平城宮跡発掘調査の成果は着たとあがっ
いようにつとめた︒原案・修正案・実施設計とも︑平城宮跡発掘調査
指導委員のうち建築史専門家の討論・指導のもとに︑当研究所建造物 昭和狐年度として︑朱雀門・内裏正殿・内裏掘立柱回廊の一部を実
物の十分の一の縮尺で設計・製作し︑いずれも完成して遺跡程屋内に
陳列している︒
製作にあたって予算上は事務局記念物課の直営事業となっており︑
宮における同性格の建物を描いた絵巻物等の資料も考慮して矛盾のな 設計︒技術指導等を当研究所が担当した︒復原にあたっては︑遺跡から得られた資料・知見をもとに︑同時代の現存建造物の構造・様式に には理解されにくい︒そこで文化財保謹委員会では発見された進構のうち重要なものをえらび︑昭和伽年度から順次奈良時代そのままの姿を再現した復原模型を製作することとなった︒ 見された遺構だけではどのような建築がたちならんでいたのか︑一般より︑学術的に粗漏のないよう文献記録等をも参照した︒また︑平安
室および調査部員が協力して作成した︒
平城宮建築復原模型
一︑朱雀門 平城宮建築復原模型
ているが︑残念なことに発平城宮南面中央の正門であり︑朱雀大路の正面に開かれていた︒遺
跡は昭和調年の発掘調査で確認され︑中央柱列と北側柱列の厳重な根
禰が発見された︒また雅壇の掘込地間めが︑地下2mまで築成されて
おり︑門の本体が大規模なものであったことを示していた︒
両妻には基底幅いつmの巨大な築地塀がとりつき︑門中心から約型
mの所で基底幅騨︑mに細められ︑更に脇門をともなっていることも
判明した︒また特に出土軒瓦の約卯%は藤原宮出土のものと同文様で
あった︒
発掘成果から︑朱雀門は5間×2間︵Ⅳ尺等間︶で幅三間を扉とし︑
地固めや根石の厳重なことや平安宮朱雀門の絵などから重層入母屋造
と想定した︒基壇の川は掘込地固め外側に地覆石がまわるとして約一
つ︑︑韮埋高さは東大寺南大門の例などにならって﹈動︑とし︑外装は
標準的な壊上砿凝灰岩基聴を設け︑埜堀万の大きさは平面のほぼ等し
い大安寺南大門にならった︒
柱径は東大寺転害門を参考とし全体規模がさらに大きいことから沌
叩c︑四尺︶とした︒柱高は柱間と等しく5m︵Ⅳ尺︶に定め︑柱には
海竜王寺五重小塔初層柱にならって胴張りを附した︒藤原宮形式の瓦
出土量が多いのは︑和銅創建の門が延暦まで存統したことを示すの
建造物研究室
平城宮跡発掘調査部
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二︑内一髪正殿
第二次内裏の正殿は昭和師年度発掘調査で判明し︑
で︑組物は薬師寺東塔・海竜王寺五重小塔などの初期三手
先により︑部材は転害門と同様高さ﹈b尺・厚さ9寸を標
準断面とした︒
上層の構造は建立年代も近く︑奈良時代重層門の唯一例
である法隆寺中門の盗料から復原的に想定した︒上層柱径
も法隆寺中門の上下層の比例にならい︑柱高もその比に近
いの面尺にとった︒上層勾柵は架木が台輪よりやや下とす
ると.地覆下に腰組を入れ背を商める必要が生じ︑平三斗
とし・唐代絵画に多くゑられる人字棋を入れた︒平桁・地
覆間は横連子としたし上層平面は側面からみた逓減が極端
になることを嫌い︑桁・梁行とも下層より7尺を減じた︒
軒反りは法隆寺金堂のごとくゆるやかなものとし︑軒出
は全体規模とのつりあいを考え下層はⅣ尺・上層は恥尺と
した︺上下両層とも柱に延びを付し桁に反りがでるように
したU屋上には大阪鳥坂寺出土品を参考とした鵬尾を飾
り︑風鐸は正倉院御物を模した︒扉金具は法隆寺夢殿・綱
封蔵などの形式を参考とした︒すべて部材の継手・仕口は
古代建築の実例中で工作上簡単な例にならった︒
模型本体の棟高は約2m強となり︑設計・製作には一ヶ
年強の日時を要した︒ 奈良国立文化財研究所年報
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平城宮建築復原模型 ︵皿尺等間︶の平面で瓦出土比が少ないことから桧皮葺基壇はないが︑南側に雨落痕跡と尋られる溝があり軒信床束・縁束の痕跡は遺構の重複などで不明瞭であつ
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した︒桧皮の長さは3尺のものを考え︑葺厚は延喜式により6寸とし 資料とから︑垂木上に粗い野地を組承桧皮をしばりつける工法を想定 ていないので︑法隆寺伝法堂・七丈屋等の部材痕跡と文需にみられるi
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柱9間×5間︵皿尺等間︶の平面で瓦Ⅱ土肱が少な
と考えられた︒基壇はないが︑南側に雨落痕跡と尋
出を推定できた︒床束・縁束の痕跡は遺構の重複な
たが︑平安宮紫辰殿を参考して︑高床で周囲に縁が
あると想定した︒
柱径は遺跡からち・印叩︵﹈・誤尺︶と推定し︑柱高は
床上で径の加倍・扇函尺とした︒床まわり高さは階
段を蹴上げ7寸×n段とし︑縁高は﹃や尺︑床尚は︑
翫尺となった︒床構造は法隆寺伝法常にならい︑大
引と束のみで根太のないものとした︒縁は賛子小口
縁とし︑勾柵斗束は薬師寺東塔にならい︑敦埋壁画
などを参照した︒擬宝珠は東大寺大鐘上の宝珠を参
考として設計した︒
平而について戸口と階段の位置は平安宮紫震殿に
ならい︑扉まわり細部は伝法堂によった︒
小屋構造は身舎梁間が三間と広いことから同様の
梁間をもつ新薬師寺本堂のごとく叉首組により︑組
物も同堂と伝法堂などにならって大斗肘木を用い︑
垂木は地円・飛角の二軒で︑軒出は遺跡の資料から
式﹃尺とした︒
棟は瓦積とし︑蕊瓦は内裏地域で多数川土し︑特
に瓦当而径の小さい軒円瓦露届A型・軒平瓦急鴎A
型をもちいた︒桧皮葺については古代の実例が残つ
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奈良国立文化財研究所年報
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て施工した︒
六葉金具は︑宮跡から出土した木製六葉の形にならった︒
設計と製作とで約︑ヶ月を要した︒
三︑内裏掘立柱回廓
今年度は正殿をめぐる内郭掘立柱回廊のうち︑正殿背後の複廊哩間
分を製作した︒昭和記年度の発掘調査で桁行梁間とも加尺の複廊とし
て発見され︑その後の調査で東西棟複廊は全長間︑東端から南に躯
間の単廊が延び内裏築地回廊に接続することがわかった︒
遺跡から柱径は弱︑大斗幅もこれに従い︑組物は大斗肘木とした︒
中央柱通りを壁で閉じて連子窓を用いず︑内裏前半と後宮とをへだて
るものと想定し︑出入口は中央と両端のみに開くようにした︒
小屋構造は法隆寺東大門︑東大寺転害門にならい大虹梁上蕊股・
三棟造で︑棟木は束で支えることとした︒軒は一軒か二軒か議論が分
かれたが︑一応内裏内郭を二軒で統一した︒地垂木勾配を5寸とする
ため︑婆股をやや大きい目のものにする必要が生じた︒
設計・製作に約六ヶ月用いた︒︵﹁尺﹂はすべて推定造営尺︶
なお︑昭和型年度としては内裏内郭の東第一殿および第二殿︑掘立
柱回廊東半の残部と南面築地回廊︑朝集殿を設計・製作中である︒
︵細見啓三︶
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第3IX1内裏掘立柱回廊(部分)復原図正而および平面
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