はじめに 神社をめぐる現代的な問題関心や言説として大きく三点あるように思われる︒一点は︑神社存在の意義︑意味づ
けに関わることがらで︑﹁公益性﹂﹁公共性﹂や﹁公共空間﹂という論題設定においてその性格や役割についての問
いかけがある 1︒二点目は必ずしも神社に限られないが︑現代宗教が抱える少子高齢社会における宗教継承や組織・ 論文要旨﹀ 明治維新を契機とする変革を経て今日に至る神社・神道に関し︑地域神社に焦点をあて︑それが経験してきた諸場面を取り上げ︑近代の持つ意味を考える上での検討課題を示す︒今日の神社への関心や理解のあり方は︑神社が近代以降国家制度の下にあり︑第二次大戦終了の転機を経て﹁神社﹂としての形を新たに整え今に存することがさほど問われず︑先験的にその本質や性格を大きな枠組みで論じられる傾向にある︒
本稿では︑地域神社が﹁神社﹂として姿を現す一方︑﹁非﹂神社としてその姿を消しながらも地域社会に内在し続けてきた場面︑明治末期の政策影響を受けた神社合祀の場面︑さらに神社が近代の景観論の問題に向き合った場面につき具体例を取り上げ考察する︒神社制度整備と実状の狭間におかれ︑中央的な動向にも影響を受ける地域神社の主体性の問題を分析する意義・必要性と︑そこから照射される神社・神道の近代を考える課題があることを述べた︒キーワード﹀ 近代神道︑神社合祀︑矮陋神祠︑地域神社︑鎮守の森
地 域 神 社 の 近 代 を 再 考 す る
││ 中央と地方・﹁神社﹂と﹁非﹂神社の狭間に何を見るか ││
櫻 井 治 男
施設の維持問題であり 2︑三点目はパワースポット・﹁ご朱印帳﹂ブーム︑あるいは宗教ツーリズムの﹁聖地﹂とな
り︑海外からの旅行者が著名神社︵だけではないが︶に集中するといった状況など︑変化の著しい現代世相との関わりにおいてどのようにそうした現象を理解するかという点である︒
これらは︑一見かけ離れているが︑どこかで重なりあっているようでもあり︑その接点は必ずしも見えてこな
い︒ただ︑この背景には神社神道という立場・観点から推し量れば︑直接的には神社の将来維持や神道の継承という課題との関わりが底流にあるように思われる︒そうした場合にしろ︑現代の日本宗教の問題としても︑実際は多
様な内実を持つ﹁神社﹂が各時代︑社会状況において︑どのような姿︑形を示してきたのかを検討しておくことで
各テーマに向き合えるのではないかと考えられる︒
ところで︑情報社会の現在︑神社に関する様々なコンテンツが発信されている︒自分が知りたいと思う神社についてネット検索を試みると︑神社自体が独自に工夫を凝らしたホームページ︑あるいは神社組織︵たとえば各都道
府県の神社庁︶が共通の項目を整え提示する場合もあり︑さらには個人の訪問記などが写真とともにアップされて
いる︒こうした情報のうち神社概要には︑﹁祭神﹂が掲げられ︑簡単な﹁由緒﹂︵創建の年代・由来︶や祭祀について紹介されているものが多い︒あらためてその﹁由緒﹂内容を見ると︑第二次大戦後の宗教法人化により調製の
﹃神社明細書﹄やその元と言える戦前期の行政公簿である﹃神社明細帳﹄に基づいており︑それに人々の関心を呼
ぶような逸話・伝承が付加されていたりする︒﹁祭神﹂についても︑人物の場合などを除き︑概ね記紀等の古典に登場する神々となっており︑併せて神話内容を紹介し︑﹁神徳﹂との結びつきで解説が加えられこともある︒
そこでは︑時間的に近いところの第二次大戦︑そして明治維新を契機とする国家・社会に大きな変革を来たした
近代を経てきた神社の姿であることには意外と気にされないことがある 3︒明治維新以降の神社制度整備過程のなかで公的に認められた﹁神社﹂と︑そうではないが実際に存在してきた地域所在の﹁非﹂神社を対象に︑それらがど
のような時代的濾過を経験してきたのか︑その一端を神社自体の経験として探ってみたい︒
一 地域神社の近代という問題について 地域神社にとっての近代を問う方向性として︑一つに国家の体制と神道の宗教性や神社信仰をめぐる問題︑特に
制度・政策︑時代的思潮との関わりが比重を占めている︒これは国家神道の議論に直結する問題として位置づけら
れるところでもあり︑その基底には近代の﹁宗教﹂概念とその理解のあり方が関係している︒二つには地域神社と所在する地域社会・文化との関係の問題であり︑社会変動や民俗事象等との対応を読み解こうとする観点があり︑
三点目は神社の個別性が大きいことにもよるが﹁神社﹂自体が各時代のなかでどのように自らを位置づけ持続と変
化を辿り今日に至って来ているかという点がある︒
これまで︑筆者は第二点目に焦点を当てながら︑第一点目の動向との関わりで明治末期に生起した地域神社の合 祀︵合併︶問題に関心を寄せてきたが 4︑合祀事例の検証を進める上でも︑その作業のなかで課題と捉えられる問題 についての解明とともに︑諸研究情報の蓄積が必要と考えている 5︒本稿では︑こうした自覚を持ちながら近代を迎えた神社が﹁神社﹂として姿を現す場面︑それが時代のなかで大きな政策の影響を受けた場面︑それを経て神社の
風致を整えて行く場面を取り上げ考えてみたいと思う︒もちろん神社という場合には︑そこに関わる神職や氏子・
崇敬者︑さらには深い関心を寄せる人々の意向や動きを見落とすことはできないし神社への時代的言説も関係する
が︑たとえ小さな事象としても地域の神社に立ち現れていた現象に着目することから全体の問題を照射することも
必要であろう︒もちろん︑ここで例示する内容を一般化するには慎重であるべきだが︑明治以降の神社が国家制度の下で存在してきたこと︑また第二次大戦後に神社が宗教法人化し同じ制度の中に存在する︵多くの神社が神社本
庁と包括関係にある︶点では共通する面も見られよう︒
なお︑本稿で扱う対象としての地域神社とは︑これまで社会学や民俗学︑歴史学などで地域所在神社︑集落神社︑ムラ氏神や氏神鎮守などとして研究されてきたものであり︑施設設備等の有無や規模の大小にかかわらず︑その性
格として地域社会に密着してきた︑少なくとも何らかの形で共同奉斎の対象として意識が向けられてきた神社を指
している︒戦前期の神社行政の立場からすれば︑大方のところは官社︵官国幣社︶に対して﹁府県社以下神社﹂と
して取扱われてきた神社ではあるが︑場合によっては必ずしも行政上の取扱い対象となっていなくても︑地域社会での位置づけにおいて宮や神社等と呼称︑認識されているものを含んでいる 6︒
二 ﹁矮陋神祠﹂と﹁神社﹂の近代 ﹁神社﹂としての設備も整わず︵本殿・拝殿・鳥居の設置は神社の基本的要件とされてきた︶︑由緒が明確ではな
く︑祭祀も行われておらず維持の目途が確立していない小さな神々︑﹁矮陋神祠﹂は改めて整序の対象となり︑﹃神
社明細帳﹄への登載による公的認定・措置をうけるか︑合祀によりその姿を消してしまったように見られがちであるが 7︑柏木亨介が熊本県の事例で示したように﹁生活と密着した機能神﹂として存在し続けてきたこともある 8︒
﹁矮陋﹂という捉え方や祭祀・設備・由緒の内容に近代的神社観 9という﹁濾過﹂の問題が内包されていることはお
くとして︑表面上は見えなくなった神祠ではあるが︑それが地域の人々を守る存在として明確に姿を登場させず︑由緒不詳とされていても︑何らかの契機により共同奉斎の対象として自覚・再生されることがある︒
この点について︑伊勢神宮に近接する三重県度会郡の事例を掲げ見ておきたい A︒同郡南伊勢町︵平成一七年南勢
町・南島町が合併︶に東宮︵旧鵜倉村︶という集落がある︵後掲地図参照︶︒江戸時代初期に︑治水工事や鉱山開発︑東西廻りの航路開発・整備などに活動した河村瑞賢︵一六一八︱九九︶の生地として知られ︑現在の瑞賢は地域
の魅力発信の役割を担っている︒伊勢神宮の神領という歴史背景もあり︑神宮の式年遷宮に倣うように︑氏神社を
定期的に造替する慣例が続けられてきた︒明治四〇〜四一年に村内四か字の神社が東宮の八柱神社︵村社︶へ集約
されたが︑東宮を除く三か字では戦後に神社復祀を行っている︵明確な時期は未詳︶︒神社本庁との関係はなく地
区持ちの神社となっている︒また︑東宮内でも四つの小地区のうち一か所で旧社地に神社復祀がなされていたが︑
近年になり再び合祀が行われ︑跡地に次のような﹁ヘンバイの宮跡之碑﹂が建てられている︒
往古より︑此の地ヘンバイの森には東宮村の鎮守の神として八王子と三狐神がお祀りされていた︒寛永七年
︵一六三〇︶河村瑞賢が︑十三歳で江戸へ出発するに際し︑父・太兵衛政良と前途の幸福を祈願したと伝えられ
ている︒その後︑大水害等があり︑今の八柱神社の地へ遷されたものと推測されている︒村内諸所にあった小
祠の類は︑明治年間に一ヶ所に合祀され村社・八柱神社となった︒それ以来︑神社跡は顕彰されることなく放置されていたのを畏れ︑昭和五十年︵一九七五︶十二月七日︑地元民の手により故地へ新たに祠を造り社地を整
備して︑神霊を迎え奉安した︒以来四十年間︑遷宮・中御造営を重ね神慮を敬い︑加護をいただいてきたが︑
この度︑再び八柱神社に遷座いただくこととなった︒謹んで由来を記し後世に伝え︑精霊の地ヘンバイの森が
八柱神社遥拝所として再興せんことを願うものである︒ 平成二十七年十二月建之 東宮かとけ組 昭和五〇年の復祀も今回の合祀も八柱神社氏子︵四地区︶の了解を得てなされた︒復祀にあたり宗教法人登録は
行われておらず︑今も旧社地は区有地となっている︒ヘンバイの意味は不明で︑﹃明治十二年神社明細帳 B﹄によれ
ば︑八柱神社︵村社︶と境内社の一社として三孤神社が登載されており︑これが碑文に言う﹁八王子と三狐神﹂と理解されるが︑字名は一致しておらず来由は未詳である︒建碑主体の﹁かとけ組﹂は小地区名である︒
建碑に関わった方によれば︑復祀された﹁ヘンバイの宮﹂は︑一〇坪余の地であるが︑往時の森の記憶として周
囲に樹木植栽を施し小さな社殿も構え︑当地方の氏神社の慣例に習い二〇年ごとに造替遷宮を行い︑一〇年目の中
遷宮では補修を重ね︑年に一度神職を頼み祭典を行ってきた︒しかし︑組内住民︵約二〇戸︶の高齢化と若者の不在により︑神社としての将来維持問題に対処すべく再合祀を決断したと言う︒
碑文に記載の神々を少し窺ってみると︑八王子とはこの地方では村氏神として多く祀られていた神で︑神仏分離
時期に﹁八柱神社﹂と改号されている場合が多い︒﹃明治十二年神社明細帳﹄に登載の同名神社を見ると︑南伊勢町地方では明治三年に一斉に改号したようで︑同時に祭神が五男三女神︑すなわち記紀神話の﹁天照大神と須佐之
男命の誓約﹂により生まれた八柱の神々の名前が記されている︒こうした改号と祭神が明示された上で﹁神社﹂と
されたことは︑当時の一般的な傾向であった C︒ 旧鵜倉村における神社の推移を﹃神社明細帳﹄によって概略を示すと表1のようになる︒なお﹁浦﹂の呼称を持
つ集落は漁村で︑奈屋浦は︑東宮の枝郷であったが︑江戸時代には独立した一村となっていった︒
表1 旧鵜倉村神社の神社推移
地区名 上段:合祀前の状況(明治12年) 下段:現在の神社状況
東宮
①村社・八柱神社(境内神社7社)
①‑1八幡神社 ①‑2三孤神社 ①‑3白山神社 ①‑4稲荷神社 ①‑5津島神社
①‑6山神社 ①‑7桜木神社:氏子数167戸(東宮102戸/奈屋浦63戸)
*八柱神社(宗教法人登録) *「ヘンバイの宮」(再合祀)
奈屋浦
②無格社・蛭子社(境内神社2社) ②‑1大国社 ②‑2山神社:氏子数74戸
③無格社・津島社(境内神社2社) ③‑1秋葉社 ③‑2稲荷社:氏子数74戸
*恵比寿神社 慥柄浦
④村社・慥柄神戸神社(境内神社1社):氏子123戸 ④‑1境内神社・三狐神社
⑤無格社・稲荷神社:氏子数123戸
*八柱神社
贄浦
⑥村社・八柱神社(境内神社9社)
⑥‑1三狐神社 ⑥‑2八幡神社 ⑥‑3秋葉神社 ⑥‑4山神社 ⑥‑5津島神社
⑥‑6稲荷神社 ⑥‑7龍神社 ⑥‑8蛭子神社 ⑥‑9金刀比羅神社:氏子数121戸
⑦無格社・厳島神社:氏子無
*八柱神社
合祀の状況(明治40〜41年)
【合祀の中心神社】東宮村・八柱神社(①)及び境内社(2社 ①‑1 ①‑3)へ合祀 a 八柱神社(本社)への合祀 ②・③・③‑1・③‑2・④・⑥
b 八幡神社(境内社)への合祀 ①‑4・①‑5・⑤・⑥‑2・⑥‑5・⑥‑6・⑥‑8 c 白山神社(境内社)への合祀 ①‑2・①‑6・①‑7・②‑1・②‑2・④‑1・⑥‑1・⑥‑3
⑥‑4・⑥‑7・⑥‑9・⑦
ここに一覧した神社の動きを単純化すると︑︵1︶まず字内のいくつかの神社︵社︶が明治八〜九年に村社格神社
︵贄浦は無格社︶の境内社として遷座し D︑︵2︶明治末期に一村一社として合祀され︑その状態で来ったが︑︵3︶第二次大戦後に三地区が旧社地へ復祀を行い︑さらに︵4︶東宮内の一小地区が復祀したが再び合祀されたとなる︒明
治期の合祀状況は必ずしも特異な例ではないが︑︵2︶の段階での合祀の内実をみると︑神社と祭神の選択を伴う整
理のあり方が垣間見られる︒
すなわち︑東宮の八柱神社︵本社︶には境内神社七社があったが︑これらのうち八幡神社と三孤︵狐︶神社とは
︵1︶の時代を見ると︑社殿の大きさは三社とも同じ︵桁行四尺五寸・梁行三尺八寸・高七尺四寸︶で︑拝殿が合同
であった︵これは現在も同様の形式をとり︑同規模社殿である本社・境内社が一つの覆屋に収まっている︶︒また
由緒について三社ともほぼ同内容で﹁不詳文禄年間当村河村兼之先祖ヨリ造営スト云︑天保六乙未年六月氏子ヨリ造営ス﹂とし︑当地の有力家との関わりを記すとともに︑天保六︵一八三五︶年以来氏子が社殿造営を行ってきた︵﹃明治十二年神社明細帳﹄︶︒
︵1︶以前の状況を知る手掛かりはないが︑注目したい点は︑四大字の合祀に当たり︑各大字の村社格の神社は
﹁本社﹂︵東宮・八柱神社︶へ合祀され︑各境内社は﹁本社﹂ではなく︑境内社の八幡神社と白山神社へと選択的に
合祀されたことである︒しかも白山社は︑三孤︵狐︶神社が﹁置換﹂えられたもので︑元の白山神社は三孤神社よ
りも社殿規模が小さかった E︒こうした置換え後の白山神社へ他字の三狐神社や山神社・龍神社など︑﹁山野路傍﹂に所在していたと思われる神祠の類が合祀されるという結果となっていることがわかる F︒
いささか子細な内容に踏み込んだが︑神社行政上の重要な公簿である﹃神社明細帳﹄に登載された神社において
も祭神や由緒不明の﹁矮陋神祠﹂に類していた神社は︑合祀によってさらに整序の対象となり名称も消えるという選別の結果が見られる︒ところが︑﹁へんばいの宮﹂のように︑はるか後世に再登場するという状況は︑近代の濾
過を経て整備された神社が︑社名や神名に囚われない﹁地域の神﹂として潜在的に保持意識が継受されてきたこと
を窺わせるもので︑こうした末端の﹁神社﹂︑﹁非﹂神社のあり方や動きを照射し地域神社の近代を再検証する必要があると言えよう︒
三 地縁的合祀と社縁的合祀 明治末期の神社合祀は︑基本的に行政村単位で行われた︒そのことを当時の国家と地方運営との関係性の中に位 置づけ︑宗教と政治の論理の問題として捉え返す研究視点もあり G︑また︑合祀時の﹁神社中心主義﹂というイデオ ロギーや内務省の施策を動かす官僚の神社観を詳しく分析した研究も提示されている H︒これまで合祀にかかる当時 の問題状況は︑行政村内の大字間の社会的対立・拮抗状況︑また神社の﹁由緒﹂や施設規模などの条件に注目されるところであったが︑仏教など地域の宗教文化への視点が必要であることも指摘されている I︒こうしたなかで︑実
際の合祀プロセスを個別に追ってみると︑行政村単位での合祀とは異なる状況が生み出されていたことがある︒こ
の点について取り上げることとしたい︒
前節で紹介した南伊勢町のなかに﹁八ヶ竃﹂と総称される集落群がある︒それぞれの位置については地図に示し
た通りで︑各集落は地理的にかなり拡散している︒当該地域では︑集落形態に﹁浦方﹂﹁竃方﹂﹁里方︵地方︶﹂と
呼ばれる三種があり︑浦方は漁業が中心で漁業権を有し︑竃方は塩焼きを生業としてきた地で︑海辺に臨む集落で
はあるが漁業権は有しない︒また里方は沿岸部にかかわらず農作・畑
作が生業となる比較的広い地を有しているところで︑漁業権は無いという特徴がある︒近代の行政区画で各竃は次のように所属村が異なっ
ていた︒︵便宜上①〜⑧の番号を付す︶
南海村︵三大字︶⁝⁝①相賀竃中島村︵五大字︶⁝⁝②道行竃・③大方竃
鵜倉村︵四大字︶⁝⁝ 竃集落はないが︑湾をはさみ②道行竃の山
林があった︒
吉津村︵三大字︶⁝⁝④赤崎竃島津村︵六大字︶⁝⁝⑤小方竃・⑥栃木竃・⑦棚橋竃・⑧新桑竃
右の内︑島津村は二つの大字が浦集落である︒また︑①は明治八
︵一八七五︶年に隣接の相賀浦と行政合併して︑現在は相賀浦地区として一つの集落となっている J︒④は︑明治一八年に大字河内に合併され
行政上の地名は消えており︑住家も極少で旧来の住民による居住はな
い K︒これらの内︑①は旧南勢町で︑他は全て旧南島町である︒ 神社合祀は行政村単位で進められたが﹁一村一社﹂の形ではなく︑
旧南海村では①相賀竃の八幡神社︵無格社︶だけ他村へ合祀されたが︑
② ①
③
④
⑥ ⑤
⑦⑧
東宮
①相賀竃 ⑤小方竃
②道行竃 ⑥栃木竃
③大方竃 ⑦棚橋竃
④赤崎竃 ⑧新桑竃 東宮・八か竃位置図
(国土地理院ウェブサイトhttps://maps.gsi.go.jpを加工して作成)
三大字ともに氏神社は残り︑中島・吉津・島津各旧村の大字でも一社ないし二社が残る結果となっている︒こうした合祀のされ方は︑基本的に﹁地縁的合祀﹂といって言ってよかろう︒これに対して︑八つの竃集落は︑行政村を
越える合祀形態をとっており︑﹁社縁的合祀﹂と表現し得るものである︒合祀に二つのタイプが存することは︑行
政村内の精神的結合を高めるという趣旨とは異なった方式が認められていたこととなる︒
八ヶ竃の合祀とその後の様相を簡潔に示すと表2の通りとなる︒合祀時の中心神社は︑③大方竃の八幡神社︵村
社︶で︑合祀に伴い﹁八ヶ竃八幡神社﹂と名称変更を行っている︵祭神﹁宇佐誉田別命﹂の宇佐は省かれた︶︒各
竃の合祀前神社についてどのような神々が祀られていたか︵含む境内社︶を見ると︑津島神社︵八社︶︑山神社︵七
社︶︑竃神社︵四社︶︑秋葉神社・愛宕神社・浅間神社・稲荷神社︵各三社︶︑塩竃神社・金刀比羅神社︵各二社︶︑
網代神社︵一社︶となる︒最も多い津島神社は︑当該地域では広く分布しており︑﹁天王さん﹂と通称され愛知県
津島市の津島神社︵津島天王︶の信仰分布との関係が窺われ︑その祭りが盛んに行われる地域もある L︒秋葉・愛宕
神社は﹁火の神﹂として信仰されるところで︑塩焼き業との結びつきが推測される︒これら諸神社の状況からみられる特徴的なことは︑︵1︶竃集落の大半で八幡神社を祀っていた︵①③⑤⑦⑧︶︑︵2︶生業にゆかりの神︵竈神社・
塩竃神社︶が祀られていた︵①②④⑥⑧︶︑︵3︶大方竃の八幡神社遥拝所があった︵⑥︶というように﹁八幡﹂と﹁塩
竈﹂という共通のキーワードを有していたことである︒
合祀の中心神社となった③大方竃の八幡神社は︑正応三︵一二九〇︶年の記述と伝える﹁八幡神社縁起 M﹂によれ
ば︑この地に移り住んだ平維盛の後裔が宇佐八幡宮に擬した像を持ち伝え竃集落で祀るに至ったとしている︒ま
た︑八ヶ竃と神社奉斎の由来について﹃村社八ヶ竃八幡神社誌 N﹄によると︑まず︑竃集落の先祖が中世に伊勢国司
表2 八ヶ竃の神社状況
旧行政村名 集落名 上段:合祀前神社状況 中段:合祀結果 下段:現在の神社状況 南海村 ①相賀竃
(無)八幡神社/(境)塩竃神社・津島神社
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
―
中島村
②道行竃
(無)竈神社/(境)津島神社・山神社・秋葉神社・金刀比羅神社/
(無)網代神社(鵜倉村内)
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
神社跡:石垣:小祠・石鳥居・石灯籠
③大方竃
八幡神社/(境)山神社・津島神社・秋葉神社・竃神社
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
八ヶ竃八幡神社(宗教法人):社殿・瑞垣・拝殿・石鳥居・石灯籠2 吉津村 ④赤崎竃
(無)津島神社/(境)愛宕神社・竃神社・山神社
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
―
島津村
⑤小方竃
(無)八幡神社/(境)竃神社・津島神社・浅間神社・稲荷神社・
金刀比羅神社・愛宕神社・秋葉神社・山神社
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
八幡神社:小社殿・瑞垣・石鳥居・石灯籠2・石狛犬・簡易倉庫:
津波避難所
⑥栃木竃
(無)塩竃神社/(境)山神社・津島神社・稲荷神社・浅間神社・
愛宕神社/八幡神社(大方竃)遥拝所
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
八幡神社:小社殿3:石灯籠4・石鳥居1・木鳥居1
⑦棚橋竃
(無)八幡神社/(境)山神社・津島神社
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
棚橋神社:小社殿2:石鳥居・木鳥居・石幟立:津波避難所
⑧新桑竃
(無)八幡神社/(境)塩竃神社・山神社・津島神社・浅間神社
(村)八ヶ竃八幡神社(大方竃)
八幡神社:小社殿・社務所・石鳥居・石灯籠
*社格略称:(村)=村社・(無)=無格社・(境)=境内社 *赤崎竃は大字河内へ合併されている
*現在の状況は平成29年8月〜30年4月の調査による
北畠氏の戦功に尽くした結果﹁南島所在ノ山二十五ヶ所ヲ賜ヒ︑浦浜ヲ築キ製塩ヲ業トス︑斯クテ子孫増殖一門分裂シテ各処ニ邑居シ皆竃ト称スルニ至ルト云フ﹂と生業との関係を語り︑五ヶ竃から六ヶ竃︑さらに八ヶ竃へと発
展してきたとする︒そして﹁竃ナルモノハ名称位置等其ノ従業上ノ適否盛衰ニヨリテ︑往時屡次ノ変転アリシモ
ノヽ如ク﹂で︑当初の奉斎場所は不明であるが︑やがて②道行竃にて祀られ︑文禄三︵一五九四︶年に同竃から③大方竃が分村後は当地で祀ってきたとしている︒いわば︑各竃で祀られる八幡神社は︑大方竃のそれが﹁本社﹂と
される由緒を有し︑このことが神社合祀においては中心神社となる蓋然性が高かったといえる O︒ 但し︑合祀が﹁八ヶ竃﹂の単位で行われ︑大方竃の八幡神社に集約された理由には︑﹁本社﹂という優位性だけ ではなく︑寺院状況と合同祭礼を実施してきたということも重要な要素と考えられる︒すなわち︑八ヶ竃の寺院宗
派はいずれも曹洞宗で︑その本寺が大方竃の大智院であり︑社寺ともに大方竃が宗教施設の中心となる背景を有し
てきたことである︒大智院は︑天和五︵一六八四︶年に徳川頼宜が和歌山に封ぜられ︑この地域一帯の所領にあわせ
八ヶ竃の本寺と定めたとされ︑竃方各家の精霊をまつる八基の牌座が置かれており P︑まとまりやすい状況があったと言える︒
後者については︑毎年正月に﹁八ヶ竃八幡祭﹂という祭礼を各竃が輪番でつとめる慣例を続けて来たことがあ る︒祭礼の場所は当番の集落内で︑弓射行事と竃山の分配に関する証文を収めた箱と鍵を引き継ぐ﹁古文書譲渡式典﹂を内容とするもので︑八ヶ竃集落の結合に重要な機能を果たしてきたことが指摘されている Q︒
以上の状況を見ると︑ここでは︑同じ生業を営んできたという社会的意識 R︑平家の後裔というシンボリックな伝
承と八幡神社の奉斎︑合同の祭儀を続けて来たという伝統性︑同一宗派寺院の存在という共通項が﹁社縁的合祀﹂
の形を可能にしたと見られる︒ ただし︑合祀後の大正五︵一九一六︶年には︑神社移転に係る問題が八ヶ竃間で発生したようで︑詳細は未詳ながら︑五つの竃集落︵④〜⑧︶より総代会に神社移転の出願が行われ︑①〜③が反対するという対立図式があった S︒
この事案は大正七年の総代会の本会議で双方和解︑願書等の撤回で収束したようだが︑地理的に広範囲にわたる合
祀が問題性を含んでいたことが窺われる︒
合祀後︑八ヶ竃では①相賀竃︵相賀浦と合併︶︑④赤崎竃︵河内と合併︶を除き︑六つの竃集落で神社の復祀や︑
旧社地での神霊奉斎の状況が認められる︒第二次大戦後に旧社地へ相次いで行ったとされ︑宗教法人登録や神職の
常時関与は無く地区独自で維持運営が続けられてきた︒ここでの合祀状況を見ると︑合祀施策が行政村単位で強圧
的に行われたとの一面的理解では捉えがたく︑神社奉斎の歴史的社会的背景への慎重な経緯を見ておく必要があろう︒一方︑地縁的・社縁的合祀にかかわらず復祀の状況が見られることから︑合祀政策の成功・不成功という設問
において近代神社政策を論じることも的を得ている事かどうか問うべき課題ではある︒但し︑少なくとも地域住民
にとり身近な生活場面では︑﹁神社﹂・﹁非﹂神社に関わらず共同奉斎の対象が可視化されている必要があったことは指摘できよう︒
四 神苑整備と合祀後の地域神社境内 近代において︑神社の境内地は新たな﹁近代的土地制度﹂に依拠した制度形成において改めてその意味が再確認
され︑境内地が国家的位置づけにおいて﹁風致﹂﹁神体山﹂﹁公共性﹂﹁公園的性格﹂などの要素が再検討されだし
たとされる T︒明治二三︵一八九〇︶年に創建された橿原神宮︵奈良県橿原市︶が畝傍山・神武天皇陵とともに﹁聖跡﹂として整えられたことに関して︑近在の神社も﹁社の意義づけとして︑景観論が付加され﹂たこと︑また明治二〇
年代以降︑伊勢神宮や熱田神宮などの神苑整備を始まりとして全国の神社へ近代的景観の観点が波及したと指摘さ
れている U︒ 地域神社もそうした時代の流れの中にあったわけで︑これがどのような形として現われてくるかについて触れて
おきたいと思う︒合祀の中心神社は︑神社存置の基準という点で︑将来維持のための財政基盤の確立︑神社として
の尊厳維持と公的祭祀執行の上で︑施設面︵本殿・拝殿等︶や境内地面積などが設定されていた V︒それ故︑条件に
適合すべく合祀先神社を整えることや︑一端はしかるべき神社へ合祀し改めて新社地を選定のうえ移転するということも見られる︒
実際の新社地決定の理由は神社ごとに異なるであろうが︑それが単に都合の良い場所という機能面だけではな く︑周囲の景観や﹁神地﹂としてふさわしいという︑宗教空間意識のなかで選ばれていたことも窺われる W︒こうした点に関し︑神社合祀がおおよそ終息した時期に神社境内の様子を記述した資料から︑特に景観表現に関わる記事
内容を見ることで︑境内環境を整える志向性について取り上げて見たい︒
神社合祀がほぼ終わった頃︑三重県では﹃神社誌﹄が神職会の手により編纂されている︒かつて森岡清美が三重県伊賀地方の神社合祀分析の資料として用いたように X︑各社が詳しく記述されているが︑実際の刊行まで及んだも
のはわずかで︑他は稿本の状態で伝えられている︒それらのなかより前項で扱ってきた度会郡を事例として見てお
きたい Y︒資料には五二社︵郷社三・無格社二︑他は村社︶が収められており︑各神社の神職が書式に則り記述し︑
それを村役場が取り集め︑編集委員のチェックを受け︑最終的に整合性をとり刊行される予定であったと推測され
る︒基本財産や氏子数の項目は大正三年現在の状況が記されており︑合祀後の様相を知る上でも貴重である︒記載項目は社名・祭神・由緒・考証・補遺・建築物・境内・付記・氏子・雑載︵祭典など︶・宝物・基本財産で︑それ
らの中の﹁付記﹂という項目には神社が立地する周辺の状況や境内林など︑景観に関する記述が見られる︒この項
目が加えられたこと自体︑畔上直樹が論じた神社風景論の地域神社への波及という点で注目されるが Z︑ここでは十分な比較分析は出来ていないので一部の内容紹介に留めておきたい︒
五二社の内︑合祀により新社地を選び移転したのは八社︑現社地の拡大が図られたのは二社︑明治三九︵一九〇
六︶年に神饌幣帛料供進社としてまずは指定されたが︑後に別の神社へ合祀された神社が一〇社となり︑四割の神
社が合祀を契機に境内地などの関係で場所変更を行い︑それらの内︑半数弱は新たに境内を整えている︒合祀時に無理に基準を整えたなどの話題に注目されがちであるが︑新たな神社を持ち伝えて行く地域の意志を検証する作業
はなお今後の課題でもある︒
先に紹介した﹁八ヶ竃八幡神社﹂を含め︑度会郡全体の地勢を見て農村部・海浜部・中山間部の別︑新境内地か元の境内を保っているかを勘案してサンプル的に数社を抽出し︑それらの境内描写を示しておこう︒︵括弧内は原
文の鎮座地表記と現在地名︒傍線は筆者︒︶
①海浜部で社地移転の無い例⁝⁝八ヶ竃八幡神社︵度会郡吉津村大方竃・南伊勢町︶境内ハ人家ヲ離ルヽコト凡四町余ノ東方ニアリ︑東西南ノ三面ハ田畑ニ接シ北ハ聳立セル高山ニシテ︑其ノ麓
ノ高地ニ鎮座セリ︑樹木ハ杉楠ノ老樹其ノ他ノ雑木生茂リ︑付近ハ山岳重畳シテ 風光明媚ナリ︑現境内地ハ正
応年間ヨリ築造セシモノニ付︑樹木等ハ古木ニシテ風致ヨク︑且ツ人家遠キ為メ類焼ノ患ヒ更ニナシ②平野部で社地移転の無い例⁝⁝官舎神社︵小俣村離宮山︶
境内ハ往古離宮院旧跡ニシテ人家ヲ離ルルコト凡二町︑神社所有山林三町五反八歩ヲ以テ囲繞セラレ︑老松古
桧嵯峨トシテ天空ニ聳ユル︑一大森林古意蒼然トシテ転タ神霊貴キヲ覚エタリ︑而モ土地高燥展豁︑西北参宮線宮川駅ニ隣シ︑東南離宮川ノ清流滾々トシテ千古絶エザルアリ︑宮堤ノアナタ外宮ノ緑黛ト相映発スル所︑
其処ニ不言ノ啓示アリ︑寔ニ森厳清雅 ノ境域タリ
③中山間部で新社地を築造した例⁝⁝沼木神社︵沼木村上野・伊勢市︶
境内ハ人家ヲ離ルヽコト凡四町︑西面︵前面︶ハ伊勢路道路ヲ沿ヒ︑其他三面ハ私有山林ヲ以テ回繞セラレ︑道ヲ離テヽ横輪川アリ︑附近ハ山岳重畳シテ風光明眉ナリ︑現在境内地ハ明治四十五二月築造セシモノニ付樹
木矮少シテ風致ヲ欠ク観アルモ境内木ノ生長ヲ見ンカ︑附近山水ノ量ト相俟ツテ森厳潚洒 境域ナルベシ
④海浜部で社地を築造した例⁝⁝神原神社︵神原村神津佐・南伊勢町︶境内ハ人家ヲ離ルヽコト東五町余︑南面ハ熊野道路ヲ隔テヽ水田ニ望ミ︑他三面ハ私有山林ヲ以テ囲繞セラ
ル︑現境内地ハ明治四十一年四月築造セシモノナレバ樹木矮小ニシテ風致ヲ欠クノ観アルモ︑歳月ヲ経バ森厳
潚洒 ノ宮域トナルベシ 右の内︑②の官舎神社が所在する離宮院旧跡は︑古代において伊勢神宮の斎王が一時滞在する施設が置かれてい
たこともあり︑﹁外宮ノ緑黛ト相映発スル所﹂と神宮を意識した表現が見られるが︑直線距離で約四キロメートル
隔たっている︒傍線で示したように︑境内の理想とされている観点として﹁風光明媚︵眉︶﹂︵①③︶︑また②③④で
は﹁森厳清雅ノ境域﹂︑﹁森厳潚洒境域﹂︑﹁森厳潚洒ノ宮域﹂との表現がほぼ共通していることが分かる︒更に樹木
の状態が﹁風致﹂に関係していること︑﹁人家﹂との位置関係に関心が払われている点にも注目される︒①では人家からの類焼の恐れがないことを述べるが︑神社によっては人家が隣接する場合もあり︑そうした例では﹁西ハ人
家ニ接近ス⁝⁝一朝火災等ノ変アルトキハ此池水ヲ利用シテ防御ノ用ニ充ントス﹂︵﹁磯神社﹂豊浜村磯村・伊勢市︶と
火災への対処が記述されている︒新造の社地では﹁境内木ノ生長ヲ見ンカ﹂︵③︶︑﹁歳月ヲ経バ﹂︵④︶と時間をかけての成長への期待が綴られている︒
﹁森厳﹂の語が頻出しているように︑﹁神霊貴キ⁝⁝不言ノ啓示﹂︵②︶の場として厳かさへの積極的な意義付けが
なされている︒境内景観への評価に関わる表現について五二社を対象として頻出度の高い語彙︵五例以上︶を拾い
出すと次のようになる︒
︵1︶境内状態・神社周辺の自然環境
風致︵二八︶・森厳︵二一︶・風光︵一三︶・鬱蒼︵一三︶・高地︵一〇︶・眺望︵九︶・蒼然︵八︶・明媚︵八︶・繁茂
︵八︶・瀟洒︵五︶
︵2︶樹木に関して
杉︵二〇︶・雑木︵一七︶・桧︵一二︶・老樹︵五︶
︵3︶神社周辺施設人家︵一二︶・学校︵六︶
資料が︑神職会の手になる神社誌で︑統一的な編集という点から一定の語彙に集中する傾向があり︑記述表現に
例文が示されていた aことも関係しようが︑中央的な大きな神社ばかりではなく︑境内地への景観意識が地域神社に及んでいることは注目される b︒合祀という濾過を経験した神社がどのようにその後維持運営され︑それに関わる
人々の意識の在りどころを含めて検討課題は残されていると見ておきたい︒
おわりに
以上︑かなり個別的で些末と思われるような事例を見つめた考察となったが︑明治初期の神社調査や区分に伴う
﹁矮陋神祠﹂の取扱い︑末期の神社合祀の一端︑合祀後の神社境内整備に関わる状況を取り上げ︑それらが地域に
あっては多様な動きを示す一方で︑統一的な制度や観念のなかに位置づけられてきたことを見てきた︒近代になり
﹁神社﹂となることで末端の﹁非﹂神社が切り捨てられたとか︑末端の神社にまで国家の強烈な意思が浸透してい
たのが近代神道の実像であるのかどうか︑なお地域レベルでの状況を踏まえつつ︑それら狭間を明らかにすること
を含め地域神社にとっての近代とは何かということも問われる必要があろう︒そのことは︑今日の神社を捉える上でも重要なことと考えられる︒
注︵
に基づき公共性や社会的役割を捉える検証の必要性を指摘している︵﹁近代の神社法令の整備過程と関係法令概説書にみられる 形成の構造転換﹄鹿島出版会︑二〇一五年︶︒また藤本頼生は︑近代における神社概念意識の問題を制度面から明確化し︑それ みた成果が近年提示されている︵藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編﹃明治神宮以前・以後││近代神社をめぐる環境 1︶近代における神社・祭祀と国家︑国民との関係や公共性の問題について多角的な観点から研究の論点を示し実証的な解明を試