ間に「お願い」にかわってし まい恐縮です。会長職は退きますが、今後も引き続き わが英文学会のために微力ながら尽力する覚悟でおり ます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
お願いされれば原稿を書き(遅筆をお詫びします!)、
大会で挨拶すれば壇上には大きなお祝い花がちゃんと 用意され、あれもこれも助手さん、助教さんをはじめ、
周りの皆さんの目立たぬ下支えのお蔭です。最後に、
あらためまして、在任期間中はお世話になりました。
心より感謝申し上げます。本当に、本当にありがとう ございました。 (平成25年5月7日記す)
英文学科主任挨拶
日本大学文理学部英文学科主任 塚本 聡 このたび、平成25年度の英文学科主任を務めるこ ととなりました塚本聡です。会員の皆様と英文学科と の橋渡しができることを願っています。よろしくお願 いいたします。この場をお借りして、平成25年度の 英文学科についてお伝えいたします。
平成24年度の卒業生132名、大学院文学研究科英 文学専攻博士前期課程修了者4名、同後期課程満期退 学者2名を3月25日に送り出し、入れ替わり新入生 141名、大学院前期課程13名、後期課程1名を迎えま した。ここ数年、新入生が多かったため、やや少ない 141名の新入生入学となりました。一方、大学院前期 課程には例年になく多くの学生が進学しました。卒業 生たちは厳しい経済状況の中、それぞれの道を進むこ ととなりました。在学中の経験を礎に、各自夢を実現 してほしいと願っています。英文学科就職希望卒業生 のうち、平成25年3月31日現在の就職率は87%と なっており、残念ながら就職希望者全員が就職できる 状況には至っていません。会員の皆様からのご支援を 賜りたく存じます。
英文学科のスタッフの変更についてお伝えします。
昨年8月ご逝去された松山幹秀先生の後任として、文 理学部の助手および助教として勤めていた前島洋平先 生が准教授として勤務することとなりました。学会会 員の方には、事務局で学会支援を通してすでにご存知 の方も多いことでしょう。前島先生の後任として野村 宗央先生が助手Aとして勤務を始めました。
英文学科事務室勤務の助手Bにも入れ替わりがあり ました。森尾文恵さんは、卒業生より一足早く12月 末をもって退職し、出身地福島で中学校の英語教員に なるという自身の夢を実現しました。6年の長きにわ たり学会担当として会員の皆様との接点としての仕事 に携わってきた千葉麻衣子さんは、任期終了に伴い退 職しました。英文学科での事務職の経験を生かし、4 月からは別の大学で同じく事務職として仕事を続ける ことになるとのことです。この二人に代わり、加藤 絵梨さん、齋藤多珠さんが新たに英文学科の事務室に 加わりました。学会担当の加藤さんには、多くの場面 で会員の皆様と接することが多くなることでしょう。
加藤さんともども、齋藤さんにも多くの場面で学会活 動の支援をしてもらうことになりますので、勤務を続 けている青木明香さん、佐藤瑛奈さんも含め、よろし くお願いいたします。
デフレの時代が長く続き、前述のとおり、学生の就 職活動も思うようにいかない場面も多かったように思 います。しかし、ここ数か月は、アベノミクスが要因 なのかわかりませんが、経済が少しずつ上向きつつあ るとの報道もありますが、経済状況の好転とは関わり
なく、学校教育にはより一層の改革が求められること は明らかです。
小学校での英語教育の導入が始まっていますが、
2013年3月28日朝日新聞報道によると、ベネッセと の 共 同 調 査 に お い て、 導 入 賛 成 は74%、 反 対 は 17.4%とのことです。また期待する教育内容としては
「実際の場面で話せる英語力を育てる」という内容を1 番としているとのことです。いずれは、このように英 語に親しんだ生徒が、大学に入学してくることになり ます。大学での英語教育、あるいは英文学科の専門教 育も変わっていくことでしょう。小学校での英語教育 については賛否がありますが、変化が生じることは間 違いないでしょう。
今回の調査は、小中学生の保護者への調査ですの で、大学教育への要望とは異なるかもしれませんが、
学校教育で望まれる教育内容としては、「課題を発見 する力」「論理的に考える力」「物事を多面的に考える 力」「主体的に行動する力」を主としてあげ、単に知識 を身に着けることは低い順位となっていることなどが 報告されています。内向き志向の学生が増加している ことや、一方では求められるグローバル化に対処する ため、秋入学を始める東京大学やクォーター制を導入 する早稲田大学など改革を進める大学が増えています。
このような社会要請にこたえることも大学教育に課せ られた課題でしょう。昨年の田中前文部大臣の新設大 学の不認可問題にみられるように、18歳人口の減少 は不動の事実として存在し、大学は存亡の危機に立っ ています。日本大学もいずれは大きな変革を迫られる ことになることは明らかです。過去の栄華に思いふ けっているゆとりはないとの自覚を持ちつつ、教職員 一同、英文学科を運営してまいります。
大学生から先生へ
公立中学校教諭 酒井 雄也 私は昨年一年間、臨時的任用職員を経験し、その経 験とそれまでの人生で学んできたことを生かして、教 員採用試験に合格することが出来ました。この度、英 文学科通信への寄稿の依頼を受けるに辺り、何を書く べきか迷いました。とはいえ、まだ教職の経験も乏し い私には、「教育とは」などの大きなタイトルを振り かざしてお話させていただくのには忍びない思いがあ ります。なので、私は自分自身の教員採用試験合格に 至るまでのプロセスをおさらいし、その中で何が自分 の糧となり、今の自分に役立っているか、整理してみ たいと思います。私の言葉が、今教員を目指してい らっしゃる方々へのきっかけやメッセージに少しでも なれれば、幸いです。
私は大学四年間、学校の先生を目指す人のための サークル「文理教職会」という会に参加していました。
名前の通り非常に堅い雰囲気の漂う中で、日々「教育 とは」「教えるとは」など、答えもない疑問に仲間と挑 んでいました―こう書くと、あたかも私が心の底から 教職を熱望し、教育の二文字に人生を捧げようかとい う真面目中のマジメな学生だったかのように思うかも しれません。実際は、そんなことはありませんでした。
実際、教育の哲学的な疑問に答えを探求するような 内容の濃い活動は、気が向いたらする程度のものであ り、普段は仲間たちと笑い話をしながら、賑やかに毎 日を過ごしていました。大学二年のときには海外語学 研修にも参加し、英語の能力を伸ばすことに力を注い だ反面、行った先のイギリスで羽目を外して遊び呆け てしまったこともありました。また、大学二年のとき から自己表現する活動に凝り、学生歌舞伎などの演劇 活動や詩作の面白さにどっぷりと浸かってしまってい る時期も長くありました。
一見、教職とは何の関係もなさそうに思えるこれら の過去の遍歴ですが、私はこれらすべての経験が、今 の自分に生きていると日々実感しています。日々実感 している理由として、私たちの大切な仕事である「授 業」に答えがあります。
私たち教員が日々責任とプレッシャーを胸に、全力 をかけて高いクオリティを保ち続けなければならない 最重要の仕事が「授業」です。授業では生徒と直接コ ミュニケーションをとりながら、時に厳しく、時に笑 顔を誘いながら大切なことを伝えていくわけですが、
皆さんも私自身もそうであったように、ただ大切なこ とと説明だけが続く授業は非常に退屈で、集中力が持 たないのです。そこで私たちは、集中力を呼び起こす
「興味・関心・好奇心」や「必要性・義務感」などに着目 し、生徒の耳目を集められそうな話題を探し出し、生 徒たちに振りまこうとします。しかし、普段土日も部 活動等で休みのない私たちには、新しい経験から話の 種を探るというのは難しいときもあります。そこで頼 るのが、過去の記憶です。実体験を話してあげる事に よって、生徒も体と心をこちらに向けて話を聞いてく れるようになります。その話の種として、様々なこと に挑戦してみた自分の過程や成果が生かされるのです。
今、これを読んでくださっている方に、あとどれく らい時間が残されているかはわかりません。しかし、
どうかその時間を、なにか新しいことに挑戦する機会 として、大切に扱って貰いたいと私は願います。
今の時代、誰を信じ何を疑うべきか分からない中で、
子どもたちは信じられる確かなものを欲しています。
その不安な心を支えてあげられるのは、まさしく
「信頼できる相手」であり、それは他ならぬ家族や教 師の存在であると私は信じています。
その「確かな存在」から発せられる言葉を磨くため に、なるべく人がやったことのないような体験をし、
徳を積んでいってください。みなさんが人生に生かせ ていることは、子どもたちも生かせるはずです。
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教員志望の方々へ
長野日本大学中学高等学校教諭 近藤 一樹 皆さんはじめまして、長野日本大学中学高等学校で 教諭をしております近藤一樹と申します。この度はこ の内定に際しまして、それまでの苦労、勉強法などを 書いてほしいとのご依頼を賜りましたので、内定まで の(長い)道のり、勉強法、また専任教員としての教 員生活のお話などさせていただこうと思います。
まず、僭越ではありますが、私の経歴についてお話 させていただこうと思います。私はのろまな性格のせ いか、浪人をして日本大学文理学部英文学科に入学を しました。文理学部がもともと教員養成のための学部 だったということもあり、授業、教員養成講座など、
教員志望の私にとっては申し分ない大学でした(後の 恩師になる先生とも出会うこともできました)。大学 4年の時に東京都と日本大学の教員採用試験を受験し ました。結果は合格には至らず、その他の学校も受験 しませんでした。そこで、論文指導をしていただいて いた吉良教授に相談をしに行ったところ、(以前から 多少気になってはいたのですが)高校教員になるので あれば、大学院に進んだらどうだとのことで、進学を 決めました。大学院に通いながら文理学部の隣にある 日本大学櫻丘高等学校で非常勤をしつつ採用試験を受
《エッセイ》
け続けました。しかし日本大学(正付属)にはご縁が なく、途方にくれつつ学校のホームページを見ていた とき、長野日大(準付属)で募集が出ていました。日 本大学で6年間もお世話になったので、その恩返しが できればと思い、受験をした結果、現在に至ります。
さて、話の本題に入っていこうと思います。私が長 野日大に受かるまでの勉強方法についてです。英語の 勉強については、大学の講義もありましたし、塾で中 高生を教えていたということもあって、ほぼ毎日、少 しずつ英語には触れていました。学部生のときには英 単語や英検、TOEICなどの長文、文法のテキストといっ た大学受験に毛の生えた程度の勉強をしていました。
大 学 院 の と き に は、 加 え て 英 文 解 釈( 訳 の 練 習 )、
TOEFL(難しい文に慣れる練習)のテキストなど記述
対策を主にしていました。東京都の教員採用試験は選 択式ですので、記述対策は必要ないと思いますが、日 大の正付属のテスト、私学適性検査、また多くの独自 で行っている私立の試験は記述が多いので、その対策 に時間を費やしました。公立の試験においては、対策 テキストや東京アカデミーなどで対策講座もやってい ますので問題はないかと思います。日大のテストや私 立のテストにおいては、就職指導課にある先輩方のア ドバイスなど活用すればよいのではないかと思います。
次に教職教養、一般教養試験についてです。文理学部 の方は学部内で東京アカデミーの教員採用試験の講座 がありますので、そちらを受講すれば問題ないかと思 います。しかし、公立の試験まであまり時間がなかっ たので、私は3年生ではなく、2年生で受講させても らいました(3年次は東京アカデミーの校舎に通いま した)。各都道府県で傾向は全く違うので一概には言 えませんが、東京都に関して言えば、教育時事ネタが 教職教養でも、小論文でも狙われていた記憶がありま すので、東京都教育委員会のホームページで答申など こまめに見ておくとよいかと思います。日大の正付属 テストに関しては、一般教養は文系科目、理系科目と もに満遍なく出題されますので、東京アカデミーのテ
キストやSPIの本を1冊やっておけば丁度よいかと思
います。教職教養は原理、心理は人名とその人が提唱 した理論を聞くものが多く、法規は教育基本法、学校 教育法、学校教育法施行規則といった有名どころの法 令の穴埋めが出ますので、東京アカデミーのテキスト やポケットランナーでしっかり暗記したほうがよいと 思います。
現在、長野日大の教員になっておよそ2ヶ月が経と うとしています。4月で雪が降るほど寒い日があります が、人は非常に温かく、生徒も純粋で礼儀正しく、私 にとって申し分ないほどの理想郷のような学校です。
そこで、専任になって感じたことは、非常勤などと比 べて、生徒との付き合い方が違うということです。大 学生の時、塾の講師のバイトをしていた時は、生徒と 授業でしか接することができず、教育実習では先生と
いうより、先輩として生徒と気持ち的に近い距離にあ りました。また、非常勤では同じ空間にいる時間が専 任と近くなりますが、専任は同じ空間に「生徒と生活 を共にしている」という存在、つまり親に近い存在な のだということに気付きました。非常勤の期間があっ たことによってこのことに気づけたことは私にとって 貴重な財産になりましたが、この専任という素晴らし いポジションに早く就けなかったことへの後悔もあり ます。ここからは一部の人へのメッセージになってし まいますが、皆さんには決して私のように非常勤をだ らだらしながら専任を目指すようなことはしないでほ しいと思います。一般企業の就職活動では『新卒採 用』が当たり前なわけで、皆さんその年の採用を勝ち 取ろうと必死なのです。プライドなどは早々に捨てて、
這いつくばって内定を勝ち取りに行くのです。場所、
レベルなどは気にせず、将来のあなたの生徒の待つ 学校に、ご縁があったら就職してほしいと思います。
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中学校の教員になるまでの 道のりとこれからの抱負
長野県安曇野市立豊科北中学校教諭 笠井 勇也 今回『英文学会通信』で、「教員になるまでの自分の 経験や抱負」を書いてほしいというお話をいただきま したので、採用試験に合格するまでの道のりと教員と してのこれからの抱負を書かせていただきたいと思い ます。この原稿が教員を目指している方はもちろん、
少しでも多くの方に役立つものとなれば幸いです。
そもそも私が教師になろうと決意した一番の理由 は、サッカーが好きだったということです。部活の顧 問として、子どもにサッカーを教えたいと思ったわけ です。また、高校時代の英語の教科担任の先生の授業 がとても魅力的なもので、私もその先生のように教え ることができたら楽しいだろうなと思ったのも、「英 語」教師を志した1つの理由です。しかし、英文科に 所属し英語教員を目指していながら、私の英語力はそ れに適うものではありませんでした。教員採用試験で は、英語教師を目指す受験者には難しい英語の試験が課 されます。当時の私は、その試験問題を見てもさっぱり 分からなかったのです。長野県の場合には、その他に、
教職教養、一般教養、小論文、集団討論、集団面接、個 人面接、模擬授業が課されます。私が試験対策を始めた のは、試験の1年ほど前からでした。そのくらいの期間 があれば、英語以外の試験科目は試験に向けて十分に 対策をとることができます。しかし、英語は絶対的に 積み重ねが足りませんでした。そこで、私は、まず自
分の英語力を高めていくことからはじめました。勉強 の仕方は人それぞれですし、もちろん、向き不向きは あるかと思いますが、ここからは、参考までに試験に 向けて私が行ってきたものの中で身になった勉強法を 少し紹介させていただきたいと思います。
英語の勉強は、大学受験向け参考書のやり直しをは じめ、本当にさまざまなものをやりましたが、その中 でも一番身になったものは英作文と音読です。英作文 と言っても大学受験で課されるような難しいものでは なく、「私は英語を勉強するために図書館に行った。」
程度の簡単な日本語を英訳するものです。その程度の レベルのものを文型別などにして、5000文ほど、日 本語を見た瞬間に英語が出てくるまでやりこみまし た。また、音読も中学校レベルの英文から始めて1つ のものを50回以上、それが終わったら少しだけレベ ルをあげて、何百回も行いました。その成果の1つと
して、TOEICのスコアで言えば、英語教員に求める
スコアとしての730点以上という基準があるのです が、その基準を勉強を始めて半年ほどで大きく上回る ことができました。それ以前のスコアはその半分ほど だったので、私にはとても有効な方法でした。そのほ かの科目については、東京アカデミーの講座を利用し て、そこで貰った教材を徹底的に勉強していました。
また、小論文は教職指導室の君嶋先生に何度も見てい ただきました。小論文に限らず、教職に関する色々な お話も聞かせていただき、教職に対してしっかりとし た考え方を持てるようになり、それが面接でも役に 立ったと思います。このように、自分でやるべきこと を見つけやっていくことはもちろんですが、私の場合 は、本当に多くの方に支えられ合格を勝ち取ることが できたと思っています。
最後に、合格までの過程で強く思ったことですが、
何かになるためには、必ずその素質を持っていなけれ ばならないわけではなく、もっと大切なのは「なりた い、やりたい」という自分の気持ちだと私は思います。
私の場合では、最初は「サッカーが好きそれを教えた い」という気持ちだけでした。英語はそれなりに好き でしたが、英語が得意であったわけでも、人前で話す のが得意であったわけでもなく、自分が思う英語教員 の理想とはかけ離れているものでした。それでも、目 標を立て、それに向かって努力してきた中で自分の理 想に少しは近づけたかと思います。またその中で「自 分次第でいくらでも成長できる可能性はあるのだ」と いうことを信じることができました。そして、それは どの人にも言えることだと思います。教員として、そ のようなことを、子どもたちに伝えていけるよう、ま た、それを行動で見せていけるよう、これからも努力 していきたいと思います。
海外留学体験記
日本大学文理学部英文学科
4
年 鈴木 智子 私は2012年4月末から2013年4月頭までの11ヶ月 間、イギリスのケント大学で留学をしていました。今 現在、帰国して数週間程度しか経過していない為、ま だ鮮明に思い返すことのできる記憶をお伝えできるか と思います。この体験記が、今後留学を考えている方 にとって参考に、もしくはきっかけとなれば幸いです。この場を借りて、交換留学を志望する為に行った準 備、そして約一年間実際にイギリスにて体験してきた ことを順番に綴らせて頂きたいと思います。
留学を志望するにあたりまず必要だったことは、二 年後期までの充分な単位数とTOEFL(IBT)の規定点 数取得の二つでした。私は大学一年生の中頃から長期 留学を視野に入れ始め、まずは学部の履修を確実に、
そして総合教育科目ではなるべく英語で行われている 科目を履修するよう心掛けました。これらの授業は自 分の英語強化になるだけでなく、留学を志望する際に プラスとなることもあるので、留学を志望している方 には履修することをお勧めします。苦労をしたのは TOEFLの 規 定 点 数 の 取 得 で し た。 こ の テ ス ト は、
リーディング、リスニング、ライティング、スピーキ ングの4つのセクションで構成されているのですが、
私はスピーキングの点数に伸び悩み、そのセクション だけの為に何度も受け直しました。イギリスのビザ発 行に必要な英語レベルの基準点が、全体ではなく個々 のセクションに設けられていた為、全てのセクション にて基準点に達さなければならなかったのです。私 は、留学出発の間際でようやく点数に達したので、
TOEFLはなるべく早めから対策をし、余裕を持って 点数を取っておくべきです。
イギリスに到着してから、現地での生活に慣れるの にはあまり時間はかかりませんでした。キャンパスが とにかく広く、初めのうちはよく迷子になりました が、すぐに学校が始まり友達もできたので、キャンパ ス内や街中を共に散策しながら周りの環境を把握して い き ま し た。 キ ャ ン パ ス 内 に は 寮 や 図 書 館、コ ン ピュータールームの他に、映画館やクラブ、バーなど のエンターテイメント施設も多々あり、はじめは驚き の連続でした。又、カンタベリーの街は第一印象から とても雰囲気が良く、安全且つ便利で非常に住み易い街 でした。この交換留学制度では、前半にプレセッショ ナルという英語強化の為のコースを受けることになっ ており、はじめの約4ヶ月間は毎日学校へ通い、学部の 授業についていく為に必要な英語力を鍛えました。
夏の期間は現地の生徒達は皆休暇の為、プレセッショ
《海外留学体験記》
ナルの生徒達が集まって生活するという期間が数ヶ月 続きました。コースのほとんどのメンバーがアジア人 だった為、この間なかなかネイティブスピーカーと話 す機会が得られませんでしたが、タイや中国、サウジ アラビアなど様々な国から来た生徒達と友達になり、
とても刺激的で楽しい日々を過ごせました。日本人同 士でいる際も、お互いに英語を話すよう努力し、励ま し合って勉強に集中することができました。街へ繰り 出せばネイティブが生活しているのでいくらでも英語 を使用することは可能ですし、新学期が始まる前の良 い準備期間であったと思います。
新学期の開始後、再度引っ越しをし、ドイツ人、コ ロンビア人、日本人の新たなハウスメイツと出会いま した。この家は帰国時まで暮らしていたので一番長く、
ハウスメイツとの絆もとても深まりました。この時期 から英語の伸びも実感するようになったと思います。
ハウスメイツだけでなく、寮の近所やクラス内でもた くさんの学生と友達になり、新たに充実した生活を送 り始めました。授業に関しては、夏の期間準備はして きたものの、やはり苦労しました。ひとつの科目にレ クチャーとセミナーがそれぞれ含まれており、レク チャーで聞いた講義を元にセミナーでディスカッショ ンをするという流れになっていました。レクチャー中 は、聞き取れた部分をとにかくメモにとり、後からそ れを整理してセミナーに備えました。セミナー前は大 量の読み物を毎週課題として出され、はじめのうちは それらを全て読み終えることができず、準備が不十分 のままセミナーに挑むことも多々ありました。人前で 話すことに慣れていなかった私は、ディスカッション が大の苦手でしたが、どの授業でも先生が大変親切 で、常に親身に相談に乗って頂いたおかげで、乗り切 ることができました。勉強で苦労した分、旅行やパー ティー(毎週ありました。)など楽しいことも沢山あ り、かなり充実した毎日を送っていたと思います。な により、イギリス人に限らずあらゆる国の出身の友達 が出来たことが、より自分の視野を広げ、この留学の 価値を高めたと思います。
長くなりましたが、一言で、私の留学生活は最高で した。一年間、両親や友達の元を離れ見知らぬ土地で 暮らすというのは勇気のいることだと思います。しか し、一度足を踏み出してしまえば案外新しい環境に馴 染んでしまうものです。イギリスで暮らした約一年間 は本当にかけがえのないものとなりました。留学を考 えている方には是非挑戦して欲しいと思います。
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アメリカでの留学生活
日本大学文理学部英文学科
4
年 田中 亜季 2012年3月から同年9月まで、語学留学のためアメ リカに滞在しました。留学を決意したのは、大学3年 の夏です。ちょうど友人たちのあいだで「就職活動」と いう言葉が頻繁に使われ始めたころでした。長期間海 外で暮らすというのは高校生からの夢でしたが、気付 けば20歳の夏。このまま社会人になっていいのかと思 い、一年間休学して留学することを決意しました。私が滞在先として選んだのは、アメリカ、カリフォ ルニア州のサンディエゴという都市です。サンディエ ゴはカリフォルニアで2番目に大きい都市で、メキシ コとの国境に位置しています。気候は地中海性気候、
人口は約120万人で、中国人系、韓国人系、ラテン系の 人が多いです。語学学習のための学校は、カリフォル ニア大学サンディエゴ校付属の語学学校を選びました。
半年間の留学のうち、最初の3か月は至って普通の 留学生向け語学プログラムに参加しました。初日に気 付いたことは、日本人が非常に多かったことです。安 心したと同時に「やばい!」と思いました。日本人が いたら、1番最初に仲良くなるのは日本人ですよね。
母国語が同じですから、なんの不自由もなくコミュニ ケーションをとることができます。ですが、私は運よ く日本人があまりいないクラスが多かったので、いろ んな外国人と友達になることができました。日本人と 同じくらい多かったのが、韓国人とサウジアラビア人 でした。中でも韓国の人たちは、生活習慣や文化が似 ているところがあるので、すぐ仲良くなれましたし、
サウジアラビアの人たちも最初はイライラしました が、みんな優しい人たちであることがだんだんとわか りました。
授業はいろいろな種類があり、アメフトをやった り、歌を歌ったり、パーティーしたりなど本当に楽し いものばかりでした。休日は、学校主催のアクティビ ティに参加したり、ビーチに行ったり、宿題をしたり して、夜はパーティーに行ったりしていました。
後半の3か月は、留学生向けのビジネスコース(初 心者クラス)を受講しました。前半と違って、英語の レベルや宿題の量が格段に上がり前ほど遊べなくなっ てしまいましたが、このコースは私にとって非常に刺 激的なものとなりました。刺激的とはいっても実際は かなり大変なことばかりで、先生が何を言っているの かわからなかったことや自分の意見がはっきり言えな いことがとても多かったです。また同じクラスメート の日本人に、「君は日本人とばかり話しているけど、
何のためにアメリカに来たの。」と言われ、ケンカに なったこともありました。
そんなこともあったわずか半年間の留学でしたが、
私にとってこの半年間は本当にかけがえのないものに
なりました。サンディエゴで知り合った人たちとは今 でも連絡を取り合っています。決して英語が流暢に話 せるようになったわけではありませんが、それ以上に 多くのことを体験し周りのひとたちから多くのことを 学びました。外国で生活してみたいと思っている人が いたら、ぜひ思い切って行動に移してみてください。
後悔することは99%ないと思います。社会人になって しまったら外国にいける機会はほとんどありません。
じゃあいつ行くか?今でしょ!
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自信は最大のおしゃれ
日本大学文理学部英文学科
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年 吉田 美咲 2012年3月末より、約9ヶ月間イタリアに留学を してきました。私の留学は語学留学ではなく、イン ターンシップのプログラムでした。心に決めたのは大学3年の夏で、大学に入って以来 考えることは常に就職活動のことでした。私は小さい 時から本当に様々なことに興味があって、とりわけ好 きだったのがファッションの分野でした。けれども、
私は進学するにあたってそれ専門の学校には行かな かったため、ファッション業界で働くことは諦めてお り、その時からずっと自分の将来もまた漠然としてい ました。就職活動を目前にした私は、焦りで満ち溢れ ていて、それは就職活動を通して、妥協して会社を決 めるなんて嫌だという安易な思いが当時あったからで した。そんなときに、後押しをしてくれたのは美容師 の友人で、彼は「俺は原宿で一番のスタイリストにな るんだ!最近の大学生は夢も目標もない、勉強ができ ない俺のほうがよっぽどカッコイイだろ」と私に言い ました。これが、私の心の奥にしまっていた “ファッ ションが好き” という気持ちに火をつけました。
どうしてイタリアだったのかというと、昔からラグ ジュアリーブランドが好きで、働くなら絶対にラグ ジュアリーブランドで働きたいという思いがあったの と、どうせ行くなら英語圏なんてつまらない、何もわ からない地で苦しい思いをしたい、そんな気持ちから でした。そして、なぜ語学留学ではなかったのかとい うと、ラグジュアリーブランドは新卒採用をしてると ころはほぼなく、経験者採用がほとんどだったため、
日本では経験を積む時間はもうないと感じ、それなら 海外で積んできてしまおうと思ったためでした。私、
どうやらかなりポジティブな思考な人間だと思います。
実際、イタリアに来てからは、苦しい毎日が最初は 続きました。なぜなら、私はイタリア語だけでなくイ タリアにおける知識が本当になかったためでした。
フィレンツェってどこ、イタリアって何が有名?首
都ってローマだったんだ!と、こんな感じでした。し かし、チャレンジャーなので空港からもお迎えも頼ま ず、自らタクシーへ乗り、住む家に向かいました。
チャイムを鳴らしたらなんて言えばいいのだろう、ド キドキが止まらなくて、倒れるんじゃないと思ったほ どです。そんな訳で、ボンジョルノとチャオしかわか らない私はとにかく、勉強しました。けど、英語も同 じだと思うのですが、どんだけ勉強しても会話力って つかないもので、それが悔しくて悔しくてよく泣いて いました。だって、留学生は旅行客じゃなくて、その 土地の住民になるのですから、英語を使って生活して る場合じゃないんです。私は最初の家の大家さんとは 常に英語で会話していました。「英語じゃないと美咲 には通じないんだもの」と言われていました。イタリ ア人の友人にも「英語で話そう、美咲とは普通に話が したいんだ。僕は先生じゃないんだ」とよく言われて いました。その時むしろ、英語が話せる自分が憎いと すら思いました。とにかく、外に出ようと思い、一人 で街中歩きまわりました。フィレンツェは職人が多い 町で、またそのせいなのかはよくわかりませんが、
ヴィンテージ品のお店が溢れていました。ワクワクし ながら一人で町を歩いては、古着屋さんなどに足を運 びました。一人で8時間もかけて電車に乗り、一人旅 もしました。結果として、多くの方にイタリア語の先 生になってもらいました。けど、もっと色々なことが したかったのです。私、欲張りの見栄っ張りだから、
周りと同じなんて嫌だったんです。
イタリアへきて2ヶ月目くらいに、接触性皮膚炎に なり病院にも行きました。そこでいい出会いがあり、
ファッションに関連するお手伝いをさせていただきま した。世界最大級のファッションのイベント “ピッ ティイマジネ” のメンズ分野のイベント “ピッティウ オモ” に出展するナポリの高級スーツブランドの
“orazio luciano” の展示ブースの作成をさせていただき ました。直接、アパレルの方には触れるお仕事ではな かったのですが、華やかな表舞台ではなく、裏舞台を 知るいい機会になりました。現地の職人さんと歌いな がら壁をペンキで塗ったり、半田ゴテで電気の配線を つないだり、とにかく何でもしました。すべてを話 し出すと長くなってしまうので割愛します。その他 にも、自ら探しまわって、フィレンツェの服飾の専 門 学 校 “ ポ リ モ ー ダ ” の 学 生 さ ん の フ ァ ッ シ ョ ン ショーに出す衣装の裁断・裁縫をさせていただきま した。その時、デザイナーの女の子に教えてもらっ た「ho finito il filo」(糸がもう終わっちゃった)という イタリア語はすごく私の胸をドキドキさせたのを今も覚 えています。とにかくどちらもとてもいい経験でした。
イタリア語だけではなく、文化や流行を交換し合った りを多くできたことが本当に幸せでした。
帰国直前に、最後に一人でイタリアのファッション の聖地であるミラノに足を運びました。何かを得て来
よう、そう思いながらの一人旅だったのですが、クリ スマスシーズンでおしゃれな人どころか、多くの家族 しかいませんでした。まさかの滞在時間2時間で帰ろ うと思って、電車に乗ったとき、出会ったご婦人がそ の日一番のおしゃれな方でした。婦人はローマまで だったのですが、その電車のなかで2時間も話したこ とを覚えています。おみやげを買ったりしないで、一 人で町をウロウロしながら、店員さんに「明後日帰国 なんです」と話しながら周っていたのですが、多くの 人が口を揃えて「もったいない」「もう帰ってこないの か」そのような言葉を多くかけてくださいました。初 めて、心の底から「帰りたくない」って思いになり、
やり残したことも多くあったと感じました。また、帰 国前日は前の家の大家さんにたまたまバスの中で出会 いました。間違いなく、神様が引きあわせてくれたに 違いないと今でも信じてます(笑)。大家さんにも「だ いぶイタリア語が話せるようになったから、帰ってし まうのが惜しい」と言われました。泣きそうでした。
けど、髪の色が抜けきってほぼ金髪みたいになってい た私の頭を見て「髪が … 美咲も相変わらずね」と笑わ れたのもいい思い出です。そうなのです、私向こうで だいぶやんちゃな子と思われていたようです。
思い出話が中心となってしまいましたが、今私達4 年生は就職活動を迎えました。私は2月下旬に内定を いただき、そこに入社予定です。アパレル業界で…と 言いたいところなのですが、これが全く方向性の違う コンサルティング会社です。しかし、私はこの留学が なかったら、今頃なにもない学生だったのかもしれな いとすら思います。私は海外に行くことのみが決して すごいとは思いません。海外へ出ても、遊んで帰って くるのでは日本にいて勉強するのと同じなのではない かなって思っています。私は英文学科でありながら、
イタリアを選択しましたが、それも別に大したことで はありません。もちろん私は今、イタリア語も英語も 話すことができます。けど、私がこの留学を通して得 たことは「広い視野」と「行動力」です。就職活動で は、多くの学生に出会うのですが、私は一度も他の学 生に負けるだなんて思ったことはありませんでした。
それは、今までの行いがあったからです。どの企業も 面接で落ちたことはなかったです。自慢じゃないと言 いたいのですが、自慢です(笑)。とにかく、私が伝 えたいのは行動に起こすことの素晴らしさです。でき ないと思ったら何もできないんです。けど、できると 思えばなんだってできると感じてます。この留学を通 して身を持って感じました。コンサルティング会社に 勤めても、私の目標は変わらず「ラグジュアリーブラ ンドに関わること」で、もっと言えば「パリコレに関 係者として招待されること」です。関わり方はたくさ んあり、その可能性を見出していくのは自分自身であ ると信じています。私の愛してやまないココ・シャネ ルは「翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やす
ためにどんな障害も乗り越えなさい。」と言っており、
まさしく私もそうだと思います。
最後になりますが、これを目を通してくださる方 は、様々な方がいらっしゃると思いますが、どうか私 達には様々な可能性があることを知って、色々なこと に挑戦して欲しいです。自信は、洋服やお化粧と同じ 自分磨き道具の一つで、必ず輝きを与えてくれます。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがと うございました。
羽柴正市先生を偲んで
日本大学薬学部教授 金子 利雄 羽柴先生とは、先生が日本大学をご退官された時か ら、年賀状で欠かさず近況報告をさせて頂いておりま した。先生からの返信文は、とても読み難い手書きの ものでしたが、ご自身がご健勝であられること、お孫 さんのことなど、丁寧に書き記してくださいました。
「今年はお幾つになられたのだろう」「年賀状はご負担 にならないだろうか」等と心配しながらも、2012年も ご挨拶状をお送りしたところ、「先生が昨年亡くなら れたこと」、「大好きな英語を仕事として一生携れた ことは、本人も満足した人生であったと思います」と の感想を記したお便りを一月後にお嬢様から頂きま した。巨星が逝く悲しさに、呆然自失のまま、誰に も悟られないように、しばし先生のことを思い返して おりました。
羽柴先生がどのような人であったかについては、英 文学会通信第95号の中で、吉良先生が記していらっ しゃいます。同通信に「英語と私」と題した羽柴先生 の遺稿が載っております。今を思えば、よくぞこのよ うな企画(羽柴先生への執筆依頼)を思いついて頂け ました。学会関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。
私は、羽柴先生が大学院を初めて担当なさった時の 院生でした。いわば、羽柴先生が私を導いてくださっ た恩師です。当時の私は、羽柴先生がおっしゃってい た実用英語の必要性が全く理解できず、英文法に興味 を抱き英文学科へ入学した変わり種でした。付属高校 の頃から、英文法がとても新鮮に思え、羽柴先生の遺 稿の中で触れられているように、「英会話に夢中にな る人は中身の無い人間」と考えておりました。従っ て、羽柴先生が指導教授であることは、ご期待に応 えられるわけもないミスマッチであると思っており ました。大学院の音声学の講義では、Daniel Jonesの The Pronunciation of Englishを輪読しました。学部の 英作文の授業の時とは違い、大学院の初回の講義で は、下手な発音や間違った訳をした時には、「そんな ことも知らないのか!私は高校の時にそのくらいのこ とは知っていたよ!本当に大学院に来て欲しい学生が 来ないのだから困るよね!」と歯に衣着せぬ言い方で 叱咤しておられました。私の大学院修士課程では、そ の他に大和資雄先生がShakespeareを、宮部菊男先生 が中世英語を同様に厳しくご指導下さいましたので、
講義の中での緊張感は計り知れないものがありまし た。あの講義中の先生の情熱、迫力は私ども院生の立 ち位置(実力)をはっきり分からせ、そこから自分の 努力で這い上がって来なさいと諭して下さっていたの
だと思います。
私が修論を書き終えた頃、羽柴先生は、右手の親指 の骨を移植するため、入院したことがありました。英 作文の添削が骨に負荷をかけたのだと思います。病院 を見舞うと、先生は大変和やかにお話しになり、私に 米国留学を勧めてくださいました。痛々しい右手で、
推薦状を書いて下さり、「留学するまで中学程度の易 しい本を暗記するほど読みなさい」とアドバイスして 下さいました。その頃知ったのですが、羽柴先生は東 京帝国大学英語英文学科の優秀な卒業論文に贈られ る、シェークスピアメダル賞を受賞され、その後、国 費留学生としてカリフォルニア州バークレイ大学に留 学した経験があるとのことでした。そのような個人的 な話を普段なさる先生ではありませんので、とても驚 きました。
4年間の留学が終ると、先生からお電話を頂き、河合 塾でアルバイトをしないかとのお誘いを頂きました。
羽柴先生が河合塾の校長になられたことは後で知りま した。無職の身でしたので、きっと河合さんが経営し ている小さな塾なのだろうと想像しながら、採用試験 を受けに行き、最初は学生個人の質問に答えるフェ ローをやるようにとのことでした。
千駄ヶ谷校舎と駒場校舎で午後の4時頃から8時頃 まで部屋で待機していても、他の教員のところに学生 が押し寄せども、私のところには誰も来ない日々が続 きました。何故なんだと思いながら、廊下に出てみる と、フェロー紹介が掲示してあり、東大大学院、東京 外語大大学院、御茶ノ水女子大大学院、津田塾大大学 院○○先生と書かれており、片隅に日本大学金子利雄 と私の紹介が出ておりました。受験生たちの冷酷さを 痛いほど知らされました。そのような状況が半年ほど 過ぎたある日、大学入試問題の解答協議会が開かれ、
出席するよう依頼がありました。会場は100名程の英 語教員が集まっており、一流大学の元教授、一流高校 の元教員、名門大学の現役大学院生たちの頂点に羽柴 先生がおりました。皆、秀才揃いで、自信家ばかりで したが、一癖ある方が大半でしたので、羽柴先生のよ うな真面目で有無も言わさぬ英語力をお持ちの先生が 必要だったのだと思います。着席すると、東大の問題 が配布されており、30分以内に正解を作り上げる作業 が始まりました。その中で、長文の要約問題の答え 合わせになると、年長の元大学教授から模範解答が読 み上げられました。聞いておりますと実に立派な日本 語でまとめられておりましたが、要点を得ておらず意味 がよく分かりませんでした。すると司会者が私に模範解 答を発表して下さいと催促してきましたので、緊張の 中、「 こ の 長 文 は3つ の ポ イ ン ト か ら 成 っ て い ま す。
従って・・・のようになります」と答えました。会場 から賛同の拍手が湧きおこり、羽柴先生からお褒めの 言葉を頂きました。これがきっかけとなり、フェロー から講師へ昇格となりました。その後は、羽柴先生の
《追悼文》
名を汚すわけにはいかないので、がむしゃらに講義を 行いました。気づいたらトップ講師の仲間入りになっ ており、「専任にならないか」とのお誘いを塾長から 頂きました。羽柴先生と相談の上、大学へ戻ることを 選ばせていただきました。その後、河合塾で羽柴先生 にお会いすることもありませんでした。
羽柴先生に、教授法をお尋ねしたことがあります。
「どうしたら満足のいく講義が出来るでしょうか」と。
先生曰く、「学生の数十倍の英語力があり、熱意があ れば大丈夫、君は真面目だから」とおっしゃって下さ いました。予備校生と大学生の講義に対する反応の ギャップに悩んでいた時のことです。
羽柴先生の言っておられた「翻訳は蜜柑の皮である。
中身を理解することが大切である」という遺訓はその 通りだと思います。「アメリカ版大学生物学の教科書」
(講談社ブルーバックス)を読んでいると、「遺伝的に 修飾された・・・」という訳が度々出てきます。原本 を調べてみると、“Genetically modified …”とあり、
modifyを文法用語の「修飾する」と誤訳していること に気づきました。生物学という蜜柑の中身を吟味すれ ば、これは「遺伝子組み換えされた」と訳すのが正しい とすぐに分かります。Administration of drugsを学 生は「薬の管理」と何も考えずに訳します。これでは羽 柴先生の小言にある「辞書の最初にある訳語を見つけ て、すぐに辞書を閉じてしまう」になってしまいます。
勿論、「薬の投与」と訳さねばなりません。
羽柴先生から教えられた「学生のための」教育者にな るべく、昨年度は450人の学生を相手に、一人ずつ研 究室に呼んで「10分間の自由英会話」を実践しました。
学生の都合のよい時間に相手をしますので大変疲れま すが、「英語は使えなければ面白くないでしょ」とい うことを分からせるのが目的で頑張りました。
研究者としては、文科省科研費を満額獲得し、他大 学の先生方と共同研究を重ね、JACET大会や日本薬 学会、政策研究大学院大学で英語発表し、英語論文を アジアの某学会(Impact Factor 6.9)に投稿し採択さ れました。薬学英語教材は、日本薬学会と協働で作成 し、既に5冊出版しました。私には羽柴先生ほど優れ
たDNAはありませんが、愚直に教育と研究を続け、
目の前の学生たちを大切にし、薬剤師に必要な英語を 自ら学び、学生たちにフィードバックしております。
「和英大辞典」の編集とでは比較になりませんがお許 し下さい。
羽柴先生、本当にご指導ありがとうございました。
先生の飾らず、政治に無頓着で、歯に衣を着せない正 直な生き方が大好きでした。私も習志野の片隅で、先 生の英語への情熱を受継ぎ、出来る限りの努力を尽く して教育に当たっております。もし、怠けるようなこと があれば、天国からまたご叱咤いただければ幸いです。
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ジョ−ジ・エリオットと私
日本大学文理学部講師 会田 瑞枝 ヴィクトリア朝時代を代表する作家の一人である ジョージ・エリオットとの出逢いは、大学院に進学し た際の恩師古谷専三先生のお導きによるものである。
その当時イメージとして難解な作家という認識は持っ ていたものの、作品を理解するのに労苦を要する作家 であるという認識は薄く、古谷先生があれほどの情熱 を込めて授業で話されるこの作家について強い興味が 湧いたというが真相であった。先生の教育は徹底して 原書を読むということに尽きる。予習に時間を割き、
エリオットと悪戦苦闘をしたが、作品の細部にとらわ れ過ぎると、全体が見えず、かといって細部をきちん と検証しないと全体を把握できず、暗中模索状態が続 いた。エリオットは福音主義的な教育を受け、後にキ リスト教から離れるものの、卓越した語学力(ラテン 語、ドイツ語、フランス語、イタリア語など)と膨大 な読書量に裏付けされた様々な分野(聖書、文学、歴 史、哲学、科学など)での豊富な知識さらに音楽や美 術に対する関心の深さを誇る知の巨人である。作品を 読む上で、大きな手がかりを与えてくれたのが、エリ オットが残した書簡と日記である。これらを読むと、
エリオットが、当代一流の知識人達(哲学者、社会学 者ハーバート・スペンサーや、音楽家リストなど)と の交流や、頻繁に出かけた旅の道筋がよくわかる。大 学院を修了し、大学に職を得てから、少しずつではあ るが、エリオットの日記を手がかりに、その足跡を辿 る旅を始めた。ヴィクトリア朝時代は、産業革命に端 を発した様々な社会的変革を経験した時代である。そ の 一 つ に 鉄 道 網 の 普 及 が あ る。1819年 に 生 ま れ、
1880年に亡くなったエリオットはヴィクトリア朝時 代を生き抜き、この改革の恩恵に浴した。
エリオットは、若くして母を亡くし、又父の晩年を 看取った。父の死後エリオットの旅の第一歩はスイス のジュネーブである(その当時彼女が滞在していた家 は現在でも残っている)。ヴィクトリア朝時代の女流 作家達、ジェイン・オースティン、ブロンテ姉妹、
ギャスケル夫人などと比較してみると、エリオットの 旅の範囲の広さとその回数の多さに圧倒される。オー スティンなどは生涯一度もイギリスから外に出たこと がなかったのだから、エリオットの突出ぶりが際立つ。
著作が売れ、原稿料が安定して入って来るようになる と、エリオットの足跡はドイツ、チェコ、オランダ、
ベルギー、イタリア、フランス、スペインとほぼヨー ロッパ全域へと広がる。勿論鉄道網が普及したとは言 え、鉄道が普及してない地域への旅行は、船や場合に
《特 集》
よっては、馬車を雇ったりとかなりの経済的な出費を 要するものであった。妻子あるジョージ・ヘンリー・
ルイス(哲学者、文芸評論家)との共同生活に足を踏 み入れたために、兄からは故郷に足を踏み入れること を禁止され、心ならずも肉親や友人達と疎遠になり、
当時の社会からは糾弾されるという憂き目にあった。
閉塞感を覚えた故国から心が外へ、外国へと向かった のは一つの側面ではあるが、エリオットを外国へと駆 り立てたものは、その生育期から作家として作品を世 に問うまでに蓄積した広大な視野のなかで人間を捉え る歴史観である。作家としての出発点は生まれ育った イギリス中部地方に舞台を置いた作品である。その視 点が次第にイギリスだけにとどまらず地中海世界を含 むヨーロッパ全域へと広がり、最後の大作『ダニエ ル・デロンダ』ではユダヤ人を主人公に据え、1492 年スペインのイザベラ女王が発布したユダヤ人追放令 により離散、流転の人生を歩むことになる後世のユダ ヤ民族の人生に焦点を当てた。彼女は一つの作品を構 築する際に、膨大な資料を読み込み、必要に応じて、
現地に足を運び、徹底した調査を行った上で作品を構 築する極めて実証的な作家である。彼女の日記には、
「マドリードのプラド美術館に感動して足繁く通っ た」、「フィレンツェのジオットの塔に登ったら足がく がくになり大変だった」、「フィレンツェから古都シェ ナに行くために馬車を雇ったため、費用がかさんで大 変であった」という話などが記述され、等身大のこの 作家の実像が感じられる。
16年前に日本ジョージ・エリオット協会が発足した。
幸いなことにエリオット協会で様々な発表の機会を頂 いたことが、研究の一つのアプローチとしてtopog- raphyの視点からエリオット作品を検証する大きな動 機づけになった。エリオット批評の一部に知識の詰め 込みすぎを指摘する面もあるが、作品の舞台となった 場所を日記に書かれている旅の道筋を辿りながら歩い てみると、作品における膨大な知識の披瀝や比喩の下 に隠されているこの作家の顔が見えてくることがあ る。作品のなかで、特に彼女の歴史観が如実に感じら れるのが、唯一の歴史小説『ロモラ』である。15世紀 末のフィレンツェを舞台に、歴史上の人物たち(ロレ ンゾ・デ・メディチ、サボナローラ、マキャベリな ど)と虚構の世界が融合し、世紀末の混迷する政治状 況を背景に、そこに生きる市井の人々が描き出されて いる。
フィレンツェは、現在に至るまでその街並みが古代 ローマ時代と区画に大きな変化は見られず、歴史的建 造物が数多く残る街全体が美術館のような町である。
エリオットは、リソルジメントと呼ばれるイタリア の祖国統一運動が結実した年、1860年、61年にフィレ ンツェを訪れて実際に統一の瞬間を目の当たりにした。
フィレンツェを流れるアルノ河の畔に佇むと、『ロモ ラ』のなかで、夕景のなかをヒロインロモラが婚約式
に向かうために父達とアルノ河の畔を歩く情景が浮か び上がり、エリオットが実際にこの畔を歩いた姿が彷 彿とされ、作品に投影される彼女の想いが感じられ る。ヴィクトリア朝時代を生きたエリオットは、21 世紀を生きる私に取って、尽きることのない息吹や想 いを訴えかける遠くて近い興味の突きない作家なので ある。
●月例会報告
2012年11月以降の月例会・特別講演は以下のとお り行われました。
11月 研究発表(2012年11月17日)
[司 会] 當麻 一太郎(文理学部教授)
[発表者]
1. 『緋文字』のプロトタイプ―「異化」されたドイ ツ宗教改革のコンテクスト―
尼子 充久(博士後期課程1年)
2. 主語の属性の責任とTough構文
谷村 航(文理学部講師)
12月 2012年度学術研究発表会・総会 (2012年12月8日)
【学術研究発表会(語学の部)】
[司 会] 安藤 栄子(国際関係学部教授)
[発表者]
1. Get受動態の特性―コーパスを利用した検証―
久井田 直之(文理学部・経済学部講師)
2. 思考の言語と伝達の言語:進化と変化の視点から
保坂 道雄(文理学部教授)
【学術研究発表会(文学の部)】
[司 会] 佐藤 秀一(佐野短期大学教授)
[発表者]
1. Space, Place, Modernity: From Canada to Beyond Myles Chilton(文理学部准教授)
2. スタインベックにみる自然主義的特質―『エデ ンの東』を中心に
深沢 俊雄(聖徳大学教授)
1月 研究発表(2013年1月26日)
[司 会] 福島 昇(生産工学部教授)
[発表者]
1. Paradise Lostから読むC. S. Lewis ―Space Trilogyにおける「沈黙」の考察―
伊藤 佐智子(博士後期課程1年)
2. 身体的特徴を叙述するhave構文の意味論的考察
一條 祐哉(文理学部助教)