清代河南?旗鎮と水運
その他のタイトル Water Transportation of Henan She‑qi‑zhen in the Qing Dynasty
著者 松浦 章
雑誌名 史泉
巻 124
ページ 34‑47
発行年 2016‑07‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023433
一 緒
言 清代 中国 にお いて 各地 の代 表的 な商 人群 は遠 隔地 交易 を積 極に 展開
︵!
︶
し たこ とは
︑近 年の 研究 や︑ 資料 集の 出版 によ って その 具体 的な 姿が 漸 次明 らか にな って きた
︒ この よう な商 人群 が活 動の 基点 とし たと ころ が︑ 清代 にお いて 四大
︵"
︶
︵#
︶
︵$
︶
市 鎮と され た湖 北の 漢口 鎮︑ 江西 の景 徳鎮
︑廣 東の 佛山 鎮と 河南 の朱
︵%
︶
︵&
︶
仙 鎮 であ っ た︒ 漢 口 鎮は 長 江 中流 域 の 水運 の 利 便 さで
︑四 川
︑陝 西
︑ 湖 南な ど各 地か ら物 資が 集荷 し︑ 江西 の景 徳鎮 は陶 磁器 業の 大生 産地 と して
︑佛 山鎮 は華 南の 手工 業の 中心 地と して 名を 馳せ てい た︒ この 内
︑華 北地 区を 代表 する のが 河南 の開 封の 西南 に位 置す る朱 仙鎮 であ り
︑そ れ につ ぐ の が 䵶旗 鎭
︑す な わち 社 旗 鎮
︵写 真 1参 照
︶で あ る
︒ そ の社 旗鎮 に関 して 最近 出版 され た許 檀編
﹃清 代河 南︑ 山東 等省 商人
︵'
︶
會 館碑 刻資 料選 輯﹄ が有 用な 資料 を提 供し てい る︒ 同書 は編 者が 二〇 数 年わ たっ て収 集さ れた 貴重 な資 料集 であ る︒ 河南
︑山 東省 に設 立さ れ た 清代 に お け る 商 人 会 館 の 碑 刻 資 料 を 収 集 さ れ た も の で
︑山 西 商 人
︑陝 西商 人等 の広 域に およ ぶ商 業活 動を 明ら かに する ため に最 有力
の 資料 集と なっ たと いえ る︒ 同書 でも 取り 上げ られ た䵶 旗鎮 に設 立さ れ た山 陝会 館︵ 写真 2︑ 3参 照︶ も重 要な 文化 財で あり
︑す でに
﹃社
︵(
︶
旗 山陝 會館
﹄と して 建築 調査 が出 版さ れて いる
︒ 社旗 鎮が 清代 の経 済史 のお いて どの よう な役 割を 果た した かに つい て 許檀 氏が すで に﹁ 清代 河南 的商 業重 鎮周 口│ 明清 時期 河南 商業 城鎮
︵)
︶
的 個案 考察
﹂や
﹁清 代河 南䵶 旗鎭 的商 業│ 基于 山陝 会館 碑刻 史料 的考
︵儗
察︶
﹂な どに おい て漸 次解 明さ れて きた
︒し かし
︑そ の䵶 旗鎭 の発 展に
︵ 儘︶
水 運が 関与 して いた こと の視 点に 関し ては 十分 に解 明さ れて いな い︒ そこ で本 稿は
︑広 大な 中国 の領 域を 広範 囲に 活動 した 商人 群を 中国 国 内に おけ る商 業活 動を 展開 した 地点 に立 脚し た視 点か ら︑ 華北 地区 の 重要 市鎮 であ った 䵶旗 鎭︑ 社旗 鎮に 勇壮 な山 陝会 館が 成立 され た背 景 とそ の発 展と に密 接な 関係 があ った 水運 との 関係 につ いて
︑ド イツ や 日本 の調 査記 録に 依拠 して 明ら かに した い︒ 二 河南 䵶旗 鎮の 形成 嘉慶
六 年︵ 一 八
〇一
︶に 浙 江 桐郷 に 生 まれ 道 光 十 六年
︵一 八 三 六
︶ に 進士 とな った 陸以 䘨の
﹃冷 廬雜 識﹄ 巻八
︑市 につ いて 次の よう に記
清 代 河 南 䵶 旗 鎮 と 水 運
松 浦
章
― 34 ―
して いる
︒ 市︑ 南 方 曰 市︑ 北 方 曰 集︑ 蜀 中 曰 疾
︑粤 中 曰 墟
︑
︵儙
︶
滇中 曰街 子︑ 黔中 曰場
︒ 中 国 の 古 代 か ら 各 地 で 形 成 さ れ て き た 市 場 の 呼 称 が︑ 各地 域に よっ て異 なっ てい た︒ 南方 では 市︑ 北方 は集
︑四 川な どで は疾
︑廣 東な どで は墟 と︑ 雲南 など では 街子
︑湖 南な どで は場 など と呼 称さ れた こと を指 摘し て い る︒ 現 在 の 香 港 で は 墟 を‘market’
と 呼 称 す る のは そ の 名 残で あ ろ う︒ 広大 な 中 国で あ る が た め に
︑ 各地 の市 場形 成に も様 々な 様相 があ った こと は︑ この 記述 が端 的に 示し てい るで あろ う︒ 清 代に おい て河 南の 代表 的な 市鎮 に䵶 旗鎮 があ った こと につ いて
﹃清 朝續 文献 通考
﹄巻 四十 九︑ 征榷 考二 十 一︑ 釐金 につ ぎの よう にあ る︒ 咸 豊七 年の 議勝 保の 要請 に対 する 戸部 の回 答に
︑各 省が 一律 に税 を 下付 して いる 問題 で︑ 全国 が﹇ 太平 天国 の反 乱で
﹈混 乱し てい る ため 軍餉 を輸 送す るこ とは 困難 であ りと され
︑⁝ とり わけ 河南 の 周家 口︑ 䵶旗 店︑ 清化 鎮︒ 山西 の平 陽︑ 汾州
︑蒲 州そ して 甘肅 の 甘州
︑涼 州︑ 秦州
︑寧 夏な どは すべ て商 人が 各地 から 参集 する 地 と見 られ た︒
﹇こ れら の地 から 税を 徴収 する 方法 が提 案さ れた
﹈
﹇ 咸豊
﹈七 年戸 部奏 遵議 勝保 奏請
︑各 省一 律抽 釐略 稱︑ 據原 奏稱
︑ 方 今天 下大 局不 患賊 之難 平︑ 而患 餉之 不繼
︑⁝ 河南 之周 家口
︑䵶 旗 店︑ 清化 鎮︒ 山西 之平 陽︑ 汾州
︑蒲 州︒ 甘肅 之甘 州︑ 涼州
︑秦
︵儚
︶
州
︑甯 夏皆 商賈 輻輳 之區
︒
写真 2 「社旗山陝會館與社旗鎭古街道」
河南省古代建築保護研究所・社旗縣文化局編『中國 古代建築社旗山陝會館』文物出版社。1999 年 10 月、
189 頁
写真 3 「社旗山陝會館」
河南省古代建築保護研究所・社旗縣文化局編『中國 古代建築社旗山陝會館』文物出版社。1999 年 10 月、
表紙による。
写真 1 「䵶店古鎭略圖」
河南省古代建築保護研究所・社旗縣文化局編『中國 古代建築社旗山陝會館』文物出版社。1999 年 10 月、
190 頁
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河 南 に お い て 著 名 な 商 業 地 と し て 周 家 口
︑䵶 旗 店
︑清 化 鎮 が 知 ら れ
︑䵶 旗鎮 すな わち 社旗 鎮は 重要 な市 鎮の 一つ であ った
︒ 䵶旗 鎮が 繁栄 して いた 要因 につ いて
︑光 緒﹃ 南陽 縣志
﹄巻 二︑ 疆域 に は︑ 山 西商 人は 元来 良好 な商 人で あり
︑南 陽縣 には 水運 や陸 運が 通じ て いる
︒乾 隆︑ 嘉慶 時期 に︑ 南陽 の場 内や 䵶旗 鎮が 繁栄 し︑ 遊興 も 贅沢 であ り︑ なお 古い 伝統 的な 風俗 が廃 れて
︑商 業も 日々 衰え
始 めて いる
︒ 晋 人固 善賈
︑縣 又通 水陸
︑乾 嘉時
︑城 廂及 䵶旗 鎮號 為繁 富︑ 游間
︵ 儛︶
奢 靡︑ 猶有 宛孔 氏餘 習︑ 近亦 稍止 矣︒ 而商 業日 衰︒ と ある よう に︑ 南陽 縣の 䵶旗 鎮は 乾隆 から 嘉慶 年間 にか けて 山西 商人 が 進出 し︑ 一大 市場 が形 成さ れて いた とさ れる
︒ この 䵶旗 鎮の 繁栄 ぶり の一 端は
︑乾 隆十 九年
︵一 七五 四︶ 九月 二十 四 日付 の河 南巡 撫蒋 炳の 奏摺 にも 見ら れる
︒ 河 南省 の南 陽縣 に属 する 䵶旗 鎮は 南北 の水 運︑ 陸運 の基 点と なり 商 人が 参集 し︑ 回民 も雑 居し
︑無 頼の 人も 混じ って 治安 の安 定が 困 難で
︑縣 から 一〇
〇里 も離 れる と︑ 統治 が困 難で ある
︒ 豫 省南 陽縣 屬之 䵶旗 店一 鎮︑ 為南 北水 陸馬 頭︑ 商賈 雲集
︑回 民雜
︵儜
︶
處
︑最 易藏 奸︑ 稽査 非易
︑且 離縣 百里
︑時 有鞭 長︑ 莫及 之虞
︒ と ある よう に︑ 河南 の南 陽縣 の管 轄下 にあ る䵶 旗鎮 は南 北の 水運 と陸 運 の要 所と して
︑各 地か らの 人々 が雲 集し
︑物 資が 集散 する 地で あっ た
︒䵶 旗店 は南 北水 陸の 馬頭 であ り︑ 商賈 雲集 の地 であ るが 故に
︑多 く の人 々が 参集 し様 々な 問題 が発 生す るた め︑ 官憲 も注 視す る重 要な 市 鎮で あっ た︒ 雍正 二年
︵一 七二 四︶ の䵶 旗鎮 の﹁ 同行 商賈 公議 戥 秤 定規
﹂に よれ ば 䵶 ︑ 旗鎮 には 各地 から の商 人や さま ざま な貨 物が もた らさ れる 地で あ る
︒元 來
﹁馬 頭 賣 貨 行
﹂と し て 輸 送 を 取 り 扱 う 商 家 が 数 軒 あ り
︑一 年中 人々 の出 入り が絶 えな いた め︑ この 仕事 に関 係す る商 家 とし て二
〇余 家が あっ た︒ 䵶 旗鎮 店︑ 四方 客商
・雜 貨興 販之 墟︒ 原初 馬頭 賣貨 行戸
︑原 有數
䵶旗鎮と武漢、襄陽、西安、河南の地理関係
『中国歴史地図集』第 8 冊、1987 年 4 月、4 頁
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︵ 儝︶
家
︑年 來人 烟稠 多︑ 開張 賣載 者二 十餘 家︒
⁝ と ある よう に︑ 䵶旗 鎮に 商賈 が参 集し て人 家が 増え だし たの が雍 正初 期 であ った こと は明 かで ある
︒こ の碑 刻を 建造 した のは 山西 平陽 府曲 沃 縣 の人 々 で あ り︑ この 碑 刻 に﹁ 行家
﹂と し て 名を 列 し た の は
︑﹁ 永
︵ 儞︶
太 店
﹂を は じ め 二
〇 家 で あ っ た︒ と こ ろ が 乾 隆 四 十 七 年 の 䵶 旗 鎮 の
﹁ 創 建春 秋 樓 碑 記﹂ の建 立 に﹁ 首 人﹂ とし て 賛 同し た の は 義和 店 な ど 一 四家 そし て﹁ 萬載 流芳
﹂と して 名を 列し たの は︑
︵ 償︶
元 泰鋪
銀 一佰 三十 兩 郭順 昌 銀一 佰一 十兩 零五 錢
・・
・ と あ る よ う に
︑全 て で 三 六 七 家 に 及 ん で い る︒ そ の 中 に は﹁ 肇 興 紬
︵儠
︶
︵ 儡︶
︵ 儢︶
︵ 儣︶
︵ 儤︶
鋪
﹂や
﹁四 合磁 鋪﹂
︑﹁ 義 和花 店﹂
︑﹁ 信 豊粉 局﹂
︑﹁ 合 興錢 行﹂
︑﹁ 合 盛錢
︵儥
︶
︵ 儦︶
︵儧
︶
︵儨
︶
︵ 儩︶
鋪
﹂︑
﹁ 魁 元 粮 行﹂
︑﹁ 森 茂 粮 行
﹂︑
﹁ 恒 茂 棗 行
﹂︑
﹁ 成 順 衣 鋪
﹂︑
﹁ 涌 泉 油
︵優
︶
︵ 儫︶
︵ 儬︶
︵ 儭︶
︵ 儮︶
坊
﹂︑
﹁ 馬永 吉花 行﹂
︑﹁ 大 昌磁 鋪﹂
︑﹁ 四 合木 鋪﹂
︑﹁ 聚 興油 坊﹂
︑﹁ 統 盛碾
︵儯
︶
︵儰
︶
︵儱
︶
︵儲
︶
︵儳
︶
行
﹂︑
﹁ 魁興 油坊
﹂︑
﹁ 同興 油坊
﹂︑
﹁ 三益 醋坊
﹂︑
﹁ 晋太 油坊
﹂︑
﹁ 信興 皮襖
︵儴
︶
︵儵
︶
︵儶
︶
︵儷
︶
︵ 儸︶
鋪
﹂︑
﹁ 雙成 碗鋪
﹂︑
﹁ 徳順 棗行
﹂︑
﹁ 全盛 醋坊
﹂︑
﹁ 公順 皮襖 鋪﹂
︑﹁ 啓 太染
︵儹
︶
︵ 儺︶
︵ 儻︶
坊
﹂︑
﹁ 太 醋 坊﹂
︑﹁ 東 三 盛 粉 坊
﹂な ど 二 八 家 の 営 業 業 種 が ほ ぼ 知 ら れ る
︒ こ れ ら の 商 鋪 が 䵶 旗 鎮 に 存 在 し て い た と す る と︑ 粮 行︑ 粉 行
︑棗 行
︑磁 行︑ 棉花 行︑ 木行
︑碾 行︑ 油坊
︑酢 坊︑ 皮襖 鋪︑ 錢行
︑錢 鋪な ど 少な くと も一 二種 にわ たる 商鋪 が存 在し てい たこ とが わか るの であ る
︒同 碑刻 にも
︑
﹇ 商店
﹈は 湖南 から 商品 を収 集し
︑長 江や 黄河 の船 によ り運 ばれ
︑ あ るい は各 地に
︑そ して 職人 など を訪 ね︑ 工芸 の萃 を集 めて 建造 し た︒ その 年月 は数 年に 及び
︑さ まざ まな 品々 を備 えた ので あっ た
︒
⁝ 或効 奔 走 取 材於 楚
︑泛 江 河而 來 宛 郡︑ 或周 知 四 方
︑遍 訪 匠 師
︑
︵儼
︶
集 工錘 之技 於廟 建︒ 凡數 閲寒 暑︑ 而百 物備
︑五 材具
︒⁝ と ある よう に︑ 山陜 会館 の建 築に とも ない
︑市 鎮が 徐々 に形 成さ れて い たこ とが 知ら れる
︒ 光緒
﹃南 陽縣 志﹄ 巻三
︑建 置に
︑ 䵶 旗 鎮 は 河 南 の 巨 大 な 市 鎮 で あ る︒ 南 陽 県 か ら 東 北 九
〇 里 に あ り
︑鎮 が出 来た 契機 は不 明で ある
︒或 人は 元代 の屯 田に よる もの で ある と言 う︒ 䵶旗 鎮の 地は 赭水 に瀕 する 地に あり
︑北 は䈠 河や 洛 水に 連な り︑ 南か らは 船︑ 北よ りは 馬に よっ て多 くの 貨物 が集 ま って くる
︒四 川や 山西 から は塩 や茶 が︑ 大商 人や 住民 のみ なら ず
︑無 頼の もの も食 を得 るこ とが でき
︑儲 蓄を 顧み ず︑ 富め る者 も 貧 しい 者 も 習 慣的 に 奢 侈に 靡 い てい る
︒⁝ 乾 隆・ 嘉慶 時 期 に
︑ 巡 検 司 が お か れ 巡 視 さ れ る よ う に な っ た︒ 咸 豊 年 間 の 軍 事 騒 動 で
︑市 鎮に 税が 課せ られ
︑毎 年巨 万両 が拠 出さ れ︑ 鉄道 や汽 船が 登 場す ると 商人 は日 々少 なく なり
︑最 近で は衰 退し てい る︒ 南陽 縣 の 中 で の 最 大 の 市 鎮 で あ る︒ 䵶 旗 鎮 以 南 の 地 で は 青 臺 鎮 が あ り
︑唐 河に 面し てい る︒ 䵶 旗鎮 亦豫 南巨 鎮也
︒在 縣東 北九 十里
︑鎮 莫知 所由 起︑ 或曰 元分 旗 屯田
︑軍 主䍪 而譌 也︒ 地瀕 赭水
︑北 走䈠 洛︑ 南船 北馬
︑總 集百 貨 尤 多︒ 秦 晋 鹽 茶
︑大 賈 居 民
︑率 游 手 足 食︑ 不 事 蓄 聚︑ 乍 富 乍 貧
︑習 俗奢 靡︑
⁝乾 隆嘉 慶中
︑置 巡檢 司設 營汎
︑咸 豊軍 興︑ 榷關 其 市︑ 歳 税常 巨 萬
︑自 鐵 路輪 船 興 道︑ 僻商 賈 日 稀
︑近 益 就 衰 矣
︒
︵儽
︶
要 之縣 中商 埠猶 爲巨 擘云
︒過 䵶旗 鎮以 南爲 青臺 鎮︑ 左倚 唐河
︒ と あり
︑䵶 旗鎮 は︑ 河南 の南 部に ある 巨大 市鎮 で︑ 水運 によ り各 地か
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ら の 物資 が 集 荷 しま た 搬 出 さ れ る 交 易 市 場 を 形 成 し て い た の で あ っ た
︒ 乾隆 時代 に清 政府 の公 用の 銅を 輸送 する こと を記 した 䈕案 に︑ 輸送 経 路と して 䵶旗 鎮が 登場 する
︒河 南巡 撫で あっ た徐 績の 乾隆 三十 九年
︵ 一 七七 四
︶十 二 月 二十 七 日 付の 奏 摺 に付 さ れ た﹁ 清 單﹂ に山 西 商 人 が官 吏銅 を輸 送し た経 路が わか る︒ 乾 隆 三 十 九 年 の 納 期 の も の は
︑山 西︑ 陝西 二省 の御 用商 人が 湖北 省で 銅 を 船 に 積 載 し
︑河 南 省 を 経 過 し た︒
⁝今 査乾 隆三 十九 年分
︑山 陝二 省官 商︑ 在湖 北辦 運銅 鉛︑ 由豫 省経 過共 十八 起︑ 倶飭 各地
︑發 實力 稽査
︒⁝
︵ 儾︶
乾隆 三十 九年 十二 月二 十七 日 とあ るよ うに
︑湖 北か ら山 西や 陝西 地方 に輸 送す る経 過を 記し てい る︒ 陝西 官商 范清 濟承 辦陝 西︑ 三十 六年 正額 銅五 萬一 千觔
︑于 乾隆 三十 八年 八 月 十 三 日︑ 入 南 陽 府 屬 之 新 野 縣 境︑ 因患 病症 䶜延 三十 日︑ 行至 襄城 縣︑ 舊病 復發
︑又 遅一 日︑ 行至 靈寶 縣︑ 因大 雨難 行︑ 又遅 一日
︑于 乾隆 三 十 八 年 十 月 初 四 日
︑由
䷨ 郷 縣 出 境︒
山 西商 人李 璉︑ 由漢 口鎮 採辦 三運 正銅
⁝于 乾隆 三十 八年 十月 初三 日
︑入 南陽 府屬 之新 野縣 境︑ 因河 水淺 阻遅 延三 日︑ 又至 南陽 縣䵶 旗 店車 輛稀 少䶜 延四 日︑ 至十 一月 初六 日︑ 由陝 州出 境︒ 山 西商 人裴 忠國
︑由 漢口 鎮採 辦三 運正 銅⁝ 于乾 隆三 十八 年十 月十 一 日︑ 入南 陽府 屬之 新野 縣境
︑因 河水 淺阻 遅延 半日
︑又 至南 陽縣 䵶 旗店 車輛 稀少 䶜延 五日
︑⁝ 山 西商 人郝 雲書
︑由 漢口 鎮採 辦三 運正 銅⁝ 于乾 隆三 十八 年十 一月 初 二日
︑入 南陽 府屬 之新 野縣 境︑ 至南 陽縣 䵶旗 店︑ 因車 騾缺 乏䶜 延 二日
⁝ 山 西商 人尹 梁鼎
︑由 漢口 鎮採 辦三 運正 銅⁝ 于乾 隆三 十八 年十 一月 二 十五 日︑ 入南 陽府 屬之 新野 縣境
︑至 南陽 縣䵶 旗店
︑因 車輛 稀少 䶜 延三 日︑
⁝ 山 西商 人裴 希孟
︑由 漢口 鎮採 辦四 運正 銅⁝ 于乾 隆三 十九 年二 月初 十 日︑ 入南 陽府 屬之 新野 縣境
︑因 河水 淺阻 遅延 二日
︑又 至南 陽縣 䵶 旗店
︑因 農忙 車輛 稀少 䶜延 四日
︑⁝ この 記事 より
︑清 朝政 府徴 用の 銅を 輸送 した 漢口 から 河南 に至 る経 路 を整 理す れば 表1 のよ うに なる であ ろう
︒ この よう に政 府物 資の 輸送 が︑ 漢口 鎮か ら南 陽府 屬の 新野 縣そ して 南 陽縣 の䵶 旗鎭 に至 る經 路を 経て いた
︒こ のこ とか らも 䵶旗 鎭が
︑漢 口 か ら河 南 省 や 陝西 省 へ の 重 要 な 交 通 路 に 位 置 し て い た こ と が わ か る
︒ 林則 徐の 道光 十七 年︵ 一八 三七
︶七 月十 三日 付の
﹁襄 陽一 帶緝 私事 宜 摺﹂ によ れば
︑ 湖 南
︑湖 北
︑廣 東 な ど の 数 省 は 水 運 と 陸 運 に よ っ て 連 な っ て い
表
1
乾隆39
年(1774)官銅の漢口から陝西方面への輸送輸送商人名 漢口鎮からの輸送経路
・陝西官商范清濟
・山西商人李 璉
・山西商人裴忠國
・山西商人郝雲書
・山西商人尹梁鼎
・山西商人裴希孟
漢口鎮→南陽府屬之新野縣境→襄城縣→靈寶縣→䷨郷縣出境。
漢口鎮→南陽府新野縣境→南陽縣䤚旗店→陝州出境。
漢口鎮→南陽府新野縣境→南陽縣䤚旗店 漢口鎮→南陽府新野縣境→南陽縣䤚旗店 漢口鎮→南陽府屬之新野縣境→南陽縣䤚旗店 漢口鎮→南陽府屬之新野縣境→南陽縣䤚旗店
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る
︒こ のた め塩 の販 売は 第一 の要 務で ある
︒⁝ 唐河 から 至る と南 陽 縣 の 䵶 旗 鎮 に お い て 下 船 し て︑ 白 河 は 新 野 縣 の 城 下 で 下 船 す る
︒こ れら の地 の人 々の 食塩 は少 量で あり
︑塩 を輸 送す る船 は大 き な船 では 無く
︑塩 を積 載し た船 は全 て湖 北省 の省 境か ら来 るの で ある
︒ 奏 爲敬 陳襄 陽一 帶緝 私事 宜︑ 仰祈 聖鑒 事︒ 竊照 湖廣 界連 數省
︑水 陸 交衝
︑故 行銷 引鹽 必以 堵緝 鄰私 爲第 一要 務︒
⁝至 唐河 係由 南陽 縣 䵶旗 鎭下 船︑ 白河 係新 野縣 城外 下船
︑該 處民 間附 近食 鹽︑ 原只 計 包零 買︑ 並不 必裝 載成 船︑ 其裝 船而 下者
︑全 爲浸 灌楚 境︑ 此固
︵ 儿︶
顯 而易 見之 弊︒ と ある よう に︑ 専売 塩の 輸送 に関 する 問題 と私 塩の 問題 を論 じた 奏摺 で ある が︑ その 中で 専売 塩の 輸送 経路 につ いて 触れ
︑漢 口か ら漢 水で 河 南方 面 に進 む 際 に は漢 水 か ら襄 陽 附 近で 唐 河 に 入り
︑﹁ 至 唐 河係 由 南 陽縣 䵶旗 鎭下 船﹂ とあ るよ うに
︑唐 河の 水運 を利 用し て南 陽の 䵶旗 鎮 で下 船す るの が一 般的 な交 通路 であ った ので ある
︒ その 後の 䵶旗 鎮の 水運 に関 して
︑上 海の
﹃申 報﹄ 第一 七五 三号
︑光 緒 丁丑
︵三
︶十 二月 初六 日︑ 一八 七八 年一 月八 日付 の﹁ 光緒 三年 十一 月 十二 日京 報全 錄﹂ の﹁ 曾國 荃片
﹂に
︑
⁝ 護理 河東 道の 卓煕 の報 告で は︑ 平陽 など の府 州地 方の 産出 は多 く なく
︑昔 から 河南 や陝 西な どの 商人 が輻 輳す る地 や人 家の 密集 す る地 で職 人な ど毎 年数 万を 下回 らな いた めに 食料 が豊 富で
︑移 入 する 食料 も多 かっ た︒ しか し本 年は 災害 が発 生し
︑食 料が 欠乏 し
︑四 川や 河南 から 供給 を仰 ぐの であ るが
︑四 川や 河南 の東 北一 帯 も旱 によ って
︑食 料の 供給 は稀 であ る︒ とく に小 米す なわ ち粟
な ども 不足 し︑ 商人 の王 友於 らに よる と︑ 河南 の南 陽府 の䵶 旗鎭 や 安徽 の穎 州府
︑六 安州 と地 が連 なる 陳州 府の 周家 口は 食料 費が 安 価で あり
︑輸 送し て䵶 旗鎭 に運 ぶに は︑ もと もと 塩輸 送の 車で は
︑一
︑一
〇
〇余 里 と な り︑ 周家 口 へ は一
︑二
〇
〇 余 里 と な る
︒ 資 金を 準備 して 幾度 かに 分け て購 入す れば 人々 の食 料も 救済 でき る が︑ しか し気 にな るの は内 地関 税で ある
︒ 再 據 護理 河 東 道 卓熙 泰 詳 稱︑ 査平 陽 等 府州 地 方 産 糧︑ 本属 無 多
︑ 向 來仰 給於 豫陝 連城 爲商 賈輻 輳之 區︑ 人煙 稠密 兼之 鹽池
︑工 作之 人
︑每 年不 下數 萬︑ 食指 浩繁
︑需 粮更 廣︑ 本年 各屬 災䜽 異常
︑糧 食 更 缺︑ 欲借 資 於 秦 豫︑ 而秦 豫 東 北一 帶
︑亦 遭 荒 旱
︑糧 食 甚 稀
︑ 小 米尤 爲缺 少︑ 據閤 綱坐 商民 販王 友於 等稟 稱︑ 探知 河南 南陽 府之 䵶 旗鎭
︑及 安徽 穎州 府︑ 六安 州︑ 連界 之陳 州府 屬周 家口
︑糧 價較 爲 少賤
︑由 運至 䵶旗 鎭︑ 本係 鹽車 大路
︑計 程一 千一 百餘 里︑ 至周 家 口一 千二 百餘 里︑ 擬湊 備資 本︑ 分往 採買
︑以 濟民 食︑ 誠恐 關卡
︵ 兀︶
抽 厘︒ と ある よう に︑ 山西 地方 の干 魃に より 食料 不足 が生 じて いた
︒そ の不 足 の一 部を 河南 から 補給 する こと を考 え︑ その 輸送 方法 とし て河 南の 䵶 旗鎮 が輸 送の 要地 とし て﹁ 本係 鹽車 大路
﹂と 称さ れる 交通 の要 衝に あ った
︒ 䵶旗 鎮 が 交 通の 要 衝 であ っ た こと は
︑﹃ 申 報﹄ 第 一三 五 五 五 号
︑宣 統 二年 庚戌 九月 三十 日︑
一 九一
〇年 一一 月一 日付 の﹁ 呈度 支部 農工 商 部整 頓出 洋華 茶條 議︵ 江䭺 勸業 道李 哲濬
︶︵ 續︶
﹂ の﹁ 二茶 之産 地及 運 路﹂ にお いて
︑中 国茶 の輸 出経 路か らも 知ら れる
︒
⁝ 中国 の茶 の輸 出に つい て福 建茶 の事 例を 除外 すれ ば︑ ほと んど
― 39 ―
が 漢口 が中 樞で ある
︒漢 口か らは 六つ の輸 送路 があ る︒ 内外 の各 地 に 輸送 さ れ る 経路 は
︑第 一 路が 漢 水 を遡 航 し て 樊城 に い たる
︒ 一 部分 は䵶 旗鎭 に至 り︑ 四経 路に 分か れ︑ 一部 分は 龍駒 寨か ら西 安 府に 至り モン ゴル や新 疆そ して シベ リア に至 る︒ 第二 路は 海道 に よっ て天 津へ
︑張 家口 を経 てモ ンゴ ルに 至り
︑シ ベリ アや ロシ ア 本 土 へ
︒第 三 路 は
︑外 洋 汽 船 に 積 載 さ れ ウ ラ ジ オ ス ト ク に 至 り
︑黑 龍江 一帶 やロ シア 領の 沿海 州へ
︒第 四路 はロ シア の汽 船で ロ シア 各地 へ︒ 第五 路は 外洋 汽船 で直 接ロ ンド ンへ
︒第 六路 は長 江 の汽 船で 上海 に到 り︑ 上海 から 汽船 によ って 再び 欧州 やア メリ カ など 各国 へ再 輸出 され る︒ 以上 の六 路が 古く から の輸 送経 路で あ る︒
⁝ 論華 茶之 輸出 口︑ 除福 建茶 自成 範圍 外︑ 皆以 漢口 爲中 樞︑ 由漢 口 分六 路︑ 輸出 内外 各地
︑第 一路
︑溯 漢水 至樊 城︑ 一部 分赴 䵶旗 鎭 分配 於四 方︑ 一部 分經 龍駒 寨逹 西安 府︑ 分配 於蒙 古︑ 新疆
︑西 比 利亞
︒第 二路
︑由 海道 入天 津︑ 經張 家口 入蒙 古︑ 分配 於西 比利 亞 及俄 羅斯 本部
︒第 三路
︑裝 外洋 汽船 至浦 鹽︑ 分配 於黑 龍江 一帶 及 俄領 沿海 州︒ 第四 路︑ 乘俄 之義 勇艦 隊︑ 分配 於俄 領各 州︒ 第五 路
︑裝 外洋 汽船
︑直 逹倫 敦︒ 第六 路︑ 裝長 江輪 船︑ 先至 上海
︑以
︵ 允︶
待 時機
︑再 輸出 於歐 美各 國︒ 以上 六路
︑爲 向來 之運 路︒
⁝ 中国 茶の 海外 へ輸 出さ れる 経路 とし て︑ 福建 から 海外 に輸 出さ れる も のを 除く と︑ 大部 は漢 口鎮 に集 荷さ れ︑ 漢口 から その 茶葉 が六 経路 に よっ て運 ばれ た︒ この 内︑ 漢水 を遡 航し て樊 城に 到っ たも のは
︑一 部 分が 䵶旗 鎭に 至っ て各 地に 分配 され
︑一 部分 は陝 西省 の龍 駒寨 に至 り
︑さ らに 西安 府よ りモ ンゴ ルや 新疆 そし てシ ベリ アに 輸出 され てい
た こと がわ かる
︒こ のこ とか らも 䵶旗 鎮は 重要 な交 通輸 送の 要衝 とし て の一 市鎮 とな って いた
︒ この 䵶旗 鎮の 繁栄 ぶり と水 運と の関 係に つい て次 に述 べた い︒ 三 清代 の䵶 旗鎮 と水 運 一八 七〇 年︵ 同治 九年
︶の 三月 から 五月 にか けて 漢口 から 北京 に赴 き 中 国 調 査 を 行 っ た ド イ ツ の 地 理 学 者 リ ヒ ト ホ ー フ ェ ン
︵Ferdinand
FreiherrvonRichthofen,1833-1905
年︶ は︑ その 時の 旅行 日記 に䵶 旗鎮 の こと を記 して いる
︒リ ヒト ホー フェ ンは
︑三 月十 三日 に漢 口を 出発 し
︑漢 水流 域を 遡上 し︑ 襄陽 を目 指し て樊 城に 到着 した
︒ 河 口に 臨ん で︑ 唐河 口と いふ 町が あり
︑其 處に は約 二千 の舟 が泊 つ てゐ る︒ その 中に は︑ まだ 澤山 の湖 南船 が見 られ る︒ 遂に
︑左 岸 に︑ 大都 會襄 陽府 が現 はれ
︑そ れと 同時 に右 岸に
︑一 層重 要な
︵兂
︶
市 場町 樊城 が姿 を見 せる
︒ と 記す よう に︑ 襄陽 と樊 城の 地理 的関 係を 明確 に指 摘し てい る︒ その 唐 河口 には およ そ二
︑〇
〇〇 隻の 船舶 が停 泊し
︑と くに 湖南 船が 眼に つ い たよ う で あ る︒ 湖南 船 は 一般 に は︑ 湖 南か ら の 船 であ り
︑釣 鈎
︑ 小 莫な どと 呼称 され た小 型船 が来 航し てい た︒ 樊城 の地 理的 位置 につ いて
︑一 九二 六年 の日 本の 調査 では
︑次 のよ う にあ る︒ 漢 水を 挟ん で向 ひ合 つて いる 襄陽 と樊 城と の關 係は 恰も 武昌 と漢 口 との 夫に 似て ゐる
︒樊 城は 交通 商業 上の 中心 地に して 市街 繁華
︵ 元︶
に して 棉花 の取 引盛 なる を以 て其 名著 る︒
― 40 ―
さら に樊 城か ら北 上す るの であ る︒ そし て䵶 旗鎮 のこ とを リヒ トホ ー フェ ンは 次の よう に記 して いる
︒ こ の樊 城で は︑ 一つ の流 れが 北方 から この 河に 注い でゐ る︒ その 流 れ は︑ 樊城 の 少 し 手前 で 幾 つか の 河 が合 流 し て 出来 た も ので
︑ そ れら の河 の一 番重 要な のは
︑唐 江と 名付 けら れる 中央 の河 であ る
︒こ の河 は小 舟だ けし か通 れな いに も拘 らず
︑そ れに よる 水路 運 輸 の方 が
︑陸 路 に よる 輸 送 に比 べ て︑ 遙 かに 廉 價 で ある た め
︑ 盛 ん に 交 通 に 利 用 さ れ て い る︒ 高 所 の 水 源 地 に は︑ 裕 州 町 が あ り
︑又
︑こ の町 から 程遠 くな い所 には
︑北 支那 に於 ける 最も 著名 な 商業 地に 算へ られ てゐ る一 市場 町が ある
︑私 は︑ 當地 で︑ この 町 の 名前 をSc’aidjadjorr
と 教 へら れ た が︑ 勿論 こ の 發音 に は 古 典 支那 語の 響き は殆 ど認 めら れな い︒ しか し︑ 正し い綴 りを 聞き 出 す事 は︑ 非常 に困 難で あっ た︒
⁝あ る物 識り を見 付け 出し
︑や う やく この 男か ら本 當の 名前 が䵶 旗鎮 と呼 ばれ てい るこ とを 教へ
︵ 兄︶
て 貰つ た︒ リヒ トホ ーフ ェン が︑ 襄陽 の北 にあ る著 名な 商業 地と して 知っ たの が 䵶旗 鎮で あっ た︒ その 䵶旗 鎮に つい て次 のよ うに 記し てい る︒ 䵶 旗鎮 は廣 東︑ 湖南
︵集 中湘 潭︶ 及び 四川 を含 む一 方の 側と
︑北 東 の諸 省即 ち河 南︑ 山西
︑直 隷︑ 山東 の諸 省か ら成 る他 方の 側と を 結び 附け る全 交通 の焦 點を なし てゐ る︒ 南方 のあ らゆ る方 面か ら 數本 の水 路で 近寄 つて くる 財貨 は︑ その 後︑ 最後 の︑ そし て唯 一 の水 路で ある 漢水 と唐 河を 遡つ て䵶 旗鎮 へ運 ばれ
︑此 處で その 水 運と 陸運 と取 換へ る︒ この 町で は︑ 各省 の住 民の 交流 とあ らゆ る 種類 の輸 送手 段の 交流 を生 じて いる
︒騾 馬と 荷車 と馬 とが 夥し
︵充
︶
く 集ま るば かり か︑ 時に は駱 駝で さへ 此處 へ來 るこ とが ある
︒ 䵶旗 鎮は 廣東 と湖 南そ して 四川 に連 なる 水系 の河 川と が連 結す る水 運 交通 の 基点 と な っ てい た
︒そ の 水系 の 根 幹が 漢 水 と 唐河 で あ った
︒ こ の水 系に よる 水運 が䵶 旗鎮 の繁 栄の 大き な根 幹で あっ たこ とが
︑リ ヒ トホ ーフ ェン が明 確に 記し てい る︒
︵ 1︶ 䵶旗 鎮の 立地 条件 この 䵶旗 鎮に つい て︑ リヒ トホ ーフ ェン から ほぼ 四〇 年後 の一 九〇 八
︑一 九〇 九年 に上 海東 亞同 文書 院が 調査 を行 って いる
︒そ の調 査に は 次の よう にあ る︒ 由 來䵶 旗鎮 は西 部河 南に 於け る商 業地 の一 にし て唐 河の 上流 に位 し
︑南 は漢 水に 通じ
︑船 舶出 入常 なく
︑北 は遠 く山 西に 通じ
︑山 西 商人 の此 地に 來り
︑商 業に 從事 する もの 多く
︑一 時殆 ど西 部河 南
︑湖 北北 部の 商業 を支 配し
︑是 等諸 地方 の中 心市 場た りし こと あ り︒ 思ふ に此 地は 往昔 南陽 と裕 州と の間 に存 する 一鎮 店た りし が 西部 河南 より 湖北 の大 都會 に通 ずる には 只唐 河の 水路 によ る利 あ りし のみ なれ ば次 第に 旅客
︑客 商の 往來 及貨 物の 輸送 は皆 此水 路 に依 りて 行る るに 至り しな らん
︒實 に唐 河は 䵶旗 鎮の 繁栄 を致 せ し 源泉 に し て︑ 其 商業 の 盛 なる 時 に 於て は 各 地 の客 商 相 集り
︑ 地 方の 産物 は是 等客 商の 手に 依り て賣 買せ られ
︑之 が爲 に䵶 旗鎮 は 貨物 の一 大集 散地 とな り大 倉庫 は棟 を並 べ︑ 大店 舗櫛 比し 繁栄
︵兆
︶
を 極め たり しも
︑今 や繁 昌は 復た 過去 の夢 と化 せり
︒ 唐 河水 運の 利を 失ひ し事
︑他 は京 漢鐵 道の 開通 即ち 是な り︒ 往時 河 水汪 洋と して 水量 に富 み︑ 百帆 風を 孕ん で南 北に 通ず るの 便あ
― 41 ―
り し唐 河は 其水 年と 共に 涸れ て︑ 夏時 に於 てす ら僅 に二
︑三 尺の 水 深を 有す るに 過ぎ ず︒ 埠頭 に集 まれ る船 舶幾 何も なき に至 り更 に 京 漢 鐵 道 通 ず る に 及 び て︑ 鐵 道 の 勢 力 は 其 沿 線 よ り 西 方 に 及 び
︑西 部 河南 の 交 易 は大 な る 影響 を 被 れり
︑是 れ 䵶 旗 鎮の 繁 栄
︑ 急 轉直 下し て現 在の 状態 を呈 せる 所以 なり
︒䵶 旗鎮 に於 て今 尚其 の 昔を 語る に足 る可 きも のは 市區 整然 とし て道 路廣 く︑ 大店 舗櫛
︵兇
︶
比 し︑ 山西 会館 巍然 とし て雲 に聳 ゆる ある のみ なり
︒ この 調査 にお いて も䵶 旗鎮 の形 成に 重要 な役 割を 果た して いた のが 水 運で ある こと が明 かで ある
︒し かし
︑四
〇年 の間 に大 きな 変化 が生 じ てい た︒ それ が京 漢鉄 道の 開通 であ った
︒そ のこ とで 䵶旗 鎮の 賑わ い は衰 退傾 向に あっ たこ とが 指摘 され てい る︒
︵ 2︶ 䵶旗 鎮の 水運 と圕 子船 䵶旗 鎮の 水系 は漢 水に 連な って いる
︒そ の漢 水の 水系 に関 して
︑馬 場 鍬太 郎が 次の よう に述 べて いる
︒ 漢 水は 其全 長約 七百 浬︑ 此の 中舟 利あ るは 陝西 省よ り漢 口に 至る 六 百五 十三 浬に して
︑夏 季増 水時 には 更に 䗽縣 に遡 航す るこ とな り
︒ 漢 口及 河南 陝西 兩省 を連 絡す る重 要水 路を なし
︑其 の中 漢口 より 河 南に 通ず るも のは 京漢 鐵道 の開 通以 來往 來衰 へた と雖 も︑ 從前 は 漢水 を遡 りて 䵶旗 鎮に 出で 陸路 河南 省衛 輝府 を經 て道 口鎭 に至 り
︑之 れよ り衛 河の 水運 に連 なり て天 津に 達せ しも のと す︒ 而 して 漢口 より 陝西 省に 通ず るの 要路 は今 尚ほ 重要 商路 たる もの に して 次の 三路 あり
︒
︵ 一︶ 漢水 を遡 り水 路陝 西省 漢中 に至 るも の︒
︵ 二︶ 漢 水を 遡 り て 老河 口 に 至り
︑之 れ よ り陸 路 荊 紫 關を 經 て 西 安 に達 す る も の︑ 往來 最 も 頻繁 な り 商路 な り し も現 時 著 し く衰 微せ り︒
︵ 三︶ 漢 水を 遡 り て 䵶旗 鎮 に 出で
︑之 れ よ り陸 路 河 南 府を 經 て 西
︵ 先︶
安に 至る もの
︒ 長江 の武 漢か ら漢 水の 水系 に至 り陝 西方 面に 赴く には 䵶旗 鎮の 繁栄 と 水運 が大 いに 関係 して いた が︑ その 河川 が唐 河で ある
︒東 亞同 文書 院 の調 査に は︑ 次の よう にあ る︒ 唐 河は 裕 州の 北 方 な る伏 牛 山 脈の 分 脈 たる 羅 漢 山 に其 源 を 發し
︑ 䵶 旗 鎮 を 經 て 唐 縣 に 至 り︑ 泌 河︑ 澧 河 を 合 せ
︑下 つ て 䫫 河 を 容
︵光
︶
れ
︑兩 河口 に於 て唐 河と 會す
︒是 より 以下 唐白 河と 稱せ らる
︒ 䵶旗 鎮の 側を 流れ る唐 河の 源流 は北 の裕 州の 山系 にあ って
︑䵶 旗鎮 を 通過 した 唐河 は下 流に 向か い湖 北省 に入 り︑ 襄陽 の北 で南 陽方 面か ら 南流 して くる 白河 と合 流し 唐白 河と なっ て︑ まも なく 襄陽 附近 で漢 水 に合 流し てい る︒ 唐 河は 流幅 狭し と雖 も水 割合 に深 く︑ 河底 石無 きを 以て 船舶 の往 來 比較 的盛 なり
︒蒼 苔︑ 國灘
︑唐 縣は 其の 間の 小碼 頭た り︒ 唐縣 は 城南 の碼 頭に 船舶 を繋 ぐ可 く︒ 減水 期に は百 擔積 の船 は四 十擔 よ り積 むこ と能 はず して 樊城 より 唐縣 に至 るに 七日 を要 す︒ 樊 城よ り唐 白河 を上 り更 に唐 河を 遡る 事水 路二 百八 十丈 支里
︑蒼 苔
︑唐 縣を 經て 源潭 と稱 する 小鎮 あり
︒漢 口︑ 樊城 等の 商人 と直
︵兊
︶
接 に雜 穀取 引行 はる る故
︑其 名河 南西 南部 に於 て知 らる
︒ 船 の泊 する 處は 下流 の渡 口附 近よ り上 流迄 約三 支里 餘︑ 河面 處狭
― 42 ―
き まで 密集 す︒ 農産 物の 出盛 りに は其 盛況 想見 する に足 る︒ 源潭 よ り陸 路南 陽に 至る 九十 支里
︑唐 縣へ 二十 五支 里︑ 北方 䵶旗 鎮へ 七 十支 里︑ 平坦 にし て車 馬を 通ず べし
︒此 地旅 宿を 業と する もの 無 く雜 穀 を運 搬 し 來 れる 田 舎 の人 は 馬 匹を そ の 糧 行の 裏 に 泊め
︑ 自 らは 問屋 の一 室に 宿泊 し漢 口等 より 取引 の爲 めに 來源 する 商人 は 取引 の糧 行に 泊す るを 常と なす と云 ふ︒ 䵶 旗鎮 は源 潭よ り水 路百 二︑ 三十 支里
︑是 れ古 來貿 易の 盛大 なる 地 とし て喧 傳せ られ たる 處に して 即ち 山西
︑山 東︑ 直隷 等の 北方 貨 物の 四川
︑湖 廣︑ 雲貴 方面 に至 るも の河 南の 各方 面よ り一 度此 處 に運 出せ られ
︑是 より 船に て唐 河を 下り
︑樊 城よ り漢 水を 下り て 分散 せら れ︑ 又彼 地方 産物 も斯 くの 如き 通路 によ りて 北上 せし も のな れど も︑ 東海 に汽 船の 出現 して
︑南 北の 貨物 多く 之に 搭載 せ らる るに 至り
︑更 に京 漢鐵 道成 りて 䵶旗 鎮の 商勢 は日 々衰 微し 來 り︑ 今や 全く 昔日 の俤 を已 めず
︒加 之唐 河の 水深 は上 流よ りの 流 泥に 依り て年 々浅 くな る爲 め益 々振 はず
︑其 の船 舶繋 留の 處は 南 門下 なる も夏 期の 増水 期に 於て 漸く 此處 まで 民船 を遡 航せ しめ 得 るも 減水 の時 には 下流 の地 に浅 瀬を 生じ て交 通殆 ど絶 ゆ︒ 其民 船 の 集合 す る 處 は 䵶 旗 鎮 の 南 三 支 里 な る 河 南 宮 兒 と 稱 す る 所 な り
︒此 間小 車︑ 牛車 又は 人肩 に依 りて 貨物 を運 搬し 此處 にて 民船 に 積込 まれ
︑又 陸揚 せら る︒ 唐河 の水 運は 䵶旗 鎮に 於て 全く 止ま る
︒又 昔時 陸運 の如 何に 盛な りし かは 推察 する に難 から ず︒ 今も 大 道東 西に 走り
︑南 門に は大 倉庫 多く
︑北 方裕 州に 面す る處 に馬 行
︑騾 行の 舊家 甚だ 多し
︑船 行と して は今 日一 戸も なし
︒此 一事 を 以て も䵶 旗鎮 の已 に衰 微し 盡せ るを 知る に足 る此 の水 運の 衰微
を 挽回 せん ため に當 地の 會館 は唐 河浚 渫の こと を企 畫す るも 体勢
︵克
︶
は 遂に 如何 とも する を得 ざる べし
︒ 唐河 は河 幅は 広く はな いが
︑水 深が 深く しか も岩 礁な どが 極め て少 な いこ とか ら︑ 水運 に適 した 水系 であ った
︒䵶 旗鎮 は︑ その ため 各地 か ら多 くの 物資 が集 荷さ れ︑ また 散荷 され やす い地 であ った こと がわ か る︒ この 唐河 と白 河を 運航 する 民船 につ いて
︑東 亞同 文書 院の 調査 には 具 体的 に見 られ る︒ 民 船 は白 河 を 上 下す る も のと
︑唐 河 を 上下 す る も のと 二 種 あり
︑ 白 河交 通の 船は 之を
!子 船と 云ひ
︑唐 河航 行の もの は之 れを 圕子 船 と云 ふ︒ 兩者 の構 造大 體に 於て 同じ きも
︑只 船尾 前者 は扁 圓形 に して
︑後 者は 方形 なる のみ
︑河 南︑ 湖北 の間 を往 來す るも のに し て 駁! 子 あ り
︒皆 雜 穀 即 ち 緑 豆
︑胡 麻
︑黄 豆 を 移 出 し て
︑雜 貨
︑綿 布等 を移 入す
︒船 舶は 最大 増水 期に 於て 二︑ 三百 擔の もの 自 由に 上下 し得 るも
︑減 水期 には
︑三 十擔 の船 も猶 通行 し得 ざる こ とあ り︒ 河水 増減 常な く︑ 冬期 と雖 も一 降雨 あれ ば水 量俄 に増
︵兌
︶
し 大船 を通 じ得 べし
︒ 唐河 を 航行 し
︑貨 物 を 積載 し て 運航 し て いた の は 圕 子船 で あ って
︑ 白 河を 航行 する
!子 船と
︑船 尾の 形状 が異 なる のみ でほ ぼ同 型で あっ た こ と が 知 ら れ る
︒圕 子 船 が 積 載 で き る 積 荷 の 多 く は
︑雑 穀 で あ る が
︑そ れら は緑 豆や 胡麻 そし て黄 豆な どを 多く し︑ さら に雑 貨や 棉布 な ども 通行 が可 能で あっ た︒ しか し増 水期 と減 水期 との 間で は大 きな 差 があ った
︒
― 43 ―
︵ 3︶ 䵶旗 鎮と 山陝 会館 と商 業機 関 䵶旗 鎮の 商業 機関 とし て東 亞同 文書 院の 調査 では 次の よう にあ る︒ 牙 行 當地 は昔 時に 於て 唐河 の終 航點 に位 し︑ 通過 貿易 市場 とし て 市 況 繁 盛 を 極 め た り と 雖 も︑ 唐 河 の 埋 没 と 共 に 商 業 漸 次 衰 微 し
︑殊 に京 漢鐵 道開 通以 來通 過貿 易は 殆ど 其奪 ふ處 とな り︒ 今や 地 方の 一市 場と して 僅か に其 餘命 を保 つの みに して 市場 寂寞 を極 め
︑商 業 とし て は 雜 穀︑ 雜貨 等 の 集散 稍 見 るべ き も の ある の み
︒ 取 引は 殆ど 湖北 省樊 城と の間 に行 はれ 其補 助港 たる の感 あり
︒仲
︵免
︶
買 商の 納む る口 錢は 二分 なり とす
︒ 會 館 山西 會館 一あ り︒ 建築 宏麗 嶄然 とし て天 に朝 し︑ 碧瓦
︑燦 爛 日光 に映 ずる の大 観は 此の 地方 希に 見る 所な り︑ 䵶旗 鎮商 権の 大 半を 掌握 する 山西 人の 組織 に係 り︑ 昔時 當地 の商 業が 如何 に隆
︵ 兎︶
盛 なり しか を偲 ばし むる 最好 の資 料な り︒ 䵶旗 鎭は 唐河 の終 航點 とさ れ︑ 各地 へ貨 物が 通過 する 貿易 市場 とし て 繁盛 を極 めて いた
︒し かし 唐河 の河 底の 土砂 の堆 積に より 水運 が減 少 し︑ 商 業活 動 も 衰 微し て い た︒ それ に 京 漢鐵 道 が 開 通し た こ とで
︑ 水 運の 利用 度が 低下 して
︑䵶 旗鎭 に集 荷す る貨 物が 減少 した ため
︑過 去 の通 過貿 易も 衰退 して いた
︒こ のた め䵶 旗鎭 は︑ 一地 方の 市場 とし て 僅か に 餘命 を 保 つ 状態 と な って い た︒ 䵶 旗鎭 の 商 業 とし て は 雜穀
︑ 雜 貨等 の集 散が 僅か に見 られ る状 況で あっ た︒ その 取引 はほ とん ど湖 北 省の 樊城 との 間に 行わ れて いた に過 ぎな かっ たの であ る︒ しか し䵶 旗 鎭が 繁栄 を極 めた 痕跡 が︑ 山西 会館 であ った
︒そ の建 築は 宏麗 嶄然 と し碧 瓦︑ 燦爛 の日 光に 映ず る大 観は
︑こ の地 方に おい て傑 出し たも の であ り︑ 䵶旗 鎮の 往時 の商 権の 大半 を掌 握し てい た山 西商 人の 運営
に 係り
︑昔 日の 䵶旗 鎭の 商業 活動 が如 何に 隆盛 であ った かを 明示 する 遺 跡で あっ たと され た︒ 䵶旗 鎮 の 金 融機 関 と し て 次 の も の が あ っ た こ と が 同 書 か ら 知 ら れ る 䵶 ︒ 旗鎮 は昔 時唐 河の 流︑ 汪洋 とし て碼 頭上 白帆 空を 啣ん で出 入せ る 當時 は南 方諸 省と 北方 諸省 との 貨物 は一 とし て此 地を 經由 せざ る もの なか りし も︑ 今や 唐河 の水 年々 涸れ て碼 頭に 集る 白帆 の數 は 能く 双手 に數 ふべ し︒ 更に 鐵路 一度 河南 の中 央を 貫き て漢 口と 北 京と を通 ずる や︑ 䵶旗 鎮の 繁栄 は俄 然と して 急轉 直下 せり
︒然 れ ども 䵶旗 鎮の 情勢 は決 して 之輕 視す るべ きも のに あら ず︒ 猶諸 般 の商 業依 然と して 行は る︒ 銀爐 の如 きす ら猶 四家 を存 する が如
︵兏
︶
き を以 てし ても 商況 の如 何を 卜す るに 足る べき なり
︒ 錢 舗 十數 家あ り︒ 其主 なる もの を擧 ぐれ ば次 の如 し︒ 恒興 源
本 地人
佛壽 街に 在り
︒ 恒昌 永
山 西人
鐘器 街に 在り
︒ 晋源 永
山 西人
北磁 器街 に在 り︒ 六謙 祥
本 地人
長春 街に 在り
︒ 福臨 協
本 地人
山貨 街に 在り
︒ 以 上は 各資 本一 萬兩 内外 を有 すと 云ふ
︒ 銀 爐 道保 爐
恒 慶人
關帝 廟街 廣興 爐
山 西人
長春 街 天順 爐
恒 慶人
豆什 街 永禄 舘
馬 神廟 街 爐 は 各 戸 共 三︑ 四 あ り
︑元 賓 の 鋳 造 を 依 頼 す る 時 は 一 兩 に 付
︑
― 44 ―
︵ 児︶
三
︑四 文︑ 百兩 に付
︑二 兩を 徴す と云 ふ︒ と ある よう に︑ 一九
〇八
〜一 九〇 九年 の日 本の 調査 によ って 䵶旗 鎭の 商 業市 鎮と して の機 能は かな り低 下し てい たこ とが 知ら れる
︒ 四 小
結 清代 にお ける 河南 の䵶 旗鎭 は︑ 一地 方の 市鎮 では あっ たが
︑長 江中 流 域の 物流 の中 心地 であ った 漢口 から 長江 に流 入す る漢 水流 域を 遡航 し
︑さ らに 上流 の唐 河を 遡航 して 集荷 する 物産 の集 荷︑ 散荷 する 市場 と して 君臨 して いた
︒そ の繁 栄の 状況 の一 端は
︑乾 隆十 九年
︵一 七五 四
︶九 月 二 十 四 日 付 の 河 南 巡 撫 蒋 炳 の 奏 摺 か ら︑ 䵶 旗 鎮 が 南 北 の 水 運
︑陸 運の 基点 とな り商 人が 参集 しと 指摘 する よう に︑ 河南 省の 䵶旗 店 は南 北水 陸馬 頭で あり
︑商 賈雲 集の 地で あっ たた めに
︑多 くの 人々 が 参集 して いた
︒こ のた めに 官憲 の十 分に 眼が 届か ない こと から 様々 な 問題 が発 生す る地 とさ れ︑ 官憲 も注 視し なけ れば なら ない 重要 な市 鎮 で あっ た の で ある
︒二
〇 世 紀初 期 の 報告 に も
︑﹁ 漢 水は 河 南
・陝 西 兩 省と 漢口 とを 連絡 する 最大 水路 にし て︑ 兼て 北支 那各 地と の交 通の 咽 喉を 形成 す︒ 河南 を經 て北 支那 に通 ずる 路は 漢口 より 先づ 漢水 遡り
︵ 兑︶
て 䵶旗 鎮に 出で 陸路 河南 衛︑ 輝の 二府 を經 て﹂ とあ る︒ 二〇 世紀 初期 に おい ても 漢水 から 遡航 する 水路 にお ける 䵶旗 鎮の 優位 は重 要視 され て いた
︒ 䵶旗 鎭の 商業 市鎮 とし ての 繁栄 を象 徴す る典 型的 な史 跡が
︑山 西商 人
︑陝 西商 人に よっ て建 設さ れた 山陝 会館 であ る︒ 山陝 会館 は今 日で も 河南 省の みな らず 中国 の代 表的 な文 化遺 跡と して の偉 容を 残し てい
る
︒䵶 旗鎭 の繁 栄と 密接 な関 係に あっ たの が︑ 長江 の中 流域 の漢 口に 流 入す る漢 水か ら唐 河に 連な る水 運で あっ た︒ 唐河 の河 底の 土砂 の沈 殿 にと もな い︑ 水運 量が 減少 する とと もに
︑新 たに 登場 した 鉄道
︑京 漢 鉄道 の開 通に よっ て䵶 旗鎭 の機 能が 漸次 衰退 して いっ たと 言え るで あ ろう
︒