蘇洵と『春秋』 : 史論の『春秋』化

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鳴門教育大学研究紀要 (人文・社会科学編) 第20巻 2005

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W ハ H 凸 HH ( キ ー ワ ー ド 一 蘇 淘 ・ 峻 助 ・ 原 情 忠 道 説 ・ 史 論 ・ ﹃ 春 秋 ﹄ ・ 蘇 拭 )

はじめに

蘇淘、字は明允、号は老泉、眉州眉山の人。二十七歳にして初めて学問に志し、 その一年後には進士に挙げられたが茂才異の試験には合格せず、そのためこれま で著わした文章は全て焼き捨てて、門を閉ざし、読書に明け暮れして六経や百家 の書に通暁した。その後は、彼の二子蘇献・蘇轍と共に沖京に至り、新たに著わ した﹁権書﹂等の二十二篇の作品を当時の翰林学士欧陽備に上呈し、それらの作品 が認められると士大夫たちは先を争って蘇淘の著述を読み、蘇淘の文章に倣おう とした、というのは、﹃宋史﹄中の彼の列伝が伝えるところである。こうした経緯 をへて蘇淘は後に彼の二子蘇献・蘇轍と併されて唐宋八大家の一人に数えられる までになるのであるが、その蘇淘が単に文章に優れただけではなく、彼自身﹃春 秋﹄に関して特に深い造詣を有し、それが北宋の新春秋学の展開上に少なからぬ 影響を及ぼしていることは案外知られていない。小論はその蘇淘の春秋学がどの ようなものであり、それが当時の春秋学の展開上でどのような役割を果たしてい るかを確認しようとする試みである。

﹁春秋論﹂とその特質

蘇淘の﹃春秋﹄観は彼の﹁春秋論﹂()の中に明らかにされる。そしてその特徴は、 一私人にすぎない孔子が﹃春秋﹄を著わして天下の諸侯や人臣を段誉褒疑しえた 根拠はどこにあるのかとの、孔子の資格をめぐる議論と表裏の関係にある。以下 はそのおおよそである。 そもそも、賞罰というのは天下の公の事業であって、人一人一人の行為を是非 判断するというのはプライベートな事柄である。聖人孔子が公的な地位にあれば 蘇淘と﹃春秋﹄ i ー史論の﹃春秋﹄化 l その賞罰の権限を公事に用い、天下の人々は悪を懲らして善へ進むことになろう。 道義の形成にかかわる立場にあれば、聖人は道義の維持者としての権限を発揮し てプライベートな是非判断をなし、天下の人々はそれを光栄と思ったり、屈辱と 思ったりすることになる。同が衰えたころ、孔子には地位はなかったが、道義だ けは備わっていた。そこで孔子は道義の維持者としての権限によって天下の是非 をなしえたのである。ところが、その孔子が著わした﹃春秋﹄には人の功徳を賞 し、人の罪を赦し、氏族を削り去り、故国との関係を絶去し、爵位を庇献し、諸 侯であってもその名を記し、大夫であっても宇を記すことがなされている。こう なるとこれがその書法である、ないしその意味である、というだけではすまない。 またこれが正しく、これが誤っているとの是非の範囲に止まるものでもない。賞 罰の権限が加わって、孔子は自己の判断によって人を賞罰したといわねばならな いことになる。そうであれば当然﹁人を賞罰するのは、天子・諸侯の仕事である。 孔子は天下の諸侯や大夫が天子や諸侯の権限を犯していることを憎んで﹃春秋﹄ を作り、その中で自らが天子・諸侯の仕事(賞罰)をなしているが、どういう資 格で天下を糾弾できたのか﹂との批判を蒙らなければならないことになる。 いったい、﹁位﹂というのは公事であって、﹁道﹂は私事である。私事が公事に 勝ち得る道理はない。﹁位﹂はその権限で賞罰を行うこともできるが、道の場合は かりに権限があったとしても、せいぜい人の行為を是非判断できるにすぎない。 道は誰もが有しているが、それによって在位者の行為をなすことはできない。で あれば、道が公事を借越することはかくまでになしえぬことだと誰しも思う。そ うでなければ、誰もが道は自分にあって公事を借越できると思うことになろう。 その場合には、もはや道は位の賊と成り果てるのである。また孔子が本当に(﹃春 秋﹄の中で)天下を賞罰したということがありえょうか、ともいわれているが、 それは孔子は賞罰してみたいといったにすぎないということで、そのこと自体は 孔子を傷つけることはない。 七

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芳 恒 芳司 木 哲 良 日 また﹁自分は君主でもなく、役人でもない。その自分が歩行中の人を捕えて、 誰それは善事をなし誰それは悪事をなした﹂というのはさほどのことではない。 けれども、﹁誰それは善事をなした、誰それは悪事をなした﹂と言った後に、更に 続けて、﹁、だから私は誰それを賞する。、だから私は誰それを諒する﹂といったなら ば、私を笑わない者は一人も居るまい。孔子が行った賞罰というのも、これとい かほどの違いがあろう。またそうであればどうして孔子を先生と尊び、﹃春秋﹄を 絶対として尊ぶことがあろう。 こういうことではないか。孔子が﹃春秋﹄を作ったとしても、孔子はそれを ﹁孔子の書﹂と呼んだことはない。また自身の著作であるといったこともない。賞 罰の権限を自らに与えたわけではなかったのである。孔子が一言ったのは、﹁これは 魯の書であって、魯が作ったのである。善事を賞したというのは魯が賞したとい うことであり、悪事を罰したというのは魯が罰したのである﹂ということである。 なぜこうであるのが分かるのか。孔子は﹃易﹄の卦に解説を付けて﹁繋辞﹂とい い、孝を説いて﹃孝経﹄と名付けているが、これは孔子自身の命名であり、プラ イベートでなしたものである。ところが、﹃春秋﹄は魯の史官が名付けたもので、 孔子はこれに仮託したにすぎない。これは孔子が﹃春秋﹄を公的なものとした、 ということである。﹃春秋﹄は魯の史官が付けた名で、公的なものであるというの であれば、賞罰の権限はもとより魯にあることになる。 ﹃春秋﹄中に施されている賞罰の様相は、それが魯から天下に及んでいる以上は、 天子の権限にも等しい。けれどもそれが、本来魯国の賞罰であるなら、他国にま で及ぶはずがない。にも拘わらず、天子の権限を魯の﹃春秋﹄に与えるというの は、どういうことか。 こういうことではないか。賞罰の権限は周にある。孔子はやむを得ずその権限 を魯に与えたのであって、それは本来は周の武玉、武王の崩御後は成王に引き継 がれるべき性格のものであった。が、成王は幼少であった。そこで周公は賞罰が 一日も天下に欠いてはならないことに思いやり、やむを得ずに自身が王権を執行 し、天下の賞罰を行い、それで周室を存続させた。周の東遷後は、賞罰の権限は 平王にあるべきであったが、平王は暗愚であって、そこで孔子は﹁天下に賞罰が 行われなくなってはならない。魯は周公の後育の国であるから、魯の地に居る者 は周公の様にやむを得ずに天子の権限を借りて天下に賞罰を行い、そうして周室 を尊ぶべきである﹂といい、かくして天子の権限を魯の﹃春秋﹄に与えたのである。 そうであれば、天子の権限を借り用いるやり方はどうあるべきか。斉の桓公・ 八 晋の文公のようにすればよい。孔子は魯が斉の桓公・晋の文公のようであって欲 しいと願いながら、天子の権限を斉の桓公・晋の文公に与えなかったのはなぜか。 斉の桓公・晋の文公は表向き周を尊びながら、その実、自国の富強を画策してい たからである。だから孔子は彼らの功業を容認しても、彼らの心を是認すること はなかった。周公の場合はその心を王室に存した。その周公の意志を周公の子孫 は継承することはできなかったが、孔子はその周公の意志を追念して魯が天子の 権限を借りて天下を賞罰することを容認したのである。その孔子の意向は﹁周公 のような心を持って斉の桓公・晋の文公が従事した事業をなすべきである﹂とい うものであった。これが、斉の桓公と晋の文公に天子の権限を与えずに、魯に与 えた理由である。 とはいえ、孔子もまた魯君の才覚が周公の従事した事業をなしえるほどのもの ではないことを、知っていた。孔子はこう考えたに違いない。﹁現在、周公のごと き人物はこの世にいない。だからこの窮状に至ってしまった﹂と。天子の権限を 周公の子孫に委ねてしまったのは、周公を追念する意図を表わさんとしてのこと で あ る 。 私、蘇淘が﹁春秋の法﹂を見てみると、そこに認められるのはいずれも周公の 法であって、魯の国内の事に関しては詳細であるが、国外の事に関しては簡略で ある。その意味は、魯が周公の事跡に範を取り、かつまず自国を治めてその後に 人を治めるよう期待してのことであること、明らかである。孔子は礼楽や征伐が 諸侯の意図によって行われることを嘆く一方で、斉の田常がその君簡公を科科した 折りには休浴して朝し、魯の哀公に田常の征討を願い出ている。そうであれば、 孔子は、天子の権限を魯に与えたのである。ところが子貢の徒は孔子の配音ゆを理 解できず、更に経文を増して(哀公十六年の所で)﹁孔子卒す﹂と記してしまった。 孔子はそれより一一年前の哀公十四年に老いを告げ、退任していたのであって、退 任した者の卒去は﹃春秋﹄に記すことはない。にも拘わらず、孔子の卒去を記し たのである。孔子は﹃春秋﹄を著わしてそれを公の書とした。それをどうして孔 子の私書とすることができよう。ああ、孔子は﹃春秋﹄を魯国の書としたが、子 貢の徒はそれを孔子の私書とするのか。 司馬遷の﹃史記﹄や班固の﹃漢書﹄といった史書には是非の判断はあるが、賞 罰は行われてはいない。彼らも史臣の体裁を表わしたのであって、そうあるべき はずの者たちである。孔子以後、孔子を真似て﹃春秋﹄を著わそうとする者につ いては、私は困惑する。﹃春秋﹄中には天子による賞罰の権限がなされている。天

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下に君主が存在すれば賞罰の権限は彼にあるから、﹃春秋﹄が作られるはずがない。 またもし天下に君がいない場合、賞罰の権限を誰に与えるべきか、私には分から ない。周公亡き後、賞罰の権限を託しえる人物がどうしていよう。賞罰の権限を 与えてもそれに相応しい人物ではない場合には、混乱を惹起するであろうし、人 に与えることをせずに自分で所有した場合には憎越となり、人にも自分にも、そ うして誰にでも与えることがないというのであれば、それは散逸を招く事態であ る。ああ、以後の﹃春秋﹄は混乱するのか、僧越となるのか、散逸してしまうのか。 かく述べて蘇淘は自己の﹃春秋﹄に対する認識を閉じるのである。こうした蘇 淘の﹃春秋﹄に対する認識においてまず注目しなければならないのは、(一)﹃春 秋﹄を著わした孔子は天子ではなく、従って孔子自身は賞罰を行い得る権限を初 めから有しておらず、それにも拘わらず、﹃春秋﹄に認められる数々の賞罰の実際 ー諸侯の爵位を庇期する等!は、人臣としての孔子がなし得る許容範囲を大幅に 越える僧上沙汰である。それでいてなお(二)孔子が﹃春秋﹄を著わして賞罰の 柄を執ったのは、衰退期に入った周の治世で天子の賞罰が行われなくなった窮状 を救おうとするやむを得ない措置で、その際孔子は人臣たる自己の越権を防ぐた めに成王を補佐して天下を賞罰した周公の後育の国、魯の史書﹃春秋﹄を借りて、そ こに当世の賞罰の実際を示した、とする二点であろう。そうであれば、蘇淘にとっ て﹃春秋﹄の価値は天子の行う賞罰を明示しているとの観照に求められるのであ り、﹃春秋﹄を著わすということは、天子の存在が有名無実に陥った時には、孔子 の時もそれ以後においても、むしろなされて当然のことであって、通例のような 不世出の孔子の偉業との認定において、その価値が絶対視されるものではない、 ということになろう。また﹃春秋﹄が経書としての価値を有するのも、周公の意 志を体し、賞罰の権限(機能)を有して諸侯を進退せしめているからにほかなら ず、孔子の著述であるからという意識は減殺される。かつ、賞罰を欠いて単に事 件に対する是非判断を行うだけに止まるのであれば、それは史書にほかならない、 という認識は、史書と経書の差異を明白にしつつも、史書の著述は﹃春秋﹄を著 わした孔子の営為に接近する事業であるとして、史書の価値を格上げさせるもの でもあろう。それは天子の権限がともすれば失われかねない不測性が潜む歴史の 営みにおいて、史官が﹃春秋﹄を著わした孔子と同等の挙に出ることの可能性を 留めるものであろう。この点で蘇淘は却って史書と﹃春秋﹄の近似性を明らかに し、史書に対する独自の見解を示すことになる。 蘇淘と﹃春秋﹄││史論の﹃春秋﹄化││

政助の﹁忠道原情﹂説批判

史官と﹃春秋﹄とがどの様に関係づけられているかを見る前に、蘇淘における 孔子に対する認識の変化について見ておきたい。いったい、北宋の存秋学者は、 孔子が﹃春秋﹄を著わした行為を﹁孔子作春秋也、以天下無王而作也(孔子が﹃春 秋﹄を作ったのは、天下に王者がいなくなったためである)﹂(孫復﹃春秋尊王発 微﹄隠公元年)・﹁孔子作春秋、推王法縄不義、知其猶可以此治也(孔子が﹃春秋﹄ を作ったのは、王法を推して不義を正せばなおこの世を治めることが可能と思わ れたからである。)﹂(蘇轍﹃春秋集解﹄哀公十四年)のように、天王になり替わっ てあるべき王法の秩序を世に示した偉業として称揚する。その際、孔子が天子に なりかわった行為は聖人孔子の資質として死角にされるか、あるいは人類の窮状 を救おうとしたその音叫志の高逼性によって是認されるのが常であった。 ところが蘇淘は、孔子は本来魯国の臣下にすぎず、いかに彼が世の窮状を真っ 向から見据え、その打開のために﹃春秋﹄を著わし、天子を頂上に戴く秩序の回 復を企図したとしても、臣下にすぎない孔子が天下を賞罰する僧上は金輪際許さ れるものではないとして、﹃春秋﹄を著わした行為に懐疑の意識を持つことになっ た。孔子が﹃春秋﹄の中で行った諸侯への賞罰等は、実は孔子の意欲ではなく、 周公の故事に倣ったやむを得ない措置であったとの蘇淘の解釈は、それ故に臣下 にすぎない孔子の名実を正し、その資格の不足を補わんとする目的性を伴うもの で、そのこと自体が、孔子が﹃春秋﹄を著わし得る資格をはじめから欠いていた とみなしていたことの証左である。﹃春秋﹄からもたらされる釈義の一つ一つはも はや孔子の音山欲として価値を有するのではなく、君主としての権限を有して天下 を賞罰した周公の意志としてその価値を発揮するのであって、かくして﹃春秋﹄ はー蘇淘にとってはー実質天子の作為と同等の権限を有していることになる。 ならばなぜ蘇淘は聖人としての孔子の資質を死角にして臣下の系列に引き下ろ し、改めて﹃春秋﹄と孔子の間に周公を介在させなければならなかったのか。そ れは孔子の聖人性が﹃春秋﹄の製作を通じて確認できなくなったこと、より積極 的に言えば、﹃春秋﹄から導き出された孔子の理念が援乱反正の機能を発揮して社 会を救済するとのこれまでの通念に反し、﹃春秋﹄の釈義が却って世に害毒をもた らすことがあって、それが孔子の聖人を信ずる意識を希薄にさせている経緯が あったからであろう。蘇淘においてそのような﹃春秋﹄釈義に対する害毒性の音 ω 識は、峻助の原情忠道説に対する彼の批判の中に見ることができる。 九

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万恒 師司 木 げ ハ ド 白 白 哲 蘇淘の﹁書論﹂の中に次のような記述が見えている。 自主珂而至於商、其変也皆得聖人而承之。故無憂。至於周而天下之変窮実。忠 之変而入於質、質之変而入於文、其勢便也。及夫文之変而又欲反之於忠也、 是猶欲移江河市行之山也。人之喜文而悪質与忠也、猶水之不肯避下而就高也。 彼其始未嘗文吾川。故忠質而不辞。今吾日食之以太牢、而後使之復茄其寂哉。 嶋呼、其後無聖人、其変窮而無所復入、則己実。(帝完より股代に至るまでの 問、その風俗が変化した場合には、いずれも聖人が降誕してその修復の任に 当たってくれた。だから心配はなかった。忠(義)の気質が変化して質(素) となり、質(素)の気質が変化して(華)文となるのは、趨勢としてそうな りゃすかったからである。あの(華)文の気質を変えてこれを忠(義)に反 そうとする企ては、黄河や揚子江の流れを逆流させて山に巡らせようとする ほど無理なことである。人が華文を喜んで質素を嫌うのは、例えて言えば、 水が低いほうへ流れるのを嫌って高い方へ流れることがないのと同様である。 いったい、その始まりは人に華文の性癖はなかった。だから質素であれ、忠 義であれ、ということはなかった。今日、太牢の馳走を食する我々に再び豆 などの組食を食べたいと思わせることがどうしてできよう。ああ、周代に入っ て以後、聖人の降誕がなければその風俗の変化はゆきずまり、新たな状況に 入ってゆくことがなければ終わりとなる。) 聖人を誤った風俗の修正者として顕彰するのがこの文章の意図するところであろ う。今の場合、特に注目すべきことは、その際、そこに一不される矯正さるべき誤っ た風俗の具体例﹁夫文之変而又欲反於忠也、猶欲移江河而行之山也﹂、この文章の コンテキストで言えば、華文になじんだ周人の気質を再度夏人の気質である忠義 に立ち戻らせようとする挙措を、川を高きに流れさす愚行と決めつける発想であ る。同様の認識は彼の﹁審勢﹂にも示されて 夏之尚忠、商之尚質、周之尚文、視天下之所宜而固執之、以此而始、以此而 終、不朝文而暮質、以白潰乱。(夏が忠義を尊び、股が質素を尊び、周が華文 を尊ぶのは、天下が当然尊ぶべきものは何かを見定めてこれを執り、それを 執って始まり、終わりまで執りつづけたもので、朝には文を尊んで暮には質 を尊んで自ら潰乱するような振る舞いはしなかった。) という()。夏・段・周には各々忠・質・文との尊ぶべき民の気概があって、それ は安易に変更さるべきではない、との主張である。であれば、蘇淘において周の 華文を夏の忠義に復帰させよとの主張は、周を壊滅させるのと同義の提言として O 意識されていたことになる。そこで問題になるのが、ならばなぜ蘇淘は周の華文 を夏の忠義に復帰させることをかくまでに危険視するのか、ということである。 実は、周の華文を夏の忠義に立ち戻らせるという主張は、唐の峻助が﹃春秋﹄か ら読み取った孔子の意図であって、それは通常﹁忠道原情説﹂と呼ばれる。しか も、その意図は単なる﹃春秋﹄の釈義としてではなく、唐王朝が執るべき政策の 理念として実際政治の場に応用され、世に永貞革新と呼ばれる政治改革を断行せ しめた。そこに参画したのは峻助の弟子陸淳、その弟子呂温・柳宗一冗、柳宗元の 友人劉再錫等、唐王朝を代表する文人たちであり、永貞革新の失敗後は、彼らは 一様に庇請の身となって地方の司馬に左遷させられたのである(日温には別の事 情がある)。こうした史実を念頭において、蘇淘はその革新の口号となった峻助の 原情忠道説を﹃春秋﹄解釈の誤解としてすませるのではなく政策を誤らせる妄 想であるとして過大視し、これを糾正する意欲をあらわにさせているのであろう。 いうところの原情忠道説とは、陸淳の﹃春秋峻超集伝纂例﹄﹁春秋宗指議第一﹂ に見える以下の説を指す。 映子日、夫子所以修春秋之意、二一伝無文。:・予以為、春秋者、救時之弊、革 礼之薄。何以明之。前志日、夏政忠、忠之弊野。股人承之以敬。敬之弊鬼、 周人承之以文。文之弊胞団、救僅莫若以忠、復当従夏政。夫文者、忠之末也。 設教於本、其弊猶末。設教於末、弊将若何。武王周公承股之弊、不得己而用 之。周公既没、莫知改作。故其額弊甚於二代。以至東周、王綱廃絶、人倫大 壊。夫子傷之日、虞夏之道、寡怨於民、殿周之道、不勝其弊。又目、後代雄 有作者、虞帝不可及也。蓋言唐虞淳化、難行於季末、夏之忠道、当変而致罵。 (峻先生が言われた。孔子が魯の歴史書にすぎない﹃春秋﹄を修訂された理由 について﹃公羊﹄﹃穀梁﹄﹃左氏﹄の三伝には明文がない。:・私が思うに、﹃春 秋﹄は時代の弊害を救い、礼義が薄らいだ状況を改革しようとしてのことで ある。何によってこれを明らかにするのか。前志(﹃史記﹄高祖本紀賛に見え る)に﹁夏の政治は忠(義)に基づいた。忠の弊害は野卑である。股人は夏 の弊害を踏襲しながら文字軍)によってこれを是正した。文の弊害は俸(誠 がない)であるから、その弊害を救うには夏の忠が最もふさわしく、そのた めには夏代の政治に従うべきである﹂と。いったい、文というのは忠の末期 の状況である。教えを根本に設ければその弊害はほとんどないが、教えを末 に設けるとその弊害がどうなるか分かったものではない。武王や同公が殿の 弊害を踏襲したのはやむを得ずにこれを用いた結果であり、周公が亡くなっ

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て以後はそれを是正して用いることを知らなかった。だから、その如、廃は夏・ 殿より甚だしかった。東同に宇.って王綱は廃絶し、人倫も大いに壊れた。孔 子 は こ う し た 状 況 を 痛 ん で 一 一 叶 っ た 。 ﹁ 唐 ( 完 ) ・ 虞 ( 舜 ) ・ 夏 ( 百 円 ) の 時 代 の 政 治は民に怨まれることはなかったが、股・周の時代の政治は唐・虞・夏の政 治の弊害にたえない﹂(﹃礼記﹄表記篇に見える)と。また﹁後世、善政によっ て国を興す者があったとしても、舜帝には皮、はないであろう﹂(同上)ともい う。思うに、唐・虞淳化の政治は季末の時代には行われがたいものであるか ら、夏の時代の忠義を当代に合うように変え、それを実現すべきである。()) この説は、﹃春秋﹄中の様々な事件の解釈に応用されて、一見すれば犯罪者と同等 の、礼制上からは制度の殺乱とみなされる暴挙であっても、その行為をなさざる を得なかった心意の高逼牲を彼の忠義の証しとして是認するのを特色とする。 従って、こうした見解が﹃春秋﹄に込められた孔子の理念であるとしてこれを現 実政治の場に導入するのであれば、旧来の制度の改革を積極的に推進させる施策 原理にすり替わるのであり、政治の改革を図る者にとっては極めて実践的な子段 となるのであった。峻助の原情忠道説は永貞革新の政治改革に従事した者たちに とってこうした意味において有用だったのであり母、それは劉百円錫が醇郎中にし たためた次の書面において明らかである。 蓋三代之尚、未嘗無弊。由野以至僅、山豆一日之為。漸鹿使之然也。嫉其弊而 救之以帰子中道、必侯乎存紳先生徳与位井者、掲然建明之、斯易也。(思うに、 夏・股・周の三代においても弊害がなかったわけではない。野(卑)から発 して﹁俸(誠がない)﹂の弊害に至ったのはわずか一日でもたらされた訳では ない。次第次第にしてそのようになっていったのである。その弊害を憎み、 これを救って中道の政治に戻すことは存紳先生の中でも徳と位が似つかわし い者の登場を待って、中道を掲げて政治を行づたならばたやすいことであ る。)(﹁答道州醇中論書儀書﹂﹃劉再錫全集﹄巻十) 書面中、の﹁中道﹂は峡助の﹁忠義﹂に変更が加えられて新たな施策原理とし て提唱された部分であり、永貞革新の参加者たちはこれを﹁大中の説﹂と呼んだ

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実際、この﹁大中の説﹂は永貞革新を推進させる強力な後盾となった唐の順宗の 即位直後の赦令には﹁朕纂承天序、嗣守鴻業:・惟懐永図、内照庶績、外宏至化、 以弼予理(治)、藤於大中、停懐生之類、成得白新(朕は天子となる巡りを纂め承 け、大唐の鴻業を守り継ぎ、不敏不明ではあるが、万国兆民の上に信託された。. 思うに、国家長久の謀を抱き、内においては諸々の功業を興し、外においては教 蘇淘と﹃春秋﹄││史論の﹃存秋﹄化 ll 化の極地を広め、そうして朕の治績を助け、大巾の説に照らして命を宿す全ての 者にその牛.を遂げさせ、各々山新することを得しめよ)﹂(﹃全唐文﹄巻五十五)と、 唐王朝の施策の理念に据えられたことが見えているのであり、順、京の信任を得た 王叔文が陸淳や日温、柳宗元・劉再錫らの若手官僚を集めて汚時の政治の改革に 当ったのであった。けれども、元来病弱な順宗は即位後わずか八筒月にしてその 地位を子の憲宗に譲らなければならなかったのであり、それを契機として玉叔文 ら改革派の官僚たちは守旧派の巻き返しに遭遇し、王叔文は死罪、他の官僚たち も肢請の身となって各地の司馬に左遷されたことはすでに見たところである

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そうした官僚たちの一人柳宗一冗は、左遷後その折りのことを述懐して﹁宗元早歳、 与負罪者(王叔文を指す)親善。始奇其能、謂可以共立仁義、停教化。・:宗元於 衆党人中、罪状最深。神理降罰、又不能即死。猶対人一.一一口語、求食自活、迷不知恥 (私は早い時期、あの罪を得た王叔文と親しく交わり、彼の能力を奇としてい品く 評価し、ともに仁義を立てて民衆の教化に力を尽くすことができると考えまし た。:・私柳宗一冗は革新派のグループの中では罪状が最も重く、神明も私に罰を下 されましたが、ただちに死ぬことはできませんでした。そのまま人と語らい、飯 食を求めて生きながらえ、迷妄にまかせて恥じることもありませんでした)﹂(﹁寄 許京兆孟容書﹂)とも述べている。こうした急進的な改革に身を投じ、峻助の原情 忠道説によって唐王朝の政治を革新せしめんとした志しが却って犯罪者の汚名に まみれてしまった事実が、蘇淘にとっては﹃春秋﹄を誤って解釈することの危険 性を思わせて、﹃春秋﹄を解釈する前提の再認識を促し、その途上に人臣にすぎな い孔子の地位と、孔子の神聖性を盲信して﹃春秋﹄の価値を増大させる春秋学に 懐疑の念を植え付けることになったのではないか。 蘇淘においては、岐助の﹃春秋﹄説が政治の理念となって失敗し、同政に混乱 をもたらした現実が聖人孔子の神聖性の上に築かれる﹃春秋﹄の絶対を(信ずる 相対化させているのである

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意識を)

史と経ー史論の司春秋﹄化

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蘇淘において﹃春秋﹄が経書としての意義を有するのは、そこに託された賞罰 の権限が幼い成王に成り代わって天下を賞罰せざるをえなかった周公と同等の立 場を孔子に容認して初めて可能となるのであって、仮に﹃春秋﹄の記述に周公と 同等の意識が反映されていないのであれば、それは史書にすぎないものであった。

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ヨ恒 周司 良5 木 哲 けれども蘇淘はその史書、なかんずく孔子が﹃春秋﹄を著わす際にその元になっ た魯国の﹃春秋﹄が本来は魯の史官によって書き継がれた一国の史書にほかなら ない事実を視座にした場合には、史書がもたらしている経書と同等の社会的意義、 すなわち史実を鑑戒として後世に示す道徳的な機能を指摘して、これを是認して み せ る 。 史何為而作乎。其有憂也。何憂手。憂小人也。何由知之。以其名知之。楚之 史日樟杭。梼杭、四凶之一也。君子不待褒而勧、不待疑而懲。然則史之所懲 勧者、独小人耳。仲尼之志大、故其憂愈大。憂愈大、故其作愈大。是以因史 惰経、卒之論其効者、必日乱臣賊子憎。由是知史与経皆憂小人而作。其義一 也。其体二。故日史、日経意。(史書はどうして作られたのか。憂いがあった からである。何を憂えたのか。小人を憂えたのである。なぜそれが分かるの か。史書につけられた名前で分かる。楚の史書は﹁樟机﹂という。樟杭とは ﹃書経﹄舜典に見える四凶の一人である。君子であれば褒められたからといっ て善に進むわけでも、反されたからといって悪を懲らすわけでもない。であ れば史書が勧善懲悪の作用を持つのは小人に対してだけである。孔子の志し は大きかったからその憂いも大きく、憂いが大きかったことからその著作の 価値も絶大となった。そこで史書に仮託して経書(﹃春秋﹄)を作ったのであ り、﹃春秋﹄がなるとその効力を論ずる者は、必ず﹁乱臣賊子の類が憧れおの のいた﹂という。このことから、史書と経書とはともに小人を憂えて作られ たことが分かる。その意義は同一である。同一ではあるが、その体裁は異 なっている。だから﹁史﹂といい、﹁経﹂といって区別するのである。) ( ﹁ 史 論 上 ﹂ ) と。元来、史書の誕生は世の動向を気に病んだことに起因するとして、まず史書 が鑑戒となって社会を監正し得る機能を史的に検証する。その上で、史書が鑑戒 を及ぼす作用を﹁小人﹂に限定するのは、﹁孔子が﹃春秋﹄を著わして乱臣賊子が 憧れおののいた﹂という孟子の発言(﹃孟子﹄膝文公下篇)によろうが、しかしこ の孟子の発言、これを先の蘇淘の理解に照らして言い直せば、孔子は魯の史書の ﹃春秋﹄に基づいて世に鑑戒を一不し、世の監正を図ろうとした、という認識は、蘇 淘に史書が世に鑑戒として作用し得る可能性やその必然性を強く思わせていたで あ ろ う 。 夫易礼楽詩書、苦一口聖人之道与法詳奏。然弗稔之行事。仲尼懐後世以是為聖人 之私言。故因赴告策書以修春秋、旋善而懲悪。(そもそも易・礼楽・詩・書は、 聖人の道と法を述べることが詳細ではあるが、それを実際に行われたことに よって検証したことはない。孔子は後の人々がこの道と法を孔子の私言とみ なすことを恐れた。だから他国から告げられた事実や策書によって﹃春秋﹄ を 修 め 、 善 を 表 わ し 悪 を 懲 ら し た の で あ る 。 ) ( 同 上 ) というのも、孔子の理想が託されている儒教の経書は本来社会上の事実に還元さ れてその価値が検証されているものではないとして、史実による経の理念の検証 を急がせ、それが﹃春秋﹄の著作に繋がったとの認識を開陳するものである。 そうであれば、蘇淘においては経と史はその性格において二分されるべきもの ではなく、却って鑑戒を提示するために、相補的で協調的な機能が見据えられて いたことになろう。 経以道法勝、史以事詞勝。経不得史、無以証其褒皮、史不得経、無以酌其軽 重、経非一代之実録。史非万世之常法。体不相沿市用実相資意。(経は道と法 によって史に勝り、史は事と詞によって経に勝る。経は史を得なければ、褒 庭を証明だてることはできず、史は経を得なければ褒庇の軽重を考えること はできない。経は一代の実録ではないし、史は万世の常法でもない。体裁は 似 通 っ て い る が 働 き は 実 に 補 い 合 っ て い る 。 ) ( 同 上 ) と、実録としての歴史と常法としての経書が相即して、史実を鑑戒として提示す る機能が措定されているのである。 けれども、各役割分担が措定される中に史書は史書、経書は経書としての固有 の価値が却って明確に区分されている。 至於事則挙其略、詞則務於簡。五ロ故日、経以道法勝、史則不然。事既曲詳、 詞亦奇耀。所謂褒庇論賛之外無議。五日故日、史以事調勝。(事実についてはそ の要略を掲げ、詞については簡明につとめた。だから私は﹁経は道と法によっ て史に勝る﹂といったのであるが、史はそうではない。史は事実の記載が詳 細を極め、文辞もまたきらびやかである。いわゆる褒庇については論賛する ことはあっても議ることはない。だから私は﹁史は事と文辞によって勝る﹂ と い う の で あ る 。 ) ( 向 上 ) というのは、﹁大凡文之用因。事以実之、詞以章之、道以通之、法以検之。此経史 所兼而有之者也(おおよそ、文章の働きには次の四つがある。事象については事 実を記し、文辞は明断に、道に適うように疎通させ、法によって検証する、とい うことである。これは経も史も共通に有する機能である)﹂というのを前提に、経 の記述は史実を簡略にして掲げ、その措辞は簡潔にすまされて道や法が盛り込ま

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れるのに対し、史の方は記載される事実が詳細を極めている点を評価して経と同 等の価値を認めるものであろう。それ故に、経に盛り込まれている法(理念)を 読み取る場合、史書の記述によらざるを得ない役割分業が存在するのである。 史待経而正、不得史則経晦。(史は経の働きを待って正しく、史の働きを得な け れ ば 経 の 理 解 は 晦 い も の と な る 。 ) ( 同 上 ) ならば、歴史を記し後世に伝え残すという営みは、それが史実の伝承であると ともに鑑戒として後世に機能するためには、史と経が同時平行的に著述される必 要が出てきわしまいか。もしくは、史の著述はその段階で経としての価値を求め られることになりはしまいか。蘇淘におけるそうした音 ω 識の湧出が司馬遷の﹃史 記﹄や班固の﹃漢書﹄の評価へと繋がってゆくのである。 遷回史雄以事辞勝、然亦兼道与法而有之。(司馬遷と班固の史書は事と辞で 勝 つ て は い る が 、 ま た 道 と 法 を 兼 ね 有 し て い る 。 ) ( ﹁ 史 論 中 ﹂ ) ことを明言し、それがなお推測の域を出るものでないことを﹁五日今択其書、有不 可以文暁、而可以意達者四(今その部分を択んで示そうとする私には、文によっ て明らかにすることは難しいが、意識によって理解し得たことが四つあるごと 断った上で、その四点を 其一日、隠而彰。其二日、直而寛。其三日、簡而明。其四日、微而切。(一つ は、隠しているようで彰らかにしたこと。二つには、直哉で寛大であること。三 つには、簡単であるが明白であること。四つには、微妙であるが切実である こ と 、 で あ る ) ( 同 上 ) と要約する。そしてその第一の﹁隠而彰﹂については司馬選が越の名将廉頗の列 伝を書いたときに、秦の攻撃に苦しむ閑於(与)を救えないと進言した廉頗の不 明をそこには記さず超奮の伝で記したこと、漢の都食其の伝を書いたときに、一部 食其が劉邦に楚の項羽の力を弱めようとして六国の子孫に国王の印綬を賜う誤っ た策を献じた事実を鄭食其伝ではなく留侯伝に記したこと、班固が周勃の伝を著 わしたときに、丞相を務めていた周勃が文帝に財政・決獄のことを尋ねられて答 えられなかった恥辱を、周勃伝ではなく王陵伝に記したこと、董仲箭伝を著わし たときに、董仲針の旬奴との和親を進める上疏文を董仲許伝ではなく旬奴伝に載 せていることを例に取り、 夫頗・食其・勃・仲託、皆功十而過一者也。有列一以庇十、後之庸人必日、 智如廉頗、弁如都食其、忠如周勃、賢如董仲官、而十功不能贈一過。則将苦 其難市怠失。日疋故本伝晦之、市他伝発之、則其与善也、不亦隠而彰乎。(そも 蘇淘と﹃春秋﹄ li 史論の﹃春秋﹄化││ そも廉頗・都食其・周勃・葦仲許らはいずれも功績が十もあって過ちが一つ の者たちである。かりそめにも。つの過ちで十の功績を傷つければ、後世の 凡人は必ず﹁智は廉頗のごとく、弁は都食其のごとく、忠は周勃のごとく、 賢は董仲託のごときであっても、十の功績が一つ過ちを購うことができない﹂ といって、難事をなすことを苦しいこととし、怠るようになろう。こうした 訳で本伝では過ちをくらましておいて、他の伝でその事実を明らかにし、善 をなすことを慾湿したのである。なんと隠したようで彰にしたことではない か 。 ) ( 向 上 ) という。廉頗・都食其・周勃・董仲箭のごとき有能・豪傑の士であっても、操行 上の落ち度は免れ難い。それを一一彼らの伝に著わし、彼らの負い目を明らかに して、その善行を顕彰しないのであれば、後世の人の善行に励む意識を殺ぐこと になる。かく付度して蘇淘は司馬遷と班一回が伝を異にして彼らの善悪を書き分け た行為を﹁隠而彰﹂と断ずるのである。 次に、﹁直而寛﹂については、司馬遷が蘇秦を論じた際に、蘇秦の知恵の傑出ぶ りのみを記し、悪声を蒙らせることはしなかったこと、漢の文帝時の依幸北宮伯 子を論じては、彼が﹁人を愛する長者﹂であることを述べたこと、また班固が張 湯伝に賛を記した時に、張湯が賢人を推挙して善人に与したこと、酷吏伝に賛を 記した際には、人ごとに褒めて、彼らの悪を著わすだけに止まらなかった事実を 挙げて 夫秦・伯子・湯・酷吏、皆過十而功一者也。苛挙十以廃一、後之凶人必日、 蘇秦・北宮伯子・張湯・酷吏、雌有善不録央。五日復何望哉。是窒其白新之路、 而堅其睦悪之志者也。故於伝詳之、於論於賛復明之、則其懲悪也、不亦直市 寛乎。(そもそも蘇秦・北宮伯子・湯・酷吏はいずれも過ちが十もあって、功 績が一つの者たちである。かりそめにも十の過ちを取り上げて一の功績を取 り上げないならば、後世の凶人は必ず﹁蘇秦・北宮伯子・張湯・酷吏たちは、 善行をなしながら記録されなかった。俺がまた何を望もうというのか﹂と言 うことになろう。こうしたやり方は、彼らが更正する路を塞いで、悪をなそ うとする意志を決定づけることになる。だから伝では彼らの過ちを詳細に述 べ、論賛においてまた彼らの善行を明らかにしたのであり、そのようにする のは、その悪を懲らす様がなんと直裁で寛大ではないか。) という。一つの善行が十の過失に覆われて何ら顕彰されない場合、 到底期すことができなくなることから、過失に併せて善事も記し、 善行の懲憩は 悪事に走って

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方 恒 肺司 木 哲 郎 なお善事に目覚める意義を明らかにした。それが﹁直市寛﹂であるという。 ﹁簡而明﹂については、﹃史記﹄十一一諸侯表には中原の諸侯十二国に併せて呉を 加え、実際は十三国になっており、かつ呉と勢力を競った越については記されて いないことを取り上げて、その理由を 夫以十二名篇、而載国十一二、何也。不数呉也。皆諸侯耳。独不数呉、何也。 用夷礼也。不数而載之何也。周育而覇盟上国也。・:若越、区区於南夷、材狼 狐狸之与居、不与中国会盟以観華風、而用夷俗之名以赴。故君子即其自称以 罪之。・:苛遷挙而措之諸侯之末、則西戎強抗亦或庶乎其問。是以絶而棄之、 将使後之人君観之、日不知中国礼楽、雄句践之賢、猶不免乎絶与棄、則其賎 夷也、不亦簡而明乎。︹そもそも十二を篇名に用いながら、実際は十三国を載 せているのはなぜか。呉を数えなかったからである。いずれも諸侯である。 にも拘わらず呉だけを数えないのはなぜか。(呉が)夷狭の礼を用いたからで ある。数えないでおきながら実際は呉を載せているのはなぜか。周の後育の 国で、覇者として(中国の)上国と盟っていたからである。:・越のような国 は、南方の蛮夷の間で孤立して、羽・狼・狐・狸の類と同居して、中国と会 盟して中華の風俗に触れることもなく、夷秋の習俗の名によって中国に告げ てきた。だから君子はその自称の通りに記しそれで越を罪したのである。・: かりそめにも、司馬遷が越を挙げてこれを諸侯の末に置くようなことをすれ ば、西戎の猿や枕などもまた越と同様に扱われなければならないことになろ う。そこで越については(中国から)絶ったり棄てたりし、後の人君にこの 様子を観て﹁中国の礼楽を知らなければ、越王の句践のような賢人であって も、絶たれたり棄てられることから免れない﹂といわせることにした。その 夷 秋 を 賎 し む 様 は 、 何 と 簡 単 で 明 白 で は な い か 。 ︺ ( 同 上 ) と、説く。呉は周の血筋でありながら、夷狭の礼を用いたことからこれを中国に 含めず、越については中国になびくこともしないでにいたずらに夷狭の風俗を用 いていることからこれを取り上げることをせず、かくして何のためらいもなく司 馬遷は中国の礼法・音楽を用いていないことを理由に、越を﹁(十二)諸侯年表﹂ から取り除いてしまった、とする。これを﹁簡而明﹂である、という。 最後に﹁微而切﹂については、班固の﹃漢書﹄諸侯王表から外戚王沢侯表に至 るまでの六つの表の列侯についての記名法が取り上げられる。すなわち、異姓の 列侯の場合には﹁号・誼・姓・名﹂が記され、同姓の列侯であれば﹁号・誼・名﹂ が記される。ところが六つの表の内、﹁王子侯表﹂では全体を上・下二巻に分けて、 四 ﹁ 号 誼 姓 名 ﹂ 上巻では﹁号誼名﹂を記しているが、下巻になると 扱いですませている。この事実を捉えて蘇淘は 夫以同姓列侯市加之異姓之列、何哉。察其故、蓋元始之問、王葬偽窒宗室而 封之者也。非天子親親而封之者也。宗室天子不能封、而使王葬封之。故従異 姓例。亦示天子不能有其同姓也、将使後之人君観之、日権之帰於臣、雄同姓 不能有。名器誠不可仮人実。則其防僧也、不亦微而切乎。(そもそも同姓の列 侯を異姓の列侯の系列に加えるというのはどいうことか。その理由を察する に、漢の平帝の一冗始年間に、王葬が偽って宗室の者を褒め、彼らを(列侯に) 封じた者たちだからである。天子が肉親を肉親として封じたのではない。宗 室の者を天子も封ずることができずに、王葬に封じさせた。だから異姓の例 に従ったのである。そうしてまた天子が同姓の列侯を有することもできな かったことを示し、後世の君主たる者にこの状況を見させ、﹁権限が臣下に帰 した場合、同姓の列侯でさえ有することはできないものだ。名と器とは本当 に人に借してはならない﹂といわせようとしたのである。その借越を防ぐ様 は、なんと微妙であって切実ではないか。) と、説くのである。元始年間(以後)列侯に封じられた宗室の者たちは、その措 置が皇帝ではなく一様に王葬によった者たちであるから、それ以前の皇帝が封じ た列侯と区別して彼らを異姓の列侯なみに庇し、かくして班固はそこに皇帝とい えどもその権限を臣下に委譲した場合には、(皇帝と)同姓の者であれ列侯に封ず ることもできず、窮することになる道理を悟したとして、これを﹁微而切﹂と断 じ た の で あ る 。 を記して異姓の 史書でありながらその記述に﹁隠而彰﹂﹁直而寛﹂﹁簡而明﹂﹁微而切﹂との書法 を用いて史実を後世に対する鑑戒にしたてる配慮が示されたことが、蘇淘にとっ ては評価され、司馬遷と班固の史書を孔子の﹃春秋﹄と同等の高みで把捉させる ことになったのである。その営みは蘇淘にとってまこと 其能為春秋継、而使後之史無及鷲者、以是夫。(彼らが﹃春秋﹄の後継者と なって、後の史書の追従を許さなかったのはこうしたためである。) ( ﹁ 史 論 中 ﹂ ) そうした蘇淘は のごとく他の史書の追随を許さぬ慶事とも思わせたであろうが、 明らかに史書を﹃春秋﹄に仕立てる意識を抱懐する者である。

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史実から史論へ

蘇淘においてなぜ史書が﹃春秋﹄と化しえるのか。注目すべきは彼晩年の著述﹁議 修礼書状﹂に見える以下の発言である。 遇事而記之、不択善悪、詳其曲折而使後世得知、而善悪自著者、是史之体也。 若夫存其善者而去其不善、則是制作之事而非職之所及也。(事件に遭遇してそ の事実を記し、その善悪を選ばずに記して、その曲折を詳細にして後世の人々 に知らしめて、善悪が自ずと顕著になるのは、史書の体裁であります。そも そもその善なる者を残して不善なる者を取り除くのは制作のことでありまし て、この職を担当する者の及ぶところではありません。) これは、当時欧陽惰に下された﹃太常因革礼﹄編集の任の実質的な担当者であっ た蘇淘が、自らに向けられた﹁祖宗所行、不能無過差不経之事。欲尽芝去無使存 録(諸皇帝がなされたことの中には過ちゃ道理に惇る行為がないとはいえない。 それらは全て除き去って、記録として残さないようにすべきである)﹂(向上)と の非難に対し反論したものであるが、史書は事実を直書して示された事実を通じ て後世の人にその善悪をありのままに伝えるものでなければならないとする、彼 の信念にも近い意識を訪梯させるであろう。それに対し、﹃春秋﹄はどうか。同じ く﹁議修礼書状﹂には 昔孔子作春秋、惟其側但而不忍言者、而後有隠語。︹昔、孔子は﹃春秋﹄を製 作した折りには、ただ心が痛んで言うに忍びないものにして始めて(事実を) 隠し誇むことがあった。︺ といって、意図的に史実を改変する作為を容認する。蘇淘はこうした意識を﹁史 論上﹂の中で一層鮮明にし、 経或従偽赴而書、或隠語而不書。若此者衆。皆適於教而己。(経書 H ﹃ 春 秋 ﹄ の中には偽りの報告に従って記したり、隠し謹んで記さなかった場合があっ て、こうしたケ

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スは多い。いずれも教訓とするに適切な場合である。) と述べて、﹃春秋﹄における史論の改変を﹁教に適ふ﹂教義の提示と認め、それ故 に経書としての資格を得ているとみなすのである。であれば、蘇淘が﹃史記﹄や ﹃漢書﹄を﹃春秋﹄に近づけて評価したのは、司馬遷や班固が史実を史実のままに 伝え、併せてその記述を二か所に分ける改変を施したことや、年表の前後で記名 の様式を改めた行為がこの場合の﹁隠語﹂に相当し、その措置によって史実の中 に﹁教に適ふ﹂教義を創出してこれを後世に一不す様が、あたかも﹃春秋﹄が後世 蘇淘と﹃春秋﹄│史論の﹃春秋﹄化 に鑑戒を垂れるのと同等の作用であったから、ということになろう。 そうであれば、蘇淘の史書を﹃春秋﹄と同等にみなそうとする発想は二つの点 でこれまで気づかれていなかった問題を惹起することになる。その一つは、史書 を著わすことによって孔子に限らず誰もが﹃春秋﹄と同等の経書を著わすこ とができるという意識の発生である。すでに見たように、蘇淘において孔子が製 作した﹃春秋﹄が経書としての価値を有するのは、そこに天子不在の状況を救お うとして天子に成り代わって天下を賞罰した周公の理念を託したとの仮定を是認 してのことであって、それは天子不在の状況下においてなお天子が営む秩序の下 に天下の平穏が維持されなければならない緊急性を背後にしてのことであった。 とすれば、新たな﹃春秋﹄の製作は孔子の聖人を庇しめる大逆ではなく、天子不 在の無秩序が出来した折りにはむしろなされなければならないことであり、その 可能性についてはすでに蘇淘自身が 後之効夫子作春秋者、五口惑君。春秋有天子之権。天下有君則春秋不当作。天 下無君則天下之権、五日不知其誰与。天下之人、烏有如周公之後之可与者。与 之而不得其人則乱。不与人而白与則倍、不与人不自与而無所与則散。嶋呼、 後 之 春 秋 乱 耶 。 借 耶 。 散 耶 。 ( ﹁ 春 秋 論 ﹂ 、 前 出 。 訳 は 第 一 節 参 照 ) と述べていた。それはまた、﹃春秋﹄を著わすことは誰にでもなしえることである が、、だからこそ新たに製作されるであろう﹃春秋﹄は天子の正統を受け継いで、 それを﹃春秋﹄の正義として具現しなければならないとの、﹃春秋﹄が﹃春秋﹄で あることの基準(絶対条件)を再認識させる営みでもあった。 二つには、史書の著述に史実の伝承との役割に加え、鑑戒の形成がその任務と して課せられた場合、そこに形成された鑑戒には鑑戒としてふさわしくない場合 もあって、それが却って人に誤った認識を植え付けかねないということである。 こうした危倶は、実際すでに泊嘩の﹃後漢書﹄や陳寿の﹃三国志﹄においてなさ れてしまったとして、蘇淘は以下のように述べる。

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嘩之史之伝・:其是非、頗与聖人異。論賓武何進則戒以宋嚢之違天、論西域則 惜張審班勇之遺仏主円是欲相将苛免以為順天乎。中国叛聖人以奉戎神乎。此 嘩之失也。(泊嘩の史書日﹃後漢書﹄の列伝は:・その是非判断が聖人孔子と頗 る異なる。賓武と何進を論じては、宋の裏公が天に違えたという戦国時代の 故事を持ち出して戒め、西域について論じては、張審や班勇が仏典を忘れて 中国に招来しなかったことを惜しんでいる。このようであるのは相・将たる 者はかりそめにも(災難から)逃れて天音叫に従うようにせよというのか。中 五

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万棺 秀司 木 背 長R 国は聖人の教えに背いて戎神を奉ぜよというのか。こうした解釈が成り立つ ことが活嘩の落ち度である。)

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寿之志三国也、紀魂而伝呉濁。夫三国鼎立称帝。親之不能有呉萄、猶呉萄之 不能有規也。寿独以帝当説、而以臣視呉・萄。呉・萄於謀、何有而然哉。此 寿之失也。(陳寿の﹃三国志﹄は、魂の皇帝を本紀に記し、呉と萄の皇帝は伝 で記した。そもそも三国は鼎立して皇帝を名乗ったのである。規が呉と萄を 手中にできなかったのは呉と萄が魂を手中にできなかったのと同様である。 陳寿はただ貌にだけ帝を当て、呉と萄には臣を当てた。呉と萄が現に対しど ういうことがあってそうだというのか。これが陳寿の落ち度である。) ( 共 に ﹁ 史 論 下 ﹂ ) 一不された史実を鑑戒として捉えなければならないとするならば、その読み取り方 によっては、史実は正義の所在をくらますことになり、史書の著者の意向とは掛 け離れた意図が後世の人々からあげつらわれることになる。それだけに、史書が ﹃春秋﹄と化して後世を庇械する正当が蘇淘には思われたのであり、それが彼にお ける史論の展開へと繋がっていったのであろう。戦国時代の六国の破滅の原因を、 秦の軍事的強大に求めることはせず、秦を恐れた六国が和親との見返りに領土を 秦に割譲した怯惰に求める﹁六国﹂は、返す刀で今なお六固と同様の政策によっ て金を懐柔しようとする宋王朝を暗に﹁有以天下之大而従六国破亡之故事、是又 在六国下(かりそめにも広大な天下を所有しながら六国が破亡した故事に倣うの は六国以下の振る舞いであるごと述べて、牽制する。呂后勢力の台頭を予期した 高祖が死ぬ直前、呂氏の娘を要った焚噌を斬り、なお呂后の専横を防ぐ意味で周 勃を軍事の統率権を持つ大尉に任じたが、それが却って漢の行く末に憂いを残す 措置であったと説く﹁高祖﹂は、漢の高祖の故事に仮託して宋の太祖超匡胤が身 後の措置を怠っている事実をほのめかしたものであるという(八 ) O 斉の桓公に相と して彼を覇者にまで至らしめた管仲は、しかし自己亡き後の補弼の臣を桓公に推 挙する責めを怠り、ついにその後長く続く斉の争乱を招いたと説く﹁管仲論﹂は、当 時宰相であった韓埼が神宗から王安石の登用を打診されてその不可を告げたもの の、積極的に排斥するまでには至らなかったことを誘ったものだ、とも言われる

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史実をかく現在と結び付けそこに当代的な意義を付与する彼の史論は、史実の全 ては鑑戒として現在に資するものでなければならない、とする彼の歴史意識を集 約化するものであろう。 こうした蘇淘の歴史意識を受け継いでこれを尖鋭化したのが蘇淘の第一子蘇戟 ノ 、 であろう。彼の﹁史林十三首﹂には、周・秦以後の王朝の史実を取って、それが 後世において鑑戒として活かされなければならない道理をオムニバスの形式を用 い、多角的に述べられている。中でも、﹁論管仲﹂では管仲が﹁三帰﹂(﹃論語﹄八 倍篇に見える。君と同様に一つ職掌に一人の使用人を置いたとと)を備える借越 を犯し、管仲亡き後は桓公の子たちに君位を争わせる六嬰の禍を招いた罪科を答 めて孔子は管仲を小人とみなしたものの、その一方で﹁兵革﹂によらずして諸侯 を糾合した盛事を﹁管仲の力﹂と称賛しているが、これこそは庭期すべき行為の 一方において顕彰すべき善事を見い出す孔子の歴史を読み解く慧眼であるとして、 こうした史実の判断を自らにも課して、 五ロ読春秋以下史、得七人意。皆盛徳之事、可以為万世法。又得八人意。皆反 是、可以為万世戒。(私は、﹃春秋﹄以下の史書を読んで、七人を見いだした。 いずれも盛徳の事であって、万世の法とすることができる。また八人を見い だしたが、彼らの場合はとれとは逆で、いずれも万世の戒めとすることがで き る 。 ) と述べ、往々にして評価の定まらない管仲ら都合十五人の史実の検証に入る。 田敬仲之始生也、周史筆之、其奔斉也、斉誌氏卜之、皆知其当有斉困、纂祇 之疑、蓋草於敬仲失。然桓公管仲、不以是廃之。乃欲以為卿。非盛徳能如此 乎。故吾以謂、楚成王知晋之必覇、而不殺重耳。漢高祖知東南之必乱、而不 殺呉王浩明、晋武帝聞斉王依之言、而不殺劉元海。符堅信王猛而不殺慕容垂。 唐明皇用張九齢市不殺安禄山、皆盛徳之事也。而世之論者則以謂、此七人者、皆 失於不殺以啓乱。五口以謂不然。七人者、皆白有以致敗亡、非不殺之過也。︹田 敬仲(斉の高俣のこと)が生まれたばかりの時、周の史が彼の将来を占った ところ、斉に奔るであろうとの見立てであった。斉(陳の誤り)の蕗氏が彼 を卜ったところ、いずれも彼が斉国を所有することになるのが分かった(﹃左 氏伝﹄荘二十二年)。纂棋の疑いは、思うに敬仲に集まづていた。けれども斉 の桓公と管仲はこのことで彼を辞職させることをしなかった。そうして彼を 卿としたのである。盛徳の人物でなければなしえぬことではないか。だから 私は考える、楚の成王が晋が必ずや覇者なることが分かっていて重耳を殺さ なかったこと、漢の高祖が東南の地が必ずや乱れるであろうことが分かって いて呉王湧を殺さなかったこと、晋の武帝が斉王般の言を聞いて劉一冗海を殺 さなかったこと、符堅が王猛を信じて慕容垂を殺さなかったこと、唐の明皇 が張九齢を用いて安禄山を殺さなかったのは、いずれも盛徳の事であると。

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ところが世の論者は、この七人は、いずれも殺さなければならない者たちを 殺さずに失敗し、それで乱を招いてしまったという。私はそうではないと思 う。七人はいずれも自分から敗亡を招いた者たちであって、殺さなかったこ と の 過 ち で は な い 。 ︺ と説くのは、田敬仲ら不実の輩を謙殺せずにこれを生かして用いたことが当時の 実情を慮った君主らの英断であってそれを非難する世論は正鵠を射た議論ではな いとするもので、返す刀で 漢景帝以映映而殺周亜夫、曹操以名重而殺孔融、晋文帝以臥龍而殺税山康、晋 景帝亦以名重而殺夏侯玄、宋明帝以族大而殺王喝、斉後主以謡言而殺剤律光、 唐太宗以識市殺李君羨、武后亦以謡言市殺斐炎、世皆以為非也。此八人者、 当 時 之 慮 、 山 豆 非 憂 国 備 乱 、 与 憂 一 元 海 安 山 者 向 乎 。 : ・ 五 日 以 謂 、 為 天 下 如 養 生 。 憂国備乱如服薬。養生者、不過慎起居飲食、節声色而己。節慎在未病之前。 而服薬在己病之後。今吾憂寒疾而先服烏喚、憂熱疾而先服甘遂、則病未作而 薬殺人実。彼八人者、皆未病而服薬者也。(漢の景帝は周亜夫らに対し満足で きずに彼を殺し、曹操は名教は重いということで名教を侮辱した孔融を殺し、 晋の文帝は替康は臥龍で世に害をなすという鐘会の言を聞いて替康を殺し、 晋の景帝もまた名教は重いということで夏侯玄を殺し、宋の明帝は自分の死 後、王氏一族の勢力が大きくなるのを恐れて壬惑を殺し、斉の後主は謡言に よって餅律光を殺し、唐の太宗は図識によって李君羨を殺し、武后もまた謡 一一百によって蓑炎を殺したが、世の人はいずれもその行いを誤りであるとした。 この八人について当時の人々が憂慮した様は、国を憂え乱に備えた様子が元 海や安禄山を憂えたのと同様ではないか。:・私が思うに、天下を治めること は養生のようである。国を憂え乱に備えるのは薬を服するのと同じである。 養生は、起居飲食に慎み、声色を節するにすぎない。節したり慎しんだりす ることは発病以前のことである。薬を服用するのは発病後のことである。今 私が寒疾を憂えて発病の前に烏曝を服用し、熱疾を憂えて発病前に甘遂を服 用したとすれば、発病前に薬が人を殺すことになる。彼の八人は、いずれも 発病前に薬を服用した者たちである。) と説く蘇献は、漢の景帝が抽出︿末なことで臣下を殺し自己の安心を図った行為等を 警戒心の行き過ぎとして断罪し、君主たる者に爾後の戒めとして自重を求めるも のである。歴史は蘇軟にあっても現在に資する教謁として意義があり、史実の一 つ一つは現在を鋭く戒める鑑戒となって機能しているのである。ただし、蘇献の 蘇淘と﹃春秋﹄│史論の﹃春秋﹄化 1 ー 場合は、父の蘇淘が史書を限りなく﹃春秋﹄に近づけて史実の鑑戒化を図ったの に対し、﹃春秋﹄や﹃論週間﹄中に記される孔子の意図によって史実の一つ一つを測 定し、そこに孔子の価値観を託して新たな鑑戒を捜出しようとするもので、この 蘇献の立場は蘇拭自身が孔子の意を体し、孔子に成り代わってー孔子が魯の﹃春 秋﹄を書き改めそこに楼乱反正の理念を盛り込んで経書の﹃春秋﹄を著わしたよ うに後世の史書を﹃春秋﹄と化すものであろう。が、そのことについては全て 別稿に譲ることとしたい(に )O

量五 回ロ 蘇淘の史論を﹃春秋﹄と化する意図は、巨視的に見た場合、﹃新五代史﹄を著わ してそこに﹁春秋﹄の筆法を試みた欧陽情、司馬光の﹃資治通鑑﹄の編集に参加 してなおその書に飽きたらずに﹃唐鑑﹄を著わして、唐の史実を鑑戒として示し た泊祖再、更には司馬光の﹃資治通鑑﹄を簡略化してこれを﹃春秋﹄の筆法で書 き改めた朱子などとも、同軌であろう。その意味では、蘇淘の史論の﹃春秋﹄化 は、歴史を鑑戒として示そうとする当時の時代思潮を反映しているともみなされ よう。けれども、そのような歴史意識の展開は、それに先立って、﹃春秋﹄の製作 は孔子のごとき聖人でなければなしえぬ事業であるという従来の価値観を覆し、 何人であれ﹃春秋﹄のごとき書の著述はなしえるとの共通認識を必要とする。そ うした必要性に鋭敏に反応したのが蘇淘であることは、やはり認められなければ ならないであろう。 いったい、孔子の地位を亮・舜の聖王の領域から引き下ろし、人臣の領域に置 き換えて孔子の聖人像を提示したのは、蘇淘より十二年後に生まれた王安石で あった。彼は、聖人とは亮・舜の聖王であり、周王朝の文王・武王・周公のこと であって、儒教でいう﹁経書﹂も﹁先王の典籍﹂のことであるとした。それ故に 孔子が著わした﹃春秋﹄は、孔子が先王ではなかった事実によって経書から外れ るとして、学官からも取り去ったのである()。そうした彼の意識を闇明するのが ﹁夫子賢子完舜﹂であって、そこで王安石は 昔者道発乎伏義而成乎完舜、継市大之子百円・湯・文・武。此数人者、皆居天 子之位、而使天下之道寝明寝備者也。而又有在下而継之者意。伊弄・伯夷・ 柳下恵・孔子是也。(昔、道は伏義より発して亮・舜で完成され、再・湯・ 文・武の各王に継承されて大きくなった。この数名はいずれも天子の位に居 七

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ガ恒 芳司 木 良;r 哲 り、天下の道をいよいよ明らかにし完備させた者たちであった。そうしてま た臣ドの位にあってこれを継承した者がいた。伊手・伯夷・柳下恵・孔子ら が そ れ で あ る 。 ) と、孔子を聖王の系列から臣下の系列に置き換えてみせ、その聖王の道が孔子に よって完成される理由を 夫伏義既発之也、而其法未完、至子完而後成走。完雄能成聖人之法、未若孔 子之備也。夫以聖人之盛、用一人之知、足以備天下之法、而必待至子孔子者何 哉。蓋聖人之心、不求有為子天下、待天下之変至君。然後吾因其変而制之法耳。 至孔子之時、天下之変備失。故聖人之法、亦白是而後備実。(そもそも伏義は 既に道を発したが、その法はまだ完成しなかった。完帝に至って初めて完成 したのである。完は聖人の法を完成させることはできたが、まだ孔子が完備 させたほどまでには至らなかった。そもそも聖人の盛大な様から言えば、一 人の聖人の知識を用いただけで天下の法を備えるに十分である。にも拘わら ず、必ず孔子の登場を待ったのはなぜか。思うに聖人の心は、殊更に天下に 作為を施そうとはしないもので、天下の変が到来して初めて、自分がその変 によって天下の法を制定する、というのである。孔子の時に至って、天下の 変は備わった。だから聖人の法もまたこの時から備わることになった。) と説明する。これによって王安石は、孔子を尭・舜よりも賢者であるとはするが、 だからといって聖王と同等の聖人と扱うことはない。孔子はあくまでも臣下の系 列で生きた聖人なのである。 こうした認識を媒介として宋代の春秋学は孔子の聖人を聖王の彼岸から人臣の 此岸へ招き寄せることができたのであり、それがまた﹁聖人学んで至る可し﹂と の宋代一流の倫理観の形成に拍車をかけることになったのであろう。 ことほどさように、蘇淘の﹃春秋﹄観は孔子の聖人像を人臣 1 当時人臣に相当 するのは士大夫階級であるから実質的には士大夫に提示して、彼らに﹃春秋﹄ を著わした孔子によって聖人へ至る道標を一不すことにもなった。だからこそ史書 を著わすことが、孔子が﹃春秋﹄を著わして鑑戒を後世に垂れたのと同等の事業 であると思われたのであって、その延長線上に自己の聖人が像を結ぶことにも なったのであろう。蘇淘の﹃春秋﹄観には、そうした北宋土大夫の意識構造が見 え隠れしているのである。 八

(一)テキストには曾棄荘・金成礼両氏の﹃嘉祐集筆注﹄(上海古籍出版社、 九三年)を用いる。 (二)永貞革新と峻助の﹁忠道原情説﹂との関係については、拙稿﹁永貞革新と春 秋学!唐代新春秋学の政治的展開│﹂(未刊)において詳述する。 (三)韓愈の﹁進士策間十三首﹂の中にも﹁古之人有一五、夏之政尚忠、股之政尚敬、 而周之政尚文。是三者相循環終始、若五行与四時五局。原其所以為心、皆非故立 殊而求異也。冬適於時救其弊而巳。至周之典籍戚在、考其文章、其所尚不相遠 然志﹂と見えている。この点からいえば、映助の﹁忠道原情説﹂は唐代ではか なり広まっていたことが伺えよう。また韓愈と﹃春秋﹄の関係については、拙 稿﹁韓愈と﹃春秋﹄永貞革新をめぐって│﹂(未刊)に詳述している。 (四)峻助の﹁忠道原情説﹂の実際は、拙稿﹁唐代の儒教と峻助・越匡・陸淳の春 秋学 1 序 説 │ ﹂ ( 平 成 八

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十年度科学研究補助金(基盤研究 C ) 研究成果報告書 ﹃峻助・超匡・陸淳を中心とする唐代春秋学の基礎的研究﹄)に詳述する。 (五)拙稿﹁柳宗元における古文復興運動と春秋学 l ﹃非国語﹄を中心として﹂ ( 未 刊 ) 、 及 び 注 ( 一 一 ) 論 文 に 詳 述 す る 。 ( 六 ) 拙 稿 注 ( 二 ) ( 五 ) 論 文 。 (七)蘇淘に限らず、彼の第一子蘇献にも﹁唐柳宗一冗劉再錫、使不陥叔文之党、其 高才絶学、亦足以為唐名臣失﹂(﹁続欧陽惰朋党論﹂)という発言が見える。こう した見解は蘇氏一族においては共通の認識になっていたのであろう。 (八)周振甫氏﹃蘇淘散文精品選﹄(峡西人民出版社、一九九五年)九三頁。 (九)前野直彬氏﹃文章軌範(正篇)上﹄﹁管仲論﹂一七七頁(明治書院、新釈漢 文 大 系 ) に 拠 る 。 ( 一

O

)

拙稿﹁蘇載の春秋学 l 史論と﹃春秋﹄│﹂(未刊)を参照されたい。 (一一)李祥俊氏﹃王安石学術思想研究﹄(北京師範大学出版社、二

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年)三

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頁以下、拙稿﹁王安石の経学と﹃春秋﹄緒論﹂(﹃鳴門教育大学研究紀要(人 文社会科学編﹄、第十九巻、ニ

O

O

四 年 ) を 参 照 。 九

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蘇 淘 与 《 春 秋 》

一 史 論 的 《 春 秋 》 化

震 木 哲 郎

蘇淘、字明允、号老泉、眉州眉山人。宋史云、年二十七始発憤為学、歳余挙進土、又挙茂~-異等、皆不中。悉焚常 所為文、閉戸益読書、遂通六経、百家之説、 下筆頃刻数千言。至和・嘉祐問、与其二子拭・轍皆京師。翰林学 I~ 欧|場 惰上其所著書二十二篇、既出、士大夫伝争之、一時学者競効蘇氏作文章。雪聖子蘇j旬的非凡成就、後世将其与其子蘇 執・蘇轍一同列入唐宋八大家。蘇沖j不但王子文章、而且対《春秋》的研究造詣恨深。正因如他対北宋春秋学的発展也 頗有影響。所以本人予在此論文中討論蘇淘対《春秋》的認識及其状況、由此而確認他在北宋春秋学研究与拡展~:的位 置。

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