九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
The life of Yao Tsuei (姚最) and the problems of his Hsü hua-pin (続画品)
平田, 寛
https://doi.org/10.15017/2328757
出版情報:哲學年報. 25, pp.137-169, 1964-10-20. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
挑 最 の 伝 記 よ り み た る
﹃続画品﹄
の 成 立 の 問 題
平
田
寛
− 挑 最 に つ い て の こ れ ま で の 研 究 挑最の撰した﹃続画品﹄は︑年代的に︑形式的に︑南斉・謝赫の﹃古画品録﹄を継承するものであるためか︑従来 その研究はやや等闘にふされてきたように思われる︒僅かな例外を除いては︑両書と両撰者の相違について語るもの はない︒従って︑挑最と﹃続画品﹄が︑六朝の画論においてしめるべき歴史的位置については︑それに相当する評価
をなす試みはなかったと思う︒
従来︑挑最の事蹟については︑
﹃四庫全書総目提要﹄︵以下︑﹃四庫提要﹄と略す︶の記事・考証の範囲を出ること がなく︑﹃書画書録解題﹄︑﹃四部総録・芸術篇﹄などの著名な解題書もまた︑﹃四庫提要﹄の記事を踏襲しているにす
ぎな
い︒
﹃四庫提要﹄巻一一二︑子部ニニ︑芸術類を詰みにびくと︑
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
商品
﹄の
成立
の問
題
一三
七
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
函口
巴の
成立
の問
題
一三
八 旧 本 題 陳
・ 呉 興
・ 挑 最 撰
︑ 今 考 書 中 称 梁 元 帝 為 湘 東 殿 下
︑ 則 作 是 書 時
︑ 猶 在 江 陵 即 位 之 下
=
− 中 ム
=
−
= 前
︑ 査 梁 人 而 入 陳 者
︑ 猶 玉 台 新 詠 作 於 梁 簡 文 在 東 宮 時
︑ 而 今 本 皆 題 陳 徐 陵 耳
︑ 其 書 継 丙 下
=
− 上 乙 甲
= 謝 赫
﹁ 古 画 品 録
﹂ 而 作
︑ 而 以 赫 所 品 高 下
︑ 多 失 其 実
︑ 故 但 叙 時 代
︑ 不 分 品 目
︑ 所 録 始 於 梁 元
= 一 レ ニ 一 二
− レ
=
− レ 帝
︑ 終 於 解 謡
︑ 凡 二 十 人
︑ 各 為 論 断
︑ 中 欝 宝 鈎
・ 覇 松 合 論
︑ 釈 迦 仏 陀
・ 吉 底 供
・ 摩 羅 菩 提 合 論
︑ 凡 為 論 十 六 則
︑ 名 下 間 有 附 註
︑ 如 湘 東 殿 下 条 註 日
︑ 梁
・ 元 帝 初 封 湘 東 王
︑ 嘗 画 芙 蓉
=
− 下
=
− ニ 図
︑ 醗 鼎 図
︑ 毛 稜 条 下 註 目
︑ 恵 秀 姪
︑ 似 尚 是 最 之 本 文
︑ 至 張 僧 鉱 条 下
︑ 註 日 五 代 梁 時 呉 興 上
=
−
z− 人
︑ 則 決 不 出 最 手
− 蓋 皆 後 人 所 益 也
︑ 凡 所 論 断 一 多 不 過 五
=
− レ 一
−
− レ
=
六 行
︑ 少 或 止 於 三 四 旬
︑ 而 出 以 舘詞︑気体雅機︑確為一唐以前語︑非一後人所一能依託−也︒
とみえる︒成立年代については︑梁・元帝︵五
O八
|五
五四
・在
位五
五二
|五
五四
︶を
湘東
殿下
とよ
んで
いる
こと
から
︑元
帝 即位前に成立したと推定している︒ただ︑
その成立年代にもかかわらず︑陳︵五五七|五六六︶の挑最とする所以は︑
徐陵
︵五
O七五八三︶の﹃玉台新詠﹄が︑梁・簡文帝の東宮時代︵五三一
l
五四九︶に著わされたが︑徐陵がのちに陳に 入ったので︑陳・徐陵の撰とされている事例をあげて︑挑最もまたのちに陳人となったからであろうと論じている︒﹃古画品録﹄と異なる点は︑品等をたてずに時代によって配列を行っている点であると論じている︒小論の目的は︑
この二点について新しい批評を試みることにある︒
ところでわが国においては︑内藤湖南︑滝精一︑金原省吾などの諸先学によって︑﹃続画品﹄について︑論及され
z un v
唱E Ea
ている︒内藤氏の説くところは︑﹃四庫提要﹄の論考の要約であって︑﹃続画品﹄自体についての新しき知見はない\︒園2
滝博士は︑挑最の気韻論が︑謝赫に比してより主観論的である点を分析した︒金原氏は労作﹃支那上代画論研究﹄に おいて︑上に略述した諸論放を集約し︑精密にした︒金原氏の論は︑推論多く煩潰にわたるところも多いが︑張彦遠 の﹃歴代名画記﹂と対照して﹁続画品﹄のテキストと内容の分析を進めた点︑挑最が用筆法を重視して謝赫より︑
圃 3
り主観論的な絵画観をもっていたことを指摘した点などが注目される︒
よ
欧米の研究をみると︑﹃四庫提要﹄に多くを負い︑挑最が謝赫に比して方法的でないことを園4﹃荘子﹄の引用の多いことを指摘している︒ アツカl
氏の
見解
は︑
︑︑
︑
︑
vvしかるに︑近年︑王伯敏氏は︑挑最の事蹟が︑﹃周書﹄巻四七︑
︵列
伝三
九︶
なら
びに
﹃北
史﹄
巻九
O︑
︵列
伝七
八︶
の 挑僧垣伝においてみられることを発見した︒これによって︑不詳にされていた挑最の生涯の大略が︑明らかにされる
ことになった︒王伯敏氏は︑この新しい発見に基づいて︑
﹃続
画品
﹄の
成立
年代
が︑
梁の大宝年間︵五五O
|五
五一
︶ ころ︑挑最の十五︑六才の著作であるという大阻な推案を下した︒ここにおいて︑挑最および﹃続画品﹄の研究は︑
国5新しい展開を一示すようになったといえる︒
I I
呉 興 の 挑 氏既に﹃四庫提要﹄が説くように︑
﹃続
画品
﹄の
前文
をみ
ると
︑
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画品
﹄の
成立
の問
題
一三
九
挑最
の伝
記よ
みり
たる
﹃続
画品
﹄の
成立
の問
題
一四
O
陳・呉奥・挑最撰
としている︒陳については後述するとして︑挑氏が呉輿の出身とすることは正しい︒挑氏は呉輿四姓の一つである︒
﹃陳書﹄の挑察伝も︑呉輿・武康の出身であることを記しているので
園6
ある︒僧垣は最の父︑察は兄である︒こうした挑最の家系は︑三国・呉の挑信からやや明らかである︒ ﹃
北史
﹄︑
﹃周
書﹄
の挑
僧垣
お伝
よび
﹃南
史﹂
︑ 挑信︑生・卒︑字は不詳︒清の厳可鈎の﹁全三国文﹄巻七一は元直という︒唐の陸徳明︵五五六
l
六二七
の︶
﹃釈
文 序録﹄は徳桔という︒
﹃釈文序録﹄はなお︑梁の庇孝緒︵四七九
i
五三六︶の﹃七録﹄が︑県興の人︑字は元直と記し園7
圏 8 ていたことを紹介している︒信は晋の沼平に学び︑官は呉の宝鼎︵二六六|六九︶の初め︑太常卿であった︒彼には次 のような著述のあったことが知られている︒
園9
﹃周
易注
﹄
割判望日U居陸唱4
﹃折
天論
﹄
相対
¥i
間隔阻
1 4
﹁士緯い﹃土宣明
圏お
﹃誠子﹄
園M
﹁挑
信集
圃M ﹄
書 ﹄ 新
挑信ののち︑挑家の後式聞は晋の九江太守挑渠をのぞき︑
四代程不明で︑第五世が︑宋の員外散騎常侍五城侯であっ た挑邸︑第六世が不明で︑第七世が梁高平令・挑菩提である︒
部は︑員外散騎常侍という官職よりして︑
いづれも﹁周書﹄の挑僧垣伝にその名がみえる︒
園お そのころは︑挑家もかなりの家柄であったようにも思われる︒
菩提
につ
いて
は︑
その名前より察すると︑既に彼の父の時には︑挑家は仏教信者だったことがわかる︒六朝時代︑仏 教の力で小児の生命を守るという信何から︑寺院が託児の場所になったり︑小児に︑沙弥・法護・羅漢などとともに
闘日
菩提という小名をつけたりしたといわれる︒後にその子僧垣は︑沙門僧垣と称せられ︑孫の察も篤信家であった︒こ の菩提が医師であったことは︑挑僧垣伝にみえる︒
梁 武 帝
︑ 性 又 好 之
︵ 医 薬 の こ と て 毎 召 菩 提
︑ 討
t論 方 術
︑ 言 多 会 意
︑ 由 是
︑ 頗 礼 之
︑ 僧 垣 幼 通 治
︑
=
−
= 一 レ レ レ
居 喪 尽 礼
︑ 年 二 十 四
︑ 即 伝 家 業 云 々
レ レ
=
菩提は︑梁・武帝︵四六四|五四九︶の侍医であったわけで︑僧垣は家業として医家をついでいることがわかる︒
の ちに挑最もまた︑これを継ぐことになる︒
以上のように︑挑氏は僧垣の生れるころ︑末流の方伎者として批にあり︑仏教信者になっていたことがいえる︒
挑氏の事蹟は︑挑最の父・僧垣︵四九九|五八三︶において明瞭になる︒前述したように︑伝は﹃北史﹄巻九
O
︑﹃周
書﹄
四巻
七に
みえ
る︒
僧垣︑字は法衛︒少年時より文事を好んだが︑二十四才にして家業の医をつぎ︑梁の武帝︑簡文帝︑元帝三代に仕え︑
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画品
﹄の
成立
の問
題
四
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
薗品
﹄の
成立
の問
題
四 官は太医正になっている︒晋の葛洪μ
︵二
八四
l
三六三︶や︑梁の陶弘景︵四五二|五三六︶の医学︑ひいては梁・簡文帝国四
の勧医書もみるように︑南朝において医学研究は盛であったが︑挑僧垣はそのなかでも最も著名な一人なのであ
と治療との聞には明確な因果が存して居り︑ る︒伝をみるとき︑彼の医術には︑葛洪︑陶弘景という名前から想起されるような神仙・呪術的なところがなく︑薬
園m m
一個の実証的医家の面白をうかがうこともできる︒
僧垣の任ぜられた太医正というのは︑梁の職官表には見当らない︒
﹃陪
書﹄
百官
志を
みる
と︑
梁門下省︑置−太医令一又太医ニ丞中︑薬・蔵
M丞︑為−三品勲一
位
﹃百官志﹄に記載なきは︑正史は
園却
初期制度を記載するのであらう︑従って任官は︑梁の中期以降であると推定している︒いづれにせよ︑彼が宮位より とある︒摩混仁氏は︑太医正は太医令の属官に相当するのではないかとみている︒
しても︑梁朝の最高の医家であったことは︑充分に納得される︒果して後年︑北周に入ってから︑大象二年︵五八
O︶
︑
太医令に当る太医下大夫に殺せられている︒
承聖
三︵
五五
四︶
冬十
月︑
干謹
︵四
九三
|五
六八
︶
のひきいる西貌の大軍は江陵を攻囲し︑ついで十一月︑梁・元帝は
捕えられ︑殺されるという梁室喪亡の大乱が起った︒挑僧垣はこの時︑元帝に侍し軍中にあったが︑捕えられ入関す
るこ
とに
なっ
た︒
﹃北
史﹄
に 僧 垣 猶 侍 梁 元 帝
︑ 不 離 左 右
︑ 為 軍 人 所 止
︑ 万 泣 沸 市 去
︑ 尋 而 周 文 遺 使 馳 駅 徴 僧 垣 べ 燕 公
=
− レ エ 一
= 官 事 レ
= 一
謹 固 留 不 遣
︑ 請 使 人 目
︑ 吾 年 衰 暮 疾 病 嬰 況
︑ 今 得 此 人
︑ 望 与 之 僧 老
︑ 周 文 以 謹 勲 徳 隆 童
︑
=
− レ レ
=
F
乃 止 藷
︑ 明 年 随 謹
︑ 至 長 安
レ
= 目
とみえる︒周・太祖︵五O六
l
五五六︶と干謹をして争はしめた︑僧垣の医家としての名声を知るべきである︒こうして長く県興にあった挑氏は入関することになるが︑この時に︑十九才であった次子の挑最がこれに随伴することにな
る︒長子の挑察は︑家郷の呉奥に戦乱をさけていたので︑その地に留ることになった︒
北地にあった僧垣が︑諸帝以下︑顕官貴人の治療に当り︑北朝の医家を凌いで優遇を受けたことを︑伝は詳しく伝
えて
いる
︒
惰朝になって︑開皇初︵五八一︶年︑北緯郡公にあげられたが︑同三年︑
園幻
﹃集
験方
﹄十
二巻
圏忽
記﹄三巻 八十五才で捜している︒
巴 『
a,ー・
{J
の著述があったことが知られている︒
挑僧垣には︑察と最の二人の子がしられている︒挑察は南朝末の隠れもなき史家で︑﹃梁書﹄︑
﹃陳
書﹂
の実
質的
な
撰者
であ
る︒
伝は﹃南史﹄巻六九︑﹃陳書﹄巻二七にみえる︒この挑察の子が︑初唐の代表的な史家︑挑思廉︵五五七
未完成で残した﹃梁書﹄ 字を以て行われている︒唐・太宗のいわゆる十八学士の一人で︑父の察が
国お
﹃陳書﹄を完成したことはよく知られている︒思廉は挑最の甥に当るわけだが︑唐の費泉
本名
は簡
︑
−六
三七
︶で
ある
︒思
廉は
字︑
撰︑費蒙註の﹃述書賦﹄巻下によると彼にも一篇の書論︑﹃善書人名状﹄のあったことがわかる︒この歴史家父子は
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹁続
薗口
巴の
成立
の問
題
一四
三
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
函晶
﹄の
成立
の問
題
優に一篇の論放に値するが︑ここでは挑最に関係してくることのみに記述をとどめねばならない︒
幼年時より非常に聡明であった︒六才にして書万余言を
一四
四
察月
五三
三|
六
O六
︶︑
字は
伯審
︑
梁・
陳・
惰三
代に
仕え
た︒
請し︑十二才にしてよく文をつくった︒十三才で︑梁・簡文帝の東宮時代宜猷堂で儒者の賞讃を博じたという︒
﹃陳書﹄によると︑十四才で︑普薩戒を受けている︒
梁末の大乱をさけて︑県興にあって家居を守ったため︑入関した父僧垣︑弟の最と離れ離れになっていた︒陳に仕
えて
︑太
建︵
五六
九五八二︶のはじめのころ︑周に使したが︑このとき︑喪乱の際に相別れた父と会うことができた︒
l
﹃南
史﹄
の伝
は︑
太建初︑補=宣明殿学士一尋為=通直散騎常侍−報引鰐於周一江左者旧先在=関右−者︑戚相傾慕 柿 圏
︑
︵ 中 略
︶ 察 在 陳 時 聴 周
− 因 得 与 父 僧 垣 相 見
︑ 将 別 之 際
︑ 絶 而 復 蘇
︒
− レ レ
−
p
=
− 占 レ
と伝
えて
いる
︒
帰朝後︑調部侍郎にあげられている︒調部侍郎は︑調和・医薬・贈賜などを司る官であるから︑宗廟礼儀のことを
司る太常卿であった呉の挑信とも︑医師であった祖父菩提︑父僧垣とも繋る職についたといえる︒
しかし︑挑察の本領は史家たる点にあるJ﹃南史﹄には︑周に使した時︑劉諜なるものが察を訪れ︑﹃漢書﹄につい
ての疑事十余条を質したことがみえるが︑それを裏書するように
﹃漢曾訓纂﹄三十巻な官
をはじめとし︑前述のように︑子の思廉により完成されたとはいえ︑
﹃葉
書﹄
五六
巻
﹃陳
書﹄
三六
巻
の実質上の撰者として︑不朽の業績を残してい祖喝
その他︑彼の伝によると
﹃説
林﹄
十巻
﹃文
集﹄
二十
巻
国m
m
﹃西
聴玉
繭﹄
一巻
園幻
﹃西
聴道
理記
﹄
﹃建
康三
鍾等
記﹄
巻 カ ま み え る 他 ー ー も 巻園巻園29 28
﹁文
章始
﹄
な
ど 「のー建あ 康
つ 記
f
こ 」と が 知 ら れ して、 る 挑察は陳が亡ぴるや惰朝に仕へた︒官は秘書丞などについたが︑惰・文帝︵在位五八一|六
O四
︶の
勅に
より
﹃梁
書﹄
﹃陳書﹄の撰に当っている︒大業ニ︵六
O六︶年︑年七十四にて残した︒
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹁続
画品
﹄の
成立
の問
題
一四
五
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
函口
問﹄
の成
立の
問題
一四
六 ところで︑挑察が記録によって︑明らかに挑最と交渉するのは︑開皇十三︵五九三︶年である︒この年︑最は亡父僧 垣より襲いでいた北緯郡公の位を辞して︑察がそれを襲いでいるからである︒それ以前にも︑察の訪周の際に︑両者 が相会したことは︑充分に考えられうる︒しかし︑惰代の挑察は︑美術鑑賞の面で︑最の兄たるにふさわしい事蹟を
残し
でい
るの
であ
る︒
なす
わち
︑
﹃歴代名画記﹄巻三︑銀自古蹴尾押署の項は︑耳目・宋から周・晴にいたるまで︑宮廷では図画を収めて も印記は行われていず︑
ただ当時の襲識者たちの押署がなされたという興味深い記事を伝へてドるが︑惰の押署人と して︑江総︑朱昇︑何妥とならんで挑察の名をあげている︒われわれはここにおいて︑挑察の権威ある鑑識家として の面にふれると同時に︑単に血縁の関係においてのみならず︑教養や趣味との関係において︑察と最の繋りを感じる
ので
ある
︒ 一般に南朝末期において︑名流の出に非る寒門の読書人たちが撞頭して新しい官僚群を形成し︑貴族的南朝文化を
変改してい旬以家もまた︑そのような機運のなかで︑察−最の兄弟の世代を迎えたと言っていいと思う︒挑信より 挑察︑就中︑方伎者たる医官・普提から僧垣︑察にいたる家系の歴史を顧みて︑われわれはそのことを明らかに感ざ
ぜるをえない︒挑察が死するに際して︑強く厚葬をいましめる遺言のなかで
吾家世素士
と述
吋で
いる
こと
︑
園
MU
また清の誼翼が指摘しているように︑挑思廉が﹃陳書﹄の挑察伝において︑方伎者にすぎぬ医家
たることを恥じて︑祖父僧垣が太医正たりしことを記していないことに︑
その直接的な意識の反映をうかがうことが できる︒このような出自の読書人たちが︑
いまや︑絵画鑑賞の担い手となって登場してきたことに︑充分に注意しな
ければならないのである︒
挑家家譜
−1
挑信
︵呉
︶|
口口ー口口
l l
1郭︵
宋︶
l
口l
菩提
︵梁
︶|
僧垣
︵四
九九
l
五八
三︶
﹂i
察 ︵
五 三
一 −
T
六O六︶
|
﹁最
︵五
三七
l
六 O一 一 ︶
ー思
廉︵
五五
七|
六三
七︶
E
挑 最 伝
挑最︑字は士会︒梁−武帝の大同三︵五一一一七︶年に生れ〜習伝は﹃北史﹄巻九
O
︑﹁周書﹄巻四七の挑僧垣伝に附されて
いる
︒ 最も兄の察に似て︑幼年より聡明であったが︑この兄弟の養育に︑父僧垣が意をそそいだ事情を︑挑祭伝は次のよ
うに
伝え
てい
る︒
僧 垣 精 医 術
︑ 知 名 梁 代
︑ ニ 宮 所 得 供 賜
︑ 皆 回
! 給 察 兄 弟
︑ 為 潜 学 之 資
︑ 察 並 用 豪
l蓄図書︑由
= 一 レ 一 一 一
=
− レ エ
− レ 是 聞 耳 目 博 今日の中産階級の子弟教育を努需とさせるこの話は︑
一面
︑重
用さ
れた
とは
いえ
︑ なお方伎者にすぎぬ医師・僧垣
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画品
﹄の
成立
の問
題
一四
七
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
商品
﹄の
成立
の問
題
一四
八
の上流への願望の表現であるとみることもできる︒
挑最伝はこの少年時代について︑
及レ長︑博通一一経史一尤好=著述
と伝えているが︑王伯敏氏の推案によれば﹃続画品﹄は︑じつにこの少年時代︑十五・六才ごろの著述ということに
居 間 ぬ
なっている
P
しかし︑この推案についてはなお疑義があるので︑次章において改めて問題としたい︒承聖三︵五五四︶年︑挑最十八才のとき︑彼ら父子がその幕下にあった梁・元帝の江陵が陥落した︒この江陵失陥に
ついて︑直接的体験に基くか否かは不明であるが︑挑最は面白い事実を伝えている︒周年冬十月︑巳酉の日のことで
ある
巳 ︒
酉
︑ 上
︵ 梁
・ 元 帝
︶ 自 長 沙 寺 移 住 天 居 寺
︑ 是 日 北 軍
︑ 射 書 城 内
︑ 今 者 行 兵
︑ 不 食 城 陸 土 地
− 不
=
− レ レ
=
− レ 貧 一 子 女 玉 鳥
︑ 志 存 救 弊
︑ 済 此 生 民
︑ 広 訪 民 人 一 抗 レ 善 而 立
︑ 梁 朝 士 展
︑ 尚 未 相 領 解
︑ 蟻 豪 窮 城
=
− レ 寂 無 求 問
︑ 尋 此 異 卜
︑ 良 用 到 惑 レ レ
=
− レ
圏且つまり︑西貌の将軍干謹が︑城内に射かけた降伏勧告の佼文がここにみられるのである︒
閑話休題︑翌年︑十九才の最は父とともに闘に入る︒このとき︑十余万の捕虜とともに︑江陵にあった梁の百官が ことごとく北朝に帰したのであるから︑それは︑文名高い梁・元帝のもとに集った︑南朝の宮廷文化サークルの移動
でも
あっ
たと
いえ
る︒
国お
こうした状況の下で︑武成一元︵五五九︶年︑周の明帝︵在位五五七
l
五六
O
︶は麟駈殿を起し︑文学の士八十余λ
を集めて︑経史の校刊を行わしめた︒王褒・慶信・宗懐・度季才など当代の学者に伍して︑若冠二十余才の挑最もまた︑
その学士に補せられている︒麟祉学は︑周・武帝の露門学︵五六五︑設立︶と並ぴ︑周代を代表するこ学の一であるから 挑最の学識の高かったことがしれる︒
ついで挑最は︑斉王・憲︵五四四|五七八︶の府に迎へられ︑水歯固参軍・掌記室事の職についている︒参軍︑掌記い づれにしても︑彼は斉王・憲の側近にあり︑憲の尊重するところであったと思われる︒憲の伝は﹃周書﹄巻一二︑
﹃北史﹄巻五八にみえる︒
憲︑字は枇賀突︑周文帝の第五子である︒少にして敏であり︑明帝の武成元︿五五九︶年︑益州刺史に銭せられ︑斉 国公に封ぜられた時︑僅か十六才であった︒その後︑各地に蜜戦し︑周・武帝︵在位五六
Ol
七 八 ︶
を大いに輔け︑世 の重んじるところとなったが︑
富 町 初
であった︒憲の学事としては︑古今の兵書の説くところが煩雑にすぎるので︑
それが災になって︑宣帝︵在位︑五七八|九︶即位するにおよんで越せられた︒三十五才
五篇に要略し︑世の賞讃をえたという 事蹟がある︒挑最の﹃梁後略﹄の断簡七篇は︑
園幻
部に収められている?いま︑これだけめ事実から︑斉王・憲の兵書と﹃梁後略﹄との聞に何らかの関係を想定するこ
いま﹃太平御覧﹄にみることができるが︑
その七篇中︑六篇までが兵 とは不可能であるが︑挑最が憲の府の参軍であったことを考えると︑全然無関係であったとも断定し難い︒ただここ
では
︑憲 と最 に︑
そのような事蹟があったことを記するにとどめておく︒
挑最 の伝 記よ りみ
たる
﹃続 函品
﹄の 成立
の問
題
四 九
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
続﹁
商品
﹄の
成立
の問
題
一五
O
挑最は長年にわたって憲の府にとどまっていたのではない︒
E章でふれた︑挑家の医業に関係して︑
それを妨げる 事情がおこったからである︒
﹃北
史﹄
に次
のよ
うに
えみ
る︒
最幼在=江左一迄=干入下関︑未レ習=医術一天和中︑斉王憲奏レ遣一
v 最
習
v 之︑憲文調レ最日︑博学高才︑何
如
− 王 褒
・ 度 信
︑ 王 度 名 重 両 国
︑ 吾 視 之 蔑 如
︑ 接 待 資 給
︑ 非 商 家 比 也
︑ 勿 不 存 心
︑ 且 天 子 有 殺
︑
m−
− レ
=
− レ レ レ レ 弥 須 勉 励
− 最 於 是 始 受 家 業
︑ 十 許 年 中
︑ 略 尽 其 妙
︑ 毎 有 人 告 請
︑ 効 験 甚 多
=
− レ
=
−
この
記事
は︑
われわれにいくつかの疑問を提出してくる︒天和中と附記するのは何故か︑斉王・憲の上奏の契機は 何か︑十余年にわたる医術の習業は誰のもとで︑何処で行ったのか︒
天和中と断って︑敢えて上奏までして︑憲は最に対しても︑﹁王・慶二家の名声は︑南北両朝にひびいている︒自分 は必ずしも︑そうとも恩わないのだが︑現状では︑おまへの受ける待遇は両人には及ぴもつかない︒そこのところを よ︿心に留めてほしい﹂と険し︑武帝もまた︑激励の辞を与えている︒既に三十代にある男子に︑単に医業をすすめ るにしては︑大げさの感がするのである︒
結論からいうと︑この簡単な記事から︑挑最は医学勉強のため︑暫︿︑陳に帰っていたのではないかという可能性
が考
えら
れて
くる
︒ まず︑天和︵五六六
l
五七ニ︶年間ということに注目したい︒天和年間︑周は陳に五度にわたって︑公式の使節を送ってい場特に五六九年十二月には︑周−陳通好のなかで特記すべき役割を果した震が四度目の使節となり︑両朝
の修好が結ぼれている︒この国交の円滑に比例して︑両朝人士の交流もまた行われたと考えてよい︒﹃北史﹄巻八三︑
慶信伝は︑次のような話をのせている︒
時 陳 氏 与 周 通 好
︑ 南 北 流 寓 之 士
︑ 各 許 選 其 許 園
︑ 陳 氏 乃 請 王 褒 及 信 等 十 数 人
︑ 武 帝 唯
レ レ レ
=
−
=
放 王 克 毅
・ 不 害
︵ 殻
︶ 等
︑ 信 及 褒 誼 惜 而 不 遺 この十余人の名前はいまはわからないが︑北朝寄寓の南方の学者たちの一部の︑南方への帰還が許されたことが注 目される︒特に︑周の武帝が︑王・度の二家を惜しんで帰国を許さなかったという条は︑前述の斉王・憲の最に対す
る告喰と無関係であったであろうか︒
つぎ
に︑
最 幼 在 江 左
︑ 迄 於 入 関
︑ 未 習 医 術
=
−
=
v
レ
=
−
の条
は︑
いかに読まれるべきであろうか︒父の膝下におれば︑幼年時に江左にいようといまいと︑
また︑十九才まで
に習得していようといまいと︑医術の勉強には支障があるとは考えられない︒事実︑
﹃北史﹄季修伝は︑季修が沙問
−僧垣について医術を究めたことを記しているのである︒挑最の場合には︑北朝の僧垣のもとでは伝授し難い事情が あったというのでもあらうか︒個人的理由か学問的理由か︑南方との繋りで医術の習得がなされねばならぬという
事情があったとでもいうのであろうか︒
斉王憲奏遣最習之
の遣は︑単に使役動調として読まれもするが︑派遣という意味も含めて理解することも出来ると思う︒
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画民
間﹄
の成
立の
問題
五
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画品
﹄の
成立
の問
題
五 第三に︑最の兄・察は太建︵五六九|五八二︶年間のはじめに周に使している︒このときの経験が﹃西璃道理記﹄に なっている事情などについては既に述べた︒太建年聞に︑陳は周に︑六度の公式の使節を送ってい噂そのうち察の
派遣が何年のものなのかは判らないが︑
その際︑あきらかに僧垣と察とは会っているのであるから︑最一人無隷であ
ったとも考えられない︒
つまり︑挑家にあっては︑南北交流が現実に行われているのであって︑挑最が陳に還るに有
利な条件が存在していたといえる︒
以上︑三点いづれも︑挑最の入陳の可能性をいうには間接的にすぎる材料であるが︑このことは﹃続画品﹄本文に みる陳・挑最の記事と併せて︑町章で改めて考察したいと思う︒
しかし︑挑最の入陳の知何にかかわらず︑既に挑最が惰朝成立前に︑北方にあったことは確実である︒
情・文帝
︵在
位五
八一
−
t ee
− 六
O四︶即位の年に︑彼は晴の太子門大夫に鍍せられているからである︒
開皇三︵五八三︶年︑父僧垣が八十五才にして死去した︒
服喪ののち︑最は父の北締郡公を襲ぐ︒のち開皐十三
︿五八三︶年︑既に暗にあった兄の察に︑自分は嫡子でないという理由から︑これを譲っている︒
ところでこの襲爵のすぐのちに︑挑最は萄王・秀︵|六一七︶の幕下にはいり︑秀が益州に鎮するや︵五九二︶︑司馬 の職についた︒斉王・憲の府にあった最の役職の︑参軍であったことが想起される︒この司馬時代︑挑最では見のが
園川却
すことのできぬ著述のあったことが知られている︒すなわち︑唐の費泉撰︑費蒙注の﹃述書賦﹄井注︑ニ巻の巻下に︑
名録編於司馬惰萄王府司馬挑最撰名寄録
とみえている︒この﹃名書録﹄の内容は︑今日ではまったくわからない︒しかしながら︑
﹃北史﹄﹃周書﹄が伝える
挑最の伝歴と︑﹃述書賦﹄の註とは完全に合致することから︑﹃晴志﹄以下各志に記載がみられないにもかかわらず︑
われわれははじめて︑美術評論家としての挑最に相接したと
﹃名書録﹄の脊在は疑えないと思う︒この書において︑
いう
こと
がで
きる
︒ ところでこの萄王府の司馬時代︑挑最は運命の大事に遭遇することとなった︒それは︑萄王・秀の下獄事件が起つ
たか
らで
ある
︒
秀は
文帝
の第
四子
︑
﹃情
書﹄
巻四
五に
伝を
みる
︒ 秀阻気容貌寝偉︑美嶺欝多︑武芸甚為−朝臣所官惜︑上︵文帝︶毎謂−献皇后−日︑秀必以悪終︑我 在当無慮︑至兄弟必反︵下略︶
レ レ
=
−
と記している︒果して仁寿二︵六
Oニ︶年︑皇太子・勇の画策などもあって︑異謀の罪をえ︑康人に下され︑死は免れ たが内侍省に幽閉されるととになった︒百余人がこの獄に連座したという︒司馬・挑最もまた︑当然連座したのであ
るが
︑
﹃北史﹄﹃周書﹄の挑最の伝は︑その最後をこう伝えている︒
最 独 自
︑ 凡 有 不 法
− 皆 最 所 為
︑ 王 実 不 知 也
︑ 梼 辞 数 百 卒
︑ 無 異 辞
︑ 寛 坐 誌
︑ 論 者 轟 之
︒
=
− レ レ
=
− レ レ
推算によれば︑このとき六十七才である︒記事は簡単であるが︑挑最の人柄を偲ばせるに充分であって︑彼が硬骨 の人士であったことがわかる︒
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画品
﹄の
成立
の問
題
一五
三
挑最の伝記よりみたる﹃続画品﹄の成立の問題
一五
四 挑 最 略
年譜
惰 惰 惰 惰 陳 周 周 陳 西 貌 梁 ・ 梁 梁 梁 梁 斉 年
望三号二里三皇一室関
5
凋 II 霊}童ー書二重三量一古三Z
五E
三主
ー号
五 五 五 五 八 | 五 六 |五 五 五 五 五 五 五 五 五 四 西
九 九 八 八 七六 H 五 五 五 五 五 三 三 一 九
三 ニ 三 一 二 九 二 六 九 七 五 四 二 七 三 四 九 歴
北~
萄歪 北鋒 太士夫門大主
働歯
止 父. 生る 挑君
を 主 君 襲 を
と 僧垣とと
く の馬司と なとる な と 最
る も
*
なる 入関 事
十九才 蹟
銚客 掴 垣頭挑す僧
コ
そ 斉王 周 挑 梁 十 察挑 鰐、粛 挑僧垣 関王
J . J
,の態
. 帝自 生
暴
・ 一北
号言 秀、
階
じ元
帝 月
生 湘東王
西警 東
王
湖る 生
荷型
車 聖
る
と 係
な 鎖
す 才 に よ 江俊 る
fこ
殺被り にて
聴せ 斉国公 つ
ら 即位 事
れ と
父 なる 梁
. 僧
垣 フ帝ロ
と 項 会す
一階・仁寿
一階・大業
一唐・貞観二
六 六 六
三
0 0
七 六 二
挑察
残す
詠死
︵六
十七
才︶
萄王・秀の変
挑恩
廉残
す
持その翌年︵五六O
︶の
可能
性も
考え
られ
る︒
挑最の著述については︑つぎの七種が知られている︒
﹃本
草音
義﹄
三巻
︒
﹃階
志﹄
コ一
にみ
える
︒
﹃通
志﹄
は医
方に
分類
して
いる
︒内
容は
残っ
てい
ない
が︑
天和
中の
医学
勉強
の所
産で
あろ
うか
︒
﹃梁
後略
﹄十
巻︒
﹃北
史﹄
﹃周
書﹄
挑僧
垣伝
︑
なお︑宮川尚志氏は︑︿この類は即日当日の事を記した短篇の近世史で最も実録となすに足る国史であるが︑
回M
U4
守Eム体がまとまってゐないので後世史家の削葉の資となるにすぎぬうらみがある﹀と説明している 1
﹃階
志﹄
ニに
みえ
る︒
﹃太
平御
覧﹄
に七
篇の
断簡
をみ
るこ
とが
でき
る︒
既述
︒註
幻を
参照
︒
その
言多
く部
朴で
全
﹃序
行記
﹄十
巻︒
﹃惰
土砂
﹄ニ
にみ
える
︒
﹃太
平御
覧﹄
巻四
五︑
地部
一
o
︑河
山諸
山︑
懸審
山の
条に
断簡
が収
録し
てあ
る︒
﹃通
志﹄
は︑
地理
の行
役に
分類
して
いる
︒
懸饗
山は
一名
︑龍
山︑
山西
省大
原県
の西
南十
里︒
挑最
の記
事は
高洋︑天保年中︑大修治観︒
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画口
問﹄
の成
立の
問題
一五
五
銚最の伝記よりみたる﹃続函品﹄の成立の問題
一五
六 とある必ずぎない︒北斉の文宣帝円在位五五
O|五九︶を単に高洋と言っているところに︑北周・障問に仕へた銚最の立場がうかがえ る︒警松の年も︑おそらく天保︵五五
O i五九﹀ののち︑九六O
年以降とみてよいであろう︒それも︑北斉覆滅後︵五七七︶と考え
るこ
と−
がで
きる
︒
﹃序行記﹄十巻と併せて︑挑最に﹃述行記﹄ニ巻のあったことを録している︒父︑僧垣に﹃行記﹄三巻の あったニとをわれわれはみてきたが︑それが挑最の﹃序行記﹄ないし﹃述行記﹄といかなる関係にあったかはわからない︒
なお
︑
通﹃
志﹄
六六
は︑
﹃述
系伝
﹄
一 巻 ︒
﹃階
志﹄
一一
︑譜
篇系
にこ
れを
みる
︒同
じく
﹃惰
志﹄
に﹃
周斉
王家
伝﹄
一巻
︑
ある
かも
れし
ない
︒
挑氏
撰の
ある
こと
を録
てし
いる
が︑
﹃述
系伝
﹄と
関係
が
﹃名
誉録
﹄
既に
べ述
た︒
﹃太
平広
記﹄
巻二
O九
の徴
引書
目に
﹃名
寄録
の﹄
書目
はみ
える
が︑
これ
は挑
最と
は関
係が
ない
︒南
斉・
王僧
虞の
もの
であ
る︒
﹃続
画品
﹄ 次章において︑その成立と意義を論じるので︑ここではその書名についてのみ検討しておく︒
﹃続
画口
問﹄
はに
︑﹃
続函
品録
﹄﹃
後画
品録
﹄﹃
画評
﹄な
どの
異称
があ
る︒
しら
てれ
いる
諸刊
本に
より
列記
する
と︑
の次
よう
にな
る︒
鐙雪軒論画叢書
集成
︒﹁
商評
﹄
この
うち
︑ま
づ﹃
画評
﹄は
︑ 梁 武 帝
・ 陳 挑 最
・ 謝 蕗
・ 惰 沙 問 彦 綜
・ 唐 御 史 大 夫 李 嗣 真
・ 秘 書 正 字 劉 整
・ 著 作 郎 顧 況
・ 並 兼 有
= 画 評
−
中国画論類編
明刊
本︵
静嘉
堂蔵
︶
各芸
文志
︒
津逮秘書
硯北偶紗本 図画見聞誌
︵但
し︑
未見
︶
側文斉書画譜
﹃続
画口
問﹄
王氏
画苑
﹃続
画品
録﹄
美術
叢書
︒
﹃後
商品
録﹄
説 君事
四庫
金書
︵提
要・
目録
とも
︶
百川学海
五朝
小説
図書
歴代
名画
記︒
﹃歴
代名
画記
﹄巻
︑一
叙函
興廃
に
とみ
え︑
﹃画評﹄を以て︑個有の書名とするには当らないと思う︒
﹃後||﹄の続と後とについては︑挑最が自らその前文において︑
肯されうる︒ただ﹃後画品録﹄をとるのは︑
﹃続
||
﹄
謝赫の本を継承することを説いているので︑当然首
﹃説
明叩
﹄系
の諸
本の
みで
ある
から
︑敢
えて
その
名称
をと
らな
くと
もよ
いと
思う
︒
問題は︑要するに書名の﹃続画品﹄と﹃続商品録﹄の問題︑録の有無にかかわると恩う︒王伯敏氏は︑﹃図画見関誌﹄が﹃続画品園
mM
録﹄と称するのは︑謝赫の﹃古画品録﹄と符合せしめたものであると解している︒しかるに堂谷憲勇氏は︑録とは画目録をいうもの
園 川切
であるから︑﹃古画品録﹄の原名は﹃商品﹄であると推定している︒さうであるとすれば︑﹃図画見関誌﹄が﹃続画品録﹄と称する
理由はない︒事実︑宋の曲目槌の﹃類説﹄巻五八は︑明らかに﹃画品﹄︑﹁続画口問﹄の称をとっている︒但し﹃類説﹄の収録記事には現
ここでは︑各芸文志︑現存刊本では最も古い﹃王氏画苑﹄行文と異なる処もあり︑充分に検討すべき点はある︒
﹃明
刊本
﹄に
した
が L
、
﹃続
画品
﹄の
名称
をと
りた
いと
思う
︒
また﹃続画品﹄については︑唐の李鯛真の撰になる同名書について検討すべきであろうが︑それについては﹃四庫提要﹄以来︑偽託
の書であることが広く認められていること︑李嗣真の著﹃詩後品﹄︑﹃害後品﹄の内容︑形式より推して︑商論もまた﹃画後口問﹄と称
されたと考えられることから︑ここでは論究の対象とする必要はないと恩う︒
IV
﹃続画品﹄の成立と意義
﹃続商品﹄の成立年次については︑前述したように王伯敏氏は︑梁・元帝粛緯︵五
O八|五五四︶の湘東王在位の末
園 川 叫
期︵五五二︶頃として︑挑最十五︑六才時の撰であると推定した︒﹃続画品﹄が収録する画家には︑梁代の画家が多い
園必
という事実と︑それは符合していると思われる︒この推定のもっとも確実な根拠は︑梁・元帝を湘東殿下と称してい
る点にある︒確かに︑
﹃続画品﹄本文最初の︑湘東王についての挑最の論評には︑深い敬愛の情がうかがわれる︒
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹁続
画口
問﹄
の成
立の
問題
一五
七
銚最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
函品
﹄の
成立
の問
題
一五
八 天 挺 命 生
︑ 幼 菓 生 知
︑ 学 窮 性 表
︑ 心 師 造 佑
︑ 非 復 景 行 所 能 希 渉
︑ 画 有 六 法
︑ 真 仙 為 難
︒
=
−
=
−
= 司
Z
=
v=
− レ
と述べている︒衆知のように︑湘東王は学事に精励し︑その周りには義子野︑劉野︑鷲子雲︑張績など当時の英才が
一 宮 々
侍し︑華やかな文化サークルを形成していたのだが︑側近の侍医︑挑僧垣の聡明な子息最が︑年少とはいえ︑金原氏
圏 組 閣
の説くようにその文化サークルに加っていたことも考えられる︒しかし︑梁の元帝と挑最の深いつながりが想像され
る場合にも︑湘東王という呼称の故を以て︑撰述の時期が湘東王在任の頃とするには︑
﹃続
画品
﹄と
いう
首尾
の整
つ
た画論が︑少年の才になるとすることに対する常識的な疑いの他にも︑
なお
検討
の余
地が
あろ
う︒
帯揮の湘東王在位︵五一四|五五二︶の期聞は︑凡そ三十年に近い長年月であったので︑彼の袈後においても︑梁−
元帝と称せず︑あえて湘東王と称している例がみられ袖U
しか
も︑
﹃続
画晶
﹄の
湘東
殿下
の条
には
︑
湘東殿下
梁一
苅帝
︑即
封湘
東王
︑云
云
園 組 閣
の割註がみられる︒この註割について﹃四庫提要﹄は挑最の記であることを疑っていない︒とすれば︑
﹃四
庫提
要﹄
の立場においても撰述の年を湘東王在位時代に限定する必要はないとも考えられる︒湘東殿下と略称するのは︑長期
にわたった在位ということの他に︑愛顧という︑むしろ心理的要因の介在を想像することも不可能ではないと思う︒
一方︑前文にみる陳・呉興・挑最撰という︑その除の解釈の問題もあ姐曲目﹃四庫提要﹄の見解は既に紹介した︒王
伯敏氏も︑この見解を踏襲しているようにみえ︑陳については論及していない︒
E
章においてみたように︑呉興という出地の記が正確であるから︑陳という記事にも信橋性があるとみていい︒しかし︑
E
章でみたように︑北周の元和年間︵五六六|五七一︶に︑挑最が陳を訪れたという可能性以外には︑挑最が陳に在ったということはありえない︒陳
という記事に信頼を置く限りでは︑医学修業のための在陳の可能性は無視しえないと考えられる︒その期聞は︑天和 元︵五六六︶年を上限とし︑挑最が太子門大夫に鍍せられた隔の開皇元︵五八二年を下限とする十数年間とみてよい︒
伝の
十 許 年 中
︑ 略 尽 其 妙 という記事とも矛盾しないし︑挑最の年齢も三十才に達しているから︑充分に成熟した美意識をもちえたと考えてい
い︒また︑これならば︑
﹃続画品﹄の収録したインド僧︑釈迦仏陀の事蹟とも抵触しないのである︒釈迦仏陀につい
ては
︑
﹁歴代名画記﹂巻七︑梁の項に︑
少 林 寺
︑ 至 今 房 門 上 有 画 神
︑ 即 是
︵ 釈
︶ 迦 仏 陀 之 漣
︑
レ
=
−
という記事がみえる︒ここにいう魂が︑北説︵三八六五三四︶︑西貌︵五三五|五五六︶のいづれにしても︑湘東王在位
僧迦仏陀︵中品︶梢師︑天肘一一人︑学行精想︑霊感極多︑初在説︑親帝重之︑至隔︑惰帝於嵩山︑起
レ レ レ
=
−
=
相剖
五リ
見統
一高
僧伝
E 5
云々
時代︵五一四|五五二︶と年代の点では抵触しないが︑説帝の重んじたというこの画家が梁に仕へたことを示唆する史
料も
ない
し︑
また
陪朝
︵五
八一
︐
PE ta
六一八︶で活躍したという事蹟から推しても︑湘東王在位の頃の両朝で活躍し︑当時 の画論に収録されるという可能性は︑非常に乏しかったと考えていい︒むしろ︑挑最の北周にあった頃︑
その地で釈
迦仏陀の画業に接したという可能性が考えられる︒
以上述べたような理由から︑新しい史料が発見されて︑﹃続画品﹄の記事に重要な訂正がされない限りでは︑
﹃ 続 画品↑撰述の年を︑単純に梁・湘東王在位時代に推くことには疑をもたざるをえない︒
いづれも間接的な可能性に基
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
商品
﹄の
成立
の問
題
一五
九
挑援
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
函品
﹄の
成立
の問
題
二 ハ
O
いての推論であるから︑断定は勿論さし控えねばならないが︑ここでは︑
﹃続画品﹄が五六六年以降に成立しえたと いう可能性の寄することを示唆するにとどめたいと思う︒
一 方 ︑
﹃続画品﹄の画論史上における意義はどこにあるであろうか︒唐の張彦遠は︑
詳 観
− 謝 赫 評 量 一 最 為 允 曜
︑ 挑
・ 李
︵ 嗣 真
︶ 品 藻 有 所 米 安
レ レ レ
と︑挑最を軽視している︒これは︑挑最が謝赫をついでいることに対する偏見とみてよ慢しかし︑﹃続画品﹄には︑
謝赫と異った挑最の芸術観が表れている︒金原省吾氏は︑謝赫の収録せず挑最が収録した画家に対する挑最の批評を 分析して︑挑最の立場が︑用筆を重視する主観性の強いものであること︑また︑湘東王に対する好意的な評言ゃ︑粛
責を評する
学 不 為 人
︑ 自 娯 而 己
レ レ
園田
という字句などよりして︑挑最がより文人的態度にたっていることなどを指摘した︒いづれも挑最個人の絵画観につ いての適切な指摘であったと思う︒ここでは︑それとは別に︑中国画論史上において﹃続画品﹄がになっている二つ
の意
義を
指摘
した
いと
思う
−︒
挑最は︑謝赫を継承しつつも︑
﹃古画品録﹄の一品から六品にわかっ品等法を︑全く無視している︒
﹁古
画品
録﹄
以来︑宋初にいたる画論の多くが︑品等論を以て一特色としているのを考へる時︑挑最の態度が異例に属することを 感ぜざるをえない︒挑最はその前文を
且古今書評︑高下必錐︑解レ画無レ多︑是故備取︑人数既少︑不=復区別=其優劣一可=以レ意求−也 と結ぴ︑収録画家の数が少いから︑あえて品等をとらなかったと述べている︒しかし人数のこと以外にも︑根本的に 挑最は絵画の価値品等にたいして懐疑的であったと考えざるをえないようである︒彼は︑中国画論史上︑評価の相対
的であることを始めて意識しえた批評家ではないかと思う︒
よく
知ら
れて
いる
よう
に︑
謝赫
が東
晋の
顧憧
之︵
字は
長康
︑
c
・三 四
一
h i c
− 四
O二︶を︑六品中の第三品におき低く評価
していることを批難し︑挑最は顧憧之を高く評価している︒顧憧之は︑宋の陸探微︑梁の張僧謡︑唐の呉道玄と併称 される︑六朝第一の画家とみなされているが︑このような評価は︑じつに﹃続画品﹄に始まっている︒その点︑張彦 遠の批評にもかかわらず︑挑最の鑑識の高かったことがいえるのである︒ところが︑顧憧之にたいする謝赫の不当な 毘価は︑品等という評価態度について︑挑最の反省を促したことは考えられる︒すなわち︑挑最は﹃続画品﹄前文で 但 事 有 ニ 泰 否 一 人 経 一 一 盛 衰 一 或 弱 齢 而 価 童
︑ 或 壮 重 而 声 遣
︑ 故 前 後 相 形
︑ 優 劣 舛 錯
と︑評価が偶然性に支配されることを指摘し︑また
曲 高 和 寡
と︑秀れたものの理解されることの少いのを歎じている︒
情所=抑揚一画無=善悪
と︑評家の主観的な立場から︑画の優劣がきめられることも指摘している︒このような評価の相対性についての鋭い
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹁続
薗品
﹄の
成立
の問
題
一 六
銚最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
画品
﹄の
成立
の問
題
一 六
反省准︑釈迦仏陀︑吉底倶︑摩羅菩提の三人の外国渡来僧の画風については
既 肇 戎 殊 体
︑ 無 以 定 其 差 品
L v z
=
−
と︑既に様式についての反省に及んでいるのである︒前文閏頭の
夫 丹 青 之 妙 極
− 未 易 言 尽
レ
=
−
という言葉は︑評価を含めて︑一般に美術批評に対する不易の真実を言い当てているものであって︑挑最における新
しい批評意識を告げている︒六法論の最初の提唱者として︑また品等論という評価形式の定立者として﹃古画晶録﹄
﹃続画品﹄がもっ反省的態度にも逸すべからざるもののあることをが果した役割は大きいが︑反面︑それと同時に︑
忘れ
ては
なら
ない
と思
う︒
﹃続画巨巴成立の社会的基盤と強い関係をもっと考えられる︒
E
章に
園田
おいて︑挑最の兄祭がその一員であった隔の押署人たちが︑寒門出身の新興知識階級に属することを指摘したが︑ ところで︑この評価の相対性という意識は︑
﹃続画品﹄は南朝末期の︑このような新しい鑑賞階級の所産であるとみていいと思う︒
を以て︑鑑賞家の手によってできた最初の画論であるといえる︒ ﹃続画晶﹄はそのような背景
﹃古
画品
録﹄
以前
︑南
朝に
おい
ては
既に
︑東
晋の
顧憧
之︑
宋の
宗嫡
︵字
は少
文︑
一二
七五
|四
四三
︶︑
宋の
王微
︵字
は景
玄︑
四一五|四四三︶などに画論があって︑その断簡は﹃歴代名画記﹄にみることができるが︑それらに共通する一性格は
いづれも著者が名のある画家であった点にある︒挑最の評価の相対性は︑このような立場の違いにも由来するといえ
る︒画家は趣味の主体性を強︿持っているから︑評家としてたつ場合にも︑自分の絵画観を卒直に述べうる︒反面︑
純粋に鑑賞的な評家においては︑趣味の主体性はより乏しく︑知識的に絵画に接する場合も多いから︑端的な価値の 判定には慎重になるであろう︒より反省的である故に︑評価についてはより懐疑的になる場合が多いであろう︒評価 の相対性の意識は︑このような知的で純粋な鑑賞階級成立の反映であるとみられうるのではないかと思う︒
要す るに
︑
﹃続画品﹄は︑宮廷︑豪族の鑑賞機構とも異なり︑宣言的な画家の批評とも異なり︑新しい教養者たち
||それは南朝末の寒門出身の知識階級であるが
l l
の一所産であって︑評価についての相対的意識にみるように︑
新しい批評意識を︑画論史上にもたらしたものとみなすことができる︒
︵一
九六
三年
一月
稿︶
車
﹃続 画晶
﹄の
内容 に関 する
問題
は︑ 準備 中の テキ スト 批判 と註 釈に 続く
︑続
稿に
おい て︑ 改め て論 じた いと 思う
︒ 註
釈 I
①内 藤湖 南﹃ 唐以 前の 画論
﹄︑
﹃支 那絵 画史
﹄所
収︑ 昭一 三︑ 弘文 堂
②滝精一﹃古画品録と続商品﹄︑国華﹄三三八︑三三九号
③金 原省
吾﹃
支那 上代 画論
研究
﹄︑ 大正 一三
︑岩 波書 店
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同・回 ・
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⑤王 伯敏
﹃続 画品 録﹄
︑﹃ 標点
・註 釈︑
古画
品録
・続 画品 録﹄ 所収
︑一 九五 九︑ 北京
︑人
民美
術出 版社
n
⑤﹃
湖州
府志
﹄巻 二九
︑輿 地略
︑風
俗編
に︑ 呉興 四姓
の一
つに 銚氏 があ げら れて いる
︒ま
た同 書巻 二四
︑輿 地略
︑陵 墓編 に︑ 武康 の 西南 三塁
︑石 城山
に挑
信の 墓の 脊在
が記
して ある
︒漢 の青 州刺 史銚
恢︑
尚書 左僕 射館
︑挑 信の 後に なる が︑ 晋の 九江
太守
挑渠 の墓
の基
も同 処に 害す る︒ ここ にの
ち挑
最も また 葬ら
れて
いる
︒
①指 平︑
字は
子安
︑呉 郡銭
塘人
︒国 内末
︵呉 の滅 亡は 二八
O
︶の人
であ
る︒
﹃晋
書﹄
巻九
一に
︑ 挑最 の伝 記よ りみ たる
﹃続 画品
﹄の 成立 の問 題
一 六
挑最
の伝
記よ
りみ
たる
﹃続
函民
間﹄
の成
立の
問題
一六
四 平 河 覧 墳 一 戸 遍 引 該 百 氏
− 挑 信
・ 賀 郡 之 徒
とみ
える
︒
③﹃呉志﹄巻一四︑孫和伝︒
⑨﹃罵易﹄十巻︑呉太常銚信注︑と﹃階志﹄巻一にみえる︒陸徳明の﹃経典釈文﹄序録にみえる︒﹃玉函山房穏失書﹄巻五︑二十一家易注﹄︵未見︶に︑侠文が収録してある︒
⑩﹃析天論﹄一巻︑﹃階士山﹄巻三にみえる︒﹃玉函山房穏侠香﹂巻七六︑﹃太平御覧﹄巻二に︑侠文を収録︒
@﹃士緯﹄︑﹃全三国文﹄巻七一には十巻とある︒﹃玉函山房輯侠書﹄巻七二︑﹃太平御覧﹄巻四O
一︑
四四
七︑
五五
六に
侠文
が収
録
して
ある
︒
⑫﹃土語﹄巻︑﹃太平御覧﹄巻七一
o
︒⑬﹃誠子﹄︑﹃芸文類緊﹄の徴引書にみえることを︑馬念祖編の﹃水経注等八種古籍引用書目集編﹄一九八五︑中華番局が記録して
いる
︒
⑬﹃挑信集﹄二巻︑および﹃新書﹄二巻︑これについては︑﹃玉函山房輯侠書﹄巻五︑﹃周易挑氏注﹄一巻の解題を参照︒
⑬宮川尚志﹃六朝史研究﹄政治・社会編︑一九五六︑日本学術振興会︒︿一般に貴族でないと任ぜられない顕職が若干存した︒秘書郎︑これに車いで著作佐郎・員外散騎侍郎は名族子弟の初任宮であり
: :
V
三七
三頁
︒
︿散騎常侍は侍中と通官であるが︑通直・員外を冠する者は稀劣るV
三八
O頁 ︒
⑬宮
川尚
志﹃
六朝
宗教
史﹄
︑一
二ハ
頁︒
⑫﹃梁筒文帝勧医文﹄︑﹃初学記﹄巻二O
にみ
える
︒
⑬陳邦賢﹃支那医学史﹄山本成之助訳︑昭一豆︑大東出版︒六九頁︒⑬さきに仏教信者たることを述べたが︑仏教僧の東漸とともに︑インド医学の中国輸入が考えられる︵陳邦賢︑﹃前掲書﹄六章︑第
一節︶︒後漢末の安世高角高僧伝﹄巻二はその顕著な例である︒六朝時代の諸帝の篤信が︑この傾向を促進したでもあろう︒陳邦賢氏は︑陶弘景の医学における仏教の影響を指摘している︒すなわち︑彼が葛洪の欠漏を補して著した﹃肘後方百一方﹄の百一
というのは︑仏教の一百一病の説に基づくとしている︵﹃前掲害﹄六章︑第−節︶︒銚僧垣の医術において︑仏教とインド医術の果
皆従受レ業
一 玄 々
﹃漢
貌