Hu Zongxian( 胡宗憲) and the Impeachmentagainst Zhang Jing( 張経): with SanxunZaoyi( 三巡奏議) as the Main HistoricalSource.

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Hu Zongxian( 胡宗憲) and the Impeachment against Zhang Jing( 張経): with Sanxun Zaoyi( 三巡奏議) as the Main Historical Source.

夏, 歓

https://doi.org/10.15017/2545094

出版情報:九州大学東洋史論集. 46, pp.1-29, 2019-03-29. The Association of Oriental History, Kyushu University

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胡宗憲は明朝の「南倭」危機が勃発してから、嘉靖三十三(一五五四)年から四十一(一五六二)年にかけて、浙江巡按御史・浙江巡撫・浙直総督などの要職を歴任した。東南地域の倭寇現場で積極的に対応した彼は、倭寇対策において極めて重要な役割を果たしたことで著名である。特に倭寇の侵攻が激しくなった嘉靖三十四(一五五五)年、胡宗憲は倭寇に対する武力討伐を進めるとともに、「倭寇頭目」とされる王直への招撫も行い、明朝の強硬な倭寇対策を比較的に柔軟な方針に転換した。張経弾劾と王直招撫は明朝の「南倭」問題を論じる上で必要不可欠な点であり、多くの研究成果が蓄積されてきた。まず、一般論として張経弾劾事件は、朝廷における倭寇対策の主導権をめぐる派閥争いとして捉えられ、従来の研究では、権臣厳嵩と趙文華の言動が研究対象の焦点となっている(1)。一方、張経弾劾事件における胡宗憲自身の言動を対象とする研究はなされておらず、事件の過程で胡宗憲が果たした役割については、なお十分に検討されていない(2)。胡宗憲の対倭寇政策に関する研究では、王直招撫案の実施過程について早い段階で詳しい検討が加えられ(3)、近年では招撫

夏       歓 胡宗憲と張経弾劾事件 ―   『三巡奏議』を主史料として ―

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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の実施における胡宗憲による貢市再開の構想も指摘されている(4)。ただし、王直招撫案の本質については未だに定説がなく、彼による貢市再開構想の実像、及びその実現過程は十分に明らかではない。張経弾劾事件は、その後胡宗憲が浙直総督として倭寇対策を進める上で重要な意義をもった事件であり、王直招撫をめぐる諸問題を解明する上で、より多くの史料を精査してそれに再検討を加える必要があるだろう。先行研究において胡宗憲による張経弾劾を論じる際には、『世宗実録』の記録を主な史料としている。ただし『実録』には胡宗憲が趙文華と連携して張経らを誣告したと記すに止まり(5)、胡宗憲による具体的な張経弾劾の内容を記していない。一方で、胡宗憲の上奏文については、従来『皇明経世文編』所収の「胡少保奏疏」(6)がしばしば利用されてきたが、その他に胡宗憲の題奏を集めて刊行した『三巡奏議』(7)という史料が残されている。山根幸夫の考察によれば、この史料は旧徳山藩の毛利家に伝わっていた現存する唯一の胡宗憲の奏議集であり、その内容は「胡少保奏疏」よりも豊富で、嘉靖時期の「北虜南倭」問題の両者にわたっており史料的価値は高い(8)。ただし管見のかぎり、日本の史学界では『三巡奏議』を史料として用いた研究は発表されていないようである。一方で、中国では趙連穏・卞利が「北虜南倭」問題への対応における胡宗憲の功績を示す史料として、さらに侯馥中が張経弾劾事件に関する研究において同書の一部を利用した(9)。しかし、これらの論考は『三巡奏議』所収の上奏文を部分的に紹介するに止まり、それらの題奏の背景やその具体的内容、そして各題奏間の関わりに関する総合的な検討は行われていない。『三巡奏議』巻三の「巡浙奏疏」には、張経の総督在任期間に胡宗憲が浙江巡按として監察に当たった時期の題奏が収録されている。そのうち倭寇対策論と張経弾劾事件に関わる題奏は、上記の先行研究が提示するものと未利用のもの、合わせて八件が残されている。下表ではその一覧を示した。上奏が行われた時期について『三巡奏議』にはほとんど示していないが、その上奏内容からある程度限定することはできる。本稿では、この一連の題奏に全体的に検討を加え、張経弾劾事件における胡宗憲の役割を再検討したい。その上で、張経への弾劾と王直招撫案の実施との関わりを分析することにより、胡宗憲による対倭寇政策が如何に展開したかを明らかにしていきたい。 東洋史論集四六

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嘉靖三十三年に、南京兵部尚書である張経が浙直総督に任じられて倭寇対策の総責任者となった。その後、朝廷では倭寇に対する宣諭・招撫の実施可否をめぐって激しい議論がくりかえされた。嘉靖三十四年に発生した張経弾劾事件においては、浙江巡按の胡宗憲が権臣厳嵩の腹心である趙文華と連携して糾弾に関与した。この事件に関して、チャールズ・O・ハッカーは胡宗憲が浙直総督の張経を追放して、王直に対する招撫を展開することを意図していた、と論じている

して総合的な検討を行っている う視野から、『世宗実録』・『皇明経世文編』・『籌海図編』を主な史料と 媛などの中・日・米・韓の研究者が、明朝の海禁・貿易秩序問題とい Li Kangying明朝の倭寇対策に関しては、鄭永常・岩井茂樹・・車恵 に緊密に関わる倭寇対策の動向を把握することが必要だと考えられる。 経弾劾事件の論理を理解するためには、このような王直招撫案の進展 11。張

しい紹介がある 年前後の対倭寇政策論である。それについては、既に鄭樑生による詳 12。本稿が注目するのは、嘉靖三十三

胡宗憲による日本宣諭論にも論及している 日明朝貢の再開を容認する議論がなされたことに注目し、そのなかで 13。近年では韓国の研究者車恵媛が明の朝廷において

14。さらに、山崎岳は王直

表一:『三巡奏議』における張経弾劾に関わる題奏(10) 

(嘉靖三十三年~嘉靖三十四年)

略号 推定上奏時期 表    題

三十三年八~十二月 題為献愚忠以図安攘疏

三十四年一月

二十六日~三十日 題為海賊長駆肆掠、官軍屡被殺傷、浙西大遭残破、乞 賜厳究失事諸臣、以安重地以慰生霊疏

同年四月二十一日~ 題為倭賊奔突入境、乞賜厳勅督撫諸臣早為撲滅、以 安地方疏

同年五月一日の直後 題為懇乞聖明申勅督撫諸臣乗勝搗巣、永除海患疏

同年五月

二十三日~二十八日 題為督撫重臣玩寇殃民、懇乞聖明厳加究治、以警官 邪以安重地疏

同年五月二十四日~ 題為懇乞天恩酌処監試職務、以便督軍以図補報疏

同年五月二十八日~ 題為海賊侵犯両浙、生民受禍極情、乞賜厳究失事官 員以安地方疏

同年六月二日~七月 題為緊急賊情疏

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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招撫の実施可否をめぐる朝廷の論争に焦点をあて、王直を召還することを目指して行われた「日本招諭論」の発案とその成り行きについて紹介している

撫案を推進する建言として検討を加えているが、その中の張経に関わる内容については分析されていない については論じられていない。また、山崎は胡宗憲による「題為献愚忠以図安攘疏」という一件の題奏について王直招 れに対し、嘉靖三十三年前後の対倭寇政策の動きが張経弾劾事件の発生にとってどのように影響したのか、という問題 ぼ明らかにされた。ただし、上記の研究においては、宣諭・招撫案とその反対案自体に考察の重点が置かれている。こ 車恵媛と山崎岳の研究によって、宣諭・招撫案が実施されるようになった過程、その中での胡宗憲の役割についてほ 15

寇対策論を示す直接的な史料は極めて乏しいため 16。張経の倭

宗憲の立場を示すことにしたい。 て嘉靖三十三年前後における対倭寇政策の動向に検討を加え、さらにこの倭寇対策論争における総督の施策に対する胡 為献愚忠以図安攘疏」の内容について改めて検討する必要があるだろう。このため本章においては、先行研究を参照し 17、彼を始めとする倭寇対策の立場を把握する手がかりとして、「題

  宣諭・招撫案の浮上とその難航

宣諭・招撫案の実施要請は、嘉靖三十二(一五五三)年四月以前、浙江巡撫王忬の上奏によって始まったとされている

ずだが、「兪大猷が強引に決行した瀝港襲撃によってご破算となった」とされる 提案するとともに、倭寇の巨魁として王直らの実名を挙げてその赦免を求めたが、この提案は世宗の裁可を得ているは 18。山崎の研究によると、王忬は逃亡した明人の送還や倭人の中国渡航への禁止について日本国王に諭旨を下すよう

を行い、朝鮮を通じて日本を宣諭し、また倭寇の徒党を招撫することを提案している 19。ついで南京給事中の張承憲も上奏

いため、宣諭の案は今後日本使節が到来した際に、別途上奏すべきである、という否定的な見解を示した。最終的に世 王忬と張承憲による日本宣諭案に対して、七月十八日、礼部尚書の欧陽徳は、琉球・朝鮮による日本宣諭の旧例がな 20 東洋史論集四六

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宗は欧陽徳の意見を裁可している

嘉靖三十三年になると、まず五月十二日に、当時漕運総督の任にあった兵部右侍郎の鄭暁 21

以消賊党疏」という題奏を行った 22が、「乞收武勇亟議招撫

撫・赦免することを提唱している 早急に実施すべきだと建言しており、中でも倭寇の「脇従者」、即ち倭寇に強制的或いは自発的に随従している華人を招 23。鄭暁は「倭寇」の大部分が明人だと指摘した上で、その徒党を解散できる対策を

う王直を赦免して招撫する提案が出された。これらの建議に対して世宗は実施を許可する諭旨を下した 浙直総督として推薦する意見、また倭寇の頭目とされる王直が自ら帰順する場合は彼に世襲の指揮僉事を与える、とい が五月十八日にそれについて廷臣の議論を集めた。山崎も紹介しているように、この廷議において南京兵部尚書張経を 討伐のための軍兵・軍糧の調達や、それを統率する浙直総督の推薦について上奏した。その上奏は兵部に下され、兵部 24。その後、倭寇が南京に迫る中で、兵科給事中王国禎・都察院御史温景葵等は倭寇

剿賊」と指示し倭寇の脇従者への赦免は容認したが、首領への撫賞案は却下している 直招撫案に対して兵科給事中の王国禎は二十六日に強い反論を行った。結局、世宗は彼の建言に従い、「令総督張経一意 25。ところが王

上記の鄭暁の上奏に対して、兵部尚書の聶豹は六月九日に次のように覆奏した 26

このように、日本宣諭案と倭寇に対する招撫案は嘉靖三十二年の王忬と張承憲の提案から翌年五月の鄭暁の上奏と兵 月十一日に世宗の裁可を得た。 世宗の聖旨と鄭暁の建言に基づき、倭寇に対する討伐策と懐柔策を併用すべきことを建議したのである。この覆奏は六 ため、それを検討すべきだと主張しており、聖裁が下されれば兵部が総督張経に咨文を送ると答申している。あわせて、 聶豹はまず鄭暁による倭寇の徒党(すなわち脇従者)を懐柔して彼らを解散させるという提案には一定の利点がある 仁義並行之道也。無得拘泥故常坐失事機。等因。 尚書張査照、節奉欽依内事理、復参以侍郎鄭所陳、或剿以示威、或撫以示恩、或広招来以示無外之度。此帝王之師 案呈到部、看得漕運侍郎鄭題称……(本官)所拠包荒含垢以消其党与、不為無見、相応議処。合候命下、移咨総督 27

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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部の廷議を経て浮上しており、朝廷において懐柔的な倭寇対策が模索されつつあったことを示している。しかし、日本宣諭案は礼部からの反対によって却下されており、また、王忬が発案した王直に対する赦免・撫賞策は、兪大猷の瀝港攻撃により実現しなかった。さらにこの赦免・撫賞策は、嘉靖三十三年五月の朝廷における議論で反論を招き、結局五月二十六日に下された実施不可の聖旨によって実行が困難となった。ただし脇従者に対する招撫案は朝廷で認められ、その実施が同じ五月二十六日聖旨によって指示されたのである。

  宣諭・招撫案の再提起と掃討作戦の頓挫

上述のように、嘉靖三十三年の後半には倭寇に対する宣諭・招撫案が続けて提起されており、それと同時に、倭寇の掃討作戦で起こった敗北に対し、総督張経の責任問題が指弾された。まず、南京太僕寺卿章煥が海上に流亡する明人を招撫すべきことを上奏した。それに対して兵部は総督張経に実施させるべきと覆奏し、八月二日に世宗がこの覆議を裁可した

長鎗手 28。その後、二十二日に南直隷で倭寇と対峙する山東からの

いた 29が松江府柘林の辺りにある採淘港で倭寇を追撃したところ、採淘港に潜伏する倭寇の徒党に襲われて敗北を招

兵部はそれに反対し、結局二十七日に世宗は兵部の意見を採用して郭仁の提案を拒否した 招諭する旧例を引いて朝鮮による日本宣諭を要請した。この朝鮮による日本宣諭案は兵部に下され覆議が命じられたが、 30。その直後、刑部主事郭仁は王直一党と結びついた倭寇の猖獗に関して上奏を行い、洪武年間にあった三仏斉を

り『実録』の記録によって紹介されており その一方で、採淘港の敗北を契機として、張経に対する弾劾が浮上してきた。その経緯については既に先行研究によ 31

を採用し、張経を南京参賛兵部尚書 る上奏を行った。しかしながら、朝廷では採淘港の敗北における張経の責任を追及せず、世宗は兵部・吏部の対処意見 に届き、ついで十月十四日に兵科都給事中李用敬が対倭寇作戦における総督張経の責任回避と職務怠慢を厳しく指弾す 32、ここでもそれによって概観しておこう。十月五日に採淘港の敗報が朝廷

33から兵部右侍郎兼都察院右都御史に改任し、東南地域の軍務の総督に専念するこ 東洋史論集四六

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とを命じた。これに対し、浙江巡按の胡宗憲は採淘港の役の後、嘉靖三十三年八月から十二月までの間に「題為献愚忠以図安攘事」

いる 議』の他に、『皇明経世文編』の「胡少奏疏」にも同文が収録され、従来胡宗憲の倭寇対策を示す史料として注目されて 34という題奏を上呈し、倭寇問題の根本的な解決策について建言した。この「題為献愚忠以図安攘疏」は『三巡奏

従する華人を招撫するという「脇従招撫案」 この題奏では、先行研究も指摘するように、胡宗憲は日本に招諭使節を派遣するという「日本招諭案」や、倭寇に随 35

36などを提唱している

務、而去薪塞源之道或者未之講也 広調客兵、而覆敗相仍、靡費銭糧、而地方無補。若此者、其故何哉。臣嘗早夜思之、蓋以謀事者徒知揚湯濬流之為 に述べている。 層激化しているとして、根本的な対応策を実施する必要性を強調し、現行の倭寇討伐策の問題点について、以下のよう ては従来の研究では十分に注目されていない。胡宗憲はこの題奏の冒頭で、南直隷・浙江地域における倭寇の侵攻が一 さらに胡宗憲は「題為献愚忠以図安攘疏」において総督張経の倭寇対策に対する批判も行っているが、この点につい 宣諭し、また明人が倭寇に加わることを抑えるために浙江地域における「加派」を取り締まることを提言している。 ていること、という三点である。そして、これらの難題に対して胡宗憲は、倭寇になる日本人を規制するために日本を ないこと、そして軍隊調達のための附加税(加派)の過大な負担のため、東南地域の人が倭寇に加わって脇従者になっ 東南地域に騒乱をもたらしたこと、また前線の武将による厳しい捕殺政策のために倭寇に脇従する華人が招撫策に応じ 対応に関わる三つの現実的な問題を指摘した。即ち浙江の柘林に潜伏する日本人や朝貢貿易に乗じて来航する日本人が 37。具体的に、胡宗憲はまず東南地域における倭寇

ここで胡宗憲は「客兵」 38

齎した財政負担などの弊害を指摘し、さらに対倭寇政策の「謀事者」が賢明とはいえないと批判する。ここでの「謀事 39、即ち浙江に派遣されてきた他地域の軍隊の戦闘力不足、及びその徴発などが浙江地方に

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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者」とは、明言されていないが、倭寇の掃討作戦で客兵の動員を主導した総督張経を示唆していると考えられる。こうした観点から、胡宗憲は日本宣諭案と脇従招撫案を提案したのである。最終的に、この脇従招撫案が朝廷において認可されたかどうかは不明であるが、山崎が論じるように、日本宣諭案は嘉靖三十四年四月に礼部の賛同を得たようである

して糾弾すべきことを主張している ている現状を指摘した上、軍事防衛の向上のために、脇従招撫などを実施するよう求め、さらに督撫の職務怠慢を監察 ついで嘉靖三十三年末には、兵部尚書聶豹らが上奏を行い、倭寇討伐のための募兵費用に多額の軍費が既に計上され 40

なかなか進展を遂げない状況下で、聶豹が責任を回避するためであったと評している 41。聶豹が特に督撫に対する監察を強調した要因について、『実録』は掃討作戦が

違は、翌年の胡宗憲による張経弾劾事件につながる伏線となったと考えられる。 べきだという見解が示されている。嘉靖三十三年に既に倭寇対応の現場で生じていた、胡宗憲と総督張経との方針の相 宗憲の題奏「題為献愚忠以図安攘疏」では、客兵の動員による討伐策に固執せず、より柔軟な宣諭・招撫案を実施する であった。しかし、嘉靖三十三年後半になると、採淘港の敗北により、張経が主導する客兵作戦の弱点が露呈した。胡 当初は、世宗の指示によって倭寇に対して強硬な倭寇掃討作戦が進められたため、宣諭・招撫案を実施することは困難 王直招撫案・脇従招撫案を中心に考察を加えた。ここで検討したように、浙直総督張経が嘉靖三十三年五月に就任した 以上第一章では、張経弾劾事件が発生する嘉靖三十四年以前における、明朝の対倭寇政策の動向について日本宣諭案・ 寇討伐策に対して高い期待を寄せていたことを示している。 上聞するように命じているが、一方で招撫案を含むその他の倭寇対策については指示しなかった。このことは世宗が倭 経に全力で倭寇を掃滅するよう命じ、もし再び怠慢があるなら重罪に処すとし、浙江・直隷の巡按御史にはその実情を 42。聶豹の上奏に対し、世宗は張 東洋史論集四六

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  胡宗憲による張経弾劾(一) 王江涇大捷以前

張経弾劾事件の発生と展開については、川勝守・鄭樑生・侯馥中・曹国慶・蘇鈞煒(Kwan-wai So)などが『世宗実録』を利用して内閣首輔厳嵩と工部右侍郎趙文華の言動を中心に検討を加えた

経弾劾事件は嘉靖三十四年四月の工部右侍郎趙文華による上奏から始まったとされている 43。従来は『実録』の記事によって、張

ついて催促したが 嘉靖三十四年四月七日、督察浙直軍務・工部右侍郎趙文華は海神祭祀と軍事巡察の職責を以て松江府に至って剿倭に おりである。 44。その基本的経過は次のと 45、総督張経は兵馬調達の段取りをしている途中だとして趙文華の出兵要求を拒否した

四日、趙文華は倭寇対応の怠慢により張経を処分するよう上奏したが 46。四月二十 47、その一方で湖広から調達した永保兵

も大きな勝利」を収めた に到着すると、張経は倭寇に対する全面討伐に乗りだし、五月一日には王江涇の戦いにおいて「江南の御倭以来もっと 48が東南

しかし五月十六日、趙文華の弾劾題奏は王江涇の勝報より先に朝廷に届き、張経を逮捕する令状が発せられた 49

局世宗は廷臣たちの弁明にも納得せず張経の処分を決意した らに、内閣大学士厳嵩は張経の職務怠慢を非難した上、王江涇戦捷を趙文華と浙江巡按胡宗憲の功績として上奏し、結 50。さ

した 51。こうした中で、胡宗憲は六月十九日に浙江巡撫に昇任 52。一方、罷免された張経と李天寵は七月二十五日に京師に械送され

で処刑されたのである 53、十月二十九日に職務怠慢と責任回避の罪

胡宗憲が嘉靖三十四年一月の月末から同年六月ごろまでの間に行った、張経弾劾に関わる七つの上奏文(表一の② 以上が『実録』に記された張経弾劾事件の顛末であるが、前述のように『三巡奏議』には『実録』に記されていない、 54

- ⑧)

を収録している。しかし先行研究では、これらの上奏文は十分な検討が行われていない。

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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『三巡奏議』によれば、胡宗憲は趙文華よりも早く、嘉靖三十四年一月末から既に総督張経の統率力不足について上奏し、そして同年の六月まで張経への弾劾を続けていたことがわかる。胡宗憲による張経への糾弾は彼が王直招撫案の実施を模索する過程で行われており、その後の胡宗憲の対倭寇政策を理解する上でも重要な意味をもつと考えられる。第二章ではまず『三巡奏議』所収の一件の題奏(表一の②)を中心に、胡宗憲による張経批判の発端を検討することにしたい。

  胡宗憲による張経批判の発端

嘉靖三十三年十一月、倭寇が浙東温州府・台州府・紹興府と浙西嘉興府・湖州府に侵攻し

不足も指摘しているが、総督張経の責任問題には触れていない 魁と嘉興府知府劉愨・嘉善県知県鄧植を始めとする前線の各官の職務怠慢を糾弾している。あわせて巡撫李天寵の統率 る各官の功罪に関する上奏を行った。この題奏では倭寇の侵攻を阻止できなかったとして、参将兪大猷・海道副使陳応 西の倭寇はさらに内陸に侵入して嘉興府の嘉善県城を攻略した。それに対応して、浙江巡按胡宗憲は倭寇対策に従事す 55、また、同年十二月に浙

賜厳究失事諸臣、以安重地以慰生霊疏」という題奏を上呈した 憲は嘉靖三十四年一月二十六日から三十日までの間に、さらに「題為海賊長駆肆掠、官軍屡被殺傷、浙西大遭残破、乞 その日から同月の二十六日にかけて、湖州府徳清県と南潯鎮を経て嘉興府の秀水県などを転掠した。こうした中で胡宗 そして嘉靖三十四年になると、正月一日に倭寇は再度、浙西嘉興・湖州地域へ侵入し、嘉興府崇徳県城を攻略した。 56

切攘夷、惟乏万全之謀致有一隅之失。此二臣者、均当並究。……権雖在於総督、決機両陣、事実由於将領。若俱帰 提督軍務都御史李天寵、心力雖殫於経営機宜、或失於猶豫、時方両月賊已再侵。総督軍務都御史張経、心存補過志 拡大した。その中で、張経と李天寵の責任問題について、胡宗憲は以下のように述べている。 各官を厳重に処罰するよう主張しており、糾弾する対象は掃討作戦に直接関与した官員だけではなく、総督張経にまで 57。ここで胡宗憲は倭寇による浙西再侵攻について関係 東洋史論集四六

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咎一人、於情亦有不堪。況目下狼兵方至、本官昔任両広、威信素孚。若欲大挙夾攻、舎之無可任重、似当略其前愆、責以後效也

な厳嵩と対立する立場に立ち、張経との関係が深い政治勢力が存在したためであろう などの処分を受けているが、総督張経は特に処分を受けなかったようである。おそらく朝廷には内閣大学士徐階のよう 『世宗実録』によれば、胡宗憲の題奏を受けて、参将湯克寛・巡撫李天寵などはそれぞれ「先取死罪」や「戴罪殺賊」 思われる。 攻を機にあえて総督張経を批判した背景には、より柔軟な倭寇対策の必要性を朝廷に示す意図があったのではないかと 戦の弊害を指摘して宣諭・招撫案の必要性を提言していた。嘉靖三十四年一月の段階において胡宗憲が倭寇の浙西再侵 された浙直総督の張経は倭寇に対して強硬な討伐策を進めていた。それに対し、嘉靖三十三年後半には胡宗憲は客兵作 いる。第一章第二節でも述べたように、嘉靖三十三年五月の朝廷議論の結果として、世宗の上裁によって、新しく任命 総じて、この題奏では張経の倭寇対策への尽力を評価しながらも、彼の対倭寇戦略については、慎重に批判を加えて 留することを要請しているのである。 明軍が対倭寇作戦で敗北したのは総督一人の責任ではなく、張経に対する狼兵の信望も厚いことから、処分案を一旦保 あったが、全体的戦略に乏しく、浙西のいくつかの地域で敗戦を招いたと述べている。さらに後半部分では、胡宗憲は 胡宗憲は前半部分で、李天寵は倭寇対策に尽力しているものの、掃討作戦の時期を失し、張経は倭寇討伐に熱心では 58

も張経による倭寇討伐になお期待を寄せていたと考えられる。 59。またこの段階では、世宗自身

  倭寇対応の監察官派遣問題

『世宗実録』嘉靖三十四年二月十五日庚辰条(以下、『実録』庚辰条と略す)には、倭寇対応の監察官増派をめぐる朝廷の議論が記されている。最初に監察官増派を提案したのは趙文華である。彼は自らの倭寇対応策である「備倭七事」

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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の中で、海神への祭祀(「祀海神」)及び軍隊を統率する責任官への監督(「遣視師」)という理由で東南地域に官員を遣わすように提言した。この提言について、従来の研究では専ら趙文華が倭寇問題に介入しようとした意図に注目し、張経弾劾事件の先蹤として捉えている

てこなかった、趙文華の提言に対する兵部尚書聶豹の答申と世宗の指示に焦点を当て分析を行いたい 60。本節では胡宗憲による張経弾劾の背景として、従来の研究では十分に検討され

別に監督の官を派遣する必要はないと反対している が、「遣視師」(官を遣わして将領を監督する)に関しては、総督張経に自ら将兵を鼓舞して統率するよう伝えるべきで、 豹は「祀海神」(海神を祭る)は軍政に有益であるため、ほかの四件とともに督臣に伝え、酌量して行うよう建議した まず、趙文華の上奏した七件の倭寇対策(「備倭七事」)に対して、兵部尚書の聶豹は二月十五日に覆奏を行った。聶 三件の諭旨である。 れに対する兵部からの一件の覆議、また兵部尚書聶豹による一件の題奏、及び兵部尚書聶豹・浙直総督張経に下された ここで取り上げる内容は、『実録』庚辰条における工部右侍郎趙文華の倭寇対策論を始めとする二件の関係題奏と、そ 61

していないことを非難した上で、兵部などに対し趙文華・朱隆禧からの上奏を検討し、対応策を講じることを命じてい に対し、内閣を通じて勅諭を下した。この勅諭において、世宗は北虜南倭という国家の緊急事態に兵部が積極的に対応 また、兵部覆奏の直後、致仕侍郎の朱隆禧も上奏し、福建巡按の増設を建議している。世宗は趙文華と朱隆禧の上奏 62

と指摘し、兵力の集結が既に完了した現段階においては、軍事的対応に専念すべきだと表明している 弁解を試みたものであった。上奏の最後で、聶豹は福建巡按を増派すれば福建から江南にいたる兵士調達に差し支える 聶豹のこの題奏は、実際には上述の兵部覆奏で示した監察官の派遣反対という基本的立場を変えず、皇帝からの非難に て、実施可能だと思われる内容は上呈して既に裁可を得ており、実施不可だと思われる点は覆奏で説明したと弁明した。 63。皇帝から非難の矛先を向けられた兵部尚書の聶豹は、その罪を詫びて上奏した。聶豹はまず趙文華の上奏につい

ただし、聶豹のこうした弁解はさらに世宗の不満を招いた。世宗がさらに聖旨を下し、聶豹が倭寇対応策を真摯に講 64 東洋史論集四六

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じていないと詰責し、彼に再度の答申を命じている

部各官に罰俸・降格などの処分を下した らの倭寇対応策として「便宜五事」を上奏した。しかしながら世宗はその内容に不満を持ち、結局聶豹を始めとする兵 65。この聖旨を受けて、聶豹は監察官派遣などの問題を避けて、自

分すると叱責したのである 66。さらに世宗は総督張経にも勅諭を下し、再び職務に怠慢があれば厳罰に処

軍事巡察の名目で東南地域へ赴き、彼が「備倭七事」で主張した「祀海神」と「遣視師」を実行した その一方、兵部の反対にもかかわらず、工部右侍郎の趙文華は督察浙直軍務の職責を兼ねて、同年四月に海神祭祀と 67

あったためであった 趙文華は世宗の全面的な信任を得ていた内閣首輔厳嵩と強く結び付いており、彼が東南に派遣されたのも厳嵩の推薦が 68。周知のように、

になるのである。 かったが、世宗の厳嵩・趙文華に対する支持を背景として、胡宗憲はその後、張経に対しさらに厳しい弾劾を行うこと て張経を弾劾するにいたる。嘉靖三十四年一月の段階における胡宗憲による張経への批判は、なお直接的なものではな い立場に追い込まれた。趙文華は嘉靖三十四年四月に松江府に到着したが、同月には張経との対立が表面化し、上奏し 東南派遣から、世宗の張経に対する信任が変化しつつあったことが確認できる。世宗の態度の変化に伴い、張経は厳し このように胡宗憲が張経への批判を開始した直後の嘉靖三十四年二月の段階で、世宗が下した三件の勅諭や趙文華の 69

  胡宗憲と張経弾劾(二) 王江涇大捷以後

前章で検討したように、浙江巡按御史であった胡宗憲は、嘉靖三十四年一月に浙直総督張経の対倭寇戦略が功を奏さず、倭寇の猖獗が止まないことを批判する題奏を行っていた。その後、張経は西南少数民族からなる「狼兵」を動員して倭寇鎮圧を図った。『実録』によれば、東南戦場に投入された狼兵は最初、戦果をあげたものの、四月七日には漕涇で

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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倭寇に大敗して多くの死傷者を出した

され、倭寇が頻繁に浙江方面へ侵入するようになった 70。さらに二十日には、総兵兪大猷の率いる土狼兵が金山衛で倭寇によって壊滅

早為撲滅、以安地方疏」という題奏を行い、巡按御史による参劾権力を強化することを朝廷に要請した このように対倭寇作戦において惨敗が続く中、胡宗憲は四月二十一日ごろに「題為倭賊奔突入境、乞賜厳勅督撫諸臣 71

礼部も日本宣諭案に賛意を示した 察によれば、嘉靖三十三年後半に胡宗憲は日本宣諭案と脇従招撫案の実施を求める題奏を行い、嘉靖三十四年四月には 構想を早くから抱いており、そのことも彼の張経批判の背景にあったと考えられる。第一章第二節で紹介した山崎の考 さらに胡宗憲は、張経が倭寇に対する強硬な武力討伐策を主導していたのに対し、より柔軟な倭寇懐柔策を実施する 趙文華による監察官派遣の提案と同じように、総督張経に対する牽制にあったといえよう。 72。その目的は

線に沿って、同年七月には蒋洲・陳可願が日本に派遣され、倭寇鎮圧を宣諭することになるのである 73。この年には胡宗憲も再び日本宣諭と海商召還の提案を明言しており、この提案の

を実行に移している ら浙江・福建の巡撫と都指揮使司に咨文を送り、さらに浙江布政使・按察使・守巡道などに文書を送致して、派遣計画 た。たとえば同年に、張経失脚後浙直総督となった楊宜が、日本に鄭舜功を派遣した際には、兵部から総督に、総督か 向けた準備を進めつつあった。ただし実際に日本に使節を派遣する際には、浙直総督が主導的な役割を果たす必要があっ このように、嘉靖三十四年初頭から、胡宗憲は総督張経への牽制を図るとともに、日本宣諭案と脇従招撫案の実現に 74

考えられる。 督張経を抑制する必要があり、このことが張経の対倭寇戦略を批判し巡按御史の参劾権の拡大を求めた背景にあったと 75。このため、倭寇懐柔策の実現を模索する胡宗憲としては、専ら強硬な武力討伐策を推進する総

  王江涇大捷以降の掃討作戦をめぐる軋轢

胡宗憲が張経に対する本格的な弾劾を開始したのは、嘉靖三十四年五月初頭に、張経が王江涇において大勝を収めた 東洋史論集四六

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直後からのことであった。『三巡奏議』には、胡宗憲が嘉靖三十四年五月から六月までの間に、張経による倭寇掃討作戦について上奏した五件の題奏を収録している。ただしこれらの題奏は、『世宗実録』では言及されておらず、このため従来の研究では十分に注目されてこなかった。中国では趙連穏・卞利・侯馥中が、これらの題奏を部分的に紹介しているが、それらに全体的な検討を加えたわけではなく、胡宗憲が張経弾劾に関与した動機や背景もあまり論じられていない。本章では上記の五件の題奏を紹介し、その内容に検討を加えることにしたい。ここではまず先行研究に基づき、王江涇の役の経緯を概観しておこう。嘉靖三十四年四月二十六日ごろ、南直隷松江府の柘林に駐屯していた徐海が率いる倭寇集団は浙江嘉興府方面へ移動し、杭州城に向けて侵攻しようとしていた。しかし当時、巡撫李天寵は杭州におり、また総督張経は主力である狼土兵を率いて松江府の華亭にいたため、松江府と杭州府の間にある嘉興府の防衛は手薄な状態になっていた。こうした中で浙江東部を巡察する浙江巡按胡宗憲は嘉興へ赴き、毒酒を用いて倭寇徒党の一部を撃退した。残党は西北部へ撤退したが、嘉興府北部にある王江涇で胡宗憲と工部右侍郎趙文華の待ち伏せを受け、そこに到着した張経が率いる明軍の攻撃によって全滅したのである

した上で、王江涇の勝利を趙文華と胡宗憲の功績に帰し、特に胡宗憲自ら出陣したことを勝利の要因であったと強調し 世宗は李用敬らの意見を受け入れることはなかった。一方、世宗からこの問題を諮問された厳嵩は、張経をさらに非難 ないと主張し、張経がさらに軍事行動を進めた後に、その実績次第で処罰の可否を決めるべきだと提案した。しかし、 文華が張経を逮捕し処罰するという要請に対し、掃討作戦の最中に総督を交代させれば倭寇を追撃する戦機を逸しかね た。このため五月二十日には、朝廷において張経の功過を巡って議論が行われた。そこで兵科給事中の李用敬らは、趙 とになった。ところが前章でも述べたように、王江涇の勝報に先だち、趙文華が張経を弾劾した上奏が朝廷に届いてい 五月一日の王江涇大捷により、張経は倭寇集団に大きな打撃を与え、彼の強硬な倭寇討伐策は大きな成果を収めるこ 76

である。 77。こうした状況下で、胡宗憲は趙文華による弾劾を援護するように、張経による倭寇掃討作戦の失敗を糾弾したの

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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まず五月一日の王江涇の役の直後、胡宗憲は「題為懇乞聖明申勅督撫諸臣、乗勝搗巣永除海患疏」

大軍を集中して松江府の柘林を拠点とする倭寇の残党を一気に掃討することを建議している 天威により「当事諸臣」が倭寇の主力に大きな打撃を与えたと、王江涇での戦果を評価した上で、この大勝に乗じて、 出し、総督張経が倭寇残党を一気に追撃し、殲滅すべきであると主張した。胡宗憲は王江涇役の勝報に対して、皇帝の 78という題奏を提

とも警告している この機会に倭寇集団に決定的な打撃を与えることができず、勢力回復の機会を与えたならば、極めて不忠の行為になる 79。一方で題奏の後半では、

慎重に鎮圧作戦を進める「緩剿」方針を主張していたという 張経は倭寇に対する強硬な武力討伐策を主導していたが、侯馥中によれば、彼は同時に性急に討伐を図るのではなく、 80

が生じていたことが窺われる。 張経の「緩剿」方針とは相容れない意見であり、王江涇の役の直後から、掃討戦略を巡って胡宗憲と張経との間に齟齬 81。胡宗憲が倭寇を一気に殲滅することを主張するのは、

  胡宗憲による張経弾劾

ついで、五月十七日から二十一日にかけて、倭寇は嘉興府の乍浦所を攻撃してさらに南下し、二十二日に海塩県城を包囲した。胡宗憲はこうした緊急事態を受けて、浙江に兵力を集中するよう総督張経に要求したが、張経はそれに応じず狼土兵の一部を南直隷に配置し、その結果浙江地域における対倭寇作戦は頓挫してしまった。これに対し、胡宗憲は五月二十三日から二十八日までの間に「題為督撫重臣玩寇殃民、懇乞聖明厳加究治、以警官邪以安重地疏」

関与したのだと推定しているが 奏を行い、張経を激しく指弾した。侯馥中・卞利は、この題奏を紹介して、胡宗憲は趙文華の指示を受けて張経弾劾に 82という題

五月下旬ごろ、胡宗憲は張経に対し、倭寇に対する掃討戦略について、「兵力を集中し、狼兵は東(南直隷の黄浦)か 降の浙江・江南における対倭寇作戦の経過を、胡宗憲の主張に沿って概観しておきたい。 83、題奏の内容全体には検討を加えていない。以下この題奏によって、王江涇の大勝以 東洋史論集四六

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ら、苗兵は西(浙江の乍浦所)から同時に倭寇を攻撃し、水軍は海上で倭寇を食い止める」ことを提言した。張経はその場にいた趙文華とともに胡宗憲の意見に賛意を示した。その後、倭寇は南直隷の蘇州一帯に姿を現し、さらに南京に侵攻すると揚言した。胡宗憲はそれが倭寇が明軍の兵力を分散させるための計略だと判断し、兵力を集中して倭寇を掃討すべきだと主張した。しかし、南直隷の当局者は南京城の防衛のために総督張経に兵力派遣を強く要請し、張経はそれに応じて、対倭寇作戦の主力であった永順・保靖兵

衛が手薄になっているとして、杭州への兵力増派を張経に要求したが、張経は応じなかった さらに杭州城にも侵攻を図った。この緊急事態に対して、胡宗憲はすべての精兵が蘇州に駐屯しているため杭州城の防 するという戦略は実現しなかった。こうした状況下で、五月十六日には浙江方面の倭寇は乍浦・海塩への攻撃を開始し、 張経が明軍の兵力を分散させたことによって、先に彼が胡宗憲・趙文華と合意した、兵力を集中して倭寇主力を掃討 84を蘇州地域に派遣した。

いう勅諭が東南に届いた 巡按の胡宗憲に浙江地域の文武諸官を監察させるとともに、軍馬・軍費の調達や兵士の訓練などの海防を統率させると だけではなく、両者が連携して彼を批判したことにより、さらに苦境に追い込まれた。さらに五月二十四日には、浙江 胡宗憲はこの題奏によって、張経の対倭寇戦略を公然と批判し、張経は王江涇での功績を趙文華と胡宗憲に奪われた たのである。 経が兵力を分散したために倭寇掃討に失敗し、杭州城が倭寇侵攻の危険に曝されたとして、張経の戦略を激しく批判し 85。最終的に、胡宗憲は張

この勅諭を受けて、当時浙江嘉興府に駐在していた胡宗憲は「題為懇乞天恩酌処監試職務、以便督軍以図補報疏」 86

奏請した一か月後のことであり、彼はこの時点で、蒋洲らの日本派遣の準備を進めつつあったと思われる を要請している。この題奏が行われたのは、胡宗憲が嘉靖三十四年四月ごろに遣使宣諭案と海商召還案の実行を朝廷に という題奏を行い、聖意に応じて浙江地域において海防に従事するため、都察院御史として郷試を監督する職責の免除 87

も彼が郷試監督の免除を要請した理由の一つであろう。 88。このこと

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

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ついで、胡宗憲は五月二十八日以降に「題為海賊侵犯両浙、生民受禍極情、乞賜厳究失事官員以安地方疏」

「題為緊急賊情事」 さらに、嘉靖三十四年六月にいたり、倭寇が杭州の北新関を劫略するという事件が発生した。これを受けて胡宗憲は 領に対しても、名指しで厳しく指弾したのである。 よる不適切な兵力配置がそのもっとも大きな要因である」と非難した。くわえて参将湯克寬を始めとする張経配下の将 上で総督張経の責任問題について、「目下倭寇はより一層猖獗を極め、地方がさらなる被害を被ったのは、当初の総督に の余姚県などの地域を相次いで攻略し、放火・略奪行為を行ったと報告し、倭寇被害の状況の深刻さを指摘した。その 題奏を行い、倭寇が五月十八日から二十七日にかけて浙江嘉興府の海塩県・平湖県・崇徳県・乍浦所・海寧衛と紹興府 89という

ている 90という題奏を行い、この事件に責任がある文武官員を糾弾し、彼らの責任を追究することを主張し

くのである。 いた胡宗憲の主導により、倭寇に対する武力討伐策とともに、日本への使節派遣による宣諭策が並行して進められてい 関劫略事件は、張経が主導してきた倭寇の掃討作戦の限界を示すことになり、張経の失脚後は、厳嵩・趙文華と結びつ には杭州城の救援に赴いたが、同日には倭寇はすでに杭州城北門外の北新関に突入し、劫略を行ったのだという。北新 その後、倭寇が杭州方面に集結するにいたり、ようやく六月二日に張経は土狼兵を統率して浙江嘉興府に到達し、当日 91。胡宗憲によれば、五月下旬に彼が杭州への兵力派遣を要請したにもかかわらず、張経はそれに応じなかった。

以上、本稿では『三巡奏議』所収の胡宗憲の題奏を中心に、『世宗実録』などの関係記事と対照して、胡宗憲と張経弾劾事件との関係について論じ、王直招撫案が展開する直前の東南地域における倭寇対応の実態や、倭寇対策をめぐる胡宗憲と張経との戦略的分岐について検討してきた。従来、嘉靖年間の倭寇対策の転換点であった張経弾劾事件について 東洋史論集四六

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は、『世宗実録』の記述により、厳嵩の腹心であった趙文華が主導し、胡宗憲はそれに随従したとみなされていた。しかし『三巡奏議』所収の題奏からは、胡宗憲が当初から趙文華とともに、張経弾劾に主導的な役割を果たしていたことが確認できる。浙直総督を罷免された張経は、最終的に嘉靖三十四年七月二十五日に京師に械送され、後に処刑された。そして嘉靖三十四年六月には浙江巡按の胡宗憲が浙江巡撫に昇任し、七月には蒋洲・陳可願を日本に派遣して、日本宣諭案・招撫王直案を実行に移すことになる。近年、曹永憲・蔡暻洙はこのような政治的動向を、強硬な倭寇対策を代表する「張経

- 李天寵体制」が終結し、胡宗憲・趙文華の主張する王直招撫を中心とする倭寇懐柔策が進められていく転換点であったと論じている

本宣諭案・招撫王直案の実行を意図し、厳嵩や趙文華と連携して主要な役割を担っていたことを示すものといえる。 92。本稿で検討した『三巡奏議』所収の一連の題奏は、こうした政治過程において、胡宗憲が当初から日

は、拙稿「日本・韓国・欧米における胡宗憲研究の動向」(『九州大学東洋史論集』第四五号、二〇一八年)を参照。 上、る。本・国・ 197598103 16th Century, IV Wo-k’ou and Politics, Michigan State University Press,, pp.-.」(『退 Kwan-wai So, Japanese Piracy in Ming China during the 第一期)、同「従張経之死看嘉靖政局」(『海南大学学報』二〇〇八年第四期) 頁、同「」(頁、中「」( 同「

」(七、社、1は、生「」(五、社、頁、

2は、嵩・趙ってた、

胡宗憲と張経弾劾事件(夏)

(21)

た、ってる。「胡役」(『中集』五、社、頁、利『節「」(社、一〇〇頁、また川勝前掲「徐階と張居正」二五五頁などを参照。

清史研究』)第四四号、二〇一五年) 号、二〇一五年)。曹永憲・蔡暻洙「海商王直興亡徽州네트워크」(「海商王直の興亡と徽州ネットワーク」)(명청사연구』(『明 版、頁。岳「考(

」( 文堂、一九六一年)二〇四~二〇七頁。中島楽章「海商と海賊のあいだ

徽州海商と後期倭寇」(『東インド会社とアジアの海賊』 社、頁。同『貿節「」( 80114 during the 16th Century, IV Wo-k’ou and Politics, pp.-.田中健夫「明人蒋洲の日本宣諭

」( Kwan-wai SoJapanese Piracy in Ming China (下)

涯」(『史学』号、年)3て、る。「嘉

ている。 六世紀明朝の南倭対策と封・貢・市」)(동양사학연구』(『東洋史学研究』第一三五号、二〇一六年)は胡宗憲の貢市構想を指摘し 禁政策の実行とその転換」(『言語・地域文化研究』第一三号、二〇〇七年)、車恵媛「十六세기명조의南倭대책과封・貢・市」(「十4掲「考()」曹・掲「」、子「

四二七、嘉靖三四年一〇月庚寅条)5例えば、「(張)経在江南有功、為趙文華所誣構、天寵亦无罪、胡宗憲力排之而奪其位」のような記録が見られる。(『世宗実録』巻

6胡宗憲「胡少保奏疏」(陳子龍・許孚遠等編『皇明経世文編』巻二六六、国風出版社、一九六四年)

7胡宗憲『三巡奏議』(古典研究会、一九六四年)

に収録)8山根幸夫「三巡奏議解題」(前掲『三巡奏議』所収、のち「三巡奏議と胡宗憲」として、『明清史籍の研究』研文出版、一九八九年 東洋史論集四六

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