長期的人口変動から見た東アジアの人口問題
鈴 木 透 ( 国 立 社 会 保 障 ・ 人 口 問 題 研 究 所 ) 1 . 緒 言
本 稿 で は 日 本 ・ 韓 国 ・ 台 湾 ・ 中 国 の 比 較 人 口 史 の 観 点 か ら 、 現 代 的 人 口 問 題 に 対 す る 長 期 的 人 口 変 動 の も つ 意 味 や 影 響 に つ い て 考 察 す る 。 現 在 み ら れ る 四 ヵ 国 間 の 経 済 水 準 の 差 に は 、 近 代 化 過 程 の 違 い が 反 映 さ れ て い る 。 ち な み に 各 国 の 標 準 的 な 歴 史 教 科 書 で 、 近 代 史 の 範 囲 は 次 の よ う に 設 定 さ れ て い る 。
中 国 ア ヘ ン 戦 争 (1840年 ) か ら 中 華 人 民 共 和 国 成 立 (1949 年 ) ま で 日 本 明 治 維 新 (1868年 ) か ら 第 二 次 世 界 大 戦 終 戦 (1945 年 ) ま で 朝 鮮 江 華 島 事 件 (1875年 ) か ら 日 本 統 治 終 了 (1945年 ) ま で 台 湾 日 本 併 合 (1895年 ) か ら 日 本 統 治 終 了 (1945年 ) ま で
さ ら に 遡 れ ば 、 近 代 化 以 前 の 東 ア ジ ア で は 小 農 社 会 化 と 呼 ば れ る 大 変 動 が あ り 、 小 家 族 に よ る 独 立 し た 農 業 経 営 が 主 流 に な っ た( 宮 嶋 1994)。こ れ は 日 本 で は 主 に 江 戸 時 代 に 生 じ た 変 化 で 、 各 国 と も 近 世 史 に 含 ま れ る と 考 え ら れ る 。 中 世 以 前 の 人 口 増 加 は そ れ ら の 前 史 と し て 取 り 上 げ る が 、当 然 な が ら 現 代 を 考 え る 上 で の 重 要 性 は 新 し い 時 代 の 方 が 大 き い 。
2 . 東 ア ジ ア の 人 口 増 加 と 中 国 の 「 未 富 先 老 」 問 題
2-1. 中 国 の 「 未 富 先 老 」 問 題
中 国 は 2000年 代 に 入 っ て め ざ ま し い 経 済 成 長 を 遂 げ た も の の 、一 人 当 た り 所 得 は 7000
〜8000 ド ル 程 度 で 、 韓 国 ・ 台 湾 の 水 準 (2〜3 万 ド ル ) に は 及 ば な い 。 し か し な が ら 一 人 っ 子 政 策 に よ っ て 出 生 率 は 韓 国 ・ 台 湾 と 似 た よ う な 軌 道 で 低 下 し 、 し た が っ て 人 口 高 齢 化 も 似 た 軌 道 で 進 行 す る と 予 想 さ れ る 。 こ の よ う に 中 国 人 の 所 得 が 先 進 国 の 水 準 に 至 っ て い な い の に 、 人 口 高 齢 化 は 先 進 国 並 み に 進 む 現 象 を 「 未 富 先 老 」 と 呼 び 、 今 後 の 経 済 発 展 を 阻 害 し 高 齢 者 の 福 祉 を 悪 化 さ せ る こ と が 懸 念 さ れ て い る 。
未 富 先 老 の 原 因 は 、 中 国 の 出 生 力 転 換 が 韓 国 ・ 台 湾 と 並 行 し て 進 ん だ に も か か わ ら ず 、 経 済 発 展 の 開 始 は 遅 か っ た こ と に よ る 。 こ の 人 口 増 加 と 経 済 成 長 の 時 期 の ズ レ は 、 直 接 的 に は 毛 沢 東 の 反 資 本 主 義 的 政 策 に よ る と 思 わ れ る 。一 方 で 朴 正 煕 や 蒋 介 石・蒋 経 国 父 子 は 、 出 生 率 低 下 が も た ら し た 人 口 学 的 好 機 を う ま く と ら え 、 開 発 独 裁 に よ っ て 高 度 経 済 成 長 を 実 現 し た 。 冷 戦 を 背 景 に 、 米 国 と 日 本 も 熱 心 に こ れ を 支 援 し た 。 一 方 、 中 ソ 対 立 の た め に 中 国 は 支 援 を 得 ら れ な か っ た 。
こ の よ う に 第 二 次 大 戦 後 の 政 治 的 状 況 が 経 済 発 展 の 開 始 時 期 を 大 き く 左 右 し た が 、 そ の 背 後 に は 近 代 化 ・ 産 業 化 の 開 始 時 期 と 蓄 積 に も 差 が あ っ た 。 日 本 は 19 世 紀 後 半 か ら 人 口
と 経 済 が 同 時 に 成 長 す る 近 代 的 局 面 に 入 り 、 日 本 が 植 民 地 化 し た 台 湾 ・ 朝 鮮 で も 同 様 の 過 程 が み ら れ た 。 し か し 中 国 本 土 で は 20 世 紀 に 入 っ て も 人 口 増 加 率 が 低 く 、 し た が っ て 経 済 発 展 も 低 調 し て い た と 考 え ら れ る 。 こ の よ う に 近 代 に 入 っ て か ら の 人 口 ・ 経 済 シ ス テ ム の 成 長 に は 、 東 ア ジ ア 内 部 で 大 き な 差 が あ っ た 。
さ ら に 遡 れ ば 、 近 代 化 以 前 の 東 ア ジ ア で は 小 農 社 会 化 と 呼 ば れ る 大 変 動 が あ っ た と さ れ る 。 小 家 族 に よ る 独 立 的 な 農 業 経 営 の 普 及 は 、 耕 地 拡 大 や 新 作 物 導 入 に 伴 う 農 業 生 産 増 加 と 人 口 増 加 の 同 時 進 行 を 伴 い 、村 落 や 家 族・親 族 の あ り 方 を 一 変 さ せ た 。こ う し た 変 化 は 、 中 国 で は 宋 代 か ら 明 代 に か け て ゆ っ く り と 進 行 し 、 日 本 で は 江 戸 時 代 前 期 、 朝 鮮 で は 李 朝 後 期 に 成 立 し た と さ れ る ( 宮 嶋 1994)。 台 湾 も 清 朝 に よ る 占 領 (1683 年 ) 後 、 福 建 省 や 広 東 省 な ど の 小 農 が 移 住 し て 小 農 社 会 を 確 立 し た と 考 え ら れ る 。実 際 、日 本 へ の 併 合(1895 年 )以 前 に 、灌 漑 施 設 の 整 備 や 農 業 経 営 の 商 品 化 は か な り 進 ん で い た( 中 村 2004)。こ う し た 小 農 社 会 化 の 過 程 に お け る 人 口 増 加 の 比 較 分 析 も 、 後 の 近 代 化 の 違 い を 理 解 す る 上 で 重 要 と 考 え ら れ る 。 以 下 で は 東 ア ジ ア に お け る 人 口 増 加 の 過 程 を 整 理 し 、 特 に 18 世 紀 か ら 近 代 化 の 世 紀 で あ る 19世 紀 を 経 て 20 世 紀 に 至 る ま で の 人 口 変 動 を 詳 細 に 比 較 す る 。
2-2. 日 本 の 人 口 増 加
鬼 頭 (1995; 2007) に よ る と 、 日 本 人 口 の 増 加 期 は 、 縄 文 早 期 か ら 中 期 ま で 、 弥 生 初 期 か ら 奈 良 時 代 ま で 、 室 町 前 期 か ら 江 戸 中 期 ま で 、 お よ び 19 世 紀 以 後 の 近 代 的 人 口 増 加 の 四 回 で あ る 。 弥 生 時 代 に 入 っ て か ら の 人 口 増 加 は 、 も ち ろ ん 稲 作 の 普 及 に よ る 。 平 安 時 代 に 人 口 増 加 は 減 速 し 、中 期 以 降 は ほ ぼ ゼ ロ 成 長 と な っ た が 、そ の 原 因 は 、(1)渡 来 民 の 減 少 、 (2)疫 病 の 流 行 、(3)温 暖 化 に よ る 旱 魃 の 頻 発 、(4)律 令 体 制 の 弱 体 化 に よ る 耕 地 面 積 縮 小 と さ れ る 。表 1に は 鬼 頭(2007)に よ る 日 本 の 総 人 口 を 示 し た が 、平 安 末 期 か ら 鎌 倉 中 期 に か け て 人 口 が 減 少 し た と 考 え ら れ て い る 。
室 町 時 代 に 人 口 増 加 が 加 速 し 始 め た の は 、 牛 馬 耕 や 二 毛 作 の 普 及 に よ る 。 江 戸 時 代 に 入 る と 新 田 開 発 ブ ー ム に 加 え 、 貨 幣 経 済 の 浸 透 が 勤 労 ・ 投 資 ・ 革 新 を 動 機 づ け た た め 土 地 生 産 性 も 向 上 し た( 鬼 頭 2007)。 こ の 過 程 で 名 子 ・ 下 人 ・ 所 従 ・ 抱 え の よ う な 非 独 立 的 農 民 階 層 が 消 え 、 農 家 は 家 族 労 働 に よ る 独 立 経 営 が 主 流 と な り 、 政 治 権 力 が 土 地 支 配 か ら 遊 離 し 、 民 衆 の 身 分 格 差 が 縮 小 す る な ど 、 小 農 社 会 的 な 特 徴 が 出 そ ろ っ た 。 し か し 18 世 紀 に は 新 田 開 発 の 余 地 は な く な り 、表1に み ら れ る よ う に 日 本 人 口 は3000万 人 前 後 で 停 滞 し 、 し ば し ば 減 少 も み ら れ た 。
天 保 の 飢 饉 (1833〜39 年 ) に よ る 減 少 は 例 外 と し て 、19 世 紀 前 半 に は プ ロ ト 工 業 化 に 伴 う 人 口 増 加 が 始 ま っ て い た と 考 え ら れ て い る 。 諸 藩 の 国 産 奨 励 、 幕 府 の 貨 幣 改 鋳 に よ る イ ン フ レ 、 農 業 生 産 力 の 向 上 が プ ロ ト 工 業 化 を 誘 発 し 、 新 田 開 発 や 輸 送 イ ン フ ラ 整 備 を 促 進 し 経 済 発 展 が 始 ま っ た ( 石 井 1991, 鬼 頭 2007)。 こ れ が そ の ま ま 明 治 維 新 以 後 の 産 業 化 と 近 代 的 人 口 増 加 に つ な が っ た 。20 世 紀 に 入 る と 人 口 増 加 率 は 常 時 1%を 超 え る よ う に な り 、1930年 代 に は 人 口 圧 力 が 高 ま り 海 外 移 民 を 促 進 し た 。
終 戦 時 の 国 外 か ら の 引 揚 げ と 経 済 的 荒 廃 は 、 深 刻 な 食 糧 問 題 と 失 業 問 題 を も た ら し た 。 こ の と き の 過 剰 人 口 感 は 急 激 な 出 生 力 低 下 に つ な が り 、1950 年 代 後 半 に は 早 く も 置 換 水 準 を 下 回 っ た 。 出 生 率 は 1970 年 代 半 ば ま で は 置 換 水 準 付 近 に と ど ま っ た が 、 そ の 後 の 第 二 人 口 転 換 に よ っ て 置 換 水 準 を 大 き く 下 回 り 、 現 在 に 至 っ て い る 。 他 の 先 進 国 が 戦 後 ベ ビ ー
ブ ー ム を 迎 え た 1950〜60 年 代 に 出 生 率 が 低 か っ た こ と は 、 世 界 最 低 水 準 の 死 亡 率 と 相 ま っ て 、日 本 を 世 界 で 最 も 人 口 高 齢 化 が 進 ん だ 国 に し た 。1950年 代 後 半 の 置 換 水 準 到 達 か ら 、 実 際 に 人 口 が 減 少 に 転 じ た 2010年 前 後 ま で 、55年 程 度 か か っ た 。 こ の こ と か ら 、 低 出 生 率 が 人 口 増 加 期 の 運 動 量 を 打 ち 消 す の に 2世 代 程 度 か か る こ と を 確 認 で き る 。
表1. 日本の人口
年 人口(千人) 出所 年 人口(千人) 出所
725 4,512 鬼頭(2007) 1875 35,316 内閣統計局(1930) 800 5,506 〃 1880 36,649 〃
900 6,441 〃 1885 38,313 〃 1150 6,837 〃 1890 39,902 〃 1280 5,950 〃 1895 41,557 〃 1450 10,050 〃 1900 43,847 〃 1600 12,273 〃 1905 46,620 〃 1721 31,279 〃 1910 49,184 〃 1750 31,011 〃 1915 52,752 〃 1756 31,283 〃 1920 55,473 国勢調査 1786 30,104 〃 1925 59,737 〃 1792 29,870 〃 1935 69,254 〃 1798 30,565 〃 1940 71,933 〃 1804 30,746 〃 1947 78,101 〃 1822 31,914 〃 1950 83,200 〃 1828 32,626 〃 1955 89,276 〃 1834 32,477 〃 1960 93,419 〃 1840 31,102 〃 1965 98,275 〃 1846 32,297 〃 1970 104,665 〃 1975 111,940 〃 1980 117,060 〃 1985 121,049 〃 1990 123,611 〃 1995 125,570 〃 2000 126,926 〃 2005 127,768 〃 2010 128,057 〃
鬼頭宏(2007)『図説:人口で見る日本史−縄文時代から近未来社会まで』PHP研究所 内閣統計局(1930)『明治五年以前我国人口』
2-3. 朝 鮮 の 人 口 増 加
19 世 紀 ま で の 朝 鮮 の 人 口 規 模 に つ い て は 、 よ く わ か っ て い な い 。 李 憲 昶 (2004) に よ る と 、 高 麗 時 代 (918〜1392年 ) に は 休 閑 せ ず 毎 年 同 じ 耕 地 を 利 用 す る 連 作 常 耕 法 が 普 及 し 、 人 口 は 増 加 し た と さ れ る 。 斎 藤 (2002) は 、14 世 紀 中 国 で は モ ン ゴ ル の 侵 入 に よ り 疫 学 バ ラ ン ス が 崩 壊 し 、 人 口 が 急 減 し た と 主 張 し た 。 同 じ こ と が 朝 鮮 に も 言 え る の で あ れ ば 、13世 紀 後 半 か ら の モ ン ゴ ル の 侵 入 に よ っ て 、高 麗 で も 人 口 減 少 が あ っ た だ ろ う 。1392 年 に 李 氏 朝 鮮 が 建 国 し て 以 降 は 、 低 地 帯 の 開 墾 、 旱 魃 に 強 い チ ャ ン パ 米 や 綿 花 の 普 及 な ど で 農 業 生 産 が 向 上 し た と さ れ る 。 ま た 16 世 紀 以 降 に は 移 秧 法 が 普 及 し 、18 世 紀 に は ト ウ モ ロ コ シ 、サ ツ マ イ モ 、ジ ャ ガ イ モ と い っ た 新 大 陸 産 の 作 物 が 導 入 さ れ た( 李 憲 昶 2004)。
こ の よ う に し て 飢 饉 や 戦 乱 に よ る 一 時 的 な 減 少 は あ っ た が 、18 世 紀 ま で 人 口 は お お む ね 増 加 し た と 考 え ら れ る 。
表 2 に 示 し た 李 憲 昶(2004)の 推 計 値 は 、1500〜1800年 の 間 一 貫 し て 0.2%程 度 の 年 平 均 増 加 率 を 想 定 し て い る 。増 加 率 の 想 定 と し て は 高 い と は 言 え な い が 、1800年 の 人 口 1650 万 人 は 過 大 評 価 で あ る よ う に 思 わ れ る 。こ れ で は 1915年 に 至 っ て も ま だ 1800年 の 水 準 を 回 復 で き て お ら ず 、19 世 紀 に 未 曾 有 の 人 口 減 少 が あ っ た こ と に な る 。人 口 減 少 の 要 因 と し て 、 李 憲 昶 は 慢 性 的 飢 饉 と 山 林 伐 採 に よ る 洪 水 の 増 加 を あ げ 、 民 乱 の 勃 発 も 慢 性 的 飢 饉 の 現 れ と す る 。
表2. 朝鮮、韓国の人口
年 人口(千人) 出所 年 人口(千人) 出所
1500 9,000 李(2004) 1949 20,189 韓国人口総調査 1600 11,000 〃 1955 21,526 〃
1700 13,500 〃 1960 24,989 〃 1800 16,500 〃 1966 29,160 〃 1807 7,561 石(1972) 1970 31,435 〃 1837 6,709 〃 1975 34,707 〃 1864 6,829 〃 1980 37,436 〃 1901 5,608 〃 1985 40,448 〃 1910 15,474 〃 1990 43,411 〃 1915 16,485 〃 1995 44,609 〃 1920 17,533 〃 2000 46,136 〃 1925 18,797 〃 2005 47,279 〃 1930 20,219 〃 2010 48,580 〃 1935 21,890 〃
1940 23,342 〃 1945 25,355 〃
李憲昶(2004)『韓国経済通史』須川英徳・六反田豊監訳, 法政大学出版局 石南國(1972)『韓国の人口増加の分析』勁草書房
表 2 に 示 し た 1807〜1901年 の 人 口 は 戸 口 人 口 で 、多 大 な 登 録 漏 れ が あ り 、1800年 以 前 と も 1910 年 以 後 と も 比 較 で き な い 。も と よ り 19世 紀 の 戸 口 統 計 に よ る 人 口 増 加 率 が 正 し い と い う 保 証 も な く 、 約 100 年 で 16%( 年 率 0.3%) の 人 口 減 少 も 過 大 な の か 過 小 な の か 見 当 が つ か な い 。 そ れ で も 19 世 紀 に 人 口 減 少 が あ っ た こ と 自 体 は 、 合 意 が 得 ら れ て い る
( 須 川 2011)。 朝 鮮 史 に お け る 近 代 は 江 華 島 条 約 (1876 年 ) を 以 て 始 ま る が 、 開 港 以 後 も 人 口 減 少 が 続 い た 。 石 南 國 (1972) は 要 因 と し て 、 諸 外 国 の 侵 入 、 家 屋 焼 失 、 戦 死 、 飢 饉 ・ 疫 病 を 列 挙 し て い る 。
表 2 に 示 し た 1910〜20 年 の 人 口 は 、 石 に よ る 1926 年 1 月 1 日 か ら 出 発 し た 逆 進 推 計 値 で 、1925〜45年 は 国 勢 調 査 に 依 拠 し た 1 月 1 日 時 点 の 人 口 で あ る 。こ れ に よ る と 、1910
〜30年 代 は 日 本 と 似 た 水 準 の 人 口 増 加 率 を 保 持 し た こ と に な る 。 た だ し 石 の 1910 年 推 計 人 口 (1547万 人 ) は 、 金 哲 (1965)、Kwon, et al.(1975)、박 경 숙(2009) と い っ た 他 の 推 計 値 よ り 小 さ く 、 し た が っ て 人 口 増 加 率 は 他 よ り 高 く な る 。 い ず れ に せ よ 、 朝 鮮 人 口 は 19 世 紀 を 通 じ て 減 少 し て い た が 、 日 本 に よ る 併 合 (1910 年 ) 後 は 近 代 的 増 加 を 示 し た と 考 え て よ い だ ろ う 。
朝 鮮 戦 争 停 戦(1953年 )後 の 韓 国 の 人 口 増 加 率 は 日 本 を 大 き く 上 回 っ た が 、台 湾 ほ ど 高 く は な か っ た 。 韓 国 ・ 台 湾 と も 1970 年 代 以 降 は 出 生 率 低 下 に よ っ て 人 口 増 加 も 減 速 し 、
一 方 で 高 度 経 済 成 長 に よ っ て 所 得 水 準 が 上 昇 す る 好 循 環 の 局 面 を 迎 え た 。 出 生 力 の 置 換 水 準 到 達 は 1980年 代 前 半 で あ り 、統 計 庁 の 最 新 の 推 計 で は 2031年 の 5296万 人 を ピ ー ク に 減 少 に 転 じ る と さ れ る ( 朝 鮮 日 報 日 本 語 版 2016 年 12月 9日 付 )。
2-4. 台 湾 の 人 口 増 加
明 代 の 台 湾 に は 、 狩 猟 ・ 採 集 や 原 始 的 な 稲 作 を 行 う 原 住 民 と 、 商 人 と 盗 賊 を 兼 ね た 小 数 の 海 商 が い る だ け で 、漢 人 の 農 耕 社 会 は な か っ た 。明 末 に オ ラ ン ダ(1624年 )と ス ペ イ ン
(1626 年 ) が 競 っ て 台 湾 を 基 地 化 し た が 、1642 年 に オ ラ ン ダ が ス ペ イ ン を 追 い 出 し 、 漢 人 を 誘 致 し て 開 墾 に 従 事 さ せ た 。
1662 年 、 鄭 成 功 は オ ラ ン ダ 人 を 台 湾 か ら 放 逐 し 、3 代 21 年 に わ た っ て 鄭 氏 に よ る 台 湾 統 治 が 続 い た 。鄭 氏 集 団 は 数 万 人 の 軍 民 を 扶 養 す る た め 、軍 民 が 直 接 開 墾 す る「 軍 屯 」や 、 本 土 か ら 漢 人 を 招 聘 し て 開 墾 さ せ る 「 官 墾 」 に よ っ て 、 台 湾 南 部 を 中 心 に 耕 地 を 広 げ て 行 っ た 。
表3. 台湾の人口
年 人口(千人) 出所 年 人口(千人) 出所 1680 200 陳(1979) 1946 6,091 内政部(2008) 1810 2,000 〃 1950 7,554 〃
1890 2,500 〃 1955 9,078 〃 1900 2,807 溝口(2008) 1960 10,792 〃 1905 3,080 〃 1965 12,628 〃 1910 3,254 〃 1970 14,754 〃 1915 3,520 〃 1975 16,223 〃 1920 3,694 〃 1980 17,866 〃 1925 4,067 〃 1985 19,314 〃 1930 4,593 〃 1990 20,401 〃 1935 5,212 〃 1995 21,357 〃 1940 5,872 〃 2000 22,277 〃 1944 6,270 〃 2005 22,770 〃
2010 23,162 行政院主計総處 陳紹馨(1979)『臺灣的人口變遷與社會變遷』聯經
溝口敏行『アジア長期経済統計1 台湾』東洋経済新報社 内政部(2008)『人口政策資料彙集』
1683年 に 清 朝 が 鄭 氏 政 権 を 打 倒 し て 台 湾 を 接 収 す る と 、渡 航 禁 止 に も か か わ ら ず 福 建 省 か ら 多 く の 開 拓 民 が 来 住 し 、 広 東 省 東 部 か ら は 季 節 労 働 者 が 来 島 す る よ う に な っ た 。 朱 一 貴 の 乱 (1721 年 ) の 際 に 改 め て 台 湾 渡 航 禁 止 令 が 出 さ れ た が 、 不 法 移 民 の 流 れ は 続 い た 。 広 東 省 嘉 応 州 で は 人 口 圧 力 が 高 ま り 、 客 家 の 台 湾 へ の 集 団 移 住 が 生 じ た (Ho 1959)。 表 3 に 示 し た よ う に 、陳 紹 馨(1979)に よ る と 1680〜1810年 の 130年 間 に 10倍 増( 年 率 1.8%)
の 急 激 な 人 口 増 加 が あ っ た こ と に な る 。 も ち ろ ん 中 国 本 土 か ら の 転 入 超 過 が 主 な 要 因 で 、 自 然 増 加 率 は そ れ ほ ど 高 く な か っ た だ ろ う 。
第 二 次 ア ヘ ン 戦 争( ア ロ ー 号 事 件 )の 結 果 、1860年 の 北 京 条 約 で 台 湾 の 台 南 と 淡 水 が 開 港 さ せ ら れ 、さ ら に 打 狗( 高 雄 )と 鶏 龍 も 開 港 し た 。1871年 の 牡 丹 社 事 件 で 日 本 と の 緊 張 が 高 ま る と 、 清 朝 は 台 湾 へ の 移 住 を 奨 励 す る よ う に な っ た 。 茶 ・ 樟 樹 栽 培 の 急 拡 大 に よ っ て 漢 人 が 山 岳 地 帯 の 生 蕃 ( 順 化 し な い 原 住 民 ) 居 住 地 に 進 出 し 、 衝 突 が 増 え た 。 そ れ ま で
米 作 に 適 し た 南 部 が 人 口 稠 密 だ っ た が 、 茶 ・ 樟 樹 栽 培 に 適 し た 北 部 に 開 発 中 心 が 移 っ た 。 し か し 陳 紹 馨 が 想 定 し た 1810〜90年 の 年 平 均 増 加 率 は 0.3%で 、 か な り 減 速 し て い る 。 日 清 戦 争 の 結 果 、1895 年 に 台 湾 は 日 本 に 併 合 さ れ た 。接 収 の 過 程 で か な り の 超 過 死 亡 が あ っ た が 、 そ の 後 は 日 本 本 土 や 朝 鮮 を 大 幅 に 上 回 る 高 い 人 口 増 加 率 を 示 し た 。 米 以 外 に め ぼ し い 輸 出 品 が な か っ た 朝 鮮 と 異 な り 、 台 湾 は 砂 糖 ・ 茶 ・ 缶 詰 ・ ア ル コ ー ル 等 を 日 本 に 輸 出 し て 大 幅 な 黒 字 を 達 成 し た( 金 洛 年 2004)。富 の 分 配 は む し ろ 平 等 化 し 、日 本 や 朝 鮮 の よ う に 人 口 圧 力 に よ っ て 出 国 超 過 が 顕 著 に な る こ と も な か っ た (Cumings 1997)。
日 本 の 敗 戦 に よ っ て 、1945 年 に 台 湾 は 中 華 民 国 に 接 収 さ れ た 。1949 年 に 国 共 内 戦 で 共 産 党 に 敗 れ る と 、30 万 人 を 超 え る 外 省 人 が 台 湾 に 逃 げ 込 ん で 来 た 。1950〜60 年 代 に も 台 湾 は 韓 国 を 大 き く 上 回 る 人 口 増 加 率 を 維 持 し た が 、1970 年 代 以 降 は 韓 国 並 み の 水 準 ま で 減 速 し た 。 国 家 発 展 委 員 会 (2016) の 将 来 人 口 推 計 ( 中 位 推 計 ) に よ る と 、2024 年 の 2374 万 人 を ピ ー ク に 減 少 に 転 じ る と さ れ る 。
2-5. 中 国 の 人 口 増 加
中 国 で は 王 朝 の 安 定 期 に 人 口 が 増 加 し 、 王 朝 交 替 に よ る 混 乱 期 に 激 減 す る 例 が 多 く 見 ら れ た 。 岡 本 (2013) に よ る と 、 中 国 の 人 口 増 加 期 と し て 漢 代 、 宋 代 、 明 代 、 清 代 が 重 視 さ れ る 。 漢 書 地 理 誌 の 記 録 か ら 、 平 帝 元 始 2 年 ( 西 暦 2 年 ) の 漢 の 人 口 は 6000万 人 に 達 し て い た と さ れ る 。 こ の 時 期 の 人 口 は 中 原 の 黄 河 支 流 域 に 集 中 し て お り 、 江 南 は 人 口 希 薄 な 低 開 発 地 域 だ っ た 。3〜4世 紀 は 世 界 的 な 寒 冷 期 で 、中 国 で も 人 口 が 減 少 し た 。六 朝 時 代(222
〜589 年 ) は 南 北 分 立 時 代 で 、 江 南 が 中 原 に 匹 敵 す る 経 済 力 を 持 つ に 至 っ た 。7 世 紀 に は ペ ス ト の 流 行 で 人 口 の 4 分 の 1 が 失 わ れ た ( 石 弘 之 1995)。 人 口 が 漢 代 の 6000万 人 を 回 復 し た の は 、8 世 紀 半 ば の 盛 唐 期 と さ れ る 。
11世 紀 初 頭 に チ ャ ン パ 米( 早 稲 品 種 )が 導 入 さ れ 、長 江 デ ル タ で 普 及 し 、こ の 地 域 で 二 毛 作 が 可 能 に な っ た 。こ う し て 長 江 下 流 域 が 農 業 の 中 心 地 と な り 、「 蘇 湖 熟 す れ ば 天 下 足 る 」 と 言 わ れ た 。 こ の 時 代 に は 中 原 の 開 発 は 限 界 に 達 し て お り 、 人 口 増 加 は も っ ぱ ら 長 江 流 域 を 中 心 と す る 江 南 で 起 こ っ た (Ho 1959, Bray 1984)。 表 4に 示 し た よ う に 、11世 紀 初 頭 の 人 口 は 1億 人 に 達 し て い た と 考 え ら れ て い る 。
斎 藤 (2002) に よ る と 、13 世 紀 の 宋 元 交 替 期 に モ ン ゴ ル の 侵 入 に よ っ て 疫 学 的 バ ラ ン ス が 大 き く 崩 れ 、14世 紀 の 中 国 人 口 は 9000 万 人 台 ま で 減 少 し た 。さ ら に 元 明 交 替 期 の 14 世 紀 は 世 界 的 な 寒 冷 化 と ペ ス ト 流 行 の 時 代 で 、 中 国 経 済 も ど ん 底 に 落 ち た ( 岡 本 2013)。
明 朝 は 農 業 生 産 の 回 復 に 努 め 、15世 紀 に は そ れ ま で の 長 江 以 下 流 域 に 代 わ っ て 中 流 域 が 稲 作 の 中 心 地 と な り 、「 湖 広 熟 す れ ば 天 下 足 る 」と 言 わ れ る よ う に な っ た 。表 に 示 し た よ う に 、 斎 藤 は 16 世 紀 初 頭 の 人 口 を 1 億 2500万 人 と 推 定 し た 。
16世 紀 に 入 る と ト ウ モ ロ コ シ 、サ ツ マ イ モ 、ピ ー ナ ッ ツ 、ジ ャ ガ イ モ の よ う な ア メ リ カ 産 作 物 が 導 入 さ れ 、第 二 の 農 業 革 命 が 起 き た(Ho 1959)。こ れ に よ り 南 西 部 ・ 東 北 部 で 畑 作 が 拡 大 し 、辺 境 地 帯 へ の 大 規 模 な 殖 民 を 誘 発 し た 。明 清 交 替(1644年 )以 後 、海 禁 政 策 に よ る 大 不 況 で 人 口 は 停 滞 し た 。1630〜40年 代 は 世 界 的 に 飢 饉 が 多 か っ た( 岡 本 2013)。
Ho に よ る と 、 明 清 交 替 期 の 農 民 叛 乱 に よ る 超 過 死 亡 は 厖 大 で 、 四 川 盆 地 は 絶 滅 に 近 い 状 態 だ っ た 。 し か し 斎 藤 は 、 こ の 時 の 人 口 減 少 は 調 査 漏 れ の 影 響 が 大 き く 、 実 際 の 人 口 減 少 は そ れ ほ ど で も な か っ た と し て い る 。
1683年 に 鄭 氏 集 団 が 降 伏 す る と 海 外 貿 易 が 再 開 さ れ 、 雍 正 期 (1722〜35年 ) に は 貿 易 が 活 性 化 し 景 気 は 好 転 し た 。乾 隆 期(1735〜96 年 )に は 茶 の 輸 出 で イ ン フ レ 好 況 と な り 、 人 口 は 増 加 し た 。 厖 大 な 貨 幣 供 給 に よ る 取 引 の 促 進 、 需 要 の 喚 起 に 刺 激 さ れ た 生 産 の 増 大 が 人 口 増 加 の 背 景 で あ る ( 岡 本 2013)。
表4. 中国の人口
年 人口(千人) 出所 年 人口(千人) 出所 1000 100,000 齋藤(2002) 1910 436,000 曹(2001) 1500 125,000 〃 1915 447,507 南・牧野(2014) 1700 150,000 小林(1942) 1920 461,916 〃
1728 175,000 〃 1925 477,053 〃 1744 200,000 〃 1930 498,085 〃 1775 264,561 東華録 1935 532,199 〃 1780 277,554 〃 1940 539,824 〃 1785 288,864 〃 1945 548,170 〃 1790 301,487 〃 1949 559,003 〃 1794 313,282 〃 1955 619,159 〃 1800 350,000 齋藤(2002) 1960 670,185 〃 1820 383,000 曹(2001) 1965 711,515 〃 1845 427,612 趙・謝(1988) 1970 815,226 〃 1851 436,000 曹(2001) 1975 914,181 〃 1855 430,361 趙・謝(1988) 1980 980,196 〃
1865 369,857 〃 1985 1,050,428 〃
1875 358,662 〃 1990 1,134,388 〃
1880 364,000 曹(2001) 1995 1,205,465 〃 1885 373,140 趙・謝(1988) 2000 1,264,827 〃 1894 421,000 Rockhill(1904-05) 2005 1,305,587 〃 1901 426,447 続通考 2010 1,339,223 〃
斎藤修(2002)「伝統中国の歴史人口学−『人類の四半分の人口史』と近年の実証研究−」『社会経済史学』68(2):87-99 小林文夫(1942)『近世支那經濟史研究』弘文堂
曹樹基(2001)『中国人口史5 清時期』復旦大学出版社〔水島他(2015)より〕
趙文林・謝淑君(1988)『中国人口史』人民出版社〔上田信(1995)より〕
W.W. Rockhill (1904-05) "An Inquiry into the population of China" 〔小林(1942)より〕
南亮進・牧野文夫(2014)『アジア長期経済統計3 中国』東洋経済新報社
国 史 館 が 編 纂 し た 『 東 華 録 』 に 記 載 さ れ て い る 清 朝 初 期 の 人 丁 ( 成 年 男 子 ) は 、1063 万 人 (1651 年 ) か ら 2636 万 人 (1732 年 ) と 増 加 し た 。 小 林 (1942) は こ れ を も と に 、 康 煕 期 (1662〜1722年 ) の 総 人 口 は 、1.3〜1.4 億 人 か ら 1.6〜1.7 億 人 ま で 増 加 し た と 考 え た 。 陳 紹 馨 (1979) も 、1700 年 の 人 口 を 1.5 億 人 と し て い る 。 表 4 で は 小 林 と 陳 に 従 い 、1700年 の 人 口 を 1.5 億 人 と し た 。小 林 は 雍 正 期(1723〜33年 )の 人 口 を 1.7〜1.8 億 人 だ っ た と し た の で 、 表 4 で は 1728 年 の 人 口 と し て 1.75 億 人 を 見 込 ん だ 。
乾 隆 期 (1736〜95 年 ) に は 保 甲 制 に よ る 戸 口 調 査 が 浸 透 し 、 人 丁 で な く 人 口 が 分 か る よ う に な っ た 。1742〜45 年 の 人 口 は 1.6〜1.7 億 と 集 計 さ れ た が 、 小 林 は 2 億 人 前 後 だ っ た だ ろ う と し た 。 表 4 で は 1744 年 に 2 億 人 に 達 し た と 仮 定 し た 。1774 年 の 2.21 億 人 か ら 翌 1775 年 の 2.65 億 人 へ と 不 自 然 な 飛 び が あ る が 、こ れ は 編 審 の 制 が 廃 止 さ れ 官 吏 が 人 口 の 多 報 を も っ て 上 意 を 迎 え る よ う に な っ た も の で 、1775 年 以 降 は 水 増 し さ れ た 数 値 と 考 え ら れ る 。小 林 は 水 増 し 分 の 4000万 人 は ち ょ う ど 脱 漏 数 に 合 致 し 、1775〜94年 の 人 口 は
そ の ま ま 受 け 入 れ て よ い と し た 。 表 4 で は こ れ に 従 い 、『 東 華 録 』 に 記 載 さ れ て い る 数 字 を そ の ま ま 採 用 し た 。し か し 齊 藤 に よ る 1800年 の 推 定 値(3.5 億 人 )と つ な げ る と 、1794
〜1800年 の 年 平 均 増 加 率 が 1.86%と か な り 高 く な っ て し ま う の で 、戸 口 調 査 の 漏 洩 数 の 方 が 水 増 し 分 よ り 大 き い の か も し れ な い 。
中 国 の 近 代 史 は 1840 年 の ア ヘ ン 戦 争 を 以 て 始 ま る と さ れ る が 、 日 本 等 と は 逆 に 中 国 人 口 は 近 代 に 入 っ た 19 世 紀 後 半 に 減 少 局 面 に 入 っ た 。19 世 紀 に は ア メ リ カ 産 作 物 に よ る 耕 地 拡 大 も 限 界 に 近 づ き 、 人 口 増 加 率 に 追 い つ け ず 、 貧 困 化 と 治 安 悪 化 が 進 ん で い た 。 捻 軍 起 義 (1855〜68 年 )、 回 民 反 乱 (1864〜73 年 )、 太 平 天 国 の 乱 (1864〜73 年 ) と 相 次 ぐ 民 乱 は 耕 地 の 荒 廃 を も た ら し 、 食 糧 難 と 暴 動 の 悪 循 環 を 起 こ し た 。
水 島 他 編 (2015) に よ る と 、 曹 樹 基 は 清 朝 人 口 の 推 計 値 と し て 3.83 億 人(1820)、4.36 億 人(1851)、3.64 億 人(1880)、4.36 億 人(1910)を あ げ た 。表 4 で は こ れ ら を そ の ま ま 採 用 し た 。 上 田 (1995) は 趙 文 林 ・ 謝 淑 君 に よ る 1845〜85 年 の 省 別 人 口 の 推 計 値 を 収 録 し て お り 、表 4で は そ の 総 計 を 採 用 し た 。そ れ に よ る と 1845年 の 4億 2800万 人 か ら 1875 年 の 3 億 5900 万 人 ま で 、 約 6900 万 人 (-16%) の 人 口 減 少 が あ っ た こ と に な る 。 小 林 は 、 Rockhill に よ る 1894 年 の 推 計 値(4億 2100万 人 )と 、『 続 通 考 』に あ る 1901年 人 口(4.26 億 人 ) は 、 少 し 多 い よ う だ が 大 き く 外 れ て は い な い と 評 価 し た 。 表 4で は こ れ ら を そ の ま ま 採 用 し た が 、 そ れ に よ る 年 平 均 増 加 率 (1.35%) は 高 す ぎ る よ う に 思 わ れ る 。
20世 紀 前 半 に 中 国 人 口 は 増 加 し た が 、人 口 増 加 率 は 日 本・朝 鮮・台 湾 よ り は る か に 低 か っ た 。 こ れ は 近 代 化 ・ 産 業 化 に よ っ て 起 こ る は ず の 栄 養 状 態 の 改 善 、 医 療 技 術 の 導 入 、 衛 生 環 境 の 改 善 等 が 十 分 で な く 、死 亡 力 転 換 が 進 ま な か っ た こ と を 示 唆 す る 。実 際 、Barclay, et al. (1976)の 推 計 に よ る と 、1930 年 頃 の 中 国 農 村 部 の 平 均 寿 命 は 男 子 女 子 24.6 年 、 女 子 23.7 年 と 推 定 さ れ 、 近 代 化 の 恩 恵 を ほ と ん ど 受 け て い な い よ う に 見 え る 。 表 4の 1915 年 以 後 の 人 口 は 、 南 ・ 牧 野(2014) に 掲 載 さ れ た 推 定 値 お よ び 公 表 値 で あ る 。中 華 民 国 で は 1912 年 と 1928 年 に セ ン サ ス が 行 わ れ た 。蒋 介 石 は 1934 年 に 保 甲 制 を 復 活 さ せ 、 そ れ に よ っ て 人 口 登 録 の 改 善 を 図 っ た (Ho 1959)。
中 華 人 民 共 和 国 建 国(1949年 )以 後 は 、大 躍 進 政 策(1959〜61 年 )や 文 化 大 革 命(1966
〜76年 )の よ う な 失 政 は あ っ た も の の 、人 口 増 加 率 は 日 本・韓 国 を 上 回 る よ う に な り 、死 亡 率 低 下 が あ っ た こ と を 示 唆 す る 。実 際 に 粗 死 亡 率 は 、1960年 の 大 躍 進 飢 饉 に よ る 急 騰 を 除 い て 低 下 を 続 け た 。粗 出 生 率 も 1960年 代 に は 低 下 を 開 始 し 、1979年 以 降 の 一 人 っ 子 政 策 は こ の 出 生 力 転 換 を 促 進 し た 。 中 国 の 出 生 力 は 1990 年 代 以 降 置 換 水 準 以 下 に あ る と 考 え ら れ 、2030年 代 に は 人 口 減 少 に 転 じ る と 予 想 さ れ る (UNPD 2015)。
2-6. 東 ア ジ ア の 人 口 増 加 の 比 較
古 代 の 東 ア ジ ア で は 領 主 や 富 農 が 、 奴 隷 ま た は 半 奴 隷 的 な 隷 属 農 民 を 使 役 し て 農 地 経 営 を 行 っ て い た 。日 本 で は16〜17世 紀 の 大 開 墾 時 代 に 耕 地 面 積 と 人 口 が 急 増 す る と と も に 、 名 子 ・ 下 人 と い っ た 隷 属 農 民 層 が 消 滅 し 、 単 婚 小 家 族 ( 直 系 家 族 世 帯 ) に よ る 小 規 模 独 立 経 営 が 主 体 に な っ た( 平 野 2010)。小 農 社 会 化 に 伴 う 人 口 増 加 は 急 激 で 、表 1か ら 得 ら れ る 1600〜1721年 の 年 平 均 増 加 率 は 0.77%と な る 。仮 に 鬼 頭(2007)が 示 唆 す る よ う に 1600 年 の 人 口 を 1500万 人 と し て も 、0.61%の 増 加 率 と な る 。
朝 鮮 で は 18 世 紀 に 奴 婢 人 口 が 激 減 し 、18世 紀 後 半 に は 小 農 社 会 が 成 立 し た と み ら れ る
( 中 村 2004)。18 世 紀 の 人 口 増 加 は 、 移 秧 法 の 普 及 、 集 約 的 農 法 、 新 作 物 ( ト ウ モ ロ コ シ 、 サ ツ マ イ モ 、 ジ ャ ガ イ モ ) の 作 付 け に よ る 土 地 生 産 性 向 上 に よ る も の で あ る ( 李 憲 昶 2004)。 た だ し 朝 鮮 で は 、 大 規 模 な 治 水 工 事 を 通 じ た 大 河 川 中 ・ 下 流 域 の 開 墾 は 進 ま ず 、 日 本 の よ う な 耕 地 の 急 激 な 拡 大 は な か っ た ( 宮 嶋 1994)。 李 憲 昶 が 16〜18 世 紀 の 年 平 均 人 口 増 加 率 を 一 貫 し て 0.2%程 度 と 仮 定 し た よ う に 、人 口 増 加 も 日 本 ほ ど め ざ ま し い も の で は な か っ た 。 中 村 は 台 湾 で の 小 農 社 会 成 立 を 19 世 紀 と し た 。 台 湾 の 人 口 増 加 は 福 建 ・ 広 東 か ら の 来 住 が 主 要 因 な の で 、 他 と 比 較 で き な い 。
宮 嶋 に よ る と 、中 国 の 小 農 社 会 化 は 明 代 前 期 に 完 了 し た 。こ れ は Ho(1959)の 言 う 第 一 の 農 業 革 命 、 つ ま り 長 江 下 流 域 を 中 心 と す る チ ャ ン パ 米 の 導 入 と 二 毛 作 の 普 及 と と も に 、 農 業 経 営 の 主 体 が 隷 属 農 民 層 の 使 役 か ら 小 家 族 の 独 立 経 営 に 移 行 し た こ と に な る 。 し か し 表 4 か ら 得 ら れ る 1000〜1500 年 の 年 平 均 増 加 率 は 0.04%で 、 人 口 増 加 は 緩 慢 だ っ た 。 こ れ に は 元 明 交 替 期 の 人 口 減 少 も 影 響 し て い る だ ろ う 。 小 農 社 会 化 に 伴 う 人 口 増 加 よ り も 、 ア メ リ カ 産 作 物 の 導 入 に よ る 第 二 の 農 業 革 命 に 伴 う 人 口 増 加 の 方 が は る か に 急 激 だ っ た 。
-2.0 -1.0 0.0 1.0 2.0 3.0 4.0
1700 1750 1800 1850 1900 1950 2000
(%)
図1. 東アジアの人口増加率
日本 朝鮮 韓国 台湾 中国
図 1 は 表 1〜4か ら 求 め た 1700年 以 後 の 年 平 均 増 加 率 を 比 較 し た も の だ が 、異 な る 資 料 間 で 明 ら か に 不 合 理 と 思 わ れ る 増 加 率 は 除 外 し た 。こ の 図 に よ る と 、18世 紀 の 清 国 人 口 は 年 率 1%に 近 い 増 加 率 を 示 し た 。 こ の 時 期 の 耕 地 拡 大 と 人 口 増 加 は 、 茶 の 対 英 輸 出 を 含 む 対 外 貿 易 に よ る 好 況 に 支 え ら れ て い た ( 岡 本 2013)。 疾 病 史 的 観 点 か ら 見 る と 、13 世 紀 の モ ン ゴ ル 帝 国 の 拡 大 に 伴 う 疫 学 的 バ ラ ン ス の 崩 壊 は 、18 世 紀 に よ う や く 回 復 し た と さ れ る (McNeill 1976)。 は し か 、 天 然 痘 、 赤 痢 、 コ レ ラ 等 の 感 染 症 は 流 行 を 繰 り 返 す こ と で
毒 性 を 弱 め 、 あ る い は 小 児 病 と 化 し て 免 疫 が 行 き 渡 っ た 。 感 染 症 の 脅 威 が 軽 減 さ れ た こ と で 、 ど の 国 に も 新 た な 人 口 増 加 期 を 迎 え る 準 備 が 整 っ た が 、 こ の 機 会 を 最 初 に 活 か し た の が 清 国 だ っ た 。実 際 、清 国 の 人 口 増 加 率 は 18 世 紀 前 半 に 既 に 0.5%を 超 え て お り 、18 世 紀 後 半 か ら 本 格 的 な 人 口 増 加 に 入 っ た 英 国 よ り 早 く 始 ま っ た 。
し か し 19世 紀 に 入 る と 清 国 の 人 口 増 加 は 鈍 化 し 、太 平 天 国 の 乱(1864〜73年 )前 後 の 人 口 減 少 は 、 日 本 の 天 保 の 飢 饉 (1833〜39 年 ) に よ る 超 過 死 亡 を 大 き く 上 回 っ た と 考 え ら れ る 。 英 国 よ り 後 で あ れ ば 、 人 口 と 農 業 生 産 の 同 時 成 長 を 工 業 化 に 結 び つ け る モ デ ル が 存 在 し て い た の だ が 、 先 頭 走 者 で あ る 清 国 は 産 業 革 命 の 経 験 に 学 ぶ 機 会 が な い ま ま 農 耕 社 会 と し て の 限 界 に 近 づ き 、 破 局 的 な 危 機 を 迎 え た と 解 釈 で き る 。 一 方 、 英 国 モ デ ル の 模 倣 に ア ジ ア で 最 も 成 功 し た の が 日 本 だ っ た 。
清 国 と は 逆 に 18世 紀 か ら 19世 紀 前 半 ま で の 日 本 人 口 は 停 滞 し て お り 、時 に 飢 饉 に よ る 人 口 減 少 が み ら れ た 。 鬼 頭(2007) に よ る と 、こ の 時 期 の 人 口 停 滞 は 、死 亡 率 よ り は 晩 婚 化 や 夫 婦 出 生 力 低 下 ( 堕 胎 、 嬰 児 殺 、 禁 欲 、 授 乳 等 に よ る ) に よ る 出 生 率 低 下 が 重 要 な 要 因 で あ る 。 気 候 の 寒 冷 化 に 加 え て 農 地 拡 大 が 限 界 に 達 し て お り 、 そ の た め 一 種 の 予 防 的 抑 制 が 働 い た と 考 え ら れ る 。 ま た 江 戸 後 期 の 日 本 に は 大 規 模 な 内 乱 も な く 、 し た が っ て 太 平 天 国 期 の 清 国 の よ う な 耕 地 の 荒 廃 も 生 活 水 準 の 低 下 も な か っ た 。
日 本 は 19 世 紀 前 半 に は プ ロ ト 工 業 化 に よ っ て 出 生 率 が 回 復 し は じ め 、 そ の ま ま 明 治 期 の 近 代 的 人 口 増 加 に つ な が っ た 。台 湾 は 日 本 に 併 合 さ れ る と 、20世 紀 前 半 に は 日 本 本 国 を 大 き く 上 回 る 人 口 増 加 率 を 示 す よ う に な り 、 朝 鮮 も 日 本 並 み の 増 加 率 を 示 し た 。 こ の 過 程 で 近 代 化 ・ 産 業 化 に 伴 う 死 亡 率 低 下 、 栄 養 状 態 の 改 善 、 生 活 水 準 の 向 上 が あ っ た と 思 わ れ る 。
一 方 で 20 世 紀 前 半 を 通 じ て の 中 国 の 人 口 停 滞 は 、 そ う し た 近 代 化 の 果 実 が 得 ら れ な か っ た こ と を 示 唆 す る 。 中 国 は 言 う ま で も な く 東 ア ジ ア の 文 明 的 中 心 地 で 、 地 大 物 博 で も あ り 、 内 乱 期 を 除 い て 生 活 水 準 が 周 辺 地 域 よ り 高 か っ た だ ろ う 。 特 に 18 世 紀 の 好 景 気 と 人 口 増 加 は 、 茶 、 生 糸 、 陶 磁 器 そ の 他 の 手 工 業 製 品 等 の 豊 富 な 輸 出 品 を 持 っ て い た た め に 可 能 だ っ た も の で 、 経 済 水 準 の 高 さ を 表 す と み る こ と が で き る 。
と こ ろ が そ う し た 中 国 の 経 済 的 優 位 は 、20 世 紀 前 半 の 人 口・経 済 の 停 滞 期 に 、日 本 は も ち ろ ん 朝 鮮 ・ 台 湾 に も 逆 転 さ れ て し ま っ た 。 清 朝 も 中 華 民 国 政 府 も 統 一 的 な 国 民 経 済 の 確 立 に 努 力 し た が 、 列 強 の 干 渉 や 軍 閥 の 割 拠 に 妨 げ ら れ た ( 梶 谷 ・ 加 島 2013)。1930 年 に よ う や く 関 税 自 主 権 を 回 復 し 、 通 貨 を 統 一 ・ 安 定 化 し 、 産 業 基 盤 を 整 備 し 軽 工 業 が 成 長 し 始 め た が ( 久 保 2012)、 日 本 ・ 朝 鮮 ・ 台 湾 は 遙 か に 先 を 行 っ て い た 。
中 華 人 民 共 和 国 建 国 時 の 中 国 は 、 産 業 基 盤 、 人 的 資 本 、 社 会 意 識 や 生 活 習 慣 等 多 く の 面 で 、 日 本 ・ 南 北 朝 鮮 ・ 台 湾 よ り 劣 悪 だ っ た と 考 え ら れ る 。 し た が っ て 中 ソ 対 立 や 反 資 本 主 義 的 政 策 が な く て も 、 韓 国 や 台 湾 と 同 じ 時 期 に 同 じ ペ ー ス で 経 済 発 展 を 進 め る こ と は 不 可 能 だ っ た ろ う 。 こ の よ う に 20 世 紀 前 半 の 人 口 ・ 経 済 成 長 の 不 調 が 、 今 日 の 「 未 富 先 老 」 問 題 の 原 因 の ひ と つ と 考 え ら れ る 。 さ ら に 遡 れ ば 、 な ま じ 英 国 よ り 先 に 人 口 と 農 業 の 同 時 成 長 に 成 功 し た た め に 、 産 業 化 の 最 初 の 機 会 を 逸 し た こ と が 、 そ の 後 の 中 国 の 運 命 を 左 右 し た と 言 え よ う 。
3 . 台 湾 の 経 済 発 展 の 先 行
第 二 次 大 戦 後 、 台 湾 は 経 済 発 展 に お い て 韓 国 よ り 先 行 し 、 そ の リ ー ド は 比 較 的 最 近 ま で 維 持 さ れ て い た 。図 2は IMFに よ る 一 人 当 た りGDPの 推 移 で 、 韓 国 が 台 湾 を 上 回 る よ う に な っ た の は 2003年 以 降 で あ る 。そ れ ま で の 台 湾 の 優 越 性 に 対 し て は 、 指 摘 し 得 る 。こ こ で は そ れ に 加 え 、 人 口 学 的 要 因 が 台 湾 の 経 済 発 展 を 促 進 し た 可 能 性 を 考 え て み た い 。
図 1で み た よ う に 、20世 紀 前 半 の 人 口 増 加 率 は 台 湾 が 朝 鮮 を 大 き く 上 回 っ て い た 。 こ れ は 台 湾 で は マ ラ リ ア や 天 然 痘 の た め 、 潜 在 的 収 容 力 に 比 べ も と も と の 人 口 密 度 が 低 く 、 そ れ だ け 保 健 ・ 公 衆 衛 生 政 策 の 効 果 が 劇 的 に 現 れ た こ と に よ る 。 ま た 台 湾 農 業 の 競 争 力 が 高 く 、 貿 易 収 支 で 黒 字 を も た ら す ほ ど 台 湾 経 済 が 好 調 だ っ た こ と も あ る 。 こ の た め 台 湾 の 人 口 移 動 は 緩 慢 で 、 日 本 を 含 む 島 外 へ の 流 出 も 少 な か っ た 。 終 戦 直 後 に 日 本 本 土 に は200万 人 以 上 の 在 日 朝 鮮 人 が い た が 、 在 日 台 湾 人 は 3500 人 程 度 と 推 定 さ れ る (Cumings 1997)。 高 い 自 然 増 加 率 と ゼ ロ に 近 い
出 国 超 過 率 に よ っ て 、 終 戦 時 の 台 湾 人 口 は き わ め て 若 い 年 齢 構 造 を 示 し た と 考 え ら れ る 。
従 属 人 口 比 の 低 下 は 純 消 費 者 に 対 す る 純 生 産 者 の 相 対 的 増 加 を 表 し 、 そ れ は 経 済 生 産 と 貯 蓄 ・ 投 資 に 有 利 な 状 況 の 到 来 を 意 味 す る 。 こ の た め 従 属 人 口 指 数 の 低 下 は 、 人 口 ボ ー ナ ス
( demographic bonus)、 人 口 贈 物
(demographic gift)、人 口 学 的 機 会 の 窓 ( demographic window of opportunity ) 、 人 口 学 的 配 当
(demographic divide)な ど と 呼 ば れ 、 経 済 発 展 を 促 進 す る と さ れ る 。図 3 に
30.0 40.0 50.0 60.0 70.0 80.0 90.0 100.0
1880 1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010 (%)
図3 従属人口比
日本 朝鮮 韓国 台湾 中国
-4.0 -2.0 0.0 2.0 4.0 6.0
1950-55 1955-60 1960-65 1965-70 1970-75 1975-80 1980-85 1985-90 1990-95 1995-00 2000-05 2005-10 2010-15
(%)
図4 15〜24歳人口増加率
日本 韓国 台湾 中国
0 10,000 20,000 30,000 40,000 50,000
1980 1985 1990 1995 2000 2005 2010 2015
US$
図2 一人当たりGDP
日本 韓国 台湾 中国
み る よ う に 、 台 湾 は 1960 年 代 前 半 、 韓 国 は 1960 年 代 後 半 、 中 国 は 1970年 代 後 半 か ら 従 属 人 口 比 が 低 下 し た 。 台 湾 は 人 口 ボ ー ナ ス の 開 始 が 韓 国 ・ 中 国 よ り 先 行 し た だ け で な く 、 従 属 人 口 比 が 韓 国 ・ 中 国 よ り 高 い 水 準 か ら 急 激 に 低 下 し た 。 つ ま り 台 湾 は 、 韓 国 ・ 中 国 よ り 先 に 経 済 発 展 の 条 件 が 整 い 、 し か も 経 済 に 対 す る 刺 激 は 大 き か っ た 可 能 性 が あ る 。 図 4 は 15〜24 歳 人 口 の 増 加 率 で 、 労 働 市 場 へ の 新 規 参 入 者 の 増 加 率 に お お む ね 対 応 す る と 考 え ら れ る 。 台 湾 は 1950年 代 後 半 か ら 1970年 代 前 半 ま で 、 ほ ぼ 20年 間 に わ た っ て 4%以 上 の 非 常 に 高 い 増 加 率 を 維 持 し た 。 こ れ は 高 度 経 済 成 長 を 労 働 面 で 支 え る と と も に 、 政 府 に 対 し て は 大 き な プ レ ッ シ ャ ー に な っ た だ ろ う 。 こ れ は 経 済 が 不 調 で あ れ ば 大 量 の 失 業 者 を 生 じ る 状 況 で 、 そ れ だ け 真 剣 に 開 発 に 取 り 組 む 動 機 づ け に な っ た と 思 わ れ る 。 1950年 代 の 国 際 政 治 状 況 は 、韓 国 と 台 湾 の 運 命 に 大 き な 差 を も た ら し た 。朝 鮮 戦 争 で 韓 国 の 一 人 当 所 得 は 1910 年 代 の 水 準 ま で 後 退 し た と さ れ る 。 米 国 は 韓 国 の 工 業 化 は 不 可 能 と み て 農 業 国 に し よ う と し た が 、 李 承 晩 は こ れ を 拒 否 し 輸 入 代 替 工 業 化 戦 略 を 採 り 、 輸 入 製 品 を 国 産 品 で 代 替 す る た め に ド ル に 対 す る フ ァ ン(圜)の レ ー ト を 上 げ た 。 輸 入 業 者 は 大 儲 け し 、 そ れ を 工 場 建 設 に 投 資 し 、1954〜60年 の 年 平 均 4.9%の 経 済 成 長 を 達 成 し た ( 李 榮 薰 2009)。
中 華 民 国 に よ る 接 収 直 後 の 台 湾 で は 、 悪 性 イ ン フ レ 、 無 理 な 食 糧 供 出 、 外 省 人 の 大 量 流 入 で 経 済 が 疲 弊 し た 。 し か し 1949 年 2 月 に 海 峡 を 封 鎖 、6 月 に は 通 貨 を 本 土 か ら 切 り 離 し 、新 台 湾 元(NT$)へ の デ ノ ミ ネ ー シ ョ ン を 断 行 し た 。1948〜53 年 に か け て 、国 民 党 は「 三 七 五 減 租 」「 公 地 放 領 」「 耕 者 有 其 田 」と い っ た 一 連 の 農 地 改 革 を 進 め た 。1952年 か ら 米 国 支 援 下 に 第 一 次 四 ヵ 年 経 済 計 画 が 推 進 さ れ 、農 業 生 産 は 日 本 時 代 の 最 高 水 準 ま で 回 復 し た 。 ア メ リ カ の 援 助 と 好 調 な 農 業 に 支 え ら れ 、1950年 代 の 台 湾 経 済 は 順 調 に 成 長 し た 。軽 工 業 を 中 心 と す る 輸 入 代 替 工 業 が 発 展 し 、1950 年 代 の GNP の 平 均 成 長 率 は 8.3%だ っ た ( 伊 藤 潔 2012)。 こ の 時 点 で 台 湾 は 韓 国 を 大 き く リ ー ド し た と 考 え ら れ る 。 大 人 口 と 大 市 場 、 巨 大 財 閥 に よ る 運 営 と い っ た 韓 国 の ス ケ ー ル メ リ ッ ト が 威 力 を 発 揮 す る の は 、 も っ と 後 の こ と に な る 。
図 3 で み た よ う に 台 湾 の 人 口 転 換 の 開 始 が 韓 国 に 先 行 し た の も 、1950年 代 の 経 済 成 長 の 差 に よ る と 思 わ れ る 。 中 国 の 転 換 開 始 が 遅 か っ た の も 、 中 ソ 対 立 、 大 躍 進 政 策 、 文 化 大 革 命 と 続 く 1950〜60 年 代 の 混 乱 の た め だ ろ う 。 中 国 の 従 属 人 口 比 の ピ ー ク は 日 本 よ り は 高 い が 、 韓 国 ・ 台 湾 ほ ど 高 く な ら な か っ た 。 図 4に み る よ う に 、15〜24 歳 人 口 増 加 率 も 3%
を 超 え た こ と は な い 。 こ れ ら の 要 因 が 高 度 経 済 成 長 を ど の 程 度 刺 激 す る の か は わ か ら な い が 、 韓 国 ・ 台 湾 よ り 刺 激 が 少 な か っ た 可 能 性 は あ る 。
4 . 韓 国 の 圧 縮 的 都 市 化
図 5 は World Urbanization Prospects 2014に よ る 都 市 人 口 割 合 で 、 日 本 は 一 時 停 滞 し て い た が 平 成 の 大 合 併 で 再 び 上 昇 し 、 韓 国 ・ 台 湾 ・ 中 国 よ り 高 い 割 合 を 示 す に 至 っ た 。 こ こ に は 政 治 的 文 脈 も 関 わ っ て お り 、 日 本 の 都 市 化 が 最 も 進 ん で い る と 断 定 で き る か は 疑 問 で あ る 。 む し ろ 注 目 す べ き は 変 化 率 で 、 韓 国 と 台 湾 で は 1960〜80 年 代 に 急 速 に 都 市 化 が 進 ん だ が 、 そ の 速 度 は 韓 国 の 方 が 上 回 っ て い た 。 中 国 の 都 市 化 が 加 速 す る の は 、 韓 国 ・ 台 湾 の 都 市 化 が 一 段 落 し て 後 の こ と で あ る 。い ず れ に せ よ 、20 世 紀 後 半 以 降 の 都 市 化 は 韓 国
で 最 も 急 速 だ っ た と 考 え て よ い だ ろ う 。 表 5 は 各 国 の 第 1,2 位 の 大 都 市 の 人 口 と 人 口 比 だ が 、 東 京 都 区 部 ( 旧 東 京 市 ) は 1975〜80 年 に 2 位 の 大 阪 の 3 倍 を 超 え た こ と が あ り 、 そ の 後 は 郊 外 化 で 2位 の 横 浜 市 と の 差 が 縮 ま っ た が そ れ で も 2.3 倍 以 上 を 維 持 し た 。 ソ ウ ル 特 別 市 も ピ ー ク 時 の 1970 年 に は 釜 山 広 域 市 の 2.95 倍 を 記 録 し 、そ の 後 も 常 に 2.5 倍 以 上 を 維 持 し て い る 。 こ れ に 対 し 高 雄 市 に 対 す る 台 北 市 の 比 は 2.2 倍 を 超 え た こ と が な く 、1980年 以 後 は 2倍 未 満 に と ど ま っ て い る 。な お 、 台 湾 で は 2010 年 12 月 の 改 正 に よ り 、 旧 台 北 県 は 台 北 市 に 昇 格 し 、 旧 高 雄 県 は 高 雄 市 と 合 併 し た 。 こ の 結 果 、 境 域 が 変 わ ら な か っ た 台 北 市 は 人 口 第 3位 に 後 退 し 、 新 北 市 が 第 1位 、 高 雄 市 が 第 2 位 の 大 都 市 と な っ た 。
中 国 は 国 土 も 人 口 も 巨 大 す ぎ て 、 他 の 国 の よ う な 一 極 集 中 は 起 こ り よ う が な い 。 中 華 人 民 共 和 国 成 立 後 、 最 大 の 都 市 は 常 に 上 海 だ が 、1960 年 以 後 は 第 2 位 の 北 京 の 2 倍 を 超 え た こ と が な い 。2010 年 に は 上 海 の 人 口 が 1998 万 人 、 北 京 が 1619 万 人 、 第 3位 以 下 は 重 慶 が 1124 万 人 、深 圳が 1022 万 人 、 広 州 が 962 万 人 で 、 上 海 は 第 5 位 の 広 州 と の 比 較 で よ う や く 2倍 を 超 え る 。 こ の よ う に 広 大 な 中 国 で は 、 い く つ も の 中 核 が 併 存 し な が ら 都 市 化 が 進 行 し て い る 。
全 体 的 に み て 1950 年 以 降 最 も 急 激 に 都 市 化 し た の は 韓 国 で 、 人 口 分 布 は 極 端 に 一 極 集 中 が 進 ん で い る 。2015年 時 点 で は 、人 口 の 49.5%が 面 積 で は 11.8%に 過 ぎ な い 首 都 圏( ソ ウ ル 特 別 市 、 仁 川 広 域 市 、 京 畿 道 ) に 集 中 し て い る 。 台 湾 は 韓 国 よ り 面 積 が 小 さ い に も か か わ ら ず 、 一 極 集 中 は そ れ ほ ど 進 ん で い な い 。2015 年 に 人 口 の 45.1%は 、 面 積 で 20.4%
を 占 め る 北 部 ( 台 北 市 、 新 北 市 、 基 隆 市 、 新 竹 市 、 宜 蘭 県 、 桃 園 県 、 新 竹 県 ) に 居 住 し て お り 、韓 国 ほ ど 極 端 で は な い 。大 都 市 と し て の ソ ウ ル の 卓 越 性 も 、1990年 以 後 は 東 京 を 上 回 っ て い る 。
장 세 훈(2002)は 韓 国 の 都 市 化 過 程 を 、(1)植 民 地 時 代 で 離 農 民 の 海 外 移 住 に よ り 都 市 化 が 猶 予 さ れ た 時 期 、(2)1940〜50 年 代 の 朝 鮮 戦 争 等 の 社 会 激 変 で 移 動 が 活 発 化 し た 時 期 、 (3)1960〜80 年 代 の 産 業 化 で 大 規 模 な 離 農 が 生 じ た 時 期 、(4)1990 年 代 以 後 の 都 市 化 が 鈍 化 し 逆 都 市 化 が 始 ま っ た 時 期 、 の 四 段 階 に 分 け た 。 日 本 時 代 の 朝 鮮 で は 農 村 部 で 大 量 の 余 剰 人 口 が 生 じ た が 、 か な り の 部 分 が 満 州 ・ 樺 太 ・ 日 本 本 土 へ 流 出 し た た め 、 朝 鮮 内 部 で の 都 市 化 は 猶 予 さ れ て い た 。1940〜50 年 代 に は 国 外 か ら の 帰 還 者 と 朝 鮮 戦 争 に 伴 う 越 南 者 が 大 量 に 流 入 し 、急 激 な 都 市 化 が 始 ま っ た 。1960 年 代 以 後 の 経 済 成 長 は 都 市 化 を さ ら に 加 速 さ せ た 「 圧 縮 的 都 市 化 」 が 起 き た 。 あ ま り に も 急 激 だ っ た た め 、 農 村 で は 高 齢 化 と 労 働 力 不 足 が 深 刻 化 し 、 都 農 格 差 が 甚 だ し く な っ た 。
0 25 50 75 100
1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010
(%)
図5. 都市人口割合
日本 韓国 台湾 中国
農 村 が 疲 弊 し 膨 大 な 人 口 が 都 市 と 国 外 に 流 出 し た 朝 鮮 と 異 な り 、 日 本 時 代 の 台 湾 で は 農 村 か ら の 人 口 流 出 が 緩 慢 だ っ た 。 こ れ は 台 湾 農 業 が 好 調 で 、 砂 糖 ・ 茶 ・ 缶 詰 ・ ア ル コ ー ル 等 を 日 本 に 輸 出 し て 大 幅 な 黒 字 を 達 成 し た こ と に よ る 。GDP に 占 め る 第 一 次 産 業 割 合 は 、 1920〜40 年 の 間 に 朝 鮮 で は 58.4%か ら 43.1%ま で 低 下 し た の に 対 し 、 台 湾 で は 37.8%か ら 36.0%へ と 、 ほ ぼ 停 滞 し て い た 。 好 調 な 農 産 品 輸 出 に よ っ て 、 台 湾 の 工 業 製 品 の 貿 易 収 支 は 均 衡 し て い た が 、朝 鮮 は 大 幅 な 赤 字 だ っ た(金 洛 年 2004)。大 地 主 へ の 土 地 所 有 集 中 が 進 ん だ 朝 鮮 と 異 な り 、台 湾 で は 1931〜45 年 の 間 に 富 の 分 配 が む し ろ 平 等 化 し た(Cumings 1997)。 こ う し て 朝 鮮 で は 農 村 部 の 荒 廃 と 貧 困 化 が 、 台 湾 で は 農 村 部 で の 資 本 集 積 と 経 済 発 展 が 進 ん だ 。
台 湾 か ら の 輸 出 品 は 1960 年 代 前 半 ま で 農 産 品 が 中 心 だ っ た が 、 後 半 か ら は 農 村 部 で 軽 工 業 製 品 を 製 造 し 輸 出 す る 中 小 企 業 が 勃 興 し た 。 繊 維 ・ プ ラ ス チ ッ ク ・ 電 機 製 品 を 製 造 す る 農 村 工 業 が 農 村 部 の 余 剰 人 口 を 吸 収 し た た め 、 都 市 化 は 依 然 と し て 緩 慢 だ っ た(石 田, 2005)。 政 府 は 韓 国 の よ う な 少 数 の 巨 大 企 業 と 財 閥 へ の 集 中 政 策 を 採 ら ず 、 多 く の 中 小 企 業 が 日 米 へ の 輸 出 を 通 じ て 急 成 長 し た 。 政 府 の 保 護 策 も あ っ て 、 台 湾 の 中 小 企 業 は 多 国 籍 企 業 の 支 配 を 回 避 で き た(Vogel 1991)。 こ の よ う に 少 数 の 巨 大 財 閥 へ の 集 中 と 多 数 の 中 小 企 業 の 乱 立 と い う 違 い も 、 都 市 化 の テ ン ポ に 影 響 を 与 え た と 考 え ら れ る 。
Lin(2006)に よ る と 1970年 代 ま で 高 雄 と 台 北 で の 人 口 集 積 が あ り 、1980年 代 以 後 は も っ ぱ ら 北 部 へ の 労 働 力 移 動 が あ っ た と さ れ る 。 し か し 台 湾 の 向 都 離 農 移 動 は 、 韓 国 ほ ど 激 烈 な も の で は な か っ た よ う で あ る 。 一 方 、 既 に 日 本 時 代 か ら 農 村 で 資 本 蓄 積 と 基 盤 整 備 が 進 み 、 戦 後 も 農 村 工 業 が 大 き な 役 割 を 果 た し た 台 湾 と 異 な り 、 韓 国 の 農 村 部 は 生 活 基 盤 と 就 業 機 会 が は る か に 限 定 さ れ て い る と 思 わ れ る 。 こ の た め 少 し で も 就 業 の 可 能 性 が あ る 年 代 の 者 は 都 市 へ 出 て 行 き 、 極 端 な 過 疎 化 と 高 齢 化 が 進 行 し た の だ ろ う 。
5 . 近 世 の 人 口 移 動 と 家 族 構 造
林(2014)は 92 ヵ 国 の 2000年 以 後 の 人 口 移 動 デ ー タ を 比 較 し 、台 湾 の 移 動 性 向 は 日 本 と 同 程 度 で 、 韓 国 は 日 本 よ り ず っ と 高 く 、 中 国 は 日 本 よ り 低 い と し た 。 あ る 時 点 の 移 動 性 向 の 国 別 差 に は 、 経 済 発 展 段 階 や 都 鄙 の 経 済 格 差 、 戸 籍 制 度 や 社 会 保 障 の 地 域 差 、 災 害 や 内 戦 な ど 多 様 な 政 治 的 ・ 経 済 的 要 因 が 影 響 し て い る だ ろ う 。 こ れ ら に 加 え 、 歴 史 的 ・ 文 化 的 要 因 と し て は 家 族 ・ 親 族 構 造 の あ り 方 が 考 え ら れ る 。
現 在 に 至 る 東 ア ジ ア 諸 国 の 家 族 ・ 親 族 構 造 は 、 近 世 に お け る 小 農 社 会 化 の 過 程 で 確 立 し た と さ れ る 。 小 農 社 会 と は 、 土 地 所 有 に 関 係 な く 、 家 族 労 働 力 を も っ て 独 立 し た 農 業 経 営 を 行 う 小 農 が 支 配 的 な 社 会 を 指 す 。 こ の 過 程 で 、 朝 鮮 の 奴 婢 や 日 本 の 下 人 ・ 所 従 ・ 抱 え の よ う な 非 独 立 的 農 民 階 層 は 消 滅 し て い っ た 。 こ う し た 小 農 社 会 は 、 中 国 で は 宋 代 か ら 明 代 に か け て 、 朝 鮮 で は 李 朝 後 期 に 、 日 本 で は 江 戸 時 代 前 期 に 成 立 し た ( 宮 嶋 1994)。
日 本 の イ エ 制 度 は 、 中 世 武 士 層 の 間 で 始 ま り 、 近 世 に 一 般 農 民 に も 普 及 し た 。 イ エ は 経 営 体 と し て の 家 族 で あ り 、 小 農 社 会 の 成 立 に よ っ て 普 遍 的 な 社 会 構 造 と し て 普 及 し た と 言 え る 。 こ の 過 程 で 家 父 長 制 が 強 化 さ れ 、 女 性 の 地 位 が 低 下 し 、 分 割 相 続 か ら 単 独 相 続 へ 移 行 し た( 同 書 )。近 世 日 本 の イ エ 制 度 は 、世 界 的 に 珍 し い 独 特 の 家 族 制 度 だ っ た 。イ エ は 伝 来 の 家 産 を 基 礎 に 家 名 ・ 家 業 を 継 承 し て 行 く 集 団 で 、 主 に 血 縁 で 結 び つ く が 非 血 縁 成 員 も