第298回平成27年4月月例会 ①
大航海時代と戦国日本 2(秀吉編)
二階堂 玲太
1 本能寺の変の後始末
本能寺の変を知ると、毛利と対戦していた秀吉はあの中国大返し を見事に果たし、主君の仇討ちの旗を掲げた。秀吉にとって好都合 な事が次々と起きている。まず、本能寺の変の当日に信長の長男・ 信忠が光秀の軍勢と戦って二条城で戦死したことである。なぜ、本 能寺が襲撃されたら、即座に信忠は京都から脱出して、安土城に向 かわなかったのか。 本能寺の変のとき、信長が「是非に及ばず」と言ったとされてい るが、大久保彦左衛門の『三河物語』では「城介(信忠)の別心(謀 叛)か」問いただしたとされている。信忠は家康や秀吉と共謀して、 信長を封じ込める無血クーデーターを企画したという。まず光秀の 軍団をして本能寺を囲み、信忠が信長と直談判する、承知しなけれ ば首を刎ねる、という段取りであった。この計画が頓挫したのは、 光秀の筆頭家老・斎藤利三の軍団が本能寺を襲撃してしまったから だ。光秀が、京都にいたのは、午前9時から午後2時であると、か の高柳光寿氏は『明智光秀』で考証している。 暁の襲撃は、午前4時に始まり、8時に戦闘を終了した。その4 時間の間に、なぜか光秀は本能寺の側にいなかったという。無血ク ーデーターは失敗したが、それより好都合な事に光秀を首謀者にで きたことだ。秀吉は天下を獲るまでとてつもない苦労をした。 だが、秀吉には諸大名を操る成算があった。だから、秀吉は本能 寺の変のあと片付けをすますと、元足利将軍義昭のいる鞆の津で、 茶の湯の会を催した。床の間には「弘法大師真筆の千文掛軸」と「遠 浦帰帆の図」がかけられていた。いずれも信長が愛好していたもの で、千文掛け軸は島井宗叱が、帰帆の図は神谷宗湛が、本能寺が炎上する前に盗み出したものだ。 これは小説でなく事実で、岡田正人氏『織田信長総合事典』で「島 井家由緒書」が出典だとされている。このとき、弥助と呼ばれた信 長の下僕の黒ん坊の活躍ぶりも『事典』に描かれている。かの黒ん 坊は、宣教師の信長への献上品であり、彼は宗叱と宗湛を本能寺の 近くの南蛮寺まで案内した。 秀吉の前には信長の愛蔵品を盗んだ宗叱と宗湛もいて、彼らの本 能寺からの脱出咄をしながら、茶の湯を愉しんだ。秀吉はまんまと 天下統一して、我ながら自分の手腕を鮮やかさに酩酊していたであ ろうが、次はイエスズ会と南欧勢力が日本征服の牙を剥く事態にな るとも考えていたであろう。
2 キリスト教は東南アジアに向かう
信長が横死して、紆余曲折はあったにしろ、結局一番得をしたの は秀吉であった。そして、信長の思考を受け継いだのも、秀吉であ った。秀吉は黄金の中で桃山時代を狂乱した。それを許した時代背 景があった。全国の鉱山から次々と黄金と銀が湧出したのである。 そして、その収益を秀吉は懐に収め、気前よく散財した。諸大名は その恩恵にあずかった。秀吉と一緒に黄金の中で乱舞した。黄金と 銀、その臭いを日本にかいだのは、宣教師ザビエルであろう。ザビ エルは鉄砲伝来より6年後の天文18年(1549)8月15日、 鹿児島へ上陸した。ザビエルは日本人の武器好みを確認し、信仰の 度合いを測った。 ザビエルのミッションはキリスト教の布教であるが、一方古代キ リスト教の景教の調査もしていたといわれ、日本の銀に食指を動か したともいわれる。 ところで、この頃の西欧のありさまはどうであっただろうか。ロ ーマ法皇が世界を2分割して、スペインとポルトガルに与えた。彼 らの航海術は世界の目を向けさせたのであろうが、大航海時代のも う一つの背景に火器の発達がある。15世紀半ばには、ヨーロッパ 大陸の複数の地域で、大砲を中心とする武器取引がされていた。生産地スウェーデンから起こった「大砲の波」は、死の商人を介して ポルトガルに伝播し、ポルトガルの海外進出に伴い、日本へも伝わ った。日本はヨーロッパが興した「大砲の波」に飲み込まれようと していたのである。 火器の運搬者は死の商人ばかりではなかった。宗教を伝える聖職 者もその片棒をかついだ。 まさに、それはザビエルを始めとする、イエズス会の宣教師たち ではなかったのだろうか。そして、鉄砲伝来ののちただちにと言っ て言いくらいに早い時期で、火縄銃の生産が日本国内で行われたが、 そのことを日本人の模倣力の現れとされるが、それが間違いでない にしろ、西欧にはもはや小銃への感心は少なくなっていたとした方 がはるかに真実に近いだろう。西欧では、火器の主役は大砲に移っ ていたのである。だから、彼らは「武器移転」を考えた。火縄銃は 製品を売るだけでなく、その生産システムを含んで日本に移転しよ うとした。その目的は、西欧による明国征服であったに違いない。 そのためには日本を軍事基地とすべきであろう。 一方、イエズス会の大きな目的はキリスト教の東洋への伝播であ った。ありていに言えば、東南アジアのイスラム教を追い払い、キ リスト教圏に変えてしまうことだ。 信長の継承者、秀吉の前に現れてくる世界はそのようなものであ った。スペインやポルトガルが日本征服を企てという箱庭的なこと でなく、秀吉の前には世界が立ちはだかっていた。まず、秀吉は死 にものぐるいになって、天下統一しなければならない。諸侯が勝手 なことをしていては、早晩日本は滅びるであろう。秀吉は日本の頂 点に立とうとした。秀吉の新しい戦いが始まった。
3 キリスト教徒の防波堤にならない諸大名の軍事力
イエズス会と諸大名たちを結びつけたのは、キリスト教ではなく 貿易、鉄砲・硝石の入手であった。イエズス会は、霊父制度で諸大 名に臨んだ。つまり、大名を霊父として信者にすれば、子である家 臣や領民がキリスト教に帰依することを狙ったのである。それに、大名の軍事力を利用して、キリスト教徒を保護できるだろう。軍事 力のある大名には火器を提供すれば良い。種子島よりも大砲を提供 しようと、イエズス会ははかり、ターゲットとしたのは東南アジア 交易圏の貿易で大もうけをしている大友宗麟であった。 宗麟の海外での外交的知名度は高く、元亀元年(1570)に来 日した、オルガンチーノ、カプラルも彼の活躍を知っていた。靖国 神社には宗麟の大砲「国崩し」(西洋の軍神)が展示されているが、 宗麟はイエズス会から大砲を貰って、長年の敵である島津家を滅ぼ すことが出来ると考えたに違いない。九州にはキリスト教嫌いで、 「固法華」と呼ばれた加藤清正もいるが、まずは日向をキリスト教 国にしようという宣教師と宗麟の目論見は一致していた。ポルトガ ルの貿易商人アルメイダがイエズス会に入会し多額の寄付をした。 これを資金にした生糸貿易の利益などで島津攻めをする軍資金は潤 沢のはずであった。 宗麟がキリスト教に改宗した天正6年(1578)に、宗麟は日 向攻めを敢行した。宣教師が軍事顧問となって参戦し、十字(クルス) の旗の下に大友軍は進軍した。これは、日本を武力攻略に使用する 試みでもあったろう。宣教師に指導された大友軍三万五千は、島津 義久の軍勢と遭遇戦をしたが、大友軍は耳川で氷のような川の冷た さと強風にあおられ、次々と島津軍に首を狩られた。大友・島津両 軍の犠牲者は四万。宮崎県児湯郡町宗麟原に大友軍二万余の霊が、 今も宗麟を恨み続けているという。 この敗北に宣教師も失望した。宗麟の軍隊は見かけ倒しであった。 とうてい信者を守ることはできない。 天正元年(1573)から計画していた長崎の要塞化を急がねば ならない。耳川の戦いの翌年、ヴァリニヤーノが島原口之津に到着 した。彼は有馬晴信に洗礼を施し、龍造寺氏から圧迫されている有 馬氏に軍事援助をした。沖田畷では晴信に味方したイエズス会は、 海上の軍船から大砲を打ち込み、龍造寺隆信を戦死させた。大村純 忠にも資金援助をしたが、彼らは軍事力でキリスト教徒を守ること は出来ない。むしろ、イエズス会が彼らを守ろうとしている。これ は本末転倒であった。宣教師達はキリスト教徒を守れる要塞を造ら
ねばならない。この時、都合良く大村純忠が長崎の地をイエスズ会 に寄進したのである。 その土地はのちに「教会領長崎」と呼ばれた。ヴァイリニャーノ は信長に取り入り、馬揃えにも参列した。信長は元亀2年(157 1)に比叡山を焼き討ちしているから、ヴァイリニャーノは信長を 反仏教とし、キリスト教を保護してくれる大名だと宣伝している。 しかし信長は宗教を否定していない。宗教勢力の武装を解除しただ けであった。信長が宿泊した僧院、本能寺は法華宗であった。こう いう意見に反対して、立花京子氏は『信長と十字架』で、比叡山な どの信長の寺社攻撃はイエズス会の布教と連動した仏教弾圧だとし ている。さらに、弾圧の資金をイエズス会が援助して寺社破壊を奨 励したとまで踏み込んだ。 確かに、信長はキリスト教に寛容であった。宣教師たちも信長に 好意で応えた。本願寺攻めのとき、毛利の軍船と戦った、信長の鉄 の船の建造も西欧勢力の技術援助があった。イエズス会の宣教師は 信長に、全国制覇をし、明国を討つことを示唆した。信長は宣教師 が日本に来航するまでの航海のことを訊いた。彼らの船の多くはマ ドリードのベレンから旅立った。航海では多くのクルーが亡くなっ た。信長はポルトガルが日本を攻める軍勢を送るのはほとんど不可 能だと踏んだ。今ではベレンは世界遺産になり、大航海時代の巨富 を手に入れたモニュメントとなっている。だが、船舶の築造のため に木材を切り出し、後世にはげ山を残した。そして、多くの人材が 海の外に出たため、大航海時代の終焉が来ると国の発展の障害にな ったという。ポルトガルの巨富も代償を求められたのだ。 西洋の臭いを宣教師達から嗅いだ信長はこの時期、西洋の恐ろし さに向き合う段階でなかったとされる。 そうだろうか。ヴァイリニャーノが信長に謁見した天正9年(1 581)は、1493年のデマルカシオンの規定(異教世界二分割 征服論)から87年が経ている。既発見地はもちろん将来の未発見 地も含んで、地球世界をスペインとポルトガルの間で、2分割して 領有するとし、それを植民地化とすることも原住民を奴隷にするこ ともローマ教皇アレキサンデル6世が許容したものである。日本も
中国も翌1494年、ポルトガルとスペインの間で締結されたトル デシーリャス条約(のちに教皇により承認された)によりポルトガ ルの領有と規定された。 1492年、スペインによりイベリア半島の最後のイスラム教の 都市グラナダが陥落し、イスラム教徒はヨーロッパから完全に追い 出された。この年、コロンブスが黄金の国ジバングをめざし、中南 米のイスパニョーラ島(現在のハイチのある島)に着いた。150 0年代になると、ローマ教皇の許可を得た、スペインのキリスト教 徒は中南米(当時は多くの王国があった)で暴虐の限りを尽くした。 彼らは、40年間の間に男女、子供を合わせて1200万人(15 00万人とも)の命を奪った。多くの小さな王国が地上から消えた。 ラス・カサスは『インデイアスの破壊についての簡潔な報告』(岩 波文庫)で放たれたキリスト教徒の悪行を告発した。その本の中に ある版画は、スペインの宣教師により、インデイアスが首つり、焼 き殺され、奴隷として売られた姿で埋められている。 中南米の鉱山は西欧に大量の金銀をもたらしたが、マヤやインカ やアラスカ文明は滅亡した。 信長の耳にはそういう風聞が届かなかったのだろうか。西洋の軍 勢はポルトガルからくるにしても、多くの中継点があった。インド のゴアでは奴隷の日本人武士が要塞を守っていた。すでにフィリッ ピンはスペインの版図になろうとしていた。大村純忠が提供した土 地は「教会領長崎」と呼ばれ、要塞化された。それは信者を守るた めという初期の目的から逸脱して、軍事基地にしようとする勢力が でてきた。 信長が本能寺に横死し、秀吉が天下を獲ると宣教師は秀吉に明国 を攻めることを勧める。信長がイエズス会と南欧勢力から黄金を受 け取ったように、今度はその黄金は秀吉に流れ込んだ。一時、秀吉 とイエズス会は蜜月の時代があったが、イエズス会の宣教師の構成 がポルトガル人から征服主義のスペイン人が牛耳ると、軍事的色彩 が強く押し出された。この頃の日本イエズス会は、スペイン人、ポ ルトガル人、イタリア人から構成されていた。教会領長崎を軍事要 塞化し、フィリッピンからの軍隊派遣を要請した、バテレンの「日
本征服軍事計画」が始動せんとしていたのである。それは、秀吉を 頂点とする日本対[イエズス会と西欧勢力]の戦いであった。
4秀吉の怒り、世間の嘲笑
信長・秀吉の時代は安土桃山時代と呼ばれるが、秀吉の桃山時代 は天正10年(1582)の本能寺の変から慶長3年(1598) 伏見に没するまでの17年である。秀吉47歳から63歳までであ った。秀吉は、本能寺の変ののちの政治闘争に勝利し、驥足を九州 に伸ばし、さらに転じて関東の小田原北条を滅ぼし、東北へ進軍し、 日本全国を平定し、日本の頂点に立った。群雄が割拠していた信長 の時代と様相を異にした。秀吉は公儀になったのである。イエズス 会が秀吉に歯向かうことは日本と戦争をすることだということを考 えねばならなくなった。 その時代は絢爛豪華な黄金の時代であった。その土台となったの は、鉱山術の発達と諸国からの金銀の湧出であり、海外貿易であっ た。そして、秀吉の性格は、黄金乱舞の時代と良く似合った。秀吉 は宴会をし、茶の湯を催し、大判の金配りをし、醍醐の花見と、散 財し続け、諸大名は秀吉のもとで踊り恭順の意を示した。だが、世 間は秀吉の黄金は誰が継のかに関心を持った。 秀吉は秀頼のため甥の関白秀次を切腹させたといわれる。その狂 気に世間はたじろぎ、秀頼は確かに淀殿の子であるが、秀吉のタネ ではないと吹聴した。下世話の咄にあっているし、いくら黄金を積 んだとて秀吉が亡くなれば霞のように消えてしまうのだ。哀れの秀 吉よ、と揶揄し嘲笑した。秀吉はこの世に現れた一時の幻に過ぎな かった。 秀吉の無謀といわれる朝鮮出兵は、戦争のなくなった国内の兵力 を異国の地に消耗させ、有力武将達の墓場にするためでもあった。 少なくとも朝鮮出兵が成功すれば、先手を打って、秀頼に害をなす 者は朝鮮へ追い払えば良いし、天皇を遷座することもできる。それ は平清盛もやった、明治維新でも西軍がやった。 一方、イエズス会の秀吉への対応は非常にブレている。彼ら信長に明国征服を勧め、秀吉にも同じ事を画策したのだが、信長と秀吉 の権力の相違にたじろいだ。秀吉は信長を凌駕し、日本の王となっ ていたのだ。 イエズス会も大きく変貌をしていた。イエズス会は修道会からの 「マモン(富、財宝、強欲の化身)に仕えている」と非難が高まっ ていた。彼らの豪奢な生活は信仰者のすることではないのである。 イエズス会のコエリヨは秀吉と大坂城であい明国侵攻を勧めた。 だが、イエズス会総長は、日本イエスズ会による生糸貿易に関与す ることを禁止した。これにより、長崎とマカオの南蛮貿易拠点は失 われた。ゴア→マラッカ→マカオ→長崎の補給路、兵站線も絶たれ、 コエニョは、フイリッピンのイエズス会布教長に派兵要請するが成 功しなかった。 コエニヨは、明国遠征を取り下げ、こんどは秀吉に朝鮮侵攻を勧 めた。朝鮮渡海にポルトガル船を2隻博多に用意することを約束し た。この時、コエニヨは九州のキリシタン大名たちを糾合させ秀吉 に味方させると請け負った。そのコエニュの言葉は、秀吉に疑惑を 生じさせた。確かに九州はキリスト教が根を張っていた。秀吉はキ リシタン大名達をなんとかしなければならない。そうでなければ、 王国が二つできてしまう。 軍服でコエリヨは博多に軍船を約束通り運んできたが、沖合に停 泊したままであった。博多は浅い海で接岸できないということだっ た。秀吉はその軍船を使用することを放棄した。操船が難しいとい う理由で。2人の間にどのような激論があったのだろうか。 天正15年、突然、秀吉は宣教師追放令(宣教師の20日以内の 退去)を発し、キリスト教入信の強制と日本人奴隷の売買を禁止し た。 奴隷の売買では庶民から怨嗟の声があがっていた。キリシタン大 名たちは、1樽の硝石を得るために日本人女性50人と引き換えて いたのだ。その火薬の原料硝石はマカオからくるのだが、遡れば南 米チリの鉱山から産出されたものだ。天正8年(1580)頃から、 スペイン・ポルトガルの国王セバスチャン二世によって開発された 鉱山だが、そこで酷使される奴隷はインデオたちであった。
ローマ教皇が許した地球二分割は、強欲なキリスト教徒により、 チリと日本を結びつけた。硝石のために生産地と消費地とは、悪の 循環に組み込まれてしまった。コエリヨは、秀吉の宣教師追放令に 対抗して、武力抵抗をしようとした。彼は、再びフィリッピン、マ ニラのスペイン兵派兵を要請した。それに対し、秀吉は教会領長崎 を没収して対抗した。秀吉とコエリヨの軍事衝突は目前に迫った。 天正18年(1590)ヴァリニャーノが日本に再来した。加津 佐では「第二回日本イエズス会全体協議会」が開催された。議題は、 宣教師追放令に対抗して、日本を武力征服すべきかどうかであった。 彼が日本に上陸する2ヶ月前に好戦的なコエリヨは加津佐で急死し た。 翌年、ヴァリニャーノは秀吉に謁見し、秀吉は朝鮮出兵(文禄の 役)を命じた。 慶長2年(1597)、ヴァリニャーノは、イエズス会ローマ本部 より日本に軍事介入を厳禁するという指令を受けるが、現存する同 年のアントニオ・ロペスの書簡には次の通りであるという。 「国王陛下(フェリペ2世)の力で日本に要塞を築くべきである。 このようにしてキリスト教会を存続させるべきである。何故なら征 服事業以外に日本にキリスト教を前進させる手段は無いからであ る」 宣教師による日本征服は、きわどいところで回避されたのである。
5 世界貿易システムから見捨てられた日本
黄金の国ジバングのことがヨーロッパに知られると、コロンブス がジバングを探索したし、石見銀山の銀の産出を知ったザビエルは 王直の和寇船で日本に向かった。ザビエルの使命は日本の鉱山資源 の探索とキリスト教の布教とセットになっていたし、東南アジアで はイスラム教徒を追い払うことであった。 秀吉が宣教師を追い払い、その路線を家康が継いだ。そして、日 本は鎖国したといわれる。だが、鎖国は宗教がらみのことばかりが 理由ではない。ヴァリニャーノは、日本の貿易をどのように見ていたであろうか。 「ポルトガル人たちはもう長い間、港を開いてきている。そしてこ れにより日本貿易が支えられている」といい、「日本には買うべき商 品がなく、ポルトガル人はそこから銀を持ってくるにすぎない。ペ ルーでは多大な儲けが得られる」 中南米で銀が大規模に産出されるようになって、もはや、世界が 日本の銀を必要としなくなったのだ。端的に言えば、日本は秀吉の 時代に鉱物資源を巡る世界との競争に敗れたとも言えるのだ。 従来のように、鎖国の原因として、宗教政策ばかりを強調すると、 世界の中の日本が見えづらくなってしまうであろう。それは、家康 編の「鎖国」問題の一つのテーマになるだろう。 以上