velopment of Seta ga ya Bor oic hi (R ag F air) in T ok yo A T oshiaki 農 民 市 と し て は 東 京 都 内 最 古 の 存 在 で あ る 世 田 谷 の ボ ロ 市 は 、 一 五 七 八 年 ) に お け る 後 北 条 氏 の 市 立 掟 書 の 存 在 に よ っ て 、 そ の こ と を 確 か め う る 重 占 め て い る が 、 当 初 よ り そ れ は 典 型 的 な 六 斎 市 と し て 成 立 し て い た 。 北 条 た 近 世 期 に は 年 に 一 度 の 歳 の 市 と な っ た が 、 彦 根 藩 領 内 に あ っ て 代 官 の 支 に 置 か れ る こ と と な っ た 。 近 代 期 に は 村 方 の 運 営 す る 農 民 市 と な り 、 改 暦 月 ・ 一 二 月 の 二 度 の 市 立 と も な っ て い っ た が 、 明 治 期 に は ボ ロ 布 市 ・ 筵 市 れ る よ う に な り 、 大 正 期 に は 植 木 市 と し て の 発 展 も み た 。 近 代 産 業 の 勃 興 整 備 を 通 じ 、 前 近 代 的 な 商 品 取 引 は し だ い に 一 掃 さ れ 、 市 場 商 人 と 地 元 と 殊 な 相 互 関 係 も 解 消 さ れ て い く こ と と な り 、 第 二 次 大 戦 後 に は 暴 力 団 系 テ キ ヤ 組 織 の 介 入 を 許 す 余 地 を 与 え る こ と と な っ た 。 そ れ ゆ え 戦 後 の 市 立 の 民 主 的 な 改 革 は 、 そ れ ら と の 対 決 な く し て 実 現 す る こ と が で き ず 、 粘 り 強 い 努 力 を 通 じ て 地 元 民 は つ い に 一 九 六 五 年 ( 昭 和 四 〇 年 )、 つ い に こ れ を 達 成 す る に 至 っ た 。 こ の 成 果 に よ っ て 今 日 の ボ ロ 市 の 運 営 基 盤 が 形 作 ら れ 、 市 立 の 現 代 化 が な さ れ て い っ た 。 今 日 の 出 店 構 成 に 関 す る 実 態 調 査 結 果 か ら も 、 改 革 後 の 特 色 あ る 業 種 実 態 、 出 店 者 の 広 域 化 、 地 元 主 導 型 の 民 主 的 運 営 形 態 の 定 着 と い っ た 諸 傾 向 を 、 そ こ に 明 確 に 見 い 出 す こ と が で き る 。 【 キ ー ワ ー ド 】 市 、 ボ ロ 市 、 歳 の 市 、 露 天 商 、 世 田 谷 ・ 筵市時代 ・ 雑貨市時代 ❺ 昭和戦後期における治安問題 ❻ ボロ市保存会の発足 ❼ 現代の世田谷のボロ市 おわりに
長沢利明
谷
の
ボ
ロ
市
の
発達史
と
現況
はじめに
世田谷のボロ市といえば、東京の冬の風物詩としてよく知られ、今日 で は 二 〇 万 人 も の 人 出 で に ぎ わ う 重 要 な 観 光 行 事 と な っ て い る。 そ れ は、東京都世田谷区世田谷に残る旧彦根藩の大場家代官屋敷跡の周辺を 主たる会場としてなされる一大雑貨市なのであるが、かつての農民市が 現 代 的 に 発 展 し た 青 空 市 で あ っ て、 も と も と は 農 民 相 手 の 古 着 や ボ ロ 布、その他の中古の生活物資類を商う市であったために、ボロ市と呼ば れてきた。ボロ市自体は大都市の周辺農村などで、季節市の形をとりな がら広く見られたものであり、東京都内の例をあげてみるならば、たと えば足立区千住の勝専寺の門前で毎月二 ・ 七の日におこなわれていた 「千 住 の ボ ロ 市 」 が あ っ た も の の、 一 九 七 八 年 頃 に 廃 れ て し ま っ て い る 〔 足 立 区 役 所( 編 ) 一 九 七 九 二 一 五 ~ 二 一 七 頁 〕 。 江 戸 川 区 東 葛 西 の 昇 覚 寺 の門前で毎月六の日におこなわれる「葛西のボロ市」は今でも続けられ ており、一二月のそれは特に盛況で歳の市ともなっているが、その歴史 は浅くて一九三二年頃に始まったに過ぎない。練馬区関町の本立寺の門 前で一二月九~一〇日に立つ「関のボロ市」も、やはり寺院の門前に立 つ歳の市で、日蓮宗の御会式行事から始まったものであるが、その起源 は 安 政 年 間( 一 八 五 四 ~ 一 八 五 九 年 ) に さ か の ぼ る と い わ れ て い る 〔 佐 藤 一九八八 二二~二三 頁 〕 。 これらに比べれば世田谷のボロ市の歴史はきわめて古く、実に一六世 紀の昔にまでさかのぼることがほぼ明らかで、しかもそれは寺院の門前 市としてではなく、都市郊外の拠点的集落を市立の場としてなされてき た非門前市型の農民市としてあり続け、二〇世紀にあっては近代化・現 代化への脱皮にも成功して、大規模な観光雑貨市にまで発展した稀有な 例 と い え る。 か つ て の そ の 農 民 市 時 代 の 市 立 の 様 相 は い か な る も の で あったのか、いかにしてその現代化が達成されてきたのか、観光化への 脱皮にあたってどのような諸問題が克服されてきたのか、そして現代の 市はどのような形でなされており、いかなる新たな問題をそこにかかえ て い る の で あ っ た ろ う か。 こ れ ら を 明 ら か に し て い く た め の 詳 細 な 調 査・研究は、必ずしも十分になされてきたわけではなく、その成果は非 常にかぎられたものにとどまっている。もちろん、注目すべきすぐれた 調査報告も今までにいくつか出されてきており、そのおもだったものを あ げ て み る な ら ば、 た と え ば 一 九 六 〇 年 代 に な さ れ た 北 村 嘉 行 に よ る 詳 細 な 店 舗 数 調 査 の 報 告 が あ っ て 〔 北 村 一 九 六 三 三 ~ 一 四 頁 〕 、 当 時 の ボ ロ 市 の 出 店 状 況 な ど を そ こ か ら 知 る こ と が で き る。 同 時 代 に 熊 沢 繁 雄 の 手 で な さ れ た 各 出 店 へ の ア ン ケ ー ト 調 査 の 成 果 な ど に も〔 熊 沢 一 九 六 五 一 六 ~ 一 七 頁 〕、 注 目 に 値 す る 内 容 が 示 さ れ て い る。 近 年 で は 世 田 谷 区 立 郷 土 資 料 館 や 〔 世 田 谷 区 立 郷 土 資 料 館( 編 ) 一 九 九 八 〕 、 長 沢 利 明 に よ る 調 査 成 果 も 報 告 さ れ て き て お り 〔 長 沢 二 〇 〇 六 一 〇 四 ~ 一 〇 九 頁 〕 、 西 脇 真 紀 江 〔 西 脇 二 〇 〇 三 一 ~ 三 頁 〕 ・ 早 川 典 江 〔 早 川 二 〇 〇 三 四 ~ 五 頁 〕 ・ 有 馬 奈 保 子 〔 有 馬 二 〇 〇 三 五 ~ 六 頁 〕 ・ 石 川 博 司 〔 石 川 二 〇 〇 一 二 頁 〕 ら に よ る 報 告 を も 含 め て、 ボ ロ 市 の お お よ その実態は知ることができるようになった。 しかしながら、そこにはなお多くの検討課題がいくつも残されている のであって、近世期から現代に至るまでの間にボロ市がたどってきた総 合的な発達史の再構成と、市立の性格の変化・変遷のプロセスを通時的 に明確化してみるための作業は、なお引き続き報告の蓄積が求められて いるように思われる。そこには行政的な立場からなされる報告にはなか なか触れにくい、治安面に関する諸問題なども多々あって、あまり具体 的には述べられてはこなかったのであるが、それはボロ市の今日的発展 のために避けては通れなかった出来事なのであり、地元住民らがいかに してこの問題を解決し、市を守り育ててきたのかという輝かしい成果についても、支障のない範囲できちんと記録されていかねばならないこと であろう。そして、現代のボロ市がどういった出店構成でなされている のかといった、くわしい実情についても、極力正確に把握されなければ ならないのはもちろんである。こうした観点に立ちながら、ここでは世 田谷のボロ市の発達史と現況に関する調査報告を、あらためてこころみ るものである。
❶
中世期における楽市時代
それではさっそく、世田谷のボロ市のたどってきた長い歴史を、振り 返ってみることにしよう。まずは、その発生期の諸状況について見てお かねばならないとはいうものの、この農民市がいつの時代に始まり、い かにして発生・成立したのかということに関する諸情報は、ほとんど何 も残されてはいない。唯一にして重要な手掛かりとなる一五七八年(天 正六年)における後北条氏の市立掟書が、今まで知られてきたに過ぎな いのであるが、この史料の存在によって市の歴史が少なくとも一六世紀 にまでさかのぼることが明らかとなるのであるからして、きわめて重要 な基礎情報といえるであろう。現在の市の主催者である世田谷ボロ市保 存会では、これにもとづいて一五七八年をボロ市の発祥元年とし、そこ か ら 起 算 し た 四 〇 〇 周 年 記 念 行 事 を 一 九 七 七 年 に 挙 行 し て い る の で あ る。 北 条 氏 か ら 世 田 谷 新 宿 に 対 し て 出 さ れ た そ の 一 五 七 八 年 の 掟 書 と は、旧代官大場家所蔵文書中にある次のようなものであった(図 1)。 掟 一、 市 之 日 、 一 ヶ 月 、 一 日 、 六 日 、 十 一 日 、 十 六 日 、 廿 一 日 、 廿 六 日 一、押買狼藉堅令停止事 一、国質郷質不可取之事 一、喧嘩口論令停止事 一、諸役一切不可有之事、已上 右為樂市定置所如件 天正六年戊寅九月廿九日 山角上野介 奉之 世田谷新宿 図 1 北条氏の楽市掟書 〔渡辺(校訂), 1961:p.242〕文書には「福寿応穏」の印文で知られる北条氏の虎朱印が捺されてお り、北条氏政の奉行で御馬廻衆の一人であった山角上野介の署名が見ら れる。ここにある市立の日は、 毎月一の日と六の日の六日(一日 ・ 六日 ・ 一一日・一六日・二一日・二六日)と定められており、いわゆる一 いちろく 六の 六斎市の形が取られていて、当時は定期市であったことがわかる。後に 六 日 間 の う ち の 一 六 日 の 市 の み が 師 走 に 残 さ れ て、 近 世 期 の 歳 の 市 に なっていったということになる。市場においては押売りや喧嘩口論、国 質・郷質を堅く禁じたとあるが、国質・郷質というのは所質ともいい、 出店商人が本国在所で作った債務(借銭 ・ 借米)を、 債権者が返済を迫っ て市場に押しかけ、商品などを差し押さえることをいった。債権者以外 の物品が混同されて紛議が生じることもあり、禁止されることとなった ら し い 〔 世 田 谷 区( 編 ) 一 九 五 九 一 八 一 頁 〕 。 末 尾 に あ る 楽 市 と は、 も ちろん織田信長以来の楽市楽座をいっており、旧来の座商人による独占 的権益を排して自由取引を許したということである。楽市の文献上の初 見は、一五四九年(天文一八年)における近江佐々木氏の観音寺城下石 寺町のそれであるといい、それ以降は東海諸侯の間にもしだいに普及し て い っ た と い わ れ て い る が 〔 同 一 八 一 頁 〕 、 そ の 動 き は 二 九 年 後 の 武 蔵 国の世田谷にまで波及していたことになる。 なお、市立の公許のなされたこの世田谷新宿の地は、旧来の地域の中 心的集落であった世田谷元宿(本宿)に対して新宿と呼ばれていた。元 宿は旧領主で足利氏の一族であった吉良氏の城下町(いわゆる世田谷御 所 ) で、 鎌 倉 街 道 の 宿 駅 で あ っ た と も い わ れ て お り 〔 世 田 谷 区 教 育 委 員 会( 編 ) 一 九 八 四 二 七 八 頁 〕 、 現 在 の 世 田 谷 区 役 所 付 近 が そ の 地 に あ た るという。新宿はその元宿の南側を東西に走る往還沿いに形成された街 村で、近世にはそれが東寄りの上町と西寄りの下町とに分かれていた。 新宿の集落内を横断する往還が矢倉沢往還であって、近世の大山街道に あたる(図 2~ 3)。図 2に見るように、 新宿の街村の町並みは食い違っ 図 2 1881年(明治14年)の世田谷新宿周辺図 註)2万分の1迅速図より。
図 3 旧町村の大字・字界図
ており、西側の上町の入口と上・下両町の境は街道が直角に屈曲してつ ながっている。これこそが古市場の町並みの形式を歴然と残すものであ る と、 古 来 い わ れ て き た の で あ っ て 〔 高 橋 一 九 七 一 三 三 七 頁・ 世 田 谷 区 教 育 委 員 会( 編 ) 一 九 六 八 三 七 頁 〕 、 関 東 各 地 の 古 い 都 市 に は こ れ に 近 い T 字 型 に 屈 折 し た 町 並 み 構 造 が、 し ば し ば 見 ら れ る と い う 〔 世 田 谷 区役所(編) 一九五一 二一九頁〕 。 吉良氏が北条氏の配下に組み入れられるとともに元宿は衰微し、北条 氏の勢力拡大とともにその庇護下にあった新宿が、地域の新たな拠点集 落 と な っ て い っ た わ け で あ る が、 『 新 編 武 蔵 風 土 記 稿 』( 『 世 田 谷 区 史 料 集 』 所 収 ) に も、 「 相 伝 フ、 此 所( 元 宿 ) ハ 昔 吉 良 氏 ノ 盛 ナ リ シ 比、 城 下町ナリシユヘ駅家ナドモ有シカバ、ソノ世ニハコトニ繁栄ノ地ナリ。 ヨ リ テ 後 マ デ モ 本 宿 ナ ド ト 唱 ヘ シ カ ド、 ソ レ モ 今 ハ 知 ル 人 マ レ ナ リ ト 云 」 と あ る。 同 書 に は さ ら に、 「 タ ダ 今 モ 字 ニ 上 町・ 下 町 ナ ド 云 処 ア リ テ此所ハ民家連綿セリ」とあって、新宿の繁栄ぶりは近世期にも変わら ない。 世 田 谷 新 宿 の 発 展 は、 ま っ た く 矢 倉 沢 往 還 の 存 在 に よ る も の な の で あって、北条氏は江戸と小田原とを結ぶこの街道ルートをことのほか重 視し、その交通の要衝としての宿駅・伝馬基地をここに整備して、そこ で の 楽 市 の 振 興 を は か っ た も の と 思 わ れ る 〔 世 田 谷 区( 編 ) 一 九 五 九 一 八 一 頁 〕 。 関 東 制 覇 後 の 北 条 氏 は、 岩 槻・ 川 越・ 江 戸・ 八 王 子・ 津 久 井・小机・玉縄などに諸支城を築き、それらと小田原の本城とを結ぶ相 武 貫 通 道 路 の 整 備 が 積 極 的 に な さ れ て い っ た わ け で あ る。 一 五 七 六 ~ 一五七七年(天正四~五年)になされた旧江戸城の大修築によって、江 戸・小田原間の交通路の戦略的重要性はとりわけ高まり、かくして矢倉 沢 往 還 筋 の 拠 点 的 宿 駅 と し て の 世 田 谷 新 宿 の 経 済 的 振 興 が は か ら れ て いったということかもしれない。そこでの楽市の成立の背景因には、そ うした事情をも考えていかねばならない。北条氏以前の時代、旧領主で あった吉良頼康も一五五〇年(天文一九年)に、現在の神奈川県川崎市 内にあたる上小田中市場(後の泉澤寺門前の施餓鬼市)に対して保護政 策 を 展 開 し て い る と は い う も の の 〔 下 山 一 九 九 五 二 一 ~ 二 六 頁 〕 、 そ れ は ま だ 楽 市 で は な か っ た こ と に 比 べ れ ば 〔 世 田 谷 区( 編 ) 一 九 七 六 a 六 八 頁 〕 、 北 条 氏 に よ る 世 田 谷 新 宿 の 市 の 発 展 は、 新 た な 時 代 の 到 来 を 告げるものであったはずである。
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近世期における市町時代
北条氏政による楽市掟書が出されてから一二年後の一五九〇年(天正 一 八 年 )、 豊 臣 秀 吉 に よ る 小 田 原 征 伐 が 完 了 し て 北 条 氏 の 領 国 支 配 は 瓦 解することとなるが、そのさなかの同年四月には世田谷一二ヶ村に対し て秀吉の禁制状がすでに出されている。楽市の最大の庇護者であった北 条氏が没落した後の近世期には、世田谷新宿の市もしだいに衰亡への道 をたどることとなるが、直接的には矢倉沢往還と世田谷宿の重要性が失 われていったことが、大きく響いたものと思われる。時代はすでに五街 道中心の交通網が確立されつつある時期にさしかかっており、甲州道中 や 東 海 道 の 宿 駅 整 備 が 進 む と と も に、 旧 往 還 筋 の 交 通 需 要 が 奪 わ れ て いったということでもあろう。江戸の市街地の膨張と、そこでの商業圏 の 拡 大 は、 在 方 商 人 の 活 躍 の 余 地 を も 失 わ せ て い っ た ら し い 〔 世 田 谷 区 立 郷 土 資 料 館( 編 ) 一 九 八 七 五 頁 〕 。 か く し て 世 田 谷 新 宿 の 市 は 衰 退 に 向 か っ て い っ た が、 『 四 神 地 名 録 』( 『 世 田 谷 区 史 料 集 』 所 収 ) に 次 の よ うに記された通りであった。 世田ヶ谷の地は、吉良うしの時は城下の市中にて、荏原郡・多磨郡 のうちにては第一の交易所にて、商人も数多有りてはんじゃふの所 なりしに、吉良家没落し、且江戸の地、御在城となりしより自然と 衰 おとろ へ、商人の分は江戸へ所をかへし故に、今のことき辺 へんひ 鄙の僻地となりし事と云々。 とはいえ、世田谷新宿の市が完全に廃れてしまったというわけではな く、月に六度の市が一度に減らされ、まずは一ヶ月周期の定期市になっ ていくという変化が見られたものらしい。つまり六斎市の市日のうちの 一日、月の一六日の市のみが当初は残存していたようであるが、ついに はそれも衰微して年に一度の師走の歳末市となり、それが近現代期にま で残存していったようである。それは定期市が季節市に転化したという ことであったが、さらにその市立日もかつての一六日から旧暦満月の物 日にあたる前日の一五日へと変更され、結果的に一二月一五日の歳末市 へと変わっていったものと思われる。当地方では一二月一三日に年末の 煤 払 い( 大 掃 除 ) が な さ れ る の が 通 例 で あ っ た か ら 〔 渡 辺 一 九 五 二 四 頁 〕 、 そ の 二 日 後 に あ た る 一 五 日 が、 歳 の 市 の 日 取 り と し て ふ さ わ し かったということであったかもしれない。地元の世田谷では、この歳の 市のことを俗に「市 いちまち 町」と呼びならわすようにもなっていった。この間 の経過については、 次に掲げる 『新編武蔵風土記稿』 (『世田谷区史料集』 所収)の記述が、よく説明している。 古ハ毎月一六日ノ日ニ市アリシヨシ。荏原郡・多磨郡ノ内ニテハ第 一 ノ 交 易 ノ 所 ナ リ シ カ バ、 商 人 モ 多 ア ツ マ リ テ、 コ ト ニ 賑 ヘ リ 。 北 条 家 ヨ リ 下 セ シ 市 ノ 免 状 ト 云 モ ノ 今 モ 井 伊 家 ノ 家 人 伝 ヘ タ リ( 中 略 )。 ソ レ モ 御 入 国 ノ 後 ハ 次 第 ニ 衰 ヘ テ、 イ ツ ノ 比 ヨ リ カ 年 ニ 一 度 ヅツ市タテリ。此日ハ商売サマザマアキモノヲ持出、近郷ノ人ツド ヒテ賑ヘリ。 さらに、市町の直接的な管理者であった新宿の大場代官家の一〇代当 主で、 名代官としても知られる大場弥十郎景運が一八〇一年 (享和元年) に ま と め た 記 録、 『 世 田 谷 勤 事 録 』 に も 先 の 北 条 氏 の 掟 書 に 添 え て、 次 のような記述がなされていた 〔渡辺(校訂) 一九六一〕 。 天正之頃、 関八州領主相模国小田原城主北条氏政之御朱印之由、 代々 申伝。昔は如此、世田谷上下宿市町ニ而月次六度ツツ市立候由。尤 吉良家在城之節乎。厥后東照神君江戸ニ御在城ニ相成候故、爰辺大 都近郷因茲都鄙用弁足、東都以後自然ト市町止。雖然年々至十二月 十五日、上下宿隔年ニ市町立、尓に今繁盛右之所以乎。 これらによれば、六斎市の衰亡と歳の市への変化は家康入国の頃、す なわち一七世紀初頭のことであったといい、それ以前は荏原郡・多摩郡 内 第 一 の 交 易 の 場 で、 繁 華 を き わ め て い た と い う。 一 六 三 三 年( 寛 永 一〇年)に世田谷周辺一五ヶ村(後に二〇ヶ村)が彦根藩領となってか らは、市は井伊家の代官支配下に置かれることとなる。以来、その歳の 市 は 新 宿 を 上 町( 上 宿 )・ 下 町( 下 宿 ) と に 分 け、 双 方 で 毎 年 の 市 立 の 場所を隔年交替するようになり、代官による見廻りの巡視がなされるよ う に な っ て い っ た。 そ の 様 子 に つ い て も、 『 世 田 谷 勤 事 録 』 の 一 八 〇 一 年 (享和元年) の記載にくわしく描写されていて、 以下の通りであった。 世田谷市町之記 一、 十 二 月 十 一 二 日 頃、 当 市 町 年 番 宿 へ 使 申 付 候 而 桜 田 御 賄 方 へ 届 文。半切認メ切封之。 以書付申上候。然は例年之通来ル十五日、世田ヶ谷宿ニ市町場立申 候ニ付、此段御届申上候。且又見廻り之義、御屋敷より御役人衆御 差越被成候哉、例年之通拙者共相勤可申哉、此段奉伺候、以上。 午十二月十二日 荒居一郎兵衛・大場弥十郎 さくら田御賄方様 右之趣以使差出候処御家老中へ相伺、従是可及返事申来ル。其節即 刻返事申来ル事有。又者十三四日頃、例之通各方可相勤、申越候儀 も有之。 市町済届文 以書付申上候。然は此間御届申上候世田谷宿市町之義、昨十五日拙 者共見廻り相勤、無滞相済申候。此段御届申上候、以上。
午十二月十六日 両人名 さくら田御賄方様 市見廻り動向 十二月十五日世田谷上下両宿市町隔年ニ行之事。朝四ツ頃より召連 候者共大場弥十郎宅江相揃置、例年世田谷名主壱人、上町市町之節 下町名主 ・ 年寄出勤之、下町市町年は上町名主 ・ 年寄出勤ニて可致、 寛政十午年申渡之以後定ル。弦巻村年寄・新町村年寄、尤名主有之 候得は名主出勤。世田谷村より人足四人、是又鳶口・棒為持、前後 ニ立召連ル。寛政七卯迄右四人之人足之外ニ町廻りと号して四人ツ ツ別段人足出之候得共、同年より此人足之分相止メ、常時は名主方 ニ詰置、非常之用制之旨也。卯年迄は人足八人大場弥十郎方召呼候 而、無益之扶持費候故已後止四人而已、此外ニ刀指壱人・草履取壱 人村方より出之、右両人ニは法皮着之連ル。御代官両人着服火事羽 織 ・ 野袴 ・ 陣笠着之出ル。 畢竟市町火之元見廻り歟、 従先々之例格也。 一、右見廻りニ出候節、鳶口弐本・棒弐本、外ニ享和元酉十二月上 町市町番之年より鉄棒弐本村方ニ而拵之、十四日夜十五日同夕迄も 曳之。 村方へ火之元改歩行、 自分共見廻り之節先へ鉄棒持行。 烈(列) 行次第。 四人之内御代 人足鼡 人足四人 人足 官所出人足法皮 法皮 之内法皮 世田谷 世田谷 鉄棒・鳶口・大場・ 刀指 ・ 草履取 ・ 棒・ 名主・ 年寄・人足 一、 四人之内 人足柿 人足四人 人足 右同 法皮 之内法皮 弦巻 新町 同・鳶口・荒居・ 刀指 ・ 草履取 ・ 棒・ 名主・ 年寄・人足 以上。 右之次第、大方如此。 一、 上 町 之 年 は 下 町 境 横 宿 へ 入 口 辺 迄、 上 之 方 は 馬 喰 宿 横 町 入 口 地 蔵 前、 又 は 仙 蔵院先角迄。 一、 下 町 年 は 下 之 方 若 林 村 百 姓 家 前 辺 迄、 上 之 方 は 大 場 弥 十 郎 宅 よ り 往 返 ニ 勤 之。 一、 下町番年は名主政右衛門方江立寄。 一、 上 町 番 年 は 大 場 弥 十 郎 方 へ 荒 居 一 郎 兵 衛 も 罷 出 ル。 尤 同 役 は 上 下 町 共 ニ 自 分 方へ罷越。 冒頭の届文は、代官から江戸桜田の井伊家藩 邸に、市立直前の一二月一一~一二日頃に出さ れることになっていた届出書の文案で、例年通 り の 見 廻 り を す べ き か 否 か の 伺 い を 立 て て い る。 『 公 私 世 田 谷 年 代 記 』( 『 世 田 谷 区 史 料 集 』 所収)の一八二五年(文政八年)の記録には、 「世田谷市町之儀、昔より之例ニ而十二月十五 日致候處、御届ニ而相濟來リ候得共、近年御賄 江見左内殿前廉伺可申御申渡ニ付、先例申立候 而茂中々不聞入故、其意ニ成。右之趣佐野御奉 行吉川軍次郎殿へ申上候處、伺ニ不及、届書ニ 而以來可勤御申渡ニ付、夫より後如古例届ニ致 ス」とあり、市町の届出制・許認可制には多少 の変遷があったようであるが、市町の代官見廻 りにあたっては、届出・報告義務が代官に課せ られていた。その見廻り行列は一大セレモニー であって、鉄棒・鳶口・代官(大場家と荒居家 ●金棒 ●鳶口人足 ●大場代官(火事羽 ●刀指人足 ●草履取 ●六尺棒 ●世田谷村 ●世田谷村 ●人足 人足 (法被) 織・野袴・陣笠) (鼠色法被) (法被) 名主 年寄 ●金棒 ●鳶口人足 ●荒居代官(火事羽 ●刀指人足 ●草履取 ●六尺棒 ●弦巻村 ●新町年寄 ●人足 人足 (法被) 織・野袴・陣笠) (柿色法被) (法被) 名主 図 4 代官による市町見廻行列の構成 註)世田谷区教育委員会(編),1984:p.217、世田谷区立郷土資料館(編),1998:p.6などを改編して示す。
当 主 の 二 名 )・ 刀 指・ 草 履 取・ 棒・ 名 主・ 年 寄・ 人 足 の 順 で 威 儀 を た だ し、二列になって行列行進をおこなうというもので、図 4に示す通りで あった。代官は二人おり、新宿の大場家と荒居家の当主がつとめていた ことがわかるが、後尾につく世田谷村 ・ 弦巻村 ・ 新宿の農民代表のうち、 新宿については上町開催の場合は下宿の、下宿開催の場合は上町の名主 と年寄とが、居並ぶことになっていたとある。代官が二人いる理由は、 一七三九年(元文四年)に年貢米未納のかどで本家大場家当主が代官職 を免職されたことがあり、 以来複数代官制がとられてきたことによる 〔渡 辺(校訂) 一九六一 八頁〕 。 市町の歴史を見ていくうえで、この大場代官家の存在はきわめて重要 であろう。近世の市は代官家とともに発展してきたのであって、その大 場家の家屋敷は今も上町に現存し、東京都内に残る唯一の代官屋敷とし て都指定史跡にもなっている。現在の通商ボロ市通りはその屋敷前の道 路をいい、そこを中心に露店が立ち並ぶのであって、文字通り代官屋敷 はボロ市の中心的シンボルとなっている。大場家の遠祖は大庭景親とい い、子孫は世田谷吉良氏に代々仕えていたが、吉良四天王の一人に数え られた大場越後守信久をその初代としている。信久は北条氏が新宿を開 いた頃に元宿から新宿へと居宅を移しているから、六斎市の管理者をま かせられたということであったろう。以来、大場家当主は代々、代官職 を世襲していくこととなったが、それは世田谷村の名主役・問屋役をも 兼務しており、時には用賀村・宇奈根村の名主が大場家当主とともに代 官職に就くことも見られ、先述のように幕末期には大場・荒居両家が維 新時に至るまで、二人代官制を維持してきたのであった。つまり代官と はいっても、いわばそれは百姓代官なのであって、その屋敷地も公的な 陣 屋 で は な く、 代 官 の 私 邸 を 代 官 屋 敷 と 称 し て い た こ と に な る。 先 の 一〇代当主弥十郎も名代官ではあったが、その功績によって一代士分を 与えられていたに過ぎなかった。 その大場弥十郎は、大場家のこと細かな年中行事のしきたりを実にく わしく記述した 『家例年中行事』 という史料を、 一八〇九年 (文化六年) に残しており、世田谷区教育委員会の手で口語訳本も刊行されているが 〔 世 田 谷 区 立 郷 土 資 料 館( 編 ) 一 九 八 六 〕 、 市 町 の 運 営 に 関 す る 諸 注 意 や 買物品一覧なども詳細に記していて、これらは子孫のために書き残され た備忘録のようなものであったろう。大変重要な史料であるので、市町 についての部分のみ、以下に引用してみることにしよう。 十四日 一、 雨天之頃、 土地濕リ有之候ハバ、 表垣根通リ江落葉葛鋪セ可申、 市町商人江筵借(貸)候ニ損多出來、尤隔年也。 一、 筵 員 數 改 置 可 申、 凡 三 拾 五 枚。 數 不 足 ニ 候 ハ バ、 山 荷 新 敷 む し ろ取候共、外ニ而借間合候共、覺悟致置事(中略) 。 十五日 一、 居 屋 鋪 前 垣 根 通 リ、 市 商 人 置 筵 壹 枚 宛 か し、 地 代 共 ニ 壹 人 百 文 づつ取之。 一、 戸 板 壹 枚 附 か し 候 得 者、 戸 板・ 筵・ 地 代 共 百 貮 拾 四 文 づ つ 取。 宿中同斷。食事無構。 一、 表 門 口 貮 間 茂 通 行 明 置、 潜 り 戸 も 立、 門 左 右 共 横 敷 ニ 筵 數 借 (貸) 。 一、 晴 雨 ニ 不 拘、 門 内 江 者、 商 人 一 人 茂 不 入。 但、 宿 中 庭 荷 有 之 庭 商 多 有 之 候 得 共、 自 分 方 庭 荷・ 山 荷 一 向 不 入 門 内、 商 ひ 一 切 停 止 之。 雨 天 之 節、 門 内 雨 落 内 ニ 置 候 儀、 壹 兩 人 茂 願 出 候 得 者、 置候事有之候得共、以来門内へ不入。 一、 地 代 錢 晝 頃 ニ 至 候 ハ バ、 無 用 捨 可 取 之。 但、 不 届 之 商 人 有 之 節 ハ、 晝 過 頃 迄 多 分 商 ひ 荷 少 ニ 成 候 得 者、 地 代 之 益 可 省、 少 し 之 荷 擔 ひ 逃 去 候 類、 間 々 有 之。 依 而 晝 ニ 成 候 ハ バ、 直 ニ 兩 三 人 づ つも家來出し、可爲受取事。
一、 馬 喰 宿・ 横 宿、 畑 廻 リ 並 居 候 商 人 之 地 代 錢、 敷 物 不 貸 候 ニ 付、 四 拾 八 文 づ つ 請 取。 商 ひ 無 之、 錢 取 レ 不 申 由 斷 申 由 候 ハ バ、 商 ひ 品 何 成 共 可 取 例。 但、 是 等 之 場 所、 場 は づ れ ニ 付、 飴 賣・ 人 參賣類之もの多居候ニ付、一入地代急ギ可爲取。 市買物 一、 神の膳、十膳。 一、 神酒の口、貮對。 一、 飾り紙、半紙也。三帖。 一、 山おしき、貮枚。元五枚、寛政八卯より減ズ。 一、 赤いわし、十○(把) 。元十五、右同斷。 一、 田作、壹升。有合候得者不調。 一、 餝(飾)り筵、貮枚。 一、 若 水 手 桶、 壹。 寛 政 八 卯 よ り 旧 年 分 貯 仕 置 用 ニ 成、 不 斷 遣 手 桶 不足之義ハいづれ暮ニ調。 一、 庖丁、壹挺。右同斷。 一、 箕、 貮 ツ。 農 作 減 ジ 候 ニ 付、 一 枚 ヅ ツ 調 候 得 共、 旧 年 分 新 敷、 間合候得者不調用之。 一、 菅生ざる、貮ツ。右同斷。 一、 芋振ざる、壹。右同斷。 一、 ひ し ゃ く、 三 本。 桐 大 び し ゃ く 一 本、 同 中 壹 本、 竹 茶 び し ゃ く 壹本、右同斷。 一、 汁酌子、 三本。貝杓子貮本、 木お玉杓子壹本、 有合候得者不調。 一、 鐡火箸、壹膳。有合新敷候得者用之。 一、 火打石鎌共壹組。同斷。 一、 かます、壹駄貮ツ。間合居候バ不調。 一、 とうしん(燈心) 、小壹把。 一、 附木、大壹把。 一、 ねぎ、中貮手。元日より三日迄引渡ニ用。 一、 茶せん、貮本。是ハ淺草觀音市之外ニ商人無之歟。 右書面之品々、定式吉例調物也。雖然可随時宜歟。但、寛政九辰年 より間合候品者用之、減じ方致、調物也。 一、 半紙、 十状 (帖) 。随分下直之品ニ而。右者年始 ・ 歳暮贈リ物包、 鏡 餅 下 敷、 神 佛 ヘ 備 ル 餅 敷 紙、 都 而 年 玉 物 包 紙、 正 月 中 出 家・ 山伏・神子・巫抔捻リ包紙等ニ可成。市町ニ有之品。 正月規式ニ入用品、當月中可調置品如左。 一、 神前いなだ、壹掛。 一、 伊勢海老、壹ツ。 一、 橙、壹ツ。 一、 榧の實、少。元三合。 一、 勝栗、少。元壹合。 一、 飾 り 物、 壹 飾 リ 分。 根 松・ う ら 白・ 藪 か う じ・ ゆ ず り 葉・ 本 田 わら ・ とうろ。 代凡十六文位。 右之品喰摘江計用。 故ニ壹飾分、 少ニ而間合。神佛并門飾リニ一切不用。 一、 盬くじら、貮百匁。有合候得者用之、不調。 一、 數の子、五合。右同斷。 一、 刻昆布。 一、 染 付 茶 碗、 貮 ツ。 旧 年 分 貯 置 用 之、 寛 政 九 辰 年 よ り。 但、 壹 ツ 十八文位。 一、 薄縁、貮枚。皆止、寛政八より。 右之通年始入用之品、極月中心附、不足之品々調可申。右合之分用 候茂、 節儉之筋、 却而子孫永久相續之基歟。何レ茂時宜に随ふべし。 一、 半紙、壹〆。 一、 上田、壹〆。 一、 ちり紙、三束。
一、 丈永、拾六枚。 一、 半 切、 千 枚。 内、 日 向 半 切 貮 百 枚、 粘 入 半 切 三 百 枚、 鼠 漉 返 し 半切五百枚。 一、 水 引、 五 拾 束。 寛 政 九 辰 年 よ り 相 止 メ、 靑 赤 拾 把 ニ 調。 年 徳 神 其外神用。内弐十把紅白、三十把靑赤。 一、 粘 入 紙、 貮 帖。 右 諸 紙 類 有 合 間 ニ 合 候 得 者 不 調。 寛 政 八 辰 年 よ り省略之。 一、 衣 類・ 絹 木 綿・ 家 來 男 女 仕 着 物・ 反 物 類・ 手 拭 地、 出 入 平 生 遣 リ 候 者 共 ヘ 歳 暮、 或 者 年 男 遣 し 候 品・ 馬 道 具 ニ 用 候 類・ 下 帯 地 迄調候事。近年糀町五丁め岩城升屋ニ而調之。 一、 足 袋・ 下 駄・ 足 駄・ 雪 駄・ 草 履・ 傘 類。 上 下 之 分 共 入 用 見 繕 調 候事。尤随其時ニ而、音信之品も有之者、同然(以下略) 。 冒 頭 部 分 に は 市 立 に つ い て の 注 意 事 項 が 述 べ ら れ て い る が、 前 日 の 一二月一四日の準備として、雨あがりの場合、代官屋敷前の通りがぬか るんでいるので、落葉などを敷いておくようにと述べられている。しか しこれは出店商人のための配慮ではなくして、彼らに貸与する筵が汚れ ないための処置なのであって、代官家では三五枚ほどの筵を用意し、彼 ら に そ れ を 賃 貸 し て い た の で あ っ た。 筵 の 貸 賃 は、 地 代( 場 所 代 ) と 込 み で 一 人 一 〇 〇 文 と な っ て お り、 こ れ に 店 棚 用 の 戸 板 を 付 け れ ば 計 一二四文となった。しかし商人の中には、これを支払わずに逃亡する者 もいたので、昼頃になったならば家来を差し向けて容赦なく徴集せよ、 特に筵を貸与していない馬喰宿・横宿などの縁辺部に出店している飴売 り・人参売り(薬売り)などの商人からは、地代のみ四八文づつを取り 立てるが、売れ行きが悪いとそれを支払わずに逃げられることがあるの で大急ぎで取り立てよ、と弥十郎は指示している。一八一一年(文化八 年)の上宿の市を例にとると、この時の大場家の地代収入は計四貫四八 文(表門前三貫三四八文・馬喰宿の持畑前六〇〇文・横宿一〇〇文)と なっていた 〔世田谷区立郷土資料館(編) 一九八八 四頁〕 。 一五日の後段部分には、大場家自身が正月を迎えるために市町で買い 揃えるべき品々が列挙されており、これまた興味深いものがあって、当 時の正月準備習俗の実態がよく示されている。ありとあらゆる生活物資 類の数々が、ここにはあげられているが、これらのすべてが市町で購入 されていたわけではもちろんなかったろう。 しかし少なくとも、 神の膳 ・ 神酒の口・飾り紙・山折敷・飾り筵・若水手桶などの神具類や、赤いわ し・田作り・葱などの食品類、庖丁・箕・菅生ざる・芋振ざる・柄杓・ 汁酌子・鉄火箸・火打石および火打鎌・叺・燈心・附木・茶筅などの生 活 用 具 類 に 関 し て は、 「 市 買 物 」 の リ ス ト に あ げ ら れ て い る の で、 市 町 で調達されていたことが明らかである。市の管理者であった大場家その ものもまた、市での買物客であったことがわかる。市町が歳の市であっ た以上、正月を迎えるためのこうした実にこまごまとした多種類の物資 類が、手広くそこで取引されており、そこに行けば何でも必要な物を買 い揃えることができたにちがいない。なお、大場家のような支配層クラ スの家例年中行事記録は近隣地域にも残されており、たとえば上野毛村 の名主家文書 (田中家文書 『世田谷区史料集』 所収) にも一八四二年 (天 保一三年)の年中行事帳があって、一二月一五日の項に「世田谷村市江 罷参り申候」などと記されており、やはりこの市町で正月準備のための 買物をしていたことがわかるのである。 さて例年の市町の様子については、大場代官家の日記記録にも断片的 に記録されているので、 これについても次に見てみよう。 弥十郎 (景運) ・ 隼之介(景長) ・与一(景福) ・弘之介(弘)の四代にわたって書き継が れてきた大場家の公務日記がいわゆる『代官日記』で、一八五六年(安 政三年)以来の出来事が記録されている。また、一二代当主与一の妻で あった大場美佐も、女性の視点からする貴重な日記を残しており、よく 知られた『大場美佐日記』がそれであった。両日記に記された市町の実
表 1 近世末期における市の実態 年 市立日および記載内容 1856 年(安政 3 年)12/15 多和田久平来ル、例之通市町廻候事、尤届之儀は久平承知致居候事[代]。 1860 年(安政 7 年)12/15 市ニ付例之通赤飯こしらへにしめ付村々より参り候者へ出し、(中略)お春・長蔵手伝ニ 来ル[美]。 1861 年(万延 2 年)12/15 例年之通り赤飯・煮物拵村々より来ル者へ出ス事[美]。 1862 年(文久 2 年)12/15 例之通市有。御時節柄ゆへ見廻りなし[美]。 1863 年(文久 3 年)12/15 例年之通り市町立候事、赤飯拵候事。村々役人来ル。御廻りハ御壱人ニて被成候事。(中 略)御上やしきへ市届ニ米次郎使ニ遣ス[美]。 1864 年(文久 4 年)12/15 例年之通市町立候。広田氏病気ニ付見廻出郷無し。御壱人ニて廻候事。村々役人来ル[美]。 1865 年(慶応元年)12/15 例之通市町見廻稽古人召連廻ル。同役風痛ニ而不参候事[代]。例年通市町有、見廻りニ 鉄炮人出ル事[美]。 12/16 内々ニ而市町有之候事、大蔵村市郎乎呼出御免申渡ス[代]。市町雨天ニ付、内々ニて致 ス。家人共逗留致ス[美]。 1867 年(慶応 3 年)12/15 村々役人共市町江参り来ル。(中略)明日市済之届ケ差出呉候様申遣ス。宗八来る。雨天 ニ付日延致度一同申居候間御承知被下候様申来る。内々ニ而売途(余カ)りを売候趣ニ而致候様、 表立候而は不相成旨申付る[代]。 1868 年(慶応 4 年)12/15 例年之通市町相立候ニ付四ツ半過見廻リ出ル。尤横川不来、供人足は棒持四人・鉄棒弐人・ 供壱人、役人久次郎・佐太郎・鋭太郎・積八、道案内三之介・野良田村力蔵・等々力村紋蔵[代]。 態に関する部分のみを抜き出してまとめてみれば、表 1のようになる。 『代官日記』 (『世田谷区史料集』 所収) に見える市町の記録の初出は、 一八五六年(安政三年)一二月一五日の記事であるが、代官による見廻 行列のことが述べられている。これには「例年之通当十五日世田谷市町 相 立 候 ニ 付、 拙 者 共 見 廻 相 勤 無 滞 相 済 申 候、 此 段 御 届 申 上 候、 已 上、 十二月、御代官中、佐野御奉行衆中」との別紙が添えられており、奉行 所に提出した見廻りの報告書控であったろう。一八六五 ・ 一八六七年 (慶 応元・三年)の場合は、翌日の一二月一六日にも非公式に市が開かれて いるが、一五日が雨天であったために売り上げもあがらず、市立が延長 されることとなった。このように翌一六日にもなされた内々の小規模な 残り物市のことを「半市」 ・「残り市」と称していたが、二日間連続で市 が立った例は、その後もしばしば見られた。これは現行のボロ市とまっ たく同じ日程で、それが初めて記録にあらわれるのは、この一八六五年 (慶応元年)のことであった。なお一八六五年の市町見廻には初めて鉄 炮人(砲術稽古人)が行列にくわわり、威容を誇示したとあるが、村方 の 治 安 維 持 の た め、 一 八 六 三 年( 文 久 三 年 ) 以 来 組 織 さ れ て い た 農 兵 隊 で あ っ て、 そ の 砲 術 稽 古 場( 角 場 ) も 当 地 に 設 置 さ れ て い た 〔 池 上 一 九 八 八 二 九 三 頁 〕 。 な お『 公 私 世 田 谷 年 代 記 』( 『 世 田 谷 区 史 料 集 』 所 収 ) の 一 八 〇 三 年( 享 和 三 年 ) の 記 録 に は、 「 世 田 谷 市 町 之 儀、 十 二 月 十五日量壽院様御不幸ニ付伺候處、騒々敷不致、穏便ニ立候様被仰付候 ニ付其趣申渡」とあり、領主井伊家奥方の逝去にともなう服喪謹慎のた め、あまり騒がしいことはするなとの自粛要請が出されているものの、 市町そのものは例年通りおこなわれており ( 1 ) 、桜田門外の変で藩主井伊直 弼が討たれた一八六〇年(安政七年)時ですら、市町はとどこおりなく 挙行されているのである。 註)[代]は『代官日記』,[美]は『大場美佐日記』による。
❸
明治期におけるボロ布
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筵市時代
明治維新後の時代の市をとりまく最大の環境の変化は、いうまでもな く井伊彦根藩の消滅にともなう大場家代官職の廃止ということである。 一八七一年(明治四年)七月の廃藩置県によって、彦根県庁東京出張所 となっていた旧藩邸は東京桜田から日比谷へと移転し、そのための人足 が世田谷からも派遣されており、世田谷の旧領地も東京府・神奈川県へ と移管されることとなった。世田谷の市町もその管理者を失い、警察官 庁の指導下に置かれていくこととなり、地元世田谷村がその直接的な運 営 者 と な っ て い っ た。 『 大 場 美 佐 日 記 』 に は、 新 体 制 へ の 移 行 に か か わ る大場家当主のあわただしい動きがくわしく記録されているが、特に興 味深いのは一八七三年(明治六年)の新暦導入にともなう市立日の変更 に つ い て の 記 述 で あ ろ う。 こ れ に 関 す る 明 治 政 府 の 決 定 は、 明 治 五 年 一二月二日をもって同年を終え、その翌日を明治六年一月一日とすると いうもので、明治五年一二月はわずか二日間で終ってしまったことにな る。これに合わせ、この年のみ市町も繰り上げて一一月二五日に実施さ れることとなり、大場家では暮れの餅つきや大掃除までも、一一月中に お こ な っ て い る 〔 池 上 一 九 九 〇 三 〇 四 頁・ 世 田 谷 区 立 郷 土 資 料 館( 編 ) 一九八八 二六頁〕 。このようなことは歴史上、初めてのことであった。 改暦の市に与えた影響には、大きなものがあった。建前上は新暦化が なされたとはいえ、多くの地元農家はこれになじめず、従前通りの旧暦 正月を祝う風が相変わらず残存することがあったかもしれないが、結局 は 月 遅 れ の 中 暦 正 月 を 実 質 的 な 正 月 と す る と い う 対 応 が な さ れ て い っ た。 後述する徳富芦花の 『みみずのたはこと』 に、 「 都 みやこ 近 ちか い此 このへん 邊の村 むら では、 陽 やうれき 暦 陰 いんれき 暦 を 折 せっちう 中 し て 一 ひとつき 月 晩 をく れ で 年 ねんぢうぎゃうじ 中 行 事 を や る。 陽 やうれき 暦 正 しゃうぐわつ 月 は 村 むら 役 やくば 場 の 正 しゃうがつ 月、 小 せうがくかう 學 校 の 正 しゃうぐわつ 月 で あ る。 ( 中 略 ) 二 月 ぐわつ は 村 むら の 正 しゃうぐわつ 月 だ。 松 まつ 立 た て ぬ 家 うち はあるとも、着 きもの 物更 か へて長 のどか 閑に遊 あそ はぬ人 ひと は無 な い」とあることからもわ か る よ う に 〔 徳 富 一 九 一 三 一 八 三 ~ 一 八 六 頁 〕 、 旧 暦 正 月 で は な く 中 暦 正月が当地域には定着していたのである。農家にとっての本当の正月は 新暦二月にやって来る形となったから、そのための歳の市が新たに必要 とされることとなる。かくして新暦一二月一五日の市とは別に、新暦一 月一五日の市が発生するに至り、結局二度の市が立つようになっていっ た。その最初は『大場美佐日記』によれば一八七四年(明治七年)のこ とで、その前年にあたる一八七三年もそうであった可能性があるが、同 年の日記が欠落しているので何ともいえない。いずれにしても一八七三 ~一八七四年をもって、一月一五日・一二月一五日の年間二度の市が立 つ態勢が確立されたことにまちがいはなく、表 2を見れば一目瞭然とい え る で あ ろ う。 ま た、 一 五 日 当 日 が 雨 天 に 見 舞 わ れ た た め、 翌 一 六 日 に も 市 が 延 長 さ れ る「 残 り 市 」 の 例 は 明 治 期 に も よ く あ り、 一 八 八 三 ~ 一 八 八 四 ・ 一 八 九 四 ~ 一 八 九 五 ・ 一 八 九 九 年( 明 治 一 六 ~ 一 七 ・ 二 七 ~ 二八 ・ 三二年)の一二月の市、一八八六 ・ 一八九一 ・ 一八九五 ・ 一八九七年 ( 明 治 一 九 ・ 二 四 ・ 二 八 ・ 三 〇 年 ) の 一 月 の 市 な ど が そ れ で あ っ た 〔 池 上 一九九〇 三〇五頁〕 。一九〇四年 (明治三七年) の一二月の市の場合は、 大雪によって一五日の市そのものが休止され、一七日に日延べされるに 至っている。残り市のなされる頻度は明治期に入ってますます増加して おり、いつしかそれが現行のごとく二日間連続の市へと発展していった のであろう。 表 2を見るとさらに、大場代官家による見廻行列が維新後も続けられ ていたことがわかり、 一八六九年(明治二年)の場合など、 二回にわたっ てそれがおこなわれたとある。見廻りはその翌年と翌々年にもなされて いるが、 廃藩置県のなされた一八七一年 (明治四年) がその最終回であっ たらしく、以後の記録にはまったくそれが記されていない。大場家の利 得となっていた地代収入も、以後は世田谷宿(村)による徴収に切り替えられ、消防器具の整備費や消防団の経費などにそれがあてられるよう に な っ て い っ た と い う が 〔 渡 辺 一 九 五 二 三 頁 〕 、 筵 の 貸 し 出 し な ど は 近 代 期 に も、 家 ご と に な さ れ て い た ら し い 〔 世 田 谷 区 立 郷 土 資 料 館( 編 ) 二 〇 〇 五 一 〇 二 頁 〕 。 市 立 の 届 出 は 東 京 警 視 第 三 方 面 第 四 分 署 に 対 し て なされるようになり、次に掲げる一八七九年(明治一二年)の届出書が 残 さ れ て い る。 後 段 部 分 は 警 察 署 に よ る そ の 承 認・ 許 可 証 で あ る 〔 世 田 谷区立郷土資料館(編) 一九八七 六頁〕 。 市町御届 荏原郡世田谷村 一、 十二年十二月十五日 一、 来十三年一月十五日 右者例年之通市町定日ニ相当り候間、此段御届申上候也 明 治 十 二 年 十 二 月 六 日 右 村 総 代 松 木 治 三 郎 ( 印 )・ 石 田 林 蔵 ( 印 ) 東京警視第三方面第四分署御中 書面届之趣承認候事 明 治 十 二 年 十 二 月 六 日 警 視 第 三 方 面 第 四 分 署 長 、二 等 警 視 補 宇 都 純 随( 印 ) ここに見るように、この時点では市立日はまだ一月・一二月の一五日 の一日のみであった。上町・下町の交互開催態勢はなお維持されていた ようで、 『大場美佐日記』 には少なくとも一八七四年 (明治七年) の場合、 下町がその当番宿であったと述べられているが、 一八六九年 (明治二年) にはすでに上町・下町連続で市が立っていたとあるから、出店範囲はか なり拡大していたことがうかがえる。市の規模は現在との比ではなかっ た。明治時代後期の時代の市の様子は、幸徳秋水の『世田谷の襤褸市』 に、以下のように描写されている 〔幸徳 一九七〇 四三~四七頁〕 。 年の市とは、似顔の羽子板とお飾りとを賣る處なりとのみ思へる都 の 坊 様 孃 様 は、 去 つ て 世 田 ヶ 谷 の 襤 褸 市 に、 辛 き 浮 世 の 機 關 の 不 思 議 な る 半 面 を 窺 ひ 見 よ。 毎 年 十 二 月 十 五、 十 六 日 の 両 日、 未 だ 夜 深き前三時頃より六時まで荏原郡は世田谷ヶ宿に襤褸屑物の市あり て、一年中の賑はひを極む。都人は嫌がる雑踏を自然の單調に饜け る近郷近在の老若は、市の風に吹かるれば無病息災、百難を遁 のが るる とて三里五里の道を此處に集まり、穢 きた なき襤褸屑物を買取るを無常 の樂とはなすなり。されば此市の景氣は常に農家の購賣力の高低を 試驗し得べしとぞ。 まず宿の街道に 筵 むしろ 席敷列ねて小屋掛けせる店々 兩側を合して其長さ千二三百間に亙るべし。品物は襤褸六分に荒物 三分、おでん ・ 濁酒 ・ 鮓 すし ・ 駄菓子の飲食店、其外數種の見せ物興行、 耳を聾 ろう する囃 はやし 子の響き、田舎者の荒肝 ぎも を挫 ひし ぐ。襤褸は足袋・股引・ シャツ・手袋・手拭・袷 あわせ ・單 ひとえもの 物・前掛け・襦 じゅばん 袢・羽織・袢 はんてん 纏・婦人 の湯巻・手 はんけち 巾・靴下・絲屑にて、荒物は柄 ひしゃく 杓・硯箱・火鉢・茶盆・ 大小の桶や ・ 盥 ・ 下駄 ・ 雪駄 ・ 笊類 ・ 荒縄 ・ 小児の便器 ・ 古板 ・ 机 ・ 鍬・鎌・鉈・斧・熊手・鶴 つるはし 嘴・鋤・箆 へら ・藥 やかん 罐・鐡瓶・明樽・明壜・ 米・麥・粟・蕎 そば 麥・豆類など數へも盡せず。おかしくもまた憐れに 感ずるは、 此等の品物、 穀類を除くの外は一として滿足なるはなく、 敗れたる足袋の左は十文、右は九文なるがあれば、穴あける靴下の 右は黒にて左は白なり。宅には九文七分の足袋の右があるから左を 買いたしと選り分て居る老媼あれば、コールテン鼻緒表付の左はあ れど右がなければ似たものを下さいと古下駄を探す年増あり、殊に 目立てるは靑赤黄白黑様々の混合せる絲屑の而も五寸と續けるはな きを二貫乃至三貫目一把にして十二三錢なり。此屑の束把を右に左 と擔ぎ廻る妙齢の婦人幾百人なるを知らず。如何にするにやと聞け ば冬の夜長に幵を繋ぎ合せて布團に織るなりとぞ。又方一寸にも足 らぬ布片の屑、繃帯の様なる穢なき細長の布片を一貫五百目、二貫 目と纏めて負ひ返る者も幾千人ありけん。是は孰れも河向ひの稻毛 の人々にて雪の日雨の夜の内職に此布片を草鞋や草履の爪先と踵に 作り込むなり。全部藁の物よりも卸値段一足に付五厘づつ高しとな り。雀、蛤となる例もあれ、眞逆に是はと思はるる代物の羽が生て
表 2 明治期における市の実態 年 年末の市 年頭の市 1869 年(明治2年) 12/15 例年之通市町見廻り候事。尤是迄ニ無之下 町より上町久次郎先之方市立ツ。右ニ付弐度見廻 り候事[代]。例年通市町相立候事。村々役人出ル事。 見廻り弐度致候事[美]。 1870 年(明治3年) 12/15 例之通市町相立両度見廻り候事。無滞相済 [代]。 1871 年(明治4年) 12/15 例年通市町相立、見廻りニ出張致ス。(中略) 村々役人も来ル[美]。 1872 年(明治5年) 11/15 市町相立候[美]。 1874 年(明治7年) 12/15 下町市相立[美]。 1/15 市町立新宿[美]。 1876 年(明治9年) 12/15 市町立[美]。 1/15 市町相立候事[美]。 1877 年(明治 10 年) 12/15 例年通市町建[美]。 1/15 市町相立候事[美]。 1878 年(明治 11 年) 12/15 例年通市町立[美]。 1/15 市町立[美]。 1879 年(明治 12 年) 12/15 市町立[美]。 1/15 例之年通市町相立候事[美]。 1880 年(明治 13 年) 12/15 市町立[美]。 1/15 市町立[美]。 1881 年(明治 14 年) 1/ □ 5 □町建候事(中略)商人倒れけん検(使) 之事[美]。 1882 年(明治 15 年) 12/15 市町[美]。 1/15 市町立[美]。 1883 年(明治 16 年) 12/15 市町昼より立日延ニ成[美]。 12/16 市町立[美]。 1/15 例之通市町立[美]。 1884 年(明治 17 年) 12/15 市町雨天ニ付日延[美]。 12/16 市町立[美]。 1/15 市町立[美]。 1886 年(明治 19 年) 1/15 市町有、尤前夜之雨ゆへ日延ニ而半市立[美]。 1/16 市町立候事[美]。 1887 年(明治 20 年) 12/15 例年通市町立[美]。 1/15 例之通祝、市町立[美]。 1888 年(明治 21 年) 12/15 例之通市町立[美]。 1/15 例之通祝、市町建[美]。 1889 年(明治 22 年) 12/15 例之通市町相立[美]。 1/15 例之通市町立[美]。 1891 年(明治 24 年) 12/15 例年通市町立候事[美]。 1/15 例之通祝、市町建[美]。 1/16 残市有[美]。 1894 年(明治 27 年) 12/15 市町立[美]。 12/16 市立[美]。 1/15 例年通祝、市町立[美]。 1/16 残市立[美]。 1895 年(明治 28 年) 12/15 例年通市立[美]。 12/16 残市立候事[美]。 1/15 例之通祝、市町立[美]。 1/16 残市立[美]。 1897 年(明治 30 年) 12/15 例年通市町[美]。 12/16 残市少立[美]。 1/15 例之通祝致ス。市町日延ス[美]。 1/16 市少立候。1/17 残市立[美]。 1899 年(明治 32 年) 12/15 例年通り市町立[美]。 12/16 残市少立[美]。 1901 年(明治 34 年) 12/15 例年通市町立[美]。 1/15 例年通り市町建[美]。 1/16 残市少々つつ有[美]。 1903 年(明治 36 年) 12/15 例年通市町立[美]。 1/15 市建[美]。 1904 年(明治 37 年) 12/15 市町休。12/17 市立[美]。 1/15 例年通祝、市町立[美]。 註)[代]は『代官日記』,[美]は『大場美佐日記』による。
飛ぶ如くに賣行く有様、實に世に用なき物とては無きぞかし。 ここにはすでに一五~一六日の二日間の市が立っていたこと、広域的 な地域範囲からの買物客の誘致がなされていたこと、市の売物は古着・ ボロ布六割に荒物三割の比であったが、それ以外のあらゆる生活物資・ 飲食物が取引されていて、単なる歳の市の性格を脱した総合的な農民市 となっていたこと、 などなどを知ることができよう。 「ボロ(襤褸)市」 という言葉がもうここで用いられているが、それはかつての「市町」に 代わる通称となっていった。一九一一年(明治四四年)の『東京近郊名 所図会』 (東陽堂刊)にも、 「當日はいかなる細貨零品にても販賣し盡さ さるはなし。因て俗に世田ヶ谷のボロ市といふ」とある。この俗称がな ぜ生まれたかといえば、もちろんそこで古着やボロ布がよく売られてい たことによるが、靴下の右と左が色違いであったという具合に、ひとつ としてまともなものはそこで売られていないといった状況をも指してお り、もはや衣料にもなりえないボロ布というものが主力商品であった時 代の、それは象徴的な呼び名でもあったろう。秋水はさらに、次のよう にも続けている。 一面には屑エ屑エの聲寒く毎朝八百八町の路次路次を潜りて利用厚 生 の 勞 働 を 供 す る 細 民 あ れ ば、 一 面 に は 貴 重 の 天 物 を 湯 水 と 暴 殄 する遊民あり、様々の浮世哉。更に市の餘興を見れば、一際目立ち しは小松屋の男女十三人組の改良剣舞(木戸大人三錢小兒二錢)に て、上り高六十三圓七十錢、次は鳥娘とて親の因果の見せ物(大人 二錢、小兒一錢)上り高十五圓三十二錢、次はカッパの見せ物(木 戸 大 小 一 錢 )、 上 り 高 五 圓 八 十 錢、 次 は 萬 作 踊( 大 三 錢 小 二 錢 ) に て僅に三圓六十錢、續て松井源水と永井兵助の居合抜き、孰れも二 圓五十錢より三圓までの上り高なりしと。 其外、 玩具 ・ 辻占 ・ 流行歌 ・ 繪草紙、扨は暦賣等。商人の中にて尤も利益ありしは濁酒店にて中 には一戸にて五斗を賣盡せしもの二戸あり。二斗以上三斗までの者 十五戸もあり。之に伴ふおでん・煮締・煮肴など七八圓よりも十二 圓までの純益あるしといへり。初日の露店の數は七百三十餘、翌日 は午後二時頃まで雨降りたれば百五十内外に減じぬ。左れど例年に 比して遙かに上景氣なりき。一般の商ひ高は昨年は二千二三百圓に 過ぎざりしに、本年は三千四五百圓に上れりとぞ。東京市中の年の 市は二三割より三四割の不景氣なるに襤褸市の斯く繁昌せるは、秋 の収獲の良かりし爲め、多少農家の購賣力を高めたればなるべし。 是等の露店商人が初日に使用せる筵席數は千八百七十餘枚にて、一 枚一日の使用料は一錢五厘なれど競争の結果後には三錢まで糴り上 げたり。一人にて最も多く使用せるは荒物店にて七枚より八枚を用 ゐし者あり。又彼等が店借賃は筵席一枚につき十二錢と定まれるも 棚分け又は部分と稱する者頭を張りて十五錢づつ取られしもあり。 此棚税は襤褸市事務所に納めし上、一部は世田ヶ谷の教育衛生道路 等の公共費に一部は市場の基本財産とはなすなり。露店使用の商人 は 孰 れ も 東 京 市 内 の 屑 屋 荒 物 屋 な る は 云 ふ 迄 も な し。 ( 中 略 ) 嗚 呼 襤褸市、羽子板の如く美しからず、お飾の如く上品ならねど、せチ 辛き浮世の機關を吾等の前に開展して、如何に多くの教訓を與ふる よ。 市にはボロ布屋ばかりでなく、さまざまな見世物屋や飲食店なども出 店していたことがわかるが、それらの露店の売上額や出店料についてま でくわしく記録されており、大変に興味深い。幸徳秋水は露天商の屑屋 金太郎という人物から直接、 聞き書きを取って一九〇三年 (明治三六年) 一二月に、この文章を『平民主義』に発表している。この時代、市のボ ロ布販売はすでにその主流的地位を失い始めていたのであるが、これに 先立つ明治時代前期には、それはまったくこの市の中心的存在となって いた。 ボロ布は農家がそれを買い求めて作業衣の補修に用いることがあった
ものの、主としてそれは細く裂き、草鞋や草履の補強材として編みこむ のに用いられていたのであって、非常にその需要があったために、すこ ぶるよく売れたのである。草鞋という履物は一〇里歩いて一足履きつぶ す と い わ れ て い る が、 ボ ロ を 編 み 込 ん で 補 強 し た も の を 履 け ば 二 〇 ~ 三〇里も歩くことができたという。店々では道路端に、古着屋や屑屋の 手で東京市中から集められたボロ布を山のように積み上げて売ったが、 飛ぶように売れて、またたく間に売り切れてしまうことさえあったとい う。そのボロ布を編み込み、鼻緒に巻いた草履や草鞋が、周辺農家の副 業として大量に生産されていたのであって、世田谷の市はその原料とし てのボロ布を仕入れるための市として、重要な役割を果していた。それ が明治時代前期の市の、ひとつの大きな特色となっていたのであるが、 明治時代中期に至ってもなお、こうしたボロ布専門の露天商が一〇数軒 は出ていたといい、その売物は午前中にはすべて売り切れていたという ほどの状況であった。しかるに、一九二三年(大正一二年)の関東大震 災後はボロ布の需要が急減し、一九三七~一九三八年頃にはボロ布を売 る 店 が ほ と ん ど 消 え う せ て し ま っ た と い う 〔 石 川 二 〇 〇 一 二 頁 〕 。 ゴ ム底靴や地下足袋の普及によって、草鞋・草履の製造・販売が衰退して いったという事情も、もちろんあった。 すなわち、明治時代の市の特色を大雑把に把握してみるならば、明治 中 期 以 前 の そ れ は も っ ぱ ら ボ ロ 布 市 と い う こ と に 特 徴 づ け ら れ る の で あって、それ以外の商品を売る店ももちろん出てはいたが、その中心は ボロ布屋であった。しかしそれも決して長くは続かず、東京圏の工業化 が進んで近代工業製品としての生活雑貨が流通し始め、それらを販売す る恒久的な商店が地域内に進出していくようになると草鞋や草履、そし てその原料となるボロ布の需要も失われていき、市で取引される主要な 商品は農機具類や雑貨類に比重が置かれるようになっていく。また、そ こに集まる巨万の買物客相手の飲食店なども、たくさん出店していくよ うになっていくのである。さらに明治中期以降は筵屋が多く出店するよ うになり、ボロ布市から筵市への移行が進んでいった。筵はやはり農家 の重要な副業であった大根漬け(沢庵漬け)の製造時に、大根干し用の 敷物として用いられ、そのために大量に売られていたのであったが、世 田谷の市でそれを買い求めていくのは、首都北郊のいわゆる練馬大根と 沢庵漬けの産地であった板橋 ・ 王子 ・ 長崎 ・ 中新井 ・ 練馬 ・ 志村 ・ 赤塚 ・ 石神井・大泉・保谷そして地元世田谷の農家であって、その筵の製造・ 供給地は多摩丘陵末端部にあたる神奈川県下の長津田・荏田・綱島あた りの農村部であったという。特に荏田産の筵は「荏田筵」としてよく知 られていた。しかし、東京北郊の漬物産地にあっても、大正期には漬物 大根よりも生大根の方の生産量が上回るようになっていき、沢庵漬けの 製法も近代化していくとともに、産地の都市化も進んで生産が縮小して いくと、 筵の需要は急減して筵市もまた衰退へと向う。 筵市の最盛期は、 一八八九~一八九〇年(明治二二~二三年)頃から始まって一九〇二~ 一九〇三年(同三五~三六年)頃まで続いたといい、市立のたびに一万 枚は筵が売れたというが、多い時には二~三万枚、時には四万枚もの売 り上げがあったとのことである 〔大場・他 一九五四 二〇頁〕 。 さらに明治期後半の大きな変化としてあげられるのは、交通機関の発 達による出店商人の移動方法が変ったということである。特に一九〇七 年(明治四〇年)における玉川電鉄の道玄坂~三軒茶屋間の開通は、世 田谷から一〇~一五里も離れた諸地域からやってくる出店商人の日帰り 移 動 を 可 能 に す る こ と と な っ た。 前 日 の 一 四 日 深 夜 か ら 当 日 未 明 に か け、荷車を挽きながらやってきてそのまま市にのぞみ、市が終ればすぐ に引き上げていくという形が取られるようになったわけである。今まで 二日前から上町・下町の家々に宿泊しつつ市の準備にあたっていたその 商人らが、地元に逗留しないようになり、地元地域の実入りを奪う結果 と も な っ て い っ た 〔 世 田 谷 区( 編 ) 一 九 六 一 二 二 二 ~ 二 二 三 頁 〕 。 か つ
ての出店商人たちは、次のような形で世田谷までやってきていた。 市 日 の 前 日 ま た は 前 々 日 の 一 三 ・ 一 四 日 頃 か ら 徒 歩 で 思 い 思 い の 車 に荷を積んで世田谷を訪れた。これ等商人は永年の縁から世話にな る家を決めて、 通に面した家々に荷をおろし、 宿泊などの世話になっ た。市が終れば世話になった家には幾らかの謝礼をおいて、来年を 約束して帰る。泊めた家ではその礼金が若干の収入にもなり、市商 人が授けていく金が世田谷宿の潤いにもなったわけである〔芥川 一九五一 一五~一六頁〕 。 交通機関の発達は、このような出店商人と地元民との間にあった独特 の深い関係、しかも超世代的で親密な関係をしだいに喪失させていくこ ととなり、後述する昭和戦後期のテキヤ集団の介入を招いて、彼らの主 導権にもとづく独占的な場所割り支配を生み出す契機を作ったともいえ るであろう。市立を通じて得られる地元利益も、そのようにしてますま す奪われていくことになったわけである。このように明治期のボロ市の 様相は、めまぐるしい時代状況の変化の中にあったわけであるが、大づ かみに見れば、近世~明治初期の正月用品市から明治前期のボロ布市、 同後期の筵市への変遷をたどっていったことになり、いずれにしてもそ れは純然たる歳の市としての性格を脱しつつあった。それは国民経済全 体からする工業化・近代化の趨勢にしたがいつつ、市とそれを取り巻く 周辺農村の前近代性が一掃されていく過程でもあったろう。 この時代のボロ市の出店数実態を見てみると、一八九二年(明治二五 年)の場合、総店数は約一一〇〇店となっており、うち三〇%は農機具 屋、一七%が古着・ボロ布屋および古物屋であったというが、一九〇七 年( 明 治 四 〇 年 ) 一 二 月 の 記 録 で は 総 店 数 が 一 五 九 六 店 で、 そ の う ち 三五%を占める五五五店が古物店(ボロ布屋二二八店・古着一三五店・ 古 道 具 屋 そ の 他 一 九 二 店 )、 一 〇 % の 一 五 八 店 が 農 具 屋 で あ っ た と い う 〔 せ た が や 百 年 史 編 纂 委 員 会( 編 ) 一 九 九 二 六 二 ~ 六 三 頁 〕 。 農 具 屋 に は 桶屋・篩屋・棒屋・筵屋・籠屋などが含まれるが、そのほかにも近世以 来の正月用品売り(飾り物屋・臼屋など)もなお見られ、これらの売物 は北多摩の国領・仙川・関・田無・所沢・牟礼などで生産されていたと い う 〔 世 田 谷 区( 編 ) 一 九 六 一 二 二 三 頁 〕 。 市 の 出 店 範 囲 も、 当 初 は 近 世以来の上町・下町交代制が取られていたが、しだいにその範域が拡張 されていって両町連続状態となり、やがて上町にその中心が置かれるよ うになって、明治末期にはまったく上町主導の市となっていった。大正 期 に 至 る と 両 町 の 隔 年 開 催 制 度 は 完 全 に 廃 止 さ れ、 一 九 二 三 年( 大 正 一 二 年 ) に は 下 町 の 大 山 街 道 に 定 期 バ ス が 運 行 す る よ う に な り、 後 の 一九三二年(昭和七年)に道路改修によって下町の通りが拡幅されると 交通量も増加して、 もはや下町での市立は不可能となってしまう。 一方、 上町を通るかつての往還・街道は裏通りと化した結果、その沿線のみで の市立が存続していくこととなって、今見るような上町のみの市となっ たわけである。