講演録
日本におけるメーテルリンク文学の受容
――『青い鳥』を中心に
講演者 ウィリー・ヴァンドゥワラ氏
(ルーヴァン・カトリック大学教授)
司会 白井澄子(本学教授・センター所長)
日時 2012 年 5 月 26 日(土) 13:00 ~ 14:30 会場 白百合女子大学 3116 教室
白井:みなさん、ようこそおいでくださいました。本日は白百合女子大学児童文化 研究センター主催で、ベルギーからいらっしゃいましたヴァンドゥワラ先生に講演 をいただきます。
まず最初にヴァンドゥワラ先生のご紹介をさせていただきます。先生はベルギー でお生まれになって、現在はベルギーのルーヴァン・カトリック大学文学部東方 学・スラヴ学科日本学主任教授でいらっしゃいます。この他にも、日本関係の資料 専門家欧州協会
(EAJRS)
の会長など様々な要職についておられます。また、ヨー ロッパにおける日本研究の第一人者として、日本最初の勲章で、功績を残した人物 に与えられる旭日章も受賞していらっしゃいます。今日は、「日本におけるメーテルリンク文学の受容」ということでお話しいただ きます。皆さんはメーテルリンクについては『青い鳥』を一番よくご存じではない かと思いますが、実はメーテルリンクがノーベル賞をもらってから、去年が
100
周 年、そして今年は生誕150
周年という、注目すべき年に当たります。これに合わせ て、昨年から今年にかけて、メーテルリンクが生まれたベルギーのゲント市でメー テルリンクの大規模な展覧会がございました。ヴァンドゥワラ先生は、この展覧会 の企画・運営に関わられ、そのときに児童文化研究センターの資料がお役に立った のです。児童文化研究センターには、もう亡くなられましたけれども、児童演劇の研究を していらした冨田博之先生が寄贈してくださった、たくさんの演劇関係の資料があ ります。その中にメーテルリンクの資料が、書籍で約
300
冊、スクラップその他を 併せると、相当の数になる資料があるのですが、その中から、ヴァンドゥワラ先生 がいくつかの資料を選び、ベルギーの展覧会で展示されることになりました。そんなことがございまして、ヴァンドゥワラ先生と児童文化研究センターには、
とても熱いコネクションができました。そして、今回の来日に合わせて先生にご講 演をいただくという本当に嬉しい企画が可能になりました。
ご挨拶が遅くなりましたが、今日の司会は、今年からセンター所長になりました 白井が務めさせていただきます。
それでは、先生、どうぞよろしくお願いいたします。
(拍手)
ヴァンドゥワラ:ただ今、ご紹介にあずかりましたヴァンドゥワラと申します。ど うかよろしくお願いします。本日の演題が「日本におけるメーテルリンク文学の受 容――『青い鳥』を中心に」ということになっていますが、実際話をもう少し広い 観点から取り上げようと思っています。なぜかというと、ここは日本ですから、日 本における『青い鳥』となると、皆様ある程度までご存じなので、今回ベルギーに おけるマーテルリンク
(Maurice Maeterlinck)
の生い立ちと、ヨーロッパあるいは 欧米を含めて彼の文学の受容と、そしてその中でとりわけ『青い鳥』の成り立ちと その後の変遷などについてお話を進めていきたいと思います。因みに、私が講演中恐らく無意識に何度もマーテルリンクという風に発音してし まうことになるかと思います。それには理由があります。マーテルリンクと言うの は、言ってみれば現地の発音です。メーテルリンクとなったのは、フランス人が、
それがうまく読めないというか、あるいはむしろそれがドイツ語風のスペルだと思 い込んでいたからメーテルリンクと読ませてしまったものだと思います。従って、
われわれは皆マーテルリンクと言い慣れているので、私もマーテルリンクで貫いて しまうことにさせて頂きます。
マーテルリンクという作家は、先ほども白井所長がおっしゃった通り、100年前 にノーベル賞を受賞した文学者ですが、今までベルギー国籍の作家として唯一の文 学ノーベル賞受賞者です。そういう観点から見てベルギー、取り分けゲント市に とって、非常に貴重な存在です。彼の作品の中でも現在特によく知られているもの
には、
Pelléas et Mélisande
『ペレアスとメリザンド』1という悲劇があり、これからクロード・ドビュッシー
(Claude Achille Debussy)
が、不朽の名声を博するような 曲を作っています。またその他に、『青い鳥』が、ご存じの通り大変有名な作品に1
杉本秀太郎訳『対訳ペレアスとメリザンド』岩波文庫 赤(32)-583-1、東京:岩
波書店、1988年。
なっています。それはベルギーだけではなく、否ベルギーと言うよりは、ベルギー 以外の国で非常に有名になっているというのが事実です。欧米及び日本、さらにロ シアで非常に有名であるのに対して、ベルギー国内ではさほどよく知られていない という事実が、不思議な現象とも言えるでしょう。
『青い鳥』の筋は皆さんご存じかと思いますが、2人の子ども達が登場して、幸 福と真理を追い求めていくお話です。その幸福と真理は、寓話的に青い鳥という動 物に託されて登場するわけですが、子ども達がそれを追いかけていくという趣旨で す。その子ども達は、チルチル
(Tyltyl)
とミチル(Mytyl)
と言いますが、貧乏な樵 の子どもたちで、あまり幸せではないというような雰囲気の中にあって、青い鳥と いうものは、幸せを象徴するものです。青い鳥を追いかけていく子ども達は、曲がりくねった道をたどっていきます。思 い出の国、幸福の楽園、未来の国などをベリーリュンヌ
(Bérylune)
という魔法使 いが子ども達を導いていきます。結局最終的には、家に戻ってくると、折角追い求 めて来た青い鳥は、なんと自分の家の中にいる、籠の中にいる小鳥に他ならないと いうことに気がつくのです。『青い鳥』は、元々
1908
年に書き下ろされた戯曲です。同じ年にモスクワで初 公演を迎えます。モスクワでの演出を担当したのは、コンスタンティン・スタニ スラフスキー(Konstantin Stanislavski)
という有名な監督でした。約1年間モスク ワで上演されており、次は1909
年にロンドンのヘイマーケット劇場(Haymarket
Theatre)
で上演されます。その翌年の1910
年にニューヨークでの上演、そしてさらにその翌年の
1911
年にパリのレジャーヌ劇場(Théâtre Réjane)
でと、各国での 初演を迎えることになります。また大変な人気なので、映画化もされるようになります。まず早くも無声映画 の時代に最初の映画化が行われ、そしてさらに
1940
年に、ウォルター・ラング(Walter Lang)
という有名な監督のもと、シャーリー・テンプル(Shirley Temple)
をはじめ、有名な俳優の顔ぶれで、相当注目される映画が世に送り出されるので す。また1976
年に、ジョルジュ・キューコー(George Cukor)
という、これもまた 有名な監督のもとで、エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)、ジェーン・フォ
ンダ(Jane Fonda)
およびエヴァ・ガードナー(Ava Gardner)
という有名な女優が 出演して、いわゆるリメイクが制作されます。この映画は、アメリカとソ連との 共同の企画で制作される映画で、冷戦中の親善的な意味合いもあったものです。昨年
2011
年にも、ゲント出身のフュスト・ヴァン・デン・ベルフ(Gust Van denBerghe)というベルギー人が改めて映画を作り、カンヌ映画祭に出しました。
次に、マーテルリンク自身の背景、生い立ちなどについて一言ご紹介させていた だきたいと思います。マーテルリンクはゲント市に生まれました。彼の誕生届けの 控えはゲント市古文書館に所蔵されていますが、いわゆるフラマン語というかオラ ンダ語で書かれています。彼はフランス語で文学作品を執筆しているけれども、出 生届をフラマン語で市役所に届けてあることが示すように、その文学の原点はフラ マンの文化と言えましょう。母方はゲント市の近郊にある、現在でも尚存続する、
中世のお城を別荘として持っていた位で、裕福な家庭で育っていきます。幼い時分 週末や休みの時を、よくその別荘で過ごしていたと、マーテルリンクは回顧録の中 で書いています。2 現在でも、まだ私有物です。もうマーテルリンク家とは関係あ りませんが、昔の面影を随分留めています。近くを高速道路が通っているので、相 当騒々しい環境でしょうが、とにかく外観は、視覚的にはほぼマーテルリンクのい た時代と変わっていません。建物の一部は、15世紀か
16
世紀に遡るもので、歴史 を感じるところです。その庭に、園芸家を以って自任するお父さんが品種改良して 作った桃の木3が植わっていましたが、現在別荘の一角に見かける老木はそれなの
か不確かです。お父さんにちなんで命名された桃です。マーテルリンク自身も園芸 や蜜蜂に非常に関心を持っていました。市内には19
世紀の中ごろに新しくできた 区画に建てた本家がありました。ゲントという町は19
世紀に産業革命がいち早く 起こった町で、貧富の差が目立ち、近代的なものと中世的な名残が入り乱れている ような風景を呈する町でした。昔の一種の尼僧さんであったベギン(Béguine)
修道 女が伝統的な手仕事をしている風景があった一方、いち早く発達している繊維工業 で重労働している労働者が住んでいる長屋も、衛生上良くない区画も目にするこ とができた町でした。一般的に、この町は19
世紀に、陰鬱な町と言われていまし た。要するに、北欧らしい町で、そこに何時も何か雲がたなびいているような風景 で、いわゆるフランダースらしい風景と強く結び付けられている町なのです。マー テルリンクもそれに影響されており、彼自身も陰鬱であったとか、憂鬱な気性で あったとか、言われています。また、ゲント市には運河が沢山あり、橋も沢山ある ということで、それらがその町の風景を特色付けているものであると、彼自身も 言っています。上流階級の家に生まれた少年であるだけに、中学校時代になると、イエズス会の
2 Maurice Maeterlinck, Bulles bleues: Souvenirs heureux, 1949
年.
3 La pêche Maeterlinck
と命名されたらしいです。André Capiteyn, Maeterlinck.Een Nobelprijs voor Gent. Gent:Uitgeverij Snoeck, 2008
年:p.12.
カレッジ(collège)に入学します。イエズス会の学校ですから、フランス語の学 校で、ここで非常に厳しい教育を受けます。中学校と高校を終えて撮られた卒業写 真を見ると、自信たっぷりな表情を漂わせる青年のマーテルリンクの姿が見受けら れます。後に同じく文学者になるグレゴワール・ル・ロワ
(Grégoire Le Roy)
の顔 も見られます。当時多くのインテリや芸術家を輩出した学校であったことは事実で す。その学校には教会もあり、礼拝を今でも行っています。マーテルリンクは卒業してゲントの大学に入学します。法学を専攻しますが、卒 業してみると法律そのものにはあまり関心を持たず、その時分から詩を書き始めま した。彼は『温室』4
という詩集を書き下ろします。『温室』というのは、園芸家で
あったお父さんがゲントの郊外に持っていた温室の中の鬱陶しい雰囲気を描いたも のです。温室にある、非常に密封された、圧迫感を感じる、蒸し暑いような雰囲気 がその詩集の中にも漂っているような表現が上手く織り込まれています。彼は処女 作というべきこの詩集を自費で出版します。発行部数は125
部でした。弁護士の職は短期間はやっていましたが、終いに嫌になり、いよいよパリへいく ことを決心します。当時パリは文学の活躍舞台であり、それは文学者として執筆活 動に終始しようとする決心です。パリに出発する時撮られた写真に写っているの は前途有望な若手の作家と言いたいですが、実はその時点ではまだ分からないで す。パリへ居を構えて間もない時に
La princesse Maleine『マレーヌ姫』
5という作
品を書き下ろすと、これがなんとオクターブ・ミルボー(Octave Mirbeau)
という 有名な評論家の目に触れ、ミルボーは、Le Figaro
(ル・フィガロ)という新聞に「Maurice Maeterlinck」という題名のもとで、その作品を褒め作家を絶賛する書 評を発表します。オクターブ・ミルボーのような評論家に「現代のシェークスピ ア」と絶賛されると、一挙にパリの文壇への華やかな登場を成し遂げるわけです。
この絶賛の記事は恐らくマーテルリンクの人生にとって非常に重要な転換点と言っ ても過言ではないでしょう。彼はパリに住んでいながら時々ゲントに戻ってきます が、当時ゲントの自宅の近くに、いわゆる南駅ができますから、この駅まで列車に 乗って帰省したと想像されます。
その時代、ジョルジェット・ルブラン
(Georgette Leblanc)
という、当時パリで 一流のスターとして名だたる女優と恋人同士の仲となります。結婚はしませんけれ4
杉本秀太郎訳『温室:
詩集』東京:雪華社、1985年。5
山内義雄訳「マレエヌ姫」『 泰西戲曲選集』14号、東京:新潮社、1925年。ども、
1919
年まで一緒に生活することになります。因みに1903
年にテオ・ファン・レイセルベルヘ
(Théo van Rysselberghe)
という画家によって描かれた絵画には、日本でも非常に有名な詩人エミール・フェルハールン
(Emile Verhaeren)
が一連の 有名な作家、芸術家や文化人に囲まれて自分の詩を読んでいる場面が描かれてい ます。中にはマーテルリンクやフランスの有名な文学者アンドレ・ジッド(André
Gide)
も描かれています。中心の人物は、マーテルリンクというよりは、やはりフェルハールンの方です。エミール・フェルハールンは、日本でも高村光太郎の翻 訳によって紹介されており、多くの詩人に影響を及ぼしています。取り分け高村光 太郎の『智恵子抄』は、フェルハールンが夫人への愛情をこめて詠んだ詩集に示唆 を受けて書かれたものであることは周知の通りです。
一方、マーテルリンクは、蜜蜂など、動物の集団生活、生態に関心を寄せてお り、それらを研究することによって人間の社会も解き明かそうと試みたのです。今 は、そういった学問は非常に発達していますが、当時はまだ未開発の学問なので、
彼はその学問と文学の接点で蜜蜂などの行動様式を研究しています。後になって、
特に
1920
年代からは『蜜蜂の生活』6 など、動物の生態などについて一連のエッ セー的な、あるいは哲学的な文章を書いています。それらを学者の観点から見る と、素人的なところがあまたあるに違いありませんが、哲学的に見ても、何か物足 りないところがあって、その時分の作品は最初の時分の作品ほど有名ではなく、そ の評価もさほど高くないのも事実です。また、マーテルリンクは、1911年にノーベル賞を受賞することになると、体の 不調を訴えて授賞式に出席しません。話によると、彼は、言わば思い込みの病人 で、よく自分の煩いや病いを訴え、それを口実にして表に出ない、内向的な性質 だったと言われています。しかも、自分の声がなかなか聞き苦しいと思いこみ、寡 黙の人だったとも言われています。当時、ノーベル賞が決まったことが報じられた 時に刊行された、ゲント市のオランダ語版の地元の新聞を見ると、「ストックホル ムから、マーテルリンク氏にノーベル賞が決まったという知報を受信した」といっ た旨のせいぜい
3
行か4
行に亘る記事しか載っていません。現在の世論から見れ ば、あれだけ名誉あることに対する無関心ぶりがけしからんと言われるかもしれま せんが、その当時としては、まだ発足して10
年しか経っておらず、ノーベル賞は まだそんなに大きな話題になるものではなかったということも想像に難くないもの6 岡本清逸訳『蜜蜂の生活』東京:東亜堂書房、 1913年。
です。また、これがオランダ語版の新聞ですから、読者はフランス語で書かれた文 学にさほど関心を寄せていないとも考えられます。とにかくこれでかなりのお金が 入るわけですし、また既に自分の家もかなり裕福なものなので、長閑な生活を送る ことができるに違いありません。
マーテルリンクは、現代的なものに関心を持っていました。例えばエンジンや 機械はもとより、1913年前後に撮られた写真が示すように、趣味としてボクシン グにも関心を寄せていました。その時代は、もう殆どベルギーに帰らず、フラン スを中心に活躍しています。その住居は転々と変わっています。一時、ノルマン ディー地方の中にある修道院を借りて、生活を送ったこともあります。修道院を舞 台にして、配偶者のジョルジェット・ルブランが出演する
Pelléas et Mélisande
『ペ レアスとメリザンド』などを上演することも計画し、実施しています。所在地を考 えると、観衆がさほど多くなかったと想像されます。辺鄙な土地だけに、そこま で足を運ぶのも大変だったと思います。ジョルジェット・ルブランはワーグナー(Wagner)
のバイロイト(Bayreuth)
の前例に倣い、修道院を演劇活動の拠点として使用する夢を描いていたらしいです。しかしバイロイトのように持続できず、2曲 ばかり上演して、終止符が打たれたのです。さらに
1904
年から1905
年に配偶者が 借りていた家で『青い鳥』を執筆したと言われてます。一時ルネッサンス時代の宮 殿にも居を構えたこともあります。第二次大戦中アメリカへ亡命したマーテルリン クは、終戦後、欧州へ帰ってきて、南フランスのニースにある素晴らしい宮殿で晩 年を送ります。地中海を一眼に収めるような場所です。1919
年にジョルジェット・ルブランと別れて、ルネ・ダオン(Renée Dahon)
と いう女優と結婚します。『青い鳥』の世界初公演はモスクワで行われました。1908年から
1909
年にかけ て上演されますが、その当時の写真を見ると、『青い鳥』という本は、もともとは 童話と言うか児童向けのものではないことを示唆するものがあります。また配偶者 のジョルジェット・ルブランが、女優だけではなく作家でもあったことは、原文を 翻案して児童向けに書き直したという事実を裏付けるものがあります。いよいよ舞台を日本に移していきたいですが、マーテルリンクが日本に何時紹介 されたかと言うと、それは
19
世紀末か20
世紀の初めです。初めてマーテルリンク という作家を日本の国民というか日本の学会に紹介したのは、上田敏という学者で す。もともと英語学出身者である上田敏は、優れた語学の才能の持ち主で、氏の先 生であった小泉八雲が彼の語学能力をこのように褒めています。「1万人の内に(彼ほどの人は)彼しかない」と。実に抜群な語学能力があって、英語に止まらず、フ ランス語にも造詣が深くなり、さらに、スペイン語、イタリア語、ラテン語、ギリ シャ語なども研究し、それらに堪能であったことは周知の通りです。そのお陰で西 洋文学に造詣が極めて深かったことが分かります。彼は、明治
28
年1
月『帝國文 學』創刊号に「白耳義文學」と題する一文を掲載します。これが日本における象徴 主義文学、あるいは広義での世紀末文学の最初の紹介です。ジョルジュ・ローデン バック(Georges Rodenbach)
、イヴァン・ジルカン(Iwan Gilkin
)、テオドール・アンノン
(Théodore Hannon)
といったベルギーのフランス語詩人達の名に続いて、マーテルリンクの文学、その詩と演劇を紹介します。上田敏は、1874年生ま れで、その時点でまだ非常に若く、白耳義文學に関する記事を、自分の名前のもと に出さず、微幽子という雅号のもとに出しています。記事の趣旨は、マーテルリン クを紹介すると言うよりも、ベルギーにおける最近の文学的な傾向を紹介するもの であります。19世紀の後半はベルギーにとってちょうど最盛期の時代に当たって おり、美術、文学などの領域には、優秀な文士を続々と輩出しています。それらの 若手の作家や芸術家群が、La Jeune Belgique (若きベルギー)、日本語では「少白 耳義」などと書きますが、と言う総称の下に国内外大きな注目を浴びていました。
上田敏は、「少白耳義」についてこう書きます。「『少白耳義』の歌を讀むにボオド レエルの餘韻措辭の間に顯はれ、彼色彩の形容詞を疊みて微かなる美想の幽玄をほ のめかし、聲調自ら凄婉深邃なるは實に宜く近代の思想を傳へしものなり」と。こ れによると上田敏は、「少白耳義」という作家達を、フランスの詩人ボードレール の文学の延長線に位置付けています。特に彩色の形容詞の使用です。ボードレール がその心境を彩色の形容詞で表現しているということに、「少白耳義」との共通点 が見いだされると上田敏は言います。マーテルリンクにとどまらず、一連の作者に ついての紹介ですが、恐らく日本における最初の象徴主義の紹介でもあります。あ るいは世紀末文学の紹介の嚆矢でもあります。上田敏は、どこから情報を入手した かと言うと、恐らく、ウィリアム・シャープ
(William Sharp)
というイギリス人評 論家の論文だと思います。同氏は1893
年にThe 19th Century
という雑誌に特集と して、「少白耳義」を紹介しています。ただそれだけではありません。なぜかと言 うと、上田敏はフラマン語系の作者も2
人ぐらい、ちょっとだけですが紹介してい るからです。ウィリアム・シャープは彼らについては言及していないのです。外に 出典があった筈です。77
遠山博雄「象徴主義移入の諸問題(上)」『駒澤大学総合教育研究部紀要』4号(2010年)
364-5
頁。原文は、微幽子[上田敏]「白耳義文學」『帝國文學』(1895上田敏の論文中には、マーテルリンクが若き時分にパリへ行って、その書下ろし
の
La princesse Maleine
『マレーヌ姫』が、オクターブ・ミルボーによって、現代のシェークスピアと絶賛されたということも書いてあります。8
ところが、引き続
いて、それが上演されることになると、マーテルリンクも多方面から非難を浴びて しまうと言う経緯についても触れており、その背景をこう説明しています。フラン スの評論家の一部には、「マーテルリンクは北欧の人間だ。野暮だ。確かにフラン ス語を完璧に駆使していますが、文化のレヴェルではあまり洗練されてない」など と言って、フランス文化と距離を置いているものがあります。しかし、それが売り 物になります。マーテルリンク以外にも何人かのフラマン人がパリに出ていき、活 発な活躍振りを見せ名声を博するものがいると。フランスの評論家が彼らの作品の 共通点に、特色としてフラマン的なものを見出すわけです。なにか陰鬱なところ、ゴシックなところ、曇り空、どんよりとした天気。フランダースに中世の余韻が濃 厚に残っていると思っているのです。ブリューゲル
(Bruegel)
などの作品には何か 神秘的なもの、フランダースの魂が宿っており、これがそれこそ北欧というかフラ ンダースの美術の神髄だというふうに関連づけされていました。典型的な例とし て、ジョルジュ・ローデンバックの名作Bruges-la-Morte
『死都ブリュージュ』とい う本が挙げられます。これは、陰鬱な雰囲気に囲まれた、まだ産業革命も起こって ない古都ブリュージュを舞台にしたものです。否、舞台と言うよりは、街の暗闇、不気味な雰囲気そのものが主人公と言えるものです。それが日本でもかなり有名に なっており、3訳も出ていると思います。
一方、金子光晴という日本の詩人、小説家も、第一大戦直後ベルギーに来た時、
そういった北欧やフランダースの雰囲気に中世的な様相、ゴシック的な様相を見 いだすのです。上田敏は、1905年に象徴主義的詩の翻訳を刊行しますが、その中 にはフェルハールンとかベルレーヌ
(Verlaine)、ランボー (Rimbaud)、マラルメ (Mallarmé)、ピュビス・ド・シャバンヌ (Puvis de Chavannes)、シュリ・プリュド
ム(Sully Prudhomme)
等の詩が含まれています。9年
1
月)13-19
頁所収。8
上田敏「マアテルリンク(講演承前)」『明星』(新詩社版)6
号(1906年6
月)1
頁。9
上田敏訳『海潮音』東京:本郷書院、1905
年、日本近代文学館、1981年(再版)。上田敏はまた『明星』という雑誌10
に、マーテルリンクについて記事を掲載し、
さらに『牧羊神』11
という翻訳詩集にマーテルリンクの詩を 7
首収載しています。尚、上田敏に続き、高木敏雄という学者もマーテルリンクについて論文を書き ました。高木敏雄は、後に日本風俗学の先駆けになりますが、早くも『帝國文學』
1902
年号にマーテルリンクを紹介しています。『青い鳥』が初演されるのはロシアで、時は
1908
年ですが、和訳も早く出てきま す。最初の和訳は、島田元麿と東草水という人達の手によるものです。1911年実 業之日本社から刊行されます。これが全文の翻訳ではなく、原文を簡略的に翻訳し たものであると序文に2
人の訳者は断っています。児童向けに書き直したものであ ることが分かります。主人公の子ども達もチカオとミチコという日本風の名前を授 けられています。但しその前に既に日本語の要約がでています。それは森ほのほに よる『青い鳥』の梗概です。12また、1913年に若月紫蘭という学者、記者が全文 の翻訳を出します。元になった原文はフランス語ではなく、英訳です。序文の中に は、これがわざわざ著者から許可を得ての翻訳であると紫蘭は主張しています。著 者の承諾書までを本の裏に複製しています。若月紫蘭の翻訳はかなり有名になり、1915
年にフランス語版と英語版を元にして成された改訂版が刊行されます。若月 紫蘭は終戦直後その翻訳の再版に当たって改めて著者に許可をこいねがう手紙を出 しました。I have the honour to write you again. A few years ago you have greatly honoured me by giving the privilege to translate your renowned drama, The Bluebird into Japanese.
云々と書いています。
『青い鳥』は、日本に紹介されると、演劇だけではなく、むしろ、童話または児 童向けの物語として流行するようになります。例えば、正宗白鳥が『マアテルリン
10
上田敏「マアテルリンク」『明星』(新詩社版)5-6号 (1906年5-6
月連載)。11
上田敏全集刊行会(編)『定本上田敏全集』第一巻「牧羊神」、東京:教育出版 センター、1978年、271-295頁。12
森ほのほ「メーテルリンクの『青い鳥』の梗概」『歌舞伎』第124
号 (1910年10
月1
日)56-63頁。森ほのほ「ブリュー・バードメーテルリンクの『青い鳥』の 梗概(二)」『歌舞伎』第 125
号 (1910年11
月1
日)70-80頁。森ほのほ「メーテルリ ンクの『青い鳥』の梗概(三)」『歌舞伎』第126
号(1910年12
月1
日)63-78頁。ク物語』を出していますが、これも物語的に書き直したものです。チャールズ・ラ ム(Charles Lamb)というイギリス人が、シェークスピアの演劇を翻案して物語に したのに倣って、白鳥はマーテルリンクの演劇を
4
曲か5
曲ぐらい翻案して物語風 に書き直しています。しかし『マアテルリンク物語』には『青い鳥』が含まれてい ません。いよいよ『青い鳥』が演劇として日本で初めて上演されるのは
1920
年です。「民 衆座」という劇場で畑中蓼波監督の下で上演されるのです。初公演は1920
年2
月 の11
日です。7日間上演され、午後17
時から開幕と記録されています。その後1
週間ほど神戸でも上演されます。7幕10
場の長い演劇で、80人の配役といった大 規模な顔ぶれでした。夜、砂糖、星など、数多くの人格化されたものが登場します。13
チルチルの役を演じた水谷八重子は非常に評判が良かったらしいです。演劇
の権威であった小山内薫も評論を書いて出演を高く評価したと言います。小山内薫 はロシアやドイツでも『青い鳥』の演出を観る機会があったので、一応比較、評価 できる立場にいました。14ベルリンでもマックス・ラインハルト
(Max Reinhardt)
という有名な監督が、ドイツ劇場 (Deutsches Theater)で、『青い鳥』を演出してい ました。日本での演出はロシアでの演出によるところが多かったと思われます。日 本上演の脚本は、若月紫蘭の翻訳ではなく、楠山正雄の翻訳15をベースにして脚本
を作ったということは特筆に価するものです。内容はあまり変わらないにしても、若月紫蘭の翻訳と楠山正雄の翻訳と
2
つの系統があることに留意しなければなりま せん。それ以降『青い鳥』は何度も再話、翻案され、いろんな形で版を重ねてきて います。ざっと見ても、「青い鳥」という言葉が題名の中に含まれている書籍を引 き出してみると、膨大な数になります。生前白百合女子大学で教鞭を執っていらした、冨田博之先生が、『青い鳥』に関 連する諸般の資料を蒐集されることを、畢生の使命としていたことは、貴学にてこ
13
冨田博之「『青い鳥』の初演」『日本児童演劇史』冨田博之(著)113-122頁。東 京:東京書籍、1976年、118頁。14
小山内薫「マアテルリングの『青い鳥』」『趣味』第 4
巻第4
号(1909年)16-20頁。冨田博之「『青い鳥』の初演」『日本児童演劇史』冨田博之(著)113-122頁。東京:
東京書籍、1976年、119頁。
15
楠山正雄訳「青い鳥」『近代劇選集(一)』楠山正雄(訳)3-5頁。東京:新潮社、1920
年。そ申すまでもありませんが、先生の畢生のご努力のお陰で現在貴学に立派な『青い 鳥』コレクションが所蔵されています。脚本もさることながら、再話、物語、童 話、寓話など、多種のものが含まれていますが、なんといっても、児童向けのもの が多いです。とにかく、再話という、改めて分かりやすく語るということが日本に おける基本的な受容のあり方と言えます。一々並べる暇はありませんが、例えば川 端康成も、再話をしています。西洋でも、いろんな形で版を重ねていきます。また 英語を初め各国の翻訳が出ています。中国には映画はないけれども、やはり世界文 学名著宝庫の中で『青い鳥』が出ています。
第二次大戦後は、日本で人形芝居にも翻案されます。終戦後マーテルリンクは日 本に対して非常な憤慨の念を持っていたらしいです。「私の演劇の日本での上演は 一切禁止します」と言ったそうで、それを遺言にまで書いているらしいです。とこ ろが、プークという人形芝居集団が未亡人に対して、禁止を何とか解禁してもらえ ないかと切願を出して、結局、未亡人は上演の許可を出してくれました。1957年 のことです。未亡人の好意によって、また日本で再演することできるようになった わけです。
また、戦後の日本では、当然ながら漫画やアニメにも翻案されていきます。1980 年にフジテレビで
26
回に亘るアニメのシリーズが放映されたことはその一例で す。英語の題名はThe Blue Bird
:Tyltyl and Mytyl's Adventurous Journey 。それより ちょっと早い時期に、『フランダースの犬』というアニメのシリーズが放映された わけです。1970年代には、西洋を彷彿させて一種の理想的な世界を描いたアニメ が、日本の視聴者や読者にとって強い魅力を持っていました。アニメなどに登場す る人物や舞台は日本ではなくてヨーロッパを彷彿させる空想の国です。国が特定で きないヨーロッパです。『フランダースの犬』にしても『青い鳥』にしても、起伏 する景色、山林地帯、グリムの童話を想起させる舞台。また『フランダースの犬』の場合は、風車も描かれています。確かに南ヨーロッパではないのですが、オラン ダかベルギー、それにドイツ、スイス、あるいは北欧という感じです。しかも、極 端に近代的あるいは現代的な要素を避けています。だから、樵とか、田舎で素朴な 生活を送る人物、牧歌的な風景、そういうような世界は、高度成長の世界から程遠 いです。言ってみれば、時間を超越したような理想的なユートピアの世界。時代を 超えた、常にある、鄙びた、悠々とした世界が描かれているものです。
『フランダースの犬』や『青い鳥』のアニメが流行したのは、ちょうど日本の高
度成長時代の時でした。その日本の現実は、大変現代的なものです。昔風の鄙び た、素朴な所がどんどん姿を消していく時代です。そういう時代にあっては『フラ ンダースの犬』や『青い鳥』に描かれている世界は、消えた世界への憧れの現れで あると言う説を提唱した学者がいます。懐かしい郷土への憧れは、時空を超えた ヨーロッパの田舎の風景に託されているわけです。16
「青い鳥」というのは、何もアニメ化や映画化に止まらず、何時の間にか日本語 に於ける普通名詞になってしまうのです。ただ1つの観念になってしまうのです。
比喩と言いますか、隠喩、暗喩、または象徴的な表現です。その意味は、探し求め ている幸福が、何も地平線の彼方にあるものではなく、なんと自分の身近な所にあ るのではないか、そういうような観念です。身近な所にあるものだから実現できる 理想という意味に展開します。終戦後間もない時、内閣総理大臣になった片山哲 は、1949年にヨーロッパへ旅に出ました。当時ヨーロッパへ旅に出る日本人は稀 でしたが、片山氏は、平和の世界を構築する目的を掲げて組成された道徳再武装運 動
(MRA:Moral Re-Armament Association) の世界大会に出席する為にヨーロッパ
へ出るのです。大会の際とその前後に、同運動に賛同する多くの要人と会合し、運 動の目的である平和の世界の構築について語り合う機会を得ます。帰国後その旅の 記録を『青い鳥を求めて』と題名を付けて出版します。平和は我々が努力さえすれ ば実現できるものだという含みがある題名です。社会主義者である片山哲は、青い 鳥という表現を、戦後作っていかなければならない平和の世界という意味に使って いるわけです。さらに一歩進んで、青い鳥という概念は、曖昧な意味を帯びるようにもなりま す。つまり、ちょっと角度を変えれば手元にあることに気付く筈なのに、身近なと ころにあるのに、何か常に地平線のかなたへ行って探し求めてしまいがちな態度、
姿勢を指すようになります。清水將之という心理学者は『青い鳥症候群:偏差値エ リートの末路』17という本の中でそういった姿勢と真理を分析しています。「青い鳥 症候群」という現象は、1970年代や
1980
年代の世代のある傾向を批判的に分析し16 Cobus van Staden,
“Heidi in Japan: What do Anime’s Dreams of Europemean for Non-Europeans?” The Asiascape Collection v. 1: Essays in the Exploration of CyberAsia ed., Christopher Goto-Jones. Leiden: Asiascape.net and Modern East Asia Research Centre, 2010
年: pp.29-32.
17
清水將之『青い鳥症候群 偏差値エリートの末路』東京:弘文堂、1983年。た観念です。その当時の若い社会人は、折角できた就職、あるいは就いている職に 満足せず、もっと自分の能力と希望に合った仕事、もっと魅力的な仕事を探し求 め、ところが次の職にも満足せず、さらに、新しい仕事を探し求め続け、転々と職 場を変わっていくという傾向がありました。換言すれば「青い鳥」を探し求めてい くわけです。その当時高度成長の時代だから、経済基盤はある程度まで転々と職場 を変わっていく余裕があったのですが、現在はみんな就職活動に必死なので、そう いう症候群もかなり消えたと思います。
また、1991年に「高齢化社会をよくする女性の会」がシンポジウムを開催しま したが、予想できるように高齢化にまつわる諸問題がテーマであったもので、題名 は「老いの青い鳥を求めて」でした。18
要するに、健康なまま年を取っていくこと
は誰しも望んでいるのですが、できないことではありません。以上見てきましたよ うにいろんな分野において適用される観念になっています。ちなみにちょっと話を昔へ戻しますが、1921年の雑誌『学びの友』に、付録と して双六が付いていました。その双六は、『青い鳥』の筋を基にしており、最初の コマは子ども達の部屋で、そこから思い出の国など次から次へと辿っていきます が、最終的に落ち着く到達点はまたその子ども達の部屋になるわけです。19
日本人は何故そんなに青い鳥に魅せられるかという質問をよく受けます。マーテ ルリンク自身は、『青い鳥』をお伽話、féerieと言っています。本人はある程度ま で哲学的な角度から書いたつもりであったらしいです。しかし主人公達は子どもだ から、児童文学の作品として位置づけやすいことは事実です。そして子ども達が登 場するから、ややもすれば感傷趣味的な方向にも滑りやすいのかもしれません。戦 前上演された時、涙を拭く観衆の姿が大勢見受けられたと言われています。お涙頂 戴的なところがあることは否めないです。ただ、マーテルリンク自身は、そうい うつもりで書いたものではないです。『青い鳥』を執筆する時点まで、著者は、暗 い運命論とか宿命論が基調になっている作品を書いていました。しかし、ジョル ジェット・ルブランと一緒に暮らすことになると、彼自身がもっと楽観的な気質に なり、もう少し陽気な内容のものを書くようになったと言われています。日本で
18
高齢化社会をよくする女性の会編『老いの青い鳥を求めて―第10
回女性によ る高齢化社会シンポジウムの記録』東京:ミネルヴァ書房、1992年。19
冨田博之「『青い鳥』の初演」『日本児童演劇史』冨田博之(著)113-122頁。東京:東京書籍、1976年、120頁。
は、特に戦前には『青い鳥』が教育の世界の中で評価されているような気がしま す。20その時代の日本は、都会化が急速に進み、激しい変化を経験していました。
人々が都会へ移動することによって、物理的な問題だけではなく、精神的・真理 的・倫理的な問題も沢山抱えています。都会は悪の巣窟であるという一側面もあり ますし、あるいは実現できそうもない夢を追い求めて、挫折してしまうという始末 の可能性も十分あります。その激しい変化の中にあって、少年達に、自分がいる境 遇に満足するような教訓を教える役割をも果たしていたのではないかと思います。
ちなみに、もう1つ、面白い逸話を付け加えさせて頂きたいと思います。日産と いう大手の自動車メーカーは
1970
年代にブルーバードという車種を出したことが あります。そのブルーバードという名前は英語ですが、日本の自動車はみんな英語 かフランス語の名前を付けるから、まさか青い鳥というふうに名付けるわけにはい かないでしょう。ところで、ブルーバードと名付けた理由は何でしょう。冨田先生 によると、次のような狙いがあったそうです。労働者と資本家、あるいは労働者と 経営側が合同して、つまり労使双方調和して、一緒に協力し合って立派な車をつく り出した。ご存知の通り、労使関係は2
通りの見ようがあります。いわゆるマルク ス主義的、あるいは社会主義的な図式だと、労使関係は対立の関係です。もう1つ の、いわゆる日本的な図式は、調和的な労使関係で、労働者と経営側が連帯感を 持って共有しあっている目的の達成に取り組んでいくものです。21以上は冨田先生
の解釈ですが、私自身はまた別の解釈があると思うのです。それは、この車は、青 い鳥のように手が届く近くにあるものです。この車が青い鳥。顧客、買い手は一所 懸命幸せを探しているのでしょうが、すぐそこにある、この素晴らしい車さえ1
台 買えば、それこそ青い鳥を入手したも同然だと言う解釈です。最後になりますが、日本の評論や翻訳の序文を読みますと、マーテルリンクはベ ルギーの国民作家であるというふうに書いてあります。しかし実はそうではありま せん。彼の名前はそれこそノーベル賞をもらった著者ですから、勿論よく知られて いますが、彼の作品はそんなに読まれていないのが現実です。むしろ日本の方が読 まれているような気がします。『青い鳥』だけではなく、他の作品もかなり翻訳さ れています。既に
1920
年代に8
部からなるマーテルリンク全集が刊行されている20 1920
年に組成された青鳥会の活動も特筆すべきであります。宮崎最勝『青い鳥のをしへ』東京:三星社、1920年参照。
21
冨田博之「『青い鳥』事始」『月刊百科』6号 (1986年)39-43頁。ことも、日本における人気を物語るものです。これは素晴らしいと思います。ベル ギーにない、まだヨーロッパにない時点で、彼の作品が既に全集として刊行されて います。実は今でもまだ詳しいマーテルリンクの本格的な伝記がないのに対して、
日本では既に
1922
年にいわゆる評伝というものが出ています。これは吉江孤雁が 桐華社から出した評伝ですが、マーテルリンクは、1949
年まで生きていますから、最終的な伝記では決してありません。ただ、それほど早い時期に、日本で大事な文 学作者として認められていたわけです。8部からなるマーテルリンク全集に収録さ れているのは、特に演劇です。彼の詩は、ずっと後になってようやく翻訳されるよ うになります。1980年代、京都の杉本秀太郎先生によって『温室』という詩集が 日本語に翻訳されています。恐らくベルギーより日本の方で評価されているマーテ ルリンクです。ある意味で『フランダースの犬』と似ているところがあります。私 は
1970
年代に初めて日本に来たのですが、『フランダースの犬』のことは一切知り ませんでした。日本に来て初めて『フランダースの犬』を耳にしました。しかも、ちょうどその時期、『フランダースの犬』のアニメがテレビで放送されていました。
それでネロとパトラッシュという名前も耳にした訳です。そういう事もあるもので す。自分の国ではあまり知られていないものが、よその国で別の道を歩んでいき、
大変な人気を博するという現象はあります。
このあたりで終わりにさせて頂きたいと思います。稚拙なお話を終わりまでご清 聴頂きまして有難う御座いました。
(拍手)
白井:先生、お話ありがとうございました。1時間半ありましたが、あっという間 に過ぎてしまいました。私はメーテルリンクという発音の方が馴染みがあるので、
こう呼んでしまいますが、今日のお話で、彼が生まれた家のことから始まって、ず いぶんいろいろなことが分かりました。やはり、『青い鳥』が日本に入ってきてか らのことが、非常に面白かったと思います。上田敏に始まり、さまざまな経緯を経 て日本の中に浸透し、特に児童向けの物語として浸透していって、さらには青い鳥 という言葉自体が、幸せの青い鳥という、何か清らかなものとして日本人の心を非 常に動かした、そして今でも動かしているということでしょうか。そういった経緯 をたくさんの事例を通して教えていただきました。
先生のお話を伺って、皆さん、思ってらっしゃることはたくさんあると思うので すが、私はブルーバードという車の名前が、『青い鳥』と関係があると知ってびっ
くりしています(笑)。確かにそうですね。しかも、日産は日産セドリックという 車も作っています。セドリックという名前はバーネット夫人という児童文学作家の 作品の主人公の名前を取っていますね。ですから、日産はファンタスティックなイ メージが好きな会社だったのかと思いながら、面白く聞いていました。
日本と『青い鳥』は、とても深いつながりがあると思うのですが、フロアのほう から、ぜひ、いろいろな質問をしていただければと思います。
質問1
質問者:せっかく家の中で見つけた青い鳥が最後に飛んでいってしまうことを、ど のように解釈するか。
ヴァンドゥワラ:結局そんなに簡単には捕まらないこと。そこで話がちょん切れる から。子どもたちが戻ってきて「あ、家に青い鳥がいた」と。それで、青い鳥は今 度、隣の子どもの手に渡れば、その子どもは奇跡的に治る。でも、そこで鳥が逃げ てしまうわけです。だから、恐らくマーテルリンクに言わせると、幸福というもの は、そんなに簡単には捕まらないという含みじゃないかなあと思いますけどね。
ただ、ずっと後ですけれども、彼は『婚約』という続編を書いています。それ は、男の子が同じように旅に出るんですけれども、彼が結婚して子どもを作る。そ の子ども達と出会うわけです。いわゆる将来に産むであろうという子ども達に出会 うわけです。だから、そういう運命は既にずっと過去から将来まで刻まれていると いうことにも取れます。そういう話だと思います。
鳥が逃げてしまうということは次のように説明できるのではないでしょうか。仏 教を勉強した時、このような話が出ていました。比喩ですが、輪廻というものは、
川に例えられる。私は今の人生に縛られており、全然悟っていない者ですね。それ で、悟りを求めようとすると、その輪廻の川を渡って行かなければならない。だか ら、此岸と彼岸、こういう隔たりがある。どうしても彼岸へ行きたいと。だから、
筏を探して、その筏に乗って川を渡っていくわけですね。それが修行です。あるい は禅の瞑想です。筏というものは、ある意味で方便というか、1つの手段です。ど うしても川を渡らなければならない。私は今此岸に在るので、それこそ娑婆という 苦しみの世界に喘いでいるものです。それで筏に乗って渡って、彼岸というか向こ う岸に着いたら、振り返って見ると川がないことに気が付きます。此岸がないと。
だから私が求めた彼岸が向こう側にあるという予想は、一種の錯覚であったと悟り ます。彼岸と此岸の区別こそが迷っているものの見方であって、向こう岸に着け
ば、着いた途端、その区別がなくなる。それが悟りである。
同じように青い鳥は、ようやく「ああ、見つかった」ということになると、結局 いなくなるという結末。そういう解釈ができるんじゃないかなと思うんですけど。
禅では、よく、そう言われているでしょ。禅に限らず、仏教にはいろんな表現が ありますけど、即身成仏とか、あるいは本覚とか、要する私がここにいるわけで、
悟りもここに在ると。別に何も、探し求めて、どこか向こう側にまで苦労していく ものではなく、自分の中で見いだすべきである。そういうふうに取れなくもないの ではないかなと思うんですけどね。
現在一般の読者は、恐らく鳥を逃がしてしまうということを、あまり認識してい ないと思いますが、ひょっとしたらそこに一番肝心なところがあるかもしれません ね。でも、そうすると、話は教訓にはならなくなるから、かえって不都合なところ があります。教訓的な話として読みたい読者は多いです。だから、今の人生に満足 して下さい。あるいは甘んじて下さい。あるいは現状肯定となることにもなるけ ど。ただ、逃がしてしまったと言うと、いきなりまた全く新しい問題が提出され る。恐らく著者としては、むしろそっちの方に意図があったのじゃないかなと思う んですけどね。マーテルリンクはずっと世界とか人生を、深く考えている人だか ら、どうしても何かうまい解決案があるはずはないと、私は思ったんですけどね。
白井:なるほど。確かにそうですね。
面白いですね。ある意味で私達日本人は、私自身も含めて、『青い鳥』の話を子 ども向けのものとして捉えてきたように思うんです。今のご説明を伺うと、もし、
子ども向けに書かれたということだとすると、『青い鳥』が逃げていってしまうと、
ちょっと悲しい気がしますけれど、大人に向けて書かれたのだと思えば、もっと深 く人生のことを考えることとか、あるいは東洋的な考えとも、どこか通じるところ がある、そんな感じがしますね。
ヴァンドゥワラ:マーテルリンクは哲学などに関心を持っていたので、仏教につい ても、いろいろ読んでいることは事実ですよね。仏教、否その根源であったバラモ ン教を全ての宗教の源とみなしていましたから、そういう意味では、全く不可能な 解釈ではないですよね。
白井:ちょっと話がずれてしまうのかもしれませんが、私から1つ質問をさせてく ださい。今の関連でお聞きしたいのは、メーテルリンク自身は、若いときからキリ スト教の世界で生きてきた人だと思うんですけれども、キリスト教のお話だと、一 番最後の幸せというのは神の国に行くことだという印象がありますが、そういうの とは少し違う流れがあるみたいですね。
ヴァンドゥワラ:ああ、そうですね。彼は、洗礼も受けましたし、それからカトリッ クの学校には通学していましたね。イエズス会の中学を出ています。ただ、彼はカ トリック教徒ではなくなりますよね。むしろ、神秘論や汎神論など、もっと哲学的 な方向に行くわけです。だから、いわゆる厳密な意味での宗教的な色彩は、彼の作 品にはないです。形而上学的な問題には強い関心は持っていましたが、従来のカト リックあるいはキリスト教の、いわゆる教理というか教義では、彼は決して満足し ないです。それどころか、彼の作品はカトリック教会の禁書目録に登録されるまで に至りました。
だから神秘論、汎神論、スウェーデンボルグの思想など、高次元の哲学に関心を 持っていました。超現実的、形而上学的なところに関心を持っていたから、見た世 界、あるいは見える世界と、そしてその裏にある世界、現実が二重にあるというこ とを非常に強く認識していました。『青い鳥』の話にも出てくるんですけど、ダイ ヤモンドを持って、その効能で、出会う人物の魂が見えるというようなモチーフも 彼らしいです。常にその表面の裏に潜んでいる、あるいは表面の裏に本質的にある ものを探し求めています。
質問2
質問者:日本でメーテルリンクと発音されている件について。若月紫蘭は、1913 年に現代社から出している『青い鳥』の翻訳の中の最初のページにメーテルリンク からの手紙を掲載しており、それを判読してみると、メーテルリンク自身が「メで 発音してくれ」というように書いているようだが、どうか。
ヴァンドゥワラ:ああ、それはそうでしょう。それは分かります。なぜかというと、
彼はゲントにいた時は、マーテルリンクと発音したと思いますよ。しかも、処女作
Le massacre des innocents (1886)『幼児虐殺』はモーリス (Mooris)
というフラマン 語風綴りの名前で出版しています。ただ、パリへ行ってみれば、パリの人達、フランスの人達は、もちろんフラマン 語を知らない。彼らは