賀川豊彦と同志社大学
著者 李 善惠
雑誌名 キリスト教社会問題研究
号 64
ページ 47‑79
発行年 2015‑12‑20
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014294
賀川豊彦と同志社大学
李 善 惠
はじめに
賀川豊彦(1888.7.10‑1960.4.23;以下、賀川)は、牧師として、社会運動 の先導者として、詩人として、小説家として、幅広い分野で活躍した人物であ る。その賀川が同志社大学で教員として勤めたことがある。この点については、
同志社大学人文科学研究所第4研究に(1)よる『賀川豊彦のキリスト教と協同組 合』として発行された著書の中に「同志社と賀川豊彦」という章があり、同志 社での特別講演、文学部教授時代、キリスト教社会問題研究会でのかかわりに 関する記録が記されている。これは2009年10月15日、「大学生協と賀川豊彦」
というテーマで、同志社大学で開催された賀川豊彦献身100周年記念講演会の 内容である。この記録に関しては筆者の博士論文で
(2)
言及しているものの、同志 社大学と賀川がどのようなかかわりがあったのか、その具体的な内容に関する 言及は不十分である。
日本の近代的な社会事業の先駆者と呼ばれる人々には、新島襄あるいは同志 社大学での学びに影響を受けたキリスト教者が多い。例えば、石井十次、(3)山室 軍平、留岡幸助などが取り上げられる。(4)このような背景を持つ同志社大学は、
1931年に社会事業学専攻を正式に設置した最初の大学と(5)なる。そしてその同志 社大学に賀川が教員として働くことになる。賀川の場合、神戸のスラム街の近 研究ノート
くにあった関西学院大学との交流が最も深かったといわれている。(6)しかし関西 学院大学で賀川が1950年代の理事以外で教員として勤めた記録は見当たらな い。(7)それと比較すると、賀川が同志社大学に教授として採用された事実は注目 するに値する。
本研究の目的は、賀川と同志社大学とのかかわりを探ることである。本稿で は、同志社大学で社会事業学科が設置された当時の状況や文学部神学科の教員 や学生との関係に焦点を絞って追究していく。研究の方法は文献研究である。
賀川と同志社大学との関係を詳しく調べるため、次の同志社大学の関連資料を 一次資料とする。すなわち『同志社九十年小史』と『同志社百年史』、そして 機関紙である『同志社評論』(1904.9.20-1904.10.15:第1号‑第2号) 『同 志社新聞』(1904.11.1‑1905:第3号‑第6号、改巻1号‑1905.12) 『同志社 時報』(1906.1.25‑1927.10.10:第16号‑第246号)、『同志社々報』(1929.12.25
‑現在:1944年あたりから用紙不足で休刊、1950.9復刊)、『同志社校友同窓會 報』(1926.9.15‑1936.3:第 1 号 ‑第104号) 『同 志 社 新 報』(1936.4.15‑
1944.5:第1号‑第90号、戦争のため発行中断、1949.5.15から『The Doshi- sha Times』に改称)、『同志社大學社會事業學會報』(1937.1.29)、『同志社大 學社会事業教育後援會報』(1941.12.10)、『同志社大學厚生學教育後援會』
(1942.7.25:1943.6.20;1943.12)である。なお本稿で取り上げる新聞及び雑 誌については、煩雑さを避けるため注に回さず、本文中に年月日を記す。その 他に報道機関が発行する新聞や『賀川豊彦全集』(8)も参考にする。
また本研究の範囲は、同志社大学の文学部神学科で初めて社会事業学専攻を 設置する案が出された1930年から賀川が在職した1939年までとする。そして本 稿で「社会事業」や「社会福祉」に関する用語を用いるときは当時の専攻名が 社会事業学であったため、「社会事業」という表現に統一させることにする。
Ⅰ 「文学部神学科社会事業学専攻」の設置
同志社大学では1931年4月から文学部神学科内に(9)3年課程の社会事業学専攻 が設けられた。竹内編によると、1931年に水崎基一と牧野虎次等が当時の総長 である大工原銀太郎に同志社大学が率先して社会事業の講座を開設してはどう かと提案した旨が記されている。(10)当時、『日出新聞』(1931.1.14)に載せられ た内容は次のようである。
社會改造に必要な專門技術家の養成
四月から社會事業學專攻科設置を同大から出願
近年頗る盛んになりつゝある社會運動は經濟的、政治的の方面と共に文 化、精神的運動を伴はねばならず、人格的社會關係の建設を目的とする必 要があるのて同志社大學では神學科に社會事業學専攻科を本年四月から開 設することに決定し文部省に出願中である、養成の目的は社會改造の專門 的技術家を作らんがためで、卒業の上は各府縣市の社會課、或は公私社會 事業に携はり、個人的に 動運動、協同組合運動に參加する人物、または 敎會を中心とする教化事業、或は社會指導者として與論の教育に任ずるも のを養成する目的で我國では珍らしい試みである、同科の專攻に必修科目 に社會學、社會事業原論、社會問題、經濟原論、倫理、哲學、統計憲法等 があり選択科目に哲學史、民法、政治文學史、敎育學、刑法、心理學等を 置くことになつてゐる。
同志社大学は社会運動を、経済的、政治的な運動であるとともに文化的、精 神的な運動であると示し、人格的社会関係の構築に力を入れようとした。特に 社会運動が精神的な運動でもあると強調した同志社大学が、社会改造の専門的 な技術家を養成する目的で神学科内に社会事業学専攻科を設置しとうとした点
は、日本では新たな試みであると評価された。学校側(『同志社校友同窓會 報』、1931.1.15)も、なぜ社会事業学専攻を設置した理由について、次のよう に記している。
社會事業學專攻新設
(前略)わが神學科に社會事業専攻を置くは蓋し、基督教信仰によりて 立つ人物にして、同時に社會改造の専門的技術家を養成せんためである。
さればこゝよりは、直接各府縣市の社會課に属し、或は公私の社會事業に 携る者も、個人的に 働運動、協同組合運動に参加する人物も、又は教會 を中心とする教化事業に携る人も、或は社會記者として與論の教育に任ず る者も將來輩出されるであらうが彼等が等しく右の目的に依るところのも のである。わが神學科はかゝる目的に向つて精進奮闘せんとする青年男女 學徒を 迎するものである。
上記の二つの記事を比較すると、どの分野で活躍する人材を養成するかとい う点は、同じ内容が書かれているが、日出新聞では「基督教信仰によりて立つ 人物の育成」という言葉が抜けている。それは世間においてまだ神学科に社会 事業学専攻を設けることの意味が理解されていなかったためであると考えられ る。さらにここで興味深い点は「社会改造の専門家」という言葉が、社会事業 の分野に限定せず行政を含めた各種の社会運動、教会、マスコミなど幅広い分 野で働く人々を指していることである。すなわち社会事業学専攻を設置した理 由によって、同志社大学が社会改造の専門家としてキリスト教信仰に基づいた 社会全般を担う人材を育成しようとしたことがわかる。なお当時の社会事業学 専攻の運営に関連する同志社大学の資料は、次の【表1】である。ここでは、
本研究の範囲のみを中心に整理する。
【表1】文学部神学科社会事業学専攻に関連する同志社理事会記録摘録(1930年〜1939年)
年月日 内 容
1930.12.6
(庶乙第一二号)
三.文学部神学科ニ社会事業専攻ヲ設置スルノ件
経費ヲ膨張セシメザルコト並ニ教員ノ人選ニ関シ特ニ意ヲ用ヒラレ タキ旨総長ニ希望シ神学科ノ内容ヲ充実セシムル案トシテ通過シタ リ.但小林理事ハ学部内容充実ヲ先ニシタキ外将来考慮ヲ要スル点 アルヲ以テ賛成シ難キ旨記録ニ止ムル事ニ決シタリ.
1932.3.27
(3月定時理事会)
追加 8.人事異動の件
*大学文学部助教授竹中勝男、法学部講師長谷部文雄氏を教授に昇任
1934.10.28
(第3回常務理事会)
7.大学生風災臨地救護の件
文学部神学科社会事業専攻学生有志12名が竹中主任教授引率のもと に6名ずつ交替で10月8〜17日まで大阪市に出張、大阪基督教社会 事業連盟(罹災者家族調査、港区水上隣保館)、大阪朝日新聞社社 会事業団(汐止大朝児童団設立及児童遊戯指導)、大阪毎日新聞社 社会事業部(此花区四貫島大毎児童遊園場指導、大毎鶴町託児所、
泉尾児童保護並に託児所)の救護事業に助力した.
1935.4.14
(第1回理事会)
懇談 2.神学科社会事業専攻教授候補養成の件-島田啓一郎を(11)キリ スト教社会学理論研究のためドイツに留学派遣、費用は本人・財団 より望月軍四郎に依頼。
1935.7.28
(第3回常務理事会)
追加 4.大学文学部竹中教授研究補助金受領の件-神学科竹中勝男 教授「本邦基督教社会事業史の資料的研究」(12)に対し財団法人啓明会 より3年間総額2250円。
1935.12.15
(第7回常務理事会) 報告 1.人事異動の件-12月1日、賀川豊彦、文学部客員教授 1936.3.29
(第10会常務理事会)
報告 11.校友山室軍平氏銅版出来の件-大丸に300円で製作を注文、
3月20日完成 1936.4.26
(第1回常務理事会)
議案 5.山室軍平氏肖像銅版掲揚場所決定の件-神学館二階東側壁 面南の部
1937.12.22
(臨時理事会)
議案 2.理事会選出理事-名および常務理事-名補欠選挙の件-理事 当選は牧野虎次、常務理事当選は吉田悦蔵。
1938.1.10
(1月臨時常務理事会) 報告 7.牧野虎次氏理事会選出理事就任受諾の件‑1月10日受諾 1938.2.1
(1月常務理事会) 報告 1.人事異動の件‑1月11日、牧野虎次、理事就任登記。
1938.6.12
(本年度第一回理事会記録) 議案 3.後任総長事務取扱に牧野虎次任命の件、満場一致決定 1938.7.21
(二十二 七月常務理事会報告) 1.人事 総長事務取扱 上谷續→牧野虎次 1938/7/4 1939.9.22
(三十 九月常務理事会) 1.人事 学長委託 牧野虎次 1938/9/1 1939.12.28
(二十 12月常務理事会)
報告 同志社大学社会事業教育後援会発会式 1939.11.12 大久保伯爵、大原孫三郎、大沢徳太郎ほか十数名発起 アーモスト館 70名参集
出典:『同志社理事会記録摘録』(13)より筆者作成
1931年において社会事業専攻を担当した教員は(14)竹中勝男((15)文学部助教授)と 牧野虎次((16)文学部嘱託講師)であり、学生は男学生6名と女学生1名であっ た。(17)【表2】は、「社会事業学専攻」が新設された当時の『同志社校友同窓會 報』(1931.1.15)や『同志社大學學則』(1931.5)に記されたカリキュラムで ある。
【表2】で見られる内容の違いは、当初構想されたカリキュラム(左の『同 志社校友同窓會報』)が正式に決定したカリキュラム(右の『同志社大學學 則』)とは異なっていることを意味する。【表3】は1931年の文学部の教員簿で あり、各教員の担当科目が以下のように示されている。表の中で、社会事業学 専攻を担当した教員は で示した。
【表2】1931年の社会事業学専攻のカリキュラム
『同志社校友同窓會報』 『同志社大學學則』
第 一課 程
必修 科目
社會學概論、社會事業原論、社會問題概 論、經濟原論、倫理學、舊約文學、哲學 概論、統計學、英書講義、獨書講義、佛 書講義
社會學概論、社會事業原論、社會問題概 論、經濟原論、倫理學、希伯來文學、新 約文學、哲學概論、英書講義、獨書講義、
佛書講義 選択
科目
西洋哲學史、敎會史、民法總則、政治學 史、宗教史、英文學史、印度哲學、教育 學
西洋哲學史、民法總則、政治學史、宗教 史、英文學史、印度哲學、教育學、統計 學
第 二 課程
必修 科目
社會學特殊講義、社會事業各論、社會事 業學演習、社會哲學、新約文學、基督教 思想史、憲法、英書講義、獨書講義、佛 書講義
社會學特殊講義、社會事業各論、教會史、
社會哲學、舊約研究、新約研究、教理史、
英書講義、獨書講義、佛書講義
選択 科目
西洋哲學史、西洋倫理學、東洋倫理學、
敎會史、刑法總則、會計學、新約研究、
舊約研究、聖書社會學、經濟學史
西洋哲學史、西洋倫理學、東洋倫理學、
憲法、刑法總論、會計學、聖書社會學、
經濟學史
第三 課 程
必修 科目
社會事業特殊講義、社會問題特殊講義、
社會事業演習並二實習、基督教社會哲學、
組織神學、社會誌學、宗教々育學、宗教 哲學
社會問題特殊講義、社會事業學演習並實 習、基督教社會哲學、組織神學、基督教 倫理學、宗教教育學、宗教哲學
選択 科目
基督教倫理學、日本倫理思想史、宗教々 育學、經濟事情、社會法規、法理學、心 理學特殊講義、神學演習
社會誌學、日本倫理思想史、宗教教育學、
經濟事情、社會法規、法理學、心理學特 殊講義、神學演習
出典:李善惠(2014:207)より修正、筆者作成。下線 は一方にしか記載のない科目である ことを示す。下線 はそのうちの一つを選択する科目であることを示す。
【表3】1931年の文学部の科目及び担当教員
科目 担当教員 科目 担当教員
倫理学概論、倫理学
演習 大塚節治 言語学概論 高畑彦次郎
(帰米中) エス・エス・ギュリ
ツク 英語発音学 柴山健三
旧約文学、新約釈義 イー・エス・カーブ 英文学 石田憲次
心理学、倫理学 和田琳熊 英文学 エドワード・クラ
ーク 組織神学、宗教史、
宗教哲学 蘆田慶治 中国文学 藤林廣超
宗教教育学、宗教心 理学
ビー・エフ・シャイ
ヴリー 日本倫理思想史 森下眞男
美学、独書講読、文
学概論 園 頼三 中国哲学、東洋倫理
学 佐藤廣治
ギリシャ語、旧約研
究、聖書神学 片桐 哲 哲学、哲学史 高坂正顕
教 授
心理学、宗教心理学、
教育学、教育史 本宮彌兵衛 西洋倫理学史 二宮源兵
新約文学、新約研究 富森京次 英文学 山本修二
哲学史、哲学概論、
独書講読 濱田與助 講
師
ギリシャ語、ラテン
語 田中秀央
英文学、英文学史 舟橋 雄 国文学 荒木良造
英文学、英作文 フランク・エル・ハ
ントリー 英文学 安藤勝一郎
英文学、英文学史 勝田孝興 社会学 難波紋吉
教会史、独書講読、
英書講読、教会史特 講
有賀鐵太郎 佛書講義 恒藤 恭
教会史、英書講読、
独書講読、神学演習 魚木忠一 教育学 秋葉貞二
助 教授
倫理学特講(キリス ト教社会 学)、英 語
講読、社会問題概論 竹中勝男 アメリカ文学、英作
文 吉岡義睦
牧会学 エス・シー・バトレ
ト 佛書講読 太宰施門
講
師 独書講読、哲学史 村岡景夫 社会事業各論 牧野虎次 インド哲学 羽渓了諦 ギリシャ語、英文作 神田盾夫
(休職) 波多野精一 助
手 平井政夫、谷口敏郎、山崎亨、
村井為太郎、上野直藏
出典:『同志社一 』(1931:71-72による筆者作成)、 は筆者
このように社会事業学専攻が設置された当初の専任教員は竹中のみであった にもかかわらず、神学部の全体的なカリキュラムは充実していた。特に竹中は 社会事業学専攻の学生だけではなく、神学部の学生とともに社会事業の見学を 行うほど社会事業の教育に積極的であった。(18)また1932年からは海野幸徳((19)文学 部嘱託講師、龍谷大学の文学部教授)が、また1933年からは大林宗嗣(
(20)
文学部 嘱託講師)が教員として加わった。(21)そして1935年からは竹内愛二が(22)文学部嘱託 講師として社会問題特講の担当となり、社会事業学専攻の第2期生であった嶋 田は助手として1938年から基督教社会学の担当となった。そして1936年からは
「協同組合」という講座が正式に開設され、賀川がその科目の担当教員として 着任した。(23)当時の状況について、『同志社新報』(1936.7.15)には次のように 掲載されている。
本位田博士 講演會
大學文學部神學科の社會事業專攻科では本年4月から、新たに「協同組 合」の講座を開設したがのであるが、その記念のため斯學の權威である東 大教授法學博士本位田教授を聘して、六月十五日午後三時から神學館講堂 でその「協同組合運動と社會進 」と題する講演があつたが聴講者滿員。
それでは、当時のカリキュラムはどのようなものであっただろう。次の【表 4】は1937年の『同志社大學社會事業學會報』(1937.1.29)と『同志社大學學 則』(1937.4)に載せられたカリキュラムである。
上の【表4】に示されたものの中で賀川と関連することは以下のことである。
まず『同志社大學社會事業學會報』では、第2課程の必修科目の中で、「協同 組合論」という科目が明記されているものの、『同志社大學學則』においては その科目名は見当たらない。しかし、1937年の『同志社職員録』には「協同組 合論」の担当教授として賀川の名の記載がある。このことから賀川が教鞭をと っていたことは推察されるものの、実際にどのような科目名で授業を行ってい たのかは疑問が残る。
次に同志社大学での社会事業の教育全体についてみてみると、社会事業学専 攻の教員である竹中は、キリスト教社会学、社会問題概論、独書講義、英語講 義、社会事業演習、卒業論文指導など、以前より担当科目が増えており、社会
【表4】1937年の社会事業学専攻のカリキュラム
『同志社大學社會事業學會報』 『同志社大學學則』
第 一 課程
必修 科目
社會學概論、社會問題、社會事業原論、
憲法、民法總則、經濟原論、新約文學、
敎會史、神學通論、哲學概論、外國書講 義
西洋倫概學、社會學概論、社會事業原論、
社會問題、哲學概論、希伯來文學、 神 學通論、憲法、民法總則、英書講義、獨 書講義、佛書講義
選択 科目
倫理學概論、東洋倫理學、西洋哲學史、
教育學、宗教史、刑法總論、統計學、英 文學史
倫理學概論、東洋倫理學、教育學、西洋 哲學史、宗教史、刑法總論、統計學、英 文學史
第二 課 程
必修 科目
社會學特講、社會事業史、社會事業各論、
社會政策、協同組合論、社會哲學、基督 教社會學、舊約文學、外國書講義
基督教倫理學、社會學特殊講義、社會事 業各論、社會政策、社會哲學、新約文學、
教會史又ハ教概史、經濟原論、英書講義、
獨書講義、佛書講義 選択
科目
行政法總論、會計學、社會倫理學、基督 教思想史、新舊約特講
社會倫理學、聖書社會學、社會事業史、
舊約研究、新約研究、行政法概論、會計 學
第 三 課程
必修 科目
社會事業特講、社會事業演習、社會事業 實習、社會問題特講、社會敎育學、基督 敎倫理學、日本倫理思想史
日本倫理思想史、基督教社會學、社會事 業特殊講義、社會問題特殊講義、社會敎 育學、組織神學又ハ宗教哲學、社會事業 學演習及實習、經濟政策
選択 科目
行政法各論、法理學、經濟事情、心理學 特講、宗敎敎育學、經濟學史、政治學史、
民法親族相續法、社會心理學、神學演習
社會誌學、社會法規、宗敎々育學、心理 學特殊講義、神學演習、法理學、行政法 各論、經濟事情、經濟學史、政治學史、
民法親族法及相續法
出典:李善惠(2014:207)より修正、筆者作成。下線 は一方にしか記載のない科目である ことを示す。下線 はそのうちの一つを選択する科目であることを示す。
事業実習は牧野、社会事業特講や社会教育は大林、社会事業原論や各論は海野、
社会問題特講は濱田と竹内に分担されている。
当時の同志社大学の「社會事業教育」について、大塚は次のように記してい る。(24)
社會事業は既に今日國家の重要なる職能の一つとなり、 なる常識や技 術の域を脱して、一つの科學的組織的建設を必要としつゝある。之が眞正 の發達にはどこまでも之が學術的科學的研究の進歩が伴はなければならな い。本學は既に本邦社會事業の發達に重要なる開拓的人物を出したのであ るが、今後もこの方面に信仰あり見識あり準備ある人物を送り出す事を念 願せるものである。基督教信仰と開拓的研究的熱心とは、同志社が我國社 會事業界に送り出す人物の特色たらしめたいと期せるところのものである。
(『同志社大學社會事業學會報』、1937.1.29)
このように1931年の社会事業専攻の設置理由は、1937年においても変更され ずに維持されており、信仰と開拓的研究的熱心とが同志社大学の社会事業教育 の特性であると明確に述べられている。これについては中島も次のように述べ ている。(25)
社會的實 は決して信仰を抜きにして出來るものでなく、信仰は實 を 外にして其の價値を發揮することは出來ない、神學思想が如何やうに變遷 しやうと、社會事業のテクニークが如何やうに進歩しやうと、此等の兩者 の關係は、いつまでも變るものではない。(『同志社大學社會事業學會報』、 1937.1.29)
このことから、同志社大学での社会事業の教育は、キリスト教信仰と社会的 な実践との均衡をとることを目指していたといえよう。特に信仰という価値基
盤の上で社会事業の技術を発揮することが社会的な実践の実行に結びつくので ある。
その他に、社会事業学専攻が設置された以降の1932年4月15日には「同志社 大学社会事業学会」(26)が、 1939年11月12日には「同志社大学社会事業教育後援 会」
(27)
が発足した。
(28)
なお社会事業学会については、それがいつ初めて行われたの かに関する資料は見当たらないが、『中外日報』(1939.10.16)(29)によると、第2 回の社会事業学会は1939年10月16日午後3時より「精神薄弱児童保護問題に関 する一私見」(白川学園の脇田悦三)と題し、神学館第8号室で行われたこと がわかる。
Ⅱ 賀川と同志社大学
同志社大学で1919年から1928年の間、賀川によって10回の課外講演(特別講 演)が行われた。(30)特に注目すべきことは1925年に賀川が同志社大学で「百万人 救霊運動」(後に、神の国運動)の一環として大伝道集会を開いたことを(31)契機 として、1925年11月19日同志社大学に「雲の柱会」なる研究会的な一組織が中 島重を中心にして結成されたことである。(32)そしてこの「雲の柱会」は研究会の 回数を重ねていくうちに、研究のみではなく実践面にも力を入れる新たな団体 が誕生した。それが1927年の「同志社労働者ミッション」
(33)
(後に、1929年に日 本労働者ミッションと変更)である。(34)つまり1920年代の同志社大学内では、こ の二つの組織において賀川に対する認知度が最も高かったと示している。それ では1930年代においてはどうだったのだろうか。
1 講演
『同志社校友同窓會報』(1933.3.15)によると、1933年1月17日、18日の両
日に専門学校の神学部の主催で、神学館にて「社會事業ニ於ケル共働組合」と いうタイトルで賀川による神学科社会事業専攻の特殊講義が行われた。また
『同志社々報』(1934.2.15)によると、1933年12月8日午後1時からも文学部 社会事業専攻の学生のため、賀川による特別講演を行われた。しかし残念なが ら両講義や講演の具体的な内容は不明である。
嶋田は1935年に賀川が同志社大学で信仰と兄弟愛による社会改造理論の連続 講演を行い、その内容は1936年3月から4回にわたって『雲の柱』に「キリス ト教兄弟愛と経済改造」というタイトルで掲載されたと記している。
(35)
1935年の 賀川の活動の軌跡を『身辺雑記』から辿ると、「十月二十二日、私は京都同志 社の講義に行つた」という記録が残されている。(36)これはおそらく嶋田が言及し た講演のことを指していると考えられる。しかし残念ながらこちらも具体的な 内容や日程は見当たらない。
また海外の伝道活動を終え、1936年10月12日に帰国予定であった賀川に(37)関す る記事には次のようなものがある。
賀川氏の 朝を待ち 京阪神に大獅子吼 基督國民純潔同盟
(前略)二十三日午前十時大阪中央公會堂において名出00の司會で懇 談會、午後一時から大阪純潔同盟杉山元治郎氏の司會にて協 會、田川大 吉郎、尾島二郎、賀川豊彦の諸氏の講演、終つて午後七時から會場を神戸 靑年會に移し右三氏の大講演會を催す。
なほ二十四日夜は京都同志社榮光館において田川大吉郎、杉山元治郎、
賀川豊彦諸氏の純潔講演會をひらく豫定である(『中外日報』、1936.10.10、
00‑筆者、判読不可)。
帰国する前日の『中外日報』には、翌月23日と24日の基督国民純潔同盟主催 のプログラム、特に賀川の講演会の予定が掲載されている。これは賀川の活動 に対する関心が高かったことを示している。
賀川は帰国して間もない1936年11月5日、6日両日に同志社大学で講演会を 行った。それに関する内容は次のようなものである。
感激あふるゝ 講−演−會
賀川豊彦氏は去る十一月五日 朝後始めて同志社を訪れ、同日午後三時 より女子部榮光舘に於て女生徒の爲め講演。更に翌六日午後七時より同じ く榮光舘に於て同志社主催により一般のため「世界の情勢と基督教の進 路」と題して熱辯をふるひ 衆に多大の感動を與へた。次で二十五日より 二十七日至る三日間、同志社大學文學部神學科(社會事業專攻)に於て午 後一時より三時迄協同組合講座のため三回に亘つて講義した。因に氏は昨 年十二月以來同志社大學文學部神學科教授として協同組合の講座を持つて ゐる。(『同志社新報』、1936.12.15)
11月5日、6日の講演会は、賀川の全国的な協働伝道の活動の一環であった
(『中外日報』、1936.8.27)。そして上記の「感激あふるゝ」というタイトルか ら、当時の雰囲気が感じられる。また11月25日から三日間、午後1時から3時 まで行われた「協同組合講座」は、集中講義型であったのではないかと考えら れる。なぜなら『同志社大學職員及學生名簿』(1936)において、文学部の客 員教授であった賀川の住所が「東京市世田谷區北澤町」と記されているからで ある。当時賀川は西宮と東京の両方に住んでいたという証言もあるが(38)、1936年 の賀川の活動の軌跡を辿ると、忙しい日程の合間を縫って行った講座であった ことがわかる。この点については次の教歴の内容でさらに詳しく取り上げる。
なお当時の賀川の活動について「集会は何処もよかつた。殊に京都などでは数 名の大学生が、泣きながら私の手を握つた」という記録もある。(39)詳細な日程が 示されていないが、11月に行われた賀川の講演または講座に参加した大学生の 反応を記述したものであろう。また1937年の賀川の講演会は次のものである。
同志社敎會の六十周年記念 賀川氏講演
同志社敎會では創立六十周年を迎へ、今二十日午後三時より同志社公會 堂、午後七時より同志社榮光舘の二回、賀川豐彦氏の大講演會を開催する。
(『中外日報』、1937.1.20)
このように主催、対象、講演の目的及び内容が異なっているが、京都での賀 川の活動は主に同志社大学での講演が中心であったといえよう。
2 教歴
【表1】の『同志社理事会記録摘録』によると、賀川が担当した科目は不明 であるが、1935年12月1日から文学部の客員教授として採用された。『同志社新 報』(1936.12.15)
(40)
によると賀川が協同組合の講座を担当するためであった。
しかし、賀川は客員教授になった直後、1935年12月5日から1936年10月12日ま で約10ヶ月の間に欧米に渡っている。したがってなぜこの時点で客員教授にな ったのは疑問である。それにもかかわらず賀川は1937年から1939年の間は教授 として「協同組合論」を担当している。(41)当時、賀川の活動について次のように 掲載されている。
賀川豊彦氏同大教授に
既報の如く賀川氏は 米旅行より 朝以來席のあたたまるいとまもなく 各地へ講演して居るが去る六日同志社大學に熱辯を揮つたが、これを機會 に同志社大學社會事業學科の特任教授として「共同組合」に就いて講座を 持ち目下時間割を按配中であると。(『中外日報』、1936.11.10)
上記の記事から11月6日に同志社大学で開かれた「世界の情勢と基督教の進 路」の賀川の講演の様子が伝わってくる。(42)1936年1月から10ヶ月の間アメリカ を含めた欧州15カ国を訪れてまわっていたた
(43)
め、11月6日の講演が賀川の客員 教授として初めての職務だったと思われる。そして11月25日から開講される講 義を契機に、翌1937年から同志社大学で正式に「協同組合論」を担当すること になったと考えられる。なお当時の同志社大学の雰囲気について大塚は次のよ うに記述している。(44)
講座に關して本學年より新に協同組合論が設けられ、賀川豊彦先生が客 員教授として毎學期來學講義を 續されつゝ(中略)又賀川氏の寄贈によ つて協同組合に關する文献をも集蒐されつゝある。
上記から1937年に「協同組合論」が新たに設置されたこと、またそれを担当 する教員が賀川であったことがわかる。ただし大塚が賀川を客員教授として記 しているにもかかわらず、1937年の『同志社職員録』では「教授」として記載 されており、その理由は不明である。しかし同志社大学文学部の神学科の社会 事業学専攻は、賀川を教授として迎えたことで、神学科の中で協同組合に関す る文献を寄せ集めたことや毎学期に協同組合の講座を設けようとしたことがわ かる。また1938年からの「協同組合論」では、賀川のほかに山室も担当するこ とになった。(45)なお賀川が1935年から1939年まで同志社大学に教員として在籍し た頃の活動をまとめたのが次の【表5】である。
【表5】1935年〜1939年の賀川の同志社大学内外の活動
年 月日 同志社大学内の活動 同志社大学外の活動
1935 12.1 文学部客員教授
12.5 米国基督連盟の招きで米国復興運動、
協同組合運動指導および欧州の国民保 険制度等の視察(〜1936.10.12まで、
42週間に500回の講演、15ヶ国:毎日 新聞1936.10.13)
1936 6.30 ニューヨーク出発
7.8 ノルウェー、オスローで開催の世界日
曜学校連盟大会
10.13 午後5時30分 歓迎会と感謝祈禱会
(東京キリスト教青年会にて)
10.14 全国的の協同伝道(東京青山会館の講
演会)
夜 帰朝談を聴く会(松沢教会にて)
10.19 大阪社事聯盟主催 午後 国民健康を
聴く 10.23
〜24
基督国民純潔同盟主催の講演
(24.同志社栄光館にて)
(23.大阪中央公会堂にて)
10.25 全国的の協同伝道
横浜の講演会
10.26 全国的の協同伝道
名古屋の講演会 11.5
〜6
同志社大学での講演(全国的な協同伝 道の活動の一環、女生徒のため、
「世界の情勢と基督教の進路」と題 し)
11.23
〜24
24 日夜―同志社大学栄光館(純潔講 演会)
基督国民純潔同盟主催の講演会 23日午前10時―大阪中央公会堂(懇談
会)
午後1時―大阪中央公会堂(講演 会)
午後7時―神戸青年会(講演会)
11.25
〜27
同志社大学神学部社会事業専攻の協同 組合講座
12.4 東京オラトリオ協会第十六回定期演奏
会で「バッハとシュワイルアー」と題 し講演
1937 1.19 基教各派教役者との座談会(午後4時
から約30名の各派教役者と洛陽教会に て)
1.20 精神談話(高等商業学校にて「近代科 学と基督教」)
以上をまとめると、賀川は、記録上は1935年12月1日から1939年まで「協同 組合」を担当する教員であったが、実際に講義を受けもったのはこの期間の一
精神談話(中学にて「善人になれ」)
同志社教会60周年記念の講演会 午後3時:同志社公会堂「近代科学
と宗教問題」
午後7時:同志社栄光館「現代文明 と宗教」
6.26 フルーベル幼稚園創始百年記念祭に
「フルーベルの宗教精神」を講演
8.9 高山郁平と八ヶ獄に登る
9 「星座カルタ」を考案発表
10.21 午前10時私邸に近衛首相を訪問要談を
遂げ、同10時半離去した
1938 2.19 午後6時30分‑10時 日米親善国民大 会(日比谷公会堂にて)
5.23 満州伝道のため深田種嗣とうすりい丸
で神戸出発
6.5 新京協和会本部で甘柏正彦、武藤富男
らと座談(〜6.20まで、朝鮮経由で 21日午後3時20分に下関上陸)
7.5 神戸水害の救援に向う
11.15 印度マドラスにおける世界宣教大会に
講師として日本代表21名(中外日報 1939.1.18では23名)と共に伏見丸 で門司より出発(〜1939.3.18まで、
神戸上陸)
1939 1.14 ボドリーでネール及ガンヂーと会見
1.19 チャンドラ・ボスと会見
2.2 ラクナウでスタンレー・ジョンズのア
シュラムに参加 7.28
〜31
イエスの友会創立20年・新川伝道30年 記念修養会大会
8.12 長男純基と日本アルブス登山
11.3 青山学院の基督教連合信徒大会で一万
人の聴衆に「十字架の勝利」と題し講 演
11.7 朝鮮伝道のため下関出発(〜11.24.
帰国)
出典:『全集24』:605-609;『東京朝日新聞』1936.10.11;1937.10.22;1938.2.20;1938.6.22;
1939.3.19;『大阪毎日新聞』1936.10.13;『中外日報』1936.8.27;1936.10.8;1936.10.10;
1937.1.20;1939.1.18;『同志社々報』1937.1.16より筆者作成、 ‑筆者
部であったと考えられる。その背景は賀川がキリスト教界のことで長い海外出 張をしていたことが挙げられる。なお1937年7月7日は盧溝橋事件がきっかけ で日中戦争(支那事変)が始まった時期でもあった。この時、賀川は一ヶ月間 満州伝道を行っている。すなわち教員としてのアイデンティティよりキリスト 教伝道者としてのそれが強かったと推測されよう。しかしその賀川が1945年か ら再び同志社大学の教授となったとされている。(46)ただし、賀川が教授職にあっ たことを示す同志社大学側の資料は現時点で見当たらない。
3 賀川と関わった同志社大学の人物たち
(1)牧野虎次(1871.7.3‑1964.2.1)
滋賀県出身である牧野は1892年に同志社英学校を卒業した後、北海道集治監 十勝分監の教誨師(1895.3‑1895.11.26)になった。その後アメリカに留学し、
1902年5月にイェール大学の神学科を卒業した。内務省嘱託や満鉄社会課長か ら大阪府嘱託の勤めを終え、1933年に第2代の家庭学校校長兼理事長(1933.5
‑1939.1)となった。1938年8月23日以降には同志社大学学長となり、1939年 11月12日には同志社大学社会事業学教育後援会(後に、厚生学教育後援会)の 理事になった。さらに1941年7月7日に第11代の同志社大学の総長(就任式11 月29日)になった(1947年3月まで)(47)。
その牧野は、賀川とどのようなかかわりがあったのか。次は賀川に関する牧 野の思い出の文章である。(48)
新川での一夜
私は賀川先生より二十才程も年上であったが、先生が新川部落で十余年 間 死線を越えて の生活をなされて居られた当初より親しくして頂いた。
先生のお招きで、或は夏の日の夕方、部落の入口にある講義所兼診療所に 出かけて伝道集会を開いたことがあった。
その夜私は先生のお部屋に同宿するつもりであったが先生は「君は特別 待遇だ」と仰せられ階上の診療室に案内せられた。診察台の上に洗濯した ての大きなシーツを二枚重ねてその中に入って寝よとのことであったが床 に入って1時間も経たぬうちに私の身体中チクチクと刺すものがあり、起 き上ってスイッチを入れた処、白いシーツの上にまるで黒胡麻をまき散ら した如く南京虫が四方に散乱するのを見て私は思わずゾーッとした。これ では再び床に就く気もなれず、診療台を下りて窓際から下を見下すと、こ れまた驚きに息の根の止まる思いがした。(中略)先生こそ主なるキリス トと共に 人々の悩みを負う 悲しみの僕であられたと思う。
上記の文章は、元同志社大学の総長であった牧野が賀川こそキリストととも に歩んできた人物であると評価したものであり、賀川が没した後に賀川との思 い出を記したものである。牧野にとってスラム街での一夜は忘れられない体験 であり、その体験によって彼は賀川の活動の困難さを身に染みて感じた。賀川 よりも牧野のほうが17歳も年長であるにもかかわらず、牧野の賀川に対する尊 敬心が強く感じられる。賀川と牧野が出会った経緯を明らかにする資料は発見 されていないが、賀川の神戸における活動の当初から二人の関係があったと考 えられる。その根拠が農民福音学校の運営にある。次は農民福音学校の募集広 告に載せられた文である。(49)
農民福音學校の創設
一月十九日、日本農村ミッションが杉山元治郎、賀川豊彦、矢部喜好、
吉田源治郎氏等によつて創立され、その第一着手として農民福音學校を二 月十一日より開校する運びとなつた。
同校は日本農村の宗教的改造及び建設を目的とし、毎年農閑期に一ヶ月 間に回つて開校する。
校長 杉山元治郎 教務主任 吉田源治郎
講師 賀川豊彦、牧野虎次、村島 之、杉山元治郎、吉田源治郎ほか科 外講師十數人
教授科目 聖書、農村社會學、經濟學一般、キリスト教史、社會事業、
兄弟愛史、農學通論、農村經濟學、農村實習
募集人員 十人限 但し農村青年に限る。食事半額補助あり 申込受付 二月五日限り
申込所 兵庫縣瓦木村高木東口 賀川豊彦氏方 農民福音學校 校舎
農民福音学校の第1期生を募集する広告に牧野の名前が取り上げられている のは、長く親しい付き合いによるものと考えられる。つまり賀川と牧野との関 係は深いものであったといえよう。
(2)竹中勝男(1898.7.27‑1959.1.26)
長崎県出身の竹中は1921年同志社大学神学部を卒業した後、1923年にシカゴ 大学、また1924年にローチェスター大学を卒業し、その後、東京大学大学院で 学んだ。1929年から同志社大学文学部の講師に就任し、1931年に助教授、1932 年には教授となった。主として社会政策、社会事業研究、社会問題などの講座 を担当していた。1953年には参議院議員選挙に立候補するため同志社大学教授 を辞した。(50)
竹中と共に賀川は、スラッドの書籍を翻訳し「序」で次のように述べてい る。(51)
原著者は、私が會ふことを得なかつた尊敬する英國の友人の一人である。
(中略)ステッド氏は英國の 動組合の爲めに、また英國の老人幼年工の ために、随分盡した人物である。彼は彼の著作の凡ての飜譯權を私に呉れ た。私は彼の思想の凡てに共鳴するものではない。(中略)まことに相似 たる處がある爲、私は竹中 男氏と共に、彼の Stories of Social Chris- tianity ち此處に私が「キリスト教社會愛史」と呼ぶ處のものの飜譯に 手を着けた。この譯文に主なる努力を拂はれたのは、竹中 男氏である。
私はその校正を見せて貰つたにしか過ぎない。然し、飜譯を竹中氏に依 したものは私であり、この飜譯に對して責任があるのも、また私である。
上記は賀川が1930年3月29日に記したもので、この著書の翻訳に至るまでの 経緯が記されている。竹中の翻訳作業がいつから始まったのかについての記述 は見当たらないが、出版まで賀川が関与していたのは確実であろう。その後 1937年にも竹中は賀川の翻訳に関与していた。それに関する記述に次のような ものがある。(52)
第七十三議会に出る、国民健康保険組合問題や、其の他保険組合の問題 の参考にもならうと思つて、バルウの「協同組合保険論」を総掛りで飜譯 した。主として、山崎勉治氏、熱田俊貞氏が努力せられた。然し、又、同 志社大学の竹中 男教授並びに島田講師の助力をも得た。この書物は世界 でたつた一冊しかない、協同組合保険通論の本で、協同組合の保険政策を 通して社会事業を行はんとする者は是非読まなければならぬ書物である。
竹中と賀川が共同で行った活動に関する記事には、翻訳のほかには次のよう なものが残されている。
同大文學部神學科の社會事業専攻科の主任として、またその生みの親で もある竹中 男教授は社會事業に關する研究に於ては、學的には東の賀川 豐彦氏と共に なる基督教社會事業のみならず、廣く社會事業の學的指導 者として認められ、またその未來への多くの嘱望を つてゐる(『中外日 報』、1937.9.2)
親鸞の出來損ひ
…と自 の賀川豐彦氏 昨日來社、心境を語る
賀川豐彦氏は同志社大學敎授として去四月の新學期から 共同組合講 座 という他大學にも珍らしい講座を 當し頃日來入洛中であつたが、昨 三十日午前、同氏は同大學敎授竹中 男、事業部長奥村龍三兩氏と共に來 社(中略) 私が共同組合の講座をもつたのも後嗣ぎをつくりたいためで す(後略)(『中外日報』、1937.10.1)
華嚴經と聖書があれば此の世は充分だ
‑賀川豐彦氏本社で語る
忙がしい京都の講演の間をさいてわざわざ竹中同志社大學教授と共に十 一日午後本社を訪れた(後略)(『中外日報』、1939.5.13)
以上の記述によって賀川と竹中が一緒に何回も中外日報社を訪れたことがわ かるが、残念ながらこの二人の関係についての具体的な内容は見当たらない。
(3)有賀鉄太郎(1899.4.1‑1977.5.25)
神学科の教授であった有賀に(53)は、在外研究中に(54)賀川の名声を改めて認識する 機会があった。その点について次のように述べている。
全米に溢れる賀川氏の凄い人氣 反省すべき文化外交陣
有賀同大教授の 朝談
(前略)
今度の留學中一番私に印象深かつたのは全米における我が賀川豐彦氏の 素晴らしい好評でした、ニューヨークで氏の 迎晩餐會を催した時など約 二千名近くの各方面の各土が氏を迎へること丁度國賓以上の 迎振りで氏 の姿が見れるや二千の大衆總立ちになる等全く同胞としての吾々の嬉しさ は言葉で云ふことが出來ぬ位でした。(『中外日報』、1936.8.26)
有賀は、1935年4月から渡欧各地を巡歴し、同年9月以降はジェームス・マ ンフォルト氏に師事してニューヨークのユニオン神学校で教会史や教理史の研 究を続けた人物である。そのちょうど同時期に賀川はアメリカで伝道活動
(1935.12.5‑1936.6.30)(55)をしており、予想以上に大きな人気を博 し て い た
(『中外日報』、1936.8.27;1936.12.5)。このため有賀は当時のアメリカの雰囲 気を実際に感じたと考えられる。なお有賀と賀川の二人の関係に関する研究に ついては今後の課題とする。帰国後してからの有賀は自らの所属する大学で賀 川が教授、しかも神学科の教授になっていることを知って大変驚いたと推測さ れる。
(4)嶋田啓一郎(1909.12.5‑2003.9.24)
石川県出身である嶋田は、賀川から同志社大学神学科でキリスト教を学問す ることを勧められたため躊躇なく進学し、1935年に同志社大学文学部神学科を 卒業した。(56)『同志社職員録』によると、1935年から助手として、1939年から講 師として、1940年から助教授として同志社大学に所属していた。(57)1938年から担
当科目名は「基督教社会学」であった。しかし1940年と1941年の『同志社大學 職員及學生名簿』によれば嶋田は講師ではなく助手となっている。この点につ いては嶋田は神学科を卒業後まもなく肺結核の病に倒れ、その後約7年半の臥 床の生活を過ごしていたことによると考えられる。その際、彼の見舞いにきて くれた人が賀川で、賀川が嶋田に生きる勇気と希望を与えたという話がある。
また協同組合運動への参加と社会福祉の研究を開始したのも賀川の影響であっ たといわれている。(58)定年を迎えるまで、キリスト教主義教育に基づいた人権重 視の「社会福祉論」、「生活協同組合論」、「キリスト教社会倫理」などを教えた。
その他には1930年代のものではないが、賀川と密接に関わった人物に中島重
(1888.5.3‑1946.5.29)がいる。中島は1925年11月9日、10日の賀川の講演に 深い理論的確信と実践的な示唆を強く受けた後(59)、「雲の柱会」や「同志社労働 者ミッション」を創立した。しかしながら1929年5月19日の同志社学校内紛争(60) により同志社大学の教授の任を退き、1930年4月に関西学院大学教授に就任す ることになった。しかし中島はその後も同志社の社会事業教育に関して『同志 社大學社會事業學會報』(1937.1.29)に原稿を載せるなど、同志社大学と賀川 とも交流があったと考えられる。後に中島は1946年4月に同志社大学法学部教 授として再就任するが、同年5月29日に逝去した。
おわりに
(考察及び今後の課題)以上、1931年の同志社大学文学部神学科社会事業学専攻設置の経緯やカリキ ュラムの内容、また当時の状況を検討した。本稿は賀川と同志社大学とのかか わりの中で、賀川が同志社大学でどのように活動したのかを述べた。そこで明 らかになった事柄を三点にまとめる。
一点目に明らかになったことは、講演会のゲストスピーカー時代から教授の
時代に至るまで賀川が教員や学生に大きな影響を及ぼしたことである。賀川は 神戸のスラム街での活動を始めてから10年目の1919年に同志社大学で講演(注 (30)を参照)を行った。その詳細な内容に関する資料についてはまだ発見され ていないものの、講演以降彼の同志社大学とのかかわりが始まった。そのなか でも、16年目に客員教授となったことは大きな意味を持つと考えられる。賀川 から影響を受けた学生の中に、同志社労働者ミッションのメンバーであった佐 野秀雄がいる。彼自身の心境が次のように掲載されている。
昨夏上海へ賀川氏に伴はれて傳道に行つたとき氏より農村傳道の事を進 められ又後に杉山元治郎氏に會つたときも是非やる様に進められました。
その後兵庫縣の北條に元農商務省の種畜場跡三十二町歩程の土地が賀川さ んの手に入りそこで傳道するやうにしきりすゝめられなり、そこへ私が行 く事になつたのです(後略)。(『同志社新聞』、1928.3.1)
兵庫県の北條で農村伝道に始めることになった佐野は、賀川の援助の下で農 民学校の建設のためにも努力し、伝道と技術方面とに働きたいと語った。そし て、教員の中にはすでに述べた中島重と嶋田啓一郎がいた。
二点目に明らかになったことは以下である。賀川は、世界を互いに支えあう 社会へと変革することを目指し、そのために必要な後継者の育成を同志社大学 で行った。賀川が後継者の育成として協同組合を教えていた事実が『中外日 報』(1937.10.1)にも記されている。しかし賀川は同志社大学の出身ではない にもかかわらずなぜ同志社大学で教鞭をとったのか。その経緯に関する資料は 見当たらない。しかし、同志社大学に対する賀川の思いは次の記事の中から読 み取れる。(61)
同志社の存在はユニークである新島先生が愛国の熱情も燃えて大學の基
礎を据えられたのも非常に意味が深いと思ふ。(中略)こゝに科學と、信 仰と、宇宙と人生と、大學と宗教生活が完全に調和すると思ふ。新島襄先 生が、偉大なる科學人であつたに拘らず、又秀れた信仰人であつたことは 斯うした理由から來てゐると私は思ふ。(中略)この理想を持つて宇宙を 研究してこそ宇宙は生々したものとして我々にその姿を啓示してくれる同 志社大學の存在はそこに深い意義を持つ。私は日本における最も古いキリ スト教大學としての同志社に一大關心を持つと共に是非この大學を、今の 形の法文科的方面ばかりでなく、自然科學をも包有したる眞の大學組織に して貰ひたいと思ふ。
賀川はここで同志社大学創立当時の新島の意志に対する理解を示すに留まる ことなく、今後どのように進んでいけばいいのかという点のアドバイスまでし ている。例えば当時湯浅総長の専攻が生物学であった。賀川は彼に自然科学に おける生物学の積極的な研究を勧めている。賀川は同志社大学の教育分野の方 向性について強く訴えていたのである。そのような賀川が1935年から1939年ま で「協同組合論」を担当していたのはなぜだろうか。彼は単に経済成長だけを 目指すのではなく、互いに支えあう世界をも目指していたのである。
三点目に明らかになったことは資料の不足である。賀川がどのような人物に どのような影響を実際与えたのか、その詳細を本稿は十分に明らかにできなか った。賀川が約4年間、同志社大学で教員として勤務していたにもかかわらず 同志社大学内の資料は乏しい。その理由としては学内の活動が集中講義型であ ったと考えられる。1920年代には講演会を通して強い影響を受けた中島を中心 に「雲の柱会」や「同志社労働者ミッション」が組織された。一方、1930年代 にそのような活動は、残念ながら見当たらない。
今後は、竹内愛二、大林宗嗣、海野幸徳など、同時期に同志社大学教員であ った人々と賀川との関係についての探究を今後の課題とする。また教員だけで
はなく、賀川から影響を受けた学生が(62)誰なのか、またその学生がどのような生 き方をしたのかという点の探究についても今後の課題とする。
また長老派の牧師である賀川が、なぜ会衆派である同志社大学で活発的に活 動したのかという点は興味深い。おそらくキリスト教派の中で、1919年に初め て組合教会が社会問題の取り扱いを目的とした社会部を設けたことと
(63)
関連して いるからであろう。そのため同志社大学が賀川に講演会を依頼するほど、すで に賀川の活動に関する理解は十分あったと考えられる。この二つの関係につい ても今後の課題とする。
最後にキリスト教の強い信仰と最高の科学的認識・技術とを結びつけるとい う目的をもって設置された社会事業学専攻は80年を経た今、何を目指している のかという問いを提起しておきたい。特にキリスト教の信仰に基づいて社会へ の責任を果たそうとした創始期の社会事業学が今日に至るまでどのように変遷 したのかという点など、社会福祉学科のあり方について探究することを今後の 課題とする。
謝辞
本論稿の執筆にあたり、同志社大学社史資料センターよりスクラップブック を始め同志社大学関連の貴重な資料の閲覧など、多くの情報を提供していただ きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
注
(1)同志社大学人文科学研究所第4研究「同志社と賀川豊彦」『賀川豊彦のキリスト 教と協同組合』2010年、67‑72頁。
(2)李 善惠「賀川豊彦の社会福祉実践・思想が韓国に及ぼした影響に関する研究」
同志社大学大学院社会学研究科社会福祉学専攻博士論文、2014年、205‑209頁。
(3)孤児教育の父と呼ばれる石井十次は、新島襄の「同志社大学設立趣意書」に強い 影響を受け、地域教育への熱情がかき立てられ、馬場原教育会を設立した人物で
ある。細井 勇「第2章 石井十次―岡山孤児院と孤児教育―」室田保夫編『人 物でよむ 近代日本社会福祉のあゆみ』ミネルヴァ書房、2006年、19‑25頁。
(4)「我國社會事業の先 は日本基督教組合又は同志社大學出身者等に多いことには 注目すべきことであるが、近く同敎會ではこれら關係者の事業を一般に認識せし め、社會事業を通じて組合の教線を張るべく圖書出版を行ふがその内容は石井十 次、留岡幸助、山室軍平、富田象吉の諸氏等約二百名の社會事業關係者の事業を 網羅してゐる」『中外日報』、1937年2月7日、上野直蔵編『同志社百年史‑資料 編二』同志社、1979年、495頁、室田保夫『キリスト教社会福祉思想史の研究:
「一国の良心」に生きた人々』不二出版、1994年、14頁など。
(5)1921年に社会事業学部が開設された日本女子大学(創立:1901年;大学令:1948 年)は、当時は専門学校令(1904年―1948年)による専門学校であったため、大 学として社会事業専攻が最初に設置された大学は同志社大学(創立:1875年;大 学令:1920年)である。日本女子大学(http://www.jwu.ac.jp)と同志社大学
(http://www.doshisha.ac.jp)のホームページ、菊池正治「第5章 昭和恐慌期 の社会事業 5.社会事業教育・研究と社会事業思想の変質過程」菊池正治・室 田保夫編『日本社会福祉の歴史―付・史料―制度・実践・思想』ミネルヴァ書房、
2003年、122‑125頁。
(6)「記念館の敷き地は往年のベストセラー「死線を越えて」の舞台で賀川さんがは じめてスラム街救済活動を始めたところだが、賀川氏と関係の深い関西学院大学 社会学部でもこの記念館の活動を応援する」(『神戸新聞』、1963.4.12)
(7)「賀川は青山学院と関西学院の共同編集である『神学評論』に投稿を行ったり、
戦前・戦後を通じて関西学院の求めに応じてキリスト教の講話をしばしば行った。
その影響は大きく、例えば、1960年の学事報告が伝えるように、彼のキリスト教 講話を機会にキリスト教を学びたいという学生が増え、受洗者が増えた。さらに 55年から58年まで理事であった賀川は、57年には農学部設置案を今田恵理事長に 提案するなど、関西学院の総合学園化に一つの指針を提供し、彼のアイデアによ り関西学院の分校として47年に小豆島農芸学園が設立された。このような賀川と 関西学院との深い関係から、大学では89年に共同研究『賀川豊彦研究』が行われ た。」関西学院事典編集委員会『関西学院事典』2001年、38頁。
(8)『賀川豊彦全集』の第24巻にある『身辺雑記』は、主に雑誌『雲の柱』に掲載さ れた賀川の文章を集めたものである。これは賀川自身の日記に当たるものである。
ただし、引用する際、年度及びタイトルを項目毎に明記すると煩雑になってしま うため、ここでは『賀川豊彦全集』第24巻を『全集24』に統一して表記する。
(9)1926年以来文学部神学科には神学専攻、倫理学専攻の二専攻が置かれていた。
1931年3月学則改正し、4月から文学部神学科に社会事業学専攻コースを開設し た。同志社々史々料編集所編『同志社九十年小史』学校法人同志社、1965年、