著者 原 誠
雑誌名 基督教研究
巻 63
号 2
ページ 59‑77
発行年 2002‑03‑12
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004252
キーワード
戦時下、キリスト教伝道、教勢、入信、各個教会史、信仰告白
KEY WORDS
World War II period, Christian mission, church membership, initiation into faith, history of individual churches, profession of faith
要旨
戦時下の日本の教会は、その活動自体が非国家的な存在として抑圧され、統制されたと 考えられる傾向がある。しかしそれは実証的な論拠にもとづくものではない。戦時下の国家 社会のなかでキリスト教会自身は、その難局をどのようなものとして受け止めていたのかと いう教会自体の自己理解に対する解明が不可欠である。本論文はこの課題に応えるため に、すでに出版されている各個教会史の記述に拠りながら、当時の教会活動の実態をあき らかにし、また、当時の教勢の状況を示した資料を分析しようとした。さらに組合教会に は受洗、転入会に際して「信仰告白」をすることが求められていたから、霊南坂教会が保存 していた「信仰告白」の文章を手がかりにして、当時、キリスト教会がどのようなキリスト教 信仰をもって伝道しようとし、また当時の人々はキリスト教信仰に何を期待し、何を求めて いたのか、その一端を解明しようとした。彼らは、戦時下の抑圧、統制のもとではあっても、
そのことを抑圧、統制として受け止めていたのではなく、自らは国家社会において存在意義 のある宗教としてのキリスト教を信じ、その信仰は主観的、観念的、道徳的なものであった。
戦時下の教会の伝道 −教勢と入信者
Mission of the Church during World War II
− Initiation and Membership 原 誠
Makoto Hara
SUMMARY
The Church in Japan during the World War II period is looked upon as an anti-nationalist existence under government suppression and control. This image is not necessarily based on facts. We must re-examine the Church’s stance in the strongly nationalist social and political situation of the day. This paper attempts to put some light on that historical time by use of church history editions of local churches to deepen our understanding of the real condition and situation of the Church in Japan during the war years. Records of church membership are one of the resources for this analysis. Church members were not generally aware of the governmental control and suppression during the war. They saw their faith as being meaningful for the reality of the nationalistic state. Their faith was generally subjective, ideological and moralistic.
1 はじめに
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本稿は、戦時下の教会における伝道活動の実態に関し、出版された各個教会史の記述 を手がかりとして、この時代の信仰のありよう(当時のキリスト者の信仰的特質)をあきら かにしようとしたものである。日本のファシズムの時代は、1931 年の満州事変以後、政治、
思想、軍事などあらゆる面において社会全体が強固にうち固められ、蟻のはいでるすきま もないような戦時体制が確立した時代であった。この戦時体制のなかで国家による宗教 統制も激しさをまし、大本教やひとのみち教団への弾圧や、キリスト教関係においても 38 年の大阪憲兵隊による13 条の質問、配属将校をめぐって上智大学、同志社大学で起こっ た神社問題、あるいは燈台社、救世軍などに対する攻撃など、この国体の枠外に存在する ことを認めない状況が進行した1。
国家がキリスト教会を歴史的に国際的な関係をもち、敵国の宗教であるとして疑心の目 で見ていた時に2、そのように見られていたキリスト教会自身は、みずからの存在をその状 況のなかでどのように認識して礼拝をおこない、教会の活動を続け、そして信徒は教会に 何を求めて集っていたのか。そしてまたそのような状況下に、あらたに信仰を表明してク リスチャンとなったかれらにとって、キリスト教信仰とはどのようなこととして理解し、認 識されていたのか。これらをあきらかにすることは日本のキリスト教の質を問う時に、重 要な課題となるであろう。
本稿ではこの課題に応えるために、まず当時の教会の活動の実態をあきらかにする ために教勢の状況を確認し、ついで各教会が刊行したいくつかの各個教会史の記述か らこの時代をどのように記述しているかを探り、各個教会の状況を検討しつつこの制
約された時代の信仰の有り様を浮き彫りにしようとするものである。
2 戦時下の教会の教勢
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この時代のキリスト教会の教勢は、礼拝出席の数に見ることができる。1941 年に成立し た日本基督教団(以下、教団と記す場合がある)は、当時のプロテスタント・キリスト教の ほぼ全教派の教会を統合して成立したゆえに、その教勢によっておおむね当時のプロテス タント・キリスト教の数を知ることができる。この時期の教団の教勢は、教団創立後最初に 刊行された『日本基督教団年鑑』(1943 年版)3によれば、1942 年教団創立時の教会数は 1875、教師数は 2830 名、信徒総数 200118 名、現住陪餐会員 99518 名、朝礼拝出席 37048 名、1 教会平均 20 名、現住陪餐会員の朝礼拝に出席している比率は 37.2 %、祈祷会出席 13043 名、受洗者 5929 名、CS 出席 62936 名というものである。ついでながらこの数字を 1998 年の統計と比較してみると、教会数 1726、教師数 2170 名、信徒総数 202361 名、現 住陪餐会員 100650 名、朝礼拝出席 59941 名、1 教会平均 37 名、現住陪餐会員の朝礼拝に 出席している比率は 59.6 %、祈祷会出席 10745 名、受洗者 1900 名、CS 出席 22000 名であ る。つまり 41 年に成立した教団と現在を比較してみると、教会数、教師数、祈祷会出席者 数はやや減少しているものの、信徒総数、現住陪餐会員数は変わらないということが指摘 できる。教団は、戦後直後の 1945 年 12 月 28 日の宗教団体法廃止以後 50 年頃までに多く の教会が旧教派の教会設立へと離脱していった。この減少を考慮しても、当時の受洗者数 が 5929 名であり、現在の教団の受洗者数が 2000 名前後である4、すなわち戦時下当時よ りも現在のほうが受洗者の数が少ない、という事実をどのようにとらえるべきであろうか。
一般的にいえば戦前から戦中の時代は、熊沢義宣のいうように「制約された信教の自由 下における伝道」、戦後を「保証された信教の自由を求めての伝道」として認識できる5。つ まり戦後の「保証された信教の自由」の時代において、日本基督教団にあっては約 2000 名 前後の受洗者であるのに対して、戦前、戦中という「制約された信教の自由」の時代にお いて、受洗者の数が年間に 5000 名であったということの意味を問う必要がある。すなわ ちファシズムの進行と日常的な戦時下における社会生活において、状況がただちにキリス ト教の伝道をはじめとした教会の諸活動に影響を与え、それが教勢に反応して礼拝出席者 の数の減少なり、受洗者の数の低下をもたらして、教会活動の全般が悪化の道をたどった のではない、ということになる。それ以前からキリスト教信仰を保持して教会生活、信仰生 活を営み継続してきた信徒は、また教会という信仰の共同体に関して責任をもつ牧師たち は、この状況の変化、すなわち戦時体制の進行と天皇神格化、すなわち「国体明徴」体制を、
その信仰においてどのように認識していたか、ということが問われる。そしてまたこの時代
に新たにキリスト教の信仰を表明して受洗していった新しい信徒たちは、キリスト教信仰 に何を見出し、期待して決断して、入信したか、ということも問われる。
この時代にキリスト教信仰を保持すること、あるいは新たに信仰を表明することの内容 と質があらためて検討される必要があろう。またその信仰の内容と質において教派的な特 徴があるのかどうかも検討課題となろう。
3 各個教会史における「戦時下」への認識
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すでに出版されている各個教会の教会史の記述について、前提として留意する点に ついて踏まえておきたい。
土肥昭夫は、各個教会史の編纂と記述において「○○牧師時代という時代の分け方は 一面的」であり、しかし一方、本論文で取り上げている戦時下について「大正デモクラ シー期の教会とか、昭和ファシズム期の教会という分け方」によっても、「それだけで教 会の歩みのすべてをとらえることもまた、一面的といわなければならない。教会の歩みは 内在的な要因によっても考えられねばならない」からである6と指摘している。この指 摘を前提として戦時下の教会の現実を考えるならば、国家存亡の危機という状況のなか では、キリスト教信徒であると否とを問わずだれしもがその枠の外に立つことは許され ない状況であった。自らの立脚点であるキリスト教への信仰と教会生活を保持するとい うことは、例えば教会員である若い男性や学生であれば徴兵、応召を、そしてその延長 線上にある戦死を覚悟せざるを得ず、また家族もこれらの家族を戦地に送らなければな らないという状況があった。キリスト教徒であるということが、自明の事柄として戦時体 制と天皇制を含む当時の社会体制の総体に対して対峙しうる「原質」を持っていたかどう かということこそが問われなければならない。
そのことを念頭において戦時下の各教会の記述、ことにその視点について観察してみ ると、それぞれに多彩、多様である。
たしかにこの時代は、事実、特高や憲兵によって礼拝説教がチェックされたり米英のスパ イとしての嫌疑を受けた事例は多い。しかしながらいくつもの教会で会堂が罹災して資料 が散逸した場合があったり、また幸いに資料が保存されていた場合でもその残された資料 を徹底的に読み抜き検討し分析するのではなく、戦後の教会史の刊行にあたっては、基本 的視点において「キリスト教会は被害者であった、迫害を受けた」という認識でのみ記述さ れることが多い。当事者である牧師自身が、また教会の役員など中核的信徒自身が、その 時代における信仰生活をどのように認識していたかということや、なによりもそこにおいて キリスト教信仰がどのような事柄として受容されていたか、ということが問われるはずである。
各教会の教会史の記述はいくつかのタイプに分類される。以下戦時下の教会の有り様に ついて各個教会史の記述を概観すると、ここでは個別に教会名を上げることは省略するが、
一つのタイプは、この時期を信仰と教会活動の自由が制約された、という意味において「被 害者」の立場で叙述し、そして戦後の時期になると教会の活動の「再生期」「発展期」とす るタイプである。さらにもう一つのタイプは、一歩踏み込んで戦争に協力したとの認識で、
教会の戦争責任に比重をおいて記述するタイプである。いわば「加害者」の立場である。
しかし共通しているのは、じつはいずれも当時のキリスト者、そして教会の実像を えぐりだしての記述というよりは、いわば理念先行型の記述としてみることができる ということである。たしかにこの時代をどのように記述するかは、今日的な意味では
「リトマス試験紙」のような役割がある。しかし同時にそこにおいては当時保持し理解 していた時代の状況における教会とキリスト者の「原質」を明らかにすることにおいて は限界があるといわざるをえない。
4 各個教会史からみた戦時下の教勢
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すでに刊行されている各個教会史のいくつかのものには、巻末に統計資料として礼 拝出席数、受洗者数などが掲載されているものがある。以下においてそれらの資料か ら、戦時下の教勢の推移を検討してみる。
年代は、1931 年以後 45 年までを対象とした。
以上いくつかの教会史の統計から析出される結論は、戦時下であっても教会の諸活 動を含む教勢は、上昇傾向こそないとしても急激に悪化したのではなく、ほぼ共通し て現状維持ないし微減という状況であるということが明らかである。特徴的に指摘で
きることは大都市において 44 年以後急激に教勢の悪化が起こったということである。
これは戦局の悪化にともない 43 年 12 月に文部省が学童の縁故疎開促進を発表し、ま た勤労動員の強化や食料事情の悪化などが大都市居住者である教会員自身にも波及し ていき、そのことによって教会の礼拝出席が徐々にままならぬ状況になっていったと いうことである。したがってサンプルとしては少ないゆえに一般化することは危険で あるかもしれないが、例えば地方の農村地帯に位置する群馬県の甘楽教会の場合はそ れ以前の時期より上昇しているというケースもある。
これらのことから指摘できることは、戦時下のファシズムそのものが思想的に、法的に、
社会的に、教会を排除する方向に動き、これに対応して教会活動そのものが制約を受け、
あるいは求道者が教会の礼拝を含む諸活動に参加しにくい社会的雰囲気が醸造されてい たのではなく、戦局の悪化にともなう社会的変化が教勢の減少を導いたというべきである。
5 「各個教会史」による戦時下の教会と信仰
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ここでは、刊行されているいくつかの教会史の記述から、戦時下の教会の信仰を浮 き彫りにする。ここでは日本基督教団を構成した主要教派であった日本基督教会、メ ソヂスト教会、組合教会の伝統を持つ教会で出版された教会史によって、当時の教会 の諸活動をあきらかにし、そこにあらわされた信仰の諸相を浮き彫りにして検討する。
(1) 高知教会の場合
高知教会は、教団成立時には第 1 部に属し旧教派である日本基督教会のなかでも有 数の有力な教会であった。
高知教会は 1985 年に 560 余ページにおよぶ『高知教会百年史』を出版した7。以下、
本書によって述べる(数字は、本書のページ数を示す)。数字に示される教会員数は昭 和の始めには 1580 名余りであったが、ほどなく 1940 年には 2000 名を越しており、受 洗者もこの時期に合計 813 名を数える(161)。朝拝出席者の年間平均数はこの期間を通 じて 320 名を越していた(161)。 夕拝出席者は大体 150 名を越し、多い年は 200 名を越 えていた。祈祷会も多い年には 100 名を越していた(161)。
これは全国の日本基督教会との比較において眺めてみると、「教会員数、現住陪餐 者数、受洗者数、朝拝出席者数、夕拝出席者数、祈祷会出席者数、何をとってみても 一位、二位ないし五指を屈するほどの大規模な教会であった」(163)。
このように日本基督教会を代表する大きな教会であったが、33 年 11 月 23 日に新し い試みとして新嘗礼拝が始められた。その意図についてこれを新嘗礼拝と名付けつつ も、実際は収穫感謝の礼拝であり収穫物を持ち寄りながら、バザーがなされ愛餐の時
を持つものであった。そしてその意義について植村正久が明治 40 年頃に始めたこと であるとしてその卓見に教えられるとし、またこれは平素から多田素牧師の主張して いた日本の教会が日本の教会となっていくことの具体化との認識を持っていた(167)。
ついで特記されることは、日本基督教連盟によって全国的に展開された賀川豊彦の
「神の国運動」による特別伝道である。高知では 1932 年 4 月になされたが、高知教会 ではそれ以前の 27 年、29 年の 2 回、特別伝道がなされており、それぞれ大盛況で特 に 27 年 6 月には高知教会始まって以来の 74 名が洗礼を受けた。
多田素牧師は 41 年 3 月に逝去し、続いて短い期間に西山知幸牧師、鈴木高志牧師 の応援があり、41 年 12 月末に霜越四郎牧師が着任して、翌年 2 月に就職式が行われた。
教団合同については「此の教団は宗団法上の教団なれど、神学的の教会にあらずと は一般的な空気だったが、世間の考慮が非常に加はってゐる様であって正式の修正も なしに可決した。但し尾島老始め 28 名の大反対者があった」(『海南教報』から、
197)と述べつつ、時代の中で日本基督教会の教会としての自覚的な教会形成を目指し ていた高知教会は、教団への合同についてはかならずしも大同団結としてではなく一 定の躊躇を感じながら押し流されて合同に踏み切ったという認識を持っていた。
教団の合同に対する認識はこのようなものであったが、教勢は 41 年前半において 朝拝 280 名、夕拝 55 名、祈会 55 名であり、支教会や講義所の出席を加えると朝拝 330 名、夕拝 102 名、祈会 68 名で、夜の集会は減少しているものの、朝拝は前年平均を越 えている。
『海南教報』も当局の絶えざる監視のもとにあり、何度か注意を受けた(『海南教 報』昭和 8 年 12 月 3 日、209)とはいえ、日米開戦後の 42 年度には、ペンテコステ特 別大伝道集会を例年どおりのプログラムで、準備早天祈祷会、聖霊待望祈祷会、総員 礼拝、大伝道集会、家庭伝道集会、4 晩連続毎夜 7 カ所、会社で 2 カ所、学校で 1 カ 所、青年伝道、高校学生会、日曜学校、感謝礼拝を実施するというように、連続して 展開することが可能であった(207)。
43 年度の報告によれば「時局下なほ不屈なる積極的整備と活動とに対し、集会出席 者は概ね減少」と記していながら、教会の財政については「昭和 17 年度末に於いて 生じた 2700 円の赤字を解消して 4 百円餘円を生じ、…教団合同感謝献金 1700 餘円(教 団が推進した、引用者)を集め」、さらに「軍用機献納の為 1 万 1600 餘円教会を献げ得」、 また「経常会計に於て 1000 円の黒字」(210)となるなど、教会の基礎的な体力という ものはこの時代にあっても衰えなかった。
この年度の末、すなわち 44 年 1 月には教会のなかに「軍事係」が置かれた。それ は入隊、応召、徴用等について教会として慰問、援護が必要となったからで、教会員 の出征、軍務に従事するものや工場に徴用されるものが増加したからである(217)。
44 年度に入ると礼拝出席者を含めて、教勢は初めて半減した。それは「地方の中心 都市においても戦災を避けるため、更に地方へと疎開がおこなわれ」という要因によ るものであった(218)。また「『海南教報』は既に発行を停止し、週暦には「会員にし て軍務に応ずる者の名前が多く出るようになり、戦死の報知も数を増し」た(218)。
この戦局の悪化のなかで高知教会としての教会活動への認識は「日本一めぐまれた 教会」との認識を持っていた。すなわち全国には疎開や空襲のために礼拝そのものが できない教会があるようだが「我らの教会は、毎週 5 回、会堂の集会を確保するのみ ならず、毎週少なくとも 6 ヶ所の講義所や家庭で集会がなされていたのである」(220)。
45 年に入って 4 月以降、教会の活動は早朝礼拝と朝拝と祈祷会だけに縮小したものの、
4 月 22 日の主日礼拝には 109 名の出席があった。7 月 4 日に高知は空襲を受け、教会 も被害を受け、外郭を残して内部は殆ど焼失した。
巻末の統計資料によれば、31 年朝拝出席 351 名、経常収入 17803 円、以後朝拝出席 者が 300 名を割るのは、39 年の 1 年だけで、再び 300 名を越え、42 年に 286 名、43 年 が 180 名、44 年は 113 名とある(476)。
また受洗者の数について、例えば 30 年は 61 名(転入会 5 名)、32 年に 70 名(転入会 1 名)など高い数字を示していた。その後、減少するものの 38 年には 17 名、39 年 9 名、
40 年 10 名、41 年 7 名、42 年 19 名、43 年 17 名、44 年 8 名、45 年 4 名という数字があ る。戦時下のさなかにおいてなお、教会の活動、伝道は続けられ、受洗者を生み出し 続けていたのである。
要するに高知教会は、教団の合同には積極的ではなかったものの、時代の趨勢に抗 することはなく、疑念を持ちつつもこれに参画し、地方にある日本基督教会の代表的 な教会として、礼拝のみならず各集会も可能な限り継続し、また教会員もこれを支え てきたことが読み取れる。
このことはホーリネス弾圧による牧師の逮捕、翌年の解散命令があったときに『海 南教報』が「何度か注意を受けた」(209)にせよ、個別のこの教会において信仰と教 会活動そのものが根底的に国家社会、地域によって否定され、拒絶されたものではな く、容認されていたことを示すものである。また高知教会もこの時代と体制の中を屈 辱の思いを持ちながら、自らの信仰のありどころに関して、節を曲げ屈伏しながら時 を過ごしていたのではなかった、ということがいえるであろう。
(2) 鳥居坂教会の場合
鳥居坂教会は日本基督教団創立時には第 2 部に属していた。この教会は大濱徹也に 執筆を依頼して『鳥居坂教会百年史』8を 1987 年に出版した。
メソヂスト教会はその伝統によって、すでに 1937 年に釘宮辰生監督の名前で「時
局に対する申し合わせ」や、第 72 回帝国議会の開院式にあたって「勅語の御主旨を 奉戴し、内閣告諭に基き帝国所期の目的たる東亜の平和を確立せん為に祈り」という ように、教会全体として「国民総動員の精神作興運動に参加し、尽忠報国の精神を振 起せんことを期す」(227 ページ、以下、百年史のページ数を示す)というように、キ リスト教信仰に基づく文言すらない文書が出されていた。このメソヂスト教会に属し ていた鳥居坂教会は当時は麻布教会と称した。教会では 38 年 7 月 10 日の週報 274 号 で「報国伝道」に力を尽くすことを宣言した。その内容は「報国伝道とは福音宣伝に 依て国恩に報へんとの主旨であり、大いに福音の根本義を力説高調すべきであり、祖 国日本の特殊使命を検討し、基督教的立場より盛に之が闡明昂揚に努むべきこと」
(228)、というものである。この意味は天皇制国体の歴史を有する国家であり、当然 のことながら欧米のキリスト教諸国とは異なった固有の課題があり、日本のキリスト 教は、国家存亡の中では愛国運動に全力を注ぐ事は国民としてキリスト者として当然 だとの意識を内在させている。
すでに 34 年 2 月 11 日の礼拝を「紀元節礼拝」として守ることになったこの教会で は、同 11 年 2 月 9 日の礼拝を「建国祭礼拝」として守ることにし、「皇国と基督教」
が説教題とされた。そして「基督教愛国」が「国を挙げて之を祝し、日本帝国臣氏 (ママ)たる事を感謝すると共に、愈忠君愛国の念を炬んにし」と述べ、その根拠とし て「日本メソヂスト教会はその憲法第十五条政府に対する義務のなかに『我等は聖書 の教ふる所により、凡て有る所の権は皆神の立て給ふ所なるを信じ、日本帝国に君臨 し給ふ万世一系の天皇を奉戴し国憲を重んじ国法に遵ふ』を挙げる」(229−230)と いうことがあったからである。
『百年史』が述べているのは、このような「聖戦」意識が教会員に受け入れられた のは、教会員であった水野恭介ら職業軍人によって時局の啓発が日常的になされてい たことにもよるが、社会上流人士の婦人を中心とする教会の体質でもあったと指摘し ている(241)。
このような時期の一人の信徒の信仰告白が「めぐみの証し」として採録されている。
それは幼児期に教会に連なっていたものの一人の父親となり大酒を呑んで不真面目な 生活をしていた自分は、自分に耻しく(ママ)祈ることができなかったが「三度目に非 常な勇気を出し思ひ切つて『神様!』と声に出して祈り始めると、教えの歓喜が溢れ てきた。長い間、罪の歩みを続けてきたが、神は失われた羊として自分を救いに入れ て下さった」(256−257)というものである。
また鳥居坂教会には学生を中心とした「麻布教会英文学会」があり、それは著名な 知識人を招いての講演会であったり学生による英語演説であったりで「世界に開かれ た眼をもたんとしていた」(261)活動であった。それは国体論が謳歌し偏狭なる日本
精神が説かれる世にあって、キリスト教によって知った世界への眼、青年の知的欲求 を英文学会の催しにとりこむことで満たさんとしたものであり、文化的知的啓蒙とし てのキリスト教が持つ「文化」的香気への傾斜だったから、それは一時の知的雰囲気 における慰安たりえたが、「国体」の名によって強要される神話をつきくずすだけの 活力を生み出すものとはならなかった(261)と指摘している。
続けて日本のキリスト教界はキリスト教を「文明の宗教」として受容し、「国家の 器」としてのキリスト教の優位性を信じ、魂の救済を個の信仰として説いたがために、
信仰的原理において国家社会を相対化することに無知であり続けた。キリスト教信仰 は「人生修養」の具として意味あらしめられた。この信仰的無知こそは「五族協和」
を掲げた満州建国に始まり「大東亜共栄圏」に至る国家の夢想に身を投じ、「信仰的 義認」をなさしめたものにほかならず、「文明の徒」として生き続けたキリスト者の 痛ましき現実でもあった(268)と分析している。
日米開戦以後、教団成立に伴って麻布教会から鳥居坂教会に改称した後、会員で出 征して戦死した「熱信(ママ)なキリストの僕、麻布教会が生み育てた『教会の子』た る帝国軍人として、教会の誇りでもあった」(290) 信徒の戦死に際して詠んだ水野恭 介海軍少将の歌が収められている。
◆ ◆ ◆
○ 召集令状を受け
ひこぶるに待ち居たるものつひに来ぬ この紅の召集令状 むなうちにたぎる血しほをさながらに 召集状の色のめでたさ 赤紙と人みないふこれなるぞ 子らもよく見よ召集令状
○ 門出にあたりて
いきしには神のおん手にまかせあれば 心安けし今日のいでたち
◆ ◆ ◆
著者の大濱徹也は、これを志士の思い、とでもいうべきもので、征虜にむかう武人 に共通した心情を吐露したものと述べ、そこには信仰者という側面よりはごく自然な る「武人(ますらお)の心」(290−291)があるだけであると指摘する。
戦局の悪化は当然ながら教会活動そのものを厳しく制約するものとなった。教会員自 身も疎開、戦災に遭遇し、教会生活、礼拝生活そのものの継続が困難になっていった。
そして日本基督教団からの指示は続き「いわば『聖戦』の完遂は、キリスト者として の信仰の本質たる『敬虔』を修練する場とされ、ひたむきなる信仰の課題と意識され たのではなかろうか」(298)、と分析した。
このような鳥居坂教会はメソジストの教会制度を背景にしながらキリスト教信仰に よって国家社会を相対化することなく「文明国の宗教」であるキリスト教を人生修養 の糧として受容していたといえよう。
(3) 京都教会の場合
京都教会は組合教会の伝統に立ち、教団成立時には第 3 部の教会であった。京都教 会では 1985 年に『京都教会百年史』9を刊行した。以下、これによって述べる。
京都教会は 1 年間無牧であったが、田崎健作牧師が 1937 年 12 月に第 9 代牧師とし て着任した。
田崎牧師は着任の翌年 38 年 1 月および 2 月の教会報『紫明』において、「時局と基 督教」について述べた。その大要は「第一、基督教は絶対的に個人的なるものにして 国家的なるものに非らず、第二、イエスの教訓は基督教の一部なるも断じて基督教に 非らず、第三、基督教の本質と基督教の応用とは明確に区分するを要す」(522 ページ、
以下、百年史のページ数を示す)というものであった。教会史の記述によれば、各論 についてこう解説する。第一の問題については、基督教の中心をなす問題、すなわち 復活、天国、永生、贖罪、聖餐、懺悔等、すべて個人に属する問題であって、国家や 社会団体にあてはまることがらではない。第二の問題については、トルストイを見る ならば明らかである。彼はイエスの教訓を即キリスト教としている。しかしそれは教 訓であって宗教ではない。キリスト教とはイエスをキリストと信じ、永遠の助主、贖 主と信じることである。トルストイはイエスの教訓を以て基督教として、これになら った生活をなさんとして倒れた偉人であった。つまり彼は倫理的偉人であったが、宗 教的偉人ではなかった。倫理的偉人は主の十字架を背負うべきものとするが、宗教的 偉人は主の十字架を贖の恩寵としてこれを拝する。前者は忍従であり、後者は感恩で ある。そして社会的基督教の立場をとる多くの人びとは前者に属する。第三の問題、
つまり基督教の本質と応用については区分すべきことについてこう考えている。基督 教の本質はイエスの教訓、自己の罪悪、主の贖罪、洗礼、聖餐、永遠の生命、天国、
復活等である。だがこの中で社会的に応用できるのはイエスの教訓のみであり、さら に応用するとなると環境を無視することができない。この環境の無視が、絶対的共産 主義の高調となったり、絶対的非戦論が叫ばれたり、又反対に国家に反するものだな どと攻撃されることになる。イエスは確かに個人的最高理想の倫理を指示しているが、
他面基督教の中心は贖罪論である。イエスの教訓は之を実行する事が目標なのではな く、この最高理想の前に自らの無力を懺悔する事、己を捨て、主キリスト(歴史のイ エスではなく)にすがる、「己れ生けるに非らずキリスト我にありて生きるなりとの宗 教的活路を発見させる神の御企である」(523−524)。だから「基督教信徒は大胆に
此の現実の橋梁を渡って各自の前に置かれたる国家の任務に忠勤をはげむ可きであ る。主は喜んで諸君の為に天国の扉を開いて待つて御出になる」(『紫明』昭和 13 年 2 月、524)。
この教会史の記述の視点に関して深く傾聴に値することは、次のような文章である。
「こうした意識のもとに京都教会が、また日本のキリスト教界が国家の策謀にとりこ まれていったとするならば、これまで往々にして語られてきたキリスト教界の被害者 意識は後日作られたものであることが明らかになる」(524)という指摘である。
39 年 11 月「教会は協力の気運を高めた。各集会も充実し、朝拝出席も百余名を上 下している。また夕拝は、田崎牧師自ら夕拝前に宣伝隊に加わり先頭に立って大声叱 咤し、太鼓をたたき、『内にも外にも又覚醒運動』の感があった」(537)とする。
42 年夏に日曜学校大人科主催の夏期懇談会が連続 5 回で開かれた。主題は「大東亜 建設と基督教」であった。その感想として「思ふに思想戦といはれる今次の戦争も 我々にとつては信仰の戦ひに他ならない。我々の信仰が米英基督者の信仰と戦ひ、そ の主義が彼等の主義に立ち勝り得るか否か、吾々の信仰が呪はれて地獄に堕るか、彼 等の信仰が凋落し果るか、活ける神を求めて角力する魂の深き祈りの戦ひにこそ新し い大東亜の建設はかかつてゐる」(『月報』昭和 18 年 9 月、557 ページ)というとき、
たとえそれ以前の 32 年に京都教会青年会修養会で「教会と国家」をテーマにした分 団で語られた当時の青年の考えのなかにあったとまどい、苦悩を教会としてはおしつ ぶし、個々人の問題として放り出してしまったことになる。
◆ ◆ ◆
「第三分団 座長 金田雄亮 書記 木庭芳雄 参加者九名
主題 基督教と国家 a 対皇室
この問題には触れることを避けた。
b 対神社
神社の神と基督教の神とは、根本観念を異にしている。神社に対しては我々の祖 先として又は我国に取つての功労者として、尊敬の意を表するのであつて、礼拝では ない。進んで礼する必要もないが頑として礼をしないと言う必要もない。
c 対軍隊
この問題も根本的に検討するなら、遂に国家問題となるから、その点は他の分団 研 究に委し、実際問題を考へてみた。
第一に学校における軍事教練に関して之は根本主義として反対である。(一部の方々
には身心鍛錬の目的に於て肯定)社会を変えない限り、即ち魂の改造なき限り、戦争 を止めさすことは出来ない。兎に角戦争は反対だ。従つて軍隊も否定だ。しかし愈々 召集令の下つた時は、もう個々各自の信仰に委すより他に仕方がない」
(『紫明』昭和 7 年 7 月、541−42)
◆ ◆ ◆
『京都教会百年史』で述べているように、青年は戦争に対して反対の意志を持ち、
しかし召集令状がくれば「もう個々各自の信仰に委すより他に仕方がない」というよ うに、「信仰による個人の内面化となる傾向を示して」おり、「国家や戦争の問題につ いての掘り下げた神学的、歴史的検討がほとんどなされていなかったことが指摘され」
(542)る。
(4) 霊南坂教会の場合
組合教会の伝統を持つ霊南坂教会は、教団成立時には第 3 部に属した。霊南坂教会 は 1979 年に『霊南坂教会百年史』10を出版した。この『霊南坂教会百年史』の特徴は、
その叙述において牧師や役員会(当時は執事会、教団成立以後は長老会と称した)を中 心とした動きを軸に記述されているところにあり、一人一人の信仰の特質を描き出し 分析する叙述にはなっていない。
霊南坂教会は、1933 年の統計によれば当時の組合教会のなかでは同志社教会、近 江八幡教会に次ぐ第三位の教会で、前二者がいずれも学園附属(設)教会という特殊性 を考慮すれば、市民教会としては最大のものであり、礼拝出席者平均は 153 名で、当 時としては有力な教会の一つであった(347 ページ、以下、百年史のページ数を示す)。
また小崎道雄牧師はこの時代には日本基督教連盟に関わり、教団創立時には統理代務 者、出版局長、東亜局長などを歴任するなど、日本のキリスト教会を代表する牧師の 一人でもあった。また忠実なそして指導的な教会員であった松山常次郎と星島二郎が 40 年 1 月に成立した米内内閣の海軍政務次官、司法政務次官に任命された(42)ように、
教会員のうちに国家レベルにおける有力な信徒がおり、教会自体が国家社会の動きそ のものに深く連動していた。
霊南坂教会の伝道の特徴の一つは、木村清松と賀川豊彦に代表される「特別伝道」
によって教勢を伸ばしたことにある。例えば 40 年の 5 月におこなわれた「我が教会 空前の大伝道集会」(357)では、5 日、1300 名、6 日、1500 名、7 日、1200 名、3 日 間の連続の早天祈祷会の出席者は 257 名、婦人会の出席が 130 名、総計 4387 名で、
この中から決心者が 361 名出たというように、時代背景とは全く無関係に教勢を伸 ばし伝道に励むことができた。同年の 11 月も同様に 8 日間に延べ 3000 名近い出席が
あった。このような霊南坂教会の礼拝出席者数と入会者数について、40 年に 203 名 と 100 名、41 年に 176 名と 72 名、42 年に 142 名と 36 名、43 年に 125 名と 30 名、44 年に 66 名と 18 名、45 年に 53 名と 16 名11、という数字が残っている。
日米開戦後は、さすがに礼拝出席者数と入会者数はともに上昇することなく減少 している。しかし礼拝出席者数の減少は戦局の悪化に伴うものによることであり、
キリスト教が反国家的あるいは反戦思想的な宗教、あるいはその傾向をもつものとし て排撃されたわけではなかった。
霊南坂教会では太平洋戦争開始おおよそ半年後に、「信徒練成会」を開催し、次の ような「信徒練成会申合」(429)を採択した。
「大東亜戦下、時局愈々重大を加うる時、我等霊南坂教会信徒一同は、警戒警報発 令中の緊張裡に、七月五日午前十時半より午後七時半まで教会に於て信徒錬成会を開 き、時局認識の徹底と信仰的団結の強化とを主題として、真剣に祈り且討議し、左の 申合をなせり。
一、 我等は日本基督教信徒として常に時局認識の徹底を図り皇国の為益々忠誠を 尽さん事を決意す。
一、 我等は此決意達成の為め、教会を基とし、各自の職域を通して行住坐臥基 督の福音伝道に精進す。
一、 我等は基督信徒の本分にして、教会行為の本質たる礼拝・祈祷会への出席を 万難を排して励行す。
一、 我等は教会内容を充実し、伝道戦線を拡大せん為に月次献金及び臨時の各種 献金を確実に実行す。
一、 我等は師弟道を重んじ、規律礼儀を守り、信徒の深き交りの中に強固なる団 結を図り以て、国民道義性の顕彰に邁進す。
昭和十七年七月五日
日本基督教団法人霊南坂教会第一回信徒錬成会参加者一同」
(『教報』1942 ・ 7 ・ 15)
また小崎道雄牧師の「一億一心の信仰」と題する説教では、「臣道実践」は僕とし て生きることがキリスト教的な人道である限り、臣民として生きることは真の人生で ある。「職域奉公」とは、各自の職業を天職と信じる限りすべての職業はすべて神へ の奉仕となる。「滅私奉公」とは、すなわち十字架の道であり、「一億一心」は一本の ぶどうの樹に連なる枝(ヨハネ 15 章)にふさわしく日本は歴史的に人種的に精神的に相 一致する民族である(430)ということを述べた。
霊南坂教会では小崎を除く教職にも召集令状が来て中森新喜知伝道師、平山照次 牧師、大倉健一伝道師が教会から離れ、おおよそ 20 名の教会員が戦死したと記さ
れている(436)。
このように霊南坂教会においても小崎牧師と有力な信徒を中心にして、キリスト 者として国家に忠節を尽くすことが重要であり、教会の使命は国民道徳、道義の向 上に参与することとして理解されていた。そしてキリスト教信仰は倫理宗教として 受容されたという明治期のキリスト教受容以来の特質、伝統を保持し続けてきたと いえよう。
以上、いくつかの教会史からたどってみた。そこから読み取ることができるのは、
おのおのの教会の百年史の執筆者が、資料をしっかりと読み解き、深い歴史認識と 社会意識を、また加えて当時の教会と信仰者の信仰理解を持った場合には、上滑り することなく教会と信仰者の実像を浮き彫りにできているという点である。
この時代にあって、教会のみが戦時下の日本社会から超然として存在したわけで はなく、社会全体からキリスト教が「非国民」扱いされて指弾を受けたケースがあ ったにせよ、教会活動は基本的に保持され継続されていったのである。教会活動の 停滞、教勢の低下の原因は、まさしく戦局の悪化に伴う戦時社会の変動によるもの であり、教会自身、あるいは信仰者自身の意識の中からこの戦時態勢自体に対する 否定的な意識、ないし信仰理解に基づいてこの態勢に対して距離を置くという姿勢 を読み取ることは困難である。
すでに述べたように、また『鳥居坂教会百年史』を著した大濱徹也が指摘したよ うに、日本のキリスト教界はキリスト教を「文明の宗教」として受容し、「国家の 器」としてのキリスト教の優位性を信じ、魂の救済を個の信仰として説いたがため に、信仰的原理において国家社会を相対化することに無知であり続けた。キリスト 教信仰は「人生修養」の具として意味あらしめられた。この信仰的無知こそは「五 族協和」を掲げた満州建国に始まり「大東亜共栄圏」に至る国家の夢想に身を投じ、
「信仰的義認」をなさしめたものにほかならず、「文明の徒」として生き続けたキリ スト者の痛ましき現実でもあった(『鳥居坂教会百年史』、268 ページ)。 また『京都 教会百年史』で述べられているように、キリスト教会はその信仰的立場ゆえにアプ リオリに人道主義、平和主義、民主主義といった西欧近代の諸価値を体現しており、
従ってこれを実現することができず、逆に信仰的に苦難に遭遇し、教会活動が制約 を受け、さらに教会自身が被害者であった、という認識について「これまで往々に して語られてきたキリスト教界の被害者意識は後日作られたものであることが明ら かになる」(『京都教会百年史』、524 ページ)という分析こそが、深く認識されるべ きである。
6 むすびにかえて
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1931 年以後 45 年の敗戦に至る時期の日本の教会の活動を、礼拝出席者数と受洗者 数の面から、そして各個教会で編纂された各個教会史に基づいて教会の日常的な活動 と、さらにこの時期に新たにキリスト教の信仰を表明した受洗者の信仰理解を検討し てきた。
以下、熊沢義宣のいう「制約された信教の自由下における伝道」の時代に、日本の キリスト教への入信が、どのような性格をもっていたかを検討する。
いくつかの側面が指摘できよう。
『戦時下のキリスト教運動−特高資料による』(全 3 巻、同志社大学人文科学研究 所キリスト教社会問題研究会編)に明らかなように、また土肥昭夫が指摘するように、
官憲は必ずしもキリスト教を信頼せず、憲兵や特高は 35 年以後キリスト教関係者の 動向を綿密に調査し、いつでも検挙する用意を整えていた12のは事実である。しかし キリスト教会の側では、国家からこのような目で見られ、監視されているという自覚 や認識はあまり見出されることはなく、自らは国家社会において存在意義のある宗教 としてのキリスト教、しかも文明国の宗教として自覚していた。ここで取り上げた日 本を代表する主要教派である日本基督教会、メソヂスト教会、組合教会の伝統に立つ 教会は、たとえば本稿ではふれないがホーリネス系諸教会と比較して、その神学の水 準において自負してきた諸教会であった。
それは基本的にはどの教派の教会に属するかを問わず、日本のキリスト教入信の過 程が、ある場合には家族や共同体からの訣別をも覚悟せざるを得ない事柄であるゆえ に、それは優れて個人の決断を伴い、個人の内省的な、それゆえに主観的、観念的、
道徳的な事柄としての「入信」であり、従って「罪」を垂直的な神との関係としては 理解しても、隣人へと広がるという意味における関係概念としては認識していなかっ たことが指摘できる。それは共同体としての「教会」概念の希薄さを生み、ひいては 社会、国家との関係において、預言者的な使命と課題を持つ教会、あるいは社会や国 家に対して執り成しの使命と課題を持つ教会という理解や認識が弱く、「罪」を隣人 との関係の中で問うていく意識が脆弱であった。
注
1 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』、新教出版社、1980 年、329 − 348 ページを参照の こと。
2 詳細は同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会『戦時下のキリスト教運動』1 − 3 巻、
新教出版社、1972 − 1973 年、を参照のこと。
3 この資料を用いて、教勢からみた日本基督教団の分析を試みたものに戒能信生「教勢から見た日本基 督教団の教勢分析」『アレテイア』日本基督教団出版局、2000 年、30 号、10 − 15 ページ、がある。
4 「統計に見る教勢推移」、『日本基督教団年鑑』、2001 年。
5 熊沢義宣「今日と明日の問題」『キリスト教年鑑』(1995 年)、キリスト新聞社、45 − 49 ページ。
6 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史論』、教文館、1987 年、44 ページ。
7 高知教会百年史編纂委員会『高知教会百年史』、1985 年。
8 鳥居坂教会百年史編纂委員会『鳥居坂教会百年史』、1987 年。
9 京都教会百年史編纂委員会『京都教会百年史』、1985 年。
10 飯清・府上征三編著『霊南坂教会 100 年史』、1979 年。
11 中山花子『1940 年代の霊南坂教会』(同志社大学大学院神学研究科、修士論文)1997 年、所収の
「1940 年代教勢表」、13 ページ。未刊。
12 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』、346 ページ。