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The Domination of Ch'i-tan (契丹) over the Nu-chih (女直) of the Hui-pa (回跋) Tribes.(Continued)

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

The Domination of Ch'i-tan (契丹) over the Nu- chih (女直) of the Hui-pa (回跋) Tribes.

(Continued)

日野, 開三郎

https://doi.org/10.15017/2338990

出版情報:史淵. 47, pp.31-65, 1951-06-05. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

契丹の回践部女直経略に就いて∞

緒 言

一回肢部女直の登場とその反契丹活動

二契丹の回践部女直経略 ー 聖 宗 時 代

の経

ω

開泰年聞に於ける回駿部女直の入貢

ω

太平年聞に於ける回駿部女直の高麗投入︵以上前輯︶

ω

大延琳の叛乱と回殴部女直の契丹離反E興宗時代の経略

ω

蒲虚毛架部の反契丹活動とその経路

ω

回駿部の経路

三回蹟部女直の対外貿易活動と政治的動向

− 女 直 の対外貿易活動概観

ω

中園との貿易活動

ω

高麗との貿易活動

ω

契丹との貿易活動

契丹の回駿部女直経略に就いて付

日 野 開

i 広

(3)

契丹の回験部女直経略に就いてはげ

E回践部女直の対外貿易

ω

高麗との貿易活動

ω

中園との貿易活動

ω

契丹との貿易活動︵以上本輯︶E回駿部女直の政治的動向と対外貿易

ω

回駿部女直の内部関係

ω

回践部女直の政治的動向と対外貿易

契丹の図版部女直統御策

余 言

(3) 

大延琳の叛乱と回践部女直の契丹離反

契丹の圧迫を受けて亡命来投した噌抜大相等三百余戸を高麗が激海の故城に安置した太平九年八月は︑契丹園二百余年

を通じて最大内乱の

一と

云ふ可き大延琳の叛乱が勃発した月であった︒此

の叛

乱に就いては別に専考の一篇を組

む心

であるから︑此所に詳細た考設を展開するととはさけるが︑此の乱は全満洲の通古斯族に大きた衝撃を与へ︑契丹の満洲

経営に影響する所が少く・恐かったのでーその大要を概観し︑此の乱と同政部女色との関係の有無内容に就いて考察すると

とと

する

守︑延琳は東丹図の遼陽後退の際に遜された溺海人の子孫で︑その姓が

一 示

す如く溺海の王族である︵

大 一 昨栄七代の孫怒り

と一式ふ﹀︒遼陽府に於いて舎利寧詳穏の官職

陀在った︒遼陽及びその傍

近諸州に遜されてゐた溺海人の不平分子を糾合

し︑黄龍府方商の激海人とも通じ︑更に旧大瀬海領内各地に潜む徽海人・冗惹人及び反契丹波の女直とも聯絡して不意に

(4)

兵をあげ︑遼陽に拠って輿遼閣と称し︑天輿と建元したひその勢ひ一時猫獄を極めたが︑満一年後の翌十年八月︑迭に敗

年の攻守を続けた彼は︑敗れたりとは一去へ︑ 北就檎した︒契丹第一の名君と云はれる霊宗の治世第四十七年目の事件で︑喜一盛期の頂点に在った契丹の精鋭を対手に一

一世の傑物たりと云ふを得可く︑叛徒の勢カも亦過少に評価す可きでたい︒

叛徒に加担した契丹領内の溺海人が相当多かOたととは勿論であるが︑更に此れを援けた女直人が契丹領土の内外諸部に

わたって広範囲に及んで居たととは注意す可きである︒即ち旧定安図の女直たる鴨総府管下の佐民は挙︒て強力た援助を

たし

︑叉

高麗

−史

⁝鴻

一瀬

︷一

荏家

・二

十年

十二

月の

僚に

輿遼園大師大延定︒引東北女異輿契丹相攻︒建使乞援︒王不許︒自此路梗︒輿契丹不通︒

とて大延琳の兄弟と思はれる大延定が東北女員を率ゐて契丹と載ったととが見える︒高麗史に一式ふ所の東北女同県とは必歩

しも特定の女真勢力を指すものでたいとと︑既迷の如くであるが︑此所に一式ふ所の東北女異は︑諸種の事情を綜合して考

へるに︑主として輿威卒野に拠る勢力で︑従わJてその指導的地位を占めてゐたのは蒲虚毛柔部であったと解せられる︒

︵考

証省

略﹀

O此の蒲虚毛柔部は遠く遼陽附近に迄出撃した形迩があるo叉遼史時一聖宗紀・太卒九年八月の僚の叛乱一勃

発を絞した僚に

時南

北女

直皆

従延

琳︒

一式

一式

4F﹂て南女直がばれも大延琳に味方したとある︒遼史に云ふ南女直とは︑通例遼東牛島に位した局蘇館女直を︑北女直とは

関原︵契丹の威州﹀を中心とする銭嶺・入面抜方面の女直を指すが︑右の場合も果してかかる厳密た用例か︑それとも広

く各地の女直と云ふ意味の漠然たる用例か︑漣に断定し粂ねる︒然し何れにしても広大た範囲の遁古斯系諸勢力が加担し

契丹

の回

肢部

女直

経略

に就

いて

MH

(5)

契丹の回鞍部女直経略に就いて伺

て動いたとと丈は紛れたく認められる︒此の中最も活躍した女直は蒲虚毛柔部を中心とする威奥卒野の勢力であった︒頴

註初宗世家・二十一年四月戊子の僚に

東女員長闘等六十徐人来献支給四般・桔矢十一一角七千六百︒

とあり︑五月乙卯の僚に

東女真奉園大将軍蘇勿蓋等来献馬九芭・支給三線・桔矢五寓八千六百及器伏

とあって東女農が軍船・器伎や彩しい椙矢を高麗に献じたととが見える︒彼等は戚輿に住む蒲慮毛架部

一一

次の

者で

あっ

と解せられる︒時は正に叛軍と丹軍との攻挙が絶頂に達してゐ売︒そして興遼閣の乞援使はしきりに高麗に派遣せられて

ゐた︒高麗史・世家に見えるもののみにでも乞援回数五回に及ぶ︒此の時軍船・器伎や彩しい桔矢を献じたのは高麗を味

方に引入れて援軍を受けんとしたものと解せられる︒かうした蒲虚毛架部の旺盛た反契丹活動を指導したのは必十やそと

に多数潜入してゐた克惹人︑即ち後激海の残党であったに相遣ない︒各地の女直諸部が一斉に超って大延琳に味方した一

図は︑嘗て久しく彼等を支配して居先冗惹部の残党が此れを指導してゐもんととに在ると考へられる︒

以上︑極めて大雑杷た概観であるが︑要するに此の叛乱は︑久しく遼陽方面に於いて契丹の制圧下に置かれてゐ先駆逐

激海人の不平分子と︑旧大潮海の故地に於いて契丹への復讐反撃を策

υ

乍ら却って霊宗の経時に敗れた冗惹部一派の残党

との結び合った勢力の蜂起で︑明かに契丹の激海人・女直人制圧に対する一大反撃の性格を帯びたもの

であ

る︒

. 

叛乱は一年後の太平十年八月︑全く鋲定し︑乱徒の元兇と見注された遼東の住民は少からや契丹本土の諸地区に分散移

置せられ︑更に乱の再発に対するその他の予防策も

一 講

ぜられた︒然し契丹がかうした処置を加へ得たのは遼陽方面や鴨総

(6)

江流域等の契丹直轄地に限られ︑その他の部制度部族に対し直ちに断乎たる処置を下すととは出来たかった様である︒然も

乱に加担し党覇康部族の勢力は大きく︑此れが一年間の叛乱中に反契丹活動を展開したのであるから︑従来の遼籍外女直

に対する契貯の制御力︑即ち此れ迄浸透せしめつつあった腐魔力が一時減退弛緩レたととは充分考へられる︒事実︑乱後

しばらく奥地有力女直部族の入賞を伝へた記事が絶えてゐるのである︒然も霊︷一京はかかる形勢の挽回を仕遂げやして翌十

一年六月崩じ︑四十九年の長い治世を終ったのである︒

さて此の乱中及び乱後に於ける回政部女直の動向は︑史料の徴す可きもの友く︑全く判らたい︒然し南北各地の女直を

悉く渦中に持込んだと一式ふ此の大乱から︑独り回政部のみが局外に立ち得がんと−は考へ難い︒殊にその位域は乱の中心とた

った遼陽に近いのであるから︑乱の飛沫は必やや此の部にも及んだであらう︒

回践部内の反契丹派の中心勢力は乱の直前に逐はれてゐたとは云へ︑その余衆に至るまで根とそぎ掃蕩せられてゐたと

は考へ難い︒反契丹波E酋の高麗投入が乱の直前であれJがんととから推して︑契丹の回鋭部制圧の強化は未だ絡に就いたば

かりで︑残された反契丹派の議動も充分考へられる︒然し己に親契丹派の勢力が拡大しつつあヲたのであるから︑全回以

部が挙げて乱に積極的援助を敢てしたと解するのも安当で友い︒とにかく史料飲乏の為め︑その去就を何れとも推定し得

注いのであるが︑とにかく激海・女直人の大反撃があって契丹が大きた衝撃を受け︑藤康諸部に対する統御力が一時減退

した時に在って︑回政部の対契丹親近策が消極化し︑従前の藤康強化に一頓挫を来したととは充分考へられる︒此の乱後

の回践部の動向は寧ろその後ちに行はれた契丹の此の部に対する経略の推移によって銃ふのが︑史料の乏しい今日︑殆ん

残さ

れた

唯一

の方

法で

ある

契丹の回肢部女直経路に就いて伺

一 五

(7)

契丹の回駿部女直経路に就いて伺

以所得女直戸置粛

州 ︒

. . .

とあって粛州の女直が逃亡したのを取戻して州を復軍したと云ふo但し粛州創

置の

年は伝へられてゐ泣い︒遼東行部志に

は﹁世停︒遼太組始置為粛州﹂とるるが︑本志は金の王寂の著で後出の書であるから︑その当時の伝訟によってそのまま

契丹・太組の設置と信やるわけには行かたい︒今の関原の結え北方に一比定せられてゐる︒州の沿革は不明であるにして

も︑その州籍に編せられた女直が係遼籍の熟女直であるととは紛れたい︒彼等が逃亡したのは契丹の支配から股せんとし

た消極的た反抗に外たらぬ︒彼等があてどとした逃亡先はど乙であったか︒それは的確には判らたいが︑遼籍外の︑然も

契丹に対抗してゐる女直部族の地で怠ければたらぬ︒かノU考へて更に黄龍府の辺境を犯した女直の侵攻時期を併せ考へる

に︑恐らり\内外相応じ党行動であったのであらろ︒此れより約七十年前︑未だ冗惹部が全盛を極めて居先時︑黄龍府の辺

境を侵略したのに呼応して府の激海人燕頗等が脱走して冗惹部の許に走り︑為めに府が一時廃せられたととがあり︑同じzl 頃︑冗惹・回肢の軍が蹄州︵撫順︶を攻めたのに呼応して遼陽府の激海人が叛乱を起さんとして失敗したととがあっ売︒

重照九年の女直の佼辺と粛州女直

ω

逃亡との関係も恐らく此れと同様であらう︒かうした女直の強力拡反契丹活動が草に

漸く勃興し来った阿勅楚熔生女直の自主的行動であったであらうか︒侵略軍の主体は阿勃楚略生女直でbったかも知れた

いが︑更に此れを動かして居た一一唐大きた勢力は無かったか︒此の当時の女直諸部の中︑反契丹活動を展開してゐた最強

部族とじて︑冗惹の残党を多く内包してゐ究蒲鹿毛采部のあったととを見落してはたるまい︒女直の侵掠を受げた興宗の

対策を見るに︑果してその経時の目標は蒲虚毛采部に置かれ︑阿勃楚略方面を重説いた形迩は認められ友いのである︒

遼史鳩一輿宗紀・重照十年二月庚辰朔の僚に

(8)

詔蒲虚毛来事︒蹄易蘇館戸之淡入者︒使復業︒

とて

蒲虚毛柔部に命じ淡入容蘇館戸を放還

せし

てゐ

る︒淡入易蘇館戸とは蒲虚毛采部が大延鴻に応じ︑大延定に率ゐら

れて赴援した時︑虜捺して帰った者であらう︒蒲虚毛柔部等威輿平野の女直は奴隷経済の上に立ち︑高麗に冠して鮮人を

執へ︑刀伊の賊として我が九州にまで奴隷狩りの遠征をしてゐるから︑波入易蘇館戸も奴隷として使役せられてゐたので

あらう

o

A同此の年十月︑易蘇館女直の酋長豪押が契丹より大王に封ぜられて居り︑彼は重照二年にも入賞してゐる︵前

出﹀親契丹派女直人であるから︑淡入易蘇館戸放還の詔命は恐らく彼の要請を容れたものに外たるまい︒然し大延琳の反

乱後︑契丹

の制

圧力が弛緩してゐた蒲慮毛采部に対し︑此の命令が直ちに沼只徹せられると予想せられたか

否か

疑問であ

る︒思ふに興︷一京も亦その受容せられ難いととを予測して居たに相遺志く︑その拒否を侠って此れを口実とし︑その経時に

乗出さうとしたぬのであらう︒同巻・翌々十二年五月辛卯の僚に

斡魯一作蒲虚毛楽部二使来貢o失期︒宥而遣還之︒斡菜

とあるは︑十年の易蘇館戸放還命令拒否を口実に興宗が経路に着手し︑その佼迫を感じた蒲虚毛采部が遣使入賞したとと

を示すものと解せられる︒入貢失期とは局蘇館戸放還を命じた時直

ちに

恭順入貢す可きを此の時までご箇年余も延引した

ととを指してゐるのであらう︒而して此の入貢も必宇しも心服の結果で

は左

く ︑

一時逃れの駈引であったと見え

︑同

巻・

翌十三年四月己酉の僚に

漬東京留守耶律侯晒

・知

寅龍府事耶律欧里斯︒将兵攻蒲虚毛采部︒

とあ る如 く︑

黄龍・遼陽二大基地

より

発兵進軍せしめてゐる︒此の征戦の詳考は省

くが

かう

した本格的た経路が次第に

契丹の回肱部女直経略に就いて伺

(9)

契丹の回験部女直経略に就いて伺

四0 

効果を著したととは︑同巻・重照十五年二月丙寅の僚に

捕虚

毛采

回介

易瀬

河戸

来附

とあり︑四月甲成の僚に

蒲虚毛柔易瀬河百八十戸来附J

とあり︑同

書偽

一一

一興

宗紀

・重照十七年四月甲申の僚に

蒲慮毛采部大王蒲輩︒以法舟人来献︒

とあり︑更に

翌々

十九年にも四月と六月とに二回入賞してゐる︒重照十年に開始せられた興宗の蒲産毛采部経路がその後

十年も撰みたく続けられ︑遂に部王の入京を見る記に成果をあげて行ったととを知る︒かうした蒲虚毛架部の反契丹活動

の強力た展開より屈服入貢への転化︑此の過程が遼籍外の女直諸部の対契丹活動に大きく影響したととは充分予想せられ

る所で︑回鋭部の動向を探る上にも此の聞の情勢を併せ考へる必要があるo

ω

回 政 部 の 経 路

興︷一万が即位してから蒲虚毛菜部の経路に着手した重照十二年温︑回鋭部に関する記載は遼史に友く︑此の問︑彼等の入

した

徴証をあげるととは出来たい︒此れは草に記録決れか︑それとも禽長等有力部人の入賞が事実無かったととを示し

てゐるのか︑先づ此の点に就いて考へて見る︒

興宗即位当時の蒲慮毛采部は︑大延琳叛乱後︑契丹の奥減刑統御の休制が一時崩れたのに乗じて︑女直諸部を反契丹活

動に指導し︑遂に寅龍府の辺境を犯

し ︑

粛州の係遼籍女直を招誘逃入せしめるに至った︒かく遠く契丹の東北辺境内外の

(10)

女直に迄勢力を及ぼしてゐた反契丹波の蒲虚毛菜部の活動力は相当大きく許価す可きで︑恐らく回践部も亦全くその影響

外に立つととは困難であったであらう︒

由来溺海人は契丹人に対して人種的優越感を有ち︑契丹人を野蛮親じ蔑脱してゐもん︒溺海遺民のしつとい反契丹活動の

根底には︑かうした民族感情のカが大きく作用してゐ売︒そして此の気風感情は溺海化せる女直人より更に一般の女直人

にまで浸透禰漫してゐ売︒勿論︑大湯海時代に彼等が享受してゐた卒和注文化生活が契丹の侵略と共に崩壊して行ったと

一式

ふ現

実が

此の

感情と深く結びついてゐたととも見逃せ

たい

︒蒲虚毛架部が女直諸部を反契丹活動に駆り立て得た所以の

一は実にかうしかん契丹への強い民族的反感情惑があったからで︑荷虚毛架部はさうした意味で部の実力以上に諸部を糾合

した強い反契丹活動を展開し伊たと考

へら

るのであるo回践部内Kも同じ感情︑同じ動きがあったに相遺志く︑それら

の反対勢力が部虚毛采部と結びついて部の動向に大き友影響を与へてゐたと考へられる︒そしてその結果︑契丹に積極的

に使冠を敢てし怠い迄も︑消極的に入賞抹属行動の杜絶とたって居たのであらう︒此の推測は興宗の蒲虚毛柔経路と回説

経略との間に繋る一服の関係を探り出す時︑その妄に非るととが理解せられるび

興宗が蒲虚毛柔部の経略に着手し︑そのきっかけとして淡入易蘇館戸の放還を命じたのは重照十年二月庚辰で︑その効

果が漸く具休的に著れて契丹朝に入貢したの壮︑二年後の十二年五月半卯であったo所で此の蒲慮毛菜部の入貢に先っと

と五十二日︑同年四月乙亥には回践部詳穏都監と云ふ官司が設置せられてゐるo遼史雄一興宗本紀・同年月日の僚に

霞回践部詳穏都監︒

とあるは此のととを伝へた記事である︒国政部詳穏都監が如何たる職任の機関であったか

︒此

れを詳しく徴知す可き資料

契丹の回殴部女直経略に就いて科

(11)

契丹

の回

駿部

女直

経路

に就

いて

日付

たく明かにし難いが︑とにかく回殴部を経略替察する為めの機関であったとと丈は紛れ注いであらう︒叉との図践部詳穏

都監が此の時直ちに回践部女直の異只中に払やかれたものか︑それとも部外の地に告かれ︑後日の部内移転を期してゐ売の

かも判らたいが︑とにかく回践部女直の経路管撫を専任とする官司の置かれたとと丈

は確

かで

ある

o更に此の機関の活躍

振り︑存続期間等も一切判らたいo判る所は此の機関の設置

せら

れた

と一

式ふ

一事

であ

るが

︑然も此のととから興宗の

回践部経路が此の時には愈々積極的とたってゐたととを察

し得

る︒

興宗朝に於ける蒲虚毛柔部の最初の入貢は此の回以部詳穏都監の設置が決してから五十二日目である︒此のととは蒲虚

毛采部の入貢と回鋭部詳穏都監の設置︑即ち蒲虚毛采部の経時と国政部の経路との問に深い関係が存在してゐたととを推

想せしめるに足るo回跡部詳穏都監の設置に一不される契丹の回政部経時の進捗が蒲虚毛楽部の入貢を促進する一因とたっ

たのか︑それとも蒲虚毛柔部が将に入貢せんとする迄に契丹の抑圧が進んだ

為め

回蹴部詳穏都監の設置が可能にた

った

か︑その因果関係は何れが何れと決し粂ねるが︒ともかく興宗の図鋭部経路が蒲虚毛架部経時

と密

接た聯関を以て行はれ

たとと丈は時々認められるであらう︒

重照十二年五月の蒲慮毛采部の入賞は︑恐らく契丹の侵迫を一時緩和せんとする駈引で︑心からの屈服ではたかった︒

その

藩属態度は契丹の大いに不満とする所で︑遂に翌十三年四月の黄龍・遼陽二府よりす

る出

兵遠征とたり

︑十

五年

虚毛采部内一部部落︑の契丹来附を見︑十七年四月に至り荷虚毛采部大王と呼ばれる此の部の総帥的

E A

入賞した︒そし

てとの大王の入賞した十七年の四月にと箇月後れて長白山女芭・回蹴部女直のE曾が入貢し党o遼史悌

一 一

興宗紀・重照十

七年六月辛卯の僚に

(12)

長白山太師柴葛・回政部太師撒刺都来貢方物︒

とあるの比その記事であるo興宗朝に於ける回践部の入貢記事は︑即位後十七年

目に

当る此の時が初見

であ

o回践部に

対する契丹の勢力が此のとろ強く浸透したととを知るが︑それが部慮毛菜部大王の入貢後二倍月目であったととは︑その

間にやはり深い関係のあったととを想はせるo大王入貢以後の荷虚毛架部はその翌々十九年の四月と六月とにも入貢し︑

引続いて契丹に恭順恭属の意を示してゐるoそして此れと歩調を協せる如く︑回以部も亦入貢してゐるo同巻・同十八年

五月庚成の僚に

回政部長冗迭蚕

札等

来朝

曹とあり︑十九年六月壬申の僚に

回故・易蘇館・蒲虚毛柔部︒各遺使貢馬︒

とある︒即ち蒲虚毛柔部の屈服と共に回践部も亦全く屈服したととを知る︒

以上の如く考察すると︑契丹の回鋭部経路の進捗は苅虚毛柔部経路の進捗朕況に繋り︑蒲虚毛采部の契丹への藩属入貢

が始まれば図版の入貢も始まり︑それが続けば回践の入貢も続いてゐるととを知るoきすれば興宗即位後十二年迄︑即ち

蒲慮毛柔部が反契丹活動を展開して諸部をその陣営に引入れ︑興宗が未だ此れを如何ともたし得怠かった期間に於い

τ

回践部の入貢記事が遼史に見えたいのは︑国政部が蒲虚毛架部に制せられて親契丹行動を取り得友かったものと解するを

得ょ

う︒

遼史の国政部女直入貢の記事は上掲重照十九年の貢馬を以て最後とするが︑然しそれは回政部の藻属が結党れたととを

契丹の回駿部女直経路に就いて

(13)

契 丹 の 四 段 部 女 直 経 略 に 就 い て 四 四

意味するのではたいo遼−去抑止違一所一川の北風揚沙録に契丹末に於ける女直の扶態を湾へ︑国政部に関して

自威州東北分界八室口至束沫江︒中間所居者︒以隷威州兵馬司︒興其閣往来無禁︒謂之回覇︒

(.::=.) 

とある如く︑殆んど契丹の衰亡前まで︵金の興起するまで﹀︑契丹に入責務属し︑その絞漫友腐療を受けてゐたのであ

る︒然らば何故その入賞が遼史に記載せられてゐたいのであらうか︒

思ふに興宗の経路以後︑回践の契丹への際属は安定し︑卒和友入賞を続けたのであらう︒そとでその入貢者の取扱ひは辺

境の当該機関︑恐ら︿初めは北女直兵馬司に委し︑後ち成州兵馬司の置かれた契丹極末期にはとれに委したのであらに呼北

風揚沙録の記事は此のととを物語ってゐる︒そしてそとに出入する回肢は再び契丹東境の辺患をたし︑中央の直接取扱ひ

を煩はすととが無かったのであらう︒かくて回以と契丹との交渉は多く地方機関が裁決し︑中央の記録に殊書せられると

とたく︑為めに現伝の遼史にもその詑載を残さ怠かったのであらう︒

以上︑聖宗・興宗二代にわたる契丹の回鋭部女直経時を通観するに︑その特色として気附かれるのは

. .  

︐ ︐  

a

︐ . 目 目 ︑

満洲に於ける反契丹活動の指導勢力たる冗惹部←部虚毛菜部にする強力及武力的征服と併合して行はれてゐること

(2) 

回践部女直の経路には兵を周ひた形迩のたいとと

等である︒冗惹部←蒲虚毛采部の経路に並行して回鋭部を経略したのは︑此の克惹←蒲虚毛采部の両部が反契丹活動の張

本であり︑然も女直の問に覇権を握り︑回鋭部も亦その勢力下に在って︑彼等張本を撃砕せ守して回鋭部の経路は事実上

望めたかっゅんととを一万す︒武力を加へたかったのは︑自らの武力を用び十とも回鋭部の経路が可能であったからである︒

国政部内にも冗惹沃の反契丹的分子が居り︑相当強大た勢力を有ってゐ売︒それら反契丹分子の活動力が冗惹←滞慮毛采

(14)

等の支援の下に強化せられてゐたととは紛れたいのであるから︑ー冗惹←蒲虚毛采の撃砕によって彼等反契丹的回践人がモ

の活動力を減じたととは否めたい︒然し回政都内の反契丹分子はそれ自身としても相当大きた力を有ち︑その反契丹的態

度には強鞍たものがあ

ο

た︒その彼等を只背後の支援勢力たる冗惹部←蒲虚毛菜部を討伐服属せしめるととによってのみ

直ちに親契丹派に転向若しくは部外に逃亡せしめ繰る答はない︒転向指しくは逃亡せしめたカは他に在ったと見る可きで

あら

う︒

国政部内に反契丹採が居たのに対し︑反契丹感情の薄いもの︑寧ろ親契丹的分子と一式ふ可きものも居たととは考へられ

るであらう︒契丹の回政部女直経路︑即ち都内反契丹波に対する制圧は此れら親契丹的分子を通じて行ひ得︑たであらう︒

そしてそれが自らの兵を用ひざる経路の唯一の方法であったであらう︒所で問題は︑元来反契丹的である激海人・女直人

の問に︑何が故に親契丹派が生れ︑更にそれが反契丹派に対し契丹の味方として働きかけ︑それに応じて一部の者が親契

丹的に転向し︑強制帆た反契丹派を部外に逃亡するの止むたきに至らしめたか︑と云ふととである︒づまり伝統的た反契丹的

態度を親契丹的に改めしめた根本的原因は何かと云ふととである︒そしてそれは当然彼等にとづて最も現実在経済上の問

揮であったと解する外泣い︒かくて図政部女直経路の研究は彼等の対外貿易

と 一 式

ふ観点からの考察が必要と訟のJ

て来

る︒

il.  10 

高麗 史雀 五︒ 11 

自制 蘇館 女直

の契丹に対する臣属関係の

内容 は契 丹園 志功 一一 回至 隣圏 一地 理遠 近の 項

の五節度熱女質︵臼旬蘇館女直のこと︶の僚に述

ベて

ゐる

12 

池内先生著﹁瀦鮮史研究中世第一茄﹂所載の﹁鍛利考﹂

契丹の回肢部女直経路

ι

就い

(15)

契丹の回駿部女直経略に就いて伺

13  14 

満洲歴史地理第二省所攻︑品位井等氏﹁遼の境域い

史淵

二九

乃至

三=

輯所載︑拙稿

﹁克

惹部

の発展﹂参照︒

池内先生著﹁瀦鮮史研究中世第

二茄

﹂所

枚︑

﹁東

女震

の海窓﹂

m

此任の縁関の職 15 

に就 い

ては

本論稿の最後に再考する予定で

ある

日 比

のと

と亦後文に考設する︒

国政部女直の対外貿易活動と政治的動向

満洲遇古斯族の康史を通観するに︑その発展の経済的基礎としての対外貿易は今日吾人が漫然と想像する域を透かに超

えた重大注意義を有︒てゐる︒具体的に此れを詳論するととは勿論出来たいが︑その盛衰興亡に決定的怠影響を与へてゐ

る場合が多く︑従ってその対外貿易に於ける中心的対象地域の変遷推移は彼等遁古新族の対外勢力に対

する

♂就依還を決

定せしめる最大の要因をたしてゐる︒満洲の対外貿易を離れて此所に興亡した遁古斯系諸勢力の政治的動向を完全に把握

するととは殆んど不可能に近いと一式ふも敢て過言で泣い︒此のととは契丹時代の図故部女直に就いても例外たくあてはま

る所と予想す可きである︒

満洲の対外貿易に於いてその対象地区として大き注意義を有ってゐるのは︑西方蒙古の遊牧地帯︑東南の朝鮮宇島︑西

南の中閣である︒北方関係を無説す可きであるまいが︑それに関する史料無く︑日本との関係は溺海時代が例外的に大き

く浮かび上ってゐるにすぎ怠い︒牛

島・

中園・遊牧地の三者が各時代を通じて例外たく主要対象地区であったと見るとと

が出

来る

(16)

回践部は西方選牧勢力たる契丹に最も近く︑従って契丹との貿易が大きく関係す可きは地理的に直ちに推想せられる所 であ る

o朝鮮や中園

との

貿易

関係

は・

その

有無

へも

想像を許さ泣い︒然しその有無内容の検討とそ見落す可からざる重要

課題であることは︑上速の満洲貿易史の大勢から想察するに難くないであらう︒然し回政部は当時満洲に拠った女直勢力

を構成する一部族であったのであるから︑さうした女直全体の動きを離れ︑回鋭部伐貿易活動を孤立的に考察するのみで

はその異相の把握は望み難いとと︑勿論である︒況んや回以部に関する所伝史料の極端に乏しい今日︑大勢を離れた回以

部の貿易活動の研究は一一唐困難である︒

−女宣の封外貿易活動概観

f 契丹時代に於ける女直の対外貿易は頗る大き怠問題であり︑その詳考は長幅の一大論文を形成する複雑た内容を有ち︑

此所に詳述する遣はない︒回践部女直のそれを考察する一般前提とじて只その概要を略述するに止める︒

ω

中 園 と の 貿 易 活 動

中園の交献は女直を女真と記してゐる︒女真の中時間への入貢詑事を検するに︑五代に二回︑北宋の初期︑即ち建隆二年

より天蕗三年迄︵九六一

I

一O一九﹀の五十八年間に二十四回を検出するととが出来る︒五代に女員の入貢記事が少いの

は︑未だ激海人・黒水人等の名で記されてゐるものが多いとと︑その他種々の事情に由るo北宋に入って後ちの実際渡支

回数は右二十四回よりも遥かに多く︑二十四回は種々の意味でそれが北宋から重要説せられ︑中央の記録に留められたも

ののみの回数である︒命大中静符七年︵一O一四︶以後の入貢は︑それ迄独自の行動であったのが︑必ムグ高麗の入貢使に

契丹の図版部女直経路に就いて

MH

(17)

契丹の回駿部女直経路に就いて付

随行して語り︑その回数は六回である︒天繕三年を最後として高麗と共に入貢を絶ヲてゐる︒

此の伝へられた二十四回の入貢記事から注意す可き点を抽出すると

だ貢女直の範囲︑鴨緑・修佳江流域の所謂定安図人︑威輿卒野に拠る東女真︑三十部女真︑阿勅楚略河流域に拠ヲ

てゐたと解せられてゐる銭利等の名が入貢者の中に見えて語り︑鴨緑江流域は勿論︑広く南北浦洲にわたれJてゐたととが

L)イ

知ら

れる

( 同

貿易品目︑輸出品は馬・毛皮・布・繋材︵人参・松子・夜苓・蜜蝋・白附子等﹀等を主とし︑時に服肋・鱗等を献じ

てゐる︒毛皮は紹鼠皮が主であった︒毛皮・馬・布ハ麻布︶

fr   時訴であった︒此の中︑馬は宋の戦馬輸入振興政策に応じて大量に持ち込まれてゐ売︒ ・築材は当時の満洲の主要産物で︑同時に激海以来の主要職

﹁建隆より朝貢絶えるととたし﹂

と云はれた頻繁た渡来によれJて北宋に輸出せられた女真馬は一時高芭に達したと一式ふ︒その対価として彼等女真が持帰つ

たものは縞総︵綿織物﹀やその製品を主とし︑時には仏教の経典を需めてゐる例も見える︒

V¥) 

貿易路︑大溺海時代の所謂入貢道と同じである︒即ち鴨縁江を下h夕︑遼東牛島に沿ひ︑溺海湾口を横切り︑山東宇

島の登州に着く水路であった︒

入賞

女同

県の

政治

的立

入賞女真はすべて後激海︵冗惹政権﹀配下の者であり︑その潰滅後もその系統の者であれJ

た︒従って彼等の政治的立場は全く反契丹的であった︒入賞者を通じて契丹と対立する宋と結び︑相提携して契丹を抑へ

んと希づてゐる︒宋も亦彼等をして契丹を東方より牽制せしめんとし︑屡々・量百を賜ひ物を婚︒て同盟の強化をはかつてゐ

る︒即ち貿易の利と対契丹抗争の国際的有利化とのこづが女真入貢の目的とたわJてゐ売︒彼等が強烈た反契丹思想の持主

(18)

である激海・冗惹系の女真であったととは︑激海王姓を名乗る大氏︿大元・大千機﹀の名が見え︑又仏敬の経典を持帰る

交化人であワたととに徴して明かである︒

さて女員の対宋貿易が右の如くであったとすれば︑契丹としては此れを安閑と放任して治くととは出来たい︒女同県と宋

とを敵とする契丹としては両者提携の帯をたす此の入貢道を遮断し︑女同県と宋とを隔絶したければたらぬ︒かくて契丹は

統和九年︿︷木の淳化二年︑高麗成宗十年

1

九九一︶︑鴨線江口に三按を築吉︑数千の兵を配し︑江口を塞いだ︑それが為

め此れ迄頻りに渡来してゐ売女同県は一時金く入貢を絶って移った︒三十部女真は此れが協同撃破を宋に申込んだが結局実

現せ

られ

・広

かっ

たの

であ

る︒

淳化二年︵九九一﹀の入貢中絶後︑二十三年を経た大中一昨符七年︵契丹・開泰

三年

高麗・頴宗五年﹀再び宋に渡来す

るが︑それは必や高麗使に随行してゐる︒時に契丹は高麗征伐を一準備してゐ党︑翌年愈々丹軍麗境を侵し︑此れより数

年︑高麗は契丹の段踊し続ける所と取れJ売︒高麗がしきりに北宋に入貢したのは此の契丹の侵暴を詳へ宋を動かさんとし

たもの︑女真の随行を許したのは︑︷ホを動かすに就いて女真の協力あるを示さんとしたものである︒女農の高麗使随行は

・宋を動かして宿敵契丹に当らしめ︑対宋貿易路を再開して昔日の利を復さんとしたものである︒然し宋は終に動かや︑高

麗は力屈して契丹の忠順た属国と怠るととを盟って卒和を許された︒時に天蒋三年︵開泰八年

1

穎宗十年

1

一︐

O

一九

﹀で

あった︒此れより高麗ば中園入貢を契丹に禁退監説せられ︑従ってその境を経怠ければ渡航出来泣い女翼の入宋交易も永

HU4く絶えて終ったq

契丹が冗惹征伐に乗出し︑その第一着手として冗惹政権の一部を構成する子園定安図を伐ち致命的痛撃を与

へた

のは

契丹の回肢部女直経略に就いて伺

四九

(19)

契丹の回験部女直経略に就いて

ω

宗の統和三年︑即ち宋の太宗の薙照二年︵九八五﹀であるが︑鴨緑江口に三城を築き兵を置いて女員の対宋貿易を遮断し

たのは統和九年︑即ち宋の太宗の淳化二年︵九九乙であった︒統和三年の打撃は伴虜十寓・馬二十蔦と云ふ大損害であ

2ったにも拘ら歩︑己に全満洲を統轄してゐた克惹政権は微動だにしてゐたい︒然るに入宋貿易の遮断は冗惹政権に文字通

りの致命傷を与︒へた︒即ち翌十年早くも鋭利部の契丹への反属︑冗惹部自らの契丹への屈膝建使とたり十四年には契丹

・鋭利両軍の冗惹攻撃︑十五年には克惹部内の分裂︑一部曾売る武周の契丹への反属︑十七年には冗惹部長烏昭皮の契丹

への投降︑二十二年には烏昭康の妻子の被檎︑続いて冗惹部の木拠能泉府故地よりの逃散とたり︑止め度もたく一気に淡

3落の念坂を転落してゐる︒如何に対宋貿易の遮断が冗惹政権の支配に決定的破壊力を振っ売かは︑右の急激怒淡落過程に

よく反映してゐる︒此れを換言すれば︑冗惹政権の満洲統轄カの最大支柱とたってゐたのは対宋貿易の維持擁護に在︒た

とととたる︒女真の対宋貿易路を冗惹政権が管理擁護し︑それによOて全女真に対する支配権が確保維持せられ︑それが

契丹に断遮せられると共に支配権も崩壊し︑喜一女真が動格して次々に契丹に転属したと云ふととは︑此の対宋貿易には全

女同県が多かれ少かれ参加し︑その直接間接の利に潤ってゐたととを示すもので怠ければたらね︒更に云い換へれば︑当時

の女異各部族はその経済生活に於いて︑直接間接何れにせよ︑対外貿易に依存する所が少くたかのJ

たと

云ふ

とと

にた

る︒

ω

高 麗 と の 貿 易 活 動

女真は高麗とも盛に貿易した︒高麗史の世家に感しく伝へられてゐる女真の入

貢は

即ちその貿

易の

一形

態で

ある

o女真

の高麗貿易は対宋貿易と同様︑女同県側の積極的往来に対する高麗側の受身に終始した︒高震は女同県入冠の辺患を緩和し︑

且つ此れを契丹の圧迫に対抗する際の味方にせわんが為め︑その入賞者を頗る優遇したので︑女同県の高麗貿易は相当有利で

(20)

あっ売︒此の貿易に於いて高麗側の需める第一商品は馬であり︑その対価として女真に支払はれたの

は絹

・銀であった︒

高麗史の世家が女真の入貢を多く伝へてゐるのは鯨宗八年︵契丹・

聖︷

一寸開泰六年︑北宋・真宗

・天

蕗元年

1

一O一

七﹀ 以後 で︑

毎年少くも数回︑多きは

二十

回を越えてゐる︒七年以前は記事が少いが︑此れは入貢が少かった為めでは怠

く︑四年より八年にわたる契丹の佼入によって首都を焚掠せられ︑朝廷の記録を烏有に帰したからである︒七年以前と雄

も入貢頻繁で︑八年以後の頻貢は七年以前からの継続と見て大過・な

o宋の程大昌の演繁謀略高麗境望の項に︶南唐の保

大年間

︵九 四三

l

九五七﹀高麗に使行

した

張僚の海外使程庚記を引いて

僚之使

也 ︒

舎女異献馬於麗︒其人僅百徐輩︒在市商物︒債不相中︒靴引弓擬人︒人英敢向︒則其兇惇有索︒麗不能

誰何突︒麗主王建嘗資其馬寓疋︒以卒百済︵後百済︶0

とて

高麗

の建

国以

来女

同県

が馬

を以

てす

問麗

に売

込み

︑高麗はその軍馬高足の威力を以て政敵後百品引を卒げ牛島を一統し得た

とと︒入貢の女真が横暴であったとと等を伝へてゐるo南唐の保大は高麗太組の末年より定山

一万︵

在位

四年

﹀及

び光

︷一

京︿

位二十六年﹀の初年に当るo以て高麗史の慾摘を柿ふに足る史料と云へょうo叉高麗

地−史

定宗

⁝世

家二

二年︵後渓

・乾耐元

年 ︑

契丹・世宗・天誠

二年

1

九四 八﹀

秋九月の僚に

東女真大匡蘇無差等来献馬七百匹及方物︒王御天徳殿関

馬為

三等評定其債︒馬一等銀

一託

子一

事︒

鈎紡各

一匹

︒二

等銀

鉢一事

・錦

絹各

一匹

︒三

等錦絹各

一匹

︒ とあ る

は頴宗八年以前に於ける高麗史の乏しい女真入貢記事の

一 で

ある

︒此れにより一回の入頁が馬七百匹に及んだと

と︑その代価が銀・錦絹で支払はれ︑絹・錦各七百芭︑銀器若干に及んだとと等を知り得る︒以上両記事により女員の対

契丹

の回

験部

女直

経路

に就

いて

MH

(21)

契丹の回験部女直径略に就いて同

高麗貿易は対宋貿易と同形式の貢賜の形を以て行はれ︑

弘はれ究絹も少くたかヲたとと︑それは麗初以来︑即ち大激海滅亡前後以来のととであったとと等を知る︒かうした朝貢

貿易の為めに高麗に来朝する女真貿易団は記録に残されてゐるもののみでも毎年数回乃至二十回以上にも還してゐるので 一回の入貢団は数十百人︑馬数十百匹に及び︑その代価として支

あるから︑その貿易は関係女真人の総数も取引額も毎年相当のE額に達してゐたと見積る可きであるo数百千人︑馬数百

千匹乃至高匹︑絹数千百乃至高匹以上と計算して大過たいであらう︒

入貢女真の所属に就いて高麗史の記事は概ね此れを束︵東北﹀女同県と西ハ西北﹀女同県とに分けでゐるのみで︑詳しく所

三十部・弗奈等の部名が見え︑叉後年ではあるが阿勃楚熔河の生女真完属部名を挙げて. ゐたい場合が多いが︑稀に鎖利

顔部の曾長名も見え︑速く北浦洲の女員の出入してゐたととが確められるo威輿平野や通溝平野等の境外近くに居た有力

女真の出入が最も多かったであらうとは当然推測せられるが︑それ丈に止まら歩︑時々全滅洲の女真に及んでゐたと見て

誤り友いと想はれるのである︒

女長の高麗に対する入貢貿易路に東西二道があり︑此の二道より入来する者に対じ高麗一が此れを東ハ東北︶女員・西

/ 

︵西

北︶

は先に述べた如く震と呼んでゐたとと女

であ

o此の中︑西道を近便としてゐたのは鴨線江女直︵嶋︑総江下流左

岸﹀

日伺

蘇館

︑ 女直︿遼来牛島﹀定安閣女直︵鴨緑︑修佳二水の流域︑通溝卒野を中心︶等であり︑図的以部女直も亦此の西道

を近路としてゐたo

所が

鴨緑江流域は次第に契丹の勢力下に牧められて行ったo易蘇館女直は勿論のとと︑定安閣も亦統

和三年に覆滅的痛撃を被り︑更に頴︷一万九年︿関泰七年﹀にはその徐撃も掃蕩せられて完全に契丹の直轄領とたり︑鴨緑江

4女直の地にも次第に契丹の勢力が仲被して行った︒かくて西女真の高麗入貢が著しく制犯せられるに至ったととは怨像に

(22)

難くたい︒勿論︑西女真の入貢は麗末迄続き︑世家には毎年多数の記事が載せられてあるが︑恐らくその大部分は高麗の

北境に接位する部族であった

と思

はれ る

︒但し鴨総江北の者と雄も全く高麗と絶って終ったわけではたく︑やはり入貢を

続けてゐたものの如く︑契丹

・高

麗両閣に遇貢し︑それが銭れて高麗に檎

へら

れた女農の例が屡

々世

家に見えてゐる︒高

5麗は両属入貢の女真を嫌ってゐたので

ある

東街道は最後迄契丹の勢力が充分に浸透し得たかった所である︒十回向麗の東北辺外の要地たる威奥平野は最後迄契丹に抗

した

蒲虚毛菜部の拠る所であったからで

ある

︒此

の苅

虚毛

乃木

部も

血︿

︷一

万の

重県

末年

至って遂に契丹に屈したとと既越の如

くで

あるが︑然もそれは務属感度の程度に止まり︑直轄民としての支配を受けたの

では

泣い

従って契丹に女真の入麗東

街道の口を塞ぐカは無かった︒即ち聖ん一万の末年以来︑奥地女真の高麗への自由注入貢道は束街道に制限せられて居たので

ある︒少くとも女真の高麗貿易の重心が東街道に傾いてゐたととは紛れたい︒

統和

九年

︵成

︷一

万十

年九九一︶の契丹の鴨総江口遮断に因︒て全滅洲の女員は一斉に対外貿易の最大最良の市場たる中

1

園︿宋﹀を喪った︒その代りの市場をどとかに求めたければ左らぬ︒時に全満洲は冗惹の支配下に在って契丹に対立して

居たのであるから︑その新怠市場は高麗を除いて外にたい︒かくて統和九年以後の女真は新た市場を求めて契丹に屈服す

るか

高麗に殺到す

る外 たい

︒かくて鍛利を先頭に契丹への反属者が現れたと

と ︑

既迷の如くである︒一方高麗に殺到し

・ 究

者もあった筈で

ある

o然るに開泰五六年

︵ 期 間 ︷ 一 示

七八

年﹀

の頃に至り︑高麗は契丹に徹底的に打のめされて屈服し︑︐弐い

で翌年定安閣の故地も完全に契

丹に

掃蕩せられて直結地と

たり

︑貿易の西街道は契丹に抑へられたo今や束街道に依る外

無かったが︑西南部に住む女真に取ってはそれは長大峻険友迂回交通で︑到底頻繁た貿易を営み得る所で泣かった︒加ふ

契丹の回験部女直経路に就心て日付

(23)

契丹の回駿部女直経略に就いて付

るに彼等は今や契丹の領民とたり︑契丹に入貢してゐがんので高麗の歓迎する所とたる筈註く︑更に東街道の要衝威奥平野

は反契丹派の張本部虚毛柔部の抗する所とたってゐ売︒かくて此れまで西街道に由ってゐた所謂西女真は︑対外貿易の市

場を需める限り︑向契丹一辺倒か︑然らやんば貢丹の事実を隠しつつ契丹の一限を胡魔化して入麗する外たかったのであ

る︒いはば高麗貿易は著しく税貿易的とたらざるを得たかった︒かうした形勢が西女真を契丹に否応たく接近せしめで行

ったととは云ふ迄もあるまい︒東女真と雌も︑向高麗一辺倒の貿易で満足し得・泣い者は︑両属が難かしい以上︑契丹に近

6い者は此れに傾かざるを得たかったであらう︒鋭利等の契丹への附属は︑鋭利が伝統的に有してゐた反激海感情の外に︑

かろした現実的利害のあったととを考へ怠ければたらぬ︒今や高麗市場のみを桜みとして契丹に楯づき得るのは高麗東北

辺外に近い蒲慮毛柔部等である︒此の部が反契丹活動の最後の張本となり得売所以である︒かくして潟洲の女直は貿易関

係から次第に顔を契丹に向けたのである︒但し巧に契丹・高麗両者に出入して双方から貿易の利を得る者も絶えや︑旦つ

決して歩くもたかつもん︒蓋し契丹も高麗も此れを過酷に取締れば︑結局彼等の現実生活を圧迫するとととたってその人心

Hnを失ふ恐れが多分にあったからである︒

ω

契 丹 と の 貿 易 活 動

女直

の対

担︿

丹貿

易に

就い

て遼

史雄

一一

食貨

・征

−商

の項

には

上 ︒

国間

等物

︑来

易於

遼者

︒道

路鰍

展︒

故女直以金・吊・布・蜜蝋・諸築材︒及銭高綜鞠干阪部︒以蛤珠・青鼠・紹鼠・鯵魚之皮・牛羊・馳・馬・義

と記し︑その往来極めて頻盛であったとと︒金・絹・麻布・蜜蝋・諸築材等を輪出してゐもんとと等を伝へてゐる︒而して

(24)

︑ 巻 一 一 契丹闘志六諸蕃詑の女真閣の項

Kはその土産品を述べて

地銭山林︒悶宜肺穀

︒土

産人参・蜜蝋

・北

珠・生金・細布・松賓・白附子︒云一式︒

とある︒右の女真図は主として生女真の地︑即ち東流松花江の南岸に注入する諸支流の流域を指してゐるものの如くであ

るが

︑然し此れによって当時の満洲に於ける主た輪出用産物の名を知るととが出来るo即ちそれは金・麻布・珠・蜜蝋・

諸築材ハ人参・桧賞・白附子等﹀で︑遼史の食貨志に一式ム女直の輪出品と略え一致し︑只絹吊を依いでゐるのみである︒

後交K言及する如く当時の満洲は絹吊の土産を有したか

ο

た︒従

ο

て契丹に輸出した吊の出所はh探究す可き一課題であ

さて女直の対契丹朝貢貿易の係史を考へるに︑その頻盛を遼初からのととと解するととは出来たい︒後激海・冗惹部が

大溺海の故地を再統一して契丹に対

抗し

積極的攻勢に出て居先霊宗の統和の初め頃︵九八五頃﹀迄は大激海の故地に佐

む女直の契丹への入貢貿易は抑制せられてゐたと

考ふ

きで

ある

︒元も遼史の太宗本紀を見るに︑己に此の時代に女直入

貢の記事が多数列せられてゐるが︑それは恐らく太組時代から契丹に征服せられてゐた東遼何より関原方面に至る地区に

性してゐたものや︑後溺海・冗惹政権の統轄外に在った蘇子河流域方両の者︑遼東半島の易蘇館女直等が主であったと解

せられる︒只太宗朝に入貢した者の中に鴨緑江女直の名

が見

えるが

︑此

れも当時の国際関係に生じた一時的た間際を縫ふ

8て行は

れた

もので︑やがて絶えたと解せられるのである︵考証省略︶0

女直の対契丹朝貢貿易が盛大

化の緒についたのは聖宗の統和九年の

対宋貿易路遮断

とそ

の前後に行はれた帝の克惹征

伐︑更K進められた高麗柾伐

等に

よる満洲統一政権の崩壊︑中関市場の完全

喪失

︑高麗市場に対する契丹の監親等が一通

契丹の回駿部女直経略に就いて

州 円

(25)

A引の回駿部女直経略に就いて

MH

り出来上った統和末年︵一

O

O

頃﹀の頃と見て誤りたい︒そしてそれが盛大の極に還し売のは反契丹活動の最後の指導

勢力蒲虚毛采部が契丹に屈した興宗の重照十五年頃ハ一O四六頃︶からと解せられる︒上述遼史の食貨志に一式ム女直の頻

貢献況は大体興宗以後のととと見る可きである︒かうした契丹後期に於ける女直の契丹との貢賜貿易に就いては契丹闘士山

地二四至隣岡地理迷近の項に更に詳しい伝へがあるo先づ五節度熟女真に就いてその土産左あげ

所産︑人参/・白附子・天南星・夜苓・松子・猪苓︒白布等物︒

とある︒此れらは土産であると共に輸出貿易品である︒つまり布・誇築材を出してゐたわけである︒五節度熟女真とは遼

東半島の易蘇館部を云ム︒次に草に熟女員閣と呼ぶ女震の契丹との貿易関係を述べて

或居民等自意相率︒賓以金・吊・布・黄⁝蝋・天南星・人参・白附子・松子・蜜等時間一物入貢北春時OAW

只於

叩途

上買

寅︒

詑却鶴本図︒契丹図商買人等︒就入其図買質

︒亦

無所

碍︒

とあり︑彼等が或は契丹領内に入り来り︑或は法上に於いて貿易したとと︑契丹商人も亦彼等の間に入り込んで居たと

と︑彼等の輪出品は金・吊・布・蜜蝋・諸築材等であったとと等を伝へてゐる︒此の熟女真とは蘇子河の流域より通溝手

野に及ぶ一替の女真を指す︒右の諸口聞は輪出品として詑さ札てゐて︑土産品とはたい︒然し蜜蝋・布・諸築材等は明かに

土産であり︑金も土産と考へられたいととは無い︒只吊のみは当時の満洲が輩桑不遁とせられてゐたととから考へて土産

とは受取り難いo恐らく此れは高麗から馬の対価として彩しく輸入せられてゐた絹の一部であらう明記に遼史拾遺鳩一女

異図の僚には生女真に就いて

頗事

一耕

萎而

不謹

一集

︒人

多衣

布︒

附︒

間歳

以北

珠・

抑制

革・

名馬

・良

犬笠

貝︒

(26)

とあり︑絹を産しなかうたとと︒珠・紹・馬等を輸出してゐたととを伝へてゐる︒右の生女同県は東流松花江の南岸地区に

位し

てゐ

︑死

者で

ある

︒回践女真に就い

ての

輸出

・土

産品目は所伝が左い︒然し上述の女真諸部の土産・輪出品目により遼

史・食貨志に記す女直の輸出品目︑金・吊・蜜蝋・諸叩料水材等の内容を更に詳しく知り︑旦つ地区別活動欣況の大様をも知

り得るであらう︒

此れら契丹に入貢貿易する女真の或る者は高麗に

も入

貢貿易してゐたo

数例

を一

不すと︑高

田島

史雄

培宗

世家二年︵契丹・

重照五年

1

一O三六︶五月乙丑の僚に

東北女異酋領太史阿道問等五十九人来朝

︒有 司言

太史契丹職名也︒

一 一 A

一 式 ︒

とあり︑翌三年二月己未の僚に

西北路兵馬使捕東女真交通契丹者沙伊羅等︒

とあ

︑同書品交宗世家

・元 年︿

重照

十六

年﹀

一一

月了

の僚に

都兵馬使奏︒東蒋酋長阿兜幹︒内附以来久承恩賞︒背我投丹︒罪英大震

︒云

云︒

とあり︑倫他にも少く

たい

︒それは右記事に依って知られる如く高麗の好まぬ

所で

あり︑同様に契丹も亦喜ばなかった︒

然も女員は貿易の利を求めて両市場を逐うて居たのである︒

E回践部女直の封外貿易

国政部女直の対外貿易に関する史料は極めて稀である︒中園・契丹・高麗共に女直の活動を記す場合にその部名を明記

契丹の回殴部女直経路に就いて科

一七

(27)

契丹 の回 駿部 女直 経路 に就 いて

MH

の西道方面よりする徹底的高麗征伐︑定安園故地経時によって此の回政部の西街道は契丹の監説下に入った︒勿論︑私か

に往来するととが全く不可能と怒ったわけでもあるまいが︑大規模及︑或は頻繁左往来貿易は困難と注り︑結局大きな制

犯を受けたであらうo

残された自由

な貿易仇は東街道で

ある

が︑

その入口は反契丹派の張本部虚毛采部の抗する所とたっ

てゐ

ゅん

o従って回政部も此の艮契丹活動に同調せざる限り此所の自由た往来は困難であった筈である︒高麗貿易に執着を

有つ

限り

蒲虚毛架部に追従する必要があったので

ある

回鋭部の高麗貿易に於

ける

輸出入品は判ら

たい

︒所謂諸築材は半島にも産し︑その輸出渇と怒ってゐた︒従ってそれら

は多くは用ひられたかったであらう︒馬・毛皮を出し︑銀・絹を入れたと見るのが先づ穏当た所であらう︒頴︷一京九年に入

した

麻棚

引が

馬を貢してゐるのは此の推測の

一助

たら

う︒

(2 中 園 と の

貿 易 活 動

国政部女直の対中関交通貿易を明確に伝

へた

接記事は無い︒従ってその有無内容を確実にするととは現在の所不可能

である︒強ひてその有無を推断するとすれば︑有に近いと忠

はれ

︒その推断の依拠を左に列挙

する

先づ第一に女直の宋に入賞する者が極めて多かったと

とで

ある

粛す馬匹年樹高を降ら友かったと云はれる莫大注総出は︑中閣に渡来する女直が全滅洲に跨ってゐたととを暗示する︒ ﹁建隆以来絡先十﹂と云はれてゐる年々の渡来︑その

第二に入宋女直の住地・部族名の明かた

もの

に就いて見るに

︑そ

れが

広大在地に跨づてゐたととである︒長白山三十部

女直や阿勃楚略河流域の鋭利等の名が見え︑威

興の

如き東部から北浦洲に迄及んでゐるととは︑回政部も亦入宋してゐた

ととを推断

せし

める

(28)

︐ 

第三に国政部女直が西道より高麗に出入してゐ売事実である︒西道に由る高麗への往来は臨江や輯安を経てゐ売︒そし

て此の臨江・斡安は女直の対宋貿易の拠点として凡ゆる女直部族の持集する所とた

ο

てゐたのである︒かうした拠点を往

来してゐた回政部が喜一然中閣に渡航したかったとは解し難い︒

以上の如き諸点から回政部女直も亦他の女直諸部に交って北宋に往来貿易してゐたものと推断する︒その盛否頻度は判

らたいが︑とにかく貿易関係は存在してゐたと推想せられる︒輸出品は馬や諸薬材等を主とし︑輸入品は絹等を主として

ゐたであらう︒かうした中閣との交通貿易も聖宗・統和九年︵九九一︶の鴨緑江口遮断によれJて隔絶せられ︑女直側の熱

心怠突破の策動も終に効を奏したかうた︒かくて中園市場を一世った女直はその代りの市場を高麗に求め︑牛島との貿易を

一一

居盛

んに

し︑

女直

と高

麗との接近を促した︒それはやがて契丹の高麗征伐を決行せしめる所以とたり︑関泰三年の柾戦

準備︑四年以後八年に至る侵入とたった︒契丹の侵入に対し︑高麗は一方に女直を味方として戦ふと共に︑

一方

は宋

使回を返って支援を請うた︒此の遣宋使臣には必十女直が従行した︒女直としては此の機に中園貿易を復活せんとしたも

のの如くである︒然しとれも北宋の非力︑高麗の契丹への完全屈服によって望みを絶たれ︑開

奈 川

八年

︵掘

削︷

一不

十年

三十

月を

最後として高麗・女直使臣団の同行入宋は永久に絶へて終ったo回践部女直の麻荊・麻腐達が馬を資して高麗に入貢した

のは穎宗の九年︵開泰七年﹀で︑女直が高麗の使臣と共に入宋しつつ中園市場の再開に努力しつつあった時であったo然

し此の再開運動に回政部がどれ丈の活動を示してゐたかは史料紅く全く判らたい︒

(3)  契 丹 と の 貿 易 活 動

契丹の回政部経路が進捗して初めてその入貢を見たのは霊︷一京の開泰八年ハ一

O

一九﹀であるが︑聖宗が挙げた折角の成

契丹

の回

肢部

女直

経略

に就

いて

̲̲̲.̲ 

ノ\

(29)

契丹の回肢部女直経路に就いて

果も太平九年︵一

O

二九︶に勃発した大延琳の叛乱によって一時消滅じ︑興宗が再びとれを経略してその藩属入貢を見る

ω 

....L.  ノ\

ととと怒ったのは重照十七年︵一O四八︶であれJ売︒そしてとれより後ちは氷く契丹に藩属入賞した︒との入貢と共に回

政部人が盛に契丹の領内に出入して貿易したととは︑先掲亡名氏の北風揚沙緑に

白威州東北分界入宮口円高八百二東沫江o中間所居之女員︒隷一契丹威州兵馬司︒奥其閣往

来鉦

谷川

0

之 回

覇︒非熟女

真︒亦非生女真也︒

とある記事に依って察せられる︒彼等の往来先が威州を主としてゐたとと︑契丹は彼等の契丹領内への出入を自由として

ゐたとと等が明かに知られる︒

先に述べた如く︑契丹闘志その他当時の文献には蘇子河流域より遁議平野に及ぶ熟女震が盛に契丹剣山内に入り来

p

︑叉

は境上で貿易して帰ったとと︑契丹商買も亦その地に出入してゐたとと等を述べ︑更に阿勃楚略地方を中心とする生女真も

亦契丹と時に抗争し乍らも盛に貿易を通じてゐたととを伝へてゐ

るが

︑両者の問に介在する回以部の貿易活動に就いては

一言も及んでゐたい︒然し回践部の南北に隣接する熟生両女真が盛んに契丹と貿易してゐた事実と上掲揚沙録の﹁輿其図

往来無禁﹂の一句とを考へ併せば︑回故部の貿易活動も同様に盛んであったととは容易に推測せられるであらう︒その総

出品は彼等の土産品であり︑激海以来重要輸出品ともなづ

てゐ

た金

麻布・蜜蝋

・諸

築材

︿ 大

参・白附子・衣苓・桧実・

猪苓・天南星﹀馬等であったであらう︒聡

入 口 聞

は既に著しく中園化してゐた契丹の諸産品︑或は契丹に輸入せられてゐた

中関

口同

等で

あっ

たと

思は

れる

回鋭部より契丹に入る諸街道の要衝としては上越の威州ハ関原﹀同州ハ中国﹀銀州ハ鈴嶺﹀貴徳州︵鍛嶺東南撫安鎧﹀

参照

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