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图书在版编目(CIP)数据 日语教学与日本研究:中国日语教学研究会江苏分会2017—2018年合刊 / 彭曦主编.—上海:华东理工大学出版社,2018.10 ISBN978 7 5628 5598 9 Ⅰ.①日 Ⅱ.①彭 Ⅲ.①日语 教学研究 文集 ②日本 研究 文集 Ⅳ.①H369 53 ②K313.07 53 中国版本图书馆 CIP数据核字(2018)第222670号 项目统筹/ 朴美玲 责任编辑/ 朴美玲 周璐蓉 装帧设计/ 戚亮轩 出版发行/ 华东理工大学出版社有限公司 地址:上海市梅陇路130号,200237 电话:021 64250306 网址:www.ecustpress.cn 邮箱:zongbianban@ecustpress.cn 印 刷 / 江苏凤凰数码印务有限公司 开 本 /890mm×1240mm 1/32 印 张 /6.75 字 数 /199千字 版 次 /2018年10月第1版 印 次 /2018年10月第1次 定 价 /78.00元 版权所有 侵权必究
目
录
特别演讲
没後100年の夏目漱石 細谷博(2) 文法教育と日本語教育 坂本正(10)文学
私論新古今和歌集の表現技巧を読み解く 八幡啓(26) 目取真俊水滴の空間論 楊洪俊(39)语言、教学
外来要素による語根創成の類型的研究 王健宜(52) 试论初级日语听力教学中的词汇教学 李 斌(67) 中国人学習者における授受表現の誤用について 田 静 施 晖(76) 話者交替におけるあいづちの機能 日中対照分析を通して 熊紅芝(91) 学術論文における因果関係を表す接続表現 ため(に)の使用実態 周 瓴(106) 关于日语教师动机策略使用特征的定性研究 朱 敏 张 勇(119) 1 文化
只做畅销书 幻冬舍创始人见城彻的编辑出版理念 汪丽影(132) 日本兼六园的语言景观调查及分析 吴丽霞 董娟娟(141) 京都学派与广松涉的“超越近代”论 彭 曦(152)研究生论坛
室町時代の茶の湯における和漢融合の発生 村田珠光を中心に 劉 翠(168) 外的関係連体修飾節におけるというの介入情況 寺村秀夫による感覚の名詞 姿を中心に 張童心(179) 生态语言学视角下的日语惯用句误用研究 李维佳(195)动态信息
第五届“卡西欧杯”配音比赛 (206) 2017年会暨日本语言文化研讨会 (206) 江苏省首届日语专业大学生才艺大赛决赛 (207) 第六届“卡西欧新世界杯”江苏省高校日语配音大赛 (208) 第三届“舜禹杯”日语翻译(笔译)竞赛 (209) 2 日语教学与日本研究没後
100年の夏目漱石
∗細谷博
夏目漱石 は1867年(慶 応3年)2月9日 (旧 暦1月5日)に 生 ま れ、 1916年(大正5年)12月9日 に 満49歳 で 没 し ま し た。 従 って、 今 年 2016年はちょうど漱石没後百年に当たるわけです。 この機会に、 再び漱石の作 家 と し て の あ り 方 と そ の 作 品 の 意 味 を 考 え る こ と は、 近代·現代を 生 き る 我 々 自 身 の あ り 方 を も 考 え る こ と に な る と思います。 夏目 漱 石 は、1867年、 す な わ ち 明治維新 の 前年 の 生 ま れ の た め、 満年齢が明治と 同 年 と な り ま す。 つ ま り、 漱石 は 明 治 と 同 じ 年の作家なのです。 また、 その生 涯 に は 三 つ の 大 き な 終 り と 始 ま りとがありました。 それは、 次の三つです。 (1)江戸の終りと明治の始まり 1868年(漱石1歳) (2)19世紀の終りと20世紀の始まり 1901年(漱石34歳) 英国留学中。 同時に ビ ク ト リ ア 女 王 没 に よ りVictorian eraも終る。 (3)明治の終りと大正の始まり 1912年(漱石45歳) まさに、 漱石は身を も って 明治 を生 き、 明治の 最 後 を 見 と ど け て去った人なのだといえるでしょう。 2 日语教学与日本研究 * 编者注:此文为南山大学 文 学 部 教 授 细 谷 博2016年11月12日 在 南 京 林 业 大 学 举 行 的 “中国日语教学研究会江苏分会2016年会暨日本语言文化研讨会”上的主旨发言稿.明治の45年間には、 日清戦争①(1894 1895年)と日露戦争(1904 1905年)があり、 さらに大正に入って、 こころを朝日新聞に連載 中の1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発しました。 これは、 こころ連載中には終 ら ず、 4年後の1918年まで続き、 近代初の 総力戦としてヨーロッパに 大 き な 被 害 と衝 撃 と を 与 え ま し た。 そ の第一次世界大戦の戦時下に漱石は胃病 が 悪 化 し て 死ん だ わ け で す。 漱石の亡くなった翌年には、 ロシア革命が起こりました。 漱石の作 家 と し て の 出 発 は、1905年(明治38年)の吾輩は猫で あるや倫敦塔に見ることができます。 その後、 1906年の坊っ ちゃんと草枕を経て、 1907年(明治40年)には、 漱石は第一高等 学校と帝国大学(東大)の教員を辞して、 朝日新聞の社員、 つまり 専属の作家となりました。 すなわち、 こ の1907年(明治40年)から1916年(大正5年)までの 満10年間が、 漱石のプロの作家であった期間であり、 その間に漱 石は10本の長編小説を書いたのです。 10年間に10本、 これも漱石 の履歴の分かりやすい点ですが、 それ は い か に も 短く 慌 た だ し い 期間であり、 ぶり返す精神の不安定と 病苦 と に 苦 しめ ら れ た 辛 い 時期でもあったのです。 漱石の作品は20世紀に書かれたものであり、 また、 平岡敏夫氏 が指摘しているように、 日露戦 争 後 の 文 学 で あ る と も い え ま す。 ここで は ま ず、 そ の10本 の 長編中最 も 多 く の 読者 を 持 って い る こころについて考えてみましょう。 こころ(1914年)という小説は、 私という人間の一人称の語 りによって で き て お り(上中と下では異なる私が語り手 となります)、 その語り手による回顧によってある人物(先生)の姿 があらわれてくるという構造で す。 こ ん な 説明 を する と 何 や ら 難 しそうに聞こえますが、 読んで み れ ば、 文 章 は 平 明 で 分 か り や す く、 しかも先生という人が謎めいて見え、 興味をかきたてられ ます。 漱石は、 吾輩は猫であるの中でも探偵が嫌いだと述べ 3 特别演讲 ① 编者注:中国称之为“甲午战争”.
ているのですが、 実際 に は、 人 の 心 を 理解 し よ う と し て 推 理 し、 読者を引き付けようとして探偵小説仕立 て の 書 き 方 もし て い る わ けです。 さて、 そんなこころの中でさらに気になる言葉があります。 それは明治の精神という言葉です。 こころの本文を読んでみ ましょう。 すると夏の暑い盛りに明 治 天 皇 が 崩 御(ほうぎょ)にな りました。そのとき 私 は 明 治 の 精 神 が 天皇 に 始 ま って 天 皇に終ったような気 が し ま し た。最 も 強 く 明治 の 影 響 を 受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっ きょう)時勢遅れだと い う 感 じ が 烈 し く 私 の 胸 を 打 ち ま した。私は明白(あから)さまに妻にそういいました。妻 は笑って取り合 い ま せ ん で し た が、何 を 思 った も の か、 突然私に、では殉死(じゅんし)でもしたらよかろうと調 戯(からか)いました。(下五十六) こうして唐突にあらわれた明治の精神という語には、 一言で は言えないさまざまなものが含ま れ て い ると 思 わ れ ま す。 そ れ を あえて、 やや乱暴に整理して考えてみたいと思います。 そこには、 まず江戸期から続いて生 き て き た 人 々の 心 に 保 た れ ているはずの伝統的な精神のあ り か た、 い わ ば旧道徳というべ きものがある で し ょう。 し か し、 明 治 維 新 に よ って、 日 本 は 変 わ らざる を え な か った わ け で す。 社 会 の シ ス テ ム か ら 日 常 生 活 ま で、 さらには、 心のあり方までが 西 洋 文 明 の 大 き な 影 響 を 受 け ま した。 そこで得られ た も の が、 近 代 的 な 西 洋 の 思 想 で あ り、 特 に 個人主義というものだった の だ と 考 え るこ と が で き ま す。 す な わ ち、 明治を生きた人々の中で、 特 に 知 識 人 た ち の 心 の あ り か た に おいては、 旧道徳と近代思想や個人主義がせめぎあってい たのだと見ることができるでしょう。 つまり、 こころの先生という明治を身をもって生きたと感 4 日语教学与日本研究
じている人の裡にある明治の精神とは、 それまでの日本の精神 と西洋の精神とのせめぎあ い、 葛 藤 に よ って 培 わ れて き た も の で あるということができると思います。 自由と独立と己れとに充(み)ちた現代に生れた我々 は、その犠牲としてみんなこの淋 し み を 味 わ わ な く て は ならないでしょう(上十五) こころの先生 は、 若 い 私 に 向 か って こ ん な 言 葉 を 発 し ま す。 大変印象的な言葉です。 それは、 新しい西洋の近代 思 想 に よ って 得 た自由や独立や 己れというすばらしいものが、 同時にまた我々を苦しめるもの ともなっているのだ、 と い う 感 じ 方を あ ら わ し て い ま す。 そ の 奥 には、 漱 石 自 身 の、 近 代 の 日 本 に 対 す る 考 え 方 が 見 て 取 れ る で しょう。 漱石は、 その講演現代日本 の 開化(1911年)に於いて、 西洋 の開化は内発的で、 花が開くようにおのずから蕾(つぼみ)が 破れて花 弁 が 外 に 向 うも の で あ る の に 対 し て、 現 代 日 本 の 開 化はあくまで西洋の急激な影響による外発的なもので、 外か らおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのだと述 べています。 我々 の 開 化 の 一 部 分、あ る い は 大 部 分 は い く ら 己 惚 (うぬぼ)れてみても上滑(うわすべ)りと評するより致し 方がない。しかしそれが悪い から お 止(よ)しなさいと云 うのではない。事実や む を え な い、涙 を 呑 ん で 上 滑 り に 滑って行かなけれ ばな ら な い と 云 う の です。(現代日本 の開化) ここに は 漱 石 の ペ シ ミ ズ ム(悲観主義)が 滲 ん で い ま す。 そ れ は、 決して楽観 的 で な い、 暗 く、 重 い 言 葉 で す。 し か し、 な お か 5 特别演讲
つ、 それには深い 共 感 を 与 え る よ う な も の が あ り、 共 に こ の近 代という時代を生きているのだ、 という手ごたえや魅力も感じ られる言葉とも見えるのです。 こころの一つ前の作品行人(1913年)にはこんな不安な心理 も語られています。 ただ不安なの で す。し た が って じ っと し て い ら れ な い のです。兄さんは落ちついて寝て い ら れ な い か ら 起 き る と云います。起きると、た だ 起 き て い ら れ な い か ら 歩 く と云います。歩くとただ歩い てい ら れ な い か ら 走(か)け ると云います。すで に 走 け 出 し た 以 上、ど こ ま で 行 って も止まれないと云います。止まれ な い ば か り な ら 好 い が 刻一刻と 速 力 を 増 し て 行 か な け れ ば な ら な い と 云 い ま す。その極端を想像す る と 恐 ろ し い と 云 い ま す。冷 汗 が 出るように恐ろしいと云いま す。怖 く て 怖 く て た ま ら な いと云います。(塵労三十一) さらに、 この兄さん=一郎は、 死ぬか、 気が違うか、 それで なければ宗教に 入 る か。 僕 の 前 途 に は こ の 三 つ の も の し か な い と語ります。 そ れ は、 柄 谷 行 人 氏 等 が 指 摘 し た よ う に、 死は こころの先生の自殺へ、 狂気は行人の一郎の状態へ、 そし て、 宗教は門の宗助の参禅へ、 と各々を作中の人物の動きへ とつなげて考えることもできるでしょう。 こうした漱石の言葉を読んでく る と、 ひ と こ ろ 考え ら れ て い た 文豪漱石というイメージから、 暗い漱石というイメージが、 この間の第二次世界大戦を挟んであらわ れ て き た こ とに も 納 得 が いくと思います。 いわば、 漱石山 脈 と 呼 ば れ た 漱 石 の 弟 子 達 が も たらした文豪漱石に対して、 川端康成ら昭和作家達は反発しま した。 さらに、 中野重治はその作中で漱石って奴は暗い奴だった んだ。 (小説の描け小説家(1936年1月))と述べ、 矢崎弾や中村 光夫、 そして戦後世代の批評家江 藤淳 は暗い漱石を追求しまし 6 日语教学与日本研究
た。 そこには、 まさに漱石像の変遷があります。 漱石という人は お そ ろ し く 孤独 な 人 間 だ った が、漱 石 の作品は不思議と読者を孤独 に し な い。こ れ は ど う い う ことだろうかと、私はこのごろ思うようになった。(江藤 淳現代と漱石と私冒頭) こうした暗い漱石の像、 その深く、 不安な、 しかも同時にど こかふかぶ か と し て、 た め 息 の 漏 れ る よ う な 懐 か し い イ メ ー ジ に、 私も強く引かれてきました。 その上で、 しかし今、 私はさら に 漱 石 作 品 の 読 解 の 可 能 性 を ひ ろげ、 価値を深めるようなあら た な イメ ー ジ と し て滑稽な漱石 に注目し た い と 思 って い ま す。 そ れ は、 文豪漱石か ら暗 い 漱 石を経た 後 で 見出 さ れ る べ き も の と し て の、 滑稽 で 身 近 な 漱 石であり、 かつまた痛切な隣人漱石というイメージです。 1914年に47歳でこころを書いた漱石は、 翌1915年には48歳で こころとは全く異なる道草を書きました。 それは、 いわば約 10年前の吾輩は猫であるを書くに至った頃の自分を書いた自伝 的小説といわれるものです。 そ こ で は、 漱 石 自 身 に 当 た る 主 人 公 健三だけでなく、 その妻のお住も い きい き と し た 人間 と し て 如 実 に描かれています。 そ し て、 つ づ く 死 の 年、 満49歳の漱石が書こ うとし て い た の が明暗で す。 私 は こ の 最後 の 二作品道草と 明暗とが、 漱石文学の最重要な小説ではないかと考えているの です。 明暗は、 新聞小説作家·漱石 の 最後 の 長編 で あ り、 技巧的 に も題材 的 に も、 い か に も 英 国 文 学 の よ き 読 者 で あ った 漱 石 ら し い、 ユーモアと皮肉に満ちたす ぐ れ た人間観察 に よる 小 説 ら し い 小説だといえます。 その身近 な 人間関係 の 細部 に まで わ た る 描 写 がリアリティをもたらし、 ど こに で も 居 る よ う な 典型 的 と も い え る人物が、 各々対称的(シンメトリカル)に配置され、 日々の言動 が辛辣な 語 り に よ って 炙 り 出 さ れ、 読 み 手 の 笑 い を 誘 って い ま 7 特别演讲
す。 その〈凡常の人間〉達 の 駆 け 引 き や 愚 行 の 中 か ら、 我 々 自 身 の〈生〉の切実な動きとかたちが見えてくるのです。 私は、 従来、 漱石の遺 作 と し て、 と も す れ ば 重 く 読 ま れ て き た 明暗を、 あらたな読み取りによって解放し、 何よりよくできた 面白い小説として、 〈人間喜劇〉造 形 の 力 技 を 見 せ て く れ る も の として意 味 づ け た い と 思 って い ま す。 そ れ は 同 時 に、 我 々 自 身 の〈読み〉の力、 すなわち人間理解 の 力 を 試 さ れ る こ と に も な る のだ、 と考えます。 そこには、 初期の吾輩は猫であるや坊っちゃんの明るく、 また苦みも含んだ滑稽に通じるものもあります。 三十八、 九歳のときの猫や坊っちゃんで近代日本人の典型 像(伊藤整)の描出を果たした漱石は、 さらに10年後に道草を 書いて、 猫や坊っちゃん執筆時の自分と妻を徹底して対象化 しました。 そして、 最後 の明暗で、 みごとに凡常の人間典型の 描出と滑稽かつ切実な人間理解 の 可能性 を示 し た の だ、 と 私 は 考 えます。 このように初期作品の猫や坊っちゃんと最後の道草と明 暗をつなげて読むこ と は、 作家漱石 の 奥行 き と、 漱石文学 の 可 能性とを同時にひろげることになるのではないかと思います。 東洋の片 隅 に 生 き る 我 々 は、 大 き な 世 界 と 時 代 の う ね り の 中 で、 依然として上滑りの 開化を涙 を 呑 ん で 上滑 り に 滑 って 行 かなければなら な いのだという苦い思いとともに、 しかしそう した時代の現実自体 を、 文 学 と い う 言 葉 の 表 現 に よ って、 あ ら た めて深い共感とともに受けとめな お す こ とが で き る の で す。 す な わち、 滑稽で身近な漱石と痛切な隣人漱石との二つの像を同 時に読み取ろうとすることは、 我 々 自 身 の 精 神 に も、 あ る 奥 行 き とひろがりとを見出すことへとつながる の で は な い かと 考 え て い るのです。 8 日语教学与日本研究
作者简介 姓名:細谷博(ほそや ひろし) 职称:名誉教授 工作单位:南山大学 研究方向:日本文学 9 特别演讲
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