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岡崎, 敬

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

A study on the inscription on the tombstone of Tu-Ku-lo (独孤羅), prince of Chao-country (趙口 公) of Sui (隋) dynasty-Special reference to the tombs of Northern Chou (北周), Sui (隋), T'ang (唐) dynasties at the Ti-chang-wang (底張 湾), Hsien-yang (咸陽), Shan-hsi Province (陜西 省)

岡崎, 敬

https://doi.org/10.15017/2334000

出版情報:史淵. 83, pp.31-62, 1960-12-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

惰越国公独孤羅の墓誌銘の考証

1 1 限 西 省 戚 陽

・ 底 張 湾 の 北 周

・ 惰 唐 墓

岡 崎

成陽底張湾にお廿る北周・陪唐墓の発見 一九五三年︑快西省西安市の対岸︑戚陽の底張湾で土木工事にともなって多数の古墓が発見された︒この中から各種の 明器泥象をはじめ︑数多くの副葬品が見出されたばかりでなく︑そのあるものは壁画でかぎられており︑出土の墓誌銘か ら北周より惰をへて唐代にまたがるものであることが明らかにされた︒

翌一九五四年には北京で基本建設にともなって発見された全国出土文物展覧会が開催せられ︑底張湾出土品の一部も出

品され︑この展観の図札

μ

も紹

介さ

れて

いる

︒ 一九五七年︑北京の歴史博物館ゃ︑西安の快西省博物館で︑出土品や壁画を見学する機会があたえられたが︑豊富な泥 備や︑あざやかな壁画はいまにわすれがたいものがある︒

もの

が︑

底張湾古墓そのものの調査については︑その後もくわしい報告がない︒しかし出土の明器泥象の類のうち唐代に属する

一九五七年に図集として公けにされている︒一九五九年には底張湾陪墓出土の東ロ1

マ帝

国代

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惰越

国公

独孤

緩の

墓誌

銘の

考証

(3)

惰越

国公

独孤

の羅

墓誌

銘の

考証

夏用応料詳細な研究をこころみ︑この惰墓が階一趨国公独孤羅のものであることを確認している︒

いまこれまで報告されたものを整理してみると墓誌銘を有するものは左の通りである︒

I

険西省成陽成張湾における北周・惰唐墓

主 語

七 回

六 六 五 五

C九 九

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宿  

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関帝元年夜

建徳元年関皇十五年

関車十九年袈

貞観

十六

景雲元年関元十四年

天宝三年天宝六年

,  

独 孤 信 墓 誌

・ 石 棺

独孤

独孤関遠万泉県主醇氏

辞従筒

豆慮建唐少府監張去箸

張去逸郊国大長公主 壁画・陶備︑陶牛車

瓦鶏など

男室・立摘︑騎馬情

文吏︑武士︑楽伺

一 出九 土 五 年

険西省博物館所見

ラクダ像︑陶山

文吏桶︑女舞偶騎馬情

これら墓誌中にみえる段威は︑隔の名将︑段文振の父であり畑一躍六十段︑張去春︑去逸の二人はいまだ検索するにい

一円の兄弟と考えられるし︑醇民は章︑議︑柳︑楊︑杜の諸氏などの間中の名家の一つであろうか︒

,  

文物参考資料五四|一

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O考古学報五九|三

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侠西省出土陶桶選集

II 

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独孤信︑独孤羅︑独孤開遠はのちにのべるやうに祖父子の三代であり︑西説︑北周︑

惰および唐の初めに

(4)

長安を中心として活躍した独孤民の一族で︑はからずも乙の一族の墓がまとまって見出されたことは興味ぷかい︒

独孤

信︑独孤開遠の墓誌銘の全文はいまだ公表されていないが︑独孤信のものは西安の博物館で見学することができた︒いま

独孤羅の墓誌銘が報告されたので︑乙の機会をかりで︑その墓誌銘をめぐり︑いささか必要の資料を捗索してみたい︒こ

れは北朝史と北朝考古学︑階唐史と惰唐考古学の一接点をなすと考えるからである︒

l︑

O

2︑侠西省文物管理委員会編﹁侠西省出土膚備選集﹂一九五八年

3

4︑︸九五八年︑長安県南里王村からは章氏の一門意洞の暮が出ている︒険西省文物管理委員会﹁長安県南里玉村唐意澗墓発掘記﹂

独孤躍裏の発見とその墓誌銘

独孤羅の墓そのものについてはくわしい乙とはわからない︒

この

墓か

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マの

金貨

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一九五四年︑はじめて張鉄弦氏が﹃文物参考資料﹄に紹介した︒

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﹃文物図録﹄には底張湾惰墓出土の明器泥象の類が紹介されている︒

これ

には

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婦人

像︑

︵ 第

3図1・2︶老人像がある︒いづれも型からとったもので︑姿勢も表情もいまだにかたい︒底張湾には段威墓のごと

き惰墓が他にもあるので独孤羅墓出土のものとはきめ得ないが︑のちにのべる初唐︵貞観十八年︶独孤関連墓出土品にく

らべてやや生硬で︑北貌と唐をむすぶものである乙とはあらそわれない︒いわゆる惰式とも称すべき・ものである︒

金貨

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1図 ︶

階越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

(5)

階越

国公

独孤

緩の

墓誌

銘の

証考

両面ともに図像と銘文がある︒

をもっ小人物像がみえる︒銘は

一一聞は珠飾のある冠をいただいた王者の半身像があり︑右手に王杖ぞもち︑その下にこれ

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H︿ω叶

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︿ω H M

M M ﹀

︿の

とよまれる︒裏面には胃をつけた女神が︑宝座上に坐し右手に

戚陽底張湾 階独孤羅主選出二!こ

東ローマ金貨 (Justin ][  . A. D. 565‑578) 

杖を︑左手に地球をもち︑地球の上に十字架がある︒

ここ

には

︿ 同

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前の銘はり︵︒

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るであり﹁われらの主︑

祖国の父である至尊なる皇帝ユス チヌス﹂の意味である︒また後者のの

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帝﹁︵アウグスッス︶の勝利﹂のが三つあるのはユスティヌスが晩年

︵五

七四

より

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︑ 皇后スピアおよび皇太子テイベリウス

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RE回同︶が摂政であったため︑三人のアウグスッスを指した︒末尾

1

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は鋳貨の地点の第何号にあたる審号である︒

王者の上に一孔をうがっている︒

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マ帝国ユスティヌス二世

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lプル鋳造のものと考定されている︒

なる︒蓋石の上には方格の中に 独孤羅の墓誌銘は同時に拓本で紹介︐されている︒大ききゃ石質についてはわからないが︑誌蓋︑身とも方形の二石から

(6)

陪 使 持 節 大 将 軍 越 国 徳 公 独 孤 君 墓 誌 という一行四字︑四行の築文の銘をおさめ︑まわりを連珠でめぐらしている︒さらにその外に三段の文様帯がある︒その 中段の文様帯は忍冬文様の中に玄武︑白虎︑朱雀︑青龍の四神をそれぞれ四方に配している︒身にあたる下石には一行三 十字︑二十八行の糖書よりなる堂々たる銘文がある︒書風の美麗たる点においてはあるいは開皇十七年美人董民の墓誌に 及ばないが︑整斉にして壮震な点はみるべきものがある︒いささか名文に属するが︑その銘を次にあげてみよう︒

大南故使持節大将軍︒涼州細管諸軍事涼州刺史︒越園調孤徳公墓誌銘︒

公語羅︒字離仁︒雲内盛柴人︒後居河南之洛陽勝︒昔貌謄天銭︒肇基期野︒同徳 選於十人︒従王除於七姓︒公霊根恵葉︒遥胃華宗︒猶買部之出穣宛︒若粛曹之 居盟加︒大父太尉恭公︒逸無標事︒高情一勧落︒公才天於聴陸︒衰職賞於松相︒父 信︒太師上柱園越国景公︒依縦自天略不世出︒菜文経武︒匡国憤時︒貰有利摘之 棟差︒生民之亀鏡︒公即景公之元子︒今皇居之長兄也︒駿骨天挺︒幼有絶電 之姿︒全瑛不影︒自成希世之賛︒永照之末︒強臣撞命︒長戟南指饗踊西巡︒景公 掴家事国︒采誠衛主︒公遂播越両河︒流離三説而神剣雄隠︒紫無慣存︒賓鼎自 況︒黄雲不滅︒周平東夏︒匝宇一統︒分悲之鳥︒重集於桓山︒韓盛之華更茂於移

陪越

国公

羅孤

羅の

墓誌

銘の

考証

(7)

階越国公独孤羅の墓誌銘の考証

樹︒大象元季︒授楚安郡守︒導徳斉瞳︒吏静民和︒大象二季秋八月︒除儀同大将

軍︒皇情︒上叶五精︒光臨四海︒紫数縛瞳︒義輝賢戚︒開皇元季三月︒除使持節

上開府儀同大将軍︒尋除領左右大勝寧︒冬十一月輔右武衛将軍︒ニ季鰻爵

越国公自一万戸︒十二季拝大持軍太子右衛率︒緯扉丹塀尊同就日鳳僚鶴

捕︒義比前星公︒官成二宮︒名重百降︒文武並運︒聾賓兼皐︒十三年除使持節縞

管涼甘瓜三州諸軍事涼州刺史︒十八季食益州陽安牒封一千戸︒此蕃路出

玉問︒山連梓嶺︒地多関塞︒俗雑草戎︒秋月浦而胡騎噺︒期風動而謹茄咽︒公威

能制冠道足由民︒布政宣風︒遠懐遁服︒而朝光夕影︒未息於銅壷︒却死還︒季空

偉於金竃︒春秋六十有六︒以十九年二月六日寝疾亮於位︒捗尚騨見哀結於

概宮︒報膳興躍︒悼深於蹴震闘す︒廿季歳次庚申二月庚申期︒十四日発酉︒暦於

器 薬

度 州。 淫

混・陽

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湾 禁震 霊

萄 郷陽 静

秋 民

於 皇内

府 王。 人

物 弔 我 祭

莫 謹見 日

其 徳

異 公。 瞳

憧 也喜

不 惟

形 公於 善

色 風。 儀

善 有

持 盈

若虚︒在終如始︒可大可久道著於生前︒遺直遺愛聾停於現後︒而雌松百尺誼

免於擢残︒華表千季終蹄於灰蟻︒乃為銘日︒

鈍突崇基︒猪欺遠系︒局奔軒冠婚︒連胤資於穆景公︒英威冠世︒濡足捜手︒師王

友帝︒圃塊降霊︒方幅潟祉︒以弦鼎族欝為戚里︒惟公挺秀︒淵淳岳峰︒鳳羽時時︒

趨翰終起︒時逢啓聖運︒属惟新︒升降丹陛︒警衛紫震︒髄衣朱紙︒暢鞭文画︒宣

威振遠︒樹徳臨民︒千月未窮︒一生儲畢︒哀鐸夜勤︒霊瞳暁出︒富凄黄踊︒勝銘日

ー 』

(8)

日今

来古

往︒

飛聾

標賞

︒ 骨−を傍にうったものは活字の都合上︑通行の字体にあらためだ︒

普賢務

後漢

光武

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後考

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後漢

書﹂

巻四

十六

︑巻

四十

七︶

保煎曹

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時刷何は秦の時︑消の小更であったか︑高祖の微賎の時よりつかえ︑後宰相となる︒晩年その地位を嘗参

にゆ

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︵﹁

史記

﹂巻

八︑

﹁漢

書﹂

巻三

十九

各前展公前鼠公とすべきであろうか︒

骨梓

甘粛

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林府

懐速

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﹁史

記﹂

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騎列

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梓領

義暦は措︑﹁おく﹂であり︑棺を仮坦葬の場所に安置すること︒北朝墓誌銘にしばしばみることができる︒ これでみるとかれは西魂︑北周の功臣であった独孤信の長子であり︒情文帝の妃︑独孤皇后の兄であることがわかる︒

独孤信については北周書巻十六︵北史巻六一︶にその伝があり︑羅についても情書巻七十九︵北史巻六一︶にその伝が設

けられている︒

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談会

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文物

参考

資料

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夏扇

前掲

論文

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考古

学報

﹂一

九五

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一ニ

︶六

七頁

3︑平凡社刊﹁書道全集﹂第七巻中園︑惰唐

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− −

旬奴独孤部劉氏と独孤信の登場 八旬奴独狐部と独孤氏﹀独孤民の名はもともと伺奴独孤部の名よりでている︒独孤部は晋代の五部伺奴の北帥劉猛の 惰越国公独孤羅の墓誌銘の考証

(9)

階越国公独孤羅の墓誌銘の考証

ひきいた部族であり︑伺奴屠各種の系統であるから︑内田臥ー齢︑挑札一民の指摘したように独弧は屠各の同音異訳と称す

べき

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伺奴独狙氏︵劉民︶の系譜

︵劉

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劉猛の孫︑路孤は鮮卑拓抜部とむすび︑北貌の建闘に基礎的な役割を果した︒その子劉庫仁の母は平文帝︵拓抜欝律︶の女

伺 奴

l 庫仁|一顕

l冗泥戸利l鳥利|劉猛l副論|路孤上

﹁ 巻

であり︑その要は阻成帝︵什翼嚇︶の宗女であるというように旬奴独孤部の首長は新たにおこった鮮卑拓抜民と密接な関係

をむすんだ︒路孤の孫︑羅振は道武帝︵珪︶をたすけて︑はじめ南部大人︑中原を平定してからは永安公に封ぜられ︑征東将

軍定州刺史に除せられた︒その子羅振の系統は殊陣︑商頭︑仁之と要官をしめた︒仁之は孝文帝とともに洛陽にうつり︑東

灘武定二年︵五四四年︶捜したが︑きわめて文史を愛した人であった乙とがったえられている︒明博Jt孝文帝は太和十八

年洛陽遷都を断行したが︑代人を河南にうつした場合︑乙れを河南洛陽人とし︑北族の言語︑衣服を中国式にあらため

た︒また王室の姓拓抜民を元民と改め︑王室と婚を通ずる資格のある北族名家の八姓も︑漢式の単姓としたのである︒

正 穆 陵

| 穆 民 賀 頼

| 賀 民 賀 楼

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陸民

独 孤

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劉民

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| 稽 民

尉 遅

| 尉 民

(10)

としてその一つにかぞえられているのは以上のべた事情から明らかであろう︒

乙の入姓は中州名門の四姓︑虚︑昼︑鄭︑玉と比較された北族中の名円である︒伺奴独孤部の首脳がいまあらたに独孤氏 では︑独孤羅の父︑信はいかなる出自によるものか︒いまその墓の発見よりかえりみる乙とにしよう︒

︿独孤信基の発見﹀

かれ

の墓

威陽底張湾北周墓出土騎馬像{涌 も一九五三年に底張湾で出た︒墓誌

銘はいま険西省博物館に陳列され︑

そのかたわらに石棺がおかれてい

た︒墓誌銘の全文は公けにされてい

ないが︑小生の見学ノlトをみると

﹁周之元季三月﹂という年号のあっ

たことを記している︒張鉄弦民の報 第 2図

告に

よる

と︑

底張湾的古代墓葬中発現了石棺和

陶備但多

第十期には北周墓出土の牛車︑大腹武士伺︑抱擁する男女の像をのせ︑

としるしているが︑独孤信墓における石棺︑陶桶についてはくわしいことがわからない︒

﹃文物参考資料﹄一九五四年

像︵第2

図︶

がみ

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惰越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

﹃全国文物図録﹄にはこの外︑鎧馬にのる騎人の

(11)

惰越国公独孤羅の墓誌銘の考証

11

寸議||師仁

一| 橿|

1|﹁|開遺

弐字 続︵ 北周 明帝

︶ 一|

|独 砕民 周︵ 明臭 后︶ 李虎

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lT ll 楊堅︵陪文章字文賛︵北周宜帝︶ト||李静訓

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一丁|独孤氏︵文献皇后︶一

伏留 屯:

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l懐恩

独孤{言とその一族の系譜(太字は墓の発見せられたもの)

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ら かでないが︑面繋がついているのがみとめられる︒鎧馬の怖は西安草廠此ぺ号北朝墓や河南部県北朝基の画弘常などにも

(12)

みえ

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八 LH 仲︵西灘︶の壁画にその鎧馬にのる武人の戦斗の姿が描かれている︒

後者は西説大統四︑五年の造像銘があるもので︑これには鎧馬にのり甲胃をおびた武人と︑橋と万とをもっ兵士がある︒

この札甲の鎧馬は高句麗の壁画にも見出されており︑その分布はいわゆる騎馬民族の舞向子あり︑北族の台頭とともに急 速に普及したもので︑北説およびそれにつづく時代の軍隊の重要な装備であった乙とは疑いをいれない︒

﹃文物参考資料﹄図版九八には底張湾の北周建徳元年墓の北壁にある壁画婦人像をあげている︒これは両袖をあわせて 手を通した婦人の像で︑形は西安草廠披の婦人備にちかい︒これら北周墓出土品や壁画がどれにともなったかは将来をま

つ外

はな

い︒

八独国信の生涯

V

さて独孤信については北周書巻十六にくわしいその伝がみえる︒その本名は知願といった︒その先 は・もともと雲中にあり︑伏留屯は部落大人で北貌とともにおこり︑祖父倹尼は和平年間良家の子であるため雲中より武川 鎮にうつった︒父の庫は領民酋長であったと伝えている︒こうしてみる彼の先祖は独孤部には属したが︑劉庫仁などの家 系のやうに︑拓抜民と結んで中原に進出し貴族化をふかめたものとちがって︑むしろ北鎮の将として北辺の生活をつづけ

てい

たも

ので

ある

︒ 北説が北辺にそなえた北鎮の将も︑はじめは良家の子弟をあてたのであるが︑平城より洛陽へ遷都を行い︑また南朝と の聞がかまびすしくなるにつれ︑しだいにわすれきられて来た︒中国本土に入った鮮卑族をはじめとする北族はその質実

なる

風俗

を失

い︑

その上層部は全く中国式の貴族と佑し︑漢族の名家との通婚をもとめ︑北鎮の将はいまやいやしむべ

き田

舎者

とさ

れる

おな

じ一

族で

あっ

て︑

首都にとどまるものは官位が上進するも︑

鎮にゐるものは仕官の途もふさが れ︑若いものは師につく乙ともできない︒都が洛陽にうつされてからは︑中央から鎮将として派遣されるものは︑財 物をとり乙むことしか知らない︒こうした六鎮の不満は広陽王元深の上奏にもあらわされている湖欝一八が︑その時は

階 越 国 公 独 孤 羅 の 墓 誌 銘 の 考 証 四 一

(13)

全 く

手も

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れ 独ぬ 孤

状 署

警 官 選

つ のあ 諾

Tこ 考

。 証

この叛乱はまづ沃野鎮にはじまり︑武川︑憧期鎮などへとひろがり︑北辺の六鎮が叛乱にまきこまれるとともに︑さら

に東

西に

の火

手は

あが

った

︒ 信は騎射を普くし︑賀抜度とともに衛可孤を斬り︑北辺にその名を知られたが︑動乱がおこると︑中山にうつり︑

ここ

で葛

栄に

とら

えら

れた

︒ 中山には道武帝の時に八軍府が設けられ︑多数の軍隊を進駐しており︑その後南征の時などに兵をきかれることがあっ

ても

︑ この地にいた将兵は次第に定住の度合をふかめたものらしい︒

信一家はこれを頼って中山に出たものかも知れ ぬ︒ところが河北一帯の地は葛栄が土民をひ︑きいて蜂起しており︑信は再びその中にまきこまれてしまった︒葛栄の軍中 でも頭角ぞあらわし︑かれは独孤郎と称せられた︒独孤信一家だけでなく北鎮の将兵は南下して︑衣食の道を求めたが︑

軍人としてほかに能力はなく︑勢力あるものに身を托してはたらく外はなかったらしい︒

北現朝廷は収拾を山西にいた鮮卑の豪族繭朱栄に依頼したが︑

かえって実権をにぎられてしまった︒商朱栄が葛栄をや ぶると︑信は爾朱栄の部将となった︒爾朱栄が洛陽に誘殺されたあと︑懐朔鎮より出て︑栄の部将となった高歓が次第に 勢力をまし︑河北豪族の援助をうけて︑端︑洛陽︑太原をおさめて現の実権をとるに至った︒

永照三年北説孝武帝は高歓と隙と生じ長安にはしり︑字文泰の保護をもとめた︒信は乙れを追って洛陽の西方で孝武帝 の一行においついた︒かれは乙の時父母妻子をすてて西遷の道をえらんだのである︒

かれは字文泰と同郷であり︑少時よりの友である︒また武川鎮出身将兵の多くが関中の方にあったということが︑彼の 行動を決定的にしたとおもわれる︒

これははじめ爾朱栄が一族爾朱天光をつかわし間中を平定した時︑その副将となった のが武川鎮の将賀抜岳である︒

天光

が東

征し

て敗

死す

ると

︑ 岳は事実上独立の態勢をとり︑

高歓が爾朱栄をたをしたあ

(14)

と︑岳を関西大行台としてみとめたくらいである︒岳は永照三年に侯莫陳悦のために殺され︑字文泰が岳のあとをついで その将士をおさめたのである︒

この将士の多くが武川鎮出身であったことは容易に推察されるところである︒

永照三年十二月字文泰は孝武帝を棋し︑文帝を擁立︑翌大統元年と改元︑西説を建国して︑東説と対立する形勢となっ た︒事実上その実権は字文泰の掌握するところである︒信は酉識の第一線の将として東魂と戦い︑

この年︑高殻曹︑侯景 等の箪のためやぶられ︑梁にのがれ︑三年の後︑梁の武帝の許しを得て︑大統三年の秋長安にかえることができた︒

この

倖虜の際父の庫の残したことをきいた︒

この年大都督となり洛陽に攻め入ったが︑翌四年侯景らのために洛陽を奪還され ている︒六年には髄右十州大都督秦州刺史となり︑字文泰より信という名を賜った︒七年には眠州刺史となり︑赤水蕃王

梁企定の叛乱をうち︑

干謹とともにこれを平定した︒

十二年には涼州刺史字文仲和が叛し︑

瓜州の民張保善が刺史成慶 を殺し︑仲和に応じた︒信っかわされてこれを討ち︑仲和を捕にし︑其の民六千余戸を長安におくつている︒涼州は河酉 の一拠点であり︑その民が長安に大量にうつされたことはその後の長安の性格を考える上にも重要であり︑西域との貿易 はこれによって大いに促進されたこととおもわれる︒

十三年には柔然の入窟したため鎮を河腸に移した︒十四年には柱国大将軍をさづけられた︒これはいわゆる西灘の入柱 国と称せられるもので︑周書巻十六巻末によると 当時の栄盛︑ともに比とするなし︑故に今の円閥と称する者︑

みな

八柱

国家

を推

す︒

といっている︒八柱国は李虎︑元欣︑李弼︑独孤信︑趨貴︑子謹︑侯莫陳崇と字文泰の八名である︒独孤信︑字文泰︑

侯莫陳崇︑趨賞はいづれも武川鎮出身の北族であり︑李弼は遼東裏平の人︑いづれも北魂末の争乱に爾朱栄のもとに身を 投じた人である︒元欣は王族︑子謹は河南洛陽の鮮卑系貴族︑李虎は陣西独道の人︒これはのちに六柱国となり︑大将軍 二人をひきいる︒おなじく西説十二将軍とよばれるものに元賞︑元育︑

元廓

字文導︑侯莫陳順︑

達実武︑李遠︑豆慮

惰越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

(15)

陪越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

寧︑字文貴︑賀蘭祥︑楊忠︑王雄の十二人があった︒この大将軍は開府二人をひきい︑二十四人の開府がニ十四の軍をひ

きい

る︒

これが府兵である︒この十二将軍も北族出身が少くなく︑賀蘭祥︑侯莫陳順は武川鎮の出︑達実武は研城鎮の出で ある︒楊忠はもと弘農華陰の漢人といっている︒楊忠の曽祖元寿が北識のはじめ武川鎮の司馬となり︑ハ久の守禎は北現末 の喪乱にあたって中山に地をさけ戦陣の聞に朴れた︒

忠は

独孤

信と

行動

とを

もに

し︑

孝武帝の長安西遷にしたがった が︑東灘との戦いに梁にとらえられ︑大統三年独孤信とともに長安にかえっている︒楊忠の子は楊堅で︑独孤信の女を妻 とした︒後の隔の文帝および文献︵独孤︶皇后がこれにあたる︒

こうしてみると西貌の主導力をもったものは北現政局の北鎮ことに武川鎮出身の北族である︒字文泰がもっとも実力者 であったが︑勢力の項点にたつと決して同じ出身の氏族に安らかでなくなる︒十四年信ならびに信一族の恩賞にあうや︑

独孤信は階右にあること歳久しいため︑朝に還るをもとめたけれども︑許きれなかったのは︑こうした理由によるものであ ったらう︒しかし同年東説にある信の母が死んだというしらせがあった時︑西魂の皇太子と宇文泰は北辺の鎮成河陽にあ る信をおとづれこれを弔問している︒信は哀苦を陳ね︑礼制を終えんことを請うたが︑また許されなかった︒ここで信の父 の庫を司空公︑母の費連民には常山郡君の位がおくられた︒十六年には尚書令にうつり︑大司馬を拝した︒十七年十月宇 文泰が回以しその子宇文覚自ら周公となった︒翌年字文覚︑西親の恭帝を廃し北周を建てた︒これ閲帝である︒閲帝の践昨 にあたり︑独孤信は太保︑大宗伯となり︑衛国公邑万戸を封ぜられた︒北鎮以来︑苦労をともにした人々に対し字文氏は 高位高官を与え︑その歓心を得ようとはしたが︑決して警戒の眼をゆるめなかった︒閲帝の摂政晋公字文護はこうした動 静をみてとって越貴には元勲佐命をもってしたが貴は快々としてたのしまず︑独孤信とはかつて字文護を殺そうとした︒

期に及んで信にとめられ︑おもいとどまったが︑字文盛のために告発され︑諒せられるに至った︒やがて災は独孤信にも

及ん

でく

る︒

しかし字文護も名望のある信をなかなか殺せない︒

令して彼を家に自尽せしめたのである︒

時年に五十五

(16)

識︒墓誌銘にいう﹁周之元季三月﹂というのは

北周関帝元年三月己酉

と周書閲帝紀にもみえる彼の閉店した年時をしるしたものであろう︒

八独孤信の一門﹀独国信は北説孝武帝に従って長安に入る前に長子羅を生んだ︒

長安にうつって郭民との聞に二子

善︑三子穆︑四子蔵︑五子順︑六子施︑七子整を生んだ︒また長女は北周明帝︵字文銃︶の妃となった︒四女は入住国の 一人李虎の子李明に嫁し︑十字淵︵のちに唐の高祖︶の母となり︑唐の元貞皇后と追贈せられたものである︒信と雀民の間 に生れた七女は楊忠の子楊堅に嫁した︒場堅は後の惰の文帝であり︑担は隔文献皇后である︒彼女はまれにみる猛婦であ り︑女傑であって︑なかなかに気がつよく︑文帝に他の女性と交るを許さなかったとったえている︒この二人の聞に麗華 という一女︵のちに北周宣帝の担︑情になって楽平公主︶と燭帝が生れた︒こうしてみると独孤信は字文民︑李民︑楊民 など八柱園︑十二将軍と通婚関係を結んでいる︒北朝︑惰唐にかけてこの婚姻集団の中で政権の授受がくりかえされたの である︒その中で独孤信と楊忠の両者の関係は前述の如く︑きはめて密接なものがあったことが察せられるのである︒周

書独孤信の伝に

周陪及皇家︵唐︶三代皆鵠外戚︒自古以来未之有也

とい

って

いる

が︑

これは一つの結果であって︑独調民は北周より惰唐にいたる政権のいはば車軸の役割を果したといわ

なけ

れば

なら

ぬ︒

ー︑

内田

吟風

﹁五

胡乱

およ

び北

貌時

代の

何奴

﹂︑

﹁北

朝政

局に

於け

る鮮

卑︑

伺奴

等諸

北族

系貴

族﹂

︵﹁

伺奴

史研

究﹂

所収

の論

文な

らび

に浜

口霊

園﹁

西灘

にお

ける

勝姓

再行

の事

情﹂

︵﹃

東洋

学報

﹄二

五|

一ニ

︶な

どに

おう

とこ

ろが

多い

2︑

桃被

一元

﹃北

朝胡

挑考

L三八頁

3︑

文物

参考

資料

一九

五四

l一O

前掲

論文

本章

では

晴越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

四五

(17)

階越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

4︑

険西

省夕

︑物

管理

委員

会一

西安

南郊

草廠

坂北

朝基

的発

姻﹂

︵考

古﹂

一九

五九

|六

5

河南

省文

化局

文物

工作

隊﹁

欝間

以彩

色阿

像墓

﹂図

六︑

一九

五八

6︑

柳謝

﹁北

朝的

鎧馬

断偶

﹂︵

﹁考

古﹂

一九

五九

|一

一︶

これ

に北

朝お

よび

高句

麗の

鎧馬

の例

をよ

くあ

つめ

てい

る︒

7︑

敦怪

文物

研究

所﹁

敦担

英高

窟﹂

一九

五七

8︑

府開

︑馬

鎧の

例は

わが

国で

も和

歌山

市大

谷古

墳で

発見

され

てい

る︒

樋口

隆康

︑西

谷真

治︑

小野

山節

﹁大

谷古

墳﹂

一九

五九

9︑

谷川

道雄

﹁北

韓末

の内

乱と

城民

﹂︵

上︶

︵﹁

史林

﹂四

一|

一二

︶に

この

問題

を論

じて

いる

︒ 日 ︑

ζ

らの

河北

豪族

のう

ち︑

溺海

修回

同の

高氏

︑封

氏は

有名

であ

る︒

封氏

一族

の墓

は一

九四

九年

河北

省景

県十

八乱

塚で

発掘

され

てお

り︑

高氏

一族

のも

のも

︑墓

誌銘

の紹

介さ

れて

いる

もの

があ

る︒

張季

﹁河

北省

景県

封氏

墓群

制査

記﹂

︵考

古通

説﹂

一九

五七

l一

二︶

中国

科学

院考

古研

究所

﹁漢

競六

朝墓

誌銘

集釈

﹂第

四冊

二九

五三

年 四︑独孤緩の生涯とその子間違

八独孤羅の生涯﹀独孤羅については情書の伝と墓誌銘の二つが幸いにあたえられているので︑両者を比較検討するこ とが可能である︒誌によると﹁雲内盛楽の人︑後に河南の洛陽県におる﹂とあるが︑ハ久の信は雲一中より出で︑武川に鎮し た人であり︑かれも洛陽にいた形跡はない︒北朝貴族は河南洛陽人とかくのが一つの形式であり︑その体をとったものと

おも

われ

る︒

かれの生授の年時は情書の伝には︑

ったわっていない︒墓誌銘では開皇十九年︵五九九年︶二月六日︑六十六才で亮じ たとあるから︑北貌孝武帝の永照三年︵五三四年︶に生れたことになる︒前章にのべたやうに︑

この年に︑父の信は孝武

帝にしたがって洛陽から長安にうつったのであるから︑かれは生れて間もなく父と生別したわけである︒その祖父の庫お

(18)

よび祖母費連民︑および母はおそらく中山にとどまっていたとおもわれる︒信が西説にあって東説討伐の将となり︑また次

第に童︑きをなすにしたがって羅は高氏︵高歓︶のためにとらえられた︒一種の人質である︒この間祖父母を失っている︒

信が字文護に殺されるや︑はじめてゆるされ︑中山に寓居した︒孤貧にして自ら給することのない生活がつづいたが︑斉 将独孤永業はその宗族であったので︑これをあわれんで田宅を買い資畜をおくつた︒独孤永業は北斉番地問の伝によると

ついにその姓に従ったというが︑も

本姓劉民で︑中山の人︑幼時母は改めて独孤民に嫁し︑永業は独孤家で養育せられ︑

ともと劉庫仁の子万齢の子孫とったえ︑中山に駐屯したことからそこにすみついたものとおもわれる︒

一方北周でさしもの勢力をふるった字文護も天和七年三月︑誌せられ︑天下に大赦の詔令が発せられ︑年号も建徳と改

めら

れた

独孤民の一族にも再び春がおとづれた︒信の次子善が家をついでいたが︑楊堅や李淵もいまやその一族であ

る︒北周が北斉を滅し︑楊堅が定州総管となった時︑妻独孤氏は人をつかわし羅ぞきがしもとめ︑

ついにこれを得︑相見

て悲み自ら勝えず︑侍御する者皆泣くとったえている︒ここで︑周の武帝は羅を楚安郡太守としたが︑疾をもって官を去 り京師にかえった︒墓誌には楚安郡守に除せられた年を大象元年︵五七九年︶としている︒はじめ弟たちは羅が貧賎のな かに長じたことをもってかるく侮り︑兄事するにいたらなかったが︑長者の風あり︑弟とあらそわず︑しだいに霊んぜら れるに至った︒弟の中には羅の母が北斉で死に夫人の号もなく︑家をつぐべからずとしたが︑すでに帝位にあった惰文帝

︵楊

堅︶

が妃

に乙

れを

たず

ねる

と﹁

羅は

誠に

嫡長

︑謹

うべ

から

ず﹂

と答

へ︑

これが鶴の一声となった︒長安にうつり︑陪 開皇代に入ってからの羅の生控は墓誌によってみると官位の贈進によってうずめられている︒

北周静帝大象元年︵五七九年︶楚安郡守に除せらる︒

︵ 誌 ︶

,  

二年︵五人O年︶儀同大将軍に除せらる︒

南関

皇元

年︵

五八

一年

︶一

二月

使持節上開府儀同大勝草︑

つい

で領

左右

大持

軍に

除せ

らる

︵ 誌 ︶

階越

国公

独孤

懸の

議誌

銘の

考証

(19)

隔週

国公

独狐

羅の

墓誌

銘の

考証

i¥ 

高祖丞相となし︑儀聞を拝し常に左右に置く︵偉︶

H周年八月右武衛大将軍に韓ず︒︵誌︶

羅を拝して左領左右将軍︑ついで左衛将軍にうつる︒

︵ 停 ︶

F二年︵五八二年︶越国公邑一万戸を襲爵す︒

太帥

上柱

園巽

定等

十州

刺史

園越

公邑

万一

戸を

贈る

おそらくこの年に

︵ 誌 ︶

︵ 停 ︶

弟善を河内郡公に︑穆を金泉県公に︑蔵を武平県公に︑胞を武喜県公に︑整を千牛備身とす︒

︵ 停 ︶

H

上三

年︵

五八

三年

︶ 独孤皇后が父越景武公独孤信のために畏安皇域の東︑常楽坊に宏善寺を建てた︒︵鳩安志︶宏善寺は開皇十八年に趨景

会守

と名

を改

めら

れた

︒へ

酷⁝

綜一

肌収

H

上十

二年

︵五

九二

年︶

大将軍太子右衛率を拝した︒

H

上十

三年

︵五

九三

年︶

著 書

( 節

文 総帝 管

て 涼

涼 甘m

州 さ

州 墨 蓄

孤 平事

原 涼州

製 刺

密 史

三 i

諸 除 宍 せ

れら

f

誌、_,

霊州総管賀若誼らをやり卒を発し胡に備う︒皆︵蘭州総管︶達察長

儒の

節度

をう

く︒

儒長

衆を

ひ・

さい

師連

山に

出で

︑北

西蒲

類海

に至

り︑

虜な

くし

て帰

る︒

︵鋪

均一

⁝信

一昨

一一

一︶

羅が涼州刺史にあったことは父信が涼州をうらその民六千余戸を長安にうつしたことからもわすれがたいものであった ろう︒北朝︑陪代の涼州のもつ意義はのちにのべる︒陪書羅の伝に﹁梁州総管﹂とあるのはいうまでもなく﹁涼州総管﹂

(20)

とただすことができる︒

P同上十八年︵五九八年︶

益州

陽安

県を

食み

一千

戸を

封ぜ

らる

︒︵

誌︶

羅は趨園公としての一万戸の封邑の外に一千戸の封邑があたえられた︒陽安県はいまの四川省簡陽県にあたる︒

F同上十九年︵五九九年︶二月

亮ず

︵誌

︶ 羅の残年については情書の停によると 場帝位を嗣ぎ︑改めて萄園公に封じ未だいくばくもなくして官に卒す

とあるが︑墓誌には

春秋六十有六︑以︵開皇︶十八年二月寝疾︑亮於位︒

とみえる︒任地で残し︑帰罪されたのであろうか︒また

︵開皇︶廿季歳次庚申二月庚申朔十四日発酉︒唐於薙州浬腸牒洪演原奉賢郷静民里 とあり︑開皇十九年︵五九九年︶思し︑翌二十年︵六

O

O年︶葬られたとする墓誌に従う外はない︒

︿独孤開遠とその墓﹀

る︒臨書独孤羅南末︑武都は王位充のためにころされ︑かれの妻王蘭英は三才になるその子師仁をつれて長安にたどりつ

唐書巻二百五

いた︒李淵︵唐高祖︶はその義を嘉し︑蘭英を永寿郷君にした︒列女伝 庶長子開遠は情義寧二年︵六一八年︶字文化及の拭逆にあたり︑袈度通が賊をひきい成象殿に入ったところ宿衛の兵士

独孤羅には纂︑武都および庶長子関連らの子供があった︒纂が家を嗣ぎ仕えて河陽郡尉となってい がみなこれにしたがった︒関連は時に千牛備身︵侍従︶であったが︑独孤盛とともに奮戦し︑

つい

に賊

にと

らえ

られ

た︒

しかし賊はこれを義として放たれたと伝えている︒

惰越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

11!! 

(21)

階越国公独孤羅の墓誌銘の考証

一九五三年戚陽底張湾で発見された唐員観十六年独孤開遠墓というのはかれの基とするほかはない︒この墓や墓誌につ いてはいまだくわしい報告がないが︑出土の明器泥象の類が紹介されている︒

出土の陶備は楯をもっ有震の武人像︑婦人立像︑男子立像︑騎馬婦人像︵第

3図3

4

5

︶などで︑いづれ型どりで

Q

3図成陽底張湾出土の人馬陶{商

(1.2陪墓3.4.5唐貞観18年狼孤関遠墓)

(22)

ある

ο

﹃唐 桶選 集﹄ には婦人立像を文史伺としているが︑陪基にもみた紗帽をいただく婦人であろうごいづれも身体のう ときに乏しく階の生脱さをいまだにとどめている︒惰と麿とを結ぶものとして亘裂な資料である︒

l︑

﹁漢

貌樹

北朝

墓誌

銘集

釈﹂

巻二

・三

−四

をみ

よ︒

︑ 李 静 訓 と 独 孤 思 敬 の 墳 墓 以上の︑へたやうに独孤信︑羅︑開遠の墓が底張湾に見出されたが︑羅の弟らの墓はいまだにわからない︒︑旧唐書︑新 唐書などでは︑その後と考えられるものがほとんどあらわれない︒七子整の子懐恩は唐の高宗の時︑長安令︑工部尚警な

どを

歴任

して

いる

が︑

のち

異計

をは

かつ

て諒

され

︑其

の家

を没

され

てい

る︒

細韓

関尚

一一

一臥

一一

︑ 北斉より北周にうつった独孤永業は大象二年︵五人

O年︶︑昼彦珍のために殺された︒しかしその一門はその後もつづ

き︑唐代に独孤及や宰相独孤損を出した︒一九王六年西安東郊にその墓の発見された独孤思敵はその系統である︒

文帝︵楊堅︶と独孤皇后の聞の一女が北周宣帝に嫁し︑その聞に生れた一女は陪になって李崇の子李敏に嫁した︒さら にその聞に生れた李静訓という少女の墓がはからずも一九五七年西安の西郊で発見されている︒いま独孤氏の系類につな がるものとして李静訓と独孤思敬の墓の調査を紹介しておこう︒

︿陪李静訓m第一﹀西安市の西郊玉祥門炉︸に発見された︒竪穴土坑中に石街︑石棺をおき︑締の南側に墓誌がおかれてい

た︒石棺には背龍︑朱雀の図があり︑内側の四壁一に壁画があった︒棺蓋には山形の屋根があり︑その両端には鴎尾︑その 中に宝瓶︑まわりに筒瓦と蓮華文の瓦をのせた様をャつつしていた︒その筒瓦には﹁開者即死﹂という字がよまれた︒人骨 は仰身︑伸展葬︑両手を胸前にいだき︑頭頂に玉鋭︑木統があった︒墓誌銘によると李静訓︑字は小該︑臨西成紀の人︾

階越

国公

独孤

羅の

墓誌

銘の

考証

(23)

陪越国公独孤羅の墓誌銘の考証

その祖父は李崇︑父は李敏︑幼にして外祖母周皇太后にゃしなわれ︑大業四年︵六

O八年︶六月一日扮源之宮で死んだ︒

年僅かに九歳︑周年十二月長安県休祥里万善道場内に葬ったとある︒棺内のはまさしくこの少女に外ならない︒

とは情書巻三十七にみえる︒

李静訓の名は史伝にみえないが︑北周︑陪の功臣︑李穆︑祖父の李崇︑父李敏の︵李崇は李種の兄の孫にあたる︶のこ

北周以来の功臣で惰開皇六年︵五八六年︶蔑すると﹁石櫛を賜い︑前後部羽

李種

は西

灘︑

謀︑鼓吹︑韓椋車︑百寮でこれを郭外におくつた﹂ことがみえる︒李敏は楽平公主︵北周の宣帝妃︶の女︑蛾嫉をめとつ たのであるが︑周太后はその莞ずる時その弟燭帝に﹁妾には子息なく︑階一女あるのみ︒自ら憂へて死するあたわず︒た だ深くこれをあわれめ﹂といっている︒李静訓はさらにその一女であり︑周太后に養われ︑周太后より先に死んだが︑そ の副葬品が九歳の少女とおもわれぬ豪華にして豊富なものであるのは︑惰の王室の特別なはからいがあったものとみて差

支え

ある

まい

︒ 副葬品は棺櫛の内外︑棺蓋の上などにおかれた︒その種類に左の如きものがある︒

{陶

国 鎮基獣二︑眉をもっ武士像二︑儀位伺一組︑女伺ニ組十八︑挟手女個入︑

小冠扶手男伺三組十八︑龍冠扶手男伺六︑風帽套衣偏六︑胡服伺六︑執箕小女間二︑動物備︵馬︑牛︑羊︑鶏︑犬︑

鵡など︑外に子をもっ猪︑荷を負う馬︶

模型︵磨︑位︑房︑碓︑井欄︶

2︑資器

青色および白色の両極の粕あり︒

3︑波璃器平底瓶

一 、

卵形器

一 一

など

4

︑ 金 器 金 腕 輪 二 ︑

指輪

一 、

金 杯

ラ︑銀器高足銀杯

一 、

小碗︑企︑小杯︑小斧各

銀筏︵はし︶各

指甲

姿一

Oな

ど︒

(24)

6︑ 銅 器 銅 盆

銭 壷

捕時

一金

小銅

7︑銅鏡十二生肖銅鏡

8

釦君

八字

形鉄

麗︵

はさ

み︶

一な

9︑

貨 幣 陪 五 録 玉

ササン朝銀貨︵

EE

回合

l

おと

山︑織物織成団花の糸帯︑麻布など

日︑装飾品玉戒指︑玉如︑玉刀︑水晶または玉銃︑玉彫小獣︑

めの

うの

珠︑

骨統

︑玉

翠な

ど︒

これらの遺品は陪大業初年の副罪であることを決定しうる重要な一括遺物である︒明器泥象のみならず豊富な金︑銀︑

p閣総などさらに一枚のササン銀貨のあることも注意されるのである︒

一九五六年の暮から五七年にかけて︑西安城東三十︵中国︶里︑調橋区洪鹿村で二個の唐基が調査

された︒その造物は西安の考古研究室で整理され︑馬得志︑張正齢民らによって報街

γ

れている︒その西にある一号墓は 八独孤思敬の墓﹀

唐朝散大夫行定王府援独孤思敬および夫人元氏の墓であり︑東にあった二号墓は思敬の継室であった楊氏の墓である︒後

者は大部分破壊されて出土品もまた少かったが︑前者からは多くの副葬品が発見されたc

地下にほりこまれた土洞墓で斜におりる長い墓道で墓室よりなる︒出土の器物は明器泥象の類が多く︑文官筒︑武士伺

その他男女の人物像︑らくだまたは宮崎をひく人物像︑馬四︑らくだ四︑鎮墓獣二の外︑開元通宝などをともなっている︒

独孤思敬の墓誌は万六七︑五センチ︑誌蓋の四辺に花文をほどこし︑上に﹁大唐独孤府君墓誌銘﹂

︵象

書︶

の九

字が

った︒墓誌銘は縫書で三十一行︑毎行三十二字におさめている︒

これ

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独孤永業とそ の一族の系諮

IV

﹁於膚景龍三年八月十五日︑経於京帥之瞳泉里第﹂

﹁千同年十月二十六日︑合葬於落州万年県︑銅仁郷之旧筆﹂

とある︒思敬の名は史伝の中にはみえないが新唐書巻七十五下︑宰相世系表の独孤民の世系に独孤永業の孫元憧の子に思 荘︑思行の名があり︑その兄弟となすべきであろう︒報告者は思敬が定王武位殴の間にあった人であり︑定王は太平公主

の禍に坐してその基が夷平せられたので︑後人が世系表にのせなかったのではないかと考えている︒

ー︑府金裕﹁商安西郊階李静訓墓発掘簡報﹂︵﹁考古﹂一九玄九|九︶

2︑馬得志︑張正齢﹁西安郊区三個唐墓的発掘筒報﹂︵考古通訪一九五八|一︶

J

陪唐墓における西域金銀貨の発見

独孤羅基では東ロlマの金貨を︑ポナ静訓墓ではササン朝ペルシヤの銀貨を出したことは先にのべたとをりである︒

これら西域貨幣の出土は西安の近郊ではすでに︑数ケ所に達している︒山西省太原の唐乳叫はササン・ホスロl

二世

の銀

貨が出た︒河南省では三門峡の調査にともない︑険県の惰基で︑ホスロl一世の銀貨が︑惰五妹三十一枚とともに出土し

た︒これは北周保定四年︵五六四年年︶死んだ劉偉と︑開皇三年︵五人三年︶死んだ夫人隅西李民を同年に合葬したらの

参照

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