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高松次郎ミ

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Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2015] │ 8

高松次郎ミ

会期二〇一四年十二月二日二〇一五年三月一日 会場美術館企画展ギャラリー﹇一階﹈

  東京国立 近代美術館 はア カ

4

ぬけ た 美術館 である ︒ なぜ なら ︑

4

コ レ

ク シ

ョ ン

赤瀬川原

平 の 作品 が 含 まれて い な い から ︒ 冗談 である ︒ ただ ︑ この た び の 回顧展 の 導入 で 言明 さ

れて い る 通 り 以前 から 結 ばれて い た 同館 と 高松次郎 との 浅 からぬ ゆかり と ︑ かつ て 彼 の

盟友 であ っ た 赤瀬川 のコ レ ク シ ョ ン に お け る 不在 とは ︑ どこかで つな が っ ている 気 がす

る ︒ 以下 は ︑ そのよ う な 感触 から 始 まる ごく 素朴 な 感想文 である ︒ 感想 よりも 分析 を 要

請 して 見 える 高松 の 作品 の 数々 は ︑ 一方 でそ うした 素朴 さも また 求 めているよ う に 思 え

るの だ ︒

  さて ︑ 高松 が 美術 に 関心 を 持 ち 始 めたと い う 一九 四 〇 年代末 を 起点 にいわ ゆ る 戦後

文化状況

見渡

してみると ︑ 長 らく

表現者

たちの

切実

なモ チ ー フに な っ て い た の は

﹁ 現実 ﹂ の 二文 字 であ っ た ︒ 五 〇 年代 には ︑ たとえ ば 美術 では ﹁ ルポ ル タ ー ジ ュ 絵画 ﹂ と 呼

ばれた 実践 があ り ︑ 写真 では 土門 拳 の ﹁ リアリ ズ ム 写真

﹂ ︑ 文学 では 安部公房 らの ﹁ ルポ

ルタ ージ ュ 文学

﹂ ︑ 映画 では 松本俊夫 の ﹁ アヴ ァ ン ギ ャ ル ド ・ ドキ ュ メ ン タ リー

﹂ ︑ 実録的

な 漫画 として ﹁ 劇画 ﹂ なる ジ ャ ン ル も 出現 した ︒ 権力 と 権威 の 暴走 の 記憶 も 醒 めや らぬ

この 時期 ︑ 市民 として の ︑ 個人 として の 現実 をできる 限 り 生々 しく 記録 し 形 に 示 す 方法

を ︑ 皆 が 探 って い た ︒

  むろん い つ の 時代 もリ ア リ テ ィ は 表現者 の 最大 の 関心事 に 他 なるま い が ︑ 環境 が 変化

すれば 同時代 で 共有 される 語彙 のニ ュ ア ン ス も ま た 変

わ っ

て く

る ︒ 高度経済成長 を 経 た

大量消費時代 の 名 の 下 に ︑ モ ノ と 代用品 として の ニ セ モ ノ がもろとも 世 にあふれ ︑ 週刊

ジ ャ ー ナ リ ズ ム ︑ そし て 何 より テ レ ビ の 隆盛 と 普及 によ っ て 実体 を 持 たな い ﹁ 情報 ﹂ なる

ものの 膨張 が 目 に 見 えて くると

︑ ﹁ 現実 ﹂ はにわかに 非現実 に 対 する 相対的 な 価値 を 帯 び 始 める ︒

マ ス

メ デ

ィ ア

席巻 が 引 き 起 こす 現実 と 非現実 の 倒錯 を 批判 する ダ ニ エ ル

・ J ・ ブー ア ス テ ィ ン ﹃ 幻影 の 時代

﹄ ︵

一九 六 四 年 邦 訳 ︶ は 言論人 の 必携書 となり ︑ 幻影 ︑ 幻

想 ︑ 虚像 ︑ 虚構 とい っ た キ イ ワ ー ド で ﹁ 現実 ﹂ の 不確 かさ が 盛 んに 議論 された ︒ 時代 は 六

〇 年代半 ばに 差 しか か っ ていた ︒

  こう した 背景 にあ っ て ︑ 高松次郎 がこの 頃 の 美術界 でス タ ー の 座 を 獲得 した のはほと

んど 必然的 な 流 れであ っ た ︒ まさしく 虚実両面 の 概念 を 巧 みに 操 る 作品 ︑ すな わち 影 の

シリ ー ズ こ そ が ︑ 高松 の 評価 を 決定付 ける ことになる ︒ では 彼 の 扱 った 虚実 とは ︑

じ っ

さい 何 であ っ た か ︒

  今回 の 展覧会 のタ イ ト ルに 掲 げられた ﹁ ミステ リ ー ズ ﹂ に 因 んでいえば ︑ 高松 の 作品

は 一種 の ﹁ なぞなぞ ﹂ であ っ た ︒ 白 いキ ャ ン バ ス に 描 けないもの ︑ ナー ンダ ?   答 えは 白

いキ ャ ン バ ス ︒ 人物 がいない 人物画 って ナ ー ン ダ ?   答 えは 人影 だけの 絵 ︒ 手 を 加 えれ

ば 加 えるほど 消 えていくもの ︑ ナー ニ ?   答 えは 木版画 ﹇ 図

1 ﹈ ︑ とい ったふうに ︒ 穴 ︵ あ

るのにないもの

︶ ︑ 鏡 ︵ 見 えるのに 見 えないもの ︶ など ︑ 高松 の 作品 にはなぞなぞにう っ て つ

けの 両極端 の 意味 を 同時 に 持 つボ キ ャ ブ ラ リ ー が し き り に 現 れる ︒ 今回 ︑ 高松 の 作品

に 対 するじ つ に 明晰 な 手引 きとな っ たこ の 企画 で 参照 された 数学 ︑ 物理学 ︑ 論理学 な

どと 同 じく ︑ なぞなぞもまた 元 を 辿 れば 言語 という あ る シ ス テ ム の エ ッ セ ン ス の 抽出 に

他 ならない ︒ けれども ︑ なぞなぞが 背後 のシ ス テ ムよ り も 遊戯 を 前面化 させた 形 である

ように ︑ 高松 の 作品 は 本質 に 至 る 手前 のかりそめのよう な 状態 であることが 多 い ︒ 椅

子 であれ 脚立 であれ テ ー ブ ル であれ ︑ あるいは ヴ ィ ー ナ ス 像 でも 石 でもよい ︒ 物体 とし

て 現 れてくるものはどれも 作品 の 構造 と 内的 に 結 びついてはいない ︒ それらはち ょう

ど 算数 の 問 いにある

A 君 とか ア メ 玉 みたいに ︑ たまたま 選 ばれた 仮 の 事物 に 過 ぎない

のである ︒

  数学 を 通 して 解読 するまでもなく ︑ もともと 彼 の 作品自体 が 数学 をかみく だ い て 視

覚化 した 算数 の 例題 ではなか っ た ろ う か ︒ 芸術 が 辿 りつき 得 る 解 に 向 かうのではなく ︑

いつ ま で も 芸術 を 介 して 例題 をシ ミ ュ レ ー ト し て い る よ う に 思 えるの だ ︒ 白紙還元 ︑ 純

粋 ︑ とい っ た 言葉 を 好 んだ 高松 の 作品 はいかに も 観念的 に 見 える ︒ もしほんとうに ﹁ 白

紙還元 ﹂ が 達成 されたな ら ︑ 作品 はき っ と 味気 ないものに な る だ ろ う ︒ だが 高松 は ︑ 決定

的 なと こ ろ で 照 れ 隠 しの よ う に 観念 として の 厳密 さを 外 してし ま う ︒ 影 のシ リ ー ズで あ

れば ︑ わず か な 例外 を 除 いて 影 が 影 その ものでは な く 影 の 絵

4

である こ とをやめなか っ た

4

のはな ぜ か

︒ ﹁ この 七 つの 文字 ﹂ と 記 すとき ︑ ただ 文字 だけでな く 紙面 にざら つ い た 印刷

高松次郎

の じ

れ っ た さ

成相

(2)

9 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Feb.-Mar. 2015]

跡 があからさまに 残 される のはな ぜなのか ︑ なぜ 版画 として の 手 ざわ り が 保持 される の

か ﹇ 図

2 ﹈ ︒

  高松 の 作品 には あ ま り に 問 いかけ が ︑ 解 かせ よ う と す る 誘導 が ︑ 剥 き 出 しで ある ︒ そ

して ︑ 解 きが た い 問題 と 解答 への 到達可能性 をほ のめ か し な が ら ︑ 物理的 なレ ベ ル で は

決 ま

っ て

作品 の 構造 が 示 す 観念 をうやむや に する ような 不確定 の 知覚的 な 要素 が 加 え

られる ︒ 作品 に 導 かれて 分析 を 続 けてみて 再 び 作品 に 戻 ると ︑ 齟齬 をきたす 要素 が 気

にかかる ︒ 味 わいとい う べ き そ のいわ ば 不純 さにお い て ︑ それは や はりなぞなぞ め い て い

るので あ る ︒ 観念 だけに 飛躍 しな い 高松 は ︑ 自分 で 自分 を 裏切 って は い ま い か ︒ その 思

わせぶり な 思考実験 は ︑ だから ︑ とてもじれ っ た い ︒ 観念的 である こ とと 感傷的 なロ マ

ンティ シ ズ ム と が ︑ 乖離 したま ま 同時 に 提示 されて い る ︒ 観念的 な 手 つきの 傍 らで ︑ 最

終的 なコ ン セ プ ト か ら す れ ば ﹁ 不純 ﹂ である は ずの ︑ 悩 みと 苦悶 の 痕跡 を 示 すメ モ や ド

ロ ー

イ ン

グ が

要請 される ︒

  ぼくは 高松 の 作品 にの め

り 込 むこと が で き ない ︒ そ

こで は ま るで ︑ シス テ ム を

構築

する 技

術 が

作品

にな

ろうとする

そ の 意 志

に 逆

らっ て ︑

工学

でい う と ころ

のア ー テ ィ フ ァ ク ト ︑ 人 の

手 の

介 入 によ っ て

起 こる

エラ ー や ノ イ ズ が 作品 と 呼

ばれて い るように 思 えて な

らな い か ら ︒ アー テ ィ フ ァ

クト も ま た アー ト で あ り 得

る ︒ しかし 高松 が 残 した 言

葉 はい つも ノ イ ズ の ない 理

論構築

に 向 けられ て い た ︒

高松 におけ る 虚実 とは ︑ 当

時注目 されたよ う な 理念上

の 問題提起 ではな く ︑ じつ にス ト レ ー ト な 作品上 の 分断 ではなか っ た ろ う か ︒

  再 び 時代状況 に 目 を 移 すと ︑ 六 〇 年代 の 終 りに 向

か っ

虚実 二 元 論 は 高 まるととも

に 修正 の 気運 も 芽生 えて くる ︒ 分 け 続 ける 限 り 決 して 交 わらな い 虚 と 実 のしがらみを

振 り 切 る 道 は な いものか ︒ ある 者 はぶ っ き らぼうに 生 っぽ い 自然物 を 展示空 間 に 放置

し ︑ またある 者 は 作品 から 極度 に 物質感 を 取 り 去 った ︒

高松

がコ ピ ー 機 を 用 いて

制作

する

機会

を 得 たの は ︑ ちょ う ど そ の 頃 である ︒

無数

オリ ジナ ル ︑ ある い は オ リ ジ ナ ル な き 複製 を 大量 に ︑ そし て 簡易 に 作 り 出 せるこ の 機械

は ︑ 唯一 性 と 物神性 を 備 えた 作品 とい う 概念 から 一気 に 跳躍 できる 可能性 をア ー テ ィ

スト に も た ら し ︑ 同時期 のいわ ゆ る コ ン セ プ チ ュ ア ル ・ アー ト に と っ て 恰好 の 道具 とな っ

た ︒ 七二年 ︑ 高松 はア ル フ ァ ベ ッ ト をタ イ プ し た 紙 をコ ピ ー し て フ ァ イ ル に 入 れた ︽ THE

STORY ︾ を 国際版画展 に 出品 して 物議 をかも す ことになるの だ が ︑ 彼 の 態度 をより 象

徴的 に 示 す 例 は ︑ これ と 同時期 に 制作 されたも う ひ と つ の コ ピ ー ・ アー ト で あ ろ う

︒ ﹁ こ

のゼ ロ ッ ク ス さ れ た 千枚 のうち の こ の 一枚 ﹂ と 書 いた 紙 を 千枚

ゼ ロ

ッ ク

ス す

︑ とい う 作

品 である ︒ つま り 高松 はコ ピ ー 機 を 使用 して なお ︑ 作品 の 唯一 性 を 堅持 しよう と した ︒

﹁ 同 じも のはふ た つ と な い ︑ と 言 いたい 気持 ちが 強 いんで す ﹂ ﹇ 註 ﹈ と 高松 はい う ︒ かけ が

えの ない この

4

印刷物 を 超 えて ︑ 形而上 のア イ デ ィ ア や コ ン セ プ ト を 提示 し 得 るは ずの コ

4

ピ ー 機 は ︑ 制作 の 道具 でなく 敵 とみなされた のである ︒

  そこで 思 い 返 される のは ︑ たとえ ば 赤瀬川原平 が 飄々 と 複製 の 世界 へ 飛 び 込 んでい っ

たこと と の 対比 である ︒ そう い えば 高松 の 芸術家 として の 実質的 なス タ ー ト と な っ た の

は ︑ 点 と 紐 の 作品 であ っ た ︒ いく ら 丸々 と 太 ろうと ︑ いく ら 繋 がれて 伸 びようと ︑ 点 は

﹁ この 点 ﹂ であり 紐 は ﹁ この 紐 ﹂ であり 続 け ︑ むしろ 同一 性 を 強調 していく ︒ 同 じも のはふ

たつ と な い ︑ と 言 いたい 気持 ちが 強 いんで す ︒

  クー ル に し て ロ マ ン テ ィ ッ ク ︑ それは こ れまで 高松 に 対 して 好意的 に 述 べら れ て き た

形容 でもあ っ たろう ︒ ぼくに は ただそれが ︑ じれ っ た い ︒

︵ 東京 ス テ ー シ ョ ン ギ ャ ラ リ ー 学芸員 ︶

寺山修司 ︑ 高松次郎 ︑ 横尾忠則

﹁ ︵

座談会 ︶ 複写時代

仕事

﹂ ﹃

季刊

フィルム

﹄ 第十二号 ︑ 一九七二年

二月

図1 高松次郎《木版の点》1960年 The Estate of Jiro Takamatsu蔵

© The Estate of Jiro Takamatsu, Courtesy of Yumiko Chiba Associates 図2 高松次郎《日本語の文字》1970年

東京国立近代美術館蔵

© The Estate of Jiro Takamatsu, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

参照

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