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福島原発事故の危機管理を考える(ノート) 利用統計を見る

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(1)

著者

松浦 茂樹

著者別名

MATSUURA Shigeki

雑誌名

国際地域学研究

16

ページ

179-204

発行年

2013-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00004409/

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はじめに

2011 年 3 月 11 日午後 2 時 46 分、マグニチュード(M)9.0 の東北地方太平洋沖地震が発生した。 この地震による激しい揺れ、大津波、液状化などにより大被害がもたらされたが、東京電力福島 第一原子力発電所(以下、第一原発)でも炉心溶融(メルトダウン)などによって放射性物質の大 量放出となり、周辺地域に激甚な被害を生じさせている。この原発事故は、地震による揺れ、さ らにその 40 分後に襲来した大津波によって生じたものである。 第一原発は、この後、1号機の建屋爆発(12 日 15 時 36 分)、3 号機建屋爆発(14 日 11 時 1 分)、 4号機建屋爆発(15 日 6 時 12 分)、2 号機格納容器損傷(15 日 6 時過ぎ)と続いた。この未曾有 の事態に対し、政府、東京電力を中心にこれまで経験したことのない危機管理が行われた。それ が妥当であったかどうか、被災される以前の計画・設計を含めて検証が進められ、報告・発表さ れた。それらは、政府の「東京電力原子力福島原子力発電所における検証委員会事故調査・検証 委員会」(政府事故調)による『中間報告書』(2011 年 12 月 26 日公表、以下『政府中間報告書』)、「福 島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)による『調査・検証報告書』(12 年 2 月 28 日公表、以下『民 間報告書』)、東京電力による『福島原子力事故報告書』(12 年 6 月 20 日公表、以下『東電報告書』)、 「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)による『国会事故調報告書』(12 年 7 月 5 日公表、以下『国会報告書』)、政府事故調による『最終報告書』(12 年7月 25 日公表、以下『政 府最終報告書』)である。 主にこれらを参考資料とし、これまでの筆者の経験をベースとしてこの時の危機管理を考えてい きたい。筆者の経験とは、ダム管理の現場責任者、旧建設省・旧国土庁での技官としての行政担当、 旧建設省研究所での土木工学研究である。 なお、このような経験をベースに 2011 年 5 月 1 日、11 年 6 月 2 日および 12 年 4 月 8 日の埼玉 新聞で、筆者の意見を既に述べている。それらは資料 1、2、3 として付記する。

1. 計画・設計における津波の想定

福島第一原発事故の主原因は、地震動によって生じた津波の襲撃である。だが日本では、その

福島原発事故の危機管理を考える(ノート)

松 浦 茂 樹*

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周辺の海で発生した地震により津波が襲来し、大惨状がいくたびか生じている。原発の計画・設定 には当然、津波対策は必須の条件である。津波襲来について、計画・設計上どのように考慮されて いたのか先ずみていこう。

1.1 建設当時の計画・設計津波高

第一原発の計画・設計が進められたのは 1960 年代であるが(1号機から 6 号機の設置許可が行 われたのは 1966 ∼ 72 年)、この時代、地震発生についての現在の基幹的理論となっているプレー トテクトニクス理論は一般化されていなかった。この理論が社会に広く受け入れられるようになっ たのは、1970 年代に入ってからである。 福島県は、長い期間、地震また津波で襲われたことはない。首都機能移転が盛んに論議された 1990 年代、福島県は阿武隈地域への移転を主張したが、その主張の理由の一つが自然災害が少な いことだった。自然災害が少ないことが、福島県の重要な「売り」であったのである。確かに、福 島県沖では津波の襲撃は少なかった。三陸沖から房総沖の日本海溝周辺の海域では、過去 400 年 間では 1611 年慶長地震(三陸沖)、1677 年延宝地震(房総沖)、1896 年明治三陸地震(三陸沖)、 1933 年昭和三陸地震(三陸沖)で発生した津波があったが、福島県海岸(浜通り)ではそれほど 大被害があったとは認識されていなかった。東京電力は、福島県沿岸での原発建設にあたり、当地 が地震・津波被害から安全とのことをメリットに掲げていた。事実、地震について過去 400 年間の うち、1938(昭和 13)年にM 7.4 程度の地震が複数回起こっただけであった1) 第一原発では、福島県海岸での既往最大の津波高として 1960 年に襲来したチリ津波高を計画・ 設計のベースとした。その津波高は、基準水位(小名浜港工事基準面 O.P.、以下標高はこれに基づく) + 3.12m であった。これに合わせて冷却に必要な海水ポンプを+ 4m に、原子炉非常用ポンプなど 主要施設が入る建屋は+ 10m 以上(1号機∼4号機は+ 10m、5,6 号機+ 13m)の敷地高として建 設が進められた。元々、第一原発の位置する海岸は+ 30m 程度の高さをもつ段丘地帯であったが、 基礎となる地盤が − 4m にある泥岩層であること、また外部道路との連絡などを考慮し、経済的な 敷地高として+ 10m を定めていったのである。

1.2 地震研究の進展と計画津波高の見直し

その後、プレートテクトニクス理論に基づく地震研究が進んだことに伴い東海地震が危惧され、 津波常襲地帯である三陸地方の津波対策も検討された。1983(昭和 58)年には、建設省と水産庁 の共同調査研究に基づき、「津波常襲地域総合防災対策指針(案)」が定められた。さらに 93(平 成 5)年には北海道南西沖地震津波の発生があって津波対策の関心が高まり、電力業界でも「津波 評価技術の高度化に関する研究」が共同研究として進められた。99 年には、原子力施設の津波に 対する安全性評価技術の体系化及び標準化を目的に、社団法人土木学会原子力委員会に津波評価部 会が設定された。ここでの検討が、「原子力発電所の津波評価技術」として 2002(平成 14)年に公 表された。 土木学会による「原子力発電所の津波評価技術」 この内容を一口で言うと、発生する地震は外から与える条件として外挿され、それが津波の波源

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となり、陸に押し寄せた時の津波高を、地形などを考慮して作成した数値モデルに基づきコンピュ ータで計算して求めようとするものである。 数値モデルは、記録のある既往津波とそれにより各地点の到達した津波高(痕跡高)から海底・ 海岸地形を考慮して作成される。またこの時の津波をもたらした地震について、断層モデルを作成 する。この断層モデルを基に、新たに想定する地震に対する基準断層モデルを領域(位置)、モーメ ントマグニチュードごとに作成して、潮位も加味して当地点の津波高を求める。さらにこの基準断 層モデルについて、断層の深さ・傾斜角や向きなどのパラメーターを合理的範囲内で変化させ、当 地点にとって最も影響が大きくなるパラメーターの組み合わせを求めて、これでもって当地点で最 大となる津波高を求めていこうとするものである。発生する地震については自ら想定するのではな く、既往地震また地震学の知見に基づいて定めていく。 作成されたモデルは、1677 年、1793 年、1896 年、1933 年、1938 年、1952 年、1968 年、1973 年、 1978 年の 9 つの過去地震が説明できるとした。このモデルを用いて東電が計算したところ、第一原 発の津波高は+ 5.4 ∼ 5.7m となった。その対象となった地震は、塩屋崎沖で 1938 年に発生した福 島県東方沖地震であった。これを受けて東京電力は、設置されていたポンプを 20cm かさ上げした。 地震調査研究推進本部による検討 これまでの考えは、あくまでも実際に生じた地震をベースにして地震発生を想定し津波高を求め るものであった。だが 2002(平成 14)年 7 月、地震調査研究推進本部(以下「推本」)地震調査委 員会から予測津波高に対し新しい考えが打ち出された。「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の 長期評価」であるが、プレート間大地震について三陸沖から房総沖の日本海溝にかけて、どこでも 発生する可能性があるとの考えに基づくものである。例えば 1896 年に三陸沖で発生した明治三陸 地震は、三陸沖から房総沖にかけての海溝よりの領域内のどこでも発生する可能性があるとしたの である。 この考えに基づき、東京電力が 2008 年、土木学会の数値モデルに基づき社内で試算したところ、 第一原発2号機付近で+ 9.3m、5号機付近で+ 10.2m、敷地南部で+ 15.7m との津波高を得た。 この試算は同年 6 月 10 日、原子力・立地本部副部長および当時、原子力設備管理部長であった吉 田昌郎氏に説明された。この対策について、防波堤・防潮堤の設置などが検討されたが、防潮堤の 設置による対応は数百億円規模の費用と約 4 年の時間が必要と見込まれた。結局は土木学会の専門 家に検討してもらうこととした。なお 2009 年、最新の海底地形データ等により土木学会モデルで 試算が行われ、1938 年の塩屋崎沖の地震により+ 6.1m の津波高となったのでポンプの嵩上げ等が 行われた。 貞観津波の検討 一方、869(貞観 11)年に発生した貞観津波の知識が深まりつつあった。1990 年、東北電力によ る仙台平野での堆積物調査に基づき、阿部・菅野・千釜「仙台平野における貞観 11 年(869)年三 陸津波の痕跡高の推定」が発表されたが、2001 年菅原・箕浦・今村「西暦 869 年貞観津波による 堆積作用とその数値復元」、2008 年佐竹・行谷・山木「石巻・仙台平野における 869 年貞観津波の 数値シミュレーション」が報告された。また 2010 年宍倉・澤井・行谷「平安の人々が見た巨大津

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波を再現する̶西暦 869 年貞観津波」が発表され、福島県相馬市の松川浦付近で仙台平野と同様の 堆積物が検出され、再来期間は 450 年から 800 年との推定が行われた。 2008(平成 20)年 10 月、東京電力は、独立行政法人産業総合研究所佐竹健治氏から投稿準備中 の「石巻・仙台平野における 869 年貞観津波の数値シミュレーション」の提供を受けた。ここには、 貞観津波の発生位置、断層幅 100km、すべり量 7m 以上の規模のプレート間地震が想定され、さ らに二つの断層モデル案が提示されていた。このモデル案に基づいて数値計算を行ったところ、第 一発電で+ 7.8 ∼ 9.2m の津波高が算出された。 この対処として、吉田部長は福島県沿岸における津波堆積物調査の実施を決定するとともに、そ の数値妥当性について土木学会に検討を依頼することとした。土木学会には 2009 年 6 月、正式に 依頼した。 このように、津波に対する予測として既定の高さを大きく上回る数字が提示されていながら、東 京電力が即座にその数字を受け入れ対策を施すことはなかった。このことについて『政府中間報告 書』は、吉田部長は推本の長期評価に関する想定津波と同様に、前記佐竹論文に基づき試算された 波高の津波も実際には来ないと考えていたとして、次のように述べている2)。 「武藤副本部長及び吉田部長は、前記想定波高につき、試算の前提とされた推本の長期評価が震 源の場所や地震の大きさを示さずに、『地震が三陸沖北部から房総沖の海溝寄りの領域内のどこで も発生する可能性がある。』としているだけのものである上、津波評価技術で設定されている三陸 沖の波源モデルを福島第一原発に最も厳しくなる場所に仮に置いて試算した結果にすぎないもので あり、ここで示されるような津波は実際には来ないと考えていた。」 さらに、「念のため」に土木学会に検討を依頼したと述べている。東京電力は自らの計画津波高 を越えるような津波高はあり得ないと考えていたとの評価である。その根拠は、そのような地震発 生はしないとの強い思い込みである。その背景をみていこう。

1.3 地震学研究による東日本太平洋での地震発生の考え方

2006 年、中央防災会議「日本海・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会」から報告書が 公表された。この中で、推本により想定されていた福島県沖・茨城県沖のプレート間地震について は検討外とされた。それは、ここで大地震が繰り返して発生していず、近い将来での発生の可能性 が高くないとしたからである。福島県沖では、過去 400 年間の中で 1938 年の M7.5 程度の地震が 複数回生じただけであった。また 869 年の貞観三陸沖地震についても留意が必要としているものの、 地震そのものが不明確であったとし、防災対策の検討対象からはずされた。 福島県沖でのプレート間地震の発生が考慮されなかったのは、その背後にそれを支える地震学の 理論「比較沈み込み学」があった。それによると、超巨大地震はプレートの沈み込み地帯で生じて いるが、この沈み込み地帯はチリ型とマリアナ型を両極端とし、チリ型が巨大地震を発生し、マリ アナ型は発生しないとの考えであった3)。チリ型は、そのプレートの生成年代は若くて密度がそれ ほど大きくないため、プレートの浮力は大きくなって陸のプレートとの固着度は高く、接する面は 広い。また海溝に沈み始めたばかりで角度が浅い。このようなプレート間で、大地震は生じるとさ れた。その反対がマリアナ型であるが、日本周辺では千島海溝はチリ型的、伊豆・小笠原海溝はマ リアナ型、日本海溝では北部より南部の方がマリアナ型に近いとされていた。

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また「アスペリティモデル」によると、プレート間で強く固着し、ある時急激にずれて地震発生 時のすべりが大きいアスペリティと呼ばれる場所がある。このアスペリティにひずみが蓄積し、あ る期間ごとに破壊されて地震が生じるというものである。記録上、大地震が生じなかった福島県沖 はアスペリティの場所はないとされていた。 つまり「比較沈み込み学」によると、「地震は過去に発生したものが繰り返すものであり、過去 に発生しなかった地震は将来も起こらない」4)と考えられていた。そして地震学者の間では、この 考えが一般的であった。 なお地震学者島崎邦彦氏は、大津波は固着が強いアスペリティが破壊されて生じる地震のみでは なく、固着度の弱いところで生じ強い地震を伴わない、いわゆる「ヌルヌル地震」があり、これに よって大津波が生じるとして「比較沈み込み学」に批判的だった5)。だが、今回の大地震は島崎氏 によっても予測できない超巨大地震であった。東日本太平洋沖では地震の発生について図 1 のよう に海域が震源領域(構造区)にセグメントされ、基本的には一つ一つのセグメント(領域)単独で、 さらに隣接した二つのセグメントが連動して同時発生すると想定されていた。既往の地震の分析に 基づくものである。だが、今回は図 2 で分かるように、いくつもの陸寄りの領域、および海溝より の領域で広く発生したものであった。 図1 東日本太平洋沖震源領域(構造区) (出典: 「東京電力原子力福島原子力発電所における検証委員会事故調査・検証委 員会」(政府事故調)『最終報告書』2012 年)

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2004 年に M9.1 の超巨大地震であるスマトラ沖地震が生じた。素人目には、地震発生の基本的メ カニズムが見直されてもよいのではと思われるのだが、東北地方太平洋沖では従前の考えの変更は なかった。『政府最終報告書』は、スマトラ地震はいわば陸よりの領域で複数地震が連動したもので、 陸寄りと海溝寄りの領域で同時に発生したと考えられるのは、今回の東北地方太平洋沖地震が初め てであったと述べている6)。 さらに、2011 年 9 月に発表された政府中央防災会議専門委員会による「東北地方太平洋沖地震 を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会報告」では、次のように述べられている7) 「今回の津波は、従前の想定をはるかに越える規模の津波であった。我が国の過去数百年間の地 震の発生履歴からは想定することのできなかったマグニチュード 9.0 の規模の巨大な地震が、複数 の領域を連動させた広範囲の震源域をもつ地震として発生したことが主な原因である。」 一方、『国会報告書』はこの点について特にふれていないが、『民間報告書』は「東日本大震災後 の地震学会等の動向からみると、地震発生メカニズムやそれに伴う津波については相当程度未知の 部分が残っていることがうかがえ、今回の高さの津波を事前に予想しえたか、という問いには非常 に難しかったと答えざるを得ない」と述べている8)。 図2 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震震源域 (出典:島崎邦彦「超巨大地震、貞観の地震と長期評価」『科学』2011 年 5 月号、 岩波書店)

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1.4 大津波に対する東京電力の対応

東京電力は、地震学による理論もあって、大地震またそれに伴う大津波を「想定外」として緊迫 感をもって考えていなかった。その大津波への対処として、大きく 3 つの方策が考えられる。 ①防潮堤などのハードな施設によって大津波を防禦する。 ②大津波で襲われることを想定し、建屋を強固にするなどして原子炉などの中枢部分の破壊・湛水 を防ぐ。また、冷却に必要な電源確保のため非常用電源の一部を高い場所に移動する。水に弱い 電気系統の水密姓を確保する。つまり津波により少々の損傷は生じるかもしれないが、原子炉中 枢の安全は確保する手段を講じる。 ③冷却に失敗した原子炉から蒸気などと一緒に若干の放射能が漏れるが、原子炉損傷の拡大を防ぐ 手段を講じ、甚大な被害を防ぐ。その重要な機能として、放射性物質が含まれている蒸気を排出 して、原子炉核容器内の圧力を緊急的に非常手段として減少させるベントがある。ベントは全電 源喪失などの過酷時に行われるものだが、その過酷の状況を想定して対応できるトレーニングを 十二分に行う。 これらの対応について、結局、東京電力は何も行わないか、不十分であった。①について、防波 堤、沖合での防潮堤などの設置が検討されたが、具体的な決定は何もなされていない。②について、 建屋が津波で破壊されたり、原子炉格納容器が湛水することはなかったが、建屋一階ないし地下に あった非常用電源は湛水して用をなさなかった。地震直後に喪失した外部電源に加え全電源喪失と なり、原子炉発電に絶対に必要な冷却機能を失った。この結果、原子炉はメルトダウンに向かって 進行した。また電機系統の水密性も不十分で、復旧時に著しい支障となった。 ③について、原子炉内の圧力を減らすベントに取り掛かったが、全電源の長時間喪失は想定され ていず、事前のトレーニングはほとんどなされていなかった。その作業準備のため、操作方法・手 順の確認から始めざるを得なかった。 要するに、計画・設計を越える津波に襲われることはないだろうとの前提であり、それ以上の準 備はなされていなかったのである。そこに、1 ∼ 4 号機 O.P. 約+ 11.5 ∼+ 15.5m、5、6 号機 O.P. 約+ 13 ∼ 14.5m の浸水をもたらす津波が襲ってきたのである。

2. 東京電力の原発事故緊急対応

2.1 緊急対応時の体制

危機管理の原則 危機管理にとって基本的なことは、誰の責任の下で何をすべきか、何の権限を与えているのかを 明確にしておくことである。その責任者は、危機の状況を最もよく知っている者として、自らの権 限の中で自らの責任の下で判断を下していく。そこには当然、予期せぬ事象が生じる。また十分で ない情報の下にあり、場合によっては、かなりのリスクがあることは承知の上で、逃げることなく 判断しなくてはならないことが生じる。しかし自らの全責任の下で判断しなくてはならない。 そのためには、事前における充分な知識の把握が必要であることは当然ながら、強靱な精神力も 必要である。また必要な情報は、責任者の下にすべて集中させなければならない。その情報の下で、

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トップダウンとして断固として判断を下していく。組織にとって、そのような判断が下せる人物を 配置しておくことが不可欠である。 危機管理にあたり困るのは、責任が明確になっていないことである。また複数の人間が合議して 決めるとなったら、時間を要し早急な判断ができなくなる。あるいは意見の対立により判断そのも のができなくなる。また困ることは、責任者の権限内について外部が立ち入ることである。情報あ るいは参考意見として伝えることは重要であるが、それを評価し判断するのはあくまでも責任者で ある。 東京電力の緊急対応体制 東京電力は、原子力災害に対する緊急時態勢としてつぎのように述べている9) 発電所の緊急事態に対する応急 「復旧計画の立案と措置、並びに事故拡大防止に必要な運転上の措置等の実施は、原子力防災管 理者である発電所長に権限があり、本店緊急時対策本部の本部長(社長)は発電所緊急時対策本部 への人員や資機材等の支援にあたる。また、発電所と本店は常時 TV 会議でつながれており、情報 を共有しながら重要な事項について本店は適宜、確認・了解を行う。 具体的な事例としては、福島第一 1 号機の対応において、格納容器ベントを実施するにあたって は、放射性物質を放出する重要事項であったことから、発電所長の判断に加え、社長の確認・了解 を得るとともに、国へも申し入れを実施した。また同様に、1 号機の原子炉注水について淡水注入 に切り替える判断についても、発電所長が準備を指示し、社長がこれを確認・了解している。」 事故対応の責任者は、第一義的に発電所緊急対策本部長である発電所長であり、本店はそれを支 援する役割である。ただし放射性物質を放出する、原子炉への海水注入などの重要事項については、 本店(本部長)の確認・了解を行うと定めている10)。現場のことを最も熟知しているのは所長で あるから、所長が責任者となるのは当然だろう。 なお 1 号機、2 号機など各プラントについては、「原子力発電所において異常が発生した場合、 機器の動作状況等を確認し、予め定められた手順に従った操作を行う判断は基本的に当直長が実施 する」11)と述べ、プラントに対する現場第一線の責任者であるプラント当直長が、手順に従って 操作の判断を行うこととなっている。この規定も当然だろう。各プラントの操作に最も熟知してい る現場第一線の責任者に、操作の判断を任せている。だが手順に従うとあるように、あくまでも想 定内の対応を念頭に置いてである。 国の緊急対応体制 民間の電力会社に対し、その設備設置に許認可権をもっている国の役割をみてみよう。国の監督 官庁は、経済産業省外局の資源エネルギー庁特別機関である原子力安全・保安院(以下、保安院) である。原子力災害対策特別措置法(以下、原災法)に基づき首相をトップとする原子力災害対策 本部が設置されるが、保安院はその事務局を担う。原子力災害対策本部長の権限は、原災法第二十 条に 10 項目規定されているが、原発そのものへの積極的関与は次の第 2 項に示されている。 「2  原子力災害対策本部長は、当該原子力災害対策本部の緊急事態応急対策実施区域における 緊急事態応急対策を的確かつ迅速に実施するため特に必要があると認めるときは、主務大臣に対

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し、規制法第六十四条第三項 の規定により必要な命令をするよう指示することができる。」 このように、原発を運転している電力会社への直接的指示は「原子炉等規制法」第六十四条第三 項に基づき行われる。そこには、原子炉による災害を防止するため緊急の必要があると認めるとき は、文部科学大臣・経済産業大臣等により原子炉による災害を防止するために必要な措置を講ずる ことを命ずることができる、と述べられている12)。 また内閣府に設置された原子力安全委員会は、原災本部長である首相から緊急事態応急対策の実 施に関する技術的事項について助言を行うものである。 本ノートの考察視点 今回の事故において緊急対応に対する責任者は、発電所緊急対策本部長となった発電所長の吉田 昌郎氏であった。いみじくも、巨大津波対策が検討された際、本店原子力設備管理部長として津波 対策に積極的でなかった吉田氏が、責任者として緊急対応を行ったのである。 大津波の襲来を想定外とし、その備えを全く行っていないところでの事故である13)。想定では 全電源喪失の最長時間は 30 分とされ、それ以上は考慮する必要はないとされていた。それが 30 分 どころの時間ではない。たとえば、1 号機は 10 日以上の長時間にわたって喪失した。マニュアル は全くなく、それこそ「出たとこ勝負」で緊急対応が行われたのである。 その対応について、2,3号機は適切に対応できていればメルトダウンは防げたはずだとか、第 二原発に比べて第一原発の対応は適切さを欠いていたとかの評価が行われている。筆者は原子力工 学の専門家ではないので、これらの評価の妥当性については何とも判断できない。これらの指摘が 有ることを前提にし、ここでは、事故対応のベースとなる主要な観視機器も役に立たず、何が生じ ているのか、そこから想定していかなくてはならないとの極限の状況におかれた技術者の行った対 応について考えていきたい。 なお『政府最終報告書』は、その対応について次のような厳しい指摘を行っている14)。 「極めて過酷な事故対処が続いたがゆえに、その思考が鈍った側面も否定できないが、事故当初 の対応(例えば、 IC の作動状況に関する誤認識)や事故後相当時間が経過してからの対応(例えば、 CAMS 測定結果の取扱い)を見ると、自ら考えて事態に臨むという姿勢が十分ではなく、危機対 処に必要な柔軟かつ積極的思考に欠ける点があったと言わざるを得ない。そして、このことは、個々 人の問題というよりは、東京電力がそのような資質・能力の向上を図ることに主眼を置いた教育・ 訓練を行ってこなかったことに問題があったと言うべきであろう。更に問題を遡っていくと、東京 電力を含む電力事業者も国も、我が国の原子力発電所では炉心溶融のような深刻なシビアアクシデ ントは起こり得ないという安全神話にとらわれていたがゆえに、危機を身近で起こり得る現実のも のと捉えられなくなっていたことに根源的な問題があると思われる。」

2.2 吉田所長の判断・行動からみる危機対応

発電所緊急対策本部長として事故対応の責任者となった発電所長吉田氏に焦点を当て、検討を進 めていきたい。彼は、自らの責任を放棄した、あるいは責任逃れの行動を行ったのだろうか。責任 の放棄とは自ら判断せず、本店あるいは監督官庁に判断を任せることである。吉田氏がとった行動

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について、主に『国会事故報告書』に基づいてみていこう(図 3)15)。 1 号機のベント 3 月 11 日 14 時 46 分に地震が発生した約 40 分後、津波に襲われた。この地震で外部電源を失っ た後、津波により非常電源も失われて全電源が喪失状況となった。その直後の 15 時 42 分、原災法 10 条該当事象(全交流電源喪失)と判断した。その後、16 時 45 分頃、冷却・冷水が行われていな いと判断し、第 15 条第 1 項に基づく特定事象(非常用炉心冷却装置注水不能)と官庁等に報告した。 だが、1 号機の原子炉水位計(広帯域)により水位が、有効燃料頂部(TAF)マイナス 90cm と確 認できたとの報告を受け、1 号機については非常用炉心冷却装置注水不能に至っていないと判断し、 16 時 55 分頃、特定事象発生の報告を解除する旨の報告をした。だが 1 号機の原子炉水位が低下 傾向にあってマイナス 150cm を示したが、その後、確認できなくなり、17 時 12 分頃、非常用炉 心冷却装置注水不能となったと判断し報告した。 この後、1 号機格納容器が危険な状態であることが確認され、11 日夕方には中央制御室において 格納容器ベント操作手順の検討を開始した。12 日 0 時 6 分吉田所長は格納容器のベント作業の準 備を指示、0 時 49 分原災法第 15 条該当事象(格納容器圧力異常上昇)に該当すると判断し通報し、 1 時 30 分頃、1 号機・2 号機の格納容器ベント実施について監督官庁(原子力安全保安院)に申し 入れて了解を得た。なおベント実施の判断者は発電所長であり、実際は発電所と本店とで相談しな がら決定するものとされていた。 1 号機ベントについて、12 日 3 時 6 分には経済通産大臣、保安院長、東京電力常務の共同記者会 見が行われ、3 時半頃を目途にベントを行うと発表された。だがその時間には行われなかった。そ れは、技術的な問題からであった。これまでベント操作が行われたことは一度もなく、作業に必要 な装備を津波被害を受けた建屋から探し出すことから始まり、電源がすべて喪失した暗闇で、また 放射能が上昇する中で進めねばならなかった。このため、迅速に作業を行うことが困難だったので 図3 福島第一原発発電プラント概要図 (出典:東京電力『福島原子力事故報告書』2012 年

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ある。 その準備に追われている最中の 6 時 50 分、経済通産大臣は「原子炉等規制法」に基づきベント の実施を命令した。また原発災害対策本部長である菅直人首相が 7 時 10 分、ヘリコプターでやっ て来たので、吉田所長らが 20 分程度対応した。この後ベントの準備が完了し、8 時 03 分、吉田所 長からベント操作は 9 時を目標とするよう指示が出された。 ベントを行うとは、原子炉内の蒸気を外に出すことであり、そこには当然、放射性物質が含まれ る。発電所対策本部は、避難指示の出ていた 3km 圏内、そして風向きを考慮して大熊町(熊地区) を中心に避難状況を確認したところ、一部で避難できていないことが 8 時 27 分に判明した。福島 県には、9 時頃にベント開始に向けて準備していることを連絡し、9 時 2 分に大熊町の避難ができ ていることを確認して 9 時 4 分ベント操作を開始した。だがベント作業を行っている現場の放射能 が高かったため、現場から引き返さざるを得ず、その後、手配した仮設空気圧縮機を設置して作業 を進め、14 時 30 分、格納容器(ドライウェル)圧力の低下を確認してベント成功と判断した。 この状況については、15 時 20 分吉田所長より官庁等に報告された。だがこの直後の 15 時 36 分、 1号機原子炉建屋が水素爆発したのである。 このベント作業について吉田所長は次のように述べている16)。 「だから、皆さんがベント、ベントとおっしゃてるんですけど、現場から言うとですね、そのベ ント自体がですね、本当にできてんのかどうかがですね、わからない状態です。ですから、もうそ こに全力をかけてましたから、あの、ディスターブされたとかですね、いう話もあるんですけど、 もうパラでも現場でいろいろ考えてやれってんで、指示してやってましたから、邪魔されたってい うよりも、作業そのものが、なかなか進まなかったということですよね。……(中略)……こっち からすると、必死でやっててあれだったんですよ」 ベント実施について、冷却機器である非常用復水機が作動していると考えていたことなどがベン トの準備を遅らせたとの指摘もあるが、吉田所長は自らの責任の下で与えられた職務を遂行したと 評価してよい。 なおベント作業が技術的に困難な状況となっていることについて、東京電力から通報先である保 安院に対しては極力情報は伝えられていたが、保安院から官邸に対してその情報は伝えられること はなかったと国会報告書は評価している。このことについて保安院は、首相執務室のある官邸 5 階 には東電関係者がいるのだから当然、伝えられているだろうと判断していたという17)。 1 号機海水注入の経緯 12 日 4 時頃、炉心内に淡水注入を開始した。だが発電所内の淡水量については、漏水などもあ って限りがあった。このため海水注入の検討も行われ、14 時 54 分吉田所長は淡水枯渇のため海水 注入を指示し、15 時 30 分準備が完了した。その 10 分前に保安院等関係機関に海水注入について FAX で連絡した。だが 15 時 36 分、1 号機原子炉建屋が水素爆発し、敷設したホースなどが破壊 したため再度準備にとりかかり、19 時 4 分になって海水注入を開始し、その旨が東電から保安院に 連絡された。それに先立つ 17 時 55 分、原子炉規制法に基づく経産大臣からの海水注入命令が官邸 で行われた。 19 時 4 分に開始された海水注入であるが、この情報は官邸の管首相の下には届いていず、海水

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注入による再臨界の可能性などが管首相から出された。これに対し、原子力委員会委員長などによ り「再臨界はまず起きない」との説明が行われた。だが納得が得られず、注入準備作業には時間が かかりまだ時間的余裕があるとして、再臨界の可能性について検討が行われた。検討と言っても、 管首相の理解を得るための説明である。 その場に東京電力の技術者・武黒フェローが同席していた。彼は、吉田所長との電話連絡により 海水注入の開始は知っていたが、「最高責任者である総理の御理解を得て進めるということは重要」 と判断し、19 時 25 分海水注入の停止を吉田所長に指示した。吉田所長は、テレビ会議上では海水 注入の中断を命じたが、部下には継続を指示して中断することはなかった。この後、19 時 55 分に 管首相は海水注入を了解、これを受けて 20 時 20 分、吉田所長は公式に再開を指示した。 後日になって振りかえると何とも情けない経緯だが、第一義的な責任者である吉田所長が自らの 方針を断固変えなかったのは、当然な判断ではあるとはいえ評価できる。この状況について吉田所 長は、次のように述べている18)。 「指示命令系統がムチャクチャなんですよ。結局、電話がかかってきたら武黒が官邸にいて、武 黒から電話がかかってきて、『おまえ、海水注入は』、『やってますよ』と言うと、『えっ』、『もう始 まってますから』、『おいおい、やってんのか』と『止めろ』と言うので、『何でですか』と。『おま え、うるせえ。官邸が、グジグジ言ってんだよ』なんて言うから、(私が)『何言ってんですか』と 言って、あれ、切れちゃったよ、そこで。」 「指揮命令系統が、例えば、本来、本店が止めろと言うんだったら、そこで議論できるんですけ ど、全然わきの官邸から電話までかかってきて止めろという話なんで、何ですか、それはと。で、 十分な議論ができないんです、電話ですからね。で、四の五の言わずに止めろですから」 「俺は止めないよと言ったんだけど、官邸が言ってるからしょうがねぇだろうとかいう話になっ たんです。だから、要するに、そのときも、指示命令系統がどこにあるのかというのが非常に分散 している状態で、僕はこれは最後は僕の判断だと思ったんです。」 なお、福島第一原発発電所対策本部と東京電力本社との間は社内テレビ会議システムでつなが れ、対策本部の動きは本社にリアルタイムで届き、情報を共有するシステムとなっていた。現地対 策本部としては、判断に間違いがあった時は指摘され、また判断に必要な情報・参考意見を聴くこ とができた。 2 号機注入問題 保安院から、2 号機に消防ポンプにより注水を行うべきとの要請が 3 月 14 日 1 時 41 分に本店を 通じてあった。当時 1 号機と 3 号機に対し、海水により注水が行われていたが、海水の直接汲み上 げ可能なポンプはなく、偶然、津波によって溜まっていた 3 号機隣の逆先弁ピットの海水を利用し ていた。逆先弁ピットには発電所内の他の場所から海水を供給していたが、14 日 1 時頃、ピット への給水が追いつかず空となってしまった。このため 1 号機、3 号機への注水は停止され、ピット への給水が現地で検討されていた。この状況での保安院からの要請である。 これに対し東電では、本店と発電所との打ち合わせでピットへの給水つまり給水源の確保が最優 先であるとの判断となった。だが 2 時 57 分、再び保安院から要請があり、本店は「ズルズルすると、 また役所が怒ってくる」と発電所に対応を求めたが、吉田所長は「もちろん分かってんだけれども、

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フルにやっていて、こんなもんだからさぁ」と答えた。さらに 3 時になると保安院から 3 時半に行 うようにとの要請があったが、吉田所長は 3 号機が最重要であり 3 号機から行うと主張した。また 保安院にしかるべき返事を出したい本店からの問い合わせに対し、3 時 26 分には「水たまってい なければ、私は 4 時になってもやりません」と、吉田所長は自らの判断を通した。 現場責任者として強い意志を感じさせるが、官邸からの提言なるものを無視することはできなか った。それに先立つ 3 月 13 日 5 時 43 分、3 号機の注水について現場から使用できる淡水量が少な いとの報告があり、吉田所長は海水注入を指示した。しかし官邸に詰めていた東電原子力品質・安 全部長から、淡水があるうちは淡水を優先してはどうかとの官邸からの提言が本店経由で伝えられ た。吉田所長はこの提言を受け、その準備に数十分の時間を要して淡水 100t の注入を行った。だ が 12 時 27 分、淡水確保の目途が立たないため海水注入の準備を開始した。 この経緯について、吉田所長は自らの判断で決定したと次のように述べている19)。 「官邸からの提案もあったことは事実だが、防火水槽に真水があり、海水の引きこみよりも距離 の面で容易であったこと、自衛隊が真水を用意することができるという話があったことや、淡水と 海水の切り替えは数十分以内で行えることなどの条件を考慮し、本部と相談の上、所長自らが決定 した。」 吉田所長は、混乱する現場状況を把握しながら、不十分な情報しかない中での早急な判断を求め られたが、さらに直接、問い合わせてくる官邸への対応もしなくてはならなかったのである。 2 号機主蒸気逃し安全弁(SR 弁)による減圧操作の経緯 3 月 14 日 13 時 28 分、2 号機では原子炉圧力の高い状態が続き、さらに炉水位が急激に低下した ため、原子炉隔離時冷却系(RCIC)が停止したと判断し、原災法 15 条該当事象の通報を行った。 それに先立ち 11 時 1 分、3 号機の原子炉建屋が爆発し、それまで使用していた 3 号機逆先弁ピット の水源機能を失った。発電所では「減圧のためには、SR 弁を開く前に原子炉隔離時冷却系ベント によって、圧力抑制室(S/C)の圧力及び水温を下げ原子炉圧力を下げることが必要」と判断され ていた。ところが 16 時 12 分、本店から直ちに 2 号機の注水を行うよう官邸から要請があったとの 報告があった。さらにその 3 分後、斑目原子力安全委員長から 2 号機の減圧・注水について吉田所 長に電話があり、格納容器ベントラインを生かすより、(SR 弁を開き)減圧して注水を先にすべき ではないのか、減圧すれば水は入っていくのだから早くいれるべきだ、との意見が伝えられた。 この提案に対し、本店と発電所で検討を行った結果、「注水が可能な圧力まで減圧されず、注水 を行うことができないまま水位だけ急低下するリスクが懸念されたため、ベントラインの構成を最 優先する東電の方針」で続行することとなった。 吉田所長は即座に(16 時 20 分)ベント予定時間を 17 時と設定し、ベントラインの構成を優先 するよう現場に指示した。だが 16 時 22 分、現場の作業員から、電源を接続したがベント弁が動か ず、コンプレッサーによる圧力で動くまで待つしかないとの連絡が入った。 このやりとりをテレビ会議で聞いていた東電清水社長は、斑目委員長の意見に従って先に SR 弁 を開けるよう指示を行った。清水社長は経済学部出身で、技術的については素人である。3 号機原 子炉建屋が爆発したのは 14 日 11 時 1 分だが、13 時 15 分、清水社長は現地の対応を発電所長に一 任し、そのための対策及び支援を本店が行うことを明言していた。それを翻しての外部意見の優先

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である。 清水社長の指示に対して吉田所長は、燃料と安全解析の専門家である武藤副社長に意見を求めた が連絡が取れず、社長の意見に従い 16 時 28 分、SR 弁開放による減圧操作を指示した。だが注水 はなかなか行われず、炉水位は低下した。吉田所長は 18 時 2 分、官邸に「2 号機は SR 弁が開きま したが、格納容器内の温度が高いもんですから、なかなか蒸気が凝縮しない。その状態で炉水位が 下がっているというあまり良くない状況で、まぁ下がったは下がったんですが、そういう状況にお るということを報告させていただきます」と説明した。18 時 22 分 2 号機の水位はマイナス 370cm となり、燃料はむき出しの状況となり約 2 時間で炉心溶融が始まるだろうと発電所は見積った。 減圧したのなら注水が進み炉心の水位は回復するのだが、そのようにならない。18 時 30 分、注 水ラインの確認を行ったところ、海水をくみ上げる消火ポンプ(消防車)の燃料切れと分かり大至 急対応した。消火ポンプは 20 時 1 分に稼働した。この後、21 時 13 分、3 号機での注水を停止し、 2 号機の SR 弁を開操作して 2 号機の炉水位が回復し始めた。 2 号機の SR 弁によるこの減圧操作について、『国会報告書』は以下のような評価を行っている20)。 「班目委員長からベントよりも減圧操作を先に行って注水するよう指示があり、一度は水位低下 リスクを理由に従前の方針でベント操作が続行されたが、格納容器ベントが成功しない様子を見た 清水社長が、班目委員長の指示に従うことを命じた。SR 弁による減圧操作が行われた結果、注水 が行なわれないままに水位が急速に低下し、短時間で燃料がむき出しの状態となった。」 「当該意思決定が 2 号機の状態悪化にどの程度影響を与えたかを評価することは難しいが、少な くとも福島第一原発で当初から懸念していたとおり、SR弁による減圧操作の後に急激な水位の低 下を招き、燃料露出のタイミングを大幅に早めたといえる。」 「清水社長は格納容器ベントが困難である状況を感じ取ったという事情があるにせよ、自ら現場 の意思決定に従う旨の宣言を行った後にこれを翻意し、福島第一原発及び本店での意思決定に反し て、班目委員長の意見に従うことを命じた。仮に班目委員長が原子炉に関する豊富な知見を持って いたとしても、事故当時の原子炉の状態や、現場のさまざまな状況を考慮できるほどの情報を知り 得る状況ではなく、福島第一原発で検討された意思決定よりも、班目委員長の意見が優先される合 理的な理由は見当たらない。東電本店は、現場の判断が最優先という立場を標榜しながらも、現実 には官邸からの指示を優先させた結果、実際に判断を誤り事故の進行に影響を与えた事実が認めら れる。」 考察 原子力発電を動かすとは、原子力分野のみでなく、電機・機械・土木分野などを総合した技術で あり、工学である。これらの専門家を統合した組織の下で動かしている。そのトップである所長に は、これらの知識を見極め、組織を有機的に結合させる総合力と統率力が必要とされる。今回の事 故は、東京電力にとって事前の準備はほとんど行われていない「想定外」のことであった。当然マ ニュアルなどなく、急速に進展する事態に対して手探りの状態で対応が行われた。マニュアルがな いところでの対応、つまり組織の本当の力が問われたのである。 福島第一原発の職員は 400 名強であった。それぞれ持ち場に応じ、手分けして必死の復旧作業が 進められたことは間違いないだろう。事故対応を行えるのは、所長の下で現場を最もよく知り、そ

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の状況が最も早く入る現地発電所対策本部しかない。ここでの対応能力がすべてを決すると言って もよい。 発災当時、第 1 号機から 6 号機それぞれ特有の状況となっていて、すべてに対応せざるを得なか った。電源喪失により観測計器のほとんどが利用できなくなり、照明も切れ通信手段が限定される 中で、得られた情報のもとで判断を下さなくてはならない。その現場を動かせるのは、現場全体を 知り得る発電所長のみである。現場がどのようになっているのか、いくら言葉で説明しても外部に 全体状況を伝えることはできない。その責任者が判断を下さなかったり、あるいは判断が外部か らの意見によってコロコロ変わるようだったら、部下の信頼は地に落ちてしまう。放射線量が高く なり放射能による汚染が現実化し、生命の危険さえ頭をよぎる状況で、その責任者がフラフラした ら、あるいは責任放棄的なことをしたら部下は不安に襲われ動こうとしない。それは組織の崩壊で ある。 吉田所長は現地発電所対策本部の長として、責任放棄的なことは行わなかったと判断してよいだ ろう。水素爆発の対応、放射能汚染水の処理などは本店へ検討を依頼し、外部の力を利用しながら、 直属の部下との信頼関係の下、逃げることなく対応策を求め、判断していったと評価してよいだろ う。もちろん、後から振り返り、その判断が妥当であったかどうか、批判はあろう。しかし責任を 放棄するようなことはなかった。 その責任の強さは、本店や保安院など外部の動きを過剰に意識するのではなく、部下との信頼を 重きにおいていたこととも強く関係したと思われる。吉田氏は、放射能がある中に危険を顧みず疲 れ果てた体で出向いていく部下に、地獄の中で菩薩が湧いてくる思いをしたと述べている。そこに、 部下への厚い感謝を見るとともに、部下との間にある強い信頼関係を読み取ることができる。

3. 国の原発事故緊急対応

3.1 原子力安全・保安院と原子力安全委員会の事故対応

保安院の事故対応 監督官庁であるとともに、原災法に基づき首相をトップとする原子力災害対策本部の事務局を担 う保安院はどう評価されるのか。事務局としての保安院の役割は、原発施設の事故状況を把握し、 モニタリング等により放射能拡散状況の調査把握、および予測に基づき住民の安全のための対策立 案が中心である。その対策立案に基づき、首相以下の政治家が決定し周知を図る。 事故状況の把握について、発災時、福島第一原子力保安検査官事務所の原子力保安検査官 7 名が 保安検査実施のため福島第一原発を訪れていた。だが、現地にずっと留まって事故対策の状況を監 視し、保安院へその状況を報告し続けることはなかった。 当初、5 名が発電所内に残り、屋外に駐車していた保安検査官事務所防災車の衛星電話を用いて 報告を行っていた。だが、3 月 12 日未明、発電所敷地内の放射能上昇のため、屋外に出ての電話 連絡が困難となり、12 日 5 時ごろ、大熊町に設定されていた政府現地対策本部のあるオフサイト センターに退避した。しかし経済通産大臣から現地で原子炉への注水作業を監視するようにとの 指示があったため、原発敷地内にいた 4 名の保安検査官が再派遣され、13 日 7 時 40 分頃発電所に

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戻った。この後、発電所対策本部内の一室で東電から事故対策状況等の資料を受け取り、東電の PHS を用いて政府現地対策本部に連絡した。外に出て注水現場を確認することはなかった。 だが 3 月 14 日 11 時頃の 3 号機原子炉建屋の爆発、その後の 2 号機の状況悪化があり、17 時頃、 自らの判断で退避した。これにより保安院は、自らの情報源を失ったのである。この後、保安院の 情報収集は東電本店からだけとなった。保安院に置かれた原災本部事務局には、東電本部から派遣 された 4,5 名の社員が発災直後からいたが、彼らを通じて情報を得たのである。しかし、リアルタ イムの情報ではなかった。発電所と本店の間ではテレビ会議システムがあり、これを通して情報の 共有が図られていたが、このシステムを保安院事務局に持ち込むこともなかった。 情報がないのだから当然、監督官庁として事故対策に対する適切な指導・助言はなかった。『政 府中間報告書』は次のように述べている21) 「保安院の東京電力に対する指示・要請は、そのほとんどが『正確な情報を早く上げてほしい』 というものであり、時折、監督官庁として具体的措置に関する指導・助言を行うものの、時宜を得 た情報収集がなされなかったために、その指導・助言も時期に遅れ、又は福島第一原発のプラント やその周辺の状況を踏まえないものであることが少なくなかった。あるいは、保安院の指示は、既 に実施し、又は実施しようとしている措置に関するものが多かったため、現場における具体的な措 置やその意思決定に影響を与えることはほとんどなかった。」 筆者は、リアルタイムの情報を得ても具体的な措置について指導・助言を行うことは困難だった と考えている。適切な指導・助言を行うためには、原子力発電についての総合的な技術力が必要で ある。それは、ある程度の年数の現場経験に基づいて培われるものであり、机上での資料による知 識のみでは身に付くものでない。豊富な現場経験をもつ技術者が、その経験を買われて職員として 採用されていたかどうか寡聞にして知らないが、行政だけの経験ではとてもではないが対応できな い。 保安院は、迅速な情報収集のため東電本店に職員を派遣することもなかった。だが、リアルタイ ムでの情報を得ても即座に判断できる技術的能力がないため、技術力をもつ東電職員から状況説明 あるいは東電の判断を含めての情報収集に頼ったのではないかと思われる。なお官邸に詰めていた 保安院トップに対し、『民間報告書』は次のように述べている。 「官邸に詰めていた保安院の寺坂院長と平岡次長が、官邸中枢チームで積極的な対策や提案や情 報提供を行った形跡はうかがわれず、意思決定に携わる政治家らは保安院トップの個人的資質に対 する疑念を抱くようになった。ある政治家は、保安院のトップを名指しし、『危機管理をやるよう なタイプではない』、『聞かれたことと関係ないことを答えたり、全く能動的に考える姿勢が見られ なかった』と厳しく批判した。別の官邸の中枢スタッフは、『保安院がもう少し一元的に仕切れて いないと成り立たない。結局そこができていないから首相及びその周辺がぐっと乗り出さざるをえ なくなってしまった』と述べた。」22) 「事務局長の寺坂保安院長及び事務局次長の平岡保安院次長についても『彼らから何か具体的な 提案がでてきたことはなかった』『二人は危機管理をやるようなタイプの人では全くない』と口を そろえて厳しい評価を述べる。」23) 保安院幹部は自らの組織の長として積極的な役割をせず、受け身的な対応しか行っていないこと が分かる。なお寺坂院長は経済学部、平岡次長は工学部電気工学科卒で、共に原子力技術・工学の

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専門家ではなかった。 安全委員会の事故対応 安全委員会の現場対応の能力にも、そう期待されないと考えられる。安全委員会は、自らの事務 局に緊急技術的助言組織を立ち上げ、原災本部長である首相に対し、緊急事態応急対策の実施に関 する技術的事項について的確な助言を行う役割を担う。 保安院職員と同様に、原発施設(プラント)の事故対応については現場での経験に基づく技術力 が必要である。この技術は、大学等の研究機関での研究のみでは絶対に身につかない。安全委員会 委員長である班目春樹氏は長く東京大学教授であったが、原発での実務の経験はない。彼の経歴を みると、学生時代の専攻は機械工学である。1972 年東京芝浦電気に入社した後、75 年東京大学の 教官となり 2010 年に退職するまで大学勤務であった。その博士論文は「熱応力による自励振動の 研究」であった。 安全委員会は彼を含め 5 人の委員で構成されているが、原発の実務経験者は一人もいない。実務 の経験なしでは原発の緊急時、何が生じているのか全体を把握するのはなかなか困難だろう。いわ んや、対応策を打ち出すことを期待することはできない。もちろん安全委員会には事務局があり、 そこでも検討は進められているが、豊富な現場経験をもった職員はいただろうか。それにしても班 目委員長が首相らに、建屋の水素爆発は起きない、大丈夫と言った見識には驚く。それが、現場を 知らない大学教授の技術水準と言えばそれまでだが。 大学研究者に対し、一部であろうが社会は強い幻想を抱いているのではないだろうか。事故発生 当時、NHK は盛んに 1999 年 9 月に生じた JCO 加工施設臨界事故を取り上げ、それを参考に外部 の有識者の指導による事故対応を主張していた。確かに JCO 事故は、当時、原子力安全委員会委 員長代理の住田健二大阪大学教授の指導の下で対策が図られ、事故収束となった。だが、JCO 事 故と原発事故は全く異なるものである。 JCO 事故は、核燃料の製造工程において、効率化を図るためマニュアルを勝手に変更して作業 を行い、安全形状に設計されていない沈殿槽に臨界量以上のウラン溶液を注入して臨界に達したも のである。2 名の死者が生じるなど深刻な被害を出したが、事故自体は一つの沈殿槽内部で核分裂 が生じたという単純なものである。実務経験のない大学研究者でも、放射能に対する専門知識があ れば対処できる。しかし複雑な工程をもつ原発事故対応は、現場での豊富な経験がなかったら絶対 に対処できないものである。JCO 事故対応を根拠に外部の有識者の指導とは、原発技術のイロハ も知らない主張であった。

3.2 管直人首相の事故対応

事故対応に関する管氏の資質がよく分かるのが、原子力緊急事態宣言の発出(令)の対応である。 3 月 11 日 16 時 45 分に東京電力から原災法 15 条該当事象発生との通報を受けた保安院は、緊急事 態宣言上申の準備を行った後、経産大臣と保安院長が発出について了解を得るため、官邸の管氏を 訪れた。その時間は 17 時 42 分であった。ところが発出されたのは、それから 1 時間 21 分後の 19 時 3 分である。首相の了解を得て、この後、事故対応に向け国家組織が公式に動き出す。だが、な ぜこんなに時間がかかったのだろうか。途中、約 5 分ほど与・野党の党首会談があり中断されたが、

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菅氏が原発の状況、技術的な問題あるいは法令について細かな質問を行い、自分が納得するまで了 解しなかったからである。 内閣総理大臣の基本的役割は、法令に基づいて国家組織をスムーズに動かすことである。原災法 には「総理大臣は、主務大臣から原災法 15 条に該当事象の発生の報告を受けた場合、直ちに緊急 事態宣言を発し、緊急事態区域対策を実施すべき区域等を公示する」となっている。政治家は、基 本的に法律の詳細な内容、いわんや原発技術について素人である。それらについて、素人が短時間 で理解するのは困難であるのは当然だろう。国家組織の頂点にいるのが、首相である。法律の理解 が不十分でも、即座に発出するのが首相の役割である。詳しく知りたかったら、その後に行えばよい。 その後の対応についても、国家組織を最大限機能的に動かすとの首相の基本的役割を果たしたか どうか、大いに疑問がある。たとえば、原発周辺の住民の避難についての検討を行い立案するのは 事務局となっている保安院である。その避難区域について保安院で検討が進められている最中、こ ことの連繋なしで、菅氏は 11 日 21 時 23 分、第一原発の半径 3km 圏内の住民等に対して避難指示 を行った。その後も 12 日 5 時 44 分に半径 10km 圏内、18 時 25 分に 20km 圏内の避難指示が出された。 官邸 5 階の総理大臣執務室での議論のみで、事務局との連繋は結局行われず、事務局で仮定値を 用いて行っていた SPEEDI の予測計算は使われることはなかった。また文部省の原子力災害対策 支援本部で、1 時間おきに第二原発における単位放出量を仮定して行われていた SPEEDI による予 測計算が利用されることもなかった。 総理大臣執務室のある官邸 5 階には、官房長官・経通大臣・首相補佐官などの政治家とともに、 安全委員会委員長、保安院幹部、東電関係者らが助言者として集められ、決定が下されていった。 保安院幹部が官邸にいたにも係わらず、事務局となっている保安院での検討作業の状況は報告され なかった。 なぜ保安院のトップは積極的な対応をしなかったのだろうか。保安院長も次長も原発技術につい ての専門家ではなかった。さらに、てきぱきと積極的に対応出来ないとの幹部の個人的資質による ところも大きいが、原子力緊急事態宣言の発出に 1 時間 20 分も時間をかけ、根掘り葉掘りと細か なことを質問する管総理の仕事スタイルに身を縮めてしまったかもしれない。うかつなことを言う と、次々質問がきて対応が大変だとして黙っていたのかもしれない。黙っているのが、最も楽で安 全である。 このようになった大きな理由の一つは、菅氏自身の個人的性格だろう。首相側近として官邸 5 階 に詰めていた細野補佐官は「総理のスタイルはトップダウンで、自分が前に出て情報をとって、自 分で判断を下すというスタイルです」と述べている24)。他人の話をじっと聞くのではなく、自分 にとって必要な情報のみを上げろ、必要かどうかは自分が決める、とのスタイルであろう。3 月 12 日朝、福島原発視察に菅氏はヘリコプターで飛んでいったが、その際、同行していた安全委員会委 員長が説明しようとすると、「おれは基本的なことは分かっている。俺の質問だけ答えろ」と一喝 されたという25)。相当のというか、恐ろしいほどの自信家である。 しかし、そうなったら情報がきちんと上がって来なくなることを、この御人は分かっていないら しい。トップが組織を飛び越えて情報を集め、判断を下していったらその組織は積極的な仕事をし なくなる。避難区域設定の担当部局であった保安院は、その仕事をしなくなった。当然のことであ る。この結果、SPEEDI の情報は官邸 5 階に長い間、届かなかった。

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3 月 11 日夜、第一原発で必要となった電源車の手配に関しても、官邸 5 階で首相が重大な関心 を示して首相自らによる工程管理が行われていた。代替バッテリーが必要と判明したとき、自分の 携帯電話で必要なバッテリーの大きさなど聞き出していたというから驚きである。もっと全体のこ とを考えるのが、トップである首相の役割だろう。 トップ自ら動いて細かなことを聞き出そうとするから、ラインの組織からは知っているだろうと して重要な情報が上からなくなる。ある意味当然だろう。3 月 12 日未明、現場では必死の努力に よりベント作業が行われていたが、放射線量が高くなっている等による技術的な困難を抱え、なか なか進まなかった。この状況について原災本部事務局である保安院は、ある程度、把握していた。 しかしその情報は官邸に上がらなかった。そしていてもたまらず、12 日 7 時頃ヘリコプターで現 地に乗り込んだのである。 何を目的として最高責任者である菅氏は、現地視察に行ったのだろうか。第一原発では「なぜベ ントが実施できていない」と怒鳴ってばかりいたという。自分が現場で叱咤したら、作業が進むと でも思っていたのであろうか。しっかりやってくれと現場を鼓舞した様子もない。恐らくこれから は自分が前面に出て対処すると判断したのであろう。それには、確かに現場の空気を肌で感じてお くことは大事なことである。 だが、それは、原発の技術問題また危機管理について政治家は素人であることを忘れたことであ る。自分はそれができる人間だと考えたとしたら、自らの能力に対する恐ろしいほどの自信家であ る。菅氏のこの行動について国会報告は「現場の士気を鼓舞したというよりも、自己の苛立ちをぶ つけることで、むしろ作業に当たる現場にプレッシャーを与えた可能性もある」と述べている26)。 これが妥当な評価だろう。 原発事故対応について、菅氏がとった行動として重要なものに、15 日 5 時 40 分東電本社に来社 し社員に「撤退などあり得ない、命がけでやれ」と激しく叱咤したことが知られている。その直前 の 5 時 26 分、政府と東電との組織を統合した総合対策本部が設立された(首相が本部長、副部長 は経通大臣と東電社長)。この設置の背景には、14 日夜から 15 日朝にかけて生じた原発からの撤 退問題がある。東電社長からの要請が「全面撤退」か「一部退避」だったのか、民間、国会、政府 の報告書はすべて「一部退避」と評価しているが、官邸 5 階は「全面撤退」と受けとめ、先述の東 電本社乗り込みとなったのである。 東電本社に、対策統合本部が設立された意義は何だろう。東電テレビ会議システムにより、事故 現場の情報は共有されることとなった。東京電力は、民間の株式会社である。このため安全よりも 会社の利益を優先するのではないか、たとえば廃炉を恐れて海水注入を躊躇するのではないか、と の東電に対して不信をもつ人々には、政府の直接的監視が入いることによって、安心感を与えるこ ととなった。また国と東電との連繋が、スムーズになった。さらに国の指導により行うのだから、 より適切な事故対応が行われるだろうとの期待をもたせた。 だが、何回も繰り返すが、事故収束に対する技術は、現場経験のない者には分からないものであ る。対策本部設置によって、技術的対応に特段の変化があったとは見受けられない。現場の情報を 共有、あるいは監視するのが目的としたら、原災本部事務局(保安院)などの政府部内に東電テレ ビ会議システムを導入すればよいことである。国と東電との統合対策本部の設置について国会報告 書は次のように述べ、厳しい評価を行っている27)。

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「東電としては、自らが最終責任を負うことなく、具体的な事故対応のオペレーションに当たる という組織構造となっていた。すなわち、統合対策本部の立ち上げによって、政府による東電の事 故対応のオペレーションの介入はより容易となり、その結果、オンサイトの事故対応において事業 者である東電が持つべき、当時者意識や自主性を喪失させて、その後の個別対応の責任が曖昧なも のとなった可能性がある。」 事故対応に対する国会事故調の基本的立場は、発電所内(オンサイト)の事故対応は第一義的に 東電が責任を負うものだとのことである。そして官邸政治家は、発電所外における住民の防護対策 に全力を尽くすべきとの立場である。筆者もこの立場に賛同する。 さて組織のトップの役割は、組織の力を最大限発揮させることである。組織と言っても人間の集 団である。菅氏は、ガミガミ怒鳴り散らしたら、部下は動くものと思っているようである。上から 怒鳴り続けてばかりいられたら、意見を述べようにもひるんでしまう。時には、おだてることも必 要である。官邸 5 階に呼ばれた保安院幹部、東電関係者に対し、次のようなコメントが残っている。 「官邸 5 階に集まった関係者の目には、『一生懸命答えてはいた』と映った班目委員長はとにかく、 特に保安院関係者を中心とした原子力の専門家たちは、何を聞かれても『ふにゃふにゃとしか答え ないという状態』で、『次に何をすべきか』というような提案は一切なく、『まるで宿題をやってこ ない生徒のように総理らと目を合わせないようにしていた』ように映った。」28) 「官邸幹部のひとりが作成したメモの『批判されてもうつむいて固まって黙り込むだけ』、『解決 策や再発防止姿勢を全く示さない技術者、科学者、経営者』という記載が端的に物語るとおり、専 門家は、本事故への対応において、総じて、説明を求める側が何を求めているかを忖度せず、科学 者としての意見を十分な説明もなく述べるばかりで、臨機応変な対応を取ることができなかった。 これら専門家が豊富な知見を有していることは異論がないが、緊急時において何を求められている かの状況判断もなく、平常時と同様の意見を述べるのみでは、専門家としての責任を果たしたとは 評価し難い。」 プロである専門家として実に情けない対応であるが、国家中枢の総理執務室での質疑である。初 めてその場に入った者にとって緊張するのは当然だろう。その緊張を解くような言葉をかけ、気持 ちをほぐさせ持てる力を発揮させるのも、トップとして重要な役割である。このようなセンスを菅 氏は全く持ち合わせていないと思われる。 今回の事故対応について、寝食を忘れ不眠不休で働いたとして菅氏自身は納得し、あるいは満足 しているだろう。しかし国の最高責任者として、組織を最大限に生かし持てる力を十分発揮させた かどうか大いに疑問が残る。

おわりに

筆者は、東京大学工学部土木工学科の卒業論文として、1969(昭和 44)年 4 月 1 日に荒川放水 路で生じた「新四ツ木橋事故」を取り上げ、技術・工学における安全とは何か、について考えてい った。その内容は、今からみると実に不十分でレベルの低いものであったが、その基本について筆 者なりに理解し、その後もずっとこのテーマを重要な課題として考えていった。考えていったとい

参照

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